日清戦争下の日本と朝鮮(8)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

平壌捕虜集合 撮影者 樋口宰蔵  小川一眞 明治二十八年八月発行「日清戦争写真帖」

 

金鶴羽暗殺、金宏集対談

 大院君との対談間もない31日夜、日本公使館に法務協弁金鶴羽宅から急使が来て、金鶴羽が刺客の為めに負傷したと言って医師の来診を申し出た。公使館では直に日本居留地の医師井田軍医に国分書記生を同行させて派遣した。
 しかし金鶴羽は既に死亡していた。他に来客一人が重傷、一人が軽症。家人の話では、抜刀した6、7人の者が突然侵入して躊躇なく斬りつけて殺害し、悠々として去ったと言う。
 井上公使は直に武久警視に命じて警務庁とも協議の上、犯人捜索に着手させた。

 後の明治28年2月になって下手人らが逮捕され、その供述により大院君と関係ある事が判明し、また東学党への扇動も明らかになる。大院君の指示によって李呵Oが実行を命じたものであった。
(「明治23年1月27日から明治28年5月23日」p44〜p48、「在韓苦心録 松本記録」の「2 後編 2」p11〜p14)


 11月2日午後、井上公使は、上疏によって一時公務を離れていた金宏集総理大臣と対談した。(原文テキスト全文はこちら

 冒頭井上は、国家多事の際に大臣たる者が一個人の上疏ぐらいで辞表を呈するようでは嘆かわしいことであると述べ、続いていつものように明治9年以来の日朝の略歴を話した。

 その中で金外務大臣にも大院君にも話していないことであるとして、明治15年朝鮮事変の後に朝鮮政府が謝罪使節として朴泳孝らを日本に派遣し、その時に神戸から同船した当時外務大臣だった井上馨に、朝鮮国王からの申し込みとして賠償金の減免のこと、借兵の依頼のことなどがあったこと。それに対し日本政府は相当の対応をし、また明治17年の事変で公使が尽力するところがあったにもかかわらず、朝鮮人は表で日本と結び裏で清国と謀り、遂に日清両兵が干戈を交えることになり、それにより当時日本政府は大なる不快を感じたことを述べた。(参考 「・ 国王、日本兵借用を申し込む」)

 金宏集は、「借兵のことは初めて知った。もし閣下がそれを国王に奏上されるなら、国王には定めし赤面して当惑されるだろうから、その事はご寛恕頂きたい」と答えた。
 それに対し井上は、「既往に属する事なので、この事を表明する事はしない。ただ当時頗る大不快を覚えたことであり、また歴史上の事なので一応閣下に述べただけである」と答えた。

 読者は覚えておられようか。明治17年事変後の処理で、井上馨と金宏集が談判に及んだ時、金は事件の詳細を議論しようとし、井上は詳細を論ずるなら遂には国王にもここにお出でを願うことになるであろうと述べたことを。
 もしこの時に詳細を論じていたならば、国王が竹添公使に「日使来衛」の親書や玉璽をツした紙を渡した事についての話に止まらず、恐らく明治15年に借兵の依頼があったことなどの話にも及んでいたかもしれない。

 もし「借兵」の依頼が口頭ではなく親書によるものであったなら、当然井上は17年事変のこの談判時に持参して来ているはずである。ところがこの後外務省に現物は保存されていない。それで或いは井上が処分したことも考えられる。もしこの親書の存在が当時世間に知られたなら、日本国内世論は大激怒し、朝鮮国への宣戦布告を求めて囂々たる声で沸騰したであろう。
 しかし日本の国力の詳細を知る政府としては、そのようなものを受け入れるわけにもいかなかったろうし、それでも日本政府の当時の大不快は、17年事変の賠償金については容赦なく請求して何等その後の手加減をしていないことにも現れているように思われるのであるが。

 次いで井上の話は朝鮮の内政改革の事、独立問題などに及んだ。以下、対談の要旨である。

公使 「・・・・朝鮮はベルギーやスイスとは違う。この2国が欧州強国の間でよく自主独立を保っているのは内政を整えているからである。朝鮮は外からの侵略こそないだろうが、その内訌のために他国をして乗じさせる機会を作ることになるだろう。日朝両国の条約は両国の通商を保護するためにあるが、我国の商民が貴国のために直接間接に利益を害された実例は枚挙にいとまがなく、これは専ら貴国の内政が乱れ綱紀が厳しくないことに基づく」

金総理「閣下の言を聞いて、貴国が我が国に対する厚意を思い、また朝鮮の臣民たるもの、どうして奮発して国家のために尽さないでおれようか。ただ我が国の人は教育がなく、疑惑猜疑の淵に溺れて決断力に乏しく、事に臨んで逡巡するのは結局は時勢を知らないからで、まったく不明の至りである」

公使 「一番に貴国の大弊害は権力が多岐にわたっていることである。まず大院君の地位を明らかにせねばならない。大院君は摂政なのか国王の補佐なのか」

金総理「勿論、摂政などというものではない。国父として君主を補佐されるのであって、国政には関係ない」

公使 「拙者もそう思う。大院君と会話したが随分頑固な老人で、殆ど支那流の大言壮語を用いて人を篭絡せんとするようである。・・・・」

 以下井上は大院君との会談内容を逐一述べた。

公使 「・・・大院君が民心のことを頻りに言うが、民が黙っているからといって民心を得ているわけではない。大院君が民心を得ると言うのは、人を畏怖させて無理に己に傾けさせ、その意に反するなら獄に投じ暗に縊殺をするような、文明の世に適しない陋習の悪手段を言っているのである」

 金宏集は「然り」と同意し、大院君は頗る頑固であると述べ、一段と声を低くして話した。

金総理「大院君に人望があると言うが、それは閔氏政権によって綱紀は乱れ政令は不正となり、無辜の民を害することが甚だ多かったので、むしろ大院君執政の時がましであるとの念を起させたものであって、大院君の執政といえども、頗るの惨状がなかったのではない。大院君の方が比較的に優れるという意味である。閣下には大院君に時々会って充分にその旧夢を払ってもらいたい。とても我々の力では、君臣の関係からも、いわゆる国父として任ずるこの人の気持ちを翻すことは出来ない・・・」

 金宏集は言葉を続けて、もし大院君の勝手気侭を押さえて開明主義を知らしめば、数百千の開化党よりも優れたことになるだろうと述べ、また暗に王妃の容喙を防ぐには大院君が必要であることを示唆した。

公使 「拙者は先日から大君主に謁見した時に、王室内の和合協同を説いた。王妃としては、今は閔氏が威権を自由にする時代とも異なり、頼るべき親戚もなく、孤独の境遇にあり、その心情は恐らく心細く不安に思われているだろう。先ず以て王室の一致協和こそ望ましいことである。王室が安定すれば、政府大臣も安心して職務を行うことが出来る云々・・・」

 その後井上は、金総理とはとりわけ内幕を打ち明けて話し合いたく自分を公使として見るだけでなく朝鮮国の顧問官同様に見て相談してもらいたいと述べ、その他両者は、朝鮮政府による顧問官聘雇のことを話し合った。
 また井上は最後に一言述べたいとして、

公使 「およそ独立という文字は、独り立つ、という意味なのであるから、隣国がいかにそれを助けようとしても、貴国自らが独立する覚悟がなければ結局は無益である。そうであるから、朝鮮臣民は同心協力してこの機に立たねばならない。今こそ空前絶後の最好機と思うからである」

金総理「諾」

 以上で会談を終えた。

 およそ人材のない朝鮮政府内で、井上が一番買っていたのがこの金宏集である。より親密な談話を試みようとしていることが窺える対談であった。

 

内謁見、王妃との談話

 11月4日、井上公使は国王へ内謁見を申し込んだ。同日午後2時に謁見談話。(原文テキスト全文はこちら)

 冒頭、国王は昨日が天皇陛下の天長節であったことに触れて慶節を祝した。
 井上は、この日は清領鳳凰城における日本軍の勝利の報告も達し、陛下には広島大本営に於いて庶民歓呼の中の祝賀であったことを述べ、持参した地図を開いて日本陸海軍から得た諸報告を逐一国王に説明した。以下、対談の要旨である。

公使 「・・・貴国はまた我国の同盟国として清国との条約を早々に破棄された。戦闘こそ共にするものではないが、清国に対する宣戦国なので、戦争の状況を時々刻々御傾聴ありたい。我軍の報告が届き次第上奏する機会が多いと思う」

大君主「我国の独立の実を挙げさせんと日清の交戦となり、特に貴国皇帝陛下の御苦慮の程も察せられることである。朕もまた時々における戦闘の状況を詳しく知りたい」

 その後、井上は全ての人払いを要請。国王は宮内外務両大臣など待臣たちに退席を命じた。

公使 「赴任してから日は浅いが、少しは貴政府内部の情況を知ることができた。今、貴政府にある者は、或いは絶対の開化主義を唱え、或いは絶対の守旧主義を唱え、要するに極端から極端との間で衝突しているようである。また権力が多岐に渉り、各人が疑惑の間に彷徨する状態である。これでは陛下が改革を熱心に望まれても実効を挙げるのは頗る困難と思われる。開化、守旧を問わず時勢の情況をよく見て一致協和することに努めねばならない。陛下にはどうすることも出来ないと思し召されていようが、要は陛下の御決心次第である。そもそも御決心が先にあって、勅がある順序である。今貴国には兵力と言っても内乱を鎮定できず、政府は四分五裂して離間、猜疑、権力争いの状態であり、殆ど陛下の上下共に頼むに足る者が一人もいないも同然である。しかし陛下の御決心は私井上馨を御信用あって御依頼あると信ずる。馨は個人は微々たるがその背後には日本政府がある。」

 井上はそう述べた後におもむろに、王妃である中宮陛下との謁見を奏請した。

公使 「・・・貴国の慣例としては中宮に謁見を請うことは先例を破ることになるが、しかし国家多事のこの際に旧慣に拘泥している時ではないと思い、特別の聖意を以って中宮にも謁見を賜り、共に本使の言葉を聴かれることを望む」

 いきなりの直球である。
 国王は、「敢えて難しい事ではないが、我国の慣例は男女の区別が厳重であって、民間の往来ですら婦女はその顔を見せないから」とやんわりと断りにかかった。
 すると国王の背後の障子を隔てた一間に居る王妃は障子を少し開いて、

中宮 「今は井上卿の請いに喜んで応じ、席に着いて有益な談話を聴くことを望むものである」

 と王妃自ら応じたが、

中宮 「しかし上王大妃、大院君あり。両者を差し置いて先例を破って外国使臣を引見したとすれば軽率と思われるのは免れられない。国民に対しても憚らねばならない身分なので、自ら列席する事は出来ないが、この一間の室にあって、奏上の顛末は全て聴いているので同席しているのも同様である。何事も遠慮なく奏問されたい。予も言葉で応答する」

 と答えた。

公使 「強いて謁見を望むものではない。次の一間で王妃が本使の奏言を御聴きなられているなら、直接に面奏しているのも同然である。なおこの後も今日同様に御傾聴願いたい。陛下の大業に裨益するところも少なくないだろうし、また忌憚に触れるようなことも言うかもしれない。しかし良薬も口に苦しと、これを忍んで聞こし召さんことをここに希望する」

中宮 「卿が貴国に忠良なる人であると同時に、我が国に対する衷情もあることは、すでにこれを知っている。思うに、大君主もまた必ず卿の言を容れ、その味の甘い苦いに関係なく必ず励行されるだろうから、これを諒解されたい。我国には何も頼るべきこととてないが、古来から国民の頭脳にあることは、君上の命令であるとさえ言えば必ずこれを行うことである。内政改良のこと、開化主義のこと、君主が一度これを主張すれば、下々の万民は必ず靡き従う。よって目的を達するには君権によることがこの際の好手段と思われる」

 そして王妃、国王ともども口をそろえて、7月23日以来、つまり大院君が入宮し、また軍国機務処などが設けられ、新官制度が発布されるなどして以来は、君権は無いも同然となり、ただ事の成り行きを傍観するしかない、と不平の言葉を漏らした。

大君主、中宮「・・・・開化党なるものの挙動を見ると、国家のために誠を尽くしているとは言えない。したことと言えば各衙門の名称を変えたぐらいである。」

 また、新官制発布以来、官吏の任免も以前のように国王・王妃が自由に出来なくなったことの不満も述べ、

大君主、中宮「およそ事は実を挙げねばならないのであって、口耳に快いことだけではあるまい。今の開化党のような、その名のみに拘って実を顧みないことは、朕が深く望んでいることではない」

 と言葉を重ねた。

 つまりは国王・王妃にとって内政改革とは、王室以外が改革することであるという認識であったのだろう。
 それに対し井上は、

公使 「君権と言い、国権と言うようなものは自ずから定義するところがある。これを一々奏言するとすれば、僅か数時間では尽くせない。また再び謁見の時に詳しく卑見を披瀝して聖聴に奏したい」

 次いで言葉を足し、

公使 「一言、中宮陛下に奏上せざるを得ないことは、今日では陛下の御一族である閔氏の威権を以って国政を治めた時代と異なり、内には大院君が枢権に参与し、外では開化党、旧党などと言う種々の者によって政府は組織され、中には随分と不祥の言葉を弄したり、また陰険な手段をする者もあるだろう。それゆえ王家にとって孤立の感があろうし、不安に思われることもあろう。またそれで色々と疑惑も生じておられよう。しかし、閔氏と言い李氏と言い、それらは皆陛下の王族または臣民である。よろしく同心協力して国家に忠とならねばならないことである。かりにも自家の権力消長を願って益々私怨を結んで対峙し、両陛下もまた憎んだり偏ったりされることがあるなら、内部の紛擾は止む時なく、内政改革は大成しないまま終わるだろう。これは本使が両陛下の為めに最も熱心に猛省を望む所以である。今大院君は最早御高齢であって老体のその身は、国父として、申すなら中宮陛下の舅君にあらせられる。さすれば御孝養を尽くされるのは勿論、敢えて世間に風波が生ずるようなことになっては相済まないことであると、本使はひそかに憂慮するものである」

