日清戦争下の日本と朝鮮(3)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

「大日本と清国と海陸大戦争」 小国政筆 明治二十七年
 「開戦始末」と題する、閔氏政権の専横が東学党の内乱を醸成し、為に朝鮮政府は清国の兵力を借り、清国が大兵を派遣したことにより朝鮮内政改革の妨害となって云々という、長い解説文が載っている。
 構図も絵もあまり上等ではないが、むしろ文章を読ませる錦絵である。

 

国憂う者ありや

 さてこちらは朝鮮政府。
 まさに日清両国が、朝鮮半島を舞台とし、朝鮮の国体を問うて一大戦争をなしつつある時、ここでは政府内外の者達は、チャンス到来とばかりに地位や利権の獲得を謀り、或いは大院君は勢道たらんとし、その孫は次の国王となることを狙い、或いは閔妃は反大院君派を取り込まんとし、まるで自国内での戦争は対岸の火事のことのように、京城王宮内で政争の火花を散らすのであった。(呆韓)

 「廃妃問題」が持ち上がったことについては既に触れたが、杉村濬の「在韓苦心録」の「第八 変後に於ける中外の景況、廃妃の陰謀(「1 前編 2」p14〜)」も参考にすると、そのおおよそは次のようなものと思われる。

・ 大院君の嫡孫、李呵O(25歳)が野心を抱き、現在の世子宮(次の国王を継承する王子のこと、即ち後の純宗、(21歳))に取って代わらんとし、為めには7月23日の王宮事変に乗じ、この際王妃を廃してその力を削がんと画策した結果、24日には大院君の命令と称する「廃妃」の詔勅案が作成された。しかしそれを李呵Oが大鳥公使と相談した時に大鳥は反対し、且つ杉村濬、本野参事官らも強く反対した。また、父の李載冕も反対した可能性がある。よってこの案が実際に勅令として出されることはなかった。

 杉村濬は「在韓苦心録」で、「大院君も年老いて昔の活気は衰え、王妃が涙を流して袖に縋って過去を詫び、改心して国王の内助することを請うに至って、廃妃するに忍びなく遂に李呵Oの言は容れられなかったと推察する」と述べているが、その後の大院君と李呵Oの行動を見ると、とてもとてもそんなものではない。何時までも意気盛んの大院君である。やはり日本公使館と李載冕に反対されて引っ込めたとしか思えない。

 さて、その新政府成立の内情を「在韓苦心録」から。

(「在韓苦心録」の「1 前編 2」p16、p22〜p26より、抜粋して現代語に。)

(旧大臣、重臣、改革派と称する者達が、前後の策を講じようと様々に意見を言うが区々でまとまらず、)その議するところは、新制度の創立よりは、寧ろこの事変に乗じ、改革派の仮面を装い、高官、重職を狙う者がいる。安駉壽などは別軍職の卑官から数日の内に漢城判尹[1等官]に任じられ、金嘉鎮も少し後れて上曹判書[同じく1等官である]に累進した。
 また大院君は万機を総裁する名義があっても、その実、行政機関がないため、政事といってもただ政府内官員を進退するだけで、宮廷の外にその政令が及ぶことはなかった。
(略)

(7月)24日午前、参内して大院君に面謁。
 政府の組織並びにその施行について打ち合わせをしたが、同君は例の詭弁を弄して只管余の提議を避けることに務め、対談2時間に及んだが更に要領を得ない。時に改革派と称する人はひそひそ話をしては、各々私見を大院君に内申して裁可を受け次第直に実行しようと試み、あるいは密かに会って栄職を願い、また旧官吏の人々も、頻りに同君に内謁して哀願するなど、紛々擾々ほとんど応対に暇がない。

 同君は七十歳余の高齢であり、永く閑居して昨日までは会う人さえ稀であったのに、一旦この政務を執ったことにより、恰も狂わんばかりの有様であった。

 余はこの状態を見て、同君の煩労を見るに堪えず、その命令処分が区々となるのを恐れ、同君に早く領議政を任命され、またその秘書官2名を選抜して、秘書の任に当たらせる以外に、通常の応接は秘書官に代理させれば、聊か暇が得られるだろうと勧告した。

 次いで、領議政には金宏集の右に出る人はないだろう、秘書官には兪吉濬と外1名がよいだろうと申し出れば、院君は共に首肯せられた。

 それより余は退席して集合所に至ると、即ち改革派の面々及び岡本柳之助等がいた。岡本等一同は前日から宮内に宿泊していたのである。

 その議するところは区々であって統一することなく、中には早くも栄職を拝して得々として人に誇る者がいる。
 余はこれを見て新政府組織の予備として、一つの評議会を興し、以て衆議を統一する必要を悟り、これを皆に謀ると同意したので、帰館して大鳥公使に内申した。
(略)
 26日、午前11時に参内して大院君に謁し、衆議を統一するために評議会を興す必要を説いた。大院君は敢えて異議を言わなかったので、集合所に赴いて、再び内議を定め、議員に充てるべき人名なども取調べ、翌27日午前11時に参内して大院君に申し出たところ、同君はこれを採用して、その会を軍国機務所と称することを命ぜられた。

 この日、金宏集は領議政に任じられ、併せて軍国機務所総裁を命ぜられた。これによって宮内の建物を選び、会議室を設けることに決定した。

 28日午前10時参内すると軍国機務所員も既に命ぜられていた。同12時を期して開会すべき旨沙汰があった。

 抑も軍国機務所は、軍国の機務を会議し、旨を受けて挙行する所であって、総裁1人、副総裁1人、議員10人以上20人以下、書記官2人乃至3人とする。その議権は次の通りである。

一、京外諸官府の職制
一、州県の職制
一、行政並びに司法一切の規則
一、日賦貨税及び財政一般に関する規則
一、学政
一、殖産興業及び商業に関する一切の事務

 以上諸項以外のことも凡そ軍国に関わる一切の事務は皆合議に付す。

 この時命ぜられた議員姓名は次の通りである。

(略)
 なお書記官を輔く者として公使館の塩川書記生が員外書記となった。

 同日正午、大院君は国王の名代としてこれに臨み開会の式を挙げる。

29日、会議暫く中止。

31日、開会、旧来の弊害10余条の廃棄を決議。議長から直ちに大院君を経てこれを上奏して採決を得た。

 これより会議は当分の間連日して続き、隠然として勢力を有するに至った。また、議員の更迭もあり、且つその数も増加したが、主だった人々は始終変更はなかった。

 軍国機務会議は開設後数日間は、その多くは旧弊廃除の問題であったので議事は破竹の勢いで進行した。

 なるほど、議会政治も日本人が提案して指導したと。

 で、決して治まる所に治まらないのがこの国である。以下、政争となっていく。

(「在韓苦心録」の「1 前編 2」p27より、抜粋して現代語に。)

 殊に議員には開化党と称せられる人々が多かったので、専ら近世の文明制度を模擬し、新制を立てて政務の責任を政府に帰することを希望して着々その方向に進んでいたが、大院君は、本来は議員を自党のものとして旧制を維持し自ら勢道となって政権を執ろうとする色があった。

 これによって議員は大別して両派となり、兪吉濬、朴準陽、李泰容、李源兢等は陰に大院君側に立ち、李允用、安駉壽、金嘉鎮、金鶴羽、権在衡の徒はこれに反対し、そして金宏集、金允植、魚允中の3名は本来大院君に傾き、朴定揚は王妃に傾いている方であるが、しばらく老人株を守って中立の様子であった。

 しかし議事の習いとして、正論は常に勝ちを制するものなので、大院君は窃にこれを憤怒し、事に寄せて反対の議員を恐喝されたので、反対派は偏に我が公使館の後援を頼んでこれに当らんと試み、また機を見るに鋭の王妃は早くも形勢を察して、安駉壽、李允用の徒を指図してそそのかし、院君の勢力を削がんと企てた。

8月1日、安駉壽は金嘉鎮と共に、余に要請して言った。

「大院君は閔氏を倒すのに功があるが、古老であって近世の事情に通じない。これに反して両陛下は聡明で近世の事情をよく御承知なので、新政治を議するには、直ちに両陛下の裁決を仰ぐにしかず。今や閔泳駿は身を隠し、その他の閔氏は皆屏息しているので、たとえ両陛下の親戚に関わるも決して以前のような弊害はないだろう」と。

 当時、余は深く注意していなかったが、その後両派の軋轢は益々激しくなり、安、李の輩は、一面には両陛下を戴き、一面には公使館の力を頼んで院君党を排斥せんと謀ったために、軍国機務所設立から1カ月を経た頃にはほとんど両派敵視する姿となった。

