日露戦争前夜の日本と朝鮮(7)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

「金州城内副都統衙門前に於て第二軍司令部より貧民に施粥の景」
明治27年11月7日 撮影 陸地測量部 [日清戦争写真帖 第一冊]より
 写真は、日本軍が清国金州城で粥の炊き出しをして現地の貧民に施していたという光景である。
 これは史資料にもあって、『陸参第八八号 由比大尉 第三回報告 (略) 1 去る十日より毎日午后一時より同六時の間に於て軍司令部前に於て金州城内貧民に粥を施す。日々来る者三四百人、人民日を追て我徳に服し皈城する者多し(「由比大尉第3回報告 C06060147800」p2より抜粋)』とある。
 これによって金州城を逃れていた人々が戻ってくるようになったというのである。まあ、戦地の治安回復は兵糧の調達と言うことでも重要であろうし、また略奪暴行を繰り返す清兵とは違うんだぞという、現地人に対する日本軍部の政策でもあったのでは。しかし何にしろ、現地の人々にとっては有り難いものだったはずである。
 ところでなぜかNHKのドラマ「坂の上の雲 第4話 日清開戦」では反対に、ここ金州で日本兵が清人から掠奪をする場面を挿入するという、原作にもない創作をして描いていたっけ(笑) そう言えば第5話では、これまた原作にはない韓国王妃殺害事件にも触れて、「朝鮮で大事件が起こった。王妃、閔妃が、三浦梧楼公使率いる日本人たちによって暗殺されたのである」とやったりして(笑)
 まあ、NHKもいろいろとおかしなことになってますねえ。これらの事といい、近代史の解説番組といい・・・・・・

 

王城事変について
10月8日大院君入闕・王妃殺害事件、11月28日露米派の王宮襲撃事件(春生門事件)

 事変詳細については、本サイトの「日露戦争前夜の日本と朝鮮(1)」〜「(6)」を参照されたい。

 先ず、10月8日の事変はよく「王妃殺害事件」と通称されるが、単に王妃殺害を目的とした事変だったと見てしまっては、杉村濬の「予審終結決定書に対する意見」にもあるように、「歴史としては誤を千古に伝うる恐あり」である。

 この事変の要点だけを言えば、
内政改革によって君権を抑制された王妃は、ロシアの力に頼って君権を取戻そうとし、その王妃の意向を受けた王妃派が金総理の改革政権を転覆して閔氏による専横政権を復活させようと、現行政権下にある朝鮮兵(訓練隊)を解散させて将兵を処分し金弘集総理大臣ら政府関係者多数を殺害することを計画。しかしそれを事前に知った大院君はじめ現行政府派や日本人が、日韓協同で先手を打って攻勢に出、大院君と共に王宮に入って王妃派勢力を排除した。その時に王妃も殺害された
となる。つまりは、「大院君入闕並びに王妃殺害事件」とでも言うべきものであろう。

 この事件に関しても巷には種々の解説があふれている。しかしながら、そのほとんどが「王妃殺害」という事件性にのみ目を奪われ、しかもそのことへの罪悪感を現代の人に問おうとする意図を持つもののようである。

 しかしそもそもこの事変の背景に、李氏朝鮮時代始って以来の、属国を脱して独立を強固なものにするという内政の大改革を巡って、王妃派と改革派との間で対立があっていたことに全く触れようとしないのは何故であろうか。
 また、当初は改革に賛同した閔妃はもとより、国王始め大院君など王族、総理大臣はじめ政府の人々、また有志の大勢の朝鮮人が、この大改革に取り組んでいたという事実に触れないのは何故であろうか。
 あるいは王妃殺害事件を語る人がこれを知らないのかもしれない。
 しかしそれでは、「王妃殺害」という事件性にのみ目を奪われて、事変背景も含めて全体として何があっていたのか、どうしてこのような事件となるに至ったのかという、歴史の1頁に対する理解が大きく欠けてしまうことになろう。

 

王妃閔氏一族と大院君

 かつて王妃は、井上馨公使に次のように述べたことがある。
 資料は、明治27年12月8日、当時井上馨が朝鮮駐在公使として赴任して間もない頃、国王に内謁見した時の記録からである。(「韓国内政改革ニ関スル件、第二 2」p5より現代語に)

