日露戦争前夜の日本と朝鮮(6)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

修政殿 (内閣府) 撮影年代 昭和10年頃 岡田貢撮影
景福宮内にあって、1894年軍国機務処また後の金宏集内閣府などに使用。

 

春生門事件−露米派の逆襲

 春生門事件主犯の李範晋は、かつて王妃派の代表であり、王妃の旨を受けて安駉壽らと謀り、閔泳駿を王宮に入れて閔政権を組織せんとし、その際、金宏集総理大臣はじめ兪吉濬など多くの大臣を暗殺する計画を実行しようとした人である。
 彼は、後に春生門事件と称されるようになったこの逆襲事件にも失敗して逃亡する。それを保護したのは露国公使館であり、さらにロシア兵に護衛されて仁川に赴き、そこからロシア軍艦オトヴァジニー号(Otvagny)に搭乗して清国上海に向い、暫くそこに止まっている。小村公使や在上海日本領事官補永瀬久吉からの報告
 よって、ここでは李範晋らも露米派の人間として扱うが、彼の動向と露米使臣との関係は明らかであっても、はたしてロシア政府との関係、また米国政府との連携などは定かではない。これはあるいは、かつての三浦公使がそうだったように、朝鮮駐在の米露使臣などの独走かもしれない。まあ、この点は露国政府外交文書や米国政府外交文書で確かめるしか術はないわけで。

 さて、反撃の計画を練っていた李範晋ら露米派であるが、10月8日事変以後は趙軍部と権警務使が王宮内に連宿し、いずれも部下を統率して昼夜警戒を怠らないので、李範晋らが隙に乗じて事を挙げることは出来なかった。しかし26日になって政府が趙権2人を免官し、更に李周會など事変関係者を逮捕したことから、反撃のチャンス到来と決断し、ここにいよいよ王宮への襲撃を実行に移すことにした。ついては、内応を約した第2大隊長李軫鎬に連絡して、王宮に討入る手立てを講じようとした。資料原文

 

筒抜けの行動計画

 27日午後、李範晋は李軫鎬に書簡を送った。書簡には、「今晩12時に行軍して王宮後園の春生門に到り、午前1時に乾清宮に入るので、その背面の月状門2ヶ所を開けるように」とあった。
 午後4時頃この事の通報を受けた小村公使は、王宮に行って政府に赴き、準備の状況を見るなどして、金総理大臣、魚度支兼軍部大臣、金外部、兪内部署理などに面会したが、皆は事前の防禦策の準備などに慌ただしかった。この時に、金総理が小村公使に言った。

金総理 「今夜の事変に当っては、王宮内の警戒は充分整って遺漏はないが、ただ王宮外で反乱者の退路を遮って主なる者を捕えるには、これを貴国の守備兵の力に仰がざるを得ない。ついては、守備隊の兵士若干に応援をしてもらえまいか」
小村公使 「いや今は守備隊を動かすことは出来難い。もし乱徒の力が訓練隊の力に余るということなら、むしろ万全の策として、事を未然に摘発して彼等の計画を思い止めさせるような手段をとる方がよかろう」

 金総理もこれを聞いて躊躇するような様子を見せたが、その時、訓練隊長が入ってきて、兪吉濬に何事か耳打ちをした。兪は総理に向い、

兪内部署理 「ただ今、李範晋が李軫鎬に送ってきた書簡によれば、今夜は都合があって事を挙げる運びに至らなかった。いずれ明日に改めて方策を知らせるので、そのように承知せよ、との事であった」
金総理 「以上のようなことなので、もはや今夜は事変が起ることはないようである」

 よって、小村は帰館した。

 兪吉濬が言ったその書簡とは、あるいは「ハ第三号」のことだろうか、ちょっと判然としない。
 で、以下に続く。資料原文

 しかしこの夜、米国人教官ゼネラル・ダイは王宮内の宿直所にあって李軫鎬のもとに兵士を遣わし、今から来るようにと促した。よって、李軫鎬がそこに向うと、途中でゼネラル・ダイと宣教師アンダーウッドに出会った。ダイはアンダーウッドに通訳させて言った。

