日清戦争下の日本と朝鮮(12)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

「威海衛に於いて陸続として移送される清兵捕虜」
威海衛港に於ける降虜の上陸(其五) 明治二十八年二月十六日撮影

 

休戦定約なる

 狙撃事件は伊藤総理や陸奥外務にとっては汚水を被せられたような気持ちであったろうが、対する李鴻章は内心ほくそ笑んだ筈である。

 かつて米国人をして「文明と野蛮の衝突である」と言わしめた日清戦争であるが、ここに至ってその文明を担う日本でかかる野蛮な行為があったことにより、日本在住の外国人などには、「日本は政府と人民との間に著しい差がある。政府は問題ないが人民の文明度は依然として低く卑しい。前には露国皇太子の事件があり、また今回の事件を見ても、結局は日本人民はまだ一般の文明の域に達していないことを証するに外ならない」と述べて、日本と欧米諸国との条約改正のことまで反対する意見を述べる者もいた。(「李鴻章遭難」p119)

 そういう悪感情の話を聞くまでもなく、李鴻章狙撃事件翌日の25日には、伊藤博文・陸奥宗光は連名で一書を李鴻章に呈し、改めて痛悼の情を述べると共に、今後講和の協議に関し何らかの申し入れをする時節が到来することもあるだろうと述べた。
 休戦条件変更を示唆するものと言って良いだろう。(「日清講和条約締結一件/休戦定約」の「分割2」p10)

 その日の夜に広島に到った伊藤の26日付陸奥宛ての電報に、「松方(大蔵大臣)と榎本(農商務大臣)に会って我々の提案を説明した。閣議は午後に開く。結果は貴殿に電報する」(「同上」p12)とあるが、当然「我々の提案」とは休戦条件変更のことである。

 そして陸奥は26日付電信で伊藤に、「李鴻章の容体は良好で、帰国する意がないだけでなく是非条約を締結して帰国する決心のようである。以上は李経方の言葉であるが、例の暗号電信から察しても、その意であることは明らかであり自分はこれを殆ど保証する」と、また「休戦は我が国から進んで付与するものであるから休戦範囲内から台湾を除いても差支えないだろう」と打電。(「同上」p14)

 実は日本軍はこの頃すでに台湾の澎湖列島に上陸して戦闘の緒に就いたばかり。(明治28年3月23日24日澎湖島に於ける混成枝隊戦闘詳報)
 ここを休戦区域から外して台湾割譲要求に足る状況を整えておこうと考えたと思われる。
 で、それらの意見や種々の過程を経て整った休戦定約案を携えた陸奥外務は28日に、床に伏す李鴻章に面会して休戦定約のことを述べ、次の一文を交付した。

(「日清講和条約締結一件/休戦定約 分割2」p33)
 大日本皇帝陛下は、本月二十四日の変事を聞召され、深く宸襟を悩せ給い、前きに允諾せざりし所の無条件休戦を、茲に期限を定め、或る区域の内に於て承諾すべきことを其の全権弁理大臣に命ぜられたり。
 本大臣の同僚全権弁理大臣伊藤伯爵には現に下ノ関に在らざれども、速に休戦条約を締結する為め、本大臣は何時にても閣下の御都合次第右に関する細目を審査協定することに従事すべし。

 これを聞いた李鴻章は頗る満足の体で、「すぐに李経方を遣ってその休戦定約について相談させる、またその定約調印は自ら行う」と述べた。

 24日に狙撃事件、25日、伊藤は広島に急行、26日閣議、28日に休戦定約条件を李に提示と迅速であるが、実は全閣僚に休戦を承諾させるのは結構大変だったらしい。アジ歴資料「日清交際史提要」の「第六冊 第二十一編 至 二十六編/2 第二十一編 戦争及講和」に、
「伊藤全権は自ら奮て広島に行き、何分の処弁を為すべしとて、二十五日の夜を以て下ノ関を発し、其広島着後、同所滞在の文武重臣と会晤し休戦の得失を評定する迄には、許多の議論と辛苦とを費やし、其結果として列席の文武重臣も遂に伊藤全権の所見に賛同し、尋で聖裁を経たる上、二十七日の夜半を以て休戦のこと勅許を蒙りたる旨及其条件の大要を陸奥全権に電致したり」
 とある。おそらく軍部を説き伏せるのに骨がおれたろうが、まあそれでも伊藤博文の議論の押しの強さは格別だから。

 で、その新たな休戦定約案は以下のものであった。(「日清講和条約締結一件/休戦定約」の「分割2」p40)

  ここに一時休戦を承諾する。
 1 日本政府は台湾澎湖列島とその付近で交戦する遠征軍を除いて、その他の戦地における休戦を許諾す。
 2 両国政府は、条約がある間は攻守を問わず、各方面に於いて追撃や援兵するなどその他一切の戦闘力の増加をしないことを約束する。しかし戦闘のために増加する目的でない限り、兵員の配置移送は出来るものとする。
 3 条約ある間は、盛京省に駐屯する日本軍は、田荘台、鞍山站、連山関、賽馬集、寛甸県、長甸県に亘る折れ線以外に進出しない。また盛京省に屯駐する清国軍隊は、前記の折れ線から距る事、日本里10里[清国里数八十里]を越えて日本軍に接近しない。
 4 海上に於ける兵員軍需など又、戦時禁制品の運送は戦時同様捕獲されるものとする。
 5 両国政府は本条約調印後第 日から休戦を実行する。両国政府は敏速の方法で各軍隊司令長官に休戦の命令を発するべし。
 6 本定約は明治28年4月16日に終了する。もし期間内に講和談判が不調に終わった時は、本条約は同時に終了するものとする。

 しかし清側は「水陸各軍すべての休戦」として、台湾などの除外を設けないこと等を要請し、その他地名の間違いなどを指摘(笑)

 29日陸奥は、どうでも台湾澎湖列島は除くとして、それ以外の諸点を再修正。
 で結局は、台湾除外などの字を記せずに、「奉天省、直隷省、山東省地方に在て」と、表現を変更するなどして30日に合意。両国全権は以下の定約に直ちに調印した。

(「日清講和条約締結一件/休戦定約」の「分割2」p74)

 大日本国皇帝陛下は、今回の不慮の変事の為め講和談判の進行を妨碍せしを以て、茲に一時休戦を承諾すべきことを、其の全権弁理大臣に命ぜられたり。因て大日本国皇帝陛下の全権弁理大臣内閣総理大臣従二位勲一等伯爵伊藤博文、全権弁理大臣外務大臣従二位勲一等子爵陸奥宗光、及大清国皇帝陛下の欽差頭等全権大臣太子太伝文華殿大学士北洋大臣直隷総督一等粛毅伯李鴻章は、左の休戦定約を締結せり。

   第一条
 日清両帝国政府は、奉天省、直隷省、山東省地方に在て下に記する所の條項に従い、両国海陸軍の休戦を約す。

   第二條
 本定約の効力に依て休戦すべき軍隊は、実際交戦を停止するときに当りて各其の駐屯する所の場所を保持するの権利を有すべし。但し本定約の期限内は、如何なる場合たりとも前記の場所以外に進出することなかるべきものとす。

   第三條
 日清両帝国政府は、本定約の存する間は攻守の孰れを問わず、各其の滞陣の方面に於て進撃の備を加え或は援兵を派し其の他一切戦闘力を増加せざるべきことを約す。然れども、現に戦地に於て戦闘に従事すべき軍隊を増加するの目的にあらざる以上は、両帝国政府に於て新たに兵員を配置運送することを妨げざるものとす。

   第四條
 海上に於ける兵員軍需及其の他一切戦時禁制品の運送は、戦時常規に依り捕獲せらるゝことあるべきものとす。

   第五條
 日清両帝国政府は、本條約調印の日より二十一日間を限り休戦を実行するものとす。尤、両国軍隊の駐屯する場所にして電信の通ぜざる所へは、敏速の方法を以て休戦の命令を発すべし。而して両国軍隊司令官にて右命令を受けたるときは、相互の其の趣を通知し休戦の措置を為すべきものとす。

   第六條
 本定約は別に互に通知を要せず。明治二十八年四月二十日即光緒二十一年三月二十六日の正午に於て終了すべし。而して若右期限内に於て講和談判不調なるときは本定約は同時に終了するものとす。

 右証拠として日清両帝国全権大臣は茲に記名調印するものなり。

 明治二十八年三月三十日即光緒二十一年三月五日、下ノ関に於て作る。

 大日本帝国全権辨理大臣総理大臣従二位勲一等伯爵伊藤博文
 大日本帝国全権辨理大臣外務大臣従二位勲一等子爵陸奥宗光
 大清帝国欽差頭等全権大臣太子大伝文華殿大学士北洋大臣直隷総督一等肅毅伯李鴻章

 で、諸外国政府と各国新聞は日本の寛大処置に満足と感激を表明と。

 感想。李鴻章の肩書き長すぎ(笑) しかし、中国人が書いた楷書文字は実に美しい(笑)

 

講和の駆け引き

 さて、日本政府が作成した講和条約案は以下のものであった。

(「日清講和条約締結一件/講和条約 第一巻」の「分割1」p4、()は筆者)

   講和条約 (案)

大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下は、両国及其の臣民に平和の幸福を回復し、且将来紛議の端を除くことを欲し、媾和條約を訂結する爲めに、大日本国皇帝陛下は・・・・・・・を大清国皇帝陛下は・・・・・・を各其の全権大臣に任命せり。因て各全権大臣は互に其の委任状を示し其の良好妥当なるを認め、以て左の諸条款を協議決定せり。

   第一条
 清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因て右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すべし。

   第二条
 清国は、左記の土地の主権並に該地方に在る堡塁、兵器製造所、及官有物を永遠日本国に割与す。

一、左の結界内に在る盛京省南部の地。

 鴨緑江口より該江を溯り三叉子に至り三叉子より北の方楡樹底下に亘りて直線を画し、楡樹底下より正西に向て直線を画して遼河に達し、右直線と遼河との交会点より該河流に沿って下り、北緯四十一度の線に達し、遼河上北緯四十一度の点より同緯度に沿って東経百二十二度の線に達し、北緯四十一度、東経百二十二度の点より同経度に従って遼東湾の北岸に至る。
 遼東湾東岸及黄海北岸に在て盛京省に属する諸島嶼。

二、台湾全島及其の付属諸島嶼。

三、澎湖列島即東経百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度の間に在る諸島嶼。

   第三条
 前条に掲載し付属地図に示す所の経界線は、本約批准交換後直ちに日清両国より各二名以上の境界共同劃定委員を任命し、実地に就て確定する所あるべきものとす。而して若本約に掲記する所の境界にして地形上又は施政上の点に付完全ならざるに於ては、該境界劃定委員は之を更正することに任すべし。

 該境界劃定委員は成るべく速に其の任務に従事し、其の任命後一個年以内に之を終了すべし。
 但し該境界劃定委員に於て更定する所あるに当て、其の更定したる所に対し日清両国政府に於て可認する迄は、本約に掲記する所の経界線を維持すべし。

   第四条
 清国は軍費賠償金として庫平銀三億両を日本国へ支払うべきことを約す。右金額は五回に分ち、第一回には一億両、残り四回は各五千万両を支払うべし。而して第一回の払込は本約批准交換後六個月以内に於てすべく、残り四回の払込は各其の前回の払込むべき期日と同時、若は其前に於てすべし。又第一回払込の期日より以後、未だ払込を了らざる額に対しては毎年百分の五の利子を支払うべきものとす。

   第五条
 日本国へ割与せられたる地方の住民にして右割与せられたる地方の外に住居せんと欲する者は、自由に其の所有地を売却して退去することを得べし。其の為め本約批准交換の日より二個年間を猶予すべし。但し右年限の満ちたるときは、未だ該地方を去らざる住民を日本国の都合に因り日本国臣民と視為すことあるべし。

   第六条
 日清両国間の一切の条約は交戦の為め消滅したれば、清国は本約批准交換の後、速に全権委員を任命し、日本国全権委員と通商航海条約及陸路交通貿易に関する約定を締結すべきことを約す。而して現に清国と欧州各国との間に存在する諸条約章程を以て該日清両国間諸条約の基礎となすべし。又本約批准交換の日より該諸条約の実施に至る迄は清国は日本国政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民に対し、総て最恵国待遇を与うべし。清国は右の外、左の讓与を為し、而して該讓与は本約調印の日より六個月の後有效のものとす。

 第一、清国に於て現に各外国に向て開き居る所の各市港の外に日本国臣民の商業住居工業及製造業の為めに左の市港を開くべし。但し現に清国の開市場開港場に行わゝる所と同一の条件に於て同一の特典及便益を享有すべきものとす。

一、北京
二、湖北省荊州府沙市
三、湖南省長沙府湘潭県
四、四川省重慶府
五、廣西省梧州府
六、江蘇省蘇州府
七、浙江省杭州府

 日本国政府は以上列記する所の市港中何れの処にも領事官を置くの権利あるものとす。

 第二、旅客及貨物運送の為め日本国汽船の航路を左記の場所に迄拡張すべし。

一、揚子江上流、湖北省宜昌より四川省重慶に至る。
二、揚子江より洞庭湖に入り、湘江を遡て湘潭に至る。
三、西江の下流廣東より梧州に至る。
四、上海より呉淞江及運河に入り蘇州杭州に至る。

 日清両国に於て新章程を妥定する迄は前記航路に関し適用し得べき限は、外国船舶清国内地水路航行に関する現行章程を施行すべし。

 第三、日本国臣民が清国へ輸入する総ての貨品にして其輸入者又は貨主の都合に依り輸入の際、又は其の後にて該貨品原価百分の二の抵代税を納めたる上は、清国各地方に於て政府官吏、公吏、一私人、会社、若は何等施設の名義を以てするか、又は其の利益の為めに課せらるゝ一切の税金、賦課金、取立金は、其の性質並に名義の如何に拘わらず、総て免除せらるべきものとす。
 日本国臣民が清国に於て購買したる清国貨品及生産物にして、輸出の為めなることを言明したる上は、総て抵代税をも納むることなく、前記の場合と同様に一切の税金、賦課金、取立金を免除せらるべし。而して斯る免除は右言明を為せし時より実際輸出の時迄有效なるものとす。又清国の内地消費に供すべき清国貨品及生産物を日本国船舶にて清国開港間に運送するには、一たび現行沿海貿易税を納めたる上は、前記の場合と同様右運送中輸出入税は勿論、其の他一切の税金を免除せらるべし。但し此の規定は輸入阿片の課税に関し、其の時現に行わるゝ所の取極めに何等影響を及ぼすことなし。

 第四、日本国臣民が清国内地に於て貨品及生産物を購買し、又は其の輸入したる商品を清国内地へ運送するには、右購買品又は運送品を倉入する為め、何等の税金取立金をも納むることなく、又清国官吏の干渉を受くることなく、一時倉庫を借入るゝ権利を有すべし。

 第五、日本国臣民が清国に於て納むる諸税及手数料は庫平銀を以てすべし。而して右諸税及手数料は日本国本位銀貨を以て其のたい表価格に因りて納金することを得べし。

 第六、日本国臣民は清国に於て自由に各種の製造業に従事することを得べく、又所定の輸入税を払うのみにて自由に各種の器械類を清国へ輸入することを得べし。
 清国に於ける日本国臣民の製造に係る一切の貨品は各種の内国運送税、内地税、賦課金、取立金に関し、又清国内地に於ける倉入上の便益に関し、日本国臣民が清国へ輸入したる商品と同一の取扱を受け、且同一の特典免除を享有すべきものとす。

 第七、清国は速に専門家の説を採用し退潮の時たりとも少くも二十呎丈の差支なき通路を絶えず維持する様、黄浦河口に在る呉淞浅瀬を取除くことに着手することを約す。
 此等の讓与に関し更に章程を規定することを要する場合には、之を本条に規定する所の通商航海条約中に具載すべきものとす。

   第七条
 現に清国版図内に在る日本国軍隊の撤回は、本約批准交換後、三個月内に於てすべし。但し次条に載する所の規定に従うべきものとす。

   第八条
 清国は本約の規定を誠実に施行すべき担保として、日本国軍隊が左記の各地を一時占領することを承諾す。
  盛京省奉天府
  山東省威海衛
 日本国は、本約に規定したる軍費賠償金の第一第二の二回払込を了りたるときに於て、其の軍隊を奉天府より撤回すべく、又該賠償金の最終回の払込を了りたるときに於て、其の軍隊を威海衛より撤回すべし。然れども通商航海条約の批准交換を了りたる後に非ざれば、軍隊の撤回を行わざるものと承知すべし。
 右一時占領に関する諸費用は清国に於て之を支弁すべし。

   第九条
 本約批准交換の上は直ちに其の時現に有る所の俘虜を還付すべし。而して清国は日本国より斯く還付せられたる所の俘虜を虐待、若は処刑せざるべきことを約す。
 日本国臣民にして軍事上の間諜若は犯罪者と認められたる者は、清国に於て直ちに解放すべきことを約し、清国は又交戦中日本国軍隊と種々の関係を有したる清国臣民に対し如何なる処刑をも為さず、又之を為さしめざることを約す。

   第十条
 本約批准交換の日より攻戦を止息すべし。

   第十一条
 本約は大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下に於て批准せらるべく、而して右批准は明治二十八年 月 日即光緒 年 月 日に交換せらるべし。

