日清戦争下の日本と朝鮮(14)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

     金州城内東会館に於る敵兵の戦死者法会の状況
 整列せるは天台宗特派員大照円朗、真言宗特派員和田大円、大谷派特派員平松理英、佐々木霊考、臨済宗大本山妙心寺特派員原円応、立正安国会特派員等にして、即ち左方より逐次之を列叙す。其右方の二名と拝伏せる一名は清国の僧侶なり。(その他、衣冠持笏の神官らしい姿も見える)
  明治廿八年 一月十一日撮影 (「日清戦争写真帖」より)

索引

日清戦争について
   日清戦争原因の理解ポイント
   日清開戦までの両国交際略史
   日清交際史の結論:修復不可の関係
   帝国議会に於ける政府批判
   開戦へのステップ1:東学党の乱と派兵
   開戦へのステップ2:派兵はしたものの
   開戦へのステップ3:清への調停案 内政改革
   開戦へのステップ4:清への絶交書と最後通牒
   開戦へのステップ5:朝鮮分割占領案
   終に開戦

東学党の乱についての要点
朝鮮の貧国弱兵と腐敗
朝鮮内政改革について
朝鮮政府財政事情について
軍事のことなど
三国干渉について

 

日清戦争について

 日清戦争の原因、日清戦争はなぜ起きたのか、その意味は、理由は、などに対して様々に意見あり。しかしほとんどが何ら根拠資料も提示せず、どこまでが空想で、どこまでが資料に基づいているのか不明の解説ばかり。
 大体においては、「日清戦争とは、日本と清国が朝鮮支配権をめぐって起こした戦い」という、資料の裏付けも見当たらない推論を述べるものが多いようである。で、中には、「朝鮮への日本・清の両国による相互侵略戦争」と言いきっている社会科の教師の“模範解答”もある(笑)。

 しかしながら、日清開戦して20日余りの8月16日に、日本政府内では「将来朝鮮を如何すべきや」という議題を閣議ではかっている事実はどう見ればよかろうか。日清戦後の対朝鮮策の方針をどのようなものとするかという議論である。そして議論数日、ついに結論は出ずと。
 初めから支配権だの侵略だのの意図があったとしたら、開戦20日もたって内閣でこんなことを議論するはずもないわけで。まして結論も出ないとは(笑)。

 その議題の冒頭では、
「朝鮮事件は、当初大鳥公使の赴任に臨み籌画せられたる所の廟算に比すれば、外交上に於ても軍事上に於ても、荐りに局面の変遷に遭遇し、歩々深入、遂に今日の形勢とはなれり」
とある。
 つまりは、当初、大鳥公使を赴任させるにあたって予想したことにくらべて、外交上においても軍事上においても、何度も事態が変わるという事に遭遇し、徐々に深入りして、ついに清国と戦争せざるを得なくなったと。
 具体的に言えば、朝鮮で東学党の乱が発生、朝鮮政府は鎮圧を清政府に依頼、清兵派遣、日本も公使館と居留民保護のために大鳥公使とともに日本兵を派遣、そして再乱防止を求める日清共同による朝鮮内政改革の提案、などなどの変遷をたどって戦争になったと。

 まさに日清開戦の年だけを言えばこの通りなのだが、このような腕力による争闘にいたった経緯を正確に知るには、実はここまでの日清交際の歴史を知る必要がある。決して唐突におきた戦争ではなく、さまざまな問題や事件が絡んで生じた戦争なのである。

 日清戦争原因の理解ポイント

 日清戦争開戦を招くことになった日清両国による朝鮮派兵であるが、清国が派兵したことに対し、なぜ日本もまた派兵したのかという理由をはっきりとさせておかねばならない。
 先ず、朝鮮の支配権云々という推論以前に、実際に日清間でおきた歴史上の事件を確認しておきたい。

 第一に、明治15年朝鮮事変(壬午事変 詳細後述である。この軍民の乱によって朝鮮政府要人が殺害されたのみならず、被害は日本公使館や館員などの身にも及んだことから、日本政府は朝鮮軍による公使館護衛を求めた。しかし朝鮮政府は軍の統率を失っていることから、やむを得ず日本軍による護衛となり、日朝間の条約、済物浦条約によってそれが規定された。つまりは日本兵の朝鮮駐屯は条約上の権利であった。

 次に、明治17年朝鮮事変(甲申事変 詳細後述が発生する。当時、朝鮮国王からの依頼により王宮で国王護衛の任に就いていた日本公使と日本兵およそ130人に対し、1000人を超える清軍が突然王宮に攻め入って攻撃をしかけ、日本公使館をも襲撃した。更にこの時に清兵は、何の関係もない京城居留の日本民間人を殺害し婦女を陵辱し(婦人1人を含む死者36人、拉致被害婦人12人)、また財産も掠奪した。
 このことに対し、清国政府は遂にその非を認めず、謝罪もせず、賠償にも応じなかった。これでは、もし再び朝鮮に清兵が派遣されれば、日本としても公使館と居留民保護のために充分な兵力を派遣せざるを得ないだろう。天津談判によって日清両軍の朝鮮からの一時撤退が決ったが、日本が朝鮮に派兵する権利を有する済物浦条約は依然として有効であった。

 明治19年には、清国は巨大戦艦を長崎に派遣して威嚇し、そのうえ上陸した清国水兵数百人が暴れまわるという大事件(長崎事件 詳細後述が発生する。
 この時も清国政府は、清兵の乱暴を鎮圧せんとしたおそよ30人の日本巡査の行動を、治安取締りの行為と認めず、清兵と巡査の喧嘩であると主張し、最後までそれを押し通した。互いの国民の犯罪行為を現地国の法で取り締まることを規定した日清条約があったにもかかわらずである。
 当時の日本人が猛烈に怒ったのはこれらの点である。また、清国をはっきりと敵国と意識するようになったのも。

 しかし今日それにふれる解説は皆無と言ってよい。おかしなことである。それぞれが日清戦争にいたる重要なファクターなのであるが、日中の近代史からはすっぽりと抜け落ちている。
 どうも、今日流布する近代史はまことに異常なものが少なくないと、考え込んでしまうことがある。そこで、巷に氾濫する浅薄な解説などに惑わされず、自ら資料を読まれることを勧めたいのだが、これも実際には難しいことであろう。

 

 まず、上記議題で「朝鮮事件」と言っているように、当時の日本政府外交史において日清戦役は「第四回朝鮮事件」という位置づけともなっている。
 すなわち、第1回朝鮮事件は江華島での雲揚号事件、第2回は壬午の乱(大院君の乱)、第3回は甲申の変(朴金の乱)、そして第4回が東学党の乱に端を発して日清戦争となったこの事件であると。いずれも日清交際上に深く関係する事件であった。

 以下、日清戦争に至った両国間のここまでの歴史を簡単に振り返ってみたい。資料としては簿冊「日清交際史提要(アジ歴:レファレンスコード B03030240600)」もお勧め。著者は元北京公使館一等書記官中島雄。明治40年に外務省から、幕府時代〜明治33年頃までの日清交際史の提要を記すよう嘱託を受けて書かれたもの。当時の機密信や公信や議事録なども写しとして大量に掲載されており、日清間の略歴を知るのによい優れものである。また、活字文ではないが比較的に読みやすい文書となっている。
 なお、第1回朝鮮事件以降の項目についての詳細や史資料などは、本サイトの「明治開化期の日本と朝鮮」「日清戦争前夜の日本と朝鮮」「日清戦争下の日本と朝鮮」に掲載したものを参照されたい。

 

   日清開戦までの両国交際略史

 1. 条約問題

  ・ 徳川幕府時代の日本は、清に対しては長崎へ船の入港を許すのみであった。また幕末から明治元年にかけて長崎奉行と上海道台(監督長官。今の知事のようなもの)との間で、日本人の渡航手順や日本在留清人の取締りに関する申合せができた。しかしそれが両国政府間の取り決めではなく、また欧米各国との間には既に条約あって通商をしているにもかかわらず、隣国である清との間に条約関係がないのは貿易発展上不利であることからも、清と政府間条約を結ぶべきであるとの議論が日本で起るようになった。(「日清修好通商条約締結一件/修好条規通商章程締結間題 第一巻」)

  ・ 一方、清国はアヘン戦争以来たびたび失策を重ね、困難となった外交事務の建て直しをはかっていた。その中心となったのが、早くから欧米人と接触して外国を知り、内乱平定にも功があった李鴻章である。やがて北京政府は国の外交事務いっさいを彼に任せ、大臣たちは相談役以上の師匠としてその指導を仰いだ。

 ・ 明治3年(1870)7月、日本政府は清政府に対し、「方今、文明開化となり国の交際も盛んになり、我が国は遠き西洋諸国と盟約を結んで交際している。まして隣国である貴国とは最も情好を通じて和親を結ぶべきである」との照会文を提出し、条約交渉を申し込んだ。

 ・ よって李鴻章が、日本と連携してこれを外援となそうと目論んだことは、明治3年(1870)9月、李鴻章からの北京総署宛ての書簡で、「日本は中国から僅か3日程の距離にあり、中華の文字に精通し、兵もまた強い。まさに連ねて外援となすべし」などと述べていることからも明らかである。
(以上、「第一冊 第一編 至 六編/5 第二編 条約締結ノ預備」)

 ・ 明治4年(1871)7月、日清修好条規(原文テキストはこちら)・日清通商章程を調印。清政府草案に基づいた文章は李鴻章が、「卑しい言葉を並べたてた欧米各国との条約とは違うものである」と自負するものであった。

 ・ しかし条款第2条が「日清攻守同盟」と見まがうようなものであることが後に問題となり、まだ批准前であることから、日本政府はその他のこともあわせて、条約改正を翌年5年に申し込んだ。しかし李鴻章は、「このような辱めを蒙り、自分は何の面目あって天下に対し、何の言語を以って政府にこれを話せようか」と憤怒してこれを拒否した。よって日本政府はこのまま批准し、日清戦争までの日清間条約となった。
(以上「第五冊 第十七編 至 二十編/2 第十七編 長崎事件」)

 日本政府が清国と条約を結んだのは、行き詰まっていた朝鮮との国交交渉を有利なものとするためでもあったという説もあるが、その根拠となる史資料を見ないので何とも言えない。もっとも、明治2年12月から明治3年1月にかけて、政府内で清国と朝鮮の交際についていろいろと意見がでている記録はある。(柳原前光外三名ノ清国及朝鮮国交際議)
 それによれば、日本滞在の清人が無条約の国の人間のままであることを避けるために、清国と条約を結ぶことによって、その取締りの処置や扱いを明確にする必要が説かれ、朝鮮については清国との条約がなれば清の冊封国すなわち属国であるから、こちらとの交際も速やかに整うだろう、との見通しを述べる意見はある。しかし、また、清国との条約はそう急ぐほどのこともなく、朝鮮国との国交こそ急ぐべきで、ロシアが手を出してくる前に条約を整えておかねばならない、という意見なども見られる。
 いずれにしろ、「朝鮮との国交を有利なものとするために清国と条約を結んだ。すなわち清皇帝と対等の条約を結ぶことによって日本もまた朝鮮の上位の国として君臨しようとした」などという珍説を裏付ける意見はない。この説は、おそらくは朝鮮国内から出た僻みと猜疑による説ではなかったろうか。

 2. 台湾事件

 ・ 明治4年11月、琉球人民69人が乗った船が台湾に漂着したところ、現地蕃人に57名が殺され、また明治6年には小田県(現岡山県西部と広島県東部)の人民が漂着し、またも蕃人から船を破壊され荷物衣類一切を奪われた。これにより同年、折りしも日清条約批准のために清国にいた副島種臣特命全権大使に、そのことを清政府と談判させたが、清政府は「台湾東部は化外の民であり、政府に責任は無く、またこれを逮捕もしない」と返答。

 ・ よって明治7年4月、日本政府は、その罪を問い、また事件の再発を防ぐために、陸軍を台湾に派遣し掃討に着手。すると、清政府は急に態度を変え、台湾蕃地は清に属する、と主張して撤兵を要求。よって日清談判となり、その結果、清政府は日本に行軍一切の軍費の償却金を支払い、今後外国人を害させないことなどを承諾。しかし公文を以ってこれを保証することは国家の体面にかかわると主張して譲らず、ついに談判破裂となろうとした。しかし、英国公使が間に立って調停し、ついに清政府は、それらのことを約束して決着した。

 ・ この時、日清談判破裂となれば戦争となる可能性もあった。これにより、日本全国から政府に対し、義捐金、義捐物資、義勇兵の申込みが殺到している。義勇兵申込みの殆どは士族によるものであったが、中には平民や華族までがいた。

(以上、「柳原全権公使ヘ台湾事件ニ付内勅」、「征清従軍願名簿」「第二冊 第七編 至 十編/2 第七編 台湾事件」、など)

 そもそも幕府時代から、日本に渡来した中国人による犯罪が少なくなく、その取締りが課題となっていた。天保年間には、幕府が長崎で一度に中国人180人を捕え75人を禁固刑にし、後に本国に追放する事件が起っている(明治26年4月刊「長崎小史」)
 これは現代においても、在日外国人犯罪件数の多さを見ても理解できることであるが、当時日清間の条約の必要性は、その取り締まりのことも関係している。
 一団の中に尊敬すべき人物が見当たらず、寧ろ犯罪者が散見されるなら、その一団への評判が芳しくないことは理の当然である。それは「差別」などという問題ではなく、単なる「評価」に過ぎない。当時、日本人の中国人に対する評価はあまりよくない。まして台湾事件での清政府の対応は、日本人からすればいよいよ評価を下げざるを得ないものであった。

 3. 琉球問題

 ・ 隣国清と政府間交際を始めたところが次第にぎくしゃくした仲となっていくが、次には琉球問題が発生した。

 ・ 琉球は慶長年間に薩摩島津家に降って以来、実効支配を受けてその隷属となっていたが、明国ついで清国からも冊封を受け、あたかも実において島津に属し、名においては中国に属するかのような姿であった。明治4年、日本政府は廃藩置県を実行し、琉球を鹿児島県の所領に編入。翌年5年、琉球王を華族に列した。明治8年、明治の年号使用と儀礼一般を日本同様にさせ、清への隷属を禁じて日本領土であることを明らかにし、制度を改革させた。

 ・ しかし明治11年、琉球の官吏が在東京の清・仏・蘭・米の各国公使に、「小国の危急」と哀訴し、「琉球は清の冊封を受け、また蘭仏米との条約国であり、今それを廃することにより罪を大国に受けるを恐れ、また大清国の隷属を離れることを深く恐懼する」と訴えた。よって清国公使は寺島外務卿と会談。また外務卿宛て書簡に「日本は堂々たる大国なのに隣交に背いて弱国を欺き、この不信不義無情無理の事を為」す、と記して送付。日本政府はこの外交上の無礼暴言に対して文章の撤回と謝罪を要求した。

 ・ 明治12年(1879)3月、日本政府は琉球藩を廃して沖縄県を置いた。ここに至って琉球王の妻の兄という人物が、中国天津に渡り、李鴻章に面会して同様に哀訴。同年4月、清政府は照会文を日本政府に発し、「琉球国は世々中国の冊封を受け入貢して今に数百年となるは天下の国の共に知る所である」と主張。これに対し日本政府は、琉球の歴史、文字、言語、神事、風俗、法律など、総て日本のものであり、また琉球王が島津家に対して世々子孫に伝えるべき忠義の「誓文」などを上げて、廃藩置県などは我が国の内事に属する、と反論。しかし清政府は「琉球が中国の属邦たる固より天下の共に知る所である」と主張して譲らず。

 ・ この頃、米国前大統領(18代)ユリシーズ・シンプソン・グラントは世界周遊の途次、清国に立ち寄ったが、その時清政府から琉球問題で請託を受け、帰途日本に寄って日本政府と会談。結果、グラントは清政府に対して、「清と通商する大国の中には中国が日に弱まることに乗じて便宜を得ようとするものがある。しかし日本は清とは和平を望んでいる」と、日本と和議を開くよう勧告。これを受けて清政府は問題解決に向けての協議を日本政府に申し込んだ。当時清国は露国とイリ地方を巡って係争中であり、強圧に出て日本を露国側に追いやることは避けたかったのである。

 ・ よって日清政府間で書簡往復数度にわたり、また天津総領事竹添進一郎に李鴻章の意向を尋ねさせるなどして調整。明治13年8月、各国との条約改正を願いとする日本政府は、琉球問題も絡めて清にも条約の改正を求め、清が各国と締結している条約にある通商上の事で、たとえば内地通商などの利便を日本もまた各国と等しく享受できるのものとする、いわゆる「最恵国条款」を要求し、対価として宮古・八重山諸島の清への譲与を提案。これを以って琉球問題を終了させることにした。

 ・ 同年10月、北京において日清談判の結果、琉球問題の終結と日清条約改正と2島交付のことなどを議定し、後は調印するのみとなる。

 ・ しかしその後、清政府内でその議定に反対する意見が続出。曰く、「露は強国であるが日本は弱国である。露人を馭するには剛柔を互用し、日本に対しては剛あっても柔すべきではない。また信義の国であっても必ず盟約を保つとは言えない。まして貪欲と狡さであくせくしている貧国弱兵の日本など」とぼろくそ(笑)。よって清政府は調印を延期して改めてこれを南北洋大臣に諮ることに。李鴻章曰く、「日本は我が国を助けて露国を拒むことなど出来まい。その日本に多くを譲るよりも、むしろ露国に譲歩し露国に借り、以って日本を恐れさせたがよい。露国は日本の強弱の勢いとしてはその百倍である」と。李鴻章よく現実が見えているというか、露国と個人的に通じたい下心の始まりか(笑)。
 よって、清政府は議定した公文を撤回した。

 ・ しかし協議59日に及び、ようやく調印するまでに整った議定書に対する清政府のこの対応に憤慨した日本政府は、「我が国は米国前大統領の意見に従い、万国公法に基づく全権大臣を派したのに、清政府は権なき大臣に談判させ、無用の協議を開かせ、その言において欺き弄した」と非難し、この件の内容全てを各国に公開した。更に、これ以降は琉球問題のことは取り合わないと清政府に通告。

 ・ しかし清政府は、明治14年、明治16年、明治20年と、琉球問題は未定として協議の再開を求め続けた。やがて日清戦争により台湾すら日本領有となったことにより実質的に琉球問題は消滅した。

 (以上「第三冊 第十一編 至 十三編/2 第十一編 琉球事件」)

 琉球問題は、日本人、中でも薩摩の人間にとっては真に許し難い清国の干渉と見えたろう。日本政府の中では清の外交政策への不信感が高まり、いわゆる「約束破り」は中国の常道という認識が根付いていったと。事ある度に年を経る毎に徐々に険悪な空気になっていく日清関係。やがて日本人の中国に対する国防意識は高まり、その安全保障を軍備の充実に求めることになっていく。

 4. 第1回朝鮮事件:属国問題について

 ・ 西洋の技術や経済の仕組のみならず、その合理的な価値観まで取り入れていく日本と、西洋技術は導入しても中華的な考え方は殆ど変更しない清との間で当然の如く軋轢が生じて来る。その一つに清と朝鮮の宗属関係、つまりは属国問題があった。

