日清戦争下の日本と朝鮮(10)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

「京城内展望」 撮影年代 明治21年(1888)〜明治24年(1891) 林武一撮影。
 元画像と思われる「朝鮮国真景 二十四頁 京城内展望景色 其四」によれば、「日本人居留地にある写真師玉潤堂楼上より市街を望むの景」とある。

 

人夫賃金余話

 さて、あまり関係ない話であるが一服がてらに、アジ歴資料「第1軍兵站監督部陣中日誌 12月」画面37〜39から、日清戦争時に於ける人夫賃金についての話を紹介。

 今日でも通説として言われているのは、当時朝鮮人の人夫は賃金1日1円、日本人の人夫は1日50銭であって、朝鮮人の方が倍の賃金を要したということである。
 実際、当時本国大本営でもそのような認識であった。それで経費節減のこともあって、11月下旬に日本人人夫1万人を用意し、平壌兵站部に先ず5千人を派遣した。
 ところが、平壌兵站部からの返事は以下のようなものであった。

 朝鮮人夫1万人を使うより、日本人夫を使うことで1日5千円の経費が削減できるようであって実際はそうならない。
 日本人人夫は5里を往復するのに2日間を要し、それで賃金は1円となる。
 一方、朝鮮人(臨時雇い)の場合、運搬1里で20銭としており、5里で1円となるが日本人と違って帰りに賃金は要しない。
 また常雇いの朝鮮人の場合は賃金1日80銭であって食費は自弁である。それでも日本人を使用すれば30銭削減出来るようにあって、実は日本人には1人30銭の食費を別に必要とする。
 それで結局は日本人の人夫を使用しても経費は変わらない。

 また、11月に入って輸送力も増加し、それにより場所によっては物資の堆積を見る兵站部も出だした。よって効率化を計るために平壌兵站部からの輸送力をある程度下げ、それに要する人夫は常雇い以外に臨時雇い1日凡そ2千人から3千人とした。しかし臨時雇いの人夫に応募する者が甚だしく多いので、11月末近くになって運搬1里20銭だったものを15銭に下げたが応募者の数に変わりはなかった。それで北方に輸送した物資も貯蓄する状態になって来たので、更に12月になって10銭に下げた。(「同上」p50〜51)

 経費削減、経費削減という声が聞こえてくるような地味な取り組みであるが、経費削減と言えば、朝鮮国の財政は経費の捻出がいよいよ困難となっていた。

 

朝鮮財政の破綻危機

 経済通の井上馨としては、朝鮮の財政問題にも取り組まざるを得ない。

・ まず、この年は8道中わずかに京畿、江原の租税あるだけで他からは殆ど税収が望めない。
・ 兵と官吏への給与も3ヶ月滞っている。雇い外国人の給料も。
・ 改革に伴う無用の官吏の罷免にも資金(給料数ヵ月分支給)が要る。
・ 更に国土は乱の上に、この年、朝鮮の穀倉地帯である全羅、忠清、慶尚の3道は旱魃であり、且つ乱によって荒らされたこともあって、飢饉が来るのは確実であった。
・ 国全体の事も考えずに暴れ回わるだけの東学党の類の乱民愚民がいる一方で、なおも黙々と農業家業を勤める大多の良民がいる。それらを救恤せねばならないし、ためには巨額の救恤金の用意が要る。
 これまで朝鮮政府は飢饉の際はこれを天災として、ほとんど何の救済もせずに人民が飢死するに任せる方法をとってきた(参照)のであるが、井上が政府顧問となったからには、そのような無情の政策は執れない。
・ また外国からの借金の返済もせねばならない。

 もちろん都合の悪いものは見えない聞こえないのが、なおも今日まで続くこの国の人の特徴であろう。改革の困難さと共にその財源をどうするのか、いやそれどころか当面の飢えを凌ぐ問題をどうするのか、その経費をどう捻出するのか。それらを真剣に悩んでいたのは殆ど井上一人だったかもしれない。

 朝鮮政府も日本を当てにして繰り返し援助を求めていたが、井上はその甘えを厳しく拒絶していた。しかしまず兵に給与が滞ることは軍乱に直結し兼ねないことであるから、井上は止むを得ず仁川第一国立銀行支店長に相談し、朝鮮海関税の収入を抵当に13万円の金額を貸与させ、僅かに朝鮮政府文武官への給与1ヶ月分を支給させた。
 これで何とか年を越させることはできるが、来年度になれば収入があるという保証はない。
 ついに井上は、日本国内で5百万円の公債を急募する案を日本政府に提出することにした。
(以上、参考「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/23 朝鮮ノ財政」より)

 なお度支衙門が井上に提出した、この年12月末計算(日本円換算)の債務額は以下のものであった。

(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/23 朝鮮ノ財政」p3、4より、()は筆者)

   朝鮮国内外債現在訊[甲子(明治27年)12月末]

第一号
外務衙門
 
  外国債元利未済高
  雇外国人給料滞り高
     計
688,992
22,933
711,925
000
000
000
度支衙門    
  戸曹各貢未下
  宣恵庁貢価及各様未下
  各庁料禄及恒式未下
  貢未下調査未済見積高
     計
157,121
285,231
453,713
50,000
946,066
230
604
734
000
568
  総計 1657,991 568

 

第二号
区別 借入金高 利率 元金償却高 元金償却未済高 利子延滞高 以上元利未済高合計
正金銀行
120,500

96,400

癸巳条12,050
甲午条12,050

1,928
〃 964

26,992
招商局
210,000
8
90,000

120,000
換算171,429

19,800
換算 28,286

199,714
清政府より借入電信公債
100,000
無利息
41,500

58,500
換算 83,571
 
83,571
同順泰
100,000
6
32,500

67,500
換算 96,429
 
96,429
同 上
100,000
〃 〃
27,000

73,000
換算104,286
 
104,286
ホンコンシャンハイバンク 墨銀
50,000

75

28,000
22,000  
22,000
第一国立銀行 130,000 百円に付
日計
22
・・・・
130,000
 
130,000
釜山借款
未詳
未 詳 未 詳 未 詳 未 詳 25,000
          687,992
グレートハウス給料滞り           16,933
ダイ 同上           6,000
合計           710,925

(招商局〜ホンコンシャンハイバンク)清政府及び清英商社よりの負債高共計50万6千円

 また、度支衙門が提出した平年度の政府歳入概算は以下の通りであった。(「同上」p6、()は筆者)
種目 金高 (円)
地 租 5,000,000
平安道の地租 500,000
紅参(朝鮮人参)税 180,000
漁業及塩業税 12,000
火田 蘆田 屯田税 300,000
戸賦銭 1,000,000
海関税 500,000
  計 7,490,000

 

