日露戦争前夜の日本と朝鮮(3)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴史料から)

王城事変一報、世界を駆けめぐる
「王妃は日本人から殺害された」「日本政府はSoushi(壮士)に責任を負わせたい」「日本の謝罪」など、様々な記事となって、アメリカでヨーロッパで、ロシア、清国でも、王城事変のことが大々的に報じられた。

事変後の朝鮮政府

 この10月8日事変は、王妃殺害事件のことを除けば、比較的に静かなクーデターであったと言えよう。それも王妃から内閣政府に権力が戻ってきたという、ちょっと変り種の。
 もちろん、前ページで書いたようにAグループによる政権工作であったから、大院君が入闕したことも国王の要請によるものであったなどと、いろいろと正当化の工作もせねばならないわけで。まあ、「大院君入闕始末」を読めばそこらへんが何となく見えてくるように思う。

(「明治28年10月起 明治29年1月結了 朝鮮内乱事件 秘 陸軍省 本文(3)」p21)

     大院君入闕始末

 近日、宮中の事、謂うに忍びざるものあり。王后閔氏、親党を援引し、聡明を壅蔽し、弊竇百出、李氏五百年の宗社幾んど一朝にして廃頽せんとす。大君主陛下、国政の日に非なるを憂い、民心の日に乖くを慨き、茲に我十月七日午前八時、密旨を大院君に伝えて曰く。

 近日群小彙進、権を弄し、旨を矯め、将に国兵を解散し、重臣を殺害し、国家擾乱せんとす。此時に当り、我国太公に非ざれば、以て波瀾を挽回する能わず。其れ宜しく速を趁い入闕し、君側を掃除し、革新の鴻図を成就せよ、と。

 大院君たるもの、身、宗親の家に在り。焉んぞ得て眼前危機を座視するに忍びん。情既に此の如く、而して勢既に彼の如し。大院君、是に於てや起つ。嚮きに大院君の孔徳里に幽居するや、閔氏は尚其の冥々の勢力を畏れ、総巡々検をして之を厳監せしめ、一出一入亦た意の如き能わず。然れども、今や王命煥如として下れり。踟躊事を誤まるを容さず。乃ち使を馳せて家従に通し、更に平生知遇する所の日本人数十名に告ぐ。

 翌八日午前二時半、急を聞て来り会す。是に於て家人をして日人の服装を着けしめ、倶に参内の随伴を命ず。蓋し日人に擬するに非ざれば、兵士の軽侮抵抗するを以てなり。一面には此の如くにして行途を警戒し、而して一面には榜文を頒布し、遍く入闕の意を知悉せしむ。曰く。

 近日群小、壅塞聡明、斥賢、用奸、維新之大業、将中道、而廃、五百年之宗社、一旦而危、余生于宗親之家、情不忍座視、故今欲趨闕補翼大君主、遂斥群邪、成就維新之大業、扶持五百年之宗社、以安爾等百姓、爾等百姓、若兵弁有沮我行者、則必有大罪矣、爾等悔無及
 開国五百四年八月二十日[我十月八日]

 三時半、孔徳里を発し、四時半西大門外に抵る。途に一隊の将卒に逢う。蓋し訓練隊第二大隊の積憤を大院君に訴えんとするなり。
 大院君乃ち士官を召し、令して曰く、

 予、今王命を以て入闕す。若し沮挌するものあらば撃退して通過せよ、と。

 五時三十分、光化門に達す。隊兵門の右側に在り。大院君の轎輿に発砲す。大院君顧ずして進み、先ず外殿に入れり。而して従う所の将卒、之と応闘し、須臾にして隊兵は悉く逃竄せり。此騒擾の際、宮内大臣李耕植及び訓練隊長洪啓薫、命を砲煙中に殞すと云。

 時に六時十分、大君主陛下は内殿に在らせらる。大院君乃ち趨て謁見せられ、王命によりて参内す。這般の事如が処理せんかを奉問す。陛下曰く、
 請う、其れ宜に従い措画せよ、と。
 尋で勅あり。曰く、訓練隊を以て王城を守備せよ。曰く、趙義淵を以て警務使に任ぜよ。曰く、武芸別監は仮置せよ。曰く、速に内閣大臣を召せよ、と。
 既にして陛下は御座を隣殿に遷され、三浦公使を召すべきの命あり。

 七時、公使は参内し、大君主陛下及び世子宮殿下に謁見せらる。

 八時、内閣大臣金弘集、金允植、中枢院議長鄭範朝、参内。

 十時、勅あり。李載冕を宮内大臣に、金宗漢を同協弁に任ぜらる。
 而して軍部大臣安駉壽、学部大臣李完用、農商工部大臣李範晋、警務使李允用、各々本官を免ぜらる。

 とまあ、そんなわけで国王の求めによって大院君は入闕したと(笑)。で「勅命」があって、訓練隊に王宮守備が命じられ、趙義淵は警務使に任じられたと。これら一連の人事改変は当日の官報にも記載されている。
 それによれば、
宮内府大臣李耕植、軍部大臣安駉壽、学部大臣李完用、農商工部大臣李範晋、警務使李允用は本官を免ぜられ、李載冕を宮内府大臣に、金宗漢を同協弁に、趙義淵は軍部大臣兼警務使に、徐光範を学部大臣に、鄭秉夏を署理大臣事務に任じたと。

 で、三浦公使の謁見が終った後に、各国公使が参内し、大院君列席の上で次のような問答があったという。「大院君入闕始末」の続きから。

(「明治28年10月起 明治29年1月結了 朝鮮内乱事件 秘 陸軍省 本文(3)」p25)

 時に各国公使の参内あり。陛下は大院君と席を同うし、謁見を允さる。

 露公使ウェバー氏曰く。
 是れ何等の変ぞや。此変あるを予知せば何が故に通牒なきや。通牒にしてあらば直に我兵を馳せて之を救わん。寧ろ等閑なる勿らんか。

 陛下、徐に曰く。騒擾に際し、三浦公使の参内を乞う。兵士亦た警備し来る。而して騒擾は既に鎮定せり。復た卿を煩すを要せずと。

 露公使更に大院君に詰る。

 大院君曰く。予は山荘に幽居し、此変あるを予知せず。昨王命によりて参内し、而して騒擾に際す。予乃ち之を鎮定せり。予や既に茲にあり。請う、配慮する勿れ。

 露公使曰く。危急相救うは隣邦の誼なり。故に我兵を入城せしめ、以て護衛せん。

 大院君曰く。若し個一時の小変、奚ぞ深く意となすに足らんや。且つ弊那微なりと雖ども、自家の乱、自家の力を以て鎮定するに足る。況んや妄りに他国の兵を入城せしめば、人心洶々却て騒擾を増すのみ。請う、断然謝絶せんと。

