日清戦争後の日本と朝鮮(3)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

朝鮮王宮光化門(1906年)

 

 

露国の意向

 騒動の絶えない朝鮮。これには露国も関心を持たずにはおれない。7月11日、東京駐在露国公使ヒトロボーは西園寺外務と次のような対談をした。

(「治28年7月11日から明治28年11月5日」)

明治廿八年七月十一日西園寺外務大臣と露国公使との対話筆記節略

露公使 「近来朝鮮よりの来報に依れば、同国は又々何か騒動を惹起したる様子なり。同国に於ては、到底如此騒動は将来とても絶ゆることなかるべしと思わる。又、日本政府に於ては、今日迄同国内政の改良其他種々の事業に着手せられたれども、未だ終結に至りたるとも見えず。而して朝鮮の事たる、貴我両国に大なる関係を有するにも拘わらず、同国の独立は名実共に侵害せずとの証言ありたる外、別に御協議に与りたることなし。就ては、本件に関しては、何れ何とか貴国政府に於ても、始末を付けざるを得ざることなるべければ、将来、貴我両国間の衝突を避くる為め、予め意見を交換し置く方、両国に取り極めて有益なりと信ず。本使より申迄もなく、朝鮮政府の言行に付ては、毫も信を置くに足らず。例えば今日は日本に対し其軍隊を留置くことを請求すべけれども、明日は其撤去を請求することなきを保し難し。若し如此事あるに当らば、露国は勢い朝鮮政府の請求を賛成せざるを得ざるべし。如此朝鮮政府の言行は、朝夕に変更し得べきものなるに因り、利害の関係最も大なる貴我両国に於て其処分に関し、意見を交換し置くこと必要と信ず。右は固より本国政府より訓令を受けたる訳にもあらず。全く本使一己の意見なれども、若し御同意なれば、本使より本国政府に上申し、其地歩を作るも、敢て妨げなし」

大臣 「唯今閣下より御陳述の件に付ては、本大臣とても未だ公けの資格を以て御話し致す地位にあらざれども、閣下の御厚意に対しては本大臣の深く謝する所なり。閣下も承知せらるゝ通り、帝国政府は従来朝鮮国の独立を企画するの外、毫も他意あるにあらず。昨年来、殊に其内政の改良に着手したるも全く其れが為めのみ。就ては朝鮮の国情が之を許す以上は、成る可く速かに手を引き度考なり」

露公使 「日本政府に於て朝鮮より手を引かるゝことに付ては露国政府に於ては固より異議なかるべし。然れども、本使の所見に依れば、朝鮮国の改良は甚だ困難なる事業にして、例えば今回の如き事件も、将来尚お幾回起るべきや実に予知し難き所なり。故に此等の事変に応ずるが為め、本使、又は西公使を経て、貴我両国間に於て予め意見を交換し置くこと極めて有益なりと信ず」

大臣 「前にも申述べたる通り、本件に関しては未だ帝国政府の意向を表示する地位にあらずと雖ども、若し貴国に於て御冀望の点を聴き、貴我両国間に於て意見を交換すべき時機到来するに於ては、本大臣は喜んで之を交換すべし」

露公使 「露国大体の冀望に付て、陸奥子爵迄陳べたることもあるが如く、露国は太平洋に向い常に閉鎖の地位を持つことを好まざるは、今更申迄もなし。又、此地の点に付ても尚お貴国と御協議を要すべきことあるべしと思惟するに因り、互に意見を交換するの必要ありと信ず」

大臣 「閣下の好意は本大臣の深謝する所なり。本件に関し尚熟考すべし」

 ヒトロボー曰く。「将来、貴我両国間の衝突を避くる為め、予め意見を交換し置く方、両国に取り極めて有益なりと信ず」と。
 三国干渉により日本の譲歩を引き出した露国は、朝鮮のことでもう日本と衝突する意向もあることを隠さないという感じ。

 7月31日、ヒトロボー公使は露国政府の正式の宣言を日本政府に告げた。

(「治28年7月11日から明治28年11月5日」p10より抜粋)

千八百九十五年七月三十一日 露国公使、外務省へ出頭し、露国政府の訓令に依り左の件を西園寺侯に宣言せり。

 今や朝鮮の事態静謐に帰したるが如し。而し朝鮮国王は必要の改革を行わんと欲するの意嚮あり。然れども朝鮮国王は日本国官吏の干渉の為め、臣下に対し其の威権の減殺せられんことを恐る。依之露西亜帝国政府は、曩きに朝鮮の名実共に独立たることに関し、日本帝国政府より与えられたる宣言に付、其の注意を促し、且つ日本国政府に於て其の行為を前記の宣言と符号せしめられんことを希望す。
(以下略)

 日本の朝鮮内政への干渉を注意する、という位の事か。しかし、警告とも受け取れるものでもあろう。

 すでに日本政府は、朝鮮独立の維持を日本単独で責任を負うことを放棄し、その干渉も止めることに方針は決している。井上馨が、かつてのように強力な指導を朝鮮政府に行うことがなくなったのも、それが理由であったと思われる。
 ただ、そのことが果して日本人全般にも共通の認識としてあったかというと、まったく疑問である。否むしろ露国への対抗心はいやが上にも高まり、朝鮮が露国になびくことは許されないことであると見ていたと思われる。


露国への朝鮮密使事件

 そんな中、朝鮮政府が露国に密使を送ったという情報が駆け巡った。

(「朝鮮密使権東寿浦塩ヘ渡航一件」p3)