 右証拠として両帝国全権大臣は茲に記名調印するものなり。
 明治二十八年 月 日即光緒 年 月 日 下ノ関に於て二通を作る。

 さて、これらに先立ち、休戦定約前の3月20日には陸軍大将小松彰仁親王が「征清大総督」に任じられ、近日に征清の大軍を率いて清国直隷省に進み、清国主力軍と決戦する方針が決定しており、まず旅順港に出征する時機は休戦定約の期日が終了した頃になると予想され、その準備が粛々と進められていた。
 無論、李鴻章はそのことを知っており、李にとって実に寒心に堪えざる講和締結への圧力であった。しかしそれぐらいであっさりと折れる李鴻章ではない。

 まず、4月1日に伊藤全権から講和条約案を提示された李鴻章は直ちに北京政府にその全文を電信。もちろんそれによって北京政府が条約案を在北京外国公使に洩らし、以って諸外国政府の同情と干渉を惹き起そうと謀ることは必至であった。
 その事を予想して、日本政府は自ら英米露仏独の5国の公使に条約案を内示。

 その後、案の定北京政府は、各国公使にその一部を洩らし、しかし通商に関する件は秘していることが判明。
 また、英国通信では賠償額は4億両であると報道。これは北京政府がわざと誤情報を流したのかまでは分らない。
 また、日本政府の内示を受けて、中でも露国公使は割譲に関して不快の顔色を見せたと。
 以上が4月4日までの状況である。

 4月5日、伍廷芳が来て条約案に対する要望書を提出。
 例えば割譲に関しては、「列代に亘って数千年相伝してきた土地を割譲すれば臣も民も恨みを抱いて報復するだろう」と。
 でも清が中国全土を治めてまだ300年も経ってないし、それにあんたら元々北方の満州族じゃん、と(笑)

 で、兵費賠償については、さすがは金銭に細かい中国人である。ここらへんは朝鮮人とは全然違う。外国の借金、利息、また海関税収の金額など、一々細かに並べて支払い能力などを諄々と説明し、「3億両は無理アル」ということを数字を以って説得するさまはさすがと言う外はない。で、後に日本政府は2億両に減額(笑)

 さて、李鴻章負傷のために講和談判が遅滞するのを懸念し、日本政府は4月1日に在東京米国公使を経て北京政府に対し参議の李経方を全権委員に任命するよう申し込んでいた。北京政府が李経方を全権大臣に任命した旨を通知したのが4月7日(「李鴻章全権委員ニ就任 B06150070500」よりだけど、表題あまりにヒドス)

 で、明治天皇は「李経方って何もの?」とお尋ねに。
 陸奥外務は「李経方は李鴻章の養子にして、曾て在英清国公使館一等書記官となり、帰国の後、在日本特命全権公使となりて東京に駐箚せり」と回答。 尤も、李鴻章もすっかり回復して談判開始可能の状態とはなっていた。

 4月10日、伊藤全権は清国側の要望に対して、賠償2億両に減額したものを含む修正案を提示し、更に11日には、10日から4日間期限の最終案であることを宣言。(「日清講和条約締結一件/講和条約 第一巻」の「分割2」p52)
 翌12日、李鴻章は尚も更なる賠償額の減額や割譲の再考を求める要望書を返して粘りを見せる。しかし実のところ、講和談判が決裂すれば即ち休戦定約はその場で破棄されるから、李鴻章も内心は気が気ではなかった。
 李鴻章が4月13日午後6時付け北京政府宛てに電報を発した中に次のような一文があった。

(「第六冊 第二十一編 至 二十六編/2 第二十一編 戦争及講和」p23)

 広島より已に軍兵船三十余艘を派し口を出でゝ大連湾に赴むく。小松親王等、明日隊を督して継進すべし。若し再び約款を商改する為め故意に遅延せば、即ち休戦款内に照し和議決裂し、此約は弁法を中止するとの趣なり。是れ其の愈々逼り愈々緊しく、再び商す可き無し。応さに伊藤が前に改訂せし所の条款に照し、約を定め大局を誤まるを免がるべきか、乞う。速かに旨を請い、遵弁せしめられよ。

  この日、小松親王大総督麾下、多数の出征軍が運送船に乗り込み、まさに李鴻章の旅館である引接寺下の下関海峡を通過して行った。李鴻章も焦るはずである。

 で、4月15日正午、北京総署王大臣から返電。(「同上」p24)
 「如し竟に商改す可き無くば、即ち前旨に遵がい之と約を定めよ。此を欽しむ」
と終に条約締結を指示。

 もちろんそれらの電信は暗号なのだが、日本側はあっさり解読して手の内を予め承知していたようだ。
 それを知らない李鴻章は、この日午後2時半から彼のために新たに設けた宿近くの談判会場春帆楼での両全権第5回目の会議に於て、尚も5千万円減額せよだの、せめて2千万円減額せよだのと粘ったが、伊藤全権は頑としてはねのけた。(同上)

 

日清両国講和条約調印

 終に4月17日、両国全権が記名調印した講和条約は以下のものであった。

(「御署名原本・明治二十八年・条約五月十日・日清両国媾和条約及別約」より、()は筆者)

 朕、明治二十八年四月十七日、下ノ関に於て朕が全権弁理大臣と清国全権大臣の記名調印したる媾和条約及別約を批准し、茲に之を公布せしむ。
 睦仁 (御璽)

  明治二十八年五月十日
     内閣総理大臣伯爵伊藤博文
     外務大臣子爵陸奥宗光

 大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下は両国及其の臣民に平和の幸福を回復し、且将来紛議の端を除くことを欲し、媾和条約を訂結する為めに、大日本国皇帝陛下は内閣総理大臣従二位勲一等伯爵伊藤博文、外務大臣従二位勲一等子爵陸奥宗光を、大清国皇帝陛下は太子太伝文華殿大学士北洋大臣直隷総督一等粛毅伯李鴻章、二品頂戴前出使大臣李経方を各其の全権大臣に任命せり。因て各全権大臣は、互に其の委任状を示し其の良好妥当なるを認め、以て左の諸条款を協議決定せり。


   第一条
 清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因て右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すべし。

   第二条
 清国は、左記の土地の主権並に該地方に在る城塁、兵器製造所、及官有物を永遠日本(国)に割与す。

一 左の結界内に在る奉天省南部の地。

 鴨緑江口より該江を溯り安平河口に至り該河口より鳳凰城、海城、営口に亘り、遼河口に至る折線以南の地、併せて前記の各城市を包含す。而して遼河を以て界とする処は該河の中央を以て経界とすることと知るべし。
 遼東湾東岸及黄海北岸に在て奉天省に属する諸島嶼。

二 台湾全島及其の付属諸島嶼。

三 澎湖列島即英国「グリーンウィッチ」東経百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度の間に在る諸島嶼。

   第三条
 前条に掲載し付属地図に示す所の経界線は、本約批准交換後直ちに日清両国より各二名以上の境界共同劃定委員を任命し、実地に就て確定する所あるべきものとす。而して若本約に掲記する所の境界にして地形上又は施政上の点に付完全ならざるに於ては、該境界劃定委員は之を更正することに任すべし。

 該境界劃定委員は成るべく速に其の任務に従事し、其の任命後一箇年以内に之を終了すべし。
 但し該境界劃定委員に於て更定する所あるに当りて、其の更定したる所に対し日清両国政府に於て可認する迄は、本約に掲記する所の経界線を維持すべし。

   第四条
 清国は軍費賠償金として庫平銀弐億両を日本国へ支払うべきことを約す。右金額は都合八回に分ち、初回及次回には毎回五千万両を支払うべし。而して初回の払込は本約批准交換後六箇月以内に、次回の払込は本約批准交換後十二箇月以内に於てすべし。殘りの金額は六箇年賦に分ち、其の第一次は本約批准交換後二箇年以内に、其の第二次は本約批准交換後三箇年以内に、其の第三次は本約批准交換後四箇年以内に、其の第四次は本約批准交換後五箇年以内に、其の第五次は本約批准交換後六箇年以内に、其の第六次は本約批准交換後七箇年以内に支払うべしる又初回払込の期日より以後、未だ払込を了らざる額に対しては毎年百分の五の利子を支払うべきものとす。但し清国は何時たりとも該賠償金の全額、或は其の幾分を前以て一時に支払うことを得べし。如し本約批准交換後三箇年以内に該賠償金の総額を皆済するときは、総て利子を免除すべし。若夫迄に二箇年半、若は更に短期の利子を払込みたるものあるときは之を元金に編入すべし。

   第五条
 日本国へ割与せられたる地方の住民にして右割与せられたる地方の外に住居せんと欲する者は、自由に其の所有不動産を売却して退去することを得べし。其の為め本約批准交換の日より二個年間を猶予すべし。但し右年限の満ちたるときは、未だ該地方を去らざる住民を日本国の都合に因り日本国臣民と視為すことあるべし。
 日清両国政府は本約批准交換後直ちに各一名以上の委員を台湾省へ派遣し、該省の受渡を爲すべし。而して本約批准交換後二箇月以内に右受渡を完了すべし。

   第六条
 日清両国間の一切の条約は交戦の為め消滅したれば、清国は本約批准交換の後、速に全権委員を任命し、日本国全権委員と通商航海条約及陸路交通貿易に関する約定を締結すべきことを約す。而して現に清国と欧州各国との間に存在する諸条約章程を以て該日清両国間諸条約の基礎となすべし。又本約批准交換の日より該諸条約の実施に至る迄は清国は日本国政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民に対し、総て最恵国待遇を与うべし。
 清国は右の外、左の讓与を為し、而して該讓与は本約調印の日より六個月の後有效のものとす。

 第一 清国に於て現に各外国に向て開き居る所の各市港の外に日本国臣民の商業住居工業及製造業の為めに左の市港を開くべし。但し現に清国の開市場開港場に行わるる所と同一の条件に於て同一の特典及便益を享有すべきものとす。

  一 湖北省荊州府沙市
  二 四川省重慶府
  三 江蘇省蘇州府
  四 浙江省杭州府

 日本国政府は以上列記する所の市港中何れの処にも領事官を置くの権利あるものとす。

 第二 旅客及貨物運送の為め日本国汽船の航路を左記の場所に迄拡張すべし。

  一 揚子江上流、湖北省宜昌より四川省重慶に至る。
  二 上海より呉淞江及運河に入り蘇州杭州に至る。

 日清両国に於て新章程を妥定する迄は前記航路に関し適用し得べき限は、外国船舶清国内地水路航行に関する現行章程を施行すべし。

 第三 日本国臣民が清国内地に於て貨品及生産物を購買し又は其の輸入したる商品を清国内地へ運送するには、右購買品又は運送品を倉入する為め、何等の税金取立金をも納むることなく一時倉庫を借入るるの権利を有すべし。

 第四 日本国臣民は清国各開市場開港場に於て、自由に各種の製造業に従事することを得べく、又所定の輸入税を払うのみにて自由に各種の器械類を清国へ輸入することを得べし。

 清国に於ける日本国臣民の製造に係る一切の貨品は、各種の内国運送税、内地賦課金取立金に関し、又清国内地に於ける倉入上の便益に関し、日本国臣民が清国へ輸入したる商品と同一の取扱を受け、且同一の特典免除を享有すべきものとす。

 此等の讓与に関し、更に章程を規定することを要する場合には、之を本条に規定する所の通商航海条約中に具載すべきものとす。

   第七条
 現に清国版図内に在る日本国軍隊の撤回は本約批准交換後三箇月内に於てすべし。但し次条に載する所の規定に從うべきものとす。

   第八条
 清国は本約の規定を誠実に施行すべき担保として、日本国軍隊の一時山東省威海衛を占領することを承諾す。而して本約に規定したる軍費賠償金の初回次回の払込を了り、通商航海條約の批准交換を了りたる時に当りて、清国政府にて右賠償金の残額の元利に対し、充分適当なる取極を立て、清国海関税を以て抵当と為すことを承諾するに於ては、日本国は其の軍隊を前記の場所より撤回すべし。若又之に関し充分適当なる取極立たざる場合には、該賠償金の最終回の払込を了りたる時に非ざれば撤回せざるべし。尤、通商航海条約の批准交換を了りたる後に非ざれは、軍隊の撤回を行わざるものと承知すべし。

   第九条
 本約批准交換の上は直ちに其の時現に有る所の俘虜を還付すべし。而して清国は日本国より斯く還付せられたる所の俘虜を虐待、若は処刑せざるべきことを約す。
 日本国臣民にして軍事上の間諜若は犯罪者と認められたる者は、清国に於て直ちに解放すべきことを約し、清国は又交戦中日本国軍隊と種々の関係を有したる清国臣民に対し、如何なる処刑をも為さず、又之を為さしめざることを約す。

   第十条
 本約批准交換の日より攻戦を止息すべし。

   第十一条
 本約は大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下に於て批准せらるべく、而して右批准は明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日に交換せらるべし。

 右証拠として両帝国全権大臣は茲に記名調印するものなり。
 明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日 下ノ関に於て二通を作る。

 

 大日本帝国全権辨理大臣内閣総理大臣従二位勲一等伯爵伊藤博文 印

 大日本帝国全権辨理大臣外務大臣従二位勲一等子爵陸奥宗光 印

 大清帝国欽差頭等全権大臣太子大伝文華殿大学士北洋大臣直隷総督一等肅毅伯李鴻章
                                                         印
 大清帝国欽差全権大臣二品頂戴前出使大臣李経方

 さて、この下関条約で何かと採り上げられる第1条の朝鮮独立のことであるが、「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す」もさることながら、筆者にとって次の「因て右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すべし」の方もなかなか興味深い。
 朝鮮は日本始め諸外国に対して、外見上は自主だの独立国だのと言って交際して来たのであるが、清国属国たる証としての「貢献典礼」などある限り清国とは主属の関係にあったと言えよう。だからこそ井上馨は清朝両国使節の接待儀式や貢物まで調べ上げたのである。
 「貢献典礼」なんぞ単なる儀式だよ、なんて言う人があるが、その礼と義こそが朝鮮の国体であり、それに基づいて中華の属藩であることを堅持していたのであり、つまりは中華秩序に従っていたのが朝鮮という国の実の姿であったとネ。

 で、朝鮮国王は、条約で独立自主を認明したことについて天皇陛下に感謝の意を表したい旨を照会。後にはその為めの大使を派遣して謝礼の国王親書をもたらすことを表明と。
(「日清媾和条約中首トシテ朝鮮ノ独立自主ヲ認明セラレタル義ニ関シ同国大君主陛下ヨリ感謝ノ意ヲ伝奏セラレ度旨同国外部大臣ヨリ照会ノ件」、「朝鮮国大使正二品李載純来朝ニ関スル件」)

 

大院君孫、李呵Oの捕縛

 で、この後、条約批准、三国干渉となっていくのだが、ここらで朝鮮の動向に戻ろう。

 さて、内閣総辞職をするだのしないだのと大揉めに揉めていた朝鮮政府だが、井上公使の説得により一旦は治まった2月末頃、前年10月に法務協弁金鶴羽を暗殺した犯人が捕縛され、その首謀者を追求する動きとなっていった。

(「明治23年1月27日から明治28年5月23日」p48)

電受第二一五号 明治二十八年二月廿六日午後三時五分京城発  廿六日午后四時十五分発釜山  廿七日午后五時五十分着

先刻電報に及びたる金鶴羽暗殺事件に関する真の教唆者は大院君邸内に潜み居れり。且つ同人は東学党にも関係あるに付、是非とも之を捕縛せざるを得ず。然るに同邸に潜み居る者を捕縛することは頗る困難に付、時機に依ては非常手段を採らざるを得ざる場合に立ち至るやも計り難し。依て此段前以て御承知ありたし。
       京城  井上公使
  陸奥外務大臣

 その後、非常手段を執ったかどうか分からないが捕縛して取り調べる。もちろん朝鮮政府が。

(「明治23年1月27日から明治28年5月23日」p47より、()は筆者)

二一四  明治廿八年二月廿七、午前五時四十五分

前略
 金鶴羽より暗殺の事件は兼て大院君の教唆に出たる事と思量したりしも、此程同シュグウ及下手人等追々捕縛に付たるに付取調たる処、事実漸くメイリヨイニニリ(「明瞭になり」か)、且つ果して大院君に関係ある証拠も上りたり。依て此上厳しく調べ上げ、今一層大院君をケンソクスネムキ(「検束すべき」か)見込なり。尚お該暗殺ツン(「犯」か)らは東学党扇動にも関係の疑い有るに付、併せて取調べき見込なり。
     京城  井上公使
  陸奥外務大臣

原書は朝鮮政府へ貸付金并公使館の件にあり。

 さあ大変ですよ。金鶴羽暗殺のみならず東学党扇動にも関係した人物が掴まっちまったと。しかも大院君と李呵Oが関与していることが明らかになったと。
 でも、これは両者が既に井上馨との対談で半ば認めていることであって・・・・。
 しかし朝鮮政府としては、実行犯逮捕ということになり、また政府要人暗殺のみならず反乱扇動という重罪も明確となったのであるから、たとえ大院君たりとも容赦はならぬ、・・・・・という訳にもいかず、終に4月に孫の李呵Oを拘禁して裁判にかけることになった。

 以下、それらについての井上の報告。

(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/28 1895〔明治28〕年4月8日から明治28年6月15日」p23より、()は筆者)