王妃 「丙子和約(明治9年日朝修好条規)以前にあって、両国の情意疎隔しているのを憂い、朴定陽を暗行御使(密偵のようなもの)として東莱釜山に行かせ、また朕の一族の閔承鎬に密旨を与えて慶尚道の様子を探らせるなど、熱心に日本との交通を暖めようとした。しかしこれらの風説は何時しか日本排斥主義の者を刺激し、終に隠謀を企てた者があり、一夜の内に朕の親兄弟三代は火薬爆発のもとに倒された[ちなみに、王妃の実父閔致禄父子の居室の床下で火薬を爆発させた者があって、一家はこのために亡くなったという]。しかし丙子年(明治9年)、江華に日朝全権大臣の会談があって両国の講和の儀は成り、朕及び朕の一族の希望も達することが出来た。実にこのように朕が貴国との交際を親密にさせ、これによって我が国の富強を図ろうとしたのは一朝一夕のことではない。今や井上卿は我が国に就いて大いに尽すところがあろうとしている。これ以上の幸いはない。朕は井上卿の奏言に従い、敢えて内政への関与をしないことは勿論、朕はひたすら内政のことが着々と歩みを進めて国家の隆盛に赴くことを希望する。井上卿が奏したように、我が国は何時どのような椿事があって王室に危険を生じるか知られないので、常に危惧の念は知らず知らずに種々の疑惑を生じ、女性の浅ましさから同族の庇護を必要とするとの念を起させるに至った。もし王室が万全を得て始終安寧ならば、どうして外戚に国務を掌握させる必要があろうか。井上卿にはこれを理解されよ」

 つまりは閔氏は、日朝の交際を親密にさせ、朝鮮国の富強を図ってきた、というのである。また、これからは内政に関与せず、いよいよ国家が隆盛となることを希望すると。そして、王室に常に危険があったから同族の庇護を必要とした、とも。
 (それにしても国王を前にして、自分こそが朝鮮国の舵取りをしてきたと言わんばかりの王妃の発言ではある(笑))

 しかし、本当ならここでもう少し王妃が語らねばならなかった点が2つある。
 富強を図るということは、朝鮮は今は貧弱国であるということだろう。では、なぜ貧しく弱いのか、という点である。
 次に、国に椿事あって常に王室について危惧と疑惑の念を生じたと言うが、それはどうしてそうなったのか、という点である。

 もちろんこれらは言うまでもなく王妃同族である閔氏政権によって直接間接にもたらされたものであった。金宏集総理も「我国が近年閔氏の政権を専らにせるより、紀綱紊乱政令正しからずして、無辜の民を害することの甚だ多かりし(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/10 第八号 〔総理大臣トノ対談〕」)」と言っているが、その残酷さと腐敗しきった施政こそが朝鮮全土を疲弊させ、民乱を惹き起し、政府内の飽くなき政争を生じさせ、ひいては王室内の争闘までもたらしたのであった。

 例えば当時朝鮮には悪政の代表であるところの、官職を競売にかけるという、言わば公然たる賄賂の要求とでも言うべきシステムがあった。
 井上馨公使はこの売官に関して、どうして朝鮮国はこうも全土が疲弊したか、その理由を国王に対して次のように述べている。(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/26 第二十号 〔朴泳孝任用、軍隊教練等ニ付奏上 3〕」p6より現代語に)

井上 「従来より地方官と小官吏らが何故にこうも地方民を虐げて民財を貪るのかを調べると、すなわち売官買職の結果に外ならない。王室は地方官を売り、地方官は小官吏を売る。これを買った者は、その金を取り戻そうということばかり考えて民の血を吸収することに忙しいのである。このようにあっては、どうして国民が富強となるを望めようか。聞けば、京城の各衙門の下官吏から各倉庫の番人に至るまで、すべて売買の対象であるという」
大君主 「そうである。官吏の召使の職まで売買されている」
井上 「そして何故そうなのかを探ると、給料のことはさておき、そこに賄賂を得ることが出来るためであった。一利があればまた一害も伴うことはよくあることであるが、売官の弊害というものは、民生に害毒を流すこと実に少なくはない。売官をすれは一時には王室に財を生むだろう。だから一つの財源のような考えもあろうけれど、ひいては国民一般におよぶ惨禍というものは、ほとんど国民を枯死させて悲嘆の境遇に陥しめるものである。どうして寒心しないでおれようか」

