日露戦争前夜の日本と朝鮮(4)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

朝鮮の弓術(撮影年代不明)
 

この国の武芸といえば、現代では日本の剣道や空手を模したものがあるが、朝鮮時代は弓術が最も盛んだったようである。
 「◎武芸  彼の邦の武芸中、現今存在するものは独り弓術のみ。刀鎗剣戟の無きにあらざれども平日其練習をなすものとてなし。弓は半弓にして矢の長さは我邦のものと異ならずして、的は一間四方ばかりの板に「前頁渾沌未判の記事中に掲げし如きもの(右図)」を書き、百歩以外の距離を測りて之を射るなり。毎年試験ありて善く命中するものは先達の称を得るなり。」(明治27年刊「朝鮮雑記」49頁より、()は筆者)
 もっとも、1790年頃に朝鮮で刊行された「武芸図譜通志」には、やはり弓術のみであったのが、中国から武芸本を購入し、中国将士に尋ね、棒や鑓や剣に関する武技を作ったとある。しかし後にはやはり弓術のみが尊ばれたようである。


(同11頁より)

 

渡韓禁止の緊急勅令

 10月13日、日本政府は以下のように、朝鮮国への渡航禁止の緊急勅令を発布した。

(御署名原本・明治二十八年・勅令第百四十四号・朝鮮国ヘ渡航禁止ノ件)

勅令第百四十四号
朕茲に緊急の必要ありと認め、樞密顧問の諮詢を経て帝国憲法第八条に依り、文武官其の他官庁の命に依る者の外、日本臣民、管轄地方庁の許可なくして朝鮮国に渡航することを禁するの件を裁可し之を公布せしむ。

睦仁[御璽]

明治二十八年十月十三日
 内閣総理大臣候爵伊藤博文
 海軍大臣候爵西郷従道
 陸軍大臣侯爵大山巖
 農商務大臣子爵榎本武揚
 大蔵大臣子爵渡邉國武
 司法大臣芳川顕正
 外務大臣臨時代理文部大臣侯爵西園寺公望
 文部大臣侯爵西園寺公望
 内務大臣子爵野村靖
 逓信大臣白根専一

勅令第百四十四号
文武官其の他官庁の命に依る者の外、日本臣民は管轄地方庁の許可なくして朝鮮国に渡航することを禁ず。
犯す者は一月以上一年以下の重禁錮に処し、二十円以上二百円以下の罰金を附加す。
本令は発布の日より施行す。

 けっこう厳しい罰則付き。わざわざ天皇勅令としたのは、遍く国民に知らしめるのみならず、列強諸国へのアピールもあろう。

 

三浦に帰国命令、小村が公使に

 17日、小村寿太郎は弁理公使に任じられ朝鮮駐箚を命じられた。続いて三浦公使には帰朝命令が出された。(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p81、82)

 三浦への電文では「御用有之」であったが、以下のように小村への引き続きの電文では政府の方針が述べられている。

(「上同」p83)

電送第七四三号明治二八年十月十七日午後三時四十一分
            西園寺大臣
小村政務局長

 今回急に三浦公使を呼戻し、其上にで処分することに廟議決定したるゆえ、貴官は御苦労ながら此際暫く弁理公使の任命を受けられ、尽力せらるゝことを希望す。
 又、各国に於ては今回事変に付き朝鮮政府を認めずとの説あり。依て日本のみ独り之を認めて将来に不都合を残しては如何に付き、此辺御注意ありたし。又、陸軍大臣へは既に其地派遣員より報告ありたり。貴官り速に報告あるを望む。

 ようするに何らかの処分をするとの方針である。
 後の三浦の述懐録では、以下のように最初から罪人扱いをされたと、不満たらたらの記述をしている。

(明治42年12月31日刊、博文館、田中萬逸編「死生の境」の「陸軍中将子爵三浦梧樓氏」の項、156、157pより)

 閔皇事件! 此朝鮮事件に就て、言いたい事、話したい事は沢山あるが、何分にも関係者は、未だ生きて居る人が多いに付け、差障があるから廃そう。加之、言訳らしく聞こえて、我輩の気量を下げないとも限らぬ。我輩は言訳がましい事や、人に罪を嫁すのが嫌いだ。
 さて我輩は此騒動の為め、公使を免ぜられて、本国へ喚還された。で、罷違えば、割腹の覚悟で帰って来た。其前に、事は事だが――其はしかじか斯く々々だと、意見をも添えて、内閣に呈出してあったから、関門に上陸すると、屹度一応取調位はあろうと、船脚早く馬関へ来ると、意外々々!
 当時広島に流行病があった後だったから、船をとある島へ着けて、検疫をせねば不可ないと、我輩を湯に入れた。面倒な事を言いくさると思ったが、湯に入って居ると、何事ぞ! 何たる狼狽方ぞ! 窓外急に騒然として、耳を打つは剣の音、靴の音、突然戸を排して、乱入して来た者は、令状を携えた警部の一行だ。糞っ、何も逃げ隠れはせぬ我輩、死ねと言えば何時でも割腹する覚悟で居るのみか、公使を免黜されては居るが、陸軍中将の官位は有るし、勲位があるものを、恁うして風呂に入れて置いて、偽討の様な目に逢わすとは! と腹が立って腹が立って堪ら無かった。
 何事にも理屈があるものだ。されば関門上陸後、先ず我輩の意見を徴するのが、順序であるにも拘わらず、不意撃を食わすに至っては、恰も放火犯や、盗賊を取扱うのと異らぬ、と思うと、ピシッと頭脳へ来て、腹が立って堪えられぬ。広島監獄へ繋がれてから、二昼夜間というもの、気がムシャクシャして、マンジリとも寝られ無かった。

 まあ、その後、日ごろの日蓮信仰によって落ち着きを取り戻した、という文章になるのだが、たしかに陸軍中将子爵に対する扱いにしては、そうとうひどかったようである。
 ところで、前段の文で、「我輩は言訳がましい事や、人に罪を嫁すのが嫌いだ」と言っているのだが、これはおそらく「予審終結決定書」で王妃殺害の首謀者として断罪されたことに対する不満を意味するものであろう。
 で、当時、三浦梧樓がどのような考えであったか、そこらへんを知るヒントとなるのが以下の10月14日付伊藤博文宛の直訴状とでもいうべき一文であろう。

 

伊藤博文への私信

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p67)

 拝啓、此度の事変に関し閣下に深く御通神相掛、何共恐懼置所不知奉謝候。

 右に付ては、是迄外務大臣へ向い、追々電報に及候に付、大略御推量相成可申と存候得共、猶不充分の廉有之候に付、特に星亨を帰朝せさ候間、事情御熟諒の事と存候。
 抑、事の起因を尋ぬるに、昨年七月閔党政府は破壊せられ、政権内閣に移りし以来、王妃は痛く遺憾に思い、之を恢復せんが為め今日迄百方々略を運らし、初め井上公使の力に依て大院君を仆し、尋で朴泳孝を利用して金宏集を斥け、遂に朴泳孝を遂い、魚允中を免じて漸次政権を宮中に収め、其間裏面には魯使に通じて其声援を借りたるは全く事実に有之候。

 且つ井上公使着任の初め呈出したる施政綱領二十条中には、堅く王妃の政務に干渉するを禁じたる処、同公使再赴任の後、其一節を削除し、并に再度呈出したる意見書十七条中には、王妃は国王と同様に政事に関係するを得る事と為したるより、王妃は茲に始て日本政府の認許を得たるものゝ如く心得、益、其勢力を政事上に逞うし、恣に大小の官吏を進退し、政府の財源たるべきものは漸次之を王室財産に組入れ、宮中政事を公示せんが為め宮内府自ら勅令を発布し[其前より宮内府限り屡々勅令を発布せんとしたるを、内閣の為め之を遮られ、其意を果すこと能わざりしが、去月下旬に至り、遂に宮内大臣及掌礼院長の副署にて勅令第一号を発せり]、造幣局を宮内府に付属せしめ、兪吉濬、金嘉鎮を斥け、猶進で日本士官の教習したる訓練隊を解散して政府の爪牙を奪い[此前王妃派随一の人を挙て警務使に任じたれば、警察は既に宮中の物となれり]、然后、金宏集以下十一人を殺害せんとの隠謀を企て、既に訓練隊の解散に取掛りたるは本月七日朝のことなり。

 時勢、斯の如く切迫したれば、金宏集等の憂慮は勿論、訓練隊の激昂と大院君の非常なる激憤は、一時に湊合し来りし訳に有之候。又転じて当国に於ける我国の勢力如何を視るに、王宮政府が我味方と為り、我に依頼する心あればこそ我勢力を維持することを得べきも、王宮已に敵方に帰し、政府又敵党を以て充さるゝに至らば、我勢力は一朝にして地に墜ち、忽ち昨年前の旧に復すること顕然なれば、近来特に注意したるは勿論なれ共、如何せん手の下し方なく、乍去若し我は目を眠り、手を拱して彼等が自為に任するときは、訓練隊は解散せられ、金宏集以下或は殺害或は放逐せられ、日本国が今日迄尽し来りし百般の事業と勢力は、一朝にして水泡に帰するのみならず、茫然自失の余り多数の顧問官も用ゆるに術なく、従て軍隊も彼より撤還せらるヽに到ること、瞭然火を見るよりも明なりと存じ候。

 此の如き実際に当りては、本官に非ずとも唯々諾々手を拱じ、自ら眠る者は有之間敷、辞を換えて之を云えば、我勢力を維持し、当初の目的を達する上に就て、実に不得止此に出でたることに有之候間、前後の事情熟と御推察被成下相願候。

 前述の次第に付、我守備隊は固より騒乱鎮撫の任務を以て入闕したるに相違なきも、其実彼に薄く此に厚く或は命令を誤り候よりの結果、他人の批評を来し候こと不堪、又大院君に随従して入闕したる壮士等も、実は黙認して隠に使用したる情あれば、事後に至て独り罪を彼等にのみ帰せしめ難きは是又深く御推察被下度候。

 要之、今回の事件は当国二十年来の禍根を絶ち、政府の基礎を固むべき端緒を開きたることと本官に於ては確信致候に付、仮令其所為は過激に渉るにもせよ、此先き外交上の困難さえ切抜くるを得ば、我対韓政略は之に依て確立するを得べしと存候。

 目今の処は宮中政府とも総て我味方と為り、総理大臣以下平常の如く沈着に事務を取扱い、只管政府の基礎を固め、以て我政府勧告の趣意に適わんと不屈不撓の心を以て熱心に勉強致居候得ば、向後益々現政府を助け、改革の実効を奏せしむること頗る緊要の事と存候。
 万一我政府は外に対する一時の権略と思い違われ、今日迄の方針を替え、現政府の人々を疎外して更に旧王妃派の人を入れ、現政府をして孤立の姿に陥らしむるときは、当政府は忽ち瓦解し、終に拾収すべからざるに至るは必然と存候。

 要するに今回の事は其行り方は少く拙劣に渉り、襤褸を隠すこと能わざりし謗りを免がれずと雖ども、本是れ萬不得止に出で、而て能く其目的を達したるものなれば、其得たる果実は飽迄も失わざる様致度と存候。
 故に外交上の御都合より、本官を始め重なる館員を交逓せしめらるゝことあるとしても、之れと同時に現政府に対する方針迄も変ぜらるゝことは、頗る不得策と被考候間、此点に付ては幾重にも御注意相成らんこと深く希望する所に御座候。

 依て此段内情閣下迄申進候。 敬具
       在朝鮮国
 明治廿八年十月十四日 特命全権公使子爵 三浦梧樓
内閣総理大臣 伊藤博文殿閣下

[追て、事変の当日、本官が各国使臣と問答したる概略は、別紙の通にて、飽迄水掛論にて突張り置候]
追て朝鮮政府にては、当日宮内にて暴行し人を殺害したるものは総て朝鮮人の所為と認め、追て之を処分する趣にて、日本人は該暴行に加わりしことを認めざる旨、公然彼より返答有之候。
 依て併て御参考迄に此段申進候。


