日清戦争後の日本と朝鮮(1)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

露国公使館から見た京城市街風景。画面右遠くに光化門と景福宮が見える。 明治28年(1895) William H Jackson 撮影

対韓方針をどうするのか

 さて、朝鮮のことに戻ろう。
 三国干渉が始まる前の4月8日の井上馨公使から陸奥宛の内申である。
 すでに日清戦争が終結を見た今、対韓方針を変更せざるを得ないのではないかと。
 ここで注目すべきは、当時日本政府の、日清戦争にかかわっての対朝鮮政策が、井上馨の言葉によって明瞭に述べられていることである。すなわち、朝鮮国に対する清国の干渉を根底から芟除して、その独立を強化し、自ら国を守ることができるように富強国に向わせる、ということである。
 まあ、当サイト資料集を通して読んでおられる方なら、今更言うことでもないのであるが、世間には、どうしても当時の日本を侵略者として断罪したいという人々が大勢いるようだから、言わずもがなのことを改めて言いたくなるわけで。
 で、その政策が朝鮮の内政改革政策を含むものであるところから、他国から見れば却って日本による朝鮮への干渉とも見えるわけで、そのことを考慮した井上の意見である。

(「明治28年4月8日から明治28年5月24日」p1〜p5)

廿八年四月二十五日接受
機密受第三一四号

三三号
    日清平和後に於ける対韓方針を定むる義に付内申。

 鉄道電信条約案要項に付、去月二十四日付機密第二十六号信を以て本官の意見を具申し、何分の訓令相仰ぎ置き候。右条約に付ては追々及具申候通り、当政府部内に国権を主張するもの多く、議論兎角一致せざる由に候処、数日前外務内務工務三大臣を以て調査委員と相定め候趣に付、遠からず閣議を一定し、我と協議を開くの運びに立至り可申と存候間、前記機密第二十六号信に対し可成丈早く回訓相成候様致度候。将又日清両国の間愈々平和に相復したる場合に於ては独り鉄道、電信条約に限らず、一体我が朝鮮に対する将来の政策は、此際其方針并に干渉の厚薄等確定相成り候事、必要と存候。

 抑々日清両国の開戦は本と朝鮮の独立問題より興り、我天皇陛下は既に之を内外に宣言せられ、且我政府より独手朝鮮政府を改良する云々、諸政府に対し放言したるに付、改良を忠告するのみならず、改良の実に干渉したり。故に本官は最初より朝鮮政府に対しては常に独立を鞏固ならしむるの実を挙げしめんと断言し、干渉をなしたり。

 然るに今日となりては多少の変態を考究せざるを得ざるは先般の貴電にて「魯政府は名実とも朝鮮の独立を毀損する可からずとの一条を以て日清平和条件の骨子と為す旨」御内報有之。且又近来各新聞の所報に拠りて判断するに、日清事件に対し英国も魯国と内々其意を合せたるやに被疑候。然るときは向後朝鮮独立の能く保全せらるゝと否とは、尤も内外人の注目する重要問題と相成り、諸強国は之を以て他日我対韓政略を拘束する唯一の鎖鑰と為すに立至る可くと存候。

 従来我対韓の方針は、清国の干渉を根底より芟除し名義及事実の上に於て朝鮮の独立権利を保全するに在りて、之が為め兵力を以て清国を斥け、朝鮮をして略ぼ独立の姿を為さしめたれば、各国共に我大儀を尊敬するは勿論に候得共、唯同国をして内政を整理して独立の基礎を鞏固ならしめ、并右鞏固に至る迄、内外の患害を被るをなからしめんとするには、将来朝鮮国は富強に赴き自ら其国を守るに至る迄は我国の義務として之を保護せざる可からず。左れば鉄道も我より之を架設し、電信も我にて之を管理し、且又守備兵も旧に仍て之を存置せざる可からず。
 加之朝鮮目下の形勢は実に腐敗の極度に達し居れば内政整理上勢多数の顧問官を採用せしめ、強迫的に之に干渉せざる可からず。

 然るに右鉄道の建設と云い、電信の管理と云い、且又内政整理の干渉と云い、孰れも多少朝鮮の独立権を損傷するに相違なきに因り、局外者をして、我は表面朝鮮の独立を唱うれども其実之を属隷とする野心ありとの疑心を懐かしめ、即ち我宣言と事業と相矛盾せりとの擬論を受くるを免れざる可し。
 左候時は之が為め他日諸強国の容喙を招くに至るも難斗に付、差当り左の三件に付、我政府の方針を御確定相成度候。

一 守備兵排置の事
 朝鮮を以て完全の独立国と認むるときは、日清両国平和に復し、日朝の同盟已むの日を以て我在韓の兵を撤去するは[或は我官民保護の為め若干を留め]当然なりと雖ども、現今の状況は我兵一旦撤去の暁には、東学党又は地方官従来民産を掠奪の怨恨に堪えず、名を東学に借り再燃して国内の紛乱を致すは必然と思惟せられたり。尚一層注意を要するは、従来の現在兵凡一万人斗、勿論悪弊多く且用に立つ可き見込なきにより帰休兵となすの見込、其他在京無用の官吏幾百人、地方に於ては監司所在地を除き府郡県州凡三百二十七ヶ所にて役員二万二千三百余あり。
 改良の為め官制を定めしむるに付ては凡一万六千有余の廃官吏を生じ候。就ては多少の変動は免がる可からざる事と被信候。
 如何にも急激なる改革着手と御驚愕も可有之候得共、財政の不充分と積弊を矯正せんとするよりして、止むを得ざる次第に有之候。

一 鉄道電信条約の事
 本件に付、機密第二十六号信を以て鄙見委■申進候に付、熟と御詮議相成度候。
 右に付追々申進候通り、訂約に至る迄は非常の強迫手段を要することと致推量候処、右強迫手段は到底秘密を保つこと能わず、我は之を秘密にせんとしても彼方にては困迫の余り少くとも英米魯の三使臣へは内々相談を試むるに相違なく、左候時は外見上甚だ宜しからず。且又当国人は邪推強く猜疑心深き方なれば、我国は野心を包蔵すとの観念は、今に至る迄心裏に消滅せず。故に彼我両国の間に困難事件の生ずる毎に其疑心忽ち増長して処弁上に妨害を与うるは既往に徴して明なることに有之候。依て其辺をも併せて御再考相成度候。

一 内政改革の事
 右は改革の目的を達せんとするには、今日迄の如く深く之に干渉し、一方には大院君王妃等の動もすれば妨害を為さんとする者を押え置き、他の一方には施政の方針を立て規画を授け且つ我顧問官を薦用せしめ、恰も手を取らぬ斗りの世話を為さゞる可からず。
 然るに局外者より之を観るときは、右等の干渉を以て朝鮮の独立権利を毀損すと為すも難斗と存候。依て其嫌疑を避けんが為めに、向後は改革の成否には深く頓着せず、干渉の手を縮めて朝鮮政府の自明に任す可きや、若くは我政府は朝鮮の内政改良を以て既に内外に宣言したることなれば、改良を成功せしめんが為め、興る所の干渉は多少深入するも差支なしとするか。

已上三件に付、至急我政府の議、御確定相成り候様致度、此段及内申候也。

 明治二十八年四月八日
    特命全権公使伯爵井上馨
 外務大臣子爵陸奥宗光殿

 露国政府が、日本は朝鮮の独立に干渉しないことを日清平和条約の骨子とするべきと言い、また英国政府もそれに同意したかもしれない、ということを問題にする井上馨。朝鮮政府を改革すると各国政府に放言した以上、朝鮮政府に忠告だけでなく干渉をしたと言われかねないと。

 国王依頼の顧問官なのだからそんなこと気にせずともよかろうと思うけどねえ。まあ、そのことを国王が諸外国に宣言していたわけでもないから。

 今後、朝鮮がいかに独立を保つかは露国のみならず各国の注目の的となるだろうと。よって、腐敗の極に達している朝鮮の内政を整理改革するためには強迫的に干渉せねばならないが、鉄道といい電信のことといい、また内政改革といい、いずれも朝鮮の独立権を多少は損傷することになるのは間違いなく、そのため後日他国より容喙を招くことも計りがたいと。

 で、以下の三点を内申すると。

1. 守備兵配置のこと
 朝鮮を完全な独立国と認めるときは、日清両国は平和となり、日朝の軍事同盟も終わる日に、官民保護のために若干を置くとしても、それ以外の在韓の兵を撤去するのは当然であるが、今の状況では、一旦撤兵すればまた東学党や或いは地方官が人民の財産を略奪することにより怨恨が絶えず、また乱を起こすことになるのは必然と思う。また現在の朝鮮兵はおよそ1万人ばかり。もちろん悪弊が多く役に立たないので帰休兵とし、或いはまた無用の官吏は何百人、地方に於いては327箇所、2万2千3百人余りがいる。改革のためにはおよそ1万6千人余りを廃官とするなど、多少の変動は免れがたい。しかし急激の改革過ぎると驚かれるだろうが、財の不足と積もった悪弊を矯正するために止むを得ないことである。

2. 鉄道、電信条約のこと
 このことが締約に至るまでには非常な強迫手段が必要となることと推測する。この強迫手段は秘密裏に行うことは出来ず、たとえ秘密にしようとしても、朝鮮政府が困窮の余りに英米露国の公使たちに相談することは間違いない。その時は外見が悪いだけでなく、この国の人々は邪推が強く猜疑心が深いので、日本は野心を抱いているとの観念はまだ消えない今、このような困難なことがあるたびにその疑心は益々増長し、妨げとなるだろうとは今までの事に照らし合わせても明らかである。よってその辺も合せてこの事は再考されたい。

3. 内政改革のこと
 改革の目的を達成させようとするなら、今までのように深く干渉し、大院君、王妃などの妨害も押さえ、施政の方針を立て、計画を与え、且つ顧問官を用いさせ、まるで子供の手をとるようにしていかなければならない。しかしこれを第三者が見るとき、それらが朝鮮の独立権を毀損していると思うことも計りがたいことである。よってその嫌疑を避けるため、今後は改革の成否には深く頓着せずに、干渉の手を縮小して朝鮮政府に任せるとすべきか。或いは我が政府はすでに朝鮮の内政改革を内外に宣言したことなので、改革を成功させるために干渉は多少は深入りしても差し支えないとするべきか。

 以上三点を政府で至急確定されたいと。

 

あくなき政争−朝鮮内閣の破裂

 しかしこの後三国干渉が始まり、日本政府としてはそれどころではなかったのか、その返事は見当たらない。で、三国干渉問題もすんで暫くして井上から次のように報告。

(「明治28年4月8日から明治28年5月24日」p27〜より抜粋、()は筆者)

廿八年五月十九日前十時二五分発  后三時東京着
陸奥外務大臣    在京城 井上公使

(略)

今や内閣員中、大軋轢中にして、趙陸軍大臣、職務失墜の為め免職云々の争論に付、朴泳孝は陸軍大臣の椅子を自ら占めんと欲し、同人の党派は反対党と争い中なり。朴泳孝及其他より、過日本件に関し内々国王及び王妃へ献白する所ありたるの結果として、特別内閣会議を招集せられ、両党会合したれども、到底平睦の見込なきに付、更に五月十七日、御前会議を開きたるに、国王殿下は内閣総理大臣を趙氏免職反対党の長として大に御議責あらせられしに付、金総理は其職を辞するの風説あり。若し果して然らば、大蔵、外務の両大臣も同じく辞職すべし。
 目下其党派を組織中なる朴泳孝は主動者にして万々国王王妃の寵あるを利用し居れり。

 刻下の波乱は其侭経過すべきかなれども、又候起り来るべければ、本使は如何なる手段を執るべきを知らず。

 平和の発表せらるゝや、日本は独り事を恣にすること能わざるべし、とは朝鮮人の覚知する所なれば、何れの党派にも干渉を試み、之を責る等のことも為せば、必ず外国公使の助を呼ぶに至るべし。

 両党共に均しく正義を欠くものにして、只自家に権を得んことをのみ之れを努め居れり。

 左の如き次第に付、本使は事の経過を黙視し居れり。後難を引受るの覚悟なければ此等のことに干渉は到底出来ず。故に干渉の程度、即ち朝鮮政略の大綱を決定し置くこと必要なり。而して我政府御所権あるは勿論なれども、本使も亦本使の意見あり。故に本使は将来の我政略を御論議する為め一時の賜暇を以て帰朝すること、目下の緊要と存ず。本使尚お「リューマチス」にて困難し居れり。
 速に御答を乞う。

 2月にいったん治まった朝鮮政府内の騒動が再燃したと。またも朴泳孝が起こした騒動らしい。井上にしてみれば「どっちもどっち」だと。また、朝鮮政略を定めるに当っていろいろ自分も意見があるからひとまず帰国したいと。  で、その続報が次のもの。

 

(「同上」p31より抜粋、()は筆者)