 まさに朝鮮全土に恐るべき弊害をもたらし、貧国弱兵に陥らせるに至った仕組みだったと言えよう。そしてこの官職を売買するシステムを作ったのは、以下のように大院君の話によれば王妃閔氏であった。

 大院君との談話で井上馨公使が、王妃によって閔族が台頭するのを懸念して「牝鶏の晨惟家之索(牝鶏が時をつくる意で、女が勢力をふるうと家が乱れるとの古言)」と王妃のことを述べたことに対し、大院君は次のように答えた。(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/15 第拾弐号 〔清国ヘ親書送付ニ付大院君トノ対談〕」p14、原文全体テキストはこちら

 大院君 「元と閔氏が政権を恣にして地方官を売買することになったのは、則ち牝鶏の鳴き始めであって、その結果今日の有様になったのであります」

 王妃閔氏は国家よりも王室よりも、閔族の利益を優先する人であったということになる。そして結果として、朝鮮全土を悪虐非道の施政が覆い、朴泳孝がかつて国王への建白書で訴えたように、「民の辛苦と国財を盗んだ者は官位が太守となり、忠良の人を斥けて無実の者を殺した者が位を進めて宰相となっている。民百姓は山奥に隠れ住み、四方に離散し、父母兄弟妻子はバラバラとなり、或いは餓死し、或いは凍死し、或いは恨み窮まって憤死し、或いは医薬なくして病死し、或いは無罪にして惨たらしく刑殺を受け、或いは寒さと飢えに困って盗み、そして殺される。(「韓国人朴泳孝建白書」p5)」という国となったのである。

 また大院君が井上との対談において言うのに、かつて大院君は執政の頃に倹約をして朝鮮全道に40万石の米を蓄え、京城内にも10万石ばかり積んで飢饉の備えをしたと言う。また収税の法も設けたとも。それが閔氏政権に変ってからは、国財は浪費されて米穀の余蓄もみな使ってしまい、また収税も私腹を肥す方法に変ったと。(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/15 第拾弐号 〔清国ヘ親書送付ニ付大院君トノ対談〕」p8)
 執政大院君の失脚が明治6年(1873)であるから、明治9年の大飢饉当時の政府無策の理由がこれでうなずけよう。(参照「恐るべき飢餓大国」)
 かつて「活人署」と言う、貧民のうち病になった者を集めて治療していたのが、ついに有名無実のものとなったのも合点がいこうというもの。

 どうやら大院君がこれまで何度も王妃を殺害しようとしたことは、個人的感情のもつれや、守旧派として開化を嫌ったり、また権力欲からだっただけではないようである。
 つまりは、「今日の如く王妃跋扈(ばっこ)しては国家滅亡すべし(「明治28年6月28日から明治28年7月17日」p10)」との大院君の言は、国家の危機に瀕する李王家の者としての悲痛な叫びだったのかもしれない。

大院君[李昰應]
小川一眞撮影 明治27年8月頃

 そして東学党巨魁全琫準も言った。原文を現代語に)
「我らはただただ閔家の一族が政府の要路にあって威権を弄し、私腹をほしいままにするのを見て憤慨に堪えず、以前から同志を集めてこれを斥けることを望み、何度も政府に訴えたが一切採用されなかった。これは閔家が内にあって我らの訴願を握りつぶして国王に届かないようにしているのだと考え、ついに君主そばの奸を除くとの名義をもって兵を起こした」
 東学党武装蜂起の最初は、閔氏の敷いた圧政に苦しむ農民を助けんとした純然たる民乱が発端であった。西洋化を嫌い、開化を求める日本を排斥しようと、スローガン「斥倭」を掲げたのは後からのことである。

 

