日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

『清国兵捕虜を監視する朝鮮政府兵』 今はなき某日韓掲示板におけるjinzuu氏作成のスレッドより
 捕虜の清兵の辮髪を朝鮮兵が束ねて握っている。おそらくは撮影のための演出であろう。
 後ろには日清戦時の軍装の日本兵らしい姿も見える。
 朝鮮兵の服装はかつての別技軍とほぼ同じであるが、この翌年には新官制によって軍服もより近代的なものとなる。
 日清戦争開戦の年、日韓両国は8月26日に日韓攻守同盟を締結したことは既述の通り。よって、対清戦の戦場に朝鮮政府からも兵士を派遣して日本軍と共同行動をとることがあった。記録として残っているのは、平壌戦に向う日本軍第五師団長護衛のため、国王派遣として装衛営中隊長李斗璜の率いる将校3名、下士卒50名が9月4日に合して22日まで行動を共にしたとある。(参謀本部編纂「明治二十七八年日清戦史 第2巻」 200頁)
 この写真がその時のものであるかどうかは定かでないが、可能性としてはある。また、東学党掃討に於いても時に日韓合同で行うことがあったが、東学の乱民の中には清兵が混じっていることもあった。

 国王派遣兵の隊長李斗璜の名は東学党掃討戦記録にもあり、兵卒600人を率いて日本軍と合同したことが録されている。また、この人の名は後の王城事変の時にも出てくる。すなわち大院君を擁して王宮に入った訓練隊の大隊長としてである。
 え? 何が言いたいのかって? つまりは当時の日韓合同、日韓協同ということ。

索引

王城事変・王妃殺害事件
10月8日事変の要点を先に言えば
朝鮮有志家の運動と援助要請
訓練隊と平民大臣代理李周會
頓挫必至の改革事業と2つの政権
大院君、三浦公使に面会を求める
大院君が約束を守るなら
大院君の決心は堅く
謝恩大使を日本へ派遣
大院君への援助を決す
われら李氏五百年の臣であって、閔氏の臣にあらず
訓練隊解散と閔泳駿入府
8日決行に前倒し
王后は臨機の処分あるべし
同士打ちの侍衛隊。そして護る者は誰もいなくなった
宮女は殺害されず、ただ王妃のみ  日本守備隊について 宮女殺害について 王妃殺害者は誰か 事件をこう見る 日本政府としては 朝鮮政府としては 日本人か朝鮮人かについて>

 

王城事変

 この事変は、後の外務省外交資料館にある「日本外交文書」に、「王城事変」という名で纏められており、また事変当時もそのように称されており、朝鮮王宮における連続の事変(含む王妃殺害事件)として最も妥当なタイトルと思われるので、これを使用したい。
 王城事変は大院君入闕王妃殺害の10月8日事変のみではない。その後、露国公使館に逃げ込んだ王妃派が、旧兵800人、剣客40人で王宮を襲撃した11月29日事変(春生門事件)も含む。

 まず史資料であるが、「韓国王妃殺害一件 第一巻、第二巻、第三巻」、「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」、「明治28年10月起 明治29年1月結了 朝鮮内乱事件 秘 陸軍省」、「明治28年自1月至12月 「情報 共3冊(2) 庶」」、「末松法制局長官宛 石塚英蔵書簡」、「韓国王露公使館ヘ播遷関係一件」、「在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件」、「伊藤特派大使遣韓ノ件(「日本外交文書 第38巻第1冊」)」、「韓國官報」、dreamtale氏サイト掲載電文資料などがある。その他関係者回顧録などの言説も参考になる。

 これらの内のどれか一つの報告を以って事変経緯を記述するのは困難なので、一連の資料を参照し(多分に独断と偏見は免れられないだろうが(笑)。しかし各資料の整合性を重視し)、経緯を組み立てながら詳述していきたい。

 

10月8日事変(大院君入闕と王妃殺害事件)の要点を先に言えば

 資料が膨大なので、ここでの記述も長文とならざるを得ないが、とりあえず要点だけを先に知りたいという人のために、要点というか筆者の感想をここで簡単な箇条書きとしたい。

事件の原因は?
 ・ 内政改革を放棄し閔氏政権の復活を目論む王妃と、改革を目指す現行政府派らとの対立による。

経緯は?
 ・ 王妃と王妃派は改革の誓いを放棄し、再び閔氏一族による政権を復活させるべく、現行政府派である訓練隊を解散させて将兵を処分し、同時に金宏集総理大臣ら、政府関係者多数を殺害することを計画。それを知った現行政府派は日韓協同で先手を打って攻勢に出、大院君と共に王宮に入って王妃派勢力を排除した。その時王妃も殺害され、王妃派の訓練隊連隊長、同じく宮内大臣も殺害された。

事件の首謀者は?
 ・ 単独ではなく、主となる順序から言えば韓日合同作戦であり、個人名としても、前軍部大臣代理李周會、国王実父大院君、京城公使館書記官杉村濬の順序となる。

三浦公使が事件の首謀者と言われているが?
 ・ 赴任したばかりの三浦は朝鮮事情に疎く、首謀者に対する従なる関係者であったと言える。但し、大院君入闕の支援については積極的であった。また、王妃殺害に関しての関与は事実としては不明である。

王妃殺害の理由
 ・ 王妃殺害は目的ではなかった。現場での暴走と言える。

王妃を殺害したのは誰か?
 ・ 主謀者は大院君であると言える。直接的殺害者の個人を特定し、それを敢えて朝鮮人か日本人かという国籍で問うなら、日本人である可能性が極めて高い。だが断言は出来ない。

野次馬連が王妃を殺害したのではないか?
 ・ 「末松法制局長官宛 石塚英蔵書簡」にある野次馬連とは日本人のことを指す文意となっている。ただし、石塚英蔵は当時現場には居ず、伝聞による現場説明である。なお、「笑うべし又怒るべし」、「ボロを現わす」などの言葉を使うあたり、この書簡こそ野次馬気分で書かれたものと言わざるを得ない。

日本政府は殺害に関与したのか?
 ・ 関与していない。井上馨を疑う人があるが、邪推である(含む三浦梧樓の言)。

三浦梧樓公使も杉村濬書記官も日本政府の人である。日本政府にも責任があるのでは?
 ・ 政府方針とその訓令に反する行動をした点で、公使はじめ官員による個人的なものと言える。ただし政府にも任命責任はあるだろう。しかしこれは日本国内の問題である。

この事件は解決されたのか?
 ・ 解決済みの事件である。すなわち日朝修好条規により、日朝共に司法の手続きはなされて終結した。すなわち日本側は証拠不十分で免訴。朝鮮側は処刑者を出しつつ紆余曲折あって、結局は純宗皇帝が訓練第2大隊長の禹範善を除いて総てを赦免したことにより終結したと言える。
 また、明治天皇からも朝鮮国王に親書を送り、「朕が臣民の其事に関連するものあるを聞き殊に遺憾に堪えず」と表明している。

日本人すべてが免訴となった予審決定はおかしいのでは?
 ・ 免訴決定は法律的に証拠が不十分であったからに過ぎない。それは主に証拠収集に関する朝鮮政府の対応が非協力的なものだったことによる。むしろ予審決定書にある事件経緯記述は、日本の検察と予審判事による精一杯の断罪の文章と言える(尤も、事実関係において問題点があるが)。しかし法律上証拠なしに人を罪人に処することは出来ない。

事件から百年以上経った今日においても、王妃殺害に関して謝罪を求める声があるが?
 ・ 感情論として理解できないわけではないが、個人的な行動を、しかも法的に解決したものを問う場合、ならば明治15年の日本人僧侶殺害事件(未解決)を初め、大勢の日本人が朝鮮人から殺害されている事実に対しても、謝罪を問題にせねばならなくなる。2万人近い死傷者を出しながら朝鮮の清国からの独立を戦い、朝鮮各地の賊徒を鎮圧し、国政改良にあらゆる援助をしてきた日本国に対する、重大な信義背反の行為として、王妃はじめそれらの人々の行動に対しても謝罪を求めねばならなくなろう。

 百年以上も前の事跡を取り出して弄ぶのは、趣味の範囲に限りたいものである。

 

10月8日事変に至る対立の構造

 事変をめぐって三つのグループが浮かび上がってくる。

@ は、王妃(国王は全く王妃の傀儡も同然の人となっている)、閔派・露米派(閔商鎬、李耕植、李範晋、李秉淵、李允用、安駉壽、李完用など)、露公使ウェベル、米国人リゼンドル、王宮守備の侍衛隊、その米国人教官、米国人宣教師など

A は、大院君、李周會、趙重應、金宏集、金允植、趙義淵、権濚鎮、禹範善と訓練隊、三浦梧樓公使、杉村濬書記官、岡本柳之助、楠瀬幸彦中佐、馬屋原務本少佐、日本巡査、朝鮮壮士、日本壮士など

B は、井上馨、西園寺外務大臣、参謀本部などの日本政府側

 まず、事変を醸成したのは@の王妃グループである。三国干渉によって日本政府が露国に屈服したと見、以前のような強力な指導すなわち干渉も止んだことから、いよいよ清国に代わる新たな事大先を露国と定め、その保護のもとに君権を取り戻し、閔政権の復活を目論み、かつて追いやられた閔族を呼戻し、ついに閔泳駿を宮内府に入れた。更には日本陸軍士官に訓練された訓練隊を解散して将兵を処刑し、金宏集総理など政府関係者の暗殺を計画。なお米国人はその利害から王妃を支持した。

 Aの日韓協同グループの人々に共通している点は、日本はこれまでのように強力に朝鮮を指導し、内閣政府を助けて、朝鮮内政改革を進めねばならない、と思っていることにある。これらの人々には、井上公使の態度が豹変して軟弱となったと映り、よって、大院君も三浦公使も杉村書記官も一応に井上を非難している。しかしそれは、日本政府の対韓方針の決定を理解していない、いやそれに納得していない人々であるとも言える。また、緊急の危機として訓練隊の解散と処刑、政府関係者の殺害という事態にも直面している。

 Bは日本政府そのものであって、その方針は「対韓政略は成るべく干渉を息め、朝鮮をして自立せしむるの方針を執るべし」であり、「帝国政府は其独立を維持することに付、単独に責務を負うを必要と認めず。故に日本国政府は、利害の関係ある他の諸国と協力して朝鮮国の事態を改善することを以て目的となす所の処置に協同して差支えなきことを表言する」とあるように、利害ある諸国すなわち露国との協力も視野に入れたものとなっている。井上馨はその方針に沿ったに過ぎない。

 したがってAのグループの中の日本人は、日本政府の意向を無視し、勝手な行動に出て日本政府に背反したグループと言える。

 しかし、杉村濬書記官をはじめ朝鮮滞在の永い日本人は朝鮮に対する思い入れが深いのは無理もないことではある。とりわけ杉村書記官は日清戦争前の明治27年6月にいち早く朝鮮内政改革を説いた人である。明治15年からつぶさに朝鮮の実情を見てきた彼にとって、改革への思いはひとしおであったろう。もちろん改革を願うのは心ある朝鮮人もそうであった。かつて朴泳孝は明治21年に国王への建白書を記し、閔政権下での朝鮮の実情を次のように歎き訴えた。

「宗社黎民之安危、唆民膏血、盗竊國財、以為私、屏斥忠良、妄殺無辜、以為快、賄賂公行、而官位公賣、上下貪財、而公私并廃、能唆民血、竊國財者、官至太守、能斥忠良、殺無辜者、位進宰相、而百姓轉乎丘壑、散離四方、父母兄弟妻子、不得相見、或餓死、或凍死、或冤恨而恚死、或は無医薬而病死、或無罪而受刑戮、或困飢寒為盗而被殺、此所謂『為阱於國中也』、事実真如此、臣豈敢誣奏。(「韓国人朴泳孝建白書」画面5)

「国家人民の安危というものは、民の辛苦と国財を盗んで私のものとし、忠良を斥けて妄りに無実の人を殺すことを快しとしている。賄賂は横行し、官位を公売し、上下して財を貪り、ついに公私ともに廃った。そして、よく民の辛苦と国財を盗んだ者は官位が太守となり、よく忠良を斥けて無実の者を殺した者が位を進めて宰相となっている。民百姓は山奥に隠れ住み、四方に離散し、父母兄弟妻子はバラバラとなり、或いは餓死し、或いは凍死し、或いは恨み窮まって憤死し、或いは医薬なくして病死し、或いは無罪にして惨たらしく刑殺を受け、或いは寒さと飢えに困って盗み、そして殺される。これはいわゆる(孟子の言葉にある)『国中に落とし穴を設けて民を陥れる』であり、事実は真にこのとおりであります。臣(朴泳孝)がどうしていつわりを奏しましょうか。」