 露公使曰く。然らば則ち何が故に独り三浦公使に乞いしや。

 曰く。日本は最初より我国を保祐せられし関係あり。故に又た三浦公使を煩せしのみ。

 曰く。日本壮士の入り来りしは如何。

 曰く。是れ素より予が知己の輩。予の入闕に由り護衛の為めに随伴せしのみ。

 露公使、此に至り黙して言なし。

 ウェベルの焦燥と無念さが伝わってくるような問答である(笑)
 まあ、老獪な大院君にかなうはずもなく、あっさりと斥けられたらしい。

 で、日本壮士のことを、「是れ素より予が知己の輩。予の入闕に由り護衛の為めに随伴せしのみ」というのがミソですな。つまりは大院君が自ら依頼した手勢だったと。だから後に1万9千円という謝礼金を払ったと(笑)

 で、2日後には遂に「王后閔氏を廃して庶人となす」のであるが、それは後述する。

 

日本政府の対応

 さて、杉村濬の思惑は外れ、人々から朝鮮人単独説とは見られず、大院君入闕によって王妃まで殺害される事態となった10月8日王城事変。その第一報が日本政府に届いたのは同日午前6時32分京城発の公使館付海軍少佐新納時亮からの電報であった。

(10.8 朝鮮訓練隊大院君を戴き大闕に入れり 新納海軍少佐)
極秘
 本朝、左の電報、朝鮮国公使館付新納海軍少佐より伊東海軍中将の許に到達せり。
          大本営
 明治廿八年十月八日    陸軍参謀部

今、訓練隊、大院君を戴き、吶喊して大闕に打ち入れり。
      八日午前六時三十二分京城発  新納

伊東中将

 新納時亮海軍少佐は事変には関与していない。ただ大院君入闕のことを事前に知っていたかどうかまでは不明。続いて、以下の電報を発した。

(10.8 朝鮮王妃殺害せられたり 新納海軍少佐)
極秘
 新納海軍少佐より伊東海軍中将の許に左の電報到達せり。
          大本営
 明治廿八年十月八日    陸軍参謀部

国王無事。王妃殺害せられしとの事なり。
      八日午前九時二十分京城発
        新納海軍少佐

 いずれも、電報を受けた伊東中将がいつ大本営に報せて日本政府が知ることになったかは不明。
 西園寺外務大臣代理が、三浦公使に以下の電文を発したのは、午後1時であった。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p4)
 三浦公使       西園寺大臣
 今朝大院君は訓練隊を引率して王宮に赴きたり、王妃は多分殺害せられたるならんと、其地公使館付武官より参謀本部へ電報ありたり。事実至急電報にて報告之ありたし。且つ日本人の之に加わりたるや否をも報告ありたし。
電送六九七号明治二八年十月八日 午後一時発

 しかし、三浦は午前11時発で先に電文で報告しており、それが着いたのが午后1時半だった。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p5)
電受第一〇四八号 明治二十八年十月八日午前十一時発 午后一時三〇分着

今八日午前三時頃、訓練第二大隊は兵営を脱して孔徳里[大院君居邸所在地]に到り、大院君を奉じて王城に迫り、此時侍衛隊より聊か抵抗をなせしも、直ちに押し破りて大内に入りたり。是より先き、訓練第三大隊は兵を配布して「キミウ」門を警備せしものゝ如し。此騒擾に際し、我守備隊は王宮を護衛し鎮圧を努めたり。之れが為め訓練隊と侍衛隊との衝突は極めて軽く、僅かに二個銃発[?]の砲声を聞きし迄にて鎮静に帰せり。国王世子とも御平安なり。唯だ王妃の所在未だ詳かならず。抑も事の起因を尋ぬるに、昨日電稟せし如く、一昨日来、宮中にて急に訓練隊の武器を取上げ之を解散し、隊長を厳罰せんとの詮議を漏れ聞き、一時に激昂して遂に大院君を奉じ、王宮に迫りし事と察せられたり。本官は国王の召に応じて六時頃参内せり。
                 三浦公使
   西園寺大臣

 これを受けて西園寺は直ちに次のように返電。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p6)
    電送六九八号明治廿八年十月八日 午後二時三〇分発
京城三浦公使        西園寺大臣
今回の事件に付、政府の訓令あるまで我守備隊を動かす様のこと為すべからず。

 三浦が勝手に守備隊を動かしたことを咎めるものであり、今後そのようなことのないように、という注意である。
 西園寺としては、守備隊が少々動いたぐらいの感覚か。まあ、この守備隊を動かすことについては、一時、西園寺とすったもんだがあった。詳しくは別頁「日本守備隊について」で。
 しかし、これらを聞いた井上馨は、直ちに杉村書記官に電報。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p7、()は筆者)
  電送第六九八号明治廿八年十月八日午後二時四五分発
            井上公使
杉村書記官
 日本兵は訓練隊を陰に陽に教唆せしことなきや。
 顧問官中、大院君と密接の内話を受けしことなきや。
 岡本は帰国の途に上りしか。
 王妃は殺害せられたるか。
 大院君は内密魯公使に通じ居(おら)ざるか。
 三浦公使は国王より内命を受け宮中へ伺候せしや。

事実の様子悉皆至急電報あれ。

 朝鮮事情のことは何と言っても杉村濬に聞く方が間違いないという井上の判断と思われる。
 「顧問官中、大院君と密接の内話を受けしことなきや」「岡本は帰国の途に上りしか」に、井上が岡本を疑っていることが知られる。岡本柳之助は帰国すると言って仁川に向ったらしいが、もう帰国の途上にあるのか?と。
 また、大院君が内密に露国公使と通じていることはないのか?とも。
 必ず裏面があると大院君を疑う憂慮の言葉でもある。まあ、今までのことを考えればねえ。

 まず、もし井上が事変計画のことを前もって知っておれば、このような問いと疑念は無用のものであろう。すでに朝鮮公使を離れた井上馨であるし、いらぬ口出しをして腹を探られるより、だんまりを決め込んでいた方が得策というものであろうし。
 ゆえに、まあ筆者としては、井上馨が関与していない証の一つと判断できる電文内容ではないかと。

 同日夜、これに対し杉村が返電。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p11)
電受第一〇五四号 明治二十八年十月八日午後八時五分発 午后十一時廿五分着

日本兵は訓練隊を教唆したる形跡を見ず。顧問官中岡本は多少大院君と関係を免れず。大院君よりは三再密使を送りしことあり。公使は拒んで受けられず。今朝公使の入闕は、国王より大急使にて鎮撫方依頼ありしに因れり。王妃は多分殺害せられしならん。

   井上                  杉村

 何もかも事実を覆った報告である。

 続いて、三浦公使から少し詳しい事情報告が来る。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p13)
 電受一〇五五号 明治二十八年十月八日午後十時三二分発 九日午前一時五分着