反改革の王妃

 このように閔氏閔派以外の朝鮮全土の人々からは蛇蝎のように嫌われた閔族であるが、ついに明治27年7月23日に日本軍の擁護を受けて王宮に入った大院君が政府から閔族閔派を放逐し、金宏集内閣による内政改革政権が発足した。しかし王妃は閔氏政権の復活を諦めず、画策につぐ画策を重ね、ついにあの閔族のドン、閔泳駿を王宮に再び引き入れたのは明治28年10月7日であった。
 閔泳駿こそ、巨額の私腹を肥しながら、一方で国力の貧弱さが増す中に、東学党の乱を鎮圧することも出来ない兵力となったために、安易に清軍の派遣を求め、ついに日清開戦をもたらした人である。

 明治27年当時、日本人から見た人物評として、閔泳駿のことをこう述べているのがある。(「現今清韓人傑伝」明治27年9月14日発行 杉山米吉 著)

「前の統衛使経理使閔泳駿は、一時、位人臣を極め、富巨万を重ね、然れども元是れ一狸邪の小人のみ幸にして、外戚の威に拠り強におもねり、弱を虐げ、以て一時の苟安を偸取(ぬすみとること)せしのみ。(略)泳駿漸くにして勢道に登るを得たり。其一朝地位を得るに及んでや意俄に驕り、次で文武の長なるに至りて其歓極りなく、益々権を振い威を弄して愛憎偏頗到らざるなく、京城三百の官妓をして代々(かわるがわる)其の邸に伺候せしめ、猶且其の少きを歎ずるに至る。其驕奢概ね此くの如し。是を以て韓廷凡て小人汚吏の占むるところとなり、剰え猥りに国王を壅蔽して大院君を斥け、王妃と結託して啻利之れ計り。定職なきを以て事あれば乃ち袁世凱等の奴輩に謀り、遂に其の売る所となり、忽ち終に一国交際の道を誤り外国交渉の俑を作れり(悪例を作ったとの意)」

 こういう人物を王妃が再び王宮に入れようとする時、王妃が言うような閔族の庇護を必要とするような王室の危険は全くなかった。それどころか、王妃派は兵を処分し政府大臣ら大勢を暗殺しようと計画していたのであるから。

 明治27年28年の朝鮮内政改革は、国家興亡の岐路に立つ朝鮮にとって極めて重大な改革であった。明治27年7月23日に大院君が王宮に入った後、真っ先に地方官の売官などは廃されて、政府大臣の上奏によって任免が裁可されるようになった。(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/26 第二十号 〔朴泳孝任用、軍隊教練等ニ付奏上 3〕」p8)
 ところがこれは王妃閔氏が最も不満とする改革であった。王妃が取り戻そうとした君権とは、大臣たち始め地方官なども含めた任免を自分たちの手によって自由勝手にすることである。
 しかし金宏集は、そもそもこのようなことは朝鮮でもかつてなかったことだとして、次のように述べている。

金総理 「私の国も元はこうではなかった。役人を出すにも各省大臣から奏上して君主の許しを得た。国王から直接言い出すとなると却って恥かしく思うほどであった。税を取り立てることも、王宮内の修復も、無闇とせずに勝手をすることも決してなかった。ここ3、40年前まではそういう風であった」(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/13 第拾号 〔東学党討伐ニ付総理外務度支三大臣トノ対談〕」p37より現代語に)

 朝鮮は絶対君主制の国ではあるが、王妃閔氏が君臨するまでは、君主と政府との関係はそれなりにうまく機能していたのである。

 新たに赴任した井上馨公使が、王室や政府内の政争混乱、ひいては貧国に陥った主な原因が、王妃の政治への口出しと大院君の関与によるものであることを看破し、これを封じて国王裁可を内閣の上奏によるものとしたのは改革の第一歩であった。ようするに王室の君権を抑制して国王と政府との関係を一体化させたのである。そして誰もがこの時期、朝鮮国は大きく改革の歩みを進めて近代化に向わねばならないと思い、そのことを国王も大院君も政府関係者も自覚したからこそ、宗廟に改革の誓いを立てたはずであった。