 王妃が望む閔氏政権に戻るとは、このような暗黒朝鮮に沈もうとするものであった。
 なお、王宮に兵を率いて突入した訓練隊第2大隊長禹範善は、かつて軍国機務所時代に朴泳孝と同意見の上疏をしたのは既述した通りである。

 

朝鮮有志家の運動と援助要請

 資料「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「追言」に於いて杉村濬は、
「二十八年十月八日に於ける事変の発端は、前に陳述したる如く、時勢に迫られ不得已に出でたるものにして、余は実に其計画者の一人たるを免れず。否寧ろ計画者の中心たる姿なりし」
と言っている。
 その言葉のみならず、行動、発案などに於いても、首謀者の1人と言ってもよいだろう。その記述によって事変経緯の前半を再現してみたい。

 9月17日、井上馨は京城を出発、21日には仁川から出帆した。
 これより先、朝鮮人の間にも王妃専横の国情を歎き国家の危機を訴える者が増加した。人々の間では、「宮中の意向は、先に現政府派である訓練隊を解散させて政府の武力を奪い、次に金宏集総理以下政府関係者多数を殺害し、閔氏政権を樹立することにある」との言説が流れた。
 後に明らかとなったが、これらは実説であり、王妃の旨を奉じた宮内府協弁李範晋らが軍部大臣安駉壽と謀って整えた計画であった。
 また、宮中は既に露国公使ウェベルと結托し、露国が朝鮮の君権を保護する代りに咸鏡道の一港を露国に貸す密約をした、との説も流れていた。

 いよいよ危機的状況に立たされた現政府派の中でも、朴泳孝派でもある前軍部協弁李周會は、度々大院君のもとを訪れ、大院君に決起と入闕を促した。

 李周会の行動によってか、この頃巷では朝鮮有志が大院君を擁して決起するという噂が立ち、それを聞いた杉村書記官は大院君の軽挙を懸念し、岡本柳之助と相談して9月20日頃に通訳鈴木順見を大院君邸に派して面会させた。その時大院君は、国家の危機に瀕していると慨嘆しまた憤激して止まなかったが、決起するほどの様子ではなかった。

 9月下旬、李周會は今度は杉村書記官のもとを3回ほど訪れ、悲憤慷慨して、「大院君を押し立てる外、国家救済の道はない」と論じ、切実に日本の援助を求めた。しかし杉村書記官は、「大院君は心変わりして裏切る人なので承諾できない」と斥けたところ、李周會は「大院君は決して再び日本に背くことはない。自分が誓って背かせない」と断言した。しかし杉村はそれに何も返答しなかった。またこの頃、元外部参議の趙重應も杉村のもとを訪れて同様の意見を述べた。
 また李周會は朝鮮政府補佐官浅山顕蔵と親交があり、諸事を浅山と相談することがあった。

 資料は(同「後編 3」画面26)による。
 金総理ら政府関係者を殺害する説は単なる噂ではなく、後に以下のように実説であることが明らかとなった。
「十月八日事変前に、李範晋等は王妃の旨を奉じ、安駉壽と謀り、閔泳駿を内閣に出し、閔派の内閣を組織し、金宏集始め兪吉濬抔数多の大臣を暗殺せんとするの計画は略々整いたるに、豈斗んや十月八日の事変咄嗟に起り、竟に其陰謀の画餅に帰したる事は、後ち安駉壽の自白并に王妃の昵臣柳束根が警務庁の審問に対する口供に拠り明かなり(「韓国王妃殺害一件 第二巻 分割2 B08090168800」p6)
 かつて自分は日本党であると言っていたのが「安駉壽」。それが、すっかり王妃派となって改革派暗殺の陰謀をめぐらすにいたるとは。
 そう言えば、かつての軍国機務処主事の人物評によれば、「狡猾で人付き合い甚だ悪い奸物であり、到底多人数を率いる人ではない。大院君が決して信じない人物である」と言われていたっけ。
 よって、10月8日の大院君入闕は、現政府派による自衛の行動であったとも言えよう。

 なお、訓練隊を解散させる策略は、後に王妃派が、「訓練隊の兵士多数が警務庁(王妃派)を襲った」という話をでっち上げ、ついに10月7日に解散命令が出て現実のものとなる。

 

訓練隊と平民大臣代理李周會

 李周會は朴泳孝が政府にいた頃に軍部大臣代理であった人である。貴族出身者ではなく平民から抜擢された人だったことが既述した宮内大臣金宗漢の7月1日の話から知れる。
 「今回革政以来、上下臣民の情形は大に疇昔に異なり、門地もなき微賤の輩が、忽ち大臣の顕職に上るさえ頗る聴聞を驚かすことなるに、此種平民大臣代理の一人たる李周会等が、今回訓練隊入衛一件に付、三日間廷争抗言したるが如き・・・・」
 門閥の人からは蔑まれたらしい。彼のかつての肩書きは軍部経理局長(韓國官報第三号)。朴泳孝派であり日本に滞在して学んだ人であり(李周會供草より)、平民から大臣協弁に採用されるのは異例中の異例であって、有能な人材だったと思われる。

 尤も、国王から疎まれたことがあって、既述したように当時の近衛兵入れ替え問題のことで、杉村濬は7月12日に次のように報告している。
 「初め国王は新官制実施の結果として君主の権力は内閣に奪去られたる者と誤了し、何卒して之を恢復せんことを希望せられ、陰に近侍の人々を魯米等の公使館に派し、其助力を懇求せられたることは、追々漏聞したる所なり。当時内閣諸大臣の内にも朴内部大臣を始めとして深く憂慮し、密議を凝せし上、第一、旧護衛兵を廃して新訓練兵を以て之を代らしめ、第二、常に宮中より各館に往来する、二三の宮内官吏を転任、若くは廃黜して、以て其禍根を絶たんことを計画し、先ず近衛兵交代の事に着手したるは、蓋し本年六月二十二三日の事と聞きぬ。軍部大臣代理李周會は、朴氏崇拝の一人なるが、其主務の事とて国王の好ませられざるにも拘わらず、近衛兵入替の事を毎日奏上して、凡そ三日程打続けたる処、国王には痛く不快に感ぜられ、最後総理大臣を呼べよとの御沙汰ありたり。依て同月二十五日、朴(定陽)総理参内したる処、国王には激怒して近衛兵入替の事は、朕の好まざる所なるに、内閣が強て之を請うは不都合なり、との御沙汰を受け、朴総理は帰閣して御沙汰の趣を伝えたる処、内閣大臣の内、深く之を咎責するものありて、総理は恰も板挟の姿と為り、終に辞表を奉呈せり」

 この近衛兵入れ替え問題のことは、なぜに朴泳孝がそれほどにこだわったのかが今ひとつ理解出来がたい。
 そもそも国王王妃が訓練隊に不信を懐いているのは、かつて申泰休という人物が大隊長に任命されたことにあったと思われる。申泰休は朴泳孝の話によれば、かつて明治17年の朴金の乱(甲申事変)の時に袁世凱の先鋒として王宮に攻入った人物であり、また国王もその時のことを不快に思うだけでなく、明治20年頃に大院君が袁世凱と共謀して自分を暗殺しようとした時に手勢を率いて陰謀に加わった一人である、と国王は述べた。もっとも、それを趙義淵軍部大臣が訓練大隊長に採用せんとして上奏した時に、国王は考えなしにそれを受けたと言っている。その後、朴泳孝に命じて職を移させようとしたことは既に述べた。
 訓練隊は、日本公使館付武官である陸軍砲兵中佐楠瀬幸彦が訓練する朝鮮最強の部隊である。朴泳孝がこれを旧式の王宮侍衛隊と交替させんとしたことも、当時政府内の旧派とのせめぎ合いのみならず、日本が訓練して近代戦を調えたものであったからであろうか。

 とにかく、朴泳孝の意向を受けて国王に迫ったという李周會がいつ任官を離れたのかは不明であるが、おそらく朴泳孝反逆罪嫌疑に関係してと思われる(李周會供草より)。以降は大院君に接近し、その決起を促したとはその通りであろう。10月8日の事変で、彼は大院君を擁して朝鮮壮士を率いた人物の1人として認定され(韓國官報号外開国504年11月14日)、後に処刑されている。

 大院君と杉村書記官の間を往復し、大院君の決起と日本公使館の援助を繰り返し求め、当日には朝鮮壮士を率いて大院君と共に入宮したあたり、朝鮮側の首謀者の1人と見なすことが出来よう。

 

頓挫必至の改革事業と2つの政権

 その後、いよいよ内政改革事業は滞り、制度は整っても宮中の横暴により、このままでは改革は頓挫することは必至となってきた。そのことを政府会計顧問官の仁尾惟茂、法律顧問官石塚英蔵らが公使館に来ては三浦公使に訴えた。よって三浦公使は、2回ほど宮中に参内して諌止的意見を内奏したが何の効果もなかった。
 当時、杉村等は仁尾惟茂等に、もはや今日の情勢となっては言葉だけではどうにも救いようがなく何らかの行動に出る決心をせねばならない窮状となった、と述べることがあった。

 9月28日、王宮では内閣総理大臣らの副署ではなく、李範晋宮内府大臣署理らの副署による勅令第一号を発布。すでに政府では150を超える内閣大臣副署の勅令を発しているにもかかわらず、宮中から直接に発せられた初の勅令であった。これによって朝鮮には2つの政権が存在しているも同然となる。

 資料は同上の続きによる。明治27年12月に金宏集内閣が成立して以来、多くの日本人顧問官の協力のもとに、財務、軍務、立法、司法、教育、通信、運輸、殖産、興業、その他百般の政務の上に、次々と新制度が設けられ、勅令として発布されていった。
 韓國官報第一号以前の三月二十五日(日本歴明治28年4月19日)発布を報せる官報によれば、「法律第一号である裁判所構成法、勅令三十八号の内閣官制、内閣所属職員官制、中枢院官制及事務章程、各部官制通則、外部官制、外交官及領事官官制、公使館領事館職員令、法部官制、学部官制、観象所(気象測候所)官制、農商工部官制、法官養成所既定、裁判所処務既定通則、判事検事官等俸給令、廷吏俸給、内部官制、度支部官制、軍部官制、管税司及徴税署官制、官等俸給令、法律第二号の会計法、同三号の各道営邑(地方)会計法」などなど、初の韓國官報第一号が発刊される四月一日(日本歴4月25日)までに、すでに61の勅令となって発せられ、その他小学校制度や郵便業務など、9月末までには150を超えた。
 石塚英蔵日本法制局参事官ら多くの日本人顧問官らの努力の賜物でもあった。もちろん日本政府の厚意によって彼らの給与は日本政府が支払っていた。つまりは、朝鮮は日本と違い、無料でこれら近代化の成果を得ていたのである。しかし仏つくって魂入れずとばかりに、王宮の横槍によって果して実動出来るのかは困難な情況となっていった。
 それどころか、王宮による勅令第一号は、内容としては朝臣の服制を既定するものであったが、それが副署規定も定まっているにもかかわらず、内閣政府を経ずに、宮内府大臣署理李範晋と掌礼院卿趙秉稷の副署によって発せられた初の王宮直接の勅令であった。

 これが意味するところは、今や朝鮮には2つの政権が存在するも同然であって、すでに閔泳駿はじめ大勢の閔族閔派が赦免された以上、もはや閔政権復活が目前であり、しかもそれが成れば、当然2つの政権は存在できず、ついに金宏集総理大臣はじめ政府大臣と関係者一同が粛清される動きとなるは必至であった。なお、ついに王妃は閔泳駿を10月7日には宮内府に入れる。

 

大院君、三浦公使に面会を求める

 9月末、たまたま堀口九萬一領事官輔は日本人小学校教師鮎貝房之進を伴って大院君邸を訪問した。
 大院君は、日本領事官から来た人であると聞いて、ひそかに裏門から彼等を通して面会した。
 何かと雑談の後、詩文を筆記しての応答となった。その時に大院君が書した一篇の詩の中に、
 「自分も再び入闕して政事に与りたしと思えども、自分を輔佐し呉れるべき知己なきに苦しむ」
 との意味が寓されていたので、堀口もまたその韻に和して、
「君にして若し志あらば必ずしも輔佐の人なきを慮うるに及ばざるべし」
との意味を寓する一詩を書し、これを示すと大院君は大変満足の情を現し、ついで、危機に瀕した現状を述べ、またこうなったのは井上馨公使の罪であるとして同公使を強く非難し、そのうえ、この情況を救う方法について三浦公使にご相談したいので面会したい、との伝言を託した。
 また、李呵Oを呼び出して堀口らに紹介したが、別れを告げるに当り、大院君は堀口に、
 「貴殿は岡本柳之助という者を知っているか」
と問うので、堀口はこれに対して、「然り。自分は彼とは懇意である」と答えた。
 大院君は、「本日、貴殿との応答の事は、もし他日に発覚したら貴殿に累を及ぼすかも知れないので、今はこれは焼いてしまおう」と言って、この日の筆談した紙や詩文などをすべてを焼いた。