 今朝の事変に日本人の加入の有無取調方電命承知せり。右は表面朝鮮人の仕事なれども、裏面には多少の日本人相加わり、而して実は本官の黙視したることなり。
 抑も事の茲に至りしは追々電稟に及びたるが如く、近来帰朝中のセイリカ二ヒニ加わり、全く政府をを圧倒し、官制を無視し、[カンセイヲムシシ]、財政を紊乱したるに付き、金総理、金外部の両大臣も到底見込なし上、已に本官迄申出、剰へ近時露国に向て保護依頼の親書を送りたりとのこと、盛に流布し[サカンニリュウフシ]、殆ど実説あり。殊に昨今に及では我教師たる訓練隊をも解散せんとするに至れり。
 故に此勢を放任するときは、朝鮮は遂に我国に離散し、昨年来我国が経営したる事業は全く水泡に帰するは甚だ明かなりと本官に於て信じたる処、二三日来、事情益々切迫し、訓練隊は激昂し大院君之を利用せんとする様子相顕われ、又は本官中蔭に国王を教唆し、或は幇助する者もありて、勢い制すべからざるに至れり。[カツヤ]大勢の傾く処を視るに已に前陳の如くなれば、此際一変動を起さしめば、又危運を一転する好機会なしと云うべからず。
 王妃は常に他国に頼るの傾きあれば、此れが為め如何に尽力するも、恰も底なき嚢に物を入るゝと同然なれども、大院君は之れと違い、露に傾き米に頼るの懸念なく、恰も嚢に底ある如くなれば、今后の処、能く政府の基礎を固むるときは、此迄王妃の為め終始[タメシュ]悩まされたる時と違い、之を取り扱え易きのみならず、朝鮮独立の目的亦之に依て達するを得べしとの見込み相立ちたる[ミコミアイ]に付き、本官は之を黙視し彼抔の自為に任したることなり。但し、我軍隊は鎮撫の為め出兵したる迄にて、決して彼抔を幇助したるに非らず。日本人中私交上の依頼を以て大院君入闕の途中を護衛したる者ありしも、之亦乱暴を働らかず。

 又前述の事を決行したる時に至り、将来之れが為めに外交上の困難を惹起すとの御懸念あらば、本官は処罰を受くるとも遺憾なし。
 猶お前文の大意を掲れば、王妃を退けて大院君を出し、并に金宏集抔の[ニシントウ]日本党?を以て政府を組織せば、将来朝鮮が他国より受る干渉は朝鮮自ら其衝に当り、之を防ぐを得て、永く我国[ルクズラクサザル]見込なり。今年の大院君は昨年の比に非らず。全く支那に断念して独り日本に依頼せんとする心あること明かなり。
                          三浦公使
   西園寺大臣

 で、自分は処罰されてもよい、と三浦。まあ、ここでそんな男気を出されてもねえ。それどころの話じゃないんだが。

 

露国との衝突を避けるべし

 さて、王妃派などの連中は後に露国公使館に逃げ込んだらしい。で、永年の王宮工作がおじゃんになった露公使ウェベルもカンカンと(笑) さっそく日本公使館に怒鳴り込んだようである。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p15)
電受第一〇五六号 明治二十八年十月八日 午后十一時五五分発 九日午前四時着

 本日午後三時半より外国公使内揃い来館。今朝事変の顛末を尋ねたき旨申述べたるに付、本官は段々御電報及びたる通り、今回の事変は訓練隊に反対せる党派が巡査と訓練隊との闘争を口実として同隊を解散せんと謀りしより、訓練隊の兵士大に不平を抱き、遂に大院君を奉戴して事の茲に及びたる等、事情の概略を述べ、且つ本日早朝勅使を以て伝えられたる国王の依頼に基き、我守備兵の一部を動し、此騒擾を鎮制したる模様等を陳述したる処、露公使は、王妃の所在不明なると、大院君の王宮に向えるときは、[ソニテウ]ありて其前衛をなしたるは日本兵なること、今朝日本公使館より王宮に至る途中にも、日本人の平服を着し、剱を携えたるもの三十余名に出逢いたること、又旧兵にも同じく平服にて剱を携えたる者二三十名を見たること、又朝鮮兵が王妃の御門の傍ら二三十人列をなして並び居た傍らに又数名の日本兵も並び居たるが、其場所の中央に数名の平服を着けて抜剱したる日本人ありて、王妃の殿内に入り婦人を引出し来りて[イジョウヲヒヤズリマワリ]庭上を引ずりまわり、剱を以て之れを殺しては又殿内に入り、婦人を携え出でて殺しながら、王妃は何処に在るや、王妃は何処に在るや、と頻りに尋ねつゝ其傍らに居合せたる西洋人にも、英語にて何処なるやと尋ねたる等の事を一々目撃したるものあり、此れは如何なる次第なるや、と尋ねたるに付き、大院君の輿を護衛したるは決して日本兵に非らず。又婦人を虐殺したる日本人の事は秩序維持を帯て出張したる軍隊指揮官の報告になきこと故、本官に於て軽々しく信用し難きこと、又平服にて帯剱したる日本人ことは何共考え付かねども、軍隊付属の人夫共其他諸輩、混雑に乗じ紛れ込みたるものにもあらんか、と述べたる処、兎に角前陳の事実は慥かに之を目撃したる人あり。拙者等毫も之に疑を容れず、此事変は事頗る重大に属し、此侭看過する能わざるものなり。否な尤も厳重なる取調を要することと信ず。又訓練隊は護衛兵を打破りて宮闕に入り、今は却て之を警衛しつゝあり。是れ果して順当の事というべきか、彼等は取りも直さず逆賊なり。謀反人なり。此謀反者をして王宮を警衛せしむることは、王宮護衛の嘱托を受けられたる閣下に在て、順当と認めらるゝや。実は護衛兵の事に付、本日拙者が米公使と謁見のとき国王の内嘱ありたることは米公使も証言せらるゝ所なり、と述べたるに付、本件は厳重の取調を要することと本官も信ぜり、今貴公使の仰せらるゝ事実は、我守備隊の指揮官の報告には之なき事故、遽かに之を信ずること能わざれども、自ら取調の材料と相成るべし。又護衛兵の義は、御説御尤と相考えしに付、交代の事を政府へ勧告致すべくと申述たる処、露公使は、今後も亦斯る事変の生ぜんこと実に懸念に堪えず。閣下は最早再び斯る騒動なきことと信ぜらるゝかと申述べしに付、何分其辺保証致し兼ぬと答えたるに、若し覚束なしとのことなれば、各自に用心するの外なし、と申し、又終りに露公使は日本の公使が土地の安寧秩序を維持するに十分なる兵を有しながら、斯る事変の起り来るは如何にも残念に堪えず、と云いて一同相別れたり。右談話の概略不取敢具報す。

