日清戦争下の日本と朝鮮(5)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

「朝鮮国平壌に於て、我軍衛生隊が支那捕虜負傷の治療場」 陸軍参謀本部陸地測量部 樋口宰蔵撮影、小川一眞 明治二十八年八月発行「日清戦争写真帖」より。
 戦争捕虜は犯罪者ではない。ゆえに、行動の自由は制限されても、基本的に通常人と変わらぬ権利が保障されるべきであり、当然負傷者は治療が受けられねばならない、というのが近代の考え方である。
 1864年、スイスのジュネーブに於て12カ国で締結された、戦地に於ける負傷者と疾病者の治療のことを定める赤十字条約に、日本政府も明治19年(1886)11月に加入して公布している(御署名原本・明治十九年・条約十一月十五日・瑞西国外十一国間ニ締結セル赤十字条約)。その第六条には、「負傷し又は疾病に罹りたる軍人は、何国の属籍たるを論ぜず之を接受し、看護すべし。」とあり、敵国の兵であろうと負傷者などを救護するのは加入国としては当然のことであった。しかし、清兵はそのことを知らなかったようで、捕虜になった負傷者が日本側の治療を手を合わせて感謝したという記録がある。
 以下、当時の報告から。
(「9月18日 広島大本営 川上中将 児玉次官宛」より抜粋)

東京参謀本部 児玉少将    広島大本営 川上中将
  九月十八日午前十一時二十八分発

一 九月十七日小池第一軍兵站軍医部長より左の報あり。
 大同江より廻送すべき彼我の負傷者処置の為め、仁川に来る。昨夜牙山の敗兵負傷者フウトウシャウ[人名歟]入院せり。九月八日谷山府にて捕えられ、左足に傷あり。合掌して我が治療を謝す。
(略)
一 十七日、菊池第五師団軍医長より左の報あり。
 敵の負傷者、七拾七名、拾い集め救護に着手せり。

 捕まれば殺されると思い込んでいる清兵は、まさか自分の負傷を治療してもらえるとは思ってもいなかったのだろう。当時の日本の「俘虜取扱規定(俘虜取扱規定の件)」によれば、清兵捕虜は本国へ手紙の往復も出来た。尤も当然検閲付きである。

 但し、俘虜取扱規定には「俘虜不順の行為あるか、又は情況危険の虞あるときは、臨機手段を用うることを得。」とあって、場合によっては捕虜を処断できることにも触れている。これは後には「俘虜間牒ニ関スル件」で「多衆共謀して逃脱を企て、又は反抗の所為ある者は死刑に処す」と規定された。もちろんこの頃は捕虜そのものの処遇などを定めた国際条約はなく、後にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に於て、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」を日本も批准して公布するのは明治33年である(御署名原本・明治三十三年・条約十一月二十一日・陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)

 しかし日清戦争時に於て、平壌戦後に捕虜となった清兵の中には、集団で反抗した者があって以下のように斬首刑に処されている。

(「9月23日 大本営 児玉少将宛」p2より抜粋)

  児玉次官宛     上田参謀長
 左宝貴は死す。生擒五百五十五人、内大隊長以下士官七員、傷者百十六、 生擒の韓人十五、内負傷者四人なり。
 此外に、五十六人、生擒後手向いせし故え斬殺せり。
  十九日午前十一時平壌発

 この時のものかどうかは分からないが、「暴行清兵を斬首する図」という題の錦絵があり、警護の巡査の剣を奪って切りつけるなどした捕虜を処刑した様子を描いており、この事は当時の日本国内でもよく知られていたようである。

 一方、清軍が日本兵を捕虜とした場合は、もうそれは言うまでもないことであるが、さながら古代の報復主義的扱いとでも言うべきものであった。

 

平 壌 戦

 清国政府は7月初旬から兵を平壌に集中させ、初めその作戦は牙山付近に駐在する清軍と共に、京城付近の日本混成旅団を挟撃することにあった。
 しかし平壌に兵が十分に配備される以前に大島混成旅団によって牙山の清軍は撃退され、主将葉志超、副将聶士成ら残兵は多くの死傷者と大砲などを打ち捨てて敗走した。
 豊島沖海戦に於ける高陞号の清兵1100人と大砲12門などの撃沈と共に、日本軍の速戦が決した勝利であった。

 それにより守勢に転じざるを得なくなった清軍は策を平壌の防禦に決し、大工事を始めて橋頭堡を築造するなどし、時々偵察兵を中和まで派遣した。それにより、日本軍の騎兵斥候10人余りが清軍の騎歩兵の襲撃を受けて過半数が戦死することがあり、その後は清兵は黄州を経て鳳山まで姿を見せることがあった。

 平壌に於ける清軍兵力は増加し、8月中旬にはその数4万と号したが、平壌から前進する徴候は更になく、一方日本軍は、元山から、釜山から、仁川から、諸部隊が続々と京城に集結して第五師団の陣容を整えつつあり、よって野津道貫師団長は、平壌の清兵をなるべく東北南の三方から攻めて、西方すなわち海の方向に駆逐する目的を以って前進することに決した。(以上「第5師団戦闘報告 06062044500」p1〜p3より)

 日清戦争に於ける日本軍の戦闘は「殲滅戦」とは言い難いものがある。とりわけ朝鮮に居座り続ける清軍に対しては、これを朝鮮国外に駆逐することが第1の目標であったようである。

 後世、牙山・成歓に於ける戦闘で敗走する清兵をなぜ追撃して殲滅しなかったのかという意見があるが、それは当時の兵站能力からしても無理であるのみならず、先ずは牙山方面から清兵を駆逐して清の挟撃の策を粉砕し、以ってその威を朝鮮政府のみならず朝鮮人民に見せつけることこそが肝要であった。
 それは凱旋式という演出と共に、半分に減少していた京城人口を元に復させ、朝鮮政府をして日朝軍事同盟を結ばせるに至る成果を齎した。

 平壌に清軍を派遣していることを知った日本政府が師団規模に増兵するために新たに一旅団を派遣する中、日本軍は、敗走する葉志超ら率いる清兵の逃走経路を把握しながらも当然平壌の清軍に合流するであろうという予測を立てていた。そして編成なった師団の兵力を以って平壌の清軍もろとも撃退すればよいのである。よって平壌への攻撃も包囲戦を仕掛けながらも、清軍の敗走路は残して置かねばならなかった。ただし清領への退路ではなく西方海岸方面に。

 釜山から陸路水路を辿って8月19日に京城に到着した野津師団長はその日の内にそれらを決し、大島混成旅団長に同夜の内に開城府に向けて前進するよう命じた。また同夜に抱川に来着した柴田砲兵中佐に命じて、歩兵第12聯隊の第1大隊及び歩兵第21聯隊の第2大隊を合わせて、朔寧支隊を編成させ、これを同地から新渓、逐安、三登、江東を経て平壌に至らせることとした。


(以下、野津師団長による「第5師団戦闘報告 C06062044500」より、抜粋要約、()は筆者。)

 8月21日、大本営より、更に第3師団の混成旅団を朝鮮に派遣し、半分を元山に、半分を釜山から進ませ、共に野津の指揮下に置くことを電信。
 よって野津は釜山に向かう分も元山に上陸させられたしと返電。更に元山領事に駄牛馬千頭買い入れに着手するよう指示。この混成旅団を総て元山、陽徳、成川、慈山、順安を経て平壌の背後に進める計画からであった。

 8月22日、野津師団長は、元山に上陸予定の第3師団混成旅団に対し以下の訓令を送付。

・ 大部分は満州兵から成り、これに平安道の無頼の韓兵、地方の猟師、並びに牙山の残兵を加えた5、6千人の敵は、本月の初めより平壌に集中し、10日から凡そ1千5百の兵を大同江の左岸に派遣した。しかし黄州、鳳山を越えては前進しない。また、一報によれば、一部は元山に出て我が居留地を襲撃するを図っていると。
・ 第5師団の後発部隊はまだ釜山から京城に向かって前進中である。しかし本月末には全て到着するだろう。その上は余は一斉に北方に向かって前進を始めん。混成旅団は開城に。他の1支隊は朔寧に派遣している。
・ 混成旅団は開城から黄州を経て敵の正面に当たり、朔寧支隊は新渓、逐安、三登、江東を経て敵の側翼に当たり、貴旅団は徳源府、陽徳、成川、江東または慈山を経て順安路を取って敵の退路を断ち、而して余はその他の諸隊を率いて大島旅団を追う。
 要は、主力を敵の左側及び退路に向け、敵が西方即ち海側に逃げるほかないようにすることを期す。
・ 元山から陽徳、成川、平壌に至る道路は全く寒村あるのみで、糧食・運搬などの徴発ができる見込みはない。ただ重量軽く容積が少ない糧食を携持させて一意前進するを要する。
・ 最後部の1部隊は元山に駐屯させること。
・ 韓地に於て行軍する兵隊は、諸物品の買取のために韓銭を要するのでその用意がなければならない。
・ その他。

 8月24日、野津師団長の京城に於ける師団命令。
・ 敵は前進をせず。平壌付近大同江右岸にあって防禦をするようだ。
・ 敵の兵力は1万4、5千よりは多くないだろう。
・ 師団は新渓まで前進せんとす。
・ 大島混成旅団は、28日に開城を出発して29日夕までに先頭を南川(平山より少し北)に至らせ、平山との間で露営させる。
・ 朔寧支隊は29日に朔寧を出発し、31日までに新渓に達し、暫く露営して大島旅団と連絡するべし。
・ 本体の内、歩兵第22聯隊[2大隊]は立見少将が指揮し、26日に幕営地を出発して29日の夕までに開城に達して露営すべし。
・ 予は、なお暫し京城に留まり、目下京城に向かって行進中の残余諸隊を待って前進する。

 8月27日、歩兵第18聯隊の第1大隊が元山に上陸し、又残りの歩兵と騎兵、砲兵、工兵は、佐藤大佐の指揮で引き続き上陸するとの報があり、よって野津は次の電報命令を発した。

・ 貴官は9月1日に支隊と共に元山を発し、陽徳を経て9日にその先頭を成川に達せよ。
・ 立見少将は朔寧支隊を以って同日に三登にある筈である。貴官はこの日から同少将の指揮に従うべし。

 この27日から、元山支隊は先ずその1小部隊を陽徳に向けて前進をはじめた。

 8月29日、野津は開城の立見少将に次の訓令を与えた。

・ 敵の兵力は1万5千と言い、或いは2万5千と言い、詳らかではない。しかし予は1万5千と察する。最近の報に依れば、敵は4千内外の兵を平壌の外に、その他は平壌北方の義州路に沿って屯在し、大同江には駄馬が通過できる船橋を架設し、若干の前進哨を左岸地に出したのは確かのようである。
・ 予の令下に属する名古屋師団の混成旅団[大迫少将]は、全て元山に上陸する予定で、この内佐藤大佐の率いる支隊[元山支隊]は、歩兵第18聯隊、騎兵1小隊、山砲大隊、工兵大隊[1中隊欠]、衛生隊半部、兵站司令部2個は、本月末までに元山に上陸できる予定。
・ 予の元来の企画は、来月9日頃に、元山支隊を成川まで、朔寧支隊を三登まで、混成旅団を中和にまで、本隊は黄州まで、それぞれ前進し、その後に混成旅団は大同江を隔てて敵の正面に当たって敵の注目をこの方面に引き、その間に元山支隊は成川から慈山を経て順安に出、朔寧支隊は三登から江東を経て平壌に面し、本隊は出来れば黄州から進んで大同江を渡って平壌に出るか、もしくは黄州から江東に出て朔寧支隊に続く。
・ 差支なく布陣出来れば、来月15日を期して敵の正面及び側面と背面を攻撃する。
・ 敵が平壌から打って出るやも知れず、そのことを留意しておく事。
・ 予は9月1日に京城を出発する。