 ・ 明治8年(1875)の雲揚号への砲撃事件(江華島事件)により、木戸孝允は政府に意見書を送り、「国内与論の軽薄な報復議論に乗ってはならない。朝鮮が絶交したものとして直ちに派兵してはならない。朝鮮の宗主国である支那に仲介と代弁の労をとらせるべきである。もし支那がそれを断って我が国に一任するなら初めて我が国から問責するべきである」と意見。

 ・ 同年11月20日、日本政府は北京駐箚特命全権公使として森有礼を清国に派遣し、朝鮮事件のことを清政府に知らせ、また日清条約上の問題、即ち第1条の「両国に属したる邦土も各礼を以て相待ち、聊侵越することなく」にある邦土には属国朝鮮も含まれるのかと問うた。応接した北京総署大臣沈桂芬は属国のことについて、「いわゆる属国とは、我が所有の地にあらずして、其の時を以て進貢し我が冊封頒暦を奉ずるを以て云うなり。若し其の国を以て我疆土内に属するものとなさば関係せざるを得ずと雖ども、其国は疆域内に在らざるを以て其国事に管することなし」と説明し、また「政教禁令も彼の国の自主であり、外交も自由に任せて中国はこれに関しない」と述べた。

 ・ 一方で清政府は後に書簡において「朝鮮の中国の属国たる、中外共に知る。属国には属国の分際あり。古今の同き所、朝鮮はまことに中国に属する所の邦の一にて、即ち中国之れ自ら任ずるなり。豈に属国を空名と為すると謂うを得ん。豈に条約において関係する所なしと謂うを得ん」とも述べた。

 ・ これらを総合すると、「朝鮮は確かに中国の属国であり日清条約第1条にも関わりあることであるが、その内政と外交は自主に任せており、つまりは属国が起こした問題は宗主国である中国は責任は負わない」ということになる。

 ・ 森公使はなおもその詳細を問いただしたが、清政府は、「中国、苟も為す可き有るの処に至ては、自から本王大臣より早く籌り酌弁し、以て彼此相い安きを期す」と述べ、結局は朝鮮事件について日本と問題となることを避けたい意を表明するに止まった。

 ・ 清政府は、先年の朝鮮における仏人宣教師とクリスチャン殺害、並びに米商船焼き討ちについて、仏米から朝鮮宗主国としての問い合わせを受けており、その面倒を避けるためか中国は朝鮮の内政には関係していないと言い、かといって、台湾事件のように賠償金を支払わずを得ない事態になったことも合わせて、朝鮮の属国問題については対外的には言葉を使い分ける政策を執った。

 ・ 明治11年(1878)、朝鮮政府から日本政府に宛てた書簡の中に、清国のことを「上国礼部」や「上国指揮」と書いたことから、日本政府は「朝鮮自らが自主の体面を失うものである」として書簡を突き返すということがあった。その時朝鮮政府は清政府にそれを稟報し、清政府からの回答には「中国所属となすは天下の共に知るところであり、その自主の国となすもまた天下の共に知るところである」とあった。一方で所属と言い一方で自主と言うところに、属国の名を維持しながらも責任を問われる紛擾は避けたいという清政府の思惑が伺われた。

 (以上「第二冊 第七編 至 十編/5 第十編 第一回朝鮮事件」、その他当サイト掲載資料より)

 つまりは、機に応じ事に応じて属国問題に関する対応を変じ、朝鮮の内政と外交には干渉しつつ、対外的にはそれらは自主であると言い逃れるやり方である。少なくとも日本からはそのように見えたろう。
 しかし木戸孝允の意見を容れて森有礼に清韓の宗属関係を問わせたのであるが、内政と外交が自主なら即ち独立国であると、日本政府は単純率直に朝鮮を位置づけた。かくて日朝修好条規は締結され、その第1条には「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と明文化された。当時、条約談判において朝鮮側からは、日本の草案のこの条に対しては何ら異議は唱えず、また自国が清の属国であることも述べず、ただ日本と対等の地位にあることにのみ拘った意見が出されている。しかしその実体たるや、朝鮮は清への属国根性まるだしの国であった。

 5. 第2回朝鮮事件:日清両兵の駐在

 ・ 明治15年(1882)7月の朝鮮事変により日本政府は、大院君主導の朝鮮軍民の乱による被害の問責などの談判のために花房公使を朝鮮に派遣し、その護衛に兵を派した。一方、日本派兵を知った清政府も直ちに派兵を決め、清国道台(監督長官)馬建忠と北洋水師提督丁汝昌が率いる清軍を派遣した。

 ・ 事変の結果、朝鮮国の執政者は国王実父である大院君となった。しかし清政府は軍を派遣して大院君とその他およそ40人を清国に拉致するという、極めて重大な主権侵害を行った。これを行使した馬建忠は「朝鮮の内政に干渉するといえども友誼を以ってするのであって、属国としてするのではない」と述べた。

 ・ 当時すでに日本軍内では、清軍の言動に対する強い反感が見られる。また、花房公使の行動に対して清軍の妨害があった場合は戦闘も辞さないという方針であった。

・ この事件によって、乱の軍民から公使館を焼かれ、公使館員らを殺害された日本政府は、事件後は朝鮮政府に対して、朝鮮兵による公使館の護衛を求めた(それまでは、数人の日本巡査と武官がいたのみ)。しかし朝鮮政府には兵の統率がおぼつかないことから、日朝談判の結果、やむを得ず日本兵を駐在させることとなった。その他、日本側被害の補償のことも含めて締結したこの日朝条約を、済物浦条約と言う。また同時に、清政府も兵を京城に駐在させた。

(以上当サイト掲載資料より)

 清政府の公言として「属国といえども内政と外交には干渉せず」としながら、機に応じ時によっては干渉するという政略の具体例となったのがこの朝鮮事変第2回である。なお、清政府は大院君を乱の首謀者として大刑に処するところであるが、国王の実父ということで禁固刑に減じ、以後3年間清国内に幽閉した。
 日本人はそもそも朝鮮については、苟も王家を戴く一国が独立国でなくてどうするぞ、という思いがあった。台湾事件、琉球問題のことも含めて、清政府の態度のその二重性と他国への乱暴な干渉は、日本人の清に対する不信感を愈々募らせるものであった。

 6. 第3回朝鮮事件:国民の憾み長く

 ・ 明治17年12月の朝鮮事変において、朝鮮国王からの依頼による国王護衛の日本公使と日本兵に対して、清軍の一方的攻撃と、その京城居留の日本民間人殺害と婦女陵辱(死者36人(含む婦人1人)、拉致被害者婦人12人)、また掠奪行為は、日本国民に清国への最も激しい悪感情をもたらした。

 ・ 事変に対する日朝間の条約が成ると、李鴻章は天津の原領事に対し、「これで朝鮮事件は全く終わった。貴国と我が清国の間にはもとより何事もないはずである。真に同慶の至りである」と言った。李鴻章は、清兵による日本の官民への攻撃や殺害事件などは最初から非を認めない積りであった。

 ・ この事件において当時の日本人が最も憤慨し悔しく思ったことは、日本側に充分な軍事力があったなら、まさにここで清軍を打ち懲らすことが出来たのに、というものであった。また、事変での朴金ら朝鮮独立の行動が失敗に帰したことであった。

 ・ 日本与論は激昂し、とりわけ論客、軍人らは、清韓の征服をもって酬いるべきとの声を挙げて止むことがなかった。

 ・ この時日本政府は、日本所有の船の数の統計表まで示して、戦争は出来ないと論じ、また新聞条例によって新聞や雑誌を検閲し、清との開戦を煽ることなどを禁じ、激昂する国民世論の暴走を懸命にくい止めようとした。

 ・ また新聞条例により、朝鮮人を「韓奴」、清人を「ちゃんちゃん、豚尾」などの文字を用いることを不許可とし、条約国の人間を誹謗することを禁じた。「韓奴」とは以前から朝鮮人が日本人を卑しめて呼称するのに「倭奴」とあったから、それを転じての造語であろう。「チャンチャン」の語の成立経緯は不明であるが、「豚尾」は明らかに清人の辮髪を例えての造語であろう。

 ・ わざわざ条例でそのような侮蔑語を使用することを禁じたのは、つまりは充分それが国内に蔓延したということでもある。

 ・ 事変後の日本軍の清軍に対する敵対感情は著しく、一触即発の事態となりかねないことがあった。また清軍も反日感情著しく、清国の軍艦は日本の軍艦の接近を見るとただちに軍備に取り掛かるなど、穏やかでない姿を見せることがあった。

 ・ 以降、日本国民の憾みは長く続くこととなったのがこの事件である。即ち、「清韓事件に於ける国民の憾み長く之れを失うを得ざるもの是れなり」「重ね重ねの朝鮮の変乱に、我れに受くる処の恥辱損分を思うて国内到る処紛議せざるは無く、中にもあせりにあせれる志士論客又は壮懐敵愾の気に富める軍人、社会等に在て、清韓の無礼、此くの如くに至る、我邦の威信斯くの如くに至る、速かに彼等を討尽征服するに有らずんば夫れ何を以てか酬わんや、とて已まざりし」(明治27年8月刊「戦乱始末日清韓」)

(以上当サイト掲載資料、その他より)

 台湾事件、琉球問題、朝鮮属国に対する二重規範など、これら一連の清国との軋轢を経て、もはや日本人の清国への感情は修復困難なものとなったと言えよう。
 元から日本のことを「小国」だの「貧国」だのと見下す中国に対して、はっきりと日本人が牙をむき始めたのがこの事件と言える。庶民の口を突いて出る侮蔑語にしても、いかに自らの矜恃に悖ると言われようが、人間の敵対感情とはそういうものであろう。人の口には戸は立てられない。
 今日では、アサヒなどで『日清戦争で「蔑視感情」広がる』などとしたり、また日清戦争従軍医の日記などをもって、日清戦争によって日本人が中国人を「ちゃんちゃん」や「豚尾」などと言って蔑視しだした、などと解説しているが、いずれも勉強不足であること甚だしい。蔑視感情というなら中華思想によって元々中国人は日本人を蔑んでいた。しかし日本人が外国人に対して抱く蔑視感情というものは、そこに敵対感情というものが根底にある。つまりは、日本人が大勢殺害されたにもかかわらず、責任をとろうとしない当時の中国人、すなわち清人への敵対感情は、台湾事件でもあったしこの朝鮮事変でも顕著にあった。更に言えば今日でも中国や北朝鮮また韓国などの発言と行動が日本人の敵対感情を著しく刺激し続けており、それがあからさまな蔑視感情を生んでいると言えよう。

 7. 天津談判:戦争への時限爆弾

 ・ かつて明治15年の朝鮮事変後に、朝鮮国王は親書を以って、賠償金の減額と、国王護衛のための用兵を日本政府に懇請したが、日本政府はそれを承諾して40万円を減じ、今度また国王依頼の護衛兵を提供した。それが清兵のみならず朝鮮兵からも攻撃を受け、また国王を拘束したかのごとき非難を朝鮮政府から受けることになり、ここに日本政府は朝鮮政府に対しても大なる不快を覚え、この第3回事件以降は、これまでの朝鮮の開明と独立を積極的に援助する政策を殆ど放棄した。

 ・ 取り敢えずの問題は、このまま日清両兵が朝鮮に駐在するなら、いつまた衝突の事態を惹き起こすか計られないという懸念であった。

 ・ よって日本政府は、朝鮮からの日清両兵の撤退と、日本公使を攻撃した清将の処罰と居留民殺害に対する謝罪と賠償を求めて談判することとした。

 ・ 日本政府の撤兵案の趣意は、以下の点にある。
   1、清兵が駐在するなら、当然日本人保護・公使館護衛のために日本も兵を置かざるを得ない。しかしそれでは一時の平和は保てても、いつか必ず事件が発生し日清両兵の戦闘となり、国家の大局を破る事態となること、つまりは国家間の戦争になることは免れられないことである。
   2、日本兵駐在の理由は済物浦条約に基づき、日本公使館護衛のためであった。一方、清兵駐在は属国を保護する旧例によるものであった。しかし、日朝関係において日本政府は「朝鮮は自主の国である」と認めている以上、その自主性に対する重大な干渉圧力となる清軍の駐在は看過出来ないことであった。

 ・ 明治18年4月、天津で談判を開く。談判において伊藤博文は、撤兵は一時のことではなく恒久でなければならないと主張。しかし対する李鴻章は、撤兵は一時のことであり、朝鮮国王からの要請があれば再度派兵するのは宗主国としての義務と権利であると主張。つまりは、日本政府としては朝鮮から撤兵するための談判であったが、清政府としては、朝鮮へ派兵するための談判という方向に向いた。

 ・ 談判は何度も暗礁に乗り上げ、時に破裂の危機に瀕した。李鴻章はついに、「我が国は戦争の用意に取り掛かるほかはない」、「我が国は仏国とすら開戦した」と発言。

 ・ 伊藤博文は、日清両国は恒久撤兵するべきであり、両政府が出来るのは朝鮮政府が自治自衛できるように支援することだけである、と主張。しかし李鴻章は、「朝鮮国王に兵士を教練して国の治安を謀ることを勧めているが、数年を経ずして再び派兵を懇請するのは明らかなことである」と主張して譲らず。

 ・ 談判破裂となれば、日清両兵はそのまま撤退しないことになる。よってついに日本側が折れて一時撤兵を受け入れ、それで清側が、派兵の時には双方互いに通知する行文知照のことを提案し、日本側もそれを承諾した。しかしそれはいつかは日清両兵が朝鮮で再びまみえることを意味するものであって、つまりは将来の日清開戦を約束するも同然のことであった。

 ・ 但し条約第2款において、その趣意は、日清両国は朝鮮政府が自ら治安を護ることが出来るよう協力し、両国共に朝鮮に兵を派する必要があるのは最も重大な場合のみに限り、瑣末の事件では出兵しないことを両国が相互に約束するにある、とした。

 ・ 清将の処罰に関しては李鴻章個人がついにこれを「戒飭」するとしたが、居留民殺害に対する謝罪と賠償の件については、後に調査して処理するという照会文を提出するに止まった。

(以上当サイト掲載資料より)

 天津談判の議事録を精読すると、容易ならない両者の齟齬が見えてくる。大体において日清両政府はこの時点で戦争を望んではおらず、したがって和平を念頭において妥協点を互いに探り合う会談となった。にもかかわらず、両国の兵が朝鮮に駐在することの危機感に重大な違いがある。日本側は、派兵となれば例え一時の平和は保てても必ず事変を生じて、ついには国家間戦争となるのは免れられないことである、という極めて厳しい認識をもっていた。それに対して清側は、政府が兵の行動規律を厳しく監督しておればそのようなことはない、という認識であった。日本の場合、軍部また与論の声の激しさを考慮したものでもあるが、清の場合、その見通しに甘さがあったことは否めない。第一、その厳しい監督を受けているはずの清兵は現に日本民間人多数に暴虐の限りを尽したのであるから。これは後の日清戦争においてもそうであり、清兵が各地で暴行掠奪の限りを尽していることに、当の李鴻章自身が憤慨することになるのであるから、全く彼には自分の管理下にある兵の実態すら見えていなかったということになろう。というか、傭兵のすることに一々責任は負えないという意識も働いていたろうか。やることと言えば、時々見せしめに悪事を働いた兵を斬首刑に処してさらし首とするぐらいであった。

 次に、これは違いがあって当然であるが、朝鮮に対する見方の違いである。清国の場合は歴史的経緯から言っても朝鮮は属国であると見ているし、日本は条約上においても、また清が言うように内政外交が自主なら結局は独立国である、という認識である。この点、両者で妥協できる点はない。国際法(万国公法)という西洋式の秩序に基こうとする日本と、中華思想という中国独自の秩序を維持しようとする清との間にある大きな隔たりである。
 よって、清政府としては、朝鮮との宗属関係を絶対に維持するという点で派兵の件は譲ることが出来なかったのはそれはそれで当然であろう。伊藤博文が言うように、ただ朝鮮政府が自治自衛できるように支援するだけ、というなら、つまりはそれは朝鮮の独立を養成することに他ならないからである。宗主国として君臨したい中華という大国のプライドこそが削がれることを、最も嫌ったのが中国というものであったろう。ま、これは今日もそうであろうが。
 ただ日本は日本で、国防という観点から言っても朝鮮は独立国でなければならなかったし、中立を維持する富強国でなければならなかった。この事はこれ以降も政策として維持せざるを得ないものであった。

 公使や居留民への攻撃に対する件では両者は最も激しく対立した。李鴻章が、「我が国は戦争の用意に取り掛かるほかはない」と言ったのはこの件においてである。激論の末、伊藤がもはや第三国の裁定に委ねる他はないとして、米国大統領の裁決を仰ぐことを提案。これを嫌った李鴻章がついに譲歩して、清将のことは李鴻章が個人として部下を「戒飭」し、居留民被害のことは調査するという照会文を提出した。しかし、戒飭されたはずの袁世凱はこの5ヶ月後には高位の官となって朝鮮に再赴任し、調査のことも以後は不明である。
 この国は、決して非を認めない、謝罪はしない、という今日まで継続する国としての体質をよく現した談判であった。

 さて、とにもかくにも、将来の日清戦争への時限爆弾にスイッチが入ったのが、この天津条約の談判時において、伊藤博文が朝鮮からの恒久撤兵を主張したのに対し、李鴻章が宗主国として属国朝鮮に派兵する義務と権利があると主張して譲らなかったあの時、あの瞬間であった。 もし再度の派兵があって両者が相見えば、もはや爆発するのは必至であった。

8. もう一つの日清会談:露韓密約、朝鮮指導案

 ・ 英国が朝鮮巨文島を占拠したことに対して露国が対抗処置に出る動きを見せる中、朝鮮国王が窃かに露国と密約を結ぼうとしていることに危機感を抱いた日本政府は、明治18年7月、清政府に対して朝鮮指導を提案した。

 ・ 密約は、露国が朝鮮兵を教練し、朝鮮の国土を防衛し、周辺海上も露国海軍が防衛活動するという、朝鮮を露の保護下に置く、つまりは露国が新たな宗主国として君臨するも同然の内容であった。

 ・ これは清政府が朝鮮王に命じて断然撤回させたが、実現していれば、英露対立の新たな火種となるのみならず、西洋列強国が干渉に及んで来て、東アジア地域で一大紛擾が起こることにもなりかねないものであった。

 ・ 当時、西洋人の考え方の常識としてあるのは、「およそ文明国が、非文明の人を征服するのは天の法則がさせるのであって、文化文明が進歩する上で喜ばしいことである(1885年4月・英国紙ナインチーンス センチュリー)」というものであった。したがってアジア諸国は西洋国にいつ征服されてもおかしくないという情況下にあった。西洋人の考案した国際法(万国公法)も実は西洋人のためのものであり、そこを井上馨外務卿は「西洋人の講ずる万国公法は恃むべきでない。西洋人は利を見て義を忘れ、競って人の物を取る。その時に当ってこちらから公法を論じても西洋国はただ答えるに腕力を以ってする」と喝破した。

 ・ よって、日本政府は朝鮮の政治を小児の政治と判断し、多少の干渉となるのも止むを得ず、清政府に、朝鮮政治に対して日本と共同で指導することを提案した。

 ・ 指導は、国王を左右にしている内官を排除し、然るべき有能の人物、例えば金宏集、金允植、魚允中などに政務を執らせ、その進退も清政府の許可制とし、新たに米国人を顧問として雇わせ、清からも有能な駐在官を派遣し、常に日清両政府で協議して事を進める、というものであった。また、これは非公然のものであり、アジア全体に対する他国からの侵略を防ぐことが目的であって、朝鮮の政治に干渉することを主意とするものではない、とした。

