「日露戦争前夜の日本と朝鮮 (2)(3)」補足資料

 

日本守備隊について

 そもそも日本守備隊の朝鮮駐屯は、日清開戦と共に、朝鮮駐在日本公館と居留民の保護や軍需品運搬の護送などの兵站守備も兼ねて、要地に1大隊規模の歩兵を守備隊として置いたことに始まる。後には、朝鮮政府の要請によって東学党などの賊徒鎮圧の任にも当ったが、日清戦争が終結して平和に復すれば、当然日本に引揚げさせる予定であった。しかし朝鮮各地では官民ともに、守備隊が引き続いて駐在することを希望していた。(東学党鎮圧善後策ノ為メ帝国軍隊駐屯並ニ後備兵更代(中止)及朝鮮政府ノ依頼ニヨリ帝国軍隊駐屯ノ件 B07090213800)
 つまりは、東学党の乱は一旦は鎮定したものの、いつまた再燃するかも計り難く、その時は、これを朝鮮兵の力で鎮圧することは不可能なことであったからである。

そこらへんの事情を井上馨公使の報告から抜粋すれば、以下の通りである。

(「同上」p11より抜粋)

一、昨秋九十月頃より全羅忠清及び黄州の各道に蜂起したる東学党は其外形は百姓一揆に類似すと雖ども、其種類各種にして、元東学党なるものゝ内、一種の宗教に類似したる儒道と仏法を混交せる天道と云う如きあり。又地方官なるもの中央政府は無監督にて殆んど自立の姿なれば、己れの意思の侭に加税し、又は買官の償を自由に取立る等の悪弊習慣の久しき為め、常に其苛税に苦み、終に官員駆逐、又は豊太閤征伐の惨酷并掠奪の甚きを子孫伝説し、日本人を諱避するの迷心、今に存在せるを、彼東徒首領、其他接手と唱うる各所の頭立たる者等、則ち日本人等が開化誘導を名として其実朝鮮を奪うの意なる明かなり故に、飽迄日本人を撃退し国の安全を図らざるべからずと、無知の人民を利用し己等の勢焔をなし、金介男抔に到りては、自ら開南国王と称したる等、即ち其中には、革命、斥倭、逐官等、種々の目的を有する集合体にして、其党教は能く人心を団結し、死力を出さしむるに足るものゝ如し。彼等、日本兵隊に遇えば形を潜め影を匿し、若し日本兵にても小兵を見れば、俄然衆を集めて之を迎い、其戦に当ては死を顧みず勇進する如きは尋常朝鮮人の怯懦無謀と同視し難きもの有之候。故に、彼等は今後一時討滅に就くも機を見、虚に乗じ、再燃するは必然なれば、将来朝鮮各道の地方制度整頓し、警察の取締向き厳重に相立迄は、各要地に兵を分屯して之を予防せざる可からず。然るに朝鮮各地の常備兵[旧式兵]は其名のみにして普通人民に異ならず。彼等は既に東徒に恐懼し東徒亦彼等を軽蔑する有様なれば、初めより鎮撫の実効なく、且つ彼等の中には既に東学に化せしもの甚だ多き由致承知候。又、近年編成の洋式兵とても、則ち旧式兵若くは吏卒の流末より雇上げ稍々西洋流に訓練したりと雖ども、老若混合、一時人足を集め、兵と云う名を付したるに過ぎず。腐敗して不紀律なることは更に旧式兵に異なることなく、而して其兵数は京城及各地屯兵を総計して数千人に相過ぎ不申候。畢竟するに、朝鮮兵は前述の如く腐敗を極め、且つ之を指揮すべき良士官なきが為め、東学党に当る能わず。是非なく其討伐を我兵に依頼したる次第にて、縦令鎮定後と雖ども、現在の韓兵を以て防備に充つることは極めて見込無之候。殊に韓兵は前にも申述し通り、不紀律千万にして、掠奪強姦、賊徒より甚しとの評ある程なれば、若し強て此兵を以て各地に駐屯せしむるときは、却て乱民を挑起する恐れ有之候。依之先般来、斯る弊害を掃除し、在京の兵は旧洋両式とも尽く之を廃止し、更に洋式兵中より選抜して新兵を組成せんと企て取調方に着手致候得共、之を実行するには、京城の各営丈けと各地方の内、二千人計りは先、未払の給を凡四ヶ月平均に渡さゞるを得ず。・・・・・(以下略)

