日清戦争下の日本と朝鮮(7)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

儒者の上疏 撮影年代不明

軍国機務処大臣弾劾

 10月2日、大臣達を弾劾するとして、守門将金基泓なる者が上疏に及んだ。
「甲申の歳(明治17年)には四兇現わる。今歳又八奸あり。朴泳孝等と符同し、潜に倭と結び変を作為す。実に痛憤に堪えないことである。これらの売国の奴輩を速やかに誅戮せねば国家千年の患いを遺さん云々。」というものであった。(「壮衛正領官禹範善の上疏大意」、「9月初1日我9月29日守門将金基泓の疏」)

 その八奸とは、金宏集、金允植、朴定揚、金宗漢、安駉壽、金嘉鎮、趙羲淵、権濚鎮であり、いずれも軍国機務処の要人であって開化派の者たちである。

 朝鮮では古来からの慣例として大臣の地位にある者は、上疏があった場合はその当否はともかく一応辞表を出して裁可を待つことになっていた。
 即ち、
「当国の慣例として、古来大臣の地位にあるもの、一たび弾劾の上疏に遇うときは、其説の当否に拘わらず、一応辞表を呈せざるを得ざる事なれば、即此回の如きも金総理大臣先んじて疏辞を呈するや是に干連の諸氏続々辞表を呈し、終に一時は各主務衙門の残務を停止したるのみならず、軍国機務所の如きも四、五日、同議事を中止することゝは相成候」(「明治27年9月17日から明治27年10月23日」p32)

 ところが上疏した金基泓を取り調べてみると、「一丁字を解すること能わざる者」であり「本来上疏など認む可き文筆なきもの」であり、誰か他の者から教唆されての行為であることは明らかであった。それはもちろん、大院君が李允用を処分することに失敗したことからの巻き返しであることは間違いないことと思われた。
 よって、10月6日、大鳥公使はそれらのことを陸奥外務大臣に打電。

 7日に受電した陸奥外務大臣は、すぐに伊藤総理と井上馨内務大臣にそれを知らせた。(「明治27年9月17日から明治27年10月23日」p23)

 朝鮮国王は国家多事の際にこれでは国政進行上妨げがあるとして、上疏者金基泓を法務衙門に移して拘禁し厳に処分することを命じ、大臣始め諸官には懇篤なる諭旨を下して再三留任を勧告したので、大臣等は8日には主務に復し、軍国機務処も漸く会議を開く運びに至った。
 そして、金基泓は7日に法務衙門の奏上に拠って、罪を杖一百に処すところを免じて庶人とするとの処分で落着した。
(「同上」p33)

 ところで、大鳥の報告には見当たらないのだが、「渡邊砲兵少佐付属横山又三郎通信」中の「壮衛正領官禹範善の上疏大意」には、他に壮衛正領官禹範善による上疏があったとして、以下のようにその大意が記載されている。即ち、

 ・ 軍国機務所は無要の長物なり。亟(すみや)かに廃すべし。
 ・ 軍国機務所の議員は一人として其器にあらず。

 禹範善と言えば、かつて明治15年の朝鮮別技軍の教錬所参領官であり、後に兵を率いて王宮に突入した訓練隊第2大隊長であり、王妃閔氏を殺害したのは自分であると人に漏らしたために暗殺されると言う人物である。
 この頃の禹は朴泳孝の庇護を受けていたらしい。その上疏の趣旨は朴泳孝が主張するものと全く同じであり、よって今は仁川日本居留地に居る朴の意向を受けたか、あるいは彼自らの開化急進派の意に出た行為かもしれない。その後の沙汰は不明である。

 

大鳥圭介解任、井上馨が公使に

 さて、日本政府が大鳥公使の更迭止む無しの意向を定めたのもこの頃であったろうか。それについては、「蹇蹇録」の「第十一章 朝鮮内政改革ノ第二期」p8〜10 と、「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 2」p52、53 に詳しい。
 陸奥はその背景として、8月20日に締結した「暫定合同条款」による朝鮮に於ける鉄道建設権と電信建設権に関わる国内の事情に伴う世論の声と、杉村は、大鳥のその平和主義に対する非難の声が開戦後からは新聞紙上での攻撃となって激化し、さらに軍人達からも非難を受けたことにあるとしている。

 いずれにしろ、朝鮮改革の実が一向に挙がらないのは大鳥の力不足であるとの声が強かったと思われるが、実際、この上朝鮮政府内をどうにか纏め上げて改革に向かわせる、つまりは大院君の国政への口出しや王妃の隠然たる画策を止めさせ、独立と開化の路線を進めさせるには、大鳥ではその地位や力量では心もとなく、ここはやはり井上のような元勲クラスの重鎮且つ辣腕を振るう人物と交代せねばならない時期ではあったろう。

 かくて明治27年10月15日、井上馨特命全権公使の京城駐箚と大鳥圭介の解任の裁可を経て、10月25日、井上馨は数名の随行者とともに仁川港に到着した。

 ただちに仁川領事館で公使出迎えに特派された外務協弁金嘉鎮と談話。井上は儀礼の挨拶に終わらず、以下のように執るべき要点を述べた。

 ・ 我が国開戦中にて国事多端、身は内務大臣で一時の暇はないが、数万の軍兵を出して血を流し莫大の財を費やす中に、朝鮮内政改革による独立の実を挙げさせる目的で来た。

 ・ 改革は頗る困難の大業である。王家一致、当局者同心協力、一意一心を以って当らねばならない。

 ・ 私怨、私利、権勢、それらを争うようでは到底改革の望みはない。自分はどの党この党と偏ることはしない。

 ・ 第一に王君主陛下、第二に中宮陛下、第三に大院君と、その間柄が最も親密となって、まず王室が強固とならねばならない。王室が強固でないのは政府が強固でないからである。

 ・ 最早、今日のような好機会は再び来ないだろう。にも拘わらず改革の実効を見ないなら、貴国の前途は察するに国歩艱難の極に再び至るだろう。


 「改革は頗る困難の大業である」と。明治維新を断行して新国家体制の構築に取り組んできた元勲の一人たる井上馨のこの重すぎる言葉が、果たしてこの国の誰に通じるであろうか。日本と朝鮮では、あらゆる面に於いて余りにも国柄人柄が違い過ぎる。いわば古代の部族集団が一気に近代国家を形成しようとするも同然という気がするが・・・。

 

李呵Oへの直言

 さて井上公使は早々に執るべきことに着手。政府内外要人らと対談また情報収集に努めた。


 10月27日、大院君の嫡孫である李呵Oが井上公使を来訪。井上は26日の金嘉鎮に対すると同様の事を語り、また以下のように直言した。
(以下「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/3 第二号」B03050309400より抜粋要旨)

井上 「(貴国人は)口にこそ改革々々と言うが、その実は私党を樹てて互いに争うものあり、或いは自家の利欲に汲々とするものあり、或いは権力の争奪に忙しいなど、このような状態で日を過ごして国政改革の実効を挙げないなら、最早再び時機を得ることなく、貴国の前途は終に再び収拾できないことに至るかもしれない。思うに、東洋の天地はまさに多事多難である。貴国の当局者たる者は眼を大きく開いて世界の形勢に注目し、この多事の際に当って同心協力し速やかに国運の挽回を努めないなら、実に後悔の及ばない嘆きがあるだろう。貴下に多く望まねばならない理由は、貴下の一門は王室の尊族であって、世間も専ら重きを置く前途多望の紳士だからである。誠意を以って奮発し国家の事に尽力されたい」

