日清戦争下の日本と朝鮮(4)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

 

「大同江畔清軍之本営攻撃」 明治27年 春斎年昌画

 京城に前進する様子もなく平壌に居座ったままの清軍営に対し、それを撃退するために大島旅団が大同江に達したのは9月12日であった。その他各隊が陣容を整えて攻撃を開始したのは9月15日。翌日の16日未明には清軍は敗退し、平壌は日本軍の手に落ちた。(9月16日 川上中将(広島) 参謀本部宛)

 

清軍、平壌から動かず

 さて5日の凱旋後の日清両軍の様子であるが、そのおおよそを混成旅団報告などから適当に抜粋して記したい。なお文中()は筆者。

 

8月7日

 仁川居留民、凱旋歓迎として清酒2樽を寄贈する。

 分捕った駄馬は僅かに10頭であった。

 大鳥公使は負傷者を見舞った。

 大本営2日に発電。清軍の盛字軍6営は7月24日に鴨緑江に上陸し、毅字軍4営、盛京省の歩騎軍数営と共に義州を経て京城に進み、盛字軍の残り6営は27、8日に鴨緑江に上陸する筈、と。
 ただし、平壌付近にいる我が歩兵と騎兵の将校からこれについての報告はまだない。

 去る29日に成歓で敗走した残兵は、清風、春川を経て陸路を逃げているとの確報を得た。たぶん平壌付近を通過するだろう。

 歩兵第12聯隊第2大隊は、4日に京城に向うはず。

 3日発の歩兵1大隊は元山津に上陸し、当分同地に置く予定。

 2中隊を8日に分遣隊とし出し、義州、大同江方面の敵情収集し、敵が前進する時は、臨津鎮方面に誘うこととす。

給養は沿道の及び任地の朝鮮官吏に請求してこれに弁じること。そのための朝鮮政府の公文を送付した。代償は全て本邦通貨を以って支払うことを同政府に約束している。

 兵站監より朝鮮人からの情報として。(成歓敗走の)清兵4千、1日に燕岐に宿泊、2日に清州に向う。兵器を持つ者は1千ばかり。病人は流落している。3日に清州を発し、忠州漣川に向う。伝聞によれば、春川などに入り咸鏡道に入る。
 清将聶士成、葉志超がおり、軍の半分は服を脱いで朝鮮服を着ている。馬夫の言によれば、病傷者は半分に達し、行路に困難。一日の行程は日本里で数里に過ぎないと。

(以上「混成旅団報告第23号 大島混成旅団長 8月10日」より)

 当初日本側では、清軍は当然京城に進攻するものと見ていたようである。
 成歓と牙山から敗走している清兵の情報は逐一掴んでいたようである。この後もその報告が続く。
 また日本軍は糧食などの代価を韓銭で支払っているが、これがまた大変なのだ。

 

8月8日

 臨津鎮より電報。
 支那人10名ばかりが全羅道より来て開城に潜んでいるようである。
 また平壌に居た日本人通訳が殺されたと韓人は言った、と。

 よって電達。(開城の)その支那人を取り調べ、武器を持つか抵抗すれば拘留せよ。外国人の従者或いは外国会社の召使であることが明瞭なら、通行を自由にさせよ、と。

 中和から報告。平壌に支那兵が近日中に来る噂が高い。当地では支那兵のために道を作り、米麦を集めている。渡舟も人を調べて日本人には決して渡させない。

 参謀より一戸大隊長に通牒。平壌の敵から危険を受けない地まで退き、敵を臨津鎮に誘うことが必要である。
 退く場合、元山の大隊は敵が平壌から前進した場合に朔寧に誘う予定なので、その方面に退くこと。その際、電信器械はなるべく保存しておくこと。

 釜山に上陸の1大隊は京城に急行する予定。

 臨津鎮から電報。平壌に支那兵1千5百人、その内騎兵50、大砲は10門、去る4日に到着。近日に5千の兵が来るとの間諜の報せあり。明日確めるために進む。
 中和で藁糧食を準備する朝鮮人は、次第に傲慢となっている。
 平壌の監司は任期が満了したので上京するはずであるが、支那人が押さえているとのこと。
 この報告を持って来た騎兵は、瑞興で韓人数百人から馬を取られた、と。

 平壌と漢城間の電線架設は見合わせる。開城と中和の間では韓人の妨害のために騎兵による逓信は出来ない。

 電信通信所に1人ずつ日本人の技手がいないなら大事を誤るおそれがある。工兵中尉に調査を命じた。

(以上「混成旅団報告第24号 大島混成旅団長 8月10日 於竜山幕営地」より)

 

8月9日

 京城と元山間に電線が必要なので修理を朝鮮政府に督促。修理させると返事。

 京城での諸電線業務の整頓、朔寧と臨津鎮間の電線架設計画を命じる。また日本人技手を開城と臨津鎮に送ることを命じた。朝鮮技手を使用しても不確実だからである。

 騎兵を平壌に差遣することに決す。

 義州から朝鮮政府に報告。支那兵の先鋒はすでに平壌に。後続兵は鴨緑江を渡りつつあると。平壌の監司は糧食を集めていると。

 平壌では、日本人で入ろうとする者があれば打ち殺すように通達が出ている。韓人でも厳重に取り調べなければ通過を許さずと。沿道は、平壌と鳳山間で大いに修理を加え、所々に橋梁をかけている。土人の言によれば、大同江に支那船が来る説もあるが、今は義州から陸路で来る説が多い、と。
 小林某の従者の韓人1名を平壌に入らせ、支那兵が来れば直に報告するように命じていると。

 平壌方面は頗る切迫している。

 報告によれば、4日に支那兵2千人が平壌に着く。沿道各府は米麦準備が盛ん。

 成歓戦闘後に敵の監視として残留させていた部隊が、捕虜とした清兵を取り調べた。21歳、成歓駅の民家に隠れていたと。

(以上「混成旅団報告第25号 大島混成旅団長 8月11日」より)

 

8月10日

 元山を距ること30里の鉄原にて土人の説によれば、支那兵の先鋒は当地に来ており、後から沢山来る筈と。故に鶏肉その他の食品を準備して置けと命令し、その先鋒は平壌に向ったと。牙山から春川を経て逃げてきたものという。

 電報によれば、安駉壽が述べたのに、
「平安道の監司から黄海道の監司に照会して、支那兵のために米穀の買入れを依頼したので、黄海道監司は集めている。韓廷はこれを制するが実力無し。日本軍で随意に取り押さえられて宜しい。」と。

(以上「混成旅団報告第26号 大島混成旅団長 8月11日」より)

 中央の力が地方に及ばないのが朝鮮という国である。杉村濬も、「古来、朝鮮国の制度は地方分権の最も甚だしきものにて、各道の観察使は兵刑財の三大権を掌握し居れば、平常は中央政府より指揮命令を受くるの必要なし。(「在韓苦心録」の「1 前編 2」p32)」と言っている。もちろん任官は中央政府がするらしいのであるが(実は売官であった)、その大き過ぎる権力ゆえに、暴利を貪ろうと勝手に防穀令を発したり、苛斂誅求をほしいままにするなどして、何かと問題を起こしていたのであった。

 

8月10日

 本日に於ける敵情並びに我軍の景況

敵情
 騎兵斥候の報告によれば、平壌に清兵2千名、大砲10門が到着し幕営している。近日中に前進する模様はない。

 朝鮮政府からの報告によれば、敵は黄海道、載寧、信川、安岳、長連などから米麦を集め、大同江より水運している。

 元山領事の使者報告によれば、牙山の敗残兵の先頭は去る8日に、鉄原の府使に、鶏、牛、米などを集めることを迫った。たぶん兵の大部分は春川府付近にいるようだ。また諸情報によれば、この付近に逃げる事ができた者はおよそ5百名で、その半数は銃器を携帯していない者のようである。