                                      三浦公使
      西園寺大臣

 ここで初めて宮女殺害のことが出てくる。露国公使ウェベルによるこの話は、さて誰の証言に基づいての話であろうか。露国人サバチンも米国人ダイも、誰かが誰かを殺害した現場を見てはいないのにである。あるいは、露国公使館に逃げ込んだ李範晋など王妃派の者たちによる讒言かもしれない。しかしウェベルが語る描写は、「傍らに居合せたる西洋人にも、英語にて何処なるやと尋ねたる」と明らかにサバチンからヒントを得ているように思われる。しかし宮女殺害のことは事実ではないのであるから、これは最初から憶測または詐術によるウェベルの談判であったと思われる。
 んー、宮女殺害の話はウェベルによる作り話から広まった可能性があるなあ。

 なお、三浦公使のこの報告もまた不完全。まったく露公使の話ばかりで、打ち揃って来たはずの他の外国公使などが具体的にどこの国の人々の誰なのかすら分からないではないか。また、それらの人がどのような反応だったか、なども含めて。
 三浦梧樓も今になって狼狽えているのだろうか(笑)

 で翌9日には、先の井上から杉村への尋ねについて、三浦も以下のように返事している。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p18)
電受第一〇五八号 明治二十八年十月九日 午前九時五五分発 午前十一時着

答え  我守備隊は兼て王宮護衛の依頼ありし外にも、殊に当日依頼ありたり。我守備隊は何れも荷担せず。只管相当鎮定に尽力せり。王妃は露館に赴きし形跡なし。殺害せられたることは略々確かなり。大院君は将来宮中の事務を整理する迄にて、政務は金宏集、魚允仲、金允植等に一任し、一切関係さぜる旨を誓えり。侍衛隊は散乱したるに依り、当分訓練隊にて王宮を護衛せり。
                                   三浦
  井上公使

 まあ井上に対しても隠すとこは隠しながらの報告である。しかし、大院君が誓ったって、いつどうして誓い、またそれを三浦が知ったのか?、と突っ込まれるぞ、これ(笑)
 それにしても、いつまで井上に公使という肩書きをつけて電報を送ってるんだろうか?

 さて、露国公使ウェベルが、永い時間をかけて王宮に取り入り、ついに王妃を籠絡し、王妃をして露国に頼らしめ、露国の保護の下に君権を取り戻さんとする事態にまで切迫していたことは事実である。そしてそれがどの程度露国政府の意向であったか、あるいはこの事変で露国政府がどのような動きをするのかも気になるところである。
 病床にある陸奥宗光外務大臣は事変一報のことを聞き、先ず外務省に以下のような電文を発した。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p19)
電受一〇六〇号 廿八年十月九日午后十二時廿分着

朝鮮のことは、今少し火の手盛になるまで打捨て置く方得策なるべし。委細川崎に伝言せり。御聞取被成たし。
                         大磯 陸奥外務大臣
  原外務次官
  [本信は電授第一〇五五号接手以前に発送せられたるものなり]

で、次にその「電受一〇五五号」を見てからのものらしい以下の電信も。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p21)
電受一〇六四号 二十八年十月九日午后六時四五分発 午后七時三十分接

陸奥翻訳官携帯の各電信を一読し、又、同人へ御伝言の趣、具に承知せり。鄙見御参考までに左に申上る。
今回の事件に付き、第一に注意すべきは露国其他の各国が、如何なる方針を取り来るやを知るにあり。故に露国等の挙動明かならざる内は、我は先ず何事をもなさず、暫く今後の形勢を見て、何分の策を施す方、然るべし。尚お委しきことは陸奥翻訳官より申し上ぐべし。
                               大磯 陸奥大臣
   西園寺外務大臣代理

 そもそも5月に決定した対韓方針の基本は、自ら動く「自動」に非らず、他が動くに対処する「他動」であった。これは対朝鮮に限らず、諸外国に対しても外交の基本方針として、とりわけ日清戦争終戦後はそうである。よって、陸奥としてもここでもそういう方針が得策であると。
 「王妃殺害計画」に陸奥宗光が加わっていた、などとまで言う人があるらしいが、どういう妄想の産物なんでしょうかねえ(笑)
で、陸奥翻訳官とは陸奥広吉のことだろうか。

 そして翌10日、西園寺外務大臣は在東京露国公使と対談。以下の電文を三浦に送る。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p29)
明治廿八年十月十日午後二時卅分発

三浦公使         西園寺大臣
廟議の結果に依り、本大臣は今朝在東京露国公使に面会し、同人の得たる報告を聞き、力て双方の誤解より生ずる衝突を予防するの必要を説きたるに、同公使も同感と表し、就ては貴官に発電して其地に於ける実況及び時々の報知を在朝鮮露国公使に、貴官より告知せられんことを求めたり。依て貴官は前文の趣意に基き、露公使に応対せらるべし。

 当たり前である。未だ遼東半島還付をめぐる露国との交渉は継続中であって、いうならば日清戦争の戦後処理に関するロシア様の許可は得ていないのである(笑) 台湾の占領のことも済んでいない。そんなこの時機、何としてもロシアと衝突するような事態は避けねばならない。伊藤、陸奥、井上、西園寺、そして大本営など、口惜しいことではあるけれど露国とのトラブルは絶対に避けねばならないとの認識は確かなものだったろう。だからこそ、いかに露国公使ウェベルが朝鮮王宮に取り入ろうが、それで王妃が露国に傾こうが、黙って見ている外はなく、せいぜい井上がしたような懐柔策を執るしかなかったのが当時の日本政府だったと。ところが、それにどうにも我慢できなかった人々が、この事変を起したわけでねえ。

 10日、11日には、露米の水兵若干が上陸し、京城に向う動きを見せた。西園寺外務は早速以下の電報を発して注意を促した。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p40)

                               西園寺臨時大臣
三浦公使 電送七一〇号 明治廿八年十月十一日午後〇時三十分発
橋口領事 電送七一一号 明治廿八年十月十一日午後〇時三十分発
内田領事 電送七一二号 明治廿八年十月十一日午後〇時三十分発

露国水兵、昨日二十名、今朝又十七名入京の筈。米国水兵十六名、今朝入京の筈なる旨、新納少佐より電報あり。就ては右水兵と我邦人との間に、聊かの間違よりして衝突を生ずるに於ては如何なる大事に至るやも難計に付、文武官民を問わず厳重に取締を付けらるべし。理非曲直に論なく我に於て如何なる口実あるも決して衝突すべからずとの趣を厳達し又は説諭し、此際無頼の壮士輩、水兵に対し暴行なき様、総ての手段を以て予防すべし。又、守備兵に就ては指揮官と打合せの上、兵士を漫りに営外に出さゞる等尤も厳重に取締らるべし。

[内田橋口両領事へは左の通り付記す]
右之通り三浦公使へ訓令したるに付、貴官も其御含にて取締方精々尽力せらるべし。

 その30分後には、念を押すかのようにその取締りの方法などを報告するように電信。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p42、()は筆者)