 8月31日、野津は師団命令を発して、京城に守備隊と兵站部隊などを残し、いよいよ明日に出発することを伝えた。

 9月1日、師団は京城を出発。行軍計画書通りに第1行進団隊は開城から南川までは富岡中佐、南川以北は柴田中佐の指揮で、また第2行進団隊は友安中佐の指揮で前進する。

 9月3日、大本営より電報。第3師団、第5師団を以って第1軍とし、陸軍大将山縣有朋をその司令官に任ずる。同官が到着するまでは野津がその任務を有すると。

 (かの長州奇兵隊軍監であった御大の登場である。朝鮮に来るのは初めての筈であり、後にはお腹を壊して日本に帰らされることになる。)

 9月6日、混成旅団の先頭が黄州に達した時に、清軍の騎兵数10人、歩兵若干と遭遇する。これを撃って逃走させる。

 9月10日、工兵第2中隊が師団に追いつく。馬場工兵少佐に大同江(十二浦から)の渡河作業を命じる。

 9月11日、行李など直接戦闘に必要ないものは全て黄州に留め置き、渡河する部隊には各人2日分の糧食を携行させること、また、第1行進団隊は今朝から、第2行進団隊は明朝から渡河を始めることを命じた。

 携行の糧食は7月29日の成歓の戦闘時には「パン」であった。しかしこれが評判良くない。後に歩兵第11連隊第3大隊長が報告しているが黴が生えるなどしてひどかったらしい。やはりパンは朝鮮軍のように直に食っちゃうのが正解か。(笑) by dreamtale氏資料

 さて、11日から大同江の十二浦から渡河するのに、工兵は苦労して20艘の大小の船をかき集めたが、構造劣悪なため翌日にはその3分の1が破損し、中には馬を運んでいた船が5里も流される事態となるなど、その渡河には困難を極めた。しかも先に渡河した部隊に1日分の糧食も送らねばならない。よって野津は船の断然調達を命じた。即ち「由テ断然愛ヲ絶テ」と。それにより押し買いしたか、分捕ったかまでは分からないが2艘の屈強の船が差し向けられた。
(おそらく高い値段で襤褸船を買わされていたのではなかろうか。よって非情になって調達して来いと。清軍ならば最初から非情であったろうに。)

 かくて師団本隊全部が渡河を終えるのに14日までかかった。

 9月13日の大島混成旅団の報告によれば、10日に中和付近で騎兵が清兵と戦闘となり、12日には、中和から前進中に清軍の1部が船で渡るのを追撃し、清兵将校以下10人を斃し、日本側には死傷なく、馬1頭が死んだのみであった。
 また、12日以来、平壌正面に迫る大島混成旅団に清軍が時々銃砲を開いて捜射をしたが当たる者はいなかった。

 他には、平壌市街を中央として左右に清軍の幕営8ヶ所があり、軍旗が林立し、王、聶、趙、印、周、馬、などの字が読め、或いは島に居る朝鮮人老若男女30人を招き寄せて食料や金銭を与えて避難をさせたところ、彼らが喜んで言うことに、清兵は平壌や付近で非常に暴威を振るい、また清兵は大同江付近に2万人、城郭南部高地に2万人いるとのことであった。

 9月14日には、師団本隊、混成旅団、朔寧支隊、元山支隊は以下の図のように平壌を包囲する形で迫った。

各軍隊区分は以下の通りであった。(8月31日付)

   混成大島旅団  司令官 大島少将
 歩兵第11聯隊
 同 第21聯隊[第2大隊欠く]
 騎兵第1中隊
 砲兵第3大隊
 工兵第1中隊
 衛生隊及び野戦病院 1個

   朔寧支隊  司令官 立見少将
 歩兵第12聯隊の1大隊[第1中隊欠く]
 同 第21聯隊の第2大隊[第8中隊欠く]
 騎兵第2中隊の1小隊と1分隊
 砲兵第1中隊

   元山支隊  司令官 佐藤歩兵大佐
 歩兵第18聯隊
 騎兵第3大隊の第1小隊
 砲兵第3聯隊の第1大隊
 工兵第3大隊[1中隊欠く]
 衛生隊

   京城守備隊  司令官 安満歩兵少佐
 歩兵第22聯隊の第2大隊[第5中隊欠く]京城屯在

   混成大迫旅団  司令官 大迫少将
 歩兵第6聯隊 元山屯在
 騎兵第3大隊の1中隊[第1小隊欠く]元山屯在

   本 隊
    第1行進団隊 司令官 柴田砲兵中佐
 歩兵第22聯隊[第2大隊欠く]
 砲兵第2大隊
    第2行進団隊 司令官 友安歩兵中佐
 歩兵第12聯隊[第1大隊欠く]
 騎兵第5大隊本部及び第2中隊[1小隊欠く]
 砲兵第1大隊[第1中隊欠く]
 工兵第5大隊[第1中隊欠く]

   電線掩護隊  司令官 原野歩兵大尉
 歩兵第21聯隊の第8中隊 洛東屯在

   兵站守備隊
 歩兵第22聯隊の第5中隊 仁川屯在
 同 第12聯隊の第1中隊 龍山屯在
 騎兵第2中隊の1分隊   龍山屯在

 

大島義昌少将の決心

 師団本隊が大同江を渡り終えるのに予想以上の日数を要したことから、行軍計画通りに9月15日の開戦時に師団本隊全部隊が参戦することが困難となった。よって野津師団長は14日に大島混成旅団長に、
「師団本隊は16日に朔寧元山両支隊の動静を見て平壌に前進する。貴官は先ずそれまでは敵の注目を貴官混成旅団の方に引き付け、敵がその左右と後方で我が軍から包囲されようとしているとの観念を起させないように尽力されたい。これは予が切に希望するところである。」と訓令。

 よって大島旅団長は、
「混成旅団と半大隊[奥山少佐]を船橋里から羊角島に向かわせて敵の右翼から平壌に攻め入る予定である。明朝から船橋里の敵の堡塁を攻撃して直接に敵を牽制する。我が兵の損害に於いておそらく大なるものがあろうが、止むを得ない状況である。これは、師団本隊が少し予定より到着が遅くなる事から、元山・朔寧の両隊が孤立して苦戦する事を考慮し、予は多少の危険を冒すが平壌攻落の目的を達することを決心したためである。師団長には本隊の先着部隊を以って我々の戦闘を赴援されることを希望する。」と返答した。

 城郭都市である平壌に篭って防禦戦を決した清軍は、城郭内外に堅固な堡塁を築いていた。その総数27ヶ所。
 まず城の南の外郭に15ヶ所。これは大同江の右岸すなわち平壌側の岸を起点として、長さ凡そ2000メートルに亘って高さ凡そ4メートルの堡塁を築き、堡塁の外側には深い壕を穿ち、所々に突出部を設けて側射の便も備え、且つ地雷を敷設したものであった。
 次に大同江を隔てた平壌反対側の船橋里と称する付近に5ヶ所。橋頭堡であって最も清軍がここで奮戦し、大島混成旅団を大いに苦しめた大堡塁である。
 また、城外北方山上に4ヶ所、城内牡丹台に1ヶ所、
城内北角内に2ヶ所。これらは朔寧元山両支隊が遭遇することになる。

 平壌戦に於ける日本軍の師団本隊、混成旅団、元山支隊、朔寧支隊の4軍の戦死傷者の総数は、戦死174名、負傷501名であった。
 その内、大島混成旅団が最も多く、その戦死者は総数の7割を超える128名となり、負傷者は290名と、その6割を占め、大島旅団長もまた負傷した。(いずれも「第5師団戦闘報告」によるもの。)
 混成旅団で消費した銃弾は96670個、砲弾は1461個に及び、旅団各隊の殆どで弾薬を使い果たし、銃剣を装着して敵の突撃に備えるという激しさであった。(なお、元山支隊が消費した銃弾は75184、大砲700、朔寧支隊が消費した銃弾は22173、砲弾443、師団本隊は不明。)

 大島は、上記の野津師団長の訓令に対する返答について、その決心を次のように述べている。

(「第5師団戦闘報告 C06062044500」p109)

 平壌侵入は行軍計画書に於て、実に9月15日と規定せられたり。而して今や師団本隊の行軍、其予定よりも遅緩したる為め師団長は明後16日、朔寧元山両支隊の動静を見、然る後平壌に前進せられんとす。此攻撃時日を延されしことは、朔寧元山両支隊長、之を知るや否や、若し知らずして在るならば、両支隊孤立して苦戦に陥らん。其兵力は両支隊合わせて歩兵五大隊弱、砲兵三中隊、工兵一中隊強に過ぎず。敵若し鋭意此方面のみに当ることありとせば、其危険蓋し多し。又両支隊の糧餉は十六日以後に亘るも之を支え得る乎、蓋し難からん。
 旅団は此友軍の危険を救わんが為め、是非十五日に於て先ず砲撃を試み、尋で船橋里の橋頭堡を陥落し、直接に敵に衝突して我が旅団の任務乃ち敵の注視を牽き、我兵の包囲運動をなしつゝありと云う観念を起さゞらしめんことを勉めざる可からず。
 然れども又他の一面よりすれば、元山朔寧両支隊も亦予定計画の如く行軍すること能わず。尚お平壌より遠距離に在らん乎、我旅団却て独り苦戦するに至らん。之れ乃ち先ず砲撃を以て友軍及敵の動静を観察せざる可らずと。

 

地名などは「第5師団戦闘報告 C06062044500」に基づく。但し「(地名)」は「参謀本部『明治廿七八年日清戦史』」による。

 

激 戦

 大島義昌少将率いる混成旅団が平壌近辺に到着したのは9月12日であった。直ちに大砲を敵陣営に打ち込んで清軍の様子を見る。

  (以下、野津師団長による「第5師団戦闘報告 C06062044500」より、抜粋要約、()は筆者。)

 9月12日に、大島混成旅団の本隊は平壌南方の水湾橋(八湾橋とも、後の「参謀本部『明治廿七八年日清戦史』」によれば「永済橋」とある。)から南方一キロ地点に到達。この頃前哨部隊が大同江を渡る清兵を水湾橋を越えて追撃した時に、対岸に敵の砲が約8門あるを見、また平壌正面手前の船橋里付近に清軍部隊が堡塁で防御していることを知り、前哨部隊は逐次退却して無事本隊に帰還した。その時、歩兵が騎兵の馬蹄に触れて2名が負傷した。


 同日午前11時50分、混成旅団左翼隊の分捕り砲小隊を、鄭朴洞高地に据え、平壌東端にある敵の大砲を砲撃。敵も応戦。しかし間もなく敵砲は沈黙した。要した砲撃射弾数50発であった。

 午後7時50分頃、清兵は盛んに平壌及び船橋里に於て銃砲を発した。おそらく日本軍が前進したと誤認したものと思われた。
 この夜、水湾橋南方一キロ付近の混成旅団露営地にも砲撃があった。但し損傷はなかった。その着弾を調べると、砲弾は7サンチ半の銅帯榴弾であった。

 9月13日、各方面から船橋里付近の敵情と地形偵察を時々出したが、いずれも敵の射撃を受けてその目的を達することが出来なかった。しかし大同江左岸の船橋里に2個の堡塁があることは疑いないことであったが、その構造までは探ることが出来なかった。

 午後4時半から左右砲隊の全砲で砲撃する。午後5時半に止める。柴田砲兵聯隊長の報告によれば、右翼隊の砲列陣地[中碑石洞]からは敵の大同江の軍橋を縦射できること、また敵左岸を射撃し好位置に着弾して10数人を斃した。また、敵の大砲は凡そ20門であろう。

 9月14日午前6時、師団長から本隊先頭が保山鎮に着いたとの電報に対し、正午から牽制の為めに砲撃を始め、明日早暁に主力を大同門に向け、2、3中隊を羊角島付近から渡河させて師団本隊に連携させる予定である、と返電。

