日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料

 

索引

 石塚英蔵書簡
 在韓苦心録 王宮事変部分
 予審終結決定書
 在韓苦心録 予審終結決定書に対する意見
 機密第三六号(検事正に提出の「機密裁第二号」も)
 証人鄭秉夏訊問調書
 証人玄興澤訊問調書
 証人ゼネラルダイ訊問調書  12月16日
 ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第1回 11月20日
 ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第2回 11月22日
 訓練隊起閙、安軍務大臣報告
 十月八日事変の犯罪人処分の件
 菊池謙譲の事変記述
 楠瀬中佐と大院君入闕始末
 国王、世子、王妃の処遇について
 大院君の謝礼金
 サバチンの証言
 加害と被害など
 宮女殺害の事実なし
 公訴の困難さ、証人や証拠の不足
 朝鮮政府による処理

 

石塚英蔵書簡

(「国会図書館 憲政資料室蔵 伊藤伯爵家文書   末松法制局長官宛 石塚英蔵書簡」)

敬啓 其後は益御清福■為入奉恐賀候。

扨、当地昨朝之出来事は既に大要御承知済之御事と奉察上候。
王妃排除之儀は、若し時機の許すあらば、之を決行したしとは、不言不語之間に、誰人も抱蔵したる考に可有之候得共、若し一歩を過らば、忽ち外国之関係を惹き起し、永遠に国に占むる日本之地歩を亡失するは必然之儀なれば、深く軽率を戒しむべきは、今更申し越す迄も無之儀に御座候。
今回之事、小生共最初より少しも計画に与からず、却而、薄々其計画を朝鮮人より伝聞致候程に有之。段々聞知する所に依るに、局外者にして其謀議に参与し、甚しきは弥次馬連が兵隊之先鋒たりし事実に有之候。
而して其方法は軽率千万、殆んど児戯に類するなきやと思わるゝも無之にあらず。幸に、其最も忌わしき事項は、外国人は勿論、朝鮮人にも不相知候様子に候。
現公使に対しては聊不徳義之嫌有之候得共、一応事実之大要御報告仕るは、職務上之責任と相考候間、左に簡単に申陳候。

 一 発端
王妃排除の必要は、三浦公使も夙に深く感ぜられたるものゝ如し。而て其今日に之を決行したる所以は、「危急の場合に露の援兵を請うべきの約束」半に「訓練隊解散の計画」を、宮内府に於て為したるに由るものゝ如し。
 [即ち訓練隊を利用したるなり]

 二 名義
訓練隊解散、兵器没収の内議を聞くや、已むを得ず大院君を要し、大内に哀訴せんとして、侍衛隊に衝突を来したり。王城前に在る守備兵は之を鎮静せんが為、四門の警備に従事したりと云うに在り。

 三 謀議者
推察するに、岡本は主唱者たるの如し。大院君の入闕を斡旋したるは、正しく同人なり。外に柴、楠瀬、杉村は密議に参与したりと云う。其他は少しも関知せず。守備隊長馬屋原の如きは、命令的に実行の任に充られたるが如し。

 四 実行者
此荒仕事之実行者は、訓練隊の外、守備兵の後援あり[後援は或は当らざるが如し]。
尚お守備兵の外に、日本人二十名弱あり。熊本人多数を占む[漢城新報社連]。中に新聞記者数名、又医師、商人もあり。隨て洋装和装相混ぜり。
岡本は大院君と同時入城し実行の任に当れり。
守備隊の将校兵卒は四門警衛に止まらず門内に侵入せり。
殊に野次馬連は深く内部に入込み、王妃を引き出し、二三ヶ処刃傷に及び、且つ裸体とし、局部検査[可笑又可怒]を為し、最後に油を注ぎ焼失せる等、誠に之を筆にするに忍びざるなり。其他宮内大臣は頗る惨酷なる方法を以て殺害したりと云う。
右は士官も手伝えたれ共、主として兵士外日本人の所為に係るものゝ如し。
大凡三時間余を費して、右の荒仕事を了したる後、右日本人は短銃又は劔を手にし、徐々として光化門[王城正門]を出で、群集の中を通り抜けたり。
時已に八時過にて、王城前の広小路は人を以て充塞せり。

 五 外国使臣
米露両公使は、宮闕内に於ても大院君及三浦公使に向て、頻りに質問し、尚お同日午後は、各国使臣相続て日本公使館に来り、一々証を挙て難問し、夜に入て各々帰館したり。三浦公使弁解頗る力む。結局双方水懸論なれ共、当方は余程の痛みを感ずる廉なきにあらず。折悪しく或米人現場を目撃し居りたりと云へば、普通一般之朝鮮人之証言之如く、一概に抹殺し去るを得ざるべく、乍去、三浦公使の弁解も亦頗る上出来なるが如し。[公使之談話に依れば]又、大院君始め各大臣は、堅く約して日本に不利ならざるの返答を為し居れり。然れ共、遂に国際問題たるを兔れざるべし。

 六 影響
仮りに、当地に於ける外国使臣間之談話にて要領を得て国際問題とならざるも、夫の遼東問題には必ず影響を与うるに至るべし。
尤も公使は、困難なる場合には兔官せられ不苦と被申候得共、公使之辞任、豈能く国際紛議を解かん。
要するに王妃が従来改革之妨害たる事は、小生共之夙夜憤慨に堪えず打過候事なれば、此断然なる処分を喜ぶと同時に、其方法の宜しきを得ざりしを深く惜まざるを不得と存候。
公使は右の野次馬連中に対しては、表面上夫々処分を施さるゝ事ならん。乍去、諸外国之困難を排除し得べきや、否疑なき能はず。
勿論此る荒仕事之事なれば、多少「ボロ」を現わすは兔れざる所なりと雖、今回之事、余り「ボロ」多からざるか。
右は前記に申陳候如く、三浦公使に対しては甚不信実之至には候得共、職務上之義務に馳られ、不得已御報道申上る次第に御座候。右何卒篤く。
      十月九日 英蔵
 末松

 「小生共最初より少しも計画に与からず」「段々聞知する所に依るに」で、彼が現場にいて見たわけではないことが分かる。それに、当時王宮に入った日本人は全員容疑者として日本に送還されて予審にかけられている。当然そこには彼の名は無い。
 なお、「殊に野次馬連は深く内部に入込み、王妃を引き出し、二三ヶ処刃傷に及び、且つ裸体とし、局部検査[可笑又可怒]を為し」という下品な感想の伴う文での「野次馬連」とは、「公使は右の野次馬連中に対しては、表面上夫々処分を施さるゝ事ならん」とあるので、日本人を指していることになる。法律の専門家である彼が、条約上の制約を知らないはずはなく、当然、三浦公使が処分できる対象は日本人だけだからである。ま、伝聞による描写なのだが。

 

在韓苦心録 王宮事変部分

(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「後編 3」p26より、()は筆者)

   第十四 朝鮮有志家の運動、大院君の激憤、警務庁巡検と訓練隊兵卒の争闘、訓練隊解散の命令、王宮再度の事変

 是より先に、朝鮮人の時世を歎き国家の危亡を訴うる者漸く増加せり。皆謂う。宮中の意は先ず訓練隊を解散して政府の爪牙を奪い、金総理已下を殺害して閔氏執権の旧態に復せんとするに在りと。
 又謂う。宮中は既に俄使と結托し、俄国が朝鮮の君権を保護する代りに咸鏡道の一港を俄国に貸すの密約を為せりと。而して之を匡済する唯一の手段としては、彼等は皆大院君の入闕を希望せり。其人々を概別すれば、現政府派、朴泳孝派、及大院君派にして、其中、李周会等は熱心に之を主張し、陰に大院君と気派を通ぜん如し。李周会は朴派に近き人にして、我浅山顕蔵と親交あり。故に諸事同人と相談すと言えり。

 已上、閣臣殺害、港口貸渡の説は宮中に於て果して此陰謀ありしや又は当時宮中の挙動異常なるに驚き疑ば暗鬼を生じ、誰言うとなく此等の説を立てしものか詳ならず。

 九月下旬、李周会は三回程、深夜余を訪い、慷慨悲憤、大院君を押立つるの外、救済の道なしと論じ、切に余の援助を求めたり。余は大院君は反覆の人なれば不可なりと斥けたる処、同氏は大院君は決して再び日本に背かず、拙者は誓て背かしめずと断言せり。去れど余は同氏に対し、毫も採否の意思を洩さゞりし。此頃、趙重應も亦来りて同様の言を為したりき。

 其前朝鮮の有志家が大院君を戴て事を挙げんとの説、民間に行われたるに付、余は大院君の軽挙して禍に罹からんことを掛念し、岡本氏と相談して窃に鈴木順見を孔徳里に派して之を探らしめたるに、同君は国家の危亡に瀕するを慷慨し激憤自ら禁ずる能わざる様子に見受けたるも、敢て立たんとする色なき旨帰報せり。是は九月二十日頃の事なりき。

 其後、度氏(支)部顧問仁尾惟茂、内閣顧問官石塚英蔵氏等、屡々公使館に来りて、宮中暴横の為め、改革事業は一敗地に塗れんとするの事情を訴え、三浦公使の救護を求めたり。公使は之が為め二両回参内して諌止的意見を内奏したるも、何等の効能なかりき。
 当時余は仁尾氏等に向い、今日の形勢なりては最早口舌の能く救う所にあらず、実に何とか決心せざるべからざる窮境に迫れりと。

 九月末、堀口領事官補は窃に大院君を訪問し、同君より公使への伝言を依頼せられたりと称し余を尋ねたるに付、余は同氏を誘うて公使の室に至り具に其伝言を聴けり。
 大要は危亡に瀕したる現状を述べ、而して之を致したるは井上公使の罪多きに居れりとて、痛く同公使を非難したる上、之を救護する方法に付、御相談したければ三浦公使に面会したしとの意なり。
 公使は其場にては諾否の返答を為さず。堀口氏退席後、余に謂て曰く。
 初め東京出発の際に、早晩事変発生を予期したるも、明年一二月の頃までは大丈夫ならんと思いしなり。然るに何ぞ料らんや、事目前に迫れりと。
 蓋、堀口氏は、荻原警部、鮎貝某等と同志にして、洪顯哲と云う朝鮮人其間に立て大院君と連絡を通ぜり。洪は危激家と云わんよりは、寧ろ突飛にして九月十日頃一書を公使館に投じ、書中時弊を痛撃し、井上公使の措置其当を失えるを陰刺し、結末に及んで大院君を出さゞれば時世を救う能わざるを極論せり。
 同人は屡々院君邸に出入し遂に双方の連絡を謀りたるものと推測せり。

 既にして形勢益々切迫したるに付、十月一二日頃、余は三浦公使の室に至り、時勢談に及びたる処、公使曰く。
 先日堀口が齎したる大院君の伝言に対し、何とか返答せざるべからず。同君果して立たんとする勇気あらば、助けて之を立たしめなば如何。
余曰く、大院君は極めて貪権家にして且反覆常なく共に事を謀るべからず。昨年既に手を焼きたり。
公使曰く、大院君を助けずして外に救済の道ありや。
余答えて曰く、無し。
公使曰く、今日の侭に放任せば、見す見す朝鮮を俄国に攫去せらるべし。大院君の貪権反覆は後日に至り之を制する道を講ぜん。目下の場合、之を顧みるの暇なし。
余曰く、万不得止時は大院君を助くべし。然れども最初に厳重の約束を結ばざるべからず、と退て左の約束案を草せり。