ダイ 「宮内各所の歩哨を巡察して回ろう」

 よって3人は同道して歩哨線を巡視して回り、国王宮殿の乾清宮の前門に至った。しかし李載冕宮内大臣が武芸庁の兵を遣わせて伝えた。

兵士 「深夜、外国人が宮殿直近の所をなぜ徘徊するのか」
アンダーウッド 「月の色を見ようとしてここに立っているのである」

 李軫鎬は黙っていたが、やがてゼネラル・ダイに、「はやく退いてはどうか」と言った。ダイは、なおも神武門の歩哨も巡視したいと言うので同所を巡視して還ってきた。

ダイ 「余の室に来てはどうか」
李軫鎬 「軍隊に暫しの用があるので、それを済ませて直ぐに再び来るから」

 李がおよそ1、2時間後に行くと、米国人が3人いた。すなわち、ダイ、ニンステッド(米国人軍事教官)、アンダーウッドである。
 座を得て室内をゆっくりと熟視すると、寝台の上に6発回転銃と弾丸が準備されていた。

アンダーウッド 「余は予め王宮内で事変があることを知っているので、中に入ろうとしてきたが、王宮の門は既に閉っている。どうすれば中に入れようかと考えて直ぐに一計を案じた。大君主陛下にお勧めの薬を持参した、と歩哨に告げると、やっと門が開いた。それで辛うじて来られたのである。今夜はきっと事変があるだろう」
 「どのような事変か」
アンダーウッド 「詳しくは知らないが、何らかの事変があるようだ」
 「君はそう言うが、自分もまた予め知った」
アンダーウッド 「君は何によってこれを知ったのか」
 「今日の午後に李範晋と李敏宏の書簡を受けたが、明暁午前2時に部下を率いて春生門に来たら、すなわち門を開いてくれ、との意味であった」
アンダーウッド 「それならば忠臣としての行為であろう」
 「彼等の形勢はどうなのか」
アンダーウッド 「自分はまだ詳細は知らない」
 「重大な仕事を軽率にしてはならない」
ダイ 「今日のことは、貴公には極力準備をして、ひとつには門を開き、ひとつには宮殿を侍衛し、またひとつには各部の大臣たちを捕捉したなら、我々は宮殿に入り、国王に稟告した後に、諸大臣の処置に着手するだろう。もっとも、外から入ってくる兵には、銃声を合図とすることになっている」

 軍事教官であるニンステッドというのは、いつ雇われたのだろうか。10月8日事変の時には登場していないようだし。
 それにしても軍事教官2人とキリスト教宣教師という組合わせ。何やら血で血を洗うような中世の時代のイメージがしてきたが(笑) ダイ将軍もねえ、平然と「諸大臣の処置」と言うところに、朝鮮滞在が永いだけにすっかり「なんとか面」に落ちたようで。

 (以下資料原文

旧侍衛隊を強制動員

 李範晋らの最初の計画では、旧護衛兵であった侍衛隊は動かさず、旧式兵である工馬隊の一分を率い、中に刺客を交えて王宮を襲う手筈であったが、実行が早まったために工馬隊を募集する暇がなく、それで、侍衛隊の中に同調者がいるのを幸い、侍衛隊の営舎に行ってこれを引出すことにした。
 28日深夜となり、李道徹に刺客40余名を授け、先ず巡査交番所を襲って帯剣を奪取し、次に旧侍衛隊の営舎に押し寄せた。その時、侍衛隊の士官の中に門内より応ずる者があって門を開いたので、直に入って中隊長の南万里、同じく李圭泓を脅迫し、剱を揮って出兵を促し、これを率いて王宮に迫った。
 同時に李道徹は、携えてきた各国公使館への通告文や掲示文を兵卒に命じて直に配付させた。日本公使館に来た兵卒は通告文を渡したが、その大要としては、
「大朝鮮兵卒らは、痛切なる事情により大日本公使前に陳ず。鎮衛隊の兵卒らは、免罪をそそぐために王宮に討入って逆臣10人を討滅するものである。このことは貴国とは関係ないことなので、少しも驚かずに、軍も動かさないようにされたい」
とあった。