 井上の切々たる説諭である。しかし中宮は、

中宮 「およそ人の心は量られないものである。壬午の年のような事もある(明治15年の大院君の乱のこと)。我が国は何日何時に如何なる椿事があるかも測られないのである。今は予は卿の保護が厚く及ぶことを信ずる。国太公(大院君のこと)への孝養などは予が努め励むことなので、充分怠りなく即ち熱心にしていることである。卿はそのことを念慮するのは止めるように」

 明治17年甲申事変のことより壬午の方に触れたところがミソか。そらまあ舅から殺されかけたのだし、まして孝養のことなんぞ口出し無用と。

公使 「陛下の賢明なる御意を承ったに於ては本使は何を憂おうか」

 と井上も言う外はなかった。
 その後井上は秘密保持のことについて語り、宮中から政府内部や議事のことが一般や外国使臣にまで筒抜けとなっており、そのことが様々な風説をもたらし弊害を生むに至っている事、ゆえに国王王妃が最も信用する誠実な人物を選んで日本公使館との連絡に使用することなどを提言し、 また今日のような謁見の事は人払いをしたからには機密が保たれていると信ずると述べた。

 しかし後日、井上と大院君との対談に於いて、大院君は井上が王妃に謁見した事を知っていると語り、それも井上が閔氏を頼むようにと言ったなどと、誤った形で伝わっている事に憤慨した井上は、この国では機密保持する事は無理であり、しかも悪意を以って誤った情報が横行する事を改めて知ることになるのであった。

大君主「朕が親任する待臣を以って連絡往来させて、何事にも情意が通じるよう便宜を計る。今日、卿を信用する事において緊要の事なので、寧ろ朕から告げるつもりであった」

 次いで井上は、職務権限について語り、誰彼の区別なく勝手気侭に威権を振るい、他の権限を侵し、己の意思に反すれば獄に投じ、或いは暗殺するなどし、政府の大臣に対しても気に染まぬと官位を剥奪し、不正の罪科を課し、酷刑に処し、また人民に対しても不当に徴収して生命と財産を奪うなど、このような陰険凶暴横害があるのも、職務に権限を持たせないからであると説いた。

 また財政上の事にも触れ、

公使 「・・・・財政上のことに関しても、これまでのように国家歳入は不整頓なのに王室や各衙門は需要の都度に制限もなく消費している。歳計を考慮せねば、どれほど富裕であっても到底堪えられるものではない。まして貴国の財源は窮乏しているのであるから、最も厳格な制限法を設けて濫費を予防せねばならない。今日のように地方官が酷税を課したり掠奪をするなら、国民の多くは進んで富を求めて身命を危うくするよりも、むしろ貧であるほうが得であると思うだろうし、国利民富の道も塞ぎ、国力も不振となるだろう。国民あっての王室であり政府である。」

 と懇々と説き、更に朝鮮国を重病人に例えてその恢復の困難さを語った。

大君主、中宮「重病人であるとの比喩は今日の時勢にふさわしい。卿がこのように国情をよく知っているからには、我が国は一人の良医を得たと同じである。又、朕の政府は不経験な人によって組織され、開明主義の初歩を歩みつつある。この際、貴国から適当な人物を推薦して顧問官とすることを望む。又、この頃は朕の命令を曲げ、或は偽の命令を与えて惑わす者があるかもしれないので、特にこの信票を卿に授ける」

 と言って国王は、先ほどの親任する人物を連絡に往来させるに当たっての「信票」なるものを渡した。それは王妃が気付いて用意したものであった。それに対し井上は、「此一事を見ても如何に中宮の機敏なるを知るべし」と述べている。

 井上は政府顧問官推薦のことについては、まだそれよりも先にする事があり、先ず職務権限を明瞭にし、政府組織秩序を整頓する必要があり、その上でなければ無用の長物となり兼ねないことを説いた。

大君主「朕は卿がこの事について、必要に応じて適当な推薦をすることを信じている」

公使 「今日は、陛下の御信用される人物を選んで本使に連絡させること、また以後も中宮陛下に拝謁できること、それ以外のことは秘密を要することはない。ただ一言述べたいのは、両陛下と大院君または政府諸大臣と御意見の衝突があろうし、また改革の組織上で悩まれることもあろうが、本使をただの公使と思われず、一人の顧問官として御諮問されたい。また各大臣も本使と万事協議するようにさせられたい。利害を論じ事が破綻せぬように出来るだけの対処はする。是非この改革の機会を失う事のないように。思えば陛下には、明治十五年、十七年以来、多くの難局に遭遇されたのではないか。本使は陛下の為めに嘆息せざるを得ない。ただ望むことは同じ轍を踏んでそれを再演することのないように。陛下の聡明なる、恐らくはすでにその思慮に到るところでありましょう」

 以上を以てまたも長時間に渉る謁見を終えた。
 しかし全文を通して読むと、まさに斎藤秘書官が言ったように「互に膝を交えて対話するなら、その誠意を人の心に深く感じさせる特質の人である」というものを充分に感じさせずにおかない対談であった。

 

王族親書と3大臣会談

 11月8日午後2時、日本公使館へ総理大臣金宏集、外務大臣金允植、度支大臣魚允中の3人が来館し、井上馨と談話した。

 ここでの談話筆記は、当時としては珍しい口語体混じりの文章となっている。後の12日の大院君との談話で、大院君が日本側の速記術の速さに感心する場面が出てくるので、そのことから推測して、おそらく速記録をそのまま文章に起したもののように思われる。少し長いが充分興味ある史料が鏤められている。(原文テキスト全文はこちら)
 以下談判要旨。

 冒頭金宏集は、忠清全羅の両道の乱が益々猖獗を極め、地方官を殺傷したり良民の財を掠奪するなど切迫した情勢となっている事に触れ、日本軍のいっそうの協力を求めた。

 それに対して井上馨は、京城守備と東学党討伐のために新たに1千人の日本兵が昨日に到着したことを述べ、各地に士官を派遣して調査し、乱の起因などを探ったことなどを述べた。

井上 「・・・・これは当初は「道人」と唱える者たちで、政府を倒そうという主旨であった。しかし段々と地方官の横暴から民の苦しみを救うということや、日本兵が来て朝鮮を混ぜ返しているから、これを追い払おうという主意となった。また、なるほど乱民は多数であるが、地方の人民に対して乱の首領(接長)や同志者が乱に加われ、と言う。入らぬと言うと直に首を斬られる。だから入らぬと言えば殺されるので入らざるを得ない。しかし秋の収穫期であるのに取入れが出来なかったり、また奪われてしまったりする。さらに討伐に来た朝鮮兵も、食料も給金も出ないから、人民の収穫物を奪っているという有様である。それで、東学党が来れば東学党に奪われ、朝鮮兵が来れば又朝鮮兵に取られてしまう。それで地方官は、日本兵なら代価を払うてくれるだろうからと討伐には日本兵が来るのを望んでいるという。また、竹山には6百人の朝鮮兵がいるから、日本士官がそこの地方官に、ここに6百人もの兵を置くのは無用であるから、それを出して鎮圧に向うなら日本軍も援助すると話しても、この兵を動かせば乱が再発すると言って拒む。兵士は何をしているかというと、土塀などを築いて冬篭りをして守るという」

金宏集「竹山府使には巡撫使を遣わせて、すぐに進んで東学党を征討するようにと命じました。東学党なるものは一つの宗教から起こったものでして、それが地方官が人民を苦しめているから救うということを口実に愚民を集めている模様です。しかし昨今では寧ろ強盗などを逞しくして無闇に人の物を取るようなことであり、また忠清道では地方官を殺したものがある。その中には最も信じていた下級の官吏が東学党であって、それが地方官を害したこともあり、また東学党の同類のものがどれほどいるかは量られません。兵を出しても指揮官が充分でなく、軍紀を正してまとめることが出来ない。それでその地方の租税米を軍糧に充てたので、人民を苦しめるつもりはないが迷惑をかけているのは恥かしいことである。この頃貴国の兵隊が30人ばかりで東学党と戦って大いに功を奏し、またこちらの報告によれば槐山に日本兵21人が来て、4千人からの東学党の群集が囲む中を大いに戦い、貴国兵1人が死に2人が負傷し、やがて囲みを破って郡守と印璽を保護して50里(日本5里)ほど連れて来たとのことであります。もしこれが朝鮮兵なら皆殺されて印璽も奪われていたと思う。負傷しながらも困難の中を救ってくれたことには実にかたじけなく感激するほかありません。改めて御礼を申すばかりであります」

井上 「今度外務大臣からの依頼もあり仁川の兵を派遣するが、この頃からそちらも統衛兵5百人、江華兵百人、合せて6百人の兵を出すので日本からも兵を出してくれという話があった。そこで私は李呵Oさんの率いておる統衛兵は無用であるから出兵させない方がよいと答えた。それで日本士官が教導訓練している教導兵を出すことにしたが、まだ訓練が完全ではないし、朝鮮士官も技術は覚えただろうが指揮監督として不十分であるから、日本士官に指揮させることにして通訳と巡査も付けた。今まで朝鮮兵と言えば、敵を見れば逃げ散ってしまうというが、日本の武官に訓練を受けた兵の中にそういう者があれば、いよいよ朝鮮の兵は人足同様で兵としては役に立たないことになる。人には名誉がなけれはならぬ。国王に忠義の志を持たねばならぬ。国を愛するという精神も持たねばならぬ。また我が士官の命令を守らねばならぬ。もし逃げるような者があれば直に斬るかもしれない。これが兵の規律を正すのである。それらをよく日本士官と朝鮮士官に言い聞かせておいた。朝鮮士官は、それは今日まで訓練を受けたのであるから、どこまでも一身をなげうつ覚悟であり、命令をまもります、ということであった。それで、給与、兵糧のことを聞くと、給料は三ヶ月分未払い、また兵糧も10日分しか受け取ってないと言う。しかしそれでは途中で不足するので外務衙門に掛け合ったところが、昨日までには食料を整えるということであった。しかし今朝になっても整っていないようなので書記官を遣わせて催促させた。ところで、東学党を討滅する御考えのようでありますが、それが真正の御決心であるかどうかを聞きたい」

金宏集「無論これは討滅しなければならないのであります。今から2、3ヶ月前に充分手を下していればここまで猖獗を極めることはなかった。今は公使にまでご心配を掛けるのは顔向けできない話である。このまま差し置いていては或いは京城まで押しかけてくるかも知れない。今京城の人民が枕を高くして寝る事が出来るのは、貴国の兵が3中隊いるからである。もしいなければ人民は戦々兢々とした有様となりましょう。実にこのことでも我が国情というものは実にお恥ずかしい次第である。それで公使に恥を忍んでお頼みする以上は、どうでもこの時機に平らげしまわねばならない」

魚允中「実にこれは馬鹿なことであった。むしろ東学党を養成したとしか見られないのであります。最初、忠清道に東学党が起った時に、貴様が行って説諭して解散せしめよということで、それは昨年の暮れのことで、この時は私が行って解散させました。ところが今年の春になって、全羅道の古阜にも乱民が起った。その乱は地方官の苛政に反対したのである。ところが地方官は己の非を覆うために言を換えて報告をしたのである。それで全羅県司が乱を討滅に掛かったが効を奏しない。そこで京城から政府の兵を出したが、この兵が随分地方民を苦しめる様なことをしました。それで却って反抗を生み、怨みを買うことになってしまい、段々乱徒が殖えて、ついには支那の兵を借りるということになりました。それで支那兵が来るに於いて日本兵も来るということになりました。そこで朝鮮の人は、そら大変が起きた、この東学党は一時起ったが早や治った、何ともない、と言い触らして支那兵も早く帰さなければならぬ、日本兵も帰さなければならぬ、というところから益々元を固くしてしまって、今日の場合になったのである。原因を尋ねて見れば、まるで養った様なものである」

井上 「それは事実の話であると思います。ところで総理大臣は必ず東学党を討滅せねばならないということであるが、外務大臣はどうでありますか」

金允植「この東学党のために国庫に租税が一つも入らない。穀物も銭もない来年はどうして政治をやっていくか、その見込みがない。各地方では人民は塗炭の苦しみをしている」

魚允中「今年6月(日本暦7月)に宣撫使という説諭する役人を出しました。何であの位乱が盛んなところに宣撫使をただぼんやりと出したところで治まろうか。とうとう40日を費やしたが効果はなく、益々東学党は盛んになってくる事になったのである。今日こうなったのも自らここに至らせたのである。今日では、一方で兵力を持ち、一方で言葉で鎮撫するのがよいと思う。今は東学党が言うのに、日本兵が来て荒らすから打ち払わねばならないとか、外国人は害になるから追い払わねばならないとか、しかし皆が東学党かというとそうではない。雷同した者が多いということは私もかつて宣撫使として行ったからよく知っております。結局は根本を絶つことが必要ですから、巨魁を斃すことに力を用いねばなりません」

井上 「よく分りました。しかし大君主は討滅させねばならないという主意でしょうか」

金宏集「無論、大君主も我が民を安堵させねばならぬという深い思し召しで自分に詔勅を下さったのであるから、速く討滅せねばならない」

井上 「その詔勅はただ勅を出されただけであるか。反乱をした以上は兵を出して討つということであるか」

金宏集「大君主はそういう思し召しでした。大院君の方は、朝鮮人を殺すのは忍びない、残酷である、帰順させる方がよい、自分が勅諭文を下すから、それを持って行ってみろ、と言われたのである。ところが中々効果がない。すでに監司も殺されたという事態になって、最早全く反逆も明らかであると、今では既に討たねばならぬということである」