電受六八一号 廿八年五月廿二日午後 0時三十分発  (同)三時三十分着

(略)

趙軍務大臣は遂に免官となり、総理大臣は辞表を出し、外務度支の両大臣も辞表を呈するの決心なりと聞く。事態甚だ面白からざる次第なれども、本官は殆んど手の付け様に困却せり。何となれば、今回騒動の首謀者は矢張朴泳孝にして之れを圧えざれば纏り付かず。然るに今之れを圧えて結果を見んには、十分強大なる圧力を加えざるべからず。其結果は、露国をして朝鮮の事に容喙せしむるの機会を作為すると同然なり。
 又更に考うるに、党派の軋轢陰謀は朝鮮人の固疾にして、到底之れを除くことは覚束なし。今仮りに朴泳孝を抑制して一時を弥縫するも、亦忽ち同様の事を生ずること疑いなし。
 右の事情なるが故に我対韓政略の方針確定せざるに当り、余り立入て干渉して、他国の容喙の機会を与うるは不得策と思惟し、事変経過をちゅう視し居る処なり。我対韓政略の方針を一定することは、目下一日も忽にすべからざる急務なり。

               京城 井上公使
   陸奥外務大臣

 「党派の軋轢陰謀は朝鮮人の固疾にして、到底之れを除くことは覚束なし」と。
 いや全くその通りで、百年以上経った今日でも続いておるわけで。時には斧やチェーンソーまでが振るわれ、消火器の煙が充満する国会内はもう完全な戦場状態と、この頃よりいっそう過激になっておりますぞ。(笑)

 さて、上記22日の電報と同日付で、その詳細の報告。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p1〜7、()と会話の「」は筆者)

機密受大四二九号  廿八年六月一日接受

五十二
  趙軍部大臣進退に付、内閣破裂の傾向を来したる件

 本年二月頃、訓練大隊長申泰休の身分に関し、朴内務大臣は之を却けんと主張し、趙軍務大臣は内務大臣として武官の進退に容喙するは越権なりと論争し、結局本官の仲裁に依て申泰休は其侭在職することに相成り候処、尓来趙軍務は新党派即朴氏を離れて旧党派金総理に傾きたるが為め、常に新党の悪む所と相成り、其後同大臣は我軍慰問として占領地へ派遣を命ぜられ不在中、適々新官制の発布に遇い、軍部内主要の位置は尽く朴内部の一派を以て充たされ、随て協弁権在衡も亦同派に傾きたれば、同大臣は恰も孤立の姿にて、部内の事務、意の如くならず、加之、同大臣不在中に調査したる会計上の結果にて、同大臣は昨年来官金若干<凡五千余円>を遣い込みたりと揚言し、劇しく之を攻撃したりしが、同氏帰京後右金高は客年事変已来自身の担当せる東学党探偵日本軍隊案内の為め、官員を出張せしめ、若くは其応接等種々の雑費に支出したる旨申出て、略ぼ信用を措く可き理由有之。
 加之、本年陰四月一日已前即会計法実施前に係るものは、各衙門とも一応の取調を為す迄にて深く査究せざるべし、との議にて同事件は姑く泣寝入の姿に帰せし処、本月(5月)十一日に至り、又も趙軍部の身分に関し新事件を生じ、再び内閣の議に上れり。

 事の発端は、本月上旬京畿道楊州牧使赴任に付、護衛兵一分隊派遣の必要あり、同月十一日之を閣議に提出したるに、議件多く其日は裁可を請うの暇無之、依て其官房長鄭蘭教に裁可済次第派兵の準備を為す可しと命じ置きたるに、鄭官房長は如何に承知したりけん、其夜直ちに命を下して出兵せしめたる趣、翌十二日朝に至り始めて軍部大臣の耳に入りたれば、同大臣は大に驚き急に勅裁を請わんが為め参内したる処、豈に料らんや、大君主より勅裁を請わずして兵を動し、并に勅定前新制の軍服を着用したりとの二件は不都合なるに付、進白を許さずとの御沙汰を蒙り、尋で総理大臣を召し、右二事件を内閣に於て詮議す可しと厳達したる処、総理大臣は軍服の義は陛下既に勅裁ありしと承知せり。且又出兵一件に付、若し軍部大臣を過失ありとせらるゝ時は本大臣も亦其責を免るゝ能わず、何分にも御処置を仰ぐ迄なりと奏上し、直ちに退出したりと云えり。

 扨右の如く大君主は出兵の事を早く承知せられたる次第は、反対派の推測に拠れば、十日の夜、鄭官房長は出兵の命令を発したるや否、直ちに之を朴内務へ内報し、朴内部は其夜参内して密奏を遂げたるものにて、総理大臣入謁の際に、障子を隔てゝ朴内部の声を漏聞したりと云えり。

 翌十三日は国王の勅諭もあれば、趙軍務大臣処分の義に付、内閣会議を開きたる処、議論は二派に分れ、朴、徐、金[農商工部]、朴[学部]の四大臣は免職論を主張し、金[総理]、金[外部]魚の三大臣は、非免職の説を固持して決定せず。一時朴内部は涙を垂れて激論に及びたりと聞けり。

 同十五日夜、斎藤、星の両氏来り。内閣不折合の事情を述べ候に付、本官は翌日右両人を派し、朴内部の底意を叩かしめんと期したるに、斎藤氏の注意にて翌十六日、朴内部より本官を訪問致候に付、熟と意見相尋ね候処、同氏の見込にては、若し内閣の折合を保たんと欲せば、趙軍部を除きし上、魚度支、兪(吉濬)総書等をも併せて除かざる可らず。乍去、今日急に之を除かんとするにあらず。猶お趙軍部処分に関し、総理大臣との折合を付けんが為め、金外部大臣へ委細議し置きたること有之趣、申出候に付、一応、金外部の意見をも承知致度と存じ、翌十七日午前、同官の来館を請い、近日内閣不折合の事情相尋候処、金外部曰く、
「内閣の不折合は実に将来の為めに案ぜられたり。金総理は善く人の説を容るゝ方なれば、多少の譲合付くと雖ども、朴内部は自己の発議に係ることは一歩も譲らぬ方なり。故に今日趙軍部処分の事は幸に妥協に帰するも、他日再破綻を免れざるは鏡を掛けて見るが如し云々」
 依て本官は仲裁方案を同大臣に授け、先ず金総理の同意するや否を試みたるに、其日午後は王命に依て御前会議を開く都合なる趣、兼て承知致候に付、朴氏に托して右会議の延引を取計わしめたるも、行われず。
 而して御前会議の結果は趙軍部は其職を免ぜられ、金総理は辞表を呈するに至れり。其詳細左の如し。

 各大臣は他の事件に付、例の如く会議の結果を奏上し終りたる処、<是日、趙軍部の事は故らに削除して奏上に及ばざる相談なりしと云う>

大君主曰く「前日軍部大臣処分の事を総理大臣へ達し置きたるのに、今日に至る迄未だ何等復命し来らず。抑々卿等は該事件を如何に思うや」

金農商工部進奏して曰く「趙軍部大臣の罪数うるに余りあり。勅諭の通り免職当然と存ぜり」

徐法部曰く「臣も亦同様に考居れり」

 朴内部、朴学部、亦同様の意味を奏上したり。是に於て金総理、魚度支の二大臣は之に対し弁解せんとしたる処、
 大君主は声色共に獅ュ勅して曰く「軍部大臣処分の事は朕既に之を命ぜり。然るに大臣其命を奉行せざるに於ては、是君主の権、国に行われぬと云うものなり。抑々国家統治の大権は君主に在ることは各国皆同様にて、井上公使も亦斯の如く説けり。故に朕が命令する所を奉行せざるに於ては、是れ君主なきも同様なれば、朕は此国に君臨することを欲せず。爾等宜く此国を共和政体と為す可し。趙軍部の罪は我国の旧法に拠れば死に当るものなり。断じて之を仮借するを得ず云々」

金総理曰く「道理に拠らず単に免官せよとの聖旨ならば一の軍部大臣を免ずるは別に難事無之、唯其後任は何人に命せらる可きや」

大君主曰く「別に後任を必要とせず。協弁に代理せしむるも可なり」

金総理復た曰く「鄭蘭教は必ず免官せざる可からず」

大君主曰く「其事は必ずしも急を要せざれば今に於て決定するに及ばず」

 是に於て辞を収め謹んで命を領して退闕し、翌十七日、趙軍部は本官を免ぜられ、同日より金総理は引入りて登闕せず。尋で辞表を奉呈したるに付、一昨廿日、之を内閣会議に掛けたる上、御聞届不可相成との案を付し、奏上の手続に及びたる由なれども、同大臣は飽迄辞職の決心なりと聞けり。尚お同大臣の外に魚度支大臣、金外部大臣も引続き辞表を奉呈する見込なる由。

 抑々旧新派両派の久しく相容れざるは必ずしも其所執の主義如何に関せず、其他に協和し難き原因少なからず。其一は、旧派は着実にして久しく国民に徳望あるも、新派の首領たる朴徐二氏は本来国民より罪人視せられたるに、俄かに帰韓して政局に立つものなれば、其徳望は遙かに旧派に及ばず。随て彼等は政府に根拠を堅むるを以て唯一の急務と為し、多く同臭味の人々を集め、可成丈権力を自党の手に占めんとするものゝ如し。是れ旧派の疑惑を買い衝突を招く一原因なり。
 其次は、新派の朴徐両氏は王宮と親縁あるを以て、屡々宮闕に出入すれば、随て同氏等は国王の権力を借て其意思を達し、国王王妃も亦同氏等に依て其希望を果すこと往々可有之に付、反対派の嫌悪を避くるを得ず。是れ旧派が朴氏を指して未来の世道(勢道)と為し、事々物々衝突を興す所以なり。故に目今の有様にては、新派は表面当館と親和の形を装うも、内実国王を戴て旧派を制し、旧派は偏に本官の声援を頼み、新派の膨張を防がんとすものゝ如し。

 左れば本官は孰れに向ても援助を与うる能わず。尤も、新派に左袒して旧派を却くることは敢て難からざるも、将来日韓両国の為め、必ず得策の処分と認むるを得ず。若又旧派を助けて新派を却けんとせば、勢非常の手段を用いざる可からず。然るに一方には先般来屡々御注意を受け候通り、俄国の故障も有之候えば、若し深く之に干渉する時は、或は其故障の度を高め、終に大事に至らんとの恐れなしとせず。

 旁以て本官は其処分に苦み、姑く傍観して自然の成行に相任せ置き候。
 尤も、今後の成行如何に依ては更に考案を廻らし、一時弥縫方取計可申と存候え共、政府部内の軋轢は必ず此度に止り申間敷、左候時は彼等能く内政改革の実効を奏するや否、頗る被案候。依て此際彼等の事情を酌量し、将来の目的を定め、之に従て我が対韓の方針を一定することは急務と存候間、事宜に依ては本官一時帰朝の上、鄙見を陳述し、議事取極め度ものと存候。
 右及具申候也。

 明治二十八年五月二十二日
     特命全権公使伯爵井上馨
   外務大臣子爵陸奥宗光殿

 実にまあ井上の苦労がしのばれる報告である。相も変わらず政争の止むことのない朝鮮政府。内政改革のことも案じられると。それにしても、朴泳孝も日本でいったい何を学んだのだろうか。

 顧みれば、日本は遥か古代においてすでに憲法を制定してこのように言っていたのだった。則ち、

「一曰 以和為貴 無忤為宗 人皆有党 亦少達者 是以或不順君父 乍違于隣里 然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成」(憲法十七条ノ一)

「一に曰く。和を以て貴(とうとし)とし、忤(さか)うことなきを宗とす。人皆党あり。亦達するもの少(すくな)し。是を以て或は君父に順ならず、乍(たちま)ち隣里に違う。然るに、上和らぎ下睦じく事を論ずるに諧(かな)うときは、則ち事理自ら通じて何事か成らざらん」
と。

「和を以て貴」とせず、さからうことを常道とする朝鮮の人々に、井上馨はまたも成り行きに任せるほかなし、と。それはつまりは時節を待ち、整うものが整うまで放任しておくことなのだが、この国の人々がいつの日か、自から和らぎ睦まじく事を論ずる時節が来ようか。千年は待つとか?(笑)

 しかし成り行きは好転せず、金宏集総理大臣がついに辞表を提出したことにより、井上公使は更に説得工作を続けた。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p9〜12、()と会話の「」は筆者

廿八年六月八日

機密発第五七号

 朝鮮内閣の破裂[機密第五十六号続稿]

 趙軍務大臣免官の後、金総理大臣は直ちに辞表を奉呈し、内閣分裂の傾向有之旨致承知候に付、本月二十二日、再び朴内部大臣を招き、内閣分裂に付、利害を剖拆し忠告したる要領、左の如し。