李呵O「自分はかつて一歩も国外に踏み出したことがないので、固より識見に乏しく東洋の形勢ですら多くは不案内である。今日、閣下の懇篤な教えを得て大いに開けるところがあった。今少し早く目を開いて進歩的改革を努めていたら我国もこうまで憐れなる境遇には沈まなかったろう。思うに汗顔の外はない。貴国の終始一轍の御厚意と閣下の有益なる勧告には謝するに辞もない。」

 李呵Oこそ王族の1人でありながら、自分の国がどのような状態に置かれているかを顧みることもせず、ひたすら自家の利欲、権力争奪に汲々とする張本人の一人である。これぐらいの直言でしおらしくなるような李呵Oではない。彼はこの後も全く識見に乏しい人物らしい生き方を続けていくことになる。

 

金允植外務大臣との対談

 次いで同日の午後3時、金允植外務大臣と対談。
 再び26日の金協弁に語ったと同様のことを述べ、更に国王への儀式的謁見に限らず必要な時は随時謁見できる事を求めた。(朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/4 第三号 〔同上ニ付外務大臣トノ談話〕より抜粋要旨)

公使 「儀式的な謁見に限らず、必要ある時は特に内謁見を賜ることを予め大君主に奏請して置かれたい」

金大臣「承知した。前任大鳥公使の時に内謁見は已に許されている。また我内閣の会議にも出られて有益の助言を与えられたい」

公使 「喜んで列して各大臣の意見を聴聞し、また鄙見をも述べたい」

金大臣「我が国には独立主義に2派がある。1つは開明主義であり、国保を進めて強固なる独立国を作り、国の権利を他から侵害されないようにするもの、また1つは守旧主義であり、旧規を恪守してこれによって独立を求めるにある。」

公使 「本使は貴政府に対して全て欧米の開明主義となるのを求めるものではない。国には洋の東西あってそれぞれに風俗習慣が異なり適否があるものである。しかし国政に利があるとするなら、これを取り入れる事を望むべきである。貴国の因襲制度習慣は貴国政府政治に腐敗を来たしたではないか。それを旧規に拘泥して国政を維持できると思うなら、今の危急を救うことは出来ない。かくて貴国の前途を知ることになろう。わずかに一部の東学匪徒の紛擾すら鎮定できずに他国に力を借りたではないか。貴国の形勢を見れば恰も重病人であり、内患すでに重く、更に外患が加わる日がないとはいえない。家中火事にして強盗が外から迫っているようなものである。軍国機務処の議事はよく進行するが、議論多弁にしてこの3ヶ月間に何の一事の実行もなかった。ほとんど文具のようなものである。いかに議論が有益であっても、その法案が高尚なものであっても、実行されないなら寧ろ軍国機務処などない方がましである。今後は無責任の言行を止めて協同一致して国事に当り、互いが猜疑して私怨に拘り或いは分断策を行うような、あたかも婦女の痴話に均しい振る舞いのないように願いたい」

金大臣「誠に公使の言のように重病人である。改革を実行したくても、如何せん財力が欠乏している。これまでの議案中にも民生に有益なものがないではないが、目下、慶尚道、全羅道、忠清道は東学徒の擾乱により、平安道、黄海道は日清交戦により通路を妨げられ、改革を民心に訴える機会がない。我政府は強固ではないので、時に外部の刺激によって内部に風波を生じるのは歎息の至りである」

公使 「財政困難から改革実行でき難いとは、そうであろうが、まだ他の種々の原因があろう。いかに財力があっても用途が間違っているなら、何の益にもならないどころか却って弊害を来たすこともある」

杉村書記官「顧問官聘用と外債募集の件の委任は停止されたか」

金大臣「直に停止した」

公使 「そもそも顧問官のことはこの際注意を要する。民間人で顧問官となるのを渇望する者が頗る多いが、その選択は最も厳重でなければならない。必ず本使の手を経ることを要する。そうでないなら我政府はこれに応じないとの条件をここに付す。また外債のことも充分将来の見込みをつけた上で着手することであって、追って篤と御協議するところがあるだろう」

金大臣「我国は顧問官として西洋人を雇聘して10年以上になるが、何の利益も我国に与えていない。習慣が異なるからか。その利点を知らない。しかし今や貴国人から適当なる顧問官を雇聘できれば、必ず我国の為めに大なる益を得るだろう。追々御相談の上、最も適当な顧問官の推薦に与るなら国家のために幸福である」

公使 「顧問官に多額の給料を与えながら何等の効果を見ないのは、人に応じた仕事を与えないからである。雇われる者の罪ではなく雇った者の罪である。貴政府に於いて顧問官の聘用は最も急務であろう。しかしその人に応じた職務とその権限を与えないなら無用の長物となろう。充分思慮を尽して実効ある働きをさせることが肝要である」

 「顧問官聘用と外債募集の件」とは、朝鮮政府が西園寺公望侯爵差遣の返礼として日本に行かせた(10月13日仁川発)報聘大使(義和王子 李堈 高宗庶子 当時18歳)の随行者に、日本での顧問官聘用と外債募集を委任していた件である。

 どうやら、金允植も依然として積極的な開化派ではないようである。人物評にあるように、どちらかと言えば大院君派ではなかろうか。

 

米国医師、王妃閔氏を語る

 10月26日、仁川領事館にいた井上公使を訪ねて米国ワールド新聞記者クリールマンなる者が来た。その時に同記者は、王妃の智略というものは朝鮮政府の改良にとって軽んじられないものであると語った。よって井上は米国公使館書記官ドクトル・アルレンスがかつて医師として王妃に接近した人なので、秘書官の斎藤修一郎を10月28日に同館に訪問させた。なお米国公使も同席しての対談である。

(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/5 第四号 〔韓国ノ内情ニ付米書記官トノ対話」〕」より要旨、()は筆者)

斎藤 「朝鮮目下の勢力を代表するのはどの派であろうか。古来からの東西南北党(?)などは最早勢力を代表するものではない。必ず他があって兄弟相争って今日の状況をなしているのだろう」

アルレンス「然り。東西南北党などは今日では最早政治上に於て見る必要はない。今の勢力の各派を代表するものは、即ち国王、王妃、大院君、及び朴泳孝のような若輩の4者である。しかし朴などの一派は別に背立(対立?)もないので、容易に一定の旗色に応ずるだろう。また国王と王妃とは同一体であって、王妃の方が却って強骨優智なので、幸いに王妃と大院君の間で旧怨を捨て、同心協力して国家の為めに謀るなら、実に朝鮮の状況は一変して万事に改良出来るだろう。要するに、国王王妃は10年間熱心に待っていた機会を得たのである。ただその機会が突然に来たので驚いていたが、最早今日はその驚愕の情も去ったであろう」

斎藤 「先に言われたことは誠にそうである。我が日本国は今、2つの疑惑を解く義務がある。1つは外国の疑惑を解き、また1つは朝鮮の疑惑を解くことである。もし王室と大院君の間にある疑惑を解かせ、朝鮮の独立を完全なものとさせるに於て、一大端緒を得たものというべきなのは同感である。そしてこの2個の灯明を合わせて一大明光とするには2説がある。それは行き掛かり上、大院君を立てて王妃をして泣いて老人の袖に縋らせるべきであると、或いはまた、王妃は王妃であるから、これを保護して勢力を与え、老人をしてこれに屈服させる方策がよいと、この2説があるようであるが、貴説ははたしてどうだろうか」

アルレンス「大院君は歳はすでに75、人生の命数に於いて前途に限りがある。その上この老人は信頼出来ない性質がある。すでに清国を玩弄し今日また日本を玩弄している。これと反対に王妃は年壮にして、且つ王妃は王妃である。換言すれば国王である。名分の上に於いてもどうして大院君に顎で使われるものであろうか」

斎藤 「貴説は了解した。要するにこの点は最も注意がいるところだろう。先程、国王王妃はこの10年間熱心に待っていた機会を得たと言われたが、これはどういう意味であろうか」