我軍
 騎兵斥候、秘密偵察歩兵将校は中和にいる。

 開城に歩兵1小隊がいる。

 臨津鎮と落花洞を守備する為め1中隊がいる。この隊から1小隊を明日11日早暁に出発で朔寧府付近に行かせ、敗残兵を撃攘させるはずである。

 接敵歩兵として、一戸少佐が2個中隊を率いて平壌に向って行進しつつあり。本日の夜に長端府に宿営するはずである。この隊は、現在開城府に電信を設けた応用電信支隊を連れていくはずである。また、黄州に至ったら、1部隊は大同江の川岸に止め、敵の水運を妨害するはずである。

 朔寧分遣隊として山口少佐が部下3中隊を率いて本日の夜に任地に赴くはず。その任務は平壌の敵が朔寧付近に迂回しようとするときは、これを防ぐことにある。この隊も応用電信支隊を同行する。

 元山領事の報告によれば、元山上陸の大隊は、5日に上陸し、翌6日から京城に向って出発していた。この部隊には敵情が確定するまでは元山に停止する訓令を、6日夜及び7日朝発で各道に飛脚を以って送った。元山から15、6里のところで遭遇し、訓令通りに引き返し、12日には元山に帰り着くことが出来るはずである。
 この大隊は、敵情によっては直ちに平壌に向わせるか、または朔寧付近に向わせるかはまだ決定していない。ただし、元山に戻る時に1個中隊を残置する予定である。

 釜山上陸の大隊は、去る4日に釜山を発して当地(京城)に向いつつあり。その行進予定によれば10日間で着京するようであるが、当国に於ては1日6里以上行進することはできない。このため本隊の到着は20日以降になると考えられる。

 仁川兵站守備隊に歩兵1中隊を置く。但しこの内から星峴及び梧柳洞に若干の分遣哨を置く。

 釜山守備中隊の内、2個小隊は現在電線架設の援護中であって、その他の1小隊は釜山に駐屯している。

 第2電信隊の援護として、歩兵1小隊を分遣している。本電信隊は一昨日8日の電報によれば、忠州の東南4里まで架線した。

 朝鮮王宮御守衛隊は歩兵1中隊
 京城公使館護衛隊は歩兵3中隊
 その外の諸隊は、龍山、及び阿星峴洞に幕営し、東南の諸道路を監視。


 電信の景況は以下である。

 仁川、京城間の軍用通信
 京城、龍山旅団司令部間
 旅団司令部及び龍山兵站監部間
 開城、臨津鎮、京城間
 京城、忠州付近間の第2電信枝隊の通信
 臨津鎮、朔寧間の未設電線

 以上のために支那朝鮮電報局の機械並びに朝鮮技手を全て使用しているが、機械と技手の不足並びに印字紙その他用材の不足には頗る困却した。


 赤痢と間歇熱病の者が稀にいるが、憂慮すべき情況には至っていない。
 現在、兵站病院に入院している者は、負傷者と合わせて約百名である。
 また、兵站病院は予備人員を備えておらず、且つ後送する手段も無いので、止むを得ずに1野戦病院を解体して充てている。

 歩兵隊員が元気であるのに比べ、砲兵と騎兵の馬の疲労が甚だしい。今日からおよそ10日間後でなければ充分に使用することは出来ない。そして韓馬は小さ過ぎて軍鞍を装着することが出来ない。馬の補充に頗る困却する。
 人馬に要する薬品は、当国に於いて一品も購入する事ができない。衛生上甚だ困却する。

 被服、装具、靴など、成歓駅戦闘のために夏服は全て、その他は10分の1を毀損した。その補充も当国では殆どする事は出来ない。

 負傷と戦死などのために、将校の欠員が甚だ多く、統御上作戦上の困難が甚だしい。

(以上「混成旅団参謀報告第8号 長岡混成旅団参謀 8月10日」より)

 夏の行軍は辛いもの。下の写真は日清戦争の時のものらしい。帽子の後ろに手拭を垂らして後頭部への日光の直射を防ぐようにしたのはこの時からのようである。アジ歴「兵站総監より 派遣兵及第5師団へ手巾支給の件」に、明治27年7月15日付兵站総監川上操六の上申として、「朝鮮へ派遣せし軍隊行軍途上、日射病に苦む者不尠。右は後頭に烈しく日光を受くるに由り生ずるもの故、各兵に木綿幅の金巾又は天竺木綿、長さ凡一尺五寸の手巾を給し、之を帽後に垂れしめたき野戦衛生長官の意見承認候に就ては右手巾至急調整・・・」とある。その後の日本軍のこのスタイルはずっと続いていく。

 

8月11日

 京城と春川間の電信開通した。春川と元山間は数日間不通。

 京城からの電報によれば、帝国海軍艦隊は、去る8日に大同江に至ったが、敵を見ず。直にその方向を威海衛に向け、9日の夜に同江を攻撃の予定。

 騎兵将校斥候の報告によれば、敵の騎兵1小隊、歩兵1中隊ばかりが、昨10日午前4時に中和に前進して停止した。更に前進する様子はない。

 会報
 これまで会報で秘密に達したもので往々に洩れた疑いがある。秘密を守らないなら敵情を報じることは出来ない。各官宜しく注意すべし。逆に、外国人に関する件がこれまで達しても、時々間違いを生じ、兵卒などは全く承知しないようである。現に昨日、歩兵第21聯隊が英国兵を止めた事があった。知るべきことを知らず、知るべきでないことを知るとは甚だ不都合である。

 平壌の敵情に変わりはない。

 京城と元山間の電信開通したとの通報あり。

 一戸少佐に、残り2中隊は明日に開城に進む筈。しかし危険を犯して進むな、特に夜襲を軽快すべし、と訓令。

 春川電信局より通知。支那兵の落武者が来るとの説があるが、まだ来ないと。

 第5師団の残部は釜山から京城に進むために、師団長が率いて8月6日に釜山に着いた。その内の歩兵2中隊あまりと砲兵1中隊は元山から京城に進むために、8月7日に釜山を出帆して元山に向った。その他の歩兵1大隊は8月8日に元山を発して共に京城に向っている。

 7日に、「大クウ」で暴動があった。大いに電信を破壊したために電信が通じない。護衛兵を呼び、建築卒を派遣した。暴動は何者なるかは分からない。忠州付近はその後は変わり無い。

 大同江に敵艦なし。帝国艦隊は威海衛に進む。

 臨津鎮から報告。平壌の支那兵は益々増加し、北方高地に1ヶ所、郭外に畑地に森林中に、5ヶ所幕営している。天幕の数は2百個以上である。兵員は4千人以上であろう。大同江左岸の2つの道路上にも兵士を百人ずつ配置して警戒している。

 支那兵の糧食は平壌の監司が全道の府使から徴収して給している。中和では30石を出した。

 支那兵は近日には上京しないものと判断する。

(以上「混成旅団報告第27」より)

 

8月12日

 本日、兵站部が集めた駄馬は総計190頭である。

 元山領事から大鳥公使に報告。本日入津の旅客中に、清国士官2名あり。当国偵察のためらしい。公使において異議無ければ、拘留すべき旨通達されたい。

 江花洞並びに仁川府地方に支那人はいない。

(以上「混成旅団報告第28号 大島混成旅団長 8月13日 龍山幕営地」より)

 

8月13日

 軍医部長より報告。昨日、急治の見込みの無い患者112名を後送す。

 旅団は、歩兵3大隊が臨津江に、他は京城にいる。第5師団の全部は、釜山と元山に上陸し、京城に向って行進中、

 平壌の敵は現在4千人。大本営の通知によれば、8千人になるだろう。

 海軍の威海衛攻撃は偵察に止めた。

 元山から京城への道と、釜山から京城への道とは村落の景況ほぼ同じ。水と樹木は元山の方に多い。

(以上「混成旅団報告第29号 大島混成旅団長 8月14日 於龍山幕営地」より)

 

 以下は平壌に潜入しているらしい渡邉鉄太郎(後に東学党の首領と会談することになる渡邊砲兵少佐と同一人物であろうか)という人物からの報告。

8月14日

 平壌に清兵4千5百名を4人の将官、馬大人、張大人、趙大人、愈大人が率いて来着した。

 平安道各地から砲手1千5百名を朝鮮監司の名を以って徴発している。平壌城門は朝鮮兵が歩哨している。清兵は舎営に哨兵を立てている。平安道の朝鮮兵は2百名であったが、今度京城から引上げた同道営兵4百名と合わせて6百名となった。