機密受第六九〇号  廿八年八月六日接受

 機密第十号
    朝鮮密使来浦の件

 頃日、朝鮮一官吏、陸路露領に入り「ポシエット」より当港え密航候趣聞及候に付、其何処より何の為めに来港せしや、彼是穿鑿致候得共、極めて秘密を守り、如何程捜索を凝らすも、乍遺憾更に其要領を得ざるのみならず、姓名さえも秘して告げず。然るに最初当港来着の節、当市警察署長出迎の上、丁寧の待遇を為し、特に支庁の客室を以て其寓居に充てたるに、彼れ爾来閉居肯て外出せず。依て察するに右官吏の来港は最初より談合する所あるものにして、決して地方官吏等の漫遊が間敷事にあらざるは瞭然に有之、殊に同人は密書を齎らし来り、之を沿海州軍務知事に致せりと云い、又軍務知事は両三日前、突然黒龍沿道総督所在地「ハゞロフスク」府え出発相成候処、其用向きは全く右朝鮮官吏来港の為めにて、彼れは知事より報答に接せば直に帰途に就くべしとの内報も有之。而して該官吏の身柄等に就き暗々捜り得たる所に拠れば、官位顕著なる人物の様にも被想、又今より三週日前、京城より当地に向て発足せし縉紳ありとの風説を耳にし在れば、露領「ポシエット」を陸行せしものと做し、日数を繰れば丁度其風説に符号するが如く、畢竟同人の渡来は枢要の事件を委任せられたる密使にして、或は夫の王妃及露公使「ウエーバー」氏等の共謀へ出でたる陰険手段の端緒にてもあるに非らざる哉、余り漠然の報告にして隔靴掻痒の嫌を免れず候得共、曩者朝鮮内閣に波瀾起り、朴泳孝等逃亡の事あり、或は御参照の一助にも可相成哉と存候に付、前顕探知の侭、不取敢及報告候。  敬具。

  明治廿八年七月廿六日
    在浦潮港
    貿易事務官 二橋 謙

 外務次官 原 敬殿

二伸  本件は時節柄或は参考とも可相成と存じ、便宜私信を以て、井上公使閣下迄及内報置候。此談申添候也。

 日本政府は直ちに京城の井上公使にこれを連絡。井上も既にウラジオストックの二橋事務官から同様の報告を受けていた。

(同p9)

電受第九三五号 明治二十八年八月九日午后二時五五分発 明治二十八年八月十日午前十時一〇分着

 去る六日発貴電の義は、過日、本官内謁見の時、国王王妃より、先般、洪鐘宇、権東寿等、浦塩へ赴きしことは、甚だ気懸りに付、同港の我貿易事務官にも申遣し、其挙動を注意せしめ呉れ候様に、と依頼ありしに付、本官は深く注意を加え、若し王室より遣わしたるものにあらざるかと疑い、裏表より確たるに、国王は、右は断じて王室より遣わされたるものにあらず。本年春、内閣に於て新旧両派の衝突起りしとき、旧派より窃かに之を送りたるやの疑いあり、と申されたり。
 右に付、内々其出所取調中なり。尚お二橋よりは当館へも同様の報告、一昨日七日に達せり。

            井上公使
  西園寺大臣

 この文章では、最初に国王王妃の方から打ち明けたのか、7日の二橋貿易事務官から報告を受けて井上が謁見して尋ねたから国王王妃が話したのかが判然としない。
 洪鐘宇はかつて金玉均を暗殺した者であり、権東寿は、同時期に東京在住の朴泳孝を暗殺しようとして失敗した人物である。
 なお、「本年春、内閣に於て新旧両派の衝突起りしとき」とは、この頃の事を指すのであろう。
 いずれにしろ、確かめねばならないことである。なにせ、ヒトロボー露国公使も言っているように、「朝鮮政府の言行に付ては、毫も信を置くに足らず」なのだから。
 嘘がまん延する国。これが朝鮮であり、今日に至っても、その傾向は顕著であるという。

 追って日本政府は8月10日に以下のような訓令を井上に発した。

(同p7)

明治廿八年八月十日発遣  機密送第五五号

井上公使         外務大臣

  朝鮮密使露領裏潮港に来着の件

 朝鮮の一官吏、同国政府の密旨を帯び、露領浦潮港に来り沿海州軍務知事と密議する所ありたりとの事に関し、在同港二橋貿易事務官より、別紙の通り報告有之候。右は同官より閣下に直接に及通報置候旨、申添来候に付、最早御承知の義とは存候え共、右に付ては、在元山領事よりの報告にも有之。或は事実なるが如く被存候に付、充分探偵の上、若し果して事実に相違無之候わば、朝鮮政府に対して、相当の処分を為すの必要可有之と存候間、不取敢去る七日付電信を以て、右の趣申進置候。猶、本件に関しては充分御注意有之度、此段申進候也。敬具。

 もし事実であるとするなら、朝鮮政府に対して相当の処分をする必要があるというのである。もちろん、300万円を恵与する話など吹っ飛ぼう。

 だが、この密使は偽者であり、露官に提出した「朝鮮の安寧を謀り、日本兵をして退韓せしむる為め、露政府より出兵を仰がん」と書いた密書も偽造であることが後に判明したらしい。
 そのことを二橋貿易官事務官が報告したのは10月7日。それが日本政府に届いたのは10月15日であった。

 

三浦梧樓

 さて、明治28年7月19日、三浦梧樓は特命全権公使に任じられた。(「三浦梧樓」の履歴より レファレンスコード A06051175400 )
 その三浦梧樓に対し、京城の井上馨は以下のような電文を発している。

(「明治28年7月12日から明治28年8月12日」p29)