内閣通知
機密発第四八号    機密受第三九五号

  大院君、李呵Oの隠謀に関する顛末

 大院君の孫、宋正卿李呵O氏が去月(明治28年4月)十八日の夜突然、法務衙門権設裁判所に拘引せられたる一事は大に世間の耳目を惹に至れり。

 抑客年(明治27年)来、大院君、李呵Oの隠謀計画ありしことは、多少当国人の間に風説有之も充分の証拠無之為め其筋に於ても沈黙に付し来りたるに、偶本年陰暦一月下旬、゙龍承なる者、内法二大臣を暗殺せんと企つりとの嫌疑に坐し、一たび警務庁の手に囚われたる以来、是に牽連せる高宗柱、金国善、韓祈錫、田東錫等、諸犯続々縛に就けり。此等の者は謀士として大院君、李呵Oに信用せられ、始終其門に出入し密議を凝らしたるものなり。
 今其計画の大略を聴くに如左。

第一 密使を平壌に派し、清兵の大挙南下を促すこと。

第二 東学徒を扇動して京城に引入る事。

第三 以上第一第二の手段に拠って日兵を挟撃し、之を境外に逐斥する事。

第四 開化党の重なる人物、即金宏集、金鶴羽、金嘉鎮、安駉壽、趙義淵、金宗漢、兪吉濬、李允用等を暗殺する事。

第五 国王、王妃、世子を廃し、李呵Oをして王位に即かしむる事。

第六 事変に与り功労ある者并に某々を用いて新政府を組織する事。

 以上、第一の計画は現に実行せられたるの形跡■れり。其密使として平壌に赴きたるは、金宗源、李容鎬、林仁(璡)珠、鄭寅九(徳)、金炯穆等是なり。是等の徒は高宗陰暦七月十六日(陽暦8月16日)、龍山より船を儀し水路延安に出て同七月廿一日(陽暦8月21日)平壌に入り、監司に密書を交付し、李容鎬の如きは現に清将衛汝貴に面議する所ありたりしと云う。然れども清兵一たび平壌に大敗せしより、是等の計略は全く画餅に帰し、少しく李呵O等の一味をして阻喪せしめたるもの(の)如し。

 第二の計画は、陰暦八月下旬[陽暦9月下旬]頃より漸次せられたるものゝ如し。当時全羅、慶尚の東徒、稍再燃の気を呈せり。於是李徤永、朴東鎮、朴世綱等に東学徒征討の名を授け、表面東学徒鎮撫を粧い、其実密書を齎して窃に其扇動に従事せしめたり。其密書なるものは如左。

 即遣三南召募使○○○密示。爾等自先王祖化中遺民。不忘先王之恩徳。而至今尚存。在朝者尽付彼。裏内無一人相議。煢々独坐。仰天号哭而已。方今倭冠(寇?)犯闕。禍及宗社。命在朝夕。時機到此。爾若不来。迫頭禍患。是若奈何以此教示。

 又、前校理宋廷變に密書三通を授け、忠清道の土豪名族に啚るに東学党扇動の事を以てし[次川住宋大臣の子、判事宋秉端、連山住故金大正の孫、教官金永吉、魯城住進士尹滋臣の三人に交付す]、又李容鎮を慶尚道に送り、到る処、東徒を嘯集せしむ。右五名の中、朴東鎮は忠清道に於て巨魁任箕準、徐長玉に、朴世綱は全羅道に於て巨魁全琫準、宋喜玉と相会して招集に従事せり。於是三南の東徒斉しく蜂起し、全琫準、金海南[又開男と称す]は全羅道に、崔法軒は忠清道に起り、九月上旬に及んでは其勢益猖獗の気を顕わし、到処官軍を破り、官庁を襲うて軍糧武器を奪い、民家を焼き、財貨を掠め、全州已に陥り、公州、清州も次で亦危からんとす。各路地方官の急を報ずるもの陸続絶えず。

 此時政府は日本兵の力を借り討剿すべしと決し大君主の裁可を乞うに及んで、大院君、李呵O等力を極めて之を抗拒して曰く。
 「東徒と雖ども固と均しく是れ本国の蒼生なり。今逆順、主義を誤まること如此。宜しく之を諭解するに道を以てせば、彼必ず王化の良民たらざるはなし、と固く執って動かず。政府の議、屡々其征討を促するに及んで始めて大院君は自身の名に於て一編の説諭文を三南の東徒に下し、政府に向って表面には其諭解を担保しながら、裏面には之に反して依然教唆したる形跡ありたりと云う。

 陰暦九月上旬(陽暦10月上旬)頃、東学徒の関係より警務庁に捕われたる許Y、李秉輝の二人は、大院君、李呵Oの隠謀に与り知りたるの廉を以て、端なくも隠謀破綻の原因とは成れり。
 大院君は警務庁の此挙に出でたるを深く怨み、■を宮内守衛巡検の礼式旧法に戻りたるに借り、巡検を厳罰に処し、次で警務庁李允用の官職を褫奪し、国父の威権を振うて政府を凌ぎ、之れをして緘黙せしめ、飽迄隠謀の跡を曖昧に帰せんと試みたり。

 而して開化党暗殺の事は高宗柱、金国善等に担当せしめ、彼等は沈遠采と云う者が兼て集め置きたる壮士剣豪を使嗾し、其第一着手として刺客崔亨植、崔亨順、張徳[鉉]、金漢英、李永握、李洵益、高陂弘、徐丙奎等は十月三十日の夜、法務協弁金鶴羽を磚洞の私邸に襲い之れを殪し、尚お進んで他に及さんとせしも、当時警務庁の議察[厳]密として容易に手を下す能ざりしと、又一は本官着任後、大院君、李呵Oが東徒と貫連して何等に密計ありとの事を聞込たる折柄、恰も好し、我第一軍が平壌の際、発見したる国王、大院君父子が平安監司に送り、清将に内通したる書翰の手に入るありて、此二件は極めて同君を詰責するの好材料とはなりたり。
 其当時本官の論旨したる要領は、日朝両国は已に同盟定約を結び、清国に対しては均しく交戦国の地位に立、然るにも拘わらず是と暗に結託して日本に敵せんとするは不徳義なり、定約違反なり。又、東徒は自国の兵力を以て鎮撫すること能わざるに坐し、政府が公文を発し我兵力を借りて剿討に従事せる際、却て之を教唆するが如きは、表衷反覆不当の挙動と云わざるを得ず云々。
 大院君、李呵Oは深く慙愧する所ありて、為之屡々当館に就き其不始末を謝したるなり。是より以後は只管時機の到るを待つの外、唯一部の準備を為すのみにて、姑く其挙動の期を緩したるものゝ如し。

 以上一切の事実は連累者の供述に拠り次第に発覚せしかば、斯る上は当国政府は勢、之を不問に措く能わざるに至れり。

 従来の慣例に拠るときは、此等隠謀者ありて事一々発覚したる場合には、義禁府に罪人を拘禁し、原任大臣は勿論、■■堂上一同列席の上、処置を為し、然る後死罰を宣告するの例なりしも、義禁府は昨年事変後、之を廃したるを以て法務衙門に於て其審理を為さゞるを得ず。而して未だ裁判所構成法等の領布前にあっては此等王族に対する犯罪を処断するの途なきを以て、法務衙門は新構成法内に臨時法院なるものを措き、之れをして先の王族に関する犯罪を裁判せしむるの法を設け、陰暦四月一日より其実施を行わんとせり。
 然るに大院君、李呵Oの一派は[■々]警務庁の獄事を泄れ聞き、事の已に干連せんことを恐れ、切に日本に赴任したし、とて総理大臣、外務大臣へも厳重に迫り、遽に行李を治め、船便を俟つの姿なりし。
 然るに当国政府は本件の露顕したる以来は是に対すること頗ぶる冷淡にして、船便の予定し難き事、公使館焼失後建物并に器具の準備なき事等の辞柄を設けて容易に其赴任に同意せず、窃に之れが処分方法を熟議せり。
 蓋し当国の慣例として、何人と雖ども若し王位を覬■(覬覦)するものありて発覚したるときは、君臣の分として其罪状を極論し、百官挙って厳律に処せんことを奏請し、縦え君主にして躇躊するにせよ、臣僚は迫って之れを決行せしむる例なりしが、今李呵O氏の事も亦た之れと同様の手続を履むべき筈なれども、当国政府は庶政改革の際の事とて、可成酷刑を避けしめんとの趣より、本官は屡々其極刑を加ゆる事の不可なるを勧告し、特に特別法院の手に移し正当の法に処し、世間一般の批評を受けしめざらんことを務めたり。

 此に李呵O氏逃避策として運動したる日本行も兎角捗々しく行われざるのみならず、内々大獄を準備あることを探知したるものと相見え、陰暦三月廿二日(陽暦4月16日)、全権公使を辞[此間朴内務大臣より内々辞職を勧告したりとの事あり]せしが、程なく同氏は秘密に外国行を企つゝある趣き其筋の聞知する所なりて、弥々時日を遷延すべからずと認められ、未だ裁判所構成法発布前と雖ども、法務は之に着手するの必要を感じたれば、陰暦三月廿五日(陽暦4月19日)、総理大臣、法務大臣は左の如く奏請して特に李、宗正郷、拘禁の裁可を得たり。

 「法務衙門罪人゙龍承、高宗柱等の招辞を見るときは、則情節陰慝にして関係厳重なり。是れ晷刻を容るべからず。厳覈を加え情を得んとす。宗正郷、李呵Oの各囚供中に出つ査質を行うべきものとす。仍ち法務衙門に拿来し、特別法院を設け審問せば如何旨を奉じて依之」

 右に拠り警務庁に於て同廿六日(陽暦4月20日)の未明、警務官李圭完に巡検を帯同せしめ、李呵O氏の邸に就き、令状を示し、権設裁判所に引渡し拘禁せり。之れを聴て大院君は大に驚き直ぐに輿を命じ尾跡して裁判所に到り、憤懣の語気を発し、呵Oを放釈して帰宅せしむべしと迫り、構内に闖入せんとする勢なりしも、門衛巡検の拒絶する所となり、止むを得ず其左側なる果物会社の内に入り、同家に留宿して密に其動静を窺うものゝ如し。於是同君の長男李載冕氏[宮内大臣]并に朴内務等は其軽挙の事体に欠く所なるを諭し、強いて其帰邸を促がすも、同君は頑然固く執って帰邸を肯ぜずと云う。

 此の出来事の突然起りたるや、一時城内の民心稍疑団中にありしも、漢城新報等の記事を見るに及んで、大に其疑惑を解き、両三日後は全く平常に復せり。李氏は目下特別法院に於て裁判官、法務大臣、同協弁、参議、中杞院、議官[新官制に定むる規定に拠る]等掛官として審理中なり。

 扨又本件に関し、去月廿日、当国駐箚外交官の決議に拠り、米国公使は本官に向って別紙甲号の通、李氏拘禁事件は著しく人民に感動を与えらるを以て、或は何等暴動の懸念なしとせざれば、総ての居留人保護の策を■し■くの必要あれば、使臣、会議を開て協議したしとの事を申越せしに付、本官は去る掛念無之筋とは別に信用致得き、当局当国政府の意向を確め置く方可然と存じ、別紙乙号の通り照会及ぶ処、果して当国政府の意見も本官の意見と一致し、丙号の通り回答有之間、不取敢其趣意にて米使へ回答成置■■。
 然るに本月一日、大院君は突然本官の許に別紙丁号の如き書翰を贈れり。是と同時に各国使臣にも同様書翰を送りたる由。右は全く筋違の儀に有之。本官より回答すべき限に無之儀とは■■又一己人の交誼上より察すれば自ら気毒なる感情を生じ黙止し難き場合も有之の間、一面には外務大臣に向って戊号の通、苛酷の処置無之様忠告し、一面には己号の如く其趣旨を以て短簡を大院君へ回答致居候。
右顛末及報申候也

明治廿八年五月十日
   特命全権公使伯爵井上馨
外務大臣子爵陸奥宗光殿

 裁判所に曳かれる李呵O。その溺愛する孫を追って裁判所に押しかける大院君。諸外国公使に日本公使に孫の救済を訴えてもう必死。この老国父の心中に、国家はない、民もない、血族すらない、ただあるは保身と孫可愛いの念のみ。しかしてその人間生身の赤裸な姿は、却って井上の心を揺さぶり、気の毒なる感情を黙止し難いことと。よって過酷な刑を課してはならないと、繰り返し説く井上馨なのでした〜。(はぁと)

 さて、李呵Oら一味の判決は日本暦5月13日に宣告された。その判決文「李呵O外裁判宣告書」を見ても、李呵Oの罪状は、東学党に蜂起を求め、京城襲撃を通牒し、城内を混乱に陥れ、それに乗じて部下の統衛営兵士を以て国王、王子を殺害し、また政府内の金宏集、趙義淵、金嘉鎮などを殺害し、政府を転覆して王位を簒奪する謀の一環として、金鶴羽殺害が行われた、とある。
 朝鮮に於ては極めて重々の罪である。

 当時朝鮮の法律は中国明代のもののコピーであり、朝鮮でも自国の法律のことを普通に「明律」と称していた。それによれば、たとえ王族であっても李呵Oの死刑は免れられないことであった。しかし井上馨の度々の勧告もあり、臨時に法律を作って減刑処分としたが、以下の報告を読むと、結構擦った揉んだした様子が知れる。

(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/28 1895〔明治28〕年4月8日から明治28年6月15日」p45)

廿八年六月一日接受
機密発第五五号
   李呵O処分一件

 大院君、李呵O隠謀の顛末は、前回已に及報申置処、李呵O以下諸犯は其後特別法院に於て審理の末、本月十三日を以て才判宣告済と相成り、抑本件に関しては本官は当初より当国政府が旧規に泥んで極刑を用ゆる事は全く復讐に類似し、独り国民の感情を害するのみならず、今日外国人の環視し居る処に、其外見甚だ宜からざれば、右は極めて不可なるを説き、出来得る丈、寛大に且公正ならざるべからざる趣を以て曾て大君主にも奏上し、又金総理始め当局大臣にも屡々勧告する所ありたるに、総理始め法部も大に暁りて本官の忠告を容れ、右様可致との事に略内定致居候。

 然るに当国の現行法なるものは明律にして、此法律の範囲に於て李呵Oを処分するとせば、死刑に相当し、何等酌量減刑の途なきが如し。
 因て宣告前、即本月十日に於て閣議は流刑分等、加減例及特別法院の裁判に於ては本刑に一等若くは二等を酌量減刑することを得る旨の特例を設けて勅裁を乞い、即日より之れが施行を命ぜり。[其勅令訳文は別紙の通り]

 右之如く李呵O以下の処分をして従来の処刑を避くるの準備を了し、本月十一日内閣会議を開きたるに、諸大臣の間に[朴内部に数回出席を求めたるも殊更に病気と称し終に出席さぜりしと云う]は先ず特別法院の判決に於て一等を減じ、流終身に処し、尚お陛下の特赦に■て一等若くは二等を減じたしとの議論多数なるにも拘わらず、徐法部は突然異論を提出して不同意を唱え、李呵Oを処するには旧慣に拠り極刑を用ゆべしと主張するに至れり[徐法務は会議の前日迄は減量論に同意し、現に減刑の判決案迄も整え置きたるに、同日午前朴内部と会合せし結果は、忽ち前説を翻し此提議を為すに至れるなり]。

 総理始め各大臣は、今や庶政改良の時に当って旧慣を株守して苛酷の処分を為すが如きは世間の感情を害し、王家の為め不利益なりと抗論し、結局諸大臣の議論其当を得、法部は■屈し語窮するに及んでは屡弁論を内部に譲り、内部出席の上、弁論する所あるべしと云うにあり。
 必竟当日の会議は法部独り極刑を固執し、其職権上此判決を断行すべしと■唱するの外、他の減量説を容るゝの気色無之より相当不快の感情を起し、閣議は大波瀾の中に没了せられたり。本官は今日閣議に於て又何等の異議を生ずるなきやを予期し難きを察し、杉村書記官を派して金総理に向い其極刑に出る事の不可なるを勧告し、重ねて同官を宮内府に遣し[本官は此頃病気■■の就中なれば]大略左の事を代奏せしめたり。

 今回の獄事に関しては本使が屡々奏上たる如く、貴国従来の慣例に拠り極刑に処するが如きは極めて不可なり。何となれば、日本は朝鮮の開明を望み、内政改良の事を勧告し、今や貴政府は其勧告を容れ庶政改良の緒に就きつゝあり。去れば務めて従前の陋規を矯めざるべからず。然るに此不幸なる出来事に処するに復讐的の思想を以てするが如きは、一般の悪感情を来し王室の為め策の宜しきものにあらざるなり。故に充分公平に且つ寛大の処理に出でざるべからず。特に駐在外交官等は此出来事以来耳目を側てゝ事の成行に注目しつゝあり。現に両三日前に於て俄米公使は外部大臣に面見して勧告する所ありしと聞けり。且つ過般本使に対して使臣会議を開くべしとの相談有之たるも、本使は時機尚お早しと思いしを以て其不必要なる所以を述べ、之を拒み置けり。
 就て■此獄事を適当に処分すると否とは世間の感情に関し頗る貴国の■利害ある問題なれば、本使微衷の存する所強にて、採納を望まんとするは先ず特別法院に於て一等を減じ、流終身の宣告を為さば、陛下は大権に拠り二等を特赦し、流十年に処せられたし。
 又た此特赦権は陛下にあるべきは普通一般の慣例にして、而も明律中にすら此明文を掲げあれば、敢て■例の典に有之間敷云々。

