日露戦争前夜の日本と朝鮮(1)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

天皇還幸奉迎式 彩色写真
明治28年5月30日、明治天皇は広島から東京へ還幸した。
この奉迎のため、5月14日、渋沢栄一らによって東京商人有志奉迎会が設けられ、その手によって急遽、日比谷の仮議事堂前に巨大なアーケード形の凱旋門が建てられた。その長さおよそ110メートル、中央の塔の高さ30メートル、杉の葉で覆ったアーチの上には「聖駕奉迎」の文字がガス灯や色とりどりの花で飾られ、その前には「皇威発揮」「国光宣揚」と書かれた巨大の幟が翻った。またこの日、国旗を掲揚しない家がなかったという。
5月30日、明治天皇は新橋車場に到着。花火の音が何度も轟き、やがて一行の馬車は行列となってパレード。集まった数十万人の東京市民が歓声を上げる中、アーケードをくぐって宮城前広場を通り、二重橋から宮城に。

 

日露戦争前夜へ

 日本人が日清戦争の勝利に酔う暇もなく、露仏独による遼東半島の抛棄要求すなわち三国干渉という、新たな敵の出現に国民の憤慨甚だしく、軍人などは「我同胞の血を濺(そそ)ぎし土地は、縦い朝敵と目されても敢て手離し能わず(書籍「陸奥宗光」)」と言い放つ者もいた。

 まあ、考えてみれば、日本兵士死傷者約18,000人という莫大の犠牲を払った戦争である。当時の日本人としては、まさに大勢の日本人の血と巨額の軍事費をそそいで得た報酬であるところの遼東半島を、何故手放さなければならないのか、という激憤であったろう。しかも清国政府も割譲を認めてこれを条約に調印し、もう日本領土となったも同然であったのだから、その怒りが容易に治まるはずもない。
 しかも、三国の中には露国という、前々から日本人が最も警戒していた大国が、軍事行動を伴って干渉してきたのであるから、露国こそ最も憎むべき敵国ということになった。

 一方、懸命の外交も万策尽きて、ついに領土抛棄要求に屈した伊藤内閣も、俄然国民世論の非難を浴びることとなった。

 露国がシベリア鉄道開通を目前にして、いよいよ東に不凍港を確保し、太平洋進出の拠点を設けることになるのを最も警戒したのは、日本政府のみならず、英国政府もまたそうであって、これより隠然として日本を支援する方向に向うことになる。
 「 再びの三国干渉 」をめぐる関連史料を読めば、この時点で実は日露戦争の前奏曲は始まっており、9月には、露国駐在西徳二郎公使は露国の情勢を報告する中に、「朝鮮の独立を維持する者とせば、第一、露国との決戦は免がるべからざる事」との意見を述べた。
 それらのことを踏まえて、ここでタイトルを「日露戦争前夜の日本と朝鮮」としたい。

 

露国の野心

 在露国西徳二郎特命全権公使は、明治19年(1886)にロシア駐在となってより既に9年。その豊富な経験も踏まえて露国の最新の情勢を「朝鮮事件」と題し、9月9日付で以下のように報告した。

(「明治28年7月11日から明治28年11月5日」p16、()は筆者)

廿八年十月二十九日接受
機密第十二号

   朝鮮事件

 曾て露国公使館書記官として東京へ在勤致し、其後は同官を以てペルシャへ在勤致居候シペル氏義、在朝鮮代理公使兼総領事に任ぜられ、而して目下彼地へ在勤のウェベル氏は在メキシコ弁理公使に転任し、且つ右交代に付聞及候事等、去月八日、第七十一電信を以て申進置候処、其後過日又シペル氏と相見、内々話として承わるに、此間ウェベル氏より電信を以て、朝鮮国王より仁川在勤の当国領事ラスポーポフ氏を雇入れ度との希望を伝え来り。
 当国外務省に於ては、初め右に対し差支なき趣を以て電訓したるも、後ち本人シペル氏の注意にて今少く彼国の事態定まる迄、見合わする事と為りて前訓令は取消したる由に候。

 本人シペル氏の考にては、朝鮮の事は現今転じて東京に在り。京城に於ては何事をも為すべからず。故に其相談事は必ず東京に於て之を為さゞるべからずと。
 当国外務省のアジヤ局長、亦た其意見にて本人シペル氏に伝うるに、先ず東京に赴き、篤とヒトロウォ公使と打合せ、日本の意見を慥むべきを以てせりと申居候。
 尤、政略の方針に付ての訓令は未だ得ざるも、日本と朝鮮事件の談判は多分本人へ委任可相成、就ては本人には東京の顕官中旧知人もあれば、円滑に相談する事も出来、又、将来両国の為め都合好き様に相談の纏り得ることを希望し居る等の説も致し候に付、拙官には、若し露国の朝鮮に於ける所望たる、弥々其独立完全を保存するに在りとせば、大体の意見に於ては両国既に相合うところなるを以て、本人談判の好結果は期し得らるべし、と申置候。

 又、本人義、今日迄当国外務省に於て朝鮮論を考究したりとの話ありしに由り、拙官試に問うに、露国の見限にて凡そ是迄日本の朝鮮に於ける処分上、如何なる非難の点あるを発見せしやを以てしたるに、本人の答えに、カシニー[在北京露公使]は清国贔屓、ヒトロウォは日本贔屓の見頭を以て報告し、其意見各々偏する所ある如くに思わるゝも、京城よりの報告を参考し、其中を取て殊に不快の感を起すは、旧大石公使の挙動にして、此任撰たる、人をして猶お火縄銃を以て焔硝蔵に入らしめたる思を為さしむ。
 又、近時の事に至ては、日本公使より改革を勧めたる内に、官吏に補する外国人は唯だ日本人に限ると言う如き意味の勧告あり。又、既に彼国事も略ぼ整頓の今日に至て、猶日本より其内政に干渉の事実あるを見るは不快とする所なり、等の話も有之。
 拙官には、本人追て彼地を公平なる見頭を以て事情を目撃の上は、斯る報告の不当を認めらるゝ事もあるべし、と申置候位にて、外に本問題には立入り不申候。
 若し其間に本人へ訓令の要領を聞得候わば電報可致候。

 現今、朝鮮論は一変して、実に日露間の問題となり、其決着の考案容易ならざる事なれば、我に於ては先ず当露国は勿論、該関係国の此論に於ける見頭を十分に講究するを以て第一と存じ、此間、拙官経験の意見の大略を左に申陳候。