 一、国太公[大院君を指す]は大君主を輔翼して、専ら宮中事務の整理に任じ、一切の政務には干与すべからざる事。
 誓告文の趣意を遵奉し、王室の事務と国政事務に判然区別を立つべし。宮内府の勢力を拡充して、国政事務を侵蝕するが如きは断じて為すべからず。随て太公は政府官員進退に容喙すべからざる事。
 二、金宏集、魚允中、金允植の三氏を首とし、其他改革派の人々を挙て要路に立て、専ら政務に任じ、顧問官の意見を聴き、大君主の裁可を経て、政事の改革を決行し、独立の基礎を鞏固にするを期すべき事。
 三、李載冕氏[大院君の後嗣]を宮内大臣に、金宗漢氏を同協弁に復し、宮内府の事務を担掌せしむべき事。
 四、李呵O氏[大院君の孫]を三年間日本に留学せしめ、其材器を養成すべき事。但し毎年夏期に帰省するは差支なし。

余乃ち説て曰く、第一条の如く厳に大院君の政事干渉を禁絶せば、幾分か後弊を防ぐを得べきか。第二条及第三条の五名は極めて適任にして、此外には内外の事を托すべき人なし。大院君も亦此五名には必ず同意ならん。第四条は、暫く李呵Oを遠けて上下の危懼心を減ぜんと欲す。同氏は久く野心を包蔵し既に王妃及世子に対する不軌罪を以て処刑まで受けたり。又群臣中にも陰に同氏を恐るゝ人あり。然るに同氏は大院君に鍾愛せられ、其言多く納れらるゝ方なれば、大院君にして一旦勢力を得ば、上下共に恐怖心を興すべし。是は将来の為めに妨害少からず。故に暫く之を遠けて日本に留学せしめ、文明の感化に依り野心を消滅せしめんと欲するなりと。
公使曰く、善し。堀口を派し此案を懐にして大院君に謀らしむべきや。
余曰く、堀口は年少なり。大院君は恐くは彼に対して本心を吐かざらん。岡本を除きては他に使すべき人なし。
公使曰く、然らば岡本を招て共に此事を相談すべし、
とて其日は終れり。

 余は寓の後、直に岡本氏を招きしに、差支ありて三日の夜、始めて公使館に会せり。是時公使より、先ず大院君が堀口に托して面会を求めたる次第を説き、且つ時宜に因ては同君を助けて目下の急を救わんとの底意あれば、同君の決意如何を慥かめ、旁々内打合せの為め、孔徳里迄煩したしと依頼したる処、岡本氏は暫時首を傾けし後之を承諾し、尋で四ヶ条の密約条件に付協議の末、一二修正を加えたり。然るに当時大院君邸への出入は頗る厳重にて動もすれば、宮中派の嫌忌を招くの虞あれば、岡本氏は帰国と作り告別と話称し、同五日午前、鈴木順見を伴い孔徳里に至れり。
 是日侍従院卿李戴純氏は、謝恩日本特別全権大使として京城を発し、麻浦に至るの間相前後したるも、幸に発覚せられずと云えり。
 夜に及んで岡本帰館して曰く、大院君は子載冕、孫呵Oと列座にて自分と対面し、目今の形勢を歎き頗る永き談話ありたるも、要するに同君入闕の決心堅く、欣然として密約に同意を表し筆を執て其旨を自記したり。依之自分は時機到来せば自ら来て迎うべきに付、其れ迄静に待たれよとの辞を遺して帰れり云々。

 於是如何にして大院君を助べきやに付協議したるに先ず訓練隊及朝鮮壮士輩と大院君の間に連絡を付けしめ、然後我は陰に発動の機を与えて裏面より之を指揮すべしとまでは略極りたるも其他に及ばざりし。
余曰く、嚮に朴泳孝等、衛兵交替を謀りて決する能わず。竟に宮中の為めに機先を制せられたり。今日の事も遅疑して決する能わずんば、必ず彼より機先を制せられ、訓練隊を解散し、内閣大臣を免黜せらるゝに至んとす。然る時は再び回復の機を得べからず。依て予め挙事の期を定め、其準備に取掛りたし、と。

 是に於て相与に謀りて十月十日を期し事を挙げんとす。而して其準備の事は、余、自ら担当し、岡本は帰国と称して仁川に下り、余の電報を待て再び入京する事を約し、翌六日仁川に向て発送せり。
 是時に当て訓練隊不穏の説穏に行われ、又軍務顧問楠瀬中佐は、同隊を率て事を挙げんとの説もありて、民情稍動けり。
 是日同中佐は松波より帰京したるに付[両三日前、巡視の為松波付近へ旅行せり]、公使は之を諭し嫌疑を避けんが為め、翌七日、帰国と称して仁川に下せり。

 是より先に本月三日、京城東門内に於て警務庁巡検は訓練隊兵卒と闘争し、互に死傷者を出せしが、同六日夜半警務庁にては、多数の訓練隊兵来襲したり、と称し一夜騒然として民心安んぜざるに付、同隊訓練担当の我士官は直に其営に至て之を取調べたるに、極めて静粛にして独りも出営したる様子なし。蓋し訓練隊解散の口実を作らんが為め宮中より警務庁に内通して是説を為さしめたるなり。

 翌七日朝、訓練担当の士官来館して具に前夜の実情を報ぜり。
 扨又五日夜の協議略決するや翌六日朝、余は公使の内意を帯て単身金総理を訪問し、国事に関する意見を尋ねたるに、切に国家の危殆に頻するを説き併て微力にして之を救う能わざるを慨歎して已まざるに付、余は、閣下は身総理大臣と為りて国難を救う能わずんば寧ろ其職を辞せば如何[是より先に金総理金外部の両氏は既に辞職の内意ある旨申出でたる事あり、依て談之に及ぶ]、閣下辞職して愈々為すべからざる形勢に立至らば其上にて之を救う道あるべしと申入れたる処、金総理は何等の理由なくして突然辞表を呈せば必ず世人の疑を招かん、且つ国王に対して憚る所あり、とて急に辞職すべき色なし。
 余は再び、然らば若し閣下等にして力あらば匡済の道あるや、と押して尋ねたる処、不得已んば大院君を煩わすの一線あるのみ。乍去目下同君を引出す方法なしと答えたり。

 余は帰館の徒次、趙義淵を訪問せし処、権濚鎮、座に在り。談時事に及び互に意見を取替したる末、余は、趙権二氏に向い、訓練第二大隊長禹範善已下皆宮中の処置を憤激し時宜に因ては献身的の挙に及ぶべきも、同第一大隊は比較的不熱心なり。万一機に及んで躊躇する如き事ありては、恐くは大事を誤らんとす。貴君等第一大隊を駆て第二大隊と同様の働きを為さしむる道なきや、と言いたる処、趙氏は、其は容易なり。第一大隊長李計鎬(斗璜)は、拙者が引立てし人なり。故に不肖ながら拙者担任して善きに之を指導すべし、と答えたり。
 依て余は再会を約して帰館し、金総理と談話の顛末を公使に復命し、翌七日朝、再び公使の内意を帯びて金総理を訪い、閣下等果して為すべきの道なしと断念せられたらんには、寧ろ其職を辞する方却て有志者の反動を強め、恢復の期を速にすべしと辞を尽して説きたるも、金総理自ら決する能わず。余乃ち辞を改めて曰く。大院君は奮然立たんと欲す。三浦公使の意も亦助けて之を立たしめんと欲せり。
金総理曰く、如何なる手段に依て之を立たしめるや。
余答えて曰く。其手段は今朝明言する能わずと雖も、僅に動機を与えなば貴国人の手にて之を立たしむるを得べし。今日の場合、我国の力を外に顕すは不得策なり。
金総理曰く。果して大院君を立たしむるを得ば、幸いに今日の危勢を挽回するを得べし。今日は俄国との関係もあれば、公然貴国の力を用うるは不可ならん。拙者も可成丈貴国の関係を公にせざる事を希望せり、と。
 右の談話は凡一時間を費せり。余は帰館復命の後、再び国分通訳官を伴い金外部大臣を訪問し、同趣意の談を為せり。
金外部曰く。金総理は極めて謹厳の人なり。故に心に思う事を充分口に発せず。拙者は素より辞職の決心なれば、今より往て相談すべし。且つ近日の事を観るに万機総て王妃の親裁を仰ぎ、国王と雖も之を制する能わざるが如し。加之、王妃は閔族の勢権を恢復せんと熱望するの余り強国に阿附し之が為めに地を割き国を亡すも顧みざる勢なり。拙者等は李氏五百年の臣子にして、閔氏の臣子にあらず。大院君若し立たんと欲せば、一瞥の力致すを辞せず。唯微力にして用を為さゞるのみ、と。
余、曰く。宮中にては将に訓練隊を解散せんとする節あり。同隊若し解散せられなば大事去らん。閣下等の力を煩し暫く之を中止せられし事を願う。
金外部曰く。解散の命は昨夜既に下れりと聞き、又兎に角拙者は早く金総理を訪うて相談を成すべしと。

 依て余は、暇を告げて帰館したる処、軍部大臣安駉壽、国王の内命を奉じて来館し、公使と談話中なりし。時既に十一時頃なりき。
 其内命の要は近来訓練隊不穏の兆あり。四五日前、警務庁巡検と闘争し、昨夜又多衆警務庁を襲い、其仇を復せんとす。依て国王には之を解散して危険を未然に防がれたき御考なれども、同隊は日本士官の刻苦訓練したる兵なれば、前以て其意を公使に伝えよとの事なり。
 公使は其申出を具に聴取りし後、口を開て、昨夜訓練隊の兵卒多数警務庁に襲来したりとの説は本使も既に之を聞き、且つ実施取調べたる我士官の報告をも得たるが全く虚伝なり。蓋し宮中にては訓練隊を解散せんと欲し斯る口実を設けし事ならん。抑も訓練隊は日本政府の厚意を以て特に我守備隊付将校に命じ、寒暑を厭わず刻苦訓練したる者なり。貴下の知らるゝ如く、貴国に於て兵隊らしき兵隊は此訓練隊を除て孰に在るや。然るに今之に過失を負わせて解散せんとせらるゝは、果して何の意ぞや。日本政府の厚意を何とせらるゝ積りなりや。然りと雖も此事本と貴国内政の事に属すれば、本使は職権上容喙すべきにあらず。唯本使は斯く申居れりと国王へ後奏せられたし、と聊か怒気を含みて申されたれば、安氏は継ぐ辞なく躊躇う折柄、小使来て、訓練第二大隊長禹範善来館せり、と報じたるに付、余は之を安氏に知らしめざらんと欲し、窃に別室に待たしめたり。

