日清戦争下の日本と朝鮮(1)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)

 7月25日の豊島沖海戦を以って日清戦争となる。よってこの頁から「日清戦争下の日本と朝鮮」としたい。

  万里倉本部 撮影者 樋口宰蔵  小川一眞 明治二十八年八月発行「日清戦争写真帖」
国威発揚 日本出師軍歌  「万里倉」   三田村熊之介著 明治二十七年八月廿一日発行

旗を倭城の上に樹(た)て 嘶く馬を漢江の
岸に飲(みずか)う我が軍の 謀議の出づる万里倉(ばんりそう)
是ぞ朝鮮八道の 貢ぎの米の蔵なるを
今は柱も傾(かたぶ)きて 壁さへ落ちて哀れなり
丹楹(たんえい・・・朱塗の柱のこと)朱扉の駆魔廟も 香火の烟(けぶり)絶えにける
されど其地は山を負い 流に臨む天然(てんせん)の
山河(さんか)の固(かため)たぐいなく 風雲は指顧の中(うち)に在り
銅雀津(しん)に楊花津 往くも還るも通路(かよいじ)の
其の咽喉(のどくび)をさしおさえ 緑りも深き木の間より
白く見ゆるは我兵が 仮り寐の夢の帳幕ぞ
今や遅しと開戦を 勇みてこゝに松の影
雨露(うろ)さえことに繁けれど たわみ弛まぬ義勇心
朝(あした)に馬に秣(まぐさか)い 夕に糧を腰につけ
守る帝国軍隊の 陣中更に病なく  眼中さらに敵はなし

 「万里倉」は京城城外南西の高岳の地である。当初、牙山の清兵が西進して京城に入るのに備えて、混成旅団宿営の場所となり、軍本部が設けられた。軍歌はそれを歌ったもの。

 この軍歌本は、宣戦の詔に始まり、仁川上陸、京城までの経路、朝鮮王城、豊島の海戦、牙山の激戦などの光景を語った戦記風なものとなっている。更になぜか「三韓征伐」や「元寇の歌」まである(笑)。

 付録として「北京にまで」と題して次のようにあるのが興味深い。

「支那も昔は聖賢の 教ありつる国なれど 代を易え歳を経る侭に 次第に開化のあとしざり 口には中華を誇れども 心の野蛮は反比例 其蒙昧を破らずば 我東洋の夜は明けじ 時こそ来たれいざ来れ 豊栄昇る旭の旗を 北京の城に押し建て 無明の闇を照らすべし これぞ名におう日の本の 皇御国の務なる 皇御軍競いつゝ 進めや進め北京まで」

 また「朝鮮王城の歌」では、王宮周辺の光景を語り、
「・・・名のみ万春千秋と 名けし甲斐もあれはてゝ 草の露のみいとしげし 其の他後宮幾百の 殿堂門廡は壁落ちて 修むることも無きさまを 外国人の見てさえも いとゞ涙の堰きかぬる いかに朝鮮八道の 一千万の国民よ 一人の志士もあらざるか」
 と、なかなか手厳しい。

 朝鮮の権益を巡っての戦争というよりは、東洋の開化という視点で、この戦争を見ていたのが国民の大多数ではなかったろうか。

 

清兵撤回依頼と政府改変、属国条約破棄

 7月24日、大院君の采配によって赦免と処罰を含めた人事改革が行われ、25日には朝鮮外務督弁から大鳥公使に対して公文を送り、朝鮮政府に代わって日本軍が牙山に居る清兵を撤退させるよう依頼した。また27日には、領議政に金宏集を据えての新政府発足の手続きがなされることとなった。

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p19より()は筆者)

  電信訳文  明治廿七年七月廿五日京城より(釜山に)郵送。
          同同月廿八日午前十二時四十五分、釜山より発電。
          同同午後三時十分着

東京陸奥外務大臣    京城大鳥公使

 大院君は今ま新政府を組織中にして、金嘉鎮、安駉壽其他進歩派の人々登用せられ、閔泳駿、閔應植、其他の閔派の人々多数、大院君の指揮に依り流竄に処せられたり。
 外務督弁より本使へ公文を送り、本使に請うに、朝鮮政府に代て牙山に在る清兵を撤退せしむべき事を以てせり。

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p52)
廿七年八月四日接受
機密第一三八号 本八〇

  事変後大闕内の模様、内政改革の進行并外交上の変更

 本月二十三日事変後、引続き我兵は王宮を守衛し宮門の出入を監督し、本館より発付したる門票を有するものゝ外は出入を許さず、以て雑人の濫入を相拒み居候。

 大院君、其外朝鮮官員中には、我兵の守衛を撤去せんことを頻りに希望致候得共、右は表面の飾辞に過ぎざる色有之。加之改革派の人々は、改革を整頓する間、当分守衛を存ぜんことを望み候に付、本官に於ても新政府の組織成り韓兵の逃散したるものを呼集め、再び守衛に充つるに足るに至る迄は、王宮の守衛を存置可申と存候。将又、京城内外に在る韓兵の営所へは、去二十三日より二十五日迄に我兵を派して之を逐払い、兵器をば尽く之を我手に収め候に付、目下京城内外には一人の韓兵亡き姿に有之候。

 新政府創立改革実施の進行は遅々として相捗取り不申候。大院君入闕に先ち、金炳始、鄭範朝、趙秉世、金宏集の四大臣、外務督弁趙秉稷、統禦使申正熙等数人を招き、又同君の入闕と前後して金嘉鎮、安駉壽、趙羲淵、兪吉濬等の日本派十人程入闕したりと雖ども、闕内の混雑と韓官の不決断との為め、決行したる事件は、僅に改革派十数人の任命に相過ぎ不申候。

 尤も本日は、新に金宏集を挙げて領議政と為し、軍国機務処会議を開き、其議決したる所は、大院君を経て奏上し、国王の裁可を得て直ちに施行する手続きに相成り可申と存候。事変後新任并軍国機務処会議総裁并議員は別紙甲号の通りに有之候。

 我請求に係る在牙山清兵の撤回一事は、朝鮮政府は遂に我請求に応じ、一昨二十五日、本官参内の時、外務督弁の名を以て代弁の依頼有之候得共、其文体不穏当に付、改正方協議中に有之候。

 その外、清韓間に既訂の水陸通商章程、中江章程、吉林貿易章程の廃棄も、我請求に応じ、同日当地駐在清国領事[袁世凱代理]唐紹儀に通告し、同時に別紙乙号の通り本官に通知有之候。又、同唐代理は何等の通知をも為さず卒然本日出発帰国の途に上り候。

 猶お詳細の事情は後便より上申可及候。不取敢概略及具報候也。

 昭和廿七年七月廿七日
        特命全権公使大鳥圭介
 外務大臣陸奥宗光殿

 追て去る廿四日、韓廷発布の詔勅号の新官授任及赦免、処罰、人名表、廿六日発布達文写等御参考迄差し進候也。


(「同上」p54)
別紙甲号
軍国機務処会議総裁 金(金宏集)為之

内務督弁 朴定揚 戸曹判書 閔泳達 内務協弁 金宗漢
壮衛使  趙羲淵 外務協弁 金嘉鎮 右捕将  安駉壽
内務参議 鄭敬源 李源兢 朴準揚 副護軍  徐相集
外務参議 兪吉濬 外務参議 金夏英 工曹参議 李応翼
練武公院参理 金鶴羽 機器局幫弁 権濚鎮  
[ 前主事 李博前 司事 柳正秀 ] 未確定  

并会議員差下 使之課来会 妥商事務稟旨挙行。

 

(「同上」p58)
(赦免された者) (処罰された者)
罪 科 被赦人 罪 科 被罪人
流 罪 金允植 遠悪嶋安置 閔泳駿
流 罪 尹雄烈 前統制使 閔炯植
流 罪 申箕善 絶嶋定配 閔応植
流 罪 李道宰 遠嶋地定配 開城留守 金世基
    遠嶋地配 慶州京城 閔致憲