 なんか頭痛くなってきた(笑)
 とまあ、何から何までトンデモなのが朝鮮というものであってねえ。もうね、こんな国というか集団に関わるなよと言いたい感じ(笑)

 で、明治28年となっても時に賊徒の乱があり、例えば3月には黄海道で千人ほどの東学徒を蹴散らしたなどの報告もある(漁隠洞熊谷兵站司令官より川上兵站総監宛 電報 3月26日 C06060174700)
 日本政府としては、日清戦争終結後は守備隊を引揚げ、後は朝鮮兵や警官の取締りに任せる方針であったが、官民はともに駐在を要請。なんと言っても朝鮮兵に比べて日本兵は紀律が厳粛であり、また少数の兵で多数の賊徒を撃退するのを目の当たりにしてきたからであった。
 明治28年4月には、朝鮮政府から各地に日本兵を分屯させることを正式に要請。(「同上」p24、東徒再燃予防の為め我兵を各要地に分屯の義、朝鮮政府より依頼の件)
 7月には、杉村濬代理公使と国王王妃の対談の中で、駐在兵を置くことを国王が要望したことは既に記述した通り。
 よって、8月には日本政府は正式にその依頼を承諾した(「同上」p51)

 で、賊徒もあちらこちらで小規模の乱を起していたようで。明治28年9月に入っても次のような報告がある。

(9.13 平安道祥原に賊の屯集を偵察 高井兵站監)

秘 電報 九月十二日午後三時仁川発 十三日午後五時五十五分着

                        仁川高井兵站監
 川上兵站総監
一昨十日平安道祥原道に於て、兵器を持ちたる賊百余名郡司官宅及び人家に乱入し、財物を奪い近傍の山中に屯集せる旨を以て、郡司より出兵を請求せるにより、地方司令官は其実否を偵察中なり。
右報告す。

(9.31 祥原賊徒の動静 高井南部兵站監)

本月十二日報告後、平壌司令部より特派せし探偵の報に依れば、祥原の賊は其実数百八十七人にして、什器財物を牛に駄し妻孥を携え、十四日遂安方向に去れり。而して彼等の説く所に依れば、此地に止まる時は日本兵来り撃つの恐れあり。速かに海を占領するに若かずと。依て彼等の屯集し在りし五十峰の家屋は十八日夜、村民に於て焼き払えり。又た賊徒の口実とする所は、良民を犯すにあらず、唯だ奸官を除くの主意なりと。
昨日午後平壌水野大佐より更に左の来電あり。

祥原郡守の報告に、韓歴七月二十六日、賊徒九十七名、五十峰より山を降り、三十四名瑞興嶺を過ぎ、当日該郡東峴嶺に行く六十三名、二十七日遂安新積洞等に到り止宿。翌日牛五頭を雇い器械を積載し、黄楊村地に行き、牛五頭を送還す。其後行く処を知らず。但し九月山若くば海に行く目的ならんとの風説なり。

右及報告候也。
 明治廿八年九月二十一日
     南部兵站監 高井敬義
 兵站総監子爵川上操六殿

 要するに流浪の集団ですな、これは。転々と拠点を移しながら各地で強盗を働く。で、自分たちは悪い官吏をやっつけるんだと。でも、やっていることは要するに掠奪や破壊を繰り返しているだけでねえ。こんなのが後々に、義兵と呼ばれたり革命運動だのと称されて、美化されていくわけです(笑) この手の連中はお隣りの清国にも多数いたわけで、しょっちゅう騒ぎがあってますな。単なる匪賊や馬賊に過ぎないのであってねえ。なにせ、自分たちは何も生産的なことはせずに、ただ人のものを奪うだけというのだから。

 で、郡主の報告とあるから、当然朝鮮政府にも報告されたろうと思われる。そして賊徒は14日に山を降りて去ったので、18日には村民が彼等が居た家屋を焼き払ったと。
 どんだけ嫌われてるんだろ(笑) まあ山賊みたいなものだから無理ないか。それで彼らは海州を占領するつもりだと。また、九月山に向うかもと。

 まあこんなことですから、朝鮮政府としても頼りにならない地方の官兵などよりも、日本軍による鎮圧を度々依頼し、それで三浦公使が9月20日に大本営に以下のような要請をするわけです。