 露国以為らく。我疆土大なりと雖ども、西南北自由出入の海港なし。苟も一億以上の国民にして豈に自由出入の海口を永世得る能わざるの理あらんや。是に於てか意を東方に注ぎ、凡そ獲んと欲するところの地所を予定せしこと、茲に年あり。然れども其地所たる朝鮮に属し、朝鮮は同く我隣邦の清国の保護の下に在る国なれば、之を獲る容易ならざるも、凡てアジヤの諸国には内乱時々起り、其国運の変迁多し。且つ我国民、東進の勢い自ら遏止すべからざるものあるに由り、他日、我勢威、太平海岸に普及するに至ては、彼地方自ら動き、尋常平和の手段に由て我所望の実を収め得る機会自然到達すべし、と期して徐々ウスリ地方の殖民事業を経営する間に、其近隣之を覚り、清国は満州の守備に着手し、日本は朝鮮を自己の勢威に服属せしめて、之を固むるの手段に掛かりたり。

 然るに日清各々地理上の便に由り、我に於てはシベリヤ鉄道の建築を企てしに、遂に変を激成して日清戦争となり。而して今日の結果は、日本、其目的を達するが如しと雖ども然らず。日本も亦た善く之を思わざるなり。
 如何となれば、若し彼をして其目的を達せしめば、我大平海岸へ、黒海のボスホル峡の険を設くると同一にして、我に於ては唯独り向後我勢威を朝鮮及び満州に普及し、東洋にスラブ種族の繁殖を図る能わざるのみならず、全シベリヤの出口亦た障えらべし。
 是れ豈に我の堪ゆる所ならんや。又、彼若し力を以て之を争わんとするか、我は陸続きにて直に境を接し、彼は海を隔てるにより、到底彼は我よりも不利の地位に居れり。
 今仮りに彼の海軍の勢力は速かに増進して、我に勝る者とするも、我鉄道全通の暁には、我に於ては彼地方へ自在に所要の兵を送くるを得べし。彼、之を為し得べきや。否、此競争たる、海軍に始まるとも、陸軍に終るべきは勿論とすれば、彼に勝算の立つ筈なし。加之、彼既に朝鮮を清国より引離し、清国をして共に保護の義務を解かしめ、以て我年来の障碍を撤去したる以上は、勝敗の数、既に決せしと言わざるを得ず。

 我固より日本と戦うを好むに非らず。日本は島国なり。其国の位地に安じ、自己の勢威を西南諸島に及ぼすは、唯其欲するところなるも、大陸に向て我の発達を妨ぐるに至ては、両国の衝突は自ら免れざる所なり。
 然ども日本の朝鮮に於ける夫の欧米諸邦に於て称挙するが如き、朝鮮を開明に誘導の功労は、我の認むべき事に非るも、既に歴史上の縁あり、又商売の関係大なれば、日本をして其既に得たる商売上の特権を専有せしむるは可なるも、政事上の特権に至ては、向後、我の専有に帰せざるべからず。唯我為めに其時未だ至らざるに由り、今暫く日本をして厳に朝鮮の独立を実行し復た其内政に干渉せしめざるに如かず。

 然る時は朝鮮は、依然旧朝鮮にて存し、其間に我の勢威漸に彼地方に布及するを得て、朝鮮国王亦戦わずしてブカラ王の位地に落つべし。

   備考 前ブカラ王は屡々ロシヤ兵と中アジヤに戦い、敗を取てサマルカンド迄も失い、遂にロシヤ帝の保護を受くるに至れり。ロシヤ其内治に干渉せず。唯だ枢要の土地は借入を以て名とし、自在に銕道を通し居村を設く。今世のブカラ王は其世子を当府に遊学せしめ、諸事露国を学び、賞牌等の制を設くるに至れり。此次回のブカラ王は露国の士官たるべしと伝う。

 右は重に当国政府部内就中外交家の思想の大概を画きたる積りの処、当府に一の老漢学者あり。
 千八百四十年代より十余年間、北京に留学し、其後久しく当府の大学に於て東方語を教授し、兼而外務省へも罷り居て、拙官にも旧知の処、此人の過日の話に、清国に長髪賊の乱ありし時、本人既に朝鮮押領の策を当政府に献言したるも行われず。其後にも度々其意見を外務省に陳べたるも、毎々清国を顧みて決する能わざりしが、遂に又日本を顧みざるを得ざるに至りしは遺憾なりと。
 又曰く、露国の東方外交家は謂えり。我、若し朝鮮を取らんと欲せば直に取り得べきも、之を取るを欲せざるは、日本に遠慮してなり。然るに日本は、毫も此遠慮に価値を付せずと。是等、皆近頃露国の東方に於ける進取政略活動の影響と見て可なり。猶、別紙新聞紙通信の説も参考すべし。

 他の諸国の意見に至ては、拙官の敢て当る所に非るを覚ゆるも、今試に当国内外の新聞雑誌の説と二三の政事に経験ある英国人の説とに基て之を一言せば、英国は固より露国の進取政略を好まず。其東洋に不氷の港湾を得、朝鮮満州を掌握し、太平海に海軍の勢力を増加するを得る如きは、英国の最も忌嫌するところなるも、若し之を問うに、之を抑制せんと欲して其世界中に満延したる製産商業をも一時犠牲に供し、欧州の関係をも顧ずして、露と決する程の利害あるやを以てせば、なし、と答うべし。
 加之、露国の海軍如何程東洋に盛なるを得べくとも、遂に英国の海軍に及ばざるべきは勿論、印度東南の海軍防禦には、香港あり、シンガプールあり、別に深く懼るゝに足らず。当府駐箚の英国大使話したる事あり。曰く、露国の東洋に不氷の港湾を得んと欲するは、至当の所望と認めざるを得ずと。

 独逸及米に至ても略ぼ同様なるべきは、其東洋に於ける利害の関係、英国より少きを以て之を知るべし。当府駐在の独逸大使、過日一の同僚に話したりと云うを聞くに、目下日本人のウラジオストクへ出稼ぎ或は商売に出懸け、十分に其業を営むを得て、満足たる事とせば、仮令え朝鮮は露領に帰するとも、日本は経済上に於て別に損害を蒙むることなかるべしと、是等固より一己人の説なれども、其国の外交家中思想の一班は伺うに足るべし。
 夫のイタリヤの如きは、全く利害の関係なきにより、其言う所、唯情に任せて一時の同感を表するに過ざる者と見ざるを得ず。

 我と利害の関係を同うし、露国に対して我自然の同盟国たるべきは、唯独り清国あるのみなれども、彼国事日々非なるに似て、朝鮮の如きは其復た思うに暇あらざる所ならん。

 若し以上の見頭当れる者とし、且我に於て何処迄も朝鮮の独立を維持する者とせば、第一、露国との決戦は免がるべからざる事。第二、右の場合に至ては、我に於て現今の国勢に藉り、如何なる外交手段を用ゆるとも、前陳各国の見頭を動かすこと能わざるべきは言う迄もなし。
 但し若し事変欧州に発し、英独各主と為り、自己直接の利害に由りて、露と隙を構える場合には、各々我に同盟を求むる事あるべきも、若し之と反対し、我自から主と為り、東方に於て露と開戦の場合には、彼等、我同盟の求に応ずるものなかるべきは、之を近来の事蹟に徴して亦明かなるを以て、其我に同感の諸勧告も和戦の決迄に止るものと見ざるを得ず。