    右は今回伊藤総理大臣へ呈し候私信の写に御座候間、御参考迄呈貴覧候 敬具
     明治廿八年十月十四日 特命全権公使子爵 三浦梧樓

    臨時外務大臣侯爵西園寺公望殿閣下

 しかしまあ、この年5月25日、6月3日付の対韓方針決定の閣議を全く理解していないというか納得していないというか、およそ勝手な個人の思い込みを語ったもので。それに公使手続きとしては上司の外務大臣に上申すべきであって、それを伊藤宛に直接私信を送って直訴に及ぶという方法を執るとは。いかにも人情的つながりを求める三浦梧楼らしいといえばそうなんだけれども、政府派遣の公使としては失格ですな。
 もっとも、日本の実情や露国の動向や列強国外交のこともあまり考慮していない、当時の平均的な日本人の考え方かもしれないけれどねえ。

 ところで、井上馨が呈出したという「王妃は国王と同様に政事に関係するを得る事」という意見書十七条のことは確認できない。今のところ該史料は見当たらないし。

 10月17日、帰朝命令を受けた三浦公使は、「船便次第出発すべし」との一言で返電。
 しかし杉村濬書記官や岡本柳之助は三浦の滞在延長を次のように訴えた。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割2 B08090168100」p4)

電受一一一五号明治二十八年十月十七日午后九時四十分発 午后十一時着三十分着

西園寺外務大臣
                杉村書記官

本夕、三浦公使帰朝命令に接したるに、即今朝鮮新内閣僅かに落着人心稍々安堵し、外国公使館に逃亡したる旧王妃派も大概帰宅し、是より新内閣の基礎は稍々固まらんとせり。然る処、同公使俄かに当地を去るときは、朝鮮人は忽ち我政府は対韓方針を変えたるものと疑い、将に固まらんとする内閣も再び瓦解するやも難計、目下の有様にては、三浦公使駐在は実に千鈞の重をなせり。就ては此際少くとも一二週間は在職の侭滞在を許され、政府の落着を認め、然る後帰朝せらるゝこと頗る緊要と考えり。
因て此段意見上申す。

(「同上」p5)

電受一一一六号明治二十八年十月十八日午前四時四五分着

各国公使の意向も変じ、我処置に服する趣あり。朝鮮政府は一致共同改革の実を挙んとす。三浦公使は今二週間滞在せざれば成効し難し。若し直ちに出発せば不時の変乱を生ぜん。
閣下に於て右の取扱を偏に願う所なり。
             岡本柳之助
  陸奥宗光

 もしかして杉村たちは政府の対韓政策の決定を知ってなかったのかもと疑いたくなるような内容。まあ、外交政策に関しては機密が多いしねえ。
 で、もちろん、こんな意見を受け入れるはずもなく西園寺外務は杉村書記官に、「貴官より電報の趣、聞届け難し」(「同上」p10)と返答。日本政府所属の人間でもない朝鮮国軍部兼宮内府顧問官の岡村柳之助に対しては返事すらしたかどうか。資料は見あたらない。

 で、そんな杉村たちの思惑をよそに、新公使として赴任することになった小村寿太郎が最初に訪問したのはロシア公使館であった。

(「同上」p2)

電受一一一三号明治二十八年十月十七日午后八時十分発 午后十時着

西園寺外務大臣
                小村政務局長

 本官、露国公使を訪問して今回の事件に付て日本政府は大に驚愕せし旨を申述べたり。
 露国公使は此事件に日本政府は更に関係し居らざる者と固く信ずる旨を明言せり。露国公使は、王妃死生の事は未だ判然せずと言い居れ共、本官其の語気より察するに、王妃は死せしものと確定し居るが如し。又、守備隊は全く大院君を擁して王宮に入りしは事実なれども、同君は前よりフノインに与みし居りしや否や頗る判断に困むと云えり。
「コクレル」の云う所に依れば、京城在留一般の外国人は、大院君が日本壮士を使嗾して王宮に入りたれど、同君を守備隊が護衛したるは不審に堪えずと言い居る由。王妃の死骸を焼棄てたることは米国人「ダイ」が実見したる由にて、一般外国人も又之れを知れり。

 「今回の事件に付て日本政府は大に驚愕せし旨を申述べたり」は、小村に与えられた内訓どおり。

 なお「フノイン」は原文のままで意味不明。コクレルはすでに記述したように米国新聞通信者。
 また、「王妃の死骸を焼棄てたることは米国人「ダイ」が実見したる由にて、一般外国人も又之れを知れり」とあるが、米国人ダイは、宣誓付訊問調書ではそのことに触れてはいないし、また死骸を焼いた場所すら知らないようなので(「B08090169600」p46)、他の者による情報であろう。もちろん「由」であるから伝聞を意味しているが。

 

朝鮮政府の瓦解を防げ

 日本政府としては、何よりも列強外国勢の意向が気になるところであって、とりわけ現地公使らの動きには眼が離せない。すでに彼らが朝鮮政府に対して故障を申し出ていることが、三浦からの報告にあった。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p75)

電受第一一〇二号 明治二十八年十月十五日午后十二時二十分発 午后五時着

去る八日の事変以来、宮中政府とも総て日本方となり、総理大臣以下沈着して平常の通り事務を取扱い居れり。又、大院君は毫も政務に関係せず。
昨日、各国使臣より外部大臣に向い、左の三件を照会せり。
一、去る八日の変況に付、各使臣の聞く処は朝鮮政府の云う所と異なること。
二、変乱の首謀者以下を厳重に処分するを望むこと。
三、廃后の詔勅は国王の意に出でたるものと認め難きこと。
尤も、其文意は温和にして一つも日本人にいいを及さず。之に対しては近日朝鮮政府より必相当の返答をなすべし。故に今日の形勢を持続して現政府を助くるときは、将来必ず予期の如き好結果を得べき見込なれども、万一我政府は其方針を変ぜられ現政府の人々に危懼を抱かしめ孤立の姿に陥らしむるときは、忽ち瓦解して収拾すべからざるに至らんとするの恐れあり。依て此辺深き御諒察あらんことを冀望す。
                三浦公使
   西園寺大臣

 それ以外にも各国使臣は朝鮮政府に向っていろいろと文句を言ったらしいことが、次の訓令で知られよう。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割2 B08090168100」p13)

各公使  十月十八日発
電送四八二、四八三号 訳文

此度朝鮮事変に付取調べたるに、我が官民の関係者あり。然るに此事は政府の全く関係せざることなるに付き、三浦公使初め関係の嫌疑ある我官吏は帰朝を命じ、人民の嫌疑者は退韓せしめ、官民に拘らず犯罪の証跡ある者は、法に照して処分することと為し、小村は弁理公使として駐韓せしめたり。
就ては或は我政府の方略に出でたる如き浮説あらば、充分御注意ありて防禦的の手段を執るは勿論、前文の趣意を其政府へ御申入相成、傍ら各国の我に対する意嚮等は時々報告せらるべし。
以下は閣下の心得迄なり。
在韓各国使臣は左の如く朝鮮外務大臣に照会せりと云う。
一、八日の変乱に付き各使臣の聞く所は朝鮮政府の云うところと異なること。
二、変乱の首謀以下を厳重に処分すること。
三、廃妃の詔勅は国王の真意に出でたるものと認め難きこと。又、各国使臣は国王が皇帝の尊号を用い、且不日新后を立てんと欲することに対し、抗議を申入れたりと云う。又、各使臣は現政府は国王の意に反し組織せられたるものなりとの理由を以て、■■政府を認むべきや否を議し居るものゝ如し。
右に関する我が意嚮も各国の意嚮と大同小異なり。

 各国駐在日本公使に対する訓令である。
 朝鮮国王が「皇帝」号を用い、また新后を立てようとしていることにも、各国使臣が抗議したというのである。
 で、それに対して日本政府も大同小異の意向と。
 もっとも、小村公使には以下のように訓令していた。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割2 B08090168100」p7)

 電送第七四七号 明治廿八年十月十八日午前十一時十五分発

 小村公使           西園寺大臣

三浦公使其他官吏を呼還すに付、朝鮮政府に於て危懼を抱き瓦解せざることを予防するは必要なりと信ず。
右に付、各国公使と協議するか又は貴官の意見に依てするか、瓦解を来さゞる様尽力せらるべし。
猶、右に関し疑いあらば電信にて指揮を乞わるべし。

 日本政府としては何も金宏集内閣までが瓦解するのを望むものではない。このまま親日政府として改革の歩みを進めるなら、それはそれでよいわけであってねえ。
 まあ、各国使臣との微妙な駆け引きが小村に求められているのであって。

(「同上」p17)

電送七六五号、明治廿八年十月十九日午後六時三十分

小村公使               西園寺大臣

各国公使等、国王の権利を回復せんとの議を提出したりとの報あり。
若し公使等より大院君の宮中より追出すべしとの議起らば、貴官は之に同意を表することに躊躇すべからず。若又貴官の考にて今の時機に於て大院君を追出すこと必要なりと認むるなれば、貴官より此事に就き各国公使等に内議を試むるも妨げなし。
但し此場合には大院君去りたる暁に、政府瓦解に至らざるや否やの点に、各国公使とも能々相議すること必要なり。

 まあ、なにかと心配なのが大院君の存在と。しかし大院君が去ったら政府が瓦解したでは困るわけで。

 

露国政府、撤兵を勧告

 西公使が露国外務大臣と対談したのは10月20日

(「同上」p20)

電受第六六六号訳
電信訳文 明治廿八年十月二十日発 二十一日接
西園寺外務大臣            在露 西公使
第八十三号
露国外務大臣は十月廿日帰国せり。
本使は同大臣をして日本政府が此回の事件に一々関係せざりしことを諒知せしめんことを欲し、第百五十三号貴電の趣意を通し、且つ告て曰く。
我政府は過去に於ても亦現時に於ても唯だ朝鮮国をして独立を基礎とし、確然たる秩序を保たしめんと欲するの外なしと。
同大臣は、本使の云う所を尤なりとし、且つ曰く、日本の軍隊を朝鮮より撤回すること日本の為めに非らずや。何となれば此度の事変の如きは実に最大の凶変なり。且つ朝鮮人民は日本人を厭うとの風説もあれば、此の事変後に於ては日本人に対する彼等の感情猶更反対なるべければなりと。
本使は若し日本兵を撤退したらんには、忽ち国内到る所に変乱起るべしと答えたるに、同大臣は容易に之を信ぜざる顔色なりし。
此回の事件に関しては、同大臣の画策猶未だ決定し居らざるものゝ如く見受けられたり。されども本日より当地の諸新聞紙は日本の攻撃を始めたり。

 露国政府の政略を熟知する西徳二郎としては(参照「露国の野心」)、そうやすやすと撤兵の勧告に肯くはずもないし。
 25日になって日本政府は露国政府に以下のように正式に回答するよう西公使に指示した。

(「同上」p58)

電送第五〇三号
 電信訳文 廿八年十月二十五日発

在露西公使                  西園寺大臣

第壱五七号
第八拾三号貴電受取りたり。
朝鮮国より日本軍隊を撤退することを得策なりとする義に関する露国外務大臣の質問に対し、左の如く宣言することを閣下に委任す。

軍隊の朝鮮国に駐屯するは、交通線路を守衛し安寧を維持し、及日本国公使館領事館并に臣民を保護するが為めなり。
日本国と奉天半島との間に海底電線なきに付、日本国政府に於て該半島占領中は、朝鮮国内を経て占領地に連絡する所の電信線を維持すること必要なり。且又占領地の或る部分の如きに至ては、殊に冬期間は海路之に達すること能わざるが故に、需要品運送の為め陸上通路を維持すること亦等しく必要なりとす。然るに既往の実験に依れば、朝鮮国の交通線路は常に之を守衛するに非れば維持すること能わず。而して朝鮮国に駐屯する軍隊の大部分は此任務に充てらるゝものなり。
日本国政府は、奉天半島撤兵次第、将来右電信線経営の事に関し、直ちに朝鮮政府と協議し、交通線路維持の為めに使用せらるゝ軍隊を撤退すべき意思確然たり。