 ・ 天津においてこれを榎本公使と秘密会談した李鴻章は、一応、清政府は朝鮮の内政には干渉しないのである、と表向きの言葉を述べたが、後に、提案には大いに満足して大賛成であると表明。よって榎本公使もそのように日本政府に報告した。

 ・ ところがその後、李鴻章は態度を一変し、日本と協議して行うという部分を、これでは清は日本の指揮を仰ぐ格下になるとして拒否。榎本公使の言葉を尽しての説得にもついに耳を貸さなかった。

 ・ その報告を受けた井上外務卿は、李鴻章に落胆し、アジア全体の平和を保持せんとする誠意も理解できない人物であるとして、李鴻章の見識の狭さと猜疑心の深さに絶望し、もはや日本政府も朝鮮に対するこれまでの政略を変じ、これを放任して自然の成り行きを傍観する外しかたがない、とした。

(以上当サイト掲載資料より)

 井上馨、李鴻章に絶望して朝鮮政略を一転しこれを放任するの一幕。以後日本政府は積極策を取りやめ、清国政府が朝鮮に干渉するのも放置した。もっとも、朝鮮が日本に協力を依頼した時はこれに応じている。例えば、火薬製造技術などの取得のために朝鮮政府が留学生派遣を申し出た時、日本政府はこれを受け入れて陸軍省火薬製造所に入学させている。

9. 傍観する日本、干渉する清

 ・ これ以降、日本政府は朝鮮のことは成り行きに任せてただ傍観するという政策に転換したが、一方、清政府が執った朝鮮政策は、日本の指導案から日本と協議してという部分のみを外した、内容的には案に沿ったものであった。ただしそれは、朝鮮の内政外交に干渉して清との宗属関係を強化するという方向に向けてのものであった。

 ・ まず清政府はこの年9月に、大院君に朝鮮帰国を許し、新たに朝鮮駐在官に任じた袁世凱に送らせた。日本政府は大院君の帰国を危険と見ていたが、清政府は攘夷が大好きな大院君が帰国すれば、閔族の中に王妃や国王を擁して露国に頼らせようとする動きがあるのを抑えられると考えた。

 ・ 袁世凱を朝鮮駐在官として派遣したということは、天津条約時の照会文にある、事変の時の清将を「戒飭すべし」ということが実行されなかった証となろう。あれほど苦労して認めさせた照会文である。伊藤博文の不快はいかばかりであったろうか。

 ・ 清政府の朝鮮への干渉は内官排除に止まらず、李鴻章は国王に対し王位を速やかに世子(王子)に譲るように求め、また袁世凱は大院君と謀って、王位を大院君の孫李呵Oに譲らせんと国王王妃の暗殺を画策したりするなど、王位継承のことにまで及んだ。

 ・ また、朝鮮新貨幣事業に対し清国の年号を使用するようにと注文をつけてついに頓挫させ、また、朝鮮政府からの初の米国駐在使節派遣にも清国政府の裁可を求めるなど、その内政と外交にも干渉した。よって朝鮮国王は窃かに清の皇族に賄賂を贈って李鴻章の政策に反対させるなどして抵抗した。

 ・ また、後には新設した北洋艦隊のうち8隻の軍艦に艦隊行動をとらせて仁川に寄港させ、その力を誇示した。

 ・ これら一連の干渉と威圧は、朝鮮が露国に傾くことを抑止し、また清国が朝鮮の宗主国であることを朝鮮内外に強く示すものであった。

(以上当サイト掲載資料より)

 ビゴーのトバエにある風刺画の中でも有名な、日本、ロシア、中国が朝鮮という魚を釣ろうとしている絵(いわゆる「漁夫の利」、実は「釣り会」というタイトルだが)はこの頃に出されたものである。しかしビゴーは日朝清露の詳細のことはあまりご存じなかったらしい。日本は釣竿を垂れることなく傍観者となっているのが本当の姿なのである。更に言えば、魚の尾をつかんだ中国人(袁世凱)がその口に大院君を咥えさせて振り回し、「主人は俺だぞ。ロシアに釣られるな」と言い聞かせている姿がより正確ということになる。(笑)
 この風刺画としては的外れな絵は、今ではすっかり人気者になって一人歩きをしているようであるが、どうやら知っててよからぬ利用をしてる人々もいるらしい。絵の発行年月日が日本人に知られると困るのか、あるべき日本版サイトにはわざと掲載していないからねえ。ビゴーの母国版にはあるのに。(笑)

 さて、日本政府としては朝鮮のことは放任して成り行きに任せはしたが、朝鮮を独立国且つ中立に位置づける方針に変わりはなかった。
 そもそも、かつて外国からの日本に対する最大の侵略であった「元寇」は、元が高麗に屯田兵の基地を設けた上で、元軍指揮のもとに中国南宋と高麗の連合軍が日本に攻め寄せた事実にある。明治18年の天津談判において伊藤博文は、元寇における高麗国の関与を談じ、日本にとってこの地が国防上無視できないものであることを示した。
 後の明治23年(1890)12月の帝国議会衆議院第一回通常会議における山縣有朋の「利益線を保護する」との演説もまたそのことを示している。「利益線」という言葉は、日本の国益に関することを意味する。すなわち国防上無視することができない地という意味である。
 しかし日本はこの時点で朝鮮国に対して直接の働きかけはしていないから、同議会で、井上角五郎議員などは、
 「日本政府が執られて居る所の政策は如何であるかと云えば、初めは朝鮮を助けて以て之を独立せしめんとしたるが如く、局外中立たらしめんとしたるが如き形跡であったが、一たび明治十七年に金玉均の変(明治17年朝鮮事変)あるに及んで、日本政府は翻って東洋の事、我与かり知らずと云うの風を為して居る」
 と不満を述べている。(レファレンスコード「A07050000500」のp225、()は筆者)

 確かにそのようには見えたろうが、山縣の演説に、
 「今果して吾々が申す所の主権線のみに止らずして、其の利益線を保って一国の独立(日本のこと)の完全をなさんとするには、固より一朝一夕の話のみで之をなし得べきことで御座りませぬ。必ずや寸を積み尺を累ねて、漸次に国力を養い、其の成績を観ることを力めなければならぬことゝ存じます。即、予算に掲げたるように、巨大の金額を割いて陸海軍の経費に充つるも、亦此の趣意に外ならぬことと存じます」
 とあるように、実力を養うことに専念していくのがこの時以降のおよそ10年間であった。もちろんそれは、対清戦争を目的としたものではなく、利益線の保護も可能な一つの独立国に相応しい、列強国との条約改正のことも視野に入れた、真の富強国の姿を目的としたものであった。

10. 長崎事件:巨大戦艦による威嚇と清兵の乱暴

 ・ ベトナムをめぐる清仏戦争も終結し、すでに建造が済んでいた独製甲鉄巨大戦艦定遠・鎮遠の引渡しを見た清国政府は、明治18年(1885)に海軍衙門を設置し艦隊を編成するなどした。

 ・ 日本に対する不平のあまりに平生から日本を 「貧国なり」などと罵っていた李鴻章は、「我が中国海軍は、以て日本に観して之を懾伏(恐れひれ伏すこと)せしむべし」として、明治19年(1886)8月、定遠・鎮遠と巡洋甲鉄艦など併せて4隻で長崎に入港させた。

 ・ 更に、上陸した清兵が市街の遊郭で乱暴を働き、長崎巡査の取締りを受ける事件が発生。翌々日、上陸した清兵の内の200人以上が市街で暴動。取締りの巡査約30人との間で恰も戦地と見紛うような大騒乱となった。後に多数の一般日本人も加勢し、それにより清兵は長崎の清国領事館内に逃げ込んだ。

 ・ 巡査、清兵双方に死傷者を出すという大事件となったが、清政府はこれを「喧嘩」と称して日本巡査が計画的に清兵を殺害したと主張。

 ・ 日本政府は、清兵が当初の取締りを恨み、巡査殺しを目的として暴動したと主張。また、巡査の行為は争闘鎮圧の取締りであると。

 ・ 日清政府双方による取調委員会が発足。しかし双方で意見は対立して談判は妥結せず。

 ・ 日本政府は清国との和交を考慮し、仲介に立った独国公使を通して政治的解決を提案。北京政府内ではそれに反対する者もあったが、在清の独国公使が、清政府の元英国仏国公使であった曽紀澤にこれを説得させ、ついに受け入れさせた。

 ・ 結果、懲戒処分すべきかどうかは自国の法律に照らして自国で処理し、また日清双方で慈善基金のようなものを設置し、両国政府は互いに相手国の死傷者に救恤金を出し合うという形で決着した。

 ・ 清国水兵の死亡者8名、負傷42名を出すに至った(日本側は巡査2名死亡、26名負傷)ことにより、李鴻章の「日本を恐れ平伏させる」との目論見に反して水兵が日本の巡査から殺傷されたことは彼が最も憤怒したことであった。

 ・ 解決後、李鴻章は北京に赴いた時に、在北京日本公使の挨拶を受けたがそれに返事もせず、その怒りはやがて、「今度こそは日本を一撃せん」との放言となった。これを直接聞いた清政府お雇い独人フォン・ハネッケンが独公使にそのことを話し、話は広まってやがて一般の評判となった。

 ・ 当時福岡警察署長であった湯地丈雄は長崎事件を調査して国土防衛の大事を改めて痛感。かつて日本が侵略を受けた元寇の地である博多には記念碑一つもないことから、記念となる施設を建てるべく日本全国に呼びかけ、国防の大事を説いて回った。

 ・ 当時、日本軍の中でも出兵するべきであるとの声が上がったという。国民の対清感情はこれ以上悪化する余地がない域に達した。

(以上当サイト掲載資料、その他より)

 日本の警察が日本の領地内で外国兵が暴動を起こしたのを取締った行為を、「喧嘩」として処理して双方の償却で済ますのもどうかと思うものであるが。それも清兵の方が死傷者が多かったので、当然日本の方が支払金額が大きくなった。
 どう見ても日清条約の第十三条に照らして処分すべきであったろう。すなわち、
「両国の人民、若し開港場において兇徒を語合い盗賊悪事をなし、或は内地に潜み入り、火を付け、人を殺し、劫奪を為す者有らば、各港にては地方官より厳く捕え直に其次第を理事官に知らすべし。若し兇器を用て手向いせば、何れにおいても格殺して論なかるべし。・・・・・何れも事を犯せし地方において法を正すべし」
 とあるのだから。
 しかし談判は日清双方とも外国人法律家を立ててのものであって、それでも決着は付かなかった。結局、日本政府は清の国力という実力の前に再び譲歩して妥協せざるを得ず、所詮、当時の国際法も条約も、かつて福沢諭吉が「通俗国権論(明治11年8月刊)」に於いて、
「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず。幾冊の和親條約は一筐の弾薬に若かず。大砲弾薬は以て有る道理を主張するの備に非ずして、無き道理を造るの器械なり」
 と述べたように、道理に合わない無理を言われても、その力の前に屈せざるを得ないのが国際間における実状であった。
 事件後に日本政府は、巡査ほぼ全員が負傷しながらも鎮圧に尽力したとしてこれを賞与したが、清政府に知られることを憚って、この事を新聞社などにも公表せずにひっそりと行った。

 かくして、重ね重ねの恥辱と損害にも、当時の日本人は歯噛みをしながら耐えねばならかったが、これを機に、清国脅威論や清国に対抗し得る軍備を求める声が大きくなっていく。

11. 金玉均暗殺:誰か血涙を惜しまざる

 ・ 朝鮮政府にとって、明治17年の朝鮮事変で失敗して日本に逃亡した朴泳孝、金玉均らは、依然として不穏分子であり、清政府にとっても油断ならない朝鮮独立論者であった。朝鮮政府はその引渡しを度々日本政府に求めたが、両国間には犯罪者引渡し協定が結ばれておらず、そもそも国事犯は引き渡さないのが各国の通例であることから、日本政府はそれを拒否し続けた。また李鴻章は清政府に引き渡すことを求めたことがあった。もちろん日本は拒否した。

 ・ 朴泳孝は渡米したが金玉均は日本に滞在し続けた。日本人の多くが彼を朝鮮独立の志士と見做し、援助を申し出る者が続出した。中に、徒党を組み金玉均を担ぎ上げて朝鮮に赴き、朝鮮政府内の支那党である閔氏を殺害して朝鮮独立政府を樹立せんとして決起した者らがいた。彼等はこれによって日清間の戦争を誘発し、以って国内の士気を奮起させて内治を改良し、続いて義勇兵を募集して清の領土を略し、更にアジア全体の改革を目論むなどのことを目的とした。内偵を続けていた警察は直ちに摘発してこれを捕え、刀剣や爆発物などを押収した。後に大阪事件と称されるものである。

 ・ この後、朝鮮政府が金玉均暗殺目的に窃かに人を日本に派遣することがあったが、これは金玉均周辺の者が発見して警察に引き渡した。金玉均はこの事で彼を公然と訴え出ることを日本政府に打診。ここに至って日本政府は、朝鮮政府から犯罪者指名されている金玉均が日本に滞在することを許すことは、日朝条約上の交誼にも悖り、また、おとなしく隠遁すべき立場の金玉均が暗殺未遂犯を公然と訴え出る姿勢を露にしたことから、また、国内不穏分子が利用する者となっていることからも、日本の治安上好ましからざる人物として国外退去を命じた。

 ・ 日本政府は渡航費用なども含めて経費支出することを申し渡したが、金玉均はこれを拒否。次いで、在日仏国公使が仏国が受け入れることを表明したが、金はこれも拒否。よって止むを得ず、明治19年(1886)8月に抑留措置として小笠原島に送致した。従者共々その生活費は支給した。

 ・ その後、金玉均は日本内地に帰りたい旨の哀願書を度々日本政府に出し、また、明治21年(1888)4月には、罹患した熱病や持病の治療を内地でしたいと懇願。よって日本政府は、内地ではまだ治安上問題があるので、内地ではない北海道なら、彼の出生地である朝鮮と殆ど同様の寒冷気候であるから健康上においてもまた適当であろうと、ついに札幌に移した。更に明治23年(1890)11月、もはや朝鮮政府が刺客を差し向けることも、治安上の問題となることもないだろうと判断し、内地自由居住を許した。

 ・ 明治27年(1894)、金玉均は在日清国公使館と通じ、また李鴻章と李経方と書簡を往復、やがて李経方から中国に来るよう招きを受けた。その頃、在香港領事から、金玉均らを暗殺せんとする朝鮮人の謀があるらしいと日本政府に報告。

 ・ 清韓合同の計画では、金玉均を上海に誘い出してこれを捕え、朝鮮に送還するというものであったらしい。その目的で金玉均に接近した首謀者朝鮮人李逸植は、上海行きの旅費6百円を金玉均に支給し、更に支援金として5千円の為替を上海で渡すと申し出、なお朝鮮人洪鐘宇も連れて行くように勧めた。よって、同年3月、金玉均は付き人和田延次郎を同伴して、清国公使館通訳官呉葆仁と洪鐘宇と共に上海に向い、予定として上海で為替を受け取った後に李経方の所に行く積りであった。日本政府が金玉均らの上海行きを知ったのは既に出立した後であり、よって、在上海総領事代理にその行動を監視するように命じた。

 ・ ところが上海到着翌日、宿泊した上海合同居留区の日本旅館「東和洋行」において、洪鐘宇は金玉均を銃殺して逃亡。その後、居留区警察が捜索して洪鐘宇を逮捕し、これを清警察に引き渡した。日本総領事代理は、洪鐘宇を居留区内で処罰するべきであると各国領事会で議決させ、これを清政府に要求したが清政府は無視した。また金玉均の遺骸は従者和田延次郎が引き取ったが、清政府はこれを取り上げ、洪鐘宇と共に朝鮮に送致した。

 ・ 金玉均殺害さるの報が日本に伝わるや与論は大いに激昂し、新聞は例えば「上海の飛電は吾人に一種の悲痛を齎し来る。曰く、金玉均は上海の客舎刺客の手に斃ると。嗚呼果して真なる耶。吾人日本人士たる者は、斉しく一掬の血涙を惜まざる可し(自由新聞)」と扇情的な記事を載せ、有志は葬儀委員会を設けて遺骸引渡しを求め、また時事新報や読売新聞、毎日新聞など計15の新聞社が共同して、遺骸引渡し経費、記念碑の設立、金玉均の同志への支援金などのための義捐金募集を全国民に呼びかけるなど、日本国内は金玉均への同情の声で溢れ、騒然とした雰囲気となった。

(以上当サイト掲載資料、その他より)

 この後、日清戦争という大事に至るが、当時の日本人は、戦争とこの事件とが関連していると思う人が少なくなかったようである。騙して暗殺するという陰湿なやり方にも憤慨したが、とりわけ、従者の和田延次郎が遺骸を引き取ったのを、清政府がこれを奪って朝鮮に送致し、更に大鳥公使らの忠告を無視して朝鮮政府が遺体に残酷な死後刑を行い、その切断した手足まで朝鮮各道でさらしものとしたことなどは、日本に対する当て付けがましい処置として映り、日本人をしていたく感情を激昂させるに足るものであった。

 一方、日本政府の反応は冷静であった。そもそも、洪鐘宇による金玉均暗殺事件は、加害者も被害者も外国人であり、しかも国外での出来事であり、例えば日本政府は金玉均の遺体や暗殺犯の引渡しを求めることが出来るような何ら法的根拠も持ち得ない。「東和洋行」という日本人経営旅館内での事件とはいえ、外国人居留区の米国租界内に建つ旅館なので日本の法権は及ばないのである。従って、この件に関しては深く関わらない、ということが政府の方針であった。尤も、朝鮮政府に対して、金玉均の遺骸の扱いや洪鐘宇の処遇について、「勧告」という形で繰り返し申し込んではいたが。
 それでも、過去の抑留措置などのことも含めて政府は冷淡であるという国民の批判もあった。更にそれが今日までも言い伝えられているようである。しかし、ここに至った経緯の詳細を見ると、実は政府は極めて人道的な処置をしてきており、かつて無謀な乱を企てて日本人を巻き込み、当時の日本政府をして大不快を感ぜしめた事変の張本人への対応にしては、実に寛大なものであったと言えよう。

 

   日清交際史の結論:修復不可の関係

 さて、以上のように日清間の近代交際略史を追ってみると、年を経るごとに関係が悪化していく様子が見て取れる。台湾事件や琉球問題の影響もまた小さくない。しかし何と言っても朝鮮問題を巡って、以下のように政治的、思想的、感情的な対立と、また朝鮮に於ける権益の喪失感が、その後の日清戦争に向わせる強力な推進力となったと思われる。

第一に、日本は朝鮮を独立国と認めて条約を結んでおり、また国土防衛のためにも、朝鮮は独立国且つ中立国であることが望ましかった。これが日本政府の明治初期からの朝鮮に対する方針であり、その政策としては、朝鮮の独立性を鞏固なものとするよう援助し続けるということにあった。
 しかし、清政府は対外的には朝鮮は属国であるが内政外交は自主国であると表明しながら、実際においてはこれに干渉して宗属関係を強化する政策を執った。
 もっとも、日本政府としては、朝鮮が露国に傾くことこそ危険であると見ていたから、清政府のその政策は容認し難いものではなく、明治18年以降は日清間の衝突を避けるためにむしろ朝鮮問題からある程度手を引き、成り行きを見守るという政策に転換した。
 しかしこの独立国か属国かということは、いずれは決着をつけねばならない問題ではあった。