アルレンス「余が先年に米国に帰国出立する際にも、国王王妃から懇々と諭嘱されたように、この数年間は時々種々の事を両陛下から話された。余はこの話を支那人に漏洩しないと信用されるので余は決してこれを洩らすを欲しない。君も知られるように、王妃則ち閔氏は支那の血筋であるにも係わらず1884年(明治17年)以来は王妃は全く排清主義に傾いた」

斎藤 「それは初めて承ることである。その排清主義に傾いたのはどういう理由からなのか」

アルレンス「84年の騒擾後、支那は大院君を保定に軟禁し(大院君軟禁は82年)、王妃並びに閔氏を使役して大いに朝鮮に干渉しようとした。王妃は却って独立の見識がある。朝鮮を愛している。これが支那と王妃との衝突であって、遂に支那は王妃が手に合わない人であることを悟って、大院君を朝鮮に帰し、以来、清国の干渉が次第に増すに従い、王妃と国王は排清国精神を盛んとするに至った。両陛下は空位に座すような日々であったのである」

斎藤 「貴説が明瞭となった。では、井上伯がもし国王則ち王妃に、日本は野心がないこと、日本を頼むべきこと、また王位が安泰であることを信じさせれば、朝廷の勇気は鼓舞して真正の王権を施行し、これによって大院君も誰も彼も、国王大旗の下に並立して百怨百疑全て消滅し、協同一致の実を挙げることが出来、何等の計謀術数を必要としなくなるという意味か」

アルレンス「然り。君の解説は恰も余の心中を深く察するものである」

斎藤 「日本が朝鮮に対する数10年来の平和主義は君のよく知るところであって、今更多言を要しないが、我国は東洋全局の安寧平和に着眼するゆえに、朝鮮国をして確乎たる独立の基礎を立たせる事を願う以外に他事はないと信ずる。今や我が皇帝は井上伯を簡派し、公明正大、国王といえども憚ることなく、善は善、悪は悪と公言させている。井上伯がこの大任を施行せんとする初めに当って、王妃の大勢力があるのを知り、親しく謁見する機会が得られるなら、心中を吐露して我が国の主意あるところを開陳することが出来るなら、この上ないことであろう。ただ如何せん、国の習慣はこれを阻止し、互に意思あるところを通す道はないだろう。偶々済物浦でクリールマン氏に会い、貴下のことを知った。幸いに貴下の紹介によって王室と井上伯との間に真意が通ることが出来るなら、これ深く東洋の大局のために謝すべきことである。井上伯は議院の演題に立って弁ずる器ではないが、互に膝を交えて対話するなら、その誠意を人の心に深く感じさせる特質の人である」

アルレンス「日本皇帝がそのような人物をこの国に簡派されたのは実にこの国の大幸である。余はここに更に米国公使の許可を得て今貴下が請われる使命については全力を挙げて従事する事を誓おう。この国の人物が自らこの国の革新の事業をなし得ない以上は、井上伯のような大有為の人の指導を得るは実に天の幸いである。井上伯が貴下が言われるような人物ならば、王妃と対話される機会を得るなら、その結果は実に重大となる。なぜならば王妃はそのような人物を認知する智能を備えているからである。」

[この時米国公使は、何とかして井上伯に王妃謁見の機会を得させることは出来ないだろうか、と問うとアルレンスは、「It is not probable but possible I think over the matter.(その件については、確実ではないがあり得ると思う)」と答えて頻りに考え込んだ]

 本官の数点の問いに対してアルレンスは次のように答えた。

 王妃の診察は先年来断った。なぜなら、御簾の内から舌を出して診察するようなことでは、到底誤診を免れない。王妃と対話する時は、王妃は常に御簾の中にある。ただ1回はおよそ半時ばかり面談した。

 辞して帰ろうとすると、公使並びにアルレンスは共に口を揃えて言った。
「日本政府の精神が果して今日貴下が陳述されたような誠忠あるものなら、井上伯の使命を完全に行わさせ、日本と朝鮮及び東洋大局の光栄を発揚するに於て、この公使館は全力を挙げて補助するだろう、云々」と。

 えらく友好的な米国側であるが、前に日本政府を誤解していたのと関係あるかもしれない。それと言うのも7月の開戦前に、どうやら米国務長官は日本が朝鮮に対して開戦をすると誤解していたらしい。(「明治27年6月29日から明治27年9月8日」p37」)
 7月15日、日本駐在の米国公使は、米国国務長官からの申し出であるとして、日本政府に対してその言葉を次のように伝えた。
 「もし日本が不当な戦争を起し、その弱くて無防備の隣国を兵火の修羅場にするなら、大統領は痛く失望するだろう」と。つまりは、朝鮮が戦場となることへの懸念を伝える内容である。
 ところが実際に日本政府が入手した、国務長官から米国公使宛てのその電信訓令では、次のような言葉となっていた。
 「日本がその弱くて無防備の隣人に対して不当な戦争の惨事を加えるなら、大統領は痛く失望するだろう。」と。
 これでは、日本が朝鮮に対して戦争しようとしていると言っているようなものである。

 米国駐箚特命全権公使栗野慎一郎は、米国公使が日本政府に申し出たものは、国務長官からの電信訓令を米国公使が変更したものであり、その他米国各紙の記事からも考えて、国務長官は、日本政府が朝鮮国に向かって開戦せんとするものであると誤解しているようである、と報告している。
 実にアメリカ人らしい大雑把な情報の扱い、また勝手な思い込みというものであろう。

 しかし王妃閔氏が支那の血筋の人であるとは興味深い話である。

 明治15年(1882)の大院君の乱(壬午軍民の乱)に於て、清国はその罪を問うて大院君を清国内に拉致して軟禁した。それは3年の永きに及んだが、その間、王妃閔氏と清国政府との間で確執があったというのである。おそらく、当時露国に密使を派して接近したことなどを言うのであろう。よって清国は、明治18年10月に大院君を朝鮮に戻し、再び朝鮮駐在とさせた袁世凱を以って強力に干渉したために、国王王妃は殆ど空位の座にあるも同然の10年間となったと。

 

異例の国王謁見

 10月28日午後3時、井上馨は国王に謁見。唯に大鳥と交代を告げる国書奉呈の儀式に留まらず、2時間余りにわたって意見を呈する異例の謁見となった。

 まず井上は国王とは10年来の再会である事を述べ、井上の京城駐箚、大鳥の解任、天皇陛下の親書などを呈出した。
 国王もまた国書は自ら眼を通すことを述べて10年来の再会に触れ、謁見儀式の挨拶を交わした。
 その後、井上は、世子宮、内外務両大臣、杉村書記官、通訳国分書記生以外の人々に退席を願い、長時間に亘る弁論を始めた。

(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/8 第六号 〔韓国王ニ謁見顛末〕」より抜粋して現代語に。()は筆者。原文テキストはこちら

本使

 今や日清両国は干戈を交え、このため我が政府は頗る多事の時である。馨(井上のこと)はまた国務大臣の一員であって、国家の重職に任じ身は一時も国を離れてはならない地位であるにも拘わらず、特命全権公使に転じて闕下(王宮城下)に駐箚するに至ったのは、我が皇帝陛下の聖意である貴国を助けて宿弊を除去し、独立の実を強固とせねばならないとの御趣意に外ならない次第である。