安寧及保護の目的に向て朝鮮に在る軍隊に関しては、閣下は左の如く述べらるべし。

井上伯帰朝しての報告は、去る七月三十一日、在日本露国公使より朝鮮の静謐及国王が必要の改革を遂げんとするの意あることに関し、本大臣への陳述を確かむるものなり。今回の歎ずべき出来事は多少形勢に異動を生じたりとするも、全く之を変更したる次第にも非れば、右は多少の異動ありたるに拘らず、日本国政府に於て露国政府の意見精確にして已に緒に着きたる所の改革は外国の援助なくして其歩を進め、随て朝鮮国は遠からず秩序を維持し、外国人を保護し得るに至らんことを希望す。
此場合に於ては日本国政府は之が為め朝鮮に駐屯せる軍隊を欣然撤退すべし。
日本国政府は朝鮮国の独立を鞏固ならしめ、且つ其独立を認むる旨、腹蔵なく明晰に屡々宣言したる故、朝鮮国土の完全に対し決して他意あることなし。
依て日本国政府は安全に軍隊を悉く召還し得ることは最も喜んで之を為さんと欲する所なり。
目下の形勢に於て朝鮮国内政事務に関しては日本国政府の政略は無干渉の方針を執るものにして、他条約国と共に単に望を将来に属するの意嚮を有す。
日本国政府に於ては右の誠実なる宣言は露国政府の懸念を全く一掃するに足るや毫も疑を存ぜざるなり。

 丁寧周到な日本政府の返答である。朝鮮国の独立を強固なものとするという、いつも通りの日本政府の宣言。

 しかしねえ、露国としては朝鮮が強固な独立国なんぞになってもらっては困ることは、もはやはっきりしておるわけで。しっかり露国になびいてもらって、保護国となるのが望みであってねえ。
 露国の野心を探った西公使の詳細な報告のことであるが、実はまだこの時点で日本政府に届いていない。これが届くのは10月29日である。

 

各国への表明

 なお、日本政府は以下のように、露国へのものと同様の文を各国駐在日本公使(独、仏、英、米、伊、墺)に送付し、駐在国の外務大臣に通知するよう指示した。したがって、これが事変後の日本政府の正式表明ということになる。

(「同上」p66)

電送第五〇五号
      電信訳文 廿八年十月二十五日発

在独、仏、英、米、伊、墺、各国公使宛     西園寺大臣

日本国政府は、朝鮮国の独立を鞏固ならしめ、且つ其独立を認むる旨、屡々明晰に宣言したり。
然れども今回朝鮮に於ける歎ずべき出来事の為め日本国政府に於ては朝鮮国と条約の関係ある各国に向て其対韓の意嚮の存する所を従来に比して尚お一層明確に述べ置くこと望ましと思考す。
随て閣下は其任国政府に向て左の如く宣言するの委任を受けたり。

日本国軍隊の朝鮮国に駐屯するは、目下日本国の占領に係る奉天半島との間に朝鮮国内を経て日本国の欠く可からざる交通線路を維持し、安寧を担保し、我が公使館領事館及臣民を保護するが為めなり。朝鮮国にある軍隊の大部分は、右交通線路保護の為めに用いらるゝものなり。
右軍隊駐屯の必要は、日本軍隊奉天撤兵の時を以て始めて止むべし。其上は之を撤退すべし。
日本国政府に於ては、朝鮮国改革の事業は其緒に着きたるを以て其歩を進め、随て朝鮮国は遠からず単独に秩序を維持し、外国人を保護し得るに至るべし。此場合に於ては、之れが為め、朝鮮国に駐屯せる軍隊を召還すべし。
日本国は朝鮮国に対し、決して他意あるに非らざれば、軍隊の駐屯を永引かしむべき意あることなく、却て之に反し日本国政府に於て此義に付、一切の責任を解除せらるゝことは最も喜ぶ所なり。
目下の形勢に於て朝鮮国内政事務に関しては日本国政府の政略は無干渉の方針を執るものにして、欣然他条約国と共に単に望を将来に属するの意嚮を有す。

右の次第を外務大臣に通知するに当り、閣下は一己の考として、朝鮮国に関する閣下駐在国政府の意見を日本国政府の心得の為め承知致度旨述べらるべし。

 軍隊駐在に関して、「却て之に反し日本国政府に於て此義に付、一切の責任を解除せらるゝことは最も喜ぶ所なり」と説き、また、朝鮮内政無干渉をあらためて伝え、他条約国と同等の位置にあると宣言したもの。
 ま、対韓政策方針に変更はないということですな。

 

宮中より井上伯を派遣

 さて、この時代、国と国との交際の実務は各国政府が執るのであるが、王国や帝国の場合、一応トップはキングだったりクィーンだったりエンペラーだったりするわけで。
 朝鮮は純然たる君主専制国であるし、日本は立憲君主国なのだが、こと皇室同士の交際は政府を超えた独自のものであったと言えよう。
 例えば、明治15年の朝鮮事変において、花房義質公使が事変の問責と談判のために政府から派遣されたのであるが、同時に宮中からは、王妃崩御の報を受けて弔問のために侍従長山口正定が派遣されたことなどがそうである。その後も王宮で異変があるたびに宮中から何らかの人間が派遣されている。
 ところで、小村寿太郎としては、もし慰問使が派遣されるなら、これまで朝鮮とは関係のない人物を選ばれたい、との意見を政府に打電していたらしい。以下の史料はそれを受けてのやり取り。

(「同上」p28)

電送第七七九号 明治廿八年十月廿三日午後一時四〇分発

小村公使            西園寺大臣

 朝鮮に慰問使を送らば、是迄朝鮮に関係なき人物を選定ありたき旨御意見承知せり。
 右は朝鮮官吏に対し不都合なるか、又は其他各国使臣に対するものか、至急委しく電報すべし。

 で、小村が返電。

(「同上」p29)

電受第一五二号 明治二十八年十月二十三日午后五時五十分発 午后八時五十分着

 本官の考うる処にては、此際朝鮮政府をして毫も動揺せしめざること尤も必要なり。然るに若し此迄朝鮮に関係ありし人の渡来ありとせば、大院君初め各党派は其渡来の人如何に依り、各自の党派に影響を及ぼさんことを慮り、為めに動揺を来たすの憂あり。御選定の上は至急御報下されたし。
               小村公使
 西園寺大臣

 まあ、小村の心配も分かるよねえ。
 ところがそんなやり取りのあった時には、すでに以下のように明治天皇の親書を持参して派遣されたのは、これまで朝鮮に関係がないどころか、明治9年の日朝交渉以来ずーーーっと重大な関係をもち、係ってきた井上馨伯爵その人なのでしたー(笑)

(「同上」p30)

 貴国今回の異変は大に朕が襟懐を驚かせり。尋いで朕が臣民の其事に関連するものあるを聞き、殊に遺憾に堪えず。因て特に従二位勲一等伯爵井上馨を派して闕下に赴かしめ、親しく朕が慰問の意を致さしむ。冀くは陛下之を引見して聴納せられむことを。茲に朕が恭敬親愛の誠を表し、併せて陛下の康寧無疆を祈る。
  明治廿八年十月廿三日
    東京宮城に於て
     御名  

  此書は井上伯渡韓の節、携帯せし御親書の写なり。

 今度の事変に対する遺憾の表明というか、「朕が臣民の其事に関連するものあるを聞き殊に遺憾に堪えず」と結構重い表現となっている。もちろん漢文で提出されたのであるが、そこにも「貴国此次異変大驚朕襟懐尋聞朕之臣民有回連其事者殊不堪遺憾」とある。

 で、小村にそのことを通達。小村が仰天するのは分かりきっているから(笑)、そこんところも説明している。

(「同上」p50)

親展 送第七七号
明治廿八年十月廿三日発遣 機密

在京城
小村公使           外務大臣

 特命全権公使井上伯爵御用有之、朝鮮国へ派遣せらるゝに付訓令。

此度特命全権公使井上伯爵、朝鮮国王陛下慰問之為め、宮中より朝鮮国へ派遣せられ候に付ては、別紙写之通り、及内訓置候に付、同伯爵到着之上は、百事御斡旋相成度し。且又及訓令にも記載之通り善後之事に付ては閣下と協議すべき旨訓令致置候に付、右付■有之若し閣下と井上伯爵との意見合わざるときは、本大臣へ御請訓相成度し。
右及訓令候也
   別紙は内訓第四号なり。

 で、その井上に与えられた内訓が以下のもの。

(「同上」p48)

明治廿八年十月廿一日起草 廿三日発遣

機密
内訓第四号
特命全権公使特派使節伯爵井上馨殿
            外務大臣臨時代理 侯爵西園寺公望

朝鮮国に派遣に付内訓

今般宮中より、閣下朝鮮国京城へ被為派遣候に付ては、左記の件々被相心得、万事御措置可相成候。

一 閣下は本月八日の事変并に其以来の情状を視察し、且将来如何の形勢に成行くべきやを考察せらるべし。

二 目下の形状に対する京城駐在各外交官の意嚮を探査し、併せて其各本国政府が之に対する意見を探察せらるべし。

三 右の目的を達する為めには、閣下は従前公使として彼地へ駐在相成居り各国使臣との旧交も有之義に候えば、右使臣等に面会交談可相成候。尤も、閣下は此度特派使節として宮中より派遣させれ候に付ては、日韓両国は勿論各国使臣と公然往復するべき事項は駐在公使の任務なるに因り、閣下に於て之を処理するを要せざる義と心得らるべし。

 閣下は朝鮮の事情明晰なるの便あるを以て善後の事に付ては小村弁理公使と協議し、之に相当の助言を与えらるべし。若し閣下と小村公使との意見合わざるときは、本大臣に訓令を請わるべし。
右及内訓候也。

 ま、井上はもっぱら探察に力をいれ、処理のことは小村に、と。

 で、書面では肩書きを、特派大使、特命全権、特派使節などと書いては修正したり削除したり、また、他の小村への通知では、「同伯、其地着の上は、特派大使と名乗る筈なり(「同上」p52)」とあったりして、何か政府内でも井上を派遣してよいのかどうかで揉めている感じがしないでもない(笑)

 そして案の定、朝鮮政府は井上が来ると聞いて恐怖に陥った(笑)
 そらまあそうでしょう。今回のような事変は井上が望むはずもないことは、大院君や金宏集総理らも知っているはずだし。
 で、朝鮮政府を内偵した報告が以下のもの。

(「同上」p97)

    電報 十月廿八日午后十時四十分京城発 廿九日午前一時三十分着

 朝鮮の現内閣は井上伯の来たるを大に恐れ居る。其の恐るゝ点は、此の前来たりし時の如く、大院君ではあれ、閔党であれ、何んでも引き入れて内閣を動かしガセイ(瓦解歟)せしむる様のことを為さゞるやと大に掛念する様子。
井上伯来たりて朝鮮を分け取りする談判を露国と開くの風説あり。其信偽を露国公使館に問い来し者ある由。御参考の為め報ず。
馬屋原等は明日前五時出帆越後丸にて還えす。
            田村中佐
川上中将

 まったくこの国の人々は相も変わらず低レベルの疑心暗鬼に陥るもので(笑)
 そもそも井上は、崩壊寸前の朝鮮国とその政府を建て直して改革の基盤を整えたのであって、それを利権をめぐっての権力闘争に明け暮れるだけで、まさに内政が瓦解するもかえりみなかったのは、みな王族とその取り巻きであったことは、これまでの経緯を見れば歴然としていよう。

 で、西園寺大臣は次のように小村に通達。

(「同上」p99)