悪弊革除が可能なら

 上記凡そ750万円の歳入は、改革と整理次第によっては増加する可能性もあった。地方で費用に充てていた租税を中央政府に徴収し、或いは地方豪族らが様々な手段を用いて租税を免れていた分を徴収し、或いは新田開墾して未届けの分、或いは地方官の隠田の租税徴収などである。各地での田地隠しや不当な免租は近年になって益々甚だしくなり、中央政府はこのために年々租税地の面積を縮小せざるを得ない事態となり、かつての4分の1までになっていた。これを調査して元に復するのは無理としても、2分の1まで戻すことは可能と思われた。

 また陋習たる売官のことは既に何度か触れたが、これは地方長官のみならず、属僚官吏から雑役に至るまで一種の株として扱われ、上は長官から下は小使に至るまで、大は小から取り上げ、小はまた小から奪い取り、結局はその重荷は下層の人民が負わねばならなかった。
 更に、租税上納に付随する弊害も驚くべきものがあった。例えば、ここに100石の貢租を漢城に持って来て収める者があるとすると、その上納者は実際は150石を出さねばならなかった。その余分の50石は収税官吏や雑役人等が様々に難題を持ち出すのを防ぐための賄賂として使わねばならなかったからである。
 また貢米の運搬については更に甚だしい弊習があった。地方米の蓄積したものを中央政府に回漕運搬するに当り、地方官はこれを運搬係りに命じて請け負わすのであるが、この請負人は故意に老朽船を選んで積載し、最寄の港湾に寄航して積荷を下ろし、船を打ち壊して難破船の体を装い、当該地方官に訴え出て、表向きは正式の検査を受け、裏面からは賄賂を差し出して、該地方官から中央政府に難破船の報告を出させ、そしてその積荷は全て搾取するという狡猾の手段をとることが少なからず行われていた。(以上「同上」p9〜p11)

 以上の悪弊は井上公使の報告によれば、数多ある中の1、2例であり、この悪弊を革除すれば、一方に於いては人民の負担を軽くし、一方に於いては政府歳入が幾分か増加することが見込まれた。もちろん、充分生活できるだけの給料が官吏たちに給されていないことも悪弊蔓延の原因となっており、その給与を見直すことも考慮しての上である。

 ところで、当時朝鮮では依然として貨幣制度というものが殆ど無く、僅かに流通するものとしては銅銭1種があるだけであった。(「同上」p8)
 もっとも、日清戦争と東学党の乱によって韓銭の需要が増加し、その相場も以前までは銀1円に対して韓銭3貫500文であったのが、一時は1貫500文まで高騰した。翌年2月頃には日本軍の北進と東学党の乱の沈静もあって、漸く韓銭2貫500文まで下がったが、それでも以前と比べてまだ1貫文の差があった。

 日本軍に対して野菜、穀物、牛など、その他諸物品が高額で飛ぶように売れたのも事実であり、随分潤った者もあったろう。で、これが捻くれた眼で見る後世の人々によれば、日本軍は朝鮮から収奪した、農民もそれで乱を起した、となる(笑)
 朝鮮の腐敗しきった政治によって乱は起きているのであり、何でも日本のせいにするなよと。

 

新内閣発足と椿事

(以下「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/22 朝鮮政況ノ報告」p33〜より)
 12月10日夜、井上は公使館に、総理、宮内、外務、度支、農商の5大臣と、趙義淵、金嘉鎮、安駉壽、兪吉濬の4氏を招き、これに朴泳孝を加えて晩餐を饗し、その場で内政改革の方針及び将来心得るべき要点などを演説した。
 また11日には仁川に赴いて山縣有朋大将と面会するため、杉村書記官に後事を托し、新大臣新協弁の選定、兵権統一の方針、宗廟誓文の式など急要の勅令を定めるべきことを朝鮮政府に伝えさせた。
 14日、井上が仁川から戻るとそれらの件の準備も大抵整っていたので、大臣協弁の選定に対して聊か意見を述べ、15、16日と協議を重ね、17日に至って朝鮮政府から以下のように新内閣の発表があった。

総理大臣[現任]金宏集
内務大臣    朴泳孝  協弁 李重夏
外務大臣[現任]金允植  同  李完用
度支大臣[現任]魚允中  同  安駉壽
軍務大臣    趙義淵  同  権在衡
学務大臣[現任]朴定陽  同  高永喜
法務大臣    徐光範  同  鄭敬源
工務大臣    申箕善  同  金嘉鎮
農商大臣[現任]厳世永  同  李采淵
警務使             尹雄烈

 人選は、独立主義の者であり且つなるべく外国事情に通じ、また外国語を理解する者を選んだという。

 朴泳孝は内務大臣に抜擢。法務大臣に徐光範、警務使に尹雄烈と。
 さてここに於いて李完用の名が出てきた。かつて米国駐箚代理公使を勤めた人であり、後に国王より全権の委任を受けて「韓国併合条約」を結んだ人である。今日の韓国では蛇蠍のように嫌われ憎まれている人であるが、ま、当時の世界情勢をよく知る人であったということであり、外務協弁という任は極めて妥当だったろう。
 また、学務協弁の高永喜はかつて明治15年の朝鮮事変に於いて、大院君から顎で使われていたことが印象深い。

 また、井上が当面不必要と進言していた工務は存置している。
 後に日本傀儡政権などと言われるこの内閣であるが、そもそも朝鮮人が素直に日本人の傀儡となるようなメンタリティであろうか。彼らは彼らなりに唯一内政改革に朝鮮再興の希望を抱き、懸命に取り組んだと思われるのであるが。勿論、ともすれば極端から極端に走り勝ちな人々でもある。

 この頃、以下のように国王が数百人もいた内官内侍を王宮から一掃し、ために国王王妃が自ら自分の手で何でもするという椿事が起っている。

 12月19日に井上が内謁見を行うと、謁見室に火が入っていない。その日は寒気が甚だしく謁見室もひどく寒かった。
 で、国王が笑いながら言うのに、
「まず王宮内の改革をしようと思って、内侍内官を全て廃した。しかし随分と不便である。薬を服用するにも命じる者がなく、オンドルを焚こうにも焚く者がいない。それで自分は君主と使役を兼ねているようで可笑しいことである」

 井上は呆れて、
「貴国はすべてこの通りである。何事も直に極端に走りやすい。本使はそのような突然の改革を実行されたいとは言っていない。秘密を保つために内官の整理が必要であると奏上したのである。ものには秩序と順序がある。内官らを即日に路頭に迷わせるようならば酷いことである。勤務上の長短、年限等を調べて、廃する者には相当の手当てを与え、また用途に合わせて残す者などの準備が要る。いずれ宮内府の官制制度によって充分人物を選んでお残しあるべきである」