 この脅迫して乱に向わせるというのは、東学党の乱もそうであって、大半の農民が脅されて乱に加わっていたことは既に述べたとおり。強要強制の甚だしさは朝鮮の文化か。そう言えば、中国にも督戦隊というのがいたようで。逃げようとしたり攻撃に向わない兵を後ろから銃撃して「督戦」するという部隊が。あの豊島沖海戦における高陞号沈没の時にも、船上に残る清兵が泳いで逃げる清兵を銃撃していたとフォン・ハネッケンが証言してますからねえ。ついでに言うと、日支事変の時もそうやって築いた死体の山は日本軍のせいになってたりして。

 

非常警戒の中に襲撃

 このような事情から李範晋らは当初、事を挙げることを中止しようとしたが、旧侍衛隊の兵を得たことによってやはり決行することとなり、急ぎ、李軫鎬に手紙を遣って、今準備が整ったので春生門のことは約束通りに、と報せた。

 これによって、王宮を守護する訓練隊は直ちに非常警戒をなし、同時に魚允中軍部大臣の考案によって、国王守護兵に1部隊を増加して国王宮殿近くの閑房に置いた。これは深夜でもあるから、いきなり護衛兵を増やすことで大院君や世子宮を驚かすことのないようにとの計らいであり、また王宮にいる外国人に国王の身の上に危険が迫ったなどの口実を与えないためでもあった。

 およそ1時頃、3度の銃声が響き、次いで一群の兵士が押寄せてきた。その数およそ800人、刺客は40人であった。先ず春生門前に来て、「門を開け!」と何度も叫んだ。
 門を守るのは4小隊であり、中隊長は李謙済、小隊長は李承奎、同じく李祖鉉、同じく権某であった。また大隊長は李範来であった。
 この暴徒の一部およそ200人は、春生門の西側の北牆門に押寄せ、門扉を破壊して押入った。ここを守る者はわずかに訓練隊兵士5名であった。その猛烈な勢いに4名の兵士は遁走し、内1名の伍長が暴徒に捕縛された。
 彼らが伍長に向って王宮内の兵の守備位置を尋問している時、ちょうどそこに、訓練隊曹長が6名の兵士を率いて歩哨線巡察の途中にあってこの光景を目撃し、直ちに散兵の号令を下し、6名の兵士に一令の下に銃撃する姿勢をとらせた。
 すると暴徒は、咄嗟のことに多数の敵兵が来たと思ったのか、捕縛した伍長をそのまま置いて、門外に向って我れ先にと退却した。
 曹長が直ちに北牆門を封鎖した時、大隊長李範来は北牆門の急を聞いて1部隊を率いて応援のために駆けつけ、門外の暴徒に対して一声高く説き聞かせた。
李範来 「汝らは国法の厳重なるを顧みず、しかも深夜にこの重要の場所を犯そうとしている。これは反逆の大罪を免がれない。しかし思うに、その罪は汝ら一兵卒が知る所ではなく、必らず汝らを知らずに知らずにここに至らせた者があるだろう。もし汝らが速やかに間違った道から目覚め、退いて罪を待つならなおよし。かりにもそうではなくて、国王の軍隊に抵抗するならば、その大罪であることは、まさに天地の容れないところであり、まして、後ろには日本兵300人が陣にある。汝らの命は一呼吸の間に置かれている」

 これを聞いた暴徒の兵卒らは互いを顧みながら逡巡した。

 東学党の襲来を防ぐために兵士に日本兵の服を着せたり、ここでも日本兵が後に控えていると言ったりと(笑)

 

発砲せずして鎮圧

 また、春生門に押寄せた一群は、容易に門内から内応の様子がないことから、一部は城壁を乗越えて門内に闖入し、多数は門戸を破壊して突進した。
 ここは最初訓練隊4小隊で守備していたが、北牆門の事があったために1隊を分けたので、臨時に光化門の守備兵1小隊を引き挙げて補充した。充分に暴徒が門内に進み込んだのを合図に、着剱して包囲吶喊を行った。
 暴徒は不意の突撃に前後を争って退却した。その際に旧侍衛隊長李道徹、中隊長南万里、同じく李圭泓を取り押え、また刺客4名と兵士5名をも捕獲した。
 しかしまた聞くところによれば、暴徒らは必らず王宮内の守備兵の内応があるからと聞いて来たのに、大隊長李範来の演説といい、また事実内応などの様子がないだけでなく、かえって守備兵から大いに攻撃されたので、さては隊長李道徹らのために騙されたのだと思って自から李道徹を捕えて降伏したと。