 よって堀口は帰るとまず杉村書記官を訪ねた。
 杉村は同氏を誘って公使の室に至り、三浦と共にその伝言を聴いた。
 三浦公使は、その場で直に諾否の返答はせず、堀口が退席後に杉村書記官に言った。

三浦 「初め東京出発の際に、早晩、事変の発生を予期したが、来年1月か2月の頃までは大丈夫だろうとは思っていた。しかし予想外のこととなって事は目前に迫った」

 堀口九萬一は、荻原秀次郎公使館付警部や鮎貝房之進と志を同じくする者で、大院君との間は洪顯哲という朝鮮人が立って連絡を通じたと思われた。
 洪顯哲は過激家というよりは寧ろ突飛な人間であり、9月10日頃に、一書を公使館に投じ、その書中で朝鮮の悪弊を痛撃し、また井上公使の措置が適当でなくなったことを批判し、結末に及んで大院君を引出さねば時世を救うことは出来ないと極論した。同人は、度々大院君邸に出入りし、ついに双方の連絡をはかったものと杉村には推測された。

 資料は同上並びに11月5日付内田領事の報告「機密第三六号」による。

 李周會、趙重應に続いて、今度は洪顯哲という朝鮮人の名が出てきた。「機密第三六号」では、「大院君は、其信任する洪顕鉄なる者を屡々堀口の宅に遣わし、三浦公使に面会の出来る様取計い呉れ度しとの事に付」とある。
 いよいよ決起入闕することについて、大院君の方から三浦公使に面会を求めたのは間違いないようである。

 さて、大院君も洪顕鉄も井上公使を非難。まあ、内政改革に於ける井上の手腕が強烈なだっただけに、その手のひらを返したような穏健ぶりに、改革に乗った人等としては、まるで無理やり2階に上げられて梯子をはずされたような気分だったのかも(笑) しかし改革の主体はどこまでも朝鮮人であってねえ。

 

大院君が約束を守るなら


 すでにこのようにして形勢は益々切迫したので、10月1、2日頃、杉村書記官が三浦公使の部屋に行って時勢談に及んだところ、三浦公使が言うのに、

三浦 「先日、堀口が持ってきた大院君の伝言に対して、なんらかの返答をせねばなるまい。大院君が果たして決起する勇気があるなら、これを援助して立たせてはどうだろうか」

杉村 「大院君は極めて権力欲の強い人で、そのうえ常に裏切る人なので事を共謀するべきではありません。昨年すでに手を焼きました」

三浦 「大院君に援助する以外に、今の事態を救う道が外にあるだろうか」

杉村 「ないでしょう」

三浦 「今日のようなままで放任するなら、みすみす朝鮮を露国に奪い去られるだろう。大院君のそのような権力欲と裏切りのことは、後日になってなんとか防ぐようにしよう。今はこれを考える暇はない」

杉村 「やむをえない時は大院君を援助するべきでしょう。しかし最初に厳重に約束を結ばせねばなりません」

 杉村はそういって三浦の部屋を出て、以下の約束案を書いてきた。

 一、 国太公(大院君のこと)は大君主を輔佐して、宮中事務の整理に専念し、一切の政務には干与しないこと。
 (1月8日の洪範14条の)誓告文の趣意を遵奉し、王室の事務と国政事務を明瞭に区別すること。宮内府の勢力を拡充して、国政事務を侵蝕するようなことは断じてしてはならない。したがって太公は政府官員の進退に容喙しないこと。

 二、金宏集、魚允中、金允植の三氏を中心とし、その他の改革派の人々を挙げて重要な位置に立たせ、専ら政務に任じさせ、顧問官の意見を聴いて、大君主の裁可を経て、政事の改革を決行し、国家独立の基礎を鞏固にすることに取り組むこと。

 三、李載冕氏を宮内大臣にし、金宗漢氏を同協弁に復し、宮内府の事務を担当させること。

 四、李呵O氏を三年間日本に留学させ、その人材器量を養成すること。ただし毎年夏期に帰省することは差支ない。

 杉村をこれを三浦に説明した。

杉村 「第一条のように厳しく大院君の政事干渉を絶対禁止にすれば、いくらかは後弊を防げようかと。第二条及び第三条の五名は極めて適任なので、この外に国内外の政事を托せる人はいません。大院君もまたこの五名には必ず同意するでしょう。第四条は、しばらく李呵Oを遠ざけて上下の人々の不安を減らしたい。同氏は久しく野心を抱いて既に王妃及び世子に対する反逆罪で処刑まで受けた。又、大勢の臣下の中にもどことなく同氏を恐れる人がある。しかし同氏は大院君に非常に寵愛されて、その言の多くを納れられる方なので、大院君が一度勢力を得れば、上下共に恐怖心をおこすでしょう。これは将来のために害となることをが少くない。故にしばらく彼を遠ざけて日本に留学させ、文明の感化によって野心を消滅させることを願ってのことです」

三浦 「これはよい。堀口にこの案を持たせてやって大院君と謀らせようか」

杉村 「堀口は年少です。大院君は恐らくは彼には本心を吐かないでしょう。岡本(柳之助)を除いては大院君への使いが出来る人はいない」

三浦 「それなら岡本を招いて共にこのことを相談しよう」

この日はここまでの相談で終った。


 資料は杉村濬の(同「後編 3」画面29)の続きによる。

 面会を求める大院君の意向は決まりきっている。その意を汲んでの三浦公使の発言である。そこをより具体的に実効あるものに組み立てていくのは杉村書記官である。

 しかし疑問なのは、このような重大事を公使館勤務経験豊富な杉村書記官が、ここは政府の指示を仰ぐべきでしょうとか何とか、そのような意見をこそ三浦公使にしなかったことである。まあ相手は陸軍中将子爵の特命全権公使であるし、一介の書記官がとやかくは言いにくかったのかもしれない。それとも、政府の方針に納得しないまま独断専行せんとする意志があったのか、またはそのような公使館の雰囲気というものがあったのか。あるいは昨年7月23日の時の大院君入闕の再演に過ぎない、というぐらいの乗りだったのか。
 だが前回と今回ではその法的根拠となるものが全然違っている。前回は日朝修好条規第1款と済物浦条約第5款上の条約履行要求に朝鮮政府が応じないことに対し、相手国が条約を履行しない場合の公法上の正当性があった。よって当時の公使大鳥圭介は事前に武力行使を通告し、いよいよ7月23日に兵力を以て王宮を囲んだのである。更に王宮兵の発砲に応じて小戦闘となり王宮を占拠した上で、説得に応じた大院君を入闕させたのである。
 しかし今回は何ら条約上の根拠も無く、単なる内政干渉となるだけである。国王からの要請があったのならともかく、国王実父とはいえ王宮にも政府にも地位の無いただの個人の求めに過ぎないのであるから。

 この頃の2日6日に、三浦公使が本国政府に宛てて送ったものは既に述べたとおりである。杉村の語るところによれば、これに対する外務大臣からの返電はなく、ただ井上から三浦公使宛てに、参内して国王王妃に忠告して宮中の横暴を制するように、との電報があったのみで、既にそのような忠告の効果がある見込はなかったという。しかし三浦の報告を読むと、要するに朝鮮の国内問題であって、井上が言うようなこと以外どうにも返電のしようがない内容ではある。

 岡本と大院君の昨年7月以来の関係であるが、これまでの記述である程度は窺える仲であろう。とりわけ井上公使の意向を受けて、大院君に内政改革の必要性と国際情勢などを説いたと思われる。中でも11月18日の大院君邸に於ける全大臣集合した場での岡本の存在は大院君との関係の特別さが知られるものであろう。

 

大院君の決心は堅く

 杉村は帰宅後に直に岡本を招いたが、差支えあって3日の夜に公使館で会った。
 この時、公使から先ず大院君が堀口に託して面会を求めた経緯を説明し、場合によっては大院君を助けて目下の危急を救おうという気があるなら、大院君の決意を確め、また打ち合わせのため、大院君の邸宅のある孔徳里まで行ってほしい、と依頼すると、岡本は暫く首を傾け、思案してから承諾した。
 次に4ヶ条の約束条件について協議した末、いくつかを修正した。

 なおこの日(3日)、京城東門内に於いて警務庁巡検が訓練隊兵卒と争い、互いに死傷者を出す事件があった。

 5日。大院君邸のへの出入りはかなり厳重で、どうかすると宮中派の嫌疑を招くおそれがあるので、岡本は帰国するから告別のために会う、と偽ってこの日の午前中に通訳鈴木順見を伴って孔徳里に赴いた。
 この日は宮内府侍従院卿の李戴純が、謝恩日本特別全権大使として京城を出発して仁川に向かい、途中、孔徳里のある麻浦に至るまで岡本ら一行と前後したが、幸い知られることはなかったという。

 夜になって公使館に戻った岡本は言った。

岡本 「大院君は、李載冕、李呵Oと列座になって自分と対面し、今日の情勢を嘆いて、たいへん長い談話となったが、要するに同君入闕の決心は堅く、欣然として密約に同意を表して筆を執り、それを自記した。よって自分は、時機到来すれば自分が来て迎えるので、それ迄は静かに待たれよ、との辞を遺して帰った」

 岡本が首を傾けたとはありえること。普通はそうだよねえ。

 で、この時の大院君の様子を、壮士として参加した新聞記者小早川秀雄の言によれば、
「大院君は激しい口調で憤懣をぶちまけ、まず王妃について、その陰険老獪、権謀術策の軽視できないことを説き、すなわち王妃は外面は日本に頼るふりをして、内実は露国と結んで日本の勢力を排斥しようとしており、露国と宮中との間には恐るべき密約が締結され、先日、宮中で催された盛大な宴会は、明治15年の変乱の時に王妃が忠清道から宮中に帰った日を記念した祝賀会であるが、その費用の5万円を露国が提供して催させたものである。閔氏が李氏の天下を奪おうとする魂胆の一部がここにはからずも現われているではないか、と大院君は痛烈にこれを嘲り且つ悪しざまにののしり、さらには、宮中では刺客をかかえて金宏集以下の内閣員を暗殺しようと既に手はずを整え、李呵Oや自分の一身もまた風前の燈火のごとく危いと述べて、泣かんばかりに歎いて大きなため息をついた」という。もっとも、彼がそこに実際いて聞いたのかどうかは分からない。

 なお、大院君の邸宅は警務庁が派遣した巡検が守衛をしている。表向きは大院君の護衛であったが、警務府は王妃派であるから大院君と出入りする人物を厳しく監視していた。

 

謝恩大使を日本へ派遣

 また、「謝恩日本特別全権大使」とは、先に日清媾和条約がととのって、その条項に朝鮮独立のことを明文化してあることから、かつて朝鮮政府では感謝の意を表したい旨以下のような内意を告げていたのは既述した通り。

(日清媾和条約中首トノ朝鮮ノ独立自主ヲ認明セラレタル義ニ関シ同国大君主陛下ヨリ感謝ノ意ヲ転奏セラレ度旨同国外務大臣ヨリ照会ノ件)

 親展送第四三号
今般、芝罘に於て批准交換相成りたる日清媾和条約中、首として朝鮮の独立自主を認明せしめられたる儀に関し、朝鮮国大君主陛下より、我天皇陛下へ感謝の意を転奏せられ度旨、同国外部大臣金允植より在朝鮮井上公使へ別紙の通り照会有之候趣、同公使より通知致来候間、右写差進候也。
 明治廿八年五月三十日
        外務大臣子爵陸奥宗光
 内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿

  大朝鮮外部大臣金            為
   照会事茲者面奉我
大君主陛下勅旨 此次芝罘和約已准 其大一條
認明朝鮮国独立自主之事也苟非
 大日本国
大皇帝誼篤友邦念切同盟保持東洋大局之弘謨遠略何以至此朕心感泐不知攸謝爾外部其即致書干日本公使道朕感謝之意俾為転達干
 大日本国
大皇帝可也等因欽此相応備文照会請煩
 貴伯爵公使査照将我
大君主陛下聖旨転達干
 貴国
大皇帝陛下至為祷切須至照会者
 右  照  会

 大日本特命全権公使伯爵井上馨
 開国五百四年四月二十二日

 それがまた今度、改めて謝恩大使を派遣して以下のような趣旨で感謝を表したいとのことであった。

(朝鮮国大使正二品李載純来朝ニ関スル件)