 然らば我に於ては如何之に処して可なるや、の問題に移るに当ては、固より好悪の感情に任せず、一に現在の実状に基き、我将来の利害得失を以て案を着くべきは勿論の処、之を為すには、前述関係諸国の意見の講究も未だ以て足れりとせず。又、我国力発達の程度の予算并に清国将来の見頭をも善く之を審かにせざるべからざるも、其余暇なきを以て、今仮りに、我に於ては今日の行掛り上、出来得る丈は我勢威を朝鮮に保て其独立を維持する事に決せん。

 然るときは、第一に清国と同盟の案、出でざるを得ず。若し清国にして其国力追々に回復の望あり、且つ彼自ら善く満州の危きを知り、自衛の為め朝鮮保護の所望の切なる我に、復讐の念をも投ち、真実に我と同盟を結び、事ある時には三四万の兵を蒙古の北境に出して、シベリヤの中路を扼するの気力あり勢力あるに至るものとせば、彼我互に実際同盟の利益を得るの大なるべきは、露国亦た動くこと能わざるに至るべければなり。
 是最も露国の懼るゝ所なるを以て、之を妨ぐるの術は尽くすべけれども、清国に於て斯る実力を貯え得る日には、利害同じきところ自ら我に与みするに至るべし。

 然れども、若し実際清国の将来には斯る望あるなくして、唯独り朝鮮の保護を思う能わざるのみならず、自国の保護も覚束なく、依て彼との同盟は、我に於て一の難題を負うに過ぎざるものとせば、第二、露国と朝鮮を南北に分割の案出ず。
 此論は決し易きに似て其実難し。如何となれば、露国に於て満州朝鮮は其将来の所領とし、取らんと欲せば、何時にても之を取るを得るとの見頭より、所謂ゆる臥榻の傍に他人の盰(鼾)睡を容るの感を以て之に接するは、猶お東半島に於ける如くにして、容易に之に応ぜざるべし。
 故に是は最後の一手段として、第三、前述諸関係国の見頭は固より事を極端に及ぼしての話にて、其此に至る迄の間は、英米独共に平和手段に由て出来る丈は露国の大企望達せざる様、朝鮮の独立成る様、我に保護の助力を与うべきは蓋し疑うべきに非るより、我に於て之を利用し露清をも加え、共議して朝鮮独立保護の方法を定むる亦一案とす。
 然れども、其施行甚だ困難なるべきは第一に露、之を欲せざるべし。第二に、夫の欧州に於て之に類せし条件を以て国を成し居る白耳義、瑞西の中立は、内自ら立つを得て唯外面の強迫を禦ぐに止まるも、朝鮮は内自から立つ能わざる病人にして、医師の定めたる方剤も、看護夫なくては服薬するを得ざるべきにより、其難問は即ち右の看護夫撰びに在り。然れども此案たる、若し委細の計画善く調い、且つ我に於て唯商売上の利益に安んずる事とするに至ては、行わざる事にも非るべし。

 右の外、此地に於て拙官の考えも付兼候に付、暫く書して御参考に供し置候。敬具。

 明治廿八年九月九日

      在露
       特命全権公使 西徳二郎

 外務大臣臨時代理
 文部大臣侯爵 西園寺公望殿

 「目下彼地へ在勤のウェベル氏は在メキシコ弁理公使に転任し、且つ右交代に付聞及候事」と。
 この露公使ウェベル(ウェバー)の転任に付ては、後に閔妃が露国皇帝宛てに、転任させないようにとの依頼の手紙をだそうとしていたことが明らかになる。
 「カシニー[在北京露公使]は清国贔屓、ヒトロウォは日本贔屓の見頭を以て報告し」ならば、ウェバーは朝鮮贔屓ということになる。

 「日本公使より改革を勧めたる内に、官吏に補する外国人は唯だ日本人に限ると言う如き意味の勧告あり。又、既に彼国事も略ぼ整頓の今日に至て、猶日本より其内政に干渉の事実あるを見るは不快とする所なり、等の話も有之」とシペル。
 で、西は、ま、朝鮮に行って公平の目で見るなら、そうでないと分るかも、と。

 

露国の戦略

 そして露国の戦略の話になる。以下の言は、いずれも露国政府内に就く外交家の思想の概要という。

意を東方に注ぎ、凡そ獲んと欲するところの地所を予定せしこと、茲に年あり。然れども其地所たる朝鮮に属し、朝鮮は同く我隣邦の清国の保護の下に在る国なれば、之を獲る容易ならざる・・・・日清各々地理上の便に由り、我に於てはシベリヤ鉄道の建築を企てしに、遂に変を激成して日清戦争となり・・・

 と。
 東方すなわち朝鮮に出口を求めていたが清国の保護があって容易に獲ることができなかった。しかしそれも日清戦争となって激変したと。
 当時の露国政府内の資料に拠れば、露国政府は、日本がシベリア鉄道建設のことを考えて日清戦争を起した、という認識に立っていたことは既に述べた通り。ヴィッテ蔵相が「日本の対清戦争はシベリア鉄道建設の結果であり、ロシアを指向したものである」と論じ、同鉄道の建設により近未来の清国分割競争でロシアが優位を占めるという観点に立って、「今は日本に対し武力を行使してでも干渉を行い、日本の南満州進出を阻むべきである」と主張し、会議はこの主張を採用して対日干渉を決定した、と。いわばロシア人の猜疑心がもたらした干渉ということになる。

 実は三国干渉交渉中において、林外務次官は、朝鮮に露国の港を開港させてもよい、とオランダ公使に述べたことがあった。露国がその覇権主義を捨てて平和共存する意があるなら、それも可能だったかも。
 しかし、その話をいち早くかぎつけて在英国加藤公使に問いただしたのは英国外務大臣であった。インドなどアジア東南部を支配する英国政府の、露国の南進に対する警戒心の甚だしさは日本の比ではない。日本政府は、英国が三国干渉にも参加せず、日本との条約改正も受け入れたことから、好意を抱くやら気を使うやらで、いろんな面で英国政府の意向に引きずられた感も否めない。で、

我鉄道全通の暁には、我に於ては彼地方へ自在に所要の兵を送くるを得べし。彼、之を為し得べきや。否、此競争たる、海軍に始まるとも、陸軍に終るべきは勿論とすれば、彼に勝算の立つ筈なし。加之、彼既に朝鮮を清国より引離し、清国をして共に保護の義務を解かしめ、以て我年来の障碍を撤去したる以上は、勝敗の数、既に決せしと言わざるを得ず。・・・・大陸に向て我の発達を妨ぐるに至ては、両国の衝突は自ら免れざる所なり。

 と。
 たしかに鉄道の輸送力は日本の運送船の比ではない。陸戦となれば露国の方が圧倒的に有利なはずである。
 また、これまで朝鮮は清国が押さえていたが、日清戦争の結果によってその障害も無くなったと。そして、日本が露国の大陸における発達を妨げるなら、つまりは朝鮮や満州への進出を妨げるなら、今度は日本との衝突は免れられないだろう、と言うのである。もちろん戦争となれば我が露国の勝利は間違いないと。