 之に就ては大君主は殊外御喜悦被相在。
 実は我国の慣例として此種の獄事は君権と雖ども如何ともする能わずして、朕も深く煩悶中なりしが、公使の勧告に拠り一条の血路を得らる心地せり。何となれば此獄事以来大院君、府大夫人[国王の生父母]憂悶悲歎の境遇は真に黙止し難く、朕も為之寝食安からざりし折柄、公使の勧告に出て減等の方法を聞く以上は大に愁眉を開けり云々、との御言葉在りし由。

 以上の奏聞及び勅答は当時国王には先王の忌辰日に相当し、斎戒の典を挙げさせらるゝ御日柄なれば、引見を許さるゝ御都合に至らず。宮内大臣を経て奏上すべき旨の御沙汰に依り、同書記官は金署理大臣の執奏に拠りたる趣■報致し、又同書記官は帰路、金総理を内閣に訪いたるに、前■の如く徐法務の異議ありて当日の会議は不調和と成りたる事を承知せし趣、是亦逐一報告有之候。

 依之、本官以為らく。右法務大臣が極刑の提議は其実、内部の使嘱に出たるものにして、[内部は又王妃の為動されたるか]先ず内部の極刑論を打破せざれば、到底法務の説を変ぜしむる事能わずと信じ、翌朝杉村書記官を朴内部の許に遣わし、随分手強く忠告を試みたり。最初の程は内部も頗る頑固に極刑説を主張し、容易に打合う気色も見えざりしが、最後に及んで李呵O丈は減刑説に同意する事に相成、其他朴準陽、李泰容の連類に至っては減刑すべき限にあらざる旨を主張せし由なれども、同書記官は、単に李呵Oの一身に就ての問題なれば、他犯の減刑と否とは姑く問う処にあらずとて相別れたる趣、帰館報告致候。

 さて右李呵O事件に関して内法両大臣に於て何故斯く極刑を主張するかと申すに、若し此等謀反者をして生存せしむるときは、終に又は■灰再燃、何時復讐を受くるやも知るべからず。果し然らば寧ろ此徒をして遺類なからしむるの方、後顧の患なくして終始安全なるべしとの臆病心に外ならざるべし。
 故に当方より強いて他犯[朴準陽外]処分をも酌減すべしと主張し深く立入らんとするときは、却て不快を感じ、事容易に落着すべきにもあらず。加之ならず当初の目的たる唯一に李呵Oの減等する事なれば、今、李呵Oの減等説にして実行せらるゝ以上は、他は先方望み通り処理するも、強いて無差支儀に付其侭放任致り。

 先是、大院君は特別法院の左側果物会社に宿泊して暗に獄事の動静を窺いつゝありたるに、本月十一日午前十時頃、俄に会社を飛出し、忽ち乗輪を命じ王室に入れり。道路、説を為すもの洶々たり。
 故に本官より人を派し密に入闕後の景況を探らしめたるに、大院君は本日李呵Oは死刑の宣告を受くべしとの風説を聞き疑懼を抱くの際、大院君宿所の周囲は巡検の警誡を増し、朝来の光景何となく物騒にして、以為らく、或は禍、身に及ぶも知るべからずと恐慌の余り、身を大君主の傍に置くの安全なるを察し、王宮に入りたるものなる事判然致候。
 大院君入宮後、引続き府大夫人や宮内大臣も入宮し、夜更頃迄宮中にありしも、恰も好し、杉村書記官を王宮に遣わし、減刑の勧告を入奏する所ありしかば、一同は李呵Oの助命と刑期十年にある事を親しく国王より聞取られ、大に安堵の思を為し、三人相携えて帰邸せられたりと云う。

 斯く本月十三日に及びては特別法院に於て李呵O始め諸犯の裁判を宣告せり。其要領は如左。被告朴準陽、李呵O、謀反罪として、高宗柱、田東錫、崔亨植は謀殺罪として、各絞罪に、同李呵O、韓祈錫、金國善は、謀反罪の処、情状を酌量し本刑に一等を減じ、流終身に、同林璡洙、許Y、金明鎬は謀反罪の処、本刑に二等を減じ、各流十五年に、高致弘、李汝益、徐丙奎、李永培、金漢英、張徳鉉、崔亨順は、謀殺罪として各流修身に、同金乃吾、李乃春、゙龍承、謀殺罪として、各流十五年に、同尹震求、鄭租源は、情状を酌量して謀殺及加切の本刑に一等を減じ、各流十年に処せられたり。

 右宣告後、翌日即本月十四日於て、李呵Oは特赦に逢うて尚お二等を減刑せられ、流十年に処せられたり。而して適所は喬相島に定めらる。

 斯くて先ず此獄事も一段落を告げたり。
 一般の感情は至極此処分を以て公明正大なりとせり。大院君は深く慚愧の念ありて近々其祖先の墓所忠清道徳山[或は始典とも云う]に下向し、閑々残年を送るべしとの希望を有し居る由に有之候。

 右始末及報告申候也
  明治廿八年五月廿三日
    特命全権公使伯爵井上馨

 外務大臣子爵陸奥宗光殿

 追って本月二十日夜、大院君俄に邸を出でられたるに付き、警務庁より警部巡査を派し南大門外に於て追付きたる処、同君は配所に於る李呵Oを深く案ぜられ、喬相島に赴かれんとしたる趣なるも、警官に引止められ、暫く同門外なる自己の別荘に居らるゝ由。

別紙
 流刑分等加減例訳文
 法律第四号
 第一条 流刑を分けて左の三等とし、其加減例も亦左の順序に依る。

一等  流終身
二等  流十五年
三等  流十年

第二条 現行刑律中、流三千里は流終身に、流二千五里は流十五年に、流二千里は流十年と定む。

 付則
此法律は領布の日より施行す。

 特別法院に関する酌量軽減法訳文
法律第五号
 特別法院は刑事裁判上所犯の情状を酌量し、何等の事件に論なく本刑に一等或は二等を軽減する事を得。此法律は領布せし日より施行す。

 まあ夫と子供が殺されたかもしれなかった王妃にしてみれば、李呵Oは死刑であってしかるべきと言うわなあ。明律であっても、遵法という観点からしても当然そうだろうし、それを政治的解決に導き、何とか合法的に減刑処分することに至らせたのは井上馨の勧告によるものであったと。

 で、「李呵O外裁判宣告書」からハングル古文を略して抜書きすると、「李呵O 朴凖陽等 隠謀 兇徒募集 尽力 被告 田東錫以下数名兇徒 得 其後 東学党 振起 無頼諸漢 多集」などとある。ま、ここでも李呵Oの工作によって東学党が振起したことが記録されていると。

 ところで、この頃、井上馨は病床にあったらしい。まあ日本人が当時の朝鮮に長期滞在して病気にならない方が不思議というものであろう。道理で井上からの報告が遅れているはずである。

 さて、「大院君は深く慚愧の念ありて近々其祖先の墓所忠清道徳山[或は始典とも云う]に下向し、閑々残年を送るべしとの希望を有し居る由に有之候」とある。
 どうしてどうしてそのような凡庸の人ではない(笑)→(「10.8 朝鮮訓練隊大院君を戴き大闕に入れり 新納海軍少佐」、「10.8 大院君王宮に入り並三浦公使王闕に入れり 楠瀬中佐」)

 

公債募集の顛末

 さて、朝鮮内政改革の資金として必要な公債500万円の件であるが、これはどうなったろうか。
 世間では「できの悪い子供ほど可愛い」と言うらしいが、井上馨の朝鮮に対する思い入れも、なにやらそれに似てきたところがあった。それがこの公債500万円募集の件である。

 井上が朝鮮国王たちに繰り返し説いてきたことは軍制度と政治経済の抜本的改革であり、ようするに朝鮮国の「富国強兵」論に他ならなかった。これは明治開化期の日朝政府交際再開時から日本政府が朝鮮政府に一貫して説き、また対韓政策としてきたものである。

 ところで、この「富国強兵」であるが、そもそも日本が富国強兵策に取り組みだしたのはペリー来航以降の幕府時代からであり、「日朝の交際歴史の補填資料」にも載せたが、慶応3年(1867)8月に、同年3月の朝鮮国礼曹参判からの八戸順叔の言に関しての問い合わせに対し、
「大君殿下は旧弊を取り除いて文武を一新し、皇国の威を張るために砲艦器械を海外に求めて富国強兵の資とするは皆知ることであって流言に由来することではない・・・」という返書にある通りであろう。
(「抑我大君殿下丕撫区域旧弊斯除百度一新文武庶員賛成謀議夙夜唯以張皇国威為目今急購其砲艦器械於海外給我冨国強兵之資者往往皆然安知非流言之所以由来」(「朝鮮国交通手続 2」p9)

 明治になって日本人が西洋を見学し、とりわけドイツ宰相ビスマルクの大国小国の論理などを聞いたからというものではない。当時の世界の空気を読めば子供でも分かる道理であって、富と力こそ繁栄を保ち身を守る手立てであるという考え方は世界の歴史に一貫していることである。そして今日に於ても、なお世界各国が「富国強兵」を実際上の政策の内容としているのは言を俟たないことであろう。
 尤も今日、軍を維持できない貧国は、外国と条約を結んで外国の軍を頼りとしており、それを何を勘違いしてか、たとえば中米には非武装平和の国があるなどと、もの申している人があったりする(笑)。
 国内は麻薬と犯罪で混乱し更にその上賄賂で動く軍隊が君臨するならこんな恐ろしいことはない、これでは軍を持たない方がましである、というろくろく兵士に給料も支払えない貧国だからこその問題であって、これが中米非武装国の実態であると言える。

 まさに当時の朝鮮国もまともな軍事力を維持することは困難であり、それで乱民を鎮圧することも出来ず、外国の軍隊を頼まねばならない「貧国弱兵」の国であった。
 明治27年12月の朝鮮軍には3ヶ月も給与が支払われていなかったが、それは軍乱を惹き起こしかねないことであった。先の明治15年の朝鮮事変(壬午事変)の時は、軍のトップである兵曹判書閔謙鎬が兵の給与を私腹に収めていたからであったが、今度のは東学党の乱、穀倉地帯の旱魃、日清の戦場ということが重なり、税収がほとんどないことに因るものであった。
 また、それら緊急を要するものとは別に、まさに富国強兵に向かわせる内政改革の資金としては莫大の金銭が必要となる。
 井上馨がそれらを日本政府に上申する建議書を安廣秘書官に携帯させて帰国させたのは12月早々であった。

 以下、アジ歴資料「韓国借款関係雑纂 第二巻 4.公債貸付金ノ件 分割1」から抜粋して見てみたい。(なお「分割1」とあるが、実際は分割されておらず「公債、貸付金ノ件」の全資料である。)

 まず、明治27年12月4日の井上による建議の書簡。これは日付を見れば分かるように「井上の大喝」で記載したが、朝鮮政府が井上提議の改革案を了承し、王妃も内政に容喙しないことを約束していたにも拘らず、王妃の口出しによって新たな廷臣の任免があったことに対して井上激怒の大喝があり、その後頑として内政改革への協力拒否の態度を通していた頃に書かれたものである。
 まあ、改めて子供のできの悪さを知って怒り心頭に発し「勘当じゃあ!」という心境にも近いものであったろうか(笑)。その内容は朝鮮に対して極めて冷酷である。

(「韓国借款関係雑纂 第二巻 4.公債貸付金ノ件 分割1」p2より、()は筆者)

(原書は「暫定合同条約の旨趣に依り鉄道電線開港条約協議の件」)

 過日通報せし如く、朝鮮内政改革に関し十一月廿日、廿一日の両日、内政改革要領二十ヶ条を奏上し、大君主より悉く採用すとの確答を得、大院君并王妃も今後は決して政治上に容喙せざることにし、大君主は不日宗廟に向い内政改革の実を挙ぐることを誓うべき筈に御察候得共、愈々実行の場合に至りて君臣一般能く改良の実を挙げ蹉跌することなきを得るや否、稍々疑を容れざる能わざる儀に候所、安廣秘書官を帰朝せしめ候間、詳細御聞■被下■候。

 韓廷今日の内情より熟察すれば、現今の有様にては到底内政改革の実を挙ぐること能わずと断定するも敢て大過なかるべし。果して然らば今日より予め将来の対韓方策を確定し置くこと必要なるべし。
 何れにしても現今の機会に乗じ、朝鮮に於ける我帝国の位置を鞏固にすること上乗の政策なりと確信す。而して軍略的関係并実利的関係に於ける我帝国の地歩を鞏固にし置くことは、韓廷に対し最終手段を取るの己を得ざる場合には最も必要なりとす。
 左に之を開陳せん。

 一 京城より釜山、京城より仁川、京城より義州に至る迄の鉄道線路を、年限を定め日本政府又は日本国民の手にて建設するの約束を結ぶ事。

一 電信線は日清講和の後と雖も年期を定め仍お日本政府にて管理するの約束を結ぶ事。

 右二ヵ条は仮条約を本条約と為し、多少の修正を要す。

一 軍艦停泊に便利なる枢要の地を借受くるの条約を締結する事。

一 古阜[若くは木浦]大同江を開港し、居留地を設けしむる事。

一 三拾万円海関税抵当にて貸与し、税関監督として日本人を聘用せしむる事。

 本項の金額は慶尚道飢饉救助の為め朝鮮政府より海関税抵当にて貸与を申し込みたるものなり。然ども海関税は別紙の通り既に抵当として他より借用したる金額弐拾四万円余あり。若し海関税の抵当権を我が一手にて独占せんとせば、此の負債を償却せしめ、我に税関の特権を処有するに必かず。此の場合には三拾万円の外、尚お弐拾四万円余を要するが故に、合計五拾四万円の総額となるなり。
 三ヶ年元金据置四ヶ年目より返却せしむ[年利壱割位]但本項元利金払済となるも、次項の負債を償却し終らざる間は仍関税を以て其の抵当に充つる事。

一 銀貨又は地金にて五百万円貸与の事。

 全羅、忠清、慶尚三道の租税を以て其の担保に充て、右元利金払済迄、三道の税務、其他地方事務の監督者として各道毎に日本人を聘用せしめ、但元利は年割を以て三道租税の内より償却し、剰余は朝鮮政府の歳入とす。

一 前項借金は抵当として三道租税の外、仍平壌の炭坑を採掘せしむる事。但し日本技師を聘用せしめ其の採掘を監督せしむ。

一 各鉱山を試験せしむる為め、日本技師三人を聘用せしむる事。

 右各項の内、韓廷に対し金銭を貸与し置くは、是、朝鮮に於ける我実利的関係を鞏固にするの手段に外ならず。是迄我国は朝鮮を助けて其の独立を鞏固にし、内政を改革すると主張するも、皆単に名を隣好の関係に借るに過ぎず。斯くては朝鮮に対する我地歩に鞏固を欠き、諸強国に対し十分の口実を有すと云べからず。
 英国が埃及(エジプト)に対し十分に干渉を為すことを得るの口実は何れにあるや他なし。英国が埃及に向い其資本を卸し、実利的関係上其地歩を占めたるの故にあらずして何ぞや。
 左れば我国も亦朝鮮に向い十分地歩を堅め、内政干渉の口実を設け置かんとせば、鉄道と云い金銭貸与と云い、此際朝鮮に対し実利的に我地歩を堅め置き、財政上の関係よりして他の関係に及ぼし干渉の口実を作為し置くこと緊要なりと信ず。

 斯くて軍略上実利上、朝鮮国に於ける我地歩を堅固にし置き、一方には韓廷を鞭撻し、内政改革に着手せしむるも、彼再三我誠実の忠告に背反し内政改革を実行する能わずと認定するときは、不得已、最終手段を取るの必要を生ずべし。則ち韓廷に向い忠告の口を閉じ、東学党征討の為め派遣したる我軍隊を引揚げ、公使館及領事館及我居留人民保護として京城に千人、仁川に六百人、釜山に四百人の兵士を駐在せしめ、袖手傍観するときは、東学党は四方より京城に闖入し、京城は乱麻の有様に陥るべし。此の場合に至らば、彼自ら膝を屈して我が助を哀求するか、否らざれば李氏も閔氏も匪徒の為めに蹂躙せられ、自滅するに至るべし。此の機に乗じ李氏の胤を擁し、朝鮮の独立を助くる為、内政の改革を画らば、其名正くして其実を挙ぐること敢て難きにあらざるべし。是本官が採らん欲する最終手段にして、韓廷が内政改革上我が忠告を拒絶したる場合に於て取るべき唯一の手段なりと確信す。

 以上、開陳せし事に就き予め廟議を確定せられんことを請う。而して本官の提案に対し可成廟議決定の迅速を冀望するは日清事件終結前総て朝鮮政府と前陳の条約を締結すること最も緊要なるの故なるは、殊更本官の弁明を要せざるべし。