送第一八一号
今般、朝鮮国に於ては正二品李戴純を大使に任じ、本邦へ来朝為致候趣、本邦駐箚朝鮮公使へ本国外部大臣より電報有之候由にて、出発日限等は追て本国より来電次第通知可致旨、同公使より申越候。右派遣の趣旨、同国駐箚三浦公使に於て外部大臣へ相尋候処、昨年来我政府に於て朝鮮国の為め、内乱を鎮圧し、政治の改良を勧め、並に馬関条約に於て同国の独立を認定したる個条の謝礼として特に親書を齎して派遣せらるゝ義に有之候旨、回答有之候趣、三浦公使より回電有之候間此段併せて申進候也。

明治二十八年九月二十六日
        外務大臣臨時代理
         文部大臣侯爵西園寺公望
 内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿

 李戴純は正二品且つ宮内府侍従院卿の地位であるから、これは国王勅使の派遣といってもいいだろう。
 一に、内乱鎮圧、二に、政治の改良、三に、媾和条約における独立認定の個条の明記と。日本政府が朝鮮のために行ったそれらの事に対して、朝鮮国王と政府が感謝の意を親書を以って表明すると。
 王妃殺害事件のことは弄んでも、決してこれを採り上げることはしないだろう南北朝鮮の歴史から抹殺された事実がまたここにひとつと(笑)
 もっとも、この一行が仁川を出発したのが7日だから、8日事変後はどうなったんでしょうかねえ。日本に到着したのかしらん。

 

大院君への援助を決す

 さて、いよいよ大院君決起のことは決定した。後はどのような準備をして事を進めていくかである。

 ここにおいて、どうやって大院君を助けるかを協議したが、先ず、訓練隊と朝鮮壮士と大院君の間に連絡をつけさせ、その後に、こちらはひそかに行動開始の機会を与えて、裏からこれを指揮すべきである、との話まではほぼ決まったが、それ以外のことは話題とならなかった。

杉村 「先に朴泳孝らが王宮衛兵の交替をさせようとして出来なかった。ついには宮中のために機先を制された。今日のことも、迷いためらって決心しないなら、必ず宮中から機先を制せられ、訓練隊を解散し、内閣大臣を追放する事態となるだろう。その時は再び回復することは出来ないだろう。よって、予め事を起す時期を定めて準備に取り掛かりたい」

 協議の結果、10月10日に事を挙げることに決した。そして準備は杉村が担当し、岡本は帰国と称して仁川に下り、杉村からの電報を待って再び入京することにした。

 翌6日、岡本は仁川に向った。また杉村は公使の内意を受けて、単身金宏集を訪問し、政事に関する意見を尋ねたところ、切に国家の危機に瀕したと説き、また自分は微力なのでこれを救うことができないと慨歎して止まないので、杉村は、前に金総理と金外部が既に辞職の内意ある旨を申し出たことがあったので、その談義に及んだ。

杉村 「閣下は、身は総理大臣となって国難を救うことが出来ないのなら寧ろその職を辞したらどうだろうか。閣下が辞職していよいよどうしようもない事態となったら、その上で救う道があるだろう」
 と話を向けると、

金総理 「何の理由もなく突然に辞表を出せば、必ず世人の疑いを招くだろう。且つ国王に対しても憚られることである」
 と、辞表する意は見せなかった。

杉村 「それなら、もし閣下等に力があるなら救済の道はあろうか」

金総理 「止むを得ないなら大院君に面倒をかけるしか道はない。しかし大院君を引出す方法はない」

 杉村は帰館の途中、元軍部大臣の趙義淵の所を訪ねた。権濚鎮もその席にいた。話は決起の事に及び、互いに意見を交わした後、杉村は趙権の2氏に向って言った。

杉村 「訓練第2大隊は隊長禹範善以下みなが宮中の処置に激憤しており、時至れば献身的に行動するだろうが、第1大隊の方は比較的に熱意が感じられない。万一に及んで躊躇するようなことがあっては大事を誤るだろう。貴君らは、第1大隊を動かして第2大隊と同じ働きをさせる方法はなかろうか」

 「それは容易である。第1大隊長の李斗璜は自分が引き立てている人である。よって自分が担当してこれをよい方向に導こう」

 杉村は再会を約束して別れ、公使館に戻って金総理との談話の経緯を公使に報告した。
 この日は人々の間で、訓練隊が不穏であるとの噂が立ち、また、軍務顧問官の楠瀬中佐が訓練隊を率いて事を起す、との風説も立ち、やや民心の動揺があった。よって、三浦公使は、楠瀬中佐が巡視のために2、3日前から松波近辺に旅行していたのが今日戻ったことから、人々の嫌疑を避けるために明日に帰国と称して仁川に下るよう命じた。

 この夜、警務庁では、多数の訓練兵が来襲したと言いふらして騒ぎ出し、一夜騒然とした雰囲気となり、人々は不安におののいた。
 よって直に訓練担当の日本士官が訓練隊の兵営に行って調べたところ、一人として兵営を出た者はなく、極めて平穏であった。
 おそらく、いよいよ訓練隊解散の口実を作るために、宮中から警務庁に内通してこの騒ぎを発したのだと思われた。

 資料は杉村濬の(同「後編 3」画面33)以降による。

 金総理の承諾と訓練隊第1第2大隊の使用と。また、禹範善は熱血だが李斗璜はそうでもないと。でも事変当日は共に行動をしているのだから、趙義淵が事件に関与したというのはここらへんですな。

 そして決行日は10月10日としたのだが、王妃派の方でも、着々と進める政権復活の策動がついに訓練隊解散の口実つくりとなって現れたと。
 このでっち上げの件は、安駉壽軍部大臣の報告からも窺うことができる。訓練隊が警務庁を襲ったなどの形跡はなく、よって安軍部が問いただしたのに対して警務庁側は「別に明白の証拠なし」と、弁明すら出来なかったと。

 

われら李氏五百年の臣であって、閔氏の臣にあらず

 そんな切迫した状態の中、7日朝、杉村書記官は金総理と金外部のもとを訪れて、10日決行への組み立てを進めた。

 7日朝、杉村は再び金総理のもとを訪れて説いた。

杉村 「閣下には、もうなすべき道がないと断念されたなら、寧ろ職を辞した方が却って有志者の反動が起こって、回復の機会を速くするだろう」

 しかし金総理は辞職する決心がつかなかった。

杉村 「大院君は奮然として決起することを欲している。三浦公使もまた助けて立たせようと願っている」

金総理 「どのような手段で決起させようか」

杉村 「その手段は今は明言することは出来ないが、僅かに動機を与えるなら、貴国人の手で立たせることが出来るだろう。今日の場合、我が国の力を外に顕すのは不得策である」

金総理 「果して大院君を立たせることが出来るなら、幸いにして今日の危機から挽回することが出来るだろう。今日は露国との関係もあれば、公然として貴国の力を用いることは出来ない。自分もなるべく貴国が関係するのを公けにしない事を望んでいる」

 以上の談話はおよそ1時間を費やした。杉村は帰館して報告した後、再び国分通訳官を伴って、金允植外部大臣を訪問し、同じ趣旨の談話をした。

金外部 「金総理は極めて謹厳の人である。ゆえに、心に思うことを充分には口にしない。自分はもとより辞職する決心なので、今から行って相談しよう。近日の事を見れば、我が国の政事というものは、万事を王妃の親裁を仰ぎ、国王であってもこれを制することが出来ないも同然である。その上、王妃は閔族の執権を回復しようと熱望するあまり、強国(露国)にへつらい、ために我が国の地を割き国を亡ぼすも顧みない勢いである。自分らは李氏五百年の臣下であって、閔氏の臣下にあらず。大院君がもし決起するのを望むなら自分も力を尽くすことを辞さない。ただ微力であって用をなさないだけである」

杉村 「宮中ではまさに訓練隊を解散せんとする動きがある。もし解散させられれば大事は成せない。閣下らにはこれを中止されるよう力を尽くされることを願う」

金外部 「解散の命は昨夜既に下ったと聞く。とにかく自分は早く金総理のもとを訪れて相談しよう」

 資料は同じく続きより。金允植この時60才。金宏集は53才。「宏集」はすでに「弘集」と変えているのだが、日本外交文書に於いては、ずーっと「宏集」を使用。また「漢城」もほとんど「京城」と表記している。ま、どうでもよいけど。
 で、金允植は、訓練隊はすでに解散命令下ったじゃん、と。

 

訓練隊解散と閔泳駿入府

 10日決行のはずが、ここで情勢は大きく動いた。

 杉村が別れを告げて帰館しようとする頃、日本公使館には鄭秉夏が三浦の求めで来ていた。

三浦 「当地にいる我が国の守備隊は後備えの兵士ばかりである。それで、これを常備兵と交替させるはずである。まだ決定はしていないが、この事を参内して大君主に奏上して頂けないだろうか」
 鄭秉夏はこれを承諾して公使館を出ようとする時、ちょうど軍部大臣安駉壽が国王の内命を受けたとかで来館して来た。

安軍部 「3日の日に兵隊が巡検を殺したことについて、犯罪者を探そうと毎日取り調べるが、8百人余りもいる兵士の中で誰の仕業やら調べるのも甚だ難しい。至急取り調べて差出せ、という厳命の仰せもあるし、まことに困っている。ついては、貴国ではこのように事件があった時は、どのように取り調べられようか」

三浦 「その取り調べ方なら一つの方法がある。兵士を全て兵営の中に入れて一人の外出も厳禁とすることである。その時は兵士等は自然と苦情を生じて、やがて犯人を指摘するだろう。また、我が巡査を営内に厳重に巡回させ、且つ街をも巡回させて、脱営している兵士を捕らえて営内に送ればよい」

安軍部 「なるほど、ではその通りに行ってみよう」

 その頃、杉村書記官は帰館した。安軍部がそれから国王の内命によるという話をするのを共に聞いた。

安軍部 「内命というのは、要するにこの頃から訓練隊に不穏の兆しがあると。4、5日前に警務庁巡検と争闘し、昨夜はまた多数が警務庁を襲ってその復讐をしようとした。よって国王には、これを解散させて危険を未然に防がれたいとの御考えであるが、同隊は日本士官が苦労して訓練した兵士なので、前もってその意を公使に伝えよ、との事である」

三浦 「昨夜に訓練隊の兵卒多数が警務庁を襲ったという話は本使も既にこれを聞き、それで実際を取り調べた我が士官の報告をも聞けば、これは全くの虚説である。おそらく宮中では訓練隊を解散させようと望んでこのような口実を設けたのだろう。そもそも訓練隊は日本政府の厚意から特に我が守備隊付将校に命じて、寒暑をいとわず刻苦訓練した者である。貴下の知られるように、貴国に於いて兵隊らしき兵隊はこの訓練隊を除いてどこにあろうか。それなのに今これに過失を負わせて解散させようというのは、果してどういう意味なのか。日本政府の厚意を何とされる積りなのか。まあそれでも、この事は貴国内政の事に属するので本使が職権上口出しすべきものではない。ただ本使はこのように申したと国王へ奏せられたい」

 と少し怒気を含んで三浦公使が言ったので、安軍部は続ける言葉なく戸惑っていると、ちょうどそこに、訓練第2大隊長禹範善が来たと杉村に報せる者があったので、杉村はこれを安軍部に知られないように、ひそかに別室に待たせた。
 また、これより少し先に守備隊長馬屋原務本少佐がやはり訓練隊解散の事で来館していた。馬屋原少佐はひそかに大院君入闕の企てを聞いて、訓練隊を監視していたのである。

 安軍部が去る際に杉村書記官と話があるというので、他の別室に入れて話を聞いた。

安軍部 「今日の内命には、訓練隊解散の外にもう一件ある。それは、この頃は宮中に相応しい人物が得られないので諸事が混乱して統一することがない。ゆえに閔泳駿を入れて取締りの任にあてたい、とのことであるが、公使の怒りが激しいので口に出しかねた。願わくは貴下が代わってこれを伝えてくれ」

杉村 「ついにその事があるのか。とにかくそのことは公使に申そう」

安軍部 「自分は宮中に戻ってどのように報告すればよいのか。実に困った」

杉村 「そのままありていに報告されよ。この際言葉を飾るのは良くない。そもそも宮中では、はたして訓練隊を解散する御決心なのか」

安軍部 「解散命令はすでに出た。自分は板ばさみになって実に困難である」

 そう言ってついに去った。

 資料は、鄭秉夏の調書と引き続き杉村のものによる。

 鄭秉夏の証人としての調書は、内田定槌領事が広島裁判所と検事局から嘱託を受けて、精力的に証拠収集していた頃のものである。鄭秉夏は翌年の国王露館播遷後に粛清の対象となった。