電送八〇九号 明治廿八年十月廿九日午後十時十分発

小村公使             西園寺大臣

 或所よりの電報に因れば、朝鮮現内閣は井上伯渡韓せば、此前に来たりし時の如く、大院君であれ閔党であれ何でも引入れて内閣を動かす等の事を為さゞるかと掛念し、大に井上伯の来るを恐れ居る様子あり。又同伯は朝鮮を分け取りする談判を露国と開くの風説ありとのことなるが抔。
 井上伯の任務は已に電報せし如く、純然たる宮中よりの使節なれば、其の趣を篤と朝鮮政府へ説き聞せ、恐懼を抱かしめざる様、取計たし。此事に就ては井上伯の注意を十分に惹起すことも肝要なり。

 純然たる宮中よりの使節と。式部官なども随行して、井上が出発したのは25日であった。(「同上」p68)

 

各国公使の画策

 さて、仁川港に停泊する軍艦は米艦ヨークタウン、露艦コレイツであったが、10日には露水兵20名ほどが入京し、翌日には米水兵16名も入京、更に露艦から水兵10名が加わったとの情報があった。同日、帝国軍艦橋立が入港したが12日には出帆した。13日には仏艦イースリーが入港。更に英艦エドガーが入港し、英国海兵15名、士官1名が20日に入京した。(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割2 B08090168100」p41、「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割3 B08090168200」p13)
 いずれも各国公使館などの護衛を名目としたと思われる。
 護衛兵の設置は日本の場合、済物浦条約に基づくものであるが、これら各国兵士の朝鮮への駐留は条約上どうなっていたのだろうか。筆者はそこまでは調べてはいない。

 25日、各国使臣会議が開かれ、露国公使は次のように発議し、小村公使に同意を求めた。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割2 B08090168100」p69、()は筆者)

電受第一一七〇号 明治二十八年十月廿五日午后九時発  午后十一時廿五分着

外務大臣                   小村

本日、各国公使会議に於て露国公使は、目下の情況に照らし、国王の安全と京城の安寧を保つ為めには、軍部大臣の更迭と訓練隊の解散とを必要とする旨を発議し、各国公使同意せり。
就て本官の意見を問いたるにより本官は、右は必要なきことを信ずるも、若し必要ありとせば、必ずしも不同意に非ず。唯々今日之を実行せば、却て擾乱を惹起すの虞あるを以て、他日の機会を待つこと然るべし、との旨を答えたるに、各国公使は、此の危険は今日にも逼りたるにことにて、斯る猶予をなし難く已むを得ざればチホン(日本)の兵力によりても之を行うこと必要なりと主張するにより、本官は本問題たる頗る重大の件なるを以て充分熟考を費し度く、其間の静謐は必ず保証すべき旨を述べ別れたり。

 「チホン」が「日本」の電文誤字であることは次の田村陸軍中佐らの報告で明らか。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割3 B08090168200」7p) 

    電報十月三十一日午前十時京城発  同 十一時着

当地にある各国公使は、過日使臣会にて魯国公使の発案にて、訓練隊ありては陛下の御身体甚だ気付かわし。速に之を除かんとの事なれども、小村公使は、之を除くときは忽ち匪徒四方に起り、又之を行うには兵力を要するも計られず、然るときは如何なすや、と答えたるに、彼ら曰く。若し兵力を要するときは日本兵を用ゆるより仕方なし。小村曰く。然らば其の事大事件なれば熟考を要す。猶予を与えよ、と計りたり。其後魯公使より訓練隊を除く催促ありたれども、目下之を解くときは却て騒乱の種を蒔くに均し。又陛下御身体に危険あるとも認めず、之に付ては日本公使其責に任じ保証すと答えたり。然らば総て日本公使に任せるとのことにて、昨日電報せし如く、訓練隊の二大隊長を除き、且つ訓練隊も廃し更に京城に親衛隊を、地方に鎮衛隊を置くことに改め、今日勅令を以て発布せり。之れにて魯国始め兵力を以て当地に事を起すことは有る間敷やと愚察す。

                       田村
   川上中将

 朝鮮政府への影響力を取り戻したい露国公使としては、何としてもそのきっかけを作りたいであろう。それも日本に兵力で干渉させて、しかもその責任も日本に負わせようという、まあ何とも都合のよい発議をしたもので(笑) ところが各国使臣もそれに同調したと。ま、西洋人というのはそんなものでしょう。
 で、小村としては、そんな重大事を直ぐには返答しかねると。また、日本公使の責任において、訓練隊のことはどうにかすると。

 で、在露西公使からは次のような報告があっていた。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割2 B08090168100」p72)

電受第六八八号訳
   電信訳文 二十八年十月二十五日発 二十六日接

西園寺大臣          在露西公使

第八十四号
 信拠すべき向より聞及ぶ所によれば、露国政府は将来に於て重大の葛藤を惹起し来るを恐れ、今回の朝鮮事件に就き、議論起す存念なきが如し。
 右の説を確かむる為め、本使は十月二十四日、亜細亜部長に面会し、彼の長日月に亘る交渉問題も[遼東問題]茲に終りを告ぐるに至り、又今回朝鮮に事変起りたれども、之に関して日本政府に於て及ぶ丈け満足に之を処弁しつゝあること故、両帝国間に困難を生ずることもあらざるべければ、今や勲章交換のことを談決するの時にてはなきや、と問い試みたるに、同部長答て曰く。
 勲章のことは決して忘れたるに非ざるも、今回の朝鮮事件は其の初めの報告によれば、事稍々重要と思われたるに付、近日は同事件に掛り居りたり。然れども最早事明瞭になりたれは、此より勲章のことに尽力すべしと。
 右の後本使は、自か外務大臣に就き、今回の朝鮮事件は困難を惹き起すべき見込なるや否探り試みたる処、同大臣は、困難を惹起すべしとも思わず、と答え、再び日本軍隊を撤回し候方よろしからんと云えり。
 依て本使は軍隊退の事は到底出来難き旨、前日申聞ける通り反覆申述べ置けり。

 前述の如き次第に付、露国政府は今回の事変に付ては我に対し難題を申出すことなかるべしと思考す。当地新聞も一日は日本に対し大に攻撃を試みたれども、今や攻撃を止めたり。

 露国としては直ぐに議論を起すつもりはないが、とにかく日本軍隊を朝鮮から撤回した方がよいと言ったと。
この時点で、もし日本軍が撤退するようなことになれば、再びの王宮政変が生じる恐れがあるのみならず、東学党も息を吹き返して乱の再燃となるは明らかなこと。朝鮮の治安や居留民の保護のことを考慮すれば、撤兵などできるはずもない。
 露国政府、言ってることが露骨すぎ(笑)

 当然のこと、日本政府としても小村公使の返答を以下のように了とすると。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割2 B08090168100」p76)

京城 小村公使                西園寺大臣

各国使臣会議に於て軍部大臣の更迭と訓練隊解散との事を申出たりとの電報接取せり。
右に対して貴官の返答は其当を得たりと認む。就ては国王の身上を安全に保つことに付き、周密に尽力せらるべし。又、一方に在ては、各国使臣より急迫なる議論を生ぜざる様の手段を講じつゝ、井上大使の着韓を待たるべし。
大使着の上は熟議を尽くし、方策を至急電報あるべし。

 んー、まさか露国としては、日本政府に日本の兵力で訓練隊を解散させるなどさせて、それを後から、日本政府の露骨な干渉であると非難して撤兵を迫るつもりだったんじゃないだろうなあw

 で、小村としてはそれ以外のことは、なるべく各国公使と歩調もあわせねばならないところであって、以下のように朝鮮政府に勧告した。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割2 B08090168100」p79)

電受第一一七五号 明治二十八年十月廿六日午后三時五五分発  午后十一時五八分着

西園寺大臣                         小村公使

本官は朝鮮政府に向かい、此際、皇帝陛下の尊号を奉り或は特派大使を欧州へ派遣するが如き、世の注意を引くことは一切避くべき旨勧告し、朝鮮政府に於ても本官の勧告に従い居りたる処、今回俄に議を変じ、義和宮を出発せしめ、尚お此日閣議を以て奉位式を挙行すべき都合に決定せり。
右に付、此夜英露米の各国公使、本官を訪い、右奉儀式を止め呉るゝ様相談したるに因り、趙義淵及兪吉濬を招き、懇々勧告を為したる結果として、此夜半再び閣議を開き、前議を翻えし奉儀式を行わざることに為せり。朝鮮政府が俄かに右等の事を断行せんとの決心を為したるは、井上伯来韓に報に接し、其前に事を決行し置かんとの考に出でたるが如し。
朝鮮政府は井上伯来着の上は、一切伯の干渉を謝絶すべき旨を両三日前、閣議を以て決定せりとのことなり。
李呵Oが我邦へ行くことは確定したりしが、本官に於て其出発を引止め居る次第なるが、外国人等は同人王位を窺窬するの念ぜることを疑い居る模様あるゆえ、成るべく速に同人をして出発せしめんこと得策なりと存ず。

 まあ、朝鮮政府の中では、清国の隷属から解き放たれたんだし、この際、正真正銘の独立国として、そのトップも皇帝と称するべきである、とかなんとか議論があったのじゃないだろうか。で、井上伯が来る前に決行しておこうと。でも、井上伯の干渉は一切謝絶すべしと閣議で決めてたなら、別に井上が来ようがどうしようが関係ないのでは? なんだか最初から腰が引けてる(笑)。英露米の公使が反対したとは言え、こんな国の重要事項を説得されてあっさり翻したりするし。

 で、同日、西園寺大臣は西公使に、小村が露公使らの発議に応答した内容を伝え、訓練隊解散と軍部大臣更迭の件は、自分も慎重に行わずに拙速に出れば非常に危険なものとなると思うと述べ、露国政府にこの問題で注意を促すよう命じた。(「同上」p84)

 さて、この頃である。西公使による露国の戦略の詳細な報告が日本政府に到達したのは。
 まあ、当時としてはその内容は今更言うまでもないことだったかもしれない。ロシアが朝鮮に不凍港を設けて太平洋進出拠点とし、シベリア鉄道完成と共にいよいよ南下を始める意があることは。また、朝鮮を保護下に置こうとすることも。それらは三国干渉におけるロシアの意向をさぐれば明らかだったはずである。それでも、ロシア政府の戦略が明瞭になった情報として重要なものだったろう。
 で、それが分かったところで、どうしようもないのが当時の日本政府であって、ただひたすらロシアと事を構えないように努めるのが精一杯と。

 で、政府からの派遣ではなく宮中から送られた井上馨に、伊藤博文としても一言せずにはおれない。大磯にいた伊藤は次のように打電した。
 「我宣言は我政府対韓の意思を明にし、他の疑惑を釈くに在りて、新に入組たる問題を惹起することを好まず。貴官は右の趣意を了承せらるべし(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割3 B08090168200」p2)」と。

 さて、その井上が再び朝鮮に来ると知った朝鮮政府の困惑ぶりを小村は次のように報告している。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割3 B08090168200」p3)

電受第一一九八号 明治二十八年十月三十日午前十一時四分発 午後六時三十分着

 西園寺大臣                       小村公使

井上伯渡来に付ては種々の風説を生じ、頗る困却せり。然れども朝鮮政府へ対しては、同伯渡来の旨趣を再三弁明せしに依り、最早誤解なきものと信ず。但し、訓練隊は、同伯入京の上は廃妃を復し大院君を斥け且つ訓練隊を悉く処分せらるべきことゝ信じ、我々は死すとも王宮を離れずと決心し居れり。
右の次第に付き、同伯滞在は成るべく短かからんこと得策と思考す。

 続いて次のように報告。

(「同上」5p)

電受第一二〇三号 明治二十八年十月三十日午后六時五分発 午後十一時四五分着

 西園寺大臣                       小村公使

昨夜、内閣会議に臨み、訓練隊を王宮外に出す様厳談したるに、其の隊長[ウハンゼン、リケイコウ・・・・・落字]は、一歩も君側を離れずとの決心をなし、之を強うれば金宏集以下も害しかねまじき模様ありとの事故、已むを得ず其の侭引取りたり。然るに其後の報に、右両隊長は昨夜閣議の後ち、何れへか出奔せりとのことなり。此上は訓練隊の始末を付くるは容易なるに付き、一応解散し、更に同隊及び旧侍衛隊中より慥かなるものを選びて新護衛兵を組織し、又大院君は王宮外に退出せしむるの考えなり。