 明治廿七年十二月四日
         特命全権公使伯井上馨
 外務大臣子陸奥宗光殿

 「現今の有様にては到底内政改革の実を挙ぐること能わずと断定するも敢て大過なかるべし。」と怒りを通り越してガックリしているとでも言うべき前文あって、「果してそうなら今日より予め将来の対韓政策を確定しておくことが必要であり、いずれにしろ朝鮮に於ける日本の位置を強固なものにするべきで、それは朝鮮政府に対する最終手段として止むを得ない場合に必要なことである」として、以下冷徹な政略文が続く。

 尤も、鉄道・電線・開港のことは、先の8月20日に日朝締結した「暫定合同条款」で後日条約として遵行する約束があったものである。
 しかし何れも最終手段として断固たる処置であり、とりわけ後半の、英国のエジプトに対する政策を倣うものであるとか、果ては東学党討伐も止めればやがて李氏も閔氏も自滅するだろうから、その機に乗じて李氏の胤を擁し、朝鮮の独立を助けるために内政の改革を図るなら正真正銘独立の実を挙げることができるだろう、という、まあ何とも過激な文言が続く。
 しかし井上がいかに国王夫妻の愚かさに頭にきていたか、その心情がよく分かるというものである。

 そして、この書簡を出した後、国王夫妻が大いに反省し、宗廟誓告と改革を国中に公布するに至って漸く井上の厳しいトーンも下がり始める。
 尤も、どうでも5百万円の公債を日本政府に承諾させるために、とことん日本の国家利益となる視点でそれを強調した文章であると言えなくもない。少なくとも当面必要な30万円の貸付を改めて催促したのが12月10日であった。

(「同上」p7より英文和訳)

陸奥    広島
152 [朝鮮政道改革の件略す]

 とにかく本官は、安廣に持たせた提案で述べた関税収益を抵当とした30万円の融資の問題について、できる限り早急に貴下と総理大臣の意見を知りたし。抵当としては確実である。日本銀行または正金銀行の内どちらか、もし融資する気があるならできるだけ早くそのメンバーを送ることを望む。[以下 松井赴任の件]

       井上

京城 12月10日 1894 7:35 午後
釜山 同 同 同 11:10 同
接受 同 11 同 4:30 午前

 12月10日であるから、朝鮮5大臣が「我ら朝鮮人の粛然たる誓い」という誓願書を提出し、王妃も改めて内政不関与を約束した後であり、よって井上が改革に再び希望を持ってもよかろうと思い始めた頃ではなかろうか。

 で、陸奥外務は18日に、渋沢(渋沢栄一、当時第一国立銀行頭取)が在仁川第一銀行支店長西脇長太郎を京城公使館にやって相談させようと言ったから、と。(「同上」p9)

 で、それを聞いた井上は19日に「enjoyed ♪」と悦ぶ。(「同上」p10)
 この頃は、朴泳孝の内閣入りも決定し、宗廟誓告と改革公布などの5勅令が発布された後で、井上も半ばルンルン♪状態か(笑)

 しかし先の4日の書簡、もう出すことは出しちゃったからねえ。
 それで、受け取った陸奥外務の方では「うん!こうでなければならん!」とばかりに、元から冷徹な彼は大いに合点して12月20日にその閣議案を次のように提出する(笑)

(「同上」p11)

 将来の対韓政略に関し井上特命全権公使より別紙の通り稟請し来り候処、其事項頗る重大なるを以て、本大臣は篤と之を査閲し、茲に之に対する意見を付し廟議を乞うこと左の如し。

一 中略

一 海関税抵当にて三十万円を貸与するの件は本大臣は既に第一国立銀行頭取と協議の上、同銀行より在仁川支店長を京城に派遣し井上公使と協商せしむることとなしたれば、同公使と同銀行との間に於て目下協議中なるべし思考す。

中略

一 銀貨又は地金にて五百万円を貸与するの件は、井上公使の意見の如く埃及の例に倣わんが為めの手段としては其必要なかるべし。何となれば帝国政府に於て内治干渉を為さんと欲すれば今日の情況必ずしも之を為し能わざるにあらず但干渉の結果上其利害如何を顧るのみ。然るに朝鮮国の財政は目下実に窮乏困難なるが為めに相当の貸与金を為すに非れば、殆ど其政権を維持する能わざるの場合にして、且つ今日迄の行掛りに於て帝国政府は其財政上相当の扶助を与うるの必要あるのみならず、他日我が帝国が朝鮮の占領若くは分割を争うべき時機到来する場合に於ても、多額の貸金は我が権利の根拠たるべきこと固より論を待たざるが故に、此際姑く三百万円を限り之を貸与する方可然と思考す。其抵当及び償還の方法に至りては尚お井上公使の意見を聞き酌定する所あるべし。
中略

 右は将来の措置上可成速かに決定を要するものなるに依り、別紙相添え至急閣議を請う。

 明治廿七年十二月廿日
    外務大臣子爵陸奥宗光

 別紙は明治廿七年十二月四日付井上公使来信写。原書は暫定合同条約の旨趣に依り鉄道電線開港の条約協議の件。

 陸奥外務は、「他日我が帝国が朝鮮の占領若くは分割を争うべき時機到来する場合に於ても、多額の貸金は我が権利の根拠たるべきこと固より論を待たざるが故に、此際姑く三百万円を限り之を貸与する方可然と思考す」と、
日清戦争勝利は確実であり、もし朝鮮が内政改革に頓挫でもしたら愈々容赦はせんぞと、もうノリノリである(笑)

 ところがこの後、伊藤総理が思いもかけない難題を持ち出して井上馨を面食らわせることになる。

 

銀貨よりも紙幣で

 で、12月28日、井上公使は、「500万円は一度に要するわけではなく、これは最高額であって、朝鮮政府の入用に従って50万円、百万円と漸次貸し出して、これを基本として紙幣を発行させたい」と書簡。
 ところが日本では日清講和談判の為めの折衝が始まっており朝鮮の公債募集どころではない。
 井上が何度も返答を催促するが、なしのつぶて。それで2月2日になって、「これでは本官は戦闘に臨んで弾薬の給与を促してもこれが得られないような気持ちだよ。とにかく本件の成否はともかく返事だけでも出来るとか出来ないとか返事くれー!!」と(笑)

 実は伊藤総理が1月27日付で井上公使に書簡を送っているのだけど、まだそれは着いていない。

 で、電報で陸奥が「公債のことは総理と大蔵にも全力上げて周旋中で、もちろん出来る積もりだす」と2月3日に返電。で、同日午後にも「総理からも三井、荘田、渋沢らが同意したから安心されよ、と電報があったから、公債は出来ること疑いなしですよ」と返電。

 ちょっとほっとした井上は、「じゃあ改革のことに着手してもよいかいな?」と。
 陸奥 「公債が出来ることは疑いないから着手してよいでしょ。但し条件に関しての伊藤総理が出した書簡をよく読んでね」と。けれど未だに書簡は到着しない。
井上 「公債のこと配慮に感謝す。で、財政関与の手段、抵当の方法、約束を履行させる手段など前以って協議したいから三井、三菱、渋沢の内で2人ほど急いで朝鮮に寄こしてよ」と。
陸奥 「伊藤総理から誰か1人そちらに派遣するよ」
伊藤総理からも電報で「公債300万円までは取敢えず出来るでしょ。ただし条件があるから、近く末松謙澄を派遣するので協議してね」と。

 で、ようやく伊藤総理の書簡を井上が手にしたのは2月11日
 そこにあった条件とは、
「公債は日本紙幣にして銀行の出張所を設け、そこで正貨の引換をさせる。そうでなければ正貨が一時に流出することを銀行は恐れている」と。
 当時正貨は金貨銀貨のこと。紙幣はもちろん兌換紙幣であるが、銀行としては正貨が流出することなく紙幣のままで市場に流通するほうが好都合である。なにしろ国家は戦時下にあって外国からの武器購入などに正貨のストックは欠かせない。

 しかし井上は直ちに、「今まで京城仁川の朝鮮人の間では銀貨と紙幣の間ではその交換に相場があり、また各地方でも銀貨すら殆ど流通しておらず、それを今朝鮮全体に日本の紙幣を通用させようとしても出来ないことである。たとえ無理やり押し付けても朝鮮人が直ぐに正貨に交換してしまうことは明瞭である」と。また、「確かに出来るという300万円は銀貨なのか銀塊なのか、またそれで公債全額なのか。いずれにしろ紙幣であったならば到底改革事業の見込みはない」と返事。
(以上「同上」p18〜p38)

 「俊輔ー!頼むっちゃー!」という井上の声が聞こえてきそうな(笑)。

 

年越しのお金の調達

 公債とは別に、朝鮮政府が懇願した年末の為めの貸し金は30万円であったが、井上が利子のことも考慮してあれこれ工面して13万円がやっと調達でき、文武官に1か月分の給与の支払いが出来た。
 以下報告から。

(「同上」p39より、()は筆者)

廿八年二月十二日受 主管 政務局
機密第九号

 陰暦歳末に迫り我第一国立銀行より朝鮮政府に貸金の件

 慶尚道全体、忠清、全羅の一部、飢饉の為め并に右三道、東学党騒擾、又平安、江原は日清戦場等の為め、当秋迄は殆んど収入皆無の情況は、兼て御報道に及び置候通り、加之に飢饉其他騒擾の原因より窮民救助を要し、并に各営の兵卒及び文武官等給料未払凡三ヶ月、外に雇外国人の延滞給料凡八万円計の支払を陰暦年末に必要するを予知したるに付嘗て致具報置、右に付嚮きに閣下を煩し候通り、我第一銀行に勧め税関を抵当として金三拾万円程を貸渡さしめんと相試みたる次第に候。
 然るに京仁両地の第一銀行支配人を呼出し相諭し候え共、東京本店よりの指命に、結局三十万円の大金は銀行条例に抵触する廉を以て右金額は承諾不致候得共、終に一月初旬に至り二十万円は貸与に同意を本店より申来り候。尤も利子は年一割已上ならでは相談に及び難しと申す事に御座候。

 同時朝鮮政府より金融屡々依頼申し来り、一方には現度支大臣魚允中なるもの、理財上に付兎角自説を株守して他人の説を容れざるに因り、本官の意見を不用こと往々有之。嚮きに郵船会社が朝鮮政府の所有汽船を預り、沿海の航路を開かんとする見込にて同会社代理久保扶桑、度支衙門へ及協議たるに、度支大臣は本官の屡々傍より忠告したるに拘わらず頑乎として自説を固執し、一ヶ月已上を経ても猶お訂約の運に至らざりし故、郵船会社訂約は財政整理の一部と牽連する云々を以(て)朝鮮政府金員貸借の相談に応ぜず。荏苒日子を経過する間に、歳末は最早十数日の間に相迫り候に付、政府財政の困難より兵卒等は是迄三、四ヶ月間給料不渡なる処に、歳末に及んでも猶お下渡を為さゞれば窃に激昂の色も有之。

 政府各大臣も漸く憂懼を懐き始め、屡々歎訴するに付、去月十二日[陰暦十二月十七日]本官議政府に至りし際、総理度支等大臣と面会し、年内可相払金額取調を一見候処、文武官、兵卒、小吏等に至る迄、凡平均三ヶ月分外に、王宮或は各衙門等従来買入需要品代価未払合算し、九十七万円余に相成居候。
 就ては僅々十有余日間、如斯金額を調達なし不能義に付、需要品未払代価は夫々商人を懇諭し、暫く明春迄之を待たしむる外手段なし。
 又文武官と雖も三ヶ月金額三十万円余なれば、是又調達困難なれば、三ヶ月分の内、一ヶ月分丈に止め置き、其余は明春に非らざれば如何とも至急の場合依頼に応ずるを不得と説明し、且同時に郵船会社訂約も同意を表さしめ候。

 翌日に至りて年内十三万円あれば切迫の分丈払渡すことを得可き旨通報を得候に付、再び仁川第一銀行支店支配人を呼出して、金拾三万円[内半額は銀貨]貸渡の事相諭し、該支配人は右致承諾候得共、利子は年一割より減少するを得ざる趣に付、苦慮致し居候処、[従前清国より借入したる金利は年一割に達するもの無之]幸に郵船会社支配人は、朝鮮政府との条約訂結候上は極低利にて八万円程貸渡候て差支無之旨申出居候に付、十三万円の半額を年六分の利子にて同社より第一銀行に預け入させ、第一銀行出金の半額と合併して丁度年利八分に相当する様相談相付けさせ候に付、同二十日[陰十二月二十五日]杉村書記官を議政府へ遣わし、総理度支両大臣会合の席に於て郵船会社約条業に付協議為致候末、度支大臣に向い金員借入に付、本官へ宛て周旋依頼状と外に弁償担保状の条項[勿論我より注文したり]可差出旨申入れさせ候処、翌日に至り別紙甲乙両号の通り、一は元釜仁三港収入の税金を抵当として金員借入に及び度、一は右返済を担保するが為め追て日本政府の選択したる人を総税務司に任す可き旨の書面を差越し候。

 依て其趣第一銀行支配人に相示し、右甲号の趣意を標準として約定書を作り、同二十三日[陰暦十二月二十八日]に於て、金員の授受相済申候。
 別紙相添此段及具申候也。

 明治廿八年二月二日
       特命全権公使伯爵井上馨
   外務大臣子爵陸奥宗光殿

(別紙省略)

 つまり、当面必要な30万円の件も、仁川第一国立銀行支店長に相談したが、
支店長 「いや東京本店の指令によれば30万円という金額は、大金過ぎて銀行条例に抵触するというんですよねえ」
井上 「え、だめ?」
支店長 「その金額じゃだめです(きっぱり)」
井上 「・・・だめか(ショボーン)」

 しかし後に、
支店長 「本店から20万円なら貸せると言って来ましたよ」
井上 「ほんと?♪」
支店長 「但し、利子が年1割以上ということで・・・」
井上 「高っ!・・・うー」

 ところで日本の郵船会社が朝鮮政府所有の汽船を借りて沿海の航路を営業する計画を朝鮮政府に打診していたが、度支大臣の魚允中が頑として反対していて話が進まない。井上は、財政整理に関係しているからその話に応じるよう勧めるのだが駄目。
 つまりは汽船を無駄に遊ばせているよりもチャーター料金ぐらい稼げよな、ということでもあったろうか。魚允中の自説とはおそらく、「自国で航路営業したい」ということだったのではなかろうか。しかし資金がない。

 で、魚允中も頑固だが、もっと頑固な井上は、それじゃあ30万円貸与の件は知らない、と朝鮮政府の相談に応じず。
 それで、いよいよ暮れも迫って来る、兵士も給料未払いに険悪な雰囲気になってくる、さすがにこれはやばいぞと、朝鮮政府は「アイゴー、公使何とかしてほしいニダー!」と何度も哀訴してくる。

 それで井上がだいたい本当はいくら必要なのよ、と調べ直すと総額97万円余りになると判明。もう正月にまではとても調達は出来ないと、需要品未払い代金は商人たちに来春まで待たせる外ないじゃん、と。
 で文武官も給与未払い3ヶ月分で30万円で、全額調達は困難だから、取敢えず1ヶ月分にとどめて13万円でよかろうと。ついでに郵船会社と締約の件もクリアと。

 で、仁川第一銀行支店長を呼んで、半額は銀貨で13万円でどうよと。
支店長「よろしいですが利子はやっぱり1割以下に出来んです」と。
井上 「うー困った・・・清国からの借金でも金利1割に達したのはないのにー」
郵船会社代理久保扶桑 「あのー、船を借りる件が無事締結できた暁には、極低利で8万円程貸してもいいっすけど」
井上 「!!♪」

 ってことで、13万円の半額を郵船会社から年6分で第一銀行に預け入れさせ、第一銀行からの半額と合わせて年8分の金利で13万円を朝鮮政府に貸与することにやっと話が決まる。
 で、郵船会社の件も済み、抵当は元山釜山仁川の海関税で日本人総税務司を一人雇うと。
 お金を渡せたのは朝鮮暦で12月28日だったとさ。

 

公債議論

 なお、この13万円の時に正貨よりも紙幣で渡そうと試みたが、やはりだめで結局7万円は銀貨で貸し付けたと後の井上の追加報告にある。(「同上」p47)
 更に、「本官が正貨を主張するのは、決して我が国の実情を顧みずに一途に朝鮮の利益を図っている訳ではないので、閣下(陸奥)にもなにとぞ誠実にこの点に考慮を与えられたい」と、どうでも正貨の必要性を強調。2月12日付。

 翌日2月13日には公債の件を続いて請求。
「とにかく本件を早く決定して断然改革に着手させないと問題が起きて折角ここまで進めた改革も後戻りする姿となる。現に2、3日前から守旧派の金宏集、金允植、魚允中らは、朴泳孝、徐光範、金嘉鎮との間で軋轢を起こして遂に内閣総辞職を奏した。それで国王が本官を呼んで諮問があったので、暫くはこれを聞き届けないように、と述べた。これらも結局は金がないために実際の事業に着手できない日を送っているから生じたのであって、この後もどのような事件が起きるかも計られない。返す返すも公債の一件は至急に決定すること希望にたえず」と。(「同上」p50)

 小人閑居して不善を為す。而して韓人閑居して争闘を為すか。
 (「小人閑居」の原義は意味が違うらしいが、通俗の解釈もまた良し)
 で、井上にやいのやいのと請求される陸奥は、これは緊急を要するようだから、むしろ公債よりも日本銀行から朝鮮政府に一時貸金してはどうか、という話へと進めたようである。