第二に、日本は富強国となることを目指し、且つ西洋列強国の仲間入りを果たすべく、あらゆる分野で近代化を進めており、朝鮮に対しても国家の独立性を保つ上でも近代化に取り組むよう繰り返し勧告してきた。
 一方、清国は、西洋の近代技術は導入しても、法制度や政治の仕組みまで変革する気はなく、むしろ日本のそのような姿勢を「軽佻躁進、妄に欧州文明の皮相を模擬するの一小島夷」と嘲り、一方日本はそのような清を「頑迷愚昧の一大保守国」と侮蔑した。よって、日清両国は「氷炭相容れず、何れの日か茲に一大争論を起さゞるを得ざるべく」「禍機は何の時、何の処に爆発するやを知らず」という状態にあった(蹇蹇録)。

第三に、清国にとって日本とは、当初、西洋国の侵略を防ぐ外援として結んだ国であったが、その西洋化につき進む姿は、まさに中華圏を侵犯する西洋国の一員として映るようになった。台湾事件、琉球問題、朝鮮問題を経て、清国はもはや日本を仮想敵国とみなし、日本征伐の気運も盛んとなっていく。北洋艦隊の長崎来航も、まさに日本を威嚇するために行われたものであった。

第四に、とりわけ明治17年朝鮮事変以降は、日本人の清国への悪感情が甚だしいものとなったことである。
 日本政府は天津談判に際し、もし清兵が朝鮮に駐在するなら、「我が国も亦已むを得ずして国各々の自衛るの義に拠り韓地駐留の兵を以て充分に其の力を備えざる事を得ず」とした。これまでの日本公使館や居留民への被害を振り返れば当然の処置であろう。しかし同時に、「此の場合においては仮令一時目前の平和を保たんとするも、歳月を出ずして漢城の変再三に発し、(日清)両国政府は其の預計する所の外において、ついに看す看す大局を破るの不幸に陥るを免れざらんとす」と、もはや戦争となることは免れられないだろう、という厳しい認識を示した。つまりは、それほど軍人や国民の悪感情が激しかったいうことの証左に他ならない。
 談判後、両国は朝鮮から撤兵をしたが、この明治18年以降というものは、険悪な関係となった両国間の言わば冷却期間でもあった。しかしその後、果してこの厳しい認識を緩めることの出来るような、たとえば友好の機運のようなものが両国内で芽生えでもしたろうか。反対に、翌年19年に発生した長崎事件などは、友好どころか中国は軍事力で日本を威嚇し日本人を殺傷する敵国であることを改めて日本人に知らしめるものであった。なおこの事件は朝鮮事変などと共に当時の近代史解説の書籍などには必ず掲載されるなどして永く記憶されることになったが、後の明治24年6月の再びの清国艦隊の来港のことも併せて、日本に対抗の軍備を急がせる要因となった大事件であった。(清国北洋艦隊来航とその影響

第五に、条約締結以来、日本は朝鮮に対して少しでも開明国且つ富強国に向わせんと多大の援助を行ってきたということがある。多くの留学生を受け入れ、また技術・軍事・医学など、あらゆる方面で便宜を提供し、日朝共に手を携えて文明を開化せんと協力してきたのである。そうして築いた日朝関係というものは、言わば朝鮮に於ける日本の権益でもあった。それが清国によって蹂躙され損なわれることは、日本にとって我慢ならない問題であった。

 以上のように日清対立の関係はもはや修復不可であり、この後の開戦までの数年間は、実は両国にとって一触即発の爆発物を内包する期間でもあり、もし再び日清の兵士が会せざるを得ないような事件でも生じれば、直ちに「唯だ其事局の勢いの為めに国と国との力の衝突するのみ(伊藤博文)」という事態にまで発展することは必至であった。

 一方、当の朝鮮国はこの間、内政が充実するどころか益々腐敗が進み、地方は疲弊し、各地で小規模の民乱が発生していた。もしこれがやがて大乱となり、朝鮮政府では鎮圧が出来なくなるような事態となれば、その結果は明白であった。

 かつて清政府が、日本が提案した朝鮮からの恒久撤兵案を拒絶し、飽くまでも朝鮮派兵を主張して譲らなかったことによりカウントダウンを開始した時限爆弾が、ここに至ってついに大爆発を惹き起こす事態となるのは明らかであった。
 もっとも、清政府はそのようなことは想定しておらず、また日本政府もどの程度まで予測できていたかは不明である。しかし上に挙げた4点が大きな圧力となって、日本をして開戦に向わせる推進力となった事実は否めない。
 乱鎮圧のための清兵派遣。対抗の日本護衛兵派遣。そしてその後の成行きの中の日本の動きを、陸奥宗光は「蹇蹇録」で「騎虎の勢い」と言った。

 

   帝国議会に於ける政府批判 (議会議事録抜粋など一連の経緯詳細はこちら

 今日色々とある日清戦争開戦理由の諸説の中には、「議会対策のための日清戦争開戦論」なるものもある。
 各国との条約改正を本格的に目指す日本政府に対して、様々なる批判が主に第5回、第6回帝国議会衆議院でなされたが、そのことが条約交渉への悪影響となるのを怖れた政府は、日清開戦をすることによって切り抜けようとした、という説である。考えようによってはそれもありかな(笑)と思える面白い説なのだが、まあ、上記4点の範疇に入る開戦の圧力の一つであったと言えなくもない。もしこの議会問題のことが開戦に何らかの影響を及ぼしている所を敢えて見つけようとするなら、明治27年6月13日の陸奥外務から大鳥公使に宛てた電文(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p35)の言葉ぐらいだろうか。(笑) 青木周蔵関連はダウトだと思うよ。(笑)

 しかし議事録を読むと分るように、この時の議会における現行条約励行論や治外法権撤廃論、また反対に治外法権擁護論、あるいは外人遮断主義など、様々な論となって表れた政府批判(批判の根拠としては誤ったものに基づくものもあるが)の根底にあるものは、要するに、政府は外国に対して弱腰過ぎる、という批判であった。ま、内に強く外に弱いではないかという、政府批判としてありがちな世論傾向の代表と言えよう。
 なるほど日清関連のみならず、長崎事件と同じ年にノルマントン号事件もあった。また明治25年には千島号衝突事件もあり、その裁判をめぐってこの時の議会でも議題となった。外交というものにおいて、正当と思われる日本側主張は常に外国には通用せず、日本人はただじっと我慢をするのみなのかと、当然その批判の矛先は政府に向けられる。まあ、これはこれで止むを得ないものであろう。かくて例えば憂国の士、国士たるw犬養毅議員などは第6回議会での演説で伊藤内閣を批判して斯く吼えた。

(「第6回帝国議会(特別)・衆議院議事録・明治27.5.15〜明治27.6.2(解散)」p38左下段より抜粋、()は筆者)

(日本政府は)外国に対する仕事はどう云うことをして居るか。
 昨日も段々諸君の御説があった通、外国に対しては怯懦に諛佞して居る、――媚びて居ると云う事柄は沢山出て居る。凡そ此世界諸国の強大な国に向って彼(伊藤総理)が柔弱な懦弱な政略を取って居ると云うことは驚くに足らぬ。世界で最も優柔なる弱国である所の朝鮮。最も弱い支那に対して、どう云うことをして居るか。
 諸君。今の藩閥内閣の最も元老と呼んで居る現内閣総理が、天津条約を結んで、其墨の未だ乾かぬ間に朝鮮に向って支那は如何なる事をして居るか、十七年の変、大院君の変、近来に至るの始末、金朴――金玉均事件等、悉く日本の顔に泥を塗られて居りながら、之を拭うことを為さない。
 殊に防穀事件の事に就いては殆ど公然の秘密になって居る事柄がある。防穀事件に就いて此柔弱なる朝鮮が無礼にも、日本に対して抵抗すると云うことの技倆を出させたのは誰であるか。誰が教唆したか。支那政府が之を教唆し、之が後ろ楯になって居ると云う証拠事実は沢山ある。然るに日本政府は其教唆者たる支那の李中堂に向って――李鴻章に向っての仲裁を頼んだと云うことは実に公然の秘密になって居る事柄である。唯然るのみならず、此談判の結了を為すに就いて殆ど最後の決心を以て公使が日を限って其日迄に朝鮮政府が決答をしなければ引還すと云うまでに決心した。其後にどう云うことをしたか。世間に流布して居る公然の秘密に依れば、此時に当って此伊藤内閣は更に膝を屈し、更に腰を折って、再び日本より駐箚して居る公使をして、此一番の教唆者たる袁世凱に向って再び期を延べて呉れい、延期して呉れ、と云うことを先方より言わすように取計えと云うことを言ったと云うことが世間に流布して居る。
 斯様な柔弱な、斯様な怯懦な(日本政府である)。世界中一番弱い国、一番微力な国と云えば朝鮮である。其朝鮮に向ってすら相当の力を伸べることが出来ない伊藤伯である。世界中で一番人の卑しいのは支那である。朝鮮である。之に向ってすら外に力を伸べることが出来ぬものが、どうして条約改正が出来ましょうか。彼が西洋諸国と見れば何時でも頭を下げ、唯媚諛って居ることは、怪しむに足らぬ。斯様な弱国にすら懦弱の政略を取って居る。

 一説に依れば、犬養毅の演説というものは「理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があった」と言われているらしいが、この第6回帝国議会での演説は、もう支離滅裂わけわかめの、しかも世間の風説を元に憤る感情論である(笑)。案の定、後から井上角五郎議員に突っ込まれているが。(笑)

 しかしまあ、世界中で一番人間が卑しいのは中国人である、とは犬養毅のひどい言いようであるが、要するに修復不可となった日清間の対立関係を裏付けるものであろう。

 想像逞しくこの頃の議会と日清戦争とを結びつける説も、実は国内世論の圧力というものが当時相当なものであったのを窺うことが出来る材料の一つに過ぎないのであって、それをもって開戦理由のすべてとするのは無理がありすぎよう。それに、本当にこれぐらいなことで一々戦争を起こされてはたまったものではないし。(笑)

 

 さて、いよいよ明治27年に於ける開戦までの経緯を以下のようにまとめてみた。資料は当サイトの「日清戦争前夜の日本と朝鮮」と「日清戦争下の日本と朝鮮」に掲載したものに拠る。

   開戦へのステップ1:東学党の乱と派兵

 ・ 明治27年春の朝鮮全羅道に於ける東学徒の蜂起は、慶尚道、忠清道、平安道にも飛び火して大乱となり、朝鮮政府の力でこれを治めることは極めて困難となった。よって、袁世凱は閔泳駿を邸に訪ねて、「我が国の兵を用いれば五日間で討ち平らげるだろう」と申し出、それにより閔泳駿は窃かに清兵派遣を依頼し、後にこれを朝鮮政府で議した。しかし政府内では、地方の汚吏を罰して民を慰撫すれば乱は治まると見てこれに反対する声が多く、鎮撫使を兵と共に派遣して説得に当たらせ、それでも治まらない場合は兵力を以って鎮圧するという策を執った。

 ・ ところが、東学党は説得に応じず更に鎮圧の兵も打ち破り、ついに全州城を陥落させるに至った。驚いた朝鮮政府は更に鎮圧の兵を派遣する一方で、清国に派兵を要請するか否かで再度の議論となった。

 ・ 一方、東学党の乱により全州城が陥落したとの報が日本に達するや、金玉均暗殺の騒動治まらぬ日本国内では与論は再び沸騰し、朝鮮政府の力では鎮圧不可能なのだから日本は隣国の義により派兵して鎮圧するべきであるとの論が起り、或いはまた、東学徒は朝鮮圧政の下に苦しむ人民を救わんとする改革党なのだから、これを助けて朝鮮の弊政改革を達成させるべきであるとの声もあり、また、日頃から反政府の政党はこの機に乗じて政府批判の機運を盛り立てんと、与論を扇動して戦争への気勢を張るものもいた。

 ・ 日本政府は京城公使館などからの報告に依り、乱の動向によっては公使館、領事館及び居留人民保護のために多少の軍隊を派遣する必要が生じるかもしれないと見て善後策を検討していたが、5月末になり清軍派兵のこともほぼ間違いないと見て、6月2日には閣議を招集して護衛兵の派遣を決議し、直ちに出兵することにした。

 ・ 6月3日、朝鮮政府内の議論は、清に派兵を依頼すれば当然日本も派兵して来るだろうから、これでは何時衝突があって朝鮮が戦地となるかも計られないとの声もあったが、ついに清兵派遣を要請することに議決し、公文を以ってこれを袁世凱に正式に依頼した。

 ・ 6月4日、日本政府は帰任する大鳥公使と共に護衛巡査と兵員を京城に派遣することを決する。その後、京城公使館より朝鮮政府の清兵派遣の正式依頼を報告。その日、清兵1500人は朝鮮に向けて出発した。

 ・ 6月5日、大鳥公使を乗せた軍艦八重山が出発。兵員は八重山の兵と現地の各軍艦から陸戦隊を編成して同行させることに(銃隊300名と野戦砲4門の砲兵など計420名)。次いで、日本政府は混成旅団の編成(4000人とも7000人とも)を命じ、これを追って派遣することに。

 ・ 6月7日、清政府が派兵を日本政府に通告。属邦を保護する旧例により派兵すると。陸奥外務は直ちに、「帝国政府は未だかつて朝鮮国を貴国の属邦と認めたことはない」と返書した。

 ・ 続いて同日、日本政府は清政府へ日本軍派兵のことを通告。朝鮮の変乱は重大の事件なので派兵すると。

 日本兵の派遣は済物浦条約に基づく。今日では、これを日清間の「天津条約」によるとか、あるいは条約に基づいたものであることも知らずに、「不当にも」という感じで日本軍派兵のことを解説する人が少なくない。後の宣戦の詔勅にも、明治15年の済物浦条約に基づくと明記してあるのだが、どうやら日清戦争を語るのに、この宣戦布告文も読んだことがないらしい(笑)
 そもそも明治政府ほど国家間の条約を尊重し、国際法を遵守した政府が他にあったろうか。清も朝鮮も西洋国も、時に条約をいい加減にし、国際法を無視した例は数ある当時においてである。不当且ついい加減なのは後世のそれらの発言をする人々の方であろう。

 また、混成旅団という人数は多過ぎるので最初から戦争する積りだったのだろう、という意見がある。しかし筆者はそうは思わない。過去の第2回第3回朝鮮事変において公使館は焼かれ大勢の日本人官民が殺害されたが、その時のことを鑑みれば、乱民からのみならず清兵からも公使館と居留民を保護でき、且つ京城仁川間の補給ルートを確保することを考えるなら実に妥当な規模と思う。否むしろ日清衝突となることも計られないことであるから、人数が多いに越したことはないのである。

 そもそも、これまで朝鮮政府が国内の統治を少しでも改善して人々の不満を解消し、このような大乱となるに至るを避け、且つ鎮圧できるだけの力を持ち、或いはまた清政府が、日本人に対して清兵の乱暴があることはないとの信頼を抱かせるような、目に見える誠意を現しておれば、また政策的にも協力的対応を執って来ておりさえすれば、日本は朝鮮に派兵する必要など全くなかったのである。しかし清国がとった行動は逆であった。不誠実、傲慢、威嚇、乱暴狼藉の極みという、まるで、ならず者のような態度であったことは既述したとおりである。
 よって、国民の生命と財産と権益の上に脅威が迫るなら、政府がこれを保護するのは当然の行為と言える。

 

   開戦へのステップ2:派兵はしたものの

 ・ 6月10日、大鳥公使と護衛兵420名は京城に着いた。

 ・ 清兵はこの時2100人がすでに牙山に到着していたが、6000人の規模となることを窺わせる情報もあった。

 ・ 上陸した清将聶士成の軍門は牙山から全州に至る各地に、「我が中国の意は属国を救い属藩を保護するにある」という告示文を貼った。

 ・ 大鳥公使一行が京城に着くと、朝鮮政府は乱はすでに解散したとして撤兵を求めた。

 ・ 済物浦条約によれば、護衛兵を置くかどうかは日本側の裁量となっており、朝鮮政府が拒絶することはできない。またそのための兵営も朝鮮側が設置せねばならない。

 ・ 大鳥公使は日本政府に、「混成旅団などこれ以上の数の日本兵が上陸して京城に入ることは外交上得策ではないのではないか」と打電。

 ・ 日本政府は、「既に大兵を派しておきながら京城に入ることもなく空しく帰国することこそ不体裁且つ不得策であり、外交上多少の問題を生じても主力の部隊を京城に入れる方が得策である。朝鮮に対する将来の政策に関しては日本政府は止むを得ず強行手段をとるかもしれない」と大鳥公使に通告。

 ・ 混成旅団を京城に入れることについて、日本政府としては次の思惑があった。

1. 乱が治まったという朝鮮政府の言は信用し難い。(当時、日本のみならず清公使や西洋各国の公使もこれを全く信用していない)
2. 日本与論は派兵による何らかの展開を強く期待しており、今更何の成果も見ないまま帰還させることは出来ない。
3. 清兵が朝鮮にいる以上、過去の事変から言っても、何時またどのように欺いて日本人に何らかの攻撃を仕掛けてくるか計り難い。
4. 仁川では給水が困難であり、陣営を移転する必要がある。

 ・ 6月15日、袁世凱が日本公使館を訪れて日清同時撤兵を提案した。大鳥公使はこれに殆ど同意したが、なおも日本政府の命を仰ぐこととした。

 「約束を守らない。嘘をつき通す。非を認めない。人の物を盗る。乱暴を働いて人を殺傷する」
 過去に何度もこのような加害をしておきながら反省もしていない集団がいて、それが再び普通に生活している日本人の傍に来たとするなら、日本政府としてはどう対処すればよかろうか。
 その日本人に傍を離れて安全なところに移れ、というのも一つの方法かもしれない。しかしそれでは日本人はそこでの生活手段を棄てるという損害を蒙る。また、公使館、領事館を閉鎖して引き揚げるというのも一つの方法かもしれない。しかしそれでは貿易のことも含めてこれまで積み上げてきた外交の成果は無に帰して莫大な損失となる。
 普通なら、その犯罪者の集団のような者から護り、且つこれを排除し、またそのような集団を発生させないような予防策を求めるという方法を執るだろう。
 朝鮮政府が乱は静まったと言っても、清が日清同時撤退をしようと言っても、もうそれをまともに受け取る日本人は皆無であったろう。日本政府としては自ら信じる善後策を粛々と進める外はない。まして、大兵を派遣したことにより大なる働きを期待する日本与論という強い圧力が後ろにあっては。

 

   開戦へのステップ3:清への調停案 朝鮮内政改革

 ・ 6月15日、日本政府は今後の方針として、清国政府と協力して乱民を鎮圧すること、また、日清両国の間の軋轢を調停し、将来朝鮮で再び乱が生じることを防ぐために、朝鮮政府の内政を日清共同で改革すること、の2つを閣議決定した。次に、清政府とこれを協議して決定を見るまでは朝鮮から撤兵しないこと、また、もし清政府が同意しない場合は日本独力で朝鮮政府に政治を改革させることに努めること、を決議した。