 

(「同上」p55)
別紙乙号

第二十号

大朝鮮督弁交渉通商事務 趙
 照覆事照得我暦六月十八日接到
 貴八十四号照会内開[以下我照会と同文に付略す]等因准
 此査我国与清国所訂各章程一面亟向清国住漢代弁
 唐 宣明行文一律廃罷一面将事由知照
 貴公使請煩査照転達
 貴政府可也頂至照覆者
 右  照  覆
大日本特命全権公使大鳥

甲午六月二十三日

 で、ここで重要なポイントなのが、朝鮮政府は既に清国との一連の条約の破棄を、清国領事[袁世凱代理]唐紹儀に通告したと。
 つまりは、清国の属邦であることの拒否通告ということになる。

 また、領議政に三履の一人金宏集と。日本派ではないが、まともな議論が出来る稀有の人である。
 勢道閔泳駿は、あわれ遠悪嶋安置と。しかし遠悪な島というのはどんな所だったのだろうか。(ただしこの後直に閔泳駿は流地を遁れて清国に往ったと、陸奥は「蹇蹇録」で述べている。そして後には平壌に来たことが判明したが、清軍に伴われて来たようである)

 然しこの後、やはり大院君は儒道政治を行う事しか頭に無く、改革も表面を装うものに過ぎず、軍国機務処の設立も大院君にとっては不本意であることが明らかになってくる。(明治27年9月17日から明治27年10月23日」p14)

  他の者達も勝手気ままな言行を執り、どれほど改革の実が挙がるのかまことに不透明。それどころか、掃除しようとして手を突っ込んだところが、分厚く堆積した汚泥が撹乱されて真っ黒となるような、朝鮮こそは真の闇の国であった。

 

王妃廃妃の動きも

 7月28日、釜山から日本大本営に以下の打電があった。

(「王妃廃せられ閔族被罰 福島中佐」C06061829300)

   七月廿八日午後一時釜山発
   同    同 四時三十分着

 午前夜深更[原文のまヽ]に及び、王妃廃せられ、門地を論ぜず人材登用の詔、出てたり。尚お閔氏は夫れ々々処罰の筈なり。
          福島中佐
  川上中将

 廃妃のことは誤情報である。しかし全くその根拠が無かったわけではないようである。
 大鳥公使は後(9月21日)に廃妃のことに関わって、大院君の嫡孫である李呵Oについて次のように報告している。

(明治27年9月17日から明治27年10月23日」p15より抜粋。)

機密第一八八号   本一一一
  韓廷内幕の分離軋轢
(略)
 李呵Oは大院君の嫡孫にして当年僅か二十五歳なるも、頗る有為の気象に富めり。
 去七月二十三日大院君入闕に至る迄の間は同氏は其内謀に参じ、大に大院君に力を添えたる事実あるが如し。
 同氏は本と積極的の日本好きなりしに、近頃漸く変色せり。

 其原因は、初め同氏窃かに廃妃説を唱い、多数の同意者を語らい、我力を藉りて其目的を達せんと試みたる処、我より堅く之を斥けたるが為め其事終に成らざりき。

 抑も同氏の廃妃説を唱いたる底意は、廃妃に因り併せて世子宮を廃し、遂に自身が王位継承者の位地を奪わんとする野心に出でたりと、或る一派の人々は語れり。

 然るに同氏は廃妃説に同意を得ざるが為め、窃に危懼の心を懐き、種々の計画を運らして之を隠微せんと試み、而して其余波は遂に他人を讒諂する拙作を行わざるを得ざるに至りし如くに■■候。
 近頃聞く所に拠れば、金嘉鎮、趙羲淵、安駉壽の三名は国王に向て、李呵Oの野心を懐き居ることを内奏したりとて、李氏は三人を悪み、大院君に讒訴して頻りに之を斥けんとせり。

 是に於て大院君と金等三人の間に不和を生じ、金等三人は偏に国王の庇保に依りて今日の地位を維持するが如し。但し大院君は李呵Oの野心には未だ心付かざる可しと云えり。

 李呵Oの地位は前述の如くなれば、此頃窃に李仙得等を引き、俄英の公使若くは領事に微意を通じ、後盾を得て日本派の人々に当らんと試み、内部より奇態なる運動を為す様子なれば、朝鮮の改革事業に向ては著大なる妨碍と為れり。
(略)

 

 後から思えば大鳥公使、この時に反対せねば良かったろうに。しかし真面目な人であるから、筋の通らないものは断乎として「駄目なものは駄目!」だったのだろうなあ。

 

改革実行を各国に通達

 京城での事件を知ってか知らずしてか、英国政府はまだ日清衝突回避のための周旋をせんとしていた。
 英国政府が伊国政府を誘い、駐日英国公使と駐日伊国公使を共に外務省に来訪させて新たな覚書を提出したのは7月25日であった。(「明治27年7月18日から明治27年7月27日」p43)
 覚書の要点は次の通り。

1、清国は朝鮮に提出した日本国の提議を審査し、日本国はすでに単独で着手した事項の目的を説明すること。両国の委員は、京城以外の地で直ちに集会すること。

2、もし勧告のみでは(改革の)実用性がないとするなら圧政によらねば不可能であろう。日清両国から友誼をもって迫るなら、朝鮮国王は改革を実施するために随意に日清両国の顧問官を以って組織した立会委員会を設けるだろう。

3、猜疑を避けるため、「政治上」の文字を削除し、代わりに、日本国において必要とする均一待遇の諸点を掲示すること。


7月26日、それに対して陸奥外務大臣は次のように回答した。(「同上」p44)

・ 「日本国は確答を与えることは出来ない。その唯一の理由は、事態の現況を留意することが必要だからである。(そもそも)日本国の発議を再三拒絶されたことが、日本をして新たな提議を出来なくし、どのような修正も受け入れることも出来なくしたのである。」

 

 なお英国はその一方で、もし日清開戦となった場合に清国での英国利権の中心である上海を非戦地とすることも要求した。
 7月23日、日本はそれに対し、上海及びその交通路に於いては戦時の運動をしないようにすると回答した。(「上海を非戦地となすの件」C06060167100)

 

 7月28日、日本政府は、主だった国、即ち英国、仏国、独国、露国、米国、そして伊国の各国の日本駐箚公使に対して、朝鮮政府が改革を実行すること、大鳥公使が補佐を依頼されたこと、もはや日清両国は戦闘行動に及んだことなどを以下のように通達した。(「明治27年7月28日から明治27年8月1日」p4)

(「明治27年7月28日から明治27年8月1日」p1、傍線は削除された文、<>は挿入文、()は筆者。)

明治廿七年七月廿八日起草  同日発遣
七月廿八日閣議決定の上、上奏裁可を経たり。
閣議案

 帝国駐箚各大国公使へ書簡案

 京城よりの報告に拠れば、国王は大院君を召して委任するに、内治を釐革し庶政を綜理することを以てせられ、嗣いで又大鳥公使は、国王の召請に応じて入闕したりしに、内政の釐正に関し其輔翼賛襄(補佐すること)を与うるを国王及大院君より依頼せられ、而して貪官汚吏は直ちに黜斥せられたるものゝ如し。

 此等内政上の改革を実行することに付ては、是迄帝国政府に於ては清国政府と協心勠力して以て之を為さんと欲したるが故に、屡々我提議を排斥拒絶せられたるにも拘らず、屡々好意を以て之に接したり。
 然れども、事局既に此に至り、朝鮮国王に於て我が勧告を納れ、自ら進んで其内政改良の業を実行することとなりたる以上は、其内政改革に関しても又同国の独立権及帝国が同国にて享有すべき通商并政治上の権利に係る各問題に関しても最早日韓両国に於て之を協商決定することを得べし。
 況や<且つ>頃ろ最確実の報道に拠れば、清国政府にては大兵を朝鮮に派遣し、已に七月廿五日に於て朝鮮国境内に進入したりと。又聞知する所に依れば、清国軍艦は牙山近旁に於て帝国軍艦に向て発砲せりと。

