日清戦争後の日本と朝鮮(2)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

銅の器を商う人。(撮影年代不明)
 なぜ朝鮮では磁器や陶器がよく発達しなかったかが合点がいくような気がする。この国の人々は昔も今も、いわゆる「ひかりもの」が好きらしい。もっとも、今はステンレスが好まれるようだが。

朴泳孝、謀反罪の嫌疑

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p40、()は筆者)

電受八三四号  廿八年七月七日午前九時四十分発 八日午前十二時十五分着

 昨夜、王宮に各大臣を招集せられ[朴徐二人の外]、俄かに朴泳孝の官を免じ、且つ謀反の嫌疑を以て之を捕縛すべき旨、警務庁へ命令ありたり。
 右に付、朴は今朝潜かに仁川へ赴き、同地より日本へ潜行すべしといえり。
 朴泳孝の嫌疑に付ては、探偵書類多く国王の手許に蒐まりし由なるも、其内日本人佐々木留造(日出男)なるものゝ筆談書は、重もなるものなりと聞く。
 申箕善、李允用は、其職を免ぜられ、安駧寿は、警務使に任ぜられたり。
 其他は聞込次第電報すべし。

       京城
         杉村代理公使
  西園寺外務大臣代理

 ついこの前に金宏集を追い出すほどの力を持ったはずの朴泳孝が、今度は逆に追われる立場に。しかも謀反の嫌疑つきと。

 これを聞いた井上公使は直ちに以下のように返電。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p43)

  杉村代理公使        井上公使

 昨七日発貴電、只今見た。此際、各顧問官中に於て種々なる小細工せしむ可らず。又は、朴泳孝を保護する為め運動なすべからず。愈々以て静粛にし居る様、御談議ありたし。王室と露公使との干係及朴氏嫌疑に付ては、相当の探偵費を出し、実状十分に穿索を遂げ、確報ありたし。追付け機密の電信差出すに付、自身談議ありたし。

電送第五九四号 明治二八年七月八日

 続けて翌日に以下を打電。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p53)

           電送第六〇一号 明治廿八年七月九日午後七時廿二分発

京城杉村代理公使        井上公使

 先刻外務大臣よりも電訓相成りし通り、此際貴官を始め各顧問官連中に於て朴派を保護する為め種々の小細工は断じてなすべからず。王妃をして窮鼠たらしむるは、将来対韓策の目的を達するに非常の害あり。一同申合せ屹度注意ありたし。
 本官は一週間内に出発帰任すべし。
 朴の余類を保護することは決して為すべからず。
 貴官は金宏集に面会し、朴氏陰謀一件精細糺明する様談議し、我の潔白を示すべし。

 井上が苦労して築いてきた国王王妃との関係が、このことによって崩れることを懸念していることが窺われよう。

 で、このような事態に至った経緯を、杉村代理公使が提出した日記形式の報告から。

「明治28年7月8日から明治28年7月23日」p41、()は筆者)

内閣通知
廿八年七月二十三日総覧 主管 政務局
機密発 第七一号

 ■■■(明治二十)八年、六七月中、朝鮮王宮護衛兵入替の件より、宮中と内閣の間に衝突を興し、遂に変じて朴泳孝は其職を免ぜられ、逮捕の令下りたる迄の日記。

 初め国王は新官制実施の結果として君主の権力は内閣に奪去られたる者と誤了し、何卒して之を恢復せんことを希望せられ、陰に近侍の人々を魯米等の公使館に派し、其助力を懇求せられたることは、追々漏聞したる所なり。
 当時内閣諸大臣の内にも朴内部大臣を始めとして深く憂慮し、密議を凝せし上、第一、旧護衛兵を廃して新訓練兵を以て之を代らしめ、第二、常に宮中より各館に往来する、二三の宮内官吏を転任、若くは廃黜して、以て其禍根を絶たんことを計画し、先ず近衛兵交代の事に着手したるは、蓋し本年六月二十二三日の事と聞きぬ。軍部大臣代理李周會は、朴氏崇拝の一人なるが、其主務の事とて国王の好ませられざるにも拘わらず、近衛兵入替の事を毎日奏上して、凡そ三日程打続けたる処、国王には痛く不快に感ぜられ、最後総理大臣を呼べよとの御沙汰ありたり。

 依て同月二十五日、朴総理参内したる処、国王には激怒して近衛兵入替の事は、朕の好まざる所なるに、内閣が強て之を請うは不都合なり、との御沙汰を受け、朴総理は帰閣して御沙汰の趣を伝えたる処、内閣大臣の内、深く之を咎責するものありて、総理は恰も■■(板挟)の姿と為り、終に辞表を奉呈せり。
 是に於て各大臣の気、大に阻喪し、発議者たる朴内部の気色、常に似ずとの報に接せり。

 同二十六日、本官は右の報告に接到し、且つ兼て近情探聞したる廉も有之に付、早朝、斎藤、岡本の両顧問官を招き、内々打合せを為し、翌二十七日を期し、各顧問官を会することと為せり。是日、李圭完及び浅山顕蔵を招き、政府の内情并朴氏の懐ける善後の方案を尋たるも、其要領を得ざりし。

 同二十七日、各顧問官を会し、相談の上、穏和的手段を以て、現内閣を援助することに略ぼ談決し。

 同二十八日、再び之を会し、各自執る可き手続を談決し、先ず浅山を以て朴氏が我に依頼する心ありや否やの意向を探らしめたるに、当時朴氏は激憤と憂悶の心交々相発する様子にて、当方の勧告を傾聴する色なき旨、翌二十九日朝来報せり。
 右現内閣援助の方案は当時電報したれば茲に之を略しぬ。

 同二十九日、午後、俄米両公使来館して、朴氏身上に付、勧告的の談話あり。委細は機密報告の通りなり。依て其趣を斎藤氏に内報し、明早朝、朴氏に面会を得度旨、申入れたる処、斎藤氏も稍驚きたる様子にて、其夜十二時過ぎ、協議の為め■■(来館)せり。

 同三十日、前七時頃、田中賢道を招き、朴氏等、万一過激手段を執る様の事ありては、甚だ不得策なれば、自己の意見として忠告す可き旨を委嘱し置き、同九時頃、本官、朴氏を訪ね、「俄米両公使勧告の次第もあれば、此際熟考す可き時なり。決して軽挙大害を招致す可からざる旨」を極めて穏に忠告したる処、朴氏も稍々耳を傾け、「拙者も昨夜来熟考するに、此際過激手段を執るは得策にあらざる事を悟りたれば、暫く手を緩す可し。乍去、今一歩を退くときは、忽ち敵に乗ぜらる可ければ、唯是れのみ掛念に堪えず」と申すに付、本官、「其れには相当の防禦法ある可きに付、追々御相談に及ぶ可し」と相答辞去れり。是日午後、宮内官吏李夏英来りて、井上公使の来否を尋ね、夕刻又、宮内大臣秘書官鄭萬朝来りて、同様の問を為し、且つ宮内大臣代理金宗漢の来会を約して立去れり。
 本日、井上公使の来電に接したるに付、明朝を期し、朴氏の来館を促せり。又、本日、三田育種場持主、水口某の招きに応じ、朴泳孝以下朝鮮人数名、外に日本人数名、網引の為め龍山に赴けり。本官は辞して之に応ぜざりし。