 訓練隊解散のことは、3日の巡検との争闘がきっかけとなったわけではないらしい。「機密第三六号」によれば9月27日の段階で既にそのことが知られていたようである。すなわち、「尚又訓練隊教官にして守備隊附宮本少尉は、九月二十七日を以て訓練隊大隊長禹範善と共に訓練隊を率い、龍山に於て演習を行いしが、其時禹範善は悄然として同少尉に向い、予は昨年東学党征討以来今日に至る迄永く足下の懇切なる教訓を受け実に感謝の至りに堪えず。左れども余が訓練隊を率い足下と共に演習を行うは最早今回が最後となれり。遺憾極まりなしと申すに付、同少尉は怪んで其故を問いしに禹曰く、我訓練隊は最早旬日を出でずして解散せらるべく、而して其将校は悉く厳刑に処せらるべき筈に付、余は可成速かに逃亡して一身を全うせんと欲する耳。此事は決して他言せざれども、足下には永く教訓を受けたる恩あるを以て余が衷情を打明かし置くなりとの事なりし」とある通りである。
 解散と同時に何の罪で厳刑に処せられるのかが理解できないところであるが、まあ理不尽が当たり前のように通るのが朝鮮であるからと変に納得してしまう。で、禹範善は、ただ逃亡するのではなく、ひと暴れしてから日本に逃亡しよう、ということにでもなったのだろうか。

 で、閔族のドン、閔泳駿もついに宮中に入ると。まさに閔氏政権復活目前である。

 

8日決行に前倒し

 杉村が接客室に戻ると、禹範善は既に公使と対談中であった。馬屋原少佐も列席していた。杉村が馬屋原を別室に招いて話を聞くと、訓練隊が激怒しているとのことであった。

杉村 「時機はいよいよ迫った。10日まで待つべきではない。明日に発動したい。貴方は差支えないか」

馬屋原 「ない」

 ここで杉村はいったん帰宅した後、午後になって再び公使館に戻ったのは午後1時過ぎだった。すでに禹範善は去っていたが、禹の決心は固いと聞いた。
 杉村が安軍部の伝言を述べると、三浦は、閔泳駿の任命はしばらく同意する方がよいだろうと言ったので、杉村は直にその返答を王宮に送った。

三浦 「時機は意外に迫った。一刻の猶予をすれば宮中から先んじられるだろう。君らが言うように、明朝にも事を起さねばならない。しかしその手続きは整うだろうか」

杉村 「全て整う見込みです。ただ岡本の消息がはっきりしない。岡本がいないなら大院君を決起させられない。よってまず同人に電報を出して、大院君の確答を得た後に万事に着すべきです」

 直に仁川領事館を経て岡本に電発し、同時に楠瀬中佐も呼戻したが、岡本からなかなか返電がないので、3回も電報を出したところ、ようやく4時頃になって返電があった。この日、仁川では先の朝鮮全権大使の出発と橋口新領事着任のため、領事官員が送迎で出払っていたために電報が遅れたという。

 さて、これにより事に着手することを開始した。10月7日の午後4時であった。その計画の大要は、次のものであった。

1、 岡本を今夜12時、遅くとも午前1時までに麻浦まで帰着させ、同所に迎えとして待たせた通訳の鈴木順見、剣客の鈴木重元の両人を伴って孔徳里の大院君邸に至らせ、
2、馬屋原は訓練隊付士官に訓練隊の指揮をさせ、8日の午前2時より訓練隊第2大隊の一部を孔徳里に派して大院君を迎えさせ、その他は宮城の内外で待って大院君入闕の護衛に充て、第1大隊は王宮外を守るような装いをさせて、大院君の来着を待って共に入闕させる。
3、浅山顕蔵に、李周會以下有志の朝鮮壮士らを指揮をさせ、孔徳里に行かせて岡本が大院君邸に入る時に守衛の巡検らが妨害しないように助力させる。

 杉村は主に1と2を担当して、それぞれに準備をさせ、また、趙義淵を促して急ぎ第1訓練大隊のことを約束させた。
 その他、王宮内の地理を熟知している者が必要ということで、それなら荻原警部が詳しいので、警部と部下巡査もまた同行させることとなった。

 資料は杉村の「後編 3」画面40の続き、同じく「[追言]」、「機密第三六号」による。

 朝鮮壮士はともかく、公使館付巡査などを同行させるという時点で、すでに暴走は始まっていると見ていいだろう。
 首謀者杉村濬書記官の思惑は段々と外れていくことになる。

 この頃、王宮の東門から東北門にかけて多くの訓練隊が集まっており、王宮の中を窺うような動きがあることから、王宮内では不安の声が上がり始めていた。

 夕刻、三浦公使は、漢城新報新聞の記者(兼社長)である安達謙蔵、同国友重章を、公使館に引き入れて杉村書記官に言った。

三浦 「朝鮮人だけでは入闕の目的が達せられるかどうかは甚だ案じられる。それで安達謙蔵と国友重章に諭して、10人ほどの壮士に助力させることにした」

 計画上、なるべくは表立った行動は朝鮮人壮士と訓練隊とにしたい杉村は、安達に向かって言った。

杉村 「壮士らが大院君に随行するなら朝鮮の服装をさせよ。なるべくは制して宮門内に入らせるな。もし門内に入れば夜明け前に門外に出させよ。外国人に我が国の人の関係を覚られるな」
 安達と国友はそれを承諾し、公使館を出て漢城新報社に戻った。

 杉村はまた、鈴木重元、浅山顕蔵を呼んで大院君の入闕の事を告げ、鈴木重元には通訳の鈴木順見を龍山に派すことを託し、浅山顕蔵には李周會に報せるよう指示し、また、大院君入闕の際の趣意書を起草し、これを堀口領事官輔に持たせ、荻原警部と共に、平服姿の巡査渡辺、境、横尾、小田、木殿、成相の部下6人を率いて、仁川から戻る岡本と落ち合う場所である龍山の荘司章の宅に行くよう指示した。

 資料は引き続き同上資料と「証人ゼネラルダイ訊問調書」による。

 漢城新報社とは、安達謙蔵の申出により、朝鮮人啓蒙のために朝鮮諺文を混じえた新聞の発行を日本政府が委託して創設した新聞社である。施設、印刷機など、発行に関する経費はすべて日本政府の助成によって賄われた。明治28年2月17日に第1号を発行。隔日発行のものであった。1ヶ月後には購入する朝鮮人が400名を越えたという(「1894〔明治27〕年8月31日から明治29年5月29日」p20)。日本政府による内政改革の側面からの支援と言える。関連文書を纏めた簿冊表紙のタイトルは「新聞雑誌操縦関係雑纂 漢城新報の部」なんぞとあって、まるで朝鮮人操縦のための新聞を連想するが(笑) まあ、言論そのものが一種の操縦だからねえ。特に新聞は(笑)
 で、今回の事変では、ペンは剣よりも強しとは言うけれど、その剣の方を当てにしたと。まあ、士族ばかりだし。

 いよいよ杉村の思惑から外れていくばかり。こういうのも騎虎の勢と言うんでしょうな。

 なお、三浦公使はこの日の午后、以下のような電報を日本政府に送っている。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p3)
電受第一〇四六号 明治二十八年十月七日午后三時五五分発  八日午前二時分着

 去る三日、訓練隊第二隊の兵、数十名は巡査と争闘し互に怪我人あり。又昨夜警務庁にて同隊の兵士押寄せたりと称し、聊か動揺したる由にて、宮中にては些細の過失を名にし、訓練隊を解散し、隊長を処罰せんとて今日国王より安駉壽を以て本官の内意を尋ねられたり。然るに昨夜の事は、熟と取調たるに全く無根の説なれば、宮中にては元と訓練隊を解散せんが為め警務使と打合せ偽造したる虚説ならんと本官は推定せり。又、閔泳駿を宮内部に入れ度旨安氏より内談ありたり。
            三浦公使
   西園寺大臣

 自分たちの行動計画については一切日本政府に報せる気はなかったようである。

 

王后は臨機の処分あるべし

 さて、漢城新報社には安達、国友のみならず、同社の小早川秀雄、佐々正之ら、また、日本新聞社の山田烈成、あるいは藤勝顕、月成光など、志を同じくする壮士らが三々五々集まってきた。それぞれが武装して龍山の集合場所に向う。荘司章の宅は漢江の浜にあった。また、浅山顕蔵と李周會、柳赫魯、鄭蘭教らも朝鮮人壮士を率いて赴き、夜10時には合同して、色々と評議することがあった。

 夜遅くになって岡本柳之助が到着する。よって一同は孔徳里の大院君邸に向った。その時には、日本人がおよそ35人、朝鮮人がおよそ25人以上と、計60人余りに膨らんでいたという。

 夜12時頃に大院君邸に到着する。邸宅は警務庁巡検10人程が警備しており、門扉は堅く閉じていた。よって荻原警部は渡辺巡査に命じ、横尾巡査の肩に乗り墻壁を越えて門内に入り、内部から開いたので、一行の者は直に邸内に入った。同時に警備の巡検を脅しつけて一室に閉じ込めた。
 やがて大院君や家僕が一行を迎え、岡本柳之助が来意を告げると、大院君はこれを謝して、居室に案内した。
 色々と評議する中に、大院君は一行の首謀者に告げた。

大院君 「国王と世子の身の上は十分に保護されたい。ただし王后に対しては宜しく臨機に処分あるべきである」

 午前2時、轎に乗った大院君を擁し、日韓両国の者が一群となって門を出る。大院君孫の李呵Oが来て自分も行くといったが、大院君はこれを止めて待つようにと諭した。

 門を出てしばらくし、岡本柳之助は衆を集めて大院君に代って言った。

岡本 「大院君に代わって諸君の志に多謝する。しかし今日の事はただ国太公を護衛するにある。宮中において暴挙をしてはならない。また、国王と世子だけは十分に保護されたい。ただし王妃に対しては宜しく臨機処分されたいとのことである」

 皆は喝采して「朝鮮万歳」と声をあげた。

 資料は「機密第三六号」、「菊池謙譲の事変記述」、「国王、世子、王妃の処遇について」、「予審終結決定書」、「予審終結決定書に対する意見」「十月八日事変の犯罪人処分の件」による。

 もちろん、「臨機に処分する」とは殺害することを示唆している。
 この大院君が告げた一節であるが、「国王、世子、王妃の処遇について」に書いたように「岡本柳之助」の項からのものである。事変に参加した菊池謙譲は後に自分の著書「朝鮮王国」に於てもその「岡本柳之助」と同じ一文を流用し、「当時吾人同志者が発表せしもの当時の形勢を詳述せしを以て之を転載す」と書いているので、やはり事変参加者による一文であると解され、おそらく岡本柳之助の言によるものではないかと筆者は思っている。なぜなら、その事変記述の詳細たるやかなりの朝鮮事情通であることが窺われ、当時ここまで知る者と言えば、杉村濬以外の人物としては、岡本柳之助をおいて外にないと思われるからである。
 なお、「機密第三六号」にある、「荻原は直に国王の御座に進み、御安心あるべしと告げ、狂い犇めく壮士輩に向い大手を張って大字形をなし、此処は国王陛下の宸殿なり、立ち入るべからず、と号叫し、其乱入を制止したりしかば、予て大院君より国王及世子丈けは必ず助命し呉るべしとの依頼ありたるとかにて、一同異議なく其場を立退きたりしかば」の一文によっても、国王たちの身柄について予め依頼があったことが窺われる。では、国王および世子だけは必ず助命してくれるべきである、ならば、それでは問題の王妃の身柄はどうするのか、ということになろう。当然のこと大院君はそれについても発言していたはずであって、つまりは予ねての依頼の全文とは、「岡本柳之助」の項にある「国王及び世子の身上は十分に保護あるべし。但し王后に対しては宜く臨機の処分あるべし」ということになろう。

 しかし、日本性悪説に立つ人にも、日本性善説に傾く人にとっても、実に抵抗のある文章かも。
 でも、それぞれの資料の整合性ある部分に基づくとこうなります。大院君の言に至っては、明治開化期の日本と朝鮮(1)から考察してきた筆者としては、当然過ぎるものであってねえ。むしろ三浦公使が考えたり、岡本が決定したとかいう方が不自然すぎて、どうにも行き当たらない説である。まして日本政府がと(笑) 物事には動機というものがあるのだし、それを醸した情況や方向性もあるのであってねえ。 殺害事件云々を言う人は、王城事変関連の資料だけでなく、ここに至った経緯を知るべきでは?