 そもそも、現今、日清の間に干戈を動かすに至った主たる原因を先ず以って奏すると、去る明治9年に於ける江華島の出来事では、貴国の兵隊が我軍艦を砲撃し、我国上下一般は憤激に堪えなかったが、我が皇帝陛下は尚も平和の局を結ばせるために黒田全権大臣並びに馨を副大臣として貴国に簡派され、当時、江華島に於いて陛下の全権委員と会して談判を重ねた末、陛下の委員は明言するのに自主独立の邦国なりと。また我が政府も貴国の独立を望みつつあったので、この国と対等の権利を以って修好条規を訂結し、則ち率先して貴国を独立国と認定し、以後は他の外国も続々と対等を以って結約するに至った。これは貴国が独立国であることを世界に紹介したようなものであった。

 去る15年に至って、再び貴国の兵隊は我が公使館を不意に砲撃し我が公使を辱かしめ、終に止むを得ず公使に兵を率いさせて大君主の委員と談判を遂げさせ、漸く平和の局を結んだ。
 又17年は則ち15年の事に起因し、貴政府の望みに応じて多少貴国の独立を補益せんとしたのに、(貴国は)自ら猜疑を起し、また清国に依頼し、終に干戈を動かすという不幸を来たし、再び大兵を率いて馨が自ら貴国に来て陛下の委任大臣と交渉弁論を重ね、終に平和の局面を維持し、我皇帝陛下に復命するを得た。次いで我政府は清国と天津に於いて談判を開き、なるべく貴国の後害を防止することに努めた。
 以後はともすれば時々は平和の基を動揺しないことはなかった。現今は清国と開戦に及ぶも、過去を回顧すれば、貴国に対して怨みに報ゆるに徳を以ってしたるは、その事跡を篤と御考究あるなら明了となるだろう。

 然るに清国の行為はこれに反して頻りに貴国の属邦を主張し、且つ日韓両国事件の生ずる毎に陰に陽に内政に干渉する度を高め、このため時々日韓両国隣交の基と両国人民通商の利益を害し常に動揺の中に漂う状態であった。故にこのため東洋の局面は常に安定せず、今日まで漸く一時的に保つ様相は、これを衣装に例えると、恰も取繕った破れ衣を補綴しつつある形と■■であり、ここは寧ろ新衣に替えるか、または大裁断を行って修補してその妨害の原因である怪物を除去せざるを得ない。

 先ず我が政府は事がここに至らないように思慮し、清国に提案したのに両国が協同して貴国の内政を改良し、それにより後来の患いを除くことを願い、文書に、弁論に、余さず勧告を尽した。しかし残念ながら清国は却ってこれを拒絶し、頑なに改めることをせず、不幸にも今日の■合となった。そもそも誰の罪であろうか。

 そうであるから行き掛り上、我が国はどこまでも貴国内政改革のことを大君主陛下並びに陛下の政府に向って勧告し、独立の実効を奏するだけの幇助は是非とも達せざるを得ないのである。

 そもそも今日の東洋の大勢は、日に月に多事■■の情■を顕しつつある。露国はヨーロッパ、アジアの大国である。その領土の広きこと、その領域の大なること、遠くは亜細亜に、近くは貴国の越境に接っしている。またその鉄道線路を建造して7、8年、中央アジアを横断してウラジオストクに達しようとしている。
 これほどの国土広大、国力強勢であるが、その地が北の果てに偏在する故に、アジアの中では全ての季節に船舶を繋泊するのに便利ではない。冬期の氷結に不自由がある。故に露国が英国と東洋に於いて争わんと願うなら、勢い一つの良港を東洋に求めねばならない。英国は又これに反して東洋に於ける既得の商権をなるべく永久に維持することを願い、露国を拒んで独り専有しようとしている。露国と英国が東洋に於いて対峙する動向形勢は既にこのようなものであり、隙があれば機に乗じ、利があれば直にこれを手に入れようとしている。
 またどうしてただ露国と英国のみであろうか。フランスもあり、ドイツもある。皆、国として自国の利益と勢力を経営するのに汲々とするのは当然の務めである。

 この時に当って清人が蒙昧なることは、世の趨勢を顧みず、徒らに旧弊を墨守し、自ら尊大に構え、自国の力を計らず、前にフランスと事を構えてたちまち福州で一敗地に塗れたが(1884年清仏戦争)、なおも自らを悟ることが出来なかった。
 それならば先に仮言したように、いわゆる弊衣の補綴は一度破綻したる上は将来どこで止まるかも知ることは出来ない。故に東洋の局面も何時の日かどのような椿事を生ずるかも逆視できないことである。

 果してそうならば、貴国の内政に速やかなる改良を加え、独立の実を挙げ、その基礎を強固とさせないならば前途にどのような不幸を来たすやも知られない。否、悔いてもどうにもならない歎きがあるだろう。
 また、一歩を進めて貴国の内政改革が我が国に於いてどれほど必要なのかと申すなら、政略上は先ずしばらく除いて、貴国と我が国の商業上に直接の関係を有するがゆえに、貴国に留まって商業を営む多数の我が国の人民は言うに言えない不幸に沈むことが再三ではない。現に15年であれ17年であれ、その他幾多の損害を受けた実例は少ないことではない。

 これは結局は貴政府の力が微弱であって、紀綱は廃れて■らず、宿弊が湧出することによる。これを正す方法は内政改革以外に手段はない。
 我が皇帝陛下は帝国臣民を保護されると同時に、その利益を保護される責任がある。帝国の利益は帝国臣民の利益によるものなので、将来貴国にある帝国臣民の利益を保全し、平和を永久に維持せんと願うなら、勢いまた大君主陛下に対してその内政の改革を勧告せざるも止むを得ないことなのである。

 王室が強固であることが必要である。第一に国政改革の実を挙げられようとするならば、当然、先ず王室が強固であることが必要である。
 [この時に陛下は、宮内大臣を顧みて、「然り然り、王室の強固」と何度も繰り返し、大いに御満足の様子に見受けられた]
 王室の強固とはどういうことか。即ち上は大君主を始め中宮、世子の御三人と、大院君との御間柄は最も親密であって少しの隔り少しの隙間がないことを言うのである。

 もしそうでなくて御互いの間に色々と疑念を抱かれて、他の者の分不相応な望みを招かれるようなことが万一あっては、到底王室が強固となることは望むべくもない。本が強固でなくて枝が栄えるものはない。
 王室の方々が協和親密となるのが出来ないなら、下にある陛下の政府並びに下の臣民もまた、猜疑離間して徒党を立て、新と言い旧と言って、ただ権勢の地位を争う今のようならば貴政府が強固となるのもまた望むことも出来ないことであって、国政改良の実は終に見ることもなく終わるだろう。

 だから王室の協和が王室を強固にし、政府の協和一致が政府に各職を守らせ堅牢不壊とならせるのである。我が皇帝陛下は特にこのことを望まれてあるので、大君主陛下に於いても必ず聖意をここに注がれることを切望する。
 聞けば、既に12、3年前より陛下と大院君との御間柄は、とかく御疎遠がちであらせられるとか。
 [この時宮内大臣が傍より、「世間に言うような程のことはない」と弁疏する]

 また近日は中宮陛下との御間に於いて厭うべき風説すらある。
 これらは王室の安寧に取って頗る痛歎せねばならないことであって、今後とも決してこのようなことが無いよう切に願われる。なぜならば、(大君主は)中宮陛下とは御夫婦の間柄、また大院君とは御父子の御間柄なので、人倫の上に於いても最も御親密でなければならないものである。また世子宮は将来の王位御相続者であって即ち陛下が万歳の後の大君主となられるのであるから、申すまでもなくこの間柄は最も御親愛とならねばならないものである。このようであってこそ朝鮮の国利と民福は共に享けることになるのである。