 2月22日、「御請求の金額を一時日本銀行より朝鮮政府へ貸し渡すことは出来るべし。尤も、唯今在大阪川田と懇合中故、委細のことは一両日中に確答すべし。又末松も一両日中に当地を出発する筈故、多分右金額を送付する頃、其地え着し諸事御相談することになるべし」と。(「同上」p51)

 で、内閣では一時金300万円を貸すことに決し、これを議会に提出。衆議院と貴族院の可決を待つのみと。また、利息は6%になるだろう、抵当は税関とすること、閣下(井上)には最早十分にご安心されたい、と陸奥。
 この時点で2月23日
 で、大蔵省でその契約書が作成されるなどしたが、そこには300万円は兌換紙幣で交付するとあった。つまり正貨ではない。(「同上」p58)

 で、井上は「金額が請求通りの条件で出る上は、精々改革に尽力するべし」と22日返電。また翌日23日には「300万円の抵当として税関を当てるべしとあるが、自分はその外に慶尚、全羅、忠清の3道の租税を抵当とすることを希望している。それによって干渉を深くして地方の改良を助けたいとの考えからである」(「同上」p67)と、地方改革にも大乗り気。もちろん朝鮮国の内政改革には地方の税収に関わる改革、即ち綱紀粛正も避けて通れないところ。

 それで末松謙澄がやっと仁川に到着したのは3月8日であった。(「同上」p69)
 末松から話を聞いた井上は13日に以下のように電報。

(「同上」p70)

 電受二八六号 明治廿八年三月十三日午后0時一分釜山発 十四日午前0時五十分着

 朝鮮公債の義に付、閣下、総理が非常に御心配下されたること委細末松より承知せり。然るに三百万円の全額を紙幣にて貸し与え、并に公債募集に就き唯一の条件として、朝鮮政府をして紙幣類を発行さぜることをキイゲン[名言歟]せしむることは実に難件なり。且つ貸金の全額を紙幣にて貸し渡し、之れを法貨として通用せしむる如きは殊更困難なり。
 先般、鉄道電信条約案提出後、内閣会議に於て大議論あるようすにて、一両日前、安駉壽より仁尾への密話に、我邦従前支那の属領たりし際ですら斯の如く国権を検束せられたることなかりしに、此度両案の提出によって我が政府は実に苦悩し居れり、と申したる由。依て公債一件も是非右件を押し通さんとするには、非常の圧迫手段を用いざるべからず。左すれば当政府の内閣員は窮して之を他の公使館え内談するか、又は総辞職して其責を免がれんとするに立ち到るも計りがたし。依て本官も苦慮中なり。
 尤も、本日末松を同道して議政府へ赴き各大臣の前に於て貸金一件に付一応我が政府と銀行者との意向を略説し、彼れの意向を試みんとする積りなり。本官の考にては此際非常の圧迫手段を以て朝鮮政府を屈従せしむることは外交上の関係もあり、且つ朝鮮人をして一層疑念を深からしめ、畏怖心を生じ、改良の実を挙げしむるに愈々困難を増すならんと信ずるに付、再応御熟考あらんことを希望す。委細郵便。右は総理大臣へも電報せり。
      京城  井上公使
 陸奥外務大臣

 更に年度末であって、契約が成立しなければ次年度扱いとなり再び議会の承認を得なければならないという問題もあった。(「同上」p75、76)
 それで井上も焦るが、

(「同上」p76)

二十八年三月二十一日後后発
馬関 陸奥外務大臣    京城井上公使

 朝鮮公債に付、魚允中、朴泳孝の二大臣、委員となりて来館。末松氏と共に両度談判したるに彼等は仲仲頑固にて我紙幣を朝鮮法貨として税務に収納すること、并に朝鮮紙幣を発行せざることの二事件に向ては徹頭徹尾不同意を唱え一昨日談判遂に破裂せり。其後先方より何ぞ申来るならんと今日迄待ち居れども、今に何等の沙汰なし。尤も、末松氏をば明日差立て帰朝せしむべし。

 といよいよ困難。

 さて、公債募集についての条件に対し井上公使が憤懣を述べたのが以下の3月14日付書簡である。

(「同上」p87)

機密 二一 号

   朝鮮公債の件

 本月九日末松法制局長官着漢、翌十日面会朝鮮公債募集方に付、両閣下は一方ならざる御心配に及ばれ銀行者との御協議も略ぼ相調たる処、中途行違を生じ遂に議会に提出して其協賛を求め、一時三百万円を貸渡すことに相成りたる顛末委細承知いたし、両閣下御苦心の程偏に御察し申上候。

 然るに末松氏携帯の約定案及び其他の書類を一覧致し、且つ具さに同氏の説明をも承り候処、右三百万円は一時兌換紙幣にて貸与え、追て本邦に於て入用高の公債を募集し、其内を以て之を償還し、并に我兌換紙幣を朝鮮法貨に準じて通用致さしめ、且つ公債償還済迄は朝鮮政府をして紙幣類を発行せざることを明言せしむる等にて、右の内、我兌換紙幣を朝鮮法貨に準じて通用せしめ、并に同政府をして紙幣類を発行せざることを明言せしむる二事は自ら相待つものにて、今般公債募集条件中骨子に可有之と存候。

 然る処、右に対する困難は第一我紙幣を朝鮮法貨に準じて通用せしむる事にして、昨年我政府は朝鮮の自主独立を公言したる已来当国人は何事に付き独立の体面を装わんとする傾き有之。
 近き一例を挙ぐれば、近年我紙幣の民間取引上に使用せられ居るを、政府諸大臣殊に度支大臣は之を悦ばず、昨冬一の禁令を出して其通用を禁止したる、将に本官より異議申入したる末、其禁令は租税の収納に止め、民間の通用は不問に付する事と相成りたる例も有之。
 今若し彼等の痛く嫌う所に逆い、公然我紙幣を法貨として通用せしむる事は実に難件に有之候。第二の困難は朝鮮政府をして紙幣類を発行せざる旨を明言せしむる事にて是尚前件と同様の訳に有之候。

 昨年本官赴任の初め度支大臣より不換紙幣発行の相談有之候に付、本官は交換資金を準備せざる已上は紙幣を発行すべからざる旨勧告したること有之候。此に由て之を観れば紙幣の発行は彼等の最も希望する所なれば、今日彼等は甘じて我申出に同意するや否の程甚だ推量難致候。其外、朝鮮内地即ち遠く京城若くは三港を離れたる市邑に至っては銀貨の通用さえ不充分なれば、紙幣を一般に通用せしむることは頗る困難に可有之、若し強て之を通用せしめんと欲せば、内治各処に交換所を設置せざるを得ず。然るに尋常にては条約を定めたる開港市場の外に我が銀行の出張所を設立するを得ざる差支有之。且又古来当国貨幣の本位とと称す可きものは旧銅銭なれば、我紙幣は常に之が為め左右せられ、一高一低極りなきに付、将来我紙幣を当国の法貨と立て、名実共に銅銭の相場を一定せしむることは至難の業と被存候。

 前述の次第なれば此度御申越の方法にては朝鮮政府の同意を得ることは勿論、之を実行するに於ても容易ならざる義に有之候。尚一例に挙ぐれば、先般鉄道電信両条約を提出したる際、外務大臣の意向は容易に同意を表す可き色無之候処、其後果して内閣会議に於て大議論有之。其結果は内閣の意見を付せず直ちに勅裁を仰ぐことに議決したる旨致承知候に付、本官より右は内閣諸大臣は自ら其責任を免れんとする者なりとの趣意を以て総理大臣に注意を相与え置候。
 其後仁尾顧問官の内報に拠り、其前安駉壽は同氏に向い、我邦従前支那の属邦たりし際に於ても猶お今回提出せられたる鉄道電信両約案の如く我国権を検束せられたる事なければ我政府の人々は該約案に付、実に苦悶し居れりと密話したる由致承知候。右は実に無理ならざる事にて彼等の多数は常に我国を疑い、日本は表面こそ朝鮮の自主独立を唱うれども、其実機に投じて其利益を吸収せんとする者なり、と誤想し居れば、彼我の間に一事件興る毎に深く之に注目し、苟も朝鮮の国権利益に関係あれば力を極めて之を防御せんとするは今日に至るも猶お免れざる所に有之候。
 乍去、鉄道建設一件は軍事に関し至大の事件なれば、本官は必ず朝鮮政府をして同意せしむ可き見込に有之候。故に此度の公債一件も我は是非とも御申越の条件に従い、之を押通さんとする時は、非常の圧迫手段を執らざる可からず。然るときは当内閣員は如何の針路を執る可きや進んで之を同意せんか、国民上下の咎責を受くるの恐れあり。退て之を拒まんか財計の困難は目前に差迫り居れば事情之を許さず。窮迫の余之を他の公使に内談して外に国債を募らんとするか、若くは総辞職して其責を免れんとする二事に外ならざる可しと被推測候。

 一昨十二日末松氏同行、議政府へ赴き各大臣の前に於て、同氏より一応我政府と銀行者の意向を略説為致候処、各大臣は「紙幣」と申す事に付孰れも当惑の様子に相見得、「不得已時は之を以て銅地を買入れ銅銭を鋳造す可し」との説も有之候。依之本官思考するに此際朝鮮政府の窮迫に乗じ非常の圧迫手段を用ゆることは、縦令幸に彼等を属従し得たりとするも、朝鮮人をして一層疑念を深からしめ、国政改良の実を挙げしむるに困難なるのみならず、或は時して外交上に面白からざる結果を生ぜざるかと深く掛念致居り候。

 本月三日付、伊藤伯の私函中に、「朝鮮国将来の地位は極東の大勢上、戦争已前に於けるよりも尚お一層の関係を二三大国に有するや論を待たず。支那は最早口喙を朝鮮の事に挟むを得ざるも、英魯の如きは却て容喙し易き形勢を顕わせり。之に対して毎に責任を負担して対峙するは日本あるのみ。日本にして名実とも其独立を保護して野心を現わすことなくんば他国をして容易に指を染めしむることなきも、朝鮮に於ける我処置当を得ざるあらば忽ち之を非難攻撃し、拠て一つの朝鮮問題を諸強国の間に喚起するに至るは瞭として火を睹るが如し。今日我朝鮮政府に対する政策は殆んど興国の未だ異議を容れ能わざる所にして、其処置の如何を将来に注視せんとするものゝ如し。故に此節貸与する金額の処置に至ても、主客の位地を明にし、国際上の関係と私法上の契約の別を混同せざる様致度」と有之。
 去月二十六日付陸奥子の私書中にも「朝鮮の独立を名義上にも事実上にも損害す可からずとの一件は、某国政府請求の骨子なれば、本官の対韓方策中常に念頭に掛け、彼に口実を与うる様の事無之様充分注意す可し」との御意見有之候。

 右大体の御趣意は両貴函とも御尤至極の事と存候。本官も初めより此辺に注意を加え、先般改革綱領二十箇条提出の際にも之を勧告の体に認め、勉めて干渉に疑わしき嫌疑を相避け、其他の事に至りても総べて勧告的の方針を執り来り候。然るに此度の貸金に付、国際上の関係と私法上の契約の別を混同せざる様にとの御注意に有之候え共、縦令其本体は韓廷と日本銀行の契約にせよ、朝鮮政府をして本官に向い紙幣を発行せざる旨を保証せしむるに至っては、取も直さず国際上の関係なれば、之を区別すること甚だ困難に有之候処、之一方には朝鮮の独立権に付他国に口実を与えざる様にと用心しながら、他の一方にては種々朝鮮政府を拘束する様の事を申入るゝは彼此矛盾したる所業にて、本官は如何にして此難処を経過す可きやと深く苦置罷在候。
 依て此義に付再応御熟考あらんこと幾重にも希望する所に有之候。

 将又、公債一件に付ては本官も始めより深く慮る所あれば、今日迄未だ嘗て我に責任を負うべき申出を為したること無之、又官制の草案も未だ交付し居らざれば、若し我政府と銀行者の意向は当初の通りにて毫も変更の道なきに於ては、寧ろ貸金を止め、之と同時に我政策を変え、干渉の手段を縮めて其成行に任せ候方、一には諸強国の容喙を避くることを得て得策に可有之と存候。依て此儀をも併せて御勘考相成り、至急何分の御回示有之候様致度候。此段申進候也。

 明治廿八年三月十四日
         特命全権公使伯爵井上馨

 内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿
 外務大臣子爵陸奥宗光殿

 この時点でまだ日清講和談判は開始していないし、果して講和が成るのか尚も戦争を継続せざるを得なくなるのかは不透明であることを留意せねばなるまい。
 公債条件に関しては兎も角、対韓政策という点では井上にしろ伊藤にしろ陸奥にしろ、朝鮮国の独立を補助し強勢国の干渉を排するという点では共通している。
 そして兌換紙幣の件は当時日本の実情を考慮すれば止むを得ない条件ではあったろう。ところが、朝鮮政府に紙幣の発行を許さずに日本紙幣を法貨に準じて通用させるというのがちょっと無理なところか。井上が文句言う通りであろう。

 ただ、朝鮮の実情から言ってもそれもまた無理からぬ点がある。井上が言っているように朝鮮政府はどうやら不換紙幣を発行したい希望を持っていたようだからである。それを相談した魚允中度支は一応井上がたしなめたが、「お金がないニダ」「紙で作ればいいニダ」というような発想に傾くことは確実ではなかったろうか。一方、釜山、元山、仁川の3港では居留地のみならずその周辺の朝鮮人集落に於ても既に日本紙幣が流通していたという事情がある。銅銭という重くて不便極まりない貨幣しかない国であってみれば、現地人が紙幣の手軽さを知ったらそちらを使いたくなるのは当然であろう。また信用出来る国の兌換紙幣が既に流通しているのであれば、それを使う方が合理的ですらある。そもそも、貨幣制度や紙幣の発行に関しては日本政府は明治9年朝鮮修信使の来日の時以来一貫して朝鮮政府に勧告してきたことである。それを殆ど無視し続けたのは朝鮮政府であったし、また金貨銀貨なども試作してみたが貨幣に刻む年号のことで清国政府からの横槍などもあって、結局は発行までには至っていない。尤も紙幣を発行するとしても朝鮮は貧し過ぎてその裏付けとなる正貨も金塊銀塊も殆どなかったし、あっても両班貴族の占有物だったしねえ。東京吉原で何日も豪遊する朝鮮貴族がいたくらいだから。
 まあ井上の構想のように、日本で公債を募って銀塊で持ち出し、それを元に朝鮮で兌換紙幣を発行させるという計画が朝鮮にとっては一番都合がよかったのだろうが、しかしそれでは今度は日本が困ると。依然として莫大の軍費を消費中なのであるから。
 この後伊藤博文が李鴻章との談判で次のように言ったことが思い起こされる。
伊藤 「戦争は決して愉快なものではない」「誰が最初から戦争を欲しようか。ただ事局の勢いの為めに国と国とが衝突するだけである」「戦争がないならこの上の幸福はない。第一に巨額の軍費を要しないという利がある。」

 それにしても井上の「朝鮮政府を補助することなど止めて成行きに任せたほうが却って得策ではないか」との意味の言はよろしいなあ(笑)。

 

300万円貸与へ変更

 で、これら公債の件のみならず貸金の事に於ても抵当条件や償還期限をめぐって擦った揉んだすることになる。
 それら一連の経緯を井上公使が以下のように報告している。

(「同上」p93より、()は筆者)

 廿八年四月二十五日接

機密第三十号

   朝鮮公債の件

 本件に付去(3月)十四日付機密第二一号信を以て及具申候後、仝十八日、内務大臣朴泳孝、度支大臣魚允中の両名は委員として来館候に付、末松氏と共に之に応接し、同氏をして貸借上我所要の各条件を一々陳述し、具に其理由を説明為致して充分先方の意見を相叩き候処、我申出に対し、彼等が不同意を唱うる廉々は、
第一、三百万円の金額を兌換券にて借用するときは実際通用に困難なれば、其効用甚だ少しと云うこと。

第二、日本銀行の兌換券を朝鮮法貨として租税に上納を許すことは、独立の体面を損傷するは勿論、之を通用すること甚はだ困難なり。若し圧制を以て融通を行わば或は行われ難きにあらざるべきも、一旦其流通の開けたるが為め朝鮮銀貨は却て外国へ流出すべし。左なぎだに朝鮮には銀貨欠乏なる処、此上流出の事ありては朝鮮は全く紙幣国と化し去るべしと云うこと。

第三、紙幣の発行を将来に検束さるゝこと迷惑なり。何となれば後来朝鮮にて財政を整理せんと欲せば勢い紙幣を発行せざるを得ざる場合あるべし。故に予め其発行を検束する如き明言を為す能わずと云うこと等にて、双方協議に至るべき見込無之に付、朝鮮政府の方にては尚お思考を凝らし更に意見を定めて再び協議す可き旨相約したり。
 翌十九日、内務度支の両大臣来館、政府協議の結果なりとて別紙甲号の箇条書を相示し候に付、末松氏と共に逐一■々処、大要公債の募集は体裁能く之を見合すと言を托して辞したるなり。
 前記三百万円[内三分の二を銀貨にて]廿個年償還の約束を以て借入れ其担保として仁川釜山両港の税関収入を抵当と為すべしとの趣意にて、当初我方の申込とは甚しき相違有之。我方の申込は公債募集を本に立て、右募集に至る迄の間、暫時三百万円を貸渡すべしとの趣意に有之候処、朝鮮政府の計算は暫時■替の三百万円を本に立て、公債募集は遂て商議に可及しとの趣意と誤認候。
 依之、一応双方意見の相反する理由と、右の如く三百万の暫借金を本に立て期限を延し候事は我政府之に同意するや■難計旨を説明し、且又第二項三百万円の内、三分の二を銀貨にて貸渡すことは到底承諾難致、已むことなくんば其内何程かは銀貨とするも其他は紙幣に非れば、之を貸渡し難きに付、朝鮮政府は紙幣流通の便を図て租税に公約を許すべし。