井上 「大君主の下された詔勅の意味は」

金宏集「日本兵を追い払えとか、開化主義の者を殺せとか、そういう国王の勅があると言い触らす者を早く捕獲せよ、という詔勅を下されたのである」

井上 「大院君も、良民を苦しめる者は干戈を以って討滅する外はないと言われるのでしょうか」

金宏集「そうであります」

 しかし井上は、大院君がはたして東学党を討伐する気があるのかどうかに疑問を呈し、大院君が自分との対談で言を左右にし、或いは話題をそらしたことなどの苦情を縷々述べた。

魚允中「たとえば皮膚に腫物が出来る。これが肉に至れば肉を切り捨てねばならない。東学党なども当初なら平定しやすかったのであるが、今は必ずここで討ち平らげておかねばならない」

金宏集「わずかな百姓のために、大なる民を煩わすということになるから、害が甚大となる前に防がねばならない。猶予はない。どうぞ公使も御尽力を願う」

 話題そらしは朝鮮人の常である。それに乗るようでは朝鮮人との議論どころか、益ある会話すらままならない。

井上 「貴公方の意は分った。まず大院君とはどういう人物か。長い間を支那を世界最上無比と思い、追従するべきと思い、今日に至っても、支那に隷属していたら東学党も起きなかったいう考えから、日本兵に依頼して東学党を討滅するのは不利である、と思っているのではないか。これは私の推測であるが、外れていないと思う」

金宏集「どうもそれについては何ともお答えできかねる。大院君が支那に対してそうだとも申しかねる。ただ我々としては、朝鮮という国を善くせねばならないという考えを持っておらねばならない地位にある人であります」

井上 「外務大臣としてはどういう考えか」

金允植「いかにも支那主義を慕う人である。なにもかも支那通りにやって貰いたいと言う人である。しかし今日そんなことをやられては堪らない」

金宏集「もう80近い老人であるから、古昔の考えが多い。力があれば支那式にやるということもあろうが、しかしもう力はないからそれは出来ない」

井上 「しかし諸君はそう言われるが、大院君は第一に勢力が強い。今、金宏集さんが総理大臣であっても、大院君が嫌うなら直ぐ退ける。また魚允中さんを憎いと思えば直ぐ退ける。また意に染まないか陰険秘密の謀と思えば直ぐ捕まえてしまう。或いは政府から東学党鎮撫の命を受けて出ておる人に対して、その鎮撫をさせず、逆に東学党を教唆する内命を与えたり、また甚だしきは人を殺すのでも、犬を殺すか大根を切るぐらいにしか思っていない、勢力の一番強い人でありますぞ」

金宏集「それは地位の高いためでありますから、20年前には彼の人が政治を行って随分残酷なこともありました。しかし今は前のような考えでは出来ないと分っておられるのであります」

井上 「当政府が日本から顧問を雇うという話もあるが、大院君が日本の力によって政治の改良をすることを気に入るはずもない。かえって日本が疎まれるであろう。支那を崇拝していることは証拠があるから後で話す」

金宏集「それについては余り深くお咎めなさらずに、彼の人が意を翻すようにして下さる事が急務だと思います。」

魚允中「私はかつて大院君に言ったことがある。私は勤めが欲しくてやっているのではない。私共は国家の皮膚であり国家は骨肉であると思うので、勝手なことばかりやってはいけないのである。私が嫌なら嫌で退けられてもよろしいが、国家の皮膚と思って私共の言うことを聴かなければならぬ、と言いました」

井上 「大院君は古い学問ばかりし、且つ老耄している、と言われるが、老耄した者が勝手に振舞っては政治が紊れる。また将来日本が勧告して貴公方が政治を執られるなら、貴公らも倭党と言われる迷惑を蒙るだろう。また他の人も改良を言う人は全て倭党と言われるだろう。倭党であろうが、アメリカ党であろうが、英国党であろうが、それは私は構わない。ただ私は朝鮮政府が強固となるならよろしい。それにはどうあっても職務権限を設けねばならない。他から勝手な命令を下さず、たとえ君主であっても意のままに勝手な命令を下すようなら、その君主は暴君である。まして大院君が老耄して命令を下すなら、それが妨害となって職務を尽くすことは出来ない。ゆえに安駉壽や金嘉鎮は身命が危うくなり、職を辞して地方官を求めるということになって、その赤心を国のために尽くすことが出来なくなり、却って先に驚怖の心が起らないではいられないという有様ではないのか」

 井上は、ここでいくつかの書簡を提示した。それは朝鮮が日本と対清戦闘の盟約を結びながら、8月に平壌にいた清将に依頼するという主旨を書いて平壌監司の閔丙奭に託した書簡であった。
 書簡は、国王、大院君、李載冕と、複数あり、更に大院君のものには既に何度か往復した書簡である痕跡があった。

 それらを見た3人は顔色をなくし、恐懼を極めた。

井上 「これは平壌を攻略した時に得たものである。本書は東京へ送ったということで、写しを山縣大将から送って来たが、写しでは効力が薄いので更に電報を打ってここに本書を取り寄せたのである。つまりはどこまでも支那に頼るということは、これによって証拠立てられる。さあ、大院君は老耄しておっても時々こういうことがあるではありませんか」

金宏集「それはあの時は大院君もそういう考えであったかもしれない。しかし今日ではそうではないと思います。」

 金総理大臣はそう言いながら、一通の国王の書簡を手に取った。

金宏集「なにとぞこの一通を私に下さいませ」

井上 「それは大本営に出した書簡なので、呈上することはお断りする。もっとも、これを以って日本政府が朝鮮政府に難問を発しようとは思わないが、貴公方も随分と困難な地位にある。この老耄している人の妨害から何としても助けたいが」

金宏集「何とか公使から説得していただきたい。公使の御尽力で悟りを開くでしょうから」

井上 「もう一つある。李呵Oさんは随分悪人である。過日来訪した時に、私が何も問わないのに、自分の一家が東学党に通じていると言い触らして離間策をする者が多いので公使には信じられないように、との言を繰り返した。しかし色々調べてみたら、大院君の命であるかは分らないが、李呵Oさんが東学党を教唆している通信書を入手した。まるで魚允中さんが言うように、東学党に扇動がましいことをしていた人であった。それであるから、先ほど、東学党討滅の兵に、李呵Oさんの管轄している統衛兵を出しても役には立たないと言ったのはそういう意味である」

金宏集「その書がどのようなものかは分らないが、けれども彼の人は年も若いし、見聞も狭いから、よく考えないでやったことかも知れない。また書簡と言っても偽書などもあるから、ここでそうでしょうとは言われない」

井上 「それは十分な証拠があることである。もともとこの東学党から終に日清は戦争を始めたのであって、それで通信に必要な軍用電信も妨害切断され、或いはまた兵站部を襲撃し、罪もない日本の人足や商人も数十人殺された。ゆえに尋常の刑事事件とは異なる罪人なので、領事を立ち合わせて取調べを命じた。通信の本書は今は領事が持っているからここでは見せられないが、過日李秉輝なる者を調べて見ると、もうすでに大院君の方から手を廻して、それが知れると大変だから決して言うな、言うと命を取る、言わなければ罪を免じて役人にしてやる、と内命を伝えている。また様々なる手段で事が露見するのを防ぐのを企てている。まずこのようでは、日本政府が誠意を以って勧告しても効果はないし、私もしたがってここに駐在する必要はない」

 金宏集はなお疑い、且つ大院君の関与はないだろうと言い、また大院君が考えを翻すように井上公使の尽力を頼んだ。
 しかし井上は大院君の弊害を繰り返し説き、また王妃のことにも触れた。

井上 「・・・・大院君に政治の事に喙を容れさせるなら、整理改革は無用である。また、大君主に謁見した時に王妃が障子を隔てて国王にあれこれと言葉を添えられるのが皆聞こえる。そうしてみれば王妃も中々の才物である。王妃の力によって閔氏も強かったのであるが、今それを大院君の暴威で押さえているのは、大院君という毒を以って前の毒を押さえているに過ぎない。李呵Oのみでなく、また世子(王子)も分別ある人かどうか分らないし、このままでは自分も着手しようがない。貴公方も困難だろうし、それを私が止むを得ず責めねばならなくなるだろう。またそれで井上が来てからやかましいことばかり言われて困る、という考えも起こるだろう。それで以上の人たちが政治に関係しないようにすることが出来ないと言うならば、日本は最早貴国を棄てて、或いは今日支那に向けているようなことを行わねばならないような不幸が顕出するかも分らない」

金宏集「一々もっともであります。外国ですら我が国に対してこうまで御尽くし下さってあるのに、私等が国のために充分尽くすのは当然であります。しかし力が伸びずに出来なかった。しかしこれは自分らの責任であります。今貴国が我が国を見捨てるようなことになっては実に大変である。ここまで御話するのは恥ずかしいことでありますが、恥を忍んで言います。貴国の力によってこの国の体面を維持して来たのであるから、この際なおも大院君へも充分にやってもらいたい。それから陛下の代の後は今の世子宮の代であり、諸事に整頓して基本が定まったら維持出来ましょう。まず基礎を立てて発達させてこの国を維持できるようにしたい」

魚允中「今は重病人同様ですから、貴公の診察によって適当な薬を与えてもらわなければならない」

井上 「薬を用いるのも困難である。大院君には政治にあまり関与しないという最も苦い薬を与えねばならない。これは大院君が非常に苦悩し、また付随する頑固党の者たちも皆不快を抱いて不平が起こるだろう。先ず国王にしても、王妃にしても、政府の人々にしても、貴公方3人はよろしいが、後の人は頼みにならぬ。そして私は医者にも看病人にもならねばならない。甚だ困難である」

魚允中「貴公は維新の元勲であります。貴公がここにおられるということは我々はまことによいお医者さんを得た。よい療治が出来ると思っております。この薬を病人が飲むか飲まぬか、まずあまりひどい薬でなく、柔らかな薬を用いて平和な手段の方法があると思う。貴公が処方書を御出し下さるなら、私等は何も惜しみもないので、その処方を以って大院君やその他に用います」

井上 「もし私が朝鮮の臣民なら、職務を尽くせば悪人の名を蒙るだろう。尽くしたことは国のためになるかどうか分らないなら、これを避けることになる。また金鶴羽のように剛直な者は命を取られ、看病人も次第にいなくなろう。金宏集さんが言ったように、大院君に容喙させないことが第一である。しかしそれでどのような害があるか、或いは看病人が殺されるようなこともあろう」

金宏集「大院君が本当に悟りを開けばそうならないと思うのであります」

魚允中「どうも、朝鮮という国は大変君権が盛んに行われた国であって、終に政府は有名無実となった。支那もその通りで政府とは何かが分らぬという有様であるから、国威とか何とかも構わず、ただ王室によって政府の仕事をする習慣となっている。しかし貴国は全く違う。維新の時に幕府というものがあって、王室の光輝が失われるとの事で改革が行われて維新ということになった。それで維新当時は皇帝陛下もまだ幼年であらせられたが、当時の政府は頗る完全で、また皇室の威厳も明らかにされた。私の国はこれと違って何百年もこのような風に慣れ来たったのであるから、これを一朝一夕で改革する事は困難なことである」

井上 「日本の維新は薩長の武力で幕府を破壊して今日に至ったのである。幕府もその権威は盛んなものであったが、全国各諸侯というものは皆兵を養い、各藩の組織もあった。故に貴国の有様とは大いに異なる。貴国の場合は、執権職である世道(勢道)というものが、すなわち、李、閔、金などが君権をかぶって一族のために勢力を争奪するのみであった。また兵力という兵力もない。日本とは変転を異にする」

魚允中「だいたい我が国は全ての事が装飾文具のようなことが多いのである」

金宏集「もう政府の力など何百年も昔からありはしないのです。特に人物なども、達見博識という人はなく、国力というものも全くなかったのです」

井上 「どこの国でも臣下に人物が出るときもある。また出ないときもある。共和政治の国でもそうである。すなわち寒暖計のように、よい人物が出れば上がり、悪い人物が出れば下がる。上がったり下がったりすることになる。それであるから、政治の基礎を定めるには、一々その法を立てて、事毎にこれに照らして行い、また君主もその法によって政治を行うのを好しとする」

 ここで金宏集も魚允中も、有益の話であった、また他日に話を承りたいと述べた。
 しかし井上は、お疲れでもありましょうが食事は用意してありますから、まだお話することがありますと言って再開を促した。
 時に午後6時30分。再開は7時20分であった。

井上 「先ず大院君が政治に喙を出さないという約束をさせて、また大君主も篤実温厚の方であるから、王妃が裏から誰を採用し誰を退けよう、というようなことがないようにしなければならない。そして中央政府の権限を定める事にしたとする。それで、では税収はどうか。東学党のために全羅、忠清などから租税は収まらず政府の費用は足りない。また平壌近傍も収まらない。ただ黄海道からは幾らか収まるが、これも当てにはならない。平壌の方は支那兵が来て財を掠め家を焼いたような有様である。山縣大将からの報告にも、平壌以北から義州までは出火が激しくて焼けているという。支那の残兵がすることであるから、監司なども支那人の取締りとなるとどうもそれが出来ない。従来から支那人を崇拝しておったからである。なるほど日本兵は菜を買うにも牛を買うにも代価を出して迷惑は掛けていない。しかし支那兵のために随分難儀を受けておることは御承知であろう。すると税が収まらないから本年の収入は殆どないだろうと想像する。また東学党討滅のために出兵する。すると給料も食料も充分給与せねばならぬ。また冬になればテントなどの防寒具もあつらえてやらねばならぬ。その費用も多かろう。会計上においてどうする積もりか承りたい」

