日清戦争下の日本と朝鮮(6)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

  松島(防護巡洋艦、4217t、全長91.8m、全幅15.6m、兵装32cm砲 1門(後部座)、12cm砲 12門、6ポンド速射砲 16門、1ポンド速射砲 6門、魚雷発射管4基、乗員360人)
 清国の巨大戦艦である定遠と鎮遠に対抗して建造された3艦(三景艦)の一つ。黄海海戦に於ける旗艦。その32センチ巨砲から発射された砲弾は鎮遠の前部に命中したが、装甲厚く僅かに提督旗のマストを倒しただけであり、逆に鎮遠の30.5センチ砲弾は松島の左舷に命中して下甲板を斜めに貫いて爆発。その他の被弾も含めて乗組員34名の戦死者と70名の重軽傷者(その内19名は後に死亡)を出すに至った。(「戦死及負傷者人名表」C06061783000 )

 

明治天皇御製 「黄海の大捷」
黄海の大捷

頃は菊月半過ぎ  
大同江を出艦して  
目ざす所は大孤山
海洋嶋のほとりにて
見るより早く開戦し

我が砲撃に彼の艦は
忠勇義烈の戦に
我日の旗を黄海の
功績を成して勇ましく
凱歌は四方に響きけり

 我帝国の艦隊は
 敵の所在を探りつゝ
 浪を蹴立て行路に
 彼の北洋の艦隊を
 或は沈め又は焼く

 跡志ら浪と消失ぬ
 敵の気勢を打挫[ひし]ぎ
 波路に高く輝やかし
 各艦ともに揚げ競う
 凱歌は四方に響きけり

(「号外 陸軍大臣副官から陸軍省副官部 黄海大捷の歌 御製相成」C06060138500より)

 

黄海海戦記事

 さても戦記は骨の折れるものかな。よって日本艦隊の勝利に終わった9月17日の黄海海戦については、朝鮮が舞台でもないので簡単に。
 当時清国軍艦に搭乗していた西洋人を取材した英字新聞記事の翻訳資料から。

(「号外 日清大海戦」C06060137800を現代語に。)

 号外 明治27年10月5日

 本文は9月20日付けの芝罘通信として、同月20日のチャイナガゼット新聞(上海の英字新聞)に掲載していたのを翻訳したものである。

 去る9月17日に鴨緑江沖で起った大海戦について我々が聞き得た詳細を取り急ぎ報告したい。

 海戦については勿論既に電報で御承知のことであろうが、我々は当時戦闘に従事した或る外国人から聊か確かめ得たところがある。これらはまだ上海在留者の耳にしていないことと考えられるので、取り敢えず報告したい。

 支那艦隊は15日に大沽を抜錨し、その目的は敵を不利の位置に陥れて交戦することにあった。同艦隊は定遠、鎮遠[旗艦]、来遠、平遠、経遠、済遠、致遠、靖遠、超勇、揚威、威遠、広済、南洋艦隊所属の広丙及びその他の一艦[船名不詳]の即ち14隻から成り、更に6隻の水雷艇を伴う勢力のものである。

 艦隊の巡航中、図らずも新裕、■南、海琛、拱北、鎮東の5運送船及び平号石炭船1隻を護送することとなったが、これ等の船舶は鴨緑江口に上陸させる陸兵を満載したものであり、又、以上の各軍艦にも多数の兵士を搭載していた。丁提督は、艦隊の司令権を持ち、ハンネッケン少佐は顧問の資格で旗艦に丁提督と同乗し、その他8名或いは10名の外国人[その多くは芝罘及び威海衛に於てよく知られた諸氏である]がその他の諸艦に分乗していた。又、各運送船にも乗組員として欧米人の士官及び機関師を備えていた。

 16日夜から17日の朝にかけて、鴨緑湾と称する入江内に首尾よく陸兵の上陸の事を終わった後、運送船は直に湾を出て帰国の途につき、軍艦はまた直ぐにこれに続いた。
 しかしこの時に日本軍艦は、支那兵の上陸点から程遠くないエリオット島と称する場所で同じく陸兵上陸の任務に従事したものと見え、それを終ると共に鴨緑江の方面に進行したが、ここに全く偶然にも支那艦隊と遭遇した。

 まさしく日本艦隊は11隻から成り、支那艦隊は当時横列を作り、数時間前に支那運送船が取った方向で1つの小島を廻航した。両艦隊が遭遇するやこれといったきっかけもなしに砲撃を開始し、長程の砲撃を交えておよそ4、5里の距離に至り、双方共に戦闘序列を以って進行した。
 時に砲煙は空中に充塞し、我が艦内の外はどのような現状なのかが殆ど識別できなかった。尤も、清艦は敵に接近しようとは企ててはいたが、日本艦の速力が快捷であるのと運用術が巧妙であることにより、それが出来なかった。却て日本艦の長程砲撃のために著しい損害を被った。

 清艦内に於て認知出来た日本艦は僅に3、4隻に過ぎず、松島は将旗を掲げていた。吉野は速力が卓越しているので一見してこれを認知することが出来た。またこの艦はその特性によって敏速に支那甲鉄艦の周囲を廻行し、その恐るべき砲撃をほしいままにし、浪速はその構造が特別な為めに容易に認知され、そして交戦慌しく火災に罹り、小形の「スループ」艦である赤城は、我々が話を聞いたその外国人が乗り組んでいる清艦によって1、2回の接迫砲撃[明瞭にその状態が認められた程の]をされて痛く苦戦した。

 支那艦隊が勇を鼓して奮闘したのは勿論であるが、交戦中、終始戦術の妙を尽す日本艦隊に到底比肩できるものではなかった。また轟然たる爆裂の音は耳に徹し、炎々たる火焔は柱状となって高く天空に昇り、殆ど何が起きているのかが判断できないほどであった。
 日本艦隊は僚艦で操転に困難な艦を救援して、これを戦外に避けさせた方法は実に巧妙を極めた。しかし支那艦隊は日本艦隊の2海里以内に接近することが出来なかった。支那艦隊は乗組の外国人の言行に励まされたが、その勇気は勃々として一死を顧みずと云うまでにはまだ至らなかった。砲手は既に砲長を失って出鱈目に発射し、将校は運用術に拙劣であるために艦の運命を敵に制させることになり、一方、日本艦に於いては発射は精確で殆ど命中しないものがなかった。

 定遠は火災に罹り一時大きく炎上したが漸くこれを消火して敵の砲弾射程外に逸れ出、旗艦鎮遠に乗り組んだ丁提督及びハンネッケン少佐は負傷し[ハンネッケン少佐は片脚か或いは片腕を失ったという]、その他将校水兵の大半は戦闘中に死傷した。外国人で戦死した者は2名、負傷した者も数名あったが、未だその名を知り得ない。又、2隻の巡洋艦も火災に罹ったが定遠のようには損害は甚しくなかった。致遠は砲弾のために敢なく沈没し、来遠、超勇もこれと運命を同じくし、揚威の艦長は、艦の沈没を防ぐために浅瀬に乗り揚げて全乗員と共にこれを見捨てたが、その時の艦は火災に罹っていたので已むを得ない処置であったと言うべきである。

 午後6時に近い頃、砲撃の声は一艦より一艦と次第に静まったが、これは双方が弾薬を消費し尽くしたためであろう。そして日没に至って砲声は全く止み、日清両艦は互に離れた。

 その後の日本艦隊の運動については一もこれを知らない。唯々支那艦隊は威海衛に向って難を避け、翌18日に諸艦隊は皆激戦の証跡を表しつつ前後帰着したという。

 短い記事であるが、艦に搭乗していた人の話としてのリアルさがある。実際、艦内の多くの乗組員が戦況をよく理解できないまま戦い、死に、そしていつの間にか艦隊の勝敗が決していたというのが近代における軍艦の海戦ではなかったろうか。

 英字新聞といってもまともなものばかりではない。以下、何かと問題記事を書く在日西洋人の手になる「ジャパンガゼット」に関する報告と同社記事への他社からの酷評である。

(「帝国の戦勝と横字新聞」を現代語に、()は筆者。)

   帝国の戦勝と横字新聞

 各国政府及び人民は、日本に対して充分に好意と同情を表しているにも拘わらず、東洋滞在の英国人等のその多くは、我国に対してことさらに悪意を示すかのような傾向があるのは、実に不可思議の現象であると言わざるを得ない。その内の清国に居留する者が我国に対して冷淡であることはまだ許せようが、かりにも我が帝国の国土に居住し、我が国の保護を受ける者が、なおも務めて虚報を伝えて妄説を作り、以って帝国の利益を毀傷せんと欲するようなものに至っては実に怪訝に堪えないところである。
 横浜発刊の欧文新聞中、虚報を伝えて最も甚しいものは「ジャパンガゼット」である。同新聞について、同業者の「ジャパンメール」は以下のような評を下した。

 9月17日の海戦に於いて日本は3隻の軍艦を失ったとの虚報を確信していた「ジャパンガゼット」も、今は却て北清日々新聞の妄想迷信を嘲笑しようとしている。しかし「(ジャパン)ガゼット」はなおも浪速艦沈没の虚報を信じているので両者共に何れか一度は嘲笑される位置に立つことになろう。
 今また虚報を伝えて、
「鎮遠には浪速艦に深い恨みを持つ砲術名手の漢納根(ハンネッケン少佐)が乗り込んでいるので、氏は必ず浪速に向って秘術を尽して発砲したに違いない。これを以って見るならば、浪速が損害(沈没)を受けていないとの報は信じ難いと言える。」と。
 そもそもこのような浮説を唱えるのは、まだ日本の現状を知悉しないことによる。かりにも日本の現状を知るなら、日本の海軍は決してこれら虚偽の報を発するものではないと認識すべきである。
 要するに「(ジャパン)ガゼット」は目下の戦争に付いて、決して確実の報道をするものでないことは世間では既に定評である。そして同新聞も近日ややその言を慎しむ傾向があるが、まだその過去を償うには足らない、云々。

 「かりにも我が帝国の国土に居住し、我が国の保護を受ける者が、なおも務めて虚報を伝えて妄説を作り、以って帝国の利益を毀傷せんと欲するようなものに至っては実に怪訝に堪えないところである。」とは、何だか現代も変わらぬものがあるが。

 当初その戦況については当然のことながら情報が錯綜し、中国内では、清艦4隻沈没、日本艦3隻沈没、水師提督丁汝昌とハンネッケンが戦死した、などと書いた新聞号外が乱れ飛んだりした。北清日々新聞も日本軍艦3隻が沈没したと報じ、ジャパンガゼットはすでに日本政府が戦果の公報を発していたにもかかわらず、それを採り上げずに北清日々新聞を元に記事を書いていたのである。
 後にその情報が誤りであることが分かったが、それでも「鎮遠には浪速艦に深い恨みを持つ砲術名手の漢納根(ハンネッケン少佐)が乗り込んでいるので、氏は必ず浪速に向って秘術を尽して発砲したに違いない。」と書き、豊島沖でハンネッケンが載る高陞号を水雷攻撃したのは浪速であるから、そうに違いないという思い込みを記事にした。