電受第九一七号  廿八年七月廿九日午后二時五十分発 三十日午后七時十四分着

 左の電信を三浦氏に伝えられたし。

 新聞紙上に、柴四郎は朴泳孝と会合し懇話せし旨記載あり。朴氏は国王に様々のことを奏上したれり。故に今同氏と会することは王妃に対する関係もあり、宜しからざるに付、閣下より柴氏に御注意の上、会合せざる様致すべし。
           京城 井上公使
  西園寺外務大臣

 気になる電文である。柴四郎とは、あの柴五郎の兄であり、明治27年の帝国議会で伊藤総理の条約改正の演説に対し、「朝鮮が怖い位ではとても出来ない」と野次った人である。おそらく柴四郎は、朴泳孝が王妃と露国公使のことを縷々述べるのを聞いたはず。

 さて、三浦梧樓の考えや人柄までが窺える公文がある。以下のものである。

(「治28年7月11日から明治28年11月5日」p12、()は筆者)

   対韓政策の訓令を待つ
                (三浦)梧樓

 元、身を戎馬の間に委し、外交の術を識らず。又久しく閑散の地に居り、世界列国政治の趨勢に疎じ、然るに今般、身、自から計らず政治家の最も難局と為す所の朝鮮に職を奉じて駐箚し、内は韓国の大改革を負担し、外は列国の外交家と競争せんとするは、任重く責大に私かに寒心する所なり。曾て聞く。久しく漢城に駐在する一我外交官は客に語て曰く。我政府、公使を更迭する頻繁なり。而して新公使の来る毎に各自互に其執る所の方針を異にするを以て、予が如きは徒に前年施行せしものを、再三再四復習するに過ぎず。豈に充分の成功を望むべけんや。嘆息に堪えざるなりと。
 此言恐らく従前我対韓策の不確定の証言に非らざるなきや。想うに、我公使の効を挙ぐる能わざりしは、京城に派遣する其人に乏しかりしに非らずして、国是未定の為め、対韓策なる堤防は随て築き随て休し随て破れ随て復し、実に前年の事業を復習するが如き外観を呈するに非るなきや。
 然れども、外交に熟練なる井上伯の如き内外の名望を有せしめば外交の妙なる臨機応変能く機会に投じ、国威と利益とを保全することを得べきも、梧樓の如き才疎に識浅く外交に経験なきものは、帝国の確乎たる対韓の国是を奉じ、其方針に卒由するにあらざれば、恰も航海に羅針なく、暗夜に月星なきが如く危険謂うべからず。況んや航路の彼岸を知らず、徒らに風位に随うて漂流するは、長く堪ゆる所に非らざるのみならず、遂に不測の禍に沈まんに於ておや。
 若し夫れ征清の役前の如く清国との交渉のみならしめば、遷延数年を経過し、前途の方向を定めず、暫らく晴雨を窺い、風位に随うて動揺するも、猶お能く禍を転じて幸となすことを得んも、去歳戦勝以来、天下の耳目、頻に一変し、帝国の勢力を猜忌するもの日に多きを加え、殊に清国を凌駕する一大強国の朝鮮の内政に干渉し、一着を誤れば、挽回其期なき恐るべき潜勢力顕われ来らんとし、東洋戦雲の余風、欧州に波及し、風雨陰晴とし難く天候寧ろ雲脚の将さに急ならんとするを予期すべきの形勢なりと。
 果して然らば風雨の失馳を見るべきは、鶏林半島たるは火を観るよりも明かなり。故に予め三条を陳列して、以て将来の訓令を乞う所以なり。願くば更に審議して不抜の対韓方針を国是と定められんことを。

第一条 去歳征清の主義に則り、朝鮮を同盟の独立王国と認定し、将来我が独力にて全国の防禦及改革を負担するの責に任ずる方針を執るべきや。

第二条 我が独力にて朝鮮独立改良の責務を避け、又保護及占領の雄心を抑制し、欧米列国の公平なるものと相謀り、共同保護の独立国となすの方針を執るべきや。

第三条 早晩必らず一二強国と紛擾を生ずべきは、最も観易き趨勢なれば、大難事の起こらざる今日、寧ろ断然決意、一強国と高麗半島を分割占領の方針を執るべきや。

 右三条中、第一は最も公明正大の方策なれども、難中の難事にして、将来内外より困難蝟集し、幾多の人力と金力とを消費し、恩威並び行わしむるには、長日月の光陰を要し、殊に一二強国と早晩干戈を交ゆるの決心なからざるべからず[然れども、我堪忍全力を始終一貫して注射する数年ならば、朝鮮は我保護の下に属するの結果を呈し、又天下に対し好辞柄ならんか]

 第二条の政策や、利益と責任を関係の各国に分ち、偏に強国の兼併蚕食を防禦するの意旨を明にせば、易々たる事業なるべし。若し此方針を採らんには、今日に於て外人に先だって他日我国人の利益を獲取る易き準備を務め置くこと最も専一なるべし。

 第三条の如く決心せば、暫らく朝鮮の万事に鋒芒(鋩)を修め、協議の熟するや疾雷耳を掩うの策に出ざるべからず。他国を兼併するは好辞柄の下の掠奪なれば、占領後の勢に随え、或は威迫し或は恵恤すべきのみ[想うに今日は露に北方の不凍港或は咸鏡道位を与うれば満足すべきか]。

 梧樓既に難局を顧みず命を彼地に奉ぜんと決心したれば、政府の方策、孰れに定まるも元より茲に容喙せんとするに非らず。但、前三条の決定如何に由りて恩恵的脅迫的及黙従的政策の必要起り、寛猛緩急皆之に準拠して定むるの外なしと確信せり。
 故に要略を書して以て教を待つ。猶お尽さゞる所のものは、更に口頭を以て陳弁する所あるべし。再拝。