                               (西園寺臨時大臣)
三浦公使 電送七一三号 明治廿八年十月十一日午後一時発
橋口領事 電送七一四号 明治廿八年十月十一日午後一時発
内田領事 電送七一五号 明治廿八年十月十一日午後一時発

只今電訓に及びたる米露水兵上陸に付き、万一行き違を生ずることありては其の影響する所、実に重大なれば、此事に付ては政府に於ても大に憂慮する所なり。就ては前電の趣旨に因り充分の取締を取ることに付、其方法并に見込を至急具申ありたし。

[三浦公使へは左の通り付記す]
右取締の件に付ては外国公使等へも内々御熟話相成置き然るべし。

 日本政府のぴりぴりとした緊張感が伝わってくるような電信である。

 

三浦公使への叱責

 おそらく、「電受一〇五五号」を読んだ日本政府は、三浦のただならない決意に、事の詳細を取り調べる必要があると思ったはずである。この後、閣議で取調官を派遣することに決っする。
 一方、三浦公使は以下のように、京城の守備隊を帰還させる方が政略上得策であるなどと言い始めた。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p20)
電受一〇六二号 明治二十八年十月九日午后一時五分発 午后五時二〇分着

京城守備隊、急に召還を命じられたし。今回の事変に関し、政略上得策と思考せり。其代りは一時最寄の兵站守備兵を以て之れに充てらるゝも差支なかるべしと考えり。
                           三浦公使
  西園寺大臣。

 当然、西園寺は、何故?と尋ねる。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」pp22)
      廿八年十月九日午後九時三十分発
三浦公使      西園寺大臣
本日の電報に守備兵を召還することを勧告せられ、右は政略の為め得策なり云々御申越相成りたる処、右政略とは如何なること哉。事情委しく申越されたし。又今回の事件は政府に於て最も重大なることゝ認むる故、事細大あからさまに至急電報すべし。

 政略とは何のことか? 事情をあからさまに述べよ、と。この「あからさま」という言葉が強烈。「あからさま」とは「かくさず、ありのまま。あらわ。はっきり」の意味である。よって、西園寺大臣が三浦公使を充分疑っている感じが窺える言葉でもある(笑)

 で、三浦は守備兵のことだけでなく、実は以下のような隠ぺい工作もしたからそのつもりで、てな感じで電報を。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」pp27)
電受一〇六七号 明治二十八年十月十日午前十時十五分発  午後〇時五分着

貴電落手せり。我守備隊は素より騒擾鎮撫の為め出張したるものなれば、表面之れを援け、之を敵とすべき道理なきも、其内情は、訓練隊に厚つく該隊をして其目的を達せしむることに援助を与えたるは事実免れざる所なり。因りて外邦の非難多ければ、真に警備の任務を尽したるや否やの事実を取調を名として召還を命ぜらるゝことは適当の処置にして、且つ政略上得策ならんと存じたる故なり。又、大院君の依頼を受け同行して王宮に赴きたる日本人十五六人あり。右は固より過激のことはすべて朝鮮人にて之を行わしめ、日本人は唯だ其の声援を為すまでにて、手を下さざる約束なりしも、実際に臨んで朝鮮人躊躇して其働き充分ならざりし前、時機を失わんことを恐れ、日本人の中にて手を下せし者ありと聞けり。尤も右等の事実は内外人に対し厳重に秘密に致し置きたれども、其場に朝鮮人居りし由なれば、漏れ聞きしことなきを防ぐ可からず。其他の日本人は事実を聞き見物方々刀若くは仕込杖等を携え駆けつけたる野次馬連にて、其数二三十名もあるべし。右等の事実は一昨日の電報にて申進めたる如く、本官始めより黙視したる事なれば、然る可く御推量相成たし。尚お、守備隊并に王宮に進入したる日本人の処分につき、何分の訓令を仰ぎたし。尤も、朝鮮政府よりは、日本人は殺害等乱暴の挙動は一つも無かりしとの証明書を取り置きたり。又、大院君よりも、其随行の朝鮮人に日本服を着せしめたるは、朝鮮人は常に日本人を恐るゝ故え、故意に多数の日本人を作りたりと云わしめ、政府其他の人々云合せたり。此二件は外国人に対し、水掛論の辞柄となす考えなり。
                                 三浦
    西園寺大臣

 つまりは、ひたすら外国人の目を誤魔化すために、あれやこれやを隠蔽して朝鮮政府から証明書を取ったり大院君と申し合わせをした、とあからさまに言うのである。「しかるべく推量されたい」とも。三浦公使、もうやけくそか(笑)

 で、それに対する西園寺の返事と思われるのが以下。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p39)
電送第七一六号 明治廿八年十月十一日午後三十分

  三浦公使           西園寺外務大臣
此度のことに付、日本人の加入し居らざりしということに関し、朝鮮官吏より書面を取付け置かれたる旨、昨日の貴電中に相見え居りしが、万一にも大早計に右書面の写を外国公使又は其他の者に、目前の申訳の為め相示さるゝが如きことあるときは、百事偽りて作為することゝ相成り、以ての外の結果を生ずるに至るべし。就ては其辺幾重にも注意ありたし。

 意訳すれば、
「まさかまさか、大馬鹿をやって、その証明書の写しなんぞを、目先を誤魔化すために外国公使らに見せたんじゃあるまいな! それでは嘘に嘘を重ねばならなくなって、結果、とんでもないことになるぞーーっ!!」
という叱責の返電(笑)
 そらまあそうですわなあ。三浦が姑息な工作をすればするほど日本政府の立場が危うくなることであってねえ。まったくもってのほかっ!なわけで。
 どうも三浦梧樓という人は、自分は「外交の術を識らず」と言っているけれど、それ以前に、自国の地位や世界の情況というものがよく見えていない人なのではなかろうかと。それで、この手の人がよく大言放言を吐いたり大胆な行動に出たりしては周囲から頼もしく思われたり、大人物のように見られるたりするんだよねえ。

 さて、姑息な工作をしようとして叱られたのは三浦のみならず、公使館付武官楠瀬幸彦中佐もまた、大本営川上中将とのやりとりにおいて咎めを受けた。

 朝鮮訓練隊教官でもある楠瀬は、先の新納少佐より遅れること2時間余りで、大院君が大隊を率いて王宮に入ったとの簡単な電報を大本営に発し、その後、昼過ぎには、事変暴発の原因として訓練隊解散のことに触れ、巡査を訓練兵に仕立てて夜間に警務庁を襲わせ、また巡査に訓練隊はいずれ解散させられるなどのことを放言させたことによる、などと報告した。次いで以下のような電文を発した。

(「明治28年10月起 明治29年1月結了 朝鮮内乱事件 秘 陸軍省」「本文(1)C06031064600」p20)