(「9月22日 大本営陸軍中将子爵川上操六発 内閣総理大臣侯爵伊藤博文宛 三浦公使電報の件(平安道江原道内賊徒と当政府からの守備兵要請) C06061351300」p5)

   電報 九月二十日午後五時二十五分京城発  九月二十一日午前七時十分着
過日来、平安道江原道内に賊徒屡々起りしに依り、当政府は其都度本官に向い、我兵站守備兵を差向けんことを依頼したるも、本官は之を拒絶せり。今日の模様にては、将来尚お賊徒各地に起るやも計り難しと雖ども、本官は能う限りは朝鮮政府の自力にて鎮圧の任に当らしめ、容易に我兵を動かす如きことはなさゞる考なり。左りながら賊勢愈々強大に赴くときは、当政府は或は転じて露国に依頼の懸念ありて、機一髪の場合に立ち至らば、或は大本営に通知するの遑なく、直ちに我兵を動かさゞるを得ざることあるべし。依て本官の通知に応じ、何時にても出兵する様予て兵站司令官に御訓令相成り、而して其趣、外務大臣を経て本官へ御通牒相成りたし。
                                               三浦公使
        大本営
         川上中将

 平安道や江原道に賊徒が度々起きているので、朝鮮政府が日本守備兵で鎮圧してくれと言うけれど、自力でやらんかい、と言って断ってきたと。それでも賊の勢いが強大となるなら、朝鮮政府が今度は露国に依頼するかもしれない懸念があるし、時機が間一髪という場合には大本営に通知する暇も無く直ちに兵を動かさざるを得ないようなこともあるだろうと。それで自分が通知することによって何時でも出兵できるように、大本営のほうから兵站司令官に訓令しておいてもらいたいと。それで、そのことを外務大臣経由で自分に通知してくれと。

 まあ、三浦梧樓も一応は陸軍中将であるし、この人の性格の大雑把さから言えば、先に外務省に通さずに直接大本営に打診したんでしょうな。もっとも、外務大臣経由で通知してくれとは言っているけれど。

 で、川上総監もそれでいいのでは、と仁川の高井兵站監に訓令するつもりと。しかしここで一応、伊藤総理に意見を求めるわけです。

(「9月22日 大本営陸軍中将子爵川上操六発 内閣総理大臣侯爵伊藤博文宛 三浦公使電報の件(平安道江原道内賊徒と当政府からの守備兵要請) C06061351300」p1)

臨発第二五六六号
別紙之通、三浦公使より電報有之候に付、参命第三二三号之通、南部兵站監へ訓令可相成筈に候得共、一応御意見相伺度候也。
  明治廿八年九月廿二日
     台本営
      陸軍中将子爵川上操六

 内閣総理大臣侯爵伊藤博文殿


(「同上」p2)
前議之通、外務大臣へ通牒方御取計有之度候也。
 明治廿八年九月廿二日 陸軍参謀部
陸軍副官部 御中


(「同上」p3)
   外務大臣へ通牒案
三浦特命全権公使より別紙電報の通、請求有之候に付、在仁川南部兵站監高井敬義へ別紙参命第三二三号の訓令を下され候条、貴官より同公使へ通報相成度候也。


(「同上」p5)
   電報 九月二十日午後五時二十五分京城発  九月二十一日午前七時十分着
過日来、平安道江原道内に賊徒屡々起りしに依り、当政府は其都度本官に向い、我兵站守備兵を差向けんことを依頼したるも、本官は之を拒絶せり。今日の模様にては、将来尚お賊徒各地に起るやも計り難しと雖ども、本官は能う限りは朝鮮政府の自力にて鎮圧の任に当らしめ、容易に我兵を動かす如きことはなさゞる考なり。左りながら賊勢愈々強大に赴くときは、当政府は或は転じて露国に依頼の懸念ありて、機一髪の場合に立ち至らば、或は大本営に通知するの遑なく、直ちに我兵を動かさゞるを得ざることあるべし。依て本官の通知に応じ、何時にても出兵する様予て兵站司令官に御訓令相成り、而して其趣、外務大臣を経て本官へ御通牒相成りたし。
                    三浦公使
  大本営
   川上中将


(「同上」p7)
参命第三二三号
   南部兵站監へ訓令 明治二十八年九月二十二日
今後若し朝鮮内地に賊徒再燃する場合に於て、之が鎮圧の為め貴官の指揮下に在る守備兵を派遣する件に関し、特命全権公使三浦梧樓より協議あらば、貴官は固有の任務を尽すに妨なき限り、成るべく同公使の協議に応ずべし。
           大本営