一 朝鮮、今日の急務は、独立の基礎を鞏固にするに在り。而して独立の基礎を鞏固にするは、内閣一致して事務を挙げざるべからず。

二 朝鮮の改革は、自動より起りしにあらず。即ち適々他国の勢力を借り、以て僅に今日新政を行う機会を得たるものなれば、是れ所謂ゆる他動に因て成る者にして、我国維新の際と其情勢を異にせり。今日、朝鮮の勢は之を人身に譬うるに、血液消耗、体力疲弊して、恰も久患重症者に異なる所なければ、俄に投ずるに劇剤を以てするときは、但其効を収め難きのみならず、反て神昏気塞あるを致し、転た危殆を増すのみ。
 故に目下の計は、唯須く国力の強弱を量り、弊竇の所在を究め、且つ外国の形勢を審にし、以て徐々に実務を挙るを図るべし。

三 内乱は常に外患を招くことは、之を朝鮮最近二十年の間に徴して明なり。即ち明治十五、十七、及昨年の如き皆な内乱よりして外患を致せし者にあらざるなし。他日、若し閣僚和せず、延て内擾を醸さば、則、外患必ず之に乗ず可し。是れ勢の賭易きものなれば、今日、閣員、党を立て、牆内に相鬩(せめ)ぎ、以て政府の体統を欠くは誠に不得策と謂う可し。

四 新派の諸大臣は、内閣の軋轢を以て、主義方針の相同からざるに起ると為せども、右は朝鮮古来の慣習にて、権を争い勢いを占め、遂に世道(勢道)たらんとする情弊に出でしものと推定されたり。縦令、其精神は然らざるも其実勢の趨く所、終に此に至るは疑う可からざるなり。何となれば、客年、内閣組織已来、各大臣が自ら施設したる政務は幾許もなければ、其間、主義相衝突す可き機会なし。果して此観察にして違わざるときは、其争や遂に将に国家の衰弱の境に導かんとするものなれば、深く警戒す可きものなり。

五 新派諸大臣は又、苟も主義不合の閣員あれば、悉く之を斥け、更に同主義の人を挙げて新内閣を組織せば、将来一致協和して政務革新の成効を期す可しと謂わるゝも、是亦謬見と謂う可し。今日の如く内閣諸員は互に猜疑を懐きては、幾面其人を替うるも、忽ち合い忽ち離る可ければ、終に永久の協睦を望む可からず。加之、凡そ政事を革新せんと欲せば、治理に通暁し、事務に請熟の人を求めざる可からず。今の諸大臣は不充分ながらも、数月間其局に当り、事務を練習したるものなれば、一旦之を斥けて更に不熟練の人を挙ぐるときは、事務益々渋滞して、革新の業、成功を見ざる可し云々。

 右の趣意を反復して凡そ四時間程説明を与えたるに拘わらず、翌日朴内相より浅山顕蔵を以て、「忠告の趣意は了解したるも事勢如何ともす可からざる場合に辺りたれば、遺憾ながら聴従し難き」旨、返答有之候。依て考うるに、朴内相の初志は、趙軍務を斥くるに過ぎざりしに、其後、同志の人々[寧ろ、朴氏を推立てゝ新に奸地位を得んとする人々]漸く増加し、一集会ごとに気炎相高り、竟に朴氏と雖ども、之を制する能わざる場合に達したるにあらざるかと被疑候に付、朴氏の外、尚お同志者を説諭せば、或は効能あるべしと思考し、同二十五日、徐法部、李警務使の二人を招き、略々前顕の趣意を以て之を説諭し、尚お杉村書記官を金農商工部へ、楠瀬中佐を権軍部代理へ派して、同じく忠告を与えたるに、金権の両氏は、遂に自説を屈して其場を逃れたる由なれども、徐李の両氏は、「同志者と協議の上、何分の返答に及ぶ可し」との辞を遺して于今何等の確答無之候。

 然るに金総理大臣は一昨二十八日、終に其官を免ぜられたれば、朴派の諸大臣は本官の忠告に頓着せず、当初の見込に従て決行したるものと被推察候。委細は其都度発送の電信にて御承知相成候義と存候。

 抑も新派の諸大臣は時を得たる暁きに、悉く他党派の人を斥け、純然たる同派[即ち十七年の脱走連及び同具味の人]のみを挙げて政府を組織せんとの企謀は、本年二月中に起りたる総辞職の時に相発し候得共、当時は東学党未だ鎮定せず、大院君の勢力未だ全く挫折せざるに因り、軽々に本官の忠告に背き難き事情有之候処、今や此に大患既に除かれ、且つ魯国の干渉は我国をして金洲半島の永久占領を思い止らしめたりと聞き、此機に乗じて再発せし者と被推測候。尤も、彼等は其前より深く国王王妃の歓心を買い、之に説くに、日本の干渉を弱め政府の権力を殺ぎ、之を国王の手に収復す可しとの儀を以てしたる処、国王王妃は兼て切望せられたることとて、一も二もなく之を採納せられたるに因り[此一節は推測]、益々旧派を制する勢力を得、且又近頃、同派の人々をして屡々、魯館等を訪わしめ[屡々訪問したる事実あるも、果して何等依頼したるや否、不詳。或は単に屡々訪問して其歓心を買わんとするものか]、反て我を他人視する装を為すに立至り申候。
 別紙甲乙丙号は其一端を窺うに足るものと被存候間、茲に相添供貴覧候。
 右及内報候也。

昭和廿八年五月三十日、特命全権公使伯爵井上馨
   外務大臣子爵陸奥宗光殿

 ここに至っての政変は、何と言っても、露国の干渉によって日本が金洲半島の占領を抛棄したことが強く影響していよう。今や清国との宗属関係は完全に消失し、日本もまた干渉することを憚っているのであるから、朝鮮としては次の事大相手を露国に求めようとしたとしても不思議ではない。未だ以ってこの国には自ら独立するという強い気概が感じられない。何より、そのための力もなければ金もない。人もいない。
 尤も、当人らにすればそれなりの理由はあるわけで。以下の別紙甲乙丙がそれである。

 まず朴泳孝ら新派の一人である金嘉鎮は次のように言った。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p13、()は筆者)

甲号
 金農商工部大臣(金嘉鎮)の説、左の如し。

 新旧両派は、政事上に於て相異なる主義を懐き居る内にも、著き相違の点は、旧派の人々は老少南北の四色に拘泥し、門地にあらざれば之を採用せず。然るに新派は之に反し、御誓文の旨を遵法し、門閥に拘わらず人材を登用せり。依て今日協和一致と申す事、極めて困難なれば、孰かの一方を存して政府に当らしめざる可からず。抑も我国は君主国なれば、君主の命令は謹んで之を奉じ、君主の思召には之に逆うことを得ざるは貴国と雖ども同様の事なり。左れば君主の信任せらるゝ党派政府に立ち、信任せられざる党派は其職を退く可き道理なれば、今日の事情に付き観察するときは、旧派の人々は政府を退かざるを得ざる都合なり。何となれば、我大君主は新派の諸大臣を信任せらるゝも、旧派の諸大臣をば新(信)任せられざるなり。
 且又、李呵Oは先般謀反罪を以て処罰せられたるに、其父たる李載冕は未だ其職を退かず。我大君主は、実に李載冕を嫌われ、隠に危懼を懐かれ居れり。然るに旧派の諸大臣は、之と親密なる交際を為せば、彼等の間に如何なる協議あるも計り難し。近来聞く所によれば、旧派の人々は夜晩く密会を為すと云えり。是れ必ず我々に対し何にか隠謀を企居るに相違なし。我々の党派は素より公明正大なり。決して彼等の如き後暗きことなし云々。

まあ新派らしい対立の意見と。
 で、次は、明治15年の朝鮮事変で暗殺されかかった王妃を王宮から救い出して以来、国王と王妃から信任の厚い洪啓薫の言である。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p14〜15、()は筆者)

乙号
 五月二十七日夜、両陛下に親信ある宮内官吏、洪啓薫を招き談話したり。同人は本と金弘(宏)集、魚允中崇拝家の一人なりしが、俄に新派の二大臣を賛称して旧派の二大臣を攻撃せり。談話中の要点は左の如し。

一 国内統治の大権は大君主の手に在ること勿論なるに、昨年改革已来、政務は総て内閣にて議定し、奏本を具えて大君主の裁可を請うに止まれり。然るに今上は純良の御気質なれば、奏本に対しては多分は之を認可せらるゝ方なり。若し御意に副わぬことありて認可せられぬ時、若くは何等に付き大君主より特に命令ありし時は、総理大臣は多く異議を申立て、聖意を奉行せざる方なり。左れば、昨年来、君権幾んど行われざれば、恰も君主なきも同様の事なり。然るに朴徐二大臣は、外国の事例に通じ、君権の重す可きを進奏し、国家統治の大権を挙げて之を大君主の手に復せしむる主義を執る人なれば、大君主も偏に該二大臣に信頼して他の旧大臣を疎遠せらるゝ傾きあり。故に少くとも旧派の二大臣を斥けざる已上は、大君主は満足せられざること必然なり。

二 天に二月なければ、国に二主あるべき道理なし。然るに旧派の諸大臣は君意に背き君命に従わざること往々ありて、却て他処の意を受け、其指揮を奉じて政事を為すことなれば、是れ一国に二主あるも同様なり。此に由て之を観れば、旧派諸大臣は国家に対して二心を懐く者と見做すも過言にあらざる可し云々。

五月二十九日、洪啓薫報復して曰く。

 貴下より承りし言を以て夫れとなく大君主へ申上げたる処、大君主には、金総理、魚度支の進退に付、「朕は敢て是非とも之を退けねばならぬと云う事にあらざるも、内閣の公論は既に決定して奏上したれば、其公論を採用せぬと云うこと相叶わず。終に免官の詮議に及びたる次第なり。後日若し機会あらば再び之を採用す可し」と御意ありし旨伝えり。

 先の金嘉鎮の意見とも併せて分かることは、要するに国王王妃には、内閣政府つまりは大臣たちから君主権を制限されていることに不満があるということに他ならない。それは国王王妃と井上との会談においても時々彼らが漏らしていたことであった。
 しかしこれは、井上公使が内政改革を提案した際に、事を処するに国王の専断に任せず、政府の合議によって定めて国王の裁可を受け処理していくべきであると、金魚金3大臣に強く求めたものであった。また国王王妃もそれを認めていたはずのものである。何しろ、一方で日本に依頼し、一方で清軍に通じておくようなことをするのが朝鮮国王なのであり、まして王妃や閔族の言いなりになるような人なのであるから。

 で、ぶーたれた国王の意見が以下のものだが、それは井上に語った事実とは異なる、およそ虚言に等しいものであった。欄外で個条ごとに井上公使が正した文章が記されている。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p16〜20、()は筆者)

丙号
 宮内府内蔵院長鄭秉夏の直話

 本月二十八日鄭秉夏氏来館致候に付、同人は大君主の御思召も厚く且つ一と通り事理を弁えたるものに有之。旁本使の意見を代表して大君主に内奏せしむるときは、目下差掛りたる内閣大臣間の風波を治むるの一手段と存じ、同人に就き内閣協和に関する利害得失上の詳細の談話を成したる末、同人は早速承諾、翌日入宮奏聞すべしと約し、相別れたる後、本月三十日、同人は国分書記生を招き、奏上を経たる始末に付、左の如く談話せり。

 予は昨日[廿九日]、例に依り進宮せり。然るに金総理の辞職は已に聞届けられ、同日の官報は公然掲載を為したる後なれば、予が公使の意見を代陳する目的と聊齟齬致し、遺憾なき能わずと雖ども、折角公使との御約束もあり、旁徒に黙して止むべきにあらざれば、予は進んで奏上せんと欲し入謁せしに、恰も沈相栫A閔泳奎等、入侍の人々席にありした、之れを憚り姑く差控えたる中、追々入侍も去りたれば時機好と、昨日日本公使を訪問して公使の直話を聴きたる始末即ち新旧両派の一致和合を計らざるべからざる事柄に関し、具に奏陳する所ありたるに、大君主の御言葉は如左。

 

 昨年事変以来日本政府の厚誼は実に言語筆紙に尽し難し。就中井上公使来任後、勧告に開導に屡々入奏して孜々至らざるなし。其の我国に懇切なる至情は、朕、終始感謝して止まざるなり。然るに這回、二三大臣の辞職せざるべからざる事の原因は、二三旧大臣は、昨年以来屡々朕が意志に違背し、或は君権を無視し、傍若無人、上限君臣の別なきが如き言行多かりし事、并に軍部大臣を免職せざるべからざる場合に於て、総理度支の二大臣は強いて朕が意に戻り、之れを曲庇して留任せしめんと企たる事、是れなり。夫れ、軍部の失策たるや。