魚允中「平壌以北、忠清、全羅、慶尚はまず望めない。そして平時に於いても租税は豊かでない。先ずは必要の費用を補うために紙幣を発行しようと思う。また、人参は御承知の通り王室の歳入となっていた。支那へ持っていく金を王室の費用にあてていたのである。それでこれらも度支衙門の管轄にするということで、これはおよそ3、4百万円の金が出来る。しかしそれを売る場所は支那であり、今は支那の感情は朝鮮に対して悪い。それで売れるかどうか心配であります」

井上 「紙幣を発行すると。しかし紙幣は何時でも正金と交換できなければならない。とりわけ外国人の求めに応じて引き換えできなければならない。人参を売るとしても、この戦争が何時終わるか、来年の2月か3月か、5月か、それからでなければ金は得られない。紙幣は交換の原資がいるが、そのための金か銀の用意があるかどうか承りたい」

魚允中「貴公にはそういうことは御詳しいから、適当な方法を伺いたい」

井上 「まず調べた上でなければ立案も出来ない。国庫にこれだけは確実に収まるとか、また税の中でも何々は増税出来るとか、そして王室も政府も費用がどうかとか。聞くところのよれば、王室には女が7百人もいる。各役所には無用の役人も沢山おる。王室も政府衙門も無駄な費用は節せねばならない。また合併や廃止もあろう。いろいろと計算を立てねばならないし、まず周密なる調査が明らかにならねば私が幾ら経験があっても立案は出来ない」

魚允中「朝鮮は元は今のように銅銭を用いなかった。すなわち物品を金と見做して来た。8道の税も米、絹、木綿で納めた。雑穀はあまり取らない。江原道の一部では取ったが、それで銭を用いるようになってもやはり銭で払う地方は少ない。地方で売って金を持ってくるのは不便であるから、京城まで持ってきて京城で売って納めた。それで一年の歳入を調べたが、税関の収入を除き、また地方官の経費月給を除いて、京城に入るのはおよそ(日本円で)5百万円である。その内、国庫に納まるのは少しで、後は王室に入り、その内のある部分は王妃のために使われている。それで京城の役人の禄は極くわずかなのであるが、地方に行って地方官となって財を作るから今日迄どうにかこうにかやってきたのである。しかし今後は節減せねばならない」

井上 「それはご尤もである。また王室も定額を付けねばならない。それで費用を50万円にしたと聞く。すると大院君はそれでは王室の尊厳を欠くという。日本が3百万円だから朝鮮は倍の6百万円でなければならぬと言ったという。本当かどうか知らないが、もしそうなら、このような誇大の考えでは経済は立たない。日本の歳入は昨年は8千万円余りであった。皇室費はその中から3百万円であり、維新以来、改革は皇室にも及んで非常に節減した。(しかし当国に於ては)この間も国王に謁見した時に、このようテーブルとテーブル掛けがあった。これもよほど高い金を出したであろう。つまりは無用な役人が無駄な使い方をしてしまう。これらを取り除くことが出来るかどうか。総理大臣、外務大臣もその御決心があるか。私の言うことは小さい塵のようなことと思おうが、小から大にまで経済は及ぶ。無用な金は使わぬ、有用な事に使うということでないければ」

魚允中「実に御尤もである」

井上 「今王室には兵卒も幾分かおるが、これが守護の用に立つか、また無数の小吏が極めて多く、その他各衙門も同様であって、その実は遊民製造所と言うも過言ではなかろう。国の経済は大蔵大臣一人でするのではない。王室も各大臣も脳裏にあること必要である。第一に、王族が政治に容喙するのを禁じ、第二に、王室費の節減人員削減と、これらは非常な苦薬であろう。各衙門も地方にもその不自由は波及するだろう。この国の自主独立を強固とするにはこの事が出来るかどうかである。この薬をうまいと思って飲む者は一人もいないだろう。実に困難なのである。」

金宏集「私の国も元はこうではなかった。役人を出すにも各省大臣から奏上して君主の許しを得た。国王から直接となると却って恥かしく思うほどであった。税を取り立てることも、王宮内の修復も、無闇とせずに勝手をすることも決してなかった。ここ3、40年前まではそういう風であった」

井上 「今おっしゃる通り国務大臣が責任を負って、過失あっても国王に迷惑を掛けないようにし、またそのかわり国王も充分庇護してその職を尽くさせるようでなければ、責任を負うのは難しいことである」

金宏集「まことにその通りで、君主が大臣を選ぶのも、信用して政務を委ねるからである」

金允植「王は上にあって安んじ、臣は下にあって苦労する、ということもある」

魚允中「どうもこの頃の様では仕方がない。外国交渉は外務が司るのに、そうでない宮内などが直接に往来している。実に驚くべきことである」

井上 「私の意見も明瞭となったろう。薬は幾種類となく非常に苦くなる。それで朝鮮の頑固党、大院君、王妃、李呵Oその他の妨害が多くて、改革も至難と。これでは寧ろ放棄して帰国し、天皇陛下に独立を強固にするのは無理であるとの理由を奏上したい方がいいとの思いが強くなる」

金宏集「私等は随分危ない立場であるが、公使は外国の御方であるから別状ない」

魚允中「貴国の厚誼は終に日清の交戦となり、大兵を動かして今日となった。すなわちこれは我が国のためにこうなったのであるが、また日本のため、東洋のためにもされたのであるから、ここで貴公が断念なさっては折角の御厚意が不本意なことになろう。どうあっても、日本の義使ということは世界でも知られているのであるから、この際充分に幇助されたい」

井上 「今日、どの国でも富国強兵を計り、害をするものは排除し利益は拡張するのは通義である。日本が義侠心を以って貴国を独立させるというも、貴政府が自ら独立を口にされるも、その実を挙げないなら、日本政府は止むを得ず朝鮮に対する政略を変えざるを得ない。すなわち、我が国の有害は兵力を以て我が国の強固と国利を計らねばならないのであって、将来何年も貴国の用達を勤めるような義務はないのである」

金宏集「それで、私などは極く単純な考えで来まして、ここに段々聞いてみれば誠に御尤もである。第一に妨害物を排除せねばならない。仕事はその次である。基礎を作らねばならないことは大いに分りました。」

井上 「3人の御相談が出来たら私も相談に与ろう。度支大臣の方も財政の事についてよく考えられたい」

金宏集「私の方からお頼みしなければならないのである。貴公の方から恐れ入る」

井上 「貴公方の御決心をよく見て聞いて奮発する心がある以上はそれがよく映るのである」

金宏集「道が開けさえすれば漸次仕事も進むと思う」

井上 「私は貴公方の決心次第で考案を試みよう」

時に午後10時40分であった。

 井上の一つの布石であろう。大院君らが送った清将への親書を提示して、大臣らに王族の容喙を封じる決心を促し、職務権限の必要性を自覚させて政府の強化を計らせんとの。
 ようやく金宏集曰く、「(原文)其で私などは極く単純な考で来まして、茲に段々聞て見れば誠に御尤である。第一妨害物を排除せなければ仕事は第二である。第一の基礎を作らんければならぬことは大に分りました」と。
 井上の懇切なる説諭によって、朝鮮に於ける内政改革というものがいかに困難なものであるか、少しは実感が伴いだしたということであろう。

 なお、在平壌の清将に送った国王や大院君らの書簡であるが、その内容詳細については「・ 大院君の陰謀と東学党扇動」で記述した通りである。

 

国王、大院君の間接謝罪

 翌11月9日、井上公使は、岡本柳之助に国王や大院君が平壌清将に送った書簡を持たせて大院君の元に遣り、岡本個人の考えとして大院君を詰責せしめた。それまで強情一筋の大院君であったが、自分の書簡の実物を見て遂に強気は挫け、「当時の情勢から止むを得ずに出したもので、今は発覚した以上は一言もない」とひたすら罪を謝した。

 よって10日、井上公使は杉村書記官に命じて議政府に向わせ、金総理、金外務両大臣に面会させた。
 杉村は、公使の命であるとして、再び書簡を取り出して、「これらの書簡が発覚した以上はこれを等閑に看過することはできない。何とか始末せねばならない。特にその内には大君主陛下の御親筆もある。貴大臣らはどうされる積もりなのか」と問うた。

 それに対し金総理は、
「これらの手紙がもし臣下の手から出たものならば、これを死刑なり流刑なり処分して、以って貴政府に謝罪する道もあるが、如何せん、君主の手から出たものなので、自分らに処分する道はない。貴政府がもしこの手紙を執って厳責されるなら、我らは同時に斃れるのみ。他に処分の道はない」と答えた。

 それに対し杉村は、
「国家の重任にあるは貴大臣らではないのか。もし君主のなされたことに過失があるなら、これを繕って国家に傷をつけないようにするのが貴大臣らが尽くされるべきことではないのか。且つまた大院君らの書簡については何とか処分を考案されたい。もし等閑にする時は却って後患を残すだろう」と告げた。

 すると金総理は言葉を改め、
「先ほどの言葉は行き届かない所があった。よって明日に大君主陛下に御意を伺い、明後日に公使館に参って返答したい」と申し出た。
(以上「在韓苦心録」の「2 後編 1」p4〜6)

 なお国王書簡には「珠淵」との記名があったが、岡本が大院君から聞いたところによれば、高宗の号であるという。

 

 11月11日、金総理、金外務が公使館を訪問。明後日の12日のはずが1日早くなった。まず遅れるのが朝鮮国の常識であり、それが早くなるのは異例中の異例。いかに国王も焦ったかが分る。
 よって井上は会って話を聞いた。(原文テキスト全文はこちら

金総理「本日は我が大君主の旨を奉じて公使に面会するのは、去る8日に閣下から示された我が大君主が旧7月中に平壌監使閔丙奭に宛て、その主旨を清国武官に伝えさせた親書のことについて、陛下には深く後悔なられ、いかにも相済まないことと思し召され、なにとぞ閣下から貴国皇帝陛下に電報を以って事の不始末をお詫びして下されとの事、また拙者からも代って閣下に相応にお詫びいたせとの御意なので、そのへんを御諒察を請いたい」

 井上はそれを諒解し、「詫びるということは、国王には今後清国に隷属をすること絶って独立の基礎を強固にさせるとの意なのか」と尋ねた。
 金総理は、「国王は以前から誰よりも独立に熱心であり、そのための内政改革にも尽くされるだろう」と述べた。

 井上は更に、大院君のみならず中宮(王妃)もまた政治や人事に喙を容れないことは勿論、国王でもみだりに政府大臣の職務権限を侵さないようにするべきであると、それを奏上するよう求めた。

 以下、談話要旨。

金総理「それは承知します。ただ臣下が父母として事える御方なので、臣下から直接お話も出来難い。また大君主に向って、中宮殿が政治に関係するのはよくないからお止めなさったら、とは私の口からは言うのは憚られる。また、自分が勢道の者になる気ではないかと疑われるのを恐れる。ただ中宮殿をしてなるべく覚られるようにはお話をします」

井上 「君主に事えるに父母に事えるが如し、という意味であるが、その父母が家計を紊すようなことをしても、子は義務として黙っていなければならないという道理もあるまい。まして国の父母たる君子に諫言をし、王妃に諫言をするということは、正当なる臣下の務めである。しかし貴公らが自分の意見として上奏し難いのであれば、井上がこう言っていたと話せばよいのである。つまりは私の意見を伝奏しなさいと言うのである。それも言い難いなら私が直接言いましょう」

金総理「それはもう臣下として自分の身命を差し出しているのですから、それは私が言いましょう。私が話せないから公使に話してくれとは恥かしくて言えませんから、私がすべて奏上します」

井上 「事情のある者に、こうすべしと無理面倒を起すことは好まぬ。私が仔細を上奏するから、貴公らは大略を話しておかれればよい。内謁見ではそこに大院君も中宮殿も居てもらわなければならない」

金総理「私が公使の言われる通りに充分詳しく申しますから」

井上 「貴大臣を疑うわけではないが、大君主が平壌に親書を送られたことを悔悟されているとの言葉は、直接確かめておきたい。他の人には話さないことであるが、そもそも明治17年の事変は、明治15年事変の和約後の国王の親書に起因しているということがある。その時のことを問うとするなら騒乱の原動力は誰だったのか。当時それは曖昧のままに埋没したが、今度の事は充分確実なものにしておかねば、他日の戒めともならないし、また同様の手段を見ることになるかもしれない」

 井上の危惧の通り、この後も繰り返すのであるが。
 井上は言葉を続けて、謁見して国王悔悟の言葉と王妃・大院君が容喙しないことを確かめねばならない、と言った。

金総理「それはご尤もであります。公使謁見を内奏しましょう」

井上 「それならその時に各衙門大臣も御列席ありたい」

金総理「私等も行きましょう。しかし皆ではなく度支大臣と軍務大臣などが来ましょう」

金外務「誰と言わずに大臣皆としておく方がよいと思う」

井上 「それの方が宜しい。公明正大にする方が良い」

金外務「昨日大院君に会って、政治上に喙を容れられるのはよろしくないという話をしたが、大院君は今までの事は悪かったから、これからは政治に関係しないから、お前から井上公使に会って話してくれ、と言われました。宮内大臣李載冕も来て、自分も保証するから則ち親父の言う通りであると申しました」

 しかし井上の大院君への不信は強く、李呵Oのことも含めて事を隠蔽しようとしたことを強く非難し、直接の謝罪を求めた。

井上 「・・・・国王は決して咎める人ではない。また李載冕という人も篤実温厚な人であるから決して私は咎めもしない。只大院君が最初面会の時に男子らしく淡白に謝罪していたら私はそれで納得した。それを無い事にしようとし、東学党教唆の件でも悪事が露見しないように画策している。昨日も私は安駉壽に申した。それなら東学党を京城に引き込もうとするなら、それで宜しい。支那へ手紙を出して兵隊を借りるも宜しい。日本に敵対するがよいと」