 で、外務大臣への通牒案と三浦公使からの電報写しと兵站部への訓令写し付きと。

 そもそも明治15年の大院君の乱(壬午事変)以降、日本は公館と居留民保護のために護衛兵若干を置く権利を得たわけであって、その駐在の兵は主に公使の求めによって動いてきた。無論それは、三浦が言っているように求めによる「通知」であって、兵を指揮するような指揮権などというものではない。
 しかし、その「通知」をするのに、緊急を要する突然の事態となった場合、まさか一々本国の大本営に問合せるような暇があろうはずもなく、それよりも現地軍に直接通知して動けるようにしたい、と三浦が考えるのは、当然と言えば当然。
 それで大本営の判断も、在仁川南部兵站監高井敬義に対して、「三浦公使より協議があったら、できるだけその協議に応じるように」というものであった。これは要するに協議に応じる応じないは高井兵站監の判断いかんでもあるわけであって、もちろん三浦公使に守備隊の指揮権を渡すというようなものではない。

 で、大本営としては、外務大臣への通牒案を添えて伊藤総理に相談して、これでどうよ、と。

 ところが、伊藤総理からその話を聞かされた西園寺外務大臣はカチンと来た(笑) 先に外務大臣に通すべきものが、後回しにされたからである。
 で、西園寺はすぐに三浦に以下のように電信。

(「在朝鮮帝国守備兵ヲ朝鮮政府ノ依頼アラバ暴徒鎮定ノ為メ内地ニ派遣方ノ件」p5)

電送第六八六号 明治廿八年九月二十四日午後四時五分発

      電信案
 三浦公使                     外務大臣
必要の場合に留、在朝鮮の兵站守備隊を動かすの件に関し、本月二十日付を以て閣下より直接に大本営に宛て発電相成たる旨、総理大臣より通知ありたり。本件の如きは外交上重大の関係を有する事柄なるのみならず、閣下より大本営に請訓可相成筋のものにあらず。因て以後は必ず本大臣に宛て訓令を請わるべし。委細は手紙にて申進す。

もちろん「電信案」とあるが、発電されたものである。で、次に手紙でお説教が来る(笑)

(「同上」p7)

機密送第六五号 明治廿八年九月廿五日起草 廿五日発遣

在朝鮮 三浦公使       外務大臣代理
   在朝鮮兵站守備兵の動員の件に関し、大本営へ直接に照会したる義に付訓令の件。

過般来、朝鮮内地に於て屡々賊徒相起り候に依り、右鎮定の為め朝鮮政府より閣下に対し我兵站守備兵を差向けんことを依頼したるも、閣下は今日迄之を拒絶相成候処、将来或は我兵を動かさゞるを得ざること可有之哉も難斗に付、右様の場合に立至候わば、閣下の通知に応じ予め何時にても出兵する様、大本営より兵站司令官に訓令可相成旨、本月二十日付電信を以て別紙甲号の通り閣下より直接に大本営に御照会相成候趣、昨二十四日、伊藤内閣総理大臣よりの通知に接し、初めて承知致候。
抑も、在外公使と本邦各官庁との往復の義に関しては、明治廿五年五月二十六日付閣令第四号及同年八月五日付外務大臣よりの訓令にも有之通り、予め本大臣の承諾あるにあらざれば、直接通信は一切成らざる既定に有之候処、今般閣下より大本営宛にて直接に御照会相成りたるは、如何なる間違に出でたる義に候哉、本大臣の了解に苦む所に有之候。
加之のみならず、日清戦争も最早集結し、及び両国間の平和も全く旧に復し、随て日韓同盟条約の如きも、其効力の有せざるの今日に当り、在朝鮮の我軍隊を動かし候様の事は外交上実に容易ならざる関係を有し候義に有之候事は、今更本大臣よりも申迄も無之候。
就ては、韓廷よりの依頼の有無に拘わらず、万一我軍隊を動かさゞるを得ざる如き必要の場合に立至候節は、先ず第一に本大臣に於て篤と其当否を考察し、亦之を閣議に提出し、廟義決定の上にあらざれば、実行難致事柄に有之候。
右の次第に付、昨日付電信を以て別紙乙号の通、一応申進置候。尤、若し本件に関し於請訓可相成義も有之候共、成規の通、本大臣宛にて御申越可相成、此段及訓令候也。