 禹範善の来館に先ち馬屋原守備隊長も亦訓練隊解散の事を以て来館せり。同氏は窃に大院君入闕の企を聴き且つ裏面より訓練隊を監視せり。

 既にして安氏去るに臨み、余と客話せん事を求めたるに付、之を別室に引き、其咄を聞けり。
 安氏曰く、今日の内命は訓練隊解散事件の外に尚お一件あり。其は近来宮中に人を得ざるが為め諸事錯乱して統一する所なし、故に閔泳駿を入れて其取締に任ぜしめたしとの事なりしも、公使の怒り甚しきが為め之を口に出し兼ねたり。願わくは、子、代て之を伝えよ、と。
余曰く、果して此事あるか。兎に角貴意の趣は之を公使に申出ずべし。
安氏亦曰。拙者は宮中に戻り如何に復命すべきや、甚だ其辞に窮せり。
余曰く。有体に復命されよ。此際辞を飾るは宜しからず。抑々宮中にては果して訓練隊を解散する御決心なるや。
安氏曰く。解散の令既に出でたり。拙者は板挟みとなりて実に困難なりと、遂に辞し去れり。


余は再び接客室に至れば、禹範善既に入て公使と対談中なり。馬屋原少佐亦座に在り。時已に正午を過ぎたり。余は馬屋原氏を別室に招き、先ず訓練隊激昂の状を聞き、然る後謂て曰く。時機甚だ迫れり。十日まで之を待つべからず。明日之を発せんと欲す。貴方の都合差支なきや。
馬屋原氏曰く。可なり。
余曰く。余は午飯を終えて再び来るべきに付、君代て此意を公使に伝えられたし、とて直に舎に帰り、午飯を喫し再び公使館に至りしは午後一時過なりき。此時禹範善既に去れり[同人は充分決心し居れりと聞きぬ]。
余は具に安軍部の伝言を述べたる処、公使は閔泳駿の任命は姑く同意する方然るべき旨言われたるに付、余は直に同意の返答を発せり。

公使曰く。事機意外に迫れり。一刻猶予せば必ず宮中より先んぜらるべし。君等ば言う如く明朝にも事を発せざるを得ず。然るに其手続調うべきや。
余答て曰く。他は尽く調うべき見込なり。唯岡本の消息審ならず。同人居らざれば大院君を立たしむるを得ず。依て先ず同人に電報し、確答を得たる後、万事に着手すべし、と。
直に仁川領事館を経て岡本に発電し、同時に楠瀬中佐を呼戻したるに、岡本より三四十分を過ぎて返電なきに付、追掛々々三回発電したる処、漸く四時頃に至て返電ありたり。[是日仁川に於ては朝鮮大使の出発と橋口新領事着任の為め領事館員は送迎に忙く、電報転達方遅延したりと云う]

 於是始めて事に着手するを得たり。実に十月七日午後四時過ぎなりき。
 而して其計画の大要左の如し。

一、岡本をして七日午後十二時、遅くとも午前一時迄に麻浦まで帰着せしめ、同処に迎として待たしめたる通弁鈴木順見、剣客鈴木重元両人を同伴して孔徳里なる大院君の住邸に至らしめ、
二、馬屋原は訓練隊付士官に同隊を指縦せしめ、八日午前二時頃より其第二大隊の一部を孔徳里に派して大院君を迎えしめ、其他は城の内外に待受けて同君入闕の護衛に充て、第一大隊は宮闕外を守衛する装を為さしめ、大院君の来着を待て共に入闕せしめんとせり。
三、浅山顕蔵をして李周会已下朝鮮有志者を操縦せしめ、孔徳里に赴き岡本入邸の際に該邸守衛の巡検等、妨害せざる様に助力を与えしめたり。

 右の計画中、余は専ら第一及び第三の両項を担当して準備を為さしめ、又、趙義淵を促し急に第一訓練隊を約束せしめたり。
 是より先に屡々外務大臣に宛て、形勢の追々切迫し来るを電報したるも、一の回電なし。唯井上前公使より三浦公使に、参内して国王王妃に忠告し宮中の横暴を制せしむべし、との電報ありしも、是時は勢漸く傾き忠告の効あるべき見込なかりし。

 是に於て形勢危殆に迫り、夕刻に及んで公使は窃に余に謂て曰く。朝鮮人のみにては能く入闕の目的を達するや否甚だ案ぜらるゝ故、国友、安達に諭して、壮士十人程に助力せしむることにせりと。
余、安達に謂て曰く。壮士輩、大院君に随行せば朝鮮服装せしめよ。可成丈之を制して宮門内に入らしむる勿れ。若し入門せば、天明前に出門せしめよ。外人をして我人民の関係を覚らしむる勿れ、と。安達諾して去る。其後公使は内田領事の晩餐に招かれ、余、亦官舎に帰りて事を視たるに付、公使館は闃として人なきが如し。夜半、楠瀬中佐帰京せり。
 斯くて岡本は其夜十二時頃、麻浦に着し、出迎の人と打合せの上、孔徳里に到り大院君を訪い、翌八日午前三時頃出門。途中より訓練隊に護衛せられて黎明遂に入闕の目的を達したりと云う。

[追言]
 二十八年十月八日に於ける事変の発端は、前に陳述したる如く、時勢に迫られ不得已に出でたるものにして、余は実に其計画者の一人たるを免れず。否寧ろ計画者の中心たる姿なりし。
 而して余が当初の計画は事を挙ぐるに当りて、表面に本邦人を使用するを好まず。可成丈朝鮮の訓練隊と李周会ら一派の力に依り無事に大院君入闕の目的を達せんとしたるなり。故に其間に苦心して大院君の誘出には岡本等三人に止め、李周会の指導には浅山一人を用い、第一、第二訓練隊には我守備隊との連結を保たしめんが為め、通弁一人ずつを付したるに過ぎず。尚他日の防範として大院君の政務干預を禁じ、李呵Oを遠けて王妃王世子の安心を買わんとまで注意したりき。然るに事は初志と違い、夏来宮中の横暴と井上公使の軟変に憤慨したる日韓の有志者[其中事に先て動機を作りし人々もあり]は、窃に此の挙あるを聞き、雀躍自禁する能わず、甲乙相伝えて馳せ加わり、邦人のみにても数十名の多きに及びたるが為め、事は予定の外に出で、竟に邦人関係の形迹を掩蔽する能わざるに至らしめたり。当時の事情は誠に不得已に出でたりと雖も、今日に至ては、聊か遺憾なき能わず。
 明治三十七年十二月   杉村濬又

 当時、京城公使館書記官として、また大鳥や井上が帰国している時には臨時代理公使として勤めた杉村濬ならではの記述である。公式記録だけでは窺えない、王城事変に至るまでの詳細が理解できる。
 しかし杉村濬も朝鮮滞在が永いが、あのガンマン浅山顕蔵もまたここで登場するとはねえ。共に明治15年の朝鮮事変の時以来の朋輩である。

 

予審終結決定書

 いろんな意味で不完全な決定書である。しかし、これはこれで仕方がなかったわけで、事件関連の資料を通読すれば、むしろ草野宜隆検事正や吉岡美秀予審判事の奮闘ぶりが伝わってくる。要するにこの事件では証拠収集が実に困難だったのである。

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割5 B08090169800」p22にある「予審終結決定書」は、外務省文書としては珍しく写しミスと思われる誤字が多い。よって、決定書そのものは「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録 3 外編 B03030198300」から引用してテキスト文とする。()は筆者)

(欄外)本書は横内民刑局長より借受け、謄写したるものなり。原文は一月三十一日同局長へ返却す。

明治廿八年 ■ 一七二二、一七二九、一七三一、一七六六、一九七二号

  予審終結決定書

               和歌山県海部郡雑賀村大字宇須居住、士族、朝鮮国軍部兼宮内府顧問官
                                 岡本柳之介
                                    嘉永五年八月生
               福島県北会津郡若松町大字中六日町居住、平民、東京府東京市麹町区有楽町三丁目寄留著述業
                           正七位   柴四郎
                                    嘉永五年十二月生
               熊本県山本郡菱形村大字辺田野居住、士族、無職業
                                 国友重章
                                    文久元年十一月生
               福岡県福岡市大名町居住、平民、雑業
                                 月成光
                                    文久二年正月生
               熊本県飽田郡城山村大字上代居住、士族、農業
                                 廣田止善
                                    文久元年三月生
               福岡県福岡市瓦町居住、士族、無職業
                                 藤勝顕
                                    安政六年十二月生
               岩手県紫波郡見前村大字東見前居住、平民、吉田長治四男、東京府東京市麹町区下二番町寄留新聞記者   
                                 吉田友吉
                                    明治五年正月生
               熊本県飽田郡黒髪村大字坪井居住、士族、無職業
                                 平山岩彦
                                    慶応三年八月生
               宮城県桃生郡深谷村大字大窪居住、平民、無職業
                                 大崎正吉
                                    慶応元年正月生
               熊本県託麻郡出水村大字今居住士族、売薬商、
                                 佐々正之
                                    文久二年正月生
               同県熊本市上林町居住士族無職業   澤村雅夫
                                    明治六年三月生
               同県託麻郡大江村大字大江居住、士族、片野易喜次男、無職業
                                 片野猛雄
                                    明治六年十一月生
               同県玉名郡大原村大字小原居住、平民、隈部庄作次男、農業
                                 隈部米吉
                                    明治元年三月生
               千葉県上埴生郡東村大字豊原居住、平民、東京府東京市下谷区上根岸寄留新聞記者   
                                 山田烈盛
                                    文久二年五月生
               熊本県八代郡鏡町大字鏡村居住平民、東京府東京市麹町区三番町寄留新聞記者
                                 菊池謙譲
                                    明治三年十月生
               同県宇土郡宇土町大字宇土居住、士族、新聞記者
                                 佐々木正
                                    明治六年二月生
               福岡県山本郡草野町大字草野居住、平民、無職業、武田範之事
                                 武田範治
                                    文久三年十一月生
               熊本県下益城郡東村大字南海東居住、平民、農業
                                 前田俊蔵
                                    明治七年十一月生
               同県阿蘇郡宮地村居住、士族、無職業
                                 家入嘉吉
                                    明治十年四月生
               同県熊本市長安寺町居住、士族、新聞社員
                                 牛嶋英雄
                                    明治六年十月生
               同県阿蘇郡内牧村大字内牧居住、士族、朝鮮国桂洞小学校教員村松龍起事
                                 村松辰喜
                                    明治元年十二月生
               京都府京都市下京区東枳穀馬場七条上ル三丁目若松町居住、平民、無職業
                                 鈴木順見
                                    明治元年九月生
               熊本県熊本市北坪井町居住、士族、新聞記者
                                 小早川秀雄
                                    明治三年三月生
               同県託麻郡広畑村大字保田窪居住、士族、雑貨商
                                 中村楯雄
                                    文久三年四月生
               神奈川県愛甲郡荻野村大字荻野居住難波惣平弟、平民、薬品雑貨行商
                                 難波春吉
                                    元治元年四月生
               熊本県山鹿郡中富村大字下分田居住、士族、農業
                                 佐藤敬太
                                    安政五年十二月生
               同県球磨郡岡原村大字岡本居住、平民、農業
                                 田中賢道
                                    安政三年十一月生
               同県山本郡田底村大字米塚居住、士族、新聞社員
                                 平山勝熊
                                    慶応三年四月生
               東京府東京市小石川区中富坂町居住、華族、予備陸軍中将
                      正三位勲一等子爵   三浦梧樓
                                    弘化三年十一月
               同府同市四谷区四谷須賀町居住、平民、公使館一等書記官
                           正六位   杉村濬
                                    嘉永元年正月生
               新潟県古志郡長岡本町大字東神田町居住、士族、領事官補
                           従七位   堀口九万一
                                    慶応元年正月生
               長野県北佐久郡小諸町居住、平民、外務省警部
                                 荻原秀次郎
                                    慶応二年四月生
               東京府東京市浅草区聖天町居住、平民、外務省巡査
                                 渡辺鷹次郎
                                    嘉永四年十一月生
               鹿児島県日置郡日置村居住、士族、外務省巡査
                                 成瀬喜四郎
                                    元治元年七月生
               長崎県長崎市今籠町居住、士族、外務省巡査
                                 横尾勇太郎
                                    慶応二年五月生
               鹿児島県鹿児島市塩屋村居住、士族、外務省巡査
                                 小田俊丸
                                    文久元年十一月生
               同県同市西田町居住、士族、外務省巡査
                                 木脇祐則
                                    明治五年三月生
               長崎市南高来郡神代村居住、士族、境勘作長男、外務省巡査
                                 境益太郎
                                    明治元年九月生
               鹿児島県鹿児島市冷水通町居住士族、外務省巡査
                                 白石由太郎
                                    明治四年十月生
               神奈川県横浜市相生町六丁目居住、士族、売薬商高橋源治事
                                 寺崎泰吉
                                    文久二年二月生
               長崎県下県郡久田道町居住、士族、朝鮮国補佐官
                           勲七等   浅山顕蔵
                                    嘉永二年四月生
               熊本県飽田郡力合村大字島新居住、士族、新聞記者
                                 安達謙蔵
                                    元治元年十月生
               福島県河沼郡金上村大字福原居住、士族、佐瀬縁蔵養嗣医業
                                 佐瀬熊鉄
                                    慶応元年十一月生
               熊本県飽田郡奥古閑村居住、平民、非職営林主事、朝鮮国内部顧問官
                                 渋谷加藤次
                                    安政二年三月生
               長崎県下県郡宮谷町居住、朝鮮国通訳官、大浦滋彦事
                                 大浦茂彦
                                    万延元年六月生
               滋賀県東浅井郡大郷村大字難波居住、平民、蓮元憲岳兄、朝鮮国通訳官、蓮元安丸又蓮元康丸事
                                 蓮元泰丸
                                    慶応二年七月生
               新潟県中頸城郡高城村大字木築居住、士族、晒業
                           勲七等   鈴木重元
                                    嘉永六年二月生
               熊本県熊本市小幡町居住、士族、宮住守男次男、新聞社員宮住勇記事
                                 宮住勇喜
                                    明治六年二月生