 こうして訓練隊の士官兵士は春生門を守りきったので、なおも進んで賊を鏖殺するべきであるとか、あるいは発砲すべきであるとか迫ったが、魚允中は終始士官兵卒に向って堅く発砲を戒め、もし万一やむを得ない外は、決して発砲してはならないと命じた。これは出来ることなら国王世子宮の非常なる驚きとならないように努めたからだという。

 夜明前の頃、暴徒は春生門の外に集っていた。魚軍部大臣は門の城楼から大声で説諭した。「速やかに営舎に帰れ!」と。
 彼らはやや安堵したようで、一同は営舎に向って引挙げた。その後、侍衛隊の大部分は帰営し、その内若干名が行方をくらましたことが分った。

 魚允中の細心の注意によって、どうやら銃撃戦とはならなかったようである。10月8日の時は、教官ダイが侍衛隊に銃の弾込めを命じたところが暴発して、それから大混乱になって自滅したのだっけ。楠瀬中佐が訓練した訓練隊はましだったようで。

 

米国人の暴挙も鎮圧

 以上は国王宮殿外における暴動襲撃の顛末であって、国王の宮殿内では非常警戒を加え、宮内大臣李載冕、総理大臣金宏集は、国王世子宮を擁護していた。

 先の銃声を聴くや、ダイの当直所で待っていたらしい米国人宮内顧問官リゼンドル、アンダーウッド、アッペンゼイラ、エビソン、ニンステッド、ダイなど6人の者は、直に宮殿の門兵の所に来て殿内に押入ろうとした。門兵が拒むと、彼らは手に短銃を握って門兵に向け威嚇しようとした。これを見た当直士官である訓練隊少尉は大いに怒ってその無礼を責め、剱を抜き号令を発して兵士らに銃を構えさせた。彼らは大いに狼狽して「ノー、ノー」と言い、いずれも短銃を収めた。
 よって兵士は彼らを番兵小屋に押し込んだが、リゼンドルはいち早くダイの当直所に遁れ去り、2人の宣教師、アンダーウッド、エビソンは、どうしたはずみに宮殿内に入ったのか、、宮殿の階段に進んだが、中には李宮内、金総理がいて、厳格に国王の左右に陪侍しているので国王に近づくことはできず、その時、背後で吶喊の声が勢大に起るとアンダーウッドは国王に向い、「驚き疑うことのないように。何事もなくただ今鎮静しましょう」と、あたかも事の成り行きを熟知しているかのような語り口で奏上した。
 そうして彼らは夜明けになって悄然として引き挙げた。

 また、各門歩哨の後の報告によれば、光化門近くに西洋人が来て戻り、午前2時頃にまた西洋人10人余りの姿が見え、吶喊の声を聞いた後に帰り去った。また迎秋門の門外に夜12時頃から2人の西洋人が来て、明け方になって立ち去った。また、建春門には、同夜1時頃に一隊の兵卒を率いた西洋人が春生門方面に行き、午前2時頃、西洋人4人と白衣の朝鮮人7人が同道して来た。また、西洋人14人と白衣の朝鮮人3人も来た。吶喊の声が聞えた後に帰り去った。

 さて、日本公使館では、王宮付近で銃声や吶喊の声などを聞いたことから、直ちに高嶋書記生に巡査を付けて王宮門前の日本守備隊の営舎に派遣し、田村中佐、渡邊少佐、大隊本部宇佐川中佐に報せて公使館に来るよう促し、守備隊を動かさないよう、また居留民の保護に関する打ち合せし、そして、通告書を持ってきた侍衛隊兵士に対して、彼らの隊長に報せるよう言った。

小村 「今聞くところによれば、侍衛隊の大部分が王宮に押寄せたと。これはどういう意思によるものかは知らないが、深夜に部隊を作ってかりにも王宮に侵入するとあっては、反逆の罪は免れない。汝らは速やかにその非を悔いて解散するならよし。もしそうでないなら、直ぐに我が兵力を用いて汝ら反乱の賊を撃ち払うだろう」