 新聞記事と言ってもそれを書くのは所詮人間であるから、個人的な贔屓根性や願望が紛れ込んだり、或いは何らかの思惑に基づいて記事とするものであろう。それを「〜に違いない」と推定記事にしているだけまだましである。まあ現代においても、平気で捏造歪曲して報道する新聞社やテレビ局など極ありふれているのだから。

 

平壌・黄海の戦勝に対して

 さて、平壌戦・黄海戦での日本軍勝利は、日本人を狂喜させ、清人を恐怖させ、そして西洋人を驚かせ且つ複雑な思いに駆らせた。

 すなわち、
「(平壌戦、黄海戦以前に)結局の勝敗を苦慮したる国民が、今は早や将来の勝利に対し一点の疑だも容れず、余す処は我旭日軍旗が何時を以て北京城門に進入すべきやとの問題のみ。是に於て乎、一般の気象は壮心快意に狂躍し、驕肆高慢に流れ、国民到る処、喊声凱歌の場裡に乱酔したる如く、将来の欲望日々に増長し」(「蹇蹇録」の「第十二章 平壌及黄海戦勝ノ結果」p5より)であり、

 あるいはまた清国では、
「北京官人等は、終に倭人は其想像したる如く矮小のものに非ずして、其予期せし如く容易に之を朝鮮より駆逐して殲殺すべからざるを悟り始めたり。」(「天津の或る通信者よりの報道 9月26日 9月27日」p3)
 そしてついに、
「帝室及び北京の到る処に大恐怖を抱かざるものなく、李鴻章は之を抑制せり。済遠の艦長は怯懦の故を以て死刑に処せられたり。」と。(上海通信者から大本営宛 電報9月28日)
 防護巡洋艦済遠は黄海海戦中に敵前逃亡していた。

 そして諸外国は、
「或る邦国は荐に我国の戦勝を過讃し、間々佞諛の言辞を放ち」「又他の邦国は痛く嫉妬と畏惧との念を増長し」(「蹇蹇録」の「第十二章 平壌及黄海戦勝ノ結果」p6より)
に至り、英国紙などは日本人を以下のように絶賛して止まなかった。

(「青木在独公使より左の電報接到せり」C06061838200より抜粋して現代語に)

(略)

    9月21日 内田在英臨時代理公使より電報

 本官はわが国の戦勝に関し、上流階級の英国人多数から誠意ある祝辞を受けた。今や日本が英国の同盟として自然であるとの説は一般新聞紙の提唱するところである。シーボルト氏は主だった新聞について以下のように報告した。

 日本国の勝利に就いての賞賛と仰慕の言辞を英国各新聞は載せている。
 タイムズは、「日本の努力は実に戦勝の報酬を得た。将来に於いて日本国は東洋に雄飛する一大活力と認めざるを得ない。日本国の利益は即ちその大部分において英国人の利益となり、また遠からず接近の関係を生じるだろうから、他国はともかく英国人は仮にも島国人民を蔑視することなく、却って深交を求めねばならない。」
 パルマガゼットは、「英国は日本に教えた。今や日本は再び英国に報いるに指導の任を以ってせねばならない。」
 デイリーテレグラフは、「平和を結ぶことを勧告し、清国に於いて充分に平和の条件を執行し終わるまで、日本は台湾を占領するべきである。」と言った。

 

 まさに日本国民がこれらを聞くも得意絶頂となっていた頃、朝鮮国では東学党が再び不穏な動きを始めていた。

 

東学党の再乱

(安東府近傍に韓人3千集合しつつあり 古川兵站監)

    電報 九月二十二日午後八時十分発同十一時着
 台封兵站地の東方凡そ十五、六里なる安東府近傍に、韓人凡そ三千集合しつつあり。我兵站線を襲う目的なりと韓人より密報するものあり。信偽詳ならずと雖ども、台封近傍目下穏ならざる景況なきに非ず。依て釜山より守備兵一小隊兵站路巡察として明廿三日派遣す。又兵站司令官にも警戒を加えたり。右報告す。
        釜山 古川兵站監
 川上兵站総監

 次いで9月24日の報告によれば、安東の豊山あたりで東学党2、3千人が集まり、日本軍を襲う目的であるとの情報が入り、よって同兵站地から副官騎兵大尉と守備兵3名が偵察に出た。しかし発見されて襲撃を受け、副官は死亡、他は1名が負傷して帰還した。
(以上「9月24日 在釜山 古川兵站監 川上兵站総監」、「9月25日 釜山 古川兵站監 川上兵站総監 台封附近東学党の事偵察の状」より)

 或いは9月26日全羅道各所の東学党は南原で大公論を開くとて四方に檄を発し、数万人が集合して党外の者を襲い財産を強奪し、或いは慶尚道#Jでは民乱起きて官長を追い出し、属吏の家を焼いたり、また慶尚道機張では人民党起こり党外者の家を焼いたために、各村の人民はこれを恐れて党に集合参加したりした。

 また9月29日、大邱の東3里の地でも変装した日本人憲兵1人と通訳が探偵中に朝鮮人30名に襲われたが、後に暴徒3名と村吏1名を捕縛。

 また、9月30日の報告によれば、 工兵第6大隊第1中隊の一部25名と日本人人夫12名が移動中、先の騎兵大尉らが襲われて戦死した付近で、凡そ600人ばかりの東学党と遭遇。戦闘となったが、ついに乱徒は武器を捨てて逃散。日本側に死傷者なく、乱徒は死者2人を遺棄。負傷者は多数と思われたが残る者なく逃走。死者の内一人は立派な陣羽織を着けた統領各らしい人物であった。乱徒からの分捕り品は火縄銃103挺、刀4振、槍3本、馬2頭、韓銭9貫文などであった。

 中でも、通信電線を破断することが跡を立たず、古川兵站監をして「慙憤恐悚の至りなり」と憤激せしめ、厳重巡回取締りを命じて、怪しむべき者は直ちに撃殺せんとし、28日には洛東に於いて電柱を倒した朝鮮人1人を斬殺して掲示した。
(以上「9月30日 中路兵站監 古川宣誉 東学党に関する特別報告」より)

 なお、豊基、丹陽、報恩郡地方の東学党の中には清兵数10名が加わっており、おそらく牙山戦の残兵と思われた。後に清人と合わせて12名が捕縛され、仁川に護送された。
(10月 9日 仁川 伊藤兵站監 川上兵站総監宛)

 あるいはまた、密陽付近で暴民1千5、6百が集まり、竹槍白旗を押し立てて密陽府を蹂躙せんとし、為めに府使などから日本兵站密陽支部に援助を依頼。それよりこれに応じて鎮撫したが暴民聴かず。府内に入らんとしたので止むを得ず撃って退けた。暴民8名死亡、10人負傷。死者は府使に渡し、負傷者は軍医に治療させ、府使からその親戚に渡させた。
(10月16日 参謀本部 藤井大佐宛)

 また京城にも接近するものがあったようである。
 全羅道彰義軍と称する日本人撃ち掃い主義の暴徒が起こり、京城から朝鮮兵と日本兵2小隊が派遣されている。
(10月18日 釜山 今橋少佐 川上兵站総監)

 これらを一括りに「東学党」と称してよいのかどうか分からないが、乱に加わっている者の内、強迫されて加わっている者が多かったようである。
 鎮圧には日本兵と朝鮮巡査が合同で当った。
(10月22日 釜山 今橋少佐 川上兵站総監宛)

 しかし一向に鎮圧が捗らず、10月26日には東学党2千余人が安保兵站支部を襲撃し、四方を囲んで諸所に放火し激しく射撃。守備兵38名は苦戦の末に撃退し追撃した。
(東学党2千余人安保兵站支部を襲う 出羽少佐)

 この頃、清軍を追う日本軍は鴨緑江を渡って清国領土内に進み、虎山、九連城の敵を退走させ、更に鳳凰城、大東溝に向けて追撃していた頃であった。

 

「農民戦争」なのか

 さて、日清開戦前には一旦は治まった「東学党」の乱であるが、なぜここにきて再乱となったのであろうか。

 まず、大院君と李呵Oによる扇動であるが、「大院君の陰謀と東学党扇動」で書いたように、慶尚、忠清、全羅の3道は、その教唆扇動によるところが大きかったように思われる。

 その工作が本格化したのは8月下旬頃であり、大院君が、閔氏政権によって獄に囚われていた東学党巨魁朴世綱と朴東鎮を釈放して政府官吏に取り立てたのもその頃である。
 また、東学党の全羅道巨魁である全琫準が、大院君が発した国王名による「倭寇が王宮を犯した」ことを訴える密書が、他に洩れないように党員に注意を促す自筆の回文を発したのもその頃であったろう。
 後に捕らえられた全琫準は、再乱は日本兵が王宮を犯したと聞いたので義を唱えて日本排斥の行動に出たとして、在京城領事内田定槌の審問に対して次のように答えている(画像(「全琫準供草 全」の「乙未二月十九日全琫準 三招問目」の項)

内田「日本兵が王宮を犯したというのを聞いたのはいつなのか」

 「(陰暦)7月と8月の間に聞いた」

内田「誰から聞いたのか」

 「狼藉を聞いたので自然とこれを知った」

内田「それを知って直ぐに義を唱えて活動すればよかろうに、なぜ(陰暦)10月まで待ったのか」

 「自分は病気であった。また多くの人間が一斉に動くには穀物が実らないでは出来ない。自然と10月になった」

 東学党の乱は必ず村々での掠奪行為が伴う。まあ乱民が弁当を持参するはずもないし代金を払うはずもなし。

 「日本兵が王宮を犯した」というのは自然と知ったのではなく、実は大院君からの密書による教唆を受けたからであるが、とにかくそれはやはり8月中であり、また行動に出たのは11月からだと。

 ところが再乱の噂は平壌戦前の9月10日頃にはすでにあり、全琫準がそのことを「東徒再起は偽也。彼の州県を横行する者は、我同志の名を盗む者にして、我等の関知する所にあらず」と述べていたのは既に「東学党巨魁全琫準との問答」で書いた通りである。

 もちろん「接主」という地位にある者は全琫準だけではないし、その他の役職も含めるとリーダー格の人間は相当な数だったと思われるので、全琫準以外の者が乱を率いていたと考えられなくもない。しかし全琫準ははっきりとそれは偽者であると言い切っている。