 はっきり言いましょう。大院君入宮の事も、王妃殺害事件の事も、真の首謀者は大院君であると言えると。とりわけ王妃殺害については、彼には動機がありすぎ、未遂の過去があり、国王すら暗殺しようとした過去があると。直接の殺害者は彼の爪牙に過ぎなかったと。事変後、彼は壮士たちに1万9千円もの大金を謝礼として払ったと。大院君の謝礼金

 さて、筆者は「事変の要点を先に言えば」の項で、「王妃殺害は目的ではなかった。現場での暴走と言える」と書いた。そもそも大院君の要請を受けて杉村濬が立案したものは、大院君入闕計画であって王妃殺害計画ではなかったと思われる。「予審終結決定書」では三浦公使らによる殺害計画を論述しているが、後の杉村の「予審終結決定書に対する意見」や[追言]を考慮すれば、なるほど杉村が言うように、大院君に出した条件のうち、「四、李呵O氏を三年間日本に留学させ、その人材器量を養成すること」というのは、明らかに王妃に対する配慮と言える。李呵Oが以前に廃妃を求めたことがあるのは既に記した通り。王妃殺害が目的なら、そもそもこんな条件を大院君に出す必要はなかったのだから。
 また、三浦がかつて政府に問うた「対韓政策の訓令を待つ」の中の提案、つまりは「恩恵的脅迫的及黙従的政策の必要起り、寛猛緩急皆之に準拠して定むるの外なしと確信せり」のいずれにも当てはまらないものであって、その最も「猛」なるに出ても、そもそも殺害してしまっては「脅迫」の効を奏しないのであってねえ(笑) 
 よって、王妃殺害のことは当日早暁の大院君の要請に始まり、岡本ら壮士面々の暴走に至ったと言う外は無いでしょう。ま、王妃を亡き者にしたいのは日韓双方ともそれを思う人が少なくなかったでしょうな。なにせ訓練大隊長の禹範善のみならず、散髪洋服姿の朝鮮人朴銑なども「自分が王妃を殺した」などと手柄話のように人に言うぐらいですから。(「明治36年9月16日から明治36年12月2日」p4)、(朝鮮政府による処理

 え? 日本政府の陰謀? 軍の謀略? 電信線って(笑) これまで通りの外交交渉ですむ問題ですな。それに、後述するように王妃殺害などというものは日本にとって何の利益にもならないだけでなく反対に重大な損失をもたらすものであってねえ。まあ、大院君のその言があった時点で日韓両壮士の暴走となったんでしょうなあ。

 なお、岡本が言った「宮中において暴挙をしてはならない」ということも、大院君が依頼した「国王世子の保護と王妃の臨機処分」と同様、この後ほぼ忠実に守られることになる。

 

同士打ちの侍衛隊。そして護る者は誰もいなくなった


 それより麻浦街路から城外の一邑峴に至って止り、訓練隊が来るを待った。
 1時間余りして1騎が疾駆して来て報せた。「訓練隊は道を間違って別路に出た。邸下には急走して西大門に来られよ」と。
 大院君はこれを聞いてひどく憂える表情をした。

 それより大急ぎで西大門に至れば、そこには李斗璜が率いる訓練隊第1大隊、禹範善が率いる同第2大隊が銃剣を立てて整然と並んでいた。大院君を見て皆が一斉に敬礼をする。なお、訓練隊は総勢800人余りの規模の朝鮮最強部隊と言われていた。
 しかしここで合同することになっている日本守備隊4百人が見えず、彼らも道を間違えて別路を進んで来ていた。それにより一行はここで待つこととした。

 この間、城門に「国大公入城の檄文」を貼る。それは以下のものであった。

近日、群小の者どもは、聡明を塞ぎ、賢明を斥け、悪事を用い、改革維新の大業を、まさに途中にして廃した。朝鮮五百年の国家は猶予なき危機にある。自分はまた国主の家に生まれて、これを座して見るに忍びず。ゆえに今入闕して大君主を補佐せんと欲する。悪人らを追放し、改革維新の大業を成就させ、朝鮮五百年の国家を扶持し、もって汝ら民百姓を安んぜん。汝ら民と兵士で、もし我が行くを阻む者あれば、すなわち必ず大罪となろう。汝ら後悔なきようにせよ。

 すでに夜が白みかけていた。市場に集まりつつある人々の中には、その檄を読んで狼狽して家に戻る者もいた。
 大院君が時機を失うことをいたく心配する。
 その時、靴音高く日本守備隊が迫り、やがて大院君の前に整列した。
 それより、訓練隊の一部が先ず進んで王宮の東北門方面に向った。守備隊の一部は西北門方面に向った。
 次に、残りの訓練隊が先頭となり、次いで日本兵士が動き、大院君の轎がまた進み、日韓の壮士らがこれに続き、一行はやがて光化門に向って総員が駆け足となった。

 一行が光化門前に到ると、荻原警部と巡査らが、かねて守備隊兵営から用意していた梯子を掛けて高壁を乗り越え、番兵を追い払って門を開くと、大院君の轎を先頭に一行は門内にどっとなだれ込んだ。およそ4時半から5時の間であった。

 その頃、光化門外に訓練隊が武装して集結しているとの報せを聞いた訓練隊連隊長洪啓薫は、軍部大臣安駉壽の所に行ってそれを報せた。安軍部大臣は、

「君は光化門外に直に行け。自分も服を整えて直に行く」

 洪連隊長が小隊を率いて光化門に到ると、ちょうど大院君の轎が中に入り、次に訓練隊が入ってくるところであった。洪連隊長は叫んだ。

 「兵は入るな!」

 安軍部大臣も駆けつける。率いてきた小隊の皆も叫んだ。

小隊 「ここに軍部大臣と連隊長がいる! 兵は入るな!」

 突然、発砲音が響いた。大院君側の兵士からと思われる発砲であった。率いてきた小隊の兵士はたちまち逃げ散った。なお銃撃は続き、洪連隊長が中って倒れた。安軍部大臣も逃げ去った。

 これより先、午前2時ごろ、王宮一番奥に位置する国王王妃の居住区である乾清宮では、王宮の外で兵士が徘徊しているとの話が伝わっていた。その頃、鄭秉夏は国王への拝謁を請うた。国王王妃は夜は眠らないという生活を続けており、臣下の拝謁を深夜に行うことがあった。
 直に召されたので行くと、乾清宮内の長安堂に国王王妃世子が共に居り、階下には護衛が多数いて、何かを国王に報告したり、走って何かを探るような動きがあった。

国王 「今ごろ兵士や日本人が王宮の外を徘徊しているという説がある。何事なのか」

 鄭秉夏はそれに対して、「今日、日本公使館に行くと、日本守備隊の後備兵と常備兵との交替の話があり、その後、安軍部と三浦公使との間で先日から巡検を殺害した訓練隊兵士のことで相談があっていたので、おそらく、兵士らが訴えることがあって安軍部の家に行くのと、それを日本人が取締るために後から着いて来ているのでしょう」との意味を答え、退出した。国王は王妃の居住殿である坤寧閤に入った。

 その後、しばらくして、鄭秉夏は再び国王から召された。

国王 「今聞くと、兵士らが宮壁を越えて入ってきていると聞く。どうなっているのか、汝、行って見よ」

 よって鄭秉夏は、乾清宮すぐ側の啓武門に向った。

 その頃、近衛兵である侍衛隊700人の教官の米合衆国陸軍中将ウィリアム・ダイ将軍も、王宮の東北門の外に多数の訓練隊が群集しているとの話を聞き、この日宿泊しているロシア人のサバチンに声をかけて共に様子を見に行った。見ると、訓練隊およそ3百人がおり、しかも武装しているのが認められた。よって今度は西北門に行くと、門外には武装した日本守備兵数十名がいた。
 それより、司令部に戻り、侍衛隊将校と相談し、ただちに諸門を閉鎖させた。

 ダイが乾清宮の西側にある弼成門前に立つと、その周囲には各所から侍衛隊や国王護衛の者が集まってきた。よって、ダイは各兵士に、小銃に弾丸を装填するよう命令した。兵士らは一斉に弾を込めた。
 するとその時、一人の兵士が誤って引き金を引き銃発させた。
 それを聞いた侍衛隊各兵士は攻撃の合図と思い込み、各人が一斉に発砲した。また、敵の攻撃とも思い込み、闇の中、互いに撃ち合う大混乱となった。
 この時、侍衛隊副長玄興澤も、敵から攻撃を受けたと勘違いし応戦した。目の前にいた兵士が撃たれて即死した。結局、死者2人、負傷者数名を出すという、全く味方同士の小戦闘であった。
 混乱の中、やがて誰かが司令部から平服を大量に運んで来くると、兵士は次々と制服を脱ぎ捨て、平服に着替えると逃げ散ってしまい、ついに乾清宮を守備する者は一人もいなくなった。国王らが居住するここ乾清宮には、まだ大院君も訓練隊も日本兵も、刀をさげた日韓の壮士も誰一人として来ていないのにである。

 サバチンも、逃げる兵士らに押し込まれるように乾清宮の中に入って難を避けた。弼成門前にはダイ将軍一人が佇むだけであった。その後、突然乾清宮内で銃声が2発した。ダイ将軍には、それがたぶんピストルの音であり、しかも王妃の居間付近からのものであると思われた。

 資料は、「菊池謙譲の事変記述」、「楠瀬中佐と大院君入闕始末」、「予審終結決定書に対する意見」、「訓練隊起閙、安軍務大臣報告」、「証人ゼネラルダイ訊問調書」、「ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第1回」、「証人玄興澤訊問調書」、「サバチンの証言」による。

 侍衛隊の同士打ちのことは侍衛隊教官ゼネラル・ダイの一連の訊問調書に詳しい。ゼネラル・ダイの11月20日での聞取り要領では、兵が守りを捨てて逃げ去り、制服を脱いで平服となったこと、誤って引き金を引いて、それより乱発となったこと、非常に狼狽して諸方へ逃散したことなどが述べられている。その経緯の記述は前後していて分かりにくいが、12月16日の宣誓による訊問調書では、経緯も明らかとなり、侍衛隊死傷者が同士打ちによるものであることを断定した証言となっている。

 なんとまあ、この国には、国王を、王妃を、命を懸けて護る人が皆無なのである。
 近衛兵である侍衛隊のみならず、別検や武監と称する大勢の護衛の者や内官たちもそこにいたのにである。
 それは逆に、国王にも王妃にもいかに人望が無かったか、ということの証ではなかろうか。
 筆者としては、王妃殺害のことよりも、クィーンを護るべきナイトは、ぶざまな同士打ちをした挙句に怯えて逃げ散ってしまい、しかしてクィーンは、やがて来る敵の前に独り佇んでいた、という事実のほうがよっぽど衝撃的であった。これは国家と呼ぶべきものなのであろうか。コクオウとか、オウコウ、とかいう名称は、その名称として果して妥当だったのだろうか。そんな疑問が湧いてくるような、もはや国として末期的な状態であったとしか言う外はない。

 それにしても、王妃の居間あたりから聞こえたという、ピストルのような音が気になるところで。これが何だったのかはついに分からない。

王宮近衛兵である侍衛隊。米国人教官ウィリアム・ダイが教練した。   警務府巡検つまりは警官。左右両端の制服姿の人物。(なお、輿上の人は全琫準)
朝鮮訓練隊 日本公使館付武官楠瀬陸軍中佐らが教練した。10月8日当日は白の制服であったらしい。

 

宮女は殺害されず、ただ王妃のみ

 以下、各門などの場所は王宮図(「韓国王妃殺害一件 第二巻 分割1 B08090168700」p43)を参照されたい。

 さて、侍衛隊の同士打ちの騒動が始まってより、鄭秉夏は坤寧閤に戻ったが、その時、国王と世子が内官を従え、また王妃は宮女に囲まれて、共に坤寧閤の中庭に降り立っているのを見た。それより鄭秉夏は国王の手をとって「ここは危険です」と言って坤寧閤の一室に入ったが、弾丸の飛び交う中、やがて世子も難を避けてきたので、これを室に入れた。
 この時、王妃は宮女に囲まれたまま別室に隠れたと思われる。やがて騒動が治まり、その直後に坤寧閤のどこかでピストルのような音が2発響くのであるが、それが何だったかは不明。

 さて、侍衛隊や護衛らが逃げ散り、一部はロシア人のサバチンと共に乾清宮の中に逃げ込んでより5、6分ぐらい経った頃、乾清宮の西にある弼成門前に佇むウィリアム・ダイは、1人の日本人士官が14、5名の日本兵士を引き連れて蓮池の西側に出現するのを見た。彼らは弼成門から乾清宮に入って侍衛隊らを追い出し、そして弼成門を守備し、2、3分後には、今度は蓮池の東側から日本兵士30人余りが現れて乾清宮の正門から入り、また侍衛隊らを追い出してそこを守備するのを見た。その後、兵士ではない者多数が刀で武装した姿で三々五々現れるのを見たが、彼らも正門から乾清宮内に入った。中に3人ほどは刀を持っていない者もいた。
 その1人である堀口九万一は仏語でダイに、この場を去るように言ったが通じず、その後、英語を解する日本人が告げたが、ダイはこれを拒否した。

