日露戦争前夜の日本と朝鮮(5)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

京城日本公使館 撮影年代 明治21年(1888)〜明治24年(1891) 林武一撮影
「日本の公使館は、南山麓、緑樹蒼々の間にあり。欧風の高閣にして、前面左傍には領事館あり。館内には郵便局出張所あり。警察署あり。領事館の前面泥峴鋳洞及び後の方、倶に日本人の居留地なり。素と日本公使館は敦義門外松洞の清水館にありしが、1882年の変乱に遇い、後、城内済洞の方に転じ、大院君の邸宅に向いしが、1884年の変乱に再び其災に罹り、其後今の公使館を建築したるものなり」(明治25年11月18日 林亀子出版「朝鮮国真景」より)

 


不得策の極み

 さて、事変から1ヶ月ほど経った11月5日時点での日本政府の認識。諸外国駐在公使に向けての改めての通告である。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割3 B08090168200」p39、()とリンクは筆者)

明治廿八年十一月五日起草
同 廿八年十一月八日発遣

                          外務大臣
在外各国公使[朝鮮を除く]

  朝鮮に於ける十月八日の事件処分の件

客月八日朝鮮京城に於て起りたる事変に関しては、同日在京城三浦公使より別紙甲号之通り来電有之候に付、不取敢同日附電信を以て右之趣及御報道置候処、其後他の筋より本大臣が接受したる報告に依れば、右事件には本邦人中にも関係者有之候哉に承知致候に付、早速其有無取調方三浦公使へ電訓に及びたる処、去月九日、同公使より更に別紙乙号の通り報告有之候。
右三浦公使よりの来電に依れば此度の事件に付ては啻に本邦人中に関係者あるのみならず、猶同公使に於ても予め承知の事にして多少関係有之候様相見、而して若し果して然る場合に於ては、実に容易ならざる次第に付、兎に角速に確実の報告を得候事焦眉の急務と認候に因り、本大臣は右取調の為め小村政務局長を同地へ派遣致候事に決し、去月十日を以て朝鮮へ向け出発為致候。
然るに其後本大臣が続々接手したる所の諸般の報告に依れば、三浦公使其他我公使館并に領事館員にして本件に関係したる者有之候事は殆ど掩う可からざる事実なるが如く、殊に去月十七日附小村政務局長よりの来電[別紙丙号]に依れば、右の点に関し最早毫も疑を容るゝこと能わざるに至り候。

昨年来、帝国政府が朝鮮に対して執り来りたる所の方針に付ては、列国政府に於ても大に注意致居候事にして、往々将来に於ける帝国政府の意向に関し疑惑を抱き居候向も有之候事は、本大臣の夙に聞知したる所に有之候。
然るに今更本大臣より申進候迄もなく、帝国政府に於ては従来屡々明言したる如く、朝鮮国に対しては真に其独立を助け、之をして漸く自立の道を得るに至らしむるの外毫も他意なき事は、閣下[又は貴官]の了知せらるゝ通りに有之候。且又日清両国間の戦争丈けは既に終局に至り候え共、遼東半嶋の問題も未だ終結に至らず、又台湾の如きも未だ全く平定に帰したる訳に無之候えば、此際朝鮮問題に関し列国の疑惑を惹起候如きは実に不得策の極と存候。

右の次第に付、此点に関しては三浦公使赴任の際に当り、本大臣より充分に注意を加え置きたるにも拘わらず、同公使が政府の意に反し前顕の挙動に出でたるは実に本大臣の驚歎措く能わざる所に有之候。
三浦公使が此度之処置を執るに至りたる理由は去月十四日附同公使よりの来翰中[別紙丁号]詳細に記載有之候通りには候え共、苟も政府の訓令に反し右様之処置に出でたる以上は、政府は法に依り之を処分するの外無之、因て十月十七日、同公使に帰朝を命じ、小村政務局長を以て朝鮮国駐箚弁理公使に任命し、且つ三浦公使は去月廿四日帰朝の上本官を免ぜられ、直に拘留予審に附せられ候。
右は同月十八日附并に同廿五日附電信を以て及御報知置候に付、既に御承知の事と存候。
此度京城に於て起りたる事件に付ては帝国政府に於て毫も関係を有せざりしことは勿論、三浦公使が全く政府の訓令に違反したる次第は右に申陳候通に有之候に付、帝国政府に於ては法に依り厳重に処分するの意には有之候え共、将来朝鮮に対する帝国政府の意向に付、尚列国政府に於て疑惑を抱き過て紛議を生ずるが如き事は、帝国政府の飽迄避けんと欲する所に有之候間、目下朝鮮に屯在する我軍隊の処分に関し、予め帝国政府の意向を示し置くは極めて必要の義と[(欄外)林公使へは左の通り「・・・・存候に付、去月廿五日本大臣より在外各公使へ別紙戊号の通り及発電置候」]存候。
是れ本大臣が去月廿五日附電信を以て閣下[又は貴官]に対し、別紙戊号の通り申進したる次第に有之候。

本件進行に付ては尚重て可及御報道次第も可有之候え共、不取敢御心得迄右申進候也。


別紙目録
一 甲号
 和文 電受一〇四八号
一 乙号
  〃 電受一〇五五号
一 丙号
  〃 電受一一一二号
一 丁号
  明治廿八年十月十四日附三浦公使より西園寺大臣宛私信
一 戊号
 横文 電送五〇五号
一 戊号[在露西公使の分]
 横文 電送五〇三号

 要約すると以下のようになろう。
 ・ 事変に日本人が関与していたことは確実となった。
 ・ 列国は、昨年からの朝鮮に対する日本政府の行動を注視し、時々その将来の方針に対しては疑惑を抱いているとも聞いている。
 ・ しかし言うまでもなく、日本政府としては、何度か明言したように、朝鮮国に対しては、真に独立を助けて自立の道を得させるという以外に少しも他意はない。
 ・ 今、戦争は終結したが、遼東半島問題はまだ解決しておらず、台湾平定もまだである。
 ・ このような時機に朝鮮問題に関して列国の疑惑を惹き起こすようなことは実に不得策の極みである。
 ・ この点について本大臣からも、三浦公使の赴任に当って十分に注意を与えていた。
 ・ にもかかわらず、同公使が政府の意に反してこのような挙動に出たことは、実に本大臣が驚嘆する外ないものである。
 ・ 同公使が政府の訓令に違反した以上、政府は法に依りこれを処分する。すでに帰国させ免官して留置予審にかけた。
 ・ この京城の事変について日本政府が全く関係していないことは勿論である。
 ・ 将来、朝鮮に対する日本政府の意向について、なおも列国政府が疑惑を抱いて紛議を生じるようなことは、日本政府としてはどこまでも避けたいところである。
 ・ よって、現在の朝鮮駐留の我が軍についても、日本政府の意向をあらかじめ示しておくことは極めて必要なことであり、これが電送五〇五号で述べた理由である。

 筆者の感想としても、これまでの資料を追えば、まあこんなところだろうと思うが。
 しかし現在、この西園寺の言を信じない人は少なくないだろうねえ。朝鮮に関しては日本政府は悪玉だと信じている人ばかりのようだから(笑) それが何の根拠によるのかは知らんが(笑)

 

 

米露公使などによる干渉策

 さて、「王宮護衛のための日本兵問題」の続きである。11月10日になって西園寺外務は以下のように打電。

(「同上」p46)

電送八四一号 明治廿八年十一月十日午前八時五十分発         西園寺外務大臣
井上大使
小村公使

目下京城に在る、或る外国人よりの電報に依れば、善後の処分遅緩なるが為め、外国人中には往々異議を唱え、向後の協議にも加わらざるに至るやも計られず、尚此先、日本政府に於て朝鮮の現政府を認むるときは、叛逆者の勢い益々長じて愈々跋扈するに至るべく、若し此侭に過て行き回復の道立たざるときは、露国に向て用心せざる可らずと。
外国公使等の感情果して前文の如くあるや、至急詳細に電報ありたし。

 朝鮮への内政干渉を露骨に主張する外国人と。公使らの感情もそうなのかどうかの問いである。
 で、それに対する返答が以下のもの。

(「同上」p47)