 右岡本柳之介外、四十七名に対する謀殺及凶徒聚衆事件、平山岩彦に対する故殺事件等、検事の請求に依り予審を遂ぐる処。

 被告三浦梧樓は朝鮮国駐剳特命全権公使と為り、明治二十八年九月一日京城に就任せし処、当時同国の形成漸く否運に傾き、宮中の専横日に甚しく、妄に国政に干渉し、我政府の啓誘に因り稍く改良の緒に就きたる政憲を紊り、遂に我陸軍士官の尽力に成れる訓練隊を解散し、其士官を黜罰せんとする等、頗る我国を疏外するの形跡あるのみならず、国政の進歩を図り独立の実を挙ぐるに鋭意なる内閣員等を免黜又は殺戮し、以て政権を宮中に収めんとするが如き計画あると聞き、憤慨措く能わず。
 是れ多年我国の労力と資材とを費し、同国の為め経営せる好意に負き、内政の改良を妨げ、国家独立の基礎を危くする者にして、独り同国の不利なるのみならず、我帝国も亦害を受くる尠からず。

 依て速に其弊害を除き、彼れの独立を扶植し、併て同国に於ける我国の威信を保持せざる可らず、と考慮する折柄、会々大院君時弊を憤慨し、自ら起て宮中を革新し、補翼の任を尽さんと欲するの意を致し、陰に助力を求め来りたるより、同年十月三日、被告杉村濬、岡本柳之助と公使館に会し三名謀識の上、常に宮中の為めに忌まれ自ら好む所の訓練隊と、時勢を慷慨する壮士輩を利用し、暗に我京城の守備隊をも之に声援せしめ、以て大院君の入闕を援け、其機に乗じ宮中に在て最も権勢を擅にする王后陛下を殪さんと決意したり。

 然れども大院君他日若し政治に容喙せば、其弊害却て前日より甚しきものあらん事を慮り、予め之を防がざる可らずと為し、被告濬は要項四と題する約款を起草し、被告柳之助は大院君と親善なるを以て之を携え、同月五日孔徳里の別邸に赴き、方今形勢再び太公を煩すものあらん、而して三浦公使の要むる所如此と、該書を相示したるに、大院君は子孫と共に欣然として之を諾し、自ら誓約書を裁したり。

 因て被告梧樓等は其時期を同月中旬と予定し、柳之助が孔徳里に到りたるは他の疑を惹き、事を露顕すべき恐れあれば、畢竟帰国の告別に過ぎざりし事を表せん為め仁川に下らしめ、被告柳之助は翌六日京城を出発したり。

  然るに同月七日、軍部大臣安駉壽、宮中の使命を帯び来て訓練隊解散の事を告げ、公使の意見を要めたるより、時機既に切迫し、一日も猶予し難きを以て、被告梧樓、被告濬は協議の上、同夜事を挙ぐるに決し、直に電信を以て柳之助の帰京を促し、一面は被告堀口九万一に大院君入闕に関する方略書を授け、柳之助を龍山に待受け共に入闕す可き事を命じ、尚被告梧樓は京城守備隊の大隊長馬屋原務本に訓練隊を操縦し且守備隊をして之に声援せしめ、大院君の入闕を容易ならしむべき諸般の指揮を命じ、又被告安達謙蔵、国友重章を公使館に招致し、其知人を糾合して龍山に柳之助と会し、共に大院君入闕の護衛をなす可き事を委嘱し且当国二十年来の禍根を絶つは実に此一挙にありとの決意を示し、入闕の際王后陛下を殺害すべき旨を教唆し、被告荻原秀次郎には部下の巡査を引率し龍山に到り、柳之助と協議し大院君の入闕に付尽力すべき旨を命じ、而して被告濬も亦被告鈴木重元、浅山顕蔵を招き、大院君の入闕の事を告げ、重元には通弁の為め被告鈴木順見を龍山に遣す事、顕蔵には予め大院君の入闕を熱望せる朝鮮人李周会に報知すべき事を托し、且大院君入闕の趣意書を起草し被告九万一に渡すべき為め被告秀次郎に交附したり。

 茲に於て被告九万一は直に馬を駆り龍山に赴き、被告秀次郎は非番の巡査に大院君入闕に付、私服を着し刀剣を用意し龍山に到るべしと命じ、自身も亦龍山に赴き、被告渡辺鷹次郎、成相喜四郎、小田俊丸、木脇祐則、境益太郎は被告秀次郎の命に依り各龍山に赴き、被告横尾勇太郎は同所にて之に加わり、被告顕蔵は李周会に面会し今夜大院君入闕なるべしと告げ、彼が数名の朝鮮人を糾合し孔徳里に到るを見届け、直に龍山に赴き、被告重元も被告順見と共に龍山に赴き、被告謙蔵、重章の両人は、被告梧樓の教唆に応じ王后陛下を殺害せんと決意して同志者の招集に尽力し、被告平山岩彦、佐々正之、松村辰喜、佐々木正、牛嶋英雄、小早川秀雄、宮住勇喜、佐藤啓太、澤村雅夫、片野猛雄、藤勝顕、廣田止善、菊池謙譲、吉田友吉、中村楯雄、難波春吉、寺崎泰吉、田中賢道、隈部米吉、月成光、山田烈盛、佐瀬熊鉄、渋谷加藤次等は大院君入闕に付、三浦公使の命に依り、被告謙蔵、重章が其護衛者を募る由を聞き之に同意し、其内被告岩彦外十数名は被告謙蔵、重章等より王后陛下を殺害すべき被告梧樓の教唆を伝えられ各殺意を決し、其他右等の事実を知らず一時の好奇心に駆られ付和せしものに至るまで、各凶器を携え被告重章並に被告光以下三名の外は亦被告謙蔵と共に龍山に赴きたり。
 又被告柳之助は仁川に在て時機切迫せりとの電報に接し、即時出発帰京の途次、同日夜半の頃麻浦に於て被告九万一龍山に待ち受けの報知を得たるにより、直に同所に立寄り前記の者共に相会し、被告九万一より梧樓の書面入闕趣意書の草案等を受取り、二、三者と入城の方法等を協議し、然る後一同は柳之助を総指揮とし孔徳里に至り、李周会の一行と共に翌八日午前三時頃大院君の轎輿を擁して出発したり。

 而て被告柳之助は其際表門前に一同を集め、入城の上狐は臨機処分すべしと号令し、以て王后陛下殺害の事を教唆し、未だ其事実を知らざりし被告益太郎外数名をして殺意を決せしめ、夫より京城に向い徐々前進し、西大門外に於て訓練隊に出逢い姑く守備隊の来るを待ち、同所より訓練隊を前衛とし王城に急進する途中、被告重章、光、烈盛、熊鉄、加藤次も相加わり、又被告蓮元泰丸、大浦茂彦は馬屋原務本より通弁の為め訓練隊監視の陸軍士官に随行を委嘱せられ、亦此一行に加わり、同日払暁の頃、光化門より一同王城に入り、直に後宮まで抵りたる等の事実ありと雖も、前記の被告人中其犯罪を実行したるものありと認むべき証憑十分ならず。
 又被告平山岩彦が右入城の際乾清宮に於て宮内府大臣李耕植を殺害したりとの事も亦証憑十分ならず。
 被告柴四郎、大崎正吉、武田範治、前田俊蔵、平山勝熊、白石由太郎は本案被告事件に関係せりと認むべき証憑十分ならず。

 以上の理由を以て刑事訴訟法第百六十五条に従い、各被告人総て免訴し、且つ被告三浦梧樓、杉村濬、岡本柳之助、安達謙蔵、国友重章、寺崎泰吉、平山岩彦、中村楯雄、藤勝顕、家入嘉吉、木脇祐則、境益太郎は各放免す。
但し押収したる書類物件は各其所有者に還付す。

 明治二十九年一月二十日
 広島地方裁判所に於て
            予審判事  吉岡美秀 印
            裁判所書記 田村義治 印

右原本に拠り此謄本を作るもの也
  明治二十九年一月二十日
    於広島地方裁判所
        裁判所書記 田村義治 印

 この決定書たるや、「尻すぼみ」と批判されたり、笑われたり、政府の圧力による決定などと言われているしろもの。
 まあ、いつの時代であっても、どういう決定が出ようが、その司法の判断に対して、とかく人はあれこれ言うものである。かつて露国皇太子襲撃事件の時に、犯人の死刑を望まれた明治天皇の聖意ですら通らなかった当時の日本の司法というものを、あまりに軽く見過ぎじゃなかろうかねえ。
 むしろ、当時の朝鮮政府が証拠収集に非協力的だったことや、正義感ばかり突っ走って伝聞情報まで証拠として提出しようとする内田定槌領事の、その法的手続きや証拠保全の手際の悪さにもかかわらず、よくここまで論述できたと筆者は思うがねえ。この決定書のみを見てどうこういう前に、資料をよく読んで、どういうわけで証拠不十分となったかを知るべきでしょうな。