 実際、全琫準が言うように、慶尚、忠清、全羅の3南道の東学党巨魁が乱民を率いて動き始めたのは10月、11月頃からである。また、それに対して朝鮮政府が日本兵の力を借りて討伐することに議を決して国王裁可に及ん時に、大院君らがそれに反対して東学党を説諭する鎮撫使を派遣する一方、裏で扇動工作をしたのもこの時期である。

 しかし実際には乱は9月から、しかも朝鮮中央の京畿道、また北方の黄海道、平安道でも発生している。

 それではそれら真正の東学党ではない偽者の乱民とはどういう人々であったろうか。

 かつて明治15年朝鮮事変(大院君の乱)に於いて、日本に逃れて来た尹雄烈は日本政府の事情聴取に対して、「負商とは商人中最も最下層の者で、瓦や土器や木器を売買する者を云う。乞食民家の類であり、その数は数万人である。近年大院君は彼等を党として集め、乱を企てようとしたことがあり、それもまた国王が事前に知るところとなり、今年の春にそれらの行商人を武衛営に属させるという鎮撫策をとった」と述べた。(「朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報 2 〔明治〕15年8月16日から〔明治〕15年8月25日」p35)
 朝鮮には古来から商人の組合組織のようなものがあり、中でも大院君が糾合させんとしていたのは生活雑貨品を担いで移動し商う「負商」という者たちである。彼等は屡々争い事などには集団で行動した。
 しかし、dreamtale氏のエントリー東学党の乱(九)東学党の乱(五十一)にあるように、負商すなわち褓負商の組織は、今度の東学党の乱に対しては討伐に動いたようである。まあ行商運搬人にとっては、売る物も運ぶ物も破壊し奪い尽くすような乱民の行動は怒り心頭ものだったろう。

 食膳売 Meal table peddler  明治44年(1911)4月5日発行「朝鮮風俗風景寫真帖」より  「負商」とはこのような人たちであったろう。

 11月末から12月にかけて黄海道平山より海州に於ける乱を掃討した日本陸軍士官の談話をまとめた「東学党征討略記」なるものがあるが、それによれば、黄海道の乱民の構成などについて次のように述べている。(画像

 ・ 乱民の中でも、真正の東学徒は常に経文を誦し、それにより百災逃れるを信ずる輩である。次にその者から脅迫されるなどして一時これに与した輩がいる。また、明らかに東学党ではない不平集団の者もまた頗る多い。その内で主な者は、全ての外国人(除く支那人)を嫌悪する輩、強盗窃盗その他の犯罪者、無職で生計に窮した者、地方官を怨む輩、当5銭が1文となったために損をして憤怒する輩、砂金採集者、等々がある。そしてここでの乱民の大半はその砂金採集者であった。

 ・ どうしてこのように多数の砂金採集者が変じて賊となったのかを詮索すると、昨年(明治27年)政府から砂金採集を禁じられたためだと言う。砂金鉱夫の多くは家なく妻子もおらず唯日々の労力を以ってその身を持する者が多く、それが採集を禁じられたので糊口の道を失い、賊となって掠奪を事とするようになったと言う。禁止となった訳は、採集者は恰も土竜のように田畑道路橋梁の区別なく掘鑿し、しかも跡を放置して顧みず、為めに農民その他の損害少なくなく、以ってこれを(明治27年)6月に禁じた。

 ・ 乱民と乱に参加しない者の間でも争いとなり、乱民が参加しない良民の家を焼き払ったので、掃討後はそれらの者が今度は乱民の家を放火するなど、児戯の復讐に均しい姿であった。

 ・ 黄海道での乱は以上のようなもので、真正の東学党は僅かに数えるほども居らず、悉く不平の窮民によるものである。

 砂金鉱夫の実態などについては既に「日清戦争前夜の日本と朝鮮(18)」の「朝鮮金鉱山の実態」で述べた。咸鏡道永興の16の鉱山だけでも万を超える鉱夫が居たが、黄海道ではいかほど居たかは定かではない。金の採掘に関しては後に田畑に被害を及ぼさない限りは許可することになったようである。
 また、既に述べたように日本政府は、牙山・成歓周辺、また京城から平壌までの往来路の貧民凡そ1万戸に米と金銭を提供して恤救をした。しかしその賑恤に与った者はおそらく一戸を構える農民が中心であったろう。家のない者等はそれに浴しなかった可能性がある。

 或いはまた、後に朝鮮に全権公使として赴任した井上馨と金宏集総理大臣との対談の中で、京畿道竹山での乱について次のような説明がなされている。(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/13 第拾号」p3〜p5)

 ・ 当初朝鮮政府に反対してこれを倒そうという趣旨であったが、やがて地方官の苛政から民を救う、或いは日本が来て朝鮮を混ぜ返すからこれを追い出すとの主張になった。

 ・ 乱の首領格或いは同志者という者が現地の人民に乱に参加するように求め、応じなければ殺害した。それで否応なしに参加せざるを得ない者が多い。

 ・ 乱民のしていることは、秋の収穫時期であるから農作物を取り上げるなどして、要するに農民の収穫物を奪っている。

 ・ その上、討伐の朝鮮兵が来ると、食料も持たず給金も貰わぬ兵であるために、また農民から農作物を取り上げている。

 ・ 農民は東学が来ると収穫を奪われ、討伐の朝鮮兵が来るとまた奪われるという2度の被害を受けている有様である。

 ・ それで地方官は、日本兵なら代価を払うだろうから、討伐には日本兵が来てくれることを望んでいる。

 ・ 昨今は東学党の類が愚民を集めて強盗などを逞しくしている。

 ・ 忠清道では地方官を殺した者がいて、それは最も信頼していた下官吏であり東学党員であった。

 ・ 朝鮮兵は規律が悪く、指揮官も軍規を正して兵を纏めることが出来ない。また食料などは租税米を現地で求めていることにしているのであるが、結局はその地方の良民の迷惑となっているのは恥ずかしいことである。

 う〜む、もしかしてこの時期の再乱は、やはり農作物の収穫時期だったからだろうか。というか、全琫準もそのことを言っているし。

 先に述べた、東学党事件関連を纏めた「東学党事件ニ付会審ノ顛末具報」では、内田領事は次のように述べている。

「然るに平素東学の教を信じ居る者の中にても、接主又は其他の重役を勤め居る者は、多少の事理を解し、一地方の勢力家にして且つ其信奉する教の目的は、輔国安民に在りとの事なれば、前記の如く地方官の虐政甚しきに及ぶときは、率先して之に抵抗を試み、部下の教徒を集めて官庁に迫り、或は之を毀ち、或は官吏を追放殺戮するに至るのみならず、已に一たび騒擾を惹き起したるときは、東学党員たると否とに関らず、衣食に窮したる悪漢等之に付和雷同して其地方に於ける良民に対しても亦家を焼き、其財産を掠奪すること少なからず。而して両三年以来此種の民乱、各地方に蜂起すること漸く多きを加え、終に昨年(明治27年)に至り全羅、忠清両道の大騒乱と為り、続て慶尚、江原、京畿、黄海の諸道にも亦処々に東学党の民乱蜂起するに至れり。去れども、前記各地方に起れる東学党は互いに連絡を通じて一致の運動を為したるにあらずして、各道各地皆な其巨魁を異にし、毫も声息を相通じたる形跡なきのみならず、同地方の党員間に於てすら互に意見を異にし相争闘したる事実さえ有之候。又た各地方に蜂起せる暴民等目的は必ずしも各自同一ならず。或は其疾苦を免るゝ為め、貪官汚吏を除くと称し、或は他人に付和雷同し、或は日本兵を撃退して外患を除かんとし、或は地方の騒乱に乗じ掠奪を恣にせしものにして、則わち、昨年中、全羅、忠清両道に起りたる民乱の如きは、当初地方の貪官汚吏を除かんことを期して兵を挙げ、次には日本兵大闕に進入したりと聞き之を撃退すと称し、兵を挙げたるものなれども、暴民の内十中八九は皆な衣食に窮したる徒、公然掠奪を行う為めに蜂起したるものと認められ候」

 つまりは、いったん乱をひき起こした場合は、東学党員であろうがなかろうが、衣食に窮した悪漢等がこれに付和雷同して、その地方の良民に対しても家を焼き、財産を掠奪することが少なくなかったと。
 また、東学党内では意見が一致せずに互いに争闘することがあり、暴民等の目的も必ずしも同一ではなく、疾苦を免れるために貪官汚吏を除くと称し、或いは他人に付和雷同し、或いは日本兵を撃退して外患を除くと言い、或いは地方の騒乱に乗じて掠奪をやっていたもので、暴民の内の8割9割は衣食に窮した者が公然と掠奪を行うために蜂起したものと認められると。

 また、内田領事の顛末具報にある「東学党被告事件関係人処分表」やそれぞれの判決宣告書を見ても、審判にかけられた計61人中、東学党に拐入されたということで無罪放免となった者が35人あり、つまりは拐(かどわか)されて不本意ながら乱に参加していた者が大半だったようである。
 中に、拐かされて乱に入れられたが、脅されて遂には邪に染まり村に害を加えるに至ったという者が、杖刑80回(表の杖八百は誤り)に処せられている。

 東学党首魁として死刑判決を受けた者は全琫準を始め、成斗漢、金徳明、崔永昌、孫化中と5人である。
 いずれも判決宣告書には農業平民とあるが、実際は全琫準などは明らかに地方両班であったから、他も農民だったとは言えない。

 内田領事も書いているが、日本側はそれに対し死刑を免じるように勧告したが、終に法務衙門がそれを受け入れなかったのは遺憾であると。
 かつて明治政府は幕府賊軍側だった者でも有用な人材は躊躇なく登用した。全琫準なども面談した渡辺少佐が「我政府の周旋に依りて之を登用せば、韓人の幸福なるべし」と言っていたのであるが。ま、それは大院君が許さなかっただろう。

 先に大院君が釈放して政府官吏に取り立てた東学党巨魁の2人は、宣諭使に同道して忠清道に来たが、東学党を鎮撫するどころか逆に扇動したので、忠清道監司が捕らえて牢に入れて取調をしようとした。しかしそこに大院君が派遣した腹心朴準陽が来て2日も経たない内にその2人は殺されたという。おそらく口封じだったろう。

 内田領事が審問をした明治27年11月から明治28年4月に掛けても、依然として大院君の威圧は健在であり、取調官が大院君の教唆に関わる被告(李秉輝)に虚偽の供述をするよう求め、言う通りにすれば政府の役人に取り立てるから、と迫る場面もあった。
 何より、取調主任として訊問した法務大臣が1、2度出席しただけで病と称して以後は出廷せず、その他の官吏も1、2回毎に辞表を出すという恐れよう。しかし1人の法務参議が1度も欠勤せずに熱心に勤めたので漸く無事終局した。