 で、当面は朝鮮を徐々に取り込んでいく方向に向うだろう、というのが次の記述である。

・・・・政事上の特権に至ては、向後、我の専有に帰せざるべからず。唯我為めに其時未だ至らざるに由り、今暫く日本をして厳に朝鮮の独立を実行し復た其内政に干渉せしめざるに如かず。然る時は朝鮮は、依然旧朝鮮にて存し、其間に我の勢威漸に彼地方に布及するを得て、朝鮮国王亦戦わずしてブカラ王の位地に落つべし。
   備考 前ブカラ王は屡々ロシヤ兵と中アジヤに戦い、敗を取てサマルカンド迄も失い、遂にロシヤ帝の保護を受くるに至れり。ロシヤ其内治に干渉せず。唯だ枢要の土地は借入を以て名とし、自在に銕道を通し居村を設く。今世のブカラ王は其世子を当府に遊学せしめ、諸事露国を学び、賞牌等の制を設くるに至れり。此次回のブカラ王は露国の士官たるべしと伝う。

 と。
 ブカラとは中央アジアにあった国である。つまりは、日本には厳しく朝鮮の独立を守らせて内政には干渉させないようにさせ、そして徐々にその影響力を朝鮮に及ぼして取り込んでいき、戦わずして保護国とするというのである。将来は属国となるだろうとも。
 まあここら辺は、露国の遠謀深慮と言わざるを得ない。日本の朝鮮への政事的干渉を嫌い、その独立にこだわる理由がここら辺にあるらしい。7月31日にヒトロボー公使をもって露国政府の宣言を伝えた内容と符合するし。
 しかしブカラ王なんぞの話は筆者初めて知った。要するにロシア式保護国というか属国というか。んー、後のソ連邦が頭に浮かんできた。
 それにしても、せかせかして戦略という戦略も曖昧な日本人と違い、ロシア人というのは相当先のことまでも考慮して戦略を調えるようで。そう言えばソ連もやはりそうだったよねえ。

 で、実際、この明治28年9月刊行の露国沿黒龍政区首府ハバロフスクの官報には、露国東南端のウスリー地方に向けて次年度に大規模な兵力を増強させる計画が掲載されていたりした。(沿黒龍政区首府「ハバロフスク」刊行黒龍官報摘訳)
 露国の戦略が東に向けられているのは明らかであった。

 そして、

当府に一の老漢学者あり。千八百四十年代より十余年間、北京に留学し、・・・・本人既に朝鮮押領の策を当政府に献言したるも行われず。其後にも度々其意見を外務省に陳べたるも、毎々清国を顧みて決する能わざりしが、遂に又日本を顧みざるを得ざるに至りしは遺憾なりと。又曰く、露国の東方外交家は謂えり。我、若し朝鮮を取らんと欲せば直に取り得べきも、之を取るを欲せざるは、日本に遠慮してなり。

 と。
 今のところ日本に遠慮して朝鮮を直に取ろうとするわけではない、と。でも、徐々に取り込んでいくことには違いないんだよねえ。

 で、次には、では朝鮮問題についての諸外国の動きはどのようなものとなると考えられるか、という分析が続く。

 英国は露国を警戒してはいるが、露国がもし不凍港を得て、朝鮮満州まで掌握して太平洋に海軍の勢力を築いたとしても、これと決戦するほどの利害があるかと言うと、それはないと。で、不凍港ぐらいのことは認めるかもしれないと。
 でも、かつての巨文島占拠は、それを認めないぞという行動だったんだが。

 また、独国や米国も、東洋に於ける利害は英国よりも少ないしー、それにイタリアはまったく無関係と。
 結局、日本と利害の関係を同じくするのは清国であるが、あんな状態であるし、朝鮮に至っては論外であると。

 

日本の対抗手段

 で、日本としては、

我に於て何処迄も朝鮮の独立を維持する者とせば、第一、露国との決戦は免がるべからざる事。第二、右の場合に至ては、我に於て現今の国勢に藉り、如何なる外交手段を用ゆるとも、前陳各国の見頭を動かすこと能わざるべきは言う迄もなし。

 と。
 どのような外交手段を用いようとも、他国が動くことはないし、日本が朝鮮の独立を維持しようとするなら、露国と決戦することは免れられない、と。

 そして色々と手段は考えられるが、最後の手段としては、

英米独共に平和手段に由て出来る丈は露国の大企望達せざる様、朝鮮の独立成る様、我に保護の助力を与うべきは蓋し疑うべきに非るより、我に於て之を利用し露清をも加え、共議して朝鮮独立保護の方法を定むる亦一案とす。

と。
 つまりは西洋列強国も含めて各国が互に協同して朝鮮の独立を保護するように仕向けると。

 

問題は自力独立できない朝鮮

 しかしこれには大なる問題があった。同様の独立中立を保つベルギーやスイスは、何と言っても、自ら立つ、という国内の力が充実していて、外からの防禦が出来る国であるという点である。すなわち、

之に類せし条件を以て国を成し居る白耳義、瑞西の中立は、内自ら立つを得て唯外面の強迫を禦ぐに止まるも、朝鮮は内自から立つ能わざる病人にして、医師の定めたる方剤も、看護夫なくては服薬するを得ざるべきにより、其難問は即ち右の看護夫撰びに在り。

と。
 朝鮮は内から独立できない病人だから、というところが、これは各国も認める朝鮮のどうしようもなさであった。

 世界情勢がどのようなものであるのか。朝鮮は国家としてどう独立を自ら維持していくのか。優柔不断の朝鮮国王はともかく、王妃にも閔一族にも、そのような地平を見渡そうとする視点は持たない。ただあるのは、国内に於ける権力と財に対する欲望であり、保身に汲々とするのみであった。外交といえば外国に事大し、依頼し、なびくしか脳のない、その小児の政事。自国民を信じず、家臣を信頼せず、近衛兵にすら猜疑心を向ける。しかも、寛大さに欠け、容赦なく家臣を殺し、兵を殺害する。なるほど、明治27年7月23日の王城小戦闘において、王宮を守る兵がわずか15分の戦闘で、全員逃亡してしまうはずである。一命を捧げて守りきる忠義の兵士が1人もいないのである。王たちと臣下の結びつきというものは朝鮮においては実にそのように儚いものであった。それは臣下の不実というよりも、忠心を捧げるにふさわしい、真に国を思い民を思う主がこの国にはいなかったからに他ならない。

 王妃閔氏が極めて聡明であることは、親しく接した米国公使館医師アレンや井上馨の認めるところであった。しかしその聡明さは、もっぱら保身と権力、しかも身内の血族の利権のためにのみ発揮された。もちろん、王妃のそれまでの不幸な境遇や経験した事件を考慮すれば、同情されるべき点も少なくない。この人の不幸は、何と言っても王妃の地位にあったということであり、平凡な両班の夫人であったなら、それなりによく家を盛り立てた賢夫人となっていたのではなかろうか。