第四、現仁川及釜山の海関税は既に清商同順泰と我第一銀行に二重抵当と成て居れば、之を償還せざる已上は先取権を日本銀行に与うることを得ず。
 然るに此両口償還すべき借用額は四十万余円なり。其外■港上海銀行より借入金二万余円を合算するときは、四十五万円程上るべし。之を右三百万円の内より償還扣除せば、残金二百五十余円なり。
 今極めて節約したる予算に拠るも本年の経費は別紙乙号の通りにて、実に二百廿余万円に上れば、差引七十万円程の不足を生ずべし。

 此外改革上の必要として古来八道に設置しある水軍営並に宮内の内官等を廃するときは、其手当金として尚お数十万円を要することと成るべし。

 故に同順泰と第一銀行の負債を三百万円内より償却するを得ず。之を償却せざる間は釜仁両関の税関税は昨年十三万円第一銀行より借入の節、既に他に抵当を禁じたるに付、第一銀行へ相談の上承諾を得るに非れば其効用をなさゞるに付、急場は事実行われ難き等、言葉を尽し理解を与え且は■■を試み候処、彼等は稍々理解したるも、我紙幣を公然税納に使用せのむ可しとの一段に至ては断然前議を固執し寧ろ借入の相談を中止するとも其意に応じ難しとの決意を相示し候に付、本官は左候わば本件の御相談は此迄なりと申延べ、一時全く破談の姿に相帰し申候。

 然るに、当政府の財用は目前に切迫致居候に付、或は多少の変通方を持出し更に何とか申来るべしと窃に相待居候得共、翌々日廿一日に至るも何等の申出無之に付、仝日午前杉村書記官、他の用談有之候に付、金総理大臣邸へ覇権したる序に、一個人の資格を以て仝大臣の意中を探り再議の方策を与えさせ、其日午後末松氏等に勧めて告別として議政府に到らしめ候処、偶々各大臣此に在りて本件の談話に推移り、終に度支大臣の来館を約したる旨帰報に及候。

 翌廿二日朝、度支大臣及仝協弁安駉壽来館。末松氏と共に談判に及候処、抵当地の一条に至り同大臣は飽迄海関税を以て抵当と為んことを主張したるも、仝税関は既に同順泰及第一銀行に向て抵当を差入し以上は第一銀行の承諾なき已上は他に向て抵当と為すを得ざる条件有之候に付、本官は之を卻け、朝鮮某々地方の租税を抵当と為すべき旨申入れたる処、同大臣の一存にては何分の決答に及び難き趣を以て協議に至らず、其理由を説明候得共、所謂道理の不分明の性質に付、之を解する能わず。

 同日午後本官他の必要事件有之。議政府へ赴き用談済の後、総理内務度支三大臣、借款事件に付、再談致度との義故、同件の相談に及びたるに、彼等は某々地方を指定して其租税を抵当にする一事は苦情百説種々之を避んとし終に已むことなければ、政府歳入を抵当と為し、若し約限に至り支払の義務を果さゞるときは歳入中に就き先取権を許与すべしと迄申出たるも、其他の箇条は孰れも協議に至らざるに付、再び度支大臣の来館を約して帰館の途次、末松氏の宿所に立寄て土地を指定して租税の抵当とすることは到底朝鮮政府の疑心より、若し約を履行し能わざる場合には其区域を通常抵当品の如く没収せらるゝ如き感触を生じ居候故、国庫収入の税を以て先取権にて同意する方可ならん。并に年限は短くとも五ヶ年位と定めざる可らざる旨を相談し置候。

 翌廿三日朝、度支大臣并同協弁とも同意を表し、翌廿四日、条約書を繕成して調印可及旨打合せ候処、其夜同大臣より政府の意見と云うを以て其議を変じ、銀貨は必ず弐百万円を要し、期限は更に十個年を延期したき旨付箋して末松氏へ返却したるに付、同氏より直ちに「一旦商定したる条項を変更して再び前論を主張せらるゝ如きは断然御同意難致に付、今に及んで蹶然此の商議を破らるゝ方可然(」)旨及返答候処、同大臣より即夜「我政府より決して商議を破らんとするにあらざる旨」申越たる旨、翌朝同氏より伝承候。

 右に付、末松氏及銀行員は既に破談と決し、翌廿四日午前発京帰仁致候。而して本官よりは別紙丁号の通り借入金の周旋は謝絶する旨、金総理大臣へ通知及候処、其日午後総理内務度支の三大臣別々に来訪したる趣に候得共、当日は日曜故面会せざる旨を以て玄関番之を謝絶候趣に御坐候。

 同夜金総理大臣より末松氏へ「借入金の件は昨日の如く度支大臣及協弁と協議し、異議なきに付、付箋を撤回すべし。此旨貴政府へ復命せられたし。但し五個年の後、公債募集諧(「調」?)わざるときは尚お五個年の猶予を乞うと」発電したる処、同氏よりは本官へ協議すべき旨返答したりと云う。

 翌廿五日総理大臣より石塚氏を以て当政府は故らに破談せんと欲するにあらず、去廿三日度支大臣の商定したる条件にて差支なき旨、申来候に付、兎に角同大臣の来訪を促し候処、翌廿六日同大臣来館、貸金一件の協議を承り置、翌廿七日内務度支両大臣来館して表向きの依頼ありしも、本官は諾否に付何等の返答を為さず、遂て総理大臣迄返答可及旨相答置き。

 翌廿八日杉村書記官を金総理大臣宅へ派し、内務度支両大臣来談の概略を告げ候末、我方にても過日御協議に及候通りにて差支なきに依て、貴大臣の御見込次第にて何れとも決定可致、尤も廿三日商定条項を変更するを得ず。右御承諾の上は先般書函に対し改めて御回答を得、並に明廿九日午後一時を期し度支大臣協弁並顧問官を派せられたき旨申入候処、同大臣此れを承諾し、即日別紙戊号の通り回答し、同時に仝己号の通り申越、返答及候に付、本官は右戊号に対しては別紙庚号の通り、己号に対しては辛号の通り及返答候処、翌朝同大臣より別紙壬癸両号の通り本官の厚意を感謝する旨申来候。

 翌廿九日午後、内務度支両大臣、同協弁、仁尾顧問官来館。日本銀行員[此前仁川へ電報して呼寄せ昨夜再び入京せり]と会同。条約書に付協議及候処、内務大臣は年限に付三ヶ年据置き後二ヶ年間に全額三百万円を償還するは到底見込無之、尤も此間に公債を募集し得れば好都合なるも、若し然らざるときは、其約束を履行する能わざるは今日より知れ切ったる事なり。依て若し期限に至り公債を募集し得ざるときは更に五ヶ年を延期することに取極置度旨申出で、頻りに之を主張するに付、再び破談に傾きたるも、度支大臣は飽迄之を成就せんことを希い、且総理大臣よりは一旦之を承諾したる旨の返書も有之。旁以て内務大臣も最後に其説を変じ、別紙約案の通り双方協議相整い翌三十日度支衙門に於て調印相調い申候。依て別紙相添此段及報告候也。
 遂て本件に関する総理外務度支三大臣連名の書函并度支大臣の書函は接手次第更に其事情を具し上申可致候。

  在京城
明治廿八年四月四日 特命全権公使伯爵井上馨
外務大臣子爵陸奥宗光殿

 なお別紙のテキストは略す。どうせ無駄になるし(笑)。もっとも、政府予算概略の別紙だけを以下に。

(「同上」p104)

乙号

 本年朝鮮政府歳計[但し極めて節約したる予算]

一 五拾万円       王室費
一 五万六千円      内閣中枢院諸費
一 六万円        外務衙門経費
一 四十五万円      内務衙門経費
一 五拾万円       軍務衙門経費
一 拾五万円       度支衙門経費
一 八万円        法務衙門経費
一 六万円        工務衙門経費
一 六万円        学務衙門経費
一 四万円        農商衙門経費
一 拾参万円       警務庁経費
一 六拾万円       未払俸給[二月分共]一 六十万四千円     帰休兵へ下賜金

  合計参百弐拾九万円


 外に
  一 全国三百三十個所の水営廃止に付帰休兵手当若干
  一 未払貢七個年賦金凡七万余円
  一 宮内内官廃止に付、扶助料若干
  一 非常予備費
 右の合計数十万に相上り可申見込

 う〜ん。国の予算のほぼ全額を外国からの借金で賄うとな。何と言う独立国であろうか。

 

揉める貸与契約問題

 で、やっと締結した契約書が以下のもの。

(「同上」p196)

 大日本帝国日本銀行と大朝鮮国政府との契約書

 大朝鮮国大君主陛下より全権を委任せられたる同国度支大臣魚允中と大日本帝国日本銀行総裁代理同銀行支配役鶴原定吉との間に金員貸借の契約を締結すること左の如し。

第一条 大日本帝国日本銀行は全三百万円を大朝鮮国政府に貸付すべし。
 日本銀行前項金額の内、金百五拾万円を銀貨に、金百五拾万円を同銀行兌換銀券にて、大日本暦明治二十八年七月三十一日迄に大朝鮮国仁川港に於て同港駐在の大朝鮮国監理事務に交付すべし。

第二条 本借入金に対する利子は、大日本暦に従い一ヶ年元金百分の六[即毎年元金百円に付利子六円]と定め、借入の日より償還の日まで大日本暦毎年六月十二月の両度に半ヶ年分宛を大朝鮮国政府より大日本帝国日本銀行に支払うべし。但、大日本暦明治二十八年分の利子は同年十二月に於て一回に之を支払うべし。

第三条 大朝鮮国政府は本借入金の元金を大日本暦明治二十八年より同三十年まで据置き、同三十一年十二月及同三十二年十二月に金百五拾万円宛を償還すべし。

第四条 大朝鮮国政府は本借入金の元利金を大日本帝国東京日本銀行本店に於て同銀行兌換銀券を以て同銀行に支払うべし。

第五条 大朝鮮国政府は大日本帝国に於て公債を募集するの意あるに依り、該公債を募集したる時は、前条の期限内と雖ども其募集金を以て先ず本借入金を償還すべし。大朝鮮国政府は財政を整理して余貨を生じたる時は、前条の期限内と雖ども亦之を償還するを得。

第六条 大朝鮮国政府は大朝鮮国租税を以て本借入金元利支払いの担保に充て、若し期限に至り元利金支払を為さゞる時は、日本銀行は大朝鮮国収入の租税に向て先取権を有すべし。
 同政府は各開港海関税を抵当として借入たる他の借入金を清還したる時は、各開港海関税を以て前項の担保に換ゆることを得べし。但各開港海関税収入金を以て本借入金の元利を支払い尚不足を告ぐる時は、前項の租税収入金を以て之を補足すべし。
 本借入金元利支払いの担保に充てたる租税若くは海関税[即海関税を以て担保と為したる時を云う]は其支払を完了せざるの間は日本銀行の承諾を経ずして他の担保に供することなかるべし。

 本契約書は大日本帝国語及大朝鮮国語を以て各二通を作り、大朝鮮国度支大臣魚允中及大日本帝国日本銀行総裁代理同銀行支配役鶴原定吉記名調印し、大朝鮮国外務衙門の蓋印を経たる後、大朝鮮国政府及大日本銀行は各其一通を所持す。但、本契約の意義に関し疑義を生じたるときは大日本帝国語を以て作りたる契約書に拠り解釈すべし。

大日本暦明治二十八年三月三十日
大朝鮮国開国五百四年三月五日 大朝鮮国漢城に於て記名調印す。

   大日本帝国日本銀行総裁代理
     同銀行支配役 鶴原定吉
   大朝鮮国度支大臣 魚允中

 開国五百四年三月初五日
為本条約係我
政府之公約茲
蓋本衙門之印也(□)

 

 さて、その日本銀行支配役の鶴原定吉が報告した顛末書が以下のもの。経緯もより詳しく知ることが出来る。

(「同上」p205より、()は筆者)

  朝鮮貸付金顛末書

 明治二十八年二月二十八日出発、同夕広島に着し、翌三月一日及三月二日の両度に伊藤首相を其旅館に訪い、本件に対する同首相の意向をも確かめし上、三月三日本件に関する要務を帯びて渡韓する末松法制局長と共に宇品港より御用舩東京丸に便乗、馬関を経て三月八日朝鮮国仁川港着。三月十日京城に到着し、翌十一日帝国公使館に赴き、井上公使に見え、目下我邦の経済事情、殊に銀貨流出を防がざるを得ざる理由等を陳述したるに、公使も其事情大に尤もなりと述べられたり。乍去又公使の見込に拠れば朝鮮国の現況を以て考うるに今回の貸付金の如きも悉皆紙幣にて同政府に交付することは余程困難なる事情あり。曩に朝鮮政府は外国紙幣の流通を禁ずるの布告を発したることあり。此際我公使は彼れに向て該布告を取消すべき旨厳談したるに、彼れも之を承諾しながら更に判然たる処置に出でず、只「外国紙幣は公租に用ゆるを許さず」との曖昧なる布告を為し、之が為め却て益々其流通の円滑ならざらしむるに至れり。併しながら我邦に於ても勿論銀貨の流出を許さゞる場合と云い、我政府の趣意も成るべく紙幣を以て貸付せん筈なれば、充分に其意を体し彼れ政府と談判すべしと述べられたり。越て三月十二日井上公使は末松長官と共に朝鮮議政府に赴き、今回の貸付金并に公債募集の件に付、其大要を述べ協議を開くべき旨を通知せられたる趣なり。同国政府よりは則ち内務大臣朴泳孝、度支大臣魚允中、同協弁安駉壽の三名を以て本件に関する談判委員となし、三月十八日、初て我公使館に於て双方会合し、談判を開始せり。而して我公使より提出せられたる重なる条件は概要左の如くなりしと聞く。

一 金参百万円は日本銀行兌換銀券を以て朝鮮政府に交付する事。

一 朝鮮政府は日本に於て公債を募集し、其収入金を以て本借入金の償還を為す事。

一 朝鮮政府は同国海関税金額を以て本借入れ金元利支払の担保と為す事。

一 本借入金は弐ヶ年以内に償還すべき事。[本項は末松氏が伊藤伯より受けたる内訓中にありと聞く]

一 而して我公使よりは此貸付金は公債募集金を以て返還すべき筈なるに由り、先ず公債募集に関する要件を協議せざるべからず。然して日本現時経済上の情勢は務めて銀貨の流出を防遏せざるべからざる場合に付、此公債も銀貨にて募集することは実際望むべからざるは無論、日本紙幣にて募らざるを得ず。且朝鮮国各開港市場及其付近にて日本紙幣は漸次流通するの傾向なるを以て、此際朝鮮政府に於て更に相当の方法を施さば、普く之を国内に流通せしむることは、敢て難事にあらざるべし。殊に日本銀貨は朝鮮新銀貨条例に拠り同国の法貨に適当するものなるに付、之に代る所の日本銀行兌換銀券を以て公債を募集することなれば、朝鮮政府に於て絶て差支はなからんとの趣旨を以て協議を開きたり。

 然るに、彼れ政府委員は当国従来紙幣の流通なく、人民未だ之に慣れず、外国銀貨すら通用円滑ならざる有様なれば、日本銀行兌換銀券即ち外国の紙幣を普く国内に通用せしむるは実際困難なり。故に銀貨を以て公債を募集する能わざれば、公債募集の事は当分見合することゝせん。且此貸付金も右の事情なるを以て成るべく銀貨にて貸付せられたき旨を主張す。然れども公使より提出の条件は既に前陳の如くなるを以て、公債は勿論今回の貸付金も全額銀貨を以てするとは到底彼れの協議に応ずる能わず。然れども亦朝鮮政府の事情をも多少酌量し、今回貸付金参百万円の内幾分か銀貨を混ずることは或は止を得ざるべしとて、同政府に於ける銀貨使用の目途及其金額を取調べ明日回示すべき旨を告げ、此日の会議を閉たる由。