 

在韓苦心録 予審終結決定書に対する意見

(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録 3 外編」p14、「予審終結決定書」に対する杉村濬の反論文と言える)

 此始末書を一閲するに、本と謀殺及兇徒聚衆と云う名義の下に取調られたるものなれば、其徴証推断は殺害の一辺に偏し、事件の本体を失うに似たり。是は法廷上の調書としては然るべきも、歴史としては誤を千古に伝うる恐あり。

 該事件を企てたる唯一の目的は、宮中に於ける魯国党[其首領は無論王妃と認めたり]を抑制して、日本党の勢力を恢復せんとするに在り。其手段としては、訓練隊の力に依り大院君を入闕せしめて、王妃、其他の魯国党を抑制し、内閣[内閣は金宏集其他改革党を以て組織せられたり]をして、正当に政事を行うを得せしめんとせり。
 而して殺害の事は全く之に付帯して興りしものにて、主要なる目的にあらず。其結果は不幸にして殺害を目的とするが如きに至りしは、大勢に駆られて之に赴きたるに過ぎず。仮りに教唆者ありとしても、誠に隠微の間に発せしものと想像せられたり。

 初、三浦、杉村、岡本の三人、両度の会合に嘗て殺害の事を話頭に出したる事なく、又事件に関係したる四十余名の内、初めより殺害の事を関知せざるもの多し。余は某々は之を関知し、某々は関知せざりしとの事を、今日之を明言するは困難なるも、然れども其人々の系統に因て具さに取調ぶるときは、略推断を下すを得べし。

 殺害は主要の目的にあらざりし事は左の事実に因て推測し得べし。

一、当初の計画は、訓練隊と朝鮮壮士のみを以て大院君の入闕を遂げしめんとの考なりしに、訓練隊は八百人程にて、宮中には七百人程の侍衛隊あり。訓練隊の精練は遼に侍衛隊の上に在りと雖も、攻守の勢異なれば、勝敗の数も亦計るべからず。故に当初最も掛念したる所は、無事に入闕の目的を達するや如何に在て、念慮の殺害等の事に及ぶべき余地なかりき。

二、若し初めより我兵隊並壮士を使用して王妃を殺害せんとの計画ならば、大院君を引出すの必要なし。大院君も亦反覆常なく実に厄介物たる事は、昨年英国に依頼して日本を斥けんとしたる陰謀に付ても証すべし。唯其害、王妃程に甚しからざれば、毒を以て毒を制せんとの相談にて同君を引出す事と為れり。
 故に同君を引出すに付、初めの考は全く宮中に於て王妃を始め魯国党を抑制せしめんとの目的に外ならず。大院君が入闕の後、王妃を如何に抑制するやは一に同君の方寸に打任せ、当初我念慮は全く茲に及ばざりし。

三、三浦、杉村、岡本の会合は唯二回にして、初めは岡本を派して大院君の意中を慥めしめ、同君果して立たんとする意ならば、密約要項に同意せしめ、且つ入闕機会に付、略打合せを為さしめたるに過ぎず。次の会合は岡本の復命を聴き事を挙ぐる時機に付、略打合せを為したるに過ぎず。此時先ず十日と仮定し、岡本、楠瀬が帰国と称して仁川に下らしめ、其間に京城に於て訓練隊及び朝鮮壮士を操縦する手続を定めんとの考なりし。故に三人会合の際、言の王妃に及ぶべき機会なかりき。

四、三人最後の会合は五日の夜にして六日の朝に杉村は金総理を訪い、同日趙義淵を訪い[権濚鎮も坐に在り]、七日朝再び金総理を訪い、又金外部を訪い帰館したる処、安駉壽来館して訓練隊解散の内意を三浦に伝居たりし、其時は十一時前後なり。其後安駉壽は杉村と別室にて会談して別れたるは十二時過なり。
 是時三浦は禹範善と対話中なる故に、杉村は馬屋原に托して挙事の期を早めざるべからざる旨を三浦に伝えしめ帰宅、昼饗を了えて再び公使館に到り三浦に面会したるは一時過ぎなりき。然れども、在仁川岡本との打合せ相届かざる已上は、万事に着手する能わず。故に仁川領事館を経て岡本に発電したるも、返電なく[其日は朝鮮大使出発見送、並橋口新領事着任出迎等の為め、領事館員は不在の為め岡本へ電信を渡さゞりしと云う]、漸く四時近き頃、返電を得て其れより事に着手せり。故に同事件は僅か四時間程の短時間に遽しく計画されたるものなり。
 而して其計画の概略左の如し。

 岡本をして七日午後十二時、遅くとも翌午前一時までに麻浦まで帰着せしめ、同所に迎えとして待たしめたる鈴木順見、鈴木重元の両人を同伴し、大院君住邸に至らしめ、馬屋原は訓練隊付士官に同隊を操縦せしめ、八日午前二時頃より其一隊を麻浦に派して大院君出門の護衛に充て、其他は宮城外を守衛する装を為さしめ、大院君の来着を待て共に入城せしめんとせり。
 其外浅山をして朝鮮壮士を操縦せしめ、麻浦に赴き岡本入邸の際故障なからしむる様助力を与えしめたり。

 当初の計画は右の通りなれば、巡査及壮士を利用する事は全く計画の外なりし。

五、三浦が国友安達に諭して壮士十人程に助力せしめんとしたるは、蓋七日の午後三四時頃にして、夕景の頃之を杉村に洩したり。其意は朝鮮人のみにては能く入闕の目的を達するや否、甚だ案ぜらる故に、壮士を使用する事と為したりと云う。又、荻原が巡査を引て事に赴きたるは、内命を受けたりと云わんよりは、寧ろ自ら好んで赴きし方なり。是は去年七月大院君入闕の際に、彼等の中多数は同様の働を為したれば、孰も再び功名を成さんとの考を懐きしならん。堀口は初め大院君との交通を開きたるに拘わらず、其功を岡本に奪われたる姿にて、内心不平を懐居る様子を認めたるに因り、三浦杉村相談の上、堀口に用向を拵えて之を与うる事にせり。其実は殊更に堀口を麻浦に派する必要なかりし。

六、前各項の通りとすれば、王妃殺害の端は孰に発したるや甚だ惑うと雖も、是は京城当時の事情に通ずる者は能く自ら解くを得べし。是れ全く暗黙の間に興りし事ならん。壮士輩は三浦に教唆せられたりと云うは、彼等は其責を遁れんとして三浦の教唆を受けたりと申立て、三浦も亦罪を壮士輩にのみ帰するを好まず。自ら其意を授けたる如く申立てたるものか、又は三浦は不言の間に微意を洩したるものか、余は判断に苦しめり。岡本の「狐は適宜処分せよ」との一言は岡本の断じて服せざる所なり。余も亦同氏と斯る目的を有せざりしものと信ぜり。万一、斯かる発言ありとせば、蓋し辞の余波が茲に及びしものにて此一言は主要なる目的として述べたるものにあらず。当時、三浦岡本の教唆的言語なくとも、又三浦岡本は縦令之を差止めても、斯る大勢の壮士輩入闕せば、必ず王妃に対し椿事を惹起したるに相違なし。何となれば則、当時一般の感情は王妃の所為に対し非常に激憤し、廿七年の乱に王妃を除かざりしを痛く後悔し、二十八年七月、朴泳孝の党、陰に除妃を企て発覚したる事さえあれば、一旦事ある場合には其怨を霽さんと、壮士輩の意向は王妃の一身に集まりたるは避くべからざる勢なればなり[初め三浦の依嘱したる壮士は十名なりしに、暫時の間に甲乙相伝えて三十余名に達し、前夜新聞社に相集り議論囂々随うに至りし頃は益々激昂して制す可からざるに至りしと云えり]。仮に三浦は壮士輩に殺害の意を暗示したりとするも、是は該事件の主要なる目的にあらず。大院君入闕の際、混雑に紛れ之を除けと云う位に過ぎざるべし。故に殺害は主なる事件に伴われ、勢に乗じて興りたる付帯事件たるに過ぎず。
                            [以上]

 記述は日露戦争真っ最中の明治37年である。事変からすでに10年近く経ってもなお、杉村の「余は判断に苦しめり」という言葉を含む前後の文が重い。まあ、真実は天のみぞ知るということで。

 

機密第三六号(検事正に提出の「機密裁第二号」も)

 「機密第三六号」について。
 この報告に対しては、後に西園寺外務大臣から内田領事は注意を受けている。つまりは、推測で裁定を下すかのような記述があると。
 つまりはこれを読むに当って注意せねばならないことは、内田定槌一等領事によるこの報告書も、かなりの部分が伝聞情報によるものであることである。むろん、聞き取り調査による部分や証拠に相当する別紙も含まれているが、報告日付の11月5日の時点で実は内田は未だ正式の証人訊問をしてはいない。日本人のみならず朝鮮人や米国人などの証人訊問調書も、この報告の後に提出され、そこでは新たな事実などが明らかになるのだが、もちろんこの報告書には書かれていない。よって、それらの点を注意して読まれたい。
 なお、検事正に提出した「機密裁第二号」による相違部分を、当項目最後に記した。

(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割4 B08090168300」p9より。判読困難な部分は「日本外交文書」の該当文によった。()は筆者)

  明治廿八年十月八日朝鮮王城事変之報告

機密第三六号     十一月十五日接受

  明治二十八年十月八日王城事変の顛末に付具報

 今回当地に起りたる事変の性質及其顧末に関しては、小村弁理公使よりの具報及其他公私の報告により、已に詳細御承知相成候事とは存候え共、尚為御参考、本件に関し小官の実地見聞したること、及び職務上取計いたることを左に開陳具報致候。

 扨て先般三浦公使新たに在任せられ候に付ては、乍延引歓迎の意を表する為め、客月七日午后七時より当館にて晩饗を供せんとし、同公使を始め、杉村、日置両書記官、日下部外交官補、国分通訳官、及堀口領事官補に案内状を発し侯処、瘁i杉)村書記官は或朝鮮官吏と前約ある故を以て之を辞し、国分通訳官も亦来客の前約ある故を以て之を辞したれども、他の四人は之を承諾致侯。
 然るに翌日約束の刻限に至り、三浦、日置、日下部の三名は来館致候え共、堀口は時刻を遅るヽこと凡そ三十分間に及ぶも尚来会せざるに付、人を遣わし其下婢に尋ねしめたるに、同人は夕景より荻原警部と共に乗馬して他行せし侭、未だ帰館せずとの事に付、小官も同人の為め頗る心配致し、堀口は未だ充分乗馬の経験なきにより、若しや郊外に於て落馬負傷し、之が為め帰館の後るヽに非るかと申し侯処、其時三浦公使は小官に向ひ、堀口の行先は自分良く承知せり、心配するに及はず云々との事に付、小官も深く之を尋究せず、直ちに食卓に就き、食事を終り、凡そ九時半頃に至り一同解散致候。