電受第一二四五号  廿八年十一月十日午后六時四十五分発  九時三十分接

                                          井上大使
                                          小村公使
   西園寺大臣

目下京城の情況不穏、国王の身辺危険に迫り居るとの恐れを以て、既に電報せし如く、各国公使等は我兵を以て速かに宮城を護衛することを市きりに勧告し居れり。併るに将来の紛擾を避くる為め我政府は此際兵を動かすは好まず、力めて穏和手段を以て善后の処分を国王に勧告する意を彼等に内告したるに、殊に米国公使は頗る失望の体なり。外国公使等は善后の処置に付きては単に国王に勧告するに止まらず、兵力を以て第一国王を護衛し、十月八日前に復せんことを望めり。
就ては、之を実行せしめんとの熱心なく、又、各国公使等は先般の事変に我公使関係したるを以て、当時の政府一統最関係者を排除し、善后の処置を施行するは日本人に於て徳義上の責任を有し居ることは免がれずとの意見を有し居れり、故に我れ独り各国公使と共同の策を採らず、茲に手を引くが如きは将来の為め反て不得策には非ざるかと思考す。
又、大院君、趙義淵、及権濚鎮、権在衡等は結託して宮城に詰め切り、国王を強迫して王の意にあらざる勅令を出し、王の言行を束縛し居るに付き、今后如何なる事変を再び惹起すやも斗り難しと各国公使等は懸念し居れり。
本日貴電の如く彼等の勢い目下益々増長するの畏れなしとせず。三日前に閔泳駿を捕縛し且つ米国公使館近傍に潜伏し、以前王妃に親しみ居りし宮内府官吏等に巡査を付けたるが如き処置に依り、各国公使等、遂に国王の身上にも危害を生ずるならんと心配し、尤も、井上大使は既に金総理に勧告し、昨日閔泳駿を解放し且つ巡査を撤回したり。
米国公使は小村に密話したるに左のことを以てせり。

若し我兵士を以て速かに宮城を護衛することに至らざれば、露国は之を口実として或は露国水兵を王城に入れ、内政に干渉するの端緒を開くの底意には非ざるやと想像す。

万一此場合に遭遇するときは、米国及び英国の感情を頗る害し、今日迄米英両代表者の我れに対し表示したる好意を失うに至るやも知れず。尚、当地駐在の守備隊と衝突を惹き起すの畏れなしとせず。要するに国王に勧告を与うるに際し、我兵を以て王城を護衛せしむるにあらざれば、再び紛擾を惹起すの恐れあるを以て、我兵若干を王城に入れ、国王の真意を吐露せしめ、彼れを護衛し、暫時の安寧を保つ為め必要なる手段と思考す。

  [右、伊藤総理大臣へ通知済]

 外国公使はなぜこのように国王高宗のことを心配するのであろうか。王妃は亡き人となったにしろ、形としては前年7月23日の大院君が補佐して新体制となったことと殆ど同じである。ただ国王の身柄に関して言えば、その時と違う点は大院君にしろ家臣たちにしろ、当時は日本政府の指導下にあり、大鳥公使や井上公使が王宮内の協和こそ望んでいたのは明らかであった点である。それが日本政府の指導の手は離れ、ついに「(王妃殺害の)兇行の張本は朕が侍臣及雑輩に由って醸成せられたり」と後々の国王の言にあるように、そんな者たちに囲まれていると思うしかない立場となっている点である。一度は国王暗殺をももくろんだことのある大院君は側にいるし、国王に取って代わろうとする意思をはっきり示した李呵Oもいる。まして王妃殺害は現実のものとなり、次はいつ自分の番となってもおかしくはないと国王が恐怖していることも想像に難くないことである。
 かつてシル米国公使が国王の人柄を評して、「国王のひととなりというものは、けっして堂々たる人物というのではなく、その性質は優しく弱く、他人をして哀れみと慈しみの情を起こさせる人である(「B03050001800」p26)」と言っていたようなことからもあったろうか。

 露国公使の場合はもちろん本国の対韓策略を考慮した上のことであろう。また米国公使の場合も、朝鮮における米国人キリスト教宣教に関する思惑もあるように思われる。
 一方、井上や小村としては、事変の責任を問われる苦しい立場に立たされているし、まあ、ここは外国公使と足並みをそろえるしかないと考えざるを得ないわけで。

 で、翌11日、西園寺外務から次のように電信。

(「同上」p49)

電送第八四三号  明治廿八年十一月十一日午後一時三十六分

小村公使                                          西園寺大臣

昨日、在日本露国公使の告げたる所にては、在朝鮮露国公使より本国政府へ電報を発し、日本兵を以て王宮を護衛せしめて宜布きやと問合せたるに、差支なしとの電訓を与えたる趣なり。
右は貴官心得までなり。

 在日露国公使によれば、日本兵を王宮に入れることを露国政府がOKしたらしいというのである。
 一方、それが届く前に、井上は朝鮮政府内の事情などを以下のように電信。

(「同上」p50、()は筆者)

電受第一二四六号 廿八年十一月十一日 午后〇時五十五分発  同 二時四十五分着

                                          井上大使
   伊藤総理大臣
   西園寺外務大臣

昨夜の長文の電信の如き事情なり。過る五日、儀式の謁見なすの外、内謁見申出でず。如何となれば、国王は心中、馨に事情と真意を陳述するを望み居るも、軍部大臣、警務使、軍部次官等、当時の親衛隊士官等と結託し居り。且つ大院君、李載冕等も同腹にて、国王より馨を呼ぶことを擁蔽し居れり。又我より内謁見を請わんか、国王にへんとうせいぞうしおきあるとう[(欄外)返答製造し置きある等]の事情故に若し強て謁見し、左右の人を払い、叛逆人等処分手段并に善後策を与うるも、退宮後は直ちに大院君等、国王に脅迫して其方案を明言せしむるは、疑を入れず。左すれば元の訓練隊士官等并に趙義淵警務使一身に罪の及ばんことを恐れ、騒擾を醸すか、又は内閣一同罪を惹いて辞職するかに至らんことを恐る。
右の次第なる故、金宏集、金允植も只手を拱いて如何なる騒擾も惹起さんも測られずとて、其処置に着手し得ず。兎角兵隊を以て王宮を護衛するにあらざれば、処置せしむるの着手の至難なるは各国使臣等も認め居る故、日本兵を以て先ず王を保護し、各国使臣一同国王に謁見し、其真意を聴き、趙義淵警務使等を処分せしめ、并に廃王妃、王妃の悪徳にかかる勅令を取消さしめ、王妃の喪を発せしめ、可成十月八日前の有様に惹き直さんとの意に有之。併し各政府の許可を各使臣等得たる上にて我政府も安心同意すにあらざれば、我公使も手段に着手する能わずと答えたるに付、各公使は本国へも電報を発し、其返電を待居る姿なり。抑も各国使臣等は、馨着するや日本政府は徳義上主導的に着手する為め渡韓したるならんと想像し居りたる由、談話し居れり。故に今日は少しく失望の体に見受けられたり。
右の事情に付、此侭滞在し居るも苦心多し。速に帰途に就ては如何。貴答を乞う。

 各国公使等が現行政府を認めていないことは明らか。しかし10月8日前の状態に戻したいって、これ完全に朝鮮への内政干渉になるんだが。
 もはや井上は、 もう帰ろうかなあと(笑) まあ、天皇勅使である慰問使という立場としては、表立って口出しも出来ないのだし。
 で、西園寺外務は、同日中に、上記連名と井上の電信に対して、箇条書きで次のように回答した。

(「同上」p52)

電送八四四号 明治廿八年十一月十一日 午後六時三十五分発

                                          西園寺大臣
   井上大使
   小村公使

昨夜、連名の電信并に本日井上伯の電信とも閲読せり。
右に対する回答左の如し。

第一 朝鮮に対しては帝国政府は去月二十五日、朝鮮と条約ある欧米各国政府に向て宣言せし所の旨意を貫くべき事。

第二 其地在留各国代表者の言論は、果して其本国政府の意旨なるや否を明らかにする事。

第三 右等各国代表者の言論は其本国政府の意旨なりとするも、我兵を動し、如何なる結果を生ずるとも日本政府は其責に任ぜずとのことに付き、予め各国政府より我政府に向い保証を与えたる後にあらざれば、着手すること能わざること。

第四 井上伯帰朝のことは、当地に於ては差支なし。但し其地の情況により決せらるべし。

 要するに、日清戦後に決定した対韓政策に照らしていささかもブレのない方針ということになる。それに、京城駐在の各国使臣の言論がはたして本国政府の主意に基づいているのかを疑っていることも窺えよう。はっきり言って内政干渉だしねえ。
 で、西園寺のその4ヵ条に対する井上小村両名による意見が次のもの。

(「同上」p53)