 ま、とにかく西公使のこの報告は、清国が敗北したことによって、今度はいよいよ露国が魔手を伸ばしてくる時機が到来した、ということの報告である。

 

この時の日韓露の事情

 さて、井上馨が帰朝のため京城を離れたのが9月17日。仁川を出帆したのが21日であった。それから20日も経たずに王城事変となったのであるが、どうもそこに到る経緯がよく分からない。そこでまず、日韓露それぞれの事情というか状況というか、それらをここで整理してみたい。

 まず、井上が帰国した時点で、日本政府と王宮の関係は以下のようなものであったはずである。

 国王王妃と井上馨の間では、ある程度の信頼関係というか、良好な交際があったはずである。それに、この年の朝鮮政府予算をまかなう300万円の貸与金。それも返済を20ヶ年に延長する見通しが立ち(「韓国借款関係雑纂 第二巻 4.公債貸付金ノ件 分割1」p152)、そして、年末の通常議会の承認待ちであるが、閣議決定していた300万円の寄贈金。国王王妃が一番気に掛けていたのは王室財産であったし、それで「貴王室財計の基礎と為し、且以て国家有利の事業に投じ、上下の便益を図らんこと」と、安定した財形とするように、との至れり尽せりのもの。

 また、戦争は終わり、未定だった日本政府の対韓方針も決定し、「なるべく干渉はやめて朝鮮を自立させる方針を執る」であった。井上が7月21日に帰任した時に周囲の人々は、井上が3千人の大兵を連れてくるだの、宮中に怒鳴りこんで王妃の頭を抑えて内閣を立て直すだろうだの、噂したのだが、大兵どころか、細君を連れて入京し、極めて穏やかな態度であったことには、全く予想外のことだったと。
 しかし当たり前である。干渉を止めて、朝鮮の自立に協力し、且つ日韓の関係は、「これを条約上の権利に基かしむる」という、戦争前の状態に戻ったのであるから。
 当然、改革のことについても勧告にとどまる。もちろん干渉がましいことは一切しないのである。しかしまあ、この豹変振りが、後に井上の「無定見な政策」だとかの評価となり、果ては「井上は疲れて果てて帰った」とまで言われるようになった。
 井上が変わったのではない。単に政府の対韓政策が定まったからに他ならない。

 以上のように、露骨な言い方をすれば、国王王妃にとって日本政府の金と力についてはOKだったはずである。つうか、都合よすぎ(笑)

 で、その国王と王妃はどのような行動をとったか。

 ・ 日本が期待していた朴泳孝を追放した。(朴のせいであるが)
 ・ 内政改革の骨子である、大院君と王妃は政治への口出しを止め、国王は人事専断をしないという、祖先の霊廟にまで誓ったことを破り、人事は国王専断とすると宣言し、王妃は再び閔族を地方から呼び寄せた。
 ・ 宮内大臣李載冕、同協弁金宗漢を免じ、李耕植を宮内大臣に、李範晋を同協弁に、李允用は警務使に、それぞれ任じた。いずれも露米に傾く貞洞派と呼ばれる人々であり、李允用は閔党でもあった。なお、露国公使ウェーバーの友人である米人リゼンドルを宮内顧問官とした。これで、宮内府とその手足となる警務府は、露米派と閔党で占められ、更に日本軍が訓練した朝鮮最強の軍である訓練隊の隊長に、洪啓薫、李学均、玄興澤などを新任したが、これらは王妃の意にかなう者たちであり、よって宮中は兵権もまた掌握せんとするかのように見えた。(実際は、士官たちが日本党で占められていることに対する反発への、政府の苦心の融和策であった)
 ・ 大赦を行い、閔泳駿など閔族ならびに閔派数十人の罪を赦免し、清国に居る閔泳駿の帰国を促した。
 とまあ、要するに、政府を元のように閔族で固め、国外に対しては事大先を清国から露国へ替える方に向ったと。

 で、これに反対する朝鮮の人々はどう思っていたか。

 ・ 金允植や魚允仲は対王妃策に困難を感じた。また、魚は国王専断の宣言に抗議。
 ・ 魚允仲は、「王妃は必ず何らかの失錯を生ずるに相違ない。この機に乗じて王妃を抑制する方法を設けたい」と。つまりは、井上公使を頼むか、そうでないなら大院君を利用しようとするものらしい。金允植等もまた内心、大院君を利用せんとする考案があった。
 ・ 大院君は、「このまま王妃が勝手気ままに振舞うなら国は滅びるだろう。万事日本公使の意思を受けて、王妃を取り抑えることに尽力したい」と述べた。
 つまりは、いよいよ王妃を何とかせねばならない、と考えているということである。

 一方、日本にとってはどういう状況であったろうか。

 ・ 勝利はしたが、死傷者2万人近い犠牲を払っての戦争。それも殆どの人々が、この戦争は朝鮮独立のための義戦、と思っていた。
 ・ 三国干渉によって列強国のエゴが露わになった。とりわけ最も警戒していた露国の野心が顕われ、日本に逃亡した朴泳孝の話などから、京城露国公使は王宮に取り入り、王妃はひそかに露国と通じているとの疑惑が広がった。
 ・ 7月に起きた「露国への朝鮮密使事件」は未解決のままである。もし朝鮮が露国側に回るなら、
 1、朝鮮への積年の支援と独立義戦を行った日本への重大な裏切りである。
 2、太平洋進出と領土拡大をはかる露国は、将来は朝鮮を呑み込むだろうし、それによって日本へ進出する足掛かりとするだろう。
と見ねばならない。
 ・ 朝鮮は、内政改革を遂げて自ら独立を維持できる国となる道半ばである。それを、かつてのように、王妃一族である閔族で政府を固めようとするなら、改革に対する逆行であって、日本のこれまでの努力は水泡に帰し、巨額の援助も溝に金を捨てるも同然となる。
 つまりは、日本人は憤慨しつつ新たな危機感を抱き、中には、王妃を排斥せねばならないと考える者もいたろうということ。

 で、露国の方としては、

 ・ 朝鮮への清国の保護はなくなった。この後、露国の威勢を朝鮮及び満州に普及し、東洋にスラブ種族の繁殖を図る。それを妨害しようとするならどうして堪えられようか。
 ・ 日本の朝鮮に於ける歴史上の関係からも、日本が既得する商売上の特権は許容できるが、政治上の特権は今後は露国が専有するつもりである。
 ・ 日本が大陸における露国の発達を妨げるなら、つまりは、日本が朝鮮の独立を維持しようとするなら、いずれ衝突は免れられない。それもシベリア鉄道開通の暁には、戦争となっても日本が露国に勝つ見込みはない。
 ・ 朝鮮は戦わずしてブカラ王の地位に落ちるだろう。
 と。
 なお、ブカラとは、16世紀初めにウズベク人が中央アジアに建国したブハラハン国のことである。そのブカラ王は、西公使の説明によれば、
「前ブカラ王は何度か露国軍と中央アジアで戦い、敗れて都市サマルカンドまでも失い、遂に露国の保護国となった(1868年)。露国はその内治には関与せず、ただ枢要の土地を借り入れ、自在に鉄道を通して露人の居村を設けた。今世のブカラ王はその王子を露国に遊学させて諸事を露国で学ばせ、賞牌等の制度を設けるに至った。この次のブカラ王は露国の士官となるだろうと言う」
 なお、1920年、国として消滅した。
 あれ?! 経緯は違うがどこかに同じ道をたどった国があったが(笑)

