日清戦争下の日本と朝鮮(11)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

朝鮮軍務大臣趙義淵一行の日本軍慰問 清領金州城軍司令部に於いて  「朝鮮国軍務大臣一行[金州城軍司令内部]明治二十八年三月十九日従軍写真班撮影」
朝鮮より戦地へ派遣の官吏は、慰問使として当国軍務大臣趙義淵と随行員十五名及通訳四名なり。(「28、3、6 朝鮮より戦地派遣の官吏の慰問の件 大本営参謀長 楠瀬中佐」より抜粋)
 前列中央軍服の人が趙義淵である。この時に新制度の軍服を着用したことが、後に国王から排斥を受ける口実の一つとなる。

 

清国敗戦へ

 黄海海戦後、北洋海軍提督丁汝昌が北洋大臣李鴻章に送ったという書がある。その後の艦隊の様子が知られる。

(北洋海軍提督丁汝昌の北洋大臣李鴻章に贈る書)

  北洋海軍提督丁汝昌の北洋大臣李鴻章に贈る書

 謹で中堂閣下に白す。屡々各艦を急修す可き命を奉じ、船渠に於て日夜兼工せしむるを以て、今月<清暦十月ならんか[我十一月]>中旬後には、定遠、鎮遠、靖遠、平遠、廣丙等、総て出渠するに至る可く、弾薬も已に到着したれば、速に炸薬を装配し、以て航海準備を整う可し。汝昌の足は今尚お歩行に難く請暇加療中なるも、戦を指揮する事重大なれば、疾を力めて乗艦、以て指揮を鼓舞す可し。茲に我が海軍の利鈍に関し、略陳する所あらんとす。我国海軍創設の要旨は原より外寇を防ぐに在り。然るに無事の時に在ては軍艦製造の需費を籌算せず、有事に際すれば偏に進剿の命を伝え、彼我の衆寡を計らず一味接戦を促すのみ。勝算を操るの術なきは洵に愧づ可き所なり。独り我が師<李鴻章を謂う>此の情形を洞知して、我より戦を尋ぬ可からずと諭さる。実に彼此偶々相遇うに勢趨避し難きときは、固より決死力戦せざる可からざるも、只慮る所は、各艦の備砲三分の一は破損し尾栓、砲套は未だ到達せずして発射し難きもの多し。平遠は運動便捷ならず、備砲にも榴弾なく、廣丙は僅に六十余箇を存するものにして、此六艦は実際三艦の効用を為すに過ぎず、且つ定遠、鎮遠は錨機は破壊し、縦い改造するも少時に成工を期し難く、起錨するには補助を要し、而も尚お二時間を費やす。若し風浪あるときは更に長時間を費さゞるを得ず。汝昌、君相の重恩を受け、湯火を辞せざるものなり。現に諸将も同心協力奮て戦勝を図らざるものなし。勝々は則ち国家の幸福、否れば敢て微躯を棄つはあるのみ。若し事後其兵員の練習艦船は購備に鉅帑を費し国威を頼みたりと詆議するものあらば、罪を汝昌に帰せよ。愚衷実に顧るに遑あらざるものなり。書に臨て忌諱を揣らず。伏して諒ルを乞う。

         丁汝昌頓首
 李中堂閣下
        [本書には年月日を記せず。訳者註す]

 李鴻章の戦略、北京政府の感情、丁汝昌の人柄などがよく窺える文章である。

 清国海軍創設の目的は元より防衛にありと。しかし政府は平穏無事の時には海軍出費を渋り、いざ有事となると、敵を討ち滅ぼしてこいと命じ、両海軍の戦力も計らず、ひたすら艦隊決戦をせよと促すだけだと。
 我が師である李鴻章はよく洞察して、自ら求めて決戦をするなと。もちろん偶然遭遇した時は決死力戦せざるべからず、ただ各艦の砲は3分の1が破損しており、また準備整わずに使えないものが多く、また6艦の戦力は実質は半分と。また、定遠、鎮遠は錨の機械が壊れていて、錨を上げるだけで2時間かかると。

 この書簡の日付は記してないという。各艦が修理を終えてドックから出るのは11月中旬ぐらいになるだろうとあるから、10月頃の書簡だろうか。

 清国艦隊としては、上陸を目指す日本兵員輸送船を見つけて撃破することこそが防衛の要のはずである。日本軍艦と干戈を交えずに済むならそれにこしたことはない。軍艦の温存はそれだけで制海権の保持となり、日本の攻勢を充分牽制し得る。しかし北京政府と国内世論は、北洋艦隊に撃って出て日本海軍と決戦して討ち滅ぼせと命じ、また喧しかったと。
 で、結果、ズダボロ。

 丁汝昌は言う。
「汝昌、君相の重恩を受け、湯火を辞せざるものなり。現に諸将も同心協力奮て戦勝を図らざるものなし。勝々は則ち国家の幸福、否れば敢て微躯を棄つはあるのみ」と。また、もし後に、練習艦船に巨費を費やしたのがいけなかったのだ、などと誹る者があるならば、罪は自分1人に帰せよと。

 その後の結末を知る者にとって感慨深い丁の書簡である。

 さて、陸戦であるが、もうこれは日本軍破竹の勢いは相変らず。井上馨も次のように高宗に言っていたが、その通りでしょ。
井上「清兵一個人として左程弱きものにあらざれども、如何せん、之を卒ゆる士官が軍事上の教育なきと紀律厳粛ならざるに帰因す。我と交戦するに当って連戦連敗終に一回の勝を得ざるもの職として之に由らずんばあらず」

 ところが、1月の蓋平(現蓋州市)攻略戦に於いて、清軍の戦術が従来のものから変化した、という報告がある。

(「1.10 関谷少佐蓋平附近の戦闘見聞筆記」より()は筆者)

関谷少佐蓋平附近の戦闘見聞筆記

一月十日、[混成第一旅]団は蓋平の敵を撃破し、該市を占領せり。下官は一月十二日戦場に至り実地に就き戦況を聞きたるに、支那兵の行たる戦闘法は従来彼が慣用する所と大に異なる点を発見したり。因て其概況を左に報告す。
(中略)
   敵が従来慣用せる戦闘法と今回の戦闘法と相異なる所を挙れば左の如し。
一 城に拠らずして城外に於て防禦したること。
一 旗を全く廃止したること。
一 遠距離より射撃せざりしこと。
一 我兵の停止せる間は射撃せず。前進するを見るや、激烈に射撃せり。
一 後衛を止めて退却せんこと。

其他伝聞に因れば、敵の騎兵の如きも其運動の面目を改め、我騎兵の追跡するを見るや、止て展開して我を待ち、我騎兵は敵の兵力優勢なるが為め[五百騎なりしと云う]停止するを見るや、彼再び其隊を閉収して退却運動を始めたり。常に此の如くなしつゝ退却せんと云う。

 つまりは、それまでは旗を立てて「俺たちここにいるよ」と陣地を示し、城に篭りっきりで砲撃を容易に受け、当りもしないのに遠距離からやたら発砲しと、まるで素人の戦ごっこのような状態だったと。
 それらがすっかり改められて、更には日本軍が発砲しにくい前進運動中にのみ猛射するようになったと。
 しかしそれでも蓋平は一日で陥落しているのだが。

 2月13日、まさに井上馨が朝鮮財政再建策を報告していた頃、旅順港は陥落し、丁提督は自決し、清国北洋艦隊は遂に壊滅した。

(2.13 敵の砲艦白旗を挙げ来る 原田大佐)

   電報二月十三日午前七時三十分旅順発 二月十三日午後四時二十五分着   海電第六〇号

 只今陰山口より左の事を報じ来れり。
 本日敵の砲艦一艘白旗を挙て来りて丁提督より、軍艦、兵器、砲台等は総て差出すに依り、陸海軍人及西洋人人民の生命を助けられんことを願う旨、申来れりと。
    十二日午後六時龍睡湾
    原田大佐
大本営


(「2.17 丁提督自殺したり 黒井海軍大尉」より()は筆者)

   電報十四日午前十一時十分蛛i柳)樹屯旅順発 十七日午前九時五十分着   海電第六十一号

 新納海軍少佐より左の事を報告すべき旨申来る。
 昨日司令長官は敵の軍使に向い、請求通り許すに依り軍港を開放すべし。而して本日午前十時までに再び来り報ぜよと命じしに、今朝其時刻前に来り、報じて曰く。昨日丁提督及劉歩蟾、張文宣は自殺したり。後の事は凡て英人「マッケルウア」に委任したりと云う。由て司令長官は右「マックルウア」に今一の書翰を発し掛合中なりと。
  二月十三日午后一時 龍睡湾
     黒井海軍大尉


(28.2.20 全艦隊威海衛に入港敵の軍艦及砲台受取済)

電報
  二月廿日午前九時五十分長崎発 十時五十分着  中村常備艦隊参謀発電

 左の電報持来れり。
 本日午前、全艦隊威海衛港に入港。劉公嶋砲台、水雷隊営、鎮遠、済遠、平遠、廣丙、鎮辺、鎮中、鎮北、鎮南、鎮西、鎮東、その他官衙、受取済なり。鎮遠、済遠、廣丙には回航員を乗船せしむ。準備整い次第、鎮遠は一先旅順港に、其他は本邦に回航せしむる筈。各所砲台及水雷衛所は旅順口海兵団の兵員を以て守備し居れり。康済は武装を解き、丁汝昌の柩を回送せしむる為め彼れに与えたり。
 [第一遊撃隊は修理の為め、吉野、秋津洲、浪速は佐世保に、高千穂は呉に、本日回航せしめんとす]

 二月十七日  威海衛港
       伊藤聯合艦隊司令長官
 大本営

 丁汝昌らの柩を乗せた康済には丁の息子も同船し、日本軍はこれを弔砲を発して見送ったという。日本海軍のこの処置は新聞にも報じられ、内外に大きな感動を与えたと録している。

 で、終に清国政府は敗北を認めざるを得ないことになったと。

(「陸参274号 3月28日 天津通信」より()は筆者)

(略)
  三月二日
(略)
 李鴻章は其肩に首を維持するの難き時となれり。李は謁見の為め三たび召喚せられ終に参内したるに、皇帝陛下は李を扣所に待たしめ、閣臣を集めて李の処分を議したるに、元侍講にして現任大臣たる李鴻藻出て陛下に対し、李の栄誉を回復せしめられんことを勧告せり。
 次で謁見を許され、李は跪て其失政の罪を謝するの言を発せしとする時、皇帝は李鴻章に向い、長歎息して曰く。
 「朕は此国の長にして朕が上に立つものあることなし。然れども朕に亜ぐものは卿李鴻章なり。蓋し総理大臣は国君を措ては勿論の長なればなり」と。
 然れども或は曰く。此詔中には別に意味を含み、暗に李鴻章が皇帝の権威を侵奪したることを諷したるなりと。
 李が皇帝に対し、支那軍は日本の兵を撃ち退くるを得ざることを陳べたるとき、皇太后は其傍に在りて号泣したりと云う。
(略)