電受第一二四九号  明治二十八年十一月十二日午前十一時十分発  午后二時四十五分着

外務大臣
                                 井上大使
                                 小村公使

昨日、貴大臣より両名宛の貴電に対し、左の意見を具す。

 一、 去月二十五日、帝国政府が朝鮮と条約ある欧米各国に向け宣言せられたる電報中に、我占領地との交通線路を維持する為にする所のものゝ外、安寧秩序を維持し、我人民等を保護する為め朝鮮に我兵を駐屯せしむることゝあり。
然るに過日来電報せし如く、今回我兵を王宮に入るゝは全く安寧秩序を維持する必要手段に外ならざれば、右宣言の趣旨と毫も抵牾する所なきのみならず、却て帝国政府の意思を貫くことゝ信ず。若し然らずとせば、我兵を此の国に駐屯せしむるは何の為なるや、甚だ了解に苦しむ。

 二、 我兵を動かすことは当地在留外国公使が其本国政府の承認を経て公然勧告をなすに非れば着手せざる覚悟なり。
又、各国代表者の言論とあるは、今回の事変に関する処分につき、国王の真意を聴き、反逆者の処分、又は善後策を勧告する等も、逐一各国政府の承認を得るを必要とするの意なるや。果して然らば電信の往復にては其意を悉し難からん。
左すれば追々電報せし如く、目下切迫の事情に応じ安寧を維持する能わざるの虞あり。

 三、 右等代表者の言論は、其本国政府の意思なりとするも、我兵を動かし如何なる結果を生ずるとも日本国政府は其責に任ぜす云々とあり。
然るに既に兵を動かす以上は全く其責を任ぜずと云うことは出来ざること故、独り其責に任ぜず、各国政府と其責任を分つ外なしと信ず。尤も、此事に付き、我政府に於て予め各国政府の保証を要するの義ならば、正当の手順を経て我政府に於て各国政府と交渉せらるゝことを至当と信ず。

 おやおや、井上・小村は米露公使の策略に乗るつもりなのか(笑)
 前後の資料から考察すると、どうも井上よりも小村の方が外国使臣の意見にかなり肯定的であるように思える。

 で、その露米英使臣が述べた意見が次の報告に。

(「同上」p62)

    電信訳文 廿八年十一月十三日午前五時発   九時五十五分接

                                           小村公使
  西園寺大臣
第百八十八号

米露英三国代表者は今朝[十二日の朝ならん]本使を訪問せり。露国代表者は其一己の意見なりとし、左の如く述べて以て談話を初めたり。

曰く、余が朝鮮公使の位置に任ぜられたるとき余の受けたる訓令は、朝鮮の平和安寧及び朝鮮国并に国王の福祉を増進すべし、と云うにありて、余は該訓令を施行する為めあらん限りの力を尽せり。然るに他の一方に於ては、朝鮮国の平和は屡々日本国の為めに傷けられたり。第一、明治廿七年七月二十三日、日本軍隊が王宮を囲みたること、第二に大院君を其邸宅より王宮に移したること、第三、朝鮮人の嫌悪する所の朴泳孝を内閣に入れたること、第四は、十月八日の事件にして、其節には現に職務を帯びたる所の陸軍士官及日本国公使館も之に関係せり。之を要するに朝鮮国目下の形勢は日本国の行為より来りたるものなり。随て余は日本政府に於て自ら進んで秩序及旧態を回復すべき処置を取らんことを期するの理由あり。然し余は本月五日、小集会の結果を本国政府に電信したるに、本国政府に於ては本件に関し、日本政府に於て執らるべき何等の手段も之を是認するに躊躇せず、且つ王宮保護の為め日本兵を用ゆることに付、異存なしとのことを陳述するの委任を受けたり。右の事情なるが故に、余に於ては必要の処置を執ることは日本国政府の職分にして、日本政府に於て何等紛議を虞るべき理由なしと思考す。

合衆国代表者曰く。
若し、日本政府に於て当地に代表者を置く所の各国皆是認する迄、提議の処置を執らずとの決心なれば、右は実際に於ては一切の処置を執ることを日本政府に於て拒むに当る。何となれば、該各国の或る者は朝鮮に於て何等の利害を有せず。且つ米国政府に於ては顕然とは是認を与うることなかるべし。併し余が提議の処置を勧告するの行為は米国政府の是認を受くべしと思考す。

英国代表者曰く。
余は日本兵を用ゆることを勧告することに付、訓令を請わざりき。若し英国政府に於て斯の如き処置を是認するや否やを確むること必要なれば、日本政府より其筋を経て確かめらるべき筋なり。

英国代表者は、全く旧態を回復することを可とせざるが如し。彼は大に旧態を変更せざるを得ずと云えり。
三国代表者の意見に於て如何なる差異ありとするも、左の一点に於ては皆同意なり。
即ち日本政府は一時日本兵を以て王宮を護衛し秩序を回復し、国王の安全と自由とを鞏固ならしむる為め、率先の処置を執らざるを得ずとの一点なり。而して前記の一時なる文字の意義は、日本兵が王宮に駐まること、国王若くは外国代表者に於て不必要なりと認めらるゝまで王宮に駐まるべしと云うにあり。

本使は各代表者に向い、本件に関する彼等の意嚮をも本使より本国政府へ電報すべしと約せり。

 露公使のこの言い分、今でも同様なものが巷にあるよねえ(笑)
 しかし、ここに至った最大の責任は、清国にあり、自国の兵すら養わなかった腐敗政府、閔政権が外国兵を引き入れたことにあり、日本の条約履行要求を無視したところに7月23日事件があった。よって大院君なければ閔党排除は出来ず、朴泳孝を入れたのもそもそも王妃なんだが。それに10月8日事変を醸成したのは、この露公使の甘言によって王妃が露国を頼り、内政改革の重要性も理解せずに、再び閔氏一族による専制政治復活を目論んだことが原因なんだし。小村はそこらへんをちゃんと反論したんだろか。ま、できないか(笑)
 かくて、露公使による親露政権工作はいよいよ露骨に。
 一方、米公使も、利害の絡んだ個人的な思惑(キリスト宣教とダイ将軍の復職)があることを強く感じられる意見と。そもそも、米国務大臣は10月22日頃に米国駐在栗野公使に対して、「朝鮮現政府承認云々に関し、在韓外国使臣の執りたる措置は笑止なり(「B08090168100」p27)」と言ったぐらいであるから、シル公使が日本兵護衛問題で本国政府の承認を得るのはまず無理なこと。

 で、再び井上小村の連名でそれについての意見を上申。

(「同上」p58)

電受第一二五〇号  明治二十八年十一月十三日午前五時発  七時十分着

                                          井上大使
                                          小村公使
   西園寺大臣

本日、小村より電報せし如く、露、米、英、三国代表者の意見にては、日本国政府は善後の処置に関し、自から進んで朝鮮政府に勧告するの責任を有せるものとみなせり。
抑も日本国政府が日清戦争開始前の宣言に依り朝鮮の改革を実行せしめ、其独立の基礎を鞏固ならしむる為め充分立入りて種々の勧告等を為したることは、固より我政府の意思に出でたること疑いをいれず。然るに今回の事変より遽かに全く関係を絶ち傍観者の地位を占めんとするは、極点より極点に移るの所為にはあらざるか。又、十月廿五日附を以て帝国政府が欧米各国に宣言せられたる電報中に、日本国政府は朝鮮が遠からず独力を以て其秩序を維持し且つ外国人を保護し得べきことを希望す。其場合に至らば右の目的を以て朝鮮に駐屯せしむる所の我兵を撤回すべしとあり。
此趣意に依るも事変後の秩序を維持するの手段を執ることは、我徳義上の責任にはあらざるか。斯くすれば将来の関係を深くするの恐れあれども、一先ず秩序を恢復したる後、撤兵して関係を絶つの時期を失するの恐れなしと信ず。
若し当地在留各国代表者の保証のみにて不充分と認めらるゝならば、英国代表者の言の如く、帝国政府に於て関係ある各国政府へ意見を直接に御問合せ相成りたし。
此際一歩を誤れば、用意ならざる結果を生ずるの恐れあるを以て、とくと御熟考の上何分の回訓ありたし。

 結果から言えば、米露公使が要求するままに、もしこの時に日本兵を護衛として王宮に入れておれば、後の国王のいわゆる露館播遷は起きなかったと思われる。皮肉なものですなあ。

 で、西園寺もまた判断がつかず、伊藤総理に尋ねることになる。(「同上」p68)
 そして、大磯の伊藤はそれに以下のように返答。

(「同上」p69)