 第一、申泰休の如き不良の徒をして朕が同意せざるにも拘わらず、訓練隊長の重職を授く。外面は朕が意に出たるものゝ如く粧いたる事。

(欄外、井上の記述)
国王の御言葉は矯飾に過ぎたるに付、左に事実の真相を掲ぐ。

第一 申泰休を隊長に任ずるとき軍部より奏上したるに、国王は肯頷せられたるは事実なり。敢て聖意に戻りたる如き事、当時なかりし。

 第二、日本占領地に慰問使として派遣するに当り、其発令前に係る陸軍将官の軍服を着けて彼地に赴きたる事[新式制度発布前に於ては一般旧式に拠るべき筈なるに、私檀の挙動と云うべし云々]。

(欄外、井上の記述)
第二 趙軍部は出発の際、新式制に拠り軍服を拵え御前に着用して、此回の行は慰問使且つ観戦を為すことなれば、兵馬の間に奔走するの覚悟なれば、古式の軍服は便宜悪しと存ずれば、発令前なれども新軍服を着用したき旨奏せしに、国王も同意せられたるものなり。然るに今辞之れに借る。可歎。

 第三、楊州の民擾に当り、勅旨を請わずして出兵を命じたるは、越権の処置なる事[旧法と雖ども猶且兵符を下すの例あり。況んや新官制に拠るときは、勅旨を請うべしとの事、明瞭なり]。

(欄外、井上の記述)
第三 此出兵は軍務参議鄭蘭教[朴泳孝の一味]なるもの軍部大臣の命を待ずして自から出兵を命じたるの事実なり。

 第四、軍部内に於ける金銭出納上不明の事多しとの事[此の事柄は朕深く根底を究めざれば、充分事実を知らざるも、公議は之を失策の一に数えり]。

(欄外、井上の記述)
第四 金銭出納上不明ありと云うも、昨年六月以后、変乱の余を受け、帳簿等に記載洩れありしに拠る。之れは独り軍部のみならず、旧各営頗る多し。

 以上の如く数え来れば、軍部は己れの職権を濫用し、又君権を無視したるの責を免がれざるものなれば、其懲戒を受くるは当然なり。而して旧大臣は如此きものを尚お依然として国務大臣の位地に措かんとするは、朕が徹頭徹尾同意を表する能わざる所以なり。故に諸大臣列席に於て大に其挙動を非難し、痛く叱責したる処、彼等尚お朕が意に逆い、其留任を固執せんとの事なれば、最早君主なきに均し。否、君権を無視するものなり。就ては、大臣等の望み通り、国体を変更して、新に共和政事を興すなり、又大統領を選ぶなり、我侭気随に行う方可然。朕は敢て無君権に■位を擁することを甘ずるものにあらずと痛責したるに、総理度支は奏すらく、臣等逆鱗に触れたる以上は、安閑として職にあるべきにあらざれば、辞表を呈して各其職を辞すべし云々。朕、之れに答うに、辞表を出すと否とは勝手たるべし。朕は之れを停め亦之れを勧むるものにあらず、との極点なる議論に押移りて止みたり。
 事已に如斯。最早今日と成りては、新旧大臣間に調定を試むる余地を存せず。去れば、公使が折角国家の為め親切なる忠告を容るゝ能わざるは深く遺憾とする所なれども、事情無余儀次第なり。而して旧新大臣間に於ける協和は到底望むべからざることは、旧大臣たるものが始終清国崇拝の念を割断する事能わずして、其恋々たる事大の旧夢は常に胞裡に往復して、矢張り清国の挙動に注目し、其向背を定めんとするが如き気色あり。故に、朕が熱心に執りつゝある進歩主義と、大に相反して、動もすれば旧式古格を維持せんと欲するものなり。
 之に反して新派と称する朴泳孝は如何と云うに、之れは熱心に進歩主義を執り、如何にもして国家を旺盛ならしめんとするにありて、其衷情の切にして公平なる、能く朕が意に適合せり。今、日本政府并に井上公使と雖ども、我国が進歩主義を執り、国家の隆旺を計るに於ては、極めて同意、否大賛成の事なるべし。朕は飽迄朕が意に適合する此朴内部の一派を依信し、之れに依って内閣を組織せしむる事、大に利益なるを知る。又た中途阻表する事なきを信ず。故に朕は、此内閣を監督の下に措き、始終必要なる注意を与え、敢て失墜なからんことを期せずんばあらず。此頃とても、朴内部、時々入謁の際に於て、事を事前に慎重すべしとの注意を与えつゝあることなり。旧派大臣の事大に執念深き曷ぞ其れ如此なるや。嚮きに趙軍部が曾て日本占領地に赴きたるは、即ち旧派大臣の密議に出でたる結果にして、旧大臣は以為らく、清国何程敗衄の後を受けたるも、世間に伝わる程の事有之まじ。去れば実地の模様を視察して事実を調査し、然る上向背を定むる方得策なるべしとて、暗に名を観戦に借り、其実、実況を取調ぶる為め派遣するに至れるものなり。

[(ここで国分書記生の弁)国分書記生云う。否、夫れは大なる邪推なり。趙軍部一行の占領地行は、井上公使の勧告に出たるものにして、趙軍務若くは旧大臣等の発意に成りたるものにあらず云々]

 最初の発言は何れにあるにせよ、必竟趙軍部の目的は是に外ならざりしと云う。豈に歎ずべきにあらずや。尚お内閣総書兪吉濬の如きは、久しく日本にありて殆んど日本的教育を受けたるものなり。然るに全く旧派化して今は全然たる事大主義を執るに至れり云々。

 

 以上、国王の御言葉なりと云い了って同氏は尚お語を継ぎ、井上公使の忠告は返す々々も感謝致すなり。乍去、朕は目下の行掛り上、新派をして内閣を組織する方寧ろ利益なり。又、何等失墜の憂なしと信ずれば、公使も深く心配せざる様、呉々も拙者より御伝え可致との聖意なり。因て拙者以為らく。旧派は非常に国王の感情を害い殆んど君臣にあらずとの御思召あるが如し。故に拙者も強いて調和説の行じ難きを知り、当日は退席致たり云々。

 すでに記したかつての会談記録からも分かるように、国王自らが井上に語った言葉が、ここでは全く違っているというお粗末さ。井上もこれには呆れたろう。高宗は虚言癖の人なのか。それとも取り次いだ鄭秉夏の歪曲か。
 しかしまあ、当時の日本が君主も憲法の制限を受け、政府も議会の拘束を受けるという政体であったのと違い、朝鮮は純然たる君主制である。もっとも、君主専制というよりは国王親族や王妃親族による「勢道」、つまりは権勢政治というものであって、要するに独裁政治の一種なのだが、これによって中央から地方まで執権一族郎党が支配し、ぶざまな腐敗ぶりを呈していたことはすでに記した通りである。で、やっぱりそれに戻りたいとな?
 これでは、朴泳孝ら新派を称して進歩主義という意味が分からないのだが(笑) 後に明らかになるが、朝鮮伝統の権勢政治である「勢道」の地位を取り戻したい閔一族からの反攻であった。

 のちに陸奥宗光外務は「蹇蹇録」において、「朝鮮の如き紀綱廃頽萎靡不振、官民共に独立の志尚に乏しき国柄」とぼろくそに述べることになるが、陸奥をしてそのような感想にいたらせる朝鮮政府内の混乱はいよいよ激化していく。

 

日本政府、朝鮮に対する方針を決定

 さて、日清戦争開始後まもない明治27年8月17日の閣議において、結論の出なかった「「将来朝鮮を如何すべきや」の議題であるが、取り敢えず陸奥外務の判断で一応は「乙案」すなわち、「朝鮮を名義上独立国と公認するも、帝国より間接に直接に永遠若くは或る長時間其独立を保翼扶持し、他の侮を禦ぐの労をとる事」とすることとし、正式のものは後日に閣議で確定することにしていたのであるが、そのことをいよいよ定めねばならないことは、冒頭の井上馨の「対韓方針を定むる義に付内申」で触れたとおりである。

 ついては、井上としては、対韓方針についていろいろと言いたいことがあるのは当然である。そのため、上記のように五月二十二日付で一旦帰国することを願い出ていたが、いかんせん、朝鮮政府内はすったもんだし、もし井上がそばを離れるなら、どういう内紛が生じるか計り知れないことであり、また露国公使などの離間策なども考えられて、容易に帰国することが出来なかった。
 一方、カミソリ陸奥は、井上が帰国していろいろと意見を聞くも、結局は対韓方針としては、以下のもの以外にないだろう、と伊藤博文に伝えていた。

 対韓政策としては、第三国の意向がどうであろうと我が国としては今日までの政策である「乙案」の「間接直接に朝鮮の独立を補助する」策を貫くならば別であるが、もしそれが出来ないとするなら、
○ 朝鮮のことは列国連合で担保すること、を申し出すことにするか。
○ 日清両国の講和条約により、清国が朝鮮の独立を確認したのを機会に、我が国より自から退くか。
 の二策の外はないだろう、と。
で、井上公使としても、結局はこの二策の外に別に名案はないだろうと。
(「日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年) 朝鮮国内政改革ニ関スル件」p24、25)

 ここで要点を踏まえて理解しておかねばならないことは、
日清開戦直前の各国への日本政府からの説明において、とりわけ露国政府に対して、

・日本政府は朝鮮に対し、条約にある同国の独立を維持し、且つ同国の平和安寧を確実なものとする希望から出たもの以外に他の意向は無い。(明治27年6月25日付)

と表明していたことである。
 更には、三国干渉において露国政府は、「日本が朝鮮の独立を有名無実にしようとしている」といういちゃもんをつけて干渉してきている。
 当然、干渉を受け入れた日本としては、すでに独立を果たした朝鮮問題からいっそ手を退くことも含めて、対韓政策を立てておかねばならないことである。もともと、日本政府は別に朝鮮を支配しようとか保護下におこうとか考えていなかったのだし、多少の干渉を伴った朝鮮内政改革への取り組みも、要するに、独立を維持できうる国とするための当然の改革に手を差し伸べたものに過ぎないのであるから。

 すでに日清講和も三国干渉のことも終結して久しい。日本政府としては早く今後の対韓方針を決定したいところ。
 結局、井上が政争の続く朝鮮政府から目を離せずに帰国できないまま、日本政府内で以下のように閣議決定した。

(「明治28年5月24日から明治28年8月1日」p2〜p4、()は筆者)

(朝鮮問題に付いての政略閣議決定の件)

明治廿八年五月廿五日[印]

 朝鮮問題に就き、将来我が政府の執るべき政略は、速に決定するの必要あるに付、在東京内閣大臣茲に別紙の通り決議したり。

(別紙)

 日本国が清国に対して干戈を交えたるは、朝鮮国をして彼の有害なりと認めたる清国の抑圧を脱せしんめんとの希望に起因す。而して該希望たるや、已に下ノ関条約の締結に依り全く之れを達するを得たり。
 朝鮮国の独立を将来に永続せしむることは、各国一般の利害に関係することなり。因て帝国政府は其独立を維持することに付、単独に責務を負うを必要と認めず。故に日本国政府は、利害の関係ある他の諸国と協力して朝鮮国の事態を改善することを以て目的となす所の処置に協同して差支えなきことを表言すると同時に、帝国政府に於ては、将来日本国と朝鮮国との関係は、之を条約上の権利に基かしむるの意なることを言明す。

つまりは、
1、朝鮮国の独立は各国も利害あることであり、その維持を日本国単独で責務を負う必要を認めない。
2、利害の関係ある他の諸国と協力して朝鮮国の事態を改善する処置に協同することは差し支えない。
3、日本国と朝鮮国との関係は、条約上の権利に基づくものとする。
と。

ようするに、諸外国と協同して朝鮮国の独立を維持し、朝鮮内政の改善の処置を協同して行う用意があると。
 文章から分かるように、関係各国に向けての宣言でもある。三国干渉によって露国が朝鮮に干渉してくる意図があるのが明らかになった上は、露国をけん制する上においても表明しておかねばならないことである。この決定は英訳して各国にも送付することとした。

 なお、正式の決定は、天皇陛下還幸の後にすることとし、再度以下のように閣議に計って決した。

(「明治28年5月24日から明治28年8月1日」p19、()は筆者)