 大院君は憤怒に憤怒を重ね、機務所議会の議決には一々不同意を唱えてこれを認可せず、議員もまたその議決を大院君に示さずに直に国王の裁可を請わんとするなど、情勢は穏かでないものとなった。

 院君党の朴準陽は余に請うて言った。

「既に議決したものを以て裁可を求めるので、大公(大院君)に不平のないように出来ない。よって今後は議事に先立って予め大公の意思を求めることにすれば、双方の間に乖離を生ぜず支障がないだろう」と。

 おそらく院君の意もこの通りであろう。院君はこの手段によって議員を手中に収めんとするが、しかし反対の議員は議を執ってこれに承服しなかった。

 これより先、新官制を制定し、各大臣は8月15日に任命され、同20日以後は各衙門内とも開庁したので、大臣または協弁たる人々は漸く多忙となった。
 しかし、機務所の情況は既に述べたようなことなので、院君派の人々は勿論、その他の人々も欠席勝ちとなったので、機務会議は自然消滅の姿となった。

 もっとも、軍国機務処そのものは存続したが、会議らしい会議が開かれなくなったということである。

 

盲目の大院君

 この頃の朝鮮人で、世界に於ける自国の地位を思い見て、国の行く末を真に憂う者が果していただろうか。
 国内に於いて戦争があっているのであるが、大院君ですら対岸の火事を見るような言葉を吐いて憚らなかった。

 露国公使ウェベルが大院君に面謁したのは8月2日であった。
 それを知った日本公使館では、国分書記生を大院君の所に遣って会談内容を尋ねさせた。
 それによれば大院君は露国公使に対して「この度日本は、隣国の好意を以て労費を惜しまず我国のために尽力している。我が国はその好意に対し深く感謝する外はない。しかしただ日本が望む所の改革は、余り急激に過ぎるのでこれには少々当惑している。聞くところに拠れば、日清両国は既に開戦となったようである。両国で永く戦争を続ける事は大いに東洋の平和に妨害あることなので、何とぞ各国の周旋によって和を調えさせたいものである。」と述べたという。
 その他には、これまで朝鮮政府から露国への国王の国書と外務督弁の公式文を除いて、他の官員からの送った文書は全て無効であることを告げた。

 これに対しウェベルは何ら回答せず、ただ朝鮮政府顧問だった米国人リゼンドル(李仙得)は有用な人物なので御使用されて然るべきである、とだけ述べたという。
(以上「明治27年6月29日から明治27年9月8日」p6、原文テキストはこちら。


 そのことを後に大鳥公使の報告に依って知った陸奥外務大臣は、戦争を他人事のように言う大院君の不実を咎め、大鳥公使の反応の鈍さに注意を加えて、以下のように通告した。

(以上「明治27年6月29日から明治27年9月8日」p9、抜粋要約、原文テキストはこちら。

明治廿七年八月十三日起草  同日発遣

   京城大鳥特命全権公使   陸奥外務大臣

 報告の中の大院君の談話中に、「日本が望む所の改革は、余り急激に過ぎるのでこれには少々当惑している。聞くところに拠れば、日清両国は既に開戦となったようである。両国で永く戦争を続ける事は大いに東洋の平和に妨害あることなので、何とぞ各国の周旋によって和を調えさせたいものである。」とあるが、大院君が日朝交戦を対岸の火を観るが如く、無味淡白に外国の公使、それも露国公使にそのような言を吐いては我国の為めに不利益となろう。それでなくとも露国政府などは、何かよい口実を求めて喙を容れる理由とし、以って漁夫の利を得ようと熱望しているのである。

 そのような時に同君が度々この種の談話をするなら、終には不意の干渉を招く懸念がある。閣下にはその点深く注意あって、他の政府高官らにも同様の発言をさせないように。

 朝鮮政府においては既に清韓間の条約を破棄し、牙山駐留の清兵駆逐を要請するなどして、清国に対する宗属の関係を打破した以上は、最早、交戦国は日清のみにあらず、朝鮮もまた独立国として日本と同盟となって清国に敵対する地位にある。

 その上、開戦の理由は全く朝鮮国の独立を維持し強固とするにあって、その独立を確める為にあるのである。

 然るに先の清国の宣戦公告は、依然として朝鮮を藩属と見做して独立を蹂躙するものである。今、朝鮮政府がこれに対して黙っていることは、既に清国に敵意を表した措置と全く矛盾することになる。むしろ朝鮮政府においても清国に宣戦することこそが適当なる順序であろう。

 もし宣戦が難しいなら、それに代わる言動を公然発表させることが最も必要である。閣下にはそれらを厳しく談判して、他人事のように考えるは大なる心得違いであり、朝鮮も清国に対抗する形跡を事実の上にも言語の上にも顕すようにされたい。

 そうでないなら、朝鮮は日清の戦争に於いてまるで中立国のような姿となり、それでは第一に他国の干渉を招き、日本が兵を派遣する名義までなくし、遂には非難まで受けるおそれがなくはないことになろう。

 この際、同盟して清国と交戦する実証を挙げさせるよう、閣下には御尽力ありたい。

 大院君が露国公使に語った言葉は、この人が世界の情勢に全くの盲目であったことの証である。彼の眼中は国内にのみあり、その関心は自らが勢道となって儒教政道を行うことにだけ向けられていたと言ってよい。そして邪魔をするものは、日本人であろうが、朝鮮人であろうが、たとえ王妃であろうと排斥せずにおれないという人であった。

 ところで、2日に大院君とウェベルが対談したことの大鳥公使の報告は8月4日付けとなっているが、それを外務省が受けたのは8月13日となっている。仁川から船便で東京までは通常は1週間程度かかるが、既に海戦を含めた戦争状態であるから遅れがちであったとしても、対馬から電報で送るという方法もあったろう。とにかく日数がかかり過ぎである。発送が4日以降となったことも考えられ、また報告の内容と合せて、この対談をさほど重大なものと見ていない大鳥公使の少しく鈍い判断も察せられる。
 日本政府が彼の更迭を考慮し始めたのは、開戦問題のみならず、こういうこともあってのことからだったろうか。

 

旧政府処理に関して

 その他、旧政府処理に関して、朝鮮政府が英国総領事を介してロスチャイルド社から借金しようとしていたことなども発覚。

(「英韓両国暫定募債約定」p2、()は筆者。)

     廿七年八月廿日続受
機密第一五五号 本八七

  英仏両国間に暫訂せる募債并鉄道建造鉱山開探に関する秘密公文発見の件

 前任外務督弁趙秉稷氏更任の際、窃に後任督弁代理金嘉鎮氏に引続きたる秘密公文の一なりとて、別紙文を杉村書記官に内示し、且つ

「前督弁当任の際、別紙の如き契約を為せるは不都合の極なり。乍去、此契約に付、未だ一銭だも借用し居らざれば、之を破棄するを得可く、或は先方より難題申出て破棄し難きことあるも、契約期限後に至らば自然廃棄に帰す可し」

と申出候趣に付、別紙を取りて之を熟閲したるに、

「朝鮮政府は国用不足の為め、英政府の紹介に因り、英商羅士斉公司(英国ロスチャイルド社)と約定し、入用に従い本年三月三十日より六ヶ月間、金員を借用するを諾し、其代りに鉄道建造と鉱山開探の権利を他国に許与せず[(欄外)六ヶ月間は他国人に鉄道建造と鉱山開探の権利を許さずとこのことなり]、且又、他国人より五万円已上の金員を借入するを許さゞることを約束し并期限後更に六ヶ月間を延期するを予約したる」
ものに有之候。

 乍去、斯る条約は新に日韓間に訂結せる可き鉄道条約に対し、大なる障碍物と相成候に付、相叶うなれば多少の損失金を賞うとも、直ちに廃約せしめ度考慮■有之候。

 尤も期限前の廃約は到底望なきに於ては、我条約には条件を付し、予約の形に取斗置可申■とも存候。依て別紙相添此段御■迄及内申候也。

 明治二十七年八月七日   特命全権公使大鳥圭介
    外務大臣陸奥宗光殿

 

(「同上」p4、()は筆者)

(別紙、秘密契約文の)訳文

 大朝鮮督弁交渉通商事務趙、茲に証憑を発するは、従来本国の用款に不足を生じ、債款実に多きが為め、曾て大英国総領事ガーデナー氏に借款の事を商訂したるに、英総領事は朝鮮政府に代り、英商羅士斉[ロスチャイルド]会社より銀額を商貸することを承允すれども、惟朝鮮政府は羅士斉より、銀額商借するを除く三月三十日より[我五月五日]向う六ヶ月を限り、再び鉄道を建設し及鉱山を開探するの利権を他国人と訂約するを許されず、亦再び他国より五万両以上の銀額を借入るゝを得ざることを証言す。依て茲に其証憑を発するものなり。