電受一二五二号  明治二十八年十一月十三日午前十一時十三分発 午后〇時十五分着

西園寺大臣                           陸奥大臣

左の通り伊藤総理大臣より
昨日、井上小村達両名にて貴大臣宛達したる電信中の三箇条の意見に対して、是迄の我が方針を貫ぬく様、御訓電ありたし。
就中第一条の如き主意に対しては、我政府の意向と全く反する趣をも御訓示あるべし。
又、井上は成るべく早く京城を引き取る様御勧告ありて然るべし。
又右の趣各大臣大本営等へは知らせ置くこと肝要なり。

 井上の影響力を恐れた伊藤は、井上は帰りたいと言っているんだから早く帰らせろと(笑)
 で、その返電が来るまでもなく、井上は帰国を決心したことを報告。

(「同上」p70)

電受第一二五三号  明治二十八年十一月十三日午前十時三十分発  午后四時着

                                井上大使
   西園寺大臣

小村公使電報せし三国公使、昨日の意向と我政府の意思と大に相違し居る故、朝鮮政府の閣員等より屡々拙者一己人の意見を聞かるゝも答うる能わず。又個人的考えをを以て各国公使等より意見を聞かるゝも同じく答うる能わず。何れへ向ても意志を発するを得ず。最早滞在は無用と、困難の地位に立てり。尚王宮又は政府内の混雑したる情実並に外人等の感情に就ては電信位にて御了解は難かるべし。其真相を報告傍二三日中出発に決意したり。
就ては十六日迄に御用船仁川迄御廻送の義御計らい有りたし。返電を俟つ。

 実は井上がほとんど個人的な意見すら言ってなかったことがこれで窺えよう。まあ、訓令がそういうことだったし。
 で、西園寺が返電。

(「同上」p71)

電送第八五二号  明治廿八年十一月十三日午後五時三十分発
井上大使                          西園寺大臣

今朝発の貴電接閲せり。目下閣下が困難の地位に立たれ、御苦心のほど察するに余あり。御申越の通り目下の形勢非常に入り組み来り。電信位にては真相を審にするに苦むゆえ此際閣下の御帰朝は最も望む所なり。御用舩廻送のことは速に其筋へ掛合うべし。

 ちょっと電信では説明できないってのは、案外、複雑な事情というよりも、小村がちょっとねえ、ということかも(笑)
 しかし、そんな井上の電信を知らない伊藤は、もう井上が無茶しよるに違いない、と思い込んで再び電信(笑)

(「同上」p73、()は筆者)

電受第一二五四号  明治二十八年十一月十三日午后七時四五分発  八時四〇着

                           大磯 伊藤総理大臣
   西園寺大臣

井上小村両名の電信見たり。其旨意は右両人が従来言い越したることを繰返したるに過ぎず。之に因て我政府の当初の意見を変ずるの価値なし。故に貴大臣は昨日御面談申したる通り、及び今朝本大臣より申進したる主意を以て、速かに御電訓あるべし。
井上大使出発前に我廟議のある処、即ち今回の事変后は我国が朝鮮に対する政略は「アクチーブ(主動的)」の事を為さずとの事は、同大使も充分承知しある筈なるに、今更日本が自から進んで善后の策を執る如き事を申し越したるは、殆ど解すべからざる事なりとの意味を以て井上に申し遣わされたし。

 いやまあ、日本政府の方針は井上も充分承知してると思うよ。
 しかし伊藤は、西園寺が果して電信打ったかどうかまで疑い、わざわざ陸奥から電信課長へ命じさせる(笑)

(「同上」p74、()は筆者)

電受第一二五五号  明治二十八年十一月十三日午后七時四五分発  八時四五分着

 佐藤電信課長                          陸奥大臣

昨日露公使が西園寺大臣に話したる、井上大使が「イニシエチーブ(主動的)」を執り朝鮮善後策を行わんとしたり、との談話の顛末は既に井上大使に電報したるや否や。若し未だ発電せざれば速かに発電取計われたしと西園寺大臣に言うべし。
右、総理大臣より。

 伊藤総理、少々あせり過ぎ(笑)
 そして、話はややこしくなる。

 さて、西園寺はその日に、駐日米国公使エドウィン・ダンに以下のような手紙を送付。朝鮮のシル米国公使の言動へのけん制である。

(「同上」p77)

 廿八年十一月十三日 西園寺大臣より米国公使へ談話筆記

在京城米国公使は其同僚を代表して、目下国王は全く王宮護衛兵及軍部大臣并に他の過激なる官吏の掌中に在り、故に日本兵を以て王の危急を救い、護衛兵を宮外に駆逐すること目下の急務なり、とて此事を我公使に請求せり。然れども、我政府は、目下兵を動し忽ち紛乱を生ぜしことを恐るゝが故に之を承諾することを欲せず。且已に各国に向い其内政に干渉せざることを宣言せし以上は、斯る矛盾の事を為し、他日非常なる責任を負う事を欲せざるなり。此議に付ては已に総理大臣と北白川宮会葬の時、御話ありたる由、貴意の在る所は同大臣より承諾せり。
右に付此事情を右朝鮮貴国公使え程能く御通知下さることを得ば幸甚なり。然しながら是は強いて願う事には之なし。
今般外国使臣の請求は各本国政府の訓令に依るものか、又は国王陛下の依頼に出たるものか、との閣下の御尋に付ては、国王の依頼とも又各本国政府の訓令に基きたりとも見受けられず。但し旧王妃党抔の内にて種々国王の危険を説くものは或は之あるべし。又本国の訓令に基かざる事は、仮令ば貴国外務大臣が栗野公使へ談話の次第にても察することを得べし。之を要するに日本政府の兵を動かすこと能わざる所以は、其為め延いて更に目下の平穏を破ることあらんことを恐るゝなり。此等の次第は公然となく閣下迄御話し致置く訳なり。如し幸に在朝鮮貴国公使へ御通知下さるゝならば、本大臣よりの依頼となく閣下の御注意として申し送られたし。

 なぜか談話筆記となっているが実際は英文の書簡である。
 で、シル公使の言ってることは本国の訓令に基づいてないんじゃないの、と。日本政府としては干渉しないと宣言しているし、責任も負えないと。
 で、伊藤からは次のように西園寺に電信。

(「同上」p79)

電受第一二五六号 明治二十八年十一月十三日午后九時三十分  九時五五分着

                             伊藤総理大臣
   西園寺大臣

只今貴柬落手せり。就ては昨日露公使より貴大臣に示したる電信及今日仏公使との御談話は、在京城仏領事より本国に発したる電報より察すれば、全く井上大使が我兵を王宮に入るゝの張本たりと認められたること明かなり。
故に貴大臣は右両公使との談話の大意及露仏両公使の貴大臣に示したる電報写を井上小村に転電せられ、井上が今日の所論を固守し在京城各国公使に対するは、我政府の主意に違うのみならず、甚だ危険の地位に陥いるの畏れありとの事を速かに電訓せられたし。

伊藤公、井上や小村の言うことよりも、露仏の公使領事の言の方を信ずるの場面(笑)

で、先ほどの駐日米国公使ダンから西園寺宛に、「言われたとおりに京城シル公使に電報するけど、これでいいですかー」と返信。

(「同上」p81,p80、()は筆者)

United States Legation, Tokio.

      Nov. 14. 1895

Dear Marquis Saionzi.
  I enclose with this the reading of a telegram I propose sending today to Minister Sill. Please let me know if it conveys correctly the information you imparted to me informally in our interview yesterday. If it does not I shall alter it before sending.
Yours very sincerely
    Edwin Dun

[(欄外)廿八年十一月十四日 米国公使書中へ封入の附属書]

  Reading of Cipher telegram to be sent to the U. S. Minister at Seoul.