廿八年六月三日    閣議
 伊藤内閣総理大臣 
       陸奥外務大臣

   閣議案

 対韓政策に関しては、咋年八月十七日、本大臣より別紙の通、閣議に提出したりしが、当時其政策は、追而日清戦争の終局を待て之を確定することとし、夫迄は先ず乙策の方針を以て進行することに決し、爾来本大臣は其趣旨に従い対韓外交を措施し来れり。
 然るに今や日清間の和議已に成りたるのみならず、露独仏三国干渉の結巣、形勢大に一変せし所あるを以て、去月廿五日在京閣僚に於て、此際別紙の通の宣書を各国政府に向て為し置く方、可然と決議し、其旨を在京伊藤総理大臣に電報して、同地に滞在の他閣僚と審議し、聖裁を仰がれんことを求めたりしに、御還幸も近きに在れば、其上にて更に閣議に付すべしとの電答に接せり。
 然るに其後、仏国公使より本大臣に向い、朝鮮に対しては総て露国と相提携して事を為しては如何と陳述せしこと有之。同公使の此意見は、其政府を代表して述べたるものには無之と雖も、預め露国公使と商量したりとのことは同公使自ら之を明言し居れり。
 就ては斯る陳述を聞きたる後の今日に至て、右宣言を為す時機を失いたるものなりと雖も、前記三国政府は先きに遼東半島抛棄の件に付、我に勧告する所あり。今又右抛棄に開連する二問題の外、更に台湾清国間海峡自由航通の件に付提議する所あり。
 此の如く一問題を了れば更に一問題を提出し、其底意の在る所は、其極進で我が対韓政策の如何に問及ぼさんとするものなるべく、是れ蓋し必至の数なり。
 就ては斯る新問題の萌出に先だち、将来朝鮮に向て依然従来の方針を執りて変ぜざるか、又は自働他働に拘わらず、此際断然干渉政略を息め、通常條約国の有様に立戻るか、兎に角一定の方針を講じ置くこと刻下の急務と信ずれば、速に廟議を確定せられんことを望む。
右乞閣議

(欄外の註記)
 六月四日の閣議に於て、我対韓の政略は、其独立を認め、清国の属邦を主張するの説を排除し、竟に其独立の実を挙げしめんとするに在り。客歳日清交戦の起因も全く茲に胚胎し、而して我戦捷の結局、清国をして完全なる独立たるを認識せしめ、且露国よりも我に向て名実共に其独立を看認せんことを求め、之に対し我従来の政略に基き、数回宣言したる等の事由に依り、将来の対韓政略は成るべく干渉を息め、朝鮮をして自立せしむるの方針を執るべし。故に他動の方針を執るべきことに決す。
 右決議の緒果として、同国鉄道電信の件に付、強て実行せざることを期す。

[(別紙)廿七年八月十七日付](明治27年8月17日付の対韓政策案

[別紙](上記、明治28年5月25日付の決議)

 5月25日付の決議の再確認であり、なお、なるべく干渉はやめて朝鮮をして自立させるの方針を執ると。

 

井上馨公使、帰国す

 ところが、肝心かなめなのが朝鮮政府の動向である。以下のように、井上公使も全く万策尽きた形となった。

(「明治28年5月24日から明治28年8月1日」p13、()は筆者)

(朝鮮内閣紛争の報告並びに帰朝の意、報告の件)

 五月廿九日午後一時五十五分発 三時五十分着

 朝鮮内閣総理大臣及び其他反対派の人を此際退ぞくることは、政府の為めにも本人の為めにも頗る不利益なる事を、朴泳孝、徐光範等に百方説得し、又内閣の平和を維持せしめん為め、顧問官を使用し、或は他の途を執りて陰に陽に殆ど其手段を尽くせり。
 彼等は本館の説得に対し、再考の上、何分の返答すべしと言い去りて、徐光範の如き未だ何等の返答も為さゞる中、既に本日の官報には金総理の辞職、聞届けられたる旨を記載せり。斯る上は、魚度支も金外部も続て辞職するなるべし。

 右の事情なれば、朴泳孝は到底本官の忠告を容るべしとも見えざるに付、去る二十三日追電の主意に依り愈々友誼上に於ては最早再び忠告を為すことをなさゞるべし。今後、我政府の意見は何ん時にても申入るべき余地を存して書面を本日朴泳孝に送り返事を取り付け置くことゝ為すべし。
 就ては至急御用帰朝[賜暇帰朝に非ず]を命ぜらるゝことに致したし。左すれば、本官は出発に臨み国王に謁見して今回の出来事に関する本官の意見、其他朴泳孝に右の書簡を送るに至りたる始末を詳細に奏上し、且一時御用帰朝を命ぜられたる次第をも併陳して、尚お国王の注意を促し、暇乞を為すべし。
 近来内地より渡韓するものゝ話に依れば、何れも皆な我内部に不穏の模様あることを伝う。様子御漏らしを乞う。右折返し返電ありたし。

          京城 井上公使
陸奥外務大臣

 5月31日、陸奥外務から井上公使宛てに、御用帰朝の命があったのが伝えられた。なお杉村濬を代理公使として置いた。
 また、善後処置のために日を費やし、井上がようやく京城を出発したのは6月7日であった。(「明治28年5月24日から明治28年8月1日」p18)

 

金内閣崩壊、新内閣発足

 さて、井上公使の努力も空しく金宏集内閣は崩壊した。
 朴泳孝が日本に長期滞在して様々に学んだ中には、日本が選択した近代政治というものもあったはずなのだが、やはり朝鮮伝統の絶対君主制の方がよかったらしい。いやそんなことも考えてはいなかったかも。要するに国王王妃の歓心を買わんがため、敢えて王妃の政争の具となりさがったと。

 で、新たに総理大臣として任命されたのが朴定陽。かつて米国に赴いて国書を米国大統領に呈上した人である。
 また、朴泳孝はそのまま内部大臣に。問題の軍部大臣は申箕善となった。
 で、その後の朝鮮政府内の様子を杉村濬臨時代理公使が以下のように報告している。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p22)

廿八年六月二十七日接受
機密発第六〇号

  井上公使発京後の政況

 井上公使発京後、朝鮮政府部内は極めて静穏なり。要するに、朴内部派は内閣の協同を保ち、反対者の心を和げんと苦心し、兢々として相勤むるの外、井上公使御暇乞謁見の翌日には、国王より特に宮内官吏を魚度支大臣邸へ遣し、内命を伝えしめ<外部大臣より聞けり>、之に因て魚氏は終に辞職を思い止まりたるは其助けと為り、姑息ながらも目前小康の姿に有之候。

 初め朴氏等は金前総理は同く朝に立て事を共にす可きも、魚度支は剛情にして自説を屈せざる方なれば、到底魚氏と事を共にする能わず。加之、国王王妃も共に魚氏を好ませられずと公言したりしが、今日と為りては、全く傾倒の結果と為れり。
 近頃、朴派の人々は、切に魚氏の剛強不屈を称賛し、之に反して金前総理をば、無骨の小人、或は奸物と斥くるに至れり。

 当国人士の無節操不見識なることは今日に始らぬことにて、閔泳駿の威権赫々たる時は、口を極めて彼を称賛し、大院君、朝に立てば同邸内は来客の山を築く有様なれば、彼等は俄に其説を二三にするは深く怪むに足らざることと存候。
 近来、兪吉濬も窃に人に対し、「嚮に金前総理を補けて朴内部派に反対したるは、実は顧問官の指揮に出でしことにて、自己の本意にあらず」と弁解致居由。

 尤も内閣の変動に乗じて其地位を進めんと運動し、而して其目的を達せざる輩、并に新派に容れられざる人々は、窃に不平を懐き居るとかにて、同新派の内にも、隠然、二派に分れ、一は貞洞派と称せられ<貞洞は外国公使館の所在地なれば、各館に出入する者を指して云う>、新学部大臣李完用、農商工部協弁李采淵、学部協弁尹致昊、宮内会計院長李夏英等は其重なる人々なり。
 彼等の目的は、各国と厚薄なく交際し、各国共同の補助に依て、或る一国の強制を避けんとするに在るが如く伝聞し、他の一派は、軍人派若くは日本派とでも称す可きものにて、訓練大隊長禹範善、前内部協弁李明善、劉世南、玄暎運等、一団結を為せり。
 彼等は近頃貞洞派の稍々得色あるを羨み、之と和合せざるが如し。

 度支協弁安駧壽は兼て朴氏と意見相投合せざるも、勉めて之に服従し来りし様子の処、近来、安氏は朴氏に因て其地位を進むる能わざるを悟り、朴氏も亦安氏を容るゝ能わざる所より、終に安氏を貶黜して地方官<漢城府尹ならん>と為す事に内決したる由。
 此義に付、朴氏派の言う所と安氏自ら言う所と相符せざる所あるも、兎に角、両氏の間に不和を生じたるは事実と推定せられ候。又、両三日前、警務官李圭完は突然辞表を呈出して、干今出勤せず。同氏は朴氏に従い久く日本に居り、目今警務庁にては有用の人物なり。然るに久き已然より、警務使李允用、其他同庁員の行為に関し不平を懐き居りし処、近来漸く不平の度を高め、終に辞表を呈出するに至れりと云う。此外、朴氏に随従して日本に在りし鄭蘭教、柳赫魯等は、敢て朴氏に叛きたるにあらざるも、朴氏は王妃と相結託すと聞き、窃に之を憂慮し、切りに金玉均の此世に居らざるを嘆息し居るとぞ。

 曩きに王妃の機密金と称し、朴氏の名を以て京城第一銀行支店へ預置きたる金高は、昨年末に於て四万余円ありし処、同年末に弐万円を引出し、近頃又五千円を引出し、重ねて残高悉皆[壱万七千円程]を引出したる旨、銀行員より承知致候。右、五千円は上海へ送金す可きものなりと使の人、銀行員へ相語りたるに付、世人、或は二閔の旅費に供するものならんと疑う者有之候得共、信用難致候。近頃王妃は屡々宮中に内宴を開かるゝ由なれば、或は其等の費用に供せらるゝと被推測候。

 現宮内大臣、李載冕氏[大院君の嗣子]は両度辞表を奉呈したるも、御聞届不相成に付、近頃第三回目の辞表を奉呈したる由。尤も、同氏は李呵O処分後、悒鬱として不楽、飽迄辞職の決心なりと、国分書記生へ直話したる由。

 右現況及内報候也。

 明治廿八年六月十六日
      臨時代理公使  杉村濬

 外務大臣代理 侯爵西園寺公望殿

再伸 露館と王宮の間に何にか秘密の交渉あるやに当地に於て伝説致し候得共、突留めたること無之候。数日前、露使の夫人より壮麗なる物品を王妃へ献上したるに因り、其謝礼として宮女を露館へ遣されたりとの浮説有之も、是又事実不詳候。尤も、露使より献品したることは、去十九年頃にも其例有之候趣致承知候。

 で、「当国人士の無節操不見識なることは今日に始らぬことにて・・・・」と。
 杉村濬も公使館勤めが永いしねえ。この国の人々に辟易しているさまが窺われようものと。
 しかし、王妃は相変わらずの浪費家のようで。日本側が苦労して文官たちや朝鮮兵の給料を調達してやったり国家予算のほぼ全額を貸与してやったりという中に、何度も宴会を開いていたとはねえ。
 それにしても王宮内での宴会ってどんなものだったのだろうか。

 また、「同新派の内にも、隠然、二派に分れ、一は貞洞派と称せられ<貞洞は外国公使館の所在地なれば、各館に出入する者を指して云う>、新学部大臣李完用、農商工部協弁李采淵、学部協弁尹致昊、宮内会計院長李夏英等は其重なる人々なり。
 彼等の目的は、各国と厚薄なく交際し、各国共同の補助に依て、或る一国の強制を避けんとするに在るが如く伝聞し、他の一派は、軍人派若くは日本派とでも称す可きものにて、訓練大隊長禹範善、前内部協弁李明善、劉世南、玄暎運等、一団結を為せり」
とあるのが興味深い。

 これら報告に対する返電として、井上公使から以下のもの。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p28)

電■第五七七号  廿八日六月廿六日 午後三時三〇分発

京城代理公使      西園寺外務大臣代理

井上公使より左の通。

貴電三通落手せり。在任中の事迹を内聞其他に於て談話したる為め事情も大に分り、疑団を排せり。其結果は本官帰朝後の各新聞にて承知あれ。
守備兵の件、朴等と御内談の上、至急何分の返電を待つ。
閔氏の子を派遣の件、如何なりしや。本官よりの来意として金宗漢へ御内談しありても宜し。

 「守備兵の件」とは、王宮守備兵を新式兵(朝鮮政府軍部大臣下の近衛兵訓練隊のこと。教官は日本士官)とする件と思われる。また、ここで「閔氏の子」とあるが、朝鮮政府は日清戦争に於いて日韓同盟を結んだことから日本に王族を派遣することになり、当初李呵Oを使節とする予定であったのが、李呵Oは謀反の罪で縛されたので、新たに高宗の子である義和(李堈)を派遣することになった件である。なお、閔氏の子ではなく、高宗側室の張氏の子である。このいわゆる「張嬪」については、閔妃から残酷に殺害されたという小説がこの年に日本で出版され、井上公使が発売差止を上申したことはdreamtale氏のエントリにもあるとおりである。他には別紙のような話もある

なお金宗漢は宮内大臣の地位にある。

 ところが井上が以上の電信を発したすぐ後に、22日付で杉村濬からの以下の電信が届く。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p27)

電■第七九七号  廿八年六月二十二日午后二十二日四時十五分発 二十六日午后十一時五十分着

 左の電信を斎藤の求めに依り閣下に転達す。但し朴泳孝の申すに、王妃と露西亜公使との往来頻りなりと云うことは、充分に探偵するを得ず。思うに近来王妃と朴泳孝との間隔離の兆あるに依り朴氏は露公使にかこつけ、我が公使の応援を求むる為なるべしと思わる。  ○  杉村