 由是観之、清国政府が遷延今日に至りしは、全く其軍備の充分に整うことを待つものに非らずして何ぞや。
 因て帝国政府は、今となりては各友邦が好言を以て居仲調度するところにありたりと雖も、遺憾ながら一時前提議を撤銷するの已むを得ざるに立到れり。

 尤、帝国政府の意は終始平和を維持するに在れば、今日と雖も若し能く我帝国の名誉を全うし、以て平和を保持する道あるに於ては、敢て之を容れざるの意に非らず。

(なお、修正部分の行には欄外に「聖意に因て朱字の通り修正せらる」とある。)

 

豊島沖海戦について

 さて、7月25日の豊島沖海戦のことであるが、アジ歴資料の簿冊である『明治27年自7月至12月 「情報 共3冊(一) 庶」』などから、それに関するいくつかを取り上げたい。
 なお、この資料に対応する実際の電報票は別の簿冊に「着電綴」として纏められており、その件名とレファレンスコードも併記するので、確認したい方はそちらもどうぞ。

 参謀本部にその一報があったのは、次のように7月27日が最初であろうか。

(「豊島沖海戦の報告 柴中尉」C06061829100、p1。電票綴りは「7月27日 柴中尉発 参謀総長宛 只今富士川丸カクラン群島より帰り左の報を持ち来る」C06060810700)

   七月二十七日午後九時五十分発
   同 二十八日午前一時五十分着
 只今富士川、カクヲン群島より帰り、左の報を持て来る。
 二十五日午前七時、海戦あり。我軍大勝利を得た。委細あとより。
        釜山 柴中尉
 参謀総長

(「同上」p2、()は筆者。電票綴りは「7月27日 柴中尉発 参謀総長宛 戦勝は豊島沖附近ならん支那軍艦鎮遠は 支那に広乙は牙山に遁た云々」C06060810500)

   七月二十七日午後十時四十分発
   同       十二時  着
 つづき
 戦勝は豊島付近ならん。支那軍艦靖遠(済遠)は支那に、廣乙は牙山に遁た。
 操江を捕獲し、千五百の兵リユセタワ[五字不明。多分、乗せたるならん]運送舩壱艘を打ち沈めた。
 以上の事は、鮫島参謀長より聞く。我軍艦の戦闘に参与せしは、秋津州、タカ■ホ[高千穂ならん]比叡ならん。
 我艦隊はエン島とカクヲン島の避所にありし木曽川の外三通信舩は釜山にかえる。
        釜山 柴中尉
 参謀総長

(「同上」p3、()は筆者、電票綴りは「7月28日 柴中尉発 参謀総長宛 海戦の詳電」C06060812500)

   七月廿八日午前五時廿分発
   同    午後四時三十分着
 戦いし処は豊島付近ならん。支那の軍艦靖遠(済遠)は支那方に逃げ、廣乙は牙山に逃げ込めり。
 操江は捕獲せり。千五百の陸兵を乗せたる運送舩壱艘を撃沈めり。
 我軍艦の戦いを為せしは、高千穂、比叡[吉野、浪速の誤りならん]秋津州ならん。
 我艦隊は煙島と隔音島の二処にあるを見たり。比叡艦と水雷艇は豊島付近にあるよしす[此処不明]。富士川、信濃川、田子の浦は同時に釜山に帰る。木曽川は多分仁川にあらん。
        釜山 柴中尉
 参謀総長

 

 次に『明治27年7月〜8月 「着電綴(三)」』より、伊東連合艦隊司令長官からの報告。こちらは「着電綴」にのみ在る。

(「7月28日 伊東連合艦隊司令長官発 大本営宛 豊島沖海戦詳報」C06060813500)

   七月廿八日午前八時四十五分発
   同    午後三時十■分着

 坪井司令官、吉野、ナイユ[浪速ならん]、秋津州を引率。八重山、陸奥丸と会合の為め、豊島付近に廻航せしに、25日午前7時清国軍艦済遠号、イツニ[不明]出会せり。

 然るに我れワ[不明]対し、礼砲を発せず、且つ戦争準備の模様なるにより、即刻開戦砲撃す。
 1時20分間猛烈砲撃の後ち、彼れ1は牙山の方向2[不明]1は直隷湾に逃去れり。

 暫くして操江号及び1商船、英国旗を挙げて支那兵を積み来たれり。この船は一度降伏したれども、再度抵抗するにつき、撃ち沈めり。
 戦争ト[不明]英国人2人救助す。

 秋津州は操江号を捕獲す。艦長以下乗組人と船長トコロ[不明]二名とを八重山にて、佐世保鎮守府に送る。我艦隊総て無事。

 坪井航三少将乗る軍艦吉野は当然「将旗」を掲げているのであるから、出会った軍艦は「礼砲」を発して敬礼の挨拶をするのが各国海軍の通例である。しかし清国軍艦は礼を表さないのみならず戦争準備の様子を見せたので、即刻開戦砲撃したと。

 

 更に八重山艦長らからの詳報。こちらの電報票はどこにあるのかは分からない。
 この「豊島沖海戦の詳報 平山八重山艦長」には、29日午前0時5分発が一通、それと同日午前2時45分発の添削が入った一通と、更にその添削に沿って書き直した同文が一通載せられている。

 画面順序は違っているが、時間に沿って並べると以下の通りとなる。

(「豊島沖海戦の詳報 平山八重山艦長」C06061829400、p4)

電信 七月二十九日午前〇時五分発
   同       七時廿五分着
          佐世保 柴山司令長官心得
大本営

 釜山仁川間海軍信号舩のこと、艦隊司令長官よりの通信なり。

 戦況は、八重山艦長の報告に依れば、我本軍は群山に在りて、吉野、高千穂[浪速ならん]、秋津州の三艦、豊島へ向け航進中、廿五日午前七時頃、ショパイヲール島付近に於て、清国軍艦済遠、廣乙の二艦、牙山方面より来るに会す。

 漸く近寄るに及び、降旗を掲げながら次第に我艦隊に接し、凡そ三百ヤードに至るも航進を止めざるを以て、砲撃を始めたり。彼も亦之に応砲す。

 此時、済遠は全速力を以て逃走を勉む。吉野、浪速、之を追撃したるも及ばず。廣乙は秋津州と対戦の後[カロリン]湾口に退却し、其所在不分明なるも、大破の末、浅州に乗上げたるが如し。

 右の戦争中に、「ショパイオール」島の西方より、清国軍艦操江と運送船一艘■■■■[原文不明]顕われ来り。右二艘は戦争を見ると同時に降伏白旗を掲げ、我軍艦は直ちに捕獲の手段を尽したる所、運送舩は其挙動穏かならず故、砲撃を始め、一発の下に撃ち沈め、陸軍兵千百名乗組居たり。

 其より一時艦隊を集合し、捕獲人員は八重山に乗せ、郡山へ引揚げ、八重山は佐世保へ向け出港。本日午前六時到着せり。

 「本日午前六時到着せり」とあるが、軍艦八重山が佐世保に到着したのは28日の午前6時ということだろう。
 戦闘の起端は、清国軍艦が降伏を示す「降旗」を掲げながらも接近を止めないので、日本側から砲撃を始めたとある。300ヤードと言えば水雷(魚形水雷)攻撃を受ける恐れがある距離である。

 次に八重山艦長から海軍大臣への報告。あちこち添削してあるが、着電時刻が書いてあるということは、届いた電報の文章に手を加えたということになる。

(「同上」p1、<>は挿入部分、()は筆者。)

   七月廿九日午前二時四十五分発
   同    午後八時五十分着
 西郷海軍大臣      佐世保 平山八重山艦長

 戦争模様報告すべき電信承知せり。
 それは艦隊司令長官の電信を持来り。今朝鎮守府より発せり。併し小官の見聞する所を参考に供すべし。

 二十五日午前七時、済遠号、廣乙号、牙山より出艦。操江号、英国旗を掲げたる運送舩コウシング<高陞>[印度支那気船会社の気船]、支那兵を載せ、太沽(大沽)より牙山に向い来る。此時吉野、浪速、秋津州、牙山に向い航進す。