 清兵5千5百名が義州を南下するとのこと。前後合わせて1万人。尤も平壌には2千人を留め、8千人を率いて南下すると。これは朝鮮監司と清将が五順亭で会して商議するのを聞いた。またこのことを北京に電報している。

 平壌は清兵の掠奪が激しく、市民は前後を争って逃げ出している。清将は部下の兵4人を梟首して警告した。清兵は軍糧を持って来ておらず、皆朝鮮監司の供給を仰いでいる。

 清兵に殺された婦女がいる。そのため城内は騒ぎになっている。

 清将は大言を吐いて言った。「2万の清兵がまもなく仁川に来る。袁世凱氏がこれを率いる。次いで3万の兵士が日本を突くだろう。その時は、日本の力は朝鮮に及ばなくなる」と。

 清国兵が平壌に入る前は、人民が瓦礫を城壁の傍らに堆積して清兵に対して備えていたが、清兵が来ると奪い取られて、終に多くは逃げ散った。

 朝鮮監司は渡江船を厳に取り締まっている。

(以上「8月14日 渡邊鉄太郎(8月21日着)」より)

 清の大軍が占拠した平壌は、掠奪、殺人とかなりひどい情況だったようである。
 まあ清将も、見せしめに兵士4人を処刑して曝し首とし、兵の勝手な行動を戒めたようだが、軍律はあっても民度が民度であるから。

 続いて同日の混成旅団報告から。

 一戸少佐より報告。朝鮮人民はいたる所で好意を以って我が隊を迎えた。先発の朝鮮官吏、付属官吏の尽力が頗る少なくない。徴発物品は充分に我が請求に応じた。

 元山出発の日本軍は、京城に向って毎日4里くらい宛進行している。

 情報によれば、昨13日に春川に来た支那人は、軍装或いは商人の服装をし或いは武器も携え、民家で食品を掠奪して、夜に狼川地方に出発した、と。数は不詳であるが或いは5千人と伝える。

 長城里の南部に旅団のために良い幕営地がある。樹木多く水清く且つ多量。梨川店からこの地に通じる道がある。概ね平坦であり障碍は少ない。しかし歩兵1列でなければ行進し難い。

 朔寧に異常なし。しかし土人の説に支那兵3千人が来ると言う。

 広州探偵斥候の報告によれば、支那兵1千5百名が忠州、原州をへて現在春川の間に行進しつつあるようだ。内5百は兵器なく、本隊の前となり後ろとなり、土民を切迫して牛馬その他の物を奪っている様子である。残る千名は武器を持つ者もあり持たない者もある。将1名が乗馬している。服装は全て支那服。荷物はあっても弾薬様のものは見ない。平安道に向っている。[旅人からの情報。]

 洛花守備隊長に命令。隊に分捕り砲で編成した臨時編成の砲兵1小隊を属させる、と。

 大本営から電訓。7月23日の京城での小戦闘で取上げた朝鮮軍の武器を返還すること、陸軍士官を招聘して朝鮮兵士訓練に従事させること、よってその独立を鞏固ならしむること、について。詳細は郵便。

 元山から京城に向う歩兵2大隊と砲兵1大隊は、沿道に於ての糧食欠乏のために非常の困苦に陥っており、至急相当の糧食を差し向ける事がいる。しかし、兵站監は駄馬人足の徴発が困難なため満足な糧食が送れるかどうか。軍隊付の輸卒と人足から必要の数だけ残して、他は兵站監に使用しつつあり。

 平壌の清兵の一部が元山居留地を襲わんと企てるかもしれないことに注意を要する。

(以上「混成旅団報告 第30号 大島混成旅団長」より)

 兵站に苦しむのは相変わらず。

8月15日

 野津師団長宛発電。朝鮮政府の報告によれば、(平壌の)敵は漸次増加し、不日前進するもののようである。

 (牙山敗走の)敵は、昨夜鉄原に達し、多分今日明日の内に兎山に来るだろう。

 兎山城に到着の我が支隊の報告によれば、該地方には異常なし。人民は懇切である。

 釜山より報告。第5師団長は11日に大邱に着いた。
 立見少将は、兵1千人馬10頭を率いて13日に広島宇品を出帆のはず。

 在平山の村木少佐から電報。領官の言によれば、支那皇帝は、平安、黄海の監司に命を下し、新任監司には印綬を渡すべからず、もしこれに背くときは軍律で処分すると通達したと。黄海道監司は広州に来る。支那兵を迎接するためのようである。

(以上「混成旅団報告 第31号 大島混成旅団長 8月16日」より)

 

8月16日

 報告によれば、牙山から敗走した本軍は12日頃に春川付近にいる。確かに軍中に清将葉志超がいる、と。

 春川の役所に元山から電報2通が来、1は7日に日本兵が下ると、2は9日に下ると。再度の報に役人は日本の大兵が来ると思い、清兵もこれを耳にして大いに警戒して用心している。

 原昌に清兵が5、60名。葉将が来るのを待って春川に入ると。

 葉首将が率いる本軍と称する清兵は実際には、6百名内外であると。元山から我が大軍が春川に入ると聞いて、原昌を通過せずに進路を転じた。狼川或いは伊川地方に出るようである。
 清兵には、軍服を失っていない者がいる。また上衣と下衣が別の者もいる。即ち上は黒、下は白、立てる旗は赤である。
 行進の隊形は、2百名内外の兵に前進させ、斥候及び偵察をし、且つ徴発をさせ、それから3、4里後方に本軍がある。即ち純然たる警戒行軍である。

 抱川地方の人心は平静である。県吏はまた悪意なく、よく日本兵の世話をしている。土人も清兵が牙山で大敗したことを聞知しているが、却って京城韓廷が変革した事を知らない。

 金嘉鎮からの通知に、牙山敗走の清兵が糧食を準備せよと各地に文書を送っているので、その走路が推定できると。(日本側の情報と同じ。)
 その文書には、「天兵一百六十名、来到中和邑与倭相戦、倭漢三名即斬、二名生擒、朝鮮人偵察者、其時砲傷、清兵一陣、即為回事、而天兵行軍之期、姑未的知、以此意提票云々」とあったと。(もちろん、戦闘があった事実はなく、食料集めのための虚言であろう。)
 平安道は勿論、黄海道の半分は、全く清軍を誤解しているため、事情不穏当なので何とか道を付けて解決せねばならない、と。

 臨津鎮から電報。黄州付近に支那兵2千人あり。18日には端興に来るとの説あり。
 一戸少佐が、端興に向うので2中隊を送るように言ってきたが、兵を細かく分けるのは危険なので不可と。病兵は送り返し、夜襲に警戒せよと。

 午後6時、電信全通信が開く。

 野戦病院は患者の後送をせず、輸送部が当ること。死者の火葬は野戦病院に於いて担当することに定める。

(以上「混成旅団報告 第32号 大島混成旅団長 8月17日 龍山万里倉幕営地」より)

 清皇帝が平安道と黄海道の監司に直接に命令を下したと。やはり昔からこういうことが時にあったのだろうか。何しろ清兵のことを自ら「天兵」と言うぐらいだから。

 

同 日

 大島少将より参謀本部へ。
 平壌の敵の一部が大同江を越えて前進した模様がある。

(以上「8月17日 マンチヤリン 大島少将 参謀総長宛」より)

 

8月17日

 元山電報局長から領事への密告あり。
 平壌の北方約16里の支那街道上の安州から平壌までに、既に清兵が1万余り到着。監司に迫って米5千石を募っている。また大同江の下流で平壌から6里の保山に2千名余りを派して日本軍艦来襲を防禦するために砲台を建築中である、と。

(8月22日 京城 野津中将 参謀総長)

 