 しかし王妃閔氏は、日清戦後の三国干渉によって日本政府が譲歩したのを見るや、より強大国であるロシアの力を利用して君権を取り戻すことを画策。井上が朝鮮を去ると人事専断を宣言。速攻に閔氏政権を復活させるべく地方に散った閔族を糾合し、ついに閔泳駿を王宮内府に入れ、政府の兵力を削いで改革派の大臣たちを亡き者にせんと計画した。それは朝鮮の未来を見据えて改革に取組む人々にとって、再び暗黒の朝鮮に沈むという悪夢を見ることを意味した。しかし今更どうしてそのようなことが許せようか。そう思う第一の人は大院君であり、朴泳孝の感化を受けた元軍部大臣代理李周會、そして柳赫魯、鄭蘭教などの改革過激派であった。

 一方で、文武官に給与の支給もままならず、外国への借金も払わねばならず、経費の借財もある中に、それでも王宮内では連日のように宴会が催され、時に嬌声が外に漏れたという。改革派大臣たちが苦々しく思っていたことは想像に難くないことである。
 当時王妃は閔族などの手によって莫大の財貨を私蓄しており、そ の額は数十万円にのぼったという。(「今世人物評伝叢書 第1編 明治29年9月 民友社」p141)
 杉村濬書記官は、当時の報告の中で、王妃の機密金と称するもので京城第一銀行支店へ預けてある4万円余りが、次々と引出されてついに全額引き出されたことをつきとめ、王妃の宴会の費用に使われたと推測される、と述べている。
 あるいはまた、この頃に王宮で大宴会が開かれたが、それは王妃が明治15年の壬午事変で大院君から暗殺されかかったのを忠州に逃れ、後に王宮に復帰した日を記念とした祝賀会であったが、その費用の5万円を露国が提供して催させたものである、という大院君の話もあった。

 

王妃の売国とロシア

 露国政府の戦略についてはすでに述べたとおり。「今後は勢威を朝鮮および満州に普及し、東洋にスラブ種族の繁殖を図る」、朝鮮は「戦わずして保護国に降す」である。
ようするに、朝鮮を実質的にロシア領土の一部とし太平洋進出の拠点とする、というものと言えよう。

 また、在京城露公使ウェベルはリゼンドルを通じて以下を内奏したとの説もあった。(資料原文テキスト
 、閔妃と閔族とは一体である。それで閔族と日本とは歴史上において決して相容れないものである。
 、日韓両国は隣国と称しているが、その間は大海を隔てている。露韓両国のように隣に接しているのには及ばない。故に地形上から見るときは、日本よりも露国に親しむべきである。
 、露国は世界の最強国にして、日本のごときは、露国と比較するに足りない国である。これは広く例を挙げるまでもなく、今年春の清国遼東半島還付の一件についても、その事実は確められよう。(露国が中心となっての三国干渉の結果を指す)
 、露国は決して朝鮮の独立を害しない。また内政に干渉するのを好まない。故に露国に依頼してその保護を仰ぐときは、極めて安全にして、且つ君権は旧のまま充分に施行することができるだろう。

 なお、この内奏の事は、「其後閔妃は常に人に向て『日本と閔氏とは両立すべきものに非ず。縦令(たとえ)土地の若干を他国に失うとも、日本の仇を復せざる可らず。露西亜は世界の強国にして日本の比に非ず。且つ君権を保護すとの約あれば之れに依頼すべし』と云いたる由、屡々漏れ聞えたる程なれば、該公使の案奏は、蓋し事実なりと信ぜらる」
と述べている。
 すなわち が意味するところは、「朝鮮国王亦戦わずしてブカラ王の位地に落つべし」であり、つまりはロシア領内自治区となることを意味する。
 「ブハラハン国」はロシアと戦って降った。しかし朝鮮の場合は、甘言で降す、またそれで充分降るものであるという見通しだったのだろう。もちろん「朝鮮の独立を害しない」などということはあり得ないことである。しかし国家の地位や名誉のことなど毫も頭にない王妃閔氏であるから、君権が旧のまま、つまりは我が閔氏一族が相応の地位と富を得られるならば、属国だろうが、保護国だろうが、独立国だろうが、そんなものはどうでもよい、ということだったと思われる。こうして王妃閔氏とロシアの利益は一致したのである。
 しかしこれはようするに、朝鮮国にとって「売国」と言われても仕方のないものでは? 地位が最も君権に近いだけに、いや実際の君権を握るだけに、文字通りもろに国を売ることになるんだが。
 大院君が怒ったのも無理はない。あの明治27年7月23日に日本側が王宮を兵で囲んだ上で王宮入りを要請した時にさえ、「事が成るの後、断じて朝鮮国の寸地を割かず」との約束を杉村濬書記官から取りつけた人である。それを王妃が「たとえ土地の若干を他国に失うとも」と、ロシアに領地を与えることを同意するが如き意見を吐いたことを聞いては怒らないはずはない。