 廟堂に西太后の号泣が響いたと。で、李鴻章の首はつながったと。まあその後の談判をこなせる人物は他にいないだろうし。なお平壌戦の敗将衛汝貴は死刑となっている(「1月16日.」C06061946900)。丁提督も無事に帰国したとしても恐らく死罪は免れられなかったろう。丁はそれを予期していたはずである。しかし敗将は殺すというその中国人の発想が理解できない。

 

ただの取次人はお断り

 さてさて、東学党関連の記述を始めてからもう1年と3ヶ月になる。我ながら何とまあ物好きなことだと独りごちせずにおれないが、更にこの後、日清講和談判に至るまでの各国の思惑、また談判そのもの、そして三国干渉と、朝鮮との関係浅からぬ大物のテーマが控えている。
 う〜ん、ま、ぼちぼち行きましょうか。

 で、清国が最初に派遣した講和使節が、またも全権委員というよりも、清国政府との講和談判取次人だったことから、日本政府が、「清国はいいかげん近代的交渉法に基づけよな」と言って会談を拒絶するところから。
(以下「日清講和始末 B06150072600」、「張、邵来朝及談判拒絶分割1」、「張、邵来朝及談判拒絶分割2」、「張、邵来朝及談判拒絶分割3」、より)

 清国政府は明治27年11月には講和の道を探る様相を見せた。もちろんそれが本心からのものなのか、取り敢えずの休戦を得て軍備を整え直すことを目論むものかは定かではない。
 そこのところを陸奥は「蹇蹇録」で次のように述べている。

 「・・・・因て彼等は兎に角日本が如何なる条件を以て戦争の息止を承諾すべきやを知らんと欲したり。而して彼等は日本政府の意底を探るの第一着手段とし、先ず欧米各国に哀訴歎願し日清両国の間に立ち仲裁の労を取らんことを以てしたり。十一月十二日、在独青木公使より余に電稟して曰く『本使は独逸外務大臣より密に聞く所に拠れば、本日当国駐箚清国公使は独逸外務大臣に面晤を乞い、日清の戦争に関し独逸国の仲裁を請求せり。因て同大臣は、清国は如何なる条件を以て講和を要求する覚悟なるや、と尋問せしに、清国公使は、朝鮮の独立を認むる事及び軍費を償還する事、の二件を以てすべし、と答えたり。同大臣は今や日本は方に連戦連勝の利運を有す。右二条件のみにては容易に満足せざるべし、と云いたり。清国公使は、然らば如何なる条件を以てすれば適当なりと思わるゝやと反問せり。因て同大臣は、是れは本大臣の答うる限に在らず。清国は寧ろ直接に日本政府に向い之を問うに如かず、と答えたり』との事あり。又其頃、西公使よりの来電にも在露清国使臣は恰も同一の請求を露国政府に提出し、露国政府は亦直接に日本政府と開談すべしと慫慂したりと云えり。清国政府は荐に其在外使臣に命じて、各々任国に向い仲裁を請求せしめたれども、孰れも独逸政府と同様なる口調を以て拒絶せられ、殊に英国政府の聯合仲裁の失敗したるの後は、彼等は終に直接に日本政府に向い講和条件を聞かんと決意したるが如し。(「蹇蹇録」の「第十四章 講和談判開始前ニ於ケル清国及欧州諸強国ノ挙動」p2)

 つまり清国政府は欧州各国に仲裁を依頼したと。しかし結局は米国の仲裁を日本が受け入れる事を示唆したことにより、その運びとなる。
 どうして日本政府が米国を選んだかは以下の陸奥外務の話に、
 「日清両国の間八閲月に亘りたる戦争を息止すべき端緒は米国に由て啓かれたり。欧州各国は互に縦横連合の策を講じ、動もすれば弱肉強食の欲を逞くせんとする最中に於て、新世界の中央に建国して常に社会一般の平和を希望する外決して他国の利害に干渉せざる政綱を主持する米国は、近日東方問題に関し欧州強国の形勢甚だ危険なるを見て、遂に日清両国に対し、友誼的仲裁を為すに至れり。(「蹇蹇録」の「第十五章 日清講和ノ発端」p1)
とある通り。
 けどまあ陸奥さん、ちょっと米国褒め過ぎ。弱肉強食の欲を逞しくするというなら、そもそも米国はアメリカ原住民を駆逐して領土を我がものにした欧州人の寄せ集めの国なんだけど。

 で、清国政府は11月22日には在北京米国公使に依頼して、次の条件を以って講和の談判を開始するのを承諾するかどうかを打診。

東京米国公使宛      
 日本外務大臣に左の通り伝えられたい。

 清国政府は直接に講和開談を開くことを我が方に委任し且つ依頼した。

その条件は、
朝鮮独立の承認。
相当の償金弁償の事。

1894年11月22日午前10時40分
    北京に於て 在北京米国公使デンビー

 で、22日、陸奥外務は直ちに返信案を以下のように作成して伊藤総理に提出。

 北京及び東京に於ける合衆国代表者を経て清国が申し出た提議は、平和の基礎として日本国が承諾出来ないところのものである。
 日本は成功に乗じて極端に走る望みを持っていない。しかも戦勝に属する正当な結果を収めんと望む。
 故に清国がもし前陳の宣言に従い講和の権を付与した全権委員を任命するに於ては、日本は該全権委員に対して以て戦争の結局に同意すべき条件を説明するだろう。

 しかしそれに対し伊藤総理はよく熟考した上で、次のように「平和の基礎として日本国が承諾出来ないところのものである。」から以降の部分を以下のように修正。

 現今の状況では、清国政府が満足な講和の基礎を提出しようと願っているような心情があるとは思われない。もし清国政府が真実に和睦を願望するなら、当然のこととして正当の資格を備えた全権委員を任命せねばならない。そして日本国政府がそれによって戦争を休むことに同意すべき条件は、両国全権委員が会合した上で初めてこれを宣言するだろう。

 そして陸奥外務に、
「本大臣が修正を提出した所以は、既に合衆国に対して与えた回答をそのまま重ねて清国に与えることは得策でないだけでなく、本大臣から既に貴大臣に述べたように、清国政府に於いて実は今日和睦を願望するものではないことを指摘することは大いに都合がよいだろうと思考するからである。両国全権委員が会合した結果として、或いは再び戦端を開くことを免れられないかもしれない。その上は我が国に於ては止むを得ず仮借することなく極点まで干戈を進めざるを得ないだろう。至急返事あれ」
と電信。

 で、陸奥外務は以下のように返信。

「貴大臣から提出された修正に関し、その理由に対しては本大臣も至極同意する。且つ貴大臣が清国の今日の姿勢を看破されたのは本大臣が疑いを容れないところである。しかし既に合衆国に向って媒介者たらんことを申入れた今日に於いて、もし貴大臣から提出された回答をそのまま交付するなら、或いは拒絶がましくみえるかもしれないことを恐れる。尤も、今、貴大臣が提出されたような十分な宣言をすることは、この後或いは必要とするかもしれない。しかしながら、この際、貴案の回答に対して左の意味で修正を加えて宜しくないか。」
と述べて次のように修正文を提出。

 現今の状況では、清国政府が満足な講和の基礎に同意しようと願っているような心情があるとは思われない。しかしもし清国政府に於いて真実に和睦を願望し、そのために正当なる資格を備えた全権委員を任命するならば、日本国政府は両国全権委員を会合させた上で、日本国政府がそれにより戦争を休むことに同意すべき条件を宣言するだろう。

 更に言葉を次いで、
「我が国から何かこのように述べないなら、我が国が事を極度に進める決心があるとの感覚を与える恐れがある。そしてこの際、このような感覚を醸すことを避ける事は緊要なようである。至急返事あれ」
と。

 26日、伊藤総理は陸奥外務の修正にOKを出し、よって日本政府は同日、正式に以下を回答した。

 北京及び東京に於ける合衆国代表者を経て清国が申し出た提議は、平和の基礎として日本国が承諾する事は出来ないところのものである。
 現今の状況では、清国政府が満足な講和の基礎に同意しようと願っているような心情があるとは思われない。しかしもし清国政府に於いて真実に和睦を願望し、そのために正当なる資格を備えた全権委員を任命するならば、日本国政府は両国全権委員を会合させた上で、日本国政府がそれにより戦争を休むことに同意すべき条件を宣言するだろう。

  1894年11月26日 東京外務省に於て[但し11月27日米国公使へ交付]

 それに対し清国政府は同月30日になり再び米国公使を介して、「日本の回答には何を以って講和の基礎と見なすかが明言されていないので、日本政府の意を知る事が出来ない、よって講和の件を議するために清国から大使を任命し、また両国が議する問題の概要を日本政府から示されたい」という問い合わせをした。

 しかし12月2日、日本政府は、「清国政府は、和睦を請うべきか否かに関し、今なお確定しないようである。しかし抑も戦争を休むことを請求したのは日本国ではなく清国である。それゆえに日本国は前に述べたように、相当の資格を有する全権委員と会合した時に限り、日本国から講和の条件を宣告する。もし清国がこれに肯諾出来ないならこの件はこれまでである」と回答。

 そもそも日清戦争当事者は日本国と清国である。それを米国を介して談判準備の交渉をするとしても、談判条件まで明らかにする必要はない。否むしろその内容が漏れれば講和が整う前に第三国の干渉を受ける恐れがあった。日本政府としては、日清両国の全権代表者が会した時に初めて提示した方が有利となるのである。又この頃に山縣伯と面会した井上馨から、「自分は我が軍が勝利の結果を見ると信じるので、講和の件をあまり急いでは好結果とならないと思う」との電信があったりもした。

 12月12日、清国政府は米国公使を介し、「日本政府が前回の提議を拒否したのは遺憾である。清国政府は日本国政府の述べることに従い、全権委員を任命し、和睦を結ぶ方法を商議するために、日本国の委員と会合することを提議する。それには上海で講和会談を開きたい。また何時会合するかを知りたい」と提議した。

 同月18日、日本政府は、「日本も全権委員を任命して会談することは差支えない。まず先に清国政府から委員の氏名官位を日本国政府に通知するを要する。またその地は必ず日本国内でなければならない」と回答。

 同月20日、清国政府は米国公使を経て、「総理衙門大臣張蔭桓、湖南巡撫邵友濂を全権委員として日本国に派遣するので、日本国に於いても速やかに全権委員を任命し、その日から休戦の期日と決定する事を望む、また会談の地は清国政府は往復の便利のために上海近傍で会談することを望むが、長崎を以ってその地としたい」と提議。

 何かこんな細々としたところまで駆け引きしているが、清国としては講和談判が遅れるほど戦況も講和条件も不利となってくるはずなのだが。

 よって同月26日、日本政府は、広島を会合の地とし、また休戦の件に関しては両国全権委員が会合した上でなければその条件を述べることはない、と回答。

 同月29日、清国政府は、「日本政府が任命する全権委員の姓名と官位、また清国全権委員が上陸する場所を明示することを望む、また広島に至るためにどの港に上陸すべきかを告知されんことを望む」と申し来る。