 午前8時、各隊長に明日15日に攻撃にかかることを訓令する。

 正午より全砲兵を以て平壌及びその付近を砲撃する。敵は大同門近傍で3門の砲を開いたに過ぎず、今朝から敵は非常に静かである。
 午後2時20分砲撃を止める。
 分捕り砲で砲弾装填中に弾丸破裂して砲手5名が負傷。

 午後2時半、師団長から訓令が来る。16日に朔寧支隊及び元山支隊の動向を見て、その後に平壌に前進する。貴官は先ずそれまでは敵の注目を貴官混成旅団の方に引き付け、敵がその左右と後方で我が軍の包囲網がなされようとしているという観念を起させないように尽力されたい。これは予が切に希望するところである、と。

 これに対し大島義昌少将は、
 「混成旅団と半大隊[奥山少佐]を船橋里から羊角島に向かわせて敵の右翼から平壌に攻め入る予定である。これは師団本隊が予定より少し送れて到着することから、元山・朔寧の両隊が孤立して苦戦する事を考慮し、予は多少の危険を冒すが平壌攻落の目的を達せんと決心したためである。師団長は本隊の先着部隊を以って我々の戦闘を赴援されることを希望する。敵の幕営並びに天幕数は昨日と変わらないが、軍旗の数は大いに減じ、また幕営内の人の出入りも昨日に比すれば大いに減じた。但し左岸船橋里付近の橋頭堡は昨日と変わらず守備している。これらの状況から察するに、敵はその一部を他方向に移した疑いがある。」
と返答した。

(野津師団長は、午後11時頃にこの返答を受け取ったが、別に師団命令を変更することはなかった。)

 この日、大島少将は混成旅団を以下のように編成した。
 ・ 右翼隊として歩兵11聯隊の第2大隊と砲兵第3大隊と分捕り砲小隊、衛生隊半部など。
 ・ 中央隊として歩兵第21聯隊の第1大隊と第3大隊の2中隊、砲兵第2中隊と衛生半部など。
 ・ 左翼隊として歩兵第21聯隊第3大隊の2中隊など。
 ・ 予備隊としては歩兵11聯隊の第1大隊、工兵第1中隊(およそ2小隊)。
 ・ 他に独立騎兵中隊を1部隊、独立小隊を2部隊など。

 夜になって、中央隊の砲兵第2中隊[池田中尉]に水湾橋の前方およそ400メートルの地に肩墻を築かせ砲兵陣地とした。

 また、右翼隊の分捕り砲小隊を含む砲兵第3大隊は、中碑石洞東方の高地(中山洞)の位置に肩墻を築いて陣地とし、目標を遮る樹木を伐採して砲列を布いた。

 9月15日午前0時、左翼隊の第12中隊の1小隊を羊角島に渡し、早暁に大隊を渡河させるための船を回漕する護衛として進め、また敵岸に対する堡塁を構築させた。

 午前3時、中央隊は水湾橋の陣地を出発して前進した。また予備隊はこの後ろに続いた。
 左翼隊の第2中隊は羊角島に渡河を開始した。

 午前3時20分、中央隊の砲兵中隊は、昨夜築設した水湾橋前方400メートルの陣地に達し、直ちに敵の中央の砲台に向かって砲撃を開始した。

 午前3時40分、左翼隊の第12中隊が羊角島に渡河を開始した。

 午前4時前、中央隊の前哨が中碑石洞に於て敵の歩兵と遭遇し、前衛の第2中隊が展開してこれを射撃した。敵は敗退し、前衛はこれを追って森林の中を前進した。

 午前4時、右翼の歩兵第2大隊は、砲兵第3大隊の陣地の傍らに集合を終わり、続いて第5中隊を第一線とし、第6、第7中隊を予備として、船橋里橋頭堡(角面堡塁)の方向に前進を始めた。

 午前4時10分、右翼隊の第一線の第5中隊の右に第7中隊を配置し、正面を西北方に変えながら前進。

 午前4時15分、中央隊の本隊は中碑石洞の森林を進んでいたが、この時大同江対岸の敵の堡塁から砲撃を受ける。直ぐに右翼隊に連絡斥候を派遣。次いで第1中隊を増加し、戦線を進めて森林の北端に達する。前方を見ると僅か50メートル前方に堅牢なる角面の堡塁(A堡塁)があった。我が兵には拠るべき所なし。敵は堡塁から速射砲及び連発銃で盛んに射撃を始め、また大同江対岸の敵の砲陣[距離600メートル]からも猛烈なる側射をなす。我が兵決死奮闘、死傷者甚だ多し。

 午前4時20分、右翼隊の第一線の第5、第7中隊は、敵の角面堡塁に衝突し、容易にこれを奪取した。
 第7中隊は、逃げる敵を追って西進し、敵の南方橋頭堡(A、B堡塁)に対戦した。

 午前4時35分、中央隊の第9中隊を戦線の右翼に増加し、A堡塁の南方300メートルの森林に進む。しかし樹木が身を隠すほどのものではないので敵の堡塁から銃弾を受けることが甚だしかった。

 午前4時50分、中碑石洞東方高地(中山洞)を陣とする右翼隊の砲兵第3大隊は2200メートルの距離を以て、第5中隊は榴散弾、第6中隊は榴弾それぞれを敵の対岸にある左翼の堡塁に対して砲撃を開始した。また分捕り砲小隊も対岸の敵の左翼砲兵に対して砲撃を開始した。
 この時、未だ空は暗く又橋頭堡付近には敵味方の兵が接近しているので、橋頭堡に対しては砲撃をしなかった。

 午前5時過ぎ、右翼隊の砲兵第5中隊が前進して護衛の第8中隊と共に角面堡塁に到着し、その東側に砲列を布き、船橋里の橋頭堡(C堡塁)に向かって砲撃を始める。
 この後、C堡塁に向かった右翼隊の第2中隊の戦線も頗る激戦となるを予想して第5中隊の残余約1小隊を第2中隊の右に増加する。

(清軍側の厳重な警戒もあって、混成旅団が事前に偵察によって知り得たこの地の堡塁は「角面堡塁」と「C堡塁」だけで、機関砲などを装備した「A、B堡塁」のことは衝突するまで分からなかったらしい。)

 この頃、野津師団長は激しい砲声を耳にし、よって師団本隊に急行を命じた。

 一方、立見尚文少将率いる朔寧支隊は14日に平壌付近に到達し、夜になって軍需品を収めた大行李及び糧食縦列に対して付近の谷間に隠蔽して位置するように命じ、深夜各隊長に訓示した。

 各隊長を集め以下のように訓示した。
 先ずタミ山(蛇山)まで前進し、その後元山支隊と連合して敵の左翼の堡塁から攻撃し、漸次右翼に及ばんとす。この為、山口大隊、富田大隊、工兵少尉、騎兵小砲隊兵中隊の順序で、神大尉の偵察した道路を経てタミ山(蛇山)に向かって前進すべし。
 又昨日午後8時頃、元山支隊から中尉が1名来て言うのに、「元山支隊は坎北山を取るので御指揮を仰ぐ」と。
 よって同支隊長へ命令した。
「元山支隊は早暁に敵の左翼の堡塁を第一に攻撃すべし。朔寧支隊はその側面に迫る」と訓令した。

 朔寧支隊には衛生隊がないので、各隊の軍医、看護長、看護手を以て衛生隊となし、これに人夫60名、川上警部の率いる巡査を以て担架隊とした。

 本日(9月15日)午前1時に集合し直ちに出発する。

 昨日午前7時に大島少将のもとに差遣していた一等軍曹西岡逸太郎が午前1時少し過ぎに、大島少将からの返書を持ち帰る。それには、

「この小時前、師団長閣下より、師団本隊は予定通りに渡河することが出来ない。為めに今夜先着の軍隊を以て沙川に着く。よって明後日16日に朔寧元山両支隊の動静を見て、その後に平壌に前進する。それまでは平壌の敵を牽制するようにと達せられた。この訓令に対して予[大島少将]は、以下のように答申し且つ師団長閣下に対して先着の軍隊のみで我々の明日15日の戦闘を扶援されることを請求した。予は明日15日に1部を羊角島[中島]付近から右翼に向かわせ、首力を以て船橋里から平壌に攻め入る予定である。但し師団本隊の行進は予定よりも少し遅緩することを通報を接受して知ったが、貴支隊并に元山支隊の孤立して苦戦に陥るを顧慮し、予は危険を冒すも平壌攻落の目的を達せんとする。また師団長閣下に、既着[沙川]部隊を以て我々の戦闘を扶援せられることを請求した。思うにその1部はこの戦闘に参与することを得るだろう。予は以上の決心を以て明日15日午前8時前後には平壌に於いて貴閣下[立見少将]と握手して、天皇陛下の万歳を祝すことを期す。」

 午前4時過ぎ少し、タミ山(蛇山)の南方約700メートルに開進した。次に再び前進して砲兵陣地の東北東方約600メートルの小丘後ろに開進を始め、支隊長はなお敵陣を偵察し、次に左の命令を下した。
 第22聯隊第2大隊は左翼の高陵に沿い、第2砲台の方へ前進せよ。
 第12聯隊第1大隊はその右方に在って前進せよ。

 午前5時頃、第12聯隊第1大隊の先頭隊はA付近に、第21聯隊第2大隊の先頭もA付近に達し、共に敵に向かって第一弾を発し、続いてその付近に漸次散開し、戦闘を始めた。

 また砲兵中隊に命令を下した。
 速やかにこの高地[A]に砲列を布き、敵の堡塁[第3堡塁]に向かって射撃すべし。

 午前5時15分頃、Aに砲列を布き堡塁に向かって砲火を始める。その少し前、第3堡塁の敵は1門の砲で我が方を砲撃する。しかしその弾丸は高く飛び、1人の死傷も受ける者はいない。

 両大隊は前進し、その第21聯隊第2大隊の一部は一進一止し、6時過ぎに3面の吶喊により第2堡塁を略奪する。その第2堡塁を取る時などは、1中隊と1小隊の兵を以て24名の死傷を受け、この時旅団副官や中隊長などが負傷した。

 仮包帯所をAの砲兵陣地から東方約500メートルに開設する。

 第12聯隊の第1大隊と第21聯隊の第6中隊もこれに準じて前進し、第21聯隊第2大隊が第2堡塁を略奪すると同時にその一部は第3堡塁を略奪した。

 元山支隊の砲兵は坎北山に砲列を布き、歩兵は第2第3堡塁を落とすと同時に第5堡塁を落とした。このため第4堡塁は自ずと落ちた。
 敵は退いて牡丹台と本郭から応戦した。牡丹台の内郭の下にはガットリング砲1門を備えて猛射してくる。

 砲兵中隊へ左の命令を下した。
 前進して牡丹台及び本郭の敵を砲撃すべし。

 7時過ぎ、砲兵は第3堡塁の西側に接して砲列を布いて牡丹台に向かって砲火を開いた。

 8時過ぎ、牡丹台の敵兵は我砲撃に恐れて退却した。第21聯隊の2中隊はこれを占領した。砲兵は城櫓に向かって放火する。

 歩兵は牡丹台及びその西北高地を占領し、城壁の敵と対戦しているだけである。

 

 さて、佐藤正大佐率いる元山支隊は14日に坎北山付近で露営し、行軍計画どおりに翌日15日に平壌北西部から攻撃をすることに。

 午前5時、佐藤大佐は露営地に於て各隊長を集め次のように部隊任務を口達命令。

・ 支隊は即時に並峴の敵を左翼より攻撃。
・ 第1大隊長は第5中隊を併せて射撃部隊となり、支隊の進出を容易ならしむるを任務とする。
・ 第3大隊長は、江東橋店の西方から敵の左翼に迫って最も近い堡塁を攻撃すべし。
・ 第2大隊は第3大隊に続行すること。
・ 工兵第3大隊及び騎兵小隊は、砲兵陣地の後方に集合せよ。
・ 砲兵は直ぐに射撃を開始すべし。