 [この度の事件後3ヶ月間、国政改良の実はまだ少しも挙がっていない]
 陛下の百官はとかく協和一致の賢を欠き、互いに私党を立てて争い相い、或いは猜嫌の念を以って反発し合い、或いは権勢争奪に忙しいなど、徒に日時を費してこの頃になっても改革の実は更に挙らないと聞いた。
 申すのもどうかではあるが、貴国人の性情として、それぞれが陰謀を企て、暗に自分を傷つける意があるとか、誰々はその意中が図られないとか互いに疑い合うなど、いわゆる疑心暗鬼を生じてせめぎ合うに至るという。
 これでは陛下の中興の大業も到底望みを絶たざるを得ない。以後は宜しく打ち解けて考えを改め、各々の猜疑の念を一掃し、国事に尽瘁して内政改革の実を挙げられることを望む。

 もしそうならないなら、我が日本が今日まで、またこの(戦争の)終局となるまで、幾千の精兵を失い人血を流し、億を以て数える軍資を惜しまずに従事して来た素志も水泡に帰するだろう。殊に我が皇帝陛下は大元帥の職を全うされんとして大本営を広島に進められ、軍事の計画はすべて御自らされ、また目下は国務多端の際にも拘わらず重要の職にある馨を特に使臣として闕下に駐箚させられた、その陛下の御趣意に適わないことになる。
 ゆえに、馨は必らず偏らず、今、貴政府内にあるいくつかの党派中、何党を助けようとか、何党を排斥しようとかいうような不公平な見方や行動をするものではない。要するに貴政府に対して公平無私協同一致を以って国務改良の実を挙げさせんと務めるのみである。

 古来よりの因襲の久しき幾百年を経て終に今日の頽敗に沈む貴国を、一朝一夕でいわゆる晴夜に日光が灼然と輝くを観るような、目覚しい改革を行おうとすることは出来ないが、先ず以って出来得る限り、その都度に応じて緩急よく量り、漸次進行させ、中途でつまずいたり退いたりする患いがないようにしたい。
 それゆえ本使が闕下にある以上は、誠心誠意貴国のために努力して陛下の中興の大業を暗に翼賛せざるを得ない。

 ついては、時々には内謁見を請うて何事によらず貴国のために言を進めることがあるだろう。或いは馨は単純朴訥の性質ゆえに、陛下の御思召に対して逆うことも時に多いであろうが、それは良薬口に苦しとしても病に利があるとの例えもあれば、恐らく陛下の為めには裨益がないことではないだろう。予め諒察されることを請う。
 また大君主陛下に於いても、馨を一般の公使とのみ見做され給わず、すなわち我が皇帝陛下の特別なる御親任によって簡派された馨なので、充分に御信用に相成り、1人の顧問官として何時も直に御召しあって、御下問があるなら馨は不肖なりとしても赤誠を注いで奉答致すべし。陛下に於いて馨への御信用の程は大いに全局に影響を及ぼすことなので、先ず以って陛下の御信用を得、然る後に貴政府全般の信用を受けるべきものである。
 このように申しても、本使が貴政府内で大なる勢力を得ようなどというような野心は決して無い。その辺は少しも御念慮に及ばない。ただそうでなければ、折角に我が皇帝陛下が馨を当国に派遣された御趣意と相齟齬するの恐れが少なくないので、予じめここに一言奏上致しておかないではいられないのである。


大君主
 貴国多事の際に、殊に卿が要職にある身を以って我国に駐箚するに至ったのは、卿が前から時々に両国交渉の難局に折衝し、適当に処弁した結果であって、貴国皇帝陛下が我が国に対される厚き聖意の程が推測られて感佩に勝えない。実に斯くまでとは思わっなかったが、卿の奏言によって殊更にこれを諒解することが出来た。
 聞けば、卿は貴国の維新に当って力を国事に致し、国家の元勲としてその名は夙に高い。今、我国創業の際に当って卿をこの国に見る。惟うに卿は必ずかつて自国に試みた実験を以って我国の改良の実を挙げ、以って独立の基礎を固くするを得られるならどれほどの幸いか。この上は朕は卿の奏言を喜んで受け、今後は顧問官として時々卿を引見する日も多いだろう。卿もまた朕の政府大臣と交際し、隔意なく国要の勧告と裨慮を与えることを望む。

[陛下はこの時に宮内大臣に命じて、特に椅子を本使に賜わった。本使に陛下が御椅子に■ける様■した]


本使

 聴明なる陛下の御言葉には感銘した。また我が皇帝陛下の聖意を、また本使の奏言も具に諒察を垂れ給うたとの事、馨の光栄はこれに過ぎない。直ちにそのことを添えて我が皇帝陛下に転奏したい。
 そしてなお一言奏上致しておきたいことは、我が政府は去る明治9年以来、貴国に対する主義は終始一貫していて決して変えるところはないことである。即ち今日であってもやはり最初の目的を引き続きしていることである。つまりは我が政府は貴国に対して無限の好意を表するものである。それゆえに何事にも拘わらず、貴国の不利益と思う事柄はどこまでも正すことに努め、貴国の利益と思われる事柄は強いて御勧めせざるを得ない。

 しかし馨はこの地に在る上は、それ以上の目的を達せんがために兵力を1徒党に借して事を成させようとするかのような事は決してしないことである。その辺は叡慮を安んじられてよろしいかと。
 この頃聞いたことに、先頃は朴泳孝から、この際は我が兵力を借りて王宮に迫らんとするかの風説があったとの由、御心情を悩まされるに至り、大いに宮中に恐怖を来たしたとか。これは全く猜疑と離間のする所に外ならない。思うに一事の流言に過ぎないだろう。大鳥公使はこのような軽率な人ではない。まさしくもしも大君主陛下の御依頼があればいざ知らず、只だ通常の1個人に兵力を貸し以ってその者の欲を逞うさせんとするかのようなことは決して聞き容れる筈はない。

 これとても、大君主陛下始め陛下の政府の人々が我が国に対して疑惑がまだ解けていないところがあってのことであり、歎息の至りである。しかし最早先に奏上したように、我が陛下並びに政府の誠意のある所は御了解あらせられた事なので、この先き決してこれらの風説に惑わされて御驚動のないように願いたい。なおまた風説で疑わしい点があるなら直ちに馨を召され、御下問なられるに於いては、必ず誠実を以って奉答すべし。これは要するに馨は陛下に御不安を与えるような陰険に事を謀る人物ではないということである。それゆえ陛下の顧問官として充分に御信用あって然るべきである。
 それでも世間は不意に何等の出来事がないとは保証できない。たとえば匪徒が外に現れるか、或いは内訌が内に起るか、かりにも王宮の安危に関して叡慮を悩まさるれるような事があって、馨にその保護を御托される日もあるなら不肖馨は必ず応分の力を以って陛下のために叡慮を安んずることを努める。


大君主
 卿の奏言は一々適切であった。朕も卿が懇切なることがそのようならば大いに安堵の念をなすであろう。


本使

 聖聴に達したか否かは知らないことであるが、我が北征軍は既に貴国の国境を越え、虎山の戦で勝利し、九連城を占領し、なお進攻しつつある。日清間の戦争はこのように着々歩みを進めているのに、顧りみれば貴政府改良の進行がどうなっているかを見れば前に申したように徒に優柔不断で、ここに3ヶ月余り経つのに一事の実効も得るものはない。かくてどのような聖意なのか、まさにまた、陛下の政府大臣は何事をなしつつあるのか、軍国機務処のような幾多の法案の裁可を経てもその議案は殆ど文具と異ならないものなのか、一々その根源を推しはかれば事は頗る多岐に渉る恐れがある。またここに至るまでの仔細については確かに既に聞いてはいるが、今、殊更に奏上するを必要としない。