 再言  六ヶ月後罷約前、更に六ヶ月を展ばすべし。
 甲午三月廿五日[我明治廿七年四月三十日]

(以下、欄外に記してあるもの)
五月九日 東学党再叛の報、杉村より報ず
五月十一日 清艦郡山に赴く
五月廿三日 筑紫艦郡山に赴く
六月五日  大鳥公使発程
六月[五、六]日朝鮮清国に援兵を請う
六月七日  清兵派韓の知照、在京清公使より接す
六月八日  清兵千名、牙山に抵る
六月十日  大鳥公使、京城に着す
六月十一日 大島旅団長、準兵発
六月十三日 我兵千名京城に入る

 ロスチャイルド社はユダヤ系金融業で英仏に社を置くので「英仏両国間に暫訂せる・・・」という題名になったのだろう。朝鮮政府が英国総領事を介して3月に鉄道敷設と鉱山採掘の権利を担保に借金を申し込み、ついては、6ヶ月間に限り他国にその権利を許さず、また他国人から5万円以上の借金をしないことを条件に契約したと。但し、まだ1銭も受け取っていないので破棄できるだろう、と。外務督弁代理で協弁の金嘉鎮誰がこの秘密公文を杉村書記官に内示したようである。
 それにしてもこの6ヶ月間だけの独占権というものに担保価値があるのだろうか。

 で、以下報告を受けた陸奥の判断。

(「英韓両国暫定募債約定」p7)

明治廿七年八月廿三日起草
同  年  月廿五日発遣

在京城  大鳥全権公使   陸奥外務大臣

 本月七日付機密第一五五号信を以て御申越相成候、英商ロースチャイルド会社より、金円借入の義に付、朝鮮政府より英国総領事カルデナル氏に与えたる文憑云々の件に関しては、最初本大臣に於て之を一見致候節は、甚だ面倒なる問題と存候に付、去る十九日「八十七」号電信を以て、右に対する処理法は余程注意を要すべきことなる旨申進置候処、其末尚右文憑をも熟読し、又法律家の意見をも一応相尋たりしに、該文憑中

「拠合先代我政府向英商羅士斉公司商貸銀両惟須声明我政府自本年三月三十日起以六個月為限除商借羅士斉銀両外不得再許与他国人訂立建造鉄路及開採鉱山之利権亦不得再向他国貸取銀両在五万以上者等因」

と有之候得共、即ち朝鮮政府に於て前記三月三十日より六ヶ月の期限内は「ロースチャイルド」会社より金円を借用の外は又別に他国人に向て鉄道敷設鉱山採掘の利益権利を与えず、又他外国より五万円以上の金円を借入れずとの旨を明言すべしという条件を付し、英国総領事より朝鮮政府に代て金円借入方の義を「ロースチャイルド」会社え相談周旋すべしとの意味に有之が故に、茲に右の条件を実行せず、即ち前記の件を明言せざるに於ては英国総領事に於ても「ロースチャイルド」会社え借入方を申込むべき筋に無之に付、詰る処、右条件を実行せざるときは取りも直さず一片の契約も目■の義に付、仮令他より金円借入候とも、聊かも差障無之義に候。

 殊に金嘉鎮氏より杉村書記官に向い、此契約に付未だ一銭だも借用し居らざる旨、話有之候由なれば、尚更右契約は無効力のものに有之候。
 尤も、朝鮮政府の当局者に於ては充分法理に通暁致居候者も之なかるべければ、第一其為め英国総領事より雑談にても申出候こと有之候わば、「グレートハウス」にても使用し為様含候わば、容易に相分り話相付■申と存候。因て一昨廿一日、更に其旨意を以て及御電報に至候次第に有之候。
右申置候。敬具。

 で、報告を受けた陸奥は法律家の意見も聞いて検討したが、この契約は効力が無いだろうと。
 その後どのような経緯を辿ったのかは分からないが、以下のように英国側からのキャンセルとなった。即ち10月21日付け大鳥公使からの電報で、
「昨日、朝鮮外務督弁が『英国総領事は債権の件をキャンセルした』と告げた」と報告。(「同上」p10)

 しかしこれ以後も、朝鮮国は様々な権利を西洋諸国に切り売りしていくことになるわけだが・・・。

 

戦争と改革

 極東の小さな島国がアジア州の大国に対して仕掛けた戦争が日清戦争である。
 西洋列強国は高みの見物ながらも虎視眈々と隙を窺い、清国は大艦大軍を擁して余裕綽々。
 日本はと言えば、炎天下慣れぬ異土不潔の地に大兵を繰り出して兵站に苦しみつつ攻進す。
 更に朝鮮内政改革の実も挙げねばならず、しかして内政への干渉が過ぎれば、独立主権の擁護という宣戦大義が揺れるのみならず、朝鮮が各国と締結している条約上の問題ともなり、それが他国の容喙を招くことになる。かといって干渉を緩めれば改革は進まず、それでは日本国内政党や世論が承知しない。
 明治9年にこの国と修信して以来、日本政府として最も困難な取り組みとなった。

 まず手始めとして7月23日の王宮での小戦闘で取上げていた武器全てを、以下のような理由で朝鮮政府に返還することとなった。

(「明治27年8月1日から明治27年8月31日」p3)

明治廿七年八月七日起草、同日発遣
伊藤内閣総理大臣
       陸奥外務大臣

    閣議案

 帝国政府が最初、兵を朝鮮国に派遣せし目的は、全く其積年の秕政を釐革せしめて党争内訌の源を絶ち、以て其独立を維持し自主を鞏固ならしめんとするに在りて、毫も其独立自主の権利を侵害せんとするの意に非ざることは、始めより廟議の決する所にして、亦た本大臣が欧米各国政府の所問に対し、政府を代表して公然言明する所に有之。
 然るに七月廿三日の事変以来、一時の権宜を以て朝鮮軍隊の兵器を取上げ、且つ其警察権をも幾分か箝制したる姿と相成、事実上一国の独立主権を侵犯せし形跡有之。此事態にして何時迄も継続するときは、

第一、外国政府の猜疑を招くに至るべく、殊に露国政府の如きは、已に帝国政府に向て、帝国政府が朝鮮政府より受る所の譲与にして、苟も朝鮮が独立政府として各国と締結されたる条約に違反することあるときは、有効のものと不相成ことを帝国政府の注意を促す、旨を明言し、其底意たるや即ち、苟も朝鮮の独立に関し、変動を生ずるが如きことあるに於ては、露国は決して之を黙視せずとのことに外ならざるべく、又、

第二には、若し朝鮮と域外国との間に於て或る事端を生ぜしことありて、之に関し朝鮮政府警察権の行動の要する場合ありとせんか、目下の状態の存する間は、或は朝鮮政府に於て他国に向て、其警察権は日本の箝制のため自由の行動を為すこと能わざる旨を答うることなきを保せず。
 若し然るときは、帝国政府は朝鮮の自主権内に侵越せりとの責を免れざるべく、其極、竟に他国の容喙を招くの恐有之。
 就ては今や一方には朝鮮は我同盟たるの事実を挙げ、又一方には、天津条約も已に一片の廃残に帰したれば、此際取上げし所の武器を悉く返還し、朝鮮政府をして帝国陸軍士官を聘して専ら兵士の訓練に従事せしめ、又警察制度をも諄す誘導して、之が完備を期せしめ、以て其独立を維持するの要具を備えしむること最も適当の処置と相信候。

 此の如くすれば、一は朝鮮国人に対して帝国政府が公平無我の意を表示するに足るべく、又一は他各国に対しても帝国政府の行為を防護し、彼等をして喙を容るゝの地を作らしめざるに足るべしと存候。
 尤も、目下清国と開戦中のことなれば、百時を挙げて皆な平和の時に於てするが如きことは、固より情勢上許さゞる所ありと雖ども、苟も朝鮮国独立の体面を全うし、併せて同盟の実を挙ぐることは眼前の急務と存候。

 就ては此義に付、篤と廟議を尽され度、而して廟議決定の上は、本大臣より此旨大鳥公使に訓令可致候間、当該軍衛よりも朝鮮え派遣の帝国軍隊総指揮官へ同様の旨訓令相成候様致度、右乞閣議。

 