 午前5時5分、攻撃運動に就く。同時に砲兵大隊は坎北山の陣地から最も近い堡塁に向かって射撃を開く。次いで歩兵第9中隊、工兵中隊をして援護射撃を行わせる。
 射撃部隊たる第1大隊及び第5中隊もまた射撃を開始し、第3大隊の進出を援護す。

 午前5時30分、第1大隊は最左翼に在る敵の砲兵陣地の北方高地に向かい前進する。

 午前6時、第2中隊が先ず高地に達し、第1、第3中隊、次いで到達し、猛烈の射撃を開始する。同時に第3大隊は江東橋店高地に西端に進み、第10、第11中隊を第一線として並峴西方の高地に前進した。

 同時刻、第9中隊、第8中隊の1小隊を前面の高地に至らせ、残りの2小隊及び工兵中隊を予備隊とした。

 午前6時20分、第4、第5中隊また前面の低丘を占領し、敵の右翼砲塁を射撃した。この時、敵味方互いの銃砲声最も盛んにして硝煙は朝霧と混じり殆ど視界が効かないぐらいとなった。

 午前6時50分頃から、最左翼の堡塁(第1堡塁)は敵が支えることが出来ず、またその砲も、我が砲兵の為めに損壊され、漸次退去した。この機に乗じ諸隊は等しく吶喊してその堡塁を抜き、次いで第2堡塁に及ぶ。

 午前7時15分、砲兵陣地を変えて第1堡塁のある高地に達し、第2、第3堡塁を猛撃。敵また支えることが出来ずに第2堡塁を捨てて走る。
 依て第1堡塁、第2堡塁拠り敗退する敵を追撃する。この時歩兵第1大隊最も力戦せり。同7時30分頃、第3堡塁も敵の射撃は大いに減じて支持できない情況を呈した。第1大隊長は第2中隊長に命じてこの堡塁に突入させた。丁度良く立見旅団の第4、第5中隊も続いて来て、3個の堡塁は全く我が軍に帰した。時に午前7時45分であった。

 

 朔寧、元山両支隊が順調に敵堡塁を落としていた頃、混成旅団の各隊は文字通りの死闘である。7時半頃には早くも弾薬が尽き始める。

 午前5時10分、混成旅団は予備隊の第1中隊を右翼隊の第2大隊の右に増加させた。

 午前5時20分、予備隊の第2中隊を右翼隊に増加して第1中隊の右にほぼ直角に戦線を作らせ、共にC堡塁に向かう。

 午前5時30分、右翼隊第3中隊を戦線に増加。

 同時刻、中央隊の前線に対して、敵兵が左翼より河岸の断崖を経て迂回して来て側射をする。第10中隊がこれを撃ち、突撃して敵の旗手2名を斃してこれを撃退する。

 この頃、中央隊の砲兵護衛の第3中隊長が我が軍の苦戦の模様を知って第1小隊を留めて他の2小隊を率いて橋頭堡に向かって前進した。

 午前5時40分、B堡塁に向かった右翼隊の左が薄弱で動揺せんとするので、予備隊から第3中隊の1小隊を増加した。

 午前6時、羊角島の左翼隊の第12中隊は本流の渡河を始め、各船が河の中央を通過する際に、俄然敵兵若干が右岸から射撃をしてくる。弾丸雨飛の中を船を進ませ、羊角島の第11中隊は築いた堡塁とその付近から応撃して渡河を援助する。対岸に達すると同時に敵兵に向かって急射撃を開始し、敵の兵力30名を敗走させた。

 同時刻、右翼隊の角面堡塁裏の外壕内で、負傷者の救急を行う。

 午前6時20分、中央隊の第1、第2、第4、第9中隊は、Aの堡塁に向かって突撃をする。しかし敵兵は猛烈なる射撃をし、河岸にある敵兵からも側射を受ける。且つ堡塁は高く外斜面も急で登ることが出来ず、大いに死傷を生じ、退いて旧位置を守備するに過ぎなかった。

 午前6時30分、中央隊の第3中隊長が率いて来た2小隊を直ぐに戦線に増加させる。

 この頃、敵のABCの堡塁からの射撃最も盛ん。また大同江対岸の敵砲兵も連続して砲撃して来る。

 7時15分、大島旅団長に次の報告が来る。
「角面堡塁そばの砲兵(右翼隊第5中隊)に負傷者多数。故に暫し砲撃を中止する。またABの橋頭堡に対し時々突撃を試みるが、敵は固守して動かず。」

 この頃、左翼隊は平壌西南2000メートル付近の村落を占領した。

 午前7時半頃、船橋里の敵堡塁に対し、平壌の敵兵が船橋を渡って弾薬補充、兵の交代、負傷者の運搬をするを見る。漸次敵砲は増加し、その砲撃は猛烈。敵橋頭堡からの射撃も益々盛んにして、我が砲兵は友軍が敵に接近したことにより敵堡塁を砲撃することが出来ない。中央隊は既に弾薬が少数となり十分な射撃が出来ない。ただ銃剣を装着して敵の弾薬が尽きるのを待つのみ。

 

 遅れていた師団本隊はこの頃漸く部隊前衛が戦地に到着し始め、陣容を整えつつあった。

 午前6時30分、師団本隊前衛の先頭が山川洞に達した時、平壌圍郭の西南部高地堡塁から初めて敵の砲銃火を受ける。止まって射撃を交換する。但し距離は1500メートルある。

 午前6時40分、砲兵第2中隊に命じて山川洞高地に陣地を占め、敵砲を沈黙させるよう命ずる。この砲兵は7時5分から射撃を開始した。距離1730メートル。
 前衛部隊の歩兵中隊を砲兵陣地の東北黍畑に位置させ、敵の歩兵に備えさせた。その他は砲兵陣地の西北谷間を進ませる。
 歩兵第12聯隊の第8中隊は6時20分から山川洞高地に置き、以って砲陣地の護衛を命じた。

 歩兵第12聯隊[友安中佐]に命じ、山川洞北方に展開させた。よってこの聯隊はその第2大隊を以って戦闘を始めた。そしてその第3大隊はこの時まだ数キロメートル後方を行進中であった。

 午前7時30分、新池洞に仮包帯所を開設する。この時衛生隊と野戦病院はなお後方1日ほどの地点を行軍中であった。
 歩兵第11聯隊の第3大隊は山川洞の谷内に開進する。
 この時に当たって歩兵第22聯隊は、第10中隊を以って百山北方高地(西成墳成洞)を、前衛の第11聯隊及び前衛本隊の第9、第12中隊を以って転じて漆峴東方の高地を占め、その第1及び第2中隊を漆峴に於て予備とし、且つ左側衛[今田支隊]と[ヨツタルマク]に於て連絡す。

 午前7時40分、歩兵第12聯隊は既にその第5第6中隊を以って敵堡塁から400メートルの所まで達していたが、命を下して、今から前進せずに、出来れば敵の銃火の危険界を避けて、背進しておくように命じた。これはこの堡塁を白昼に攻撃する事は徒に死傷を蒙るものを察したからである。よって同隊は追撃射撃を受けることなく、巧みに陰蔽地を利用して甑山街道に沿って漆峴近くに位置した。

 午前7時45分、敵の騎兵約1営[5百]が外郭の西門[暗門]付近に現れ、我が戦線を突貫する様子を見せたので、砲兵第3中隊は直にこれに向かって着弾砲撃を始めた。果してその騎兵は甑山街道を一列縦隊で疾駆し来るに会し、我が歩兵の大部分は急に正面を換え、急射撃をして、彼らの過半数を斃した。その残余は辛うじて山間の小路または黍畑に散乱して甑山方向に走ったが、小龍山付近にある我が独立騎兵は沈静して彼らが近付くのを待ち、突然襲撃して、彼の人馬30余を斬殺したので、散余の敵騎兵は僅かに4、5騎にも過ぎなかった。この時我が騎兵は未だ到着しないものもあって僅かに将校以下20名であったが、これに関せずかくも勇壮なる戦闘をしたのは感賞すべきである。

 午前8時、多数の敵騎兵が再び城外を出んとする徴候があることから、歩兵第11聯隊は第3大隊に命じて漆峴東方高地を占領するよう命じた。そしてこの大隊の先順中隊が高地に達した頃、敵騎兵3営[1500人]が果して再び疾駆してくるのを、我が砲兵は先ずこれを乱射して彼らを散乱させ、次いで我が歩兵全線がこれを急射撃をし、全く降雨の如き下に転倒して並び死なせ、殆ど一騎も余すことがなかったのは、誠に形容することもできない爽快であった。

 

 屡々無理な力攻めを試みる大島混成旅団と違って、朔寧支隊を率いる立見少将は、元山支隊の佐藤大佐にも無理をしないように指示した。

 8時15分に騎兵隊に次の命令を下す。
・ 敵は多分我が軍が前進した道路を逃走するかも計り難い。
・ 騎兵小隊は牡丹台と大同江の間を警戒すべし。

 8時30分頃、敵の騎兵及び歩兵の一部が西方甑山の方向に行くのを見た。よって退却するのであろうと察し、第12聯隊、第3中隊長に次の命令を下す。

 中隊は敵の小丘[城の西方で西から東に突出したもの]を占領せよ。

 9時以降は漸く持久戦の模様となる。

 9時7分、第21聯隊第6中隊長へ次の命令を下す。
・ 牡丹台と大同江との方向に敵兵が逃走するかも計り難い。
・ その中隊は同方向に向かい、これを撃捕するべし。
 後にこの方面には顧慮ないので更に第2堡塁に招致する。

 9時30分、第12聯隊第4中隊へ次のように命令する。
 中隊は左方牡丹台西方鞍部付近に集合すべし。

 10時少し前、朔寧、元山両支隊へ次の命令を下す。
 強いて肉迫するを止め、その地に在って時機を待たれよ。

 10時18分、佐藤大佐より伝令くる。
「城壁まで迫ったが、城壁を越えることが出来ない。よって少将閣下の御指揮を待つ。」

 同時に次の答えをする。
「最前既に命令した。その要旨は、強いて肉迫することを止め、その地に在って時機を待つべしというに在り。」

 

 その佐藤大佐率いる元山支隊も時に力攻めを試みた。玄武門への突入である。

 第1堡塁陥落後に歩兵第6中隊は、城郭北方の森林に進み、午前8時、三村中尉はその1中隊を率いて城郭の墻壁を乗り越え、玄武門を略奪開門して階上に上り、楼上の敵を射撃す。
 その距離極めて近く1百4、50メートルなので敵に制され頗る苦戦。殆ど止まることが出来ず、砲兵の援護によって僅かに支える。森久中尉の小隊及び歩兵第12聯隊の歩兵第2小隊が来援協力。以て玄武門を守備した。

 午前8時30分、第1大隊及び第5、第9中隊は、箕子の陵墓である松樹繁茂の高地を占領し、尚も進んで平壌城に入らんとするも、空壕深く、石塁塀壁高く且つ側射できるので容易に突入出来ないので、射撃を以て相対した。これより先、柴田少尉率いる1小隊と第12聯隊の位置小隊とが箕子廟の傍らに突進したが頗る苦戦した。

 午前9時、第3大隊は箕子廟所在の山下にあって予備隊となる。

 午後1時頃、敵兵約200、箕子陵墓の斜面が鬱蒼と茂るのを利用して我が隊の右翼に突入しようとした。第1、第4、第5中隊、これを逆撃する。

 午後1時30分、敵兵若干が城壁に沿って突進してくる。戦線の諸隊が撃ってこれを退ける。

 