8月18日

 報告によれば、(牙山敗走の)清兵は、9日10日になって洪川に来て、12日には春川から狼川に向って進んでいる。病人と落伍者は15日になって洪川を通行し終る。人員は1千5百から1千7百で、兵器を携える者は10分の6。兵器は小銃と刀。砲はない。また輸送の弾薬はなく、軍旗は多数ある。馬はおよそ4、5百匹。2百は清馬。他は韓馬である、と。
 負傷者と病人30人ばかりが原州にいる。
 服装はだいたい清服を着す。中にはたまに朝鮮服を着て手拭などで頭を覆う者がある。
 糧食と韓銭はいたる所の群使及び府使に調達させている。府使は土民に厳命して用達させているという。
 荷物などは韓人に輸送させている。

 京城通信所から来電。元山へ電信全通す。

 現在の情況が持続するなら、一戸大隊を漸次開城付近まで退却させ、21日または22日に旅団をその地に集中し、3、4日間滞陣の上で前進する予定である。

 立見少将、釜山から電報。大本営の命により、本日歩兵2大隊と1中隊、騎兵2小隊、砲兵1大隊及び諸縦列からなる人員7317人、343の支隊(の乗る運送船は)、艦隊の援護を受けて南陽湾に進む、と。

(以上「混成旅団報告第34号 大島混成旅団長 8月19日」より)

 

8月20日

 立見少将率いる人馬は南陽湾馬山浦に、荷物は仁川に上陸するので、それに関しての(兵站の)準備を我が旅団に大本営から命令を受ける。
 旅団兵站監部は初めから甚だ小さく、4、5日前に忠州に1万人分3日間の糧秣を送るなど不時の任務で使い尽くし、明日21日に旅団が北進するための兵站すら困難を感じる時なので、頗る心痛した。
 馬山浦における上陸の困難さは牙山付近と同じと聞く。それならば先般支那兵は牙山に2千の兵を上陸させるのに2週間を費やしたことは事実である。よって立見少将の軍隊も馬山付近に上陸するのに多くの日にちを費やすことになる。ゆえに馬山付近の上陸を止めて人馬機材共に仁川に上陸させることにすれば、仁川に上陸するのは稍危険であるとはいえ、その速さから言っても却って安全である。

 師団長はこの意見を採用されたので陸上に於ける給養の用意も不要となった。

 敵の歩兵約2千人が(大同江を越えて)中和付近まで達したとの報は確実のようである。

 騎兵斥候の先頭は瑞興にあり。その援護として歩兵1小隊が同地で警戒す。

 一戸少佐は2中隊を以て南川店にあり。一戸少佐の他の2中隊は開城にあり。

 西島少佐は聯隊を以って臨津江にいる。

 山口少佐は部下3中隊、工兵1小隊と軍用電信支隊を率いて朔寧を守備す。

 成歓駅での分捕砲を以って編成した分捕砲小隊は洛花洞にあり。

 旅団は明日21日に出発して臨津鎮付近に至り、1泊または2泊し、先ず開城まで前進せんとす。

(以上「混成旅団報告第35号 大島旧混成旅団長 8月20日」より)

 「参謀本部編纂 明治二十七八年日清戦史 第二巻」p3には、「町口、竹内両士官は、八月十日、中和に出でて偵察中、敵の歩兵約百五十名、騎兵約五十名の掩撃する所と為り、騎卒三名、通弁二名と共に之に戦死し、旅団は茲に重要なる偵察機関を失いたり。」とあるので、清軍の小部隊おそらく偵察兵が平壌からある程度は出張って来ていたようである。で、20日報告の、歩兵2千人が中和付近まで云々は多過ぎ。
 まあ、日清戦争の全容を知るには、当然、正誤様々な情報を整理して10年後に出版された「参謀本部編纂 明治二十七八年日清戦史」を読むのが分かりやすいだろう。

 

釜山から陸路京城に

 さて、野津道貫第5師団長は8月6日に釜山に到着し、部隊を二手に分けて、一つを元山に向かわせ、一つは師団長自ら率いて釜山から陸路で京城に向かうことにした。
 釜山からの行軍は頗る困難なものであったが、以下その時の報告である。

(「師団報告第1号 野津第5師団長 8月24日」より、太字、()は筆者。)

 師団報告第壱号   九月二日着
   申報

 第三次出発部隊、即ち師団司令部及び各部隊、広島出発以来、釜山を経て京城に至るの経歴、左に報告す。

 其道路険悪、加うるに韓銭の欠乏、人足馬匹の不足等に依り、軍隊の行進に困難を窮むるの状況は、屡々電報を以て上申せし如く、其道路険悪なる代部分は石道にして且道路と称し難く、僅かに畦道に過ぎざるの部分間々あり、甚だ難路なり。

 乍去、一身の通過に於ては意とするに及ばざるも、行李の携行に於て窮めて困難なり。則ち多くの物品を携うれば、多数の人足を要す。韓夫を使用するの困難は甚だし[人夫を得るの難きと、其人夫の得るも其行進の緩慢、之を促すれば恐れて逃亡する等]。

 又、物品を地方に於て調達せんか実に周旋緩慢にして、遂に翌日の行進を止むるに至る。又、韓銭を携行させれば何事も便せず。之を携行せば夫れが為め人馬を要し、長途を携行する時は其携行人馬賃の為めに多額を費して用途に充つるを得るは僅々なり。

 是等困難と失費とは実に予想も及ばざる次第なり。道貫は、幕僚と騎兵一小隊を引率先行せしを以て、各部隊目下尚行進途上に在り。故に未だ悉く状況を得ずと雖ども、之を憂慮して其到着を待ちつゝある所なり。

八月五日 午前二時二十五分、熊本丸にて宇品を抜錨、続て各舩出港す。午後一時五十分、六連島に到着投錨す。是れ後続の各舩并に丸亀聯隊の諸舩に会合の為めなり。午後五時四十分、小倉丸に仙波参謀を乗せ釜山へ先発せしめ、同地上陸の諸準備をなさしむ。同九時出発。此時丸亀聯隊の乗舩未だ到着せず。之れが為め和歌浦丸を残し、右到着を待て同行せんことを命ず。

八月六日 午前九時十五分、釜山へ着港す。同十時十五分、上陸の命令を下し、順次上陸を始む。午後一時大本営へ向て一大隊を中路、其他は元山より上陸の決心なる者を電報す。是れ釜山到着の上聞知する所に依れば、中路の困難なることは兼て聞きしに勝りしを以てなり。依て各船の上陸を止む。

 此決心に依り歩兵第十二聯隊長友安中佐に、同聯隊第三大隊の三個中隊を引牽せしめ、翌朝出発、中路より前進を命じ、弾薬大隊と歩兵第十二聯隊第三大隊の一個中隊は、一時釜山に残留せしめ、其他は元山に舩行することとなし、仙波参謀を和歌浦丸に乗せ、元山へ先行せしむ。

 和歌浦丸は砲兵聯隊本部同第一大隊本部及び砲兵一中隊乗舩す。此後大本営より電報訓令あり。
 元山へ一部を派遣して其他は中路よりし且師団長は成るべく速に京城に達せんことを望むと。
 依て更に前の決心を変更し、第十二聯隊第一大隊の乗舩、遠江丸を元山へ向くることとなす。

八月七日 午前七時より中路行各部隊を上陸せしむ。

八月八日 午前四時五十分釜山出発、午後二時二十分梁山着。
 此間、砂眷洞の峠あり。車輌の通過素より望みなしと雖ども、馬匹又甚だ困難を窮む。本日此の早着せしものは、初日人馬を顧慮したるなり。

八月九日 午前四時五十分、梁山出発、午後六時三十分密陽着、本日途上に於て友安聯隊長の行進に会する所、炎天難路の為め兵卒疲労する者多く、其状況尚長途の行進深く患者を顧慮する為の背嚢を脱し、之を河舟に依て釜山に返し、同地より舩便仁川に送することを命じ、且釜山に在る古川兵站監に命令して後発部隊も同様の取斗いを為さしむ。

八月十日 午前五時三十分密陽出発、午后二時二十五分清道着す。各所共韓吏、外見上我為めに周旋するものゝ如し雖ども、真実然らざるものゝ如く、且諸事甚だ緩慢にして、何事も更に便せず。故に各所共、懇々我出兵の理由を解説し、始めて稍了解するの有様なり。