          ――――――――     
  The Japanese Minister for Foreign Affairs has informed me unofficially that the Japanese Government is unwilling to assume the responsibility of occupying the Royal Palace with Japanese troops, Fearing that such action would bring about serious complications and disturb the existing tranquillity in Korea.  Also that such action would be inconsistent with the late declaration of Japan to foreign Powers of non-interference in Korea.
          ――――――――     

 で、シル公使への電信の一部を書いて、「日本外務大臣が、日本軍の王室占拠のことで日本政府は責任を負う気はないと言った。そして朝鮮の平穏を妨げることになるのを恐れると、また、そのような行動は、朝鮮に対しては不干渉という日本政府の宣言に矛盾することだ」と。

 西園寺は直ちに「many thanks」と返信。
 なお、米国は朝鮮のことを一貫して「Korea」と表記している。日本はこの頃は「Corea」と書くことが多い。

 さて、先ほど伊藤総理が命じた、井上小村への西園寺からの電信である。

(「同上」p83)

電送第八五四号明治廿八年十一月十四日午前一時十分発
電信案

 井上大使                        西園寺大臣
 小村大使

本月十二日、露国公使に面談せし時、露国公使は在韓露国公使「ウェーバー」と其本国政府と往来の電信を示せり。

 ウェーバーより露国政府に発電して曰く。
 井上伯は、叛逆党の掌中に在る朝鮮国王を自由にならしむる為め、暫時王城を占有すること必要なりとの意見なり。尤も、同伯は此の為め各国と紛議を惹起すことを恐れ居れりと。
 因て露国政府は之に向て電答して曰く。
 国王の身を自由ならしむる為めには同公使[ウェバー]に於て可とする所の総ての手段を執ることを承諾すと。

右に付、露国公使は王宮を日本兵にて護衛することは井上伯の動議より起れりと思い居たるなり。然れども是迄閣下并に小村公使よりの電報に依れば、閣下等より是等の事を発議せられたることなしと信ずる故に、露公使に向ては井上伯より如此動議を起せしことなしと答え置きたり。然れども、斯る事実は関係する処、実に重大なるを以て極めて明瞭に為し置かざるを得ず。
又、本日、仏国公使に面談の節、在朝鮮同国領事より本国政府への電信を示せり曰く。

 多数の外国代表者は再応井上伯に向て、王宮に在る朝鮮兵を解除することを請求せり。井上伯は日本兵を以て王宮を護衛することを条件として、之に承諾すべしと答えたり。代表者は、井上伯が京城の安寧秩序を保つことを請合わるゝならば条件に反対せずと答えたり。

右に付、仏公使も亦閣下は主動的行為をなす事を欲せらるゝ如く想像し居れり。若し万一にも「ウェバー」及仏国領事の報ずる所事実なりとせんか、右は啻に我が政府の主意に背くのみならず、甚だ危険の地位に陥らんとするの恐あり。事実明かに回電ありたし。

 案の定、露公使ウェベルと米公使シルの策略だったと思われる。電受第一一七〇号の小村からの報告にあるように、彼等が日本兵を王宮に入れるように言ったのは、まだ井上が京城に到着していない10月25日なのだから。
 西園寺の電信は2回に分けて送られた。その2回目のが次のもの。

(「同上」p87)

    電送第八五六号明治廿八年十一月十四日午前十一時四〇分発

 井上大使                        西園寺大臣
 小村公使

閣下等連名の電信二通并に小村公使の横文電信接手せり。
今回の事変後は主動的行為を執らずとの我政略は、井上大使は出発前より十分に承知せられたることにして、其後数度の電訓によりても閣下等に於て明なることゝ信ぜり。然るに今更自ら進んで善後の策を執らるゝが如きは、本大臣の了解に苦む所なり。
就中去る十二日連名の貴電の第一項に述べらるゝ所の如きは、全く我廟議に反するものにして、急激に我兵を動かし危険を顧ざるが如きは、則ち安寧秩序を維持する必要の手段となること能わざるなり。本大臣は独英米仏露五ヶ国の公使に面会し、左の如き談話をなせり。

事変後、東洋の情況は先ず静謐なるが如し。然るに在朝鮮米国公使は其同僚を代表して我公使に請求するに、日本の兵力を以て在権[けんりょくのけん]の人々及び王宮護衛兵を追出し、国王の危急を救う等のことを以てし、又朝鮮国を十月八日以前の情体に恢復せんことを求められたり。然れども我政府の見る所を以てすれば、急激に兵を動すは却て危険の甚しきものにして、延いて禍乱の及ぶ所実に恐るべきなり。且十月八日以前の情体に復せんと欲するが如きは、非常の干渉を以て之を実行するに非らざれば為し能わざる所にして、嘗て我より各国に向て宣言せし趣意に反するや明なり。然れども各国より公然我に依頼ありて我をして他日の責に任ぜしめずとの儀ならば、其は論外なり。要するに我政府の執る所の方針は区々の議論は姑く措き、朝鮮国に於て更に紛擾を生ぜしめざることを務むるにあり。

右等の意味を以て各公使に談話せし所、露公使を除く外、大体我の意見を以て当れりとなせり。特に米公使の如きは曰く。
一国の使臣が本国の訓令なくして他の一国の使臣に向い兵動かさんことを請求するが如きは、実に想像し能わざる所なりと。
又、独逸公使の如きも、一度兵を動かさば夫より連環して、来る所の責任は深く慮らざるべからずと。
偖て各国公使は或は本国、或は京城へ、我政府の意思を通ずることを約したり。
熟々在朝鮮各国使臣の言論を察するに、本国政府の意思と齟齬する所あるが如し。閣下等は深く将来の責を慮られ、我政策の軌道を逸せざることを勉めらるべし。

  「在朝鮮各国使臣の言論を察するに、本国政府の意思と齟齬する所あるが如し」と。
 西園寺には見えてますねえ。
 しかし井上小村にしてみれば、露米仏使臣の言い分にカチン!(笑) 以下のように釈明した。

(「同上」p95)

電受第一二六〇号 明治二十八年十一月十四日午后七時五五分発  十五日午前二時十五分着

  西園寺大臣
                               井上大使
                               小村公使

本日の貴電に関し、馨は決して我より我兵を以て王宮に入るゝ事に就き、主動的の発議を為したる覚え更になし。最初より露米英代表者よりの発議に付き、追々政府へ電報せしのみに付、事実を確むる為め今朝小村及び井上書記官を以て、露英米公使に面会せしめ、其事実を確めたるに、左の如し。
露国公使に質問せしに同公使答えて曰く。
 本月五日、其本国政府へ発したる電文は左の意味にして、本月十二日、貴外務大臣と在東京露国公使と面晤の折、同公使が貴大臣に示せし電文と其意味を異にせり、即ち、
 同日日本公使館に於て各国代表者と会合したり。其結果は、十月八日以前の事態に恢復するに兵力を用うることを必要と認むと決議せり。此決議に対し井上伯は同意を表せられ、併かして日本国政府へ電報すべしと云われたり。

右電文は露西亜語を用い、東京にて露国公使が他国語に翻訳せしより、或は斯る誤解を生せしならんと想像し居れり。依て右誤解を拒く為め、本日更に在東京露国公使へ発電すべしと、露国公使は答えたり。

米公使曰く。井上伯に於て主動的の行為を執らるゝは最初より各国代表者の希望する処なれども、之を承諾せられたることなし。日本兵を以て王城を護衛することに関し、同伯が動議を提出せられたることなきは確認す。

右は、反て各国使臣を代表し、両回迄も同伯に向け頻りに之を勧告したるなり。
又、仏国領事は井上伯到着以来、会議等へは一回も列したることなし。然れども尚誤解の点を明日にも小村より質問し置くべし。

右の次第にして、本官等は過日来発電せし通り、毫も主動的発議を為したることなき旨を断言す。
井上伯は十六日、当地出発、十七日南越丸に乗り込み帰朝する筈なり。

 ウェベル曰く、翻訳間違いだろうと。しかしこれ明らかに誤魔化しだよねえ(笑)
 仏領事は各国使臣会議をさぼってたくせに、出席した風に本国に報告してたようで(笑)
 シル米公使は、ダン在東京公使から先の電報が来てたのかも。

 三国干渉の項で述べたが、実はおぞましいんだよねえ、西洋列強国の連中の外交駆け引きって(笑) 日本はというと、正直の上に馬鹿がつくくらい(笑)で 伊藤公もそんな傾向があるかも。露仏の公使領事の話をすぐに真に受けるようじゃあ、井上が帰国したら、「俊輔ーー!」と怒鳴られるかも(笑)

 さて、この後、英国政府は同領事に対して朝鮮問題で口出しをしないように命じ(「B08090168300」p79)、独国政府も領事に同様のことを命じた(「同上」p76)。米国政府はすでに国務大臣からシル公使に日本政府の方針を伝えてあるし、また露国政府としても主動的には動けないことである。当然、露公使が日本兵を利用しようとする画策もこれ以上は進めようがない。
 つまりは、ウェベルの策略は失敗したと言えよう。

 で、日本兵を利用して10月8日以前に戻すことが出来ないとするなら、別の兵力をもって王宮を占拠するほかはない。これがすなわち、11月末の春生門事件である。

 

 

井上の帰朝、朝鮮政府の善後策

 さて、11月16日、井上大使は京城を離れて帰国した。
 18日、金宏集総理は小村公使を訪ね、以下のような談話をしている。(「十月八日の事変善後始末」より)

金総理 「井上大使は善後策に関して何らの訓誨をも与えられないまま出立されたのは、甚だ遺憾に思うところである。しかしながら何か申し残されたことはないのだろうか」
小村公使 「無い」