 未だ1個の堡塁しか落としていない大島混成旅団は、この頃完全な膠着状態に陥っていた。

 午前8時前、清軍と混成旅団両軍の射撃が漸く衰える。しかし前進をしようとすれば猛火を受け、頭を上げれば狙撃されるので互いに対峙して動かず。

 午前8時、左翼の河岸から敵兵が迂回する虞があるので、中央隊第10中隊の1小隊を左翼に増加した。

 午前8時過ぎ、右翼隊砲兵第5中隊は肩墻を築いて再び砲撃を始める。但し後に徐々に射撃して間断ない程度に撃つ。
 この間、右翼各隊も掩堡を設けつつ徐々に前進する。(2時間で約10メートル)
 また、右翼隊第8中隊は角面堡塁に退却した。
 この間、ABの堡塁の敵兵は時々出撃を企てた。

 午前8時20分、左翼隊は第12中隊を以て平壌西南の村落の右翼を占領するべく前進中、突然敵の歩兵射撃を受ける。直ぐに1小隊を増加、更に第11中隊の1小隊に命じて敵の左側に迫らせる。

 午前9時、左翼隊の敵は漸次平壌方向に退却した。

 午前9時半、中央隊の砲兵隊長から、敵兵約200人が我が歩兵戦線の左翼河岸から前進してくるとの報により、砲兵護衛の第3中隊の残りである1小隊が、これを撃退せんとして前進した。

 午前10時、中央隊の第10中隊が突撃して敵の堡塁を略取する。この時、B堡塁と対岸から小銃射撃と砲撃による猛烈の十字砲火を受ける。中隊苦戦して応戦、しかし敵は益々盛んにしてB堡塁内の敵兵が軍旗6流を立てて逆襲に来る。中隊は退いて旧位置に戻る。また再び兵を集合させて突撃をしたが遂に奪取できなかった。

 この頃から、右翼隊、中央隊の弾薬は殆ど尽き、将校の多数を失い、また我が兵は朝食を取っていないので空腹甚だしく、また近くに一滴の水も無し。それに反して敵の歩兵と砲兵の射撃は益々盛んであり、我が兵は唯一の銃剣を頼んで敵の来襲あらば格闘するの一策あるのみ。

 午前10時15分、左翼隊の2中隊は、大同江堤防に沿って徐々に退却すること約300メートルにして、敵の1部隊[5、60名]が堤防方向に現れ、射撃してくる。よって第11中隊の1部隊を以てこれを撃退させた。

 午前10時30分頃、中央隊の第9中隊が角面堡塁に入る。よって敵の出撃があらばこれを逆襲する準備として、右翼隊の第6中隊の1小隊、同じく第8中隊と共に西面に位置し、右翼隊第4中隊を北面に向ける。

 また、砲兵護衛の第3中隊の第1小隊が応援に来るを直ぐに左翼に増加させる。

 午前10時45分、角面堡塁そばの砲兵第5中隊を旧陣地の中碑石洞東方の高地に撤退させる。

 午前11時過ぎ、中央隊の第2、第10中隊は、将校が倒れたるを以て、予備隊の工兵中隊長が諸兵を指揮した。その後に歩兵第21聯隊副官杉岡大尉が戦線指揮の為めに来る。
 しかし敵の射撃砲撃が激しく、我が方に拠るべき所なく、わずかに道路に沿って3個の家屋あるのと独立樹が散在するのみ。対岸の敵砲兵は我が兵の占拠した独立家屋に向かって頻りに砲撃をし、為めに1家屋を焼くに至った。

 

 平壌正面の清軍は一歩も引かない戦闘を続け、その守備範囲をよく防禦していた。しかし城内では清将や兵に動揺する者が少なくなく、既に午前8時半頃には戦闘を放棄して密かに逃亡を企てる者が続出した。

 午前8時30分、敵の歩兵約1営が外郭を越えて大同江に沿って沼と沢(外城二里、平川の方面)を潜行して西に向かって遁れ出たのを、我が(師団本隊の)砲兵が発見してこれに向かって砲撃を与え、よって彼らは隊伍を乱して潰走した。しかしこの敵の歩兵は我が戦線から著しく遠隔にあり、且つ葦草の中を通過したので、我が砲兵以外知る者がなく、ために我が歩兵を以って追撃することが出来なかったのは返す返すも遺憾であった。(「同上」p48より)

 清兵は師団本隊と大同江の間を抜けて江西方面に逃げていたのであるが、これは8月22日の野津師団長の訓令どおりに、西に逃げるほかないようにするとの目論見どおりのことだったのではなかったか。
 夜になっても同経路での逃走は続いたが、それを要撃するような軍の配置はしていないようである。

「師団の位置 九月十五日 (破線は)同夜、敵の走路」(「第5師団戦闘報告 C06062044500」p42より)
 なお義州街道方面に逃げた清兵(騎馬兵が主)はほぼ殲滅されている。実際は江西街道を逃げた歩兵の方が数としては多かったようである。また羊角島経由で平壌南部に向かった混成旅団左翼隊は撤退命令を受けて15日の夕5時までには露営地に戻っている。

 

 さて、午前10時頃から全線で銃砲撃の音が漸次下火になり、やがて午後になると日清全軍の攻防は膠着状態となり、この間、師団本隊は布陣を整え直したが、城外堡塁を全て落とした元山朔寧両支隊は平壌城壁の堅固なるをもって容易には攻めることが出来なくなり、混成旅団は0時20分、充分牽制策を尽くしたとして、ついに旧陣地(混成旅団露営地)への撤退を命じた。
 以下、師団本隊、混成旅団、朔寧支隊の様子である。

 (師団本隊は)この後(午前8時半以降)、我が砲兵は再び敵の砲兵に対して砲撃を開いたが、清軍の砲火は漸次衰えたことを以って遂に射撃を中止するに至った。
 これまで外郭にあって我が砲兵に対戦した敵の砲は3門であったようである。
 それより砲兵大隊長山内少佐は、左側支隊に位置する地で、平壌本部を砲撃し、以って元山、朔寧の支隊を応援できる陣地を選ぶように命じた。この高地は平壌内を砲撃するに最も有利であるからである。

 午前10時30分、敵の砲銃火は全く衰微した観があったので、歩兵第11聯隊第3大隊長松本少佐に命じ、その第12中隊は落合大尉に外郭の西門[暗門]に向かい、危険を侵さずに偵察に従事することを命じた。

 午前11時、諸隊の位置は次の通りである。

 歩兵第11聯隊の第3大隊は左側衛として漆峴東北高地の甑山街道に突出する部分に位置を占める。

 歩兵第12聯隊は、その第8中隊を以って百山北方高地(西成墳成洞)に位置を占め、第2大隊の3中隊及び第3大隊[岡見少佐]は漆峴に集合した。<この大隊は9時5分から戦闘に参加した。>

 歩兵第22聯隊はその第1及び第10中隊を以って、百山に於て江西街道左右に於ける高地を占め、その他の4中隊は同じく漆洞に集合している。

 この時に当たって敵の砲兵は、司令部所在の地に向かって再び砲撃を始め、暮に至るまで止めなかった。しかし我軍に全く被害はなかった。

 午後0時4分、偵察の落合大尉が戻り、「敵兵はなお陣地にあって動かず。且つ彼の射撃のために前進する事が出来なかった。しかし少しも損害なく背進した」と報じた。

 以上の偵察の結果と敵陣の景況を判断するに、到底本日に攻撃をすることの不利であるのを察した。まさしく彼の陣地は、長く高い土塁で、殊に左翼は一際高くなった丘であり、全正面を防禦すること恰も稜堡のようであり、しかも正面前には干潮の時でなければ徒歩出来ない泥濘質の幅の広い水流があり、且つその前の地は湿潤の畑地であって、白昼に敵火の下に攻撃すべきではない堅固なる陣地だからである。

 以上の理由により、明朝未明に敵の士気が阻喪するに乗じて、暗門及び義州門に向かって、2聯隊で前進することに決し、即刻、戦闘前哨を布陣した。それは以下のものであった。

 歩兵第11聯隊第3大隊の警戒線は、その左翼を左側衛に、右を甑山街道に延長する。歩兵第12聯隊の警戒線は甑山街道の東から西北に屈折する点に接する高地から山川洞の北方高地点。そして本隊は漆峴に位置した。

 歩兵第22聯隊は、3中隊を以って山川洞北方高地から百山の渡舟場までを警戒させ、その残りの3中隊は漆峴にいる。

 右の諸隊は防禦工事を施し、道路を阻絶して連絡を確保した。

 

 混成旅団

 正午より、(混成旅団)中央隊の第1、第2、第4、第9の各中隊は、損害を受けることが多いので、右翼隊が略取した角面堡塁に向かって漸次背進し、その堡塁に入って敵に対戦する。

 午後零時10分、各道の銃砲声が止み、戦闘中止の様相を呈する。
 我が旅団の将校以下の負傷者は時を追って増加し、中央隊の1、2中隊は全く弾薬を消費し、旅団司令部の護衛兵をして負傷者の弾薬や委棄した弾薬を集めて送らねばならない事態に至った。中央隊の砲兵中隊は既に砲弾600個を消費し、余すところ僅かとなった。

 よって大島旅団長は、我が旅団は既に十分に敵を牽制し、任務の大半を成し遂げたと判断し、旧陣地に背進することを決定した。
 ついては、敵の急襲を受けて敗走に至るかもしれず、よって参謀をして右翼隊と中央隊の各隊長に、その背進の意見を問わせ、危険なく背進が可能かどうかを問わせた。
 両隊の隊長は、共に「決して敗走に至らせるようなことはない」との意見であった。

 午後0時20分、大島は、「旅団は敵を旧陣地に引き付けてこれを殲滅するために、午後2時半になれば旧陣地に背進する」と命令。

 午後0時30分、左翼隊、大同江右岸[艾島西北方に対する堤防]に敵の下士哨のようなものがあるを見て、下士斥候を派遣して偵察させると、敵の騎兵6名、歩兵10名ばかりが集合していた。よって下士斥候が捕獲するために前進すると、敵兵は河に飛び込み、また北方百山方向に逃走した。その遺棄した乗馬1頭、連発銃3挺を収めて帰る。

 午後1時30分、左翼隊の平壌西南方の陣地そばの民家に、敵兵が火を放った。

 午後2時30分、右翼隊、中央隊、独立各隊は順次慎重に退却を始め、左翼隊も旧陣地に帰れと命令を受け、それぞれは午後5時までには旧陣地に全て到着した。この間、1名の死傷者も生じなかった。

 この日、混成旅団と対戦した敵兵の死傷は詳らかではないが、埋葬した死屍約100名があると、土民の言によれば戦闘中に右岸に運搬した数は500名に上ると。また戦闘中に橋梁を終始運搬していたのを以て見れば、その死傷者はその数を下らないだろう。

 

 朔寧支隊

 午後1時20分、(朔寧支隊立見少将は、)牡丹台に於て師団長へ次の報告をした。
 「両支隊は5個の堡塁を略奪し、城壁の敵と相対しあり。なお攻撃するに城壁は堅固であって、力攻めすれば徒に兵を損ずるのみ。御指揮を乞う。」
 この報告は第3中隊の所在に送付し、同中隊から送るはずであったが、次の理由により終に師団長に達することが出来なかった。

 同3時頃、前の報告を持ち帰った大野大尉から次の報告があった。
 「中隊は指名の点に達することが出来ない。これは城壁からの射撃が猛烈だからである。よって義州街道の付近にいる。」

 午後3時30分、次の命令を下す。
 ・ 支隊は今夜は現在の地に在って夜を徹する。
 ・ 諸隊は次の位置に就くべし。
   山口大隊は左翼牡丹台に、富田大隊はその右翼に、日没後に整頓すべし。但し城壁下に近接している者は、日没後にその隊に復帰させるべし。富田大隊は元山支隊と連絡するべし。
 ・ 大行李はその位置に荷物を卸し現在地に在るべし。
 ・ 縦列は長水院付近の谷間に露営すべし。
 ・ 給養は携帯糧秣給養とする。
 ・ 支隊本部は牡丹台の鳥居のある堡塁内に在る。午後10時に命令受領者を出すべし。
 備考 敵兵が今夜逃走するかも計り難い。宜しく注意すべし。
 以上の命令は元山支隊にも送付した。