 朴泳孝曰く。王妃と露西亜公使との往来、近頃益々頻りなり。誠に困りたるものなり。井上伯再び来られぬことならば、誠に致し方なし。何卒、地位と名望ある新公使の至急来らるゝことを望む。

 朴と王妃との間、近来余り面白くなき模様にて、義和君日本行のことを決行したる如きも、亦両人不和の新たなる媒介となるべし。併しながら朴の話には、内閣は益々一致鞏固なりと。又、朴と魚允仲との間も、尓来好都合と見え、朴は己の股肱として魚允仲を徐光範のこうに算え居る程なり。

 井上公使

 伝わって来る、王妃と朴泳孝との間の不和であった。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p29、()は筆者)

特別至急  不直通着

廿八年六月廿六日 京城発 同廿九日着 電受第八〇五号

 本日、国分を金外部の許に派し、近情を問わしめたる処、左の通り申出たり。

 昨日、内閣大臣は入闕して王宮護衛の旧兵と訓練隊と交代の事を奏上したる処、国王震怒して、王宮護衛の旧兵を廃することは、元来朕の好まざる所なるに、大臣等強て事を奏上するは其意を得ず、と云われたるにより、大臣等再び旧護衛兵を廃することは、陛下既に裁可せられたるものなり、と奏上したる処、国王益々怒り、昨年六月以来の勅令若くは裁可せられたるものは皆、朕の意に非らず。之を取消すべし、と云われたるに付、大臣等大に恐懼し、総理大臣(朴定陽)は遂に辞表を捧呈せり。
 右は全く王妃が閔氏の勢力を回復せんとの低意より、窃かに人を以て露西亜公使に通じ、其根元を固めて茲に出でたることなれば、到底抵抗す可らざる勢なり。又、近来朴内部は昔日と替り、勢力を失いたれば頼みとならず。此上は井上公使速に御帰任あらざるときは、此勢を挽回能わざるべし。我国安危の機、毫髪の間に迫れり。願わくば此意を公使へ伝えられよ。

 本日、朴内部より浅山を以て申越したることも其略々同様にて、唯に今朝に至り、国王怒り稍々解けたりと云えり。
 徐光範は星に面会することを厭うが如く、斎藤も朴泳孝に直接面会すること少なし。時々に浅山を以て互に通ずる由。依て我れより勧告を入るゝの途、狭隘なり。
          杉村代理公使
  西園寺外務大臣代理

 ここでも、露国公使の影響が言われているが、杉村は後に、やはりその確証無し、と報告している。

 さて、国王はまあ優柔不断の人だし、あの時に「うん」と言ったのは実は本意じゃなかった、とはほんとにそうだったのかも(笑)。なにせ、趙軍務大臣が辞任に至った「申泰休」の件でも、よく考えずに「うん」と言っちゃった、と井上に話したぐらいだから。もっとも、かつての軍国機務処には大院君が君臨していたから、大院君経由で裁可を求められたものは、不本意でも同意していたのかも。

(「明治28年5月22日から明治28年7月9日」p31、()は筆者)

電受第八〇九号 明治二十八年:六月二六日午后二時三五分発 二十九日午后二時十分着

 宮中と内閣との間、漸く離隔して頗る難渋の様子にて、此れが為め、朴定陽は辞職せんと申出で、朴泳孝大に苦心し居る由。
 右は全く露西亜の政略に誘われ、宮中の模様一変し、此間に所謂セイムウジンなる者、起りて此れと連絡をし、朴泳孝即ち日本派に反対するに原因せしものと推察せられたり。
昨今の勢にては遠からず宮中と内閣との間に大衝突起るやも測り難し。
          京城
            杉村代理公使
     西園寺大臣

 ロシアの政略云々は、朴派の申し立てによるもの。ま、朴泳孝が苦境に陥っていることは伝わる電文である。

 

国王王妃の不満と不安

 それでは、国王王妃の方の不満と言うか不安と言うか、それは何だったのか。そのことについて宮内大臣金宗漢は7月1日に次のように述べている。

(「明治28年6月28日から明治28年7月17日」p17)

廿八年七月十三日接受
機密第六四号

  宮内大臣署理金宗漢来談概要

 六月三十日、金宗漢氏は宮内大臣秘書官鄭萬朝を以て、近来宮中と内閣との間に興りたる不折合に関し、意見を借り度に付、期を約して面談を得たき旨、申来りたるに付、明夜当館に於て会晤可致旨相答えたるに依り、翌七月一日の夜、同氏来館。談話数時にして辞し去れり。要領如左。

 大君主陛下と内閣との不折合を来せし遠因は、要するに今回新政の結果として、王室と政府との経界を定めたるより起因するものにして、大君主に於ては昨年六月以来、君権頻に内閣に奪去られたるものと思召し、頗る心を悩ませらるゝが如し。
 前総理金宏集氏は国家の柱石として、元来陛下が信重あらせられたる人なるに、同氏入閣以来、政府の趣意を重んじ、時に或は聖意を体せず、内閣の職責日に重きを加うるに従い、王室の権勢日に愈よ衰うるの心地せらるゝにより、痛く金総理等二三大臣を厭忌せらるゝに至りたり。
 本年二月中、内閣総辞職の一件の如きも、当時の内情を熟察すれば、其根由は恐く之れに外ならざるべき歟。
 幸い当時井上公使が百事実心を以て我国の為めに尽力せられたる忠謀は、陛下の最も体念せらるゝ所なるを以て、同公使の出でて其間に斡旋せらるゝや、陛下は其奏を容れ、此議遂に罷して閣僚の調和一旦其効を収むるを得たるなり。
 去れば、其後、金総理が辞表を呈したる時に於ても、若し井上公使より入奏せられなば、必ず金総理を引留むることを得たるなるべく、予等は窃かに朝夕同公使の参内を期望し居たりしに、遂に此処に出でられざりしは、甚だ遺憾なりとす。

 金総理既に去り、温順なる朴定陽氏其後を嗣ぎたるを以て、大君主は君権の恢復、是に於て得らるべしと思惟せられたる甲斐もなく、朴総理は同僚を統率する力なく、常に其左右するところとなり、閣員の専肆は一層甚敷、而して大君主にも、亦曾て金宏集氏には遠慮して言われざることまでも、朴総理に向ては容赦なく仰せらるゝ故に、朴総理は恰も板挟みとなり、遂に辞表を呈するの始末となりたるなり。
 要するに、今日王室と内閣との間柄に、我侭と我侭の衝突とも称すべきものにして、大君主に於ては今更金宏集を失いたるを悔悟せられたるものゝ如し、云々。又、
 大君主には素より深く日本の異心なきことを信ぜらるれども、却て朝鮮人自らが蕭牆の巨禍を醸成するの虞あるを恐れ、去る十五年の変乱以来はマ夕焦憂、警戒最も厳にして、爾来夜は徹夜寝ねられず。之に反し昼間眠に就かせらるゝ程なり。然るに今回革政以来、上下臣民の情形は大に疇昔に異なり、門地もなき微賤の輩が、忽ち大臣の顕職に上るさえ頗る聴聞を驚かすことなるに、此種平民大臣代理の一人たる李周会等が、今回訓練隊入衛一件に付、三日間廷争抗言したるが如き、又、警務庁の巡検が大胆にも、王族懿親たる李呵Oの邸内に侵入し、之を執え去りたるが如き、又政府が王室費を制限し、王宮付属の田園等を引上げ、其返還を求むるも敢て之を抗拒したるが如き、諸般の事柄は著しく、大君主をして人心の放肆を惑せしめ、斯かる有様にては、遂には巡検が深宮迄も闖進し来り、何時不題の企あるやも測りがたし。如此政府臣僚にして既に如何なる禍心を包蔵するやも料りがたき以上は、該臣僚等が組織訓練したる新兵の恃むべからざるや甚だ明かなり、との決意あらせられたる一方には、現護衛兵付官吏、其他雇い外国人等は、自己の俸禄を失わんことを恐れて中より運動し、且つ種々の謡言を放ちたるものも、或は之なしと云うべからず。
 於是、大君主は愈よ意を決して従来親信する旧兵に警衛を委ねらるゝの議を株守せらるゝに至りたる次第なり。

 去れば将来、王室と内閣との折合を調和せんとするには、第一に内閣に於ては、務めて大君主の聖意を安慰するの方針を取るこそ最良策ならん云々。
 王妃陛下の陰謀、閔氏の運動云々を伝うる者あれども、是れ亦君権の殺減せらるゝを見て王室の危殆と誤了せられ、百方計尽して之を恢復せんとするに外ならず。其結果外国公使へも依頼さるゝ勢となるなり。
 又、閔族中には目下中宮の爪牙となるべき人物なし。新任特進官の如きも、格別内廷に出入するの模様もなければ、此際閔族を援引して君権を其掌中に帰せしむるが如き虞なかるべし云々。

 明治二十八年七月四日
    在朝鮮
      臨時代理公使杉村濬
 外務大臣臨時代理
  文部大臣侯爵西園寺公望殿

 この国の人にとって、約束とか誓いというものがあまり意味をなさないということが、よく分るのではなかろうか。国王や王妃の不満や不安というものは、まるで小児のそれである。もっとも、王室費が削られるなど、いろいろ不満はあったろう。まあしかし、内閣は子供をあやすようにまず安心を与えねばならないというのである。なにしろ、国王は明治15年の大院君の乱以来、王妃は張嬪を殺害して以来、共に不安焦燥して夜寝ることはないというのであるから。

 この近衛兵交代のことは、露国公使や米国公使も6月29日に杉村に以下のように述べていたことではある。

(「明治28年6月28日から明治28年7月17日」p22、()は筆者)

廿八年七月十三日接受
機密発第六七号

   朴泳孝氏に関し、米魯両公使来訪の件

 去月二十九日、当地駐在米国公使シル氏、魯国公使ウェバー、両公使同道来館に付、接見致候処、先ず時節の挨拶を終り、二三の雑話を為したる後、両公使は暫くの間、互に顔を見合せ居りたるが、遂に貴殿御発言ありたし、と双方の間に譲合を為したる末、ウェバー氏は遂に口を開いて曰く。

 本日、拙者等は貴君に向け少々御談じ致度ことありて参りたり。両人は(拙者等は)昨年大鳥公使御在任中に参館の上、朴氏の当地に駐留することは、土地の治安に宜しからざることを懇談に及びたることありて、大鳥公使は当時拙者等の言を容れられたるが、朴氏は一時当地を去ることとなりたるやに聞きたるに、其後井上公使御来任あり、間もなく朴氏の入閣と相成りたるが、同氏の挙動の常に暴悪危険にして土地の治安を妨害することを承知し居りたるか。近日に至っては其形勢益々悪しく、同氏にして若し久しく当地に留まらば、恐らくば(は)禍乱を惹起するに至らん。同氏は元と貴国の保助に依りて政府に入りたることなれば、之を退くることも亦貴国の権力に属することと信ずるに付、此際、彼を退けて土地の安寧を維持せられんことを、友誼上切に貴君に勧告す。拙者に有っては貴君に向い此言を述ぶる特別の必要を感ずるものなり。何となれば目今、貴国の新聞は挙て拙者と朴氏の間に親密の関係あるが如く言噺して止まざる折柄なれば、拙者と朴氏の関係を明にし置くこと、拙者の為め最も必要なり。

と申述候に付、本官は、

 客年、貴殿等が大鳥公使に向て朴氏の事に関し談判ありたる次第は、其当時拙者も聞及びたることなるが、其後、朴氏入閣と成りて以来の挙動に付ては、本年二月中、内閣総辞職の事ありたる時に、同氏に関し、彼れ是れ批評ありたるの外、格別の評判も聞かず。且又、朴氏の入閣は日本の保助に依りたるものなれば、日本は又之を退くることを得べしとの御話なれども、是れは甚だ了解し難きことに存するなり。抑も、朴氏入閣当時の事情に関して、井上公使より貴君等へ御話ありたることと存ずるが、朴氏の入閣を以て、一に日本の保護に基くものとするは、事実に相違せり。外面より観察するときは、右の如き判断を下さしむるも、無理なからぬことに存すれども、朴氏を呼戻したるは大院君にして、氏を入閣せしめたるは、国王兵の思召に出でたることと聞及せり。好し一歩を譲りて、朴氏帰国入閣共、我が助けに拠るものとするも、既に今日となりたる以上は、最早我に於て如何とする能わざることは、素より貴君等御承知のことに可有之、従て拙者は朴氏を進退する等の事に至りては、決して我権力に属す可きものにもあらず、又全く我に其権力なきことを貴君等に向って断言致置候。乍去、朴氏の挙動、若し土地の治安を妨害するに於ては、氏と私交ある拙者に於ては素より進んで友誼上の勧告を為さんことを欲するものなり。況んや今貴君等の御申出もあることなれば、充分の勧告を試む可しと雖ども、勧告は則ち勧告にして、朴氏に於て之を容るれば好し。容れざれば其れ迄の事と御承知ありたし。