金総理「安駉壽が申上げたことは、地方官が人民に穀物を貸している、その貸し借りの量のことで揉めていることを申上げたのです。」

 この件についての事は詳細不明である。

金総理「それで私等の考えでは、大院君も李載冕も東学党のことは知らないようであります。李呵Oも年も若く考えも足りないところから東学党と関係があったと見えます。大院君は孫可愛さに、只そんなことはないと云うところから李呵Oを庇って今日に至ったのでありましょう」

井上 「それも先ほどから言うように、正直に言われるなら何でもないが、それをいつまでも庇いだてしているところから、大院君は李秉輝に対して法務衙門でこうこう言えと言っている証拠がある。最初から私が悪かったと言ったならこんなことまでしなくともよいが、なおも誤魔化すから証拠書類の押収に着手した。また我が兵にも東学党を殺すよりも、巨魁を押さえろ、と訓示した」

 更に井上は、庇いきれないものを庇うのは愚であり、国家を乱す反徒に内通する行為は黙視できないことであり、尋常の犯罪ではないので、場合によっては領事立会いの元で止むを得ず李呵Oの取り調べを求めるかもしれないことを示唆した。更に言葉を次いで、

井上 「日朝で同盟して支那と開戦中に、最も必要な通信機械を切断したり、兵站部を襲ったり、無辜の商人や人足を殺しているのは誰か。すなわち東学党である。貴国政府が朝鮮兵ではどうにもならぬから、どうかこれを鎮圧してくれ、と依頼しながら、大院君の孫である李呵Oがこれを教唆しているというなら、この妨害物は立会って是非取り調べなければならない。それで謝罪改心するなら宜しい。李呵Oがまだ年若いからと言うなら、統営兵を率いらせるようなことも出来ないのではないか。どこまでも事実を隠蔽するなら将来何をするか分らないのである。それでも日本政府が誠意を以って朝鮮を助けるという、もうその必要はない。東学党鎮圧のために我が兵を出す必要もない。貴国の官民等は朝鮮国の自滅を企てる手段を取りつつある。悪者を隠蔽するために情実の理屈で屈服させようとしても、私はその理屈では屈服しない」

 ここで井上は、東学党討滅の日本軍兵士から送ってきた書簡を示した。

井上 「いくら隠しても分る。この通り兵士から証拠が挙がって来ている」

金総理「実に私は公使のお話を聞くと、あたかも氷が火に会って溶けるように、実にそういう風に物事が釈然としなければならないと思う。彼の人らもそのようになることを望みます」

井上 「私がこのように難しく言い出すのも、道理に逆らったことをしているからである。およそ人として過ちというものは聖人でないならあるだろう。そしてその過ちを改めるのに憚らないのが真正の人である。」

金総理「私も彼の人がよく悟りを開いて分るように言って聞かせます。彼の人らはどんな大事になるかと心配して益々拙い考えになるのでしょう。」

井上 「疑心、暗鬼を生ずるということがある。自分でしたことが知られてはならない、彼らが知らないようにせねば、という心に鬼が生ずるのである。私もここに来て難題を見つけ出して朝鮮を領奪しようという考えはない。また日本政府の意向も、国民の意思も、皆そうではない。しかし大院君、李呵Oの意中に、次第に依ては法務衙門まで李呵Oも呼び出されて調べられはせぬかと疑って、なるだけ隠蔽しようとされるので難しくなるのである。ただし一時の謝罪で後はどうなっても構わないというような心ならば、終には国家の安危に関わる岐路となろう。先ず、大院君と李呵Oが謝罪に来るのが第一であろう」

金総理「それはもうお話がなくても公使の意はそうだと考えております」

 かくて井上は両人が直接面会して謝罪することを求め、また後日、国王、王妃、王族、大臣ら、皆臨席して謁見することを要望した。
 また大院君が、米国公使、独逸、英国の領事などを招いて日本公使の内政干渉が強くて困る、などという話をしたことなどを述べ、外務衙門などあっても何の益もないと述べ、政府の方針が一ヶ所から出ていない危惧を述べた。

金総理「しかし外務の方はまだ他の衙門よりはいくらかは宜しいかもしれない」

金外務「明日に大院君がここに来られるはずなので、公使からお話になった後、私もまた同君へ申します。その後、各大臣らも臨席した場で確かめることを話されたら宜しい」

井上 「承知した」

金外務「これまで大臣らが出席した時には、大院君は決して出席したことがない。それは同君に与えるべき席がないからである。しかし今日そんなことを言っている場合ではない。国王の後ろに控えるのがよいと、大院君にお申し置きを願う」

井上 「宜しい。また私は決して王妃に面会したいのではない。障子の内からでもお聞きなされたい。ただし後日に王妃から、私は聞かなかったなどと言われては困る」

金総理「聞けば全羅道の方で東学党が落とし穴を沢山造ったそうであります。よって貴国の兵も注意されることを望む」

井上 「承知しました。今一つ話しておきたいことは、大院君から聞いた事には、魚度支大臣も支那に手紙をやったに違いないということである。しかしあの人はもう少し利口だから天津かどこかに直接にやったろうと推測する」

金総理「それは私を欺いていることになるから、魚大臣に尋ねてみましょう」

井上 「いやそれには及ばない。あの人も頑固である。支那に傾いていることは間違いないだろう」

金総理「それはもう尤もです。ですからあの人は朝鮮党と言われるぐらいの人ですから」

 ここのところ意味不明。「朝鮮」という言葉に他に何か意味があるのだろうか。少ない領土、ぐらいの意味のはずだが。

井上 「まず大院君なり李呵Oなりが理屈を止めて明日か明後日に謝罪に来るということに御尽力ありたい」

金総理「結局は大院君の出方次第なので公使にこれ以上のことは望めない」

井上 「それが済み次第、謁見を請求しよう。そうして互いに打明けて公明正大にすることに致しましょう」

以上で終わる。

 

 杉村濬が「在韓苦心録」の「2 後編 1」p3で、内通の書簡には金宏集のもあったが不問とした、と記しているが、これは魚允中のことの誤りなのかもしれない。

 まあしかし明治初年から振り返っても、日朝関係に携わる外交官は骨折りの連続である。大体もうこんな国を誰が欲しがろうか。放うって置けばよかったろうにと思うが、しかしこの頃の日本国世論は義侠心一色になっており、決してそれを許さなかったのだろう。
 はたして井上馨はどういう気持ちであったろうか。まだ朝鮮がスイスのような独立中立国となることを希望していたろうか。それとも内情を知るにつれて失望していったろうか。尤も、井上としては、己の果たすべき務めを出来得る限り死力を尽くしてでも果たすだけだったのかもしれない。確かにその強烈な意志だけは伝わってくる。

 

その頃「東学徒」は

 死力を尽くすと言えば、東学党掃蕩の日本兵も、破竹の勢いで連戦連勝する清領の日本軍と違って、少数の部隊による常に圧倒的多勢に無勢の戦いをしていた。
 たいていが数百数千の乱徒に対して40名ばかりの小隊あるいは1中隊規模の兵による戦闘である。しかしそれで殆どの乱徒が撃退されて逃げ散るケースが続出した。

 例えば以下、「宝尚道西南部暴徒撃攘報告 釜山港兵站司令部に於て 今橋兵站兼碇泊場司令官」の資料から抜粋要旨。

  慶尚道西南部暴徒撃譲の報告

 河東付近の東学党撃退のために遠田中尉に第3中隊の中の2個小隊、藤坂少尉に第4中隊の1個小隊を引率させ10月22日釜山を発し、馬山浦から2手に分れて河東に前進す。
 22日、河東付近で藤坂少尉の1個小隊は約7百人の東徒を廣坪洞で攻撃し、賊は退走。遠田中尉の部隊と合流。
 28日、東徒約700人が居るの報を得て2分隊を派遣して捜索。しかし既に逃走していた。

 なお河東付近の所々に数千、数百の暴徒が集合するという報を得て、一時昆陽に背進す。11月2日、両部隊の指揮を執らせるために第4中隊長の鈴木安民大尉を派遣。昆陽到着後、鈴木大尉は2個小隊を率いて安心洞の南方に進む。そこで東徒約400名が集合するのを見て、1個小隊ずつで挟撃。賊の死体6、生捕27人、武器若干を収める。土民の言に依れば、死体70ばかりが山間に集められていると言う。

 11月10日、丹城県地方の東徒群集が昆陽を襲わんとする状況を探知し、11日に先んじて進撃するため鈴木大尉は全隊を率いて水谷村に至る。そこで東徒約5千人が山野に充満するのを見る。
 時に午前8時5分、賊が先に銃を発して我が方を襲撃せんとする。我が兵はこれに応じ、徐々に進んで賊に迫る。賊は2手に分れて一つは山上に、一つは山の北側に退く。我が兵は山上の賊に向って攻撃する。賊は山頂に積み上げた石塁にこもって防戦し動かず。山の北の賊兵は再び前進し来る。我が兵の右側を突くような動作は従来の東徒の行動と似ず頗る意外であった。

 10時15分、藤坂少尉の1小隊は吶喊して山上の石塁内に突入し、遂に賊を撃退する。この時、高橋浅次一等卒、同小野山丑松、同藤本源左エ門の3名負傷す。皆銃創である。また吉川曹長が率いる1小隊は右側に襲来する賊に当たる。また遠田中尉率いる1小隊は迂回して賊の左側に向う。山頂の賊が退走するや、遂に皆悉く壊乱し、賊は西北徳山地方に向って逃走した。よって我が兵を収集すること午前11時。賊の死体は戦場に遺棄したもの180人。負傷者の数は分らず。土民の話によれば退走して途中に倒れた者数10人あるという。生捕2名。賊は武器、弾薬、食料品など多数を棄てて逃げ散る。

 16日、多数の賊兵が鷹峙と三峰山に集まっているのを見る。よってこれを攻撃せんとしたが、河流に舩がなく渡ることが出来ない。軍夫5名が泳いで対岸にある小船一隻を得て戻る。この時に軍夫の1名が溺死する。また退潮であって舩が動かず、遂に日没となり攻撃が出来ず。

 17日、午前7時、廣坪洞に於て河を渡り、2個小隊を鷹峙に、1個小隊を三峰山に向って進ませる。賊は既に鷹峙に居らず。よって全隊は三峰山に向い、3方から進んで賊を撃退し、なお1個小隊を蟾居駅に進めて賊の残兵を破る。
 午後5時、河東府に帰る。

 19日、午前7時、河東を発し鷹峙に至る。賊兵数百が旨郎洞付近に群集するを見る。よって四方から包囲の目的で攻撃をする。賊兵は狼狽して四散し、その大部分は蟾居の西方に退走する。後に聞いたところによれば、この賊兵は先日からの敗走を聞いて更に全羅道順天府方向から来援したものという。この日、賊の死7人、生捕5人、賊の遺棄した武器やその他の雑品が道路を蔽う。

 この日、別に多数の賊兵が我が方の背後に出て河東府に迫る。我が残留の兵8名はこれを防ぎ、先ず賊の旗を携える者1名を撃殺する。他の賊はこれを見て忽ち退散したという。

 以後、賊兵は皆全羅道順天の方向に遁走して近傍にはその姿を見ず。よって鈴木大尉は21日、河東を発し、27日に釜山港に帰還する。

 この時、我が兵が帰還しようとする時、河東、昆陽等の土民が多数集まり来て、陳情書を出し、また口頭を以って、なお我が兵が滞留することを請うこと再三であった。土民らは、賊徒が再び侵入するのを恐れ、朝鮮兵は頼りないので、切実に我が兵の滞留を哀願したものである。しかし、我が兵は兵站地守備の任務に戻らねばならないので、鈴木大尉は懇々と土民を諭し、警備のための地方官に忠告し、晋州に百人、河東に百人の朝鮮兵を置いて守備させた。

明治27年12月1日 釜山港兵站司令部に於て
     兵站兼碇泊場司令官今橋少佐
大本営
  兵站総監川上操六殿

 この後、朝鮮官吏の手によって処分した暴徒は以下の通りである。

  討捕使大邱府判官池錫永より通報の写し[訳]

一 晋州旧海倉に於いて捕捉した東徒21名中、首魁林硯俊は8日に梟首し、他の20名は厳刑の上、18名は釈放し、8名は厳囚した。

一 昆陽、金鰲山の戦いで捕捉した東徒21名中、首魁崔學元は13日に銃殺し、他の20名は厳刑の上釈放した。

一 晋州に於いて捕捉した東徒58名中首魁金啇奎は13日に梟首し、童蒙(子供の意)金巻順は同日銃殺し、他の56名は厳刑の上、27名は囚に、29名は釈放した。

一 河東渇鹿峙接戦の際に銃殺11名、同時に生捕の17名は厳刑の上釈放した。

一 日本兵によって捕捉した34名の隊長金在僖は今まで何度も釈放されたが、なお東徒に入って捕らえられた。また金達得は東徒が晋州に入った時に前導をしたことにより、組長の金性大と共に、10月(旧暦)24日に、河東船橋場にて銃殺した。

  12月1日   今橋少佐

 朝鮮官吏の手によって刑された中で、厳刑の上で釈放とあるが、おそらく笞あるいは杖という身体刑に処した上での解放ということだろう。また「童蒙」とは普通子供の意味であるが、子供でも銃殺刑に処したのだろうか。当時朝鮮の刑罰は男女の区別、年齢の老幼を問わないものではあったらしいが。
 ところで討捕使大邱府判官池錫永であるが、あの種痘の池錫永と同姓同名だが同じ人物なのだろうか。