 間に立つ在北京米国公使デンビーも同月30日に、「予は日本が清国の些細な請求も拒絶することに迷惑している。もし日本が全権委員の姓名を清国に通知するなら商議は日本の利益になるだろう。また清国は面目を立てるために言っているに過ぎないのだから」と不平を述べた。

 しかし31日、日本政府は米国公使の文句などガン無視。「日本は全権委員の姓名官位を予め清国政府に通知する必要を認めない、又、清国全権委員らが中立国の国旗を掲げた船で下関に来着すれば広島に行くための便宜の準備をする」と回答。

 明治28年1月5日、清国政府は、「張蔭桓は7日に北京を出発し、山海関から中立国旗を掲げた汽船で上海に赴き、同地で邵友濂と会した上で中立国の船で広島に向う、又、日本の港に入るときは慣例に拠り清国国旗を掲げる」と申し来る。

 同月7日、日本政府は、「清国政府から申し出の取り決めを承諾するが、特派する官吏が下関で船を臨検して清国全権委員の乗る船であることを確認するまでは、同船は清国国旗を掲げることは出来ない」と回答。

 同月18日、林外務次官から陸奥外務宛て電信。「今朝、英国公使が小村寿太郎に語ったことに、在清国英国公使の通信によれば、北京政府は、国憲に背くという理由で、英国公使が勧告したにも拘わらず、張蔭桓に全権を与えなかった」と。

 かくて清国使節らは1月26日に「エンブレス・オブ・チャイナ」号にて上海を発した。ところが下関で停船せずに神戸港に直行。そこから再び海路で広島に向い、31日に到着した。なお、一行は総勢49人であった。(内、従僕が24人)

 さて、まさに清国使節が日本に向う同月27日、広島の大本営では講和開談に向けての御前会議が開かれた(「張、邵来朝及談判拒絶分割2」p36)

出席閣僚は、小松参謀総長宮殿下、 伊藤内閣総理大臣、 西郷海軍大臣兼陸軍大臣、 陸奥外務大臣、 山縣陸軍大将(監軍)、 樺山海軍中将(軍令部長)、 川上陸軍中将(参謀次長)。
 そこで伊藤総理が閣内で決した講和に関する陳奏は以下のものであった。

・ 今回、日清両国が交戦に至った主因である朝鮮国の独立の件。
・ 将来、戦略上に必要なる土地譲与の件。
・ 軍費賠償の件。
・ 将来国民が清国に於いて通商航渉の便益に関する件。
・ 以上が条約の主眼であり、他は次点である。
・ 清国使節が万国公法を尊んで来日するなら、我が国もまたこの国際法によって応ずるのは当然である。
・ 仮に清国のために計るなら、この上にも連戦連敗を招いて遂に北京の城下に至るような地位に陥るよりも、寧ろ今こそ局を終決することが得策だろう。
・ しかし自分が清国を知る所において察する時には、(今回の使節派遣には)清国の断然たる決心があるとは信じられず、恐らく一つの成議も見ないだろう。
・ しかしもし清国に大いなる決心があるとする時は、今回の会合で本件は終局となるかもしれない。
・ もし講和の条件が一度明らかになれば第三国の容喙干渉を招くだろう。否、殆どこの事は免れられないだろう。
・ ただしその干渉がどのようなものになるかは今は予測できない。
・ よって我が国の講和条件を多少変更せざるを得なくなるか、または強敵を加えても飽く迄我が国の要求を通して動かないかは、その時に応じて評議を尽すべきである。

 以上の点で興味深いのは、講和条件に関して第三国の干渉は免れられないだろう、と断言していることである。そして条件の変更も想定と。
 ひょっとして、どうせ干渉を受けるのだから、うーんと大風呂敷を広げた条件にしておけ、という算段はなかったのだろうか(笑)

 さて1月31日、日本政府は全権委員として内閣総理大臣従二位勲一等伯爵伊藤博文と外務大臣従二位勲一等子爵陸奥宗光を任命し、それを清国全権委員に通告し、且つ2月1日午前11時を以って広島県庁にて会談すべきことを通知した。
 清国使節はこれを諾することを公文を以って回答。

 よって2月1日、広島県庁に於いて両国員は会晤。先ずいつものように全権委任状を確認。

 日本政府は、

天佑を保有し万世一系の帝祚を践みたる大日本国皇帝[御名]此書を見る有衆に宣示す。
朕帝国と大清国との和好を回復し、以て東洋全局の平和を維持せんが為め、茲に信任する所の内閣総理大臣従二位勲一等伯爵伊藤博文、外務大臣従二位勲一等子爵陸奥宗光の材能敏達なるを以て全権弁理大臣に簡命し委するに格別に又は共同調印するの全権を以てす。而して其議定する所の各条項は、朕、親しく検閲を加え、其妥善なるを認めたる後、之を批准すべし。
神武天皇即位紀元二千五百五十五年明治二十八年一月三十一日 広島行在所に於て親ら名を署し璽をツせしむ。
  御名 国璽
     内閣総理大臣伯爵伊藤博文副署

との全権委任状を提出。

 ところが、清国側は以下のような国書を提出。

大清帝国大皇帝は大日本大皇帝の好を問う。我両国、誼同洲に属し、素と嫌怨なかりしに、近ごろ朝鮮の一事を以て、彼此兵を用い民を労し財を傷うは、誠に已むを得ざるに非ず。現に米国が間に居り調処するを経るに因り、中国より全権大臣を派し、貴国より全権大臣を派し、会商して妥かに局を結ばん為め、茲に特に尚書銜総理各国事務大臣戸部左侍郎張蔭桓、頭品頂戴署湖南巡撫邵友濂を派し、全権大臣と為し、国に前往して商弁せしむ。惟だ願う、大皇帝接待せられ該使臣をして以て職を尽すべからしむることを。是れ望む所なり。

 言葉こそ全権大臣としているが、単に張大臣と邵大臣への信任状のような形式であり、条約調印の全権委任状という形式でないことから、日本側は、「これでは平和条約を締結するために必要な全権委任状と見なすことは出来ない」と陳述し、他に適当な全権委任状はないのかと質した。

 すると清国使節は、以下の書面を提出。

皇帝の勅諭
 尚書銜総理各国事務大臣戸部左侍郎張蔭桓、頭品頂戴署湖南巡撫邵友濂を派して全権大臣と為し、日本より派出の全権大臣と事件を会商すべし。爾は仍お一面に、総理衙門に電達し、朕の旨を請うて遵行すべし。随行の官員は爾の節制に聴かすべし。爾其れ精誠を弾竭し、謹で事を行い、委任に負むくこと勿れ。爾其れ之を慎めよ。特に諭す。
 光緒二十年十二月初十日(日本歴明治28年1月5日)勅命之宝満文(国璽)

 つまり談判では総理衙門に電報して判断を請えと。
 先の1月18日付電信で、北京政府が張らに全権を与えていないことは予想できたが、案の定また只の取次人であった。
 よって日本側は、「大体どういう権限があるの? 一切の権限があるの?」と公文を以て回答を求めた。

 翌2日、清国使節は、
「本大臣は、本国大皇帝から講和締結のための条款を協議し、記名調印の全権を与えられた。協議するところの条款は迅速に弁理する事を期すために、電信で本国に奏聞し、勅旨を請い、期を定めて調印し、その上で協議したところの条約書を持って中国に帰り、大皇帝が自ら見て果して妥当であるとして批准されるのを待って施行することとする」
と回答。

 つまりは真の意味での全権はないと。
 それにより伊藤博文全権弁理大臣は以下のように演説をして清国使節に諭した。

(「張、邵来朝及談判拒絶分割3」p4より現代語に、()は筆者)

   明治28年2月2日、張蔭桓、邵友濂両閣下に対する伊藤全権大臣の演述

 本大臣が今同僚と共にとる処置は、論理上止むを得ない結果であって、その責任はもとより本大臣らに帰するものではない。

 従来、清国は殆ど列国と遠離し、時に列国の財団に関与することで生じる利益を享受することがあっても、その交際に伴う責任については往々に自ら顧みないところがある。清国は常に孤立と猜疑とを以てその政策としている。ゆえに外交上の関係に於いては善隣の道に必要とする公明と真実とを欠くは当然である。
 清国政府の使節が外交上の盟約で公然と合意を表した後に、翻然としてこれに調印することを拒み、或いは厳然として締結した条約に対して、明白なる理由も無しに漫然とこれを拒否した実績は一度では足りない。
 それらの実績を考えるに、当時清国政府の意中にはこれを現す誠実がなく、またその談判に当る使節に対しても必要な権利を委任されることがないのは、全く皆そうでないものを見ない。

 ゆえに今日の事がある当初に於ても、我が帝国政府は、まずこれまでの事実を鑑み、全権の定義に合わない清国政府の使節とは一切談判を避ける決意を以て、講和談判を開くに当っては清国政府の使節は講和締結に対する全権を有さなければならないということを予め一つの条件とした。
 そして清国政府がこの条件を守って全権者を我が国に派遣されたという確かな担保を認め、我が大日本国皇帝陛下は本大臣ならびに同僚に委任するのに、清国政府の全権者と講和を確定し条約を締結し調印する全権を以てされた。
 清国政府はすでにこれを保証したにも拘わらず、両閣下の委任権が甚だ不完全であることは、清国政府の意中はまだ和を求めるのに切ではないと確認するに足るだろう。

 昨日この席に於て交換した双方の委任状は一見してその軽重の差が甚だしいのを知るのは批判を待たないことであるが、これを指摘するのも無駄ではないと信じる。
 則ち、一(日本側)は開明国の慣用である全権の意味に適うが、他(清国側)は全権委任の必要な諸事項が殆ど欠乏していることがそうである。これに加え、両閣下が携帯された委任状は閣下らが談判されるべき事項も明らかにされていない。また何等の締約の権利も与えず、且つ両閣下の行為に対する清国皇帝陛下の事後の批准についても一言するところもない。

 これは要するに閣下らに委ねられた職権は、本大臣及び同僚が陳述する事を聞いてこれを貴政府に報告するに止まるものと言わざるを得ない。

 事はここに至った。本大臣らはこの上談判を継続することは決して出来ない。
 或いは言うかもしれない。今回のことは敢えて従来の慣例に背いたものではないと。
 しかし本大臣は断じてこのような説明では足りることはない。清国内地の慣例に対して本大臣はもとより容喙する権はない。しかしながら、我が国に関連する外交上の案件に至っては、清国特殊の慣例は国際上の法則に凌駕され抑制されることを主張することは本大臣の権利であると同時に義務であると信ずる。