 それで金宏集は小村に意見を求めた。

小村公使 「本官は一個人としてしか意見を述べることは出来ない」
金総理 「それこそ干渉とならないので却って都合がよろしいと思う」

 小村は先ず金宏集の意見を尋ねた。

金総理 「大院君を王宮から外に出すこと。王妃を復位すること。関係者を処罰することなどとしたい」

 小村はそれに同意の旨を告げ、なお趙軍部と権警務の二人の免官のことを尋ねた。

金総理 「それは実行することは難しい」

 小村はそれに対し、

小村公使 「趙権二人の免官の事は、大院君の退闕、王妃の復位、犯人の処分と併せて善後策中、最も緊要なる条件であるので、政府は最も急速に以上の諸件を断行せねばなるまい。そして政府が自己の独力で進んでこれをすることが特に緊要である。なぜならば、朝鮮政府がもし今日迄のような何もしないままただいたずらに時日を経過させる時は、遂には他国の干渉によってその処置をすることに至る恐れが充分ある。万一そのようなことになれば、どの点にまで関係が及ぶかも計りがたいことは勿論、政府自体の存廃すら疑われよう。政府たるものは今まさに断固とした処置を自から進んで行わないなら、後日に悔やんでも悔やみきれないことになろう」
と強く説得した。

 井上大使は金総理らに対し何も指示しなかったと。
 まあ、皇室派遣の慰問使としての井上がどうこう指示するわけにもいかないことでしょう。で、小村は訓練隊に命令を下した軍部大臣と警務使の処罰を求めたと。そしてその事を含めて以下のように朝鮮政府は決行した。

 

 

廃妃取消し、王妃復位

 引き続き上記資料から。

 その後のことは兪吉濬の語るところによると、金総理らは大院君を王宮外に出すことを内閣に計ったが、超軍部、権警務使の2人もこれに熱心に賛成した。おそらく2人は事変の罪をすべて大院君にかぶせるつもりだったらしい。
 さて、内閣では大院君を王宮から出すことに決議したが、これを実行するのに、前もって大院君に知らせずに国王に上奏するわけにもいかず、それで先ず金允植外部大臣から大院君に内話させることになったが、金允植は直接大院君に面話することを避けて、宮内大臣の李載冕を通じて告げさせた。しかし宮内大臣から大院君に告げた言葉の中に、「大院君を退闕(王宮を去らせること)させて厳重に監禁すべし云々」などとあったために、大院君は激怒して直ぐに国王に訴え、国王もその不敬の言葉に怒った。
 ところが、趙権の2人は、やむを得ない場合は強制的にでも大院君を退闕させようとして、二三日前から大院君警護の巡査を20名から40名に倍増した。当時大院君は趙権2人の意中も知らず、ただ不審に思って国王にもその事を知らせていたが、それが今度その閣議の次第を聞いて、大院君国王共に大いに憤怒したという。
 その結果、大院君は、趙権2人を処分せねば自分の身が危ういと思案し、またその2人も大院君を抑えねばどのような目に遭うか分からないと考え、共に双方が相手を疑い恐れる姿となった。
 やがて趙権2人が実力行使に出るとの情報を得た小村公使は、2人に対して、今はそのようなことをしてはならないと強く説得して、事件とならないように努めた。

 24日早朝、兪吉濬が公使館に来て言うのに、政府は事変の善後始末として、大院君の退闕趙権2人の免職王妃の復位犯罪人処分の四つを決行する計画であり、それで明日25日、国王から各国使臣に相談されるはずであると述べた。それで、小村は、その計画はたいへん結構であるが、もし仕損じるようなことがあれば、再び騒擾となる恐れがあるので、充分に用心してするべきであり、特に訓練隊の動揺を予め防いでおく手立てを取っておくことが緊要であると諭した。
 同日、米書記官アレンが小村を訪問し、昨日露公使が国王から相談を受けたことに、その四つの件のことがあったと述べた。
 それで小村はアレンに対して、あらかじめ各国使臣で打合せをしておきたいので、各国使臣臨時会を開くようシル公使への伝言を依頼した。

 25日、米国公使は臨時会の通知を発し、同日に一同が米国公使館に会集した。
 会議の目的は、事変の善後策に関して国王から各国使臣へ何らかの相談があるだろうと聞いていたので、予めその答えを議定しておくことであった。

 その第一は王妃復位のことである。露国公使はこれについては答えは必要ないとの意見を述べた。そもそも廃妃令を国王本意のものと認めていないからであった。しかし小村は、「廃妃令を外国使臣が認めると否とにかかわらず、国民に対しては有効なものであるのはもちろんであり、ならば国王がその廃妃令を取り消して王妃を復位させようとされるのは、自分たち各国使臣の希望に副うものではないのか。もし国王から相談があれば、至って当然のことであると思いますとの意を答えるのは当然のことであろう」と論じたところ、多少の異論はあったが、結局は小村の意見に帰着した。

 次の議題は、大院君退闕のことであったが、これには皆は冷淡で、もし格別困難なことなく実行できれば、それに越したことはない、というぐらいの意見に止まった。

 次に趙権2人の免職と犯罪人処分の件に移ったが、各国使臣は、現政府にはそのようなことが出来る実行力はないので評議しても無駄である、と言わんばかりで、殆どこの問題も話し合われなかった。
 とにかく明日の謁見の時に、謁見控え所で更に打合せをしようと決め、皆は明日に国王から相談があるかどうかも半信半疑のまま閉会した。
 その日夕方、金外部大臣から翌日午後に参内されたいとの通知があった。

 26日、各国使臣は登城し王城内控え所にそろった所で、外部大臣が一枚の書類を皆に示した。それが王妃復位の勅令であった。見ると、副署大臣中に趙軍部の名が見えないだけでなく、魚度支が署理軍部大臣として記名していた。それを外部大臣に尋ねると、趙今2人は免官となったと答えた。
 それで使臣一同は、国王から何の相談もないまま既にそれが決行されたことに意外の表情を見せた。
 更に次のように話し合った。

米公使 「廃妃のことは前から陛下の真意ではないと信じていたが、この詔勅によってそれを確認できたことは満足である」

露公使 「廃妃令の有効無効の議論を提出するべきである」

小村公使 「この詔勅に対する挨拶としては、廃妃令が陛下の真意であったかどうかや、或いはその有効無効のことまで深く立ち入る必要はない。王妃復位のことは皆が前から希望していたところなので、単に『この通知に接し、たいへん満足の意を表します』と言うのが妥当であると考える」

英独仏代表 「それに同意する」

 それで米露公使らには多少の議論があったが、結局はこの折衷案に帰着し、米国公使が一同の代表としてその挨拶をすることとし、他に意見があるなら各自で言上することに決した。
 また、大院君のことについては、露公使がそれを決行させるよう促すべきであると、意見を述べたが、熱心に賛同する者なく、小村が、一度にいろいろの大事を断行させるのは、かえって自分たちが希望している安寧秩序の維持に有害とならないか懸念するので、他日に提議した方がよいのではないかと論じ、一同はこれに同意した。

 追って謁見となり、米公使が総代として挨拶し、更に米露の公使から挨拶をして一同引き取った。

 英米露独仏の各国使臣の中で、とりわけ米露公使に他と比して何か違和感のようなものがあることが伺えると思う。この時既に旧王妃派による王宮襲撃準備が進行していた。露公使と米国人が関係していたことは否めない事件であった。

 なお、訓練隊の動揺を防ぐ手段としては、国王は10日8日事変での訓練隊兵士らに罪は無いと宣言し、あわせて護衛の労を慰謝して将校を謁見した。これで兵士らは深く恩を感じたという。
 また、趙権2人の免官のことは、各国使臣が王宮に来た後に突然実行されたが、これで2人が不快を感じたとはいえ、彼らも事変に対する政府の善後策の事情はよく承知しており、やむを得ないなら自ら身を引く意向もあったことから、政府を怨むこともなかった。また、現行政府と運命を共にするほかない事情も充分承知しており、政府も2人を慰撫するために様々な手だてもとったので、この事が機に破れを生じるような恐れはないと判断された。(「同上」p79)

 

露館播遷の工作と失敗

 さて、10月8日王城事変によって逃走した王妃派と露米派が、政権の巻返しを図ろうとして王宮を襲撃した11月28日の春生門事件であるが、そこに至る経緯を、事件後の報告や調査資料から再現してみたい。(資料原文は別頁「11月28日春生門事件関連資料」)
 まず、王宮襲撃前の工作として、1ヶ月前の10月29日頃に以下のようなことがあったと前警務使の権濚鎮は述べている。原文