  朝鮮の笞刑  (関連写真なども考慮すると、ちょうど日清戦争の頃の撮影と思われる)

 

 さて、金宏集総理大臣も言っていた朝鮮兵の頼りなさであるが、全羅道の水軍営が東徒に包囲されて日本軍に救援を求めたなどという記録が残っている。

(以下、「我軍艦より陸戦隊を上げ左水営より北三里順天府「カンカトクヨウリ」」、「全羅道に於ける東学党の動静 今橋兵站司令官」、「黒岡筑波艦長 全羅道左水営港 12月24日 東学党多数左水衛を図み危機に迫るに云々」、「1月7日 筑波艦長発 順天府光陽縣巨魁金の件」、「1月2日 筑波艦長黒岡帯刀発 大本営宛 東徒鎮定の方法等協議」、「1月5日.」を纏めて編集した)

 全羅道左水軍営には朝鮮兵300人が居たが、そこを東学党千人余りが取り囲んだ。
 この地方の周辺各地は既に東学党に蹂躙されており、左水営は殆ど孤立の状態であった。城内では朝鮮兵に日本人の服を着せて日本兵に偽装して守備。そのために東学党は恐れて攻めるのを躊躇していたが、城内の者が東徒にそのことを内通。よって12月17日、東徒は攻撃を開始した。

 城兵は防戦して東徒約60人を倒す。東徒は城外の人家4百軒ばかりを焼いて一旦20数キロ北の沙項里に退却。
 18日、東徒再襲来の情報があった。
 左水営の軍官は、近くの島に水産製造所を設けて漁業を営んでいる日本人潜水漁夫(大分県出身)17人に応援を依頼。それにより漁夫は城内に集合した。

 19日、軍艦筑波(護衛艦、1947t、全長58m、全幅10.6m、兵装11.4cm砲前装 6門、30ポンド砲 2門、24ポンド砲 2門 乗員 300人)が慶尚道固城県統営港に来て碇泊。
 そこへ左水営軍官(全羅左道水軍節度使金徹圭)が来て、書面を以って筑波艦長に援助を依頼。
 よって、艦長黒岡海軍大佐は20日に艦を左水営港に進めて実際の状況を視察した。

 21日、軍官が再び来て東徒は数千の規模になっていることを報知。
 黒岡艦長は陸戦隊を上陸させた。東徒は筑波艦が居るのを恐れてこの夜は襲来せず。

 22日未明、陸戦隊は朝鮮兵250人を嚮導して城内を発して進軍。午後2時に徳陽駅に東徒が陣地を占めているのを見て交戦を開始。軍を2手に分けて、1隊は本営を襲い、もう1隊は陣地を襲撃する。東徒は早くも山間に逃げ散る。1人を生捕り、2人を倒す。

 日没頃、留守隊が守備する左水営に東徒が襲来。陸戦隊の屯在する人家に放火せんと迫ったがこれを追い払う。我が方に死傷者なく、東徒には死傷者があったと思われるが暗黒により判明せず。分捕り品として大砲2門、小銃、火薬、米、牛馬などを接収。
 分捕り品の中に書類があり、東徒本部の作戦命令書があった。それによれば東徒はこの際全力を挙げて左水営を攻撃するらしいことであった。
 この夜、進軍していた部隊が左水営に戻った。

 また、人民総代が嘆願書を提出し、連日東学徒が襲来して5百余りの民家を焼き、数万の民の命が危険に晒されていることを訴え、軍艦筑波がこのまま留まることを嘆願した。
 よって、黒岡艦長は漁船を雇って釜山に送り、樺山軍令部長に連絡用に汽船一隻を派遣されるよう電信で要請した。

 翌年明治28年1月になり、順天府光陽県の村役人、また東徒に参加していた人民らが自ら東学党巨魁の金仁陪、劉嘉徳、鄭虞烱らを殺して左水営に降伏、謝罪を乞うた。
 それにより筑波の陸戦隊は1月5日に光陽に上陸し、それらの者の首級を実検した。
 今やこの地の東学党は首領を失って四方に散乱した。

 朝鮮兵が頼りないと言うのは、要するに近代戦の戦術や訓練などを得ていなかったということもあろう。防衛とは城に篭って防ぐだけではない。城を出て進んで敵陣地を強襲するという、場合によっては攻撃こそ最大の防御であるという思想の欠如であろうか。

 日本軍の中でも、民間の商人や人夫によって編成された兵站部の場合、護衛隊がないまま東学徒に襲われた時は実に困難を極めた。
 以下、第1軍兵站部が東学徒の襲撃を受けたことの兵站司令官入江倫愛の報告である。

(「28.1.1 第2軍と電信の連絡」p9より、要旨

 本官は米穀買い入れのため、書記官1人、巡査2人、通弁2人、人夫26人、用達商人8人、朝鮮人通弁数人の計40人余りを引率して黄海道地方へ出張し、10月21日に平壌府の南方約20里、黄州府の東南方約9里に在る載寧に至り、同郡守官邸の隣りの官邸を借りて兵站事務所とした。

 11月4日、事務所に何度も石を投げる者がいた。直ちにその韓人を逮捕して郡守に求刑をした。それは当地官吏の下男であった。
 郡守は特に夜間に朝鮮巡査を派して警戒を厳にした。

 11月18日、海州地方から来た者が、海州府に東学党が蜂起して不穏な動きをしているとの話をした。よって直ちに郡守を訪問してその実否を問うた。しかし郡守は「それは事実でなく、とかく朝鮮人はそのような浮説を流すものである」と答えただけであった。

 11月20日夜、再び石を投じる者があったので逮捕すると、また官吏の下男であった。

 11月21日夜、また石を投げる者がいたが捜索しても犯人を発見できず。
 郡守は日本人を頗る厚遇するが、その属吏の中の2、3の者はこれに全く反対しているという説があった。

 また本官は21日に所用のため旗津浦兵站司令部に向う。途中、信川地方で東学党が集合して信川郡守に嘆願することがあった、との報を得た。

 22日、旗津浦に達し、司令官山縣騎兵少佐に面会し、米穀に関する用談をし、万一のために、銃器と弾薬若干の借用を請求する。それにより種々周旋あって漸く村田銃3挺及び弾薬80発を借り受けた。即日帰途に就く。

 23日、午前11時半頃帰着したが、その前午前9時頃には、東学党3百名ばかりが郡守官邸に集合しつつあった。用達商人2名が難を避けて事務所に来て、向山商店の六倉嘉一が信川付近で東賊のために虐殺されたかもしれないという説があると述べた。
 直ちに通弁を郡守官邸に遣って東学党の来意を問わせようとしたが、郡守は面会せず、官吏の答えも要領を得なかった。

 事務所の諸門を閉じ、皆に防御の準備をさせ、書記官、巡査2名、人夫長1名に抜刀を命じた。村田銃3挺を配当し、他は刀剣、棍棒で武装させた。

 道路には東賊が群れをなし総数千人余りである。その内の3百人ほどが事務所の周りを囲んだ。頑迷な者共ではあろうが、応接の1回もあるだろうと思っていたが遂になかった。

 午後零時5分頃、賊の中で合図があり、四方から一斉に小銃(火縄銃)を発し石を投げて襲撃して来る。その勢い猖獗怒声、岩を撃つが如し。
 射撃して防戦し、邸内に闖入するを許さず。しかし弾薬はすぐに欠乏する。よって令を下し、南門から一斉に突貫し、刀剣を以って賊に迫り、射撃を以って賊を払う。肉薄していた東賊は四散し、賊の死者5人、負傷者5、6人あった。しかし忽ちまた集合して鑓を振るい石を投げ小銃を発して迫り来る。
 通弁の笹野大松が頭部に銃創を受け、賊の手に捕らえられて石塊で打撃される。田中書記官、淵巡査がこれを救い奪い返した。
 賊の一方を射撃して潰走させれば、他の一方が来襲する。このようなことが数度あり、遂に多勢に無勢、血路を開いて退却するの止むを得ずに至る。

 よって、黄州府に道をとることに決心し、時に午後零時40分頃に部下を纏め、重傷の笹野通弁(途中で死亡)を人夫に担がせ、本邱の東北の海倉(載寧から約2里)に向う道路の方に突貫を令した。射撃各3、4回(2、3の賊倒れる)を行い、続いて刀剣と棍棒を振るって突貫する。東賊そのために道を開く。そこを皆で退却を始めるが東賊は追撃して止まず。道路側面の丘陵にいる賊は小銃を発し石を投げ、また沿道の村民らも群れをなして鑓を振るい石を投げて道を塞ぐ。このため突貫或いは反撃して東賊を払いながら退却すること1里。この間、人夫2人が生死不明。

 このまま海倉に向う不利を感じ、道を転じて平坦の田畑を通って方角を黄州府に向ける。これによって退却を遮る賊徒はいなくなったが、追撃はなお止まない。
 賊の中で小銃を携えて追撃する3名の者は、大胆にしてその動作は頗る熟練した者のようであった。我が方が数回狙撃したが、ようやく1名に命中しただけなのは遺憾であった。

 途中3つの小川に遭い渡河に困難する。中でも載寧江河上流の三支江は川幅50メートル、両岸の高さ5メートルばかりの急峻で、河中は泥濘が深く脚が没っして股まで達し、極めて進退困難であった。東賊は銃を発して追撃。我が方もまた射撃する。弾薬は僅かに2、3個を余すのみ。一行の者は大いに疲労し、ために止むを得ず死亡した笹野通弁の遺体を河に放つ。ようやく河を渡り終えたが、東賊は対岸に留まってそれ以上追って来なかった。

 それより数百メートルを進んだところで1民家を発見し、韓人1人を捕らえて道案内をさせる。
 本路に出て砂利邑を経、午後8時半頃に蒜山邑に至って旅店に入る。
 食事を命じ各自に休憩させる。また疲労の少ない者5名を選び、黄州府兵站司令部へ急行させて通報させた。
 この夜、各地に商談買い入れなどに行っていた用達商人2名、人夫1名、韓人通弁1名が難を避けて来る。

 翌24日午前3時30分頃、黄州府に向って出発する。約1里進んだところで、黄州府兵站司令官森戸少佐が派遣した護衛兵5名と人夫若干が担架、携帯食料、毛布、韓銭を携えて来るのと出会う。
 一行25名は午前7時頃に黄州兵站司令部に到着した。

 死亡した通訳の笹野大松の遺体を後に本官が再度載寧に出張の際に、巡査と人夫数人を派して三支河付近を捜索したが遂に発見できなかった。三支河村の土民らの話に、遺体を見て仮埋しようとしたが、東賊の徘徊するのを恐れてそれが出来なかったと言う。恐らく下流に流れて沈んだものと思われる。それで三支河の村民と付近の米商人に、遺体を発見したら仮埋して黄州兵站司令部に通報するよう命じておいた。

 人夫生死不明の者の内、井町利三郎なる者は事務所東門から東北2百メートルばかりの通路上で、左脚膝の銃創貫通、頭部を石で打撃により死亡。村民が見て仮埋していたのを聞き、11月29日にこれを調べて確認し改葬した。

 人夫生死不明者の内、磯村音吉なる者は種々捜索したが発見出来なかった。土民らの話によれば、賊に捕らえられた様子はないとのことで、或いはどこかに逃避しているか、後日を待つしかない。

 商人六倉嘉一は信川地方へ出張していて生死不明により、商人、巡査、人夫を派して捜索させたところ、信川から載寧に至る道路上1里の所に於いて、11月22日午後2時頃、東賊に乱打されて半死半生のまま土中に埋められたのこと。すなわちそこで遺体を発見し、改葬して商人らが遺骨を携えて帰った。

 本官の乗馬雑種葦毛は厩舎に留め置いていたが、東賊が信川方面に牽いて行ったという。書類、官民物品もほとんど発見できなかった。
 東賊の死者は11名、負傷は26名であった。いずれも銃傷、刀傷によるものであり、おそらく銃傷による者が多かったと思われる。

 書記官、巡査、人夫長らは或いは銃撃し、或いは刀を振るい、時に防戦し、また進撃し、そして重傷の者を救うなどして勇猛果敢に戦ったが、人夫の内の過半数は恐怖狼狽して戦いに適せず、甚だしきは竈の中に頭だけを隠し、或いは堆積してある薪の中に潜むなど、困難中の一笑事であった。

 載寧の市場に住む崔昌録(35歳)という朝鮮人商人がいた。彼は11月23日に東賊の首魁に対して、日本人を加害した非理を詰責した。首魁はそれに同意せず。遂に崔昌録は怒ってその者の頭を掴んで鉄拳で撃つこと数回、ために即座に斬殺されたという。

 郡守官邸、また事務所として借りた官邸、また日本人と交際ある家屋などは内部は破壊され、家財什器類は一つもなかった。また市街一般人民も家財類を携えて避難していた。
 本官が再度出張してこの地に至るや、村長や吏員が山間の避難地から出てきて来訪し、日本兵を暫くこの地に留めて保護されるようにとの要請を繰り返した。
 以上、顛末大略報告す。

  明治27年12月26日
    第一軍兵站司令官 入江倫愛
第一軍兵站監 塩屋方國殿

 まるで明治15年の花房公使一行の逃避行を彷彿とさせる報告である。戦闘訓練を受けていない者は日本人であってもいざと言う時には戦えないのは当然のこと。
 しかし、銃器の不足、兵員の不足というものもあろうが、依然として朝鮮の人心治安の度合いがつかめず、地元の朝鮮人の官吏や巡査に警備を頼むという誤った判断をしている兵站部の不手際が目立つのではあるが。

 