極秘  電報 十月十日午前十時四十分京城発 午後零時十五分着

続いて静穏なり。善後策に就ては、成べく他国の非難を避くる手段を取ること必要と存ず。就ては守備隊の働き我が為めには最も善く且つ正当なるも、他より見れば非難の点なきにあらず。幸い交代の事に内決と承り居れば、速かに交代せしめ、表向きは此度の動作に就き審問の条ありて、特に帰国を命じたる様に発露せば好都合と存ず。
        京城
           楠瀬

 大本営
   川上中将、

 守備隊の働きは我国にとっては最善だけど、他国から非難される点がなきにあらず、と。で、表向きはこんなふうにしてこうすれば好都合と(笑)
   で、川上中将の返電。

(「同上」)

右の回答として左の電報を発したり。

   楠瀬中佐へ     十月十日

京城守備兵交代に関する電報落手す。善後策を取るの必要なるは勿論なれども、其手段として此際軍隊を交代せしむるは不可なり。特に審問の名を以てするが如きは到底行われ難し。但し何故に斯くの如き要求あるや、其要領を得ず。貴官の電報中、他より見れば非難の点なきにあらず、と云うごときは其解釈に苦む。依て詳細申越あるべし。

            大本営
             川上中将

 「おまえは何を言っているのだ」
 という感じか(笑)
 で、大本営としても彼等将校を日本に送還し、憲兵に厳重に取調べさせることになる。

 

取調官と検事を派遣

 日本政府は直ちに取調官を派遣することに決した。また陸海軍も、司法部も、出張員を派遣することとした。
 政府取調官には小村寿太郎政務局長が選ばれ、以下の内訓が与えられた。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p32、()は筆者)

明治廿八年十月十日発遣
機密
内訓第三号
小村(壽太郎)政務局長殿    外務大臣
   訓令案

 貴官今般朝鮮国出張を命ぜられたるに付ては、既に伊藤総理大臣并に本大臣より口頭を以て及訓示置候得共、尚左之趣旨に基き万事措置せらるべし。

一 貴官は何人に対しても出張の目的を尋ぬる者之あるときは、此度の事件は我政府に取りては実に意外之出来事にして、井上公使帰朝報告の模様とは大に相違したるを以て、驚愕の余り、不取敢実況取調の為め出張を命ぜられたる□□意味を以て何人に□□、掲言せらるべし。を以て答らるべし。

二 貴官京城に到着之上は、帝国公使館員領事館員及在留日本人の主なる者は勿論、朝鮮官吏各国公使館員并に重なる欧米人に就き、篤と其所説を聴取り、速に本大臣に報告せらるべし。

三 今回の事件に関する犯罪者取調全体之形勢を審明にする傍らに際しては、最も秘密に取扱い、且つ其首謀者は日本人なるか、将た韓人なるかを詳かにすべし。

四 事に当り実地に手を下したる取調の結果として処罰すべき日本人あるときは其一応本大臣に経、伺の上、領事をして相当の処分をなさしむべし。但、犯罪者の罪跡は可成之を明かにすべしと雖も、其区域は可成縮少するを必要とす。

五、本件に関し、陸海軍并に司法部内よりも貴官と同時に出張員派遣可相成筈に付右諸員と篤と協議せらるべし。

右及内訓候也。

 まず一については、修正部分も含めて読むと、「政府としては実に意外の出来事であって、井上公使の帰朝報告と大いにその模様が違っており、驚きのあまり実況の取調べに来たと、尋ねる者があればそう答えるよう」と。つまりは日本政府としての表明が述べられていることになろう。
 二については、内外人を問わず彼らからの事情聴取を徹底するように指示と。
 で、三において、取調の結果、処罰すべき者は外務大臣に伺った上で領事に処分させることと。つまりは、日朝条約に基づく領事裁判権による処分のことである。なお、犯罪者の犯罪証拠となる痕跡は明らかにすべきであるが、その区域はなるべく縮小すること、とあるが、もひとつ「区域」の意味が分からない。犯罪現場の区域という意味であろうか。事が王宮内を含む事件であるだけに調査範囲も限定されるということであろうか。あるいはまた、犯罪者を限定するようにとも受け取れよう。しかしこれは下の資料によってそうではないことは明らかである。
 なお、派遣された一行は、小村政務局長、市岡外務属、安藤検事正、田村陸軍中佐、堀田陸軍少佐、原田陸軍少佐、伊集院海軍大佐、安原海軍少佐、その他随行員2名。仁川に到着したのは10月14日とある(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割2 B08090168100」p70)。

 

政府訓令について

 ところで、筆者はこれまで、日本政府がいろんな課題に対処する際の数々の内訓や訓令を見てきた。それは政府派遣者などの行動や言動についての指示であると同時に、その課題に対する政府の方針が窺えたり、方針そのものであったりする資料でもある。しかし巷に氾濫する歴史の解説において、このような内訓や訓令について、それを参照したり、あるいは取上げたと見られるようなものに、ほとんど出くわしたことがない。つまりは大方が、そういった資料を無視して、自分勝手な推測や憶測や勘ぐりによって事跡を解説しているものばかりであることに気付いた。更に、それは元々解説する人の性癖や思想から生じており、敢えて言えば、「どうせ、そんなのは表面上の建前であって、裏ではこう考えているんでしょうよ」といったような、ひねくれた見方によるものであることにも気付いた次第(笑)

 訓令は政府の方針に基づくものであり、たとえばある課題を閣議に諮る場合、内閣に於いてそれを閣僚らが検討し賛同して決定したものであって、政府の方針から外れるものではない。そしてそれは当時としてはもちろん機密事項でもある。にもかかわらず、これが表面上の建前に過ぎぬと言うなら、訓令を受けた者はいったい何に基づいて政府の方針を判断し、言行に及べばよいのであろうか。またこれでは、閣議そのものに何の意味があろうか。また文章にして手渡すことに何の意味があろうか。閣議で決定した訓令など無視して、選定された人物の思惑に基づいて勝手にやればいい、とでも言うのだろうか。
 資料があるのに資料を読まず、どうでも憶測で事跡を語ろうとする人らに対する筆者のひとつの疑問である。

 では訓令は絶対のものか。そう、絶対のものである。
 もちろん訓令には、文章によるものと、口頭によるものとがある。上記にあるように、「既に伊藤総理大臣并に本大臣より口頭を以て及訓示置候」とあるそれである。文章にするのを憚られるような指示、あるいは細々とした具体的指示などが、文章とは別に口頭でなされる場合がある。
 当然、口頭であるから記録として残りにくい。しかし、その内容が別の所で文章となって記録される場合もある。幸い、この時の小村壽太郎に対する口頭訓示については、以下のように特別暗号電文となって記録されている中から窺うことが出来る。

 

あくまでも真相を明らかにせよ

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p64、()は筆者)