 国王は、
「しかし大臣らが言うのに、一日も内官を宮中に留めてはならない、これは日本公使の意である、と。それで公使の考えも必ずそうであろうと信じ、早速断行した。今、公使の話を聞いて得心した。それで内侍として10人、外の使役として10人か20人ほど呼び戻そう。しかし、宗廟誓いの行幸に当って衣服の着替えにも差支えが生ずると心痛していたが、まず安心した。これで今日からまた君主の務めに戻り、使役を兼ねることはなくなった」
と言って哄笑した。
 井上は、大臣たちにも極端に走らないように申しておくと答えた。
(以上「同上」p35、「韓国内政改革ニ関スル件、第二」p16〜より)

 いやはや何とも。やはり「内政の改良などを説くは宛も小学校の児童に向い政治談をなすと一般なり」と言うことか。

 

改革に関する勅令を発布

(以下「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/22 朝鮮政況ノ報告」p34より)
 17日、朝鮮政府に於いては新内閣発表と共に、古例に則り宗廟に誓告すること、改革を国中に公布する「公文式正殿視事条例」、軍制改革、軍国機務処の廃止などに関する5勅令を発布した。

 18日、井上は大院君邸を訪問し、政治に干渉しないことを再び確め、続いて王室典範制度の必要性を説いた。
 大院君は、
「王室の典範は王室一家の事なので、国王と王族が自ら制定すべきものであり、臣下が喙を容れるものではない。まして外国使臣の干与を受けるのは甚だ嫌うところである」
と主張。それで、井上は、
「本官は王室の典範は本来王室の継統上の秩序を保ち、永く幸安ならんことを希望して制定するものであって、即ち王室の紊乱は、ひいては国家に波及し、国家の変乱はひいては王室に及ぼすは当然である」と説得したが、大院君は承諾しなかった。
 しかし2、3日後、大院君は日本の皇室典範の訳本を読んで俄かに意を翻し、岡本柳之助に書を托して、前日の失言を謝した。

 19日、井上は国王内謁見を要請。(原文テキスト

 冒頭国王は、一昨日に朴泳孝が参内して談話したこと、その忠誠を深く信じたこと等を話し、井上も同人が国家王室のために一身を擲ち、改革事業にも大いに取り組むだろうことを告げた。
 また王妃は、朴泳孝のために邸宅を下賜する準備をしていると述べた。

 この時点で、国王王妃もそして井上馨も、朴泳孝に大いに期待するところがあった。

 しばらく朴泳孝のことが話題になり、その後井上は、李呵Oが、「日本駐在公使のことは王妃が望んでいない様子なので思い止まるようにということであった」と語ったらしいがそれが事実かどうかを問うた。
 王妃は、決してそのようなことは言っていない、と答えた。
 国王も、大院君が李呵Oのことで語気強く問われたことを述べ、どうやら大院君と李呵Oが日本駐在公使になることを共に望んでいないことは明らかであった。
 井上は善処すると述べ、話題を軍務衙門の組織に関することに移して以下を教授した。

 ・ 一国の兵制は一途に出て号令一斉であることが原則である。
 ・ 一国の兵権は君主が大元帥として立ち、かりにも兵権を他の操縦に任せないこと。
 ・ しかし兵は兇器である。大元帥と雖も出兵の必要あるときは政府大臣と諮詢した後でありたい。
 ・ 軍務行政事務と軍隊とは区分せねばならない。
 ・ 軍務衙門大臣は軍務行政すなわち軍隊の被服、兵器、糧食、将校の進級などを管掌し、また参謀官は軍隊編制、兵士の訓練、教育、などを管理する。
 ・ この両者を以って軍事上の完全を期すべきである。そのための顧問官2人を選んだ。
 ・ その1人は公使館付の楠瀬少佐(楠瀬幸彦)である。彼はフランス、ドイツ、ロシアの諸国を経歴して経験があり、軍隊の教育、兵制訓練に関する方面に当らせる。
 ・ もう1人は岡本柳之助である。彼は軍務経験があり、軍務衙門組織に関する取調べに当らせる。
 ・ 貴国の兵隊は日本の旧幕府時代に似て世襲制である。よって人選して老朽用をなさない者は除かねばならない。
 ・ 罷役には適当の給与などを支給して飢餓とならないように処置しなければならない。
 ・ これは恵政の道である。でなければ不平怨みとなって王家に悶着を起す種となるだろう。
 ・ 世子宮は後々は大元帥の任務に当る人である。今から身体壮健に務めるは勿論、学問よりも実地の職務実践をされねばならない。
 ・ 近衛兵総督は世子宮自ら当られるのが最も適当である。そうすれば、王室以外が兵権を操縦する恐れなく王室の鞏固を保つ上でも最も適宜である。
 ・ 軍隊は第一に士官の養成を要とする。士官によって士卒も勇壮活発の動作をする。
 ・ 清兵は一個人としては弱くはないが、我が国と交戦して連戦連敗したのは、これを率いる士官が軍事上の教育がないのと紀律が厳粛でないことに起因して終に一回の勝利も得なかったものと言わざるを得ない。

 国王はそれらのことを同意し、また井上に一任すると答え、顧問官や世子の教育などについても賛同した。また、かつて明治15年の堀本中尉を教官として迎えていたことに触れ、もし今日にまで続いていれば朝鮮軍も進歩していたろうに、と残念がった。

 しかし井上はそれに答えて、
「貴国は何事に付けても、ただ外見と枝葉にこだわって根本を究めることをしない。草木に例えれば根底を固めずに枝葉を栄えさせるに異ならない。軍隊の訓練もそうである。貴国のように兵権を他に委ねて指揮させ、それで軍隊が発達して精兵となるならこれ程危険なことはない。堀本中尉の訓練が成就しなかったのは不幸中の幸いである。つまりは兵権は他の者の操縦に任さず、必ず大元帥すなわち陛下が掌握する必要がある」と。

 この後内官一掃しての椿事の話があり、また国王は、「来たる冬至日に宗廟に行幸して誓文式を挙行した後、8道臣民に向って誓文を発表すると同時に、新政の意を勅諭して一般臣民に下す」と述べた。

 

 21日、井上は王宮に参内して謁見した。翌日22日の宗廟誓告などに関する話であったが、その日国王は風邪気味ということで顔が腫れていた。

 22日、井上は公使館に軍務大臣趙義淵、同協弁権在衡、度支協弁安駉壽、楠瀬幸彦少佐、岡本柳之助を招き、軍務制度改革の打合せをする。

 冬至の日であるこの日、国王王族一同が宗廟に詣でる筈であったが、国王の病勢が重くなり遂に延期となった。

 

洪範14条誓告

 延期していた誓文式は、明治28年1月7日に挙行され、国王は、世子、大院君などの王族及び文武百官を引き連れて宗廟に詣で、以下の誓告文を奏上した。また、8日には社禝に於て同様誓告した。