 三浦梧樓のこの文書には日付は書かれていない。「日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊」の該当文書では、三浦梧樓公使が朝鮮公使として発令された日付8月17日が仮の日付として記載されてあるが、日本政府がすでに対韓政策を決定したのは5月25日である。三浦がそれを知ってか知らずかは定かではないが、知ってて敢えて出した三ヶ条とするなら、随分と変な人である。もっとも、先の朝鮮密使事件のことも含めた所見なのかもしれない。しかしまあ、明治政府の一貫した朝鮮への外交の歴史の中では、この人物は異色と言わざるを得ない。なにか旧自由党的な、またかつての青木周蔵の雰囲気に通じるものもあるように感じられる。

 三浦梧樓はかつてあの長州奇兵隊士であり、明治3年に兵部権少丞、明治4年陸軍大佐その後陸軍少将、明治10年の西南の役では功労を挙げ、明治11年には陸軍中将となっている。明治15年には陸軍士官学校長、明治16年には大山陸軍卿随行で欧州に滞在し、明治17年には華族に列せられ、明治21年に学習院長、明治25年、改宮内高等官官等一等となっている。政治畑の人ではなく明らかに軍人である。なぜ彼が京城駐箚公使となったかの理由はよく分らない。一説には井上馨が推薦したとも言われているが、そのことを記述した史料を見ないので真偽は分らない。もとより彼が志願したわけでもないことは上の文章で知れるであろう。

 前任公使井上馨こそ明治政府の重鎮中の重鎮であるが、その井上が公使を勤めた後である。陸軍中将にして元学習院長、そして宮内庁の一等高官にして華族という地位こそが、選定の理由なのかもしれない。

 

王妃が語る日朝の歴史

 さて、井上馨が発案して、7月1日に閣議に提出された案件のうち、「公債の事」の項目で、朝鮮政府に貸与する300万円とは別に、相当の金額を寄贈するという件のことである。これは7月11日付発遣にあるように、「金額大約300万円を朝鮮政府に恵与し、これを以って永久記念となるべき事業を起させる事」に閣議決定している。ただし、議会の協賛を必要とすると。当然、予算外のことであるから議会の承認が必要である。

 で、井上馨は何度も国王王妃に謁見して会談を重ねた。以下のものはそれらをまとめた報告書である。
 そこでは、井上馨が公使として赴任して以来の経緯の大要を述べ、また王妃は日朝間のこれまでの歴史を述べるなど、興味深い内容となっている。少々長いが是非読んで見られたい。

(「韓国借款関係雑纂 第二巻 5.寄贈金ノ件」p2より、()は筆者。また、太字は原文では傍点の部分である)

廿八年八月十九日接受

機密発第七九号

  本官謁見顛末并寄贈金之儀に付内申

 本官、帰任已来朝鮮大君主陛下に三度の内謁見を遂げ、何卒両陛下の真意を探り得んことを務め、并帝国政府誠意の所在を縷々陳述し[常に謁見の時は対話五時間已上に及べり]、且其外両陛下に信用ある韓官某を中間に立て、予め両陛下の疑念あらば、一も包蔵するなく忌憚なく吐露せらるゝ様との情意を通じ、務めて両陛下の懐かれたる御惑を霽さんことに尽力致候。其大要は、本官より両陛下に向い、

 「昨年本使は我天皇陛下より貴国独立の基礎を鞏固ならしむることに尽力す可き旨の内諭を奉じ、赴任已来、屡々大君主陛下へ内謁見を遂げ、又内閣諸大臣にも面会して内政改革の規模を相立てんことを勧告致し、終に二十ヶ条の建議を内奏し、其末王妃の政事にに容喙せられたる弊を論じ、過激にも之を下戻し、忠告は口を閉んことを申出たり。然るに陛下は強て下付を拒まれ、内閣大臣等は誓約を記載し来り、纔に其結末無事を告るに至り、爾後、事々物々に忠実に勧告を務めたりしは、両陛下御記憶あるならん。而して貴国には古来より私党軋轢の弊習ありて、各々自家の党勢を張らんが為め、猜疑離間、其間に行われ、改革の実行は姑く舍き、諸大臣は其心を安じて政務に従う能わざる有様なる故、本使は深く立入りて其弊習を矯正せんと試み、多少政事上にも干渉を為したり。然るに又一方には本使の干渉過強にして、恰も一国に二人の主権者ある姿なりとて、陰々之を攻撃し、或は之を両陛下に讒言したる者有之て、両陛下にも一時之を迷われたるやに致漏聞候に付、本使は斯の如き有様にては、本使の忠言は却て貴国の悪感情を惹起し、両国の交際の妨害あらんことを恐れ、暫く手を引き傍観の姿に任せ置たるは、両陛下にも御記憶の事と存候。然るに本使が忠告干渉を扣えたる結果如何と云うに、政府内党派の軋轢はいやが上にも甚敷、内閣員は一日寧処する能わず。転じて大君主の大権と内閣が主張する権限并に各大臣間の権限に互に衝突を起すに至れり。故に今日は幾分か旧状へ立戻り、内政改革の目的を遂ぐるを得ず。随て、天皇陛下の思召を達するを得ざるに付、本使は実に憂慮に堪えざるなり。本使熟慮するに、今日迄の如く両陛下を初め貴国諸大臣が、我政府に向て御信用なくては、我天皇陛下の希望せらるゝ内政改革も独立の鞏固も、到底行わる可き道理なきに因り、此際先ず両陛下の思召を慥めたる上、将来忠実に勧告を試むる歟、又は傍観の地に立つ歟、の所見を定むるを必要と存ぜり。就ては、両陛下が本使が是迄貴国に対したる行為に付て、御疑惑の廉有之候わば、何卒御腹蔵なく御申聞相成候様致度、左候わば、逐一拝聴の上、弁明す可きは之を弁明し、事情に暗き所は謹んで拝聴し、然後、本使の意見を具陳す可し」