 死刑が減刑となった場合は、おそらく他の有罪者たちのように杖刑の上で流刑だったろう。例えば、

・ 乱に乗じて民家の少女を略奪したある農民は杖刑百回と流刑3年。
・ 天文に通ずるとして婚姻や八卦道などの妖言妖書をあらわした農民は杖刑百回と流徒3年。
・ 武器や銭や穀物を掠奪したある農民は杖刑百回と流刑三千里。

 しかし朝鮮里は凡そ4百メートル。で、京城から1200キロ彼方ってどこだろう? それとも地名? 或いは遥か遠方というぐらいの意味だろうか。

 被告には乱に与した官吏もいた。

・ ある京城内官は匪賊の類と結託した罪により杖刑百回と流刑三千里。
・ 忠清道清州の官吏は武器を略奪して凶謀を逞しくした罪で杖刑百回と流刑3年。
・ 全羅道咸平県監司は東学党を擁護した罪で杖刑百回。
・ 全羅道鉱山府使は乱民に和応した罪で杖刑60回。

 またこれは朝鮮軍の規律の無さに関してであるが、朝鮮兵が民財を略奪しているのを禁止しなかった罪で、軍関係の官吏2人が杖刑60回の処分を受けたというのも記されている。

 なお、朝鮮の審問に付きものの拷問であるが、内田領事はこの点を以下のように述べている。

 本件審理の方法は、我東学党征討軍隊が各地方に於て凶徒を逮捕し、我公使館を経て当領事館へ送付する毎に当館に於て一応下調を行いたる後、二、三の属僚を伴い、小官自ら該衙門に出張し、当国官吏と立会の上、各被告人の訊問を行いたるものにして、之を行うに当りては、単に一回を除くの外、当国官吏の慣用手段たる拷問を行いたること無之、皆本人の任意の口供と証憑書類とによりて罪の有無を新定し、苟も犯罪の証憑充分ならざるものは悉く之を放免し、其有罪と認むべきものは皆な当国成文律の明文に照して之を処罰し、且つ之を放免する場合にも、亦之を処罰する場合にも、皆な事実と法律の適用を明記して、立会官吏の署名せる宣告文を認め、公廷に於て之を被告人に読聞かせ、以て其処分の言渡を行い、無罪の言渡を受けたる者には各自に宣告の謄本壱通宛を下付する事に取計候。

 つまりは、ただ1回を除いて、朝鮮官吏の慣用手段である拷問は行われなかったと。しかしその1回が誰かは不明である。
 時、恰も井上全権公使の強力な指導によって朝鮮政府が内政改革に取り組み始めた頃であった。新裁判制度の法構成も議案としてあり、日本公使館による監督もあり、この時期既に旧慣習のままに審問に拷問を用いる事は容易に行い難い事情となっていた。


 さて、以上のように、また前項の東学党再乱に関する日本軍からの数々の報告を見ても、人民党だの彰義軍だの様々に自称する集団がいたようであり、乱民の内には脅迫強制されて参加していた者が多数いたなどとあるから、「東学党の乱」と一括りにして呼称し難いことではある。

 かといって、ではこれを現在の書籍やWebで称しているように、「農民戦争」と言い切ってしまうのもまたどうであろうか。無論農民も参加していたろう(おそらく強制されて参加した者が多かったろう)が、実際に乱を率いた首魁は、とりわけ猖獗を極めた忠清、慶尚、全羅の各道に於ては東学党の接主と称する役員であった。集団を構成する実数に於いては仮に農民が多数を占めていたとしても、その行動は東学党員によって導かれるものであった。全琫準が10月に再度蜂起した時も、彼は全州に近い参礼駅に於いて「募兵」の本部をそこに定め、周辺各地の東学党接主と連絡して人々の糾合を呼びかけたという事実がある。それら乱の実態の詳細を検討せずして、ただ「農民戦争」という言葉で括るのもまたどうであろうか。いや寧ろその名称からは後世の何らかの政治的思想的な史観が臭ってくるのであるが。まして「農民革命」などと称するに至っては・・・・・。

 全体を見れば、農民に限らず様々な不平集団の略奪行為や大院君の教唆に応じて起った真正東学党や、また地方官の争いなども絡んだ、何ともごった煮のような乱であったとの印象が強い。つまりは「朝鮮混乱」あるいは「朝鮮昏乱」とでも称したがよいような(笑)
 そしてその目的も実に様々なものであったが、結局は暴民の内の8割9割は衣食に窮した者が公然と掠奪を行うために蜂起したものであったと。つまりはこの「農民戦争」での最大の被害者は、収穫物を奪われ家屋を荒らされ家族は誘拐され或いは乱に参加するよう強制された、当の農民たちであった。
 まあ、当時はまとめて「東学党の乱」と称していたから、ここでもそれを使用したい。

 

謎の「全州和約」

 そもそも「全州和約」などという名称はいつから付いたのだろうか。で、それは果して「和約」という、朝鮮政府と東学党巨魁全琫準との正式な「和睦の約束」だったのだろうか。

 いわゆる「全州和約」と当時の日本軍のことについての記述は以下のものが多いようだ。
 例えば、フリー百科事典ウィキペディアに記載された「甲午農民戦争」ではこのように書かれている(2007/09/09 時点)。

(略)
甲午改革
日清両国とも既に閔氏政権の要請に応じて軍を派遣していたが、「全州和約」を理由に閔氏は両国に撤退を要求した。しかし、日本は戦争に向けた準備を続け、1894年8月1日、清に宣戦布告した。

 まず、閔氏政権が日本に軍の派遣を要請した、という資料があるならぜひ見てみたいものである。
 次に、「全州和約」を理由に撤退を要求した、という資料があるならこれもぜひぜひ見たい(wktk)

 で、このような論法を以って次には、
「日本軍は全州和約によって朝鮮に出兵したり居座る口実をなくしたのに、遂に兵を出して撤兵もしなかった。まあなんてひどい奴ら」
という話に持っていこうとする人の何と多いことであろうか(笑)

 で、当時朝鮮政府が日本政府に何をどう述べたかを、分りやすく面白くツッコミをいれながら解説してあるのがこちら(笑)

 確かに6月19日には、交渉通商事務督弁趙秉稷から大鳥公使宛に、
「昨接我巡辺招討両使電稟内称 湖南匪魁 既已就殲 脅従余党之散逃者 斉訴乞哀 亦皆釈去兵器 翕然帰化 妖気永銷」(「甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日」p43)
 つまりは、「乱鎮圧の招討使らからの電報によれば、湖南の匪賊の首魁を殲滅し乱党民も逃げ散ったり許しを乞うたりし、また兵器も放棄して、ほとんどが帰順して乱の気配はなくなった」と述べ、次いで日本兵の撤退を要請している。
 で、どこにも東学党と和約を結んだなどとは書いていないのである。
 そしてその返事として大鳥公使は、「乱民が皆逃げ散ったというのが本当なら真に喜ばしいことである。しかし日本兵派遣は日朝両国の条約によって警備のために派遣したものであり、よく状況を観察していよいよ兵を置く必要がないと分かるまでは遺憾ながら貴督弁の御請求には応じかねる」と述べている。(「同上」p44)

 日本の朝鮮派兵は済物浦条約に基づいている。明治15年朝鮮事変の処理に関わって締結された日朝間条約である。今日では、ここを日清間で明治18年に締結された天津条約に基づくと勘違いしている人が多い。天津条約は主に日清両国が朝鮮に派兵する際に両国間で通知の手続きをすることを規定しているに過ぎず、そもそもの日本派兵の根拠は済物浦条約で規定する日本護衛兵の設置によるものである。

 すでに天津談判関連(日清戦争前夜の日本と朝鮮(8)と(9))で明らかになったように、そもそも日本政府は両国が朝鮮に派兵することには反対であった。それを頑なに通したのは清国であり、また、乱を自国で鎮圧することも出来ずに他国の兵力を頼ろうとする隷属根性まるだしの朝鮮国自身の責任は余りに大きい。つまりは、清韓のこのような安易軽率な施策こそがこの戦争を招いたのである。
 ここまでの日朝間を振り返れば、朝鮮に於て、朝鮮人から、また清兵から、盗まれ石を投げられ殺され掠奪されて、賠償問題にまでなるような被害を蒙ってきたのは常に日本人側であった。
 ごまかし、裏切り、嘘に嘘を重ね、日本人をして朝鮮人の言葉を信じることが出来なくさせたのは朝鮮人自身の言行によってであった。

 日清派兵の事を振り返って後に魚允中大蔵大臣が次のように言っている。

「(日清両国が派兵することになった)そこで朝鮮の人は、そら大変が起た、此東学党は一時起ったが早や治った、何ともない、と言い触らして支那兵も早く返えさなければならぬ。日本兵も返えさなければならぬと云う処から」(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/13 第拾号 〔東学党討伐ニ付総理外務度支三大臣トノ対談〕」p10)

 もう誤魔化す雰囲気がいっぱーい(笑)

 済物浦条約によれば、日本公使館と居留民保護のために兵を置く置かないは日本政府の判断に任された内容となっており、つまりは乱が解散しようがしまいが、再乱の懸念あり、と日本政府が判断すれば護衛の兵を駐在できるのである。
 朝鮮人の、くるくる変わる言葉や思いやりを期待する情によって日本軍を置く置かないを判断するものではない。何より条約に基づくのである。まして、もし東学党が日本人排斥をスローガンとして掲げているならば、いよいよ護衛の兵を置く理由に足るだろう。
ところで、朝鮮での「反日」活動は明治15年11月の朝鮮議政府の布告「議政府榜示関文」で厳しく禁じられている

 当時の朝鮮政府の電報記録である「両湖電記」によれば、招討使率いる京軍が全州で東学党を撃退したことに関し、陰暦五月二十一日(陽暦6月24日)の項目に、内署から招討使宛ての電文に、(画像

「清日及外国人匪類討平招討使瞞報終不聴信全州復城事実賊徒取招文従速先上諭示諸国人罷其疑惑以杜藉口之端」
 『清国、日本、外国人は、招討使が匪賊類を討滅して全州城が元のように平穏に復した事実を、偽の報告であるとして終に聴かなかった。賊徒の証文を速やかに政府で示して、諸外国人の疑惑を晴らし、以ってその口実をふさぐべし』

とある。
 つまりは、日本人も清国人も諸外国人も、朝鮮政府の言うことは信用していなかったということであろう。全くそれはもう世界の常識。(笑)

 で、6月24日といえば、日本政府が、このような乱が再び起きないように朝鮮政府が内政改革に取り組むことを厳に談判すべしと大鳥公使に命じた頃である。

 まさに渡辺少佐は全琫準にこう言った。

 「蓋し国の亡ぶるは亡ぶるの日にあらず。其衰うるは衰うるの日にあらず。朝鮮の今日あるは、数百年来、政法の弊事頻りに起るも、之を革新する者なく、徒らに旧株を守りて世界の体勢を達観する能わず。因襲の久しき、遂に此の悲むべき境遇に沈みたるなり。閔族の所為、悪むべしと雖ども、是れ唯だ糞中の蛆のみ。公、糞を抒(のべ)て之を捨つるを思わず、徒に蛆を殺さんとす。」