 

左宝貴死す

 ところがこの間、清軍の中では一大事が起きていた。平壌清軍は一応は牙山敗軍の将葉志超を以て総帥としていたが、彼は戦う前から逃げ腰であった。しかし清軍4軍の一人、奉軍都総の左寶貴は平壌死守を強硬に主張し、実質上の平壌清軍総統提督となっていた。その左寶貴が午前10時前に戦死していたのである。すなわち、
「大戦の当日には総統左寶貴、乙密台(ウルミ台)に在て我朔寧元山支隊方面を防戦せしが、我砲兵の榴霰弾に斃さるゝや、士気大に衰え、午前十時頃、奉軍左営馬隊は甑山県の方向に逃走するや、我本隊の包撃する所となり悉く戦没し、営官徐昆山も亦斃されたり。」(「第5師団戦闘報告 C06062044500」p174より)と。
 もっとも後の「参謀本部『明治廿七八年日清戦史』第二巻二八三頁」によれば、「志気漸く阻喪し、葉志超、衞汝貴は茲に開城を議するに至れり。独り左寶貴は今や大事の已に去るを見て深く躬ら決する所あり。皇帝恩賜の正服を著け、午前十一時其手兵[隊数未詳]を提げ躬ら其先頭に立ち七星門より突進し、箕子陵に拠れる日本軍に向かい突撃を企てしが、渠は忽ち並峴高地より発射せられたる日本軍の砲弾に斃れ、部下皆散乱して城内に敗退せり。是より城兵の志気益々阻喪せり」とある。

 時間も死んだ場所も違っているのであるが、両方とも第五師団の各軍戦闘報告にある該当時間帯の記述にもそれらしいものはない。まあ戦闘時に敵の誰が死んだかなど分かるはずもないが、乙密台で指揮中に戦死したとあったのが、七星門から手兵を提げて突進して、しかも「皇帝恩賜の正服」を着けていた、という話になったのがどうしてかは今のところ不明である。中国のWebサイトでも、左寶貴は玄武門を守り、あるいは平壌北方を守備し、砲撃戦の最中に日本軍の砲弾によって戦死した、と記しているところが多いようである。

 後に清軍から押収した文書を訳した資料として次のようなものがある。平壌戦を報告した文書である。

(「九連城及安東縣に於て押収せし文書の摘訳」p16)

   盛京余宛   九月十九日   徐景濤

 左寶貴、豊陞阿は城の北を守り居りしが、十六日の夜、倭兵北山に登り砲撃を始めたり。我軍応戦相持し、翌日午前八時に至り銃丸は左寶貴の右肋を貫き、豊陞阿は重傷を負い、奉軍右営の金得鳳、奉軍親軍歩隊王定祥、周某の三営官は同時に戦死し、齋樹敬、揚建春の二人は負傷し、奉軍左営馬隊徐玉勝、揚建勝の二人は騎兵を率いて突出したるに、徐は馬より落ち、聶は行衛不明なり。又た■之は騎馬にて城を出でしが、倭兵に追い落とされたり。傳蘭農、錦少堂は何れも傷を負い倒れたるまゝ動かず。自分は無事に重圍の中より逃れ出でたること幸福なりき。

 月日は陽暦に換えて訳してあり、その時に間違えたのか、元文書がそうだったのかは分からないが、16日の夜を、14日の夜すなわち15日の0時過ぎとするなら辻褄が合う。つまりは15日の午前8時に死亡したとするなら、午前8時半頃に清兵の内に逃亡する者が出始めたことと合致する。それに清将一人一人に対する記述も具体的である。

 「参謀本部『明治廿七八年日清戦史』」のこの記述部分の元資料は何だろうか。もしかして、脚色?
 敵将を勇壮に描いて誉めたがるのは日本人の癖であるが、まあその内に該当資料が見つかるやも。

 

 そんな城内清軍の事情など知る由もない日本軍各隊はこのまま現地で夜を徹っすることに決した。

 

清軍降旗を掲げる

 ところが、午後4時頃になって城門やその付近で白旗が立った。明らかに清軍が掲げた降旗であった。
 それにより立見少将は手招きして軍使が来ることを促すが、なかなか来ない。やがて一人の朝鮮人が門外に現れて向かったのは元山支隊の方向であった。

 午後4時45分、城中の射撃が頓に止む。忽ち見る旗竿頭上に白旗が風に靡くを。

 よって射撃を中止させた。暫くして府使の遣であるとして、書簡を捧げてくる朝鮮人があった。よってこれを見ると、時恰も驟雨雷鳴に際し、全紙湿潤して展読することが出来ず、推読するに以下の文のようであった。

「平安道閔丙 致書干大日本領兵官麾下、現華兵已願退兵休譲諸照万国公法上戦候回○即揚白旂回国望勿開槍立候回書     閔丙奭」
(「平安道観察使閔丙奭は、書を大日本軍司令官に致す。現在中華兵は已に万国公法に照らし、休戦を願い白旗を掲げて国に戻らんとす。銃火を開くこと勿らんことを望む」と。)

  つまりは降参したから白旗を掲げて国に戻りたいという申し入れである。立見少将は桂副官を城に差し向けた。

 (ところで閔丙奭とはどこかで聞いた名前。かつて金玉均らを暗殺するためなのか、日本観光するためなのか、その訪日目的がよく分からなくなってしまった写真技師を政府に紹介した人である。)

 時に大雨大いに至る。その漸く晴れるを待って、桂副官に若干の兵を付し差遣し、続いて支隊長は支隊を率いてこれに続行した。

 まさに入城せんとする際、師団長のもとから杉山中尉が来て佐藤大佐に宛てた書面を持って来る。曰く、
 「予は本日午前8時を以て本隊の諸隊と共に山川洞、新池洞の線に達し、約2時間の戦闘の後、敵の騎兵70騎を倒し、7、8名を虜にした。10時後は、殆ど休戦の姿となった。これは敵陣地の堅固にして我より攻撃できない代わりに彼もまた出ず。互いに相持久している。予は明朝未明に全力を挙げて西門に向かって攻撃を試みる。貴官は力及ぶだけ予を援助すべし。貴官は直ぐに予の目的及び戦況の大略を報告すべし。」

 これに答えて言った。
 「中尉は帰って師団長閣下に上申せられよ。敵は降旗を上げて支隊は今から入城せんとする。」

 玄武門から南方約300メートルにある、牙城の内門前に至る。敵は門戸を閉鎖し、櫓上并に城壁から4、50名の兵が銃を携えて望見している。門戸を押すと少し開く。中に若干の兵がいる。砲車を横たえて門を塞いでいる。
 中の士官一名が隙間から筆談して言った。
「本日は日も既に没っしようとし、且つこの大雨なので、明早朝来るべし」と。
 桂が言うのに、
「門戸を開かないなら白旗を建ててもその効はない。速やかに降伏の実を挙げよ。」
 談判数回の後、彼が言うのに、
「鍵を取ってくるので暫し猶予してほしい」と合掌して去った。

 その後、一向に来ない。ゆえに櫓上の士官と談判するが言語不充分で意を尽くさない。且つ地形は頗る我に不利であって日もまた没した。ゆえに彼の乞いを許し旧位置に戻った。

 帰途、玄武門外で佐藤大佐に次の命令を下した。
 談判しても言語不充分で要領を得ない。明朝まで延期を約した。元山支隊は第4、第5の堡塁付近に位置に就くべし。

 午後9時の命令を下す。
 ・ 敵は本日降意を表し、明日を以て城を引き渡すことを約した。
 ・ 支隊は明日、現在の位置に在って敵の動静を待たんとす。
 ・ 諸隊は明日早暁より攻撃準備をして何分かの命令を待つべし。
 ・ 大行李はその位置に在って出発準備をするように。
 ・ 予は牡丹台にいる。

 夜間、我が支隊に向かって出てきた者は甚だ僅かに若干人のみ。

 実は白旗を掲げながら、その裏では逃亡する兵がいよいよ増し、折りしも午後6時ごろの豪雨に乗じて甑山方向に逃げる者も結構いたようである。しかし師団本隊ではそれを殺傷できたのは10分の1か2に過ぎなかったという。

 午後7時、独立騎兵から出した将校斥候が元山隊と連絡して戻り、(師団長に)報告するのに、「該支隊は今朝、敵の前進堡塁3個を抜き、目下箕子廟まで接近している」と。この情報は師団本隊戦闘のために大なる利益あるものであった。

 午後7時30分、元山支隊に派遣していた歩兵将校[杉山中尉]が戻って、「自分が立見少将に合った時に、この方面[元山、朔寧両支隊の所在地]は、敵が降伏旗を立てた時で、今まさに談判中である」と報じた。

 この時砲兵第4中隊もまた山川洞に到着したことを知らせてきた。

 この夜は6時頃から雷鳴暴雨暗黒であって、これに乗じて敵の逃亡兵夥しく、水流山谷の区別なく潜行して巧みに我が前哨の銃火を避け、甑山に向かって遁去した。天候は9時に至って漸く晴れた。しかしその後も闇に乗じて時々来る者があり、我が前哨がこれを射撃して終夜銃声が止むことがなかったが、殺傷できたのは10分の1か2に過ぎなかった。

 歩兵第12聯隊は薄暮に2個の有力なる将校斥候を出し、外塁前の河水の通否を偵察させたが、その西門に向かう者を庄司少尉が指揮する中、途中に時々優勢なる敵兵に遭遇したが、奮闘して数人を殺獲し銃器を奪って帰った。

 午後9時、師団命令を発す。

・ 師団は明朝3時を期して暗門及び義州門(文陽関)に向かって強襲を試みる。
・ 歩兵第12聯隊は目下警戒中の地域に1部隊を残し置き、そしてその他を以って義州門に向かい前進するべし。
・ 歩兵第22聯隊は同じく1部で江西街道を警戒し、その他の部隊は西門つまり暗門に向かって前進すべし。
・ 砲兵第2大隊は早暁より「ヨツタルマク」に陣地を占め、本隊の予の攻撃と元山、朔寧の両支隊を援助すべし。
・ 左側支隊はその位置にあって砲兵を護衛し、且つ予の攻撃を援助すべし。
・ 予は第11聯隊の第3大隊を以って第22聯隊に後続する。

 この夜10時頃、大行李所在地である山川洞に敵騎兵2、3が突進してくるに遭い、大行李長片山輜重兵大尉は行李付歩兵に命じて発砲してこれを斥けた。しかし敵の来襲を考えて各大行李に属する炊事兵或いは患者らを集合して銃手23名を得、且つ人夫中に日本刀を有する者を以って抜刀隊を作って警戒する。午後11時果して敵14、5騎が来る。よって撃ってこれを斥け、1騎を倒す。また16日の午前4時に敵騎40が再び来襲する。またこれを撃って斥け、2名を殺して1名を生捕りとした。

 元山支隊長佐藤正大佐は、午後6時過ぎに、立見旅団長から、「敵兵降参の意を表す。その支隊は平壌に入るべし」とあったので第1大隊から逐次入城せんとしたが、また命令があり、「入城を断られた。城外に宿営するべし」とあった。
 よって退いて本日略奪した堡塁に露営し、第11中隊を前哨に任じた。
 ところが夜9時過ぎ、元山支隊は突然夜襲を受けた。もっとも夜襲というよりも逃亡だったのだろう。

 午後9時過ぎ、俄然我が前哨線に敵の夜襲を受ける。第6、第9中隊を前哨に増加してこれを撃退した。以後3、40分または1時間毎に来襲する。ゆえに各隊を前哨線に増加し、各露営区域を守備させ、歩兵第10中隊及び工兵中隊を砲兵の護衛に充てる。