(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「2 後編 1」p37より()は筆者)

  大君主展謁宗廟誓告文

維開国五百三年十二月十二日(陽暦1895年1月7日)、敢昭告干皇祖列聖之霊惟朕少子粤自冲年嗣守我祖宗丕々基迄今三十有一載惟畏敬干天亦惟祖宗時式時以屡遭多難不荒墜厥緒朕少子其敢曰克享天心亶由我祖宗眷顧隲佑惟我皇祖肇造我王家啓我彼人歴有五百三年逮朕之世時運丕変人文開暢友邦謀忠廷議協同惟自主独立廼厥鞏固国家朕少子曷敢不奉答天時以保我祖宗遺業曷敢不奮発淬励以増光我前人烈継時自今毋他邦是恃恢国歩干隆昌造生民之福祉以鞏固自主独立之基念厥道毋或泥于旧毋狃于恬熙恵迪我祖宗宏漠監察宇内形勢釐革内政矯厥積弊朕少子茲将十四条洪範誓告我祖宗在天之霊仰藉祖宗之遺烈克底于績罔或敢違惟明霊降鑑

一(1) 割断付依清国慮念確建自主独立基礎

一(2) 制定王室典範以昭大位継承曁宗戚分義

一(3) 大君主御正殿視事政務親詢各大臣裁決后婿宗戚不容関預

一(4) 王室事務与国政事務須即分離毋相混合

一(5) 議政府及各衙門職務権限明行制定

一(6) 人民出税総由法令定率不可妄加名目濫行徴収

一(7) 租税課徴及経費支出総由度支衙門管轄

一(8) 王室費用率先節減以為各衙門及地方官模範

一(9) 王室費及各官府費用予定一年額算確立財政基礎

一(10) 地方官制亟行政定以限節地方官吏職権

一(11) 国中聡俊子弟広行派遣以伝習外国学術技芸

一(12) 教育将官用徴兵法確立軍政基礎

一(13) 民法刑法厳明制定不可濫行監禁懲罰以保全人民生命及財産

一(14) 用人不拘門地求士遍及朝鮮以広人材登庸

 皇祖列聖の霊に興国と自主独立を誓い、以って国家隆昌と人民福祉を計り、その為に十四条の洪範(大法)の実施を誓うというもの。

(1) 清国に依頼し付属する念慮を断ち、自主独立の基礎を確立する。

(2) 王室典範を制定し、以って大位継承及び宗戚の分義を明らかにする。

(3) 大君主は正殿に出御し視事し、親しく政務を各大臣に諮詢し裁決し、王后や宗戚の関与を容れず。

(4) 王室事務と国政事務は必ず分離し、決して混合してはならない。

(5) 議政府及び各衙門の職務権限を制定すること。

(6) 人民の出税は総て法令の定める率に由り、名目を妄りに加えて徴収を濫行してはならない。

(7) 租税の課徴及び経費の支出は、総て度支衙門に由って管轄する。

(8) 王室の費用を率先して節減し、以って各衙門及び地方官の模範と為す。

(9) 王室費及び各官府費用は予算を立て財政の基礎を確立する。

(10) 地方官制を速やかに定め、以って地方官吏の職権を制限する。

(11) 国内の聡明俊敏なる子弟を広く派遣し、以って外国の学術技芸を伝習させる。

(12) 将官を教育し、徴兵法を用い、軍政の基礎を確立する。

(13) 民法、刑法を厳に制定し、濫りに監禁と懲罰をするを不可とし、以って人民の生命及び財産を保全する。

(14) 人を用いるに出身に拘らず、朝鮮全土より士を求め、以って人材の登用を広く行う。

 

 さて、ここまで読了された読者には説明不要であろうが、その総ての条項が井上馨の改革要項並びに談判での発言の摂取に拠っているのは明確である。敢えて言えば、(11)と(14)ぐらいは井上抜きでも発案したろうか。

 井上が赴任した時点で朝鮮内政の問題点は数限りなくあった。つまりは上記洪範14条の内、(11)以外はその発想も取組みもなされていなかったということであり、裏返せば、例えば(1)は、朝鮮は清国に隷属するのみで自主独立の基礎すら確立されていなかった、ということになろう。

 そもそも朝鮮国内政の問題点など、あまりに多すぎて一々ここで書く気にもならない。大体は井上提出の改革要項、談判記録、陸奥外務への報告などを丁寧に読めば、ほぼその全貌が見えてくるものである。まず第一には、朝鮮では国の命令が国王のみならず宗族多門から発せられ、よって行政は混乱、戦時下に於いて国の方向性すら定まらない有様。それで井上が真っ先に取り組んだのは、大院君や王妃外戚など国王以外の者が内政に容喙し権力を行使するを防いで、その命令系統を一本化し、且つ議政府の政治権力を強化することにあった。つまりは王族は勿論、国王とても法律に従い、政務を議政府に諮詢し裁決するという、立憲君主制確立の方向にである。

 国王依頼の顧問官たる井上馨の、多方面に渉る強烈な指導が無かったなら、抑もこの国は近代化の方向性すら定まらなかったろう。つまりは日本という、お節介で口喧しくて過保護で情の厚いこの物好きな国が隣にいなかったら、朝鮮は結局は路頭に迷う孤児となって果てていたろうと思わずにおれない。

 

予想を裏切らない人々

 (以下、「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/26 第二十号 〔朴泳孝任用、軍隊教練等ニ付奏上 3〕」(原文テキスト)、 「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/27 第二十一号 〔朴泳孝任用、軍隊教練等ニ付奏上 4〕」(原文テキスト)、 「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/28 1895〔明治28〕年4月8日から明治28年6月15日」のp2〜p10より(原文テキスト)、 「同」p12〜p22より(原文テキスト))

 さて、内閣は新体制となり、政治改革要綱も定り、国王、宗族、政府百官、挙って朝鮮王家祖霊に誓いを告げ、またこれを国民に公布し、いよいよ挙国一致体制と言える取組となったのであるが、で、順調に歩み始める・・・・はずもないのが、ここまで読了された読者なら容易に想像できる朝鮮という国のどうしようもなさであろう。

 まず、金宏集総理、金允植外務、魚允中度支らはどちらかと言えば旧派保守派となり、朴泳孝内務、徐光範法務は改新派として新派を形成し、また、金嘉鎮、安駉壽、趙義淵は旧日本派として中立に位置したが、ともすれば互いの意思疎通に欠けるところかあり、新内閣発足2、3週間しても、新派からは「旧派は事を進めるに新任各大臣に相談しない」と苦情を発し、為めに井上馨は明治28年(1895)1月初旬に、3日に1度は内閣会議を開いて協議した後に上裁し施行することを勧告した。