 先述したように、6月30日に露国公使ヒトロヴォーが本国政府からの公文を提出し、それに回答した日本政府に対し、7月9日には露国の西公使から公文回答に対する露国政府の表明を報告している。
 しかし、その後7月21日になって上記にある陸奥が露国の底意が見えるとした書簡や、また次第に悪化する露国政府の意向を報告する在露西公使の電報なども来ていた。
 21日の書簡にある、「要求するところの譲与」の意はよく分からないが、おそらく電信譲与の要求のことを指すのかもしれない。
 なお、日清開戦後の8月2日西公使からの報告によれば、露国政府は外務省機関紙に論文を掲載して、極東地域に対する利害の関心を露にしたようである。

 日本政府が、外国勢とりわけ露国の付け入る隙を与えてはならないと、最も心を砕いてきたのはこの時が初めてではない。なにしろ、かつて第二次アヘン戦争に於いて清と英仏の調停に立っただけで、清の領土から沿海州という広大な部分を手に入れたのが露国である。南下政策をとるこの国が今度の戦争でまた調停工作を謀ってくることは当然予想できたことであったろう。

 かつて明治18年に井上馨が清国公使に朝鮮指導案を提示したときに、
外人の講ずる公法は恃む可からず。彼は利を見て義を忘れ、競て人の物を取る。此時に当り我れ彼の公法を論ずるとも、彼は但だ答るに腕力を以てす。(「日清交際史提要」の「第四冊 第十四編 至 十六編/3 第一五編 善後商議」のp3)と述べ、それを後で聞いた李鴻章は、眉を揚げ気を吐いて「誠に快論なり」と賛賞したことがあったが、要するに万国公法は列強の非を責める道具たり得なかった。しかしながら、その公法を遵守することはまた、列強国が付け入る隙を与えないための唯一の方法でもあった。
 これは今日迄続く現実の国際間のからくりであろう。

 閣議は直ちに決議されて大鳥公使に通告され大島旅団長にも伝えられた。

 

 さて、朝鮮内政改革をいかにして進めさせるか、実に頭の痛い問題であった。

 京城領事の内田定槌は、朝鮮政府が政府内から閔一族を排して改革に有用な人物が占めるようになったことを評価しながらも、到底朝鮮人の独力で改革を達することは出来ないだろうと述べ、日本人を朝鮮官吏に任用することを提議した。
 ついては、それが朝鮮の内政干渉となって、日本が朝鮮の独立主権を擁護することと矛盾することとなってはいけないので、朝鮮政府と新たな条約を結んで、その条約上の権利によって朝鮮の内政に関与することが最も上策と上申した。(8月4日発、13日接受)

 その為の内規として、
一、当国官吏に採用する日本人は日本政府の推薦による者とすること。
二、日本政府は現職の官吏の中で、学識経験に富む者を採用させること。
三、当国官吏に採用された日本人の職務上の行為は、日本政府方針に一致させること。
四、もし違背する所業あれば朝鮮政府に申し入れて懲戒、又は免職させること。
五、懲戒、免職は日本政府の承諾を必要とすること。
を掲げ、なお部門は、財務、軍務、立法、司法、教育、通信、運輸、殖産、興業、その他百般の政務に対して、日本から専門の人材を派出して充てること。(「明治27年8月1日から明治27年8月31日」p22)
とした。

 これだけを取り上げれば、まるで傀儡政権でも作らんとするかのような勢いであるが、内田定槌領事は既に述べたように、朝鮮改革に大なる希望を抱き、朝鮮が富強国となることを最も期待する人である。その公平厳格な態度から、後の閔妃排除の陰謀に与ることもなかった人である。

 一方、大鳥公使の意見としては、「清国が朝鮮を属国扱いしていた頃に比較して一段と朝鮮のために利益となることを図らねば、朝鮮の君臣は従わないどころか、終には第三者に依頼することとなるだろう」という意見書を提出し、後にそのための要綱数個条を提出した。

 もっとも大鳥は、かつて開戦前に陸奥が鉄道や電信問題を要求するように大鳥に伝えていた内容を個条に纏め、それを7月30日に金嘉鎮と協議し、8月1日には、朝鮮政府と結ぶべき仮条約として陸奥に提案している。(「日韓協約雑件」の「分割1」B06150002900、p46)
 その後いくつかの個条が修正や削除されたが、8月20日になって仮条約締結の運びとなった。(後述)

 

 この頃国内世論は、戦勝を見ては狂喜し、故金玉均のことを回顧しては涙し、よって朝鮮の内政改革に大なる期待を持った。また京城に於いても、内田領事は朝鮮の将来に希望を寄せ、杉村濬は韓廷顧問官として改革に奔走尽力した。
 陸奥と大鳥は開戦問題をめぐってこそ、その意見は一時対立したが、朝鮮改革に関しては、陸奥は悲観的であり大鳥は慎重論と、相通じるものがあった。

 陸奥が最も恐れたのは諸外国の干渉への隙を作ることである。

(「明治27年8月1日から明治27年8月31日」p25、()は筆者。)

明治廿七年八月十五日起草 同日発遣

 伊藤内閣総理大臣
     陸奥外務大臣

   閣議案

 本大臣より去月七日付送第九十三号を以て提出せし閣議案決定したる以上は、今後朝鮮政府に対する外交上及軍事上の行為総て右廟謨に背戻せざる様注意せざるべからざることは、固より言を待たざる義に有之候得共、即今の形勢に就いて言うときは我国は既に清国と交戦中に有之。而して軍略上の都合よくして総ての陸兵は釜山を以て上陸地となして、縦横に朝鮮国内を通行し、尚今後の戦闘の進行に依りては単に其国内に屯在する清国軍兵を同国の境外に駆逐するに止まらず、或は道を同国に仮りて直ちに清国疆域に攻進するの已むを得ざるに至るべきやも不被計、実際に於ては朝鮮国は恰も日清両国の戦場、若くは戦場に達すべき通路の如き姿なるを以て、之に対して全く平和の時に於けるが如き手段を執り居ること能わざることは勿論の義に有之。

 然しながら本問題に関しては帝国政府は已に欧米各国政府に向て公然言明したる所も有之候得共、其外交上及軍事上の行為に至ては、総て右等各国に向て其責に任ぜざるを得ざれば、外交上に於ても軍事上に於ても、著しく国際公法の範囲外に軼出するが如き行動無之様極めて慎重を加えざるべからざる義に有之。

 尤今日の場合、一方に於ては朝鮮国内にて頻りに戦闘の設備を為し、又同国未曾有の改革を挙行せしむる等の権変を行いつゝ、他の一方に於て国際公法の常軌に遁守せんとすることは、時に或は牽掣を生じて不便を感ずること少からざるべけれども、去迚又之が為めに他強国の非難を招き、我政府をして殆ど答辞に苦しむが如き地位に陥らしめ候ことは決して得算に無之、要するに今日朝鮮国の地位は我が同盟にして敵国に無之候得共、徹頭徹尾同国政府及人民の敵意、若くは怨心を引起さゞる様、注意を加うること最も肝要に有之。

 又第二には、我は已に朝鮮を独立国と公認し、且つ其疆土を侵略するの意なしと明言したる以上は、言行の一致を保つため、其独立国たる面目を著しく毀損するが如き行動及其疆土を実際に侵略したるが如き形跡は可成之を避け、我軍隊の運動の如きも総て朝鮮政府の同意を得たるか、若くは朝鮮政府と一体の運動を為すかの実を挙ぐること肝要に有之。

 又帝国政府に於て朝鮮政府に向て其政治上の改革を勧告するに付ては、単純なる勧告に止まらずして、時宜に依りては多少強勧勉従せしむることも可有之、又軍事上に於ても種々の補助を要求する場合も可有之候得共、此等の勧告要求も時としては同政府又は人民に於て、堪え得ざるの感を生ずるの恐なしとせず。
 無論今日の処にては、同政府も到底我に倚頼せざれば其独立を保全すること能わずとの観念を有するものゝ如くなれば、我勧告、我請求に対しては、万事勉強して相応居候には相違無之候得共、我要求、過度に至ては彼竟に堪得ずして不本意ながらも情を他欧州各国に訴え、我勧告要求を猶予し、若くは延展せんことを求むるに至らざるを保せず。

 既に前に提出せし閣議書中にも陳述せしが如く、露国政府の如きに至て常に其間隙を窺居ること判然たれば、若し一旦如此機会、若くは口実を与うるときは、必ず巧みに朝鮮政府を篭絡して竟には日韓間の関係を封じて日露韓三国に渉る関係となし、朝鮮政府に代わりて、我に抵抗議を試みるに至ることなきやも難計。
 現に本年六月廿九日付在露西特命全権公使よりの機密第八号信にても、略ぼ露国政府の底意の在る所をとするに足るべければ、此際、帝国政府に於ては務めて事を慎重にし、第三国をして用意に容喙干渉せしめざる様注意すべきことと存候。