 抑も、平和の回復は至重至大のことである。今再び和好の道を開こうとするなら、これを目的として条約を締結する必要があるのみならず、その互に締約したところは必ず実践する誠実さがなからねばならない。
 講和のことに関しては、我が帝国から進んで清国に求むべき理由を見ないとしても、我が帝国はその代表する開明の主義を重んじるので、清政府が正当の道を踏み、その著を開くに於ては、これに応じる義務があると信ずる。
 しかし無効の談判、紙の上の約束に止まる講和に参与するようなことは、将来も堅く謝絶するところである。我が帝国は一旦締約した条件は必ずこれを実践すべきを明言すると同時に、清国に向ってもまたこのように履行することを確めざるを得ない。

 故に清国が切実信誠に和を求め、その使臣に実際の全権を委任し、且つその締結する条約の実践を担保するに足るべき名望官爵ある者を選んでこの任に当らせるに於ては、我が帝国はさらに談判に応ずることを拒まないだろう。

 まず日本人の中国に対する不信感は極めて強い。伊藤の話に、
「(原文)清国は常に孤立と猜疑とを以て其の政策とす。故に其の外交上の関係に於ては善隣の道に必要とする所の公明と信実とを欠くや宜なり。清廷の欽差使臣が外交上の盟約に付き、公然合意を表せし後、却て翻然として之に調印することを拒み、或は儼然已に締結したる条約に向て、更らに明白なる理由も無く漫然之を拒否せるの実績、一にして足らず。右等の実績に就て之を徴するに、当時清廷の意中操持するの誠実なく、其の談判の局に当れる欽差に至ても復た必要なる権利を委任せられざる、比々皆な然らざる無きを見るべし」
とある通りである。
 まことに日清衝突に至るこの数十年を見ればそのことは歴然。抑も中国が善隣友好の信頼関係というものを大切にしておれば、日本は公使館護衛や居留民保護を理由に朝鮮に派兵する必要もなかったのである。

 で、日本政府としては、
「これは要するに閣下らに委ねられた職権は、本大臣及び同僚が陳述する事を聞いてこれを貴政府に報告するに止まるものと言わざるを得ない」と。

 よって同日、日本政府は清国使節に、全権委任状を有するとは認められないとして、談判中止を宣言。
 終に清国使節は帰国の途に就き、長崎に至った時、清国政府は再び在北京米国公使を介し、「完全なる全権委任状に改めるので、当分長崎に滞留させたい」と申し出た。
 しかし日本政府は、「もし清国政府が誠実に講和の意があって正当なる全権を有した名望官爵の使節を派すならば、いつでも再び講和談判を開くだろう。それを一度不調に終わった使節をそのまま長崎に留めて本国政府からの訓令を待たせるようなことは出来ない」と回答。
 よって同月12日に清国使節は長崎を発して帰国した。

 ところで、11月22日の米国大使を介しての清国政府の講和打診に対して、陸奥が返信案を書き、それを伊藤が修正し、また陸奥が手をいれるというところや、2月2日の伊藤の演説などを読むと、伊藤博文の方が陸奥よりも随分と強気だったとの印象を受ける。かつての明治18年の天津条約締結に向けての李鴻章との伊藤の一歩も退かない議論振りからもその人柄や考え方が窺われたのであるが、陸奥宗光がカミソリ大臣という異名を持つなら、伊藤博文という人は日本刀を真正面から振りかぶるような人だったと思えてきた。
 とかく艶福家だったことばかりが言われて、この人を正当に評価するものをあまり見ないのが真に遺憾である。

 

中朝間の条約と慣例

 さて、日本政府は前年10月には日清の戦後処理も考慮し、朝鮮国の独立問題に関して予め取調べておかなければならないことがあった。それは、

 1 清韓両国間にある条約。もし機密条約があるならそれも。

 2 清国政府、清国の商会商人に対する負債の有無。

 3 従来からの両国間にある慣例で改革を要するもの。

 である。(「明治27年10月22日から明治28年2月2日」p1)

 それに対し井上馨は2月2日、以下のように調査回答。(「明治27年10月22日から明治28年2月2日」p4)

 1 条約は中朝約章合編にあるもの(「中国朝鮮商民水陸貿易章程」や「中江通商章程条款」など)と、元線合同(元山などの電線条約)である。

 2 負債は別紙(「・ 朝鮮財政の破綻危機」朝鮮財政の破綻危機」の表にある「招商局」以下の5行のものと同じ)。清の商人と上海香港銀行に対する分は月々若干づつ償還している。

 3 使節接待や方物(お土産)などは別紙(以下)。

(「元線合同 辛卯」p11より、()は筆者)

  清国より朝鮮へ派来せる使節接待等の諸■目は載せて
通文館志(朝鮮の外交記録)
  巻之四 事大篇の下廿六箇条中に在り。勅行行の目より始まり、■単の目に終る。諸儀式節目等記載して遺すことなし。其頁数は巻四第一頁より起る。
大典会通(朝鮮の法典)
  巻之三、第廿八頁接待客の篇に在り。


(「同上」p13より、()は筆者)
(朝鮮政府から清国への使節一覧)
事大典礼
 建儲謝恩使
 嗣位謝恩使
 冊妃謝恩使
 追崇謝恩使
 告訃使
 請諡使
 賜祭謝恩使
 賜諡謝恩使
 登極進賀使
 尊号進賀使
 冊立進賀使
 討平進賀使
 陳慰撫進香使
 冬至兼歳幣使
 問安使
 陳奏使


(「同上」p14より、()は筆者)
使行方物記(朝鮮から清国への使節のお土産の一覧)
  冬至例方物 正朝聖節合為一行
 皇帝前
  黄画龍表筒 裌綃栿(袱)分合具
  黄細苧布 十匹
  白細苧布 二十匹
  黄細綿紬 二十匹
  白細綿紬 二十匹
  龍紋簾席 二張
  黄花席 二十張
  満花方席 二十張
  雜彩花席 二十張
  白綿紙 一千三百巻

 皇后前
  紅画鳳状筒 裌綃袱分合具
  螺鈿梳函 一事
  紅細苧布 十匹
  白細苧布 二十匹
  紫細綿紬 二十匹
  白細綿紬 十匹
  黄花席 十張
  満方席 十張
  雜彩花席 十張

皇太后前 与皇后同而只黄画鳳状筒異(皇后と「黄画鳳状筒」が異なるだけで他は同じ)

皇太子前
  紅画龍箋筒 一 裌綃袱分合具
  白細苧布 十五匹
  白細綿紬 十匹
  黄花席 十張
  満花方席 十張
  雜彩花席 十張
  白綿紙 五百巻

(中略 一番規模の大きなものは以下)

  進香(「参拝」という意味)方物
 皇帝前
  黄画龍祭文筒 一 袱上同
  白細苧布 一百匹
  白細綿紬 二百匹
  白銀 三百両
  白綿紙 五千巻
  白紙 五千巻
  沈束香 三両
  芙蓉香 二十枝
  清密 十五斗
  黄栗 十斗
  柏子 十斗
  銀杏 十斗
  大棗 十斗
  胡桃 十斗
  乾柿 十貼
  銀香盒 一事
  画龍■ 一双
  大燭台 一双

(以下略)

(他には、水獺(かわうそ)の皮が20張とか豹の皮が2張とかの方物の使節もある)

 かつて明治15年に近藤代理公使が報告した朝鮮から清国への貢物一覧(・ 臣、皇帝に大院君の赦免を陳情する)とは量こそ違え内容的にはおよそ同じである。
 大体に於て、当時朝鮮国の特産物がどのようなものであったかが窺えて面白い。すなわち布、敷物、紙が主であったということであろう。螺鈿の函や銀の香盒などもあることはあるが、清国皇帝や皇后に対してすら年に1個ぐらいのお土産なんだよねえ、属国なのに(笑)

 

李鴻章来日

 さて、朝鮮政府内で内閣総辞職するだのしないだの勝手なことを言って揉めていた頃、清国政府は最初の講和使節が不首尾に終わったことから、直ちに内閣大学士李鴻章に全権を与えて講和談判させることに決した。(以下「日清講和始末 06150072600」、「李鴻章来朝」より)

 またその頃、日本政府も先の清国講和使節が要領を得ずに帰国した事から、講和条件の大要をあらかじめ清国政府に知らせることを認め、2月16日付で、在東京米国公使を経て、以下のものを送致した。(「李鴻章来朝」p18)

 日本政府は、清国が軍事賠償金を支払うこと、朝鮮の完全なる独立を認めること、戦争の結果として土地を割譲し、将来の交際を律するため確然たる条約を締結すること、以上を基礎として談判する事が出来る全権を具備して来なければ、講和使節を派遣しても全く無益であるとする。また、重要さに於いて次点であるその他の事項があり、これも商議決定することを要する。また日本政府は今後何時でも必要と認め、また望ましいと思考するに於てはこの上更に要求を提出権利を保有する。

 それを受けてであろう、清国政府は同月19日付で直ちに先の李鴻章派遣のことを通知し、また会合の地をどこにするかを問うた。(「李鴻章来朝」p20)

 ここの所、「蹇蹇録(「第十七章 下ノ関談判(上)」p2)」では、いずれも17日付と18日付と記述して行き違いとなったとの認識を示しているが、実際は日本政府からの英文電は「16日米国公使に交付(p18)」であり、また北京からの英電は「Peking, February 19・・・Denby(在北京米国公使デンビー)(p20)」と19日となっているので、実際は行き違いではなかったのではなかろうか。

 で、日本政府は直ちに返電。またも不完全な全権委任状では無駄になるので、先に清国政府が全権委任状を電信で日本に送付してはどうかと忠告。

 よって清国政府は漢文で送付。しかし受け取った日本政府は中に意味不明の部分があるので英文で送付するよう通知。
 次いで英文が送られて来たが、今度は漢文のものと相違するところが多々あったので、この上は英文のものを基礎とし、漢文のものは無効と見做すこととした。

 電信往復の末、漢文も英語文の内容に修正して提出。

 大清国大皇帝勅諭す。大日本国と重ねて親睦なる友誼を修むることを欲し、特に文華殿大学士直隷総督北洋通商大臣一等伯李鴻章を大使に任じ、授くるに全権を以てし、日本国にて任命する所の全権委員と会し、共同商議して便宜事を行わしむ。同大臣は予め和約条款を定立し之に署名画押するの全権を有せり。該大臣は国体に公忠にして夙とに勲労を著わせり。定めて能く詳慎、将に邦交締結せしめ、以て朕の委任に負かざるべし。定めところの条款は、朕親しく査閲を加え果して妥善に便ならば批准特勅すべし

 日本政府が正式に清国政府の講和談判の申込を承諾したのは3月4日であった。下関で会合する事。また、清国政府が米国公使に、国際公法によれば全権委員は暗号電信で政府と通信出来るはずなので、それを日本政府が許可するように斡旋を依頼していたが、これも李鴻章が日本から清国政府に暗号電信を使用する事を許可すると。更に準備のために2週間を要するので、その頃に到着するようにと通知。
 で、李鴻章が終に皇帝に敗北を報告し、聞いた西太后が号泣したのがこの頃。しかしこれからが李鴻章の手腕でもある。