 丁度豊島の沖「ショパイヲール」[島名]の所にて出会いたれども、司令官に礼砲をなさず。又、二軍艦とも戦争準備あらわる<をなし、敵意を表する者と認む>。然れども場所狭き故、三艦は方向を転じ沖に出つ。

 此時、浪速は直に済遠に迫るに、済遠は大檣に日本軍艦旗の上に白旗を加えて引揚[(欄外)白旗を加揚するは降伏を表するの信号なり]、依て浪速も発砲を見合す。

 同時に運送舩、浪速の前を横切る。浪速は発砲し<彼の注意を引くの号砲>、止れ、錨を投ぜよ、の信号を為す。運送船は投錨し、英国旗を卸せり。

 此信号の間に済遠号、浪速の艦尾に向い進んで凡そ三百「メートル」に来る<や彼れ水雷を発せしも当らず。故に> 浪速、側砲を発して之を撃ち、数回、回転打方をなす。吉野も亦済遠号を撃つ。

 敵、遂に威海衛に向い、遁げ去る。吉野、秋津州、遁げ去るを追撃し、凡そ百哩余にして追付ず。
 廣乙は秋津州と戦い、陸岸と浅瀬の間に遁げ込みたり。

 又、運送船の船長は降れども、支那兵服従せず。浪速は先ず試に魚形水雷■一個を発す。当らず<彼れの注意を促す為め> 遂に砲撃して沈没せしむ。生きしもの甚だ少し。

 此戦に我れ一人の負傷なく、吉野は「ガーフ(斜桁)」を苅られ、「チャートルーム[海図室]」毀われ、浪速は敵弾丸「ガンルーム」[士官次室]と「メスルーム」[機関士室]を通し、機関室に落ちたれども破裂せず。

 敵軍艦大破壊。運送船に陸軍人数、大隊長<四、中隊長十五>、兵員千百、野砲六、西洋人八。内英国人船長、同じく一等運転手外、一応取調浪速の端艇にて助く。頃は本艦に来る船長の話。

<但し、本文中尚お二三不明了の個所あり。取調べたる上、更に通知すべし。>

 添削前の元の文章を抜書きすると、

「司令官に礼砲をなさず。又、二軍艦とも戦争準備あらわる」
「浪速は直に済遠に迫るに、済遠は大檣に日本軍艦旗の上に白旗を加えて引揚、依て浪速も発砲を見合す。」
「済遠号、浪速の艦尾に向い進んで凡そ三百「メートル」に来る。浪速、側砲を発して之を撃ち、数回、回転打方をなす。吉野も亦済遠号を撃つ。」
とある。

 つまり、礼砲を発しないだけでなく戦闘準備をし、更に済遠は降伏の旗を掲げながらも停止せずに、逆に浪速の艦尾に向って進み凡そ300三百メートルに接近するなど、明らかな戦闘行動を表したので、浪速は側砲を発して済遠を撃ち、また吉野も済遠を撃ったと。

 で、編集し直したものがこれらしい。電報発着の日時と文章が同じだから間違いないだろう。

(「同上」p6、()は筆者。)

   七月廿九日午前二時四十五分発
   同    午後八時五十分着
 西郷海軍大臣      佐世保 平山八重山艦長

 戦争模様報告すべき電信承知せり。
 それは艦隊司令長官の電信を持来り。今朝鎮守府より発せり。併し小官の見聞する所を参考に供すべし。

 二十五日午前七時、済遠号、廣乙号、牙山より出艦。操江号、英国旗を掲げたる運送舩コウシング[印度支那汽舩会社の汽舩]、支那兵を載せ、太沽(大沽)より牙山に向い来る。此時吉野、浪速、秋津州、牙山に向い航進す。

 丁度豊島の沖「ショパイヲール」[島名]の所にて出会いたれども、司令官に礼砲をなさず。又、二軍艦とも戦争準備をなし、敵意を表する者と認む。然れども場所狭き故、三艦は方向を転じ沖に出つ。

 此時、浪速は直に済遠に迫るに、済遠は大檣に日本軍艦旗の上に白旗を加えて引揚[(欄外)白旗を加揚するは降伏を表するの信号なり]、依て浪速も発砲を見合す。

 同時に運送舩、浪速の前を横切る。浪速は発砲し[彼の注意を引くの号砲]、止れ、錨を投ぜよ、の信号を為す。運送船は投錨し、英国旗を卸せり。

 此信号の間に済遠号、浪速の艦尾に向い進んで凡そ三百「メートル」に来るや彼れ水雷を発せしも当らず。故に浪速、側砲を発して之を撃ち、数回、回転打方をなす。吉野も亦済遠号を撃つ。

 敵、遂に威海衛に向い、遁げ去る。吉野、秋津州、遁げ去るを追撃し、凡そ百哩余にして追付ず。
 廣乙は秋津州と戦い、陸岸と浅瀬の間に遁げ込みたり。

 又、運送船の船長は降れども、支那兵服従せず。浪速は先ず試に魚形水雷一個を発す[彼れの注意を促す為め]。遂に砲撃して沈没せしむ。生きしもの甚だ少し。

 此戦に我れ一人の負傷なく、吉野は「ガーフ(斜桁)」を苅られ、「チャートルーム」毀われ、浪速は敵弾丸「ガンルーム」[士官次室]と「メスルーム」[機関士室]を通し、機関室に落ちたれども破裂せず。

 敵軍艦大破壊。運送船に陸軍人数、大隊長四、、中隊長十五、兵員千百、野砲六、西洋人八。内英国人船長、同じく一等運転手外、一応取調浪速の端艇にて助く。頃は本艦に来る船長の話。

  但し、本文中尚お二三不明了の個所あり。取調べたる上、更に通知すべし。

 先の報告に加えて、先に済遠が「水雷」を発した、となっているところが大きく違うところである。

 また、支那兵の服従しない運送船に対して、試みに水雷を発したが「当らず」が削除してあるのは、当り損ないということではなく、元文にも「試みに」とあるから、やはり警告の意味で外したのかもしれない。

 で後にこれが、簿冊「東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第三巻」にある「豊島沖ノ海戦及朝鮮政府ノ依頼ニ応シ在牙山清兵ノ駆逐並日清両国宣戦ノ詔勅公布ノ事」によると、更に次のようになる。

「我吉野、浪速、秋津州の三艦は七月二十五日午前七時頃、朝鮮豊島沖ショバイオール島の辺に至る。此時に際し、忽然二隻の軍艦、南陽湾の方より我軍艦に向て進み来る。是れ清国軍艦済遠及廣乙にして、当時我一艦には将旗を掲揚せしを以て之に対し海軍普通の敬礼を為すべきに、彼れは之を為さゞるのみならず却って戦闘準備を為し、我に向て敵意を顕わせり。然れども海面狭隘にして進航に不便なるが故、我三艦は方向を転じて沖に出つ。須臾して彼我の距離接近するや、彼れは突然発砲を始めたり。我艦之に応じて激しく砲発し、遂に済遠は大檣に帝国軍艦旗を掲げ、其上に尚白旗加揚し[降伏を表するの信号]、直隷湾に向うて逃れ、廣乙は東浜岸の浅所に向て逃れ去れり。」
と。

 これが坪井航三少将の戦闘詳報によると、また違うという話を聞くが、資料を見ていないので何とも言えない。

 ま、以上の報告で一貫していることは、日本軍艦の将旗に、清国軍艦が敬意を表しないどころか、戦闘準備行動を表したと。
 それで日本側が先に砲撃したとしても軍事上に於ては正当防衛行為であるということが言えるだろう。
 まして、この時点で日清両国は既に最後通牒を行っていると見做すことが出来、つまりは万国公法上に於ては宣戦布告の無い時点であっても通常の戦争行為ということになる。
 しかし、それでは一般的に説明が通り難く且つ説得力を欠く嫌いがあるので、要するに済遠が先に突然発砲してきたということにして、国内外に発表したということではなかったろうか。