別紙
甲 九月二十日京城発 三浦公使より大本営宛(略)
乙 九月二十四日 電送六八六号の写(略)

 まあ、書簡だから届くまで何日もかかるんだが。で、三浦公使としては、先の電信に対して以下のように返事した。

(「同上」p11)

電受第一〇二一号 明治二十八年九月廿五日午前十一時二五分発 十二時四十分着

昨廿四日付貴電領収す。本官が川上中将宛発電したる直接大本営に請訓したるに非らず。一応、同中将に内意見を聞合せたる上、公然閣下の訓令を乞う所存なりしなり。本件外交上重大の関係あること、又、閣下を経ずして大本営に請訓すべきものに非らざること、勿論承知せり。既に総理大臣より本件に付閣下へ通知在りし上は、何分の御指揮ありたし。委細郵便。
                      三浦公使
  西園寺外務大臣

三浦 「サーセンw」
 って感じか(笑)  で、西園寺は西園寺らしい律儀さでもって、以下のようにわざわざ閣議にはかっている。

(「在朝鮮帝国守備兵ヲ朝鮮政府ノ依頼アラバ暴徒鎮定ノ為メ内地ニ派遣方ノ件」p12)

明治廿八年九月廿八日発遣

親展送第一三六号
内閣総理大臣
  侯爵伊藤博文殿         外務大臣

在朝鮮兵站守備兵を朝鮮政府の依頼に依り賊徒の鎮定の為め内地に派遣の義に関する閣議案

過般来、朝鮮内地に於て屡々賊徒相起り候に依り、右鎮定の為め同国政府より在朝鮮我守備兵を内地に差向けしことを在京城三浦公使迄依頼したるも、同公使は今日迄之を拒絶相成りたり。然れども将来に於ては或は我兵を動かさゞるを得ざること可有之哉も難斗に付、右様の場合に立至らば、同公使の通知に応じ、予め何時にても出兵する様、大本営より在朝鮮兵站司令官に訓令相成候様致度旨、今般同公使より請訓相成候。就ては必要の場合に於て朝鮮政府の依頼に応じ、我守備兵を派遣候共別に差支無之義と存候に付、請訓之通り大本営に於て取斗相成候様致度、尤も右様大本営より訓令相成候とも、果して我守備兵を内地へ派遣する場合には其時機に依りては政府に於て尚熟考を要すべきことも可有之と存候に付、三浦公使へは派遣の都度前以て可伺出旨、本大臣より訓令可有候。
大至急閣議を請う。

 で、西園寺はその前に川上中将宛に書簡を送って、以下のように「参命第三二三号」を見合すようにも述べていた。

(「在朝鮮帝国守備兵ヲ朝鮮政府ノ依頼アラバ暴徒鎮定ノ為メ内地ニ派遣方ノ件」p10)

明治廿八年九月廿五日発遣

大本営
 川上中将殿        西園寺公望

■賀陳■ 三浦公使より本月二十日付電信を以て老台迄申出の件に付ては、小生より更に何分の義申進候、■在朝鮮兵站司令官へ御下訓の義は御見合相成候様有■此点申進候 敬具

で、閣議決定した時には10月に入っていた。

(「在朝鮮帝国守備兵ヲ朝鮮政府ノ依頼アラバ暴徒鎮定ノ為メ内地ニ派遣方ノ件」p14)

機密受第九五〇号  内閣送第三一号

去九月廿八日、親展送第一三六号を以て閣議に提出相成候、在朝鮮国我守備兵を内地に派遣に関する件、閣議決定の上、左の通、陸軍大臣へ通牒取斗候条此段及御通牒候也。
 明治廿八年十月二日
    内閣総理大臣侯爵伊藤博文
 外務大臣臨時代理
  文部大臣侯爵西園寺公望殿

別紙外務大臣請議在朝鮮我守備兵を内地へ派遣に関する件は請議の通、閣議決定候条、三浦公使より通知次第何時にても出兵する様、大本営より予め、在朝鮮兵站司令官に訓令相成度旨、大本営へ照会の儀可然御取計相成度候也。
 明治廿八年十月二日
                内閣総理大臣

  陸軍大臣宛

 で、西園寺はこれを三浦に電信と手紙で通知。

(「在朝鮮帝国守備兵ヲ朝鮮政府ノ依頼アラバ暴徒鎮定ノ為メ内地ニ派遣方ノ件」p16)