 旧態依然の朝鮮は、やがて露国の影響が布及するに至って、ブカラ王と違い、戦いすらせずブカラ王の地位に落ちるだろう。つまりは自ら露国の保護国となるだろう、と。

 露公使と親交を深めるのはこの道を行くことであった。つまりは、聡明であっても国際関係ということに付ては、まったく脳天気なのが王妃閔氏であった。

 しかし、露国からも将来の日本からも、保護国とされてついには消滅させられるような国とならないためにも、朝鮮はこの内政改革に本気で取り組まねばならない時機ではなかったろうか。国内のわずかばかりの利権をめぐって、政争を繰り返している時ではないのである。


 とまあ、整理してみて、ではここからどのようにして王城事変に至ったかなのだが。

 

王城事変に至る経緯

 後の杉村濬による「在韓苦心録」でも、事変後の三浦公使の報告でも、また広島地方裁判所予審終結決定書によっても、今ひとつその要領を得ない。いろいろ調べているうちに、岡本柳之助について書かれた明治29年9月刊行の「今世人物評伝叢書(民友社)」中にある「岡本柳之助」の記述が、実によく纏められたものであるのを見出した。アジ歴資料にある公文書報告の点と点を結んで、線として見せてもくれるすぐれものでもある。ただし当然、岡本擁護、王妃閔族悪玉説、という視点で書かれている。しかし、事跡の流れを知るに分かりやすいので、以下に、朴泳孝が陰図不軌の嫌疑を受けて日本に逃亡してから、王城事変に到る経緯のみを抜粋して記述し、所々で解説を加えたい。なお該全文テキストはこちら。

 で、以下、抜粋しながら解説する。

 廿七年七月の事変已来、諸閔皆な屏息すと雖ども、閔氏に非ずして閔の臭味を帯ぶる李允用、安駉壽の徒、及び英語派の諸人、依然政府に在り。彼等は皆開化党を称すと雖も、中心、窃に両端を持し、後、遂に我を離れて露米に傾き[所謂貞洞党是なり]、陰に閔妃を戴きて政府を傾けんとせり。是に於て閔妃の羽翼亦漸く成りたれば、朴去るの後、先ず宮内府の官吏を更迭せしめ、即ち宮内大臣李載冕、同協弁金宗漢を罷めて、李耕植、李範晋を以て之に代え、又曩に支那より帰国したる閔商鎬[王妃の親族にして寵用せられたる人]をば朴在任中、既に外事課長と為し、宮中と各国との交際を掌らしめ、并に、英語の御前通弁に充て、露公使の親友米人リゼンドルを入れて、宮内の顧問と為し、其他更迭する所多し。是より宮内府は絶然たる閔党、即ち露米党を以て団結し、其勢力殆ど政府を圧したり。是れ廿八年七月已降の形勢なりき。

 1年間をはしょって纏めるとこうなるだろう。大院君が執権となり、薙ぎ払うように閔族を政府から追放したが、それでもいくらかは閔派が残り、後、ついに日本から離れて露米に傾いたと。つまりは三国干渉による影響ですな。清国を粉砕した強国日本と思っていたら、その日本があっさりと膝を屈したのが三国、なかでも露国と。
 貞洞党とはそのような露米派を指して当時言われていたらしい。で、朴泳孝が去った後は、国王王妃に係わる府である宮内府のトップとナンバー2を更迭して露米派で固め、外交の実務に閔族を宛てたと。正確には、宮内大臣は李載冕→尹用求→李耕植とワンステップ置いてますな。で、翌日には李範晋を同協弁にと。米国人リゼンドルを宮内顧問としたのは既述の資料にもある通り。

 又、外国の関係如何を探求すれば、露公使は常に懐柔主義を執り、努めて親交を宮中に結びたること十年一日の如し。唯時勢の未だ到らざると、釁隙の乗ず可きなきを以て、耐忍今日に至れるのみ。又、米公使は常に「朝鮮若し外国より侵略せらるゝ掛念あらば、之を保護する方針を執れ」との本国政府の訓令ありと称し、露公使と連絡して時々我が行為を妨げんとしたるも、其実米使の意は、朝鮮政府に雇わるゝ同国人並に其商人を保護するに過ぎずして、却て他の利用する所となりたるが如し。而して宮中の我に対するに、事善悪となく、陰に之を両公使に相談して其勧告助言を仰ぐが故に、両公使は隠然我が反対の地位に立つに至れり。

 露国公使ウェベル(ウェーバー)は京城駐在10年となるが、最初から王宮に取り入る工作をしていたという痕跡は見出せない。日清戦争を機としてからであろうと思う。

 加うるに、内政改革を勧促する我が忠告は却て朝鮮人の厭嫌する所となり、朝鮮人等は益々我を離れて露米公使に依るの有様となり、彼等をして漸く機会に投ずるの緒に就かしめ、廿八年四月、遼東還付の報、達するに及んで、露人の勢力益々朝鮮に加り、平生露国に反対の意見を懐く人と雖も、中心稍々之に傾き、然らざるも露に反対するの言を吐かざるに至れり。是れ露米公使の為には機会愈々熟せるものと謂うべかりしなり。

 三国干渉、遼東半島還付は、まさに露国の一石3鳥の政略である。日本の大陸への足掛かりを一蹴し、清国に大なる恩を売り、事大主義の朝鮮をして自ら露国に傾倒させるという。後には露清密約が成り、露国はシベリア鉄道を国境線に沿って迂回することなく、真直ぐに満州の上を通る線路を敷くことが出来るようになる。

 之を内にしては宮中の団結既に成りて、城壁已に築かれたり。之を外にしては露米公使の応援あり。宮中派の眼中に日本なきと既に久し。然るに七月中旬、遽然公使井上再渡の報[而かも三千の大兵と共に再渡するとの報]に接したるより、宮中にては再び危懼の心を生じ、頓に運動を中止して、只管同公使の来着を待ちたりしに、同公使の来るや、兵卒を引率せざるのみか、全く前日と面目を異にし、敢て改革の進行を強促せず、専ら親和説を取りて啓誘を務めたりしが為め、宮中にては表面には調子を合せて我に傾向の姿を装いたるも、閔妃の慧悍なる、豈真に我を信ぜんや。彼は日本人の己れを喜ばざるを知れり。又、閔氏と日本とは到底両立し難きものと信ぜり。随て日本公使の方針を一変せしは、露国を憚りて一時に権宜に出でたるものなるを察したり。是に於て日本を制して自家の勢力を保つ唯一政策は、露と親交を固くするに在りと覚悟したるが如し。