就ては、左記の三点に付、本大臣より大鳥公使え詳細なる訓令に可及候間、当該軍衛よりも朝鮮出張陸海軍総指揮官に対し、充分綿密なる訓令を発せられんことを希望す。

  第一、苟も朝鮮の独立権を侵害するが如き行為は仮令軍事上不便、若くは不経済に渉ることあるとも可成之を避くべき事。

  第二、朝鮮政府に対する請求は時に已むを得ざる場合可有之と雖ども、其請求の程度は、朝鮮政府独立の対面に対し、及び新設政府に伴う経済上の関係の関係に対し、堪え得べき度合を限とし、竟に朝鮮政府をして我要求に堪えざるの感を起さしめざる様、充分注意する事。

  第三、朝鮮は我が同盟にして敵国に非ざれば、同国に於て軍事上及其他に必要物品あるときは、成丈其満足すべき代償を与え、決して侵掠の形跡無之様、深く注意する事。

 右乞閣議

 朝鮮の独立権を侵害するような行為は、たとえ「軍事上不便、若くは不経済に渉ることあるとも」なるべくこれを避けること。そして、朝鮮政府に堪えられないような感を起こす要求をしないこと。朝鮮は同盟国なので、当地での軍需物資や必要品があれば、満足すべき代償を与えて、決して掠奪などの無いように深く注意する事、と
 何とも開戦前の陸奥の冷徹さと打って変わって、よくよくの気の使いようである。清人が聞いたら腹を抱えて笑いそうな。

 しかし、一旦開始した戦争は終結を見るまでいけいけどんどんでも、戦時の諸外国との外交こそ最も繊細なものが求められるのであろう。まして、大国ではない島国にとって、世界が注目する中での近代初の国家間戦争なのだから。

 閣議に提出されたのが8月15日、しかし大鳥に訓令が出されたのは21日である。それというのも決議が20日(「明治27年8月1日から明治27年8月31日」p41)となったからであった。

 

「将来朝鮮を如何すべきや」議論

 どうして日数を要したのか、おそらく次の大問題に対して閣議を費やし、またその結果を待とうとしたからであろう。
 その大問題とは、朝鮮の独立を擁護し内政を改革するということは第一であるが、そもそも朝鮮国を将来どうするのか、ということであった。
 陸奥は以下の甲乙丙丁案を提出して閣議を求めた。

(「明治27年8月1日から明治27年8月31日」p31、()は筆者。)

明治廿七年八月十六日起草、
同十七日付

伊藤内閣総理大臣
     陸奥外務大臣
   閣議案

 朝鮮事件は、当初大鳥公使の赴任に臨み、籌画せられたる所の廟算に比すれば、外交上に於ても軍事上に於ても、荐りに局面の変遷に遭遇し、歩々深入、遂に今日の形勢とはなれり。

 而して目下に施すべき政略に至ては、随時廟議の決定する所あるを以て其成議に遵い、之を遂行すべきことは固より論を待たずと雖ども、将来朝鮮を如何すべきやという問題、即ち本件の最後の大目的は如何という問題に至ては、第一に帝国政府は朝鮮の内政を改革する為め、又其独立を永久に保全する為め、竟に清国と交戦せざるを得ざる場合に立至り、現に尚お交戦中に在れば、到底日清間最後の勝敗を見るの日に非ずんば、実際に起り来るべきことには無之、然れども今に於て此問題に対する一の方針を確定し置くことは、自今帝国政府が執行すべき外交上及軍事上の措施に関し、頗る緊切の干係を有するのみならず、大鳥公使よりも本問題に付、政府の方針を伺い来り居れば、本大臣は茲に左記の考案を具し、以て予め廟議を確定する所を聴かんことを望む。


、帝国政府は既に内外に向て朝鮮を一の独立国と公認し、又其内政を改革せしむべしと声明せり。就ては今後清国との最後の勝敗相決し、而して我輩が冀望する如く、我帝国の勝利に帰したる後と雖ども、以前一個の独立国として全然其自主自治に放任し、我よりも之に干渉せず、亦た毫も他よりの干渉をも許さず、其運命を彼に一任する事。

 但し、此方策に付ては左の疑問を生ず。

  一、朝鮮の如き紀綱廃頽萎靡不振、官民共に独立の志尚に乏しき国柄に在りては、仮令一時、他の刺激に因り、其内政改革に多少の改革を加えたりとも、之を永久に維持し、又、時に応じて之を改進せしむることは甚だ疑なきこと能わず。若し然るときは、帝国政府が今回大兵を派出し、巨額の軍費を使用したる結果は、竟に水泡に帰するを免れざるべきか。

  二、若し此の如く朝鮮が自ら独立を保持し難きことを知りながら、其将来の命運を全く彼に一任するときは、或は恐る、他日清国は再び其隙を窺い、間接に直接に朝鮮国政に干渉し、或は現在の政府を転覆し、事大党と称する閔族一派の徒を以て更に政府を組織せしめ、恰も日清交戦以前の如き清韓の関係を再現せしむることを。而して一旦如此場合を生ずるときは、帝国政府は其経歴上、袖手傍観して全く清国の所為に一任すること能わざるは敢て言を待たざるが故に、必ず再び之に対し争論せざるを得ざるに至るべく、而して斯る争議は到底樽俎の間に円滑なる妥局を結ぶことは極めて得難きことなれば、其極終に再び日清両国間の平和を破るに至らざるを得ざるべし。是れ恰も日清両国が朝鮮に関する戦争の歴史を再現するに過ぎざるべく、然るときは今回の盛挙をして殆ど徒労に帰せしめ、児戯に終らしむるの恐れなきか。


、朝鮮を名義上独立国と公認するも、帝国より間接に直接に永遠若くは或る長時間其独立を保翼扶持し、他の侮を禦ぐの労を耴(取)る事。

 但し、此方策に付ては左の疑問を生ず。

  一、朝鮮の独立国たること及其疆土を侵略するの意なしとのことは、帝国政府が従来各国政府に向て公言したる所なれば、今仮令間接たりとも彼半島の一王国を以て帝国の勢力の下に屈服せしむるときは、遂に他外国の非難と猜忌とを招き、或は是が為めに無数の葛藤を生ずるの憂なきか。

  二、帝国政府は以上に述べるが如き困難を顧みず、朝鮮を保護国の如く耴(取)扱い得るとするも、他日、或事変に関し、清国、露国、其他朝鮮の利害の関係を有する邦国より、朝鮮の独立を侵害することあるに際し、帝国は独力を以て終始同国の外患をを(原文のまま)防禦し、之を保護することを得べきか。


、朝鮮は其自力を以て其独立を維持すること能わず、又我帝国に於ても、直接と間接とを問わず、独力を以て之を保護するの責に任ずること能わずとするときは、嘗て英国政府が日清両国政府え勧告したるが如く、朝鮮領土の安全は日清両国に於て之を担保する事。

 但し、此方策に付ては左の疑問を生ず。

  一、帝国政府に於て其戦勝の勢を以て清国政府と協議せんには、開戦前に於けるが如く同国政府も頑冥固陋の説を主張せざるべしと雖ども、彼儀式的宗属問題は到底之を抛棄せざるべし。而して我に於ても開戦前に於ては、曽て英国政府え明言したる如く、彼若し属邦論を提起せざれば、我亦必しも独立論を主張せざるべしといいしと雖ども、戦勝の後に至ては、清国が朝鮮に於ける関係にして実利上と名義上とを論ぜず、苟も帝国が朝鮮に於ける関係よりも優等なる観あることは、到底帝国が姑容耐忍すること能わざる所なるべし。故に或は斯る無要なる争議の為めに遂に又議破るゝか、否ざれば談判遅延して長く交戦国の情形を継続するに至らざるか。

  二、仮りに清国政府は我に屈服して宗属関係の問題を提起せざりしとせんか、日清両国にて朝鮮疆土を保全するに付ては、勢い日清両国より朝鮮の政務を輔助すべき監督官、若くは委員を派遣せざるべからざるのみならず、或は互に多少の軍隊を駐屯せしむるの要あるべし。然るに日清両国が朝鮮に対する利害の関係は常に相い反対するのみならず、日清両国政事家の主義も常に氷炭相容れざるを以て、両国政府が朝鮮に対する意見、往々衝突して一致に帰せざるに至ること必せり。其極竟に第一疑問に於けるが如き結果を生ぜざるか。