 ただ、「済遠」が日本旗と白旗を掲げながらも逃走していたのは確かである。そのことをかのコンスタンチン・フォン・ハネッケン (Constantin von Hannecken)が証言をしている。
 ハンネケンは清国政府雇いドイツ人士官としてその時撃沈された高陞号に乗っていたが溺死を免れ、7月30日に在仁川英国副領事の審問を受けており、その陳述が記録として残っている。(「英国商船高陞号撃沈ノ事」p14)

 降伏旗を掲げながらも逃げ回るとは・・・・。

 

高陞号撃沈問題

 引続き日朝間の問題ではないが、ついでに高陞号撃沈問題についても。

 清兵が乗った英国船籍の運送船を日本の軍艦が撃沈したことによって生じた日英間の問題である。
 事件の経緯はこれもハネッケンの証言に依れば次の通りであった。

(「英国商船高陞号撃沈ノ事」p13より抜粋して現代語に) 

 汽船高陞号は、7月23日、1220人の乗組人員、大砲12門、その他小銃、輜重などを載せて大沽を出発し、同25日朝、プリンスゼロム湾外の朝鮮多島海近傍に達した。

 この時船首右舷から大軍艦を目撃した。この軍艦はは西方ほとんどポルトマーサルの方向に疾駆中で、支那軍艦靖遠に似た形のものと認めた。同艦は我が船より大距離にって進行し終に姿が見えなくなった。

 7時頃、舩首の左舷から、仁川の方向に帆を揚げて進行する一船を発見した。同舩がその方向を変えないときは、我が船首あるいは船尾を横ぎらなければならない。そして我が船は牙山に向って進行していた。

 8時頃、フスータン島の後ろから進んで来る大軍艦(済遠)を発見し、(次いで)10分ばかりして先ず1艘、次いで2艘すなわち合せて3艘の巨艦(吉野、浪速、秋津州)が同島の背後を進んで来るのを目撃した。これらは余の見るところでは何れも皆な偉大の鋼鉄艦である。

 9時頃、それら軍艦の最も前にあるもの(済遠)に日本国旗があり、その上に白旗を掲げていたのを見た。同艦は速やかに我船に向って進行して通過する際に、その旗を傾斜して敬礼を示した。

 この時のそれら諸戦艦の位置は左図(下図)の通りである。

一 高陞号
二 日本国旗並に白旗を掲げた軍艦
三 操江号
四、五、六 他の軍艦

 これにおいて、先に見た帆を揚げて進行中の船は操江号であることを知った。同号は、この時帆を降ろして威海衛に向って退いた。

 余は、このような強大な日本艦隊に遭遇してやや不安のを感じたが、その一艦は我が船に対してその旗を傾けたので、その異図がないことを確信し、そしてその艦隊は操江号を追っているものと思った。その第四、第五、第六は総て日本軍艦であって進行中であると知られた。

 そうして、第四の日本艦から信号を揚げて空砲2発を轟かせ、我が船に向って、停止投錨の信号をなした時は、船の位置は左(下)の通りであった。

 我が船はこれに応じて投錨した。その時にまた次の信号があった。

「そこに止まれ。そうしない時はその責を負え」

 そして第四の日本艦は右に廻って第六と共に進行して第五に近づいた。

 多分これは我が船が清国運送船である模様が明らかであるが、その英国旗を掲げるのを見て、処置に迷って協議するためであろうと察せられた。

 その後、第四の軍艦は我が船に向って来て、その砲門を全て開き、ほとんど1マイルの4分の1の距離に於いて停船し、端艇を降ろして我が船に向わせた。

 我が船中の清兵司令長は余に告げて言った。

「我が兵は俘虜となるよりは寧ろこの海底に葬られることを望む。」

 よってこれを船長に通告することを求めた。
 清兵は甚だ激昂している有様で、余はこれを鎮めて、談判中は船上の秩序を保つことが最も必要であることを分からせるのに困難を感じた。
 余は船長のガルスワールジーに司令長の意を告げた。

 日本の端艇は我が船に到着し、士官数名が船内に来て、その端艇中の水兵は小銃及び刀剣を備えていた。
 日本士官は船長室に入り、船長は書類を示して実際に英国船であることを証明した。
 これにおいて船長は、日本艦に随行すべし、との一言を告げられた。

 余はこの面談に臨席せず、これより先、余は船長に向って、もし必要の場合は余を招くようにと告げていたが、この間余は司令長及び兵士を鎮めることに勉めた。余は日本端艇の来着前に船長と協議して、船長として出発港である大沽に引き返すことを要求することに決していた。なぜならば、余らが同港の出発前には未だ宣戦布告がなかったからである。

 日本士官の談判は、船長ガルスワールジーに何等の要求も通させる暇を与えず、早くすぐに日本艦に随行する旨を命じたようであった。そして余は日本士官が去った後に初めてその命令を伝聞した。

 船長ガルスワールジーはその談判の結果を余に告げ、余はこれを清兵司令長に告げた時、司令長はじめ清兵中に大騒擾が起った。剣、小銃を突きつけて船長や水夫など全ての在船の西欧人を威嚇し、船長が聞き入れて抜描するなら、すぐに殺そうとした。

 余は又これを鎮めることに尽力し、且つ船長に告げて、談判のために端艇が来るように信号を掲げさせた。

 その端艇はすぐに来たので、余は自ら船梯子口に出て日本士官と談じようとした。
 余は、船中には兵士等が剣と銃を手にして群集し、日本士官がこちらの請求を容れない徴候がある時には、必ずこれを殺害するだろうと信じたので、同士官を敢えて船中には来させなかった。

 日本士官は、右手に剣の柄を握って船梯子に来た。余は告げて言った。

「船長は他の者に強迫され、貴命に従うことが出来ない。船中の兵士は船長が貴命に従うことを許さない。司令長及び兵士は出発港への帰港を要求する。船長及び余の考えでは、既に宣戦布告があるとしても、本船はもともと平時に出発したので、この要求は正当とする。」

 余は日本士官が余の言を理解したかを確めた。そして日本士官はこれを司令官に報告する旨を告げて去った。

 端艇が日本艦に達した後、余はその回答を待つこと若干時にして、終に次の信号を得た。

「至急に船を去れ」

 この信号はただ在船の西欧人及び乗組員のために発したことにほかならなかった。しかし、この勧告に応じる機会がなく、またこれに応ずる意向はなかった。

 清兵は既に各船架を占有し、これにおいて船長ガルスワールジーは次の信号を掲げた。

「余はその許しを得ない」

 そして日本艦はこれに対し、ただ回答旗を掲げ、余らにその意向がどうなのかを知らせなかった。

 日本軍艦が運転を始め、我が方に来るのを見た。そして我が船の右舷正面ほとんど150メートルの距離に達したときに運転を止めた。

 これにおいて余は、その水雷口から水雷が躍り出たのを目撃した。その後直ちに6個の砲門が開き、水雷が我が船に達する前に轟音2回に及んだ。そして水雷は我が船の中間、即ち石炭艙に的中し、白昼たちまち暗夜となり、炭粉、木片、飛散し入り混じって天に立ち昇った。これによって余らは皆な海に身を投じて泳いだ。

 遊泳中、余は我が船が沈没するのを見た。船尾が先ず沈没した。

 この間、発砲が引続き、遊泳を試みるも助かる機会がないのを知った船上の兵士は、奮然これに応じて発砲した。

 余は日本艦から端艇を降ろし、多数の兵士を載せて来るのを見て、我が船の残兵救助のためであると信じたのに、遺憾にもそれが誤りであることを発見した。

 端艇中の兵士は沈没船上の残兵を射撃した。余は実に、その中の者が日本艦及び沈没船から狙撃されたのは事実である。

 まさに沈没船の兵士から狙撃したのは、自分は死を免れず、寧ろ同胞もまた生かして置くべからず、との残忍な観念に基いたものであろう。

 高陞号は水雷発射後、ほとんど半時間ばかりで全く沈没した。

 高陞号はなお一層の好機会があったものと思う。即ち、現場に停船しないなら責を負え、と告げられた時に、その錨鎖を緩め、そして更に奇計を施して表に日本艦の命令に応じる意を示し、終に島の背に逃げることが出来ただろう。