と奏上したる処、国王王妃には、明治の初めより今日に至る迄の日韓交渉の事歴を詳述し、且つ明治十七年変乱の始末、防穀の談判、并昨年我兵、王宮に侵入したる件に付疑惑を懐かれたる廉々、具さに申述られたり。而して其中、王妃の申述べられたる要領を摘めば、

 「今より二十四五年前、貴政府は森山茂氏を釜山港に派し、国書を当時の東莱府使鄭顕徳へ致し、転達を求めたるに付、同府使は之を京城に伝達したりしに、恰も大院君執政の時なれば、同君は専ら斥和説を主張し、文体例に背くと云うを辞柄とし、同府使をして其国書を返却せしめたり。東莱府使は其命を奉じたるも、之を達する能わず。国書をば自分の手許に預り、政府に向ては日本使節は国書の旧例に違うを詰責せられ、辞窮し国書を撤回して帰国したりと報告せしかば、大院君大に悦び甚だ得色ありし。然るに当時閔升鎬[閔致禄の養子にして王妃の義兄に当れり]は、若し国書を拒絶する時は必ず日本の怒を招き、後害を醸すのみならす、日朝は唇歯の国柄にして、相共に提携せざれば、将来開明に導く能わざることを察し、之を内奏し、大院君の兄李最應と謀り、窃に今の総理朴定陽を釜山に派し、其形勢を観察せしめたる処、大院君は之を探知し、売国の奴と称し、右両人を殺せり[閔は明治六年に、李は十五年に并殺る]。其後、閔奎鎬、世道(勢)と為り、閔升鎬の養子閔昌植、之を輔翼し、養父の遺志を継ぎ、明治九年中、日本と講和し、専ら開国説を執りし処、大院君窃に之を嫌悪し、壬午の年[即明治十五年]、兵隊を扇動して乱を興し、王宮を囲み、自身を廃せんと謀りし上、右の閔昌植、閔鎌鎬(閔謙鎬)其他数人を殺し、且日本公使を遂い、同館を焼払いたりし。当時自身は常人婦の服に変粧し、辛らくして乱を忠州に避けたりしが、大院君は、死去と声言し、国中に令し、喪を発せしめたり。当時閔泳翊等、国難を憂い、趙寧夏等と謀り、窃に在馬山浦なる清艦に赴き、馬建忠、丁汝昌等に密告し、大院君を制せんことを依頼したるに因り、同君は終に清国に拘留せらるゝ身となれり。是に於て自身は再び宮中に還るを得たり。其後、金玉均、朴泳孝の徒、相団結して開化党又は日本党と称し、閔氏を攻撃し、終に不幸にも甲申[明治十七年]冬の変乱と為り、而して金朴等は専ら当時、日本公使に依頼し、日本党を以て目せられたり。降て昨年、王宮の変乱に及んでは、意外にも日本兵は嘗て初発より日本を敵視したる大院君を推して王宮に入れ、再び政権を執り、大君主は虚位を保つのみに至れり。其後、貴公使の尽力に依て、大院君は政権を離れ、旧体に復せられたりと雖ども、尋で官制を設定し、之に従て内閣を組織したるに及んでは、内閣の権力は常に君主を圧制し、凡百の政務は内閣の専権と一変し、君主は唯其相聞に従て裁可を与えざるを得ざるに至りたるは、実に此頃までの有様なりき。要するに日本と相提携せんとしたる閔氏は、却て日本より斥けられ、而して嘗て日本を擯斥したる大院君は、却て日本公使の為めに推されたる如きは、遺憾の次第なり云々」

に付、本官は之に向て一々弁明を加え、両陛下の御疑惑を解きたる後、我天皇陛下并政府の誠意誠心、飽迄、朝鮮の独立を鞏固ならしむると同時に、王室の安全を図るに在れば、今後、王室に対し朝鮮の王族臣民にて不軌を図るものあるときは、日本政府は兵力を以ても王室を保護して貴国の無事安寧を謀るべきに付御安心遊ばす可し、と断言したる処、此の一言は著く両陛下に感動を与えたる様子にて、御安心の色、外に顕われ候。
 此頃、恰も朴泳孝は日本人よりも信用を失し足を止むる能ざるに付米国に赴くとの事、朝鮮公使より電報ありたるに因り、益々安心せられ、本官の申出は一々信用して聴入れらるゝ様推察候に付、本官は兼て御内話に及び候通り、脈搏の善き頃合を見計い暗に、

 「我政府は、昨年兵乱の為め貴国平安、黄海、忠清の各道、戦地となり秋獲減少、政府の財政困難の一因と為り、且王室財計の基礎、鞏固ならざるを深く慮り、実は内々に寄贈金の詮議に及び、本年秋開かる可き臨時議会に之を提出する運に成居れり、との意味を示し、且右の詮議に及びたるは、全く本使は先般帰朝して、貴国王室の屡々混雑を生ぜし原因及び内情、王妃の賢明、并に是まで不幸に遭遇せられし次第、其他各党派の怨恨を懐き、復讐的政治を為すの現情等の真相を、天皇陛下に奏上し并に政府諸大臣に説明したる結果なり」