 其後、小官は十時頃に至り、寝室に入りたりしが、間もなく三浦公使は書翰[別紙第一号写の通り]を以て、堀口等は自分の用を以て遠方に遣わしたり。其事柄は翌朝に至り話すべき旨申来り候処。此時小官は未だ堀口の行先きを承知致さざりしも、過日来閔泳駿入城の噂頻りなりし折柄に付、三浦公使の命により荻原警部と共に其情況偵察の為め城外へでも出張せしならんか、兎に角公使の用向を帯び、他行せしものならば、別段心配するに及ばざる事ならんと想像致候え共、たとい如何なる用向にもせよ、小官部下の官吏を公使が勝手に使用するは不都合なる義と存候に付、翌日に至らば後日再び如此不都合無之様、三浦公使に面談し、尚お堀口等へも訓戒致し置く積りにて、其侭就眠致候。

 翌八日払暁、小官は銃声の連発に驚かされ、俄かに飛び起き窓外を望めば、王宮の方面に当り猶数発の銃声を聞き付け候処、前日来、屡巡検と兵丁との間に争闘ありたるに付、又々引続き争闘を試みたるならんか、去りながら銃器を用ひて相闘うは実に容易ならざる義と相認めしに付、兎に角人を遣わし其実情を偵察せしめんと欲し、先ず荻原警部を起さんとしたれども同人は在宅せず。次に堀口領事官補の宅を伺うに此亦不在なり。依って荻原と同居せる大木書記生に向って其故を尋ぬるに、今朝大院君入闕につき、堀口荻原両人とも之れに随行せりとの事に付、小官も非常に驚き入り、茲に始めて三浦公使が前晩来堀口等を如此事に使用したることを知り、尚お巡査の人員を点検するに、此又警部に随行したる者数名ありたるを認めたるにより、益々事の容易ならざるに驚き、三浦公使に面会し、其実情を確めんと欲し、小官は直ちに公使館に向って馳せ行きしが、途中日置書記官に出遭いたるにより、其概略を聞かんと欲したれども、同書記官も亦、所謂寝耳に水の有様にて少も之を承知せず。
 且つ三浦公使始め杉村書記官は已に参内せりとのことに付、日置書記官の言に従い、公使官付新納海軍少佐の宅に立寄りしに、同所には少佐の外に柴四郎及熊本県人佐藤敬太の両人来会せ居り。佐藤は前夜来、他の壮士輩と共に先ず岡本柳之助等と龍山に会し、其より相率いて孔徳里に至り、大院君を擁して王宮に闖入したる顛末をば、三浦公使に報告する為め今正に王宮より帰来し同処に立寄り、其始末を物語り中なりしに付、小官も亦之を傍聴し、稍々其要頷を得たり。

 夫れより小官は一旦帰館せしが、警部に随行して大院君と共に王宮に入りたる当館巡査等は、午前八時頃より続々帰館し、或は微傷を受けたるものあり、或は衣服に鮮血の染みたるものあり、或は刀を折りたる向もありて、頗る殺伐の状を呈し居りしが、堀口及荻原等も亦巡査等と互に相前後して午後三時頃迄に悉皆帰館致侯。

 依つて小官は、不取敢堀口領事官補及荻原警部に向い、今回の事件に関係せる顛末を相尋ね候処、堀口の申立に、今回の事は全く三浦公使の命に出でたるものにして、前日の夕刻、三浦公使に面会したる時、公使は自分に命ずるに、今回弥々大院君を入闕せしむるに付ては、已に万事岡本と打合わせ置きたるにより、今夜入京の筈なる同人[岡本は一両日前帰朝すると称し下仁せり)と龍山に相会し、別紙の通り同人へ申伝うべしとて、大院君入闕の方法及び善後策に関する数箇条の箇条書を示し[其箇条は堀口より已に原外務次官へ内報したる筈なり]且つ曰く。
 他に何人か王宮内の模様を熟知せる者を連れ行くべしとの事に付、荻原警部こそ然るべしと答えたるに、然らば同人並に事に慣れたる巡査等をも適宜撰択の上、之を伴い即刻出発すべしとのことに付、今夕は領事の晩餐へも招かれ居り旁、以て一応領事へ協議致したしと返答せしに、決して之を他言すべからず、領事へは自分より可然言訳を致し、不都合無之様取計い置くべきに付、心配するに及ばず、即時出発すべし、とて公使より強いての訓命有之侯に付、已むを得ず小官に断りなく荻原警部等と共に馬に跨り、龍山指して出で行きたり、との事に御座候。

 又荻原警部の申立も之と略同一にして、七日夕刻公使の召に応じ公使館へ行きたるに、今回の事に付ては、堀口を補佐し岡本と協議して行うべしとの沙汰有之。尚お之と同時に杉村書記官よりも岡本と衝突を起さざる様注意ありたる趣きに御座侯。

 依って小官は堀口荻原等に対し、若し小官にして之を前知したらんには、決して斯る事に関係せしめざりしに、前以て之を小官に聞知せしめざりしは甚だ遺憾なり。併し今後はたとい公使の命と雖も、最早一切本件に関係すること相成らざる旨申達候。

 然るに同日正午十二時過に至り、三浦公使も王宮より帰館したるを以て、直に之れに面会致候処、其時公使より聞取たる趣きによれば、

 近来王妃を始め閔党の輩、露国と結託して益々勢力を逞うし、内政改革の業は漸を追うて悉く破壊し、我士官の養成せる訓練隊も亦閔党の策により故らに巡検等と争闘を惹起さしめ、之れを口実として遂に訓練隊を解散し、且つ其士官は悉く捕えて之を殺戮し、閔泳駿を入れて国政を執らしめ、万事露国に依頼して我に離反せんと計画し、将さに本日を以て先ず訓練隊の解散に着手せんとしたるより、最早躊躇すべき時にあらずと認め、曩きに岡本柳之助を介して打合わせ置きたる大院君を起たしむる為め、弥々七日の夕刻を以て、一面には岡本堀口等を孔徳里に遣わし、大院君の入闕を勧め、壮士輩をして之を護衛せしめ、又た一面には訓練隊の一部及守備兵の一部をして途中より同君に従い之を警衛し王宮に導かしめたりしが、入闕の際王宮を護衛せる侍衛隊と同君一行との間に衝突相起り、多少の騒擾ありたれども、間もなく鎮定に帰し、国王及び世子宮は安全なり。但し王妃は騒擾の際、或者に殺害せられ、其他宮女二三名、訓練隊聯隊長洪啓薫、及宮内大臣李耕植、及び兵卒一名も亦殺害せらるヽに至れり。
 而して自分は今早朝国王の召により参内し、大院君列席の上謁見を遂げ、本件に関する善後策を奏上し置きたり。然るに本件を実行するには当初朝鮮人のみを使用する筈なりしも、韓人のみにては到底目的を達し能わざるにより、已を得ず日本人を用ゆることに相成りたり。又最初は客月十日をもって此事を行う筈なりしも、漸次機密漏泄の患あるのみならず、八日に至れば訓練隊は弥々解散せられ、其武器は悉く取上げらるヽことヽなり、事情頗る切迫したるにより、已むを得ず急に七日より着手せしにつき、万事手違を生じ種々の不都合を来したり。併し日本人特に公使館員領事館員並に守備隊の人々之れに関係せしこと公然と相成侯ては甚だ面倒につき、飽迄之れを隠蔽せざるべからず。依って至急居留民の重なる者を頷事館に召集し、今回の事件は全く大院君派と王妃派との争闘にして日本人には関係なし、尤も守備兵は王城内に於ける騒擾を鎮定する為め入城せりと弁明し、種々の風説に迷わざる様諭達し、尚お小官部下の官吏を戒め、決して之れに関係せしことを口外せざる様取計うべし云々とのことなりしが、小官も当時如此事実は可成之を隠蔽致し置く方可然と存候に付、兎に角三浦公使の命に従い夫々内諭致置き候。

 然るに尚お三浦公使の直話、堀口頷事官補荻原警部並に今回の事件に関係せる当館巡査及其他確かなる節より探聞したる所によれば、抑も今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるものにして、大院君と王妃とは平素犬猿も啻ならざる問柄なる上に、近来同君は一層王妃の専横を憤り、機会もあらば再び入闕し、王妃を始め其党与を排斥せんとて時機を俟ちつヽありし折柄、三浦公使も亦当国に対する政略上、到底王妃を除くにあらざれば内政改革の行われざるは勿論、当国に於ける我勢力は全く地を払って去ること旬月を出でざるべく、而して之を除くには大院君の勢力を利用するより外に途なきものと思い、窃かに岡本柳之助を遣わし[岡本は昨年七月廿十三日の事変に当り大院君を擁して入闕せしめたる以来、同君と頗る懇意の問柄となれり]、大院君の内意を伺わしめたるに、同君は若し三浦公使にして余の志を達せしむるならば如何なる条件にても承諾すべしとのことに付、其後岡本は三浦公使と大院君との問に立ち、数回の往復を為したる末、公使は岡本をして、大院君は入闕の後決して政事に容喙せざること、李呵Oは直ちに日本へ留学せしむること、及其他重要なる案件をば認めたる誓書を大院君より受取らしめ置きたり。

 然るに其後堀口領事官補は三浦公使と大院君との問に斯る計画あるべしとは知らず、其友人鮎貝房之進なるものと共に偶然同君を訪問せしに、日本領事館より来れる人なりと聞き同君は窃かに裏門より之を通し、面会の上雑談中詩文の応答を為したりしが、其時同君の賦したる一篇の詩中、自分も再び入闕して政事に与りたしと思えども自分を輔佐し呉るべき知己なきに苦む、との意を寓したるにより、堀口も亦試みに其韻に和し、君にして若し志あらば必しも輔佐の人なきを慮うるに及ばざるべし、との意を寓したる一詩を賦し之を示したれば、同君も頗る満足の色あり。李呵Oを呼出し之を堀口等に紹介せしが、告別に臨み大院君は堀口に向い、子は岡本柳之助なる者を知れりやと問うにつき、堀口は之に対して、然り予は彼と懇意なり、と答えたり。大院君曰く、本日子と応答の事は、若し他日発覚せば子の累を来すやも計られずに付、今之を焼き棄つべしとて、当日の筆談書類及詩文の認めある書類は悉皆堀口の面前にて焼き棄てたり。
 依て堀口は稍大院君の挙止を怪み、帰って之を三浦公使に告げたり。

 然るに其後大院君は、其信任する洪顕鉄なる者を屡々堀口の宅に遣わし、三浦公使に面会の出来る様取計い呉れ度しとの事に付、堀口は其都度之を公使に伝言せしも、公使は未だ其時機到来せず、若し其時機を得ば我より進んで面会を求むべきに付、暫らく俟たるべしとて、毎に其面会を拒絶せしが、客月七日に至り大院君は弥々せき込み、例により洪顕鉄を遣わし堀口に告ぐるに、本日は是非共三浦公使に面談致したきことあり、若し面会を拒まるヽならば公使は余を疑うものと見傲すの外なし、とのことにつき、堀口は之を伝言する為め夕刻三浦公使を訪いたりしが、其時公使は已に翌早朝を以て事を挙げんと企て居りたるを以て、実は斯々の方法を以て今夕より弥々大院君を入闕せしむることに着手する筈に付、直ちに龍山へ行き岡本と会合すべしとのことなりしかば、堀口は茲に始めて公使の計略を知れり。