大君主
 時々にこの事を憂えて政府大臣を督責し、規定の法案中、民度の適否を調べ、緩急に応じて速かに実効を挙げることを命じ置いた。


本使

 東学の匪徒は昨今益々猖獗を極めているとのことである。しかし東学中、ある者の供述によれば、地方官の苛斂貪■に堪えられずに、憤懣の余り遂に匪徒に加わった者が多くなったと。これまた宿弊の増長と紀綱の弛みがその一端なので、とにかく国政の改良は今日の焦眉に属し、一日も速やかに良民を塗炭から救う道に取り掛かることを切望せざるを得ない。


大君主
 東学匪徒類は宗教を以ってするものもあるが、中には卿の言うように地方官の失政に起因するものが往々にしてある。これは朕が不明によるもので畢竟は官紀の厳粛でないところからのもので、慙愧の事共である。


本使

 はからずも今日は微衷を披瀝して長時間に渉り多く聖聴を汚した。惶懼に堪えない。


大君主
 否々、朕は却って卿と会ってその奏言を聞くのを喜ぶ。

 右にて退出を言奏し、階を下りて更に別殿に大院君に面会したが、時はすでに点燈に及ぶので一通りの挨拶をなし、簡単に王室の和親協和に関する勧告を試み、程なく退出しようとするに当たり、同君は明日午後2時に答礼に公使を訪ねることを約束した。それより随行員一同共に王宮を出て帰館したのは6時過ぎであった。

 先に秘書官斎藤修一郎は「井上伯は議院の演題に立って弁ずる器ではないが、互に膝を交えて対話するなら、その誠意を人の心に深く感じさせる特質の人である」などと言っていたが、どうしてどうして演説を以ってしても充分にその誠意を感じさせずにおかないものがある。後の陸奥宛親展でも井上は、「・・・肺肝を吐露し続々懇切に奏上し、殆ど二時間余の長きに渉り、殿下には余程感激あらせられたる様見受申候」と述べている。(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/7 1894〔明治27〕年10月29日から明治27年10月30日」p3)

 さて、ここで井上は王室の強固、政府協同一致を重ねて説き、改革の実を挙げねば国の独立は望めないことを苦言と共に呈している。後に下関に於ける日清講和条約訂結によって清国に朝鮮の独立を認めさせることになるが、問題は朝鮮国自身が果たして確乎とした独立の意思があるのか、また独立国たる内実を整えるのか、そのための改革に実効ある取り組みをするのかということであったろう。その為に日本国は、
 「明治9年以来、貴国に対する主義は終始一貫していて決して変えるところはないことである。即ち今日であってもやはり最初の目的を引き続きしていることである。つまりは我が政府は貴国に対して無限の好意を表するものである。」と。

 また言う。
「過去を回顧すれば、貴国に対して怨みに報ゆるに徳を以ってしたるは、その事跡を篤と御考究あるなら明了となるだろう」と。

 筆者もまた同感である。日朝近代史に興味ある方は「篤と御考究」あれ。

 しかし井上馨は伊藤博文よりも尚も一段と直言して憚らない、要するにつけつけと物言う人であることがよく分かる。そしてこれはまだ序の口であった。

 

英国総領事と対談

 井上は翌日10月29日午前には英国総領事兼外交事務官ヒリヤーと対談し、政府の朝鮮に対する意向を日朝略歴も交えて伝え、理解を求めた。
 ヒリヤーはそのことを了解しながらも、朝鮮が最も貧国であることから、改革のための財源はどうするのかを問うた。
 井上は、まず中央と地方の政治組織を改良することが先であり、財源の検討はその後になると答えた。
 その他、顧問官のこと、税関組織、鉄道敷設、鉱山開発のことに話が及んだ。

 ヒリヤーの話では、朝鮮の税関は清国の英国人総税使の部下から分かれた者達が担当し、その多くは英国人であり朝鮮国税関事務長も英国人であること、従って英国政府は税関組織を変更するのは反対であること、また、かつて英国合同企業が鉄道敷設、鉱山開発の契約を朝鮮政府と結んだが、その契約期限が既に過ぎたので全く放棄した、とのことであった。
 なおまた、「今は日本が指導者としてこの国を開明に導くに当って、他から手を出すよりも改革事業が一段落してから後に各国が通商利益を均有することが望ましい」と述べた。

 まさに先に国王謁見で井上が述べたように、「皆、国として自国の利益と勢力を経営するのに汲々とするのは当然の務めである」と。

 

今日も頑固な大院君

 同日29日、昨日の答礼として大院君が公使館を訪問した。勿論、井上のことであるから答礼の挨拶で終わらせるはずもなく、またも長時間の対談となった。(原文テキスト全文はこちら

 冒頭大院君は、日本公使が度々代わるから親密の交際が続かないのが遺憾であると述べ、一番の古株である杉村濬書記官を見ながら、「同氏は余と反対の人だから余は好かない。なにとぞ閣下(井上)とは永く交際することを望む」などと、いきなりの嫌味を放った。
 それに対して井上は「杉村は永く在勤して貴国の裏表の事情をよく知っているので、閣下(大院君)がお嫌いになったのであろう。余も永く在任して内部の事情に詳しくなったら、閣下から嫌われるようになるかもしれない」と返した。大院君は苦笑して「余が杉村を悦ばないのは、余に対する贈り物が少ないからである」などと言って話題を変え、「日本の尽力は感謝するが、兵火によって民心が乱れたことは残念であり、速やかに事が成就する事を望む」と言って紙と筆を杉村書記官に求め、書して「漢の高帝が天下を治める心得として、先ず以て法三章を約す(簡単な取り決めをすること)こそが分かり易い」との意味の文を井上に渡した。

 その他にも孟子の句を述べたりして相変わらずの大院君であったが、まあこの時もう75歳だから今更変わるはずもなし。以下、対談の抜粋要約である。

(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/9 第七号 〔大院君トノ対談顛末〕」より抜粋要約、()は筆者)

(略)

公使 「ついては閣下にも腹蔵なく意見を述べられたい。今回日本政府が億を数える財を惜しまず人命を賭してこの挙(日清戦争)に及んだのは、貴国の独立を強固にして東洋の平和を保全するために外ならない」

大院君「貴国が我国を自主の国として独立国となし、東洋三国の安全を図って出たことは、余が既によく承知していることである。ただ、貴国皇帝陛下の思召しと貴国政府の意向が或いは相違することもあるかと思っている」

公使 「陛下の御覚召は即ち政府の意なり。それ以外にはない。堅く承知されたい。余と閣下の意見が合わないことこそ恐れる」

大院君「いや、余の意見は「法三章を約す」(簡単な取り決めをする)ということである。閣下の御高見は」

公使 「今の天下は当時とは違い、今世紀に2千年前の政治を行おうとするのは誤りである。法律は三章どころか千も万も要し、政事の組織その権限などを明らかにせねばならない。閣下にはそれで今の国政を監理できると思われるか」

大院君「余が言うのは民心を治めるためである。秦の時代に民心が撹乱し、漢皇が起って先ず法三章を約したのは民心を収攬するためである。余もこれによって先ず民心を治めることを望む」

公使 「2千年前に外国との通商条約があったろうか。人民の権利義務などのことがあったろうか。今日では規約は万でも足りないぐらいである。2千年前の昔を論ずるのは無益である」

大院君「余は頑固である。世人は余を頑固の張本人と言う。しかし開化が必要な事はよく知っている。鉄道を通し鉱山を開くのも望んでいる。ただ急速にするのではなく漸次することを願う。しかしそうでない者が多い。6月21日(日本歴7月23日)以来およそ百日間、機務所や議政府がすることは、日本が2、30年かかったことを直にしようとすることを欲しているようであるが何等成果らしいものはない。例えば、警務庁を設けたが、巡査の服制を変更して服の袖を狭いものに変えた。これらは人民の耳目を驚かし民心を乱すものである。ついては巡査服制のことも漸次に変更すれば大いに都合が良いことである」