、朝鮮が自力を以て独立国たることは到底望むべからざることとし、又帝国が独力を以て之を保護するを不利なりとし、又日清両国にて其独立を担保するは竟に彼此協同一致を得べき望なしとするときは、朝鮮を以て世界の中立国と為さんことを我国より欧米諸国及清国を招誘し、朝鮮国をして恰も欧州に於ける白耳義(ベルギー)、瑞西(スイス)の如き地位に立たしむる事。

 但し、此方策に付ては左の疑問を生ず。

  一、朝鮮国に最も利害厚きものは日清両国にして、今回の交戦の如きも亦た日清両国間の利害の衝突たるに過ぎざれば、此戦争の結果より生ずる所の名誉と利益とは、固より他の欧州各国をして分受せしむるの必要なく、又之を分与せんとするは、諺に所謂犬骨折て鷹の餌食というが如く、帝国の失う所、得る所に超過するの観を呈し、頗る帝国人民の満足せざる所なるべし。況や帝国政府は大兵を出し巨額の軍資を費したるの結果、何の得る所もなしとせば、到底世論の攻撃を免れざるべきか。


 右の如く考察し来れば、甲乙丙丁の四問題は、何れも一利一害を存するものにして、若し一たび其択ぶ所を失すれば、頗る禍害を後世に遺すの恐なき能わず。然れど、朝鮮に関する将来の位地如何を考うれば、遂に此四方策の外に出ざるが如し。而して其何れの方策に帰着するを問わず、日清交戦最後の勝敗、相決したるの後に非ざれば、相起らざるの問題問題なりと雖ども、廟算は予め此内の一に付、確定する所のものあらざれば、今日外交上の操縦に於ても又軍事上の行動に於ても、頗る緊要の関係あり。故に予め廟謨を確定し置かれんことを望む。而して以上に列挙する四方策の外尚お閣僚諸公に於て高明なる考案あらば、固より其方策を聴かんことを冀望に堪えず。
 右乞閣議。

 冒頭、「朝鮮事件は、当初大鳥公使の赴任に臨み、籌画せられたる所の廟算に比すれば、外交上に於ても軍事上に於ても、荐りに局面の変遷に遭遇し、歩々深入、遂に今日の形勢とはなれり」と、つまりは成り行きとして日清間の戦争に至ったと述べている。
 しかし、戦争の勝敗を見るまでは分からないが、朝鮮国の将来をどうするかの一つの方針は立てておかねばならないのではないかと。
 つまりは日清戦争とは何ぞや、ということを含む陸奥の提議である。

 今日では、よく聞くことに例えば、「日清戦争とは、日本と清国が朝鮮支配権をめぐって起こした戦いのこと」と。
 それならば、こんな提議を閣議にはかって3日間も議論しないでしょ。
 受験のための年表形式のようなレッテル貼りの歴史を覚えたとて何になろうか。(はるか昔を思い深く自戒)

 さて、読者諸氏なら甲乙丙丁のどの案をとられようか。
 無論もはや断交は出来ない。山ノ城祐長のかつての警告はもう手遅れである。で、甲案では再び東学党などの乱となって、元の木阿弥。骨折り損のくたびれもうけ。乙案は、日本としては最も苦労が絶えない道である。丙案は、一の疑問にあるように「頑冥固陋」の清国と一致するのはナンセンス。丁案では、貧国弱兵の道しか辿らない国が、独立だの中立だの口にしたところで是ほど空しい言葉は無かろう。まして当時の世界情勢では非現実的。しかしかつて井上馨はこれを願っていた。

 この後、どの案を採択したかの閣議決定の文書は無い。無いはずである。結局決定に至らなかったのであるから。
 即ち、陸奥の「蹇蹇録」に「・・・今回の提議に対し内閣同僚の議論も遂に正式を履み廟議を決定するに至らず。(「第十一章 朝鮮内政改革ノ第二期」p8)」とある。
 つまりは、この時点で日本政府は朝鮮に対する方針は確定していなかったということになる。これは日清戦争終結後も依然としてそうであり、それで当時の朝鮮駐箚井上馨全権公使も困って政府にその決定を繰返し求めている。

 で、「蹇蹇録」で陸奥は言葉を続けて、「・・・決定するに至らず。僅に当分の内は余が四個の問題中、先ず乙策の大意を目的となし置き、他日更に廟議を確定する所あるべしと議決したり。
 かくて日本は、実に困難な道を選ばざるを得ないことになるのであった。(はぁと)
 つまりは陸奥も、世間に公然たる言葉として表れてくる義侠論に抗えなかったと。

 しかしこの提議文、語彙を豊富に知る陸奥らしい辛辣な言葉が並ぶ。曰く「朝鮮の如き紀綱廃頽萎靡不振」且つ「官民共に独立の志尚に乏しき国柄」と。
 将にその通りなのだが。

 

対清国攻守同盟へ

 大鳥公使提案の朝鮮国との仮条約案(「日韓協約雑件」の「分割1」B06150002900、p47)は、その後朝鮮政府と協議を重ね、また日本政府の指示による修正なども加え、20日に至って以下のように調印となった。

(「日韓協約雑件」の「分割1」B06150002900、p53)

廿七年九月八日接受
機密第一七三号  本九七

  朝鮮政府と仮条約訂結の件

 本年七月二十三日事変後の関係を定むる為め、両国政府の間に仮条約を訂結する事に関し、本月一日付機密第百四十三号本八三信を以て条約案相添具申に及び置き候処、其後双方協議を重ね、且つ御電訓の趣に随い改正を加え、漸く同月二十日に至り、別紙甲号の通り確定調印致し候。依て改正を加えたる個条、大略申述候。

 表題は元と条約とあるを御電訓に従い合同と相改め申候。

第一条は、 朝鮮政府の請求に従い、同政府の体面を維持せんが為め、字句を変更したるも其趣意は同様に有之候。

第二条  鉄道築接に係る件は兼て内報に及び置たる英韓の内約に制せられ、余儀なく「目下委曲情節ありて、其運びに及び難し。依て良法を案出し、可成丈速に訂約起工の運びに至るを要す」との一節を相添申候。

第三条  朝鮮政府の請求に依り、電信の上に「軍用」二字を相添申候。

第四条及第五条は、従前清国政府と類似の密約ありしが為め、朝鮮政府は之を条約に載するを好まず。単に外国人を雇入るゝことと為したしと申出候に付、再三協議の末、之を削除し、代うるに公文二通を以てせり。右は別紙乙丙両号の通りに有之候。

第七条  朝鮮政府の請求に従い、両国兵の衝突を偶然の衝突と改正致候。

第八条  御電訓の趣意に従い保護の二字を鞏固と改め候。

別紙相添右申進候也。
  明治廿七年八月廿五日
      特命全権公使 大鳥圭介
   外務大臣 陸奥宗光殿

 


(p55)

甲号

大日本
大朝鮮 両国政府は、日本暦明治二十七年七月二十三日 朝鮮暦開国五百三年六月二十一日、漢城に於て両国兵の偶爾衝突を興したる事件を治め、併に将来朝鮮国の自由独立を鞏固にし且つ彼此の貿易を奨励し、以て益々両国の親密を図らんが為め茲に合同条款を暫定すること如左。

  暫定合同条款

一 此度日本政府は、朝鮮国政府に於て内政の改革せんことを希望し、朝鮮政府も亦た其急務たるを知覚し、其勧告に従い励行すべき各節は順序を追て施行すべきことを保証す。

一 内政改革の節目中、京釜両地区及び京仁両地間に建設す可き鉄道一事は、朝鮮政府に於て其財政未だ裕かならざるを慮かり、日本政府若くは日本の或る会社に訂約し、時機見斗い起工せんことを願うと雖ども、目下委曲情節ありて其運びに及び難し。依て良法を案出し、可成丈速に訂約起工の運びに至るを要す。

一 京釜両地及び京仁両地間に於て、日本政府より既に架設したる軍用電信は時宜を酌量して条款を訂立し、以て其存留を図る可し。

一 将来両国の交際を親密にし、且つ貿易を奨励せんが為め、朝鮮政府は全羅道の沿岸に於て一通商港を開く可し。

一 本年七月二十三日、王宮近傍に於て起りたる両国兵員偶爾衝突事件は彼此共に之を追究せざる可し。

一 日本政府は素と朝鮮を助けて其独立自主の業を成就せしめんことを希望するに因り、将来朝鮮国の独立自主を鞏固にする事宜に関しては、両国政府より委員を派し会同議定す可し。