八月十一日 午前五時清道出発、午後四時三十分大邱に着す。此間八所嶺あり。頗る急峻なりと雖ども、道路石礫の多からざるが為め甚しき困難を覚るに至らざりし。然るに此日行進中、午前十時頃、韓馬に乗り急行し来る一士官の会す。之れ在大邱半田少佐よりの八月十日午后四時三十分発報告を携帯したる井野口中尉なり。

 其報告にいわく、
 去る四日釜山出発以来、今日に至る七日間にして僅々三十里を前進し、本日大邱府に達したりと雖ども、頼むべき当府は韓銭交換は固より、韓人雇入[給養諸品運搬■韓銭の運搬等に要す]に就き、殊に大困難にして、今日の出発も期し難き不幸に遭遇し、殆んど進退相谷りたり。之に依て将来を推せり。実に歩兵一大隊の行進すら斯く障碍を来し、已を得ず速に前進する能わざるのみならず、師団の前進には重大なる関係を有するものと相考え、時に井野口中尉を派し、右の景況上申且つ御指揮を乞うとあり。

 井野口中尉より聞く処も右に同じ。依て井野口中尉に左の命令を授け復帰せしむ。

 予は本夕大邱に到着するを以て、夫れ迄命令を待つべし。

 引続き上田参謀長を急行せしめ、大邱に至り半田少佐及同地兵站司令官松村少佐[松村少佐は之れより先き二日に大邱に着せり]に就き、尚現状を確知し、監司と談判の上、臨機の処置を為すべきを以てす。

 同日夕、大邱に到着するや已に上田参謀長は大邱監司と談判中なりし。間もなく帰来、左の報告を為したり。

 小官到着、直に半田・村松両少佐に就き実況を聞くに、既に井野口中尉の持来りたる報告と異なるなし。尚両少佐よりも之れより先き、監司に我軍隊の便利を与うべき旨談判したるに、監司も成し得る限り尽力するとのことなれど、一切其実を挙ぐること能わずと[前任の監司転任し、目下の監司は本月七日に赴任せり。此の談判をなせしは八月十一日のことなりし]。

 依て直に監司に面接、抑も今回朝鮮国の為め大日本帝国より多数の軍隊を派遣するに至りたる要旨より引て、将来朝鮮国の独立を鞏固ならしめ、相提携して事を為すの必要より、我帝国は義の為めに茲に尽すの精神を示し、遂に朝鮮国も我軍隊行進の為めには又糧秣及び人夫徴集、韓銭交換等如きは、最も尽力し、之に報ぜざるを得ざるの理由を説述したり。

 監司も一層感ずる処あり。彼れ答うるに、本官の力の及ぶ限り尽さんことを盟じたり。

 茲に於て人夫の徴集より韓銭の交換等即時に着手、我軍隊をして寸時も神速行進を起すことを得せしむべき旨を請求せしに、監司之を諾したり[韓人の常として、事に処す緩慢なるを以て時刻に制限を与えんと思考せしも、先ず本夜まで其其実施の景況を見んが為め、之が制限を付せざりしと]。

 前陳の次第上田参謀長は複命せり[尚仏国宣教師等を使用し、大邱地方付近の財産家にして大凡そ韓銭貯蔵等の景況を探偵せしめ置き、監司遂に請求を果し得ざるときは、此の財産家を指名し、断然徴発を執行せしめんが為めなり]。

 午後九時に及ぶも我より請求の件に不、監司の実効未だ顕れざるを以て再び上田参謀長をして監司に接し、実況を尋問せしめ、果して緩慢急に其実を挙る目的なければ、臨機強硬なる談判を為すべき旨を訓示したり。

 上田参謀長監司に就き尋問するに果て其実施緩慢[監司は非常に尽力を為し居るも赴任の日尚浅く、実施意の如くならず]、到底監司に一任し置けば目的を達する能わざるを断定し、曩に探偵し置きたる財産家を指名し、今より徴発を実行せんことを望む。若し監司の力、之を為す能わざれば、我兵力を以て徴発を援助すべしと厳談に及びたるに、茲に於て監司弥意を決し、即刻より右の財産家を召換し、韓銭交換のことを厳達し、急速之を徴発するを以て、兵力の援助は暫時見合られたしとなり、上田参謀長は此の監司の言は稍々信用を置くに足るが如く認むるも、尚韓人の緩慢を疑い、小官は夜を徹するも当庁を去らず、即時召換して韓銭交換の命令あらんことを傍観せんと請う。

 監司曰く、
 貴官の目前に於て召喚上を発し、引続き着手し、明早朝其実況を報告せん。故に一先貴官は退庁せられんことを望むと云う。

 依て右の召喚状発送を見認し、早朝実況相違なく通知あらんことを盟て、上田参謀長は其旨を複命せり。
 干時午前一時なりし

八月十二日 午前六時、大邱府の官吏[監司の次官]、参謀長の許に到り爾後厳命を下し辛うじて左の韓銭交換の道を付けたり。然れども一時に之を調達するの難いくきを以て、今明両日間に於て之を果さんとなり。

 総額千五十貫文[実際調いたる額は左の如し]。

   内 第一日に三百貫文
      第二日に二百貫文
  但し、残額は続て調達せしめ後続部隊の用に充し為め之れを大邱兵站司令官松村少佐に命じ置きたり。

 尚其他百方力を尽し、地方人民に就て直接韓銭の若干を交換し得たり。又監司の尽力に依り、荷物は沿道逓伝送致の法を設け、各隊の先発者は沿道官庁に就き、所用の人馬を要求せば、官吏は之に応じ人馬を召集し、軍隊の大小行李等、伝送の便を得せしめんこととせり。
 監司は慶尚道各府県部に布達し、忠清道及京畿道の監司にも通牒し、其人夫賃銭は該隊京城着の上、官庁を経て本人に支給することとなり。為めに韓銭運送の数を減じ、随て人夫の需要も大に減少するを得たり。

 茲を以て漸く半田少佐の大隊行進を起すを得、其他の後続部隊も行進に便利を得るに至りたり。

 道貫は、其他沿道府司に就き、自ら親く本邦出兵の主旨より将来朝鮮国の為め等を説話し、尚上田参謀長をして之を説話せしめたり。
 多くの官吏はは茲に於て大に日本帝国の義気を感ずるものゝ如し。
 茲を以て推するに、今回の事に就ても、地方官の如きは頗る迂遠、実に驚くべし。

 而して大邱に於ける景況は大鳥公使に電報し、尚朝鮮政府よりも全道に関文を発せんことを請求し、又逓伝法を設けたる旨を古川兵站監へも同じ電報を発し置きたり。其后道貫、洛東に到りしとき、朝鮮政府の関文を全道に発したる大鳥公使の通報に接し、又島嶺にて再度の関文を受領したり。
 茲に於て、最先発者たりし外務省雇浅山謙蔵に之を持たせ、沿道官庁に示すこととし、為めに大に便益を得るに至りたり。

 今回釜山沿道に於て辛うじて軍隊行進を為し得るに至りたるは、大邱監司の周旋大に預ら力あり。
 京城到着後、大鳥公使に其旨を伝え、統理衙門へも通知せしめたり[本項は沿道各管庁との関係なるを以て、道貫、京城到着までの分を茲に纏めて記述せり]。

八月十三日 午前五時四十五分大邱出発、午後七時二十分、仁同え着す。

八月十四日 午前四時三十分仁同出発、午後七時四十分、尚州着。途上洛東に於て第一電信架設隊長吉見少佐に会し、電信架設の状況等を聞き、且朝鮮政府より我軍隊通行沿道の府使等へ令して、軍隊に便利を与うべき旨の関文を領す。之れより先き行進甚だ困難に付、大鳥公使に電報を発し、朝鮮政府より沿道に令達して行進に便利を与うるの取計を望めり。

八月十五日 午前五時尚州出発、午后七時五分聞慶着。

八月十六日 午前四時三十五分聞慶出発、午后七時忠州へ着す。本日は有名なる島嶺あり。登路急なるに非らざるも、道路特に険悪にして始終岩石の間を経過し、所としては傾斜ある板石の上を通過するを以て馬匹転倒し、起くれば又倒れ、其倒るゝの多きは五、六回に及ぶものあり。然れども幸い馬匹の傷く者なかりし。
 当付近電信架設支隊あわじを以て、後続部隊通過の為めに工事を命ぜり。