 七月一日朝、星氏来館して、「窃に聞く所に拠れば、朴氏等は近衛兵交代を断行す可し。其手順は、先ず訓令隊を入れて宮殿を守り、旧衛兵を逐出すとのことなり。其際、万一にも国王には俄館に潜幸せられては一大事なれば、国王の潜幸を予防するは我急務ならん」との密話に付、本官は、「右様の掛念は断じて可有之筈なし。若し之れあれば、朴氏は余を欺く者なり。加之、金外部、魚度支、申軍部の三人、深く余の説に賛成を表し、必ず閣議を改めて穏和手段を執る可しと申居れば、[昨日国分書記生を外部度支の両大臣方に派し、過激手段を執るの不可なることを忠告したる処、右二大臣の外、申軍部も深く同意の趣を聞たり]断じて斯かる軽挙に及ぶ可き筈なし」と相答置き、尚お其説の出処を尋ねたるに、恒屋盛服が前夜、人に語りしと云うこと相分りたるに付、直ちに同氏を招きたり。
 右談話中、斎藤、仁尾、岡本氏、等来館。引続き、石塚武久氏も来館せり。依て之を斎藤氏に問うに、断じて斯かる軽挙の企なしと云えり。
 同日昼頃、朴氏来館に付、之を一室に引き、窃に星氏密報の事実を質問したるに、全く伝説の誤謬に出でたるものと推定せられたり。依て、重て過激手段を執る可からざる旨、相戒め、「若し訓練隊は王室に向て暴挙に及ぶときは、時宜に因り、我守備隊を以て之を打払う可しと」申入れたる処、朴氏は、「決して斯かる非挙に及ばざるに付、御安心あれ」と申出、又、尋て恒屋来館に付、風説の出処を尋ね、果して其誤伝に出たること相分りたるも、本官、念の為め、守備隊長を招き、近状を語り、注意を与え置きたり。
 此夜、金宗漢、鄭萬朝の二人来館に付、今回興りたる衝突の原因と宮中の模様とを尋ね、略々其要領を得たり。

 同二日、本日の閣議にて近衛兵交代の儀は当分見合することに議決したる旨、洩れ聞きぬ。是日は外間の景況大に治り、民情漸く静謐に向えり。

 同三日、午後、本官参内、内謁見の時、国王より、「近日の事は卿も熟知せしならん。兎に角無事に治りたるに付、朕は大に安心せり」との御沙汰ありたり。

 同四日、昨日来、外間の景況益々静謐なり。其後探問せし所に拠れば、朴氏を仆さんとしたる計画は、本日其端緒を開き、朴氏隠謀の企居るとの事、兪吉濬より先ず金宏集に告げ、且つ沈湘薫、洪啓薫等と沈或は洪の宅に会し、密議したりと云う。
[事の興りし順序に付、種々の説あれども、大同小異なり。委細は別に報告す可し]

 同五日、無事。

 同六日、午後四時、金宏集参内、其前国王より宮内官吏を城外の邸宅に派し、之を招かれたり。
 同五時、兪吉濬已下、内部官吏及雇日本人等多数、斎藤顧問官の宴会に招かれ、同八時頃、退散。其帰途、兪吉濬は召に応じて直ちに参内したり。
 同九時過ぎ、朴氏は斎藤氏寓に来り、「形勢切迫、到底見込なし。且つ本日、金宏集参内したりと聞けば、必ず異変ある可し。如何に進退して可ならん(」)との相談ありしも、斎藤氏は別に意見を述べず。明朝まで熟考す可き旨、相答、凡一時間計にして、朴氏辞去れりと云う。
 是夜、朴氏免職の辞令と朴泳孝陰図不軌云々の■(詔)勅を発せられ、夜半、該詔勅を城内各処に貼付せしめたりと云う。同夜、金宏集、特進官に任ぜられたり。

 同七日、昨夜来、屡々警務使李允用を招かれたるも、同氏恐を懐き、参内せざるに付、急使を安駉壽の宅に遣し、其参内を促されたり。然るに、同氏初めは遅疑して立たず。再三使を受け、漸く午前二時頃に及んで参内して御前に進みたる処、直ちに警務使に任ぜられ、前総理金宏集の命を受けて、事に従う可き旨、併せて御沙汰ありしと云う。是時、金宏集氏と共に座にありし重なる人々は、朴定陽、金宗漢、兪吉濬、沈湘薫、洪啓薫等なりとぞ。
 同四時過ぎ、安駉壽、警務庁に到り、朴氏逮捕の準備に取掛り[準備甚だ緩慢なり。彼等深意の所在を推知するを得可し]、五時頃に及んで先ず探偵を朴氏の邸に派したる処、其前四時少し過ぐる頃、前警務使李允用は塀越しに朴氏を招き、逮捕の事を密告したるに付[朴邸と李邸と裏合せなり]、朴氏は急に衣を整え驢馬に跨り泥峴[日本人の多く居留する処]を指して、其邸を出でたり。
 同四時半頃に及んで、本官は突然外部大臣来館の報に接したるに付、何事ならんと急ぎ起床し衣を調え、官舎より公使館に赴き接見したる処、同大臣より、「朴泳孝は陰図不軌と云うことにて、昨夜各大臣を宮中に召され、逮捕の命下れり。同人は日本の知人多きに因り、逮捕の際、或は之を妨害するものあらんも難計。依て予め取締あらん事を大君主の勅命に依て貴下に希望す」との依頼有之候に付、本官は、委細承知せり、と相答居る処に朴氏其席に飛入り、変事興りし由を告げ、金外部と二三の言語を交えたる後、外部は直に辞去されり。
 李圭完、申應熈、外朴氏一派の日韓人六七名来館、頻りに逃亡の協議を為せしに付、本官は先ず岡本、斎藤、星の三氏を招き協議せしに、此際朴氏の希望に任する外、致方なからる可し、との議に一決し、同六時過ぎ、朴氏一行は本館裏門を出て間道南大門に至り、龍山に向かい、夫より小気船にて仁川へ逃れたり、と云えり。
 朴氏在館中、朝鮮巡査、本館門前まで来りし趣きなるも、強て彼等の逃路を遮り之を捕獲せんとも為さゞりき。

 其日国王より各大臣を宮中に召され、同昼頃には、徐法部大臣を除き、孰も参内したり。尤も、徐法部も同九日参内、御前会議に列席したりと聞く。其他朴派と称せらるゝ人々は孰も出勤し、朴氏の邸宅并家族とも皆無事なり。

 右は、本年六月廿五日、朴総理辞表以後に係る事歴の大要に有之候。此に由て之を観れば、朴氏は内閣の協同を以て押して近衛兵の交代を図らんとしたるの外、所謂ゆる王妃殺害の陰謀ありしとは、少く思慮あるものは何人も信ぜざる所に有之候。
 尤も、朴氏は国王の御承諾なきにも拘わらず、強て近衛兵を交代せしめんと図り、国王王妃をして恐懼の念を興さしめたるは事実の聞ゆるに付、反対の人々は或は其間に乗じて之を除かんと欲し、陰に両陛下親近の人々と相結託し、遂に彼に蒙らしむるに、「陰図不軌」の四字を以てしたるにあらざるか、果して然らば則全く党派上の争鬩にて、実に悪例を開きたるものと存候。猶お詳細の事は取調の付き次第、追々御報可及候。

 右及内報候也。
 明治二十八年七月十二日
       臨時代理公使 杉村濬
 外務大臣臨時代理
  文部大臣侯爵西園寺公望殿

追て右本文中極めて秘密に属する廉も有之候間、右御含相成候様希望致候。

 国王による朴泳孝逮捕の命令であったが、何か皆やる気無し(笑)。金允植外部大臣なんぞは、日本公使館で本人と会話してるし。内心では国王王妃にはうんざりしてるのでは。特にこの金允植などはねえ。以前、井上公使に、「王は上にあって安んじ、臣は下にあって苦労する、ということもある」などと言った人だから。

 

疑心暗鬼の競演場

 しかし、なんで朝鮮ではかくも政争が果てしなく続くのか。それも極端から極端に振れるのか。まあ、現代韓国でも、歴代大統領で平穏な余生を送った人は殆どいないわけで・・・・・。

 要するに、朝鮮王宮とその政府というものは、まさに疑心暗鬼の競演場であった。
 以下、杉村濬のその後の報告である。

(「明治28年7月12日から明治28年8月12日」p2)