と陳奏したる処、両陛下は、

 「貴公使の誠意を以て我国の真相貫通し、天皇陛下并貴政府は斯くまで我国の事を思わるゝや」

と、且喜悦し且安心せられたる様子にて、一回は一回よりも打解けられ、是迄秘し置かれたる俄国との関係も、追々相洩され、将来、本官の陳奏する事は、必ず確守す可しと明言せらるゝに立至候に付、是にて両陛下が帝国政府に対せらるゝ御疑惑は、漸く霧散し、随て本官に対する御疑惑も相霽れたる者と被推察候。
 尤も、両陛下は常に深宮に存して、左右近侍には群少の雑人多く、機に投じ、折に触れて浮説を進め、両陛下を蠱惑するの恐あれば、本官嘗て明言せし如く、今日の状態を永く持続せんことは何分保証難致候得共、積日の尽力にて斯くまでに内情を打明かし、将来本官の言を確守す可しと、明言せられたる程なれば、よもや俄に変心相成る可しとも思われず。
 依て這般、本官の帰任したる目的に向ては、一段落相付きたる姿に有之候間、一先御安心相成度候。

 就ては、先般帰朝中、閣議内定の上、本官へ御訓令相成りたる、金円寄贈の事は、愈前議の通り相運び候様致度、且又、本官の意見書には、弐百万円乃至三百万円と申立候得共、実際三百万円なければ、将来の割振り方、不充分なるのみならず、其金高も三百万円と内密に昨日謁見の節、両陛下に相洩候に付き、必ず三百万円と相取極相成度、然るに右寄贈の名義、其当を得ざる時は、俄国を始め他の各国は必ず疑議を其間に容れ、外交上に面白からざる影響を来すやの恐れ有之候に付、名義の選択方に付、充分御詮議相成度、本官の考にては、別紙案文の趣意にて可然と存候。将又、該寄贈金の使用方法に付、本官は左の意見を有し居候間、愈々寄贈の際には、条件として王宮及政府と内約致置き可申考に御座候。

一 凡、二百万円
 右は京城仁川間に於ける鉄道建築に使用す可し。同金高の内、百万円を以て王室所属の株金と為す可し。同事業は固より朝鮮政府に属すと雖ども、其建築には我技師主たる職工且入用の材料中多くは我国より仰ぐ可し。尤も、木石材料は当国品を用い、人夫も可成丈当国人民を使用せしむべし。練化石の如きも亦、之を同国内にて製造せしむる考なり。

一 凡、五拾万円
 右は当年度及び来年三月迄の政府経費の不足を補充す可し。

一 五拾万円
 王室財産に宛て、殖利の方法に従い、永久に之を保存する方法を設く可し。

一 前掲鉄道建築費を元資として兌換紙幣を発行し、同時に機関銀行を創立せしめ、何時にても交換する厳重なる制度を立て、以て紙幣の流通を図らしめざるを得ず。国内に於ける物品買入并賃金等は、総て紙幣にて支払わしめ、自ら紙幣流通の端緒を開くに至る可し。然るときは、弐百万円の元資を以て少くも弐百六十万円[三割増し]の紙幣を発行するを得可し。

一 日本銀行より借入れたる三百万円の高をば、返済期限を十五年乃至二十年の年賦に延期する事。

一 客年、我軍隊にて架設したる仁川より京城を経て釜山に達する電線は、児玉陸軍次官より聞く所に拠れば、其架設費十四万円乃至十五万円の由に付、之に雑費を加算し、概算二十万円として別に貸金と為す可し。

 右寄贈処分に関し、本官の意見概略御承知までに申進候。要するに日韓両国の交情を親密にし、之を悦服せしめんとするには、所謂「一日暖之、十日寒之」の愚を学ぶを相避け、時々之を冷却せざらんことに注意し、時機あらば之に投じて交縁を深くする様、特に注意し、六七年間平和を維持する専要に存候に付、寄贈金の儀は、幾重にも詮議を尽され、臨時国会には必ず御提出相成候様致度候。

 右及内申候也。

 明治二十八年八月六日

 王妃の結論としては、開化の反対者であった大院君が日本によって後押しされているのは遺憾である、ということだが、縷々語ったその歴史が分りやすい。まさに大院君と閔族の積年の争闘でもあったと。

 また、「専ら開国説を執りし処、大院君窃に之を嫌悪し、壬午の年[即明治十五年]、兵隊を扇動して乱を興し、王宮を囲み、自身を廃せんと謀りし上、右の閔昌植、閔鎌鎬(閔謙鎬)其他数人を殺し、且日本公使を遂い、同館を焼払いたりし」と。

 あらら、王妃自身がはっきりと明治15年の壬午事変は、大院君が開国を嫌悪して起こした乱である、とはっきり申しておりますが。つまりは「大院君の乱」であったと。
 未だに解説書やWebでも、やれ、日本のせいで米価が高騰したから軍が乱を起しただの、やれ、日本指導の別技軍との差別待遇に怒って旧軍が乱を起しただの、と言われていますが、ここでの、当時殺害されかかった直接の事件被害者である王妃閔氏の証言をどうしましょ(笑)
 実際、事変関連の史資料を丹念に読んでいけば、明治15年朝鮮事変は、王妃の言葉と同じ結論となるのは当然なんですがねえ。

 さて、「是迄秘し置かれたる俄国との関係も、追々相洩され」などとあって、国王王妃が井上馨とある程度信頼関係が出来ている様子が窺える。このことは国王が後々まで口にすることであって、例えば、第二次日韓協約に関連して伊藤特派大使に対し、こう述べている。