八月十七日 午前五時忠州出発、同第十時、可興着。此地は第二軍用電信架設隊長馬場少佐所在の地なり。当地より水路行の為め、人馬共に乗舩す。馬匹は一舩三頭とし、騎兵及び馬丁之れに属し、別に一艘を将校以下に充、糧秣二日分を用意し、午後一時出発。水流緩慢なり。且昼夜兼行の約なりと雖ども、緩慢なる韓人、夜間休泊の慮(虞?)あるを以て各舩起番を設けて督促をなさしめ、最尾舩に下士及び通弁人を置き、以て残留舩無らしむ。

八月十八日 午後九時三十分広津へ着舩す。

八月十九日 広津より上陸、京城に向う。京城外、大島旅団長以下出迎をなす。同九時四十分京城に着す。午後大鳥公使に会す。
 釜山街道行進の諸隊漸次到着するも、尚最終部隊到着の上、詳細報告すべし。不取敢右申報す。

 明治二十七年八月二十四日
     第五師団長子爵野津道貫
  参謀総長熾仁親王殿

 釜山から、梁山、密陽、清道、大邱、仁同、尚州、聞慶、忠州、そして可興からは漢江支流を水路で広津(現在の京城市広津区)に。全行程の5分の1ぐらいが船であったと。実に困難な行軍だったようである。
 しかし報告前文に、「是等困難と失費とは実に予想も及ばざる次第なり。」とある。
 いやいや、もう朝鮮国土の実情とその民度というか、人柄国柄が日本とはあまりに違っていることは充分分かっていたことではなかったのか。一通り外交資料を読んだだけでも・・・とは思うが、情報の共有が当時の政府内でも充分ではなかったと。そしてこれは今も同じか。
 しかしまあ周到な準備もしないまま成り行きで戦争を始めたということが、この報告でも伺えるものであり、兵站に関する一連の不手際はこの後も続いていく。

 で、大邱でやっとの思いで交換できた韓銭も僅かに三百貫文と二百貫文と。
 一方、この後の9月の平壌戦で敗走した清軍が遺棄していった韓銭は、6万7千貫文もの大金。兵糧は精米2千7百10石、雑穀6百石と大量であった。その他金塊銀塊がざくざく。(「9月23日 広島大本営 児玉少将宛」「9月19日 大本営 参謀本部 児玉少将」「9月20日 在平壌第5師団 吉田監督部長 野田野戦監督長官宛」)
 町の規模の違いはあろうが、大邱も大きな市場か開かれる所であったし、まあ清軍は平壌で略奪しまくっていたわけだが。それにしても韓銭の多さは異常である。

 また上記旅団報告10日の文にあるように、韓馬は小さ過ぎて日本用の軍鞍を装着することが出来ず、騎兵の馬の補充に頗る困却したとあるが、当然、朝鮮軍で使用している騎兵用の馬を求めたのであろうから、やはり朝鮮の馬は荷を運ばせる駄馬のみならず騎兵用の馬も小さかったようである。

 野津師団長の報告には、難所で馬が何度も転倒したが幸いケガはなかったとある。これも韓馬であったろうか。韓馬は体躯は矮小ながらも力は強かったようである。牙山戦闘後の報告に次のようなものがある。
「韓馬の食、平素大豆を煮て之を与う。故に肉肥え力強し。今回従軍に際し大麦を与えしが、始めは之を食わず。依て時々民家に就き大豆を煮て与えしも、後ち、之を為すの暇なく、終には韓馬も餓に至り、能く大麦をも食するに至れり。」(「7月7日〜8月5日 報告(二) 工兵第1小隊」p11)
朝鮮の馬はかわいくて〜(見た目は)

 

朝鮮政府、新体制に

 さて、この頃の朝鮮政府の動きを杉村濬の「在韓苦心録」から記す。

(「在韓苦心録」の「1 前編 2」p29〜p32 )

 軍国機務会議に於て取調たる新官制は、国王の御裁可を得て、八月十三日を以て発表せられたり。其概要左の如し。

 議政府は旧に仍て之を存すれども、領議政一人を置き、左右議政を置かず、領議政の下に左右参賛を置けり。

 六曹を廃して、外務、内務、度支、軍務、法務、学務、農商、及び工務の八衙門を置き、各衙門に大臣一人、協弁一人、参議若干[已上高等官]、主事若干人[判任官]を置き、協弁は大臣を補翼し、参議は各局の長に充て、主事は官房付属の外務局に分属せり。

 各官の階級は、領議政を正一品とし、各衙門大臣は従一品とし、已下順を遂うて等列せり。但し、主事に正四品より正六品に至る五等あり。

 左右捕盗庁を廃して警務庁を置き、警務使一人、警務官若干人[已上高等官]、総巡若干人[判任官にして我警部に相当す]を任ぜり。新に巡検五百名を募りて京城内外の警察に任ぜしめたり。

 同十五日、新官制に従て任命を受けたる人々左の如し。

  議政府
   領議政 金宏集  左賛成 金壽鉉  右賛成 李允承

  外務衙門 大臣 金允植  協弁 金嘉鎮

  内務衙門 大臣 閔泳達  協弁 李呵O

  度支衙門 大臣 魚允中 協弁 金喜洙

  軍務衙門 大臣 李景遠 協弁 趙義淵

  法務衙門 大臣 李用求 協弁 金鶴羽

  学務衙門 大臣 朴定陽 協弁 鄭敬源

  農商衙門 大臣 厳世永 協弁 鄭秉夏

  工務衙門 大臣 徐正淳 協弁 韓耆東

  警務使  安駉壽

 議政府八衙門の外に、宮内府を置て専ら宮中事務を担当せり。宮内大臣は李載冕にして、協弁は金宗漢、任ぜらる。

 其後各大臣協弁の更迭ありしも、金領議政を始め、金外務、魚度支、朴学務及び軍務の趙義淵、法務の金鶴羽等は動かず、各々主務衙門の骨髄と呼ばれたり。

 なお「度支」とは、日本で言う「財政」のことである。
 ほぼ日本が出した改革案の内容に沿っており、中でも「内外政務と宮中事務と判然区別を立て、宮中に奉仕する官吏をして、一切政務に干渉せしめざること。」と提示した通り、宮中事務を別に設けている。尤も、これで政務に対して宮中からの干渉が止むという保証はない。
 また、かつて「三履」と呼ばれていた金宏集、金允植、魚允中は「骨髄」と呼ばれるようになったと。能ある人材少なき朝鮮の治政者中では、まあ井上馨も認めていた人物ではある。

 さて、形は整ったが問題は中身である。また地方政治の改革にも取り組まねばならないのだが。

 (「在韓苦心録」の「1 前編 2」p32〜p33 )

 扨、新官制既に成り、各大臣已下皆任命せられたるに付、八月二十日を期して開庁せんとて、急に旧議政府及び六曹の建物を掃除し、又は修繕を加えたり。
 本来、各官衙の建造方は一の堂宇に似て執務の為めには甚だ不便なりしも、他に適当の家屋なければ、不得止之を修補し、二十日迄には僅に開庁し得るに至れり。

 然るに、開庁に及んでも外務、度支、軍務及警務庁等の外、幾んど一の事務なく、新に任命せられたる多数の官吏は無事に苦み、官吏の出勤には、吸煙具、便器の外に、敷茣蓙、木枕等を賚らせ、衙門内の各室は一時午睡官吏を以て満たされたることあり。[当時某衙門に唯一、具の筆硯を備え、各官用事あれば更る々々之を使用したることあり。以て其大概を推測すべし。]

 右の形勢に至りしは実に無理なきことなり。古来朝鮮国の制度は、地方分権の最も甚だしきものにて、各道の観察使は兵刑財の三大権を掌握し居れば、平常は中央政府より指揮命令を受くるの必要なし。故に中央政府は自然中央丈けの事さえ為せば、用足ることにて、今新官制に依て、俄に各衙門を開きたりとて、決して新事務の生ずべき道理なし。
 殊に朝鮮人は懶惰にして自ら進んで事を企てざる方なれば、午睡官吏を以て庁内に満たされたるも宜なりと謂うべし。