一 以上開く所の暫定条款は画押蓋印を経たる後、時宜を酌量し、大闕護衛の日本兵員を以て一律撤退せしむ可し。

右暫定合同条款内、永遠に循守す可き者は後日更に条約として遵行す可し。此が為め両国大臣記名蓋印以て憑信を昭にす。

 大日本国明治二十七年八月二十日
      特命全権公使 大鳥圭介
 大朝鮮国開国五百三年七月二十日
      外務大臣   金 允植

 仮条約とは言え、京城釜山間、京城仁川間の鉄道敷設案、同間の軍用電信線の存置、新たな開港地、23日の王宮での小戦闘問題の不問、内政に関する日本委員の派遣、王宮護衛日本兵の撤退とで合意。

 更に26日には、朝鮮国はついに清国に敵して日本国と軍事同盟を結んで、その旗幟を鮮明にした。

(「日韓協約雑件」の「分割1」B06150002900、p16)

機密一四七号  本九八

  日
  朝 両国盟約調印の件

 本年七月二十五日已降、日朝両国は清国に対し攻守相助くるの位地に相立ち候に付、其事実を明かにし并に両国の責務を慥めんが為め、盟約すべき趣意を取調べ本月十四日第四十六号電信を以て伺出て同廿五日重ねて電信を以て盟約案の御承諾を申請致候処、翌廿六日、右御承認相成候旨の御電訓相達候に付、即日外務衙門に至り調印取計候。依て同盟約和漢文写別冊差進め候間、御一覧相成度候。

 扨又、同約書の冒文に本年七月二十五日、清兵の撤退を依頼したる一節を掲げ、以て訂約の由来を引起したるは即ち同日已後、日韓両国は清国に対し攻守同盟の位地に立ちしを明かにしたる義に有之候。

 其他第一条已下は本文にて御承知相成度候。
 別冊相添え此段及上申候也。

  明治二十七年八月廿七日
      特命全権公使大鳥圭介
   外務大臣陸奥宗光殿


(p17)

   大日本
   大朝鮮 両国同盟約

大日本
大朝鮮 両国政府は、日本暦明治二十七年七月二十五日 朝鮮暦開国五百三年六月二十三日に於て、朝鮮国政府より清兵撤退一節を以て朝鮮国京城駐在日本特命全権公使に委託して代弁せしめたる以来、両国政府は清国に対し既に攻守相助くるの位地に立てり。
 就ては其事実を明著にし併に両国事を共にするの目的を達せんか為め、下に記名せる両国大臣は各々全権委任を奉じ訂約したる条款左に開列す。

 第一条
此盟約は清兵を朝鮮国の境外に撤退せしめ、朝鮮国の独立自主を鞏固にし、日朝両国の利益を増進するを以て目的とす。

 第二条
日本国は清国に対し攻守の戦争に任じ、朝鮮国は日兵の進退及び其糧食準備の為め、及ぶ丈け便宜を与うべし。

 第三条
此盟約は清国に対し平和条約の成るを待て廃罷すべし。

 此れが為め両国全権大臣記名調印し、以て憑信を昭にす。

 大日本国明治二十七年八月二十六日
      特命全権公使 大鳥圭介
 大朝鮮国開国五百三年七月二十六日
      外務大臣   金 允植

 すでに平壌には清軍の大部隊が展開しており、いつ京城に向って前進してもおかしくはないのであるが、なぜか清軍は進攻する気がなかったようである。かつて「大軍を率いて京城に戻る」と大言した袁世凱はどうしたのであろうか。

 よって日本軍は清軍を朝鮮国外に撃退するために平壌に向うことに。

 

取締り、貧民恤救、見舞い

 牙山・成歓の戦勝は日本人にとっては喜ぶべきものであったが、周辺の朝鮮住民にとっては一面迷惑なものでもあったろう。何しろ生活の場が戦場となったのであるから。また戦勝に酔う京城日本人の増長、或いは尚も不安を隠せない韓廷内と、その波紋も様々であった。
 そこはきめ細かな気配りをするのもまた日本人である。傲慢に流れる日本人を取り締まり、被害を被った貧民などを恤救し(帝国軍隊入京以来京城居住韓人等商業衰退細民糊口ニ若シ惨状ヲ呈ストノ帝国公使ノ上申ニ基キ貧民ヘ賑恤ノ件)、また天皇皇后両陛下から韓廷に見舞いがある(西園寺顧問官韓国ヘ出張ノ件)など、何かと慰撫にも努めた。
 以下、杉村濬の記述によるその時の様子である。

(「在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 2」p47より現代語に、()は筆者)

 本年の我が兵の入韓以来、我が将校は特に軍隊の規律に注意し、その取締りは厳重であるところから我が兵士の行為に対する愁訴は極めて少なく、内外人ともその厳粛なる姿を賞賛した。しかし軍夫(軍雇いの人夫)に至っては往々にして乱暴の行為が多く、当局でもその取締りにやや困難となるぐらいであった。特に7月23日以後は、朝鮮政府の無力に乗じて恰も戦勝の気勢を帯びた軍夫や無頼の徒は京城内外を横行闊歩し、そのために彼らに対する愁訴が一時に増し、我が警察官を増加して取り締まる必要を生じた。これに於いて急遽外務大臣に打電して巡査百名の派遣を請求したところ、政府には早速その申請を容れ、武久警視ほか警部3名、巡査百名に朝鮮出張を命じられた。

 武久警視以下は8月16日に京城に着いたが、この時軍隊は既に北進しており、京城の内外はやや静謐に帰したので、一時その内の若干を王宮の護衛に充て、また若干を朝鮮警察官の教習に充てた。
 9月1日に野津師団長が京城を発して北進せんとするに当り、軍需徴発と捕虜護衛に充てたいとの師団の請求により、警部1名巡査15名ずつを平壌と本道との間道に分派し、なお後は巡査15名を黄海道海州から載寧路を取って平壌に向かわせた。

 やがてそれらの警部巡査は平壌から九連城から任務を終えて皆が京城に戻った。その後、朝鮮警察が整うにしたがい、漸次数を減じて帰国させた。

 また、京城の住民は今回の事変に際して半分が乱を避け、牙山・成歓の地は戦場となり、あるいは京城から平壌に至る沿道は兵馬の往来の為めに常業を失い、よって人民らの内で困窮に陥る者が少なくなかったので、我が政府に請求して、救貧費として3万円の支出を請求した。
 (裁可を得た後に)朝鮮政府に照会して地方官の助力を以って貧民およそ1万戸に米と金銭若干を賜与して賑恤した。
 賑恤に当っては初めその戸数が甚だ多くないかと気遣ったが、調査の結果は案外に少なく、3万円の金額で優に賑恤することが出来た。

 以上のように、一面には我が国の無頼漢を取り締まり、一面には貧民を恤救して専ら韓民の保護に努めた。

 尚又、天皇皇后両陛下から朝鮮国王王妃両陛下に御見舞いのため特に西園寺公望侯爵を大使として派遣され、同大使一行は8月29日を以って京城に着された。
 一行は以下であった。

 侯爵    西園寺公望
 法制局長官 末松兼澄
 式部官   田中建三郎
   外には宮内属2人、法制局属1人、外務翻訳官試補1人。

 朝鮮政府は王宮司訳院を一行の大使館に充て、宮内官員を派して接待に努めた。
 大使は我が両陛下から朝鮮国王王妃への御使いなので、王妃にも謁見を請われたが、朝鮮の王妃はこれまで外国婦人の外には男子に謁見を許された前例がないので、一時はこれを肯ずる様子がなかったが、同31日午後3時の謁見時に至って急に許可され、それにより西園寺公望並びに大鳥公使には国王へ謁見の後に直ぐに王妃へ謁見した。

 この頃、清軍はすでに平壌に篭って守備を固め、その警報は朝鮮上下の人心を恐れさせ、一方我が軍は漸次北進して黄海道の野に遍満するといえども、まだ両軍が接する時機でもなかった。よって局外者から見れば両軍の勝敗がまだ定まらなかった時なので、朝鮮政府は常に危惧の念を抱く中にあったが、努めて西園寺大使を優待した。

 9月3日には大使を公使館に招待して夜会を開き、翌4日には外務衙門から大使一行並びに公使及び館員が昼食の招待を受け、5日の昼には大使は大院君を招かれ、同夜は朝鮮各大臣を招かれ、6日はまた夜会を開いて内外人一般を招かれた。
 そしてまた大使は、7日には宮内大臣から、8日に大院君から、9日には李呵Oに招かれた。
 翌日10日には大使は御暇乞いのために謁見を請われ、その夜再び夜会を開かれ、翌11日に大使一行[末松長官を除いて]は出発帰朝の途につかれた。
 この時大院君は龍山の別荘に大使を送って別れられた。