 この敵は、決死我が守備線を破って義州方位に退却せんとするもののようで、極めて頑強にも我が射撃下を侵して脱出を図った。しかし来襲毎に我が兵がこれを射撃し、空が明るくなるに至って止んだ。ためにその伏屍は道路に累積した。その適々脱して後方に至る者あるも、衛生隊或いは縦列付の者がこれを惨殺し、殆ど余すところがなかった。

 この夜、歩哨線の前で斃れる者200余り。その後方にあるものは数えることが出来ないほど。

 順安守備に駐留の歩兵第7中隊が脱走の敵兵1千2、3百名の者、10数名ないし200名の一団となり襲来したが、悉くこれを撃退した[15日、16日]。敵の死者5、60、負傷者未詳、我が兵即死1、負傷4、この敵兵の多くは僅かに抵抗の後、回避して義州路に退走した。

 城内の清軍は清将兵卒共に逃亡しつつあるのはもう明らかであった。よって師団本隊は16日午前3時を期して強襲するとしていたが、午前0時半には暗門、午前1時には義州門に向かって軍を進めた。

 9月16日午前1時、歩兵第12聯隊は、その第3大隊、第2大隊の順序を以って義州門に向かい、第22聯隊は0時30分、第12中隊を前衛[尖兵選抜48名から成る]とし、本隊は第11、第9、第10、及び第2中隊の順序を以って出発して西門(暗門)に向かう。

 両隊共に途中で時々敵の馬歩兵に遭遇したが、悉くこれを撃殺して門を奪い、進んで小憲門に至る。
 門堅く閉ず。終に門側の石壁を登って漸くこれを開かせた。時に午前3時であった。
 敵の残兵は南門に向かって敗走した。よって直に第10及び第12中隊をして前進して朔寧支隊と連絡させ、その他の諸隊を整頓して第12中隊を玄武門内の光風亭に留め、聯隊の残部を以って平壌城西部の蒼光山の堡塁を巡視し、再び漆峴に戻って命を待ったのは午前9時であった。

 午前2時20分、第12聯隊は一つも抵抗に遇うことなく義州門に達し、第3大隊を以て諸門を警備し、諸倉庫を占め、そして朔寧支隊と連絡し、第2大隊を以って再び漆峴に戻って命を待った。

 予は以上の2縦隊の攻撃の結果如何によって直に前進する決心であったが、3時の頃に平壌城内に於て我軍の行進譜を聞き、初めて該城塞が我が手に落ちたことを知った。

 砲兵第2大隊はその第3中隊を以て午前1時に漆峴の露営地を発し、新陣地に赴いて肩墻を築いて砲撃の準備をしたが、暁に至って我が攻撃方向で銃声を聞かず、返って終射の号音を聞くに至った。

 その第4中隊は百山に砲列を布き、15日から16日にわたる夜に於て、時々敵の馬歩兵が来て衝くに会い、散弾を発してこれを防いだ。

 午前5時、予は諸隊に命じて戦場を普く捜索し、敵の伏匿者を捕獲させたが、この日の夕方までに捕虜数百を得た。

 午前7時、予は平壌に入って全師団[元山支隊を込めて]を以て城内に舎営し各門を守備し野戦病院を開設し、負傷者は清兵我が兵共にこれを収容し、捕虜并に敵の遺留した金銭、糧食、兵器の収集を命じた。

 以下、野津道貫師団長は戦闘報告を次のように結んでいる。

 この日夕方までに調査したところによれば、師団本体の戦場のみに遺留した敵の死屍は230名、負傷者15名、死馬227頭、負傷馬23頭、捕虜300余名、その外に兵器軍旗衣服の類は充満してこれを数えることができない。また戦場外に倒死したもの、まだ発見できないものを合わせて、おそらく敵の死者は500を下らないだろう。

 また城内に於ては捕虜数10名、金塊銀塊を充たした大箱[各20貫の重量]4個、馬蹄銀1袋[30貫重量]、韓銭2万3千貫、大砲36門、その他小銃軍旗糧食の類、夥多であって未だこれら詳らかならず。

 我が師団本隊の諸兵は、11日から14日に亘り、十二浦を渡河してより険難の道路を昼夜兼行し、短くとも2昼夜、長きは3昼夜殆ど瞳を交えず疲労衰弱実に極まれりと雖も、士気豪壮、少しも撓まず、その戦闘に臨むや、沈静にして能く上官の命令に服し、一人として怯懦畏懼の者なく、奮戦して終にこの大勝利を得るに至った。

 また工兵大隊は10日から14日まで十二浦に於て、15日は保山鎮に於て師団本隊のために苦難渡河作業をなし、本隊の為めに糧食弾薬を運送し、またその1部は沙川に於て本隊の大行李及び砲兵段列の敵襲を防御するなど、尽力ともに至った。

 輜重及び弾薬大隊、衛生隊及び野戦病院もまた労苦事に従い、戦列部隊をして速やかに大功を遂げしめたのは国家の為めに誠に喜悦するべし。

  明治27年9月17日   第5師団長子爵 野津道貫

 なお平壌清軍は以下のような構成であった。

平壌城郭内守備
  左宝貴の奉軍3千5百人
  豊陞阿の奉天錬軍盛字営1千5百人

平壌城郭外守備
  衛汝貴の盛字軍6千人
  馬玉崑の毅字軍2千人
  葉志超の牙山残兵1千数百人

計1万4、5千人であった。(「第5師団戦闘報告 C06062044500」p154〜p158より)
 それに対して日本軍は1万4千人、実質的に戦闘に当ったのは1万2千人であった。

 さてこの平壌戦、各軍の行動について後世いろいろと言われているようだが、筆者は軍事に不案内であるので、そちらに詳しい方は直接資料に当たられたい。尚、この戦闘詳報が収められた簿冊『明治27年7月下旬〜明治27年12月中旬 「第1軍戦闘詳報其一」』は、戦闘のみならず軍装備などに関する文書も揃い、いわゆる軍オタと称される諸氏にとっては垂涎の資料であろうと想像する。

 

阿片中毒の清軍

 戦闘後に平壌城内を探索すると、清兵が阿片を吸うための館「煙館」が設けられていたことが明らかになった。

(「第5師団戦闘報告 C06062044500」p181)

   煙 館

 煙館は亜片煙を喫する所なり。四軍平壌に駐屯するに及び、来て南門外に煙館を開設する者四軒。其一人鳳凰城の者、楊得山に就て調査せし大要左の如し。

 煙館は南門外に四軒あり。毎館一日売る所、平均大約三十両目なりしと。
 一人一回喫煙の量、五分なるを以て四館の亜片を喫する者、一日平均二千四百人の比例とす。

 「あへんの乱用は、精神的、身体的依存性を生じやすく、常用するようになると慢性中毒症状を起こし、脱力感、倦怠感を感じるようになり、やがては精神錯乱を伴う衰弱状態になってしまいます。(埼玉県警察Webより)」とある。英国が清国に持ち込んで、いわゆるアヘン戦争にまで至った原因の薬物である。最初から逃げ腰だった葉志超などは、この中毒だったのかもしれない。持ち込んだ英国も狡猾であるが、それを自浄できない清国もまた愚かであった。

 

日本兵首級賞銀三十両
(以下、残酷な描写がありますのでご注意ください。)

 ところで戦死した左寶貴奉軍都総は次のように報奨金を出すことを通達していた。
「奪獲洋槍一棹者賞銀十二両、槍斃賊一名割取首級者賞銀三十両、生擒者賞銀六十両」
 すなわち、敵の銃を奪った場合は賞銀12両、敵を殺して首級を挙げた場合は賞銀30両、生け捕りした場合は賞銀60両と(当時清銀1両は日本円で凡そ1円50銭)。

 実際、平壌南門外の清営中に日本兵の遺体の一部が見つかっている。
 すなわち、
「平壌南門外の敵営中に、我が兵の首級及び手頭数個を発見せり。彼奴等賞銀を得んが為めに此残悪を為す。而して之れを為さしむる将師の意、実に悪むべし。」と。

 また押収した清軍書類の中に次のようなものもあった。
「前客月初十日、左軍探兵偶倭於中和、地面距平壌四十里[清里]、当与接伏倭兵受傷者十数名、殺斃七名、活捉一名、献俘軍次曹訊該虜所、書名西北(壮)平、牙山事皆未肯寡吐是、日下午遂梟」云々と。
 つまりは、8月10日頃に日本軍斥候騎兵が中和で戦死した出来事についての記述であり、清暦七月初十日(日本暦8月10日)、左宝貴の軍が偶々中和で日本兵が来るのを見て待ち伏せし、日本兵10数名を負傷させ、7名を殺し、1名を生け捕りにし、尋問したところ名を西北(壮)平と書いた。牙山のことを尋問したが吐かなかったので、午後に梟首刑つまりさらし首にしたというものである。
 (以上「第5師団戦闘報告 C06062044500」p165〜p166より、また「竹内少尉偵騎余聞」を参照。)

 この捕虜取り扱いに関しては、清国軍に於てはさながら古代から続く報復主義的扱いとでも言うべきものだったようである。
 11月22日に旅順口が日本軍の手に落ちるが、そこで捕虜となっていた偵察隊の日本人士官1名、兵卒11名の遺体が発見された。その身体は甚だしく割断されていた(「在天津某よりの報告」C06061856400のp4〜)という。つまりばらばら死体だったと。 その事の詳しい記述としては、日清戦争に従軍した人の著書として、伯爵亀井茲明の従軍記「従軍日乗」(出版は明治32年7月10日)がある。彼は「明治廿七八年戦役写真帖」の写真撮影をした人でもある。以下、極めて残酷な描写なので注意されたい。

(「従軍日乗」 二百七十七頁より 亀井茲明著 亀井茲常 明治32年7月10日発行、()は筆者)

 其の戦後の惨状実に見るに忍びず。我が戦死者の首級は悉く敵の奪う所となり、多くは左手を斬り、陰茎を取り、中には鼻を殺ぎ、眼球を抉ぐり、腹を裂きて砂礫を其中に充たしたるものあり。時に酷烈を極めたるは、騎兵喇叭卒某の死躰は首を截(き)り、四肢を断ち、胸部を割きて石塊を填充し、其の陰茎を絶ち、其の睾丸を切り取りたり。又、徐家窯一民家の側なる玉蜀黍(とうもろこし)の殻草の下に斃れたる一兵士は、同く其の首、其の右手を斬り去られ、其の腹部は切断せられ、又其睾丸の一方及陰茎の亀頭を切り去り、殆んど我兵士たるを認識するを得ず。唯僅に紀州ネルの襦袢と兵服の断片を胸部に纏いたるを以て、其の兵士たることを知得せりとぞ。

 其残忍酷薄、誰か眦裂扼腕憤慨せざるものあらんや。之を見聞する者は悲憤激昂、清兵の無状を憎み、甚だ我兵の惨死を憫み、竟に此の鼠賊の肉を啗わざれば飽かざるの気を生じ、我が兵気、愈振うに至れり。

 人の体を著しく損壊するのは、当時の中国・朝鮮に共通する文化のようである。この両国で依然として執行されていた凌遅刑の影響であろうか。

 「生きて虜囚の辱を受けず」とは、後世の東条英機の戦陣訓にある言葉であるが、すでにこの頃から日本軍の中では敵の虜になることの酷さを知っていたであろう。

 

牙山敗将葉志超の手紙

 平壌戦後、清軍が遺棄していった書類などが収集されて精査されているが、中に牙山から敗走した葉志超が、成歓・牙山戦のことについて述べた左寶貴宛ての手紙があった。

(「葉志超より左宝貴に与ふる書 我8月19日 清7月19日接手」より抜粋して現代語に。)