公使 「余はそのような巡査服制の小事を談ずるような者でない。貴国の王座を強固にし、貴国の国本の確立を論ずる者である。閣下が言われた百日間のことで様々な風説もある。徒に権力を争い党を立てて猜疑離間をみだりに行う事を聞くだけである。これではどうして王室を国本を強固にする事ができようか」

大院君「余は既に75歳に達して老耄した。国政には関与していない」

公使 「それならばどうして王宮に入られたのか。国政に当る決心あればこそであろう。それを関与せずとはどういう御考えなのか。そもそも国政を議するのに齢の上下を論じたろうか」

大院君「されば機務所があり、議政府があり、余は毫も国政に当っていない。しかし一つをしたのに、西園寺侯爵派遣に対する報聘使派遣の事である。その地位からも余の孫である李呵Oを差遣わす事となったが、都合あって遂に王子義和宮を特派した。これは余が日本に対する好意である。願くは閣下にはこれを以って余の意を諒解されたい」

公使 「閣下が壁を造って余の言を聴かれないのは、余と対談するのを好まれないからなのか」

(井上の問いに大院君が答えていないことを指す。しばしばこの国の人との問答で発する論点ずらしや話題そらし、また撹乱を言う)

大院君「決してそうではない。余は閣下の経歴も、閣下の日本維新以来の政務も、閣下が開化の政治を熟知していることも、ほぼ承知している。閣下が来られたのは我国のために極めて好結果を見ることだろうと心に期しているぐらいである」

公使「それならばお話いたそう。今回の事の起りは先ず来歴を説かねばならない」

(ここで井上は国王に対したと同様、日朝間の略歴を述べた)

公使「・・・我皇帝陛下は黒田を全権大使とし、余は副使として派遣せられ、遂に修好条約を訂結するに至った。閣下にも当時の事情を御記憶あると信ずる」

大院君「余は当時地方に居住していたので、直接には承知していないが後から委細を聞いた」

(しかしこの時大院君は、黒田たちに対するに刺客を放ったことがあった。当時江華島に於いて朝鮮政府からそれを聞いた黒田は気にもかけなかったが)

公使 「・・・通商をも開始して両国間の交際は漸次進んだが、明治15年に至って、またも貴国陛下が養われる兵士は、両国交際のために我国から派遣して当地に駐箚していた我国の使臣を襲った。この事がいかに非礼であり、いかに我国を侮辱したことであるかは閣下も勿論御承知のことであろう・・・」

大院君「当時我国の人は未だ開化の何たるかを知らずに起したのである。誠に遺憾であり、申し訳ない事件であったとするのは当時からの国民一般の公論である」

公使 「そうである。誠に不埒千万である。そしてこの事件が貴国の官吏の教唆によって起きたことは事実である」

大院君「事の既往に溯るのは言うのも益ないことである。今の事、将来の事について御尽力を願う」

(大院君が一番触れてもらいたくない事件である)

公使 「そうではない。既往の歴史に論及せねばならない。なぜならば事がここに至ったその原因を知らねば、その真相を知ることは出来ないからである」

大院君「余は本日は答礼として参上した。少々体の具合もよくない。御話は後日に譲られたい」

公使 「昨日に御面会を約したので、本日は胸中を聞く対談をしようとしたのである。お疲れとあれば御老体のこともあり後日に再会の約束をしたい」

大院君「実は公使の御来任については、先ず外務衙門で席を清めて御招待し、また宮内府にも御招待し、その後にお話を承るつもりである」

公使 「それらは儀式である。余はこの際、儀式にあくせくするつもりはない。余は東京にあって国務の任に当っていたが、それを陛下から至急呼ばれ、征清の軍は次々と戦勝して進攻しているが、朝鮮の現況は朋党が政権を争うばかりで改革の実が挙がっていないので、朝鮮に赴いて事を処すように命じられて来たのである。余は家に帰ることもせず、2、3枚の衣類を取り寄せただけで直ちに赴任した。これも貴国国家についてのことである。それなのに着任後にこのような儀式で遷延するのは余が最も不快とするところである。清国の九連城も既に陥落した。しかし貴国は改良の実は一つもない。閣下は今日のこの場合をどのような場合と見られるのか。国家のために最も危急の場合ではないのか・・・・」

(井上は大体に於いて実務主義かつ忙しい性格の人である。時に雷を落とすことがあるらしい)

大院君「危急なる事は余も承知している。人心の回復などは実に目下の急務である」

公使 「この危急の時にどうして儀式が要ろうか。そもそも余の意見を述べ、閣下の御意見を聞き、双方が腹蔵なく胸襟を開くことは余の望むところである。もし両者の意見が合うことが出来ない事でもあるなら、それこそ事の成り行きは計り難い事になる。余は信ず。貴国と王室がどのように成り行くかは、閣下と余との和衷協同にあると。」

大院君「余もまた閣下と意見の合うことを熱望する」

公使 「しかし閣下は余と対談するのを好まれないようなので、果して和衷協同の実を挙げることが出来るかどうか。今日はお疲れとのことで、他日の再会を期したい。それでお約束したいことは、閣下と協議の後に、貴国各大臣達と一堂に会して余の意見を述べたいので、その時は閣下にも御臨席ありたい」

大院君「その儀は叶い難い。なぜなら余は政府の者ではない。政府に出て各大臣と議することは出来ない。これは国法である。閣下が各大臣に話されたことは後から一々余が知ることが出来る」

公使 「それなら閣下は大臣と国政を議さないのか。また個々別々に話すならどうして一堂に会する必要があろうか。また個々別々では互に疑念を生じる懸念がある。一堂に会するを必要とする所以である」

大院君「否、勿論各大臣とは政事を議している。しかし大臣は余の所に来て事を稟するのを例とする。また余が各大臣と一堂に会することは、地位が甚だ違い、各大臣は余の面前で座することができない。到底行い難い」

(この国の身分の違いに関する儀礼遵守には甚だしいものがあった。何しろ総理大臣たる金宏集ですら身分の違いから直接大院君に面会して話すことが出来ないぐらいである。もちろん大臣達は大院君の前では椅子に座ることも許されない)

公使 「国政を議するのにどうして地位を問題とするのか。ましてこの危急の時に。昨日余が陛下と謁見した時も内外務大臣は列席した」

大院君「謁見は違う。とにかく余が政府に出るのは法に於いて出来ない」

公使 「それならば閣下は余と協議するのを好まれないのである。このようなら余が再び閣下と会見する必要はない。余と閣下との和衷協同は即ち貴国の国家と王室との運命に関する程のことである。しかし協議を好まれないのは遺憾である。閣下はまた法であると言われたが、小事の小儀式を以って法律と言うのは誤解も甚だしい。余は我が国政に長年与り、また欧米諸国の政務もよく知っている。閣下が言われるようなことを指して法と言う理があろうか。目下、東学党が跳梁しているが、貴国政府が自国の力で鎮圧できずに日本の派兵を請われたのは、これも法なのか」

大院君「それは余の意にあらず。大臣の意である。大臣から申し出たので、余は単に首肯したまでのことである」

公使 「閣下の首肯はすなわち閣下が責任を以って許可した命令ではないのか。閣下はそれは知らないと言われるのか」

大院君「閣下に予め願う。2つの条件がある。1つは内政の改革は徐々にすること。もう1つは朴泳孝のことである。同人等については余は充分にすることをした。故に閣下にはなるべく猶予されたい」

(朴泳孝は後に朝鮮政府に登用されるが、それを猶予してもらいたいという意味であろうか)

公使 「今はお約束し難い。事には緩急がある。これらのことは閣下の意見を聞いた後でなければ、何とも決する事は出来ないことを承知されたい。閣下が各大臣と同席して国政を議することが出来ないとの理由はない。どうしても出来ないと主張されるなら、余は閣下と何も協議できない。閣下は余と協議するのを好まれないのか」