 ・ その改革案は以下のものである。

1. 財政を調査すること。
2. 中央政府及び地方の官吏のうち、不要不適格の者を排除すること。
3. 必要な警備兵を設置させて、国内の治安を保たせること。
4. 出費を抑えて剰余を出し、それを利子として可能な限り国債を募集し、その金額で国益上の利便となるもののために使用させること。

 ・ 6月16日、日本政府は清政府に対して朝鮮改革についての合同委員会設置の提案を伝えた。

 ・ 6月22日、李鴻章は、露国公使に調停を依頼する一方で、日本の提案を以下のように拒否すると公式回答した。

1. 乱は鎮定したので両国で鎮圧の協議をする必要はない。
2. 善後の方法は意見としては良いが、改革のことは朝鮮が自らすることであり、清国はその内政には干与しないし、まして日本は朝鮮を自主独立国と認めているなら尚更干与する権利はない。
3. 撤兵のことは天津条約で定めているので今別に協議すべきことはない。

 かつて明治18年(1885)7月、もうひとつの天津会談において井上馨が李鴻章に提案したと類似の性格のものと言える。その時李鴻章は一度は賛成しながら後に、日本と協議してということでは清は日本の指揮を仰ぐ立場になるとして拒否した。よって日本政府は朝鮮のことは清政府に任せて成り行きを見ることにして9年、結局はこの事態に至る。つまりは清政府単独では朝鮮内政改革を指導し得ず、よって改めて日清共同で取り組まないか、という日本の提案なのである。
 しかし今度もあっさりと拒否。もっとも、後に北京総署で李鴻章のこの拒否判断は早計であったとして批判されたが。

 

   開戦へのステップ4:清への絶交書そして最後通牒

 ・ 同日(6月22日)、清政府の拒否を受け、直ちに日本政府はそれを遺憾として返書を送り、
 「これまでのことを顧みれば、朝鮮半島は党争内乱暴動が絶えない惨状を呈しているが、このように事変が度々起るのは独立国の責任を全うする要素に欠けているからである。我が国は、国土が接近していることと貿易の重要さからも、朝鮮国に対する日本の利害は実に重大なことであり、このような悲惨な情況を傍観無視することは出来ないことである。またこれを顧みないことは、朝鮮との隣交の情に悖るだけでなく我が国の自衛の道に背くことになる。我が国が朝鮮の安寧を求めるために種々の計画を施す必要はすでに述べたように、これを施さないなら変乱はいよいよ永く蔓延していくだろう。よって、我が国が撤兵するには必ず将来の安寧を保ち、政道がそれを保証するに足る方法を協定するのでなければ実行できないことである。そして我が国が容易に撤兵しないことは天津条約の精神に依遵するだけでなく、善後の策となると信じる」
 と、撤兵しないことを通告。(第一次絶交書と言える)

 ・ 清政府の共同改革案拒否を受け、日本政府が独力で朝鮮内政改革を担任することを宣言した時に国民世論は一つとなってそれを支持し、「朝鮮は我隣邦なり。我国は多少の艱難に際会するも、隣邦の友誼に対し、之を扶助するは義侠国たる帝国として之を避くべからず(蹇蹇録)」と言う弱きを助け強きをくじかんという義侠論が全国を覆った。

 ・ この頃、北京政府内で平和主義を唱える者が多くなり、李鴻章の措置を非難する声が大きくなった。それにより清皇帝は、軍機処、総理衙門などの大臣達を一堂に会させて軍機処会議を開かせた。会議の結果、以下のように李鴻章を非難する内容となった。

1. よく詮議もせずに日本からの提議を拒絶した。
2. 旧交ある日本との関係事件を、みだりに露国公使に謀った。
3. 皇太后還暦祝賀の本年において、このような事件を惹起させた。

 ・ よって、北京総署の大臣は英国政府に調停を依頼した。

 ・ 6月23日、日本政府は大鳥公使に、朝鮮政府に改革のことを述べて将来再び失政がないように保証すべきことを厳談するよう指示。
 またこの頃、もはや日清両国の衝突は避けられない見通しなので、朝鮮国王と政府を日本の味方につけておくようにとの内訓を伝える。

 ・ この頃朝鮮では全州城で解散した東学徒が木浦付近で扇動勧誘して人員を集合させており、いずれ日清両兵が撤回したら一挙に京城に入ることを公言しているという風説があった。

 ・ 6月25日、在日露公使が陸奥外務大臣と会談。露公使は、「朝鮮問題について露国も朝鮮の隣国なので日本と協議するべきである」と述べたが、陸奥は、「朝鮮の独立に関しては清国以外に異議のある国は無いと信じる。また露国政府も朝鮮の独立を維持することについて同感であると思うので改めて協議の必要はない」と答え、以下の2点を確言するとした。

1. 日本政府は朝鮮に対し、条約にある同国の独立を維持し、且つ同国の平和安寧を確実なものとする希望から出たもの以外に他の意向は無い。
2. 清国政府が何らかの挙動をしても、日本政府自ら交戦を挑むことはしない。もし不幸にして交戦に至ったら止むを得ずのものと知るべきである。

 ・ 6月30日、露政府は日本政府に対し、「朝鮮政府が、内乱は鎮定したので両国の兵の撤回の援助を要請する、と言っているので、これを受け入れることを勧告する」との公文を交付。これに対し日本政府は7月2日、露政府に「乱を醸成する原因は取り除かれていない。これを除かないなら再び騒擾となるを免れられない。撤兵しないのは領土侵略の意から出たものではなく、止むを得ない必要からである」と回答。

 ・ この頃、清国政府内では、上記のように露国政府の調停も不首尾に終わったことから主戦論となり、李鴻章の言を容れて大兵派遣の準備を始める。

 ・ 7月1日、在日英国公使が、「清政府は、日本政府が清韓両国の宗属の関係に嘴を容れないなら日本の提議を拒まないとの意向がある」と伝えた。よって日本政府は、

1. 朝鮮内政改革の為めに協同委員任命を清国政府が承諾すること。
2. 日本政府から朝鮮独立の問題は発議しないので、清国政府もまたその宗属関係のことは発議しないこと。
3. 撤兵の事は開談初めにおいて商議すること。
4. 日本は朝鮮に於ける政治上通商上とも清国と同等の地位に立つを要すること。

との要望を清政府に通知するよう依頼。

 ・ 7月1日、小村北京公使から、「清兵7500人が平壌に派遣されるだろう」との情報。7月2日、荒川天津領事から、「北京政府は李鴻章の主戦論を受け入れたらしい。軍備を急いでおり今は清兵5000人が出発準備中。朝鮮に着けば大同江から上陸させるだろう」との情報。

 ・ 7月3日、大鳥公使は朝鮮政府に朝鮮の改革方案綱領五条などを提出。これを受けて朝鮮政府は7月7日に改革取調委員を設置した。しかし改革に取り組む意欲は見られず。

 ・ 7月4日、在北京英国公使は在北京小村公使に対し、「清政府は小村公使と談判の基礎について話すことを望んでいる」と周旋。よって、日本政府は小村公使に訓令して7月7日に会談させた。しかし北京総署の大臣等からは何ら新しい話は出ず、それで小村公使は、先の7月1日の要望に対する返答を求め、清大臣は9日までに返答すると回答をした。

 ・ 7月9日、小村公使は返答を求めて北京総署において会談。清大臣は、「朝鮮の内乱は鎮定したので、日清両国は天津条約に基づき撤兵するべきである。またこのまま駐在し続けるなら他国からも派兵してくるおそれがある。よって談判は撤兵の後でなければ開始できない」と回答。

 ・ 小村公使の会談報告を受け、7月12日、日本政府は閣議を開いて以下のように清国政府への照会を決議。14日に、小村公使から清国政府に通告させた。

 「朝鮮でこのように変乱が度々起るのは、その内政が治まっていないからである。よって日本政府は朝鮮政府にそれを改良させて変乱の根源を一掃するのが善いと信じる。よってこれを実行させるには朝鮮と関係の深い日清両国で助力を与えるのが善いと考えて貴国政府に提案したのに、どうしたことか貴国政府は断然これを排斥し、ただ我が国の撤兵を促しただけである。またこの頃から、貴国駐在の英国公使が日清両国の友好を重んじて好意をもって周旋し、両国の異なる議題を一つにまとめようと努めたが、貴国政府は依然としてただ我が国が撤兵することだけを主張し、さらに我が国の意見を容れようとする気がない。そもそも貴国政府が事を好むものでないとするならどうしてこのような時局に至るであろうか。この事により将来に生じる事態は我が国政府に責任のあるところではない」

 ・ 陸奥は「蹇蹇録」において、これを第二次絶交書としている。以降の経緯を見れば、これを以て日本政府の事実上の「最後通牒」と言えよう。

 第一次絶交書にある「撤兵しないことは天津条約の精神に依遵する」とは、天津条約第2款の「朝鮮国王に勧め兵士を教練し以て自ら治安を護するに足らしむ」とあるように、天津条約とは、ただ日清両国が撤兵また派兵を規定するだけのものではない。朝鮮が自ら自衛自治出来るように、国政を改めて充実させていくことを朝鮮国王に勧める、という精神がそこに込められているのである。したがってこの時の日本の方針はその精神に依遵しているものと言える。

 7月1日の英国公使による周旋に対し、日本政府が要望として出した、「日本政府から朝鮮独立の問題は発議しないので、清国政府もまたその宗属関係のことは発議しないこと」は、英国公使が伝えた清政府の、「日本政府が清韓両国の宗属の関係に嘴を容れないなら日本の提議を拒まない」との意向に対する論駁の言葉ともとれるが、もともと日本政府としては、清韓宗属の関係や独立問題を主題として掲げているのではない。どこまでも朝鮮内乱の予防とそれが可能な内政改革のことを提案しているのである。ここで清政府が一段と深慮をめぐらすなら、日清協同で朝鮮の内政改革に取り組み、自治国且つ朝貢国にする、という道もあったろうに。但しこの場合、実においては独立国であり、名においては朝貢礼を堅持する国ということになろうが。
 しかし7月9日の、北京総署の大臣たちの議論の低さはおよそ深慮とは縁遠いものであった。
 よって、日本政府は最後通牒を発したということになろう。

 さて、この頃には日本国内では戦争を前提とした与論が勃興するようになったが、そのことについて、陸奥宗光の「蹇蹇録」の見解とその他何点かを以下に記す。

(「第五章 朝鮮ノ改革ト清韓宗属トノ問題ニ関スル概説」p2より現代訳。原文テキストはこちら

 そもそも、我が国が独力で朝鮮改革を担うべし、との議が世間に明らかになってからは、全国の与論は忽ち一つとなり、その言うところを聞けば大概が、「朝鮮は隣国である。我が国は多少の困難に遭うとも、隣国の友誼をもって扶助するのは義侠国である我が帝国として避けてはならない」と言わない者がなく、その後に両国が開戦した後は、「我が国は強きを抑え弱きを援け仁義の軍を起こすものである」と言い、殆ど勝敗のことを度外視し、このいわば外交問題に対して、あたかも政治的必要性からよりも、むしろ道義的必要性から出たような見解を下した。
 もっとも、このような議論をする人々の中にも、その秘めたる胸の内を推し量れば、ひそかに朝鮮の改革を名として我が国の領土の拡張を計り、そうでなくとも、朝鮮を全く我が国の保護国とし常に我が国の権力の下に従わせようと企画した者もあるようで、また、実に朝鮮に適応した改革を行わせ、小国ながらも一国の独立国としての体面を立たせ、いつか我が国が清国と、または露国と事がある時に際し、その間に立つ保障の国とさせようと考えた者もあるようで、また或いは大いに早計にも、この際直ぐに我が国から列国会議を招集し、朝鮮を欧州大陸のベルギー、スイスのような、列国保障の中立国とするべきであると熟慮した者もあると聞くが、これらは何れも大抵が個々人の対話や私語にとどまり、公然として世間に現れてくるものは、社会一般の与論と称する、いわゆる弱きを助け強きを抑える義侠論に他ならなかった。

 つまりは大多数の意見となって表れたものは、日本は隣国の友誼をもって朝鮮を扶助するべしという義侠論に他ならなかったと。具体的には開戦前から以下のように朝鮮独立問題として捉える意見の方が多かったようである。

「清国の為す所を見るに、我国の放任政略を執るに乗じ、益々傍若無人の挙動をなし、天津条約に於て独立国たるを自認しながら爾後以前東藩と称し属国と唱え、朝鮮の自主権を害し自国の私利を謀らんとす。現に牙山に上陸したる清兵総督聶の如き、清国が属邦を愛撫する為め兵を出したりとの諭告を発するに至る。是に於てか任侠義気に富める我国民は内治上の紛争を忘れ、上下協心、清国の干渉を絶ちて朝鮮を純然独立の一邦国たらしめんことを望む。国力長足の進歩をなし、海に巨艦堅艦の浮ぶあり。陸に幾万の武夫脾肉の嘆を懐くあり。而して国庫に一千余百万の余剰金あり。一大活劇を東洋の天地に演出し、世人の耳目を新にし、国威を宇内に輝かすの時は今日を措て復他あらんや。今回出兵の主旨、一には居留民を保護するに出でたること勿論なりと雖、蓋し又この意なきにあらざるべし。吾人は切に我政府の此際に処するの政略宜しきを得、袁の所謂木易え蓬を換え以て其国基を固うし、内に文明を注入し、外に他強国の干渉を絶ち、東亜の海洋に一独立国を建設し、毅然として国交場裏に立たしめ、我国と共に永く平和の恩沢に浴せしめんことを希望す。記し終るの時、清国、主戦論を容れ、李総督、兵を天津に集むるの飛報に接す」(「北支那朝鮮探検案内」の「朝鮮問題の由来」 明治27年7月15日印刷 波多野承五郎・杉山虎雄 著)

「実跡ここに至りなば 吾が海陸の兵をだし 居留人民将来の 権利安寧守るため 又我が国の公使等が 職権等を保つにも 一日たりと捨おけば 危険といって可なるべし 万国交際上にても 彼の朝鮮は独立の 王国なりと認(したた)めて 条約なども取むすび 今日までも存立し 彼我の往来ありしなり 然るに支那は属国と 見做というは不法なり 我が帝国を軽蔑し しかのみならず締盟の各国までも一般に 軽蔑なせし所行なり 此まますてておく時は 他日いかなる我侭をいいださんも図られず 日本国の勢いの あるかなきかを示さんは 此一髪の間にあり 廟堂諸公つとめよや」(「軍人学生必読進撃新軍歌 」明治27年7月24日印刷 半渓散史 著)

「今日までの形勢よりして見るときは、朝鮮に於ける改革たる、敢て我国の自由に一任して決して容喙せざるかというに、徒らに傍観黙視する是清廷の為さざるところ。李鴻章は曾て朝鮮に訓電して言えり。我に別に良図の有るありと。果して然らんか。果して然らんか。必ずや、大波鯨涛を捲き来るの日あるを信ずべきなり。兎に角、今日の清廷の開戦準備に汲々たるは最早疑う可からざるの事実なりとす。来れ来れ豚尾漢よ。吾日本刀の切味一撃以て汝等の肝胆をして寒からしめん」(「甲午朝鮮内乱始末第二編」明治27年7月25日 印刷 志良以染之助 編纂)

 つまりは朝鮮を真の独立国として立たせ、公然と宗主国として振舞う清国にそれを認めさせるための義戦という考え方が与論を占めたということになる。また、この頃から久しく禁止されていた「豚尾」「ちゃんちゃん」の侮蔑語も使用されるようになったようである。

 それにしても清国への敵愾心溢るる文章ばかりである。まあ、これまでの日清交際の実際を目の当たりにして来た当時の日本人としては当然の声だったのだろう。そして、開戦と同時にそれは爆発的なものとなる。まるで積年の鬱憤を晴らすかのように。

 

   開戦へのステップ5:朝鮮分割占領案

 ・ 7月19日、英国外務大臣が在英青木公使に告げるのに、同大臣の勧告により朝鮮分割占領、即ち日本国は南部、清国は北部を占領し、京城は互いに占領せずにおくという考案を清国政府は容認する意がある、と告げた。

 ・ 日本政府がこの事を在北京小村公使から同英国公使に問わせると、「たとえば日本は京城を去って南部地方を一時占領し、清軍は牙山から平壌に移り、以って目下の衝突を避けて談判の日時を決めるという意味である」と答えた。

 青木公使は、20日までに日清両国は話し合いをつけることが緊要であり、でなければ清国は12万の兵士を仁川に派遣するだろう、と報告。

 また、英国外務大臣は、「清国はここ2、3日で大いに敵愾心を増した。英国が調停できることを切望する。在北京英国公使もこの件で訓令を受けている」と。

 ・ しかし日本政府はその意図が分からないまま日時は経緯して25日の交戦に至った。

 おそらく清国と英国の方が日本政府の意図を理解できていないと思われる。これではまるで、日本が朝鮮の宗主国となることを望んでいる、或いは征服することを望んでいる、だから朝鮮領土を清国と折半してはどうか、と言わんばかりの提案である。実に日本人を愚弄するいかがわしい案と日本政府は不快を感じたのではなかろうか。
 日本は朝鮮の宗主国となる意はなく、依然としてこれを独立国、中立国、且つ富強国として立たせたいとの方針しかなかった。これまでの経緯を見れば、またこの後の井上馨の内政改革への取り組みを追えば明らかなことである。しかし西洋国も中国も、日本は朝鮮に野心を抱いているはずであると猜疑していた。
 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」と言うが、自分たちがそうだからといって他人もそう考えるだろうではお粗末過ぎる。  しかしまあ、当時の西洋国も実は朝鮮の主権などどうでもよいという考えであったことの証左と言えよう。

 この朝鮮分割占領案。日本政府は意味不明として返事もしなかった。(まあ、青木周蔵からの報告でもあるし(笑))

 

   ついに開戦

 ・ 7月18日の在天津荒川領事の報告によれば、「李鴻章は、清軍8500人を朝鮮に派遣することを決したようである」と。そのうち3000人は19日か20日には出発するとあった。日本政府は、これを以って清政府は兵力で日本に敵対するものであると認識した。

 ・ この頃、朝鮮政府内の少数派である改革派日本党は日本の大なる圧力を期待し、また国王は日本提案の内政改革に意欲を見せた。しかし政府で実権を握るのは清国に事大し時に露国にも傾く閔族など支那党であり、改革への回答を求める大鳥公使に対して、「日本軍が撤退すれば改革に着手する、また改革提案を撤回すれば自ら改革する」などと回答した。

 ・ 大鳥公使は、それに対して、内政改革実行、済物浦条約による日本軍営の設置、故障だらけの京城釜山間の電信線の修復、または日本による通信線新設の認可などを要求し、あるいは、清政府が言うように、また清軍門が各地に貼った告示文にあるように、朝鮮は清の属国なのか、それとも独立国なのかを回答するように求め、もし属国ならば日朝修好条規第一条において日本を欺くものであると追及し、また清が朝鮮を属国扱いしている清韓条約の廃棄を求める、独立を侵害する清兵を国外に駆逐することを求める等々と、次々に難題を発して、政府内の支那党を揺さぶった。

 ・ 7月19日、朝鮮駐在の袁世凱が、各国公使館に通知することなく深夜密かに京城を出て仁川に向かい、軍艦で帰国した。朝鮮政府の支那党の大臣に、「大兵を率いて再び戻ってくる」と大言しての帰国であったが、後に彼が清軍の中で担当したのは兵站であった。