  葉志超から左寶貴に与える書 7月19日接受(日本暦8月19日)

(前略)
 6月26日(日本暦7月28日)の夜間に、倭兵の来襲を受けた。双方応戦すること2、3時間にわたった。後に敵兵は敗走したので聶士成は諸将と共に両山まで追撃し、倭兵1千余人を斬殺した。
 しかし、夜が明けた後に再び敵兵1万6千人が水陸四面から囲んで激しく発砲した。しかし再び追撃したが敵は地形のことを熟知していたので、却って我が兵の死傷者が多くなるだけと思い、天安に2営を隠し、地雷を布設し、敵を誘って一戦要撃する計画であったが、韓人の間諜が多いために敵兵が探知することとなったので、終にその功を挙げ得なかった。
 また敵軍は釜山の兵も招集して挟撃するだろうから、自分は退路を断じられて援兵もなく、4千人の人数で外国にいながら救いを呼んでも人はなく、その上、電報も軍艦とも疎隔されたから、止むを得ず戦い且つ走って忠清の2州に退き、又険しい山道をとって一先ず平康に到着した。この戦役で我が負傷は200人ほどである。
 (後略)

 清人は普通、日本兵のことを「日兵」と書くのだが、こういう時は「倭兵」と言うようだ。倭とは「矮小の人」という意味らしいから、蔑称であろう。
 倭兵を千人斬殺したとは、いかにも白髪三千丈の表現をする中国人らしい記述である。実際は日本側の損害は戦死10人、溺死24人、負傷54人である。
 また葉は、「援兵もなく救いを呼んでも人がいないので戦い且つ退いた」と言っているが、大砲などを遺棄したことには触れていない。勿論、日本軍から撃退されて敗走したに過ぎないことは明らかである。

 しかしこういうような言葉は、それを聞く中国人もまた話を割り引いて聞くのだろうか、それとも額面通り受け取るのだろうか。もし事実よりも願望を優先させるようなメンタリティだとすると(笑)、そのまま受け入れるということになろう。
 願望の余りに妄想を膨らませて歴史を捏造・改竄する民族がすぐ隣にいるが、中国人もよく似ているのかもしれない。

 と書いていたが、新たに「九連城及安東縣に於て押収せし文書の摘訳」なる資料を見つけた。

 後に九連城及び安東県で日本軍が押収した清軍の書類の中に、「葉志超の奏摺(上奏文)」というものがある(「九連城及安東縣に於て押収せし文書の摘訳」p24)
 そこで葉は牙山戦でのことを述べ、なお弾薬、糧餉、鍋碗、天幕などが欠乏したので、願わくば救済あらんことを乞う、という上奏文である。彼は戦果として、「各営勇を鼓して奮闘し兼て地雷を発す。血戦六時(間)、倭兵死者約千数百名。我軍幸いに先ず地の利を占むるも、亦将校数員と兵勇数百傷亡を生ぜり。」と述べている。
 左寶貴への手紙では千余人だったのが「約千数百人」となった。

 その上奏文に対する、返事としての上諭文(李鴻章によるものか)も見つかっている(同p26)。それによれば、葉に対して銀2万両を賞賜して励ますとし、葉の報告を電文報告も含めて復唱するように記述し、戦果としては「奮勇対敵鏖戦六時(間)の久しきに亘り、倭兵を殺すこと千七百余人。」と述べ、葉提督には平壌に至って大軍と合し諸将を統率するように、と述べている。

 お〜い、千余人が約千数百名になり、それを報告の受け手が千7百余人と断定するのは、なんで?
 どうやら割り引いてではなく、割り増して聞くらしい。
 中国人おもしろすぎ。

 尤も、葉の報告が嘘であったことが遂に明らかになったことを記述した文書(平壌戦闘中に葉が所在不明だったことなども)も見つかっているが。(同p29)

 

清将を弔う

 16日の平壌戦後、日本軍は戦場に在る日清両軍の死傷者などを収容し、武器類を片付ける「掃除隊」を派遣したが、師団本隊の戦場にて、50才前後の鬚薄く顔肥え身には全て絹の布を纏った者で本道のそばで苦しんでいる重傷者を発見した。また彼の側にいた他の負傷者は、己の痛みを忍んで水を与えて介抱していた。その威厳ある様子から、常人の者ではないものが感じられた。
 よってその報告を聞いた野津師団長は翌日に担架を持たせて迎えにやった。しかしその時には既に絶命していた。それで周囲に散乱していた書類を拾い集めて提出した。
 それを調べると、「直隷提督葉志超へ。成歓の賞として金3万両を給す」とあり、また葉の妻及び娘から彼に与えた数通の手紙、並びに彼の献白書と成歓での軍隊配布の略図などがあった。
 それで、その死者と衣服を清兵捕虜に示すと、高官の人でなければこのような美服は着ない、また南部の人に見える、満州の人ではない、と言う。(実際に誰であったかは不明。)
 よって野津は、清将葉志超ではなかろうか、として丁寧に葬ったと報告している。(「師団本隊の派遣せし掃除隊」C06061841200)

 また、清将左宝貴が斃れたと思われる地点にも、後に日本人が碑を建てたことは英国人イザベラ・バードが著書「朝鮮紀行」で触れ、「敵軍の名将に捧げた品位ある賛辞である。」と述べている。

 さて平壌戦における清軍の損害は精確には分からないが、9月19日に大本営から参謀本部の児玉少将に報告されたものでは、敵の死者約2千余名、負傷者は少なくともその倍、また捕虜となった者は清兵513名、朝鮮人14名、また収容した負傷者は清兵82名、朝鮮人2名とある。そして馬匹の倒れるもの無数と。(「9月19日 大本営 参謀本部 児玉少将」C06060037800 )
 尤も、その後も掃除隊が清兵負傷者などを見つけているから正確ではない。

 9月24日報告の「平壌にて分捕の大砲 野津師団長」によれば、分捕りの大砲類は、クルップ野砲4、山砲26、ガットリング機関砲6、また平壌北方の安州に遺棄していた野砲4門と、合計40門であった。(なお日本軍の砲撃によって破壊されたものが、それ以外に20門ばかりあった。また他に分捕りの武器類は、歩兵連発銃470挺、騎兵連発銃80挺、単発銃409挺、火縄銃201挺、拳銃5挺、小銃弾薬56万発、銃剣721本、薙刀15振、槍11本、支那刀380本などであった。)
 また9月26日騎兵斥候の報告によれば、安州とその先の定州との中間の嘉山郡では、清兵は既に逃亡していて不在であり、小銃弾薬20万発その他の武器類を遺棄していた。

 

清兵の朝鮮人への暴挙

 なおこの騎兵斥候の報告には、清兵が退却の際に津頭と嘉山郡で多数の現地人を殺害して家を焼いた、また定州でも多くの家が焼かれたようだ、とも報告している。(嘉山郡の敵状 山縣大将)
 この事については、平壌に於いて押収した「李鴻章より葉志超への通報」の文書にも記載されており、それによれば、義州と平壌間で清兵が沿道上の家を焼いて財を掠め、乱暴を極めたために人民が逃避し、清軍の人夫募集に非常に不便を来たしたことについて、李鴻章が各将統領に対して取締りを厳命したとある。(「大本営附製図部邱行 平壌に於て押収せし文書の抜萃」p5)

 更に後に九連城及び安東県に於いて押収した文書には、平壌にいる清将宛ての李鴻章の弁に、
「頃ろ視察委員の稟報に拠るに、義州平壌間数十里の間、商民均しく逃避し、竟に地方官も亦匿避するに至れり。前きに大軍通過の際、或は奪略を事とし、或は婦女を掠奪し、又は火を放て屋を焼き鍋損し碗砕くるが如き各種の事情、之を聞くも指髪の思い(怒り心頭の思い)あり。(九連城及安東縣に於て押収せし文書の摘訳」p12〜) 」とあって清兵の規律の悪さを激怒している。文書は8月30日であるから、平壌戦前に清の大軍が通過したことに対するものである。
 また、平壌近辺での清兵の横暴を清将に訴えた出た朝鮮人の文書もある。
・清軍の軍馬を田畑に放しているので黍、稗、栗、豆、粟が蹂躙され、軍糧を差し出す道がない。
・清兵が民家に突入して窓戸を壊し、什器を掠奪している。
・牛、馬、鶏、豚、米穀などを悉く掠奪された。今また家屋まで壊されている。
・銃を放ち剣を抜き横奪をしている。
(以上「九連城及安東縣に於て押収せし文書の摘訳」p12〜p15より。)

 あるいはまた28日の報告によれば、更に遺棄していた金銭が発見され、韓銭4787貫392文、銀塊32貫200目、日本紙幣5995円であったという。(分捕金銀報告 甲斐監督)
 先の報告(「9月23日 広島大本営 児玉少将宛」「9月19日 大本営 参謀本部 児玉少将」「9月20日 在平壌第5師団 吉田監督部長 野田野戦監督長官宛」) と合わせて、もうどれだけ略奪しまくっていたのか。清兵は戦争に来たと言うよりは、朝鮮に強盗に来ていたのではなかったろうかと言いたくなる。

 尤も捕虜の話によれば、清兵卒の給料は1ヶ月僅かに4両2銭(日本兵卒のおよそ半額)であって、その内から米代を差し引かれて3両余りとなり、更に実際の受領はそれより少なく衣食に事欠く程と言う(「第5師団戦闘報告 C06062044500」p175、p181)。あるいはまた、奉天から連れて来られた車夫は平壌に至っても1文の約束の給料も貰えず、僅かに1日古米2椀と塩を給されただけで、平壌では菜園から青菜を取って来て飢えをしのいだと言う(「同上」p183)
 おそらく給料や経費の相当分が将軍達の懐に入っていたのであろう。以って現地人から略奪していたその背景が伺われよう。

 朝鮮国も腐敗していたが、清国もまた同様だったようである。

 ちなみに、大島混成旅団の糧秣一覧表によれば、日本兵の糧食は以下のものであった。(「朝 22 6月27日野戦監督長」C06060055900)

 通常の兵食
精米、牛肉、獣肉魚肉缶詰、干し魚、高野豆腐、切昆布、干瓢、梅干、ラッキョウ、味噌漬、紅生姜、沢庵、奈良漬、茄子芥子漬

 携帯口糧
パン、獣肉・魚肉缶詰、佃煮、干し魚、食塩

 他に補助食品として鰹節、砂糖、醤油、醤油エキスなど。また、掲載されていないが当然お茶も含まれていよう。

 う〜ん、これに味噌汁があれば言うことはないが、野菜は現地調達だったのだろうか。

 

近世文明と野蛮の衝突

 在北京の米国公使館書記官ハワード・マーチンは、この年9月刊行の北米評論雑誌に論文を寄稿した。そこで彼は以下のように述べている。

(「日清交戦に関する「ハワード・マーチン氏」の意見」より抜粋して現代語に、文字強調は筆者。)

(略)
 日本は現に朝鮮に於ける、政治上、社交上、並びに商業上の進歩発達を企画し、鋭意これを実際に施すことを務めているが、一方において朝鮮人は無気力で不活発なのである。また他の一方には獰悪なる清国がこれに反対しているのである。為めに日本は未だ容易にその願いを達することが出来ていない。これに反してもしも清国が勝利を得るなら、朝鮮は再び逆走退歩し、永く東洋固有の怠慢、迷信、無智、排外的陋思想の範囲を脱することが出来ないだろう。これは要するに、日清両国の戦争は、日本が代表する近世の文明と、清国が代表する古代陳腐の文明、いや寧ろ野蛮との衝突であると言わねばならない。換言すれば、一方に於いては務めて国際法の条規を遵守維持せんとし、他の一方に於いては漫然属邦に対する一種の思想を貫通しようと欲するものである。
(略)

 日清戦争を評する有名なこの言葉は、北京在住の米国書記官の言葉だったのか。

 

 

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