 かつての侍衛隊副長玄興澤は、自分の腹心である王宮内官姜錫鎬の手を経て、黒衣2着に書簡を附して国王に贈った。
 その文中には、「今日から露国公使ウェーバー、米国書記官アルレンの2氏は、王宮参内の時刻を、たとえば今日が2時なら明日は4時というように、だんだんと遅延し、最後には黄昏時になって参内して乗輿を宮殿の直ぐ側に置くので、陛下には黒衣を着て露使の輿に、世子宮も同様にして米書記官の輿に、それぞれ乗られて落延び給え」とあった。
 ところが、姜錫鎬は事の顛末を普段親交ある他の内官に打ち明けたことにより、その内官はこれを徐光範に報せ、徐光範はこれを内閣に於いて議した。よって閣僚は宮内大臣から国王にその事実を尋ねさせたが、国王は姜錫鎬が言葉を慎まなかったことを叱責するに至った。

 朝鮮では秘密を守るのが難しいとは既に知られたことだが、こんな極秘のことまでぺらぺら喋るとは(笑)
 しかしこの工作は後のいわゆる露館播遷の手口と同じである。この時露見していなかったら数ヶ月早まっていたことになろう。

 その後、権警務使、趙軍部大臣は、露米使臣の動向を注視していたが、はたして玄興澤の文中にあった通り、彼等の参内時刻は次第に遅れだし、またその乗輿も段々と宮殿近くに置かれるようになった。ついに参内が日暮後となって乗輿も宮殿門に接近して置かれた。よって、門の歩哨を増やし士官も配置して警戒を厳重にした。
 その後、露米使臣はその様子から密謀が露見したのを知ったのか、以後は個別に2、3日毎に参内する姿となった。
 よって、宮内大臣から奏上させて言ったことに、「彼等の密計を信じて外国館に播遷などがあっては相済まないことであり、臣等は身命をもって王宮護衛の任に当っている。容易に玄興澤などのために欺かれて陛下を奪い取られるような迂遠の者ではない。とくに王宮を出るにはいくつもの門があり門兵がいて守備は厳重である。あえて軽々しく彼等の言に惑わされ給うなかれ」と。
 その後、内官姜錫鎬は王宮を出て王妃派である李範晋の元に遁れた。

 重大な機密ほど誰かに話さずにおれない朝鮮内官の性癖により、この時の露館播遷は見事に失敗(笑) まあ翌年2月には成功するのだが、確かに高宗の心は既にそこにあったと思われる。

 

クーデター工作へ

 で当然、次には兵力による実力行使を画策するのだが、どうも以下のように米国人キリスト教宣教師の言葉が発端となったようである。以下、権濚鎮の直話筆記から。原文

 11月初旬、軍部大臣副官参尉の金振聲という者が王宮で米国宣教師のアンダーウッドと遭遇。金はかつてアンダーウッドに就いて英語を3年間学んだことがあった。
 アンダーウッドは金に言った。
アンダーウッド「予は君が士官となったのを喜ぶ。しかしその着ている軍服は好かない」と。また言った。「予が住んでいる所を来訪してはどうか」
 金はこれを承諾して別れ、この事を趙軍部大臣に話した。
 趙軍部大臣と権濚鎮が相談することに、王妃派の李範晋ら一派は、宣教師と何事か計画する所があり、故にこれを幸い、金をアンダーウッドの所に遣わせて何かと探り出してはどうかと。
 それより金に万事を言い含めて翌日にアンダーウッドのもとに行かせた。
 アンダーウッドはすぐに金を応接間に通して言った。
アンダーウッド「昨日も話したように、予は君が士官となったのは喜ぶが、その服装はひどく好かない」
 ちょうどその時、同夫人が金を見て、「どうして見るのを好かない軍人が来たのか」と言って、しきりに人を呼んだ。そんな有様であったから、金は直ぐに辞を告げて、アンダーウッドが止めるのも聞かずに帰った。
 それで思うことに、金振聲が士官である間は彼等が謀略を洩すことはないだろうと。よって金の職を解き、平服姿でアンダーウッドに会わせた。
 アンダーウッドは喜んで迎え握手して優待した。
アンダーウッド「今日はどうして軍服を着ていないのか」
 「久しぶりに君を見たが軍服を悪んでいる。その後もなおそれが甚だしい。それで予が思ったことに、君が何かを憂慮することがあるのだろうと日夜杞憂した。それで先ず官職を辞めた。今は全く普通の人と異なることはない。願わくは昔のように師弟の誼を思い、予のためになるような道を説かれたら幸いである」
アンダーウッド「君の性格が非を去るに速やかであることを知って久しい。今は君の心が他にはないことを知る。君の為めにどうして本当のことを言わずにおれようか。現内閣員の内、趙軍部は警務使と協力して国王に自由を許していない。ほとんど君主を威迫している。これは君臣の道として正道と言えようか。必ずそのうちにこの順逆が定ることになろう。いや、逆臣は順臣に討たれ、君主が安全の地に置かれる日が来るだろう。もし君らが速やかに順逆の義を明らかにしなかった時は、終に逆境に陥る危機となるだろう」
 ここで金も趙軍部、権警務使を非難した。それでアンダーウッドは金をますます信じ、終に密計を打ちあけた。そして言った。
アンダーウッド「先ず安駉壽のもとに行き、同人を招いて来るべし」

 なお、アンダーウッドとは、プロテスタントで長老派の宣教師ホレイス・グラント・アンダーウッド(Horace Grant Underwood)のことと思われる。「アンダーウッド」は、資料原文では「アンダァウード」だったり「アンダーウード」だったりするが、ここでは「アンダーウッド」に統一した。
 さて、密計とは以下のように王宮に入って内閣を倒すことである。当然、軍事クーデターとならざるを得ないが、ある意味、趙軍部と権警務使が誘導したと言えなくもない。もちろん、相手に軍事行動を起させてそれを失敗させ、そして反政府の芽を摘取ろうとするような。

 それで金は安のところに行き、そのことを告げた。それに対して安は言った。
 「彼が予に用事があるなら自分で来るべきである。予は進んで彼の処に行くのを好まない」
 それで金は再びアンダーウッドのもとに行ってそれを伝えた。
アンダーウッド「それなら、王宮に入り国王を守護して内閣を倒すことについて、彼の意見を聞いてきてくれ」

 数日後、再び安駉壽のもとを訪れ、その伝言を伝えた。安は熟考して言った。
 「事は大変困難だろう。今の王宮内の守備は趙軍部の部下が多く、趙はこれを統率している。そのほか、警務庁の巡検は権濚鎮が主管し、王宮内外で相応して共にその実力は盛んである。容易に手は下せない。また内閣を破壊すべしと言っても、実際に我国の人物で、今の金総理とその外2、3人の大臣の上を凌駕できるような人材はない。これを思えば政府を転覆するのは事実国家のために得策ではない。また、この計画を成功させようとするなら、勢い、趙軍部、権警務使、金総理、兪協弁の4人を殺さざるを得ないだろう。もし殺そうとすれば彼等も必ずどこまでも抵抗するだろう。その時は中々容易な仕事ではないから、外に充分な兵力の準備がなければならない。さてそれで外にいる朝鮮兵で果して訓練隊に匹敵するかどうか、その判断は難しかろう。そうであるならこれをどうやればよいか。その唯一の手段は、訓練隊に結託してこれを動かして内応させる以外にない。そして訓練隊に結託する方法として、先ず第1大隊長の李範来は本来警務使の手下なので不可である。第2大隊長李振鎬(李軫鎬)こそ適当だろう。なぜなら李を自分が軍部大臣だった時に平壌訓練隊の隊長に採用したので、予には恩義がある。またその実父は李範晋の父親の厚い恩義を受けたことがある。また今回の事変では平壌に居て加担していない。この三点からしても必ず彼を我等の謀略に加えさせるに足るだろう」

 その後、金振聲はこれをアンダーウッドに伝えたと述べているが、同時に、王宮襲撃の手段を自ら行うことになったのは奇妙なことだ、と言っている。
 それにしても安駉壽。朝鮮には政治家として金総理ら現大臣数人の上を行く人物はいないと、分っていることは分っているらしい。これを亡き者にするのも朝鮮国にとって得策でないとも。しかしそれでも陰謀を巡らさずにおれないのが、またこの国の人の性癖でもあるか。

 なお、原文には「李軫鎬」は「李振鎬」ともあるが、以下の表記ではすべて「李軫鎬」に直した。

 