 また、ここに至って閔族が政権を握るということは、大院君など李王家や臣下の者たちにとっては、閔族が李王家にとってかわろうとする危機にも見えたようである。外部大臣金允植は杉村濬書記官にこう述べている。
「拙者等は李氏五百年の臣子にして、閔氏の臣子にあらず。大院君若し立たんと欲せば、一瞥の力致すを辞せず」と。

 かくて10月8日の王宮入りを前に、大院君は、国王と世子の身の安全を望む一方で、「但し王后に対しては宜く臨機の処分あるべし資料テキスト」と告げたということになろう。後に大院君が1万9千円もの大金を謝礼金として壮士らに渡すために支払ったことがその傍証となろう。大院君の謝礼金

 「王妃殺害」、つまりは殺人事件ということならば、加害者の罪を問うのみならず、被害者の落度の如何もまた考慮すべきものであろう。そういう意味で王妃閔氏の場合、その落度というものはあまりにも大き過ぎたと言える。もちろん、「殺されて当然」などという考え方はあってはならないことであるが、実際、当時の日韓双方の人々はそう思いそれを実行したということになろう。当然のこと首謀者は大院君である。その爪牙は日韓の壮士たちであり、結果として1人の日本人壮士の手に掛ったと言える。

 三浦梧楼や杉村濬が王妃殺害のことを目論んでいたとは考え難い。王宮から王妃派を排除して金内閣政権を安定させ、引続き改革路線を実行させれば、その目的は達するのであって、王妃の力と存在は王宮に大院君が君臨するだけで無いも同然となるからである。
 あるいはまた金内閣としても、明治15年の壬午事変の時のように、王妃自身はどこかに逃亡して姿を消す、ということを想定し、「事変が出づれば朕を離れて其身を避けて壬午往事を踏襲いたし、訪求すれども出現せず・・・・・王后閔氏を廃して庶人となす」との詔勅のことは予め用意していたのかも知れない。


さて、このたびAAA!CAFEさんには、12月1日にて終了とのこと。今日までAAA!CAFEを利用させて頂きましたことを厚く御礼申し上げます。
さらには、ここをweb遺産としてアーカイブしてくださるとのこと、重ねて御礼申し上げます。


さて、東日本大震災後、今さら百年も前の歴史上の出来事を詳細に調べる気分にもなれず、更新もせずに今日まで放置しておりましたが、ひとまずこれで「 歴史資料とその考察(きままに歴史資料集) 」も終止符を打つ気になりました。

朝鮮国はこの後、ご存じのように、国王が露米派にそそのかされて露公使館に移り住む、いわゆる露館播遷というトンデモの事態になり、やがて前総理金弘集と前農工商大臣鄭秉夏は暴徒に惨殺され、魚允中も殺害されてしまうことになります。
まあ、この時点で、この国は終焉を迎えたと言っていいのでは。後は、ロシアはじめ西洋諸国に利権を食いつくされていくだけだし。

後には日本に併合されて国として完全に消滅するわけですが、まあ、このような亡国に至ったのも、朝鮮自らがそれを招いたのであるとしか言いようがないわけで。
これらの詳細をいつか書くことがあるかどうかは今のところ未定です。

大勢アクセスくださった読者諸氏にも改めて御礼申し上げます。

平成23年11月27日  澤田獏 拝

 

 

      完

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