廿八年七月二十三日接受 機密発第七二号 機密受第六二六号

 明治廿八年六月下旬、宮中と内閣の間に興りたる衝突に付、取調書[此報告は本月七日朴泳孝逃亡前に起草したる者なれば、聊か旧套に属すと雖ども、後日の参考に供せんが為め之を送呈す]

衝突の遠因
 朝鮮国の旧慣は素より無限の君主専制にて、王室の外に幾んど政府なく、百事親裁に出で、近代に至ては殊に其甚きを極め、小吏の進退、寡額の出納に至るまで、君主之を親裁し、若は世道(勢道)なる者、君意を承けて之を処裁し来りし由の処、昨年七月已後は、政権一たび大院君の手に帰し、再び転じて内閣に移り、官制を定めて王室事務と国家政務を区別し、国内百般の政務は之を内閣に統率し、国王裁可を経て之を行うの制度と為りしに因り、国王及王妃には、全く政権を内閣に奪去られて、王室は孤立したる如き心地せられ、窃に之を王室に収復せんと希望せられたるは、蓋し一日にあらざるが如し。

 前総理大臣金宏集氏は、初め国家柱石の臣として信重を蒙りしが、氏は一たび総理の椅子を占め新制実施の主任と為り、王室の専横を抑制せんことを務めたるに因り、漸次其信用を失いたりし途端に、君権収復の説を容れて国王王妃に阿諛する輩あり。
 遂に本年五月に至りて金宏集其職を辞するの不得已に迫れり。
 当時、国王が金宏集等を叱責せられたる御辞に、「朕は王位を退くべし。汝等、共和政府を立てゝ国政を行はゞ満足ならん」と云われたるも、国王の意中、必ず斯る疑団を懐抱せらるゝに相違なきを推量し得可し。

 金宏集、其職を免ぜられ、朴定陽、新に総理の椅子を占めたり。同氏は極めて温順の性質にして、十余年来国王王妃の寵遇を受けたる人なれば、両陛下には素より同氏に対し御心置なく、又当時政府の立役たる朴泳孝は、前総理一派の人々に反対して君権説を立て、而して徐光範、金嘉鎮、李完用の諸氏、一時之に付随したれば、両陛下には是時に於て、君権収復の効を奏することを得可し、と予期せられたる甲斐もなく、内閣の意気込、益々強く、終に双方の間に衝突を興すに至れりとぞ。
 聞く処に拠れば、金総理在職中は国王にも同氏に対して幾分か憚る所ありて、法外の御注文少なく、同氏も亦、能く内閣同僚を制し、余り国王の思召に逆う事柄は抑えて奏上せざりし由なるに、朴総理に至ては、材徳名望共に前任者に及ばざるに因り、其意見行われず。上下の間に立て恰も板挟の姿と相成り、終に其職に止ること能わざる場合に至りしものと推量せられたり。

衝突の近因
 衝突の近因に就て之を言えば、之を興せし原動は宮中に在らず、寧ろ内閣に在るものと推定せられたり。探聞に拠れば、初め内閣の計画は、王宮護衛の旧兵を廃し、新訓練隊を以て之に代らしめ、同時に旧兵付の士官[同士官には各館に出入し世評に上るものあり]并に、同隊教師米人を外に出し、猶お引続き不都合と認めたる宮内官吏二三名を警務庁に拘引し、以て国王王妃が内密に外国公使等と交通する津梁を遮断し、禍根を絶滅せんと試みたる処、早くも宮中より看破せられたりと云えり。宮内協弁金宗漢の説に拠れば、国王が護衛兵の交代を拒否せられたるは、左の三件に出でたりと。

 第一 陛下には柔弱の御気質なれば、常に御側に出入する者をば王家に向て忠節を尽すものと信用せらるゝも、他の臣民に対せられては然らず。陛下と雖ども新兵の旧兵に勝ることを御承知相成らざる訳にあらざるも、如何にせん、軍部の訓練したる兵とあれば、御信用なきに依り、何んとなく危険に思わるゝなり。

 第二 衛兵交代の事は、前総理の際、提議せざりしを、新総理の就職否や俄に之を提議し、且つ之を抗争するに至りたるは、何か仔細のあることならんと疑われたり。

 第三 旧兵の教師、米人二名并同兵付将校等、其職を失わんことを恐れ、窃に運動したり。

 右の観察は、蓋し失当にあらざる可し。国王には近来事に触れ物に感じて王室の権勢日々衰うるを歎息せられ、眼光の達する所は単に王宮内に限られて、其外に及ばざれば、前顕衛兵交代の提議に遇われて大に危懼を懐き、固く之を拒まれたるものと思わる。

 国王の疑懼
 国王には、近来外国人よりは寧ろ自国の臣民に対して疑懼を懐き居らるゝとの事なるが、右は、支那朝鮮の如き帝王興廃を常とし、毒害暗殺の行わるゝ国柄に在ては、無理ならぬ事なり。去明治十五、十七、両年の変乱は実に国王を畏懼せしめたり。国王は十五年の事変已来、昼夜を顛倒し、夜間は常に寝に就かれざるは全く之れが為めなりと聞けり。
 殊に近来に至て警務庁の巡査は王族即国王の親姪なる李呵Oの居室に践込んで之を裁判所に拘引し、嘗て小吏たりしもの若くは平民が俄に大臣協弁其他の高官に昇りて威権を振い、宮内府は政府の抑圧を受け、其権勢の伸びざるを観て深く杞憂を懐かれたるものゝ如し。

 要するに朝鮮の事は、極点より極点に移る習ありて、閔泳駿権勢を占めたる時は之に反対したる者をば之を流し之を殺し、大院君、勢力を得れば亦同様の手段を以て反対者を処分したる例なれば、一旦王室にして勢力の失いたる暁きには、政府より如何様の取扱を為すや予知し難し。近くは大院君の例に照すに、名は尊奉と称すれども、其実幽閉も同様なり。故に国王には之を観て内心履霜の警戒を懐かるゝも強ち無理ならぬことと推察せられたり。

現内閣の挫折并朴派の憂懼
 内閣各大臣は、最初一致協和して其計画を果行せんと約束したるも、本と其根拠堅からざれば、朴総理の一挫折に遇うて各大臣の気頓に阻喪したるに付、朴泳孝も内心弱りたるものゝ如し。
 抑々、内閣員中には王妃の深謀ありて且つ其所為常に残酷に渉るを飽まで承知し居れば、当時、忽ち想像すらく、
(「)右の如く強硬に刎付けられたるは、疑もなく王妃の付智慧に出で、夫れには必ず後援のあることならん。即ち、内は諸閔を引き、外は俄使と結託し居るに相違なからん。依て此際、我一歩を退くときは彼必ず一歩を進み来り、終に内閣を蹂躙するに至る可し。左れば衛兵入替の一件は宮中と内閣の消長を決する大問題なれば、此際一歩をも退く可からず(」)
との説は、最初本官の耳朶に達せしものなり。
 唯、防禦手段に至ては、金外務等は別に考案なく、井上公使の早く帰任せられんことを望むの外、再び大院君を利用せんとの考を有するに過ぎざる如く、朴内部等は無理にも新訓練兵を闕内に繰入れ、以て最初の目的を達し、一は以て内閣の勢力を維持し、一は以て同党派の離心を防がんと欲し、既に同志間には其相談もありし由の処、本官より両度忠告を加え、併せて金外部、魚度支、申軍部の三人を説き、彼に同意せしめざるに因り、朴派の計画は全く事止みとなり。而して宮中と内閣の間柄は暫く旧状に復したる姿なり。