 電送第七二二号

仁川
橋口領事                         西園寺大臣

取調の為め出張したる小村政務局長は今明日に其地へ着すべし。着の上は左の電信暗号の侭小村に渡すべし。

(欄外)[ ]中は、小村氏特別暗号を用ゆ。

[貴官出発前に親しく御談示に及びたる通り、政府に於ては、飽くまで今回事変の真相を審にし、責任の帰するところを明かにし罪ある者は何人に拘らず之を処罰するのするの決心に付、貴官に於ては毫も忌避いみはばかるする所なく、一刀両断、取調を為し速に之を完結する様尽力せらるべし。又京城に於て各国使臣会議を開く由なれば、其の会議の模様を探り報告すべし。又、三浦公使より王宮へ乱入の嫌疑ある日本人を取調べたるに、何れも犯罪の証拠不充分なれども其者多数にして其内過激の壮士もあり、速に退韓を命之を処分せざるときは、彼等自から恐懼を懐き、容易ならざることを惹起すの恐れあるに付き、領事をして退韓を命ぜられ度旨申来りたれども、右は貴官京城着の上、協議の末、更らに申越すべしと、回答し置きたり。因て貴官は安藤検事を京城に連れ行き、先以て可成速に右嫌疑者の取調に着手すべし。又三浦公使呼戻のことに付ては、此際俄かに之を決行せば、或は公使と意を合し居りたる輩に於て危懼を生じ、騒擾を惹起すやも難計き懸念もあれば、貴官京城着の上、公使を呼戻しても目下本邦人の秩序を保つことに付、差支えなしと認め付き次第、其旨電報すべし。又米国新聞通信者「コクレル」は我が政府と多少関係ある人につ付き伊東巳代治を以て内々通信し居ば、同人に付、当時の事情御尋に相成れば、取調の材料とも相成るべし]

 橋口領事にも内容を窺うことが出来ない小村寿太郎だけへの特別暗号電文と。
 さて、それには「貴官出発前に親しく御談示に及びたる通り、政府に於ては、飽くまで今回事変の真相を審にし、責任の帰するところを明かにするの決心に付、貴官に於ては毫も忌避する所なく取調を為し速に之を完結する様尽力せらるべし」とある。
 これが伊藤博文総理と西園寺公望外務の口頭訓示であることが知られよう。先の文章による訓示といささかも矛盾するところはない。更には、修正個所も参考にすれば、日本政府としては今回の事変については、何が何でも真相をつまびらかにし、責任の帰するところを明らかにし、どのような人間であっても、これを処罰する決心であることが読み取れよう。
 ようするに、三浦梧樓であろうが、井上馨であろうが、また、たとえ相手が陸奥宗光であっても、総理伊藤博文であっても(笑)、けっして忌みはばかることなく、一刀両断の取調べをしてどうでも完結させる、ということになりますなあ。

 で、この事変について世間では、やれ伊藤が陸奥が井上が黙認していただの関与しただのと言う人があるらしいが。三浦梧樓が先の「電受一〇六七号」に於いて「本官始めより黙視したる事なれば」と言っているように、つまりは、もし伊藤こそが黙認していたのならば、伊藤がその伊藤にまで取調べが及ぶかもしれないような訓令をするでしょうかねえ。むしろ「朝鮮政府や大院君と調整して、なるべく事を穏便に処理するように」とでも口頭では言っておくんじゃないでしょうかねえ。
 日本語に「邪推」という言葉がありますが(笑)

 で、どうして口頭訓示にしたり特別暗号電文としたかと言えば、まあ政府としては滞韓日本人全員を疑わざるを得ないのであって、たとえ領事や官員と言っても、捜査方針を知られるわけにはいかないわけで。
 「三浦公使呼戻のことに付ては、此際俄かに之を決行せば、或は公使と意を合し居りたる輩に於て危懼を生じ、騒擾を惹起すやも難計き懸念もあれば」
とあるように、三浦公使を呼戻すこと、それについては意を合わせている輩(官民共に)が騒擾を起すかもしれないとの懸念があるわけです。
 で、三浦が呼戻されて取調べられることはすでに明確と。

 

三浦の「サバチン」レポート

 10日、三浦は事変当時王宮にいたロシア人サバチンの談話を報告している。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p36)

電受第一〇七〇号 廿八年十月十日午後八時五十分発 十一日午前二時十分着

今回の事変に関し王宮に当直し居りたる露西亜人「サバチン」より日置へ談話の概略御参考までに及電報致候。

「サバチン」曰く。
今回の事変は略々其の前夜より分り居るものと見え、七日の夜、拙者の出動を見合すべしと勧告したるものありたり。同夜は着服の侭寝たり。然るに八日朝四時頃「リガクトン」[英語通弁にして常に露公使館に出入するもの]、兵隊の宮門に押寄せたることを報じたるに付、直ちに同僚の当直「ゼネラル」同道宮門に到り兵隊に逢い、種々尋ねんとしたれども言語不通にて其効なく、再び詰所の方に立ち戻り「ダイ」(欄外)[ゼネラルダイ]は侍衛兵の纏めに掛りたるものゝ如く、拙者は只茫然と立ち居たり。五時頃に至り宮門の方に銃声聞えたれば、侍衛兵はニンニ逃げ散したり。彼是なる中、波立てゝ入り来たる兵士の為めに拙者等は片隅におしよせられ、拙者は只だ茫然と眼前の光景をながめ居たれば、朝鮮兵は王妃の宮殿の傍に三列に並び、日本兵も若干此処に立止まり、平服の日本人数名も其処に来れり。其後は如何なりしや固より混雑の際且つ自分は不意の出来事に精神も錯乱し居たる故記憶せざるべく、随て明白に述ぶるに由なし。只だ前顕始末は拙者が此事変に付、敢て他人に語りて心に疑を存ぜざる所なり。其他巨細のことは一切云う能わず。世間或は拙者の物語りなりとて種々花を咲かせて右事実を吹聴するものなしとも云われざるに付、予じめ貴殿に於て右の事情を御含置かるゝこと利益なるべしと存ず、

と申出たるに付、右は筆記し得差支なきやと尋ねたるに、

夫れは迷惑なり。何となれば昨日他国使臣より書記の報告を求められたるも全然拒絶したり。又同日チョンドンに開かれたる使臣会議に陪席を請われたるも断りたる云々。

予曰く。然らば右の談話は未だ公然何人にもなされざることなるや、と問いたれば、

我領事より昨日召喚尋問を受けたるに付、右の通り語りたりと。

依って別を告げたる処、

猶お二の言うべきことあり。之れは未だ口外せざれども、宮門へ最初に打込んだるは日本兵なりと信ず。又此事変に付きては何れ「ダイ」よりも何等報告あることゝ存ず云々
と申述べたり。但し露公使館に於ては本日同人を二度呼出し、厳重の訊問をなしたる旨、本人申し居り候。右具報に及ぶ。
                                 三浦公使
     西園寺外務大臣