 井上が以前と違って改革を強く促さず、専ら親和的に接したので、明晰な閔妃は、日本が露国を憚って一時的な策に出たものと察し、表面上は調子を合わせていよいよ露国と親交を厚くすることを決めた、と。
 まあ、前年8月の「将来朝鮮を如何すべきや」の閣議で仮の方針であった乙案すなわち「帝国より間接に直接に永遠若くは或る長時間其独立を保翼扶持し」だったのが、この6月3日の閣議で、「成るべく干渉を息め、朝鮮をして自立せしむるの方針を執るべし」となったのだからねえ。

 故に閔妃は表面には日本と親交を装いながら、陰に宮中の勢力を鞏固にして、之を政府に推及せんことを務め、我忠告に応ぜずして閣臣を黜陟し、僅に金宏集を有名無実の総理に復したるも、魚允中を斥けて沈相薫を挙げ、金嘉鎮を罷めて李範晋を以て之に代え、李允用の督務使を復し、安駉壽を軍部大臣に任じ、洪啓薫を訓練隊長に任じたる等は、財、兵、警の三実権を、宮中派の手に収めんとしたる計画にして、漸く宮中の勢力を政府に及ぼし、政府をして孤弱無援、頤使自在の境遇に陥らしめたるものと謂うべし。
 又、不時に大赦を行いて、閔泳駿已下諸閔并閔派数十人の罪を赦し、且つ泳駿の帰国を促したるが如きは、専恣驕横、眼中日本なきの挙動にして、当時国王陛下には窃に近臣に向て、再び閔氏跋扈の世に戻るか、といいて嘆息したりと聞きぬ。

 で、流刑などに処されていた閔泳駿や閔丙奭など閔族一同を赦免したのは、8月17日と。

 井上が帰任してより7月から9月までの間の井上からの報告では、むしろ井上と国王王妃の間には親和的な雰囲気が感じられるものである。しかし果してそれが王妃の表面上の装いだったのかどうかは判断しがたい。嘘に巧みなのはこの国の人の習慣ではあるが。もし、この文章の通りなら、井上馨は完全に騙されていたことになろう(笑)

 まあ、国王王妃がどのような更迭人事をしようが、それは朝鮮国の内政問題だからねえ。以前と違ってこの時の井上に何が言えよう。
 しかし、国王はため息ついとる場合か?w

 斯くて公使井上は、九月十七日を以て帰朝の途に上り、同二十一日、仁川を出帆したり。同公使が仁川を発したる後、宮中と我が公使館の交際は次第に冷却し、一時屡々出入したる宮内官吏は一人とし我公使館の門を伺う者なきに至れり。而して之と同時に宮中より政府に向て漸く攻撃を始めたり。

 さて、怖い井上wが日本に帰ったのを見定めてから、王宮側は政府への攻撃を始めたと。以下、それが列挙される。

 第一の攻撃は、財政に向て為したり。抑々、廿八年度の財政は、度支大臣魚が、顧問官仁尾の意見を聴き、辛うじて之を立てたるものなり。予算に於て歳入総計四百四十六万余円、歳出三百四十万余円、差引剰余金六十六万余円あるべき筈なるに、実際に於て歳入に七十万余円を減じ、歳出予算外に於て[多くは無益の旧兵を再置せし為め]九十余万円を増加したるが為め、差引五十余万円の不足を生ずべき都合なればなり。故に之を整理せんが為め、更に改正予算を議定したるも、宮中の反対強く、竟に国王の裁可を得る能わず。加之、宮中よりは既に前年度に遡て三ヶ月分の経費を強求し、又、度支部の収入中、目覚しきものは一の相談もなく、之を王室財産に組入れ、所謂紅参(朝鮮人参)等より徴する諸税は挙て之を王室財産となし、尚お進んで造幣事業をも之を宮中に属せしんめんと計画したり。
 右等破壊的攻撃に対して政府は、毫も抵抗する能わず。拱手して破壊に任ずるの外なき有様に陥れり。

 朝鮮が立憲君主制の国ならともかく、なんと言っても君主専制の国なんだし、そんな国で君主が専横を始めたら政府は何も出来ないわけであってねえ。まあ日本としても朝鮮の内政問題だし。しかし宮内府顧問官米国人リゼンドルなんぞは、何やってたんでしょうかねえ。少しは王妃の暴走を諫言せねばならんかっただろうにと。

 第二の攻撃は、新制度に向て為したり。是より先、宮中にては既に官吏任免の実権を専握し、各部判任の小吏に至るまで、概ね指令に出でざるはなかりしと、其官制に拘らず、次を越えて進級せしめらるゝに付、内閣より屡々故障を申立つるも、更に聞届られず、又詔勅法令等の天降り多くなり、初の程は内閣に於て之を拒み、或は体裁を改めて副署したるも、宮中は之に満足せず、九月二十九日、遂に宮内大臣の副署を以て勅令第一号[内閣大臣の副署したる勅令は既に五十号なるに拘らず]を発布したり。

 9月29日(韓暦8月11日)の「韓國官報号外」に、その勅令第一号が掲載されている。内容は朝臣の服制についての規定である。総理大臣名の副署なく、宮内府大臣署理李範晋、掌礼院卿趙秉稷が副署した勅令であり、これによって朝鮮には2つの政権が存在しているも同然となる。

 ところで、改革に必要な新制度を法令として制定するために法律顧問官となっていたのが、あの石塚英蔵法制局参事官である。何度か末松謙澄法制局長官の求めにより帰朝辞令がでているが、なおも朝鮮政府に必要な人物ということで、しばらく滞在し続けた。後に末松法制局長官に王妃殺害に関する書簡を出している。もっとも、この書簡にある事件描写は彼の目撃によるものでなく、人からの伝聞情報である。
 かくて、朝鮮の内政改革に寄与した人物としてでなく、事件の目撃者として誤まり伝えられることで有名になったのは、彼にとっても実に不本意なことであろう。

 第三の攻撃は、当路の大臣に向て為したり。今や宮中の勢力は殆ど政府を圧倒し、其手足を堅縛して全く動く能わざるの窮境に陥らしめたるに拘らず、尚お之を弱めんと欲し、十月に入りて、金嘉鎮を罷め、兪吉濬を遠けて義州観察使と為せり。兪は内閣の参謀として有力なれば、宮中より目指す所の焼点に立ちしなり。

 金嘉鎮も兪吉濬も追い出され、残るは金宏集と金允植と魚允中ぐらい。かつての「三履」である。雨天の日に泥道を歩く時にのみ必要な「履物」であり、晴天となって道が乾けば世人は必要としなくなり、その必要だった事は一切忘れて顧みなくなるという存在。やがてまるですっかり履きくずしたかのように、永遠に打ち捨てられる日が迫っている。