宮中と俄館の関係并閔族の運動
 宮中と俄館の間に深き関係を開きたりと云うことは、朴派の専ら唱うる所なれども、今日まで突止めたる説なし。
 尤も、二三の宮内官吏[李夏榮、玄興澤]等は国王王妃の内命を受けて屡々俄米両公使館に出入し、目下日本の干渉と内閣専制の情状を訴え、君権収復に援助を得度旨、依頼したりと云うことは稍々事実と信ぜられたるも、両公使は蓋し其時々程能き返答を為せしまでにて、之を深く引受けたるものと認め難く候。
 又、一報に拠れば、宮中と各館の間は唯親く交際を為すに止まり、未だ深き関係を有するに至らずと云えり。
 従前の例に於て宮中より身分高からざる官吏は、内命を帯びたりと称し、何事か依頼の為め折々当館へ来りしことあり。近日、俄米両館へ出入する密使も、恐らく右類似のものなるべし。
 要之、日本の勧めたる改革方針は、従来有せる王室無限の権力を減殺し、限制的君主制と為すものなれば、国王王妃の之を好ませられざるは勿論の事なり。故に此間に折合の手段を講究せずして、政府は真直に当初の見込を貫かんとするときは、宮中と政府の間に再び大衝突を興すは避く可からざることならん。
 目下、国王王妃の眼中は王室又は外戚あるのみにて、朝鮮と云うう国家は幾んど眼界の外にあるものゝ如し。

 世間には、閔族の諸士其権力を恢復せんと欲して陰に運動を為すと唱うるものあれども、信じ難し。目下、該族中是と云う人物なく、且つ多くは地方に退隠し居れり。尤も、一旦政権を王室に収復したる暁には、閔族の首を擡ぐるは勿論なれば、今日、彼等は蟄伏し居たりとて、決して等閑に看過すべからざるなり。

 右及内報候也。
      京城
明治廿八年七月十三日 臨時代理公使杉村濬
   外務大臣臨時代理
   文部大臣侯爵西園寺公望殿

「抑々、内閣員中には王妃の深謀ありて且つ其所為常に残酷に渉るを飽まで承知し居れば、」
「要するに朝鮮の事は、極点より極点に移る習ありて、閔泳駿権勢を占めたる時は之に反対したる者をば之を流し之を殺し、大院君、勢力を得れば亦同様の手段を以て反対者を処分したる例なれば、一旦王室にして勢力の失いたる暁きには、政府より如何様の取扱を為すや予知し難し。」
「依て此際、我一歩を退くときは彼必ず一歩を進み来り、終に内閣を蹂躙するに至る可し。左れば衛兵入替の一件は宮中と内閣の消長を決する大問題なれば、此際一歩をも退く可からず」
と。

 王宮警護の兵そのものに何か含むものがあるというのではなく、単なる政策をめぐる攻防であって、言い出した以上は一歩も引くわけには行かないと言う訳のわからない争い方が原因と。(はぁと)

 

嫌疑の発端

 さて、朴泳孝に掛けられた謀反の嫌疑すなわち「陰図不軌」という、つまりは王妃殺害の隠謀のことであるが、その情報の出所は次のようなものであった。
「居留日本人の風説→日本人僧侶高田栖岸の世間話→無職士族佐々木日出雄(留蔵)の筆談書→韓在益→金宏集など→王妃親族→王妃→国王」
国王の手許には佐々木日出雄のその筆談書があったという。

 で、佐々木日出雄なる人物を取り調べた内田定槌京城領事の調書から抜粋。
 この人物は26才の無職士族。何かの団体に属する者でもなく、朝鮮語習得のために渡韓したと言う。また、朴泳孝の邸宅を訪ねたことがあったが面会を拒否されている。

(「明治28年7月8日から明治28年7月23日」p11より抜粋、()は筆者)

(略)

 汝は朴泳孝を訪えしことなきや。

 朴泳孝の未だ朝鮮に還らざるとき、京城において一夕朝鮮政事上の事を読んで深更に及び、朴氏為めに感激泣下するに至りし位なるを以て、余と朴氏とは生面にあらざるが故に、本月五日、渡韓の後之を訪ねしに、故障を言張りて面会せず。其後朴氏の宅に居住せる恒屋盛服を訪ねし折には、朴氏の門衛、其門を綴じて余の入るを拒みたり。

(略)

 韓在益を汝は知るか。

 始めて渡韓せし時に、文学に長ずる名あるを以て之を訪い、其後も交際せり。

 近頃韓在益を訪いしことありや。

 五月以来、四五度訪問せり。其節戦争の有様等を談じ聞かしめたり。

 韓在益と四五日前筆談せしことあるべし。

 韓在益と四五日前筆談せしことは既に知れたりや。然らば詳細に之を話さん。西本願寺僧高田栖岸あり。六七日前に、聞く所によれば、朴泳孝は王妃を暗殺せんと企てたるも、自身一己の手にては六ケ敷からんと案じ、後ち韓兵五十名を武装して王妃を暗殺せんと企画し、此事を日本人士三四名にも謀りたり。其三四名中には有力なる顧問官も加わりし由を聞けり。且此企画の際、日本公使館に来れりと云う故に、余は五六日前、韓在益に面会せんとて右の事を談じたり。然る所、韓在益は之を金弘集(金宏集)に通せしかば、金弘集は大に憤り、これ大逆無道、許す可からずとて、之を弾劾せんと云えり。金弘集は兼て軍部大臣申箕善、前捕盗大将申正煕、前軍部大臣趙義淵等と気脈を通じ居れり。茲に於て金弘集は王妃の親族なる人に此事を告げ、其親類何某は之を王妃に告げたりと聞けり。韓在益は其翌日余に語りて曰く。君より聞く所は悉く金弘集に告げたりと云えり。故に余は韓在益に語りて曰く。事を為さんと欲せば速に行うに如かずと。思うに韓在益は今回の事の呼吸爰ならん。高田栖岸は質素の人にして決して虚言せざる人なりと信じたるを以て、此人より聞く所は真正の事実ならんと思い、韓在益に告げたり。余と韓在益とは真実に交際せり。事を起こすは日本の為にも利益あること故、速に起す可し。事を起さば速に行うべしと告げり。金弘集と兪吉濬とは水魚啻ならざる関係あり。過般金氏辞職の折、兪の止まりしは、これ朴泳孝の政略なとり云う。昨日午後三時ごろ、韓在益を訪し時、大君主陛下の召しにより行くとて出て行きたり。

 外に申述ぶることなきや。

 なし。

 そして佐々木日出雄が聞いたという西本願寺僧侶であるが、その調書も記録されている。
 京都府知事渡辺千秋によれば、僧侶高田栖岸は、「本人は極めて淡白風の人物にて、陳述する所、其語気動作に照し、虚偽の廉無之と被認候」とある。

(「明治28年7月8日から明治28年7月23日」p33より抜粋、()は筆者)

   聴取書
本願寺朝鮮派遣僧高田栖岸の陳述を録取する左の如し。

(略)

一 今回の朝鮮変動前、此事に関し佐々木に談話したる要領。

 佐々木と二度目に面会せし時、即ち去る五月三十一日より六月二日頃迄の間と覚え、佐々木に対し、近頃此地に於ける風説に聞くに、朝鮮王妃は露国公使と結託し、万一の事あるときは、君主を擁して露国に遁るゝの底意あり。朴泳孝も疾く之を知り、京城駐屯の朝鮮兵五拾名許を撰援し、之を以て果断なる処置を為さんとて、此事を日本公使館に居る朝鮮政府の顧問官某に語りたるに、其計画は甚だ宜しからずと留むるを、以て朴は然らば日本公使館は別に好手段の決定ありや、と反問せしに、日本公使館に於ては今日の処、別段之と云う決定なし、と答えたり、とて、朴も窃に日本公使の腰の弱きを感じたりとのことなり。是等は皆朝鮮人と朝鮮人との間に於けることなれば、只捨置て可なるべく、又、今回の風説も風説丈にて終局するならんが、君[佐々木を指す]此等の事を聞き居るやと問いたり。然るに此時佐々木は別段の事も云わず。只自分が云う処を聞て、そーかと云いし位なり。