 『国が滅びるのも衰えるのも、そのような期日があるのではない。朝鮮が今日のようになったのは、数百年来、政治の弊害が頻繁に起きても誰もこれを改革する者がなく、いたずらに古い体質を守り、世界の情勢を判断できず、古い風習のまま遂にこの悲しむべき境遇に沈んだのである。閔氏一族のするところは憎むべきことではあるが、これは糞の中の蛆のようなものである。貴殿は糞をそのままにしてこれを捨てず、ただ蛆だけを殺そうとしている』

 全琫準はそれに答えて、

 「誠に貴諭の如し。糞を捨つるの策、僕の未だ議せざる所。是れを以て迂拙を笑わるゝとも、固より辞せざる也。願くば公の説を聞かん。」

 『まことに貴殿の言葉のとおりである。僕はまだ糞を捨てる事について考えていなかった。それでは迂闊ではないかと笑われようとも構わない、ぜひ貴殿の考えを聞きたい』

 と、全琫準も認めてしまった朝鮮内政改革。

 しかしそのことについて渡辺少佐の話を聞き終わると、

 「貴諭の如きは、臣子の口にすべき所にあらず。若し之を実行せば、大義を如何せん。名分を如何せん」

 『貴殿の話のようなのは、臣下が口にすることではない。もしそれを実行するなら大義をどうするのか。名分をどうするのか』

 とまあ、ここらへんが全琫準の限界。

 全琫準は既に述べたように、地方在住の儒家としての一面も持ち、東学の教義内容にどれほど精通していたかは不明であるが、「全琫準供草 全」に於いて内田領事が以下のように問うと、

内田「汝は東学をたいへん好きな者か」

 「東学は心を守り天を敬う道であるから、たいへん好きである」

 と答えている。つまりは修心敬天ということは、そのまま道教儒家の思想であると言っても良い。であるからこそ既に記したように「君仁臣直、父慈子孝、然後乃威家国家」と説き、そしてそれは、君主は天が決定するものであり臣下はそれに忠義を尽くすのみという考えの持ち主であることを意味する。だからこそ地方官には反抗しても、「全州を遁るゝは、京軍に抗するに忍びざるものあるを以て也」と、国王の軍隊である京城軍とは戦いにくかったことを述べたのだろう。

 しかし渡辺少佐が取り出して見せた、朝鮮王朝太祖の李成桂の伝記、それはおそらく、元は高麗の家臣であったのが高麗王朝を滅ぼして王権を立てるという文章であったろう、それを読んで彼は怒ったような態度を現した。忠義を尽くすべきはずの朝鮮の初代の王がそうではなかったことが書いてあるのだから。

 金、黙読、二三行にして忽ち余に返えして、口を噤し、坐を起たんとす。

 とは、まるで論破された時の彼の国の人の反応である。

 全琫準は先に、「幸いに日本は、高い義を以って我が政府に勧告し、ついにその力を挙げて我が国のために尽くされることがあって、既に閔氏を斥け、大院君を起して、弊政を改革して政治を正そうとしている。我らの元々の望みもそれとあまり違いはしない」
と述べていたが、これで臍を曲げたかな?
 つまりは日本が求めているような近代化はまっぴらだと(笑)

 この後、彼はどうやら臣下の義を貫こうとしたように思われる。渡辺少佐の説得は逆効果だったのかも(笑)

 内田領事の審問による「全琫準供草 全」での彼の供述によれば、(画像

内田「(昨年11月に)蜂起したのは何故か」

 「その後聞くと、貴国の開化と称するものは初めから民間に対しては何の言葉もなく、また通知もなしに都城に兵を率いて入れ、夜に王宮を撃ち破って国王を驚かせ、それゆえに地方の人士人民らは忠君愛国の心で憤り嘆き、義ある者を糾合して動き、日本人に接戦して一度問うて聞きたかったからである」

 また全琫準が死刑判決を受けた「判決宣告書原本」によれば、(画像

「その後被告(全琫準)は、日本軍隊が王宮に入ったことを聞き、これは日本人が我国を併呑するとの意に外ならないと思い、日本兵を撃退し、その居留民を国外に駆逐する目的をもって再び兵を起すことを図り」(漢字交じりハングル文の訳は、いずれも内田領事の顛末具報による)

 とある。

 しかし9月10日に、「(日本が)既に閔氏を斥け、大院君を起して、弊政を改革して政治を正そうとしている。我らの元々の望みもそれとあまり違いはしない」と渡辺少佐に語ったのと比べると、なんとまあ国士的と言うか、儒家としての建前の義を言い張ったものであることか。
 それよりも既に8月下旬に大院君の手紙で王宮云々のことは知ってたでしょ。で日本がその大院君を起したことも。

 しかし彼は領事の審問に対して、大院君との関係はないと言い続けた。
 領事に、何故大院君をかばうのか、と問われても、自分には関係ないことであると言い、大院君と文書を交わしていた部下で親戚の宋喜(憙)玉のことも知らないと言い張り、遂には内田領事が「世間で大院君と東学党が関係あることは皆が知っていることである。汝一人だけがそれを聞かなかったのか」と問うと、全は、「実はまだ聞いていない」と答えた。

 ま、これはこれで彼なりに君臣の義を貫いたということですな。要するに全琫準の乱集団とは、儒家に率いられた古風な一揆であった、ということにでもなろうか。

 

  さて、いわゆる「全州和約」のことであるが、全琫準の「判決宣告書原本」には14箇条が記述され、計27箇条あるとされている。
 一方、不思議なことに内田領事の4回に亘る審問の供述書である「全琫準供草 全」には箇条の具体的な供述は無い。よって法務衙門の取調官だけが彼からそれを聞いて筆記したということになるのだが・・・・。

 「全州和約」の存在の傍証として、よく呉知泳の「東学史」に記述された全羅道における執綱所の行政箇条が採り上げられるが、これを以ってすぐにそうだとは言い難い。何よりこれは当時東学党が一時的に全羅道地域を掌握した際の、東学党による行政の自治綱領であって、全琫準が全州に於いて招討使に上奏を請願して結んだとされる「和約」の存在そのものを傍証し、また内容を保証するものとは言えないだろう。またこれは当時の記録でもなく呉知泳の後々の著述であり、内容を裏付ける資料を見ない。むしろ以下述べるように否定されるものであると思われる。(画像

 まず、招討使と全琫準の間でどのような交渉がなされたか。
 判決宣告書原本によれば以下のように記述されている。(画像

 「4月26、7日(陽暦5月30、31日)頃、官軍に先だって全州城を占領したが、その時全羅監司はすでに逃げていて行方が分らなかった。その翌日になり招討使洪在義(洪啓薫のこと)は兵を擁して城下に迫り、城外より巨砲を放ってこれを攻撃すれば、被告(全琫準)はその徒と共に応戦して頗る官軍を悩ませた。招討使はそれで檄文を城中に投じ、被告等の願いを聞いて目的をかなえるので、速やかに徒党を解散すべき旨を暁飭(さとりつつしませること)したので、被告等は・・・・」
 (と、願いの14箇条を記述した後)
「27条目を請願し、その筋に上奏されることを乞うた。招討使は即時に承諾した故に、被告は同年5月初5、6日(陽暦6月8、9日)頃に全ての人々を解散し、各自職業に就かせ、且つその時被告は崔慶善(郷宣)以下20余名を伴い、全州より出発し、金溝、金堤、泰仁、長城、潭陽、淳昌、玉果、昌平、順天、南原、雲峰等の各処を経過して遊説し、7月下旬に泰仁の自宅に帰着した」

 とある。

 あれ? 6月10日ではなかったのか和約を結んだってのは。この10という日付はどこから来たんだろうか。

 一方、内田領事の審問による「全琫準供草 全」では次の通りである。(画像

内田「(全州の)守城の後に何をしたのか」

 「その後、京軍が後から完山に来て龍頭峴に留陣し、城中に向って大砲で攻撃したので慶基殿が毀傷された。それ故に京軍の許までその(慶基殿)の縁故を伝えると、京軍の営中より暁諭(悟り聞かすこと)文が作られ、汝の願う所に従おう、とあったので感激して解散した」

 う〜ん、供述があっさりし過ぎ。そして判決文とは違って「応戦して頗る官軍を悩ませた」などとは言っていない。尤も、この人の供述はしばしば変わるところがある。
 なお全州城の慶基殿は李氏朝鮮太祖の肖像画を安置し、また全州李氏始祖の位牌を祀るという。

 次に、朝鮮政府の電報記録である「両湖電記」の中から、いくらか拾って記述する。

 まず、五月初四日つまり陽暦6月7日の招討使から公事庁宛ての電報によれば、(画像

 「(略)賊之所恃者全祿斗与十四歳童子壮士李福用而全祿斗則為我銃所傷左股不用李福用則昨日大談出戦為我軍所斬余皆逃散入城落胆喪魂方作自中乱」

 と、招討使が全州城から出てきた賊軍を破ったことと賊が戦意を喪失している様子を述べており、これは東学党の乱(八十五)にある招討使の電文とほぼ合う内容。ただここでは全祿斗(全琫準のこと)は左股を銃撃で負傷したとあって、より具体的になっているが。これは後に全琫準が病と称して自宅に居たのと関係しているのかな。

 続いて初五日(陽暦6月8日)の電報では、本営から使道宅あてに「長城戦亡官兵事驚惨」とあって、長城戦で兵が多く死んだことを述べている。(画像

 その後、内署からはつまりは政府内からは、「連次勝捷士卒之効忠嘉尚・・・」と6月7日の全州での戦勝を褒めちぎる電文を発し、また恵堂すなわち閔泳駿からも「大捷成功賀諸軍労・・・」とこちらもマンセーと喜びながらも敵を軽く見るなと言っている。(いずれも同上電報画像)

 そして次に、内署から下電つまりは招討使への電文として、

 「帰化之説 不可準信 期図剿滅 至於平民 不可不審慎十分」(同上電報画像)
 『乱民が帰順すると言っているのは信じられない。殲滅するという方針は、平民については十分慎重に判断せよ』

 とある。
 先の東学党の乱(八十五)によれば、招討使は飛脚を立てて国王へ奏上した、とあるところ。

 で、この「帰化之説」つまり帰順の申し込みが「全州和約」のことであるとする説がある。

 そして、初七日(陽暦6月10日)には招討使から公事庁宛て電報に「昨日未時賊類使二人有所来訴苦乞帰化而縦欲退散・・・」と9日未明に賊の使者2人が来て苦しみを訴えて、帰順を乞うて、退散させてくれ、と言ったと。(画像