 要するに訓練隊第1大隊長李斗璜と第2大隊長禹範善は辞任したと。

 西園寺は、
「訓練隊を一応解散し、更に新護衛兵を組織し、大院君を王宮外に退出せしむるの御考えは之を是認す。但し、紛擾を来さゞる様、十分に御注意有之たく、且、新護衛隊を組織するに就ては、後日に我に責任を残さゞるの御注意有之度し。井上伯にも御協議有之候」(「同上」p6)
と指示した。

 しかし、これら小村も含む各国公使の画策は、朝鮮政府からしてみれば一種の内政干渉となるのではないだろうか。まあ、金宏集内閣の方もなんだか萎縮してしまっているようではあるが。
 改革派としては、王妃派を排して内政改革派の勢いを取り戻すだけだったはずが、王妃殺害にまで至った事に気落ちしているのであろう。とくに金宏集などは。
 まあ、ひとり大院君だけが得意満面だったりして。

 

井上大使の入京

 10月31日、井上大使一行は京城に到着した。
 で、翌11月1日付で次のように報告。

「同上」p14、()は筆者)

電受一二一一号 明治二十八年十一月一日午后十時七分発  二日午前二時四十分着

                       井上大使
  西園寺大臣

遼東半島談判の模様は、其後如何の運びになりしや。御報ありたし。又、当地到着後[アレン(米国公使館医師・書記官)]へは未だ面会せざるも[コックリル(米国新聞通信員)]及び[シル(米国)]公使へ面会したり。当地駐在の各国使臣は、本大使の来着を俟ち兼ねたる模様にて、到着したる為め大に安心したる様子なり。
訓練隊の隊長禹範善、李斗鎬(璜)は本邦へ行くやも計られず。若し、我臣民に於て彼等に対し保護するが如き処置を執るは、甚だ不都合と思うに付、篤と御注意を乞う。
本大使は充分に実際の事情を諒得したる上、国王へ謁見する積りにて、多分四日又は五日になるべし。
金宏集、金允植、趙義淵、鄭秉夏、金嘉鎮等来訪に付き、王妃の生死、王妃の悖徳に関する勅令等の事柄を質問したるに、何れも皆恐怖を懐き、事情御察し下されと相答え、事実を吐露せず。
石塚は此度の事件に対し、頗るシンパシイを有する由に付、帰着後は余り他言せしめざる様、本人へ厳重に御申付置を乞う。

(欄外)[内務大臣へは、訓練隊の隊長禹範善、李斗鎬(璜)のことに特に御注意を請う。外務大臣]

 問題の10月8日事変の当事者すなわち禹範善、李斗璜が、日本に来て、しかもそれを日本国民が保護するようになっては甚だ不都合なので注意されたいと。

 で、金弘集総理、金允植外務、趙義淵軍部、鄭秉夏署理、金嘉鎮などが来たので、王妃の生死や廃妃の勅令などについて質問したが、いずれも皆恐怖を抱いてただ「事情をお察しくだされ」と言うばかりで事実を打ち明けなかったとある。厳しい大院君執政下にある彼等の強い警戒心が窺われる。

 また、石塚とは例の書簡を伊藤に送った日本法制局参事官であり朝鮮政府法律顧問官であった石塚英蔵のことであろう。石塚は、ずっと以前から末松法制局長官から日本に帰すように要請があっていたが、朝鮮法律の制定に欠かせない人物として滞在し続けており、ついにこの事変に遭遇した。それが10月22日に速かに帰国させるように西園寺から指示があっていた。
 井上はシンパシイと言っているが、彼は伊藤への手紙の中で、「王妃が従来改革之妨害たる事は、小生共之夙夜憤慨に堪えず打過候事なれば、此断然なる処分を喜ぶと同時に、其方法の宜しきを得ざりしを深く惜まざるを不得と存候」と述べている。つまりは、改革妨害排除の断然たる処置は賛同するが、その方法がよくなかったのは残念だと。
 したがって、井上が他言させるなというのは、手紙にあるような伝聞から得た現場状況を話すことに関してだろうと思われる。
 このことで髣髴とするものに、明治17年朝鮮事変の時の新聞検閲条例のことがある。当時、日本の新聞に、清兵が日本人妊産婦の腹を切り裂いているのを見た、という朝鮮人証言が記事に載り、政府はただちに検閲内規に「甚だしく人心を激動させるもの、例えば清兵韓民が我が国の妊婦の腹を裂いたなどというものの掲載は不許」としたのと同様の感覚からではなかろうか。

 まあ、自分が見たわけでもない与太話を吹聴して回るなと。

 

王宮護衛のための日本兵問題

 続いて、井上・小村と両名からの報告として、米露公使と英独領事の申し込みにより、以下のように会議を開いたと。

(「同上」p22)

電受第七三五号 電信訳文
        廿八年十一月六日午前二時三十五分発   十一時五十分接

西園寺大臣
                               井上大使
                               小村公使

第一八七号
当地、目下の事態危急なるに付き、在朝鮮の米露公使及英独領事は、井上及小村と相談致度旨希望申出でたるに因り、本日[十一月五日ならん]当公使館に於て、公然となく会議を開き、朝鮮国目下の形勢に付き極親密に討議し、皆胸襟を開いて所見を吐露せり。
米国公使は其の同僚を代表して述べて曰く。

国王は全く王宮護衛兵軍部大臣及他の過激なる重立たる官吏の掌中に在りて、此等の者共は若し国王に於て其の意に逆い何事にても述ぶるときは、之を殺せんと威嚇するに付き、国王に於て言行の自由を得ること能わず。因て国王の危急を救う為め、強力を以て彼等を王宮外に追出し且其目的を達する為め、日本兵を王宮に入らしむること、刻下の急務なりと。

井上述べて曰く。

在権の人々及王宮護衛兵を追出すことの必要に付ては余は米国公使と大体に於て同意なり。然れども、若し突然強力の手段を執らば、王宮護衛兵と日本兵との間に衝突を醸し、再び容易ならざる葛藤を惹起するに至るの恐れあり。而して斯る葛藤は朝鮮国の秩序を維持し、東洋の平和を保つ為め、総ての手段を尽して之を避けざるべからず。因て余は、各国代表者に於て何か協同の処置を執るを得策なりとすと。

右、討議の最終の結果は、各国代表者に於て此目的を達する為め協力すべしと異口同音に決定したること之なり。

国王を安全ならしめ、且秩序を保つ為め井上其の確信する所を述べて曰く。先第一に必要とする手続きは、大院君を王宮外に追出すに在り。然る後他の手段を実行するを得べし。井上は又、其の最も希望する次第を説て曰く。

斯の如き手段を実行するに付ては、成丈け強力を用ゆることを避けざるべからず。何となれば、今又我が兵を動かさば忽ち外国の猜疑を招くこと火を見るが如しと。

外国代表者遂に約するに彼等は会議の結果を其本国政府に電報して訓令を請うべしとの事を以てせり。

金宏集は明日井上に面晤を求めたり。尤も井上は同一の意嚮を維持し、当国の形勢に関しては、毫も意見を吐露せず。唯だ朝鮮政府が将に執らんとする処置に付き、金宏集を叩き試んとする考なり。而して井上は此の考を内々外国代表者に洩したるに付き、遂に金宏集と面晤の結果を待て更に協議することに決せり。

本官等に於て強力手段を用いざる決心なれども、目下の形勢上結局我が兵を以て王宮を衛るより外に途なきを恐る。而して若し国王の請求を受け、外国代表者の勧告に因り遂に此事を決行するも、左まで大事の結果を虞るに及ばず。
右の必要あるに付き、本官等に於ては在京城我軍隊指揮官へ訓令を発せられ、我が公使館の請求に応じ何時にても護衛として我兵を王宮に入らしむる様、御取計あらんことを請求す。

 ようするに米国公使が言うのには、国王は脅迫されており、言行の自由もないので、これを救わねばならないと。ついては、日本兵を王宮に入れるべきであると。
 で、井上はそれに対して、それでは護衛の朝鮮兵と日本兵が衝突するかもしれず、再び容易ならない事変となる恐れがあると。で各国代表者で何か協同して取り組む方がよいと提案し、結局皆も協力することになったと。

 まあ、井上が言っているように、日本だけが兵を動かしたなら、たちまち諸外国から日本が疑われることになろう。それで井上は、それぞれ本国政府に電報を打って訓令を求めたらどうかと。とにかく金宏集に会ってから決めることにしたと。
 で、日本政府への井上・小村の意見としては、もし国王の要請があり、各国使臣の勧告により、遂にこれを決行することになっても大事にはならないだろうから、いつでも兵が公使館の要請によって動くように取り計らってほしいと。

 ところが西園寺外務は以下のように返電。

(「同上」p27)

電送第八三〇号 明治廿八年十一月七日午後一時四三分発

小村公使                                  西園寺大臣

去る一日の貴電にて、訓練隊は解散となり、更に同隊及侍衛隊の中より親衛隊なるものを組織して、王宮守護に充てられたることと承知し居りたる処、第一八七号電信によれば、王宮の護衛兵は尚お未だ改められざるが如し。已に親衛隊なるもの出来たりとせば、何故に今更らに之を退くの必要あるや、実際の情況至急回電すべし。

 新たな親衛隊のことはどうなったのかと。それが出来たとするなら退かせる必要があるのか、と。そしてすぐに続けて以下のように打電。

(「同上」p28、()は筆者)

電送八三一号 明治廿八年十一月七日午後四時十五分発

井上大使                                  西園寺大臣
小村公使

米露公使及英独領事より、我兵力を用いて朝鮮の護衛兵、軍部大臣其他の官吏を追出すと云の相談に対し、貴官等の穏和手段を取るを得策とせられたるは、我政府の廟議に協えり。
凡て我政府は今後アクチーブ[進働的]の処置は力めて避けざるべからず。其故は如何なる事にても我の行為より惹て朝鮮将来の紛乱を醸すが如きに至ては、容易ならざる責任なり。縦し(よし)、各国政府より我の兵力を以て朝鮮の内政に干与せよとの要求あるも、我政府は其の惹て朝鮮の紛乱に至るも測るべからざる虞あれば、日本国は其責に任ぜざると云迄明らかなるにあらざれば、危険のことと思考せり。
故に、諸外国の代表者は協議一致の上、朝鮮政府に勧告する位の事は妨げなきも、各外国公使の勧めあるも、我兵力を動すが如きは万々然るべからず。
尚お、国王の危険なりと云事実ありとせば、充分に探聞の上、細報あるべし。故に目下我軍隊指揮官には訓令を下さず。

 上記25日をもって各国に表明した電送第五〇五号の文章にもあるように、「日本国政府の政略は無干渉の方針を執るものにして」であって、5月に決定した日本政府の対韓方針に照らしても西園寺の述べるとおりであろう。

 しかし小村は先の第八三〇号への返電として新たな護衛兵のことと合わせて再び以下のように意見。

(「同上」p31、()は筆者)

電受第一二三六号 廿八年十一月七日 午后十時十五分発 同十一時三十五分着

 西園寺外務大臣                                小村公使

朝鮮政府は、曩きに本官の勧告に従い、訓練隊を解散し更らに同隊及び侍衛隊の内より護衛兵を組織することに決し、其旨公布したるに拘わらず、実際は旧訓練隊のみ宮城内に在り。趙義淵、権在トン(衡)等と結託し居り。彼等を処分するには、先ず訓練隊を城外に退くるの必要あり。且つ我兵を宮城内に入るゝは我より進んで主張せるにあらず。各国公使等に於ても此の手段に依るの外、他に事局を収むるの道なしとて却て我に勧告せることにて、彼等は国王の身の上の危害旦夕に迫り居るものと信じ居るのみならず、趙義淵等が国王を擁して他所へ遁れんことを深く憂い居れり。然るに趙義淵等に於ては、却て国王が露国公使館に遁れんことを恐れ、均しく我兵の入城を冀望し居るに付き、此際我兵を入城せしむるも決して騒擾を醸すの恐れなしと信ず。