 このことは、時を失わず勧告した。しかし船長及び役員は、船に英国旗を掲げる事実が船を保護して、敢えて敵対の行いを受けることはないと確信し、遂にこの禍となり、同船の役員、水夫、及び兵士もまた皆この禍を共にしたのは、余の遺憾とするところである。

 ただし、余の知るところでは、兵士中遊泳して生命を保った者、僅かに170名ばかりに過ぎず、そして他の西欧人で陸に達した者があるかは余のまだ知らないところである。

     コンスタンチン・フォン・ハネッケン[サイン]
 1894年7月30日

  右は余の面前に於いてその姓名をサインした。
     在済物浦 英国領事 W・H・ウィルキンソン

 この証言に異議あり。
 この時点で清国が天津条約の知照なしに朝鮮へ新たな増兵をすることは、事実上の開戦行為であり、またそう見做すはずの日本の軍艦が警巡する朝鮮湾岸に、単独で接近するのは不自然。済遠などの清国軍艦は護衛として迎えに来たと思われる。清国軍士官ハネッケンは当然そのことを知っていたはずである。

 非情であるが、降伏の意を示さずに逃げる敵兵に対する攻撃は通常の戦争行為。異常なのは、死の道連れにせんとして同胞を射撃する清兵の方である。

 尤も、第4師団監督部部員山本2等軍吏が語る海戦の模様によれば、
「高陞号の機関手が白旗を掲げたところ清兵がこれを殺害し、他の西洋人は浮子を抱えて海に飛び込んだが、清兵はこれを見て船上から射撃した。我が水兵は端艇でこれを救助した。この時戦闘の初めの頃であり、最初の発砲は清兵の方からだった。」(「7月25日海戦の模様 第4師団監督部部員山本2等軍吏の直話」p4)
との言もある。

 高陞号の船長(英国人)、同一等運転手(英国人)、同按針手(スペイン人或いはマニラ人とも)は銃撃戦の中に日本の端艇に助けられ、後に小島に泳ぎ着いた清兵2名も日本の偵察船によって救助された。(「7月25日海戦の模様 第4師団監督部部員山本2等軍吏の直話」p2)

 

日英非公式談判

 で、とにかく英国籍の船を沈めたことにより英国世論が激昂、英国政府もカンカンと。

 しかしその後、タイムス紙に法学者による「違法性はない」という論文が8月1日に掲載されたことにより、世論は急速に沈静したというのはあまりに有名な話であるが、では政府間レベルではどうだったかというと、以下の通り。

 英国運送船を撃沈した一報を受けた翌日の7月29日、早くも日本政府は法制局長官末松謙澄に訓令して、その調査を命じた。末松法制局長官は、高陞号船長始め乗組員、また清国軍艦操江の便乗者のデンマーク人も取調べた上で、救恤金として高陞号の船長には金2千円、1等運転手には金1千5百円、按針手には金8百円を恵与し、8月4日に、負傷した按針手を除いて、船長等を佐世保鎮守府所轄の小蒸気舩で長崎へ送って解放した。(「英国商船高陞号撃沈ノ事」)
 (「末松謙澄」とは懐かしい名前である。かつて明治9年に黒田全権艦隊が朝鮮に向った時に、船中で国王派遣の呉慶錫らとの会談を、雑談共々克明に記録した人である。)

 また直ちに在日英国公使に、調査の上で相当の補償をすることも怠らないことを伝えた。しかし、その後、英国政府からの反応などは次の通りであった。

(「日清韓交渉事件記事/三 英国関係ノ分」p3より抜粋要旨。)

 豊島海戦に際し、帝国軍艦浪速が、清国政府雇の運送船高陞号を撃沈させたところ、同船は英国人の所有に係るものであるとの報告に接し、以って陸奥外務大臣は、取り敢えず在日英国代理公使を招いて次のように告げた。

「他日に本件に関する顛末審査を遂げた上で、帝国軍艦の行為が不幸にして不当なものであったことを発見した時は、帝国政府は、敢えて相当の補償をすることを怠らないだろう。」

 これに対し同代理公使は、それを了解し、直ちに本国政府に電報した。
 しかし8月3日、英国外務大臣は在英帝国公使すなわち青木公使に書面を送り、

英国政府は本件に関し、帝国政府に責任を負わせる。尤も、なお詳細の報告を待つ。

 との旨の照会をした。よって青木公使はこれに対し、相当の返書を送った上で、公使館雇外国人「シーボルト」をもって公然となく英国外務次官に面会させ、本件に関して帝国政府が責任を負うべきはずがないことを弁論させた。


 つまり、学者が何を言おうが世論が沈静に向おうが、英国政府としては日本に対して責任を負わせると。よって公然となく日英談判を開くことに。
 以下がその時の談判である。

(「日清韓交渉事件記事/三 英国関係ノ分」p9より現代語に、()ぱ筆者補足)

  明治27年8月7日、在英日本公使館雇バロン・アレキサンダー・シーボルト氏と、英国外務次官バルチー氏との対話要旨。

シーボルト「拙者は公にも私的にも、別に御通知すべきことはない。しかしただ貴官が拙者に何か申し聞かせねばならない御意見でもあろうかと思って訪問した。」

バルチー「拙者は日本の(海戦の)勝利については未だ何の新しい報にも又確報に接していない。[氏は勝利の語を発する時に、やや疑いある表情をした。]

 この時シーボルトは、バルチー氏の手に持つ朝鮮国地図に目を留め、近時の戦争に関する詳細の件を説明することを願い出、牙山の清国軍営の地位は今は奪われ、朝鮮国南部に於ける清国兵は潰散したことを以って、京城近傍に於いての戦争は実際上終局したことを説明した。

 バルチーは、外務大臣キムバーレー卿が英国船高陞号沈没事件に関し、青木公使に送った書翰にその話題を転じた。

シーボルト「その書簡のことは拙者も聞いている。しかし目下の事情では、英国外務省がその書簡に対する充分な回答を得ることは難しいだろうと想像する。この度のことは実に不幸な事変であって、拙者も一個人としては、遭難者に対し気の毒に思っている。しかし軍事上、特に国際公法上の点から見れば、英国外務省の抱く意見とは異なる意見を取るだろう」

バルチー「この問題は単に次のようなことである。即ち日本国の1巡洋艦が、清国政府に於て1885年の条約上出兵の権利を有する場所である、朝鮮国に清国兵を運送せんとする英国船を沈没させたのである。日本人はこの船を停船させ又清国の出兵を妨げる権利を有しない。」

シーボルト「全くそうである。しかし貴官は一事を忘却された。即ち在東京英国代理公使が日本国政府に通知したのには、清国政府は、今回の葛藤を調停するために最終提議を差し出した時に、日本国の承諾は6月20日までに必ず明言されるべし、当日もしくはそれ以後になれば、清国政府は朝鮮国に出兵を始めるべし、と明言した由である。これは即ち『アルチマタム(最後通牒)』ではないのか。又このような情況に際して出兵を通知するのは、数日後には交戦を始めると強迫し、もしくは宣言するに他ならないのではないか。欧州諸国の政府に於ては、何れもそのような解釈を下すだろう。」

バルチー「あるいはそうかもしれない。しかし日本国政府も又その対案を以って清国に僅かに5日間の猶予を与えて決意を促した。ゆえにアルチマタムは又日本の方からも出たものである。」

シーボルト「アルチマタムの差し出されたのが何れの方にあるかについては論ずるには及ばない。拙者がここに証明せんと願うのは、ただアルチマタムが兎に角も一方から出された一事である。そして期限が経過するときは早晩戦争の始まることは覚悟しなければならない。」