 かくて、李鴻章が随行員33人従僕90人を率いて中立国の船である独逸商船に乗り、3月14日に天津を発して下関に到着したのは3月19日であった。

 

清国、西洋諸国に干渉を依頼

 さて、いよいよ日清講和談判の開始なのだが、もちろん清国政府としては敗戦による講和条件の不利を極力減らそうと努力するわけで、伊国、英国、仏国、独国、露国に対して講和条件への干渉を乞うべく働きかけをしている。

 馬関にいる伊藤総理の3月20日付け午後1時30分発の小松参謀総長宮殿下宛ての電信によれば、イタリア駐在高平公使からの電報によれば、英国駐在の清国公使がイタリアを訪れ、清国皇帝の名でイタリア皇帝に対し、講和に関して清国の利益となるよう斡旋を依頼したと。もっとも、イタリア政府としては、土地割譲を含む日本の要求に対しては異存は無いとのことだったらしい。

 また、英国、仏国、独国、露国に対してものは以下の情報が。

(3月20日 伊藤総理大臣から小松宮参謀総長 在英国加藤公使より通信)

極秘  電報 三月二十日午後一時三十六分馬関発 同一時五十五分着

 在英国加藤公使より左の通り電信あり。

 「ルウタル」の電信に依れば、清国政府は英、仏、独、露に駐箚する其公使に訓令して、日本国より支那大陸に於ける土地の割与を要求したるときは、支那大陸の完全を保たん為め、右諸国の干渉を乞うべしと命じたるよし。又、在露国「タイムス」新聞通信者の報告に依れば、露国は其地中艦隊を挙げて尽く太平洋に送ることに決し、其準備中なりと。

 右御奏上を乞う。
        伊藤総理大臣
 小松参謀総長殿下

 清国なら当然そうくるだろうし、露国なども干渉に踏み出すからには軍事力をちらつかせるだろうし。
 ただ東洋平和という観点から言えば、また清国の将来にとっても、わざわざ獰猛な連中を家の中に引き入れるようなものではなかったろうか。
 無論、伊藤としては「免れられない他国の干渉」ということで、想定の範囲内だったはず。

 

再び日清両巨頭の談判

 さて、日清講和談判は英語を以って議論された。その記録である英文記録と、これを要約した日本語要録では当然ある程度の相違がある。英文の方が会話のやりとりがリアルで面白いのだが、さすがにこれを訳して載せる気にはならない。それに所詮は勝者と敗者の談判である。天津条約の時のように対等に鬩ぎ合った談判に比べて面白みには欠ける。よって全文を載せるのは今は未定。ここでは初日の談判のみを掲載したい。(一部、英文記録翻訳)

(「日清講和条約締結一件/会見要録」の「分割1」より現代語訳、()は筆者)

会見要録 第1回 3月20日午後3時 馬関藤野楼上に於いて

 李鴻章以下は当日午後3時に会見所に到着した。階下の休憩所に於いて小憩の後、階上の会見室に入ったのは定時を過ぐることおよそ5分であった。李はなおも精神溌剌としものであったが、相当な老齢であった(当時72歳)。
 伊藤伯爵は李たちに握手の礼をし、各々に座席を勧めた。
 両国出席者の官氏名は次の通りである。

全権弁理大臣伯爵
全権弁理大臣子爵
内閣書記官長  
外務書記官   
外務大臣秘書官 
外務省翻訳官  
(同上)       
伊藤博文 
陸奥宗光 
伊藤巳代治
井上勝之助
中田敬義 
陸奥広吉 
楢原陳政 
頭等全権大臣一等粛毅伯
参議官        
参賛官        
参賛官        
参賛官        
参賛官        
東文翻訳官      
李鴻章
李経方
羅豊禄
伍廷芳
馬建忠
盧永銘
羅庚齢

伊藤「[李に対して]数日の航海は起居恙なきや」

 「幸いに老健で。顧みれば閣下とは天津で会晤して以来ほとんど10年になる。その間、閣下は貴国のために労されて功を立てられたが、余は何等我が国のために尽力するところなく、徒に齢を重ねて役に立たずに殆ど無用に至らんとする。余は今までのことを思い、また先を想い、甚だ慙愧に堪えないものがある」

伊藤「閣下の称賛と謙譲は実に過ぎている」

 「今回の航海は幸い天候が穏やかで極めて快適であった。ただ一日暴風に逢って24時間栄城湾に止まった。そこに止まらなかったら1日早く着いていたろう」

伊藤「どこから乗船されたか。天津からか」

 「然り。天津埠頭から乗船した。この地に到着した後に、予め余等のために丁寧に準備されたと聞く。感謝に堪えない」

伊藤「当初、他の地を選択しようとしたが今日の際なので多少の不便を忍び双方が会合する便宜を考えてこの地を選定した。既に見られたように僻地なので不便ではあろうがお許しありたい」

 「山水秀逸でこのような好適の地を選択されたことを感謝する」

伊藤「他事はさておき、先ずは互いに全権委任状を照査することを望む」

[この時李鴻章は肯いて黄絹の包みを解いて、黄龍を画いた筒の中に収めた委任状本書に英訳文を添えて伊藤伯に手渡し、伊藤伯はまた恭しく錦の袋を解いて委任状本書に英訳文を添えて李鴻章に手渡された。伊藤伯は李鴻章の委任状を陸奥子爵に示され、李鴻章は我が委任状の英文を李経方、羅豊禄に示し、邦文を盧永銘に示し、小声で2、3話した。双方の委任状本書は左のものである。

(日本の全権委任状)
天佑を保有し万世一系の帝祚を践みたる大日本国皇帝[御名]此書を見る有衆に宣示す。
朕、大清国との平和を回復し、将来の交誼を保維する為め、茲に信任する所の内閣総理大臣従二位勲一等伯爵伊藤博文、外務大臣従二位勲一等子爵陸奥宗光の材能敏達にして忠誠公に奉じ謹慎事に従うを以て特に全権弁理大臣に簡命し委するに格別に又は共同調て清国より特派する所の全権大臣と会同協議し、便宜事を行い講和条約を締結し、之に記名調印するの全権を以てす。而して其議定する所の各条項は、朕、親しく検閲を加え、其妥善なるを認めたる後、之を批准すべし。
神武天皇即位紀元二千五百五十五年明治二十八年三月十五日 広島行在所に於て親ら名を署し璽をツせしむ。
  御名 御璽
     内閣総理大臣伯爵伊藤博文副署]

(清国の全権委任状)
大清国大皇帝勅諭現因欲与大日本国重敦睦誼、特授文華殿大学士直隷総督北洋大臣一等粛毅伯李鴻章、為頭等全権大臣、与日本国所派全権大臣、会同商議便宜行事、定立和約条款、余以署名画押之全権、該大臣公忠体国、夙著勲労定能詳慎将事締結邦交、不負朕委任、所定条款、朕親加査閲、果為妥善、便行批准特勅

 委任状交換が終った後、

 「余は開談の初めに1片の書を提出する必要があると思う。漢文英文で書いたものを今、羅豊禄に英文を朗読させることを望むが、閣下には許諾されようか」

 伊藤伯は直に許諾され、羅豊禄は起って朗読した。漢文は文末に付するが英文の訳は左のものである。

 「清国皇帝陛下の特命全権大使は平和談判を開くに当り、その予約として両国の休戦を承諾し、ある一定時期の間、直にこれを施行し、その期間は全く水陸の交戦を停止することをここに提議する。本大使はこの提議をする数ヶ月前にこれと同一の議を在北京及び東京米国公使を経て提出した時、日本政府は両国全権大臣の開談の際に宜しく商議すべきものと思考する旨、言明された事実を記憶されることを希望する。本大使は、永久の平和交誼の回復に付いて商議調印する全権を有し、また本大使は今回の使命を受けて重要なる目的を達する誠意を有する。そしてこの商議を有効なものとする前立約休戦が最も必要であると信じる」

(漢文 略)

伊藤「この覚書については明日に答えるところがあるだろう。閣下には余等が受けた委任状はこれでよろしいか」

 「最も正式に整っており遺憾はない」

伊藤「ならば余等は閣下の委任状を受取り、閣下は余等の委任状を受けられるか」

 「そうしよう。閣下らは余の委任状に満足されるか」

伊藤「然り。[微笑]ただ余の委任状には我が皇上の御親署があるが、閣下の委任状には国璽のみで貴国皇帝陛下の親署はないが」

 「我が清国の例では国璽をツするのみで足れりとする。即ち他国の親署と同一の効力を有する。およそ我が国から他国に使臣を簡派するにあたり、委任状には国璽のみを用い。親署がないのが恒例である。或いは他日、貴国のように進歩すれば親署するに至るかもしれないが、その変更を見るにはなお幾多の歳月を要するだろう」

伊藤「余はこの事について論難しようとは思わないが、そもそも清国は何故他国の例規を認めようとしないのか」

 「我が国の典礼に対し、臣下たる者は君主に対して典礼に違うことを奏する事は出来ない」

伊藤「中国皇帝陛下の聡明なること必ずこのような典礼は変更されるだろう。前回の使節が果たせずに空しく帰還されたのは、余等が最も遺憾とするところである。しかしその時の委任状は実に不完全であっただけでなく、貴国が切実に和を求めている実がないと認識されたことにより、そのような結果を見るに至ったのである。閣下が今回の使命を受けられる前、余等は貴政府が自ら和を求めざるを得ないように百方力を尽した。閣下は今日貴政府にあって官位名望最も高い人であり、必ず十分に務めを洞察されてあるだろうが、余等が先ず聞くことを望むのは、貴国は誠に和を求めるに切なのかどうかにある」

 「我が政府が和を乞うことに切なのは、余をこの使臣とさせた一事実を以って証明するに余りあると信じる。余はこの顕著なる事実を措いて我が政府が和を欲することの急である意向を他に表明するのを知らない。余はまたその誠意がないならば、どうしてこの使命を奉じて遠くこの地に来ようか。閣下には微衷あることを諒察されたい。余は閣下とは旧知でもあれば、公に於ても私に於ても誠を開いて談話することを欲する。閣下がまた同じ感懐で余を遇されることは余の切望するところである」

伊藤「余はまた責任の重大なことを感じる。思うに閣下の感懐もそうであろう。苟も重責を負うてこの大任に当る以上は、余等は閣下の意を了解して誠実に談判するべきは勿論である。ただ望むところは、閣下の経験と技量によって妥局を見ようとするにある」

(以下の部分のみ、英文和訳する。「日清講和条約締結一件/会見要録」の「分割3」p80より)