 その目的とするところは違うが、各国使臣らも日本兵が王宮に入るのを望み、そして趙義淵軍部大臣も却って日本兵が入宮するのを望んでいると。

 しかし西園寺の説得は続く。

(「同上」p33)

電送第八三五号 明治廿八年十一月八日午後一時二五分発。

小村公使                                  西園寺大臣

昨夜の電報受取れり。
我政府が此際主[ぬし]動[うごく]的行為を執ることを許さゞることは、昨日の電訓にて分かりしならん。要するに各国使臣に於て我兵を宮城に入るゝことを勧告するとも、彼等の言[ことば]行[おこない]は、他日其本国政府を束縛するの値を有するものに非らず。
今日一歩を誤る時は他日臍を噬むの恐あり。此辺深く御注意ありて我政策に背かざらんことを要す。
各国使臣に於て国王の身辺危しなどと言い触らすは、旧王妃派が大院君を追出さんとして捏造したる風説に惑わされ居るものには之れなきや。内密に探りて電報すべし。

 ついでに井上大使にも注意を促した。

(「同上」p35)

電送八三六号 明治廿八年十一月八日午後三時五十分発

 井上大使                                 西園寺大臣

三浦公使以下司法処分に就ては、各政党の議論紛々たり。此際万一にも軽挙に我兵を王宮に入れ訓練隊を追出す等の事あらば、三浦の処置と其趣を同じくするものなりとて容易ならざる形勢を内地に生ずる事は、予め測知するに足れり。踈[おろか]なき事と信ずれども、念の為め御注意あらんことを望む。

 で、それらに対して小村公使が以下のように返事。

(「同上」p36)

電受第一二三八号 明治廿八年十一月八日 午后九時十分発 同十時四十分着

 西園寺外務大臣
                               小村公使

朝鮮政府に対しては元より主働的の行為を取るに非らず。又我兵を動かす事に付ても各国公使各々其本国政府の訓令を得て之れを勧告するにあらざれば着手すべきにあらず。是事に付ては深く注意を加え、決して軽率の挙働に出でざれば、御安心ありたし。

 軽挙はしないから安心されたいと。
 しかし、もし各国の本国政府の訓令があれば着手すべきということになる返事である。

 

10月8日事変の調査

 さて、小村寿太郎が、事変取調官として朝鮮に急派され、京城に到着したのが10月15日(「B08090168000」p76)
 その翌々日の17日には、早くも次のように調査の一報を発した。

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割1 B08090169400」p17)

電受第一一一二号

明治廿八年十月十七日午后七時四四分発  午后八時二〇分着

今回の事変に付ては、官民共に頗る関係者多くして、其事実を得ること最も難し。然れども、今日迄の取調により本官の確実と認むるもの左の通り。
即ち此事件の使嗾者は三浦公使にて、大院君と同公使との間を周旋したるは岡本柳之助と察せらる。而して公使館員中の関係者は杉村書記官、堀口領事官補、国分通訳官、藤原警部、及巡査六名なり。
王妃は日本人の手にて殺害し、其屍を焼きたり。此節大に尽力したるは領事館巡査なり。守備隊は全く三浦公使の命令を奉じて進退したるものと認む。守備隊武官中の関係者に付ては、田村中佐より陸軍大臣へ報告せらるべし。
                               小村
      西園寺大臣

 京城に着いてわずか2日後の報告であるが、どのような調査に基づき、どのような証拠証言に基づくものであるかは述べておらず、その「確実と認めるもの」も筆者から見れば、少々、早とちりの印象を免れない。
 まあ、事変そのものだけでなく、内政改革をめぐる政変の複雑な事情を知らないままに、ただ表面だけをなぞるなら、このような報告となるのも致し方なかろうが。
 で、 小村は直に日本弁理公使に任じられたことにより、専ら公使としての務めに重きを置くようになり、事変調査のことは主に京城一等領事内田定槌が担当していくことになる。

 まず、内田は西園寺外務の命により、事変に関係した嫌疑ある日本人を在留禁止処分とし、ただちに退韓するよう命じた。当初、日本政府は専用の送還船を仕立て、兵士を使って護送するつもりであったが、それでは退韓者が不審を抱いて、現地でどのような騒動を惹き起こすかはかられないので、内田はそれを止どめ、退韓者の疑惑を招かないように注意しながら事を処した。

 退韓者は三浦をはじめ官軍民50人近くに及び、ことごとく広島宇品で収監され、地方裁判所にて取り調べられた。
 中には、大院君からの謝礼金の配当を受けんとして、事変に関係していないにもかかわらず名乗り出たために、退韓処分を受けて拘留され、あげくに予審裁判被告の一人となった者もいる。

 10月24日、芳川顕正司法大臣から西園寺外務への申し出により、事は緊急を要するので、外務省の手続きを経由することなく、直接に広島裁判所と朝鮮駐在の領事と連絡できるよう計らった。更に31日には、同じく申し出により、仁川、京城両領事は、広島地方裁判所の犯罪事件捜査嘱託となった。もっとも地理上、主に京城内田定槌領事が捜査に当たり、広島地方裁判所吉岡美秀予審判事、同じく草野宜隆検事正との間で捜査委託と報告のやり取りを行っている。

 さて、朝鮮国に於いて日本人が罪を犯した嫌疑がある場合は、通常は当地居留区の日本領事が取り調べて処分を課す。しかし、今度ばかりは全てを本国の裁判所で処すこととなった。
 このことについて、内田領事は、もし外国人が今回の事変に関係する日本人の審問を領事館で行わない理由を問うたときは、どのように返答すればよいかを西園寺外務大臣に尋ねた。
 それに対して西園寺は次のように答えた。

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割2 B08090169500」p41)

電送第八一〇号 明治廿八年十月三十日午后二時八分発

内田領事                                                                西園寺大臣

今回の事変に関係せる本邦人の審問を其館に於て行わざることに付、外国人より其の理由を貴官に問うことあらば、知らず、と答え置かるべし。
貴官の心得までに申せば、理由の重なるもの左の如し。
京城に於ては此る重大の事件を処分すべき充分機関備わり居らず。且つ官民共に加わり居ることゆえ、取調上不便尠からず。随て、充分の審問を遂ぐること能わざるやの恐れあるのみならず、嫌疑者を其地に留め置きては危険あるが故なり。

 実際、規模が大きすぎて領事館で審問するのは無理。まあ、日朝修好条規第十条には「日本国官員の審断に帰すべし」とあるだけなので、どちらでもよいのだが。

 さて、広島地方裁判所検事正草野宜隆による内田領事らへの捜査依頼は次のようなものであった。

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割2 B08090169500」p51より、()は筆者)

広島地方裁判所検事局 秘第五八号

岡本柳之助其外別紙人名之者共、明治廿八年十月八日払暁、朝鮮国京城に於て王宮に侵入し、殺害其他の暴行を為したる事件は、謀殺及び兇徒聚衆の罪に該るものと認め、本職より起訴の上、目下当地方裁判所に於て予審着手中に有之候。就ては左記の事項其他被告人の利不利に拘わらず、又直接間接を問わず、証憑及び事実参考と為るべき事項は、詳細御捜査の上、其捜査に関する書類物件至急御回付有之度、此段及嘱托候也。
  明治廿八年十月廿七日
     広島地方裁判所検事正草野宜隆

 在朝鮮国京城日本領事館
   領事内田定槌殿

追て前文の書類物件は、其一部にても至急入手を要し候に付、全部御取調済を待たず、随時御分送有之度、又犯罪の当時は又は其前後に於て貴官の見聞せられたる事項詳細御報知有之度候。此段申添候也。

     捜査事項
一 暴挙の原因目的及び其実行の模様
二 暴挙予謀の月日場所及び其予謀に加わりたる者の氏名
三 犯罪の教唆者首魁及び現に人を殺傷したる者の氏名
四 殺傷せられたる者の氏名身分職業住所年齢及び其被害の模様
五 暴行の際、見証人あらば内外人を問わず其見証人に就き事実聴取の事
六 別紙被告人の外、事犯に関係したりと認むべき者あらば其事実取調の事
七 暴挙の前後に於ける各被告人の挙動
八 暴挙前後に於て各被告人より発し、若くは此等の者の受取りたる電信原文電信局に存在の有無、若し為し得べくは其写書の送致
九 暴挙後罪証湮滅の為め兇器衣類其他の書類物件を隠匿毀壊したる等の有無、若し之れあらば其者の氏名及び其模様。

(以下嫌疑者氏名表)

 なお、仁川橋口領事にも同様を送付した。

 「謀殺罪」は死刑であり、「兇徒聚衆の罪」は「静謐を害する罪」に属し、軽きは2円の罰金から重きは死刑までが適用されるものである。

それで、「貴官の見聞せられたる事項詳細御報知有之度候」とあったからでもあろう。11月5日に内田領事は詳細なる報告書「明治廿八年十月八日朝鮮王城事変之報告」を書き上げ、同7日に西園寺外務大臣宛に郵送した。
 これは今では有名となった「機密第三六号」であるが、筆者としては、資料を読むに当っての注意を冒頭に添えざるを得ない。
 事変後ほぼ1ヶ月の報告で詳細を極めているが、伝聞情報からの推測、断定などが見られ、また後の署名証言によって修正されねばならない箇所も少なからずある。しかし内田領事は、この報告をもって証拠とするよう検事正に送付したために、西園寺外務大臣から次のような注意を受けている。

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割3 B08090169600」」p66、リンクは筆者)

機密送第三二号
明治廿八年十一月三十日起草 同年同月同日発遣
機密
        外務大臣代理西園寺侯爵
一等領事内田定槌殿

本月二十二日、同二十三日、同二十九日発、合せて三通の電報領収致。右二十二日発の電報によれば、貴官より本月十二日付を以て広島地方裁判所草野検事正へ報告したることは、皆同検事正よりの問答に応じ返答したるものなりと御申越に相成候。右報告は十一月五日付機密第三十六号を以て本大臣に報告せられたるものと殆んど同一のものに有之。而して該報告中には三浦公使より貴官に宛てたる私信のことあり。或は貴館にて同公使食事中の談話を記載し、前後を鑑み推測を下したることあり。或は王妃の自筆に成れる露公使の留任願書を、杉村書記官が其机の引出しより取出し居るを公使館に於て一見せりと云うことあり。或は三浦公使、大院君共謀に基き多勢の人々王宮内に乱入し、王妃其他の人々を殺戮せり等、裁定を下したる如き語気あり。
是等の如きは凡て他に対し報告すべき性質のものに無之、又二十三日発の電報を以て請訓せられたる義に付ては、草野検事正より、如何なる事を問合わせたるか、未だ其写に接せざるを以て、之を知るに由なしと雖ども、若しゼネラル・ダイに面会し、当時の模様を尋ねられたしとのことなれば、ダイの返答のみを申送り、貴官が王宮巡回中、巡査より内々聞込みたることまで、付加するの必要は有之間敷候。
要之既に再応電報を以て及訓令候通り、今回の事件に付ては、貴官は領事の職務上、裁判所の嘱托により、取調を為すものにして、自ら予審判事の職を執るものにあらざるに付、裁判所より問合あるも、之が答弁を為すには最も慎重なる注意を要する次第に有之。即ち貴官職務上黙秘すべき義務ある事柄は不及申、職務上知り得たる機密を其侭他に対して報告することを得ざる義に付、其事を充分御注意有之様及度此談及訓令候也。