と云いたれば、シル氏、

 若し、朴氏に於て貴君の友誼上の勧告を容れずとならば、致方なけれども、兎に角勧告の労を取られたし。

と述べ、本官は更に、

 今、ウェバー君の御話になりたる、同氏と朴氏との関係につきあられもせぬ風説を伝播するは誠に遺憾に存する処なり。去りながら少く時務に通ずるものは、決して之を信ぜざるなり。井上公使の如きも之を信ぜず。拙者等も亦其実なきことを知る。又日本の新聞紙も漸く事実を了解しつゝあるものと見え、今日に至ては我新聞紙の半ば以上は、前の風説を非とするに至れり。偖、事情右の如くなれば、拙者は朴氏の挙動果して治安に妨害ありとせば、素より勧告を為す可しと雖ども、既に前にも申上げたる通り、拙者は未だ曾て斯ることを聞かず。貴君等聞込まれたる処如何に。

と問いたれば、ウェバー氏は、

 朴氏は余り圧制なり。

と答えたるにつき、

 何人に対し圧制なりや。

と推返したれば、

 政府に対し圧制なり。

と答えたり。仍て本官更に其事実の指挙を求めたるに、両氏は、

 是も昨年、大鳥公使に申込たる朴氏の一件と同一の価値ある緊要事件にして、同く大鳥公使に申込置きたる事なり。即ち王宮護衛兵に関する事なり。近頃聞く所に依れば、朴氏は国王陛下の意に反し、現在の王宮護衛兵を廃し、新に政府の組織したる兵を以て、之に代んことを主張し、陛下の悩ますこと甚だ酷なり。若し此成行に任し置かば、恐らく一大面倒を生ずるに至らん。

と言終りたれば、シル氏は語を続け曰く。

 近来、朝鮮人中に風説する所に依れば、事の信偽は素より知る可からざるも、右護衛兵交代の事は、日本顧問官の発議に基くものにして、軍部は頻りに其議を固持して陛下に迫り、之を遂行せんとするものゝ如し。陛下の心中実に察するに余りあり。抑も陛下の為人(ひととなり)は、決して毅然たる大丈夫と云う可からず。其性温順怯弱、他人をして愛憐の情を起さしむ。拙者、着任以来、陛下の拝謁を得たること既に数回。幾分か其人を知ると云う可し。今此愛す可き陛下が、其臣下の為めに苦しめらるゝを聞き、不憫に堪え(ず)。

と云えり。仍て本官は、

 王宮護衛には、規則なき旧兵を廃し、新に訓練したる精兵を以て之に代らしむること、新政府当初よりの計画にして、陛下は疾(とっく)に其事を裁可せられ居りたるやに聞きたるは、今更此問題の如く音高く成りたるは不審の至りなり。何には兎もあれ、若し此議をして、今回政府が国王陛下を強迫する為め持出したるものとせば、其発議者の日本顧問官にあらざることは、拙者の断じて疑わざる所なり。規律もなき旧兵に代うるに、正式に訓練したる兵を以て王宮の護衛に充つることは、改革の順序にして、拙者は最も其処置の当を得たることを信ずるものなり。若し此の改革を行わずして、今の侭に打捨て置くときは、遂に王宮の護衛は国内最劣等兵の手に委するの奇観を呈す可し。但、陛下が新旧兵の交代を貴君等御聞込みの如く嫌わせらるゝを、此際強いて之を行わんとするに至ては、固より策の得たるものとも考えねど、時機を見て、之が交代を行うことは、改革の順序に於て其然らざるを得ざるものと信ずるなり。

と述べたれば、ウェバー氏は、

 貴君は精錬なる新兵を以て旧兵に代らしむると云わるれど、精錬なる兵を得ることは、到底三年や五年の能くする所にあらず。新兵或は旧兵に優るところなしとせざるも、此両者の義は、敢て著しきものとも思われず。又縦令新兵を以て精兵なりとするも、朝鮮兵の千や二千が王宮を守れはとて、事あるの日に当り、将た何の効能かある可き。此護衛なるものは、惟だ名に存して其実なし。畢竟是れ陛下の気休め道具たるに過ぎず。而して陛下は今旧兵なれば安心なり。政府の作りたる兵に守らるゝは不安心なりと云いて、軍部は恰も謀反人の如く思召す際に、強いて交代を行うときは、政府に対する陛下の御信任は益々減少することなる可きを以て、前議の結構を中止すること、又政府の為めなる可し。

と。シル氏続けて曰く。

 ウェバー氏は正に我が意中を描写せり。実にウェバー氏の言わるゝ如く、王宮の護衛は真に名のみ故に、陛下若し婦人を以て此を組織せんと欲せば、其れにても可なり。到底立派に真価ある兵を作ることは三年や五年の能くする所にあらず。今日の要は惟だ御心を安んずるに有り。陛下固より毅然たる丈夫にあらざるも、其性温和怯弱にして愛憐す可し。加うるに御即位以来数回の大事変に遭逢し、兼て強健ならざる御体にも齢にも似せず衰弱したる体を見るは、如何にも憫然に堪えざれば、何とかして其心を安ぜしむることを為したしと思うなり。

と述べたるにつき、

 本官は貴意のある所を領悉せり。去りながら、今、国王陛下が特に旧兵を慕い新兵を嫌わせらるゝは、如何なる理由なるか。一口に云えば、彼れも朝鮮兵なり、是れも朝鮮兵なり。其間に信用の厚薄を生ず可き理由を見ず。

と述べたるに、

 左ればなり。旧兵は久しく宮中に在って護衛の責を尽したることなれば、上は士官より下兵卒に至るまで、自か(ら?)陛下の信用を受け居ることは、固より自然の勢いなり。特に二人の米国人[斯は云うに当り拙者は実に彼等の寧ろ米人にあらずして、他国人ならめばやと思う]、ダイ、ニンステッドの両氏に信任厚きことなれば、旧兵と共に彼等をも失わんことを恐れさせらるゝこともあり。亦新兵は貴国人の訓練する所なれば[斯くは云うも、決して私意を以て批評を加うるの意にあらず。朝鮮人の齎らす風説を聞くが侭に述ぶるなり。請う、怒諒せよ]、安心なり難しと思わるゝ所もあるなり。

と述べたるにつき、本官は、

 御話にて事情大略了解せり。拙者は前陳の如く、改革の順序として、到底新旧兵の交代を為さゞる可からざることを信ずるものなれども、陛下に於て斯くまで嫌わせらるゝものを、其意に反し、今急に之を行わんとするは、固より策の得たるものにあらざる可しと考うるにつき、御説話の趣意に拠り、朴氏に忠告を試み、少くも一時なりとも之を止むることに致度と存ずるなり。乍去、朝鮮政府の位地より云うときは、是れ到底決行せざる可からざることにして、例えば、陛下の信任厚き、ダイ、ニンステッド氏等へ新兵を属せしむるなり、旧兵の士官を王宮に留むるなり、又は百人若くは二百人づつ漸次交代せしむることにするなり致さずでは、纏り付兼ぬることと覚う。亦朝鮮の新兵が旧兵に優ると云うも、惟今ウェバー氏の言うわるゝ如く、著しき差異もなかる可しと、拙者も考うれども、朝鮮の人に向って斯る快濶なる見識を持たしめんことは、極めて困難なり。

と云いたるに、ウェバー氏は、

 改革は我輩の賛成する所なれども、余り急激の処置は凡て事局に害あることを信ず。

と述べ、シル氏は更に、

 以上は拙者等が全く友誼上より申上ることなれば、貴君に於て若し朴氏に対し、私交上の勧告を試みらるゝことなれば、幸甚と存する。

旨申述べ、尚お本官が快く接遇したる旨再三謝して立帰り候。

 右及内報候。 敬具。

  明治二十八年七月四日
              臨時代理公使杉村濬
  外務大臣臨時代理侯爵西園寺公望殿

 もちろん、金宗漢が言っていたように、国王王妃から依頼されての両公使の申し出なのだろう。

 しかし、「国王のひととなりというものは、けっして堂々たる人物というのではなく、その性質は優しく弱く、他人をして哀れみと慈しみの情を起こさせる人である」と。つまり、不憫と?(笑)。やはり米露両公使から見ても子供のように見えたのであろう。

 

国王の期待と依頼

 さて、杉村濬は7月3日に国王に謁見した。どうやら国王の方から引見を求めたようである。
 史料の文字が薄くて判読できない部分は日本外交文書デジタルアーカイブに依った。

(「明治28年6月28日から明治28年7月17日」p31)

七月三日、杉村臨時代理公使内謁見始末

 寒暄の奏上了って、

大君主 「此頃は時候の為めか、耳患ありて、洋医を引き治療中、未だ衣冠を着くるに不便を覚えたれども、井上公使出立後の消息も承知し度、且は同公使より此頃通信もありたりと云えば、旁推して今日は卿を引見せり」

本代理 「玉体、和に違うにも拘わらず今日謁見を賜わり感謝に堪えず」

大君主 「井上公使は遠路無恙帰朝し、引続健在なるや」

本代理 「然り。途中無事、去月廿日東京に着し、同廿一日に於て、皇帝皇后両陛下と謁見し、委細の復命を為し、且当国駐箚中は特に両陛下厚遇の程をも奏上せし由の電報有之たり」

大君主 「吾充分の優遇を与うる能わざりしを慙づ」

本代理 「尚お公使より申越中、当地出立に臨み、両陛下に謁見の日、赤誠を布きたる事柄は陛下の御記憶に存せられしめとは窃に希望する旨、本代理より転奏すべしとの事なり」

大君主 「[此時良や御考量の後]大臣の交迭を濫施すべからず等、有益なる我国政上の勧告、朕一々之を銘心服膺せり。敢て失念すべけんや。卿より朕の旨を公使の許に致せ」
「此程の状況は[宮中と内閣の衝突を指されしならん]、卿にも委細承知の事なるべければ、朕は此に復びするの要なし。先ず何事も兎角に纏りたれば、是亦、安心致呉る様通報を望む」

本代理 「敬諾。聖意の趣、井上公使に報せば、定て満足すべし。而して井上公使も用事片付次第、可成速に帰任すべしとの事にて、本代理より陛下へ奏上致置べしとの通知あり」

大君主 「果して然る乎。朕これを聞て甚だ満足。一日も速く其復任の日を待てり。而して凡そ何日頃に於て来るべきや」

本代理 「未だ確報あらざるも、今十日若くは半月に相成らば何とか報知ある可しと考えらる」

世子宮 「[王妃の言を伝えらる]井上公使出立後は何となく心細き感情を起せり。今、近々帰任すべしとの言を聴き、喜悦に堪えず。可成其速ならんことを望む。今日の贈物は忝し。宜しく卿より代り謝意を致せ。是れ王后陛下の思召しに出ず、云々」

本代理 「井上公使出立に臨み、御約束の品物到着致したれば、今日持参献上致せり。書冊中日本文多く、就中地球儀の如きは可成地名の漢訳を撰びたれども、矢張処々に国文を付記せり。或は御閲覧に不便ならん。又統計年鑑の如きは、財政、兵政、戸数、官吏等、日本に於ける所有事物を網羅し残す処なし。御展覧あれば頗ぶる有益ならん」

大君主 「日本文に作りし分は之を翻訳に付し、可成閲覧に便宜ならしむべし。井上公使出立の際、王后の約束せられたる二閔の少年遊学の事は、段々遅延して王后にも、斯ては失信の恐れありとて大に心配せらる。然るに、右両人は目下上京中なるも、如何せん、一名は喪に丁り、一名は病気加療中にて出立を得ず。故に次回大使渡航の節には必らず同行せしむる筈に決し置きたれば、此議予め通知し置かんことを望む」

本代理 「委細領承致せり」

大君主 [此時左右に姑く退くべきを命ぜらる。侍臣一同退く。残るは本代理と国分書記生なり。国王近く坐を賜い]
 「扠手(さて)、此頃朴内部、魚度支の奏する所に拠れば、日本軍隊は近々撤回すべし云々。果して此事ありや」

本代理 「日清の平和定約已に成り、貴国の匪違亦た平ぐ。道理上駐兵の必要なきが如し。就ては必竟撤回の事に至るべし。乍去、我軍隊の事は一々大本営の指揮命令に基く儀なれば、其命令に接せざる以上は、何とも今日の処、推定致難し」