 7月23日の事変後、京城は殺気に満たされて国王王妃とも始終疑懼の間を離れられず、そういう中に大使の入韓は幾分かこれを和らげた。

 西園寺大使の出発後、朝鮮政府は報聘大使を派遣すべき事を議決した。

 以上の杉村の記述を読むと、とりわけ西園寺侯爵の大使派遣の様子などは、26日に日朝軍事同盟がなったばかりの両国で、なにやら親近の交歓という微笑ましい姿が想像されるが、どうしてどうして、水面下では大院君がしっかり陰謀を巡らせていたことが後に発覚する。

 何しろ平壌戦前のことである。もし日本軍が平壌で敗れて日本不利となった場合は、清国に対する政略上から直ちに京城在留の日本人を攻撃すべく手筈を整え、東大門と南大門外に多数の東学党乱民を結集させていたのである。
 尤も、京城には日本軍京城守備隊(司令官 安満歩兵少佐 歩兵第22聯隊の第2大隊[第5中隊欠く])が居り、朝鮮乱民が多少騒いだところでどうということはなかったろう。そしてどうやら不穏な動きを察知したようで、守備隊はある程度動いたらしい。
(渡辺砲兵少佐附属 横山又三郎通信)

 軍事同盟をしているのに卑怯な、などとは言うまい。
 日本が勝てば日本に付き、清国が勝てば清国に付き、露国が進出すれば露国に靡く。それが朝鮮という弱小国なりの生き方であろう。まして国家の存亡がかかっているのであるから。
 保身に汲々としている諸大臣などに比べれば、大院君はそれなりに先を見通してするべきことはする実行の人であったように思う。

 などと筆者はここで分ったように書いていたが、この後、知れば知るほどそうではなく、実は大院君こそまったく国もことも民のことも思わず、ただただ独り権力が欲しいのと、孫の李呵Oを溺愛して国王に据えたいというだけの、恐るべき保身の人であることが判然とした。絶句。

 

大院君の陰謀と東学党扇動

 7月25日に朝鮮は日本に対し牙山清兵の撃退を依頼し、8月20日には暫定合同条款を結んで7月23日王宮周辺での両国兵の衝突を問題としないことを約し、更に8月26日には対清国攻守同盟を結びと、いよいよ朝鮮は日本と組んで清国に宣戦する姿となった。しかしこれは表向きのこと。
 まさにこの頃、裏では大院君と国王は日本軍撃退を清国に依頼し、また大院君は東学党を扇動教唆して日本人排斥を謀った。

 つまりは明治15年・17年事変での手法を併せて仕掛けたわけである。

 先ず、大院君は8月16日頃に密使5人を平壌に派遣した。21日に平壌に入った密使は同監司の閔丙奭に密書を交付し、そこで流刑に処せられていたはずの閔泳駿に会い、また清将衛汝貴に面会した。
 その後再び平壌に赴き、大院君からの手紙を清将に渡すように閔監司に命じた。その8月28日付の手紙には、
「我が宗社(王家・国家)の危急であり、奸臣が日本に付いたからこれを追い払うことに意を致すよう大臣に通じられたい」
とあった。

 また大院君孫の李呵Oも国王に面会して清軍に依頼するよう説得した。それは国王の後の談話から再現すれば以下のようなものであった。(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/22 朝鮮政況ノ報告」p47)

 「日本公使は廃妃を考えています。彼の心は計られない。朝鮮の国土を略奪する意がないとは言えない」

国王「日本政府にそのような悪意はない。我独立を助けて富強国に導くものであって、懸念はない」

 「いえいえ、日本公使館の内幕を察すればそうではなく、野心があるようです。朝鮮宗社(王室・国家)のことを考えると早急に清国と結託して我国を保たねばならない。」

 閔妃廃妃を画策していたのは実は李呵O本人であることは言うまでもない。日本公使館側はそれに反対していた事も。
 しかし李呵Oは再三にわたって、平壌の清将に書簡を送って通じておくのが得策であると説得し、終に国王もその言葉を信じて、日本軍を撃退することを清将に依頼する旨の書を出すに至った。

 また大院君は、閔氏政権によって獄に繋がれていた東学党の巨魁2名を釈放し、1人を内務衙門主事に、1人を議政府主事に採用し、以って東学党への影響力を確保。
 次に李呵Oに指示し、国王の名を以って「王は独り天を仰いで慟哭するのみ。倭寇が王宮を犯し、その禍は宗社の命に及ぶ」という書を認め、その元巨魁らを含む複数の者たちに渡して地方に居る東学党の巨魁に接触させた。

 更には、忠清道に居る名士豪族(元大臣たちの子息)に密使を送って東学党の扇動を命じた。また密使は、忠清道の東学巨魁任箕準、徐長玉に、全羅道の東学党巨魁全琫準、宋喜玉に、それぞれ会って東徒の召集を促し、慶尚道に於ては直接に東徒の糾合を呼びかけた。(それにより10、11月に相次いで蜂起)
 そして大院君は、東学党には数十万で大挙して京城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本人を駆逐する策を実行するように指示した。

 更に李呵Oは混乱に乗じて、王妃、世子宮を廃して王位を簒奪せんと画策を謀った。

(以上「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/15 第拾弐号 〔清国ヘ親書送付ニ付大院君トノ対談〕」、「 朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/17 第拾三号」、「 朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/18 第拾四号 〔清国ヘ親書送付問題並ニ内政改革ニ付韓国王ニ謁見〕〕」、「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/22 朝鮮政況ノ報告」、「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/28 1895〔明治28〕年4月8日から明治28年6月15日」、「東学党事件ニ付会審ノ顛末具報(下記リンクの詳細資料参照)」より)

 以上の事は、後の平壌戦で勝利した日本軍が平壌城内を捜索して清軍が敗走遺棄していった多数の書類を押収し、その中に国王や大院君、李呵Oの書簡を発見し、また10月に再乱となった東学党を掃蕩しつつ押収した書類の中に、大院君と李呵Oの扇動教唆の手紙と、それに応じる旨の東学党巨魁ら互いの連絡書簡を発見し、また後に逮捕された大院君らの部下たちの供述によって明らかになったものである。なお、後に日本公使の追究によって、国王、大院君、李呵Oはそれらをほぼ認めて謝罪した。

 この時点で、大院君のその思惑などはおよそ次のようなものであったようである。

・ 平壌戦に於いて日本軍は必ず敗北し、やがて清軍は京城に迫るだろう。
・ 7月23日に日本公使によって担ぎ出されて王宮に入り、直ちに閔泳駿を追放して自らが執政となったが、その閔泳駿は清将に保護されて平壌に居る。このままでは日本と結んだとして、京城に来る清将から指弾排斥されるだろう。つまりは明治15年事変に於ける清国への拉致監禁の再来ということにもなりかねない。
・ 閔氏が復権するのを防ぎ、自分が執政の地位を占め続ける為めには、牙山の清軍撃退を日本軍に依頼して日本と軍事同盟を結んだのは、すべて政府の奸臣(開化党)がしたものであって自分は関係ないと表明しておかねばならない。
・ 同時に朝鮮王族は今までのように清国を頼るものであるとの意を清国大臣に伝えておかねばならない。
・ それでも国王が日本と軍事同盟を結ぶことに同意したという事実がある以上、国王のその責任は免れられないだろう。よって、この際、閔使復権に繋がる王妃を廃妃し、また世子宮も廃し、更に王位を孫の李呵Oに譲らせることを以って清国への忠誠と謝罪の意を顕す。
・ ついては、京城に向う清軍を掩護し、自分の指導によって朝鮮人挙げて日本人を排除したという実績も挙げておかねばならない。
・ よって東学党を手なずけ操縦し、そのためには東学党にむしろ恩情を与えて味方とすることを謀り、東学巨魁に国の危機を訴えてその忠義心を引き出す。
・北から京城に向う清軍と南から向う東学党を以って、京城駐在の日本軍を挟み撃ちにして殲滅し、また在留日本人を乱の内に殺害し財産を略奪する。

 つまりは日本にとっては明治17年事変のパターンの、より被害の甚大となる形での再現となる。まさに、朝鮮居留の日本人の生命と財産、日本国の権益は、この平壌戦の勝敗如何にかかることになったと言ってよい。

 なお詳細資料としては別頁「大院君と李呵Oの隠謀について」を参照のこと。

 

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