陛下 「去る二十七八年、日清交戦の際に当って、井上伯、公使として我国に駐箚するや、朕、其指導に俟つ所、極めて多大なりしなり。然るに其任を離るるや、未だ旬日ならずして実に言うべからず我国に最も哀むべく、又日韓交誼に障碍を与うる所の不幸なる出来事を演ぜり。想うに、若し井上伯にして尚お、任に此地に駐まりしならんには、如此兇変を見るに至らずして、両国の関係は依然親交を敦うして今日に推移したりしならん。・・・・」(「日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)」の「10 伊藤特派大使遣韓ノ件」四九九頁より)

ここでの「不幸なる出来事」とは勿論、王妃殺害の件である。もし井上馨が引続いて朝鮮の地にあれば、このような兇変はなかっただろう、というのである。
 その通りであったろう。
 ちなみに、彼は言葉を続けて次のように述べている。
「・・・・勿論兇行の張本は朕が侍臣及雑輩に由って醸成せられたりと雖も、彼輩は専ら日本の勢力を恃んで、以て行いたるは事実疑うべくもあらず。想うて此に至れば転た慨然たらざるを得ず。然れども事已往に属す。今之を反復するも益なし」
と。

 

3百万円寄贈金問題

 さて、上記8月6日付け井上馨の「寄贈金之儀に付内申」の件にあるように、寄贈金のことは国王王妃に、金額まで言って確定した事のように述べたわけである。
 また以下のように、その際の朝鮮政府に宛てての「寄贈の言葉」案も日本政府に提出している。

(「韓国借款関係雑纂 第二巻 5.寄贈金ノ件」p12)

 以書柬致啓上候陳者上年、日清両帝国の間に興りたる貴国独立の問題より施て、同両国の開戦と為り、之が為めに貴国平安黄海忠清諸道の内、或は両兵交戦の場と為り、或は兵馬往来の衢と為り、其衝に当りし市邑概ね居民は離散し、田野は顧られず遂に秋穫の時機を失い、加之南道各地亢旱の災、東徒の乱ありて、政府収入減縮し、財政の困蹙を致したるは、帝国政府の深く之を明察して均く痛苦を感ずる所に有之候。今や日清両帝国の和議既に調い、貴国独立の問題確定したりと雖ども、兵乱の余弊未だ回癒せず。政府財政の基礎未だ立たざるが如し。
 依て帝国政府は、目下貴国困難の事情を洞察し、謹んで茲に我大皇帝陛下の諭旨を奉じ、日本銀貨参百万円を貴国政府に寄贈し、聊か其損傷を填補する費途に充てんと欲す。唯同寄贈金は前陳の趣旨に出でたるに付、願くば之を以て、貴王室財計の基礎と為し、且以て国家有利の事業に投じ、上下の便益を図らんこと、帝国政府の深く希望する所に有之候。
 依之特茲に照会得貴意候。 敬具

  年 月 日
          大日本帝国外務大臣
  大朝鮮国外部大臣   閣下   

 意訳すれば、
「朝鮮独立の問題の事ではあるが、地域が日清両国の交戦の場となったために、居民は離散し、田畑は顧られずに収穫の時期を失い、さらに南部は旱魃であって、その上、東学党の乱もあって、いよいよ政府の収入は減縮し、財政は困難なものとなった。日本政府もこれを苦痛に思い、今や日清両国は和議も調ったことから、朝鮮国の困難を思い、ここに日本銀貨3百万円を寄贈し、その損傷を補填する費用にあてられることを願う。ただこの寄贈金は、願わくは王室の財政の基礎とし、国家有利の事業に投じて便宜を図られたい」と。

ところがその後、日本政府から寄贈金に関する返事が来ない。で、井上公使は、8月29日に西園寺外務宛に電文を送って確認を求めた。

(「韓国借款関係雑纂 第二巻 5.寄贈金ノ件」p15、英文意訳)

95年8月29日 1時5分p.m.発  5時30分p.m.着

西園寺 東京

 185号。
 8月9日(6日)付けの機密第79号信で提案の3百万円は、必ず寄贈されねばならない。この金円については、すでに閣下の訓令あって、本官は国王との会談をなし、そのことは日本政府もよく理解されてのことと存ずる。たとえ大蔵大臣が交替しても、この件に変わりはなく、上位の取極めであるという事実に注意を促すべきである。つまりは政府がどう変わろうとも、このことは閣下の訓令と本官の電報184号と共に記憶されねばなならない。
                                                  井上

 電文184号というのが不明であるが、8月22日発の、貸与金返済方法を20ヶ年に改めたことに関する電文の事かもしれない。

 ところが、9月に入って以下のような返事が到着。

(同、p16)

電送六七三号 明治廿八年九月四日 発午後四時

 左の通り井上公使に伝えよ。

 二人の公使駐箚することは、例規も無く、外国公使等の批評もあれば、可成速かに館務の引継ぎ了り帰朝せられんことを望む。電信一八五号のことは、臨時議会召集せざることに決したる上は、今ま確答に及び難し。

 右、総理大臣とも協議の上発電す。

         西園寺大臣
京城 三浦公使

 で、少々頭にきた井上は次のように返電。また三浦公使も電報。同時刻発である。

(同、p17)