 そもそも、旧派、新派は互いに懐疑的であり、旧派は新派の背後には日本政府の援助があるので政府内で主流となるだろうと早合点し、文武官の進退黜陟も新派を憚って3度に1度は相談せずに事を進める時があった。新派の方は、旧派には事大主義の余臭があると思い、旧派が表面は改革を唱えながらも内心では大院君の指示に従っているのではと疑った。

 当然、改革を歓迎しない勢力の離間策もあり、特に大院君はこの機に乗じて混乱を目論み、時々人々に対して「総理、外務、度支の3大臣は、自分の党派に属するので、よく自分の指示に従う」などの言を発した。
 それを聞いていよいよ新派は疑い、大院君が旧派と組んで新派を暗殺する計画をしているなどと言う者もあり、益々疑いは募り、疑心暗鬼を生ずるに至った。

 また、朴泳孝は国王王妃の親近者でもあり、とりわけ王妃と謁見できることは、古来の慣例に照らして極めて異例であり、為めに反対派は、朴が日本公使の権勢も借りて第2の「勢道」となっていると批判した。
 そもそも朝鮮王室では、古来より国王そばには、宗室、外戚、内官、或いは狎れ親しんだ近臣が伺候し、国務大臣であっても国王に引見する事は甚だ稀であった。だからこそ国王王妃は内官や近臣の浮言虚説に惑わされ、恰も霧中に彷徨う如く、疑惑危懼の四文字を胸中から去ることがなかったのである。
 それらを排して、世界の事情に明るい朴泳孝と親近するように勧めたのは井上馨である。朴が宮中に出入りするようになってからは、国王王妃はやや中外の動向に明るくなったが、その反面、反対派が朴泳孝を攻撃する口実となった。

 2月初旬、日本公使館付武官の楠瀬中佐が訓練する朝鮮軍訓練大隊長申泰休の進退を巡って一悶着があった。
 申泰休は内閣の同意を以って上奏されて日本で言う少佐に当る「参領」に任じられたが、その後、朴内務は、同人が去る明治17年の事変時に袁世凱の先鋒として王宮に攻入った者なので、これを隊長とするのは不都合であるとの議論を起したのであった。朴は、同人を免職しないなら自分は内務大臣を辞職するとの決意を示し、ために軍務大臣趙義淵は当惑して日本公使館を訪ね、井上に相談したのであった。

 後に井上が国王謁見をした時に、申泰休を排斥するよう朴に指示をしたのは国王自身であったことが分った。
 以下がその理由である。

大君主 「申泰休を隊長の職から移動させるべきである、とは朕が言い出したことで、即ち朴泳孝に命じたのである。それは何故かと言えば、申は甲申年(明治17年(1884))に於いてその行為に穏かでないものがあった。次に丙戌年(明治19年(1886))に於いて、袁世凱は大院君とその他2、3の者と結託して隠謀を企てた。それは、今の江華中軍の黄憲周、京幾監司の申献求などと気脈を通じて先ず初めに火を大院君の邸宅に放ち、これを口実に、大院君が『閔族は自分を殺害する隠謀に出て火を我が家に放った。危険なことは言うまでもない。自分は王宮に入って国王と安危を共にする』と言って王宮に入り、それに内応する者が朕と中宮を擁して、乱を避けるためにと言って東小門に出させ、そこを申泰休が手勢である壮衛営の領官を率いて門外で待伏せし、朕の一行を襲って殺害しようと謀略した1人である。そして大院君は事実を捏造した書を北京に送り『国王の不徳によって国政は紊乱し、終にその身は乱軍の中に斃れるに至った。国に一日も主がなくてはならない。故に孫の李呵Oを建てて王位を継がせた』ということでこの件を決着させようとした。その恐るべき密計隠謀は、閔泳翌(閔泳翊)の手によって露見した。しかし閔泳翌はこれと同時にその身に害が加えられることを恐れ、香港に脱出してしばらくは凶手を避けたのである。過去のことではあるが、国家の大事件に荷担した者を、しかも国の基である軍の訓練隊の隊長とするのは甚だ不安に思われるので、密かに朴泳孝にその移動を促したのである」(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/27 第二十一号 〔朴泳孝任用、軍隊教練等ニ付奏上 4〕」p7より現代語に。()は筆者)

 これは国王高宗の証言として実に興味深いものである。「日清戦争前夜の日本と朝鮮(15)」の「・ この頃の朝清露関係」にある「明治20年、袁世凱は大院君と謀り、国王高宗を廃して王の兄李載冕の子を立てて世子とし、大院君をしてその摂政の地位に就かせんとした。しかし、閔泳翊は初めその謀に与って事情を知悉し、後ひそかにこれを高宗に告げたことによって陰謀はついに敗れた。」とある事件の具体的な内容と言えよう。当時閔泳翊が何故香港にいたのかの理由も明らかとなった。また、旧暦新暦の差から言っても、恐らく丙戌年(1886)陰暦12月の事だったのだろう。
 また、「・ 井上の大喝」で井上が述べた、国王が北京親王に賄賂を贈って袁世凱を帰国させようとした云々とはこの事にも関係しているのかもしれない。
 で、主犯は袁世凱なのか大院君なのか、いずれにしろ国王の認識としては、実父大院君は孫の李呵Oを国王と建てるためには、実子である自分の暗殺をも躊躇わない人物であるということであったろう。

 さて、国王からそのことを聞いた井上は、「どうしてそのような御懸念ある者を、最初に軍務大臣が上奏した時に拒否しなかったのか。それとも趙軍務の専断だったのか」と問うた。
 国王はそれに対し、「趙軍務が任用を上奏したのは確かである。しかしその時は可否を言わずにただ首肯した」と述べた。つまり、よく考えずにウンと言ったと。
 井上は「それでは裁可が与えられたと認めねばならない。各大臣はそれぞれ職務権限を有しているのであるから、後から内務大臣が故障を申込むのは筋違いであり、不公平となる」と答えた。

 この事で、趙義淵はすっかり旧派に身を寄せるようになった。

 

政府内分裂は顕著に

 またこの頃内閣では新たな議題として、新しい年号を立て、松坡の清帝功徳碑を倒し、迎恩門を除き、また清使接待のために設けていた慕華館と弘済院を破毀することなどが提案されたが、このことがまた旧派と新派との間で争議となった。

 旧派は、功徳碑を倒して迎恩門を撤去することには同意したが、年号については既に清国の年号(当時は「光緒」)を廃して「開国」何年と称していることから、新たに新年号を興す必要はなく、また慕華館と弘済院は壊すよりも名を改めて他に使用しても差支えないのではないかと対立、またも問題となった。
 国王は新たに年号を興すことにやや同意に傾いていたが、井上は、目下の急務は国家独立の基礎を鞏固にするにあり、虚名に拘泥している場合ではないと両派に忠告し、新派は不満足ながら承諾した。
 次に、法務参議張博の進退に付、両派の間に再び小衝突が起きた。