一 此談話を佐々木に為したる真意。

 朝暮の変化測り難き朝鮮に寄寓すること故、何時異変を生じて危難を発する測ること能わず。日本人同志に於ては常に共力して事情を知り置き、予防の地を作るは必要なりとは、平生考い居る処なるが、別して今回の如き風説ある以上は弥々此の必要ありと信じ、前に陳ぶる如く佐々木に談じたるなり。
 佐々木は年齢幾何なるか知らざれども、見受けたる処、廿二三にて小利巧の者なれども、軽率なる挙動に出づるものなることは、自分も見取り居りたれども、真逆自分が談話したる風説を根拠として告発を為す抔とは夢にも考えず。福岡に来りて新聞紙を見、事の起因、佐々木にありとあるに依り、佐々木は実に軽率極りたる奴と、益残念に考えたり。実に意外中の意外のこととなりたり。

右録取し、尚不明のことを左の如く聴取したり。

一 朴泳孝が兵五十を以て果断な処置に出でんとすと云うは如何なることをすると思いしや。

答 詰り、王妃を害すると云うことにて、風説も云わずして此意味を含み居たり。

一 此風説は其出所、日本人なりや、将た朝鮮人なるや。

答 朝鮮人は斯ることには全く無頓着にて、素より日本人より出でしことなり。

一 斯る風説の出所は日本人の誰より聞しや。

答 所謂雑居話にて、一の風説なれば、誰より云い出した、又誰より聞き取りたりとは陳べ難し。

一 日本公使館に居る朝鮮顧問官即ち朴泳孝の面会したる人は誰れなるや。

答 誰なりしか其氏名は聞き居らず。

一 斯る風説は朝鮮京城に寄留する人々は皆知り居るや。又一部の人のみ知り居ることなるか。

答 自分如き政事に関せざる者さえ耳にすることなれば、居留日本人は皆知り居るべしと思う。

一 斯る風説を聞く、何と考えるや。

答 此の風説の流布する如き勢い故、早晩何か破綻を生ずべしとは考えたれども、佐々木の口より此の破綻を出したるには、実に意外に考えたり。

一 佐々木は何事か為し居る者なるや。

答 何の職業を為し居るを知らず。時々慷慨なる談話を口にする所より、政事家の壮士位ならんと思い居たり。

一 佐々木は如何なる慷慨談を為せしや。

答 朝鮮、今の有様にては、早く手を付けて日本の物に為し置かざれば、到底独立国抔の体面を保ち行くこと覚束なし抔の談話なり。

(以下略)

 

 また杉村濬代理公使は、以下のように西園寺外務代理に打電。

(「明治28年6月28日から明治28年7月17日」p3、()は筆者)

電受第八五二号 明治二十八年七月十日午前九時三十分発 午后三時三〇分着

 昨九日発、井上公使の電報二通落手せり。本官は初めより朴派の過激手段を執ることを戒め、頗る苦心したる程なり。顧問官の内にも今日となりては朴派を保護する者なし。唯、朴氏逃亡の日、民間に激昂の模様ありしも之を防ぎ止めたり。依て御安心相成りたし。

 ○ 朴の余類は李圭完、申應熈、逃亡し、其他は依然出勤し、浅山、恒屋も同じく出勤せり。徐光範も亦無事出勤せり。
 ○ 佐々木留蔵(日出雄)は報知新聞の通信員尾崎行雄の子分と自称し、性質正しからず。日本人にて之と交る者なし。同人は、朴泳孝に因て雇われんことを求め、痛く退ぞけられたる為め、深く朴を怨み居れりと云う。
 ○ 金宏集入閣の件は内々尽力し居れども、朴定陽は腰を据えて動かず。国王も亦之を動かすを好ませられざる様子に付、困り居れり。
           杉村
 西園寺大臣

 人騒がせな日本人もいたものだが、佐々木日出雄のような考え方をする者も少なくなかったかも。ロシアによって大陸への夢を絶たれた、というように考える者も。ただ、こういう人々に共通しているのは、かつての旧自由党員が起こした大阪事件のような素行の悪さである。まあ、遵法精神に乏しく、勝手に思い込んでいる大義のために手段を選ばぬという傾向があるのは、これは右も左も同じ。

 佐々木日出雄はこの後、内田領事より、治安を妨害する人物として3年間の朝鮮在留禁止を申し渡された。

(「明治28年7月8日から明治28年7月23日」p8より抜粋、()は筆者)

(略)

 尚又、佐々木日出雄は明治二十三年中より当国に来り、今日に至る間、何等の職業も有せずして、常に過激の言論をなし、傲慢無礼、言語を慎まず、本邦人間にありて壮士狂人と目し、交際をなさゞるの姿あるを以て、失意の局、韓人間に往来し、政治上の議論をなし、安寧の妨害をするに至るべきものと認め候に付、不日在留禁止を命ずる心算に有之候処、今回、朴泳孝事件の如き陰謀の実否を問わず、彼れが韓人、韓在益なる者に筆談の結果として、俄かに其禍機を早めたるものにして、其事実は別紙調書により判明致候間、此亦在留禁止を言渡候。

  内田領事は、この外20名ほどを取り調べ、佐々木以外にも2名を在留禁止処分としていてる。いずれも不逞日本人と見ての処置であった。

 

不逞日本人の取締りをすべし

 佐々木日出雄のみならず、この頃には不逞日本人の渡韓者が増えてきていることを井上公使が憂慮し、その取締りを日本政府に求めている。そこに報告される日本人というものは、戦争に勝利し傲慢不遜に陥っている姿であった。

(「鉄道電信其他ニ関スル日韓条約締結方交渉一件/分割3」レファレンスコード B07080194900 p38「機密受第五三三号」より「渡韓者取締の事」のみ抜粋。その他項目を含めた全文はこちら。()は筆者)

    渡韓者取締の事

 昨年已来各種の日本人、陸続渡韓し、種々の目論見を実行せんとし、動もすれば独立扶植の恩義を題し、戦勝の余光を藉り、以て種々の難題を持掛け、様々の注文を為すが故、朝鮮官民共に甚だ迷惑し、果は日本人に対し恐怖を懐くの情弊を生ぜり。
 近着の京城来電に拠れば、過る十五日、櫻間某、兇器を携帯、朴内部大臣の邸に侵入暴行し、又同二十一日、有馬某、金外部大臣の通行を見掛け、其乗輿を押止め甚しき無礼を加え、此等の為め凡朝鮮人、我人民に対し大に嫌悪の意を喚び起したるのみならず、兼て日本人の挙動を見て専横なりとしたるものをして、著るしく厭嫌の度を高めしめたりと。

 商界の有様亦然り。開戦已来、支那商人は挙げて帰国せり。我商人にして彼等の得意を占むる実に此時にありしも、奈何せん、我商人は親和と実直とを以て商業に従事するものなく、商界の強敵たる支那人の不在を奇貨とし、威迫的の商売をなし、戦争前よりも一層朝鮮人を酷遇するの観あるは、実に慨嘆の外なし。
 今や支那商人は続々又帰来せり。彼等は朝鮮人と歴史上の親和力を有する上、舗商にせよ、行商にせよ、団結力と忍耐と倹約とを以て従事する故、商戦上彼等の為め敗を取るは、昨年七月より幾層を加うるに至らんとす。