大院君、李呵O、謝罪す

 さて、総理・外務両大臣対談の翌日12日午後2時、大院君が公使館に来訪し、早速の謝罪に及んだ。で以下その要旨。(原文テキスト全文はこちら)

大院君「扨て今日推参致たるは、拙者が去る七月中[陰暦]、前平壌監司閔丙奭の来書に答えたる書翰の不始末に関する御詫を親しく致度と存ずてなり」

 これに対し井上は、「閣下が最初から淡白に、とても日本が支那に勝つことは出来ぬだろうし朝鮮は小国であるし後で支那から詰問を受けるのも困るから、ということを思ってしたことであると言われていたら、何とも思わなかったのであるが」と答えた。

 大院君は、「最初岡本が来て、支那に手紙を出したことはないかと問うから出していないと答えた。最初から岡本が平壌監司に出したか、と問うていたら実は淡白に話したのである」と弁解。

 潔くないのは嘘を常用する人の特徴。

井上 「私は深く貴下を責めるのではない。しかしこの手紙は『二摺』とあるから、他にも手紙があると思われる」

 と書簡の実物を示しながら次のように述べた。

 井上 「日本が朝鮮を取るという野心があるなら、このことで名義を作っただろう。しかし日本はこれで朝鮮政府に難題を発するような意はない。閣下は国民の尊敬するところの国父ゆえ、閣下が出ればこの国の独立が出来るであろう、改革も出来るであろう、と入宮を勧め、遂に閣下も起って国政に預かるようになったのであるから。しかし一方では支那に隷属する事に勉め、また李呵Oも東学党に通信して教唆していた」

大院君「手紙は私が出しものに相違ない。日本政府が甚だ不快であること、言わば婦女が姦夫をしたというようなことであるから、これを名として不義を問うて戦争を起すということになっても、実に一言の申し訳もない。しかし、7月23日は驚いた。まるで虎に襲われたような心地がした。武器も取り上げられてしまい、殆ど自分らは身動き出来なかった。人民は散り、実に困難であると思う時に平壌から前の監司が手紙を送ってきた。それが支那に居た時に知った人である。それに名刺を送って監司に当時の有様を知らせた次第である。しかしこの不義については仕方もないことであり、悪かったと今日申してそれで釈然とされれば幸いであるが、それでもどこまでもと言われるなら全く殺されても仕方がない」

 あれ? その虎にまたがって王宮に攻め入ったも同然なのが大院君のはずだが。

井上 「貴下が淡白に不義であり悪かったと言われれば、日本政府も朝鮮国を略取するとか危険の地位に至らせるような悪意はない。私も深く詰責する積りはない」

大院君「それで安心しました。もし平壌に手紙をやったかと問われればその事は言ったのでありました。しかし支那の将官に手紙をやったことはないかと問われたから、それないと言った訳です」

公使 「書翰には『日本に付いた奸徒を払う云々、この意を清大臣に致せ』とある。しかし閣下が、決して野心はない、どこまでも朝鮮独立の基礎を強固にする外はない、ということが明瞭である御答えであれば、私もまた釈然とする。ついては閣下も支那に隷属する心を断然断念して、朝鮮の独立の基礎を固める決心は確乎たるか」

大院君「私が前に支那に4、5年居て知った人であるから、それはよく来られたと挨拶の積もりで、それを言って監司に送ったのである。本当に日本の兵隊が嫌いで言ったのではない。しかし支那の方を好むような文言があるということになってみれば、何とも申し訳ない。誠にそれは私が悪かったと謝罪します。そして疑いが解けて釈然とするのが男子でありましょうから、私は閣下に謝罪する次第です」

井上 「それはよく分りましたが、私が第一に必要とすることは、支那が属国視し朝鮮もそれに甘んじるということを断念して、独立の基を固めねばならないという御決心はあるかとお尋ねするのである」

大院君「それは誰が独立を好まんでありましょうか。もとより独立は充分にやらなければならぬ。また私はこれまでも支那に辱めを受けたことはあっても、恩はない。どうでも今日は早く独立の基を固くしなければならぬ。貴下にも来られたからには、充分に早く改良の道に進むことを願いたい。なかなか私等の力に及ぶところではないから」

 そこで井上はまた朝鮮を病人に例えて、苦い薬を飲まねばならないこともあると説いた。

大院君「ご尤もです。その通りで、もう手足も何もきかなくなって漸く命脈を保っているようなことです。しかし東学党のために人民は騒いでいる、租税は入らない、政府に財力は窮乏している。それで匙で薬を盛ってもそれを受けるかどうかという有様である。私も年を取り、世間の様子も分らず。しかし命のある限り尽力するし、また人民にこうせよと言うならそれもやります。兎も角私は老人で不案内ですから、政治事に喙を容れずに閣下に御依頼する次第である」

 井上は、「そのようにご依頼されるなら釈然とする。一点の疑いもない」と応え、しかし財政の窮乏、王室の無駄な費用、政府の事務の無用な出費を減じなければならず、また政府にも今のように沢山の役人がいては、まるで遊民を製造する場所であると説いた。

大院君「私が20年ばかり前に10年程政府で仕事をしたが、非常に濫費を防いで倹約した。それで八道に40万石の米を積んで、京城内にも10万石ほど積んで飢饉の備えをした。そして収税の道を定めて正しく法を設けた。しかしその後の政権が国財を濫用して米穀の蓄えも皆使ってしまった。また国の収税も私腹を肥やすことだけで、ついにはこのように紀綱が乱れることになったのである」

 しかし、そもそも朝鮮の財政破綻は、大院君が真っ先に景福宮を再建したことにあるのではなかったか。
 大院君は続けた。

大院君「病気のことで一つお話しますが、苦い薬を公使にお勧めしたら、公使はそれをお飲みになりますか」

井上 「病気から健康を回復することを望むなら飲むのは当然である」

大院君「もし旨い薬があって、それを飲むなら苦い薬を飲まなくても回復することが出来るならどうですか」

井上 「旨い薬があってそれで回復するならそれに越したことはない。その人情は誰でも同じであろう」

大院君「この前に岡本が来た時に、六典条例という本を渡した。あの本は自分が多少手も入れた法典である。あの通りに規則正しく諸事が行われるなら国のために甘い薬であろう」

井上 「私も読んで見たが、あの通りに行えることもあり、不適当なこともある。閣下がこの前お出でになった時に、漢高帝のことを話した。私はそれは誤りであると答えた。すなわち今は時世が違うから時世に合った法を設けざるを得ない」

大院君「さよう。今日は私は書面のことでお詫びに来たのですから、ここで他のことについて話すなら、また他日お目に掛ってお話を承ることにしましょう。」

 大院君はその後、李呵Oのことに触れ、自分の孫がそのように東学党を教唆していることについては信じ難いと述べ、更に、

大院君「東学党に加盟して日本兵を掃って東学党を京城に入らせる、などということは則ち反逆ということになる。王族に列する者がとても出来ることではない。配下の者に誤らせられたか、或いは東学党の名を借りて手段として一つの勢いを盛り返すために、そういうことを言い触らしたのだろう。この事については私にも落度がある。手元に置かずに勝手をさせたのが却って嫌疑を蒙ることになったのである。この責は自分が受けるべきものである。」

井上 「それもよく分りました。それで強いて領事を立ち合わせて審査追究をするにも及ばないので、金宏集氏にも金允植氏にも話して、許Yも李秉輝についても、その取調べは中止させましょう。しかし私も証拠のないことは言わない。李呵Oが悪かったと言うなら深く咎めもしない。まだ年も若いし、将来有為の人にならなければならない。ただ王族という名に甘んじてそのまま老いるわけにはいかず、将来は他国の学問をせねばならない。ただ尊大に構えてばかりいては身のためにならない」

大院君「私も孫の愛に溺れた。しかし面白くないが王族李家は私も含めて3人しかいないのである」

井上 「それは宗家のこともお考えにならなければならない。離間策にはまるようなことがあってはならないから私は言うのである。そして王妃もまた政治に喙を容れることがあっては政治は乱れてくる。閔氏が王妃を楯にして政権に専横を極めることになり、また臣下の者が地位を得るなどの弊害を生じたのである。王妃の耳に入るように言わねばならない。また閣下にも学問も経験もあろうが時勢に合わないことが多い。だから閣下の方もあまり政治に喙を容れない方がよいと思う。私にこの国の独立の基礎を強固にする依頼をしたいとのことであるから、私は隔意なく直言するのである」

大院君「それは一々ご尤もなお話です。ただ一つ言いたいのは、公使が2度目に謁見された時に、大君主、王妃、世子宮に言われたことがある。李氏、閔氏、金氏だからいけないということはない、皆が一致協力して云々と言われた。それを中宮が聞いて、では閔氏を用いてはならないという理由はない、という主張になった。それでまた王妃は口を出すべからずと明言されるなら、私が公使に会って頼んだように中宮は疑うだろう。これは私が担当してほどよく言いますから、公使には謁見の時に言われないように願いたい」

井上 「しかしそれは言わねばはっきりしない。また私は閔氏を用いるように言ったことはない。閔氏、李氏、金氏でも皆王家の一族であるとの理由を述べたのであって、勝手な判断をされるなら、それだからこそ王妃に対して明言することを望む。今閔氏を採用するなら混乱を再演し、まさに牝鶏の晨して家みだれるだろう、だからこれは言っておかねばならない。私は、国政というものはこうである、王室はこうである、職務権限はこうでなければならぬ、とそれらを明らかに言うつもりである」

大院君「閔氏が政権を自由にして地方官を売買することになったのは、つまりは牝鶏の鳴き始めであって、その結果今日の有様になったのであります。私はそれで今は勅令に目を通して防いでいる。今は十中八九までは改まった。それで公使が来られたのに私が頼んで言ってもらったようでは具合が悪いから、私が公使の御意志を分って申し上げますからその積もりで願います。閔氏だからといって全く用いないのではない。政府の役に立つ人なら用いても宜しい。ただ中宮殿の干渉さえなければよいのである」

井上 「まだ私は大院君にも君主の権のことを詳しく申していない。従来の習慣で最も専制の弊害があったのは、ただ我意によって生殺与奪をすることで、これを君主の権とは言わないことである。これは定義のあることなのでよくお話しなければならない。それで謁見の時には、大院君にも言っておきましたからお聞きありたい、と言いましょうか」

大院君「そのように願いたい。以前のようにまた勢道のような者が政治を執るなら、再び6月21日(7月23日の王宮の変)が来ますから、よくご忠告されたい」

 井上はそれを諒解し、大院君はまた、自分が書いた候補として選んだ人物のことや、岡本との談話記録を読むことなどを望み、また今2人の会話を速記している書記を見ながら、

大院君「もし朝鮮がこのような速記術のように速やかに進歩するなら、今日のような亡国とはならなかったのであるが、しかし速記者の書くのを見ていると、実に言葉を直ぐに写す一種の技術ですなあ」

井上 「これも前から日本にあるものではありません。欧州から来たもので政府議院などで用いている」

大院君「朝鮮人にはこういうことは出来ません」

井上 「私は今日の天気のように爽快を感じます。閣下の心にも一点の疑惑なくこれからも時々御面会しましょう」

大院君「それで私も今日は心が釈然としました。もうわだかまりがある筈はない。今後は何でも打明けてお話しますから、閣下にも心を吐露して下さることを願います」

 井上は自分は物事を婉曲には出来ぬ性質であるとして、諸大臣の中で大君主にも王妃にも、また大院君にも同席して聞いてもらわねばならぬ、と次の謁見での事を求めた。

大院君「それはよろしいお話です。そういうことにするとして、大君主のそばに居るということは今までの例では難しいので、後ろの方に居って聞きましょう」

井上 「ご老人のことですからそれでも宜しい」

大院君「私は何でもないが大君主が遠慮されようから、私はすぐ後ろの一間でお話を聞き、またお答えしましょう」

井上 「強いてとは言わないが、なるべく出られたほうが良い」

大院君「私が世子宮の後ろに居ては大君主が困ろうから、近くの部屋で聞きたい」

井上 「それならそれで宜しい。強いてとは言わない」

大院君「謁見室のそばに部屋があるから、椅子に座って聞くことにします」

井上 「それで宜しい」

 面倒な人である。

 大院君は「それで明日ここに孫が来るが、孫を少しの間でも流罪にでもしようかと思う」と李呵Oのことに触れ、井上はそのようなことはしないほうが良いと止めた。大院君はそれを謝し、井上は学問を学ばせるように進言した。

大院君「だんだん馬鹿なことに関与しないようになりましょうから、それで孫を閣下の孫と思われて指導していただきたい」

井上 「その積もりで私も嫌なことを申しましょうが、政府の不和、王家の不和となるようなことは言いませんから御安心なさい」

大院君「私も閣下のことは明治9年以来聞いていましたが、こうしてお会いして話をして、晴天白日一点の疑いもありません。私は包んで隠すことができずに何でも打明けて話す方です。またどの党にも偏ってはならないという考えです」

井上 「それで日本党だの頑固党だのと言うことは閣下にも考えないで欲しい。将来政府で日本人を顧問官に入れなければならないが、それで日本党などという念があってはならない。軍国機務処というのもあまり適当な仕事をしているとは言えない。」

 以下、資料の判読が困難なので、かろうじて拾った文字から推測すると、井上は更に軍事のことについて話し、兵にも学問が必要であること、西洋の武器を買ってもそれを朝鮮兵自身で操作できないなら意味はないなどと話したようである。
 またおそらく、世子宮が蒸気船を見たいというので、それをわざわざ漢江から運んで池に浮かべ、遂には朽ち果てさせた、などの無駄な出費が多いなどと。