 なお、「機密第三十六号」と検事正に報告した「機密裁第二号」との相違部分は別頁を参照のこと。

 つまりは「機密第三六号」を読むに当って注意せねばならないことは、内田定槌一等領事によるこの報告書も、かなりの部分が伝聞情報に依拠したものであることである。むろん、聞き取り調査による部分や証拠に相当する別紙も含まれているが、報告日付の11月5日の時点で、実は内田はまだ正式の証人訊問をしてはいない。日本人のみならず朝鮮人や米国人などの証人訊問調書も、この報告の後に提出される。そしてそこでは新たな事実などが明らかになるのだが、もちろんこの報告書には書かれていない。よって、それらの点を注意して読まねばならない報告である。

 で、現代では、この時の西園寺の注意が、日本政府による隠蔽工作であると疑う人もあるらしい(笑)
 しかし、よく読めば西園寺の言うとおりであって、日本政府の方針は「飽くまで今回事変の真相を審にし」なのであるから、予断や想像で断定するのではなく、どこまでも明確な証拠に基づくものでなければならないはずである。また、事は外交問題でもあるから、当時としては機密に属するものとそうでないのとは、厳しくけじめをつけねばならないもののはずである。

 さて、それでは、広島地方裁判所からの内田領事への捜査委託が具体的にどのような手順を踏んだかと言えば、一例をあげれば以下のようなものであった。

 謀殺及兇徒聚衆事件に付、漢城新報社にある刀剣悉皆押収送付あれ。
 明治二十八年十一月四日
                             広島地方裁判所
                               予審判事吉岡美秀
  朝鮮国京城領事館
   二等領事内田定槌殿
右 暗号電報
(「B08090169500」p83)

 つまりは内田領事への直接依頼であり、次にはこのように領事に通信したということを、地方裁判長から司法大臣経由で西園寺外務に報告。(「同上」p82)
 一方、内田は次のように直接に予審判事に返電。

   明治二十八年十一月五日午後五時発電
漢城新報社にある刀剣押収の件承知せり。佐々正之の薬店及其他へも証拠物件の存在する所あるべきにより、時機を見計らい一時に押収する方可然と存ず。尚お御取調の上何分の義申越されたし。
                               内田領事
広島地方裁判所
 吉岡予審判事
(「B08090169600」p8)

 その後、内田領事は西園寺外務宛、裁判所からこのような依頼があり、このように返電したと報告する、というような手順を踏んでいる。(「同上」p5〜p8)

 つまりは、外交上機密に属するような事柄であっても、これを求められるままに裁判所に通知するかどうかは内田領事の判断に委ねられており、これでは日本政府としては内田に向かって、充分に注意するように、と指示せざるを得ないだろう。
 しかしこれは裏を返せば、内田領事の捜査報告は、外務省による何らかの操作が入っているものではない、ということにもなろう。

 そういう意味で、内田定槌による一連の捜査報告は、事実を解明する点に於いて貴重な資料の一つと言えよう。もちろん、その数多の報告の全部を把握し、且つ吟味せねばならないものであることは論を俟たない。当然のこと、不正確な「機密第三六号」のみで結論を下してはならないだろう。

 さて、10月8日事変の捜査内容が伺えるこれら内田領事と地方裁判所とのやり取りは、主に「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割2 B08090169500」、「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割3 B08090169600」、「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4 B08090169700」、「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割5 B08090169800」に収録されている。

 筆者としては、それらの資料の中から主に殺害事件にかかわる部分を抜粋して「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2) 補足資料」の各項目中に掲載した。それらの項目を時系列順に取り上げれば、「機密裁第二号(機密第三六号とほぼ同文) 11月5日」、「加害と被害など 11月6日〜12月24日」、「大院君の謝礼金 11月11日」、「公訴の困難さ、証人や証拠の不足 11月20日〜12月24日」、「ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第1回 11月20日」、「ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第2回 11月22日」、「証人鄭秉夏訊問調書 12月10日」、「証人玄興澤訊問調書 12月12日」、「宮女殺害の事実なし 12月13日〜」、「証人ゼネラルダイ訊問調書 12月16日」、「予審終結決定書 明治29年1月20日」となる。

 これによって理解出来るように、11月5日時点による「機密第三六号」は調査結果の詳細報告としては結論が早すぎるのであって、物証の押収や証人尋問などは、何とこの後に行われるのである。したがって機密第三六号すなわち「機密裁第二号」は、取敢えずの第1次報告とでも言うべきものであって、法的手続きによる証拠や証言などが揃った後に、正式の事件始末報告があってしかるべきであろう。

 ところがここに厄介な問題があった。それは、殺害の目撃者が見つからず、また被害者の親族からの申し出もなく、事件解明の協力も朝鮮政府からは得られないということである。

 すなわち11月20日付で草野検事正の言葉に、「該事項の取調は、被告人以外の人にして殺害の現場を目撃したる者、若しくは被害者の親族等の証言を要することなれば、其取調方甚だ困難なるべしと察せられ候。然るに該事項にして明白ならざるに於ては、犯罪の構成上、主要の条件を欠き、従て公訴の目的を貫徹する能わざるに立至るも難計、心配の至りに有之候」とある。

 また12月2日付で内田領事が言うように、当初、「当国政府に於ては、今回の事変を以て犯罪と見做さず。王后陛下遭難の事実は固く秘して之を発せず。人民も亦此事変に関し、其実況を口外するを忌むの有様なりしが故に、其取調方、頗る困難に御座候」であったが、その後、「(11月)廿六日に至り、当国政府は弥々今回の事変に関する犯罪人を取調ぶべき旨を宣言し、尚昨一日に至り、王后陛下の喪を発表致候次第に付、今後は当国人よりも続々取調の材料を得ずるべき見込に御座候。而して其取調の方法は、本官より公文を以て当国政府の其筋に向い、被害者の員数氏名住所年齢等を問合せ、尚相当の手続により、被害者が本邦人に殺害されたる事実を知り居る当国人の証人として当館に呼出し、之を訊問致候わば、法律上有効なる証拠を挙げ得らるべき義と存候」であった。

 しかし、朝鮮政府が提出した被害者に関する文書には、ただ、「朝鮮国王后陛下。姓は閔[名は無し]年四十五歳、同宮内大臣李耕植 京城安洞居住 年四十五歳、同訓練隊連隊長副領 洪啓薫 京城斎洞居住 年五十四歳」とあるだけであった。

 また、その後の証人取調べなどによる証言も事件真相解明に寄与できるものとは言えず、12月2日の捜査嘱託に、「十月八日、本邦人多数兇器を携え、朝鮮国王城に闖入し、王妃閔氏、宮内大臣李耕植等を殺害したる事実あらば、其暴行の始末、被害の模様即ち殺されたる者の氏名・年齢・殺害の場所、創傷のヶ所、死体の取片付抔、同国宮内府吏員、宮女并李の家人、其他何人にても当時の事実を知る可しと思料せらるゝものを証人とし、詳細取調べありたし」とあって、改めて吉岡予審判事が真相を解明するに足る証拠証人を求めたのであるが、結局は内田領事の12月24日付吉岡予審判事宛電文で、
「尚当国宮内府吏員、宮女、並びに李家人中、十月八日王宮事変に関する事実を知る者あらば、之を取調ぶる為め其呼出方を当国政府の其筋へ照会致候。然るに何分倉皇の際なりし故、宮内府吏員及宮女と雖も明かに其事実を知り居る者無之、又た李の家人中にも彼の事変に関する事実を熟知せる者無之のみならず、事変後、皆遠隔せる郷里に向って立去り、目下在京中の者一名も無之、従って当館へ出頭すべき様取計兼候旨、回答有之候。其他露国人『サバチン』なる者は彼の事変の際、王宮内に居合せ、当時事実を知り居候哉に聞及候え共、同人も亦目下当地に在留せず。其行先不分明にて、取調べの途無之候。付ては本月二日の御嘱托に対しては、本官に於ては最早出来得べき丈の取調は先ず結了したるものと御承知相成度、此段申進候」
とあるように、最早出来るだけの取調べは終了したとする外はなかった。

で、それらを総合しての結論が翌年1月20日の「予審終結決定書」なのである。

 

「予審終結決定書」について

 筆者としては、これまで資料を追ってきた視点から言えば、今となってはこの「予審終結決定書」は不完全なものであると言わざるをえない。
 そしてそれは、巷でよく言われているような、免訴は不当であるとか、政治的圧力で免訴となったのだろう、ということではない。
 内田定槌領事の捜査報告だけに基づいたことによる片寄りがあるということである。
 たとえば11月6日、吉岡予審判事は内田領事に次のような訊問依頼をしている。

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割2 B08090169500」p88より、()は筆者、訂正は「B08090169600」p59による)

           在京城住所不詳
           元乙未義塾教員
                鮎貝房之進

右は本月一日、証人訊問方及照会候際、添付の氏名記即ち岡本柳之助外四十三名に、尚お大浦滋彦、蓮本安麿、鈴木重元、宮住勇喜を相加え計四十八名の、謀殺及兇徒聚衆事件に付、証人[或は参考人]とし、左の事項訊問相成、進行上必要と認められたる点は、事項外に渉るも随機訊問の上、其調書送致有之度此段及照会候也。
明治廿八年十一月六日

      広島地方裁判所
          予審判事吉岡美彦

 京城領事館
   二等(一等)領事内田定槌殿

     訊問事項

(1)一 証人は被告三浦梧樓が特命全権公使とし京城公使館に赴任の後、被告領事官補堀江(口)九万人(一)と相伴い、孔徳里に大院君を訪問し、堀口は証人の通弁にて大院君と談話したる事ある乎、あらば其月日及当時の始末如何。

(2)一 其際大院君より堀口に三浦公使に面会したき旨伝言を托し、尚お宮中の改良を企て居るが如き秘密に係る談話を為したる事ありや。あらば其顛末如何。

(3)一 本年一月三日頃、被告岡本柳之助より果して堀口は証人の通弁にて大院君に面会し、三浦公使の秘密に係る伝言を受来りし抔の事あるや否を証人に相尋たる事ある乎。あらば其顛末如何。

(4)一 堀口は三浦公使着任後、大院君を訪問したる事更に無之、証人と同道して孔徳里の邸に行きしは、本年四月中の事にして、其際証人の宅に於て大院君の従者洪顕哲に出逢い、其縁故に依り証人の通弁にて大院君と面会せしも、唯だ風俗詩画抔の談話を一二言為したるのみと云う。果して違いなきや。
以上

 鮎貝房之進という人物を訊問するよう依頼した文書である。この時点で、詳細報告である「機密裁第二号(つまりは機密第三六号)」はまだ広島地方裁判所には提出されてはいない。したがって、この吉岡判事の依頼内容は、広島地方裁判所での取調べによる被疑者供述に基づくものと思われる。その人物は誰かと言えば、(1)〜(4)の内容から推測するならば、おそらく杉村濬、堀口九万一、岡本柳之助などであろう。

 鮎貝への訊問各項の要点を記せば、

 (1)三浦公使の赴任後、つまりは8月以降に、堀口が鮎貝と共に大院君を訪問して、鮎貝の通訳で大院君と談話したかの有無と詳細。

 (2)その時に大院君から堀口に三浦公使への面会依頼があったか。また、秘密に関わる談話があったか、その内容。

 (3)今年1月3日頃、岡本から次のことを尋ねられたことがあったか。「堀口は大院君に面会して、三浦公使の秘密に関わる伝言を受けて来たことがあるかどうか」と。

 (4)堀口は三浦公使着任後は、大院君を訪問したことは無く、鮎貝と共に大院君の所に行ったのは4月中のことであって、その時に大院君の従者洪顕哲に会って、その縁故により大院君と面会したが、ただ風俗詩画などの話をしただけと言うが、果してそうか。

 となる。この訊問依頼に対する内田領事の返答は、11月17日付諸第五十六号(「B08090169600」p58) に於いて以下のようにある。
 「同人は過般王城事変以前より当国全羅道木浦地方へ旅行の侭未だ帰来不致に付、他日帰来の時を俟ち御嘱托の通り訊問可致候」と。
 つまりは、鮎貝は事変前から旅行に出ていて不在であると。
 鮎貝の調書も資料としては見当たらないので、おそらく終に訊問は出来なかったと思われる。