 第四の攻撃は、日本将校の訓練したる軍隊に向て為したり。同軍隊は京城に二大隊[八百人]にして訓練隊と称し、朝鮮第一の強兵なり。宮中にては初めより之を嫌忌し、嘗て近衛兵に充てんとの奏請ありしも、国王峻拒、之を許さず、其後洪啓薫を以て連隊長に任じたるも、大隊長以下固より洪の下風に立つものに非ざれば、洪の任命は有名無実なりき。故に宮中に於て訓練隊解散の議起りしは勢の自然なり。

 国王も王妃も家臣を信じない人である。とりわけ兵士を信用していない。まあ、今まで何度もクーデターまがいや暗殺未遂のことがあったのだから無理もないことではある。自国の軍によって王権政権が倒されたり、反対に軍が粛清を受けたりということなどは、世界の古今東西において陳腐な出来事に過ぎない。ここでも、やがて宮中が訓練隊を解散させ将兵を処罰しようとする政略が発覚し、それを機に王城事件が勃発する。

 九月下旬より十月上旬に亘りて、宮中より政府に向いての攻撃は、前述の如く、実に猛烈を極め、恰も洪水の堤防を潰決して市邑田宅を押流さんとする勢あれば、日韓人共に非常の恐懼を懐き、其勢の到る処、如何と憂慮せり。

 では、これらのことを三浦公使は日本政府にどう報告していたろうか。詳細なものはなく、以下のように簡単なものである。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p1)

電受第一〇三二号 明治二十八年十月二日午后三時三十三分発  午后九時二十五分

左の趣意を井上伯に伝えられたし。
宮中の越権は閣下御在韓中より胚胎して時々小事に顕れたりしが、其後益々相募り、目今の勢にては全く内閣を踏み倒して宮中政治と為さゞる以上は止まざる有様なり。此段御承知迄に申進む。
            三浦公使
  西園寺大臣

 この勢いでは、全く内閣政府を踏み倒して宮中政治になるんじゃなかろうかと。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割1 B08090168000」p2)

電受第一〇四四号 明治二十八年十月六日午后五時四五分発   午后七時分着

左の電信を井上公使に伝えられたし。
屯田駅站は政府に協議せずして悉皆王室に引上げ、コウシンも亦王宮に属することに略々決定し、猶又、典圜局の事業も王室にて経営せんとする計画ありと聞けり。「モウス」の採鉱約条は独乙領事の厳しき攻撃に依り、解約の運びに至れりと云う。又鄭秉夏は国王の首尾を損じたりと聞けり。
        三浦公使
 西園寺大臣

 典圜局の事業とは、上記にもある造幣事業のことである。王宮に属する云々は、上記にある「度支部の収入(大蔵省)中、目覚しきものは一の相談もなく、之を王室財産に組入れ」などと符合する。また、ドイツ領事とも何かあったらしい。いろいろと、もう手がつけられないという感じ。

 で、実は朴泳孝処分の頃には既に宮中と露国公使との間に次のような内約束があったという。

 宮中が斯く傍若無人の暴断に出でたるは、今日迄も一の疑問に属すと雖も、窃に探り得たる所によれば、廿八年七月上旬、朴泳孝を処罰せんとしたる際、既に宮中と露公使との間に内約出来たりと聞けり。
 右内約の起りは、閔妃が何卒して日本の干渉を絶ち、政権を宮中に収復し、諸閔を採用せんことを熱望し、其意を近臣に洩したるに、近臣等[李夏榮、李範晋、李允用等]之を露米両公使に謀りしに、露使よりリゼンドルを以て左の意見を内奏したるに在りという。

 一、閔妃と閔族とは一体なり。而して閔族と日本とは歴史上決して相容れざる事。
 二、日韓両国は隣国と称するも、其間に大海を隔てあれば、露韓両国の接壌相隣するに若かず。故に地形より上之を観るときは、日本より露国に親むべき事。
 三、露国は世界の最強国にして、日本の如き之と比較するに足らず。右は広く例証を挙ぐるまでもなく、本春遼東還付一条に就て、其事実を確むるを得べし。
 四、露国は決して朝鮮の独立を害せず、又内政に干渉するを好まず、故に露国に依頼して其保護を仰ぐときは、極めて安全にして、且つ君権は旧に依り充分に施行し得べし。

 約束というものではなく、露国公使ウェベルの意見である。しかし第四の露国に保護を依頼するときは「君権は旧に依り充分に施行し得べし」という言葉は王妃の耳に心地よく響いたろうか。

 右は一二朝鮮人の家報に属すと雖も、其後閔妃は常に人に向て「日本と閔氏とは両立すべきものに非ず。縦令土地の若干を他国に失うとも、日本の仇を復せざる可らず。露西亜は世界の強国にして日本の比に非ず。且つ君権を保護すとの約あれば之れに依頼すべし」と云いたる由、屡々漏れ聞えたる程なれば、該公使の案奏は、蓋し事実なりと信ぜらる。然るに公使井上の再渡の為め、其計画を中止したるに、今は公使既に帰国の途に上りたれば、前年来隠忍し足る宮中即王妃の鬱憤一時に迸発し、事機を失わずして、其目的を達せんとしたるものと推察せられたり。

 確認しておかねばならないのは、王妃は閔一族の人であるということ。
 前年7月23日に閔族のドン閔泳駿を始め一族郎党はことごとく政府から追放された。それをしたのは当時の執権大院君であり、それが出来たのは日本のバックアップがあったからである。
 考えてみれば、閔氏の仇敵である大院君とはもちろん、また日本とも両立できようはずはないのである。日本がどれほど独立国家としてのあり方あり様を説き、改革の必要性を説いたところで、その改革そのものが閔氏の悪徳の栄えwを衰えさせるものでしかないとすれば、王妃がそれを心から肯くはずもない。
 幾度かの井上公使との対談においても、王妃が語ったのは、閔氏こそが開国路線をとり閔氏が開化に導いてきたと、閔族のこれまでの功を認めさせようとするかのような話ばかりであった。実際は閔氏は清に事大しつつ朝鮮国土を恣にすることのみに専念してきたのであり、閔族の振る舞いによってここまで朝鮮は腐敗したのである。かつて金宏集が井上公使との対談で、「我国が近年閔氏の政権を専らにせるより、紀綱紊乱政令正しからずして、無辜の民を害することの甚だ多かりし」と語った通りである。だが、王妃の口からは閔族に代わってそのことに関する反省の弁はなかった。どこまても閔族一色の人なのである。
 寄贈金3百万円も王室の基本財産とはなっても、閔一族には行き渡らない。王妃にとっては、他の強国の保護を受けつつ、内政に君権が振るえる旧態依然たる朝鮮こそが望ましかったのであろう。

 

 

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