 乾清宮内では壮士らによる王妃の捜索が始まった。その頃、サバチンは中庭中央に日本人士官1人と訓練隊40人の兵士がいるのを見た。
 壮士らは乾清宮内の各建物を捜索して廻った。泣き叫ぶ女を捕まえて、「王妃は何処にいるか!」と日本語で怒号する者があり、これを制止する者もあり、サバチンを発見して王妃の居場所を尋ねる者もいた。坤寧閤の一室では国王と世子が潜んでおり、鄭秉夏も共にいた。荻原秀次郎がその部屋に入って様子を知ると、国王に「ご安心あるべし」と告げて部屋の前に立ち、暴れひしめく壮士らに向って、「ここは国王陛下の宸殿である。立入るな!」と号叫して乱入を制した。かねてより大院君から「国王と世子だけは保護するように」との依頼があったので、一同は異議なくそこを立退いたが、国王と世子は荻原に取りすがって頻りに保護を頼んだ。
 そんな中、王の住まいである長安堂の1室で、宮女らが集まって部屋の奥を隠しているのを見つけた壮士らは、宮女を片っ端から放り出し、奥に潜む女を引きずり出し、王妃に違いないと見て殺害。
 これは、中村楯雄と小田俊光が女を掴み、高橋源治こと寺崎泰吉が刀で一撃して死に至らしめたと思われる。この時中村楯雄と小田俊光にも刀が当り負傷した。他の者が、王妃か宮女かもよく確めずに斬ったのは乱暴であるとこれを非難した。女で殺害された者はこの時の一人のみであった。
 その他、坤寧閤に於ても宮内大臣李耕植を誰かが殺害。その殺害理由は定かではない。あるいは朝鮮壮士によるものかもしれない。

 その後、轎に乗った大院君が訓練隊などに護られながら建善門を通って現れ、乾清宮正門から中に入った。また、各門の守備も訓練隊がとって代わった。ダイの証言によれば、最初の日本人が現れてよりこの間15分から20分であった。
 やがて先ほど殺害した女を宮女に確認させたところ、また宮女が述べる王妃の身体的特徴からも、これこそが王妃であることが判明し、これを絹の衣類などで蔽った。また、大院君にそのことを告げると、大院君も、これこそが王妃であると信じ、手を叩いて頗る満足な表情を示した。
 また、李周會、柳赫魯、鄭蘭教らは、国王の前に出て挨拶などをした。
 また、侍衛隊副長玄興澤は清国産絹織物の衣服の屍躰が、坤寧閤夾門側すなわち玉壺楼の縁側にあるを見たが、殺害後にここに移したと思われる。

 やがて、国王から三浦公使に参内を求める勅使があり、それにより三浦公使は、杉村書記官と国分通訳官を伴って参内。大院君列座の上で国王に謁見した。

 その頃、荻原秀次郎が王妃の屍躰を外に運び出すように指示。これを運んで乾清宮の東にある夾門から鹿山南端に移し、薪を積んでその上に載せ、荻原がこれを焼いた。その時、佐々正之が王妃の死骸の腹帯などから香袋を取得。香袋の中には書状があり、それは露国公使ウェーバーの留任を露国皇帝に依願する2つの書簡の原稿であった。これを荻原秀次郎に渡し、荻原は鈴木順見に渡し、後に杉村濬書記官の手に渡った。

 後日、内田定槌領事が公使館でその原稿を見た時、なおも麝香の馥郁たる香りが鼻を衝いたという。

 資料は、「宮女殺害の事実なし」、「鄭秉夏の調書」、「玄興澤の調書」、「サバチンの証言」、「ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第1回」、「証人ゼネラルダイ訊問調書」、「機密第三六号」、「同 別紙第二号写」、「同 別紙第三号写」、「同 別紙第四号写」、「加害と被害など」、「朝鮮政府による処理」、また、寺崎泰吉の王宮侵入談と称するものなどによる。

日本守備隊について

 守備隊がこの事変に於いてどの程度重きをなしたかは定かではない。王宮を護る侍衛隊は700人であるから、800人の訓練隊で充分対応できたはずである。しかし三浦はそれでも不安と思ったのか、もともと旧兵であろうが新兵であろうが朝鮮兵というものを信じていなかったからか、守備隊を動員させてある程度配置させている。
 しかもそれは公使としての命令というよりも、陸軍中将三浦梧樓と守備隊長馬屋原務本少佐との間の個人的な話し合いによるものであったことが先の杉村の記述で窺われる。まあ当時だれもが王宮内をどうにかせねばならないと思っていたことだからねえ。軍人同士の意気投合ってなもので(笑)
 で、この守備隊に関してもいろいろと言われているようなので、検証してみた。長くなったので別頁「日本守備隊について」で。

宮女殺害について

 確認しておきたいことは、果して王妃以外に、宮女もまた殺害された者がいたかどうかということである。
 「機密第三六号」を始め、宮女数人も殺害されたという伝聞記述は少なくない。しかし、資料「宮女殺害の事実なし」で示すように、証人鄭秉夏や玄興澤、また朝鮮政府の日本歴12月14付の正式な回答に於いても、宮女の被害者はない、としている。
 10月8日事変後の朝鮮政府は当初、そもそも今回の事変を犯罪と見做さず、王妃の死も固く秘してこれを発表しなかった。それが露国公使らの厳しい追及によって、明らかにせざるを得なくなり、やがて王妃の死を認めたのであるが、宮女殺害のことはついに認めなかった。連隊長洪啓薫や宮内大臣李耕植の死は認めながらである。
 また政府は侍衛隊兵士らの被害も認めなかったが、これが同士打ちという事故によるものであったからであろう。それに公にするのも恥ずかしすぎるし(笑)
 で、その侍衛隊副長玄興澤の証言によれば、彼は王妃の死骸は見たと言うのに、やはり宮女については、「死んだ者はいないし、聞いたこともない」と言うのである。
 更に、翌年2月のいわゆる国王の露館播遷の後、かつての王妃派と露米派が政権を奪取した後に公報と称して出版された「社説 王妃の死に関する再調査(朝鮮事変の公報と称する書類に関し京城駐在一等領事内田定槌より報告の件)」にも、「宮女を引きずりまわした」などの記述はあっても、宮女殺害のことはやはり書かれていないのである。侍衛隊兵士の死傷者は日本兵士によるものだ、などと非難しているから、ここで日本人の「残酷さ」を強調するためにも欠かせない材料の筈なのだが(笑)

 よって筆者としては、当時宮女殺害はなく、女で殺害されたのは王妃ただ一人であったと結論する外はない。
 では、なぜ宮女数人の殺害があったという話になったのか。まず、最初の言い出しっぺはどうも露国公使ウェベルらしい。それが彼の憶測によるものか詐術によるものかは定ではないが、とにかくこの作り話が世間に広まったように思われる。日本人、ロシア人の言を信じ過ぎ(笑)。あるいはまた、壮士らの間で、誰が誰を殺害したかの特定を困難なものとするための彼らの偽証によるものかもしれない。もっとも、機密三六号の別紙資料にあるように、皆で口裏合わせをしたのは、誰かが誰かを殺害したのは見ていない、ということではあったが。

王妃殺害者は誰か

 王妃殺害の主犯者はもちろん大院君であると筆者は見る。ではその爪牙となって直接殺害した者は、内田領事の調査資料から見れば、上記「同 別紙第四号写」の高橋源次こと寺崎泰吉が鈴木重元に宛てた書簡から、内田領事も機密第三六号で「高橋源次も亦慥かに或る婦人を殺害せり。其証憑は即ち別紙第四号写の如し」とあるように、彼が最有力者となる。後の彼の回顧の弁によれば、その時に中村楯雄の手も切ったとあるらしいが、そのことは、内田の調書すなわち「加害と被害など」中にある「被告人中村楯雄、小田俊光は、王城事変の時、或婦人を捉え居りしに、他の日本人が刀を以て之を殺害するに当り、右の手に負傷せりとのことなり」「中村が負傷せしことは、之を治療せる当地の医師本邦人近藤賢吉なる者、之を承知せり」と合致する。もっとも、内田はその他「横尾が或婦人を殺害したることは、彼自ら其事実を小官に打明けたり」とも述べている。だが、打明け話が正直なものとは限らない。人は自分のために他人のために利害のために、時に嘘をつくものである。内田の調書に彼のその打明け話を裏付けるものはない。
 よって、宮女は殺害されていない、つまりは女では王妃のみが殺害されたことを前提とすれば、高橋源次こと寺崎泰吉が直接の殺害者である可能性が極めて高いことになる。そうしてみれば、機密第三十六号の「別紙第四号写」の文意がよりリアルなものとして迫ってこよう。
 そして「往電第31号」にある純宗の言葉であるが、「機密第三六号」と「証人鄭秉夏訊問調書」にあるように、当時国王と世子は国王居室にいたわけであって。

 さて、もれ聞くところによれば、全く別人の子孫という人が数年前に謝罪の墓参をしたという。まことに気の毒な誤解である。それに宮女などを手当たり次第に殺害するということもなく、深夜に大院君邸を出た後に岡本が大院君に代わって呼びかけたという「宮中に於て暴挙する勿れ」という言葉はほぼ守られたということになろう。ただし、王妃に関しては、これまた大院君が言うように「宜く臨機の処分あるべし」も守られたのであるが。

事件をこう見る

 王妃殺害のことに限定すれば、ことは殺人事件である。
 殺人というものにもいろいろあるわけであって、たとえば無理心中だったとか、加害者は被害者から虐待を受けていて、その恨みによる犯行であったとか。あるいはまた、被害者には何の落ち度もない加害者の一方的犯行だったとか、あるいはまた、家庭内暴力の絶えないことからついに家族が殺害してしまったとか、殺人に至る経緯は様々あるわけで。
 まあ、これを法廷で裁く場合、事情によっては極刑だったり時には執行猶予がついたり、或いは正当防衛が認められたりするわけです。
 例えば明らかに首謀者の一人であった李周會は処刑されたわけですが、後々には赦免されてますしねえ。
 で、王妃殺害事件のことを色々と言う人は、そこんところの詳細な事情調査はどうなってます? たとえば被害者に落ち度はあったのかなかったのか、なども含めてね。

 筆者としてはすでに王妃閔氏についてはいろいろと述べ、また彼女の言行も出来るだけ書いてきたつもりである。
 朝鮮腐敗の元凶に位置する人であったが、そのような時代に生まれ、そのような環境で育ち、そのような世界しか知らなかった、ということであって、別にどうという感想はない。敢えて言えば、聡明であったことと、王妃となったことが不幸であったと言う以外に。
 同様に、そのような時代に生まれ、そのような情況で、日本を背負って行動していた壮士という人々もまた、そのような世界で生きるしかなかったわけでねえ。これまた、どうという感想はない。おかげでこの後の日本は随分と困難な情況に立たされることになったにしろ。

 あるいはまた、これを残酷なというなら、それはその通りなのだが、まあ、筆者としては、これより10年以上も前の事件、当時語学生だった岡内格、同池田平之進、同黒澤盛信など何の罪もない日本人7人が南大門付近において、いずれも全身の骨は砕かれ、頭骨までも砕かれ、更には死骸は引き裂かれてばらばらにされ、道端に打ち捨てられ、ついに一人分の遺骸が足りなかったという、明治15年の大院君の乱(壬午事変)の時の朝鮮人による日本人殺害の方が、これこそが残酷なものだと思えるんですがねえ。
 これ、今になって謝罪や反省を問題にする人はいるかな?
 不幸な事件であったと、百年以上もたってからは思うだけでしょう。高麗軍によって拉致された2百人の日本の子供たちのことも含めてねえ。

 ちなみに、王妃殺害のことより10年経ったころ、国王高宗は次のように語っている。
陛下 「去る二十七八年、日清交戦の際に当って、井上伯、公使として我国に駐箚するや、朕、其指導に俟つ所、極めて多大なりしなり。然るに其任を離るるや、未だ旬日ならずして実に言うべからず我国に最も哀むべく、又日韓交誼に障碍を与うる所の不幸なる出来事を演ぜり。想うに、若し井上伯にして尚お、任に此地に駐まりしならんには、如此兇変を見るに至らずして、両国の関係は依然親交を敦うして今日に推移したりしならん。勿論兇行の張本は朕が侍臣及雑輩に由って醸成せられたりと雖も、彼輩は専ら日本の勢力を恃んで、以て行いたるは事実疑うべくもあらず。想うて此に至れば転た慨然たらざるを得ず。然れども事已往に属す。今之を反復するも益なし」(「日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)」の「10 伊藤特派大使遣韓ノ件」四九九頁)