 従来、日本人の朝鮮人に対する種々圧迫手段を以てし、平和の今日となりては殊更人足共に至る迄、東学党は我之を退治せり、独立は我之を為さしめたり、との気焔を以て彼を威圧するにより、彼等厭嫌の意を益深からしめ、尚支那人に対する亦軽蔑暴行を以てするの情勢は、日一日より甚だし。
 此れ支那人と朝鮮人との間に有する歴史上の親和力をして一層増加せしむるの行為にして、将来日本人は、愈信用を失し、終に朝鮮官民共に我政府并に人民を嫌悪するに至る必然たり。
 又、近来の如く各種の日本人、商界を跋扈し、加うるに一方には料理茶屋芝居軽業の如き贅沢物の数多なるに従い、亦我商人等の驕奢を増長する故に、我物品も高値売却せざるを得ざるの理なり。

 故に此際内地に於て渡韓規則を制定相成、渡韓者を厳重に取締らざれば、今後如何なる珍事を生ずるやも料り難きに付、至急取締法を設けられ、将又我領事に行政上の権力を充分に与えらるゝ様致度候。

(中略)

 明治廿八年七月一日
      特命全権公使伯爵井上馨
  外務大臣臨時代理侯爵西園寺公望殿

 「実に慨嘆の外なし」と。全くその通りと言う外はない。井上馨の苦労も知らずに当の民間日本人はいい気なものである。「この愚民どもめ!」と井上がカミナリをゴロゴロ言わせているのが聞こえてくるような。
 これに対し日本政府は、以下のように厳重に取り締まることを7月11日井上公使に伝えた。

(「同p43欄外」より)

機密送第四五号(中略)

一、渡韓者取締の事に関しては、明治十六年三月十日付第九号布告を一層励行し、且適宜の取締法を設け、厳重に施行すべきことを各領事へ改訓令置候。

 その布告については「在留日本人取締規則を制定」で既に記述した。
 不逞浪人佐々木の件は、この後に起るのであり、せっかく井上が進めてきた改革の事も、朴泳孝が反逆罪を着せられて遁走した結果、殆ど水泡に帰すことになっていく。もっともこの件が無くとも、朴が政府から放逐されるのは時間の問題ではあったろう。

 なお、朴泳孝とそれに従う者数人は、仁川に逃れ、そこから日本に向かった。

 さて、朴泳孝事件について、外部大臣金允植、度支大臣魚允中が後に語ったものは次の通りである。

(「明治28年7月8日から明治28年7月23日」p37、()は筆者)

内閣通知
廿八年七月二十三日接受

機密発第七十号
機密受第六二五号

 朴氏事変の翌日[則本月八日]、国分書記生を金外部、魚度支、両大臣の許に遣し、内々意見を探問為致、并に其後、本月十日、小官、両大臣を訪問し、井上公使近々帰館の由を告げ、且つ内話及びたる要領別紙に載録し、御参考迄及報申候。  敬具。
明治廿八年七月十二日
      臨時代理公使杉村濬
  外務大臣臨時代理
   文部大臣侯爵西園寺望殿


(別紙)
  本月八日、国分書記生を金外部、魚度支に遣わしたる節、両氏の直話。

金外部直話
 金前総理は、朴泳孝隠謀発覚の事ありし以来、両陛下の御思召特に厚く、無二の忠臣として待遇せらるゝ如き観あり。去れば再び総理に復職せしむるは難からずと雖ども、如何せん、朴泳孝と相容れざりし金前総理をして復職せしむるときは、外観上終に此回の事件は朋党の争に原因せらるゝ如く想われ、世間の批評を受くべし。[復讐的政治なりとの感情を起すに至らん]故に、吾々は金氏就職を望むも、是を断行し難き事情の為め、姑く前様を維持せんとの事に内定せり。
 然るに予が憂慮する所は、朴泳孝は昨今強硬に対王妃策を執り、政治上厳然たる地歩を保って、内閣は宮中の濁流に掻き乱されざるべしと努めたるは事実なり。
 事情已に如此、此回の事件が、証拠不充分にも拘わらず、如何に迅速に決行せられ、如何に排朴主義の中宮に時機を与えたりしかは、推して知るべきなり。[日本書生の筆談なるものが唯一の証拠物と見られたるぞ、是非もなし]
 是れより宮中政治[所謂君権恢復]は再び端を開かん。王妃の自侭は追々萌され、扠手此際に於て、内閣は能く是に抵抗して改革事業を決行し得るや否やは、甚だ覚束なし。予は窃に以為らく。井上公使、早く帰任あって金氏をして復任せしめ、能く内閣員の一致結合を斗り、以て対妃策に出でざるべからず。若し金氏復職の事、井上公使の斡旋に出たりとせば、前段朋党軋轢の結果にあらざる事を証し得べく、而して金氏敢て其復職を辞せざるべし。
 最早王妃は間接に干渉手段を執りつゝあるものゝ如し。即ち洪啓薫、李学均、玄興澤などが、訓練隊長に新任せられたるの一事は、是れ暗に兵権を王妃の手中に収むるものと見て不可なからん。
 宮中と外国公使との間に這回の事に就き、何業の関係なきは予が保証して疑わざる所なり云々。

   本月十日、本官訪問の時、金氏曰く。近頃窃に聞く所に拠れば、王妃、君権収復の事に付、屡々俄公使に依頼されたる処、俄使は、「内閣は君主の内閣なれば、政権の此に在るは当然なり。若し君主が内閣の権力を奪取り、余り自身に之を振過ぎるときは、国家滅亡に至るべし」と云って之を拒絶したり云々。

魚度支直話
 金前総理をして直に復職せしむる能わずと云うに至っては、金外部と同様の意見なり。
 朴氏去るに至れるは、本人に対しては誠に不幸とも云う可けれども、内閣に執っては寧ろ便利ならん。何となれば、彼れ十年他国に流寓し、大に経験をも積み、入閣の上、必らず一と廉の仕事を為すならんとは一般の信用する所なりしに、左はなくして、入閣以来内閣部内の折合始終宜しからず。竟に今日迄風波中に経過せしなり。斯ては是の先きと雖ども内閣の無事は保つ可からざるに似たりし故に、予は寧ろ本人の不幸と憫めども、内閣協和の為には却て利益なりと信ずる所以なり。唯だ此上は一は対王妃策にあって、頗る困難を感ぜらるゝなり。
 此回の事件に就ては別段外国公使と連絡なしとの事は金外部と同様の意見なり。

 同氏は此回、朴氏が隠謀の企てありしとの事に就ては、多少の擬似の念を存するものと推測せられたり。

  本月十日、本官面会の時、魚氏曰く。今日金宏集氏を総理に押すは易々の業なれども、目下王妃が君権収復に熱心最中なれば、必ず衝突を生じ、金氏に傷を負わしむるに至る可し。若し衝突を避けんとせば、勢、王妃の命令の侭、唯々諾々たらざるを得ず。故に王妃を防ぎ能う丈の手段を尽し、地盤の稍々堅きを待て、金氏を推立する積りなり。今日に当りて、金氏と地位を争うものなければ、少々時を後れたりとて入閣の機を失う掛念なし。憂う所は、王妃より動かされざる地盤を固むるに在り。今日の勢なれば、王妃は必ず何等の失錯を生ずるに相違なし。此機に乗じて之を抑制する方法を設く可し。[其意、若し井上公使を頼むか、然らざれば大院君を利用せんとするものゝ如し]

 井上馨が苦労して大院君と王妃の政治への口出しを封じ込め、国王の権力の濫用も制限して、内閣政府に全権を集中するという政治体制に仕立て上げたのもつかのま、朴泳孝がひっかき回したかたちで内閣は崩壊。で、その朴泳孝も足元をすくわれて次期政権も吹っ飛び、ついに王妃閔族は権力を取り戻しつつある、と。

 ついこの前の、「我ら朝鮮人の粛然たる誓い」だの、国王が世子や大院君などの王族と文部百官を引き連れて宗廟に誓った「洪範14条誓告」だの、あれは何だったんでしょうかねえ(笑)
 約束とか誓いとか、この国の人にとってはその時点でのパフォーマンスでしかないんでしょうなあ。