大院君「いや余は協議を願う。決して好まないというのではない。金宏集、金允植、金宗漢、兪吉濬等に話したことは余も知る筈である」

公使 「否、個々にお話あるのは無益なだけでなく却って害がある。余は閣下が各大臣と一堂に会することを拒まれる間は閣下と協議出来ない」

大院君「それならば一堂に於いて屏風の陰から拝聴しよう」

公使 「この国家の危急時に際し、屏風の陰で聴くと言われるような小児じみたことに均しいことは余は理解出来ない。閣下は今を如何なる時とご承知か。児戯を談ずる場合ではない」

大院君「余の宅か別荘でなら差し支えないが、政府に出る事は到底難しい」

公使 「政府に出る事が出来ないなら、場所は余が撰ぶ所ではない。宮中なり、閣下の邸宅なり別荘なりどこでもよい。また閣下の前では各大臣は座ることが出来ないと言うが、立つも座るも何の差支えがあろう。座るなり立つなりすればよいのであって、余がどうこう言うことはない。とにかく余は一堂に会して国政を論ずるのを要するので、一応閣下と互に意中を尽した上で、各大臣を集めて議論し、その後に閣下及び各大臣と会見する事を望む。閣下はあくまでも拒まれるか」

大院君「各大臣に談じられることは即ち余に談じられるのと同じなので、同席する必要はないと思う」

公使 「否。甚だしく違う。閣下に説くのと各大臣に説くのは自ずから差異が出るのを免れない。とにかく閣下は拒まれるのか。場所は余の関しないことである。しかし各大臣が起立する場合も余は椅子を得ることを望む」

大院君「それならば貴意に従って会同しよう。さて、余は閣下の説を聴いた。閣下には余が述べた内政の事、朴泳孝のことはご承知されるか。ご承知されないなら人心は益々乱れるだろう。余は人心を鎮定するのが目下の急務であると信ずるので、是非に2件はご承知置かれたい」

公使 「先に述べたように、本日は是非閣下と互に意中を尽そうと願ったが、閣下はお疲れであると拒まれた。それで他日に再び会同する事となった。故に他日に余の意見を述べ、閣下の御意見を聞いた後でなければ、それらの事について前以ってお約束は出来ない。これは結局は、大本が定まらない内に、先に枝葉を定めようというのと異ならない。また閣下は頻りに民心云々を言われるが、あの東学徒が国の四方で蜂起するのを見よ。結局は地方官吏らが苛斂誅求をほしいままにするに起因しているのである。民心が穏やかでないのは素よりそのことによる。故に先ず改良の実を挙げ、国家基本を確定せねはならない。国の基礎が確立するなら民心は自然と鎮定するのである」

大院君「余は民心を鎮めることを先にすることを願う。しかし閣下はこれを後にすると言われるのか」

公使 「勿論である。諸々の事が改り改革するならば、民心は自然と鎮定するからである」

大院君「とにかく後日に再会の時、委細の御意見を伺いたい。本日は実に答礼として参上したのに、このような御議論を承って論責を蒙るのは誠に面白くない」

公使 「余もまた甚だ不快である。なぜなら閣下がとかくに余の言葉を遮ろうとされるからである。余は昨日、閣下が来られると御約束されたために、また事は危急に瀕して一日も猶予すべき場合でない故に本日にお話致した。しかし話は枝葉のことのみとなって甚だ遺憾である。後日再び御面会する事としよう。正路を執って直ちに進むのは余の性分である。不正不当は余の決して取らないところである」

大院君「余とてもまたそうである。以後は度々会見して互いに意衷を尽すことを期す」

公使 「余もまた然り。余は信ずる。余の意見に付いては自然閣下が御賛同されることを。もし不幸にして閣下と議で相容れないことがあるなら、今後どのような結果を生ずるか予め計り難い」

 大院君と井上は案外性分が合うかもしれない。どちらも遠慮がなく言いたい放題。
 しかし井上は後の陸奥宛親展でこの時の大院君のことを、「聞きしに違わず、中々の老猾(「老獪」と同意)なり」と述べているが(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/7 1894〔明治27〕年10月29日から明治27年10月30日」p3より、()は筆者)、談話全文を読む限りに於いて、井上が容赦なく斬り刻んでいる風に見えるばかりである・・・・いやまだ手加減はしているか。あの在平壌の清将への手紙の事はまだ言っていないし。

 後に金宏集との対談の中でも井上はこの時の事を以下のように述べている。
「大院君には両回面会し談話を試みたるに随分頑固なる老人にて、世の趨勢を察せず、一意旧弊を特続せんとするが如き傾きあり。」「殆んど支那流の大言壮語を用いて人を篭絡せんとする如き気味あり。」「此如固陋の考を用いて勝手気侭を働かるゝ様にては、政府大臣も定めて困難なるべしと御察し申すなり。」「同君は切りに民心を云々せらるゝも、人が黙すればからと云って人心を得たるものにあらず。大院君の必竟民心を得るには、人心を畏怖せしめて無理に己に傾同せしめんとするものにして、其意に反するや獄に投じ其悪むや暗に縊殺を行うが如き、比々皆文明の世に適せずして陋習なる悪手談に出るなり」(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/10 第八号 〔総理大臣トノ対談〕」p10、p11)

 やはり追究の手加減はしたようである。
 井上の朝鮮王室に対する方針は既に国王謁見で述べたように、国王、中宮(王妃)、世子、大院君との間が協和して親密となることによって王室の強固を計ることであった。

 そしてこの後、泣けることに王妃に直接謁見して舅たる大院君への孝養を尽すことを諄々と説く井上馨なのであった。はあ。

 

井上馨報告

 大院君との対談を終えた井上は、同日に陸奥外務大臣に親展を以って報告。(原文テキストはこちら)

 ・ 談話に対して国王は感激されたようであった。大院君は聞きしに違わず中々の老獪であった(英文電報には old fox と)。
 ・ 自分が執るべき朝鮮国への方針はまだ目途が立っていないが、調査の上で政府改良の方針を立てる。
 ・ 地方政務の改良も最も必要である。
 ・ 東学党や類似の乱民の乱の原因に、地方官吏が租税以外に私費を課して虐政を行っていることにある。
 ・ 故に第一に、一定の租税を課する以外に決して徴収することがないようにして人民を安心させる必要がある。
 ・ そのため収税と地方事務に熟練した官吏を日本から派遣させる必要もあるだろうから、予めそのことを心に留めていてもらいたい。

 日本の外交官が、この国の支配層の暴虐非道振りについて記述した報告は、その数こそ多くはないが充分その実情が窺えるものである。中でも一番詳細なのは、すでに全文を掲載したが、やはり明治12年の在釜山港管理官の山ノ城祐長の建白にあるものだろう。
 山ノ城は、朝鮮の地方官吏の実態を以下のように述べている。

 その監使と称し、府使、僉使と称する者からその下の小吏に至るまで、もっぱら土民の膏血を絞る事に汲々とし、(官吏を監視する役人である)暗行御史ですらまた多くがそうである。
 商人でも少しく有力な者は、品位、五衛将などの官位を買い、且つ官吏にへつらい、その威勢をかりて土民を圧迫して押し買いなどをする者ばかりであり、そしてそれらは皆また官吏に掠め取られる。
 官吏たちは、種々に事寄せて罪なき者を入牢させて謝宥銭(免罪金)を出させるなどは常のことで、ともすれば厳しく棍棒で酷責を加えるなどは、皆その収斂と私貪の手段であることは述べ尽くすことが出来ないほどである。

 これで乱が起きないほうが不思議。

 

 

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