 お〜い、官吏も昼寝してる場合かよ、まったく。それも寝ゴザ付き枕付きの職場って・・・・。
 しかし「朝鮮人は懶惰」である、と言う語を朝鮮関連の公文書の中で何度見たろうか。もちろん日本人から見て、自分たちに比べてそう見えたということである。まして朝鮮を舞台に日清が戦争をしている時であるから余計にそのような思いに駈られたであろう。

 しかしまあ、明治9年に宮本小一が京城に来て、便所もなく不潔極まりない街の姿に呆れてから20年近く経つというのに、まったく変わりなかったようである。朝鮮で便所を設けて部屋持込の便器を廃したのは何時からなのだろうか。やはり統治時代になってからであろうか。
 この年7月に日本政府は、朴泳孝がかつて国王宛の建白を書いたものを入手して記録しているが、それにも衛生上の改革を進言した文中に、

「自宮殿庭掖、以閭巷街道川梁、塵芥成丘陵、屎糞如塗金、此外人之所大畏、而誹笑者也。不啻所見、極其不美、其蒸発之気、必醸成疫癘也。」(「韓国人朴泳孝建白書」p23)
「王宮後宮から村里、道路、橋にいたるまで、塵芥が丘陵を成し、屎糞は金を塗る如し。これ外国人が大いに恐れるところであり、また嘲笑するものである。見て極めて美しくないだけでなく、その蒸気は必ず疫病を醸成するものである。」

とある。う〜ん、金を塗る如し、とは凄まじい。

 

 さて改革の旗手に祭りあげられた大院君であるが、守旧家たるこの人が新体制を本心から快しとするはずもなく、その新制定の法律規則なども無視するようになって来ていた。
 以下、大院君に関する8月31日付の大鳥からの報告である。

(「明治27年8月1日から明治27年8月31日」p57より抜粋)

機密一七六号 本一〇〇
朝鮮政府内政改革進行の模様一般

(略)

 大院君は、入闕後は専ら改革派の意見に曲従し、軍国機務所の決議に対しては絶て異議を容れられず、大抵認可を与えらる例なりしが、近来漸く専恣の兆候相顕われ、既に国王の認可を経て発布せられたる法律規則にも頓着せられぬことありとて、改革派は窃に憂慮し、或は其官を辞せんと言う者さえ有之候。

 本来同君は頑固なる守旧家なれども、是まで意を曲げて日本人の説に付同し来りし者なれば、一旦其志を得るに及んでは其本色を顕わすは無理ならぬ事なり。依て今後は同君をして余り我侭を為さしめぬ様、予防するは頗る緊要の事なり。

 扨又、同君と国王との御間柄は益々親密を加えられ、何事に限らず総て国王より御相談有之由、又、平生両殿相互の御待遇は全く御父子の礼式にて、国王は常に尊爺と称せられ、同■の前には敢て跪坐せられざる由に漏聞せり。

 父子親密ならば、大院君は高宗に、日本人に騙されてはならんぞ、とか、改革もほどほどにせねば、とか、あるいは妃をどうかしろ、とかでも言って聞かせたりしていたろうか。
 後にはついに新大臣を暗殺したり、東学党との関係が露になったりすることになるのだが。

 で、改革に関し、平壌戦前の京城の様子も交えて大鳥は以下のように報告している。

(「同上」p58より)

 清国兵の改革事業に及ぼす勢力

 清国の大軍、既に平壌に入り、時を待て京城に進襲せんとの説あるや、一時民心洶々として定まらず、政府部内にも純粋の改革派、即ち新政府と生死を共にせざるを得ざる地位に立居る人々を除くの外は、窃に二心を懐く者あるが如く、殊に宮内の官員中には、清兵の南下を希望する者なきにあらざる由にて、改革事業に痛く刺激を与えたりしが、清兵は久く平壌に駐屯して俄に南下す可き模様なく、之に反して我兵の来着益々多く、加之、近来清兵の挙動に対する悪評甚だ盛なれば、民心漸く安堵の観を呈せり。

右及具申候也

 明治二十七年八月三十一日
        特命全権公使大鳥圭介
   外務大臣陸奥宗光殿

 

朴泳孝登用の斡旋

 明治17年朝鮮事変の首謀者である金玉均と違って、もう一人の首謀者、朴泳孝は東京で私塾を開いて朝鮮留学生を教育するなど、その志と行いが堅実なものに変わったことは、日本政府も認めるところであったろうと思う。

 朴は明治21年に朝鮮国王宛に長文の建白書(韓国人朴泳孝建白書)を書いたことがあった。実際に国王のところに届いたかどうかまでは分からないが、まあ謀反を起して日本に亡命した大逆罪にあたる人物の言であるから、これを朝鮮の者でまともに取り上げた者があろうはずもないことではある。

 しかし、国王に対して朝鮮の政治、法令、教育、経済、慣習、医療、軍事、鉱興業などに関する諸事百般の改革を訴えたそれは、孟子の訓話なども交えた如何にも的な所もあるが、世界情勢を説き起した上で、いかに現在の朝鮮に改革が必要であるかを懇々と説いて、朝鮮をして近代化に向かわせる具体策を詳細に提言したものである。亡命生活をする中で日本の姿を見ての、とりわけ福沢諭吉の影響下にあってのものとは言え、開化派朝鮮人による論文としては朝鮮近代史の資料として注目されるべき内容のものであると思う。

 尤もこの建白書が、現在の病的な愛国主義・民族主義を患っている韓国社会に於いて、全文が翻訳されて出版されることは、おそらくないだろう。なぜなら、韓国人がこぞって捏造歪曲して美化してしまっている空想の朝鮮時代と違って、そこで当の朝鮮人自らが書いた内容は、当時の朝鮮社会が実はいかに不幸で醜悪なものであったかがよく見えてくるものであるからだ。

 例えば先述したように、「京城全体が王宮から民家、道路、橋に至るまで、塵芥が山を成し糞尿に塗れている」などと、かつて「漢城(京城)判尹(知事と警視総監とを併せたような役職)」であり、教養ある朝鮮人が記した信用に足る言葉であったとしても、今の韓国人なら聞きたくもないであろう。
 或いは又、「種痘を普及させて夭折から救うこと。日本は種痘が行き届いているから年少の者でも顔に疱瘡がある者は甚だ稀である、これは日本が日々に文明に進んでいるしるしである。」などと日本と比べるような記述があるに至っては完全無視であろう。まあ、差し支えのない部分だけを引用して翻訳されたものが、学術論文の類の中で資料として使われるぐらいが関の山ではなかろうか。

 しかし、項目として記述されている一箇条一箇条の提言を読むだけでも、逆にその実態が良く分かって興味深いものがある。例えば、朝鮮では貴賎を問わず他人の家の墓地に勝手に埋葬して争い事になる、などという信じ難い話が、本当のことだったと分かる。興味のある人は、アジ歴資料「韓国人朴泳孝建白書」レファレンスコード「B03030209000」でどうぞ。

 

 杉村濬の「在韓苦心録」によれば、明治17年の朝鮮事変時に逆賊となって日本と米国に逃れた者は、金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼、柳赫魯、李圭完、鄭蘭教、申應熙など10人程いたが、徐光範、徐載弼、申應熙は米国に居り、日本在留者の中では金玉均亡き後、朴泳孝が最も注目されていた。(「1 前編 2」p44)

 しかし7月23日の王宮での事変以来、閔氏政権が倒れ、閔族一統が萎縮したことにより、朴泳孝が帰国する時節が到来した。
 よって日本政府は朝鮮政府に対して、朴等の赦免と帰国を許可するように要求したが、王宮では国王王妃を始め各大臣もこれを悦ばず、なかなか決っするところがなかった。
 しかし日本の世論は、朝鮮内政改革に朴泳孝等は欠くべからざる人物としてその帰国を切に促し、朴等もまた速やかに帰国せんことを望んだ。