バルチー「しかし未だ開戦の宣告はしていない。」

シーボルト「それは拙者も認めるところであるが、国際公法学者、殊に英国公法学者の説によれば、正式の宣戦はこれを要せず、単に国境に進軍する意思の表明のみで十分である。貴官も必ず御記憶であろう。1870年の普仏戦争(プロイセン王国とフランス国間の戦争)の始まりに於て、在ベルリン仏国公使からビスマルクに出した書簡には、単に『仏国政府はその権利保護に必要と認める処置をとるだろう』との表明のみである。日本国政府などはこれよりも一層丁寧な手続きを執り、英国公使に依頼して清国政府へ通知したるところは、清国政府がなおも兵を増発する時は、日本政府はこれを恐嚇と見做し、即ち交戦の行為と思考することは明らかなことである。」

バルチー「然し戦争は実際未だ起きていなかった。」

シーボルト「そうである。高陞号が浪速艦のために停船させられた時には未だ起きていないが、その後数分時の後に実際起った。なぜならば済遠号が浪速艦に向けて水雷を発射したからである。拙者はこの水雷の発射は交戦を意味するものと考える。」

バルチー「確かにそうである。しかしこの事はは未だ証明が出来ていない。」

シーボルト「拙者は浪速艦が発砲を差し控えていた後に、済遠から第一砲を発射したに相違ないと信ずる。何故ならば、済遠は休戦旗を掲げていたからである。そして休戦旗を掲げたのは甚だ意味がわからないことである。何故ならば、この旗を盾として敵に近づこうとする奇計のように見えるからである。しかしこの事はここでは関係ないことである。」

バルチー「清国巡洋艦が発砲したのは、浪速艦がその運送船を停船させたからである。」

シーボルト「この運送船は英国または清国船である。もし貴官が申されるように、英国船である時は、支那軍艦はこれに干渉する権利はない。何故ならば、これは英国軍艦の職務に属するからである。もしまた、その運送船が清国船である時は清国軍艦はもちろんこれに干渉する権利がある。しかしその場合は英国政府は今に苦情を唱えられる理由はない。そして運送船が英国船であるか、清国船であるか、両者一つでなく同時に両者であることは出来ない。ゆえにもし英国船と仮定するときは、清国軍艦が発砲すべき理由を有しない。」

バルチー「この船は英国船であって、貴下が申されるように清国軍艦はそれが停船させられた故を以って発砲を始める理由を有しない。しかし浪速艦もまたこの船を停船させた。」

シーボルト「そうである。しかし時の順序に従ってこの事変を論じられたい。そうすれば貴官に於ても浪速艦の挙動が全く当然であることを了解されるであろう。日清間の戦端は済遠の行為のために開かれ、その時から戦時の法律が実行されるに至った。そしてこの法律によれば、交戦国は戦時禁輸品を運送する中立国の船舶を停船させる権利を有するものである。兵士及び軍器が戦時禁輸品であることは貴官の認められることと信じる。」

バルチー「勿論。しかしこの船を沈没させて人員を溺死させる必要はない。」

シーボルト「その事は別問題に属する。戦端は既に開かれ、浪速の艦長は端艇を派して同艦に随伴すべき命を高陞号に伝えた。換言すれば、艦長はこの船を捕獲物とした。これは国際公法の許すところである。」

バルチー「そうであるが、沈没させるには及ばない。」

シーボルト「これはまた別問題に属する。浪速艦長が随伴すべき命を高陞号に伝えた時、同船長はこれに従った。しかし清国人は降伏することを拒んでこれを妨げた。フォン・ハンネッケン氏、ガロウェー船長、及び難波艦長の証言によって見れば、高陞号の船長は既に船の指揮を失い、全く清国人の捕虜となったことは明白である。清国人は船長の生命を脅かし、端艇を降ろすことを妨げ、即ち法律上から言えば、その船を略奪した。ゆえに船はまさに英国の国旗を掲げていたとしても、最早英国の所有ではない。なぜならば代表者である船長は既にその自由を失って捕虜となったからである。この事は船に乗り込んでいる清国兵士が自らこれを行ったか、もしくはその将校の命令に出たもので、第1の場合とすれば、法律上から言えば、船は海賊の手に落ちたのである。第2の場合とすれば、清国皇帝陛下の軍兵は日本政府と清国政府との間に戦争が始まった時に於いて船を奪ったのである。ゆえに浪速艦長がそのような軍事上の処置を施したのは全く当然であるとする。即ち敵兵が乗組んでその所有に属する船舶の抵抗に打ち勝とうとするに必要なことである。」

バルチー「しかし船を沈没させるまでの必要はない。」

シーボルト「この点に於いてもまた私情と公法との区別をしなければならない。もし(浪速)艦長が他の処置を施す力がないとするときは、艦長は法律上に於いて毫も責めるべきものはない。もしまた、拙者の信じるように、艦長の同伴軍艦が清国巡洋艦を追って進行中であって何時優勢な清国出師のために襲撃されるかも図り難いことを以って、この際に一瞬も失うことが出来ない場合とすれば、同伴軍艦に引き続いて進行すべきは浪速の義務であるとする。これに加えて浪速は清国軍艦から甚だ粗暴なる照り扱いを受けて自ら沈没されんとする危険に臨んだのである。なぜならばその機関室に打ち込まれた榴弾がもし破裂したならば浪速の運命は全く極まったからである。」

バルチー「そうであるが、水中に落ちた者にまで発砲したのはどうか。」

シーボルト「この事はその後の情報によって明白となった。ハンネッケン氏の最終陳述によれば、軍装した日本の端艇が沈没中の船に向けて発泡したとあるが、これは果して何のためか。貴官に於ても(高陞号)船長の陳述を閲読されて御了解あるように、これは単に清国兵が水中にある欧州人に発砲したためである。即ち日本人はこれらの欧州人を救助するために出てきて、激昂した清国兵に対し、彼等を保護したに外ならない。英国の公衆が誤った不公平の電報のために始終惑わされたのは実に遺憾とする。これらの電報は、皆上海及び天津から来たと言うが、多くは英国に於て作られたものであることは拙者が明知するところである。例えば初めは水中の欧州人を銃撃したという報知があった。次には水中で九死一生を得ようする者を誰彼の別なく、という報知があった。目下の報知では、射撃されたのは沈没せんとする船からであると言い、皆が矛盾している。これに加えて、フォン・ハンネッケン氏は清国に仕えるものなので、その証言は公平又は中立の証言とすることはできない。何れも(高陞号)船長と一等船員の陳述するところを待たざるを得ない。それなのに、その有害の報道者中の既にその陳述するところは強迫の下に為したものである。英国船の船員は日本国官吏のために囚人として拘留されていると唱えるものがあるが、これは皆虚言である。それらの人々は最寄の海港である佐世保に伴われ、数日間休息の後、長崎に送られた。新聞紙上に喧しく言っているような、英国海軍司令官において、その引渡しを求める必要は全くなかったのである。」

バルチー「拙者らはかつてその趣意を耳にしたことはない。」

シーボルト「恐らくそうであろう。しかし、これは日本人に対してあたかも殊更に世論を激昂せさた事件の一つである。拙者はひたすら希望する。政治家はこのような情況に於ては虚心平気の判断力を失わないことを。」

バルチー「よって余は最早何事をも信じない。ただ詳報が到着するのを待つ。しかし拙者は浪速は決して英国の汽船を停船させる権利を有しないことを主張する。貴下はトレント事件を御記憶あるだろう。この事件はほとんど米国と戦端を開かんとさせた。」

シーボルト「トレント事件は本事件と異なる。そのわけは、当時米国軍艦は英国の郵便汽船を停船させ、南方の外交使節数名を捕らえた。そして米国人は外交官もしくは派遣委員を指して戦時禁制品であると称した。これはもとより無法に属する。ゆえに米国は英国に対して満足を与えざるを得なくなった。」