 更に五月二十一日(陽暦6月24日)の項目では、五月初七日つまりは陽暦6月10日(おお、ここでやっと10日の日付が出てきた)にも帰順の申し込みがあって、その時の文章が記述されている。(画像

 この電文は全州の守令からのものと思われ、それには文末に、

 「其情状如此撫綏善後之道惟在於道守令是白斉」

 とあって、「その(乱民の)情状はこのようなものであって、(乱民を)慰撫する善後の策は民の願いを採り上げることであります」と、守令の意見が添えられている。

、「五月初七日彼類納供文曰伏以生等帰化之日即伸寃之日也 敢不遵令乎 日前所訴民願條條升聞于天陛下諭於列邑俾至安民之地是白斉」
 『6月10日にあの類の者が納めた供文には、「自分らは伏して申上げます。帰順の日は即ち無実の罪を晴らす日です。敢えてご命令に従わないことがありましょうか。前日訴えたところの民の願いの条々を聞き上げられて、ここに国王から下諭され、各村に於いて安民の地となさしめられたいのであります」』

 そして6月11日にも、

 「其翌初八日供文曰今此帰化之日厳令申申敢不感服訴寃従民願登階而永世頌徳惟在■閣下処分矣生等即当出門退待下回之昭示兵器依教輸上是白斉其情状如此撫綏善後之道惟在於道守令是白斉」

 つまりは、11日にまた供文があって、帰順のことを述べ、さらには民の願いをきちんと採用されるのは永遠に誉め称えられることであって、それは閣下(招討使)の処分如何にありますし、自分らはすなわち門を出て待ちますから、返事を下されれば指示によって兵器を差し出します、というような文意になっている。

 11日になってもまた供文出してるじゃん。乱民を慰撫したほうが良い、という守令の意見が添えられているから、つまりはまだ「和約」になっていないということ。そしてそれに対する朝鮮政府の返事はない。

 

 さて、以上のことなどを総合して検討すると、全琫準らから、何らかの願いの条文を招討使に差し出したのは確かなようだ。また招討使がそれを受け取ったのも確かであろう。
  しかし朝鮮政府としては、初五日(陽暦6月8日)に「帰化之説 不可準信」つまりは、乱民が帰順すると言っているのは信じられない、と返事をしている。そして「 期図剿滅 至於平民 不可不審慎十分」と、殲滅させるかどうかという方針については、招討使の慎重な判断を期待している文意となっている。
 つまりは乱民の帰順の申し込みは信用できないが、鎮定方法は招討使に任せる、ということであろう。当然、民の願いの条々を採り上げる気はないという意味となる。
 つまり、朝鮮政府と東学党で約束を結んだというようなものではなく、おそらく、

全ら 「(青息吐息で、)帰順しますのでこの条文をお願いいたします」
招討使「うん分った分った(棒)」
全ら 「願いを聞いてもらって感激です!解散して家に帰ります」

 その後、国王からその願いの箇条が上諭文として布告された形跡は無い。そりゃまあそうだろう。もしそれが「判決宣告原本」に記載されているような箇条であったならば、政治改革などする気の無い閔氏政権が実行するはずも無いからである。

 で記載されているその箇条とは以下の14箇条である。(画像

 「轉運所革罷事、国結不為加事、禁断歩負商人作弊事、道内還銭旧伯既為捧去則不得再徴於民間事、大同上納前各浦口潜商貿米禁断事、洞布銭毎戸春秋二両式定銭事、貪官汚吏并罷黜事、壅蔽上聡賣官賣爵操弄国権之人一并遂出事、為官長者不得入葬於該境内且不為買水田事、田税依前事、烟戸雑役减省事、浦口魚塩税革罷事、洑税及宮水田忽施事、各邑倅下来民人山地勒標偸葬忽施事」

・ 「轉運所革罷事」 『転運所を廃止すること』
 転運所とは、東学党の乱(四十)によれば、どうやら蒸気船による運搬に関わる所のことらしい。それで年貢米の上納負担が、例えば今迄米1俵だったのが1俵半に増えたのは、年貢米を運ぶのにも蒸気船を使用したり、色々の機械を購入したりして冗費が増えたからだろうと。それでそんなの廃止しろ、ということらしい。
 「インフラ整備ハンターイ!!」とな(笑)

・ 「國結不為加事」 『国結を加えないこと』
 ・・・意味がよく分らないが、これ以上外国と国交を結ぶな、ということかな?

・ 「禁断歩負商人作弊事」 『歩負商人つまりは雑貨行商人の弊害を禁じる事』
 いわゆる褓負商の弊害とは何だろうか。もしかして東学党を討伐する側に廻ったからだろうか(笑)

・ 「道内還銭旧伯既為捧去則不得再徴於民間事」 『全羅道内の還銭旧伯?を民から再徴収しないこと』
 還銭旧伯の意味が分らないが、税を収める事が出来なかった人の分を親戚が代わりに治めたにもかかわらず、再度徴収しようとする行為の事を指すのだろうか。ま、とにかく金銭を不当に何度も徴収を受けていたことは窺えることである。

・ 「大同上納前各浦口潜商貿米禁断事」 『大同江の各港で、上納した米を中間業者の商人が売買貿易することを禁止すること』
 というような意味だろうか。つまりは仲買人や運搬業者などを廃せよということか。これを閔氏政権が実行するはずも無し。

・ 「洞布銭毎戸春秋二両式定銭事」 『地方税は春秋2両に定めること』
 布銭というのが渋い。中国戦国時代の「布銭」というのは青銅貨幣だったが、朝鮮のは本当に布(木綿)だったらしい。

・ 「貪官汚吏并罷黜事」 『貪官汚吏を罷免して斥ける事』
 民にとっては貪官汚吏でも、閔氏一族としては、「俺たち普通だけど」と言ってそう(笑)

・ 「壅蔽上聡賣官賣爵操弄国権之人一并遂出事」 『上聡を壅蔽し官爵を売って国権を弄ぶ者らを合わせて追い出すこと』
 「上聡」がよく分らないが、つまりは能力のある者を用いないということか。とにかく売官売爵している権力者どもを追い出せと。
 全琫準の供述によると、それは恵堂閔泳駿、閔洙熄、高永根等その他だという。後の井上馨全権公使の報告によれば、例えば慶尚道監司の官は日本円で10万円ぐらいで、落札した者は地方に赴任した後に人民から酷税を徴収して先にその代金を償還するという。
 勿論その上で更に私腹を肥やそうとするから、そらもう農民は働く意欲も無くしてしまうだろう。乱民というか、いっそ匪賊になった方が食っていけるのかも。
 しかしこれまた閔氏政権の大きな収入源だから実行されるはずも無し。

・ 「為官長者不得入葬於該境内且不為買水田事」 『官長になった者はその土地に葬むれないこと又水田を買う事が出来ないこと』
 つまりは土地の買い占め禁止ということか。しかしこれも閔氏政権では駄目。

・ 「田税依前事」 『田の税は前例に依ること』
 勝手に上げるなと。
 これも駄目。

・ 「烟戸雑役减省事」 『烟戸雑役を減らすこと』
 「烟戸」がまた分らない。戸ごとの使役のことか。ま、雑労に多く狩り出されていたことは窺える。
 これも駄目。

・ 「浦口魚塩税革罷事」 『港の魚と塩の税は廃止すること』
 これも勿論駄目。

・ 「洑税及宮水田忽施事」 『洑税と宮水田は行わないこと』
 これもよく分らないが、「洑」とは潅漑のために川の流れを堰き止める施設のことらしい。まあいろんなトンデモ税があったようだ。しかし政府にとっては収入を減らすことなんか駄目だろうと。

・ 「各邑倅下来民人山地勒標偸葬忽施事」 『各村の下官吏が来て民の山地に碑を立てたり埋葬したりしないこと』
 という意味だろうか。それでなくとも他人の墓地に勝手に埋葬したりするお国柄らしいから(笑)
 お役人様のすることに文句言うなあー!と言われそうで、これも駄目。


 以上が、全琫準の判決宣告文に記載されているもの。計27ヶ条とあるから他にも13ヶ条あったらしい。
 しかし殆どが閔氏政権が実行するはずもないようなものばかり。絵に描いた餅などというものですらない。「駄目なものは駄目、よってそんな約束出来ぬ!」ということ。

 

 以上の諸点を総合して検討すれば、即ち「全州和約」は「和約」にあらず。願いの箇条を書いた乱民の帰順の陳情書を、招討使が手に収めただけ、ということになろう。勿論、日本側にそれを示したという記録もないし、それに相当する話が日本公使に通じていた様子も更にない。

 で、その後全琫準は11月ごろに乱徒を糾合して1万余名となって公州に至り、11月21、22日と日本軍1中隊と2度にわたって交戦。何れも撃退されて乱徒は皆逃散し、全琫準は再度兵を募ったが応ずる者無く、やがて数人の同志と京城を視察しようと向う途中で民兵に発見されて逮捕された。

 後世には、東学党真正の巨魁として、また「全州和約」のこともあって何かと注目された人物であったが故に、公州戦のこともよく採り上げられるが、朝鮮各道で掃蕩戦を展開している日本軍にとっては、1人の損害も出すことなく鎮圧した幾度もの戦闘の中の1つに過ぎないものであった。


 さて、乱への大院君の関与の記録であるが、先の「渡邊砲兵少佐付属横山又三郎通信」以外には、「12月12日 釜山 今橋兵站司令官 川上兵站総監」その他様々あるが、ここでは以下のように杉村濬の記述を載せておきたい。

(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 2」34pより現代語に)

 大院君は日本人と事を共にすることを好まず、また日本人と共にすることが後日に清国の怒りを招くことになるのを恐れ、ひそかに使いを遣って在平壌の清将と文を交わし、また英国領事に親交を求め、そしてまた東学党の乱の再燃を促したことがあった。

 李允用、安駉壽らはこれをを探知して屡々我が方に密告したが、日本側では敢えてこれを顧みなかった。
 安、李らはその証拠を得て我が方を動かさんと欲し、時に李允用は警務使であったので、その職権を利用して探偵に探偵を重ね、9月下旬、鄭寅徳等が李呵Oの意を受けて東学党に与えた書面を入手し、同25日の夜、安駉壽が来てひそかにこれを余に示し、大院君が清将に内通した事実を挙げて余に語った。

 そして安李等はなお鄭寅徳の事を追究しようとし、警務庁から捕縛して一大疑獄を興すことを企てたので、大院君はこれを聞いて大いに怒った。それで彼等の過失を捜索中、同28日に同君が我が公使館を訪問しようとして出門の際に、宮内警戒の巡検等が同君に対して新式敬礼を行ったことは不都合であると称し、即日李允用の官を免じてこれを城外に閉門し、重く処分しようとした。