 電受第九八九号 明治二十八年九月四日午后七時五五分発  午后十時十分着

 三浦公使を以て伝えられたる電報、唯今領収せり。電第一八五号の事は、貴大臣訓令に依り、已に国王并に政府へ内話に及びたるの今日に於て、右に関し確答し難しとの命令は、如何に処分してよろしきや。迷惑千万なり。
 右談話、訓令に依り中止す。回答を待つ。開陳(欄外[換言ならん])すれば、三浦公使は内政に一言することも得ざるべし。此侭放任して宜敷きの意にや。至急指揮を乞う。又、二人公使駐箚するは例規なければ速に帰朝すべしと。昨日謁見も済み、解任状も呈上したれば、馨は駐在の朝鮮公使に非ず。一の私人も同様なり。唯訓令の事柄抔に付、事情あり、又新任公使に事情を篤と知らしめ置くことも夥多あればこそ、今ま暫らく滞在す、と御報せし次第なり。併し総てを放棄して帰朝せよとの命なれば、明日にも出立すべし。

            井上公使
  西園寺大臣

(同、p18)

 電受第九九〇号 明治二十八年九月四日午后七時五五分発  午后十時二十五分着

 井上公使の発電一八五号は、閣下の訓令に依り已に同公使より返電せし如く、当国要部に内話に及びたるの今日、卒然半途に止むる如き結果となりては、後任たる本使の迷惑申す迄もなく、目下半途に在る百般の事務を如何ともしがたきのみならず、又延て当国に対する折角の信用も地に落るに至るの不幸を見るべしと信ず。
 右の次第に付、事情御察しの上、速に御確答被下たし。
            三浦公使
   西園寺大臣

 井上 「あんたの訓令があったから国王に話したんだろ」と。それを今になって確答しがたいってどういこうことよと。
 三浦もまた、「途中でこの話を止めるなら、後任の俺はどうすりゃいいのよ」と。
 で、二人して迷惑千万と。
 
 なお、昨日謁見して解任状を提出したとあるから、事実上の三浦公使の就任と井上の解任は9月3日ということになろう。

 で、西園寺外務は前の電文は言葉足らずだったかのように、ちょっと詳しく説明。

(同、p19)

  三浦公使         西園寺大臣
電送第六七五号 明治廿八年九月五日

 左の通り井上伯へ伝えらるべし。

 御電報接手せり。電第一八五号の事は政府より最近の議会に提出すべしとのことに閣議決定し、当時閣下への訓令中にも、其通り記載し置きたり。然るに昨日の電信にても申進せし如く、臨時議会を召集せざることに一決したれば、此上は本年の通常議会を待つの外なし。此事たるや政府単独の意思にて実行せらるべきことに非ざれば、議会を通過したる上に非ざれば確答し難き次第なり。何れ此事は御帰朝の上、委しく御談話致すべし。又、速に閣下の帰朝を望むと申進せし訳に非らず。御来示の如き事情等を新任公使に御話し伝えの上、可成速に帰朝ありたしという意味なり。

 これで納得したのか、井上馨は以下のように返電。

(同、p20)

電受第九九四号 明治二十八年九月五日 午后八時四〇分発 午后十二時五〇分着

 三浦公使を以て伝えられたる電報接手。臨時議会を開かれざるに付、通常議会へ提出するとのことなれば、分りたり。
 又、本件は政府単独の意思にて出来ざることも承知し居れり。左りながら、内閣の決議に依り内訓ありし通り、十分の決意と運動を以て、議会の通過を計らるゝに非ざれば、本件に付、已に国王并に政府へ内話を始めたる今日、万一議会に於て否決する様のことあれば、後任者は立脚の地なきのみならず、一層国王并に政府に対し、威信も皆無となり、且朝鮮を抛棄する結果となり行き、内政上にも誹議百出、困難に至るべし。篤と御熟議を乞う。

                井上公使
  西園寺大臣

 なお通常議会は年末に開催される。この年、明治28年度は12月25日であった。(御署名原本・明治二十八年・詔勅十二月二十五日・帝国議会開会)

 この時点で寄贈金の件は、決して中止になったのではないということである。筆者も誤解していた。

 

京城公使は井上から三浦へ

 さて、特命全権公使として陸軍中将正三位勲一等子爵三浦梧樓が京城公使に任じられ、同日に井上馨がその任を解かれたのは8月21日であった。(朝鮮国駐剳三浦特命全権公使御信任状并井上特命全権公使御解任状ノ件)

 その間、大院君の孫である李呵Oは特赦によって罪を全免された。「明治28年7月12日から明治28年8月12日」p46)
 もちろん井上の前々からの勧告によるものであるが、その後の処遇としては日本に留学させることも勧めていた。王権への野心を改めさせんがためであった。

 また12日には、井上は以下のように国王の相談を受けて新内閣が整ったことを報告した。

(「明治28年7月12日から明治28年8月12日」p47)

電受九四二号  明治二十八年八月十二日午前十一時五十分発  午後八時着

 本月十日夜、安駉壽、軍部大臣に、沈相薫は度支大臣に、李允用は警務使に、李聖烈は内閣総書に、権在衡は軍部協弁に、李鼎煥は度支協弁に任ぜられ、魚允仲は中枢院副議長に、申箕善は同一等議官に転じたり。十二日中に金宏集は総理大臣に任ぜらるべし。
 右交迭に付ては、本官は大君主より内密相談を受け、漸く前述の通り決定したるものにして、何人にも相談せざれば、発表の当日迄は全く外に漏れず、随て毫も民心を騒がすことなく、極めて円滑に行われたり。今度の交迭に依りて宮中と内閣との折合整い、暫らく無事を保つべき見込なり。

 西園寺大臣    井上公使

 で、暫くはこれで朝鮮政府も無事を保つだろうと。でも、無事とか平穏とかが束の間のものであるのが朝鮮政府というものであって。

 

 

日清戦争後の日本と朝鮮(2)      目 次       日露戦争前夜の日本と朝鮮(1)

  きままに歴史資料集 since 2004/12/20