 法務参議張博は、「・ 「農民戦争」なのか」で触れたように、東学党一連の審判に、法務大臣始め関係の官吏が悉く大院君を恐れて休務や辞任を繰返す中に、張博だけが1度も欠勤せずに熱心に勤務し、それによって漸く結審することが出来たという、その時の人物である。
 彼は先の法務大臣金鶴羽が暗殺されてからは法務衙門に於ける権力を一手に握った形となった。その後、収賄の評判が立ち、警務庁も内偵を重ねて幾らかその端緒を得たことから、井上は内務、法務両大臣に然るべく手続を踏んで調べるようにと勧告したところが、徐光範法務大臣は調べもせずにいきなり張博に辞表の提出を迫った。しかし張はそれを承伏せず、「もし収賄の嫌疑があるなら法廷に於いて取調べを受けたい」と反論し、朴徐両大臣もその処分に困惑した。
 よって、井上が調べたところ、張は剛直な人間で事理に通じ、特に法律(明律)に詳しく裁判官として得難き人物であり、また収賄の事実は不明瞭であったことから、朴徐と内談して和解させ、引続き法務参議として用いさせた。
 しかしこの件も又、新派と旧派との分裂を促す事件となった。

 またこれとほぼ同時に、政府は慶尚道鎮撫使の報告を軽信し、総理、内務、度支の3大臣で奏上して同道のある邑の租税を免じた。しかし井上は1官吏の報告のみで租税を減免するのは不適当なだけでなく、財政上のことは本官と相談するとの約束に背くものであるとして3大臣を詰問した。すると、内務大臣の同意を待たずに総理と度支が内務の名も添えて上奏したことが分り、それによりこのことが新派に旧派攻撃の材料を与えることになった。

 以上のように、新旧両派の軋轢は益々高まり、陰に陽に相互で排除しようとする勢いとなったので、2月8日、井上は議政府に赴き、各大臣列席の前で、2、3の大臣の処務の不都合を責め、且つこの国歩艱難の時期に互いが党派を立てて軋轢することは12月6日の各大臣誓約に反するものであり、国家の任を負う国務大臣の心得とは思われず、今は一致協和して国事に取組むべきであると痛烈に批判した。

 

朴泳孝、総辞職を提議

 ところが新派の大臣はこれをどう思ったのか、2月11日に朴泳孝内務大臣発議として全大臣が同意し、内閣総辞職の辞表を国王に提出するに至った。
 その思惑を探ると、新派には、内閣総辞職をすれば国王は必ず井上顧問官を呼んで相談し、その時は井上公使は必ず自分たちの肩を持つはずであり、それで新派の人間だけで次の内閣を組織できる、という思い込みがあった。

 さて、翌12日、井上は国王の招きに応じて謁見。そこのところをこう報告している。

「翌十二日午後本官は国王の御招きに応じ、参内候処、各大臣扣所に相揃居り候に付、本官は一同に向い、痛く総辞職の不心得なる所以を説て之を責め、尋で謁見候処、国王より『内閣各大臣一同辞表を奉呈すべき様子に付、如何にす可きや』との御下問有之候に付、本官は右上奏は御採用相成りては宜しからず、依て陛下の思召を以て之を斥けられ猶お本件に付、総理大臣をして本官に就き相談する様、御諭相成候て可然云々」(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/28 1895〔明治28〕年4月8日から明治28年6月15日」p9)

 つまりは、
 「翌12日、国王の招きに応じて参内したところ、各大臣が控え所に揃っていたので、井上は総辞職の不心得を責め、次いで謁見したところ、国王から、総辞職のことはどうすればよかろうかと相談。それで井上は、辞表を受けないようにと進言。また総理大臣を自分の所に遣すように諭されるように、と言った」
となる。

 なぜわざわざこんな抜書きをしたかというと、実際の謁見記録を読むと、どうも国王から総辞職のことを相談したというのは井上の推測であって、実際はそうではなく既にこの頃から国王は内心では総辞職つまりは旧派の辞職を受ける腹があり、尚かつこの時点で総辞職のことを井上がどう言うのか、その感触を知るために井上を呼んだように感じられるからである。
 国王は言う。
「総理大臣は兎角清国崇拝の傾きあり。度支は頑固、軍務は金銭上に関する醜聞あり。此三大臣は如何すべき或は其辞表を聞届け、其他は従前の通り勤続を命ずべきや。其辺は卿の考案に聞かんとす」と。
 これらは新派の意見と同じであり、暗に3大臣を排斥することの布石と思われる。
 そして後に国王はこの3大臣を頑として排斥することになるが、それは5月に入ってからであった。

 さて13日には金宏集総理が来館。辞表提出の顛末を聞くと、旧派の人々は内閣総辞職が井上公使の内意から出たものと考え違いをして辞表を出していたことが判明。

 よって井上は翌14日、新派の3人即ち朴泳孝内務大臣、徐光範法務大臣、金嘉鎮署理大臣を呼び、以下のように話を聞き且つその不心得を責めた。(朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/28 1895〔明治28〕年4月8日から明治28年6月15日」のp12〜p17より、抜粋要約)

朴泳孝「この頃のように内閣の諸大臣の折合いが悪く協和を欠くようでは、改革事業も好結果を見ることがないだろうと思われる。それで寧ろ本大臣など何人かは現職を去り、他派が主義を同じくする人で政府を立てれば一致して国家のためになろうというものである。これが自分らがしばらく退いて傍観したい理由である」

井上馨「貴大臣らの辞職の意志はそれはそれでよかろう。しかしその善後策つまりは後任者のことはどうするのか。適当な人物を得る見込みはあるのか。貴国人にして経綸の大才を抱いて国家の枢機に預れるような人物は、朝鮮八道の野に鉦太鼓をたたいて尋ねて廻っても、おそらく得るのは難しいだろう。もし諸君がこの人物ならと思う者があるならこれを聞こう。」

朴、徐、金「・・・・・・」

井上馨「人材を得ることの容易でないことを思わずに、一時の憤りで国家の重責を忘れて引退するようなことは、児戯に等しいことであると言わざるを得ない」

朴内務ら「辞職の理由はそれだけでなく、聞けば旧派の大臣は内密に大院君と結んで我々を陥れようとしているようである。同じ新政府に立つ者として、このような陰険的手段が伏せてあるとするなら、到底これらの一派と一緒にやっていくことは出来ない。結局は彼らが残るか、我らが亡びるか、そのうち一波乱を生じるのは免れないだろう。そして最も自分たちが合点がいかないのは、内閣の席では彼らは表面は和気温容であって、議論衝突して口角泡を飛ばして争うことがないので外見上は一致するようであって、裏では大いにこれに反し、実に氷炭相容れない言行が多くある」