 侍衛隊兵士は、分ったと言って去った。

 先に派遣した高嶋書記生の戻ってからの報告によれば、王宮方面から帰ってくる米公使館書記官アレンと、水兵凡そ10名とこれを率いる士官と遭遇した。先ほどの建春門の歩哨が見た外国人と兵士の一団とは彼らのことと思われた。

 以上のように、むしろ露公使らより米国人らの方が積極的であった印象が強い。しかし主犯の李範晋は露公使の庇護を受けていた。
 なお、初出の外人名はみな宣教師である。キリスト教宣教師は、朝鮮が米国と条約締結して開国しキリスト教を公認したことから、明治17年頃より渡韓して国王王妃に接近し、西洋近代医学の効能をもって布教した。以後、キリスト教貞洞教会の建立を見るなど格別の庇護を受けるようになったが、それだけに10月8日の事変に対しては感情的に特別なものがあったと思われる。

 

事変後の状況

 小村公使としては、高嶋書記生から報告を得た以外に王宮内や内閣大臣からの情報もないことから、国王の身の上や王宮内の動静を知るために国分書記官を従えて参内した。
 午前6時頃に王宮正門である光化門に来たが門はまだ閉じていたので、小村は名刺を渡して内閣に知らせ、それより入宮した。

 国王の宮殿にて金総理、魚度支兼軍部、兪内部協弁に面会したが、その場には訓練隊第1大隊長の李範来や同副官もいたので事変の顛末が明瞭となった。
 また、この時に魚允中軍部大臣代理は小村公使に言った。

 「改めて貴公使に感謝することがある。昨夜の暴徒らは春生門と北牆門に迫り、その勢いは猛烈であった。また暴徒の中には壁を越えて乱入した者もいた。それにもかかわらず、訓練隊の士官らはよく部下を指揮し、また部下らもよく命令を守って進退し、歩哨線内に一人の暴徒も入らせなかったことは、我が軍隊の名誉である。これはそもそも貴国のたまものである。貴国士官が養成した士官、訓練した兵隊でなかったら、どうしてこれが出来たろうか。予はこれをもって我が軍隊の名誉と言うよりは、むしろ貴国士官の名誉に帰すと言ってはばからない。それで一言ここに感謝の言葉を述べたいのである云々」と。

 あまり世辞など言うことのない魚允中の言葉だけに、真実味が感じられる。まあ、今まで事変がある度に王宮を守ることなど出来なかった歴史があるだけにねえ。

 その後、小村は米国公使に対して書面を送り、この事変の話をするために訪問することを告げて同公使館に行ったところ、米公使はこれを他の使臣にも通知していたので、ここに各国使臣が一堂に会することを得た。
 小村は先ず今朝の王宮内事変について見聞したことを語り、なお各国使臣に何か見聞したことがあるなら知りたいと述べたが、誰もが別に聞いてることはないと答えた。

 その間、露国公使は最初から頭を垂れて黙っていた。
 ただドイツ領事クリインは、今回の事変には李載純が関係していると外務協弁尹致昊が確かに語ったと述べ、英国領事ヒリヤは、昨夜尹致昊が来て王宮にまた変動があるかもしれないので、各国使臣は共に王宮護衛をしてほしいと誘うところとなり、それで同僚と共に露米公使もまた一緒に、王宮の東北にある門前までいった、と語った。
 しかし、米国公使と書記官アルレンが水兵を率いて王宮裏門に行ったことは深く秘して洩さなかった。その後も同様であった。

 以上で使臣会議は終ったので小村は帰館した。

 やはりシル米公使もアレン書記官と共に米国水兵を率いて参加していたらしい。

 

春生門事件の主謀者らとその処分

 さて、その後小村公使は、この事件と外国人の関与について、以下のように報告している。
 引続き資料から、その部分を現代語訳して記す。ところで、筆者が読んだ簿冊「韓国王妃殺害一件 第二巻」にある資料より、すでにdreamtale氏が該エントリで記されてあるように、アジ歴『朝鮮京城事変ノ顛末ニ関シ小村弁理公使ヨリ報告ノ件(レファレンスコード:A04010020500)p18』の資料の方が読みやすいので、原文を参照される方はそちらをお勧めしたい。(ただし別紙資料のことは記述されていない)