 大院君の公使館への来訪は近年初めての来訪であって、おそらく同君は平壌、黄海の戦勝の報知に肝を奪われ、且つ安、李等の大院君と公使館の離間策を看破し、我が公使館との交際を暖めるために特に来訪したものであろう。

 李允用の閉門は実に反対派を戦慄恐懼させ、安、金両氏以下は交々来て李氏を救済し、併せて日本巡査を派して自分等を保護することを依頼した。
 当時、公使館に於いても大院君の処置は不当と認めたので、余は公使の命を受けて再三同君を説破し、10月6日になって漸く閉門を解いた。

 しかしそれからは大院君反対派の人々は屡々刺客などに付け狙われ、畏縮した上にも畏縮して口を開かなかったが、金鶴羽1人だけは毅然として動じなかった。
 初め新官制施行の際に、内務大臣が辞めた後は大院君はその愛孫である李呵Oを内務協弁に任じて大臣を置かなかったが、機微を察するのに鋭い人々はこの処置を指して、愛孫を勢道に見立てようとする深慮に出たものと早くも感じてひそかにこれを憂慮した。おそらく勢道の権威と利益が、地方官の任免を奏請したり賄賂を収めることにあるからだろう。
 今や内務大臣は地方官を管轄し、その進退黜陟を奏請する職権を有するので、恰も世道と異なることがないと誤解したのである。

 9月中旬の頃、金鶴羽は法務大臣代理として内閣会議に列し、「地方官の進退奏薦を内務大臣に一任するのは弊害がある。宜く内閣会議の同意を経て、総理大臣から奏薦するべきである」との議を立てたところ、多数の同意を得てその議が成立したので、李呵Oは深く同氏を怨み直ちに官を辞した。その後も金氏は常に正議を執り大院君の暴威に屈っしなかったので、大院君は深くこれを憎んでいたが、10月31日の夜に終に刺客のために殺された。

 

政府要人相関と人物評

 この頃の朝鮮内政事情というものは、ただひたすら政争に明け暮れるばかりで、改革を進めているなどとは到底世辞にも言えぬお粗末さであった。
 そのことを「蹇蹇録」で述べる陸奥宗光の口調は次のように極めて痛烈。

 「・・・朝鮮政府は閔族敗退して王妃羽翼を戢(おさ)めたる後は、第一には頑固保守的の大院君の一派が大権を握り、第二には温和漸進主義なる金宏集・魚允中の老輩を以て内閣を組織し、第三には日本党寧ろ躁進党の半知半解の開化者を糾合したる合議体の軍国機務処を新設し、此軍国機務処が総ての改革案を起草する事となりたれば、固より頑迷偏執の大院君とは其意見一々衝突すべきこと必死の勢にして、其中間に位する金・魚内閣は孰れの一方にも左袒する能わず。又孰れの一方をも抑制する能わず。俗に所謂板挟の姿となり、独り自ら困難を極むるのみ。朝夕徒に坐上の空論に向い生死を賭して争闘し[斯る党争の間に於て他日金鶴羽は大院君の使嗾に由り暗殺せられたり]実務一も挙る所なく、加之朝鮮国人の特色たる猜疑深きの邪念と陰険なる手段を施すに憚らざるの悪徳とは、其争闘をして往々彼此陥構排擠するを事とするに至り、相互の怨恨日に月に増長し朝友夕敵の状を露し、到底一致協同して事に従うを望むべからざるの勢を馴致したり。是れ朝鮮内政の改革が竟に失敗に帰し何等の効果なきに至りたる重要なる原因なるべし。(「第十一章 朝鮮内政改革ノ第二期」p4)

 金魚内閣かあ。おそらく、「キンギョ内閣の小魚どもが・・・」とか何とか罵っていたと想像する(笑)

 で、「頑迷偏執の大院君」や「半知半解の開化者」や「金魚」たちは、どのように対立し、関係していたかと。大鳥公使や杉村書記官の報告、また軍国機務処主事の談話などによる、朝鮮政府要人の相関と人物評。
(「韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻」の「明治27年9月17日〜明治27年10月23日」、「在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 2」p33〜p36、「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/14 第拾壱号 〔清国ヘ親書送付ニ付総理外務両大臣トノ対談〕」、「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/13 第拾号 〔東学党討伐ニ付総理外務度支三大臣トノ対談〕」)

 大院君・・・国王高宗の父。王族の出自。磊落風、且つ人の言を容易に聞かない。多年閔氏との確執が甚だしい。清国に拘留され、その後帰国しても閔氏政権のために阻害され、それを日本が朝鮮改革の旗手として執政の座に据えた。しかし大院君は改革に興味なく、中国の儒教政道を目指し、満州族の清国を恐れつつも密かに蔑み、且つ「まだまだ日本が嫌い」の人。なお孫の李呵Oを次の国王にせんと画策した疑いがある。自分が、また孫が「勢道」となることを望んでいる。改革を進める軍国機務処の権威を快しとせず、正論を吐く法務協弁金鶴羽議員を憎んで暗殺する。
 東学党と平壌の清将に通じていたことが発覚したが、日本軍が平壌・黄海で戦勝してからは隠蔽工作に走り、且つそれを否定するのに必死。なお英国領事にも親交を求める。
 また、富裕民がいるのを知ると脅迫してその財を取り上げるという、民に対しても横暴の人である。その手足となる部下は旧捕盗庁の捕卒(旧警吏)80人余りであった。

 李呵O・・・大院君の愛孫。世子に替わって次の国王になる事を望み、障害となる王妃の廃妃を画策。日本公使らの猛反対を受けて断念。元は日本贔屓であったが、それを機に日本嫌いに傾く。
 東学党と平壌の清将に通じ、その手紙が漏洩して日本政府が知るところとなる。
 大院君が内務協弁に任じたことにより地方官の進退を国王に奏薦出来る立場(地方官の賄賂を一手に出来る勢道の地位に似る)にあったが、金鶴羽が「内務に一任するのは弊害があり、内閣会議の同意を得て総理大臣から奏薦するべきである」との議を呈出し、多数の同意を得て成立したので金を怨んで辞任。大院君もそれを聞いて金鶴羽を憎んで暗殺。

 国王高宗・・・優柔不断の人。保身の人。国王も清軍依頼の書を平壌の閔丙奭に送り、それを清将に渡すように命じていたことが発覚。つまり朝鮮国王は日本と軍事同盟を結ぶ一方でやはり清国にも通じていたというわけ。そのことで後に井上全権公使に天皇陛下への謝罪を依頼することになる。

 王妃閔氏・・・稀代の浪費家。夫の操縦に長けるが、大院君が執政となり閔氏政権が崩壊してからは大院君の膝下に哀訴して深く反省した態度を飾る。一方で密かに反大院君派を取り込もうとする。

 金宏集・・・軍国機務処会議総裁、議政府領議政(総理大臣)。出自が低いためか大院君・李呵Oと直接面会する地位にない。よって常に兪吉濬がその間に立つ。或いは手紙でやり取りをする。日本政府が当初から要職に就くのを望んだ人である。かつて三履の一人と呼ばれていたが、今は「骨髄」とまで称されるようになった。しかしその人と争うのを好まず極めて慎重である性質ゆえに政府内では自ら権力を削ぐ傾向にある。敢えて色分けすれば大院君派寄りと言える。

 金允植・・・外務大臣。金宏集と最も仲がよい。性格も似る。格別望むような野心はないようである。当初から日本側が要職に就くのを望んだ人である。しかし強いて色分けすれば寧ろ大院君派である。

 魚允中・・・度支(財政のこと)大臣。名官として、また閔政権時代にあっても非行がない者として政府に残された。当初から日本政府が財政を担当させることを望んだ人である。
 しかし、閔政権時代の7月に「文物礼儀百般の事之れを中華に做(倣)い、三綱五倫人道の教之れを尭舜に法とる。去れば中国は我が恩国たり、主邦たり。焉(いずくん)ぞ崇尚せざらんや。唯だ今日の清人を信憑せずと云うに在るのみ」と語ったことがあった。
 強いて色分けすれば大院君派である。

 兪吉濬・・・軍国機務処会議外務参議。李呵Oが最も信用している人物。機務処で活躍するのもその取立てによる。金宏集とも昵懇の仲。よって李呵Oと金宏集両方の援を得て最も機務処内外を圧倒し、近くに敵もいない。
 表面は正論を装うが、陰に大院君派に傾いている。

 朴定陽・・・学務大臣。軍国機務処会議内務督弁。名官として、また閔政権時代にあっても非行がない者として政府に残された。

 朴準陽・・・軍国機務処会議内務参議。大院君門下の人。大院君と最も昵近。

 李源兢・・・軍国機務処会議内務参議。大院君門下の人であり大院君と最も昵近であったが、後に朴泳孝の国王脅迫疑惑に関係の嫌疑ありとして北青府使に左遷。

 金鶴羽・・・法務協弁、軍国機務処会議練武公院参理。大院君と王妃のどちらにも傾かず、他人と提携するを好まず最も厳正中立。いささかの私心なく気骨稜々、その壮語は時に他の人々の耳目を驚かせ且つ傾けさせ、常に正論を吐いて止まず。李呵Oに地方人事の権力が集中するに反対の議を成立させた。為めに李呵Oに怨まれ、大院君に憎まれ、終に10月31日に大院君より暗殺される。

 安駉壽・・・軍国機務処会議右捕将。元内閣警務使。日本党を自認し日本公使に昵近。軍国機務処主事からは、狡猾で人付き合い甚だ悪い奸物であり、到底多人数を率いる人ではないと評されている。また大院君が決して信じない人物である。
 王妃の親交により王妃派となる。

 金嘉鎮・・・軍国機務処会議外務協弁。外務協弁。王妃派に近い。機務処主事からは、器量小さく邪推に富み、大事を処することが出来ないと評されている。


 李允用・・・警務使。大院君の娘婿であるが開化党であり、王妃の親交により王妃派に。大院君と李呵Oの廃妃の画策を知り、警務使の特権を生かして探偵し、ついに鄭寅徳等が李呵Oの意を受けて東学党に与えた書面を入手し、大院君が清将に内通した事実を日本公使館に告げた。尚も安駉壽と共に鄭寅徳を追究せんと警務庁から鄭寅徳を捕縛して一大疑獄を企てようとした。
 これを知った大院君は大いに怒って口実を設けて李を即日罷免した。
 しかし日本公使館はそれを不当と認め、杉村書記官に大院君を説かせて撤回させ、職に復させた。

 

掠奪の蔓延

 で、大院君の収金システムについての話を少し。

「地方富豪の老夫婦・・・紳士の家庭」
明治39年(1905)6月 博文館発行「韓国写真帖」より、文章位置の調整あり。
 韓人、財を蓄うれば忽ち地方官の誅求に逢い、構陥(讒言して人を罪におとしいれること)して獄に下し、其財産を没収せらるゝの奇禍に罹る。故に富豪と称する徒も、常に矮屋の内に起居し、力(つと)めて貧を装う。