韓露米による軍事行動計画

 さて、安駉壽の意見はアンダーウッドに伝わり、更に米露使臣がこれを協議して軍事行動を決心したと思われる。なぜなら、先の「露館播遷の工作と失敗」で明らかなように、露国公使ウェーバーと米国書記官アルレンとは共謀しており、以下のように安の言を採用して先ず李軫鎬に働きかけたのは、米国陸軍中将にしてかつて旧侍衛隊の教官であり尚も朝鮮政府陸軍教官顧問官であるジェネラル・ダイ(William McEntyre Dye)だったからである。(原文)

 その後、幾日もたたないうちに王宮内に当直している米国人ダイは使いを出して訓練隊第2大隊長である李軫鎬を呼んだ。李はダイの宿舎に着いて面談した。
ダイ 「君は国王が大事か、軍部大臣が大事か」
 「問われるまでもない。どうして予を軽侮されるのか。予はかつて士官学校である訓練院に入って君の指導を受けることほとんど6年である。今まで君臣の義を誤ったことはない。どうして今日はそんなことを予に向って言うのか」
ダイ 「予も君が必ず国家の逆賊に与していることはないとは知っているが、誠に君の心中を探りたいからである。そして君の心中はそうでるあと分った。また何を疑おうか。今、逆賊は君の側にある。君がそれを知っているかどうか分らないが、趙軍部、権警務がそうである。まさに順逆の義を明らかにし、この2人を駆逐して国王を安全の地位に置かねばならない。君もまた君臣の義を知る人である。まさに奮発して事に当らずしてよいのか」
 「これをした事で利があるなら敢て避けないだろう」
ダイ 「とにかく、万事を予の計画に一任し、そして予の指揮の下に行動するなら過ちとはならないだろう、云々」

 朝鮮政府雇いの教官顧問官だけに、現行政府に対するとんでもない裏切り行為ですな、これは。
 当然、旧王妃派、露米派の朝鮮人も工作を開始。

 その後、李範晋は、故訓練隊連隊長洪啓薫の婿である李敏宏を李軫鎬のもとに数回派して書簡を通じ、あるいは密議させた。
 当初李範晋は李軫鎬に送った書簡の中に、名刺に実印を押したものを封入して本人証明とし、今夕会って話がしたいと文中で述べた。また、李敏宏は口頭で次のように伝え、会話した。
李敏宏 「今夜李範晋は西門外に一席を設けて君に面談しようとして準備をしている」
李軫鎬 「今は、趙軍部、権警務の警戒がたいへん厳重である。自分が今この軍服を着て王宮を出れば事は破綻するだろう。はなはだ危険である。大事を前にして会って話をするなどということは全く出来ない。よく熟考されたいと答えよ」
李敏宏 「それはもっともなことである」

その後、再び李範晋は李敏宏に書簡を持たせて送り、露国公使にも話したことであって手筈は整っているからと、李敏宏から口頭で話させた。それによれば、李範晋の配下にある者が400人おり、その内200人が工兵隊であり、その他は刺客壮士で、春生門から進入することにしており、また露米の水兵がそれぞれ10人と、計20人の外国兵でこの400人の前後を援護するはずで、既に打合せ済である、ということであった。なおこの頃、李範晋は露国公使館に居た。

 とまあ、韓露米による軍事行動の準備は出来たと。

また、宮内主事崔英夏は李軫鎬に会い、次のような話をした。

 「汝は王家のために行動したいとの願いはないのか」
 「男子たる者、もし王家を保全する道があるなら、どうして忠義を尽さないでおれようか」
 「汝の意思はほんとうにそうか」
 「実に国を保つ道あるならば、たとえ水火も辞せず」
 「汝の心がそうなら予は本当のことを言おう。今度、事を挙げるのに西洋諸国は皆一つとなって兵力を用いるべしとの確約をした。ついては王宮護衛兵を率いて出来るだけの準備をすべし」
と重ね重ね依頼した後、李範晋の名刺を袖の中から取りだして与えた。名刺には姓名の傍らに附記して言うことに、『西洋国は会同して約条をし、日本兵を永く動かせないことを約束した。この約束は金石よりも重い。これは露米仏の三国公使の保証するところなので、いろいろ考えずに力を極めて用意するべきである。崔英夏は寶堅堂の背後にある協吉堂(ダイの詰所)に居る。時々訪れて通知するように』とあった。

露米のみならず仏国使臣も関与しているということになろう。伊藤総理も朝鮮駐在仏領事にはだまされたようだし。
それにしても、かつての三浦梧樓公使と同様、彼等も本国政府に知らせることなく独走したのだろうか。

その後、金振聲の報告によれば、アンダーウッドが言う王宮に押入る方策とは、「春生門から入る時は、国王の居間である宮殿にまで達するために4個所の小門を通過せねばならない。ゆえにむしろ東門つまりは建春門から入る方がよい。それでどれぐらいの歩哨を置いているかを探るために、明日に王宮に行って実地の状況を見てくる」と語ったとのことであった。
李軫鎬はその密報に接したので、翌日には建春、春生の2門付近に配置している歩哨の数を減らし、極少人数の歩哨を立たせたところ、はたしてアンダーウッドが王宮に来てその2門を巡視して帰ったことがあった。

 つまりは米国人宣教師も兵力による王宮襲撃に積極的に加担していたことは明らか。で、李軫鎬はわざと歩哨の数を減らしてアンダーウッドに見せたと。

また、工兵隊の中で募集に応じたのは、工兵隊参領李用来、同正尉李承益、同副尉柳錫用、同副尉林煥奎、同金元植であり、また咸鏡道の者で李銃晋なるものがあった。

28日の事変5、6日前に、そのうちの林煥奎、金元植の両副尉は、工兵隊若干を東小門外に招集して点呼をし、ついで、国家のために正しく治める所があるだろうとの意味で一同に諭告し、一応は解散させた。しかし事変当日は工兵隊は乱徒の中に加わらなかったのは不思議であったが、推測するに、何等かのことで謀略に齟齬があってそうなったかもしれない。

 それで、李範晋らはいよいよ28日をもって事を挙げることに決したので、李軫鎬に4回書簡を送って内応の打合せをし、また自分らは各国使臣が参内するのに混じって王宮に入るだろうとのことも述べていた。

 以上のように、反政府朝鮮人、旧式兵士、ロシア公使、米国書記官・宣教師・軍人等による王宮襲撃計画も整い、いよいよ28日に、露国水兵、米国水兵のバックアップを受けて、総勢400人ばかりで実行することになった。もっとも、王宮内に闖入するには訓練隊第2大隊長である李軫鎬の内応が必須であった。しかし、彼は警務使権濚の意を受けて内応を装う者であった。

 

10月8日事変犯罪人処分

 朝鮮政府は、10月8日事変の善後策として、廃妃取消し王妃復位、趙軍部大臣・権警務使の免官と施行した11月26日、事変における朝鮮人犯罪人として李周會その他2名を逮捕した。小村公使報告原文はこちら
 それによれば、犯罪の最も著しき者は、李周會、柳赫露、鄭蘭教、禹範善、李斗璜の5人であり、26日夜に逮捕命令が出たが、李周會以外は皆遁走して行方知れずと。
 なお罪状は、禹範善、李斗璜の2人は、事変の当夜に訓練隊長として兵を率いて王宮に入り、李周會、柳赫露、鄭蘭教の3人は、壮士を指揮して孔徳里の大院君の別荘に行き、大院君を擁して王宮に入り、凶暴の振舞いをしたと。この3人は、国王の前に出て各々姓名を奏上したようで、国王の記憶に特に強く残っているので犯罪人と指摘されたようであった。
 また、当時訓練隊小隊長尹錫禹は、王妃の死体を焼却する現場に居ただけでなく、後に遺骸をよそに移して隠蔽しようと企てた者であったという。
 王妃殺害の下手人と認められた朴銑は、散髪して洋服を着け、以前日本人に雇われたことがあったとかで少しく日本語を解する者であったという。朴は事変当夜に、兵について行って孔徳里に至り、大院君を擁して王宮に入り、日本壮士中に混入して王妃の寝房に侵入し、遂に殺害を加えたとのことであった。
 それらのことがどうやって露顕したかと言えば、朴銑は、事変後に王宮を出て、ある知人に対し、自分が王妃の下手人であると密かに手柄話をしたことがあったので、それが端緒となって終に拘引されたものであった。

 資料「韓国王妃殺害一件」には、逮捕された李周會、尹錫禹、朴銑と、それぞれの尋問調書が記録されており、またそれ以外にも、複数の証人の調書も載っている。(「第二巻 分割2 B08090168800」p72 〜「第二巻 分割3 B08090168900」p48)

 

 

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