井上馨「諸君はどうして悟らないのか。新旧大臣の一致協和を、或る者が厭い常に離間策を謀る者が鼻息を窺っていることを。今やその術中にはまりつつあることを。本使が毎日忠告するように、疑心暗鬼の為に誤ることなかれ。おそらく次のように言う者があろう。この頃は大院君が来訪者に向って頻りに言うことは『総理、外務、度支、軍務の4大臣は昨年事変後から予と同腹であって、今日であっても互いに気脈を通じ、予の命令であれば一も二もなく服従して背かないのである』と得意に吹聴していると。思うに、これは大院君が新旧大臣の間に巧みに風波を起させて両派を対立させて混乱させようという魂胆に出たものであって、諸君がこれを悟らないなら終にその術中に陥るだろう。どうしてこれを心にとめておかないのか」

朴内務ら「彼らの或る者は密かに刺客を放って暗殺を隠謀する者があるとか」

井上馨「どの国でも国政改革が行われる時代には、多少は凶暴者が出てくるのは免れないことである。我国の維新以来、先には廣澤参議あり、後には大久保参議あり、皆そうである。近くは文明国の首班であるフランス国に於いても、大統領が凶手に倒されたように、深く怪しむに足りないことである。そもそも国務大臣として国家と存亡を共にする者が死を恐れて何が出来ようか。よろしく度胸を据えて死を甘んじ、国に殉じる覚悟がなければならない。」

(参議廣澤眞臣、明治4年1月、参議兼内務卿大久保利通、明治11年5月、第三共和政第4代大統領マリー・フランソワ・サディ・カルノー、1894年6月、それぞれ暗殺さる)

 井上馨自身もかつて幕末の時に襲われている。もう刀傷だらけの井上に凄まれたら・・・(笑)
 尚も懇々と説く井上に遂に3大臣も、「とにかく今回のことは公使に一任して、今は疑惑を去って国務に専念したい」と辞意を翻した。

 次は金総理ら旧派である。やれやれ。

 同日の内に(原文は翌十四日とあるので「同日」としたが、これはおそらく15日の誤りと思われる)総理、外務、度支、軍務の4大臣の来館を促す。しかし魚允中は病と称して来ず、彼らしく頑固を張る。
 金総理らの話を聞けば以下のようなものであった。(「同上」p17〜p21抜粋要約)

金総理ら「当初辞職の考えはなかったが、朴内務が突然『昨年6月以後(陽暦7月23日以降のこと)、新組織の政府は改革上何も出来ていない。これでは大君主陛下の聖意に背き、国民の要望にも反する。よって自ら咎を課して総辞職をするべきである。もし反対なら自分はまず辞職して上疏する』と提議した。それで就任2ヶ月の内務ですら実効の挙らないことを嘆くのであるから、自分らに至っては昨年6月から重責にあったのであるから、自ら空しく日を過したことを知るべきであろう。またこの提議はおそらく内務1人の意見ではないだろう。大君主始め貴公使とも熟議したことであろうと、直ぐにこれに同意を表し、皆で総辞職するべきであるとの議に一決したのである。また朴氏がこのように提議するからには善後策なども成算あってのこととすれば、却って国家のために至幸と言うべきで本大臣らは喜んで賛同したのである。何故なら、自分らは前から言うように決して官職に恋々として重職にあるを好むのではない。かと言って自分らの力が善くこの難局を処理することが出来るかと言えば、不才不能もまた敢て当らずと言う外はないが、坐して国家の危機を傍観するのは忍びないことであるから、出来る限りの心力を振って局に当ることを決心したまでなのである」

 かつて「三履」と呼ばれていた金宏集、金允植、魚允中である。大事に際して用いられても、やがて不要となれば顧みられなくなることには慣れている3人である。

井上馨「諸大臣の辞職のことは全く相互の疑惑から生じて、離間策に陥るものである。貴大臣ですら本使が総辞職に同意していると思っていたのであるから。本使は最初に申したように、不偏不党虚心坦懐に諸大臣との間に均一の交際を保つものであってどうして厚い薄いがあろうか。それを思わず本使に一言の相談もなく邪推して総辞職するとはあまりの軽挙ではないか。なぜなら、本使が今一番貴国の国債のために苦心焦慮しつつあるは諸大臣らも御承知であろう。それを今このような風波が政府内部に起るなら、このことに対してどれほど妨害となるか。京城の我が国の新聞記者は電報を発してこの出来事を通報した。最早総辞職の噂は我国の新聞紙上に掲載され、忽ち議論は騒がしくなった。我が政府は思うだろう。朝鮮の国の変事は果てしがないと。我が人民も思うだろう。このようなら朝鮮の前途は知れていると。これを聞く者で、朝鮮政府は不安であり信じてはならないとの感情を起さない者は恐らくいないだろう。もしそうならば、本使が貴国国債のために幾十回と書簡電信を本国に発しても、空しく水泡に帰すだろう。本使はもとより朝鮮の臣民ではない。また朝鮮に尽さねばならぬ義務がないのは勿論である。それなのに諸君は天にも地にも朝鮮の国家を負い、これと興亡を共にし、しかも国務大臣の地位にありながら、国政が漸く緒に就かんとする片っ端から破壊しようとするような挙動をなすとは。いかに国家に対して不親切であるか、いや寧ろ国家を悲運に導くものでなくて何であろうか。諸君はよくよく熟考せよ。硝煙が空を掩い、砲声が耳に響き、剣花が眸を射らない内は未だ以って国家の危機としないのか。どうして時局を知らないことが甚だしいのか。世に禍いの時機が潜んでいる時ほど恐るべきものはない。いつどこでそれが発動するか予期できないからである。貴国の事は甚だこれに類するものがある。もし今の時機に於いて国政が革新されずになおも旧時のようならば、亡ぶことを願わなくともどうしてそれが叶おうか」

 外国公債を募るのであるから、その政府の信用度は最も重要なことである。井上馨の苦心、焦慮、その怒りが伝わってくるような文言である。
 なおこの時の遣り取りは国王に向って報告された中のものである。おそらく国王に対しても言い聞かせている言葉なのであろう。

金総理ら「それを知らないわけではないが、もし世間に流れているような候補者がすでに指名され、善後策も充分に備わっているとするなら、強いて我々が官職にすがって地位を固持するようなことは潔しとしないところだからである。」