 まあとにかく、朴泳孝事件によって、王宮と政府との権力闘争という新たな局面を迎えることになったわけで。今や朝鮮政府の重鎮、金允植も魚允中も、王妃に対してなんらかの対策をせねばならない、と考えているということである。
 で、その方法とは、井上公使の説得を頼むか、またまた大院君を利用するか、ということらしいと。

 

王妃跋扈しては国家滅亡すべし

 タイトルは大院君の言葉である。
 大院君が今度の件をどう考えているかは、以下の報告にある。

「明治28年6月28日から明治28年7月17日」p10、()は筆者)

電受第八六五号 明治廿八年七月十一日午後四時四十一分発 午後八時着

 追々探偵したる所に拠れば、朴泳孝を陥るゝ計画を立てしものは愈々、愈(兪)吉濬にして、金宏集、沈湘薫、コウケイクン[洪啓薫]等と両三日前より密議したるものゝ如し。昨日、及今日とも沈湘薫は内々人を派し、自分は王命に依りて無余儀、談密議に加わりたることを弁解し、且つ当館の助力に依りて内部大臣たらんことを望む旨を述べたり。
 昨今の模様にては、総理大臣以下の位地は、一方は閔党を入れんと欲し、一方はハリウ(派流?)党を入れんことを欲し、睨合の姿なり。
 大院君は人を派し、今日の如く王妃跋扈しては国家滅亡すべし、昨年は日清両国の大勢に暗く、事を誤りたるも、今度は万事日本公使の意思を受け、王妃取抑え方に尽力したし、と申越せり。魚允中、金允植等も亦、内心大院君を利用せんとする考案あり。又、同君より岡本へ、李載冕を宮内大臣とせば、不充分ながらも王妃を制するを得べき旨、申越せりと。
 但し大院君の事に付ては本官は常に之を抑え置く方針を執れり。今朝、井上公使の来電に接し、直ちに内謁見申込みたり。
         杉村代理公使
 大臣

 「今日の如く王妃跋扈しては国家滅亡すべし。昨年は日清両国の大勢に暗く、事を誤りたるも、今度は万事日本公使の意思を受け、王妃取抑え方に尽力したし」と。
 もっとも、王妃を仇のように思っているのは昔からであるし、今に始まったことではないが、少しは世界の大勢を知ったものとしての発言であろうか。
 王妃が支援を請うたロシア公使すら、「若し君主が内閣の権力を奪取り、余り自身に之を振過ぎるときは、国家滅亡に至るべし」と、言っているからねえ。

 そもそも国王王妃は、国政よりも王宮の経営に汲々としていたと言えよう。また、王妃同族の閔氏をいかに利権に預からせるか、ということにも。
 「国王王妃の眼中は王室又は外戚あるのみにて、朝鮮と云う国家は幾んど眼界の外にあるものゝ如し」と。
 これは当時、4回にわたって謁見を受けたイザベラ・バードの旅行記からも窺え、ことに王妃の関心は自分が自由に行使できる権力と財にあった。王妃は相変わらずの浪費家であり、日本側が苦労して朝鮮兵や文官たちの給料を調達したり国家予算のほぼ全額を貸与したりという中に、幾度も宴会を開いているような人なのだから。

 国の仕組みを改め、財政を建て直し、政府に全権を集中して、責任ある外交と内政を執り行う。そのためのこの朝鮮内政改革というものであり、朝鮮国全体の現状の改善と将来の発展にかかわる、まさに国家の運命を定める一大事業であった。
 しかし、王宮内の狭い世界に生きる王妃は、所詮は、「胞裡只自己あるを知りて国家の何物たるを知らざる頑愚に向い、内政の改良などを説くは、宛も小学校の児童に向い政治談をなすと一般なり」と井上を歎かせた人らの一人であったと。

 王妃を巡ってこの時点で見えてくるものは、以下のようなものとなる。

 ・ 大院君は、王妃が今のように振舞うなら国家は滅亡に至るだろう。よって、王妃を取り抑えることに尽力したい、と考えていること。
 ・ 朝鮮政府の要人も、王妃対策を第一と考え、なんとか王妃を防ぐ手段を尽くしたいと考えていること。

 ・ ロシア公使ですら、王宮の振る舞いを危ぶんでいること。

 ・ 一方、居留日本人は、王妃はロシア公使と結託し、国王を擁してロシアに逃亡するかもしれないと考えていること。また、朝鮮政府内での王妃への反発は、王妃を害することも含むものである、と考えていること。


 三国干渉以降、日本人のロシアに対する敵対感情は著しいものになっていた。また、日本人は朝鮮国王王妃すなわち閔族がロシア公使へ接近するだろうと当然のように予想していた。また、朴泳孝ら朴派の者が流す噂がそのことであった。当然、日本人はそのような王妃の行動を不愉快に思っていたろう。
 まして、当時の日本人としては、朝鮮国の独立と内政改革、そのことのために大勢の日本人が大量の血を流してまで清国と戦争をしたのである、と思う者も少なくなかったであろうし。

 

王妃閔族を集め、国王誓いを破る

 さて繰り返しになるが、朝鮮国の腐敗と弱体化の大原因は、王妃一族すなわち閔族とその派閥が朝鮮中央から地方に至るまで掌握し、虐政を敷いて人民の生命と財産を奪っては悲惨の境遇に沈めさせ、もって朝鮮全土を疲弊させたことによる。
 井上馨の強力な指導のもとに出発した内政改革は、まず改革派の人材を選んで組閣し、国王専断と王妃の政事への容喙を封じ、大院君の影響力を遠ざけ、内閣に全権を集中して改革詳細を実行するというシステムを構築するに至った。

 しかし国王が百官を率いて祖先の霊廟にまで改革実行を誓ったのは、所詮パフォーマンスに過ぎないものであった。井上公使という重石が取れたからか、やがて王妃は再び閔族を地方から呼び集め、国王は誓いを破って人事任免を再び国王専断とすると、7月9日の御前会議で宣言した。

(「明治28年6月28日から明治28年7月17日」p1、()は筆者)

電受第八四九号  明治二十八年七月十日午前九時三〇分発
         明治二十八年七月十日午后三時―分着
(中略)
 同日(八日)、王妃より閔氏の地方に在る者を呼び寄せられ、又、昨九日の御前会議に於て、国王より自今勅任官は予一人の随意に任免すべし、と御沙汰ありたる処、魚允仲の外一人も抗議する者なく謹で御受けしたりと云えば、将来の事、甚だ案ぜられたり。昨日、鄭秉夏、安駧壽等飛報して、此際井上公使早く帰任せられざるときは再び昨年以前の状に復すべしとて、深く恐れを懐き居れり。
               杉村代理公使
  西園寺大臣

 

 それにしても、この間の朝鮮政府内の騒動を王妃の権謀術策によるものと見た場合、その手腕は実に見事なものであったと言うほかはない。
 成ったばかりの改革の金宏集内閣を、朴泳孝を巧みに取り込んで解散させ、井上公使が帰朝するや今度はその朴泳孝を放逐し、唯々諾々と従う大臣たちを配置して、改革案根幹を揺るがす国王専断政事に覆す、つまりは王妃の思い通りに政事を進めていくという。
 その改革に真っ向から対立する動きは、露仏独三国の干渉の結果を見てからのものであろうし、また、日本政府が正式に決定した朝鮮政府への方針すなわち「なるべく干渉をせず、単独支援はせずに関係国と協力して改善するを目的とする」とあり、以前のように干渉がましく改革実行を迫ることが出来なくなるということを踏んでのことであろう。