 アジ歴資料「壬午ノ変ニ亡命セシ朝鮮人ヲ該国政府ニ登用方斡旋一件」には、その最初に「朴泳孝を朝鮮に呼び戻す準備をするように」と、7月24日付の陸奥から大鳥への電文指令(「同上」p4画面右)があるのがその頃のことであろうか。
 続いて、陸奥から釜山の永瀧領事宛に、
 「朴泳孝と5人の朝鮮人が、2人の日本人、恒屋、石坂たちと共に8月6日に出発したので、釜山に着いたら便宜を与えるように」と電文指令。(同左)
 実は朴は公使館からの回報も待たずに日本を離れて釜山に向かったのであった。朴泳孝と大院君との間には以前から密書の往復があり、帰国時期は申し合わせてのことであったかもしれない。

 8月10日に釜山に到着した朴一行は、11日に随行の者3名は海路で仁川に、朴その他は陸路を辿って騎馬で京城に向かった。なお護衛のために警視庁巡査3名が同行し、23日の夕に京城に着いた。

 大院君は人を派し、「朴氏らは今に帯罪の身なれば、余は早速赦免がなるよう取り計らうので、その間城の外に出て、余の孔徳里の別荘で命を待つように」と申し送り、朴等を別荘に宿らせて優待した。
 朝鮮の法では、臣下に罪があるときは城外に退去して命を待つのを例とする。
 その後3、4日して赦免の命が下った。
 ところが、朴等は急にそこを去って仁川に移った。大院君の孫である李呵Oが朴を味方に付けようと脅迫したことにより、朴が怒って去ったという。大院君はこれを聞いて朴に立腹し、朴もこれを知って大院君と距離を置くようになった。
(以上「1 前編 2」p44、p45、「壬午ノ変ニ亡命セシ朝鮮人ヲ該国政府ニ登用方斡旋一件」より)

 この頃、王宮内では朴泳孝が日本から帰国したことに関して様々な風説が行き交い、外国公使館にそれを届ける者が連続し、「日本が国王を廃して大院君をその位に立てる」、「国王を殺そうとするものである」などと言い立てた。
 米国公使はそれらを大鳥公使に知らせていたが、9月になって米露両公使が大鳥公使を尋ね、「朴泳孝が任官を国王に迫り、採用しない時は日本兵を率いて王宮に迫ると言った」とまでの流言になっていることを伝え、「これらは結局は7月23日以来朝鮮兵が逃散してから人心が不安になっているからであり、これを治めるのは貴国の責任である」と述べ、また赦免なったとは言え朴泳孝を朝鮮政府で登用させることに懸念を表明した。

 大鳥はそれらに対して、王宮は、事を誤り理解出来ない人々の集合所のようなものであり、嫉妬疑惑の分子で充満している所であるとして、朝鮮人一人に貴重な兵士を貸すはずもなく、王宮護衛の日本兵士は8月24日に撤退させて朝鮮兵4百名に代わらせたこと、武器も既に4百挺を返還してなお追々返還するつもりであること、朴泳孝の任官は大院君の依頼によるものであること、日本政府にとってなんら利害の関係はないこと、また疑惑を持って訪ねる朝鮮人は日本公使館に案内すれば直接説明して疑惑を解く、などと説明した。
 それにより、両公使はやや安心したようであった。

 これら朴泳孝の帰国に際しての多少の騒動は、大鳥の探ったところに依れば、朴泳孝の発言と挙動にも過失がないわけではなかった。
 これらの出来事を陸奥外務大臣へ報告した中で、大鳥は次のように述べている。

(「壬午ノ変ニ亡命セシ朝鮮人ヲ該国政府ニ登用方斡旋一件」p14の「機密第一八〇号 本一〇三 大闕内謡言に付米俄両公使談話の件並に朴泳孝仕官の事」より抜粋して現代語に、()は筆者。)

(略、以下p18より)

 まさにまた、朴泳孝が帰国後の赦罪の手続きは案外遅々として運ばないので、内々で大院君に迫りましたところ、同君はとかく世論を憚る様子で種々の手数を重ね、漸く三四日前になって全赦免の運びに至ったことの旨を承知いたしました。

 ところが、朴氏帰国後は朝鮮官吏が(同氏に)面会を求める者が甚だ多く、その人々は、国王王妃または大院君の密命を受けて、ひそかに同氏の意向を探らんとする者があり、或いは又、同氏に親近して他日の僥倖を得ようと願う者があり、或いは同氏と結託して改革を図らんとする者もあるように察せられます。朴氏は誰彼の区別なくこれに応接して、その中でも力ある人々に向って、軽率にも改革に関する持論を吐いたのは、漸く反対派の気焔を高める種子となったかに察せられます。

 同氏が改革に関する持論は以下のようなものです。

一 現今の内閣員を更迭せしめ、多く地方の名士を挙げて内閣を組成すること。
一 王妃を廃すること。
一 大院君がもし専権の傾きがあるときはこれを斥けること。
一 刑罰を厳にして政府の威を立てること。
一 新官制を廃して旧に復させること。

 以上の諸案は、同氏が反対を受ける主なる個条で、日本人に向かって公然とこれを吐露し、そして朝鮮人中で安駉壽、金嘉鎮を始めとして、その他の人々にもこれを吐露した様子なので、政府の人々に窃に危惧を懐かしめたのは無理もないことと思われます。

 特に、去る9月3日の夜、国王から密派された李載純[王族であり朴氏の親戚]及び内官の某に向って、目下朝鮮国は危急存亡の機に迫っている訳を詳説し、
「就てはこれを救済せんとするには、非常の英断を以って大改革を行わなければならない。余は坐視するに忍びないので、国王から改革担任の御委任がありたい。よって明日中に有無の御沙汰あるように取り計らいを願う。もし御沙汰が延引するときは、自分が同志を引き連れて参内して命を待つべし」
と申入れたところ、翌日になって国王から再び密使を派し、
「汝の計画する改革はどのような個条なのか」
と御下問があったので、朴氏から云々[その個条については朴氏は敢えて明言しなかった。]と御答え申し上げたところ、国王より再び、
「それは過激である。しばらく時を待たねばならない」
との御沙汰があった旨、当人から杉村書記官に談話したようであります。

 よって考えるに、その同志を引連れて参内して命を待つべし、と述べた一言が元となり、これに枝葉を付けて日本兵を引率して入闕するとの流言が作為されたものと思われます。

 さてまた、反対する主な人々は李呵O[大院君の孫]一派であって、専ら排朴の運動をしているような伝聞があり、その他安駉壽や金嘉鎮などの一派も、表では合わせて裏では拒んでいる形のように見受けられます。

 上の李呵O氏は、その党派の勧めに従って王族の威勢を借って政権を掌握せんと試み、安金等の一派は、一旦は朴氏政権が立った暁には、自身等も排斥されることを恐れて、このような態度に出たものと推察されます。

 要するに朴氏は、当朝廷の内情を顧みず軽率にも危険な発言を放ったことが、それらの不幸を招いた原因と信じます。

 以上内報します。
 明治27年9月8日
      特命全権公使大鳥圭介
  外務大臣子爵陸奥宗光殿

 近々、朴氏は日本へ赴くとのことで昨日に京城を発して仁川に戻りました。

 朴の「大院君がもし専権の傾きがあるときはこれを斥けること。」とは正論ではあるが公言する意味無し。まして大院君の労で大逆罪という大罪を赦免をされた身では。その他、王妃を廃することや新内閣員の更迭、成ったばかりの新官制を廃することなど、立場的に問題発言の仕放題。大鳥公使としては「チョ、おま・・・」というところか。
 まあ日本人をして落胆させるのは朝鮮人の・・・・であるが、どっこい日本世論では、この頃には大鳥圭介を朝鮮改革の妨げとなる事なかれ主義として批判が集中するようになる。

 先述したように、当初、大鳥は日清開戦を避けようと努力した平和路線の人であったし、朝鮮内政改革に対しても混乱を避けるために慎重に進めるべしと言う意見の人である。しかし緒戦の勝利に沸く日本の世論は、朝鮮改革にも同様の成果を求め、中にはその進まざるを大鳥公使の因循にあるとし、遂に老耄とまで罵るようになった。(「1 前編 2」p52)

 

 

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