 翌十九日更に彼れ政府委員より前日の協議に基き提出したる条件は大要左の如くなりし由。

一 外国紙幣を通用せしむることは目下困難の事情あれば、銀貨を以て募集する能わざれば公債募集の事は一と先見合せたし。

一 本借入れ金の内、全額三分の二即ち弐百万円は銀貨三分の一即ち百万円は兌換銀券にて借入るゝ事。

一 海関税を以て担保となし、先取権を与うる事。

 右の如くにして我公使より提出の条件と殆ど正反対の請求なるのみならず、外国紙幣を公租公納に許し普く国内に流通せしむることは独立国の体面に関すと云えば、曩に当国内に東学徒蜂起するに当り、自国の兵力を以て之を鎮定する能わず、外国の兵力を借りて之を鎮圧せしにはあらずや、是等は独立国の体面に関することなきや。要するに朝鮮政府の委員は自分等の都合能き時は更に国体等に論及することなくして、都合悪しき時は直に国体論を持出すなり。我侭も実に甚し。斯の如き政府に対しては本使は此後貸金一件は固より改革事業にも一切容喙せざるべし云々、断言せられ終に此商議は破談となり。拙者等も一と先帰朝の途に上らざるを得ざる場合に臨めり。
 然りと雖ども此談判纏らざるは将来の為不得策なるべきに付、公使は末松氏と協議の上、兌換券を以て公債を募集するの件は彼等の最も異議を唱うるところなれば、本貸付金と公債の件とを同時に協定するは目下の情況に於て行届くべき見込なし。而して彼等の望むが如く公債募集を見合することとし本貸付金のみに就て協定し、剰え其償還年限を延長するは本貸付金の根拠を動かす次第なりと雖ども、今日の事情止を得ざれば、彼れが希望の幾分を容れ此協議を纏むる方得策なるべしとの事に決したり。

 拙者等は本貸付金の内、仮令銀貨を混ずるも其額は極めて些少なるべしと信じ居たり。然れども若し談判の結局三分一以上も銀貨を交付することゞもならば、交換所設置の義は見合せ、今日の侭に致し置きたき旨を述べたるに、両官も亦同感を表せられ、茲に於て公使は更に間接に配慮せらるゝところあり。其結果彼れ政府委員よりの請求に由り、双方会見商議すべきことゝなり、三月二十三日午前より度支大臣魚允中、同協弁安駉寿の両人我公使館に来り。井上公使末松長官と会す。此際は特に拙者等も会合すべき旨、公使より命ぜられたるを以て列席の上、反覆熟議を遂げ、我よりも譲歩し得らるゝ限りは彼れに便宜を与え、其結局左の如く決定せり。[別紙第一号写参看]

一 朝鮮政府は同国内地の収入金を以て本借入金の担保に充て、而して先取権を与うる事。
 同国各開港海関税を以て抵当とし、借入たる他の借入金を償還し終りたる時は之を以て前項の担保に換ゆ。但該関税収入金を以て本借入金の元利を支払い、尚不足を告ぐる時は前項の内地収入金を以て之を補足する事。

二 朝鮮政府は公債を募集するの意あるに依り、公債を募集したる時は本借入金償還期限内と雖、該募集金を以て返還する事。但目下公債募集の件は同政府に於て確定し難き事情あるに付、他日を待て協議する事。

三 本借入金は三ヶ年据置き其後二ヶ年間に償還する事。但朝鮮政府に於て財政を整理し余貲を生じたる時は償還期限内と雖、亦之を返還するを得る事。

四 本借入金参百万円の内、半額百五拾万円は銀貨、百五拾万円は兌換銀券を以てする事。但し銀貨の内多少の補助銀貨を混入せば尚可なる事。

五 本借入金は朝鮮国仁川港に於て授受する事。

六 利子は日本暦六月十二月の両度に支払う事。但明治二十八年分の利子は同年十二月に於て一回に支払う事。

七 利子は一ヶ年百分の六なる事。

八 元利金償還は日本東京に於て之を行う事。

九 償還期限に至り其義務を果さゞる時は本借入金の担保の処分は債主に一任する事。

 前記の通りにて談判結了し、拙者等公使館を退き右に対する契約書案を草する際、何を図らん彼れ政府委員魚允中、安駉壽の二人も公使館を退きたる後、尚他の大臣等と協議の結果なる由を以て前記条件の内、右の如く変更したき旨付箋を以て末松長官へ申し入れり。[別紙第一号写付箋及第二号写参看]

一 内地収入とあるを租税収入と改めたき事。

三 借用期限五ヶ年中に公債募集叶わざる時は更に十ヶ年間償還延期の事。

四 参百万円の内弐百万円は必ず銀貨にて借入れたき事。尤も、全額一時に請取る能わざれば、数度に分割して差支なき事。

 一旦、双方熟議承諾而かも我よりは数歩を譲りたる上決定せし条件を恣に変更を申し来るのみならず、貸付金の種類割合及償還年限等、曩に排斥したるものを再び提出するが如き有様にて、商議決するが如くにして決せず。実に優柔不断も亦甚しと謂うべし。

 此上は幾度彼等と協議熟談するの価値なきものと認め、末松長官より断然拒絶の旨復牒せられたるに[別紙第三号写参看]、彼れ重て書面を長官に送りて曰く、付箋の廉は朝鮮国目下の事情に照らし万止を得ざるに出でたる次第にて、決して破談を望むが如き精神にあらざる旨申し来りたれども[別紙第四号写参看]、長官は又之を斥けられたり[別紙第五号写参看]。

 翌二十四日午前、井上公使よりも末松長官同様拒絶の書面を朝鮮政府に遣り、且貸付金に関して同政府より此後何等の義申越すも決して斡旋の労を執らざる旨をも通知せられたる由にて[別紙第六号移参看]、拙者等も一と先仁川迄引上ぐべきを命ぜらる。是より先末松長官は別に公務のあるありて至急帰朝を要することゝなりおれるに付、京城出発の際、彼の携帯せし現金は一時公使館へ保管方を依頼したり。仁川に着するの際、井上公使は更に電信を末松長官に寄せ、朝鮮政府は或は人を仁川に派して本件に付尚又貴官に哀願せしむるやも図り難たし。然れども一切之れを容るべからざる旨を以てせられ、長官は之に答うるところありて自分は即夜薩摩丸に乗込まれたり。尋で朝鮮政府の売り大臣金弘集より同長官へ電信を以て、今回の件は昨日度支大臣同協弁より協議したる通りにて異議なく、付箋は撤回す。但五年の後公債募集叶うくわざるときは尚五ヶ年猶予せられたき旨申し来れるに付、其電報は直に井上公使に送付し、金弘集へは井上公使へ商議すべき旨回報せし由、同長官より拙者等へ通知し越されたり。

 而して拙者等は仁川に滞在して公使の命如何を待合せしに、三月廿七日に至り公使より電信を以て朝鮮政府より頻りに依頼し来るに因り入京すべき旨を達せられたるを以て、翌二十八日再び仁川より京城に入り直に公使館に赴き井上公使に面接し、拙者等が曩に京城に(を)引上げし後の事情を聞くに概況左の如し。

 三月二十四日拙者等京城を引上げたる後朝鮮政府の総理大臣金弘集、我公使館に来り公使に面会を請いたりしに、当日は日曜日なりしを以て面会相叶い難からんとて小使より之を遮絶し退館せしめたり。然るに翌二十五日更に書面を公使に送り、度支大臣より条件の変更を申込みたることは全く閣議の不充分なりしに基きし旨を陳謝し、尚此上本件に関し配意ありたき旨申来れりと[別紙第七号写参看]。
 三月廿六日彼れ再び来館。公使に会い、今回の貸付金一件は前条件即ち三月二十三日彼の度支大臣魚允中同協弁安駉壽と我井上公使、末松長官、及拙者等列座の上協定せし条件に毫も異議なき胸を以て公使に調訂方を依頼し、且該条件に対し曩に異議を唱えし不都合を謝したる由なり。是より先、我公使は本件に関し是迄彼是異議を唱うるものは彼の内務大臣朴泳孝なることを探知しせられたるに付、此際も金弘集に詰るに、貴下も亦朴泳孝の異議を採用したるが故終に斯る不都合を醸したる旨を以てせられ、同人も茲に至り大に窮して、実際朴泳孝の異議を採納したるは同人の最も日本事情に通暁せるが故、其説を採用したるは将来或は過ち少なからんと信ぜしが為めなる旨弁疏せり。
 公使尚金弘集に告ぐるに、本使は貴下及朴魚二大臣と共に大君主陛下に拝謁し、本件協議を破れし顛末を親しく上奏せんと欲するなり。且更に契約締結の周旋方を切に依頼せらるゝと雖も、最早尽力するの途なし、とて彼れを帰らしめられたる由なり。
 三月廿七日には前陳の如く大君主陛下に上奏せん為め入闕せんことを宮中に申込まれたるに、陛下は昨今御不礼に渉らせらるゝに付拝謁の許可なかりしは遺憾なり、と。
 同日内務大臣朴泳孝度支大臣魚允中来館せしに付、公使は本件に関し彼れの異議を唱うることに付厳しく難詰せられしに、彼れも亦大に窮し、叩頭其不都合を謝し、併て本契締結方に尽力ありたき旨尚懇請せり。公使は是に対して告ぐるに尚お一度斡旋すべきや否やは今俄かに即言し難ければ、明日まで篤と熟考せんとて、彼れを帰らしめたり。

 事情は右の如くにして此度は大概契約調うべき見込ありしを以て則ち拙者等の入京を促されたるものなりと、其翌廿八日には更に杉村公使館書記官を以て下如く朝鮮政府に申込ましめられたり。
 朝鮮政府に於て誠意に契約を締結を希望するなれば本使に対し別紙の如き書面を差出すべし[別紙第八号写]。然る上は本使に於て尚相当の尽力を試みることもあるべしと。然して彼れも亦之を肯諾したりとのことなりし。

 而して公使より更めて朝鮮政府の委員へ向け、三月廿九日午後公使館に於て銀行員と契約書に就き打合せを為すべき旨を通知せられしに依り、同日彼れ政府委員三名、拙者等と会合す。井上公使、杉村書記官、仁尾顧問官同席す。公使館書記生国分象太郎を以て通訳とし、三月廿三日の協議書に基き作りたる契約書案の協議を開きたるに度支大臣魚允中は、第一条の内、銀貨と兌換銀券との金額は既に相談決したるところなれば、契約書中へ特に明記するを要せず、故に銀幣参百万円と改めたき旨を述ぶ。拙者等其修正説の不可なる次第を説きしに、彼れ強て争うところなかりし。次に内務大臣朴泳孝は第三条の年限は五ヶ年して内三年間据置き、後二年間に償還すべきことゝなりおれども、二年間に償還するは実際出来難きところなれば本条へ「若し償還し能わざる時は更に三年乃至五年延期すべき旨」を加えたしと主張す。拙者等は年限の事は過日既に協定したるところなれば、之に答弁する能わず、宜しく公使に相談あるべき旨を答う。公使は今日に至り又々斯の如きことを言わるゝは時機宜しきを得ず、余は廿三日に於ける協議書の外は最早需に応ずる能わずと断言せられ、朴氏頻りに其説を主張して止まず。公使終に怒りて議席を去る。拙者等彼れに忠告するところありしと雖ども、彼れ尚頑として動かず。因て拙者等も亦止を得ず席を退けり。
 然る後、杉村書記官より彼れ其説を取消たる旨通知ありしを以て更に復席して協議を継続す。

 魚允中は第五条の公債の件に関し「日本帝国に於て募集する」との廉は除きたき旨を述べたるも、拙者等之に応ぜざりしかば、終に其説を引けり。其他に就ては格別の異論なく契約書は明日調印すべきことに決し、此日の会議を了せり。

 翌三十日、拙者等度支衙門に赴き契約書の調印及交換を終え、且本貸付金に対して今後引渡すべき金額種類及日限等、彼れの請求に依り別紙付属書の通り取決めたり。尋で我公使館に於て該衙門の吏員へ今回携帯せし現金の引渡を為す。是より先、朝鮮政府に於ては目下差当り銀貨必要の筋あるを以て此度受接すべき五拾万円の内へも成るべく銀貨を混じ交付ありたき旨依頼せるに付、予て第一国立銀行仁川支店及同京城出張所に就き、銀貨の在高を問合せたるに、仁川には五万円、京城には弐万円現在せり。依て当日は該吏員へ兌換銀券四拾三万円と第一国立銀行京城出張所に於て交換したる銀貨弐万円を合て四拾五万円を交付せり。而して残額銀貨五万円は四月一日仁川に於て、同港駐在朝鮮監理事務へ引渡すべきことに度支大臣と協議しおけるに付、拙者等は同三十一日京城を出発し、再び仁川港に帰着せり。

 四月一日には則ち銀貨五万円を仁川駐在監理事務へ引渡すべき期日に付、在仁川我領事館を経て該監理へ照会したるに未だ其筋より何等通知なき旨申越せり。故に同日は引渡しの運びに至らず。
 翌二日、又領事館を経て督促せしに漸く其筋の通知に接したる旨申出たり。仍て午後一時第一国立銀行仁川支店に赴き、銀貨五万円を交換し、同所に於て之を該監理へ交付し、今回の要務は是に於て一と先完了せり。

(別紙は省略)

 一度決まったものを引っ繰り返す。まあ朝鮮ではよくあること。そして粘る朴泳孝。しかし空気の読めない男である。井上馨が怒るのも無理はない。それも逆の意味で。
 だいたい朴は忘れていまい。明治15年済物浦条約締結なった直後に、当時外務卿の井上に面会して賠償金の減額を国王親書を以て嘆願したことを。そして日本政府はそれに答えて40万円を帳消ししたことを。そう、つまり日本政府というものは朝鮮が泣きつけば必ずどうにかしてくれる性格のものであると、日本人とはそんなものであると知っているはずである。(この傾向はこの後も続き、そして実は今日もあまり変わらんのだよねえ(苦笑))
 ま、おそらくそれを知っていて、後からよりもこの場で変更に成功すれば朴泳孝自身の株を上げることになるとでも思ったろうか。
 そして怒って斥けたはずの井上馨であるが、案の定、後に返済期限延長のことについて以下のように政府に上申する。(はぁと)

(「同上」p117)

廿八年四月二十五日接

機密第丗一号
  日本銀行より朝鮮政府へ対し貸金の償還年限に付上申。

 今般日本銀行より朝鮮政府へ対し金三百万円貸付に付、其談判の顛末は機密第三十号信を以て及具報候に付、要細所諒悉の義と存候。
 然処右貸借期限を五ヶ年とし、初三ヶ年間据置き、後二ヶ年間両度に之を償還することは、近来取調たる当政府の歳入出予算に就き考案を下すときは、必然其履行に相苦み可申、先般本件の訂約に臨み当政府の諸大臣等切りに延期を懇求したるは誠に将来を気遣いたるに出て無理ならざる義と存候。

 尤も、当政府は後二ヶ年間に公債を募集し得る時は、其償還に差支なかるべきも、当国人は本来債件に付ては定めて末松鶴原首頭よりも御聞取済成の事、則ち其如何なる筋の道理なるやを明瞭する能わざるなり。
 之を説明するも例の疑惑心の深きと従来日本人又は外国人等より被詐偽終には多額なる賠償又は罰金を出し事を纔かに結了したる件に多々有之候に付、随分顧慮迷惑する義に有之候。

 依之鄙考するに、右償還年限を既訂約条の侭に致置く時は、当政府の困難を知りつゝ強て約条を訂結せしめたる廉あるは勿論、我政府は故らに期限を短くし後日難題を申入るゝ種子を蒔きたるにあらざるかの疑念を懐く者も各大臣中其他にも有之候義に御坐候。
 且又去月廿三日閣下の来電中にも「三百万円の返済方は税関を抵当とし、其元金は三年若くは五年据置き云々」と有之。左れば閣下の御意見も多少其辺に在るが如く被推察候に付、向後好機会を見計い、尚お五ヶ年を延期して貸借期限を十ヶ年と為し、元金は第四年目より七ヶ年賦を以て償還せしめ候得者、則ち四年目より四十二万八千五百七十一円宛に相成り、左の時は当政府は償還の困難を実行し得べく、尚一層我政府の恩義を相感じ可申と存候。

 右は我政府に於ても強て御異存有之間敷と致推察候に付、将来時機見計い前述の通り取計い可申と存候間、予め御承知相成候様致度此段及上申候也。
 遂て本文延期の義は日本銀行へも前以て御申含め相成候様致度候。

明治廿八年四月四日
    特命全権公使伯爵井上馨
外務大臣子爵陸奥宗光殿

 尤も、この後朝鮮国土は豊作が続き、国庫に余剰金が貯まったことにより順調に返済が出来ることになる。

 また、ついでに貸金3百万円領収の内訳を以下に記す。

(「同上」p199)

 魚允中印
一 金三百万元
   内
四拾三万元[紙幣]三月五日[陽暦三月三十日]於京城領収
二万元 [銀貨]同
五万元 [銀貨]三月七日[四月一日]於仁川領収
 以上五拾万元

七拾万元[銀貨]四月一日迄[陽暦四月廿五日迄]於仁川領収
二拾万元[紙幣]同
拾万元 [紙幣]同於東京領収
 以上百万元

二拾五万元[銀貨]閏五月八日[六月三十日]於仁川領収
二拾五万元[紙幣]同
 以上五拾万元

三拾五万元[銀貨]閏五月二十三日迄[七月十五日迄]於仁川領収
拾五万元[紙幣]同
 以上五拾万元

拾三万元[銀貨]六月十一日迄[七月三十一日迄]於仁川領収
三拾七万元[紙幣]同於東京領収
 以上五拾万元

都以上三百万元
 内
  百五拾万元[銀貨]
  百五拾万元[紙幣]

 

 そしてこの後井上は思い切った懐柔策を日本政府に上申することになる。まあ、この国に情を以て深く関わった人がたいてい通ることになる道であるが、それらは後に記す。

 

 

 

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