バルチー「拙者は内密に貴下に告げる。今回の英国船沈没事件は、全く甚だ不当なものだけでなく、実に愚昧に属する事件である。」

シーボルト「拙者も貴官と同様にこれを甚だ遺憾とする。しかしながら、拙者がこれまで弁明し、今なお至当と認めるところを議論のため事実と見做すのも、もし英国に於てわずかに一官吏のために日本国に対して友誼の関係を変ずるようなことに至るなら、尚更に一層の遺憾を加えるだろう。英国が条約改正によって創設中の大事業はこのために破却されるだろう。貴官等が日本に与えられた公明なる譲与の結果は、すべて水泡に帰すだろう。なぜならば、日本国は今、感謝の意を以て英国を見るのに躊躇していない。少し言葉を飾って言うなら、日本に於いては英国は日本の主権を束縛した圧制的条約を脱しさせた救世主であると思考される。今日本国民一般の感謝と称するときは、恐らく少し大言であると雖も、その国民一般の感情は全く英国に向っていることは、貴官も承諾されるだろう。李鴻章のごときは、『アジアはアジア人のアジアなり』という主義をもって、日本と合併協力して西洋諸国に当らんと、多年間画策し、大いに日本を誘った。日本がその申し込みを拒んだのは、恐らくは李鴻章を欧州のみに親しまんとするような観がある日本に対し、その嫌忌を増させただろう。」

バルチー「しかし、日本国にこのような方針を取らせた理由はどうであろう。」

シーボルト「その理由はただ日本人は清国人の意思、もしくは主義に対して少しも信を置かないことにある。日本は西洋諸国に反対する退歩主義を執る国とは決して協同することが出来ないだけでなく、何人といえども清国の外交政略には聊かも信を置くことは出来ない。現に近頃朝鮮事件に於いて、その本色を見た。ゆえに高陞号事件の如きは、その談判が厳し過ぎないことが英国の得策とする。なぜならば、英国から圧力を用いようとするときは、日本に於いて得た好意を失わせるからである。日本は英国との親交を維持するためには、凡そ正当なるものは、その種の如何を問わず、これを行うに躊躇しないといえども、国威を貶めるようなことには決して承知しないものである。」

バルチー「それならば償金を払うことが得策だろう。」

シーボルト「償金問題については、権利問題を以ってこれを論定する外はない。しかし拙者個人の意見によれば、今ここにおいて、その議論を継続することは不都合だと思う。この難件は苦々しい議論を用いずに懇意の方法をもってこれを落着させるを得策とする。」

バルチー「しかし貴下はその議論に同意しなくとも、要求の点は落着させると言うことが出来る。」

シーボルト「これは敢えて容易ならない。英国の海軍将官などは本件の場合に当り、どのような処置を施すべきかを御熟考ありたい。拙者は全く同様の処置に出るべきであると確信する。」

バルチー「それはそうだろう。英国人はその曲直を問わず、英国海軍将官を擁護すべしと言うが、もし浪速艦長が不当である時は、日本は同艦長を擁護すべきではないことを貴下まで述べ置く。」

シーボルト「拙者は、英国政府がその官吏に不当な行為がある場合に於いても、これを擁護するようなことは日本政府の好まないところであると思考する。兎に角、追って証拠が来着するに従い、大いにその趣を異にすると確信する。」

バルチー「兎に角、英国政府は本件に関し当分何等の処置も施さないだろう。余は本件を決定するに足る充分な詳報を待たざるを得ない。」

 なお、キムバーレー伯の書簡に対する回答の件について、多少の談判をした後、面談を終わった。

 いささかごたごたとした議論であるが、シーボルトの方が正論であろう。しかし英国の外務次官ですら当時の国際法をよく知らないとは。また、ハネッケンの証言も割り引いて聞かねばならないということである。

 なお、バロン・アレキサンダー・シーボルトとは、かのシーボルト博士の子息である。父はスパイ事件を起すなどはしたが後に幕府顧問となって対外交渉を務め、日本をこよなく愛した人であった。また子息バロンも、幕末には少年ながらも通訳として活躍し、明治になってその外交手腕をも評価されて日本外務省雇に採用され、後に対外交渉にも活躍した。そして日英通商航海条約の改正にも尽力した人である。

 日本は内外の人材に恵まれた国である。果してその理由は何だったのだろうか。

 

崎・上海英国海事裁判

 これに先立ち、英国政府は長崎に於いて英国海事裁判所を開くことに決し、8月4日に高陞号乗組員を召喚して審問を開始し、7日に結審した。その審判及び宣告は以下の通りである。

(「英国商船高陞号撃沈ノ事」p19より現代語に)

 高陞号はリッグド・スクーナ形装鉄船であり、登録トン数は1355トン、公認任番号は7000である。
 バルロー・イン・ファルニスによる製造。船籍は倫敦港に属する。

 当法廷に提出された証拠によれば、事実は以下の通り。

 本船は少しも(一般)荷物を積載せず、ただ支那兵1100名を乗せ、朝鮮国牙山に向い、7月23日もしくはその頃、大沽を出帆した事。

 7月25日の朝に至るまでは諸事異常は無かったが、午前9時ごろに至り、日本軍艦浪速より、停船、投錨の信号を受けたことにより、ショパイアル島のおおよそ北東に当り、その距離同島のおおよそ1海里4分の1にして、水深11尋[1ファスムは6尺であり、おおよそ我が国の1尋に相当する。](20メートル)の所に於て、その信号に従った事。

 浪速艦は端艇を用いて2度高陞号と交渉をしたが、高陞号の役員にその船を去るべしと命じた。しかし、支那兵はそれをするのを役員に許さなかった。

 それが終わり、午後1時頃に至り、浪速艦は高陞号に向かって水雷1個を発射したが的中しなかったので、側砲5門を発し、次いで甲板並びに砲塔にある機械砲及び大砲を連発し、遂におおよそ1時間を経て、高陞号の沈没に至るまで、発砲を絶たなかった事。

 砲撃を始めるに当り、乗組員並びに支那兵若干名は水中に投入した。その中の船長トーマス・ライダ・ガルスウォルシー、1等運転手リューエス・ヘンリー・タムプリン、及び按針長リニアス・エヴァンセリスタ[マニラ人]は、乗組員中僅かに生存するものである。

 当裁判所は、前記の事情を案査し、その判定調書を作ること以下である。

 1 高陞号は充分航海に適し、又必要の諸点に於いて十全であると認める事。

 2 同船沈没の前、並びに沈没に際するまでは、役員並びに乗組員の行為は満足にして批難すべき点がない事。

 3 沈没の原因は日本国軍艦浪速に属する砲撃を受けたことによる事。

 4 船長並びにその乗組員に於ては、この災厄を免れるべき手段がなかった事。

 5 当裁判所は、船長トーマス・ライダ・ガルスウォルシー並びに役員及び乗組員に対し、何等の批難は無い事。

 6 当裁判費、6ポンド4シリングは正当と認める。

1894年8月7日 於長崎
         裁判長英国領事ジョン・アイ・クイン 署
         ケープヨルク号船長ジョン・ミッチェル 署
         ドルーメラン号船長トーマス・イ・カウエル 署

 これは日本の責任を問うというよりも、高陞号船長に対するもののようである。
 その後上海に於いても英国海軍裁判所を開廷し、再び高陞号船長等を審問した結果、8月17日結審宣告によって、日本軍艦の行為は正当であるとした。(「同上」p20)

 また、列席審判者の英国海軍提督は、本国政府に対して、「高陞号への撃沈は正当であると思考するので、日本政府に対して何等の要求もしないことを勧告する」との電報を発した。(「8月19日 田逓信省通信局長より通報(電話)」)

 以後、英国政府から高陞号撃沈のことについて何等の要求も無かった。法学者論文、日英談判、海事裁判所宣告、それらが総合して英国政府に結論を出させたことになろう。更には又、条約改正なったばかりの日本に対し、シーボルトが説いたように、日本人の良好な対英感情を傷つけるのは得策ではないという判断も含まれていたかもしれない。

 

 

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