 ・ 大鳥公使は朝鮮政府に対し、「済物浦条約に基づき日本護衛兵営を建設すること」、「清兵が属邦保護を名目として駐屯するは朝鮮国の独立を侵害しているので、これを駆逐すること」を要求し、その回答期限を22日と定めて通告した。

 ・ それに対し朝鮮政府は22日深夜になって、兵営設置のことには触れず、清軍門が貼った属国保護の告示文のことも知らない、などの曖昧の回答を提出。よって、日朝修好条規第1款と済物浦条約第5款上の条約履行要求に朝鮮政府が応じないことに対し、相手国が条約を履行しない場合の公法上の権利により、大鳥公使は朝鮮政府に対し、「条約を遵守させるために満足なる回答を要求するは当然であり、貴政府がそれに答えないなら、我が権利を保護するために兵力を用いることもあるので予め承知するように」と、ついに兵力を以って迫ることを通告した。

 ・ 大鳥公使は露米仏独など各国公使領事に対し、日朝談判の成行きにより日本護衛兵を王宮裏に移動させることになったと通告。

 ・ 計画としては、日本軍一聯隊を王宮前に進ませ、一部を王宮後ろに進ませて兵威を示し、王宮の動静を見て大院君を擁して王宮に入り、以って朝鮮政府の変革を迫るというものであった。

 ・ 23日、日本側は大院君を説得。大院君は日本が朝鮮の領土を割かないことを約束することを求め、よって公使館書記官はそれを一書して約束した。大院君は儒教政道を目指す人であったが同時に清国に隷属するを好まぬ人でもあり、そういう意味では朝鮮の独立を志向する人であった。国王の実父ということでその権威は国民の間に浸透していたが、実は甚だしい保身の人でもあり、情況によってはどのような振る舞いをするか油断できない人でもあった。

 ・ その頃、日本軍が王宮の方に進んだところ、王宮護衛の朝鮮兵が発砲し、ついに戦闘となる。やがて朝鮮兵は王宮から逃亡した。よって日本軍は大院君を擁して王宮に入り、武器弾薬を没収した。

 ・ 24日、大院君は直ちに朝鮮政府内の人事改革を断行。支那党の閔泳駿など閔族を流罪に処するなどして排除。また、金宏集を総裁とした軍国機務処会議を設けることを認可し、会議で議決したものは全て大院君の手を経て国王に奏上して裁可を得るという仕組みとした。議員、大臣等は改革派と日本党でほぼ占められた。

 ・ 25日、朝鮮政府は日本公使に対し、日本が朝鮮政府に代って牙山にいる清兵を撤退させるよう要請した。

 ・ また同日、朝鮮政府は清韓間の条約である水陸通商章程、中江章程、吉林貿易章程などを廃棄することを清国領事に通告した。それに対し清国領事は返答もせずに帰国した。

 ・ 同日、朝鮮牙山沖の豊島付近で日清両軍艦が遭遇。日本は旗艦に将旗を掲げており、遭遇の各国軍艦はこれに対して敬礼の挨拶である「礼砲」を発するのが通例であるが、清軍艦はこれをせずに戦闘準備をして接近するという戦意を表したことから、日本軍艦が自衛としてこれを砲撃して海戦となった。また、清国軍艦は降伏を意味する白旗を掲げて逃走していたとするドイツ士官ハネッケンの証言もあるので、白旗を掲げながらも停船せずに接近したことから(魚雷攻撃のためか)、自衛のために日本軍艦が砲撃を開始した可能性もある。
 これにより日清戦争は開戦した。

 ・ 8月1日、日清両国は宣戦の詔勅を公布した。

 清韓条約は朝鮮が清の属邦であると記している。その廃棄は朝鮮政府が清国の属邦であることを拒否したという意味になる。もっとも、清国が属邦呼ばわりすることを止めない以上は依然として独立に対する毀損は続く。独立は自らが宣言するのみならず他がそれを認めてこそであり、よって朝鮮政府には清政府にそれを認めさせることが必要となる。しかしそれが出来る国力がないことから、これを日本政府に依頼したということであり、牙山の清兵を撤退させるように要請した時点で、日清戦争は朝鮮国の要請に基づく戦争であったとも言えよう。

 今日ではこの時の朝鮮政権を日本の傀儡政権と評する人があるが、ちょっと待って欲しい。「傀儡」とは「人の手先になってその意のままに動く者」という意味であるが、そもそも当時の朝鮮人が日本人の手先になってその意のままに動く者であったろうか。そのようなメンタリティーの人々であったろうか。筆者が資料を読む限りにおいて、当時の朝鮮人とは実に頑固で融通が利かず約束は守らず且つ怠慢であり人と仲違いばかりするという印象しかない。とてもとても日本の傀儡となるほど気が利くような人々ではないのである。(笑) 大院君の処断により支那党の者は排除され、改革派と日本党によって占められた朝鮮政府となったに過ぎない。
 もっとも、国王は王妃の言うままの人だったらしい。開戦直前の頃、政府内にいた安駉壽は大鳥公使に次のように述べている。
 「大君主陛下には、時勢の不可を悟られざるにあらず。乍去(さりながら)、王妃殿下は、左右を離れられずして機密に参与せらるゝ故、到底御英断の御処分あること能わざる次第なり」と。
 どうやらずうーと、国王は閔妃傀儡の人だったようである。(笑)

 さて、以上が資料から読み取れる日清戦争開戦までの経緯であり、原因、理由であるが、結構複雑なものがある。

 で、日清戦争とは何だったのかと言えば、

 当時の日本からすれば、「日本と朝鮮のための義戦であり、また清への意趣返しでもあった」であろうし、朝鮮からすれば、「独り立ちを余儀なくされた事件」であったろうし、清からすれば、「小国と思っていた日本が驚異的に変化したことを知った戦争」であったろう。実際、李鴻章が後の講和談判において感嘆符を伴って述べたのは「Japan did change indeed - very marvelously so !(「レファレンスコード B06150073400」p80 )」であった。
 また今日の視点から見れば、「アジアが近代化する過程の中で生じた齟齬の一つが淘汰された事件」とも言えよう。

 もっとも、そう簡単に言い表して済ますことは良くないのが歴史というものではなかろうか。やはり「複雑なものを複雑に見ることが非常に大事」であると思う。ましてweb などでよく見る、「日本と清国が朝鮮支配権をめぐって起こした戦い」などという言葉は最も的外れなものである。
 そんな言葉よりも、他人が貼ったレッテルを鵜呑みにせずに自分で資料を読んだらどうだろうか。
 また悲しいかな、それをせねばならないほど現在の国内に蔓延する近代史の解説は惨憺たるものがあると言わざるを得ない。いい加減、自分の思想や思い込みや願望で嘘を教えるのは止めてもらえないだろうか、と思うばかり。

 

 

東学党の乱についての要点

 さて、資料から見えてきた東学党の乱についての要点を以下に記す。

 ・ 今日では「農民戦争」とも称される東学党の乱であるが、乱の中心にいた者は、東学を信奉する教徒の中の幹部である元儒家などの知識人や地方の勢力家であった。

 ・ 彼らは、東学の教えの目的が「輔国安民」にあることにより、地方官の虐政甚だしき時には率先してこれに抵抗を試み、部下を集めて官庁に迫り、時に破壊し、時に官吏を追放殺戮した。

 ・ 乱が発生すると、東学党員であるとないとに関わらず、衣食に窮した者などがこれに付和雷同し、その地方に於ける農民に対しても、家を焼き、財産を掠奪し、婦女子を略することが少なくなかった

 ・ 1892年(明治25年)頃からこの種の民乱は各地で増加し、1893年(明治26年)暮には忠清道で大乱となったが、朝鮮政府は重臣(魚允中)を派してこれを鎮撫し解散させた。次いで1894年(明治27年)春には全羅古阜において苛政に抗して乱が発生したが、地方官の虚偽の報告に乗せられた全羅県司が討伐を始めて乱民と争闘となった。しかし乱民はこれを撃退し、ついに全州地方を制圧するに至った。

 ・ 事態を重く見た朝鮮政府は京城軍を派遣。幾度かの戦闘を経て乱民は鎮圧され、やがて殆どが帰順し、また逃散した。この時、政府と東学党の間で講和条約的な、いわゆる「全州和約」なるものが結ばれたと言われているが、実際は、乱民が帰順する時に差し出した箇条書きの願書のようなものに過ぎず、その願いとするところも後の行政に採り上げられることはなかった。
 後世の著作である呉知泳の「東学史」を無批判に引用することは、事実の把握ということにおいて甚だ疑問である。

 ・ 1894年(明治27年)9月頃になって再び乱が各地で散発し始めたが、東学党の巨魁である全琫準は、この頃の乱を「東徒再起は偽也」と言っている。実際、東学党員は極めて少数で、他は仕事をなくした砂金採集者など、生活困窮者によるものが殆どであった。

 ・ 乱には村々での掠奪が伴った。後に捕縛された全琫準は10月(陰暦)の乱の再起について、穀物が実る頃でないと乱は起こせなかったと供述している。

 ・ 総理大臣金宏集の弁によれば、鎮圧の兵の糧食は現地の租税を以って充てたと述べている。

 ・ 農民は、乱民に奪われ、鎮圧の兵に取り上げられ、二重の苦しみを受けることになったのがこの乱の実態である。

 ・ 捕縛された乱民が後に朝鮮政府の審判を受けているが、その結果、農民で無罪放免となった者が過半数に達している。誘拐や脅迫によって乱へ強制加入されていたからであった。つまりは、この乱によって一番被害を蒙ったのはまさに農民である。

 ・ 以上の点を以って、この乱を「農民戦争」と称することに大なる疑問を呈す。

 ・ 日本軍による乱の掃討は朝鮮政府の依頼による。

 ・ 地方の農民は、戦闘において優れ、また物品の対価を払って奪うことのない日本軍を頼みとし、各地でこれを歓迎した。また、村人も義勇兵を組織して日本軍と共に乱の掃討にあたったこともあった。また、朝鮮軍と日本軍と合同で掃討することもあった。

 ・ 鎮圧に同行した朝鮮官吏は、捕獲した乱民の中の首魁クラスの者をその場で死刑とすることがあった。日本軍はそれには反対している。また、朝鮮政府の審判で死刑判決が下された者にも、日本側はその処刑に反対し減刑すべきと勧告している。

 ・ 資料によれば、10月の全琫準ら東学党の乱の再起は、平壌戦における清軍の勝利を信じた大院君とその孫の扇動に応じて決起したものであったことは明らかである。そのことも含めて後に朝鮮政府は、さすがに大院君は不問としたが、その最愛の孫である李呵Oを、王族であるにもかかわらず大罪人として刑した。(井上馨公使の助言により流刑に減刑)

 ・ なお、朝鮮での反日活動など外国人を排斥する行為は、すでに明治15年11月の朝鮮議政府の布告「議政府榜示関文」で厳しく禁じられており、処罰の対象となっている。

 さて、この東学党の乱に関しても、今日では首を傾げざるを得ない評価がまかり通っているように思われる。
 歴史の評価は、まずもって事実の把握、つまりは資料を読むことが基本であると筆者は思うが、世間ではどうもそうではないらしい。あらかじめ善玉悪玉を決め、豊かなイマジネーションを以って修飾を加えていくことにあるようだ。それが大学で教鞭をとる人ですらそうであるとは、もう何をか言わんやである。

 

朝鮮の貧国弱兵と腐敗

 朝鮮は依然として貧国弱兵の国であって、大乱が起きれば自力では鎮圧できず、政争の乱のみならず、そもそも民乱を発生させるに足る制度上の腐敗に満ちていた。その要点を以下に記す。

 ・ 朝鮮腐敗の第一の原因は王室による官職の競売制度にある。この公然たる賄賂要求とでも言うべきシステムは、大院君の話によれば王妃閔氏が始めたという。

 ・ 王室は地方官職を売り、地方官は小官吏職を売った。例えば慶尚道監司の官職はおよそ当時の日本円にして10万円位で落札された。当然これを買った者は代金を取り戻そうと民に重税を課し、臨時の税や二重徴収をするなど様々な手段で膏血を絞った。地方官のみならず、首都京城の各衙門の下官吏から各倉庫の番人に至るまで、すべてが売買の対象となり、官吏の召使い職までが売買された。給与のみならず賄賂が得られるからである。

 ・ 賄賂は、あらゆる場面でこれを出さねばならず、たとえば租税を納める時にも役人や雑役らが難題を言い出すのを防ぐために、租税の5割に相当する賄賂を渡さねばならなかった。

 ・ また変わったものとしては臨時通行税というものもあった。王室にある程度の金額を納めれば、どこにでも関所を設けて通行する貨物に税を課して徴収することが可能なのである。

 ・ 当然のこと、商業流通も滞り、農民は気力をなくし、農地改良も開墾も殆ど見ることがなかった。

 ・ そして飢饉ともなれば、累々たる餓死者が出る惨状となったが、政府はそれも天命であるとして殆ど救済処置をとることもなく放置した。かつて「活人署」と言うものがあって貧民のうち病気になった者を集めて治療していた時代もあったが、もうそれは名のみのものとなっていた。また、かつては救済の穀物を貸すという制度もあったらしいが、いつのまにか普段から人民に粗悪なものを強制的に貸し付けて、法外な利息と共に上等の穀物で返却させるという狡猾な搾取手段に変貌した。

 ・ その上、人々は財産があることを知られると直ちに官吏に奪い取られた。その方法は、適当に罪を被せて収監し財産を没収するのである。財産ある者は努めて貧を装い、金品は床下などの土中に埋めて隠した。

 ・ その一方で地方官や地方有力者らは様々な手段を用いて租税地を免れた。そのため中央政府は年々租税地の面積を縮小せざるを得ず、かつての4分の1までに減少していた。また租税を徴収すべき地方官は、疲弊した民がやっと差し出した租税を、時に横取りした。

 ・ その横取りの方法とは、徴収した租税を中央政府に送る際、地方官はこれを運搬業者に請け負わせ、請負人は故意に老朽船を選んで積載し、近くの港湾で積荷を下ろして船を破壊し、いかにも難破船であるかのように装い、地方官は中央政府に難破船の報告を出し、その積荷は全て奪い取るというものであった。また、これは様々な手段の中のほんの一例であった。

 ・ 結果として国庫に収るべき租税も激減した。

 ・ 貧国となったのは日本が貿易で米を収奪していたからだなどと、おかしな説を振りかざす人がいるが、殆どの朝鮮人にとって米は主食ではなく、日本商人が買うことによって現金を得られる商品の一つであった(米の場合、日本商人は物々交換によって入手することは許されず、必ず韓銭をもって購入せねばならなかった)。また、貿易対象の作物としては他に比して少量であった。地方官はその売買をも操作し、豊作の年には却って防穀令を発して日本人商人などに売ることを禁止し、それで米価が充分下がったところを大量に買い込み、次に防穀令を解いて価格が上がるのを待って一気に売るという操作をしていた。これにより農民に前金や手付金を払っていた日本人商人が損害を受けて賠償問題となったことがある。

 ・ そもそも、租税や公用金などを徴集する公署が7、8ヶ所もあって統一しておらず、各部署は勝手に税を徴収していた。

 ・ 銅貨あって流通の経済は殆どなく、人々は大抵は物々交換で物品を調達していた。

 この国の貧国弱兵の原因は、腐敗の一語に尽きる。

 また、もし民を愛する大院君というイメージがあるとするならば、それも誤りであろう。彼は人々から財産を巻き上げる名人であり、人を殺すのを大根を切るぐらいにしか思っていない面を持つ人でもある。王妃のみならず国王でさえ、実父である大院君から暗殺されかかったことがあると、国王自らが述べている。おそらく、大院君の眼中には国のこともなく民のこともなく血族すらなく、あるのは溺愛する孫と飽くなき権力欲と虚言でしかない憂国愛民の言辞であったろう。
 国のことを思い国のために奔走する人は朝鮮では稀であった。ごく僅かなこの人たちは身分が低くほとんど権力を持たなかった。例えば金宏集は大院君と直接面会することが許されない身分であり、用が済めば直ちに政府内から放逐される立場にあった。

 かつて明治9年の日朝修好条規締結時に、野村靖は朝鮮大臣に、「富国強兵の道はその国の人民が繁栄してこそである」と述べたことがあった。以来およそ20年、繁栄どころか疲弊に向うばかりの情況を、全く改善せずにここまでに到らせた怠慢の国政に対し、国王王妃を初め朝鮮政府の者の責任たるや重大なものがある。

 

 

朝鮮内政改革について

 陸奥宗光は「蹇蹇録」において「結局は朝鮮内政の改革とは、日清両国の難局を調停するために案出した政策上の一個の口実に過ぎず、自分は最初から重く見ていなかったし、そもそも朝鮮という国柄がよく改革が出来るかどうかを疑っていた」という意味のことを述べている(原文テキスト)。
 いかにも陸奥らしくクールな口調だが、なにしろ戦後書かれた文章であるだけに、却って「すっぱい葡萄の狐」的に合理化した文章に見えて仕方がないのだが(笑)
 実際は、陸奥宗光は朝鮮内政改革にも頑張ったと言える。激務の合間に詳細且つ行き届いた改革案も提出。改革のための資金である300万円貸与問題にも、難しい時期であったが力を尽くして取組んでいる。
 もちろん、果たして朝鮮という国柄が、実際に改革の実を挙げることが出来るかどうかはまったく疑わしいことであって、まさに陸奥の言うとおりだろう。今まで何度も機会がありながら、朝鮮は内政に関する改革は殆ど何もしてこなかったのだから。しかしそれはともかく、日本政府としては、内政改革を提案した以上は尽くすべきは精一杯尽くす、ということであったろう。

 現地における日本外交官の朝鮮改革への思いは積年のものであり、公使領事や書記官たちのその尽力は無視できないものがある。中でも、大鳥公使の後を受けて就任した井上馨公使の努力は並大抵のものではない。まさに抜本的改革に向けて大鉈を振るう姿は、今一度維新に死力を尽くすが如き迫力さえ感じられるものである。

 そもそも、朝鮮内政改革とは要するに朝鮮が開明に向かうことと同意義であり、そのための勧告や援助を惜しまなかったのがこれまでの日本の政策であった。それは遡れば、江戸時代末期に米国と条約を結んだ幕府が、攘夷を敢行する朝鮮に対し仏国との仲介を申し込んだことに始まると言ってよい。明治新政府となってからは、文字通り忠告勧告支援の連続であり、物も金も人も技術も朝鮮国に提供して来た20年であったことは、当サイトの資料を共に読了された諸氏なら大いに肯かれることと思う。

 釜山居留区がまだ「倭館」と称されていた時代、朝鮮人は国内の事情を日本人に漏らすのを禁じられ、破れば厳罰を受けた。したがって当時、朝鮮の実情というものは今ひとつ日本側に明らかではなかった。しかし日朝修好条規締結後に釜山居留区となってある程度の垣根が解かれてからは、その国内事情も漸く知られるようになってきた。とりわけ釜山管理官の山ノ城祐長の報告は、朝鮮国が深刻且つ驚くべき状態にあったことを知る上において優れた初期資料である。(当サイトでは何かと宮本小一の朝鮮風俗ばかりが人気だけどw)