 そもそも国家の改革と言う前に、日本政府と朝鮮廟堂とでは、国家観の違いがあったように思う。日本人は国家とは天下の問題であり、私ごとを越えた公のことと考える。したがって公共の福祉、国民全体の幸福ということも考慮しないわけにはいかない。
 しかし、朝鮮国王王妃は、国は王家のものであり私物に属する、と考えていたのではなかろうか。だからこそ主要な地位は王妃一族で占めるという極めて私的な考え方から外れることが出来なかったと。
 改革に取り組みだしてからというもの、国王王妃が繰り返し不満を述べたのは、あたかも自分たちの権力を内閣政府に奪い取られたかのように言っていることである。国王王妃が必要とするのは、国家全体のために働く者たちではなく、王家の言うことを良く聞く、自分たちの手足となる政府であって、魚允中のように反対意見を述べる者ではないと。そして案の定、この後に魚允中は政府から追出されることになる。またかつての勢道であった閔泳駿を再び政府に呼び戻そうとする。
 まあ、猜疑心の深いのがこの国の人柄であるし、だから頼るは血族のみという考え方なのは今日でも継続しているようだし。

 さて、国王は早速の金宏集帰任を望んだが、金宏集は暫く時期を待つことを望み、何度も辞退した。
 また当然、内閣は国王王妃の意のままになる人物等に次々と替えられた。

(「明治28年6月28日から明治28年7月17日」p43)

電受第八七七号  廿八年七月十三日午後八時三十分発
              十四日午前二時十分着

 本日国王に謁見して井上公使来電の意を奏上したるところ、其御答左の如し。

 朕は金宏集の再任を希望すれども、今直に之れに任ずるときは朋党の争に類する嫌あるに付き暫く時期を待んとて同人頻りに之を辞せり。且つ朴総理は依然在職なれば、何れ井上公使の来着を待って相談の上、金の再任を図るべし。

 又、同公使の意を金宏集に伝えたるに、同氏曰く。余は能く公使の意を了するも、少しく事情あれば時機を待て入閣するべし。余は決して一身の安を偸んで入閣を厭うものにあらずと。

 依て考うるに、金氏の意は将来内閣の安全なる見込つきて然る後入閣せんとするものゝ如し。
 昨日、「リケンエイ(李[金ヘンに憲]永)」は内部大臣に、「インヨウキュウ[尹用求]」は宮内大臣に任ぜられ、又国王は、日々閣臣と計り政治を行う旨の詔勅を発せられたり。
           杉村
 大臣

(「明治28年6月28日から明治28年7月17日」p44)

電受第八八四号  二十八年七月十六日午后二時四五分発
               十六日午后十一時五五分着

 昨十六日、宮内協弁金宗漢、其職を免ぜられ、米人リゼンドル宮内顧問官となれり。
 井上公使へ御通知を乞う。
             杉村
  西園寺大臣

 

 

井上公使、夫人同伴で帰任

 杉村濬の「在韓苦心録」によれば(「同2 後編 3」p4)、当初、現地では、井上公使が帰任に際しては3千人の兵を伴って入京し、朴泳孝処分の事件を大いに詰問するだろう、との説が盛んに論じられたという。よって宮中は大いに恐懼したらしいが、7月21日に井上が入京した時には、3千の兵どころか、夫人を同伴してと聞いて意外に思う者が多く、また日本人中の一部にも、さぞかし井上が戻ったら宮中に怒鳴りこんで王妃の頭を抑えて内閣を立て直すだろう、と予想していたのが、極めて平穏なものであることに、全く予想外のことと思う者もあったという。

 井上は先の7月1日の寄贈金の提案に際しても、「本官の希望は公使其人の細君の交際向等に熟諒なる人物を特に御人選相成候様致度」と述べていたが、自分自身が細君を連れて帰任したのである。勿論、王妃に接見させて親しく交際させようと思ってのことであろう。

 筆者は先に、「この間の朝鮮政府内の騒動を王妃の権謀術策によるものと見た場合」と述べた。しかし事の成り行きの詳細を見たとき、果してその通りのものであったかどうかは断定し難いものがある。
 例えば、金宏集内閣を崩壊させたのは朴泳孝の性急さとその過激な言動が関係しているし、その朴泳孝自身がついに国王王妃と不仲になった件も、先に朴泳孝が王宮護衛の兵を旧兵から新式の訓練隊にどうでも交代させようとしたことにあり、これこそ国王王妃をして改革に大なる不信感を抱かせた要因でもあろう。また、佐々木なる日本浪人の軽率な言動によってついに朴泳孝自身が反逆罪として断罪されるに至ったことも、王妃自身の権謀術策というよりは、たまたま王妃にとって都合の良い成り行きが展開したに過ぎないと言える。

 しかしながら、一連の騒動は当時の日本人からすれば、まったく王妃の権謀術策によるものと見えた、ということは確かなことである。更には、露国公使がこれに一枚かんでいるとも見ていたようである。三国干渉での露国憎しと思うならなお更のことであったろう。
 また、金允植、魚允中など政府の者や大院君なども、王妃の困った勝手気ままな振る舞いと見ていたのも確かなことである。大院君は「万事日本公使の意思を受け、王妃取抑え方に尽力したし」とまで述べているのだから。

 一方、井上馨はそのような見方はしていなかったか、どちらにせよ、その王妃と何とか和合しようとしていたということが、先の夫人同伴の件からも、また以下の報告からも窺えるように思うのである。

(「明治28年7月12日から明治28年8月12日」p28、()は筆者)

電受第九一四号 廿八年七月廿七日 午后七時十分発  廿九日午前十時十分着

 目今、露国へ対し、悪感情を起さしめざること先日本官帰朝の節、内閣に於て伝陳し、内閣に於ても御同説なりし。
 昨日は帰任したるに付、露公使を訪問し、種々談話の内に、露公使は、近来日本の新聞紙に濫りに虚説訛伝を掲載して、単に同公使を中傷すること甚しきのみならず、延ては両国の関係にも重大なる影響を及ぼすやも計られず、実に相互の為め又政府の為め充分厳重に新聞紙の取締あらんことを望む、とて、其虚説掲載の一例として、七月十六日発の讀賣新聞訳出したる神戸クロニクル(日刊英紙)記事を示されたり。
 依て本官は体能く弁解し置きたれども、今日の場合に斯ることのあるや深く注意せざるべからず。故に今後一層新紙の取締を厳にし、外交に関する記事は特に謹慎を加えしむることに致し、対韓将来の方略は、柴、佐々、等に内話し、全く同意し居るに付、野村内務大臣へ御話の上、右両人をして新聞記者に説諭をなさしむること便宜ならん。

 猶お過る二十五日、内謁見をなし、二時より夜に入り、九時ごろまで諄々と事情を君主王妃より細密に聞取り、余程都合宜しく疑惑も氷解するならん。
 就ては王妃のことを称賛しても、悪評下さゞる様最も御注意を乞うこと、又、佐々、柴、等に尽力せしむる手段、最も必要なり。臨時議会は何時開かるゝや。

          井上公使
  西園寺大臣

 この報告にあるように、井上は謁見において長時間の談話をしている。その後の度々の謁見も5時間以上を費やしたと後の報告で述べている。国王王妃と如何に意思疎通し融和するかに心を砕いていたことが窺われるものである。


 ・ 余談 在日朝鮮公使

(「本邦駐剳朝鮮国特命全権公使高永喜国書携帯着任ノ処前任弁理公使解任状携帯ナキニヨリ一切交渉事務ハ国書捧呈後ニ於テ接弁ノ件」より)

送第一一六号

 本邦駐箚朝鮮国新任特命全権公使高永喜、本月十九日を以て国書携帯着任致候処、前任弁理公使金思轍の解任状携帯無之に付、其到達を俟ち、一切交渉事務は国書捧呈後に於て接弁し、公使館事務は本月廿一日より管理致候旨、同公使より申越し、本大臣に於て承認致候間、此段御通知致候也。

       外務大臣臨時代理
明治二十八年七月二十六日 文部大臣侯爵西園寺公望
  内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿

 まあ相変わらずのようで(笑)

 

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