 さて、そうしてみれば、この(1)(4)の項に対しては、予審判事としては、内田領事が11月12日に広島地方裁判所に提出した「機密裁第二号」の記述を参考にするしかないということになる。
 以下のように資料を見れば分かるように、内田領事は、鮎貝房之進と堀口九万一と大院君の接点に関する部分を、それ以前に既に三浦が岡本を介して大院君との間に相談が出来ていて、堀口領事官補はそのような計画があるのを知らずに、友人の鮎貝房之進と偶然に大院君を訪問したと述べている。

(「B08090169600」p22、()は筆者)

抑も今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるものにして、大院君と王妃とは平素犬猿も啻ならざる問柄なる上に、近来同君は一層王妃の専横を憤り、機会もあらば再び入闕し、王妃を始め其党与を排斥せんとて時機を俟ちつヽありし折柄、三浦公使も亦当国に対する政略上、到底王妃を除くにあらざれば内政改革の行われざるは勿論、当国に於ける我勢力は全く地を払って去ること旬月を出でざるべく、而して之を除くには大院君の勢力を利用するより外に途なきものと思い、窃かに岡本柳之助を遣わし(中略)大院君の内意を伺わしめたるに、同君は若し三浦公使にして余の志を達せしむるならば如何なる条件にても承諾すべしとのことに付、其後岡本は三浦公使と大院君との問に立ち、数回の往復を為したる末、公使は岡本をして、大院君は入闕の後決して政事に容喙せざること、李呵Oは直ちに日本へ留学せしむること、及其他重要なる案件をば認めたる誓書を大院君より受取らしめ置きたり。
然るに其後堀口領事官補は三浦公使と大院君との問に斯る計画あるべしとは知らず、其友人鮎貝房之進なるものと共に偶然同君を訪問せしに、日本領事館より来れる人なりと聞き同君は窃かに裏門より之を通し、面会の上雑談中詩文の応答を為したりしが、其時同君の賦したる一篇の詩中、自分も再び入闕して政事に与りたしと思えども自分を輔佐し呉るべき知己なきに苦む、との意を寓したるにより、堀口も亦試みに其韻に和し、君にして若し志あらば必しも輔佐の人なきを慮うるに及ばざるべし、との意を寓したる一詩を賦し之を示したれば、同君も頗る満足の色あり。李呵Oを呼出し之を堀口等に紹介せしが、告別に臨み大院君は堀口に向い、子は岡本柳之助なる者を知れりやと問うにつき、堀口は之に対して、然り予は彼と懇意なり、と答えたり。大院君曰く、本日子と応答の事は、若し他日発覚せば子の累を来すやも計られずに付、今之を焼き棄つべしとて、当日の筆談書類及詩文の認めある書類は悉皆堀口の面前にて焼き棄てたり。依て堀口は稍大院君の挙止を怪み、帰って之を三浦公使に告げたり。

 ここでの堀口に関する言行がこの通りであったとすれば、(1)の問いは、「あった」ということになる。しかし次の(2)の問いであるが、ここでは、「同君の賦したる一篇の詩中、自分も再び入闕して政事に与りたしと思えども自分を輔佐し呉るべき知己なきに苦む、との意を寓したるにより、堀口も亦試みに其韻に和し、君にして若し志あらば必しも輔佐の人なきを慮うるに及ばざるべし、との意を寓したる一詩を賦し之を示したれば、同君も頗る満足の色あり」とのみあって、大院君が三浦公使に面会することを依頼したとの記述は無いので、「ない」ということになる。

 しかし、そもそもこのような設問が予審判事から出されたということは、堀口が大院君に会った時に、大院君の方から三浦に面会したいとの伝言を依頼し、なおまた、宮中の改良を企てるような秘密に係わる談話があったとの証言が、この時点で既に出てきていたからということになろう。おそらく、三浦か杉村の証言であろうと思われるが、そのことを同席していた鮎貝に確認するための問いであったことになる。

 それで杉村濬は、ここのところを後の「在韓苦心録」で次のように書いている。

(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「後編 3」p28)

九月末、堀口領事官補は窃に大院君を訪問し、同君より公使への伝言を依頼せられたりと称し余を尋ねたるに付、余は同氏を誘うて公使の室に至り具に其伝言を聴けり。大要は危亡に瀕したる現状を述べ、而して之を致したるは井上公使の罪多きに居れりとて、痛く同公使を非難したる上、之を救護する方法に付、御相談したければ三浦公使に面会したしとの意なり。公使は其場にては諾否の返答を為さず。堀口氏退席後、余に謂て曰く。初め東京出発の際に、早晩事変発生を予期したるも、明年一二月の頃までは大丈夫ならんと思いしなり。然るに何ぞ料らんや、事目前に迫れりと。蓋、堀口氏は、荻原警部、鮎貝某等と同志にして、洪顯哲と云う朝鮮人其間に立て大院君と連絡を通ぜり。洪は危激家と云わんよりは、寧ろ突飛にして九月十日頃一書を公使館に投じ、書中時弊を痛撃し、井上公使の措置其当を失えるを陰刺し、結末に及んで大院君を出さゞれば時世を救う能わざるを極論せり。同人は屡々院君邸に出入し遂に双方の連絡を謀りたるものと推測せり

 「堀口領事官補は窃に大院君を訪問し、同君より公使への伝言を依頼せられたりと称し余を尋ねたるに付、余は同氏を誘うて公使の室に至り具に其伝言を聴けり・・・・御相談したければ三浦公使に面会したしとの意なり」とある。
 つまりは、堀口が公使館の杉村を訪ねて三浦に伝言したのは、大院君が危機に瀕した現状を救う方法を相談したいので三浦に面会したい、ということであったとの、当事者である杉村濬の淡白な証言である。
 つまりは杉村濬の記述によれば、(2)は「あった」ということになる。堀口に関する部分について内田の記述とは相違する部分である。

 さて、 「あった」のか「なかった」のかを明確に判定する決定的証拠は見当らない。ただ、内田の記述のこの部分には不自然な点がいくつかある。

 そもそも堀口領事官補は、内田の機密裁第二号によれば、「稍(やや)大院君の挙止を怪み、帰って之を三浦公使に告げたり」とあるが、なぜ大院君に会ったことを、公使館の三浦公使にわざわざそれを告げたのであろうか。京城公使館と京城領事館は棟続きでもない別の建物である。更には、上司の内田領事にはこれを秘していた。
 明らかに不自然な行動であろう。

 してみると筆者としては、やはり上記の杉村濬の記述の方が不自然さのない頷けるものであると判断した。
よって、「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」において「・ 大院君、三浦公使に面会を求める」としたのである。

 また、これは単なるミスなのかどうか分らないが、もう一つ奇妙な点がある。この吉岡予審判事の訊問依頼について、このような依頼がありましたとの、内田領事から西園寺外務へ提出した報告書には、(2)の項目がすっぽりと抜け落ちているのである(「B08090169600」p59)。これには予審判事の依頼書に二等領事とあったのを、一等領事と訂正してあり、単純に写しミスとは考えにくいものである。つまりは、予審判事からのその部分は、西園寺外務は知り得なかったことになろう。ことは外務省組織の一員である堀口九万一に関することである。

 浮かんでくるのは、上司としての責任問題、あるいは苦労人である英才堀口九万一を庇いたい内田の心情。そういえばこの「機密裁第二号」全体の堀口に関する記述には、そのような内田の思いが滲んでいるように思えてならないのだが。

 そして、(3)は、岡本柳之助の供述によるものであろう。もちろん「本年一月三日」は「本年十月三日」の写しミスであろう。これも杉村濬の10月3日の記述と符節するものであるから「あった」となろう。(4)の「四月中」は9月末であろうし、「風俗詩画抔の談話」のみではなかったことはもちろんであろう。

 なお、収監中の堀口九万一は、外務次官原敬宛に切々たる復職願いを嘆願している。それによれば10月8日事変の際、「三浦公使の命令は取りも直さず政府の命令なりと信じ、一に其命令を遵奉して事に従い候」とある。それはそうだったろうが、しかし彼はこれほどの重大事を内田領事に対しては何の相談もしていなかったことから推察するに、やはり杉村濬が言うように、「蓋、堀口氏は、荻原警部、鮎貝某等と同志にして、洪顯哲と云う朝鮮人其間に立て大院君と連絡を通ぜり」だったのだろう。しかしこれは当時は明らかにならなかった。

 しかし事は重大である。三浦の命令がどうのこうのというよりも、そもそも事件の発端は大院君が決起せんとして三浦公使に面会を求めたことであり、更には先に元軍部大臣代理李周會らが大院君に決起を促したことであり、そのまた前に、「今日の如く王妃跋扈しては国家滅亡すべし・・・・今度は万事日本公使の意思を受け、王妃取抑え方に尽力したし(「明治28年6月28日から明治28年7月17日」p10)」という大院君の強い意志ではなかったろうか。

 内田領事の捜査報告に基づくしかなかった「予審終結決定書」では、堀口を介した面会の件には触れてはいない。それはそうであろう。鮎貝に訊問して確かめることも出来ないまま終結したものだからである。それによってそもそもの発端としての大院君からの依頼は、経緯曖昧の表記となり、逆に従なる関係者と思われる三浦梧樓が首謀者としてクローズアップされ、ついに「(被告三浦梧樓は)其機に乗じ宮中に在て最も権勢を擅にする王后陛下を殪さんと決意したり」と断定した文章になった。しかし三浦が王妃殺害を命じたかどうかの明確な証言も証拠もないのであって、このことは予審判事の推測の範囲内に止まるものである。したがって、証拠不十分で免訴とする外はないという結末を見ることになった文章である。

 つまりは、推測して威勢よくストーリーを組み立ててみたものの、それを証明する根拠性に乏しかったということになろう。
 筆者がこの予審終結決定書を不完全なものであると言う所以である。

 予審終結決定書について杉村濬はこう述べている。(全文はこちら)
「而して殺害の事は全く之に付帯して興りしものにて、主要なる目的にあらず。其結果は不幸にして殺害を目的とするが如きに至りしは、大勢に駆られて之に赴きたるに過ぎず。仮りに教唆者ありとしても、誠に隠微の間に発せしものと想像せられたり。初、三浦、杉村、岡本の三人、両度の会合に嘗て殺害の事を話頭に出したる事なく、又事件に関係したる四十余名の内、初めより殺害の事を関知せざるもの多し」と。
 また、こうも述べている。
「壮士輩は三浦に教唆せられたりと云うは、彼等は其責を遁れんとして三浦の教唆を受けたりと申立て、三浦も亦罪を壮士輩にのみ帰するを好まず。自ら其意を授けたる如く申立てたるものか、又は三浦は不言の間に微意を洩したるものか、余は判断に苦しめり」

 つまりは判断がつかないと。白黒をはっきりと決めつけられないのがまた歴史というものか。しかしそれでも大院君が真の首謀者であることは動かぬ事実なんですがね(筆者の独断(笑)

 最後に一言述べたい。もしこの予審決定に政治的判断が作用したというなら、壮士何人かが有罪となって結審したであろう。そちらの方が全員証拠不十分で免訴とするより政治的には遥かに得策というものであろう。
 まあ、いつの時代であっても、どういう決定が出ようが、その司法の判断に対して、とかく人はあれこれ言うものである。筆者もここであれこれ言っているし(笑)
 しかし、司法権の独立ということについては、かつて大津事件(露国皇太子襲撃事件)の時に、犯人の死刑を望まれた明治天皇の聖意を受けて内閣が懸命にそれを説得しても遂に通らなかったように、行政の政治的判断云々が反映するようなしろものではない。当時の日本の司法権の独立というものを人はあまりに軽く見過ぎじゃなかろうかねえ。(今はあやしいが(笑))

 

 

日露戦争前夜の日本と朝鮮(3)      目 次       日露戦争前夜の日本と朝鮮(5)

  きままに歴史資料集 since 2004/12/20