 後のサバチンの証言にほぼ沿った内容ですが、肝心な部分は「其後は如何なりしや固より混雑の際且つ自分は不意の出来事に精神も錯乱し居たる故記憶せざるべく」となっており、詳細は語らなかったことになっているわけです。しかしここだけですよねえ、「自分は」という言葉になっているのは。それ以外はみな「拙者」となっているのに(笑)
 まあ、サバチンも日本人壮士が宮女を捕まえて引きずっていたところは見ても、誰が誰を殺害したなどというのは見ていなかったわけなんですが。

 

王妃閔氏を廃して庶人となす

 同じく10日、朝鮮政府は王妃を廃して庶人(平民)とするとの「詔勅」を告示した。その和訳が以下のもの。

(「明治28年10月起 明治29年1月結了 朝鮮内乱事件 秘 陸軍省 本文(2)C06031064900」p27などを参考に筆者直訳)

   詔  勅
朕が臨御してより三十二年に、治化は普洽せずして、中に王后閔氏は其親党を援引して朕の左右に布ゥし、朕の聡明を壅蔽して人民を剥割し、朕の政令を濁乱して官爵を鬻売し、貪虐が地方に遍じて盗賊が四起し、宗社は岌岌として危殆せり。朕が其悪の極るを知ると雖も是を罰し得ざるは、朕の不明がゆえにして、亦其党与を顧忌せるがゆえなり。朕が是を圧抑を為さんとして上年十二月に宗廟に誓告して曰く、后嬪宗戚が国政に干渉するを許さずと。以って閔氏の改悟するを冀えども、閔氏は旧悪を悛めず、其党与及萃小輩を潜相引進して朕の動静を察し、以って国務大臣の引接を防遏し、又朕の國兵を解散し、朕の旨を矯めて乱を激起せしむ。事変が出づれば朕を離れて其身を避けて壬午往事を踏襲いたし、訪求すれども出現せず。是れ、王后の爵徳に稱す可からざるのみならず、其罪悪は貫盈して、先王宗廟を承く可からず。故に朕が得已ずして朕家故事を謹倣して王后閔氏を廃して庶人となすなり。

  開国五百四年八月廿二日奉
 敕
           宮内府大臣  李載冕
          内閣総理大臣  金宏集
            外部大臣  金允植
            内部大臣  朴定陽
            度支大臣  沈相薫
            軍部大臣  趙義淵
            法部大臣  徐光範
        学部大臣臨時署理  徐光範
        農商工部大臣署理  鄭秉夏

 はたして本当に国王の言葉なのかは大いに疑わしいところであるが(笑)。そんなことよりも、これによって大院君や金内閣などの反王妃派が今まで王妃のことをどう思っていたかが窺える文章ではないだろうか。

 これを第三者が書いたものとして、その人称も「朕」を「国王」と変えてポイントを超訳すると、
「王后閔氏は、閔党を集めて国王の周囲に置き、国王の聡明さ(笑)を塞いで、人民を引き裂き、国王の政治をむちゃくちゃにし、官位を売ったりして、その貪りと虐げは地方にゆきわたり、盗賊が国中に起こり、国家はまさに危機に瀕するに至った。国王は王妃の極悪さを知っていながら、それを罰し得なかったのは国王が愚かなせいでもあるが、また閔党に気兼ねしていたからでもある。国王はこれを抑えるために昨年12月(日本歴本年1月)に宗廟に誓告して言った。王妃が国政に干渉するのを許さないと。それで王妃の反省を望んだが、やっぱり悪癖を改めず、閔党の大小の連中をひそかに集めて、国王の様子をうかがいながら、国務大臣が国王に会うことを妨害し、また国王の言うことを歪めて伝え、国王の兵を解散せさ、それによって兵乱をひき起こした。そして事変となると、国王の側を離れてどこかに行ってしまい、壬午の時(明治15年朝鮮事変 大院君の乱)みたいに姿を現さない。これは王后という徳名を称するにふさわしくないだけでなく、その罪悪は常に満ちており、李氏王家を承けるべき者にあらず。よって、国王はやむを得ず国王の家の例にならい、王后閔氏を廃して平民とする」と。

 つまり、大院君から言えば悪い嫁だったと。また国王の弁なら、悪妻だったと(笑) 政府の者から言えば、暴虐の限りを尽したひどい中宮だったと。それに、売官もやっぱり王妃のしわざだったようで。これはかつて大院君や金宏集総理が井上との対談においてもそう証言していたところであって。

 しかし前半は全くその通りですよねえ。とにかく王妃は閔族の利権しか考えてなくて、それで人民が飢え死にしようが、民乱が起きようが、とにかく国のトップに立つ役目なんか知ったこっちゃない。ただひたすら権力を我もの我が党のものにしたいだけと。売官を始めたのも王妃であったと。まあ、絶対君主制での臣下なんてのは哀れなもんでねえ、まさに金允植外部大臣がぐちったように、「王は上にあって安んじ、臣は下にあって苦労する」であってねえ。
 で、後半は「姿を現さない」って、まあ死んでるのは承知しているはずだし、この時点でまだ王妃の死を発表する気はないらしい。大院君の乱の時には、さっさと国葬までしたのにねえ。ほんとに死んだとなると躊躇したりして。

 ところが翌11日、廃(妃)庶人閔氏に対して「嬪」号を与えるとの詔勅があった。

官報 号外 開國五百四年八月二十三日(日本歴 明治28年10月11日)

   詔勅
朕、王太子の誠孝の情理を顧念して、廢妃庶人の閔氏に嬪號を特賜する。

 「嬪」号は通常、王の侍妾を意味する号らしい。庶人から夫人の次の地位と。大幅な地位回復と言えよう。
 で、世子の訴えを考慮してのことらしい。高宗実録の「巻33の73」の8月23日の項にはその時のことが次のように記されている。
「○二十三日 王太子上疏 伏以臣浅蔑学猥忝儲嗣之位心常兢慼昨伏奉勅旨下者驚惶掩抑罔知攸措竊伏念大聖人此挙断以大義如臣蒙孩非敢言私之時然儲副所重以臣今日之情地實難一刻冒居茲敢泣血仰籲伏乞天地父母特降矜恤處分以安私分不勝幸甚 批曰 爾之情理朕豈不知之乎當有處分矣」

 「23日に王太子が上疏して言ったと。国王聖断に対して、浅学非才の子である自分が臣のように、またこの難局の時に、敢えて言うことではないけれども、伏して乞います。特別の憐れみと恵みを降されるなら、私のこれ以上の幸せはありませんと。それに対して国王が言ったと。おまえの情理を朕がどうして知らないであろうかと。何らかの処分があるだろうと」
 で、閔氏は特に嬪号を賜ったと。

 しかし、最初からこのようなシナリオが作られていたような感じがしないでもない。一度完全に落としてから翌日に再び救い上げて、国王の温情を示すというような。もちろん李載冕や金宏集らによるシナリオと。

 

 

 

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