 是より先き大院君は岡本より聞く処によれば、自分は今回入闕の企に付ては三浦公使も賛成を表し之を応接する筈なれども、堀口を以て其内意を伺うに甚だ冷淡なるが如くに思はるヽにより、同君も少しく疑を起し、若しや岡本が自分を欺きたるにあらざるや、三浦公使は果して自分を輔くる積りなりや、と訝かり始めたり。而るに三浦公使は已に岡本をして大院君より誓書迄取らせ置きたる事なれば、時機さえあれば何時にても之れを利用し得べく、且つ之れを利用するには可成苛立たせ置く方、却って好結果を奏すべきことと認めたるにより、其計画を知らざる堀口に対しては故らに冷淡を装おい置き、陰かに乗ずべき時機を伺い居りたりしが、客月七日に至り前記の事情により急に其計画を実行することに相成りたり。

 扨て堀口、荻原等は三浦公使の命により渡辺、境、横尾、小田、木殿、成相の六巡査を率い[但し平服着用]、七日夕景より当地を発し龍山に趣き、同所に於ける本邦人荘司章なる者の宅に於て、岡本が仁川より来着するを待ち受け居りしに、国友重章、佐々正之、安達謙造、藤勝顕、月成光、山田烈成、其他凡そ二十余名の本邦人も亦各兇器を携え、京城より同所に来会し、種々の評議を凝したりしが、其夜深更に至り、岡本も漸く龍山に到着したるより、一同相率いて孔徳里に趣きたり。

 時已に夜の十二時頃なりしかば、門扉堅く閉じて入ることを得ず。依って荻原警部は渡辺巡査に命じ、横尾巡査の肩に乗り墻壁を越えて門内に入り、内部より之れを開かしめたるにより、一行の者は直に邸内に進入せり。其時予ねて警衛の為め其筋より同邸へ派遣せる十余名の総巡巡検等は、之を強迫して一室に押込み、外部より堅く之れを封鎖し、其外出を制止し、尚お其着用せるそ(ママ)制服制帽を剥取り、之れを我巡査に着用せしめたり。
 斯くて他の人々は門内に入り俟ち居る間に、岡本は其通弁人鈴木順見を伴い、大院君の居室に入りて之と面会し、凡そ二三時問も評議の末、弥々出発することに決し、同君が轎に乗じて出門するや、岡本、堀口、荻原及其他の人々一同轎の前後を擁し、西大門を指して向いたる途中、一群の訓練隊に遇い、此亦大院君の護街に加わりたりしが、同刻我守備兵の一部分も亦行軍を名とし、西大門外に於て同君の一行を迎うる筈なるにも拘わらず、該地に至るも未だ日本兵の来らざるにより、暫時俟ち合わせ居りしが、已にして日本兵は途を誤り南大門より出て行きたること相分りたるに付、更に使を派して之れを西門外に呼集め、始めて同君の一行に加わらしむる杯、随分時間を徒費せるが為め、其一行が西大門より入城し王宮の正門即ち光化門に達したるときは、已に黎明の頃と相成りたる趣きに御座候。

 然るに荻原は部下の巡査を率い、同君一行の前に進み、先ず光化門前に於ける我守備隊の兵営より予ねて用意せる梯子及斧等を領収し、之れを用いて該門の近傍より高壁を乗り越し、門内に入りて番兵を追い払い、内部より鎖錠を解き、之れを引明けしかば、門外に到着せる大院君一行の者は俄かに吶喊して門内に突入せしが、其奥に於ける幾多の中門は、一行の先駆者たる巡査等が其携えたる梯子を以て一々墻壁を踰越し、内部より之を開きたるにより、一行の者共は其後に従い、或は剣を振い、或は銃を放ち、頗る混雑を極めつヽ、宛然百姓一揆も同様なる勢を以て一度にどっと後宮迄押寄せけり。

 此時宮闕内の処々に集り居りたる侍衛隊の兵士は非常に狼狽し、悉く其制服を脱ぎ棄て恰も蜘蛛の子を散すが如く何れへか逃げ失せて片影を止めず。
 国王宸殿の近傍に宿直せし当国政府雇にして侍衛隊の教官たる米国人「ゼネラル・ダイ」の如きは、最初光化門辺に閧声の起るを聞き、此れ啻事ならずと思い、俄かに部下の兵士を招き之を其附近に配置し、一令の下に兇徒撃退の準備怠りなかりしが、右の兵士等は日本人の剣を振って近寄るを見るや否や、此亦敵に向って一発の銃を放つ暇なく直ちに列を乱して逃散し、之を制止せんとせし同教官すらも逃兵の為め突き飛ばさるヽに至りしと云う。

 然るに後宮に押寄せたる一群の日本人等は、外より戸をこじあけて内部を伺うに、数名の宮女其内に潜み居ることを発見せしかば、此ぞ王妃の居間なりと心得、直ちに白刃を振って室内に乱入し、周章狼狽して泣き叫び逃げ隠れんとする婦人をば、情け容赦もあらばこそ皆な悉くひっ捕え、其中服装容貌等優美にして王妃とも思わるべきものは直に剣を以て殺戮すること三名に及べり。去れども彼等の中には真に王妃の容貌を識別し得る者一人としてなかりしのみならず、既に殺害せられたる婦人の死骸及尚お取押え居る者の相貌を一々点検するに、其年配皆な若きに過ぎ、予て聞き及びたる王妃の年令と符合せざるを以て、是れ必定王妃を取逃したるならんと思い、国友重章の如きは尚お残り居る一婦人を捕え、室内より縁側に引ずり出し、左手に襟髪を攫み、右手に白刃を以て其胸部に擬し、王妃は何処にありや、何時何処に逃げ行きたるや、杯と邦語を以て頻りに怒号すれども、邦語に通ぜざる宮女の事なれば、何を云うのか又何と返答すべきやを知らざるにつき、唯徒らに号叫して哀を乞うのみなりしが、旁に居合わせたる堀口は国友に向い、斯る残虐を行うべからずとて之を制止したれども、更らに聞き入るべき模様なく、荻原の叱責により始めて其暴行を中止せり。

 此時最早日出後なりしが、曩きに部下の侍衛隊に逃げられ唯独り残り居りたる米国人「ゼネラル・ダイ」は其近傍に佇立して本邦人の暴行を目撃し居りたるより、或者は直ちに彼を殺害すべしと叫ぶあり。又某守備隊士官は堀口に向い、彼洋人を此処より退去せしむるは君の任務なり、宜しく速かに之を他に避けしむべし、とのことにつき、堀口は同人に向い仏語を以て速に此処を立退くべしと請求したるに、「ダイ」曰く、

 自分は米国人なり、日本人の命に従う能わず、と退去を肯ぜず。山田烈盛も亦英語をもって之と応答を始めたりしが、其後間も無くして同人は一時現場を立去り、暫あって再び出で来り傍観せり。尚お同人「ダイ」と共に王宮内に宿直せる露国人「サパチン」なる者も亦隠かに之を傍観し居れりと云う。

 然るに他の壮士輩は王妃を逃したると聞き処々捜索を始め、終に国王の居室に迄踏み込まんとせしが、此所には国王始め世子宮も亦居らせられ、何れも頗る御恐怖の御様子につき、荻原は直に国王の御座に進み、御安心あるべしと告げ、狂い犇めく壮士輩に向い大手を張って大字形をなし、此処は国王陛下の宸殿なり、立ち入るべからず、と号叫し、其乱入を制止したりしかば、予て大院君より国王及世子丈けは必ず助命し呉るべしとの依頼ありたるとかにて、一同異議なく其場を立退きたりしかば、国王及世子は身を振わして荻原の両腕に取りすがりつヽ、頻りに保護を頼み給ひたり。

 斯くて本邦人の乱入者は処々に王妃の所在を捜索中、或る宮女の言により、王妃は頬の上部に一点の禿跡ありとのことを聞き、已に殺害せる婦人の屍を点検するに、其内壱名は果して頬の上部、即ち俗に米噛みと称する部分に禿跡の存する者あるを発見せるにより、之を他の宮女数名に示したるに、何れも皆王妃に相違なしと云い、後ち之を大院君に告げたるに、同君も亦必ず其王妃なるを信じ、手を拍って頗る満足なる意を表されたり。

 其後間もなく三浦公使は、杉村書記官、国分通訳官を伴い参内し、大院君列座の上国王に謁見し、何事か奏上する所ありし趣きなるが、王妃の屍は三浦公使の入闕後、公使の意に出でたるや否や詳かならざれども、荻原の差図により韓人をして或門外の松林中に運び行かしめ、薪を積んで其上に載せ、直ちに之を焼き棄てたりと云う。
 而して之を焼き棄つる際、王妃の腰に掛り居りし巾着の中を探りたるに、朝鮮国王より露国皇帝に向い、露公使「ウエーバー」氏留任を依頼する書状の原稿にして王妃の自筆に成れるもの二通を発見せしかば、荻原は之れを鈴木順見に渡したりとか聞及候。
 而して小官は其後公使館に於て杉村書記官が之れを其机の引出しより取出し居るを一見せしが、当時尚麝香の香馥郁として鼻を衝けり。
 而して其写は即ち別紙第二号及第三号写の通なり。

 又た王妃及び前記せる宮女の外に殺害せられたる者は、訓練隊大隊長洪啓薫、宮内大臣李耕植、及侍衛隊の兵士一名にして、他には韓人中一名の負傷者も無かりしが、侍衛隊の士官玄興澤は、王宮内に於て一時本邦人の為めに捕えられたるも遂に逃れ去りたり。然るに右の人々は皆本邦人の手に掛り殺害されたるには相違なかるべきも、日本人中何人の手に殺されたるや未だ判然せず。
 去れども王妃は我陸軍士官の手にて斬り殺されたりと云う者あり、又た田中賢道こそ其下手人なりと云う者あり、横尾、境両巡査も何人かを殺傷せしやの疑あり、高橋源次も亦慥かに或る婦人を殺害せり。其証憑は即ち別紙第四号写の如し。洪啓薫は、我陸軍士官之を殺害したりとは信ずべきが如し。侍衛隊の兵卒壱名は多分我守備隊の銃弾に斃れたるものなるべし。白石巡査は事変の当日南大門に於て大院君一行の入来するを俟ち受け居りしが、銃声を聞き王宮に馳せ附けたるも最早事終りたる後なりし故、前記の殺戮には与からざりしが如し。

 扨て今回の事変は前記の如く、大院君及三浦公使の共謀に基き、多勢の人々王宮内に乱入し、終に王妃を始め其他の人々を殺戮するに至りたる次第なるが、其関係者は朝鮮人中にも、現軍部大臣趙義淵、訓練隊大隊長禹範善、李斗璜を始め、其他大小の人員数多有之。
 而して本邦人中にも亦、公使館員、領事館員、守備隊将校、朝鮮政府雇官吏、及び居留人民の一部之に関係致居候処、日本人が之に関係するに至りたるは、皆直接又は間接に三浦公使の教唆に基くものにして、其間に立ち、最も斡旋の労を執りたる者は杉村書記官なり。同書記官は、単に三浦公使と之れに使役せられたる本邦人との問に尽力したるのみならず、亦同公使と有力なる朝鮮人との間に奔走したるものにして、国分通訳官は十月六日以後同書記官と金宏集及び其他の人々の間に二三回通弁として使役せられたる由聞及候。又大院君と三浦公使との間に専ら往復協議したる者は、前記の通り岡本柳之助にして、堀口も亦大院君と公使との間に斯る陰謀あるべしとは知らず、屡々大院君の依頼を受け、三浦公使と会合致度旨を同公使に取次ぎたり。柴四郎は、三浦公使の股肱となり総ての計画に参与し、旁ら壮士輩の繰縦に従事したるものと認められ候。