 まあこれが普通の感覚からの感想でしょうなあ。まして当時の事情をよく知る高宗としては。

日本政府としては

 で、当時の日本政府としてもとんでもない大事件であって、事変後の日本政府の対応は殆ど必死。日本人が関与したことを隠蔽しようとする三浦を厳しく叱責し、事件全貌を明らかにすべく取調官を検事と共に急派し、明治天皇も日本人が関与していることを聞かれて深く遺憾として直接の慰問使を派遣されたり、まさにおおわらわの騒動となった。まあそのやりとりを読むと、とりわけ西園寺公望外務大臣代理なんぞは頭から湯気をたて通しですな。
「この馬鹿者ーーっ!!」という怒声を聞くような(笑)

 事変への日本政府関与を空想する人があるそうですが、明治初期からの日本政府の対韓政策の詳細と事変後の対応の詳細をまず知るべきですな。この事変によって、日本政府がどれだけ大変な窮地に立たされたか。どれだけ身も細るような気の使い方をせねばならなかったか。
 もちろん王妃殺害云々よりも、日本公使館の者が大院君クーデターに荷担した、それを黙認した、あるいは主導した、という事実に政府は驚いたわけで。形は前年7月23日の小戦闘に似ていても、世界情勢は全く違っていたわけで、ましてや世界各国に日本政府の対韓政策を宣言していただけに、これがどれだけ重大な問題となるかなどは京城公使館の人々はあまり考えてなかったんでしょうな。まあ、せいぜいばれなきゃいいぞ、とか(笑)
 まして、王妃を殺害するなど論外も論外。

 まず、日本人にとって朝鮮は他国であって、その他国の王妃を殺害するなどということは、その国に対する暴挙以外の何ものでもないのみならず、日本にとっても、およそ計り知れない外交的損失となり、日清戦争の勝利で得た日本の名誉と地位は、まさに地に墜つ事態に陥ることは、子供ですら分かることであってねえ。事実、事件のことが日本に伝わるや、その挙動の不都合千万を非難し憤慨して囂々たる国民世論となったのも当然である。

 明治24年のロシア皇太子刃傷事件では政府は大いに気を揉み、切腹して謝罪する国民が現れるなどし、日清講和談判中の李鴻章襲撃事件では外国人から「政府は問題ないが人民の文明度は依然として低く卑しい。前には露国皇太子の事件があり、また今回の事件を見ても、結局は日本人民はまだ一般の文明の域に達していない」などと言われたばかりであって、休戦をめぐって強硬に出ていた対清交渉も、この一人の日本人の暴挙によって、日本政府が清国に譲歩せざるを得なくなったのはご承知の通り。
 よって、文明世界を志向する日本政府にとっても、王妃殺害など到底耐えられない暴挙と言える。

 この事件に至るまでの日本政府の意向を推し量れば、次のようになろう。
 ・ 日本は日清戦争に勝利して朝鮮を独立させたと言っても、三国干渉の影響もあって、以降、朝鮮の内政には出来るだけ干渉しないという方針を執っている。
 ・ また、遼東半島還付の条件をめぐる露国政府との協議もこの時点でまだ継続中であり、台湾の実質占領のこともまだ途中である(10.7 近衛師団の南進を始む 樺山総督)よって、三国を刺激するような事件を起こせる情況にはない。
 ・ 朝鮮政府予算をまかなう300万円貸与は開始され、しかも返済期限を20年に延長し、その上、井上馨提案の、朝鮮王宮を懐柔するための3百万円寄贈金の件はなおも継続中であって、王宮との親交に望みがないわけではない。
 寄贈金の件は既に記述したように、この年12月の通常議会の承認待ちであり、不可となったわけではない。「在韓苦心録」での杉村の該当記述は彼の誤解によるものと思われる。
 ところで、王妃が「貰うは、ないない。こわいこと、こわいこと」と言って拒んだのは、貸与金の一部をもって釣ろうとする大院君の甘言のことであって、井上に対する言葉ではない。政府から政府に貸与するものを、井上が個人的にどう使い道を指示できるわけでもないしねえ。まして井上すらてこずったあの頑固者の度支大臣魚允中が許すはずもないし(笑)
 ・ 対韓方針の「利害の関係ある他の諸国と協力して」とした以上、露国の朝鮮王宮への工作もある程度止むを得ないと見ていた。
 しかし、これが三浦をはじめ少なくない人々の間では我慢ならないことであったようである。まあ、多大の犠牲を払って日清戦争を戦った人々にとってはなおさらではあったろうが。
 ・ 井上馨は一時帰国中の7月、朝鮮における不逞日本人の横暴をいたく憂慮し、その取締りを徹底するように上申し、これに答えて外務省も「適宜の取締法を設け、厳重に施行すべきことを各領事へ改訓令」している。

 以上の点から考察しても、この王城事変は、日本政府による策謀であったとはまず考え難い。まして王妃を殺害するなどということは、百害あって利益のない暴挙であって、論外のことであろう。電信線問題? そのようなものは外交によってどうにでも出来ることであり、事実そうしてきた問題である。また、王妃の存在によって行き詰まっている問題でもない。王妃がいなくなったからといってすぐに解決する問題でもない。
つうか、dreamtlae氏の「電信守備兵(一)」〜「電信守備兵(二十)」を読めばスッキリはっきりするというもので。憶測や妄想で断じたりせずにねえ(笑) まず、機密第七〇号にある通り、9月末時点で日本政府は、兵站守備兵を撤退させる代りに憲兵250名を派遣して電信線を保護させることに決してますが、何か。方針として将来朝鮮政府に半額で売却することなども。

朝鮮政府としては

 王妃殺害事件を語る人が、決して触れないのが当時の朝鮮内政問題である。内政改革にとって王妃がどういう位置にあったのか。金宏集総理、金允植外部、また魚允中など、大勢の改革推進派にとって、王妃がどういう位置に立つ人であったか、などである。
 かつて三履と呼ばれ、雨のぬかるみ道を歩くのに使われる木履よろしく、利用され酷使され、事件が解決して晴れとなれば、打ち捨てられて顧みられることのなかった金金魚の3人が、その朝鮮人らしからぬ誠実さと堅実さで内政改革を推進している最中である。

 そもそも、大院君などの李王家と王妃閔族との対立が顕著となる以前は、王宮と政府間のことはそれなりに機能していたようである。かつてその3者は、井上公使との対談で次のように述べている。(日清戦争下の日本と朝鮮(8))

金宏集 「私の国も元はこうではなかった。役人を出すにも各省大臣から奏上して君主の許しを得た。国王から直接となると却って恥かしく思うほどであった。税を取り立てることも、王宮内の修復も、無闇とせずに勝手をすることも決してなかった。ここ3、40年前まではそういう風であった」

井上 「今おっしゃる通り国務大臣が責任を負って、過失あっても国王に迷惑を掛けないようにし、またそのかわり国王も充分大臣を庇護してその職を尽くさせるようでなければ、責任を負うのは難しいことである」

金宏集 「まことにその通りで、君主が大臣を選ぶのも、信用して政務を委ねるからである」

金允植 「王は上にあって安んじ、臣は下にあって苦労する、ということもある」

魚允中 「どうもこの頃の様では仕方がない。外国交渉は外務が司るのに、そうでない宮内などが直接に往来している。実に驚くべきことである」

 大院君の専横や閔族の台頭によって、政府というものがないがしろにされてきたこの数十年間ということになろう。それが日本の強力な指導によって是正され、ようやく政府がその機能を回復した矢先に、またも利権と国政の私物化しか関心のない閔族を糾合させようとしている、この王妃の愚行を、どうして誰も問題としないでおれようか。しかも、彼らはじめ政府の者十数人が暗殺されようとしている絶対絶命の危機に瀕しながら。

 むろん、改革に大院君を絶対的に必要としたわけではない。かつて金宏集が井上馨にひそかに言ったように、「大院君に人望があると言うが、それは閔氏政権によって綱紀は乱れ政令は不正となり、無辜の民を害することが甚だ多かったので、むしろ大院君執政の時がましであるとの念を起させたものであって、大院君の執政といえども、頗るの惨状がなかったのではない。大院君の方が比較的に優れるという意味である」というものである。
 そのいわば毒をもって閔氏という大毒にあてようとするのが彼等の目論見であった。したがって、大院君が入闕し、国王を補佐する位置にあるというだけで、その睨みは効いて最早充分なのであって、何も王妃を殺害することなど、金宏集ら内閣政府大臣たちは想像だもしていなかったはずである。敢えて制度的に何か必要というなら、せいぜいが廃妃などですむことである。しかし杉村書記官はそれとても、王妃への配慮として、かつて廃妃を求めたことがある李呵Oを、日本に留学させるという条件を大院君に承諾させた。もっとも大院君は事変当夜になって、やはり李呵Oも王宮に入れて自分の側に置くことを求めたというから、それがかなわないなら王妃を亡き者にせよ、というような要求になったのかもしれない。まあそこらへんのいきさつはよく分からないが。
 とにかく、現行政府派が王妃を抑制したかったことは、これまでの資料で明らかなことであって、その理由を、経緯を、ただ金内閣は日本の傀儡政権だったの、親日派だったの、とレッテルを貼るだけで思考も考察も停止するようでは話にならない。

日本人か朝鮮人かについて

 王妃を直接殺害した者を国籍で問うなら、日本人である可能性が極めて高い、と筆者は最初の方で述べた。だが、当時の腐敗朝鮮をどうにかして生まれ変わらせようとする人々、また露国の保護下となる危険を憂慮していた人々、王妃の専横を許せない人々、それらは日本人だけに限らないことである。だからこそ、大勢の訓練隊を率いて王宮に討ち入った禹範善はもとより、李周會や柳赫魯、鄭蘭教らも朝鮮人壮士を率いて積極的に事変に参加したのである。いな、むしろ大院君と日本公使館側を熱心に説得した首謀者として動いたのである。この共通の目的を果たすのに、共に「朝鮮万歳」と叫ぶ人々に、果して国籍が問題であったろうか。日本人であるとか、朝鮮人であるとかの、区別をつけるべきものであったろうか。よしんば王妃を殺害したのが朝鮮人であったとしてもどうだったというのか。
 ネット上で、訓練隊大隊長禹範善が殺害者だとする意見は少なくない。王妃から解散を命じられた訓練隊を率いて王宮に攻め入った時点で、確かに彼も「王妃を弑せしは自己なり」と後に語ったように、また後の純宗皇帝が名指ししたように、彼が殺害者の一人も同然だったことは否めない。しかし朝鮮人だったから、ということで済む問題であろうか。そもそもこの事変に於いて、国籍が問題なのか。民族の名が問題だったのか。閔族の支配を拒む日韓協同の行動こそがこの事変の真実ではなかったろうか。それにあの東学党首魁全琫準もまた閔政権を憎み、日韓協同による改革のことを評価していたではないか。
 筆者はこれまで度々、明治初期以降の日韓の歴史は、時に日韓両国の人が共に手を携えて開化の道を行かんとしてきたと述べた。それはかつて明治9年に日朝交渉の為めに江華島に向う黒田全権への接待使として派遣された、司訳院堂上呉慶錫の会話からも窺うことが出来るものと思う。以後様々な場面でその協力関係を見ることができる。この時代、確かにそれはあった。この王城事変もまたその一つであると言わざるを得ない。

 なお、大院君は、閔氏が李氏に取ってかわらんとする危機と見ていた。また、金允植外部大臣は「拙者等は李氏五百年の臣子にして、閔氏の臣子にあらず。大院君若し立たんと欲せば、一瞥の力致すを辞せず」と述べた。
 王妃が、閔族のドン、閔泳駿を宮中に入れた時点で、もはや李氏君臣の人々は断然決起の狼煙を上げたのである。まして大院君にとって王妃は今まで何度も暗殺をはかって果たせなかった宿敵である。

 これらそれらの人々が結集して、王妃殺害事件まで惹き起こしたのが、この10月8日王城事変であったと言えよう。

 さて、そうは言っても朝鮮王宮や政府内のことは朝鮮国の内政問題であって、日本人が大院君の入闕に関与することはたとえ個人であっても許されることではない。まして王妃殺害に至るなど。
 そして西洋人にとっては、日韓協同の志を持った人々のことなど知ったこっちゃない。事変後、朝鮮政府は王妃の死をひた隠しに隠したが、世界中を駆けめぐったニュースは、「QUEEN KILLED BY JAPANESE.(ニューヨーク・ヘラルド紙1895年10月17日付)」というものであった。

 

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