(「韓国王妃殺害一件 第二巻 分割2 B08090168800」p17より現代語に)

今回の事変に関して、外国人の中で誰が主な関係があるか、またその目的はどの点まで達するはずだったのか、それを判断することはたいへん緊要であると思われる。
もとより本件の主謀者は10月8の事変に際して現政府の反対に立つところの、李範晋、李允用、李完用、玄興澤、李夏栄、李采淵、閔商鎬、尹致昊父子、李学均などを第一とし、安駉壽、李載純などの者が、主として計画したものに間違いないことであるが、また一つに、露国米国両公使館員ならびに宣教師らの後援という力があったと言わざるを得ない。
まさに露公使のように、永年を経てようやく手中にした唯一の目的である王妃が死んだということは、彼にとっては一大不幸であって、ウェベル氏在勤中の苦労は全く水泡に帰したと言わざるを得ない。はたしてそうならば、何とかしてこの報いを他に求めねばならず、しかし丁度よいことに李範晋らの計画が一朝にして成功するならば、彼は血で手を染めることなく、自分の部下として扱える内閣を組織できる利益があった。だからこそ彼らは李範晋らに出来るだけ助力を与えようと約束したようである。

その事実として顕われたものは、露国公使が趙軍部・権警務を排斥する運動に充分尽力したこと、露国公使館護衛水兵の弾丸若干を李忠求らに与えたこと[別紙第六号参照]、事変当夜、正しく彼は王宮裏門に行って示威的行動をしたこと、ならびに事変後に露国公使館に匿われた韓人某[たぶん李範晋と判断される]を水兵に護衛させ、仁川に送り、同地から軍艦を派遣して芝罘を経て上海に送ったこと、などのこれらである。

米国公使シル氏においては、はたして今回の陰謀の魂胆を最初から知っていたか否かはたいへん疑うところであるが、同書記官アルレン氏はまさにこの陰謀に参画したようである。米国公使館内に匿う主謀者、李完用、李允用、玄興澤、李夏栄、閔商鎬、李采淵は、皆いずれもアルレン氏が平素から最も親しんでいる王妃派の者である。アルレン氏はもと宣教師として朝鮮に入り、王妃の愛顧を受け、朝鮮の雇い書記官として、李完用、李采淵、李夏栄、と共に米国に赴いた[朴定陽が公使の時]。後に米国公使館書記官として来任してから今日に至っている。ゆえに米国宣教師らが王宮に出入りし、王妃の愛顧を受け、少くない補助費を受けるに至ったのも、同官の斡旋の力が多かったという。そうであれば、彼は感情的に王妃の横死を憤慨し、復讐の念に出てついに陰謀を助けるに至ったもののようである。
この他、アンダァウート、アッペンゼーラ、エビソンらは、皆アルレンと同様の者であって、感情的に動いたに過ぎない。
もっとも、これら宣教師に限り、現主謀者らが抱いたすなわち内閣員を残らず殺害するというような惨酷の手段には及ばずして、ただ内閣員を更迭させるだけで充分とするもののようである。
この事変の失敗前までは、上記の宣教師らはしきりと躍起になり、各外交官の間を往来し、現内閣の処置を非難し、口を極めて国王を現内閣の手に任せることの危険を説き、自分らも各国使臣に付き添って度々王宮に参内し、暗に国王を保護するかのような動きをしたが、事変後は全く影を潜めて穏和をよそおっているようである。

まさにまた、各国使臣中の露米2公使の挙動はどうかと言えば、本使は度々その後に公私共に面会したが、11月28日の事変のことはなるべく触れるのを避け、話題がそこに及ばないように努める様子があった。よってこの頃は10月8日事変のことも全く話題とならなくなった。