 当時の朝鮮に対する評価の厳しさは、日本に限らず諸外国の外交官らも同様であった。まさに、交際を深めていけばいくほど、知れば知るほど、その愕然たる実態が明らかとなってきたのが、この20年間でもあった。
 上で述べたように、天命として放置される深刻な飢餓状態、農地改良も開墾も見ず。およそ停滞する経済。貨幣は銅銭あるのみ、しかもほとんど流通せずに物々交換。また、横暴を極める租税雑税の数々、売買される官職、賄賂と搾取しか頭にないと言ってよい地方官。中央政府では権力は分散し、国王以外にも王妃が、大院君が、閔族が、行政に容喙して左右にし、且つ人々から財産を巻き上げ、殺したいときに殺す。対外政策においては清国の属国に甘んじ且つ媚び、日本に対しては独立国を装いながら援助を請う。

 ようするに腐敗と貧困と虚偽が蔓延する、国とは名ばかりの、儒教の国? つまりは道徳を標榜する国? 金宏集の言によれば、朝鮮は3、40前までは、このような国ではなかったと言う。今のように無闇と税を取ることもなく、国王などが政府を無視して人事を決めることは恥ずかしいことであったと。つまりは、朝鮮の深刻な腐敗は大院君執政時代に始まり、王妃一族の閔氏による政権となって、いよいよそれに拍車がかかってここに至ったことになる。とりわけ、閔族と閔派の専横は著しく、中央から地方末端まで、閔派にあらずば人にあらず、という風潮すら生んだという。

 日本が提案した朝鮮内政改革案の細目である「内政改革方案綱目」を読めば、その改革を必要とするほどの内情がおよそ察っせられる。日本の改革案を読む気がしない人は、朴泳孝が国王宛てに書いた建白書の中の改革項目だけでも読めばよい。朝鮮の実情の深部をよく知る朝鮮人ならではのものである。

 この国の腐敗と頑迷を一掃して開明に向かわせ、以って富国強兵の国、且つ東アジアの中立国として位置させるのは日本政府の積年の一貫した願いであった。そしてそのための改革を実行させるに大なる圧力となったのが日清戦争であったとも言えよう。

 もっとも、井上馨は、王妃の容喙やそれに唯々諾々として従う国王や大臣たちに激怒して一度は改革案を撤回している。それを必死に懇願して指導を求めたのは国王と大臣たちであった。しかし井上は「改革したいなら自分たちで勝手に改革すればよいではないか!!」と突き放している。

 後世、この時の金宏集内閣を日本の傀儡政権などと評す人があるが、まさに傀儡でなくなる絶好のチャンスと。w しかし、国王は「我が国は殆ど上下の者が領(えり)を引いて卿が画策を施すのを望むものである」と述べて、大臣と共に井上公使の協力を必死に懇願し説得し、大臣たちはついにはその真剣さを認めてもらうために改革に対する「我ら朝鮮人の粛然たる誓い」と続条を提出し、更には国王は世子も大院君も大臣たち百官も連れて歴代の朝鮮王に誓う「大君主展謁宗廟誓告文」まで奏している。
 よって国王依頼の朝鮮顧問官の地位に戻り、改革に協力せざるを得なくなった井上馨は、大臣たちの説得は「殆ど脅迫同様の強談判であった」と述べているぐらいなのであるから。w

 自ら傀儡になったということであろうか。
 とんでもない。そもそも朝鮮人が日本人の傀儡となるような素直なメンタリティの人々であろうか(笑)
 彼らもまた改革の必要性を痛感し、何としてでも国力を増し真の独立国としての地位を得たかったのであろう。(しかし、井上が言ったように彼らにとってはまさに「言うは易く行なうは難し」だったわけで)

 改革には当然資金を要する。しかし朝鮮は旱魃と乱と戦禍によって租税の収入が殆どなく、それどころか年末には文官や兵士に給料未払い3ヶ月という事態。それを何とか正月を迎えさせることが出来る金額13万円を、奔走して調達したのは井上であった。また、改革に取り組む朝鮮政府次年度の予算の殆どを賄う金額300万円も、それを用意したのは井上や陸奥ら始め日本政府の者たちであった。それも莫大の軍費を消費する中に。

 よって、朝鮮内政改革は日本からの働きかけに止まらず、日清戦争の大義のそれ以上に朝鮮の真の独立に向けての日朝共同の取り組みでもあったと言えよう。もちろん改革の当事者は朝鮮政府である。その成否はひとえに彼らの努力如何にあった。

 今日、朝鮮改革については上記にある陸奥の「蹇蹇録」での言葉を全てとするのみで、その取り組みを正当に評価する人を見ないのは残念である。

 

 

朝鮮政府の財政事情について

 1984年(明治28)12月末時点での朝鮮政府の経済事情というものは、文官武官、お雇い外国人への給与の未払いが日本円にして97万円余り、更に日本の銀行並びに清政府及び清英商社からの負債は約69万円など、負債額総計約166万円となっていた。
 特に給与未払いは3ヵ月に達し、兵士も険悪な雰囲気となってくるし、いつ軍乱が起きてもおかしくない状態であった。もし軍乱となればこの時機恐らくは中央政府は崩壊していたろう。地方の力が強い国であるだけに地方豪族・軍閥などがどのように動き出すかも計り知れない。そしてそれよりも軍乱となれば国王は必ず日本軍に鎮圧を依頼していたであろうから、そうなれば日本は朝鮮軍を解体して朝鮮国を保護下に置くという方向に向ったろう。もし日本が朝鮮支配を目論んでいるなら、かえって軍乱となった方が好都合ではないか。(笑)
 しかし文武官の不満を解消せんとして取り敢えず年を越すための給与1ヶ月分を奔走して調達したのは井上馨公使であった。

 それでも、上記「朝鮮の貧国弱兵と腐敗」の各点と東学党の乱、また日清戦禍によって、租税収入が殆ど望めず、次年度の予算の見通しは全く立たず、どう見てもこの時点で朝鮮政府は経済的にも政治的にも破綻を来たしたと言えよう。つまりは国家としての崩壊の危機と。

 もし日清戦争がなかったらどうだったろうか。おそらく同じことだったろう。なぜなら日清両軍が来たことによって乱は一時的に治まったのであり、日清両軍が撤退したなら直ちに乱民は京城を襲撃する積りであった。そういう意味で、再乱とならないように、内政の改革は不可欠であったし、東学巨魁全琫準もそれを認めている。つまりは日本の後押しによる改革が成らなかったら再乱となるは必至であり、腐敗した朝鮮の中央と地方の政治改革がなされない内は、乱は延々と続いていたろう。よって、租税は益々減収していずれは同じ道を辿ったと思われる。

 しかし日本政府は、その破綻した朝鮮政府の次年度予算のほぼ全額に当る300万円を朝鮮政府に貸与している。果してその見返りは? その条件とは? また担保に領土租借でも要求したろうか? 朝鮮侵略の絶好のチャンスではないのか?(笑)
 答は、何もないと言っていい(新たに2港開港は求めているが、返済のための海関税増収を計ったという面もある)。ただあるのは朝鮮が真に改革を成して富強国且つ独立国として立つことのための貸与であった。しかも井上馨は貸与どころか後に贈与したい旨を政府に上申しているのである。

 これまでの、朝鮮に対するあらゆる援助のことを振り返るまでもなく、国民世論の呆れるほどの義侠心のことも含めて、これが当時の日本人・日本政府であったと言う外はない。もちろん国益との利害一致があったからのことではあるが。

 

軍事のことなど
(残酷な描写もありますので、ご注意ください)

 ・ 7月25日に豊島沖で沈められた高陞号に、清国政府雇いのドイツ士官フォン・ハネッケンも乗っていたことはあまり知られていない。彼は岸まで泳ぎ着き、後に高陞号事件について証言をしている。
 陸軍少佐だったと言われているが、まさに日本陸軍の師匠であるドイツ陸軍の人間。もし高陞号が沈められずに、1千1百の清兵と大砲10数門と共にこの人の指揮が成歓の戦闘に加わっていたら、さてこの時の戦況はどうなっていたろうか。どうも、よくよく考えていくと慄然とするものがあるのだが(笑)
 もし成歓で日本軍が敗北したとしたら、当然、平壌戦はないし、清軍は西と東から京城まで出張ってくるだろうし。大院君や東学党、それに掌返しの朝鮮政府軍と・・・・。

 ・ 負け戦の兵士というのは憐れなものである。
 清軍が平壌で敗走した時に遺棄していった清兵の戦死体は、後に日本軍が人夫や朝鮮人を使って仮埋した。しかし、その後、何者かが衣服を剥ぎ取るために掘り起こし、そのまま放置して獣や鳥のなすがままになった死体が多くあったという。
 以下は、和歌を交えて書いた日本軍医の従軍記からの抜粋である。

(「『征清紀行』渡邊重綱著 白関書屋 明治29年2月8日発行」より、()は筆者)

(平壌を出て二里ばかり北に向った所で)
                       二三
道路の傍に白き物あり。能見れば左の手なり。馬丁に命じて棒にて掘りければ、清国敗兵の死体なり。腹掛のみにて、靴の破れたるを穿てり。十歩程行くに細き流れに屍体の水にひたりしあり。其より右方の小丘に登り見れば、憐むべし、其処彼処に幾個となく屍体の散り敷たる有様、実に目もあてられず。

   野も山もみなしかばねと聞つれど
      けふ見る事とおもはさりけり
                       (中略)
   吹すさふ風に土砂飛散りて
      あらはれいつるされかふべかな
                       (中略)
   なきからは野沢の水にしつむとも
      夜毎の閨の夢に入るらん

斯る有様は、いかにも見ぐるしき事ぞと野人に問けるに、最初日本軍隊より人夫及朝鮮人に命じて仮埋せしに、追々心あしき者共、死者の衣服を剥取らんとて夜間掘り出したるを、犬や鳥などのくわい出しけると云う。おもえば昨日平壌の城山にて日本軍隊戦死者埋葬場を拝しけるに、此地死体累々たるも鳥獣にゆだねておさむる人のなきとは余り情なき事にこそ。

   かれくさのしかはねおほふあたし野を
      とふらふ人のなきそかなしき

 また既述したように、「清兵の朝鮮人への暴挙」において「なおこの騎兵斥候の報告には、清兵が退却の際に津頭と嘉山郡で多数の現地人を殺害して家を焼いた、また定州でも多くの家が焼かれたようだ」と記したが、その津頭を通過した時のことを次のように書いている。

                     [二七]
津頭という村に至りぬ。此村過る平壌の戦に敗れたる清兵退去の際、放火せしとて二百余戸の民家僅に四五戸を残して焦土となり。実に憐むべし。今まで経過せし市町村多少の兵火に罹りしも、斯る惨状はあらざりし。

   村里は残るくまなくやきうせて
      雉子鳴く野となりにけるかな

 なぜ人家を焼いたのかということであるが、著者は、この地の先に一望を見渡せる丘があり、そこに清兵が陣地を作った跡があったことから、日本軍の追撃を恐れ、銃撃の視界を確保するため、また日本兵に宿泊させないためであろう、と述べている。
 鴨緑江を渡ってすぐの清領安東県に入れば、その約1千戸の家の大半はやはり退却の清兵に放火されて焼失していたという。

 ・ いわゆる旅順戦であるが、虐殺事件だのなんだのと言われているが、戦闘詳報にそれらしきものは見当たらなかった。しかし当時、金州・旅順では清軍の敗残兵が多数出ており、ゲリラ化するなどしていたことが伺われる。また、清軍は旅順付近の住民に武器弾薬を渡して15才以上の男子は日本軍に抵抗するよう指導しており、それによって日本軍との間で敗残兵や住民と市街戦となったようである。そのことを伝える当時の資料に以下のものがある。

(「明治廿七八年戦役写真帖  [第1冊]下巻」 p11)

   敵屍を旅順口北方郊野に埋瘞するの状況

 第二聯隊勇往猛進して旅順市街に潜匿する敵兵を屠殺する者甚だ多し。是より先、清将、旅順付近の店民に諭し、十五歳以上の男子は挙て皆我軍に抵抗せしむ。故に民家毎戸多少の兵器弾薬を蓄えざるはなし。是に於て我兵の市街に進入するや兵農を問わず、苟くも我に抗する者は悉く戮を加え、少くも寛貸すること無し。則、街衢所として敵屍の横わるを見ざるなく、脳漿流迸腹膜露出、到る所鮮血淋滴として腥風惨然人を襲い、満目荒涼たり。後ち数日の間、我軍は掃除隊を派して、諸所横死の敵屍を纏め、土人を役して之を原野に埋瘞せしむ。是れ明治二十七年十一月二十四日、旅順口北方郊野に於て見る所の実況なり。

 ほかには、旅順で市街戦となり、清兵が軍服を脱ぎ捨てて庶民に成り済ましていたことや、これを捕らえて斬殺・銃殺したことから外国人が新聞記事としたなどの記述も以下のようにある。

(「凱旋紀念帖」明治二十八年八月 陸海軍士官素養会刊行  第十六 旅順口の大攻撃 二百十四頁 二百十五頁 二百十六頁 ()は筆者)

(11月)二十一日、我第二聯隊の首として市街地に入るや、時正に薄暮に会するに拘わらず、黄金山の砲台を陥れんが為めに、伊P地聯隊長の指揮の下に急行して同地に向えり。山は旅順市の前面に峙つ故に、此砲台に迫らんには、必ず市街地を通過せざるべからず。聯隊の市街に入るや、第一大隊、先ず過ぎ、次で第二大隊の行進に会す。偶々側辺の家屋内より発銃するものあり。兵卒逡巡す。
[旅順市街の捜索]
茲に忽ち家屋の捜索は起れり。各戸の戸壁は破壊せられぬ。兵士は闖入して、捜索至らざる所なし。壁蔭室隅、各戸概ね敵兵あり。依て我兵は、獲るに随て斬斫したり。敵兵の逃ぐるに巧なる、戦闘利あらざるを見れば、直に軍服を脱して常服を着け、庶民に扮して知らざる為(まね)すること其常なり。是において兵民の区別明ならざるものあり。然れども、之が為めに、若し彼等に寸時を仮さば、直に却て彼に乗せらる。故に略兵勇と思わるゝ者、我は已むなく之を屠戮せざるべからず。従軍の外人等、事を詳にせず、誤り伝えて、旅順口の鏖殺と為しゝものこれなり。
[敵の総数]
旅順の守備に任せし敵の総数は、実に一万四千百にして、内親慶軍八営四千人・桂字軍四営二千人・和字軍三営一千五百人・成字軍五営二千五百人・営務処即道台兵一営五百人[此外に尚若干の騎兵あれども、其数未詳]、之に金州の敗兵なる懐字軍六営一千八百人・拱衛営一千二百人・同騎兵一営二百人・銘字軍哨四百人を合して、各所の配備に充てたり。而して親慶軍は、海面の防禦に当り、黄仕林・張光前の指揮に属し、各四営宛東西南岸の諸砲台を守備し、桂字軍は、姜桂題の指揮に属し、背後堡塁線の東半部、即ち旅順金州本街道以東の線を守備し、和字軍は、程允和之を督し、背後堡塁線の西半部、即ち旅順金州本街道以西の線及び、東方の一部に当り、成字軍は、衛汝成之を督し、白玉山東北下狭隘の入口を守備せり。
[敵の死者及俘虜]
敵の死者は、無虜四千人にして、捕虜は三百五十人、而して死者の多くは、斬殺にあらずば、銃殺なり。斯くの如く多数の死者を出ししは、日清開戦以来、未だ嘗て無き所、要するに我兵の追窮甚だ厳にして、苟も降るにあらざれば、必ずや之を殺せしを以てなり。

 「凱旋紀念帖」は日清戦記録としては戦闘詳報などに忠実に沿った内容となっている。

 その他もう少し詳しい記述として日清戦争に従軍した人の著書がある。伯爵亀井茲明の従軍記「従軍日乗」(出版は明治32年7月10日)である。上記の「明治廿七八年戦役写真帖」の写真撮影をした人でもあり、旅順戦のことを以下のように書いている。

(「従軍日乗」 四百三十四頁より 亀井茲明著 亀井茲常 明治32年7月10日発行、()は筆者)

 付云、旅順口市街戦において我軍隊が無辜を殺害し残虐を極めたりと為し、外国新聞記者等或は我を目して野蛮と做す者ありと聞く。是れ恐くは当時の事態を知る者の論にあらず。
 清兵の被服は皆土人と同一のものを着し、支那製の長靴を穿ち、其の軍に従う時は上に記章ある法被を被ると雖も、其の敗走するや悉く軍衣を脱去して道路に遺棄し一見常人の態を為し、其の区別に苦むのみならず往々商人に仮装して、市街の内に潜匿せる清兵等不意に出でて我軍に抵抗す。

 現に隈元憲兵中尉が単騎馬丁を従えて旅順口に至らんとするの途中、一兵営の前を過ぎるや敵兵俄然来て中尉を囲み銃口を向けて之を射撃す。中尉、其の不意に驚き忽ち馬を下り、其の帯ぶる所の日本刀を揮い奮進して之と戦い直に其の三人を殪し四人は逃遁せり。中尉は平素家に在りて撃剣を徒弟に教授す。其手腕の精錬想うべし。

 又旅順の商家皆戎器を蓄え弾薬を蔵せざるはなし。余が宿せし西新街の民家においても亦多く銃丸を発見せり。是れ我軍隊が男子は看て以て兵と做し殺戮して遺類なからしめし所以なり。
 而して偶々婦女子の害に遭う者あるは誤殺に係る。是れ市街戦に在ては固より怪むに足らざる事と為す。

 且や李鴻章は旅順進撃の前に当り兵をして一人も遺さず死守すべき旨を訓令せし由なるが、清将は旅順付近の店民に諭して十五歳以上の男子は挙て皆我軍に抵抗せしめたりと云。

 此にタイムス戦地通信員の旅順口談と題する一節を載せて東京日々新聞にあり。抄出して参考と為す。

 タイムス戦地通信員コーウェン氏は、我軍に従て旅順に在り、攻守の始末を目撃して還り、広島を経て横浜に来れり。ジャパン・メール記者、氏を訪いて問うに、世間に風説する所の旅順虐殺の事を以てす。

 氏は先ず清人が日本人を虐殺せる有様より説き起し、日本士官が其兵士を激する為め、故(ことさら)に敵兵に虐殺されたる日本人の死体を放置したり抔伝うるは跡方もなき虚説にして、士官は出来るだけ之を取片付くるに力め、兵士の激昂を制したり。
 又、日本人が旅順に入りて殺戮を行いたるは疑も無き事実なるが、己が確かに目撃したる所にては尋常戦時において有り得べき行為に止まり、戦時においては怪むに足らざる所為のみ。而して其殺されたるもの清兵のみに止まらずして婦人小児又は通常市民もありたるは事実なれども、彼等が故らに婦女子を殺すに意なきや明かにして、現に七八十人の婦人は毫も危害を被らず居るを見たり。

 又、通常服を穿ち平人の如く見ゆる死体多かりしも、此内には無論兵士多かりしは疑を容れず。当時多くの清国兵士は兵服を脱して平人の体を装いたるを以て、旅順近傍の山側は脱ぎ棄てたる軍服を以て充たされたり。従て殺戮されたる死体中には、平服を着しながら腰には半ば消費したる弾薬嚢を帯びたるものあり。平服の下に軍人靴を穿ちたるものありたり。
 余は日本人を以て旅順の住人総てを敵対と為したりとして非難する能わず云々。