電送第六九四号明治廿八年十月二日午後二時五十七分発

在京城
 三浦公使         西園寺外務大臣

暴徒鎮定の為め我守備兵を内地に派遣之義に付、朝鮮政府より依頼ありたるときは其都度本大臣に訓令を請するべし。


(「在朝鮮帝国守備兵ヲ朝鮮政府ノ依頼アラバ暴徒鎮定ノ為メ内地ニ派遣方ノ件」p17)

明治廿八年十月四日発遣

機密送第七一号
機密
在京城
 三浦公使            外務大臣

賊徒鎮定之為め朝鮮内地に我兵站守備兵派遣之件

賊徒鎮定之為め朝鮮内地に我兵站守備兵を派遣するの義に付、閣下より大本営に御照尋之件に関しては、去月廿五日付機密第六十五号を以て委細申進置候共、其後間もなく同日付電信を以て更に本大臣へ御請訓相成候に付、右に関しては不取敢閣議に提出いたし置候。
然れども、必要之場合に於て朝鮮政府の依頼に応じ、賊徒鎮定之為め我守備兵を内地に派遣候事は帝国政府に於ても別に異存無之候え共、果して之を派遣する場合には其時機に依ては政府に於て尚熟考を要すべきことも可有之候に付、派遣之都度、閣下より前以てお伺出相成可候旨、廟議決定相成候に付、去る二日付電信を以て別紙の通り申進置候。尤も、在韓兵站司令官へは何時にても閣下よりの通知に応じ、出兵する様、大本営より訓令相成候に付、本大臣よりの訓令に因り、出兵の必要相生じ候節は、同司令官と御協議之上、可然御取斗相成候此段及訓示候也

[別紙電信写 電送第六九四号(略)]

 とまあこれで、ようやく正式の手続きが整ったわけですが、こと王城事変に関しては、実はこれらのことはあまり意味は無い。
 なぜって、三浦梧樓は王城事変に於て、守備隊についてはもちろん西園寺外務に事前通知しなかったのみならず、仁川の高井兵站監にも通知せず、守備隊長馬屋原務本との個人的なつながりによって守備兵を動かしているからである。

 まあ、ここらへんが軍人というものの怖いところですな(笑) 
 つまりは、三浦の大本営への打診は、事変を目的としたものとは言えないということ。先にわざわざそのようなことをせずとも、兵を動かすときには動かすのが三浦梧樓と(笑)

 ではなぜ長々「守備隊について」の記述をしたかというと、筆者自身の資料検証でもあり、それに、なんか十把一絡げにして伊藤博文たちにまで王城事変の犯人扱いする人がいるらしいようだから(笑)

 

 で、ついでに電信線守備に関する史料を以下に。

(「朝鮮ニアル軍用電線保護ノ為メ憲兵派遣ノ件 附南部兵站線ヲ徹シ守備隊更代ノ件(更代ノ件中止)」p6)

明治廿八年九月三十日起草 十月三日発遣
機密第七〇号
                            西園寺外務大臣
在朝鮮 三浦公使宛

 朝鮮国内に在る軍用電線保護の為め憲兵派遣の件

朝鮮国内に在る我軍用電線は、占領地総督との通信、一に之に頼るものにして、盛京省に在る帝国軍隊との連絡を得る、実に此線あるが為めに有之候処、同国の有様は従来我兵站守備兵の駐在せるにも拘わらず、電線を切断破壊する等のこと往々有之。此際同守備兵を撤去するに於ては、電線の維持は到底望む可らざる義に有之候に付、今般京城釜山元山へ駐在せしむべき歩兵一大隊派遣すると同時に、憲兵将校以下二百五十名を派し、釜山京城間及仁川義州間に配置し、以て右軍用電線の保護に任せしめ度旨、陸軍大臣より閣議稟請有之候処、右請議の通決定相成候旨、同大臣より通知有之候。
右は此際朝鮮政府へ通知するに及ばざる義と存候え共、若し閣下に於て必要と御認相成候わば、同政府へ通知方可然御取斗相成度候。此段申進候。敬具。

 ということで、9月30日起草10月3日発信の三浦公使宛て電信で、電信線は憲兵が確保するから、と通知してありますな。で、三浦が必要と思うなら朝鮮政府へ通知してもよいから、そこんところよろしくね、と。

 

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