 「中国と日本は、ヨーロッパから見てアジアの中で卓越した2大国である。我々は同じ人種(黄色人種の意)であり、類似の文学があり、社会的にも多く似たものをもっている。 我々は真に敵であるよりも兄弟であるべきであり、対立よりも強調すべき関係が切である。我々の内、片方に有害なものはもう片方に於いてもそうに違いないし、よって争わざるを得なくなった関係ではなく、友好の上にそのことがなされることを望む。東洋の人で閣下ほど西洋人に対する東洋の置かれた現在の状況を知る人はいない。西洋からの我々への風当たりは、それを防ぐのに全力を注がねばならぬほど強大である。今こそ黄色人種が白色に備えねばならない時期である。余は今度の戦争が幸いにも我々が連盟を結ぶことの障害とはならないことを十分に信じる理由を有するものである」

伊藤「余が天津に居た時、余は、貴国のためには多くの改善をすることが最も重要であると友好的提言をした。しかし全く何の変化もなかったことを、余は非常に残念に思う」

 「確かに日本は驚異的に変化したのは全くそうである! 閣下の指導は全く我が国の進歩と発展に関係あるものであった。余が閣下同様に我が祖国を誘導できなかったことは非常なる慙愧の至りである。しかし余を信じられたい。我が国は21省の広大な行政区を有し、日本よりも長い年月を要するだろうことが余の慰めとしてあるが、今も余の意中に重要なる改革の希望を捨てていないし、当時余がそのことを明言したことを閣下には記憶されていよう。余は今度の戦争において却って2つの好結果をもたらしたと思うものである。第1は、ヨーロッパに於ける陸海軍の方式戦術は、黄色人種もまたこれを利用して効果を収めることが出来ることを立証し、第2には、中国を遂にその永い眠りから目覚めさせるに至ったことである。余は、今度の交戦によって日本が中国に与えた刺激というものが我が国の将来の進歩のために最も有益であったことを信じて疑わないものである。我が国の人の多くが貴国を怨むのが甚だしいのは事実である。しかし、余は個人としては少しもそのような感懐がないばかりか、むしろ貴国に感謝するものである。余が先に述べたように、中国と日本は東洋の2大国である。科学に関する知識では日本はヨーロッパに均しいものがある。そして中国は天然資源が莫大である。したがってこの両国が結べばヨーロッパに対するに不可能のものがあるとは言えないだろう」

伊藤「余は、天は全人種に公平であると確信している。したがって、中国が心から改良を望むならば、そのことが可能なことは疑いないことである」

(以下、再び「日清講和条約締結一件/会見要録」の「分割1」p14より現代語訳、()は筆者)

 「余は貴国の跡を踏んで我が国の進歩を計ろうとする意は切実であるが、如何せん、齢は既に古希を越え、到底閣下の偉業を学ぶ余年はないことを遺憾に思う」

伊藤「我が国の進歩は一に我が皇上の御威徳による。決して余等の力ではない」

 「貴国皇帝陛下は聡明叡智に渡らせられて常に御心を国事に傾けさせ給うことは伝承仰敬するところである。しかしまた陛下の偉業を輔翼する賢宰相がなければならない。閣下は現に陛下の御信任を忝くし総理大臣として輔弼の大任に当られている。余は明君賢相が相まって国運を隆昌させることを疑わない」

伊藤「[話題を一転し]閣下はなお本船に止まることを望まれるか」

 「否。余は貴方に於て鄭重に設けられた所があるのを聞き、早速上陸して宿泊し、以ってその厚意を空しくしないことを望む」

伊藤「それならば何日頃に上陸されるか」

 「余は明日の午前十時に上陸する」[この時両国列席委員で送迎の手順などの打合せをした]

伊藤「次回の会合は何日にしようか」

 「ただ貴方の便宜に任せる。余は何日でも異議はない」

伊藤「それならば明日の午後二時から会合することとしよう」

 「午前十時に上陸するので、午後二時三十分に参会することに決められたい。余は幸いに閣下の旧知あるを以って、かりにも思うところを秘密とせずに貴聴に達っしたいので、閣下にはまた隔意なく十分に好意を開示されることを希望する。余は老体を以って今回の重任に当る。閣下がもし積年の旧誼を捨てないというなら、願わくは余の苦悩を察し、余にこの使命を全うさせられることを懇請する」

伊藤「貴意を諒解した。[微笑しつつ]中堂は老健でその上長身豊肉。余は閣下が重責大任を負うに足るのを疑わない」

 「[心より笑って]閣下の体は余より小さいが精気は満身にわたり、その力量は余の何倍もあるのは、閣下が貴国の政治を運営してよく功績を顕されたことを以って知るに足る。余はまた我が国のために微力を尽すことを願うが、余齢多くないと信じる。今にしてこれまでのことを思えば、寧ろ恥じて死ぬべきである。ところで閣下の年齢がいくつかを知ることが出来ようか」

伊藤「余の齢は55歳であり、閣下よりも18年幼い」

 「たとえ精神は確かであっても余の天寿を知るだけである。どうなるかは分らない。」

伊藤「閣下は健康でありなお永く国のために尽力されると信じる」

 「厚意感謝する。閣下は陸奥子爵と同宿されているのか」

伊藤「いや、別々である」

 「貴国皇帝陛下は今なお広島にあらせられるか」

伊藤「然り。昨年9月13日東京の皇宮を出られて以来、広島にあらせられ、陸海軍は勿論、内外一切の政務を親裁し給う」

 「貴国皇帝陛下は聡明に渡らせられ給い、親しく国事を見給うに御精励であることはよく聞いている。閣下も近来は非常に多忙であろう」

伊藤「然り。非常に繁劇である。ある時は広島に、ある時は東京に、内外一切の政務を見ざるを得ない」

 「馬関(下関)に於いて世界各国と自由に往来できようか」

伊藤「もとよりそうである」

 「余らは到着の事と会見の要旨を本国政府に打電することを望む。許されようか」

伊藤「閣下の要求なれば特に許諾する。先の張邵両氏の来日の時は許諾しなかったが」

 「厚意多謝する。張邵両氏の不完全からあのような失態を招いたのは余が恥じるところである。結局、彼等2人は外国の事例に疎い者である」

伊藤「閣下は張邵両氏は外国の事例に疎いと言われるが、張氏は永く米国公使だったのではないか」

李経方「[口を挿んで]張氏は通常の公使だっただけである。今回のような大任を負って外国に使いしたことはない」

伊藤「[伍廷芳を見て]張邵両氏の失敗は、結局はこの人の過ちであろう」

[この時、伍廷芳は怒った顔をした。李は大いに哄笑した。李経方は伍廷芳のために弁じた]

李経方「伍氏は単に天津から同伴を命じられた迄で、委任事項については知らないことである」

伊藤「知っているかどうかではない。同伴した以上は伍氏の責任は免れられない」

 「当時閣下が専門的な論で主張されなかったら余は老体でここに来ることはなかったろう」

伊藤「[微笑して]外交上、専門的なことを重んじないのは清国だけではない。時に己の便宜のためにこれを重んじない傾向があるが、外交に於いては各国の例規には従わないから応接しないということは閣下もまた承認されるべきである」

 「貴国は聡明叡智なる皇帝陛下を戴き、賢相は立って輔弼の任に当られ、国運は隆々であるが、我が国は大いに揮わず、旧弊ははびこりこれを改革するは最も困難である」

伊藤「しかしまだ国会というものがないので治めるには却って容易であろう」

 「我が国には国会よりも更に困難な御史(監察官)というものがあるのは閣下も御存知であろう」

伊藤「余はかつて天津で閣下と会談した時に、その御史などというものは漢朝以来の古代制度でむしろ害があっても利はないから断然廃するように言ったことは閣下も御記憶あろう」

 「然り。しかし御史を廃するべしなどと一言を発することすら斬首刑に相当するのでどうしようもない。かりにも文明思想を有する人士と語る時は有効でも、暗愚で時勢を見ない人々に対してはただ溜息をつくだけである。そもそも清国は広大なる各省に別れているので、これを統一する力が政府には乏しい」

伊藤「貴国が西洋の事情に暁通するのは最も貴国のために有益と思う。そして外交の当局者は[陸奥外務を指して]この人のように1人で足りる。

陸奥「[李に向い]今、総理衙門には親王としてどなたが着いてあるのか」

 「■(Kung)親王である。大鳥氏は今何の官職にあるか」

陸奥「大鳥氏は枢密顧問官である。袁世凱氏の近況はいかに」

李経方「彼は阿南にいる」

陸奥「職にあるのか」

 「官名はあるが現職ではない」

[談話は暫く途絶えた]

 「先ほど見られた覚書に対しては明日に口頭で答えられたい」

伊藤「承知した。熟読の上、口頭か書簡で答えるだろう」

[以上で当日の談判終わる。時に午後4時15分であった]

 李鴻章曰く「「中国と日本は、ヨーロッパから見てアジアの中で卓越した2大国である。我々は同じ人種(黄色人種の意)であり、類似の文学があり、社会的にも多く似たものをもっている。 我々は真に敵であるよりも兄弟であるべきであり、対立よりも強調すべき関係が切である」
 また曰く「今こそ黄色人種が白色に備えねばならない時期である。余は今度の戦争が幸いにも我々が連盟を結ぶことの障害とはならないことを十分に信じる理由を有するものである」

 或いは曰く「余は今度の戦争において却って2つの好結果をもたらしたと思うものである。第1は、ヨーロッパに於ける陸海軍の方式戦術は、黄色人種もまたこれを利用して効果を収めることが出来ることを立証し、第2には、中国を遂にその永い眠りから目覚めさせるに至ったことである。余は、今度の交戦によって日本が中国に与えた刺激というものが我が国の将来の進歩のために最も有益であったことを信じて疑わないものである。・・・・中国と日本は東洋の2大国である。科学に関する知識では日本はヨーロッパに均しいものがある。そして中国は天然資源が莫大である。したがってこの両国が結べばヨーロッパに対するに不可能のものがあるとは言えないだろう」
などと。

 まあ、当時としてもありふれた観点からの論なのだが、李鴻章が言うとなぜか説得力がある(笑) しかしそれに対して伊藤は、
「余は、天は全人種に公平であると確信している。したがって、中国が心から改良を望むならば、そのことが可能なことは疑いないことである」
と答えるのみ。アジアとか西洋とか人種とかの問題ではないだろ、おまえの国の問題だろ、と。
 天津条約からほぼ10年。中国は何の変化もなかったと。
 この後の李鴻章を見れば、人種がどうのこうのというその言葉は空しい。すなわち露清密約締結と。

 

休戦条件を承諾せず

 談判第2回目は3月21日午後2時半から。
 前日に李鴻章が提出した休戦の覚書に対する伊藤の回答は以下であった。

(「日清講和条約締結一件/会見要録」の「分割1」p24より現代語訳)

 大日本帝国全権弁理大臣に於ては、戦地から遠くにあるこの地にあって、休戦を約束することが講和談判の妥結を結ぶ必須の要義と見做すことは出来ないが、もし両国が対等に利便を担保するに足る条件を付するなら休戦を肯諾するだろう。
 大日本帝国全権弁理大臣は、目下の軍事上の情勢を察し、また両国交戦を中止することによって生じる結果の如何を顧み、次の条件を付すべきと思考する。