 メール記者、更に次の問答を試みたり。

 「足下は日本軍の行為終始非難すべきものなしと為すか」

 「余の非難するは旅順口略取の日の事にあらずして、総ての抵抗絶えたる後に及んで猶お清国人を殺したる事なり。清国人の戦場にて殺されたる実数は蓋し千人以上なるべし。然るに余の信ずるところにては、日本の公報は之を以て四千人と為せり(実際の公報では旅順口方面凡そ2500人)。余が既に論ずる如く清国人の行いたる残暴は以て最も平静なる人も激怒せしむるに足れり」

 「然らば足下は此事を以て米国新聞に現れたる如き驚くべき事実と思惟せるか」

 「余は之を以て普通戦時の出来事として見るの外、別に太く人心を驚倒する惨事と思惟する能わず。此の如きは既に従前其例を見るところのものなり。余は之を以て英軍若しくは仏軍の行いたる行為よりは更に暴悪なるものと為すを得ず。若し戦時通信員にして悲憤の情を激発するに意あらしめば、如何なる戦争にも通常なる事例を以て痛撃なる文字の資と為すを得べく、或る人民は好んで過激なる文字を求む。然るに余は明確なる報道を為すを喜ぶものなり。余は民戸各家尽く戦場たるにあらざるを目撃したり。余は当時起りたる有らゆる事実を観察し得べき好地位を有せり。而して余は都府陥落の後、清国人は毫も抵抗せざりしことをも断言すべし」

 「而して日本軍は実際通信を制遏せんとしたりしか」

 「否。余の知るところにては縦令自己に不利益なる場合にも決して自由の通信を制遏せんとはせざりし。此事は明に了解し置かざる可からず。彼等は余等を待つこと極めて懇切にして、余等に供するに、食物、酒類、馬、人夫等を以てし、総て其為し得るところを尽せり。但し彼の人々は新聞記者に報道を与うることを為さず。余は彼の人々が美酒を少しく与えらるゝも、報道は多く与えられんことを望めり。若し日本士官にして報道を供給するを好まるれば、余は大山伯の本営より、満州に於ける野津中将の陣に転じ、一箇月を広島に曠うするを為さゞりしなるべし」

 後半部分は新聞記者の談であるから、まあ話半分ということで(笑)。 ここでタイムス戦地通信員コーウェンは「清国人の戦場にて殺されたる実数は蓋し千人以上なるべし」と言っているが、一新聞記者が広範な戦場に於ける戦死者の実数を算出できるはずもないわけで。まして軍部が提供する報道が少なかったと言っているのだから(笑)。
 しかしまあ、彼の目から見ても通常の戦闘状況の範囲内であったと。

 ・ 清軍の日本兵捕虜や戦死者に対する扱いのひどさは既に記述したが、とりわけ旅順戦直前の土城子に於ける日本兵の戦死体が著しく惨く扱われていたことを以下のように述べている。

(「凱旋紀念帖」明治二十八年八月 陸海軍士官素養会刊行   第十六 旅順口の大攻撃 百八十七頁)

[野蛮的残忍なる敵の行為]
此戦において、最も記憶せざるべからざるの一事は、残忍なる敵が、我戦死将卒の死屍に加えたる野蛮的行為なり。彼等は中萬中尉の屍体をば、銃剣を以て屠り、且首級を馘し、両腕を断ち、其惨状一見人をして悚然正視する能わざらしめたり。下士以下の戦死者、亦悉く然らざるはなく、尚其上に軍服戎器をも併せて掠奪し去り、裸跣の侭之を路上に放棄したり。殊に淺川大尉の愛馬津山の如きは、其肉を啖い尽くして、只骨と皮のみ遺したり。事、将軍に報告せらるゝや、将軍以下、将校下士卒、皆切歯扼腕し、全軍一人として其報復を思わざるなし。我兵気是に至てますます振う。

 もっと詳しい記述としては、(極めて残酷且つ具体的な描写なのでご注意ください)

(「従軍日乗」 二百七十七頁より 亀井茲明著 亀井茲常 明治32年7月10日発行、()は筆者)

 其の戦後の惨状実に見るに忍びず。我が戦死者の首級は悉く敵の奪う所となり、多くは左手を斬り、陰茎を取り、中には鼻を殺ぎ、眼球を抉ぐり、腹を裂きて砂礫を其中に充たしたるものあり。時に酷烈を極めたるは、騎兵喇叭卒某の死躰は首を截(き)り、四肢を断ち、胸部を割きて石塊を填充し、其の陰茎を絶ち、其の睾丸を切り取りたり。又、徐家窯一民家の側なる玉蜀黍(とうもろこし)の殻草の下に斃れたる一兵士は、同く其の首、其の右手を斬り去られ、其の腹部は切断せられ、又其睾丸の一方及陰茎の亀頭を切り去り、殆んど我兵士たるを認識するを得ず。唯僅に紀州ネルの襦袢と兵服の断片を胸部に纏いたるを以て、其の兵士たることを知得せりとぞ。

 其残忍酷薄、誰か眦裂扼腕憤慨せざるものあらんや。之を見聞する者は悲憤激昂、清兵の無状を憎み、甚だ我兵の惨死を憫み、竟に此の鼠賊の肉を啗わざれば飽かざるの気を生じ、我が兵気、愈振うに至れり。

 とある。
 ご存知のように、朝鮮と清国には凌遅処死刑という、甚だしく肉体を損壊していく処刑方法がある。なるべく多く苦痛を与えて刑するそれと、一方日本ではなるべく苦痛を短くする例えばかつて介錯というものがあったように、処刑に対する考え方の相違があるようだ。当然、戦死体に対する扱いも死後処刑という方法がとられたと思われる。しかし日本軍からすれば、清軍が極めて残酷なものに映ったことも、後の旅順戦に影響を及ぼしたかもしれない。

 ・ 金州城では、日本軍が粥の炊き出しをしており、貧民3百から5百人が連日詰め掛けた。またそれによって日を追って治安がよくなったという。(「由比大尉第3回報告」p2)
 よく知られているように金州は正岡子規が日本新聞社記者として従軍した場所である。(NHK大河ドラマ「坂の上の雲」では、なぜかここで子規の目の前で日本兵が清人から掠奪をするという、原作にもない演出を創作して描いている(笑)。「巷の近代史」でも記述したように、わざわざ外交文書を画面で見せながら実は文書内容にはないナレーションを創作してかぶせるという捏造を、平気でするのが日本の公共放送局なのであるから、まあ推して知る可し(笑))
 実際は、清領における日本軍の評判は、先の従軍医の記述によれば次のようなものであった。

(「『征清紀行』渡邊重綱著 白関書屋 明治29年2月8日発行」より)

                   五〇
我守備隊も既に一旬日余を経過せり。然るに各地兵站部位置の都合にや、又は前方に在る野戦隊の戦況によるにや、更に土城子に前進移転すべき内命あり。尋で兵站部は大連湾に進まんとす。
人民此事を聞き、大に失望し、若しも守備隊兵站部引払となる時は、又々清兵の残徒暴行或は土賊の襲来、尤恐るべしと云う。
我皇威の厳にして仁慈なる、人民帰服の状況以て知るべし。
此に於て藤井守備隊長及林兵站司令官とも協議して、義州兵站に具状せしかば、若干兵を残し置く事となりぬ。
人民の喜悦一方ならず。因て当地人民重立たる者、送別報謝の意を表し、公議所にて酒肴を呈したき旨申越したり。
堅く辞したるも中々止みがたく、数回願出ければ承諾せり。
二十日午後二時、守備隊兵站部諸員、公議所に至る。酒肴を出し、主客献酬数回の後、人民歌いつつ舞いつつ歓喜せり。
我おもえらく。古聖人の所謂、仁義の政あり、忠信の交りおれば、四海皆兄弟なりと。
既に今日人民の帰仰する全く内地人と同じ景況なるを、諸君と共に談話せり。

   四海の海みなはらからと云ひつとう
      ひじりのおしへ今日そしらるゝ

酒宴を終わり、一同公議所員の厚意を謝して立出ぬ。

 朝鮮もそうであったが、清国でもまた庶民の間では民族主義的な志向などよりは、現実生活での安泰こそが切実な問題であった。乱暴を働く自国の兵より、強盗をする同胞より、治安をもたらして仁慈を行うならば、それが外国人であっても歓迎したいのが人の情というものであろう。
 日本の公共放送局が描写すべき場面は、こういう事実ではなかったろうか。
 この軍医は、三国干渉によって遼東半島が清国に還付された時の清人の様子を次のように書いている。

                   一二一
占領地の景況を見るに、清人は嘗て我王化の慈仁整粛なるを拝戴し、永久臣民たらんとして帰仰せしに、今や還付と聞き、大に失望し、復たび清国官吏の手にかゝり、苛き憂目を見る事と歎き悲しむ者ありけり。

 

 ・ 朝鮮軍が日本軍と行動を共にしたのは東学党の乱の掃討の時だけでなく、以下のように平壌戦時にも若干名が朝鮮国王から派遣されている。

(参謀本部編纂「明治二十七八年日清戦史 第2巻」 200頁)

 平壌の戦闘間、少数の韓兵は彼我両軍に加わりたり。其我軍に加わりたるは日韓攻守同盟の結果、第五師団長護衛の為め、韓王より差遣せられたる装衛営中隊長李斗璜の率うる将校三名、下士卒五十名[外に訳官一名、駄馬十五頭を伴う]にして、九月四日開城において我に合し、爾来常に師団司令部の所在地に在り。又清軍に与したるは、蓋し平安道観察使閔丙奭の指揮下に属せる平壌の衛戍生ならん。其人員得て詳にし難しと雖も、戦闘後、我軍の捕獲したる者十五名にして、其の三名は負傷し在りき。而して李斗璜の部隊は九月下旬平壌を発し、京城に帰還せり。之が為め師団長は同月二十二日大鳥公使に向て、朝鮮兵隊は其任務を全うせしに因り、此地より京城に帰らしむ。是まで勤勉して従軍し来りたることを朝鮮政府に伝えられよと電報せり。

 ・ 兵站の苦労はずっと続いていたようである。当初は糧食と人夫の確保の苦労。それが解消される頃には、今度は運搬物資や現金の紛失・盗難。その額、3ヶ月間で銀貨計1万2千円余りと韓銭多数。また、慰問品の抜き取りというトラブルも多発。人夫などが運搬の途中で抜き取るのだが、兵士が楽しみとしているものであるだけに、士気に関わると軍部が嘆いている。被害はいろいろあったが、とりわけ将校宛の高級洋酒などが次々と消えた。日本人、朝鮮人に関わらず人夫・通行人の動きに注意するようにと。

 ・ 日本人人夫として集められた者の中には甚だしい生活困窮者もいた。その服装のあまりのみすぼらしさに、朝鮮人や支那人から嘲笑されるほどであった。日本人の名誉に関わるとこれまた軍部が嘆いている。

 ・ 人夫の中に日本紙幣の偽札を使う者がいたのを逮捕。平壌で反物屋・牛肉屋・汁粉屋・酒屋などで使用したと。

 ・ 清国領に入ると人夫などが民家に勝手に入り、豚や薪などを盗ることがあった。強盗・強姦といった悪質なものはなかったが、憲兵が厳重に取り締まった。

 ・ 人夫の違法行為のトップは逃亡であった。次に窃盗、物品詐欺、喧嘩など。なお逮捕した犯罪の朝鮮人人夫は朝鮮官吏に渡している。朝鮮官吏は、軍需物資を窃盗した者は重杖刑などに処し、中に悪質な者を斬首刑に処した。これにより盗難は減少し、それどころか落し物を拾って届ける朝鮮人が出てきたという。

 ・ 冬の大陸の寒気は日本人にとって厳しいものであった。防寒具を着ている日本兵が凍死することもあった。
 先の軍医による従軍記では、清領における人々の様子を次のように書いている。

(「『征清紀行』渡邊重綱著 白関書屋 明治29年2月8日発行」より、()は筆者)
                      四〇
朝鮮国と違て(清国)人民は競うて荷物運搬の業に就く。尤農事の閑なると利に鋭意なる清人なればなり。寒国と云い酷寒の候なれば、人民防寒法、中々に注意周密なり。第一、老少男女共に耳袋を掛けて凍傷を予防し、男は頭巾を種々の毛皮或は綿入布の深縁形にして冠るなり。我北国の雪帽子に似たり。衣服は厚綿入稍々我国に似たるも、襟は喉頭まで透間なく合せたり。下袴は股引の様にて、尤太き綿入立付を穿ち、靴は獣皮にて中に毛羽或は乾草の柔なるを足の上下に巻包む。又一般に烟草を好む。故に烟管の長さ二尺五寸なるを必ず携う。

此地方は白衣の朝鮮人も数多往来して雑沓す。殊に此度の戦争にて出稼人あり。
加之我国の軍夫、曩に野戦隊に就きて戦地に従軍せしも、凍傷其他の病患に罹り、解雇の者陸続帰来す。其有様、面部は煤にまみれ、手足を凍傷に悩みて歩行蹣跚、破れ毛布にまつわり、頭巾は清人を真似ねて種々の毛皮を冠ぶり、胸のあたりに鉦の様なる物を堤げたり。是は清人の飯入とも云い、又顔あらい盆とも云う。軍夫とも往々携う分捕品なりとぞ。
之れに反して新募の前進軍夫は意気揚々、大刀の地を引く程なるを幣び、或は仕込杖を突もあり。眼には雪除け青眼鏡、鼻頭には「レスフラト」を掛け、頭巾も亦毛皮或は羅紗綿入等なり。更に我軍隊は軍衣の上に防寒用鼠毛布大幅外套を着せり。此諸種の人々混合往来する百人百色の奇観なる言葉に尽しがたし。古昔名画師の意匠に見ゆる百鬼夜行も斯くやあらんとおもわれたり。

   物の怪の夜の往来もかくあらん
      寒さをふせく人のよそほひ

 ・ なお、兵站に携わった人夫もまた戦地において負傷したり死亡したりしたが、朝鮮人人夫はもちろん、使役に応じた清国人に対しても、日本人人夫同様に負傷に応じた手当や弔慰金・遺族手当が支払われた。そのことを求めた参謀総長彰仁親王による上申が提出されたのは、未だ終戦ならざる2月13日であった。(4月25日 大本営副官大生定孝発 朝鮮人及清国人死傷手当の件通牒)

 

三国干渉について

 ・ 日本政府は日清講和談判を前にして、列強国から何らかの干渉があるのは免れられないだろうと見ていた。

 ・ 三国干渉当時、日本陸軍精鋭は遼東半島に居り、また日本艦隊主力は台湾澎湖周辺に居た。よって新たな敵国と開戦するのは不可能であり、その干渉に対しては最終的にはそれを全面的に或いは一部を受け入れざるを得ないとなった。

 ・ 清国政府は西洋列強国に対し、日本が講和条件として領土割譲を要求した時はこれに干渉するよう要請した。

 ・ 佐々木揚「露朝関係と日清戦争」によれば、日本政府の遼東半島要求を知った露国政府は4月11日に特別会議を開き、日本政府に対して遼東半島放棄の勧告を行うか、あるいはその領有を認めて露国もまた朝鮮の港湾や満州の一部を獲得するといった代償を得るかを検討したという。
 その時、ヴィッテ蔵相は「日本の対清戦争はシベリア鉄道建設の結果であり、ロシアを指向したものである」と論じ、同鉄道の建設により近未来の清国分割競争でロシアが優位を占めるという観点に立って、「今は日本に対し武力を行使してでも干渉を行い、日本の南満州進出を阻むべきである」と主張し、会議はこの主張を採用して対日干渉を決定した。
 まあ、敗北した清国の領地の分捕り合戦がやがて始まると見て、前もって日本を恫喝して追い払っておこうと思ったと。

 ・ 後に公開された独国外交文書を解説したものによれば、日清戦争時に仏国が台湾に野心を向けていることを知った独国は、台湾併合や清国膠州湾の併合を検討。そういう中に露国の干渉問題が起り、よってこれに参加した。

 ・ 英国は当初、露仏の干渉策に協調していたが、後に、武力行使をしてまで干渉することは出来ないとして離れた。独国のカイゼル(皇帝ウィルヘルム二世)はこれを嘲笑したという。

 ・ 伊国は、独国から誘いを受けたらしいが干渉には加わらなかった。

 ・ 干渉は露国が最初に提案。英仏の協調を得た後に独国が参加。武力行使のことで英国が離れ、露仏独による三国干渉となった。

 ・ 4月23日、露仏独の日清講和条約に対する干渉は、日本政府に対して「遼東半島を日本が領有することは清国の首都を危うくし、朝鮮の独立を有名無実とするので、この条件を撤回すること」という勧告であった。

 ・ ドイツ政府から在日公使への指示として、日本政府に対してこの勧告を行う際の口ぶりとしては「日本は三国を相手に無謀な戦いをすることはないだろうが、必要の場合はそれなりの圧迫を加えるように」とするようにとあった。しかし独公使は、これをそのまま文章として纏めて日本政府に提出。よって三国の中で最も乱暴な言葉遣いとなった。このことにより後に同公使は本国政府から叱責を受けたが、後々も林次官は、独公使だけが率直に戦争を口にして脅迫したと語ることになった。

 ・ 列強三国による干渉という、日本が外交を開いて以来かつて経験したことのない一大事であったが、日本政府は、三国への説得、あるいは米英伊への折衝など懸命に外交を展開し、まさに全力を尽したと言える。しかし三国の意向に変化はなく、また米英も動くことはなかった。独り伊国のみが日本を支持。ただし貿易上の利権を日本が伊国に提供すれば、という条件付。

 ・ 4月30日、日本政府は、遼東半島は金州庁(含む旅順口)を除いてこの領有を放棄すると回答。

 ・ この頃、露国は艦隊派遣や港湾の戦時体制を宣言するなど軍事力をちらつかせ、仏国は講和後に日清が同盟を結んで仏国に敵対するのではと恐れ、日本に過激な言葉で迫ってしまった独国は後悔するかのように日本との友情を強調し始めた。

 ・ 5月3日、露国政府は日本の回答を拒否。日本が旅順口を所有することは障害があると、当初の勧告を主張した。

 ・ 5月5日、日本政府は遼東半島の領有を抛棄。なお、代わりの報酬を要求する権利を有す、と回答。干渉内容をほとんど無条件で受け入れるものであった。

 ・ 日本政府の回答に三国は満足の意を示した。

 ・ その回答に対する日本駐在外国公使の感想は様々であった。仏国公使は、何か他に特別に条件があるのではないかと怪しみ、独国公使は、代わりの償いをどのようにするのかと不思議がり、露国公使は、清国への賠償額が少ないから増額を要求したらよいと述べ、他の国々の公使も、この無条件の承諾を不思議がった。
 中に、「強国から脅迫されて止むを得ず譲与することは大国の場合でもある。しかし今度のは三国ともまだ脅迫があったわけではなく、ただ友誼上の忠告(勧告)があっただけである。それなのに直ぐにそれに従われるのは正当とは見えない。おそらくは世界の眼は日本が一年間の戦争で得た栄誉を一朝にして失ったかのように見るだろう」と言う者もいた。
 西洋列強国に対しては日本は臆病な振る舞いをする、と見えたということである。

 ・ しかし数手先で詰むと分かっている局面となって、これを最後まで駒を動かしてみるというのも所詮無駄なことである。名誉よりも合理性を重んじた当時の明治日本と筆者は見る。

 ・ (余談:青木周蔵、問題あり過ぎ)

 

 

 

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