 朝鮮人は、もし蓄財あるを人に知られれば官吏などから奪い取られてしまうことは、すでに明治12年に釜山港管理官の山ノ城祐長が報告していることである。だから床下の土中などに隠匿し、粗末の家に住んで赤貧の体を装うと。
 大院君なども密かに民財を取り上げることをしており、杉村書記官の10月の報告にそのことが記録されている。(「明治27年9月17日から明治27年10月23日」p45)

 かつて大院君は権勢を振るっていた頃は、左右両捕盗庁を使って官民への刑殺掠奪をほしいままにしていた。それが今回の改革で両捕盗庁は廃止となり、新たに警務庁が設けられた。よって大院君はそれを不満とし、旧捕盗庁の捕卒(旧警吏)80名余りを残留させて自分に私属させた。要するに大院君の私設警備団である。
 もとより捕盗庁の捕卒は治安には関心なく、専ら金銭で私用にも使われる存在であったが、すでに政府組織ではなくなったにも関わらず、大院君は依然として人を捕らえさせては金銭を徴収していたのである。

 大院君は、この年7月に京城の富民である金重孝という者の子から13万両(日本円で当時5,200円)を徴収し、その内3万両を部下である旧捕盗庁の捕卒に分配している。また、朴汝道という者からは5万両(日本円で当時2,000円)を徴収した。10月に入ってからは、賭博罪で拘束した富裕両班の金東旭、金基永という2人から、それぞれ5万両を徴収して放免した。
 後に警務庁がそのことを知り、一応賭博罪の2人を逮捕して法務衙門に送ったが、処分を国王に伺ったところ、民心を考慮して不問とすべし、となった。
 警務庁にとっては旧捕盗庁の捕卒らの行為は越権というよりは、もはや不法なものであった。
 これらは法務衙門協弁の金鶴羽の談話である。誰にも傾かず堂々と意見する人物であり法務協弁でもあるから、この事についても大院君と対立していたかもしれない。

 あるいはまた、12月13日釜山の今橋兵站司令官の報告によれば、
 大邱府にいた財産家「ジョショウリョク」という者は、元は大院君から寵愛を受けていたが、意見が合わないことがあり、大院君とは全く反対の考えとなった。よって大院君は自分の親族である大邱府監司に内命を下し、「ジョショウリョク」を殺して財産を取り上げようとした。それで遁れて昨夕に釜山に来た。
 更に、慶尚道の大院君派の者が大院君から挙兵の密命を受け、「ジョショウリョク」が大院君と袂を分かったことを知らずに、その軍用資金を相談したことにより、また新たに大院君が暴徒を集めて乱を画策していることも発覚した。

 しかしやることがまるでヤクザの親分。もちろん大院君に限らず、何等かの権力の地位に就いた者なら、同様の誅求や賄賂を要求することなどは当たり前であり、また乱民は乱民で奪い取る、まさに上下挙げての掠奪行為が朝鮮国中に蔓延していた。
 この国で資本の蓄積はありえない。乱がなくとも乱があっても、租税などがまともに国庫に収まることはなかったのではなかろうか。

 

朴泳孝の脅迫

 さて上記の政府要人相関と人物評からは外れるが、朴泳孝はどうであったか。

 朴泳孝が任官を国王に迫り、採用しない時は日本兵を率いて王宮に迫ると言ったとの流言があった事に対して、大鳥公使は「機密第一八〇号 本一〇三」で、朴が「国王から改革担任の御委任がありたい。よって明日中に有無の御沙汰あるように取り計らいを願う。もし御沙汰が延引するときは、自分が同志を引き連れて参内して命を待つべし」と述べた一言が元となり、これに枝葉を付けて日本兵を引率して入闕するとの流言が作為されたものと思われる、と報告していたことは既に述べた。

 しかし、その後の調べでは、以下のように満更流言とも言い切れないところがあるように思われた。9月21日の大鳥公使からの報告である。

(「明治27年9月17日から明治27年10月23日」p16)

  朴泳孝は免罪の手続きも終わらざる前、或る朝鮮人等に向かい、改革に関する自己の意見を発表し、以て失敗を取りしことは機密第一八〇号 本一〇三に詳報せしが、尚其後得たる報道は左の如し。

 本月三日夜、同氏は国王より密派せられたる李載純[朴氏の親族と云う]及び内官と会合したる時、具さに朝鮮の現勢并改革の意見を述べたる後、自分は国王の委任を受けて変革を断行せんとするに付、先ず御委任状を得たし。依て其周旋を為す可き旨脅迫したる処[李載純の、国王并大院君に報じたる所にては、此時朴氏護衛の日本巡査二名は抜刀し朴氏はピストルを擬したりと云えり。依て巡査抜刀の事に付ては取調中なり]李載純は之に恐怖して彼の云う侭に承諾したるも其旨国王には復命せず、墓参と称して直ちに京城を避けたり。然るに其後李駿弼の申立に因り、国王より載純を招て詰問したる処、前顕の通り陳述したりとぞ、此説大院君は固く信じて疑わざる故に、我より其然らざるを弁疏し置き、内々武久警視に含めて在仁川朴氏護衛の巡査取調中なり。

 其前後に於て李駿弼も亦朴氏の為め国王に向い、屡々委任状を渡されんことを迫り、又金嘉鎮、安駉壽、趙羲淵、李允用及び権濚鎮を謀殺せんことを促せり。然るに国王は固く執りて聴従せられざる為め、李駿弼は翌四日の夜、国王御寝殿近く進んで之を呼興し、若し御委任状を賜わらざるときは、朴泳孝は日本兵三百を引率して進宮す可しと脅迫し、且つ其言の実を証する為め、李駿弼は玉璽を押したる白紙、即ち明治十七年変乱の際、国王より嘗て朴氏に渡されしものを呈出したりと云えり。

 右は我に因縁ある二三の朝鮮官吏及び大院君の直話に係れば、概して無根の説と見做し難し。扨又李駿弼は本と著名人にあらず。変乱前より国王若くは王妃の親近を受け居りたる処、大院君は俄かに彼を慶尚道の一地方官とせり。然るに彼は其任に赴かず、朴泳孝の帰韓を聞き、首として之を訪問し、力を極めて大院君を毀傷し、遂に朴氏と深く相謀る都合に至りしとぞ。
 因て考うるに李は王妃派の隠托を受けて大院君と朴氏の間を離間せしと謀りしものか、今に至る迄確説を得る能わず。

 但し李駿弼は其後大院君の命にて旧捕盗庁に捕われ、終に縊殺せられたり。[又此事に関係の嫌疑ある李源兢は北青府使に左遷せられたり。]

 又朴泳孝は此事の前に当り、両三回杉村書記官に面会して変革を行う必要を説き、其同意を促したるも、同書記官より堅く拒絶せられ且つ懇々説諭を加えられたれば、朴氏は稍々不満の様子にて其後再び変革の事を説かざりしと云えり。

 さすが明治17年朝鮮事変の首魁朴泳孝ではある。まあ明治21年に国王に宛ててあれだけ長文の建白を書くのだから相当の熱血漢ではあったろうが、しかし前後見境ないのは相変わらずらしい。

 ところでここには面白い資料があるではないか。即ち「李駿弼は翌四日の夜、国王御寝殿近く進んで之を呼興し、若し御委任状を賜わらざるときは、朴泳孝は日本兵三百を引率して進宮す可しと脅迫し、且つ其言の実を証する為め、李駿弼は玉璽を押したる白紙、即ち明治十七年変乱の際、国王より嘗て朴氏に渡されしものを呈出したりと云えり」と。

 かつて明治17年事変時、竹添公使を動かしたものは、その年12月4日夜の王宮内官の要請と、もたらした国王親書「日使来衛」の4文字であった。また玉璽をツした白紙は5日の夕刻に受領している。つまりはこれと同様の紙を朴泳孝も所持していたと。
 しかし何故に朴泳孝はそんな古いものを李駿弼に渡して国王に見させたのだろうか。可能性としては次のことが考えられるだろう。

 ・ 李駿弼は確かに朴泳孝の意を受けて来ているのである、との証か。
 しかし、以前から国王若しくは王妃の親近を受けていた李駿弼が、すでに前から時々朴泳孝氏のために国王に向って委任状を渡すことを迫り、又金嘉鎮、安駉壽、趙羲淵、李允用及び権濚鎮を謀殺せんことを促していた、とあるから、別にこの4日の夜にわざわざ朴泳孝の意を受けているとの証を出す必要はないだろう。

 ・ かつての竹添公使同様に兵を率いてくるの証か。
 しかし、竹添公使が兵を率いて来たのは「日使来衛」の親書によってであり、玉璽は関係ない。また、たとえ兵を率いて来ても、国王が要請したものではないと拒絶すればそれで終わりである。17年当時、国王は竹添が速やかに来て護衛についたことを手を取って懇ろに謝した。竹添が受領した玉璽をツした紙はその時の国王要請の証である。それを今ここで朴泳孝が同様の紙を見せたところで何の意味もない。

 ・ あるいはこれは勝手な推測なのだが、朴が言いたいことは、国王はかつて明治17年の時に開化派のクーデターに同意し、そのお墨付きとして玉璽をツし、一時は共に新政権を作るなどしたではないか、と。つまりはあの時の改革は合同合意のことで、今一度改革の委任状を出すべきではないかと。

 明治15年事変後に、朝鮮国王は日本兵を借用したいとの親書を日本政府に送り、それによって国王と日本政府との間でその取り決めがあり、またそれによって明治17年には、その要請によって竹添公使はいささか応援した、とはこの後10月の井上馨と金宏集との対談で井上馨が述べていることである。(参照 「明治開化期の日本と朝鮮(24)」の「国王、日本兵借用を申し込む」)

 しかし「我公使は尽力する所ありたるも、貴国人の不徳義なる、陽に我に結び陰に清と謀り、終に日清両国兵の京城に干戈を交ゆるに至れり。当時我政府の感情は如何なりしか。実に貴国の陰険手段多きには、大不快を感ぜり。」「貴国人の不徳義なるには当時頗る大不快を覚えし」(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/10 第八号 〔総理大臣トノ対談〕」p5、p7)と。
 つまりは朝鮮国には大いに裏切られたと感じたということであろう。
 だいたいこの国の人の舌は多重構造をしているのであって・・・・

 この後、京城駐箚全権公使として赴任した井上馨の容赦のない大喝が、朝鮮王宮内で連日鳴り響くことになる。

 

 

日清戦争前下の日本と朝鮮(5)      目 次       日清戦争下の日本と朝鮮(7)

 

 

  きままに歴史資料集 since 2004/12/20