 日本国軍隊は、太沽、天津、山海関、などに在る城砦を占領すること。
 前記、各処に在る清国軍隊は一切の兵器軍需品を日本国軍隊に引き渡すこと。
 日本国軍務官によって天津、山海関の鉄道を支配すること。
 休戦期間、清国は日本国の軍事費用を負担すること。

 もし以上の条件に異議がないなら、休戦を実行するべき期日、期限、日清両軍の境界線、及びその他の細目を直ちに提出すべし。

 大日本帝国全権弁理大臣は今ここにこの回答を行い、且つ将来の誤解を防ぐ為めに、先に清国政府が休戦のことを提議されるに当って、帝国政府から与えた回答は、大清国派遣の全権大臣閣下が言われるような意義ではないことを一言しておくことが必要と思考する。当時帝国政府で用いた文言は次の通りである。

「又、たとえ日本政府が休戦を許諾する場合があるとしても、両国全権委員会合の上でなければ日本国政府は右の休戦に関する条件を明述しない」

 これに対し李鴻章はまず占領地に対し、(以下「同上」p26より要約)

 「それらの場所は閣下も御承知のように、まだ貴国軍の制圧下にはない。それ故に占領とは一時の保証であると解してよいか」

伊藤「もとよりそうである」

 と、休戦に対する保証としての一時占領であることを確認。
 この頃、清領を天津方面に向けて前進する日本軍部隊は、牛荘を経て田庄台に至っていた。(「丙号3月6日第1師団戦闘詳報」、「丁号3月9日田庄台に於ける第1師団戦闘詳報」)

 次に李鴻章は休戦期間を問い、伊藤は短いのが良いと答え、また李鴻章は、「この休戦条件は重大な事なので十分考慮して答えたい」と述べ、伊藤もそれを諾した。

 しかしここからが李鴻章の老獪さ。よく考慮してと言いながら、すぐに「代案はないか」と問う。伊藤は「我が方からは代案無し、清国側から提議があるなら聞こう」と答えた。
 李はそれには答えず、休戦は全部休戦か一部休戦かを問い、更に、

李 「両国は2大国であって恰も兄弟と異ならないのに不幸にして兵馬を相まみえたので、自分は老体を以って日本に来て休戦を懇願するために来たのであるのに、例え一時にせよ、この重要の地を日本の質とすることを、その直隷総督である自分が我が政府には勧告し難い」

と自分の政治的立場を訴えた。対する伊藤は、

伊藤「国を代表して会見する以上は、個人の立場の利害を念頭に置くべからず」

と突き放す。李鴻章は尚も、「両国の利害は一致しており積年の親交は殊に厚いので、自分は両国が平和を回復するよう切に望む、ついては休戦定約に代わる条件を出してもらいたい」と言葉を弄す。
 伊藤は、「代わるものはない」と再び突き放した。

 その後何度か押し問答のような状態が続いたが、伊藤は遂に、「休戦条件の承諾がないなら、交戦を続けつつ講和の談判をする外はない」と申し渡した。
 それに対し李鴻章は、

李 「閣下が貴国皇帝陛下のために力を尽すように、余も我が皇帝陛下の政府のために微力を尽さざるを得ない。そして一国の利害を重んじなければならない。そもそも今回の事は貴国は開戦の初めから陸海軍の準備を整えていたが、我が国は全く準備なく、ために戦う毎に大敗した。今更それを述べても益なく、また敗辱の後に切実に和を乞う者であるが、なおも我が国の名誉を保てる程度の、貴国からの寛恕を頼まざるを得ない。おそらく貴国には我が国を全く潰滅しようという非情はないだろう。もし万一そうならば人情の常として永遠の復讐を思い、たとえ一時的に平和となってもその悪感情は脳底に宿って拭うことが出来ないことになるだろう。つまりは貴国民がある程度満足し、それ以上を求めて我が国を虐待されないよう誠実に求めざるを得ない。太沽、天津、山海関を貴軍に引き渡すようなことは、最も重大の地を委ねて我が帝国は一掃されたのに異ならない。もしこのような苛酷の条件でなく、より寛大な条件で休戦を許諾されるなら、余は和議となるのが迅速となると信じる。元来今回の交戦は、端を朝鮮に発した。朝鮮は既に貴軍の占領するところとなった。今や進んで我が満州を蹂躙され、我が陸海軍は大敗を受けてここに和議を乞わざるを得なくなった。閣下は昔を回想して我国の誠実を篤と思われて今一層の寛大なる処分法を考慮されることを望む」

と述べ、それに対し伊藤は、

伊藤「今更、過去の事実を多言する必要はなし。まして交戦の原因に遡って云々する時機ではないが我々に非がないことは一言しておく。そして和好を重んじるために会談を承諾しているのである。故に閣下からの休戦提議に応じて、我が国が妥当と思う条件を出したが、もとよりこれらの要地を占領するのは一時的なものであり、決して永久ということではない。そしてこれを占領しても破壊するものではない。即ち和議が整うまでの保証に過ぎないのであから適当な時機に至れば貴国に還付するものではないのか」

と答えた。

 つまりは、李鴻章が自から述べた、白人からの東洋の防衛、我らは兄弟のような国、積年の親交云々の大義(大言?)は、結局は自国の利害の前にはかすみ、更には自分の政治的立場にとってはどうでもよいことと。うん。李鴻章は相変わらず分りやすい中国人である(笑)

 この日、結局は休戦条件については妥結せず、李鴻章は当初言ったように十分考慮する時間を与えられたいということで、一週間はどうかと言う。伊藤が、一週間は長すぎだろ、と言うので、では4日間はどうかと。しかし伊藤は3日後がよい、ということで24日に改めて回答するということに決め、この日の談判を終えた。

 

 さて3日後の3月24日、第3回会談は午後3時から同じく下関の藤野楼上に於いて開かれた。
 この日冒頭李鴻章は、清国が提議した休戦に対して伊藤全権が提出した休戦条件を正式に拒否。
 よって日清交戦状態のまま日清講和談判に移ることとなった。

伊藤「和を議するのは閣下だけの希望ではなく、貴国政府もまた切望していることであることを知りたい」

李 「余のみでなく政府挙げての希望である。高齢の余を遠く貴国に派遣された一事以外に我が政府の誠意を表す道を知らない」

伊藤「それならば、講和談判が議決したものは全て誠実に実行されると信じるが果してどうか」

李 「もとよりそうである。どうして貴慮を煩わせようか」

伊藤「そうであろうが、貴国の外交歴史の中で多少知っていることがある。事実としてあることに、他国と締結したことを時々実行しないということがある。よってこちらとしては最も慎重にならざるを得ない。余は講和談判の最初に当って、決定した事項は必ず実行せねばならないことを申し置く。そして決定したことは必ず実効を顕し、以って君主の信任に答えねばならない。そこをよく諒解されて十分の決意で談判に臨むことを深く希望する」

李 「それは全くそうである。元来我が国は外国交渉に慣れず、ために一度締結調印したことを実行しなかったことは全くないとは言えないが、光緒年間(1875年〜)以降は締約したものは批准しないものはない。ただイリ事件で露国と締結して批准しなかった1例があるだけである。そしてこれも後に妥結して終に実行した」

伊藤「イリ事件の他にもある。英国との条約もそうである。しかし今はこれらの詳細は論じない。兎に角、もし一片の紙の上の約束で終わるようなことがあれば、両国の戦争の惨害は続き、両国にとって益々不幸なこととなる。この点十分に閣下には承知されるように」

李 「我が国の十分なる誠意を認識されんことを。この上は平和の条件を言われたい。余は十分心して閣下と談判することを望む」

 詳しいことは知らないが、中国は条約を調印しながら批准や実行をしなかったらしい。ま、約束破りは中国朝鮮に限らないが、とりわけ中華圏の国はそんなもんでしょう。条約ではないが今日でも派手に災害支援金の提供を表明しておきながら、後でこっそり額を減らしたり支払わなかったりする国があったりとかね。
 そう言えば、明治17年朝鮮事変に於いて清兵が日本居留民を大勢殺害したことへの、天津条約と共に決議した照会文の実行については、あれからどうなったのだろうか。清国が回答したという資料は見ない。

 しかしこの日清講和条約が後に反故にされるようなことがあっては日本はたまらない。伊藤の繰り返しの念押しであった。

 その後、明日25日から講和談判を始めることに決し、余談として両者で色々と話しが交わされた。中で面白いものは、李鴻章がそもそもこの戦争には反対であったと言ったことである。

 「余が常に平和主義をとり、また熱心に平和を主張した者であることは、閣下も熟知されていよう。今回のように、まだ戦端を開いていない時に於いて、余は何度も平和を強く主張した。しかし不幸にして用いられずに今日至ったのは真に遺憾である」

伊藤「戦争は決して愉快なものではない」

 「余は米国グラント将軍と何度も話をしたが、この余と同年齢の彼は南北戦争で功を立て、余は長髪族の討伐に功を立てた。彼と余とは功に於いて平和主義に於いてその意見を同じくする」

伊藤「誰が最初から戦争を欲しようか。ただ事局の勢いの為めに国と国とが衝突するだけである」

 「然り。衝突は止むを得ないとしても、速やかにそれを免れる道を講じなければならない」

伊藤「[笑いながら]戦争がないならこの上の幸福はない。第一に巨額の軍費を要しないという利がある。[この時皆が笑った]」

 「真に然り。近年の兵器弾薬の費用は巨額であり、財政に影響すること大である。余は既に高齢に達したので、血を見るのを欲しない。少壮の政治家は往々にして主戦論を主張するが、余は断じてそうではない。ただ国家の無事を祈るのみ」

伊藤「閣下の意中はそうであろうが、今回の戦争は貴国が本当に避けようと思えば避けられたものである。しかし貴国はその尽す可きことを尽さなかった」

 「余は当初から意見を北京に出したが、状況を判断できない北京の顕官らは余の意見を排斥した。為めについに今日の時局を見るに言った。余の終生の恨みである」

伊藤「我が政府は戦端がまだ開いてない時に、事は両国に渉るので両国が協議して(朝鮮の事を)協同で処しようとしたが、貴国政府は謂われなく我が厚意の提議を拒絶され、それで止むを得ず兵馬相見ることになった。当時、貴国政府が閣下の意見を容れていたら今日の衝突はなかったろう。実に惜しいことである」

 「実に遺憾千万である。北京政府の政治家は外国の事情に疎く、徒に圭角を現して円満を求めずに却って今の破綻を見る。平和党の領袖である恭親王などは内外の状況などをよく知るが、戦端を開いた当時は参議されてなくて、何も知っておられなかった」

 へ? 先述した「在清国公使館撤回始末書」にあるように、李鴻章は日本が提議した朝鮮改革案をよく詮議しないままに拒絶して主戦論を称え、しかし北京政府内では平和主義を唱える者が多くなり、一時ついに李鴻章の行動を制限しようとする動きにまでなったのであるが・・・・。言ってることが逆じゃん(笑)
 ま、明治17年朝鮮事変での日本人殺害について、その謝罪を求めただけで、「戦争する?」と言うぐらいの人だからねえ。結構、血の気の多い老人であったと思われる。何か大院君と相通じるものが(笑)
 しかし李鴻章の老獪ぶりはさすがである。 無論、こんな大嘘も談判駆け引きの手の内ではあろう。