 この頃、朴泳孝を総理大臣に、その他2、3の新任大臣を出すだろうとの評判があったらしく、そのことかと思われた。

井上馨「候補者として世間で伝える者の姓名はそもそも誰なのか」

金総理「閔泳達、沈相薫、李載純、閔泳煥諸氏は大臣の候補者中にあるという」

井上馨 「予もすでにこれを聞かないのではない。しかし深く信を措いていない。なぜなら、これは世間の憶測であって、その出処の程もほぼ分っているからである。もし諸大臣らがこの巷説を信じて始終想像を逞しくし、彼らは我らを害しようという意がある、彼らは我らを悪んでいる、という思いを挟んで胸中に疑団を生じるならば、政府部内は殆んど波瀾は絶間ないだろう。大臣たるもの、卓絶の意見を持し、容易に他の離間策に陥らないよう、又互いに猜疑嫌悪の念を去って、公心を以って天命常道一図に国務に尽瘁されることが望ましい」

 などと井上馨渾身の忠告に、総理始め3大臣も大いに悟るところがあってを漸く辞意を撤回した。

 次は頑固者の魚允中である。
 井上は総理外務の両大臣に托して魚度支の来館を促した。翌16日午後、魚允中はやっと公使館に来た。
 井上は、「目下国家多難の際に当って重責を担う国務大臣は容易に其職を辞す可からず。辞意は客年冬に各大臣が約束した『確秉不撓不屈の心排百難而力行不已』すなわち『不撓不屈の精神で百難を排して力行して止まず』並びに『一心設誓廉潔守正忘身扶国』つまりは『己が身を忘れて国を扶けることまさに廉潔守正にしてその一心の誓いをなす』などの誓いの言葉に違背する旨を説明し、厳重に詰責したところ、同大臣も遂にその決心を翻して、井上の忠告に従うこととなった。

 

井上の財政再建策

(以下「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/23 朝鮮ノ財政」より、(原文テキスト))

 2月17日、井上馨は懸案の朝鮮財政問題について陸奥に書簡を出した。先に安廣秘書官に携帯させて帰国させた提案、即ち5百万円公債の件も含めて、その必要性と返済計画、また朝鮮国における財政問題の詳細の報告である。

 冒頭井上は、
「朝鮮をして独立の基礎を鞏固なものとする実を挙げるには、従来の積弊を一掃し、健全なる制度・法律を制定し、これによって事務を整理し改良手段を立て、その目的を達することを得るはずである。換言すれば、今こそ根本的改革を行わねば、独立の実を挙げてこれを永遠に持続させることは出来ないと思う」
と述べ、次いで、
「着任以来、陛下の聖意はここにありと奉戴して独立の実を挙げさせる為め、大院君を圧服せしめ、李呵Oを説破し、百方播弄巧詐陰議を尽す王妃が、改革要綱20箇条を提出後も尚もその手段を隠然として行うのを察知し、改革要項の撤廃を申し出、説得し、或いは激怒し、或いは緩言をし、その弊害の源流を止めることに努めた」
とし、更に、
「およそこれら百般の弊害は、朝鮮の従来からの病疾であり、一難を抑えれば更に一難を生じ、その弊害を根本的に改革するを一朝一夕に行うのは到底を出来ないことであるが、今日至って遂に、その脳裏に久しく染込んだ清国に隷属する念慮を絶ち、まして勢道なる権力を借って一身または一家一族親友、また自分に党する者らの、私利私欲を逞しくするのに便利な弊習をも、断然として脱却する決意を喚起させ、ここに国王をして社禝宗廟に誓わせ、また内閣各大臣をして本官に盟約誓言を行わせるに至り、大体の改革の企画は立った」
と、一連の取組みの成果を述べた。

 ま、大体形の上では目鼻が付いたと。後は朝鮮人がいかに実行するかどうかである。で、次に井上は内閣総辞職の件については触れずに改革実行のための財源のことに話を移す。

「ついては、今後の事業は改革の実を挙げることである。しかしながら、この目的を達するに最も困難なことは、朝鮮政府の国庫は欠乏し、文武官の俸給すら未払3ヶ月に及び・・・」
と、当面の窮乏を凌ぐことすら覚束ないことであると述べ、既に触れた、在仁川第一国立銀行から13万円を貸与させたという話になってくる。
 これ以降は上記項目の「・ 朝鮮財政の破綻危機」「・ 悪弊革除が可能なら」と重複してくるので細部は省略する。なお、全文は原文テキストを参照されたい。

 5百万円の公債は銀貨もしくは銀塊として兌換基金とし、貨幣制度を改良して7百万円の紙幣を発行する、また改革に伴う税収の改善、租税徴収の監督派遣、朝鮮財産家と日本人債主の共同組合の設置、総税務司の雇用の件、公債返済計画、などなど井上の微に入り細に亘っての朝鮮財政計画が網羅されている。
 そして最後に井上は、
「よって本官は朝鮮に対し、将来彼の利を奪わず、我国の利を失わず、相互の利益を並進させる方針をとることを願うものである」
と結んでいる。


 さて、朝鮮内政改革は、どこまでも日本政府の強力な指導の下に始められたものであって、朝鮮国内から自覚的に興った改革でないことは言を俟たないことである。
 まして、明治27年7月23日以前の閔氏政権がそのまま存続していたならば、到底改革など望むべくもなかったろう。
 王宮を兵で囲んで大院君を入闕させるという聊か乱暴なやり方ではあったが、諸悪の根源たる閔氏政権の追放をもたらし、軍国機務処という議会政治の設置により、遂に弊政改革の端緒に就くという成果を見た。
 一時大院君の専横に翻弄されて改革の方向性を見失ったが、井上公使の赴任により、その強烈な指導の下に、王宮内の権力構造は整理され、新内閣制度が発足し、改革洪範を立てて国王王族百官が皇祖霊に誓い、遂に挙国一致して取り組み始めた内政改革のはずである。

 だが、どう言えばよいのだろうか。朝鮮人というのは、大局の前に小異を捨てて一致協和するという考え方がない人種のようである。むしろ求めて争いを好むという性癖のように思われる。この後、朝鮮政府内は対立分裂が深刻となり、もはや支離滅裂の状態となっていく。

 ここまでの一連の井上馨渾身の奮闘記録を読みながら筆者は何度思ったであろうか。もういい。もう充分。もう尽し過ぎる程尽したと。この国の人は、自ら改まる、自ら正すということとは無縁なのであると。
 しかし日本政府は、明治27年8月の閣議案「将来朝鮮を如何すべきやという問題」を巡って政府内議論決着せず、取り敢えずの方針としたのは、即ち乙案「朝鮮を名義上独立国と公認するも、帝国より間接に直接に永遠若くは或る長時間其独立を保翼扶持し、他の侮を禦ぐの労を耴(取)る事」であったから、まあなんとか「独立を保翼扶持」するしかない。

 

 

 

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