 まあ以って大院君の人となりも粗方見えてくるようであるが、日本側は、東学党への教唆は実は大院君の指示によるものであると見ていた。この後井上は陸奥外務大臣へ宛てた書簡の中で、この事について、
「口と心とは常に相違して決して信用を置く能わざるは朝鮮人の常に候えば、敢て安心とは申難く候(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/16 1894〔明治27〕年11月16日から明治27年11月24日」p6)」と述べている。ま、この頃の朝鮮の外交に携わる日本人の間では当然の共通認識なのであって、それにこの国の人の一種伝統的な性質でもあろうから・・・・。
 よって、この後も東学党鎮圧の傍ら、書類なども押収してその解明に努めている。

 

 次は李呵Oとの談判である。李呵Oは大院君が言った通り翌日に公使館を訪問した。
 李呵Oはこの時24歳、統営使、京城朝鮮軍の統営兵のトップである。東学党鎮圧に兵を出すという話があったが、井上が言うには、東学党と内通する者が率いる兵を出したところで役にはたたないと。

 11月13日午後2時来訪、以下談判要旨(原文テキスト全文はこちら)

李呵O「この間からちょっと来ようと思っておりましたが、この頃は日も短く、朝に王宮に出ると夕方になって、どうも来られませんでした。しかし昨日大院君が出ろ、と言われますし、また外務大臣の金允植さんも出ろと言いますので、自分も出ようと思っておりましたから、それで王宮の方を休んでこちらに出ました」

井上 「なるほど」

 李呵Oはしばらく黙っていたが、

李呵O「昨日大院君がこちらから帰られまして私を呼んで言うのには、おまえは公使館に行って公使に会ったら、自分に対すると同様に決して不都合があってはならん、と呉々も言われました。そうしてみると、朝鮮の風俗で言えば、腰を掛けて煙草を喫するということも出来ないのでありますから、しかし今日で言えば朝鮮の古いことばかりしてもいられませんから、どうかお許し下されたい」

 なにやら年寄り臭いことを言う若者である。

井上 「そのようなつまらぬ朝鮮式の習慣で私と交際されることは無用である。」

 井上は、すでに政府大臣にも大院君にも李呵Oのことを話したこと、大院君が流罪にしようと言ったこと、それを止めたこと、自分の孫同然と思ってくれと頼まれたからと、他国の学問をして知識を広げることを勧めた。

 李呵Oは、それを感謝し、自分は未経験で学識もないと答え、自ら東学党のことに関する話をした。しかし東学党とは言わずに「田舎の者が段々と私のところへ往来する者があった」と言った。

李呵O「7月23日のことで驚き不快に思い、またその田舎の者もそれを随分と不平に言う者であったから互いに話が合った。しかし今は過失と知って改めることが大事と思います。それでこれまでのことは悪かったと思えば、その過ちを改めるのですから、その過失は改めて、これから皆さんのお話もよく聞いてこのようなことがないようにしたい」

 李呵Oの謝罪は大院君に比べて一段と歯切れが悪かった。それで井上の長いお説教が始まる。

公使 「そのように仰るなら貴公の心持もよく分ります。7月23日のことは、騒動に驚き不快でもあったろう。しかしながら、閔氏の勢力というものは、日本の兵力無くして圧倒することは出来ないことであったろう。また日本兵が王宮に入って、大君主も李氏一族も閔氏一族も虜にして、この国を奪おうということではなかったことはお分かりになったろう。

 しかし大院君はどういうことをされたか。すなわち8月28日に平壌監氏に手紙を送って支那の将兵に、我が宗社の危急であり、奸臣が日本に付いたからこれを追い払うことに意を致せ、大臣に通じてくれ、ということが手紙に書いてある。昨日大院君にもその手紙を御覧いただいたのである。また貴公が、その覚悟であったかどうか分らぬが、東学党に関係したものは命令なさったか、貴公が利用されたか、いずれにしろ幾万でも多いほうがよいから上京せよという手紙もある。石庭(李呵Oの号)、松亭とあり、支那兵が来るから南北から相応して日兵を追い払わんと。

 それで私はこちらに来て疑惑が起きた。表向きは牙山の支那兵の掃蕩を依頼し、続いて日本と軍事同盟して清国との宣戦を大君主は宣告しながら、裏では大院君や貴公が、支那に隷属した方が安心であるという考えであったろう、東学党のようなものを引き入れて支那兵と合したら日本兵を追い払うことは容易であるとの考えからであったろう。貴公が指揮命令なさったか、また貴公に付随した者が貴公の命令を受けたような手紙もここに押収した。それで大院君の書面と李呵Oの意を受けて東学党を教唆した事実が書面に於いて附合する事実がある。

 こうなればいかに日本天皇陛下と政府が、精神誠意で朝鮮の内政を改革して独立を強固とさせようと切望しても、李氏すなわち国王、大院君、そして貴公まで、表面は依頼すると言いながら、内ではその反対に努めていることは明々白々の事実であるから、最早無益であると私は考えた。それでこの上は、天皇陛下に上奏してむしろ敵国視されて当然とまで言上しようと考え、それで金総理大臣と金外務大臣まで呼んでその考えを話した次第である。

 また貴公が私の所へ2度まで来られて、私は何も問うていないのに、風説を信じてくれるな、支那とか東学党とか言って離間策を謀る奴がいる、ということを貴公の方から度々お話なさった。それで私は疑惑が増した。よって天長節に御面会した時に、何か証拠が出ましょう、と申したのである。

 しかし貴公が今日は悪かったと御後悔あるなら私も釈然とする。もし日本政府に貴国を領奪する野心があるなら最も好機会である。1ヶ月も経たない間に出来よう。しかし、日本政府の誠意はそうではなく、どうしても東洋局面の平和を保たねばならぬし、それには朝鮮という国は始終内部に面倒が起って混雑しておるから、これをまともな独立国とせねばならない。明治9年以来、いつも日本の精神はそれだったのである。それで支那に内政改革のことを協議して貴国に申し込もうとした。しかし支那はそれを廃除した。ゆえに支那と日本が戦争をするということになったのである。だからこそ7月23日の王宮の凶事もあったのである。

 そこで朝鮮もいつまでも支那に隷属することに甘んじているなら仕方が無い。すなわち清国に通じたり、乱民を唆したり、清兵と併せて日本を敵視するような事実が露見したので今度程良い機会は無い。しかし私は天皇陛下の命を受けて朝鮮を取りに来たのではないから、最初から淡白に仰ってあれば何もこのように難しいことは言わないのである。大院君も最初からこうだったと素直に言われたならば、その時の事情ならそういうこともあったであろう、と一つの談話で済んでいたのである。しかしそれを隠そうとするからこんなことになってくる」

李呵O「私は弁解らしく言うことはしません。もうそのことが悪かったという言葉を以って謝罪するより外ありません。いうならば、日本がこれまで朝鮮に対してしたことは、考えてみれば恩国です。怨国ではない。それでこの恩国を傷つけるような考えをしてその手段をするということは、実に謝罪する言葉も無い。しかしこれは全く時局を見通すことが出来なかった過ちから出たものでありますから、そこを察していただきたい」

井上 「今のように貴公が淡白に仰れば私も深く咎めることはしない。ただ7月の王宮のことから、その後牙山で日本が支那兵を破った後も、今日のように連戦連勝ということにはなるまいと推量なさったのも、それも過去のことである。ただ貴公も政府もそれを隠そうと努めるから、説かねばならない必要があった。しかし今日は全く釈然とした」

李呵O「私は仕事をする人を奸党と誤解していたのです。間違いでした。しかし貴公からも最初から東学党のことを言われていたら、打明けてお話したかもしれなかった。しかしお話をせんで不都合でありました」

公使 「もうそのことは私も釈然としましたから、これからは善後の策を講じなければならない。第一に陰険手段をすることを掃除して政治を公明にしなければならない。また今日のように政治に多方から喙を容れるようでは強固な政府というものが出来るものではない。これからは強固な政府を作ることが第一です」

李呵O「このような国になったのは、当り前に政治を議する所で議さないからです。どうしても政治を改良して政府は国王の命によって政治を執るということをはっきりとさせなければならない。誰でも政府外の人が仕事をする様なことのない様に」

井上 「第一に、そういう様な権限も付けねばなりません。そして政府というものは強固になる。また君主であっても一国を統御する権力といっても、人民に対してすべての生殺与奪を気侭にするようではいけない。ただ法律規則等によってするという必要がある。故に政府に委任した事は委任し、又悪いことをした人は法によって罰しもせねばならない。いよいよ改良を研究して将来の基礎を立てようということは中々困難なことである。と言うのも、第一に王室の中では復讐的なようなことが今日までも行われておる。例えて言えば、閔氏が勢力を握る、そうすれば大院君の勢力を殺がんとして、既に罪もないのに罰するような始終復讐的な事がある。そういうことがなおも続くなら、国の独立も出来ぬ。王室も安全にならない」

 李呵O、冷や汗のはずである。ついこの前に復讐的暗殺を金鶴羽に対して行ったばかりである。

李呵O「お話の通り随分と権力争いなどということが多く行われている。その原因は百年このかた行われてきた勢道というものがある。この勢道というものは、政府とも王室とも付かないで、王室と政府との間にあって力を振るい、それでこうなったという事実を正して見れば分かるのであります。それで国に君主というものがあって国の政治を掌る。しかし君主であっても、不正な不都合なことは決して出来ない。正しく公平な考えを抱いておらなければならぬということになり、そして政府の大臣も皆協力して政治を執ることにならなければならないと思う」

公使 「それは御尤です」

李呵O「朝鮮は今の李氏の初めから今日まで、諚法律(君主の命による律)という様なものがあります。しかしこれは自分一家だけで仕事をやって行くにはそれでよかった。しかし今日では自分の一家には方々から人が集って来ている。前とは違うから、古い古格の礼式であると言ってこれを変えることが出来ぬようでは仕方がない。則ち時勢に応じて仕事をして行く。どれほど古くからあるとしても、時勢に適応しないなら廃さねばならない」

井上 「どこの国でも最初は、ヨーロッパでも、まだ政治上の組織というものと国政の区別がつかない間は皆そうでありました。ヨーロッパでも日本でも、皆その時に追々変化して来たのである。それであるから、朝鮮国の王家でも王室一家の事と国政の事は区別しておかなければ、将来混雑が増してしまう。これでは国も王家も危険に向うので、第一に政治というものは、国政と王家の事は区別を付ける必要があるのである。また王家の中にも、王族や外戚などの区別もつけねばならない。貴公の意も私の言うところと違いはしない。そしてその手段方法を設けなければならない。その手段方法を施すことも勝手気侭なことはできない。国事についても、王室についても、一定の制度を立て、それによって行われることが必要である。また君主の権限そして各衙門の大臣の赴任も制度によって行うということにならねばならない」

李呵O「私の国も元は政府に権力があって今のように混雑したものではなかったと思います。政府が権力を失い、独立できなくなったのも、結局は、王族や外戚が役人になって、政治の権を自分が執るようになって、そして政府の権力はなくなって今日のようになってしまったのである。この頃は大院君、そして自分の父、宮内大臣などの考えも、全く国王を補佐していこうという考えであって、政府には関係しない、政府は大臣がいて仕事をするという考えで、皆そのつもりです」

井上 「いかにもその通りにならなければならない。やはり職務権限というものが明らかになって来るなら、事務も一人が勝手にやるということは出来ない。例えば歳入も勝手に徴収して思い思いに費用とするような、取り勝ちにするようなことは出来ない。度支衙門は国の経済を見るから、徴収は統一し、また支出も責任を尽くさねばならない。また、軍も命令が王族から出たり、政府の一個人の考えで動かす、というようなことがあってはならない。何事も秩序立てて手段方法を施さねばならない。例えば貴国の陸軍でも、アメリカの野戦砲を買ってみて、その機械を用いさせる兵隊は、第一に士官に学問も識力もない。兵卒は訓練が無い。ただ平人と異なる服を着ているだけである。また江華で海軍の学校を設けて英語を教えるような所もあるという。しかし兵卒に訓練するとしても士官がいない、中隊長、大隊司令官と名は与えても、実際は無識無能の海軍であった。軍艦を買うにも貴国財政では財は無い。ただ英語を習いさえすれば海軍が出来るものではない。方法の順序がないからである」

李呵O「本来朝鮮という国は兵制などはない。兵力はあっても規律は正しくない。教育はない。到底これでは兵隊と名ずけることは出来ない。尤も、上に大将というものがある。将官というものがある。将官というものがあるけれども、一向に兵法などは知らない人がやっておるのであるから、今日のところでは無教育の兵卒と無教育の士官であるから、これに充分教育をしなければ、あんな兵を置いたところが無駄な話でありましょう」

公使 「教育をしようと言っても、その組織制度を立てようとするのが容易な業ではない。・・・・」

 かくて朝鮮国の若き王族に対して元勲井上馨による個人教授は続くのであった。
 やがて井上は日本人3人をこの場に呼び、

井上 「これは皆ヨーロッパに行って学問をし日本でも学問をして、世界の事をよく知っているから、こういう人を貴公のところに上げるから、貴公の朋友としてヨーロッパの歴史、アメリカの歴史、ドイツという国にはどう変化があって、イギリスもまたこういう時代があったが今は人民の権利がこういう風になったとか、色々な新しい話を聞かれるなら考えの方向を転じる良い方法である。朝鮮と支那の空気の中だけで教えられるなら、その聡明を埋没することになる」

 と後に朝鮮政府顧問としても働くことになる人物も含めた人たちを紹介した。

 ところで井上は後に陸奥外務大臣に顧問官のことを依頼するに於いて、朝鮮財政の窮乏から無給与ということで承知されたいと頼んでいた。

 もちろん、事件の解明を求める日本側の追究の手はこれで緩むことはなかった。この後あの東学党首領全琫準が捕獲されると、東学党2次の乱と大院君との関連を繰り返し尋問している。

 

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