 さて、その後、伊藤は台湾の事を匂わせ、李鴻章はその言葉にギョッとして英国のことを持ち出し、伊藤は英国は容喙しないと断言し、両者その他いくつかのことを述べて会談を終わったのは午後4時15分であった。

 北京政府が求めていた休戦の事はならず、どう見ても清国側には不利な内容に終わったこれまでの談判であるが、この後驚愕の事件が起きて状況が一変するのは、会談終り李経方がまだ談判会場に居て、李鴻章のみが藤野楼上を出た直後であった。

 

李鴻章遭難

 事件第一報を次のように東京外務省に打電。

(「李鴻章遭難」p2より現代語に)

受第245号
28年3月24日午後7時46分発 8時5分着

 本日4時頃、両国全権大臣の会合が終り、会合の場所より旅館へ帰る途中、路傍に佇んでいる群衆の中から群馬県平民小山六之助なる者[26才]がピストルで李鴻章を撃ったが、眼の下の頬骨に中り弾は中に止まっている。よって直ちにその旅館に連れ込み、随行の医者によって治療中である。犯人はすぐさま捕縛された。その事を聞くや、伊藤全権大臣と本大臣は早速旅館に到って訪問し、又医者を差し出した。今また電信で佐藤軍医総監を呼び寄せ中である。貴官はこの事を全て外国公使に話され、公使等の反応を一々電信で送られたし。

    下関  陸奥大臣
 林次官

(以下「李鴻章遭難」より要旨)

 また陸奥はその日の内に、京城の井上馨にも同様の報せを打電。
 伊藤全権は当地で裁判を開くことが出来るかどうかを検討し、更に広島に急行。

 石黒佐藤両軍医の診察によれば怪我は生命の危険にまで至らなかったが、念のため外国人医師にも診察させることとした。
 (拳銃の威力が弱かったのか、それとも頬骨が硬かったのか、そう言えば李鴻章は骨太の巨躯の人である)

 翌25日には、下関から海外各国に発表した。

 その日、独逸公使、英国公使、米国公使が外務省に来省。仏国公使は書記官を遣って事実を問い合わせ、また露国公使は不在とのことであったが26日には来省。

 各国公使は以下のように意見を夫々述べた。

独逸公使
 「休戦についての日本からの要求の箇条は北京からの電報によって全て知った。しかし今それに対して言うことは出来ない。また、李鴻章の事はヨーロッパで甚だ悪感情を起すことは疑いない。これと似た事例を考えると、数ヶ月前にモロッコの講和使節がマドリッドに来て、王宮からの馬車に乗ろうとする時、半狂人の非番陸軍士官が不意に拳をあげて使節の面部を殴った。回教徒にとってはこの上ない無礼なこと故、スペイン政府はモロッコへ謝罪の使節を送り、且つ和睦の要求条件を寛大にするの止むを得ずに至った。この例は「タイムス」新聞にあったので探して見つけ次第に郵送する(後に日本政府は記事を入手)」

英国公使
 「今度の事件は甚だ嘆かわしい次第で、欧州の感情は甚だ悪いだろうと言う外はない」

米国公使
 「欧米の感情は甚だ悪いだろう。李鴻章は日本政府の保護の下に於いて、その指定の地に送られた使節であって、その保護が行き届かずに談判を継続することが出来ない事態に陥ったものなので、後に談判が出来る状態になるまでは談判を中止し、日本政府は彼の求めに応じて休戦する外ないだろう」

露国公使(26日)
「これまで支那は各国政府に調停を嘆願したが、これを聞くべき理由もないので相応の挨拶で済んだ。しかし今度の事件で、支那は十分に嘆願する理由を得た」

 また、イタリア外務大臣は27日に次のように在伊日本公使に語った。
「事件は講和談判の全体の進行には余り影響はないだろう。しかしこれは個人的な考えであるが、外国の干渉が避けられない事態に至るなら、自分はイタリア政府にそれを防ぐ処置を執らせるように勉めることもあるだろう。ただしそれは、日本国が清国の割譲地に於いて、イタリア国の利害に関する工業商業の発達を奨励し、以ってイタリア国に便宜を与えるという条件に於いてである。これは土地を求めているのではなく、単に通商上の事に於いてである」

(イタリア外務大臣は正直でステキ(笑))

 また、この25日、東京国民新聞の徳富猪一郎(蘇峰)は新聞者を代表して以下の慰問状の取次を外務大臣に申し出た。
 「日本国民は閣下の不慮の災厄を歎惜する。これは狂漢のなすところで、日本国民の意志は正々堂々にして唯に正義に則ってその道を尽すことを望んでいる。故に余は日本国民の興論を代表すると信じる日本帝国における有力なる国民新聞を代表して慰問状を呈す。閣下には幸いに我が国民の真意と実情あるところを知り、安心且つ自愛されよ」
 (んー、これって慰問状になってるかい?)

 その他の新聞社や県知事、地区人民総代、貴族議院一同などからの見舞い電報が来、或いは又見舞い電報や品を贈ってよいかどうかの問い合わせが外務省に殺到。以降各地官民から続々と見舞いが届く。
(感心するのは、1平民の見舞い電報でも記録してあること)

 在日本の海外通信社は海外各新聞社に電信を発して報せたが、それには、「日本人は一般に凶行者に対して憤懣している。日本の新聞紙は全て深く「レグレット(regret 遺憾)」の意を表したとあった。

 尤も、広島の芸備日々新聞というのは、下関発の電報として「李鴻章自殺未遂」と題するトンデモ記事を掲げたために、政府が県警に命じて発行停止させたということもあった。

 李鴻章の負傷治療を聞かれた天皇陛下は「傷は深いか、弾は抜き取ったか、治療の結果はどうなのか」と。
 よって徳大寺侍従長は陸奥外務に回答を求めた。
 これに対し陸奥外務は直ちに、「傷は深さ一寸、弾は骨に当たって出ない。出血も多くない。眼は傷めていない。熱はなく精神も変りない。痛みはない。石黒、佐藤両軍医は生命に差支えはないと」との上奏を依頼。
 軍医は天皇からの派遣。更に看護婦は皇后からの派遣であった。

 またこの日、早くも銃撃犯の身元について群馬県警から報告があり、それによれば、
「小山六之助は本名小山豊太郎。本人は六之助と改名を願い出た事があったが聞き届けられなかった。父はその放蕩を憂いて慶応義塾に入学させたが途中退学し、今は自由党の壮士中にあると」と。
 また埼玉県知事からは、身元、家族構成、本人の身体特徴、かつて器物損壊罪で逮捕された(不起訴処分)、東京浅草の桜井某方に寄宿する自由義団の壮士である、などを報告。

 そしてこの日、天皇陛下勅諭として、清国使節遭難につき国民への戒めを発した。

(「御署名原本・明治二十八年・詔勅三月二十五日・清国使臣遭難ニ附キ百僚臣庶ヲ申戒ス」より、()は筆者)

朕惟うに、清国は我と現に交戦中にあり。然れども已に其の使臣を簡派し礼を具え式に依り、以て和を議せしめ、朕亦全権弁理大臣を命じ、之と下ノ関に会同商議せしむ。朕は固より国際の成例を践み、国家の名誉を以て、適当の待遇と警衛とを清国使臣に与えざるべからず。乃ち特に有司に命じ怠弛する所なからしむ。而して不幸危害を使臣に加うるの兇徒を出だす。朕深く之を憾みとす。其の犯人の如きは有司固より法を案じ、処罰し、仮借する所なかるべし。百僚臣庶、夫れ亦更に善く朕か意を体し、厳に不逮(逞)を戒め、以て国光を損する勿からんことを努めよ
  睦仁 [天皇御璽]

明治二十八年三月二十五日

(各大臣 略)

 明治24年の露国皇太子襲撃の大津事件を彷彿とさせる騒動であるが、あの時もこの時も、とにかく当時日本人の対応というものは極めて迅速であるという印象を受ける。

 そして、銃撃犯小山豊太郎の裁判は30日に山口地方裁判所に於いて開かれ、即日「無期徒刑」に処せられた。この事は直ちに陸奥外務から李鴻章に通知された。
 なお、判決文や軍医治療報告などによれば小山豊太郎の犯行動機、状況などは以下のものであった。

 ・ 犯行動機は被告が、「日本と清国が戦争するに至ったのは清国李鴻章が原因を作ったものであって、その生命を絶たねば永く東洋平和を保ち難い」と思考したことによる。
 ・ 李鴻章来日を聞いて意を決し、3月11日に5連発銃(ユニオンメタリックカートリッジ会社製の口径22「リム・ファイア」)と弾丸を購入し、12日に東京を発して24日に下関に到着し、機を覗っていたが、同日午後4時40分頃、李鴻章が轎に座して同市外濱町路上を通過するのを見た。巡査が並ぶ道路に面する憲兵屯所の側に立ち、轎が来るを見て急に前進し、担轎者の一人の肩を掴んで帯間から拳銃を取り出し、李の胸部を狙って銃撃した。その距離およそ2メートル。しかし弾丸は李の眼鏡を破壊し、その左眼の下1センチの頬骨に命中したものである。弾丸は4センチほどの深さに達したが、生命を損するにまでは至らなかった。(経過良好により、年齢も考慮して弾丸摘出手術は行わず。4月2日には傷口は殆ど塞がった)
 ・ 予め謀って殺人行為を実行して未遂に終わったことから、死刑を一等減じて無期徒刑とす。なお拳銃と弾丸は没収とす。

 さて、よりにもよって敵地に赴いて講和談判中の談判員を、しかも敗者の代表として来ている者を、相当の保護と敬礼を以って遇せねばならないものを却って勝者の国の者が殺害行為をするという、言語道断のあってはならない事件であり、万国公法の例に於いても反するものであった。当然、卑怯且つ野蛮との指摘を、交戦相手国のみならず、世界各国から受けるのは必定であり、それは各国の実際の声を聞くまでもないことであった。

 だいたい、国士だの壮士だの義士だの称する者たちのすることにろくな事はない。
 かつて明治18年に金玉均を担いで、いや担ぎ損なって、それでもアジア革命を夢見て一旗挙げた、いや強盗したり、その将師たる者が資金を持ち逃げしたりして何の旗を挙げたのか、それでも爆弾を持ってウロウロし、それで日本政府が日朝関係の悪化を心配し、苦労して取り締まった旧自由党員の壮士たちが起した大阪事件などは、まさにその典型であろう。
 もっともお隣には、後先考えずに隣国の元総理を暗殺したテロリストを今日に於いても国挙げて英雄義士としているような野蛮がまかり通る極め付けのような国もあるが(笑)

 

 

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