大君主 「朴魚両大臣の奏する所如此、朕此両大臣の奏言を敢て信用せざるにあらざれども、若し日本軍隊にして説の如く悉く撤回せんか甚だ心許なし。就ては朕が望む所は今姑く一中隊位の兵隊を公館護衛等の名義を以て駐留せしむる事に致度し。此儀は卿に含み置かざれば、大本営より命令到達の後に於ては、或は事面倒なりしと存ずるが故なり。右は朕が内意を卿に致す次第なれば、必らず他に漏泄せざらんことを。何となれば此事一旦朕が口より出たりとせば、朕両大臣に慊然たるものありとの論あらん。已往、井上公使謁見の況、朕屡々内話を為すに当って朴内部は非難すらく、陛下何故に外臣に厚くして内国の臣僚に薄きこと夫れ如此なるや。井上公使には事情を打明け御相談あるも、臣等に対しては却て城府を構えて容易に入るを許さゞる如きは如何と、大に不満の色ありし故に、此儀は呉々も漏泄せざる様、卿の注意を煩すなり」

本代理 「謹で領悉致せり。駐兵の事は外部大臣に向て協議を聞き置たれば、何とか措弁の途あることと信ぜらるゝなり」

右にて退出を奏す。

 国王としては、近衛兵問題があるからこそ日本軍の守備隊を頼みとするような言葉に思える。それは殊更、国王王妃の策略として出た言葉とは考え難い。井上公使の帰任を期待していること、また、日本軍の護衛も望んでいること。
 しかしここで筆者は思い出した。護衛として1中隊とは、あの明治17年の事変に至った、明治15年の国王護衛のための借兵の件と同じである。
 自国の兵を信じず外国の兵を信じるとは異常なものであるが、これは現代でも見られるケースではある。クーデターを恐れて自国で軍隊を持たず、近隣の強国の軍隊をたのんで軍事的安全を計ろうとする国は現代でもいくつかある。また財政上からもそちらの方が得策と。ついでに「非武装平和国家」などと虚言を弄して観光客を呼び込もうとしたりして。(笑)

 

井上馨、懐柔策を提案

 すったもんだする朝鮮内政。その他いろいろ伝わってくる朝鮮事情。それらを横目に見ながら井上馨は、ここで朝鮮に対する思い切った懐柔策を提案。ことは金銭に関する現実的な問題であった。

(「鉄道電信其他ニ関スル日韓条約締結方交渉一件/分割3(レファレンスコード B07080194900)」p30からの「機密受第五三三号」より「公債の事」のみ抜粋。その他項目を含めた全文はこちら。()は筆者)

   廿八年七月三日接受
機密受第五三三号

[(欄外)井上公使より直に西園寺大臣へ差出■■・・・]
[(欄外)本書は井上公使より大臣へ手交の上、廿八年七月一日の閣議に提出■■・・・]

 本官在任中の事情大要は過る廿二日、内閣に於て陳述致置候。就ては尚左に急要の条件に付、本官意見申出候。至急何分の決議有之度候。

   公債の事

 朝鮮政府財政の窮迫は追々報道なしたる通り、数百年前より執政の失当に由り種々悪弊の極に達したるは、今更申す迄もなき事ながら、抑、遠く壬辰の役後、八道の困窮に加うるに、王室の困迫より止むを得ずして負担を増し、困弊を累ね、殊に昨年に至り、朝鮮の米廩とも称する慶尚、全羅、忠清の三道は旱魃に加うるに、東学党の為め蹂躙せられ、黄海道、平安の二道亦東学党の騒擾と、加うるに日進の戦争場となりし為め、幾んど荒廃に帰したる姿となり、此等の為め一層困難に陥りたるものなり。
 昨年、我誠実の忠告を以、内政改革に着手せしめんとするや、政府の金庫全く空乏。王室の経費を始め、兵隊に与う可き給料凡三ヶ月も不渡の有様にて、終に旧暦十二月に至り、官吏は漸く愁訴を起し、兵隊は窃に激昂の色あるより、政府憂懼の余り、金員借入の義を本官に歎訴するに依り、止むを得ず我第一銀行より金十三万円を貸与せしめたるも、是僅に未払延滞給一ヶ月分を払わしめ、終に騒擾の萌芽を鎮圧せしめたり。
 弥々改革を実行せしめんには、第一必要なる財源を得ざるに因り、一も着手すること能わず。去りとて其侭経過せば復収拾可らざる境に陥り、折角帝国政府が世界に向て公言したる朝鮮の独立を扶持し其内政を整理すと云うことは、其結果を得ずして反て其滅裂を促がしたる如くならん歟と憂慮の余り、五百万円の公債を興さしめんとし、或は電信或は信書を以て政府の御配慮を乞い、終に岡本を帰国せしめ、其事情の困難と切迫を陳述したり。我政府に於ても、財源救護の必要を認められ、先ず三百万円丈貸与の事に御決定相成、尚右貸与に付条件有之趣を以て、末松法制局長官を派出せられ、又日本銀行役員、鶴原首藤の両人を伴い来着するや、朝鮮政府は朴内部魚度支の両大臣及安度支協弁を以て委員とし、談判を開きたるも、我注文の条件に対しては彼不同意を唱え、彼の提議は我亦允従するを得ざるの条件なるを以て之を聞かず、猛寛種々の手段を以て交渉数回の後、一時我主旨に屈服せしめ、約款を終に訂結するに至りたり。
 然るに訂約通り初三ヶ年据置き利子を払い、後二ヶ年間両度に全額三百万円の数を償還することは事実困難なり。近来仮に調査したる彼政府歳入出予算に就き、考按を下すときは、到底履行し能わず。訂約の当時、各大臣等切に延期を懇求したるは、誠に将来を懸念したるものにして、正当の良心を以て推諒すれば、不道理の請求とも存ぜられず。
 就ては、本償還期限を既訂約条の通り其期に至り履行せしむるは必然彼をして苦境に陥らしむるのみならず、我政府に於ても之を実行せしむる為めには、度支部の全歳入を差押え強還せしむるの止むを得ざるの圧迫手段を取らざるを得ざるに至らん。
 尚、外観に於て彼に屈従の貸方威迫の返却手段たる嫌いも有之。且方今外交の事情に際したる場合なれば、左に二案を書し建議候間、孰れか其一を御採用相成候様致度候。尤も、本官の希望は第一案、清国償金の内より五百万円より少なからず、六百万円より多からざる金額を恵与相成候方是非御採用有之様致度候。
 依て左に先ず其理由を概陳せん。

 昨年我政府が朝鮮を独立せしめ、且内政を改革せしむと声言し、終に日清戦争を発し、牙山を始め平壌義州は日清の修羅場となり、釜仁元の三港は我軍の上陸場となり、従って八道幾んど進軍の地となり、閭閻為めに驚擾し百姓離散す時、恰も収穫に際せしも、又之を顧みる能わず。如何にも無惨の境遇に立至りたり。是れ畢竟、彼政府失政に起因すると人民迷悞と当時彼政府按撫の到らざるに由ると雖も、是国柄に対しては、未だ望むべからず。
 故に今之に酬ゆるに清国より受くべき償金の内より五百万円より少なからず、六百万円より多からざる金額を付与するも敢て過当の恩恵にもあらざる可し。
 而して此結果は朝鮮人の感情を深くし、外見上に於ても又、我は独立を扶け財源を救護するの忠実を示す一手段とも相成候わんと相考え候。
 若し夫れ第一案にして行われ難き場合には、第二案の償却期限延期、海関税抵当、担保として税関監督に日本人聘用、等の条件を以て現約を改訂することに致度候。

第一案
 清国より受く可き償金の内より五百万円より少なからず、六百万円より多からざる金額を朝鮮政府へ恵与し、此内より先ず三百万円の貸与金を償還せしめ、残額の内其一半若くは三分の一を王室に与え、余は彼政府有益の興業費に充てしむ。即ち本官の所考にては右残額を基本として彼政府をして先ず京仁間の鉄道を布設せしめなば[王室の分は王室の特殊として出さしむ]、大抵其事業を完成し得べし。若し基本の不足を告たる場合には、既成の鉄道なり又は海関税を抵当とし、我銀行若しくは会社より資金を貸与せしむること。

第二案
 三百万円に対する償還期限は、元金を三ヶ年据置き、利子を払い、四ヶ年目より年賦を以て償却せしむ。正、其期限は二十ヶ年より多からず、十五ヶ年より少なからざる間に於て取極むること。又之れが担保には釜仁元三港の海関税を以てする外、税関監督として日本人を聘用せしむること[三百万円貸与約定の節は釜仁両港の海関税は既に清商何順泰と我第一銀行に抵当となり居り。他に抵当を禁ずるの約なりしを以て、担保とするを得ざりしも、今日にては第一銀行の方は償却済に付、担保とするを得べし]。

 要するに、第一案は三百万円を返却せしめ、残余の一半を王室に与え、国王并に王妃を心服せしめ且抱き込み、他の一半を以て朴魚の両氏をして安心我政府に依頼心を深からしむるの手段にして、且他国の容喙を惹き出す端緒を鈍からしむるの手段に外ならず。第二案は、第一案の如き充分なる効能は之れ無くも、前約に比較すれば余程寛厚なる返却方に付、幾分歟圧服の感情を薄からしむるならん。且又三百万円貸与の義は、議会の協賛を経て其貸付方法に至っては、政府に一任したるやに承知致居候。左すれば右貸与の条件、次の議会へ報告を要する事も可有之、然るときは現在成立の約条は前陳の通り到底彼に於て履行し能わざる、効果覚束なきものなれは、後日議会の論難を惹き起すが如きことありては一論難の端を議会に与ゆる道理に付、此辺も併せて御一考相成度候。

(中略)

 以上の諸条件可成速に御決定の上、本官の帰任を要せられ候はゞ、何時にても帰任可致、又新任公使派遣の御都合に候えば、[本官の希望は公使其人の細君の交際向等に熟諒なる人物を特に御人選相成候様致度、尚又](欄外に[省くこと]とある。)適任者内定の上は御発表前、本官一名帰任致し、従前の行掛り及将来の措置等に付、熟と大君主并に王妃へ奏聞を遂げ、且各大臣の居合、新任公使の結び付け等に付ても、夫々遺憾なき様致度存候間、此義も御一考相成度候。

 右及具申候也。

 明治廿八年七月一日
      特命全権公使伯爵井上馨

 この年、朝鮮政府の財政は破綻していたことはすでに述べた。それで日本政府がほぼ予算全額の300万円を貸与することになったことも。また、それが決まった時はまだ戦争中であって莫大の軍費を費やしている中のことでもあり、貸与金の返済方法も厳しいものとせずを得なかったことも。
 それが今や戦争に勝利し賠償金も受けることになったことから、その返済方法を緩やかなものにするか、そしてそれよりも清国の賠償金より500万円〜600万円を朝鮮に恵与してはどうかというのである。
そうすれば「此結果は朝鮮人の感情を深くし、外見上に於ても又、我は独立を扶け財源を救護するの忠実を示す一手段とも相成候わん」と考えると。ま、〆の言葉として井上は第一案の事を正直に次のように述べた。
「要するに、第一案は三百万円を返却せしめ、残余の一半を王室に与え、国王并に王妃を心服せしめ且抱き込み、他の一半を以て朴魚の両氏をして安心我政府に依頼心を深からしむるの手段にして、且他国の容喙を惹き出す端緒を鈍からしむるの手段に外ならず」と。

 要するに、朝鮮内政の不安定因がロシアの政略なのか、閔族の反攻なのか、いずれにしろ、王宮を心服させ抱き込み、その上朴魚らが安心し、かつ日本政府に依頼し、また他国の手出しを惹き出すような端緒を抑えるものでもあると。

 この一文を現代ではとやこう問題とする人もあるが、現在も行われている各国間の経済援助などと本質的には何ら変わりないものであってねえ。
 これで朝鮮王宮も助かる、朝鮮政府も助かる、日本政府も助かる、と万事まるく治まればそれで良いではないかと。

しかし、閣議決定したことは以下のものであった。

(「鉄道電信其他ニ関スル日韓条約締結方交渉一件/分割3(レファレンスコード B07080194900)」p42より「公債の事」のみ抜粋。その他項目を含めた全文はこちら。()は筆者)

明治 年 月 日起草
同廿八年七月十一日発遣

在朝鮮
 井上全権公使      外務大臣

機密送第四五号
 本月一日御提陳相成候数件に付、左に項を遂て及御内訓候

  一、公債の事に関しては、現に貸与する所の三百万円の償還期限を十五年若くは二十年に展延し、而して別に大約三百万円を朝鮮政府に恵与し、之を以て永久記念と為るべき事業を起さしむる事。但し、右金円恵与の件は最近に開かるべき議会に提出して其協賛を求むる事に廟議決定致候。

(中略)

右、回答申進候 敬具


 恵与する金額は、貸与金返済にあてれば残額が出ない300万円。それも議会の承認がいると。ま、貸与金返済方法は緩やかなものになったが
 しかしその朝鮮ではとんでもない事件が起きていた。

 

日清戦争下の日本と朝鮮(14)      目 次       日清戦争後の日本と朝鮮(2)

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