11月28日事変の主謀者ならびに連累する者はたいへん多い。目下拘禁中の者だけでもすでに32名に及んでいる。なお露国米国公使館内に匿われて主謀者と思われる者は7、8人いる。しかし朝鮮政府は去る10月8日事変における犯罪者の処分にやや緩慢であって他の多くの者は逃亡して逮捕されていないので、今度の事変に対してもあまり厳格な処分をすれば、一般の感情を害する恐れがあるので、なるべく寛大の処置を執り、主謀者の一部である李完用、李采淵、玄興澤、閔商鎬は、その罪を免じて謹慎を命じ[米国公使館内にいる者は、同公使からしきりと退出を求められ、進退窮まって法部大臣に助命を申し出る者が多い。この4人もその中の者である]、李敏宏、李忠求、全佑基、盧興奎は終身流刑に、安駉壽、南万里は、罪1等を減じて笞百回・懲役3年[ただし就役を免じる]、李載純は特旨をもって笞百・懲役3年の刑を免じて3年間地方での謹慎を申し付けられ、首謀者李道徹[隊長]、林最洙[侍従職]の2人は死刑に処し、李昌根、外21人を放免し、これにおいてこの事変の一段落を告げることとなった。

なお、王宮内の守備を嘱託された米国人ダイとニンステッドの両人は、今回の陰謀に加わったことですでに王宮を斥けられ、近日中に解雇されるだろうとのことである。

 明治28年12月30日
     在朝鮮京城
         弁理公使小村寿太郎

  外務大臣臨時代理
   文部大臣侯爵西園寺公望殿

 弾丸の供与、公使館での潜伏、軍艦による護送と、ウェベルは本気である。まあ、「日露戦争前夜の日本と朝鮮(1)」で記したように、「朝鮮は戦わずして保護国に降る」というのがすでにこの頃の露国の戦略だしねえ。
 しかし他国の政権の転覆を謀るということにおいても三浦公使より強烈な内政干渉であったと言えるのでは。三浦公使の行動は金内閣の擁護であって政権の転覆ではなかったし。結果として王妃が殺害されるという最悪の事態には至ったが。
 そして、米国公使と書記官と宣教師たち。キリスト教が国教であると言ってよい米国のこと。一神教宗教という、ほとんど無限の権威を標榜する、その宣教師の意見には従わざるを得なかったのか。

 さて、安駉壽は笞百回と。この人は陰謀家ですねえ。それも陰謀そのものを楽しむような。

 

事件後援の主は露か米か

 さて、この春生事件に於ける米国使臣の関与について、駐米日本公使栗野慎一郎は、米政府国務長官の談話として次のように報告している。(明治28年12月14日附)

(「韓国王妃殺害一件 第二巻 分割2 B08090168800」p53より抜粋。()は筆者)
廿九年一月十日接受
機密第五〇号
(略)
・・・・・国務長官に面会致候処、同官より先ず口を開き、朝鮮より何等新報なきやを尋られ候間、単に十一月廿八日再び京城に騒擾ありたる趣の電報に接したる旨相答候処、同件に関しては在韓米公使シル氏よりも電報ありて、一々事柄を挙げ、露公使と連帯の処置を取り可然や否伺出候間、国務長官は之に対し米国使臣たるものは、外国公使等の協同を避け、米国の政策を格守し、独立の方針を執るべき旨厳訓し、且つ十一月廿八日の京城騒擾に付ては、米国人之に関係し、公使の措置≠得ざるものあり云々、と打明けて談話せられ候。
(以下略)

 印象として米国政府の意向は、国務長官のこの言葉どおりだったと思われる。それに米政府にとって朝鮮現政権を転覆させても何の意味もないのだから。やはり、小村が述べているように、米国人が関わったのは、キリスト教宣教活動への補助を取り戻さんとすることも含めた感情的な行動だったのだろう。特にアルレン書記官などは。

 してみると、露公使ウェベルこそ、その本国政府の戦略からしてみても、最もこの事件を後援した人であろう。
 この後、国王高宗の「露館播遷」という珍事となるが、播遷などと言っているが、公使館は言わばそこの国の領土のようなものである。そこに移って住み着いたというのだから、ようするにロシアに亡命したようなものではないか(笑) 当然、ロシア側の手引きなくしては不可能なことだったろうし。尤も、拐かされて露国公使館に軟禁されたという説もあるが。

 


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