 然るに前記の方法により王妃殺害の計画を実行することに決したるは、果して何時なりしや確と判然不致候得共、之に関係せる居留民等の教唆を受けたるは七日の夕刻にして、堀口等が龍山出張の命を受けたる時の前後なりしとのことなり。
 尤も三浦公使の直話によれば、今回の事は極めて秘密にして顧問官等へは勿論、七日の朝に至る迄は杉村へも秘し置きたりとの事に御座候え共、杉村、国分両人共六日の日に於て其翌夕催すべき小官の宴会を辞したるより考うれば、同人等は其時已に本件を謀りつヽありしものと察せらる。又た三浦公使が小官の招待を辞せざりしは、其計画の発覚を患いたる故にあらざるかと推測せられ候。

 尚又訓練隊教官にして守備隊附宮本少尉は、九月二十七日を以て訓練隊大隊長禹範善と共に訓練隊を率い、龍山に於て演習を行いしが、其時禹範善は悄然として同少尉に向い、予は昨年東学党征討以来今日に至る迄永く足下の懇切なる教訓を受け実に感謝の至りに堪えず。左れども余が訓練隊を率い足下と共に演習を行うは最早今回が最後となれり。遺憾極まりなしと申すに付、同少尉は怪んで其故を問いしに禹曰く、我訓練隊は最早旬日を出でずして解散せらるべく、而して其将校は悉く厳刑に処せらるべき筈に付、余は可成速かに逃亡して一身を全うせんと欲する耳。此事は決して他言せざれども、足下には永く教訓を受けたる恩あるを以て余が衷情を打明かし置くなりとの事なりしが、翌二十八日、禹は訓練隊教官石森大尉を訪い何事かを相談し、十月三日に至り禹は馬屋原少佐、石森大尉と相伴いて三浦公使を訪問せりとのことなれば、三浦公使が王妃排斥の方法として大院君を利用せんと試みたるは果して何時に始まりしや審かならざれども、岡本は最初より之に関係し、訓練隊及守備隊を利用せんとしたるは十月三日前後にして、楠瀬中佐及馬屋原少佐等が本件に与かりたるも亦此時ならんと推測致され候。

 左れども我軍人軍属が何時如何にして本件に関係し、如何なる挙動に及びたるやは、今回当地へ出張せし田村中佐より巳に詳細の事情を其筋へ報告したる義と存候に付、茲に詳述不致候。

 然るに今回の事は三浦公使が頗る秘密に計画したるは固より論を俟たざる次第なれども、之を実行するに当り小官の部下に属する堀口領事官補、荻原警部及び巡査等を使用せるに拘わらず、小官に一言の相談なきのみならず、却って之を小官に隠蔽せんと試みたる所以を推測するに、抑も当地は御承知通りの場所柄にて、内外人の別なく不義不正の手段を以て種々の計画を行うもの頗る多く、常に百鬼夜行の有様を呈し居候処、如此地方に於ては小官が其職務を適当に施行せんとするには、如何なる人に対し如何なる事を処するにも、皆剛直を以て主義本領と為さヾるべからざるの必要を認めたるにより、小官当地着任以来平素一般人民に対するに剛直を以てするは勿論、公使書記官等に向っても亦此主義を枉ぐることなく、時々其命を聴かず之と抗論したることも往々有之候に付、若し本件の如き権謀的の計画を小官に覚らしめ候ては、却って其実行を妨害するならんと、三浦公使、杉村書記官等に於て懸念せし故ならんかと存ぜられ候。

 扨て十月八日の朝、王宮内に於て日本人が殺戮を行いたる時は已に白昼なりしなり。米国人「ゼネラル・ダイ」と露国人「サバチン」とは、其現場に在って之を目撃せり。且つ同日王宮内の事変を聞き直ちに参内せし露国公使を始め、門外に群集せる数多の朝鮮人は、兇器を携えたる日本人三三伍々群を為して光化門内より出で去るを認めたり。
 之れに関係せる日本人等は、帰宅後直ちに他の人々に向い公然と自己の功労を吹聴するに至れり。而して日本人が之れに関係せしことは最早蔽うべからざる事実となれり。
 去れども三浦公使及び其他の日本官吏が之に関係せしことは、直ちに外国人等に知れ亘らざりしが如し。小官は数日前晩餐に招かれたる答礼旁、翌九日午后四時頃、英国総領事「ヒリヤー」氏を訪い、又た其帰途独国副領事に面会したれども、両氏とも本件に日本人の関係せしことは已に承知せしも、我官吏の関係せしことは未だ聞知せざる模様なりしなり。

 然るに小官は事変の当日其顛末を聞知するや否や、是れ我外交上実に容易ならざる出来事なりと相認めたるにより、三浦公使に向って其善後策を尋ねたるに公使曰く。
 朝鮮政府部内の事は、大院君に於て一切其責任を帯ぶる筈に付、毫も心配するに及ばず。唯外国公使等が日本人の関係せしことを非難するの患あれども、右は大院君と平素私交ある日本人等が同君入闕に付、其請に応じ之れに随行せしものなりと弁解すれば足れり。而して若し已むを得ずんば其内数名を重刑に処し、尚二十名許退韓の処分を行うべきのみ。
 本件に関係せし壮士中、藤勝顕、月成光外壱名の如きは如何なる重刑に処せらるヽも異存なしと申し居れりとのことに付、小官は更に公使に向い、今回の事変に関係せし日本人の多くは、閣下を始め其他の公使館員領事館員並びに守備隊士官の一部も亦之に関係せることを承知せり。若し其事実他に漏泄し、諸外国人の耳に達したらんには如何せらるべきやと反問しけるに、公使曰く。我官吏の関係せることに付ては当人は勿論他の関係者をして厳重に其秘密を守らしめ、たとい法廷に於て審問を受くると雖も決して之を口外せしめざる様取計い置く積りなり、との事なりしが、其後当地に於ける本邦人の新聞通信員等は、公使の旨を受け柴四郎の旅宿に会し、本件に関し通信の仕方を協議一定せり。
 当時小官も本件の処置方には誠に当惑致侯に付、直ちに電信を以て詳細の事情を具報し、御電訓を請わんかと存候いしも、三浦公使を始め其他の本邦官吏が之れに関係せる事実公然と相成侯ては、我帝国政府の不面目此上なく、其処分法に付ても益々困難を来すべく、且つ三浦公使に於ても務めて其形跡を掩わんと試み居り候際に付、小官に於て若し公然之れを摘発するときは、外交上如何なる不都合を来すべきやの懸念も有之候に付、公使と相談の上、本件に関する報告は、悉く公使館より提出し、当館よりは別段提出せざることに取極め、若し此にて不都合ならば何分の御電訓有之度旨申出候え共、其後何たる御回答も無之候に付、一時之に関する公報の提出方を差控え候。

 併し本件を如何処分するにもせよ、当局者に於て実際の事情を承知致され居ること最も肝要と認め候に付、小官は事変の当日直ちに一書を認め、其実情を原外務次官迄内報致し置き、其後尚お二回同次官へ内報致し置き候のみならず、亦堀口領事官補をして詳細なる事情を認め、之れを同次官迄内報せしめ置き候。
 然るに本件に関する犯罪者の処分方は可成速かに着手するにあらざれば、犯人等漸次逃散するのみならず、証拠堙滅の患も有之候処、本件関係者は前記の通り、独り居留人民壮士輩に止まらず、三浦公使始め杉村書記官、及び小官の部下に属し、犯罪人の逮捕審問処罰方に関しては、小官の手足として使用すべき堀口領事官補以下、荻原警部及び最も有用なる巡査は、悉く本件に関係致し居り候に付、其処分方には頗る困難を相覚え候え共、兎に角三浦公使と計り便宜の処分を行う積りにて、十月十日を以て本件は三浦公使の意見に従い処分致しても差閊え無きや否や、電信を以て伺い出候処、右は今回の事件取調の為め当地に出張する小村政務局長の到着する迄、務めて穏便の手段を執り、他日の煩累を胎さヾる様注意すべき旨、御電訓有之候。

 然るに事変後既に数日を経て日本人の之れに関係せしこと最早隠れなき事実に相成候にも拘わらず、尚お当館に於て公然其取調に着手不致候ては、外国人に対しても甚だ不体裁に付、十月十二日に至り、先ず警察官をして関係者の口供を取らしむることに致候処、杉村書記官は其意を国友重章に伝え、関係者中甘んじて我警察の取調を受くべき者の姓名を撰出せしめたるに、即ち別紙第五号及第六号写の通り申出で、尚お取調を受けたる節は別紙第七号の通り、同一の申立を致すべき様彼等の間に申合わせしめたり。
 而して彼等は警察の取調を受くる以上は退韓又は多少の刑罰に処せらるヽの覚悟は致し居り侯処、是れ皆柴四郎等の取計により、大院君より報酬として貫い受けたる金六千円の分配に与かる約束を以て之を承諾せしめたるやに聞及び侯。

 而して此等の人々が我警察の取調に応じ陳述したる口供は、即ち別紙第八号写より第十九号写迄の通りに御座候処、是れ固より虚構の供述に過ぎざれども、只管穏便を主とする為め強いて推鞠も不致、其儘小村局長の来着を待ち受け居候。

 然るに翌十三日に至り退韓の処分は甘んじて受くべきも、刑辟に触るヽが如きは断じて辞せざるを得ずとの議論、前記人々の間に相起り、且つ公使館の処置に対し頗る不平を抱き、我々をして刑辟に触れしむるに至るは畢寛公使館の措置其宜しきを得ざるが故なり。若し我々を刑辟に陥るヽ如きことあらば、我々は公使館の秘密を発くべし、公使館に乱入すべし、公使館員をぶん擲るべし、杯と苛激の言を発する者有之候より、三浦公使も大に之を持余し、此輩に対し速かに退韓を命ずべき旨、別紙第に十号写の通りなる私書を以て小官へ申越侯。

 依って小官は直に右の通り取計い可然や否や、電信を以て伺い出置き、尚お三浦公使へも其趣きを通知し、退韓処分は其筋より何分の訓令有之候迄、差控え置く方可然と申遣わし置き候処、同日夕刻に至り同公使は更らに別紙第二十一号写の通りなる私書を以て、速かに退韓処分を行うべし、其責任は一切自分に於て引受くべき旨申来り候条、此時小官は三浦公使に面会し、小官が職務上行いたることに関しては小官自ら甘んじて其責任を負うべきに付、必ずしも閣下を煩わすに及ばず。唯本国政府の訓令を待たず如此処分を決行致候ては、責任の何人に帰するを問わず我国の外交上恢復すべからざる不都合を来すやの懸念なきにあらず。依って小官は兎に角其筋の訓令を俟つの外なし。而して若し此れが為め何等の不都合を来したらば其責任は小官自ら負担すべし、と陳弁致侯処、同日は其侭と相成、翌十四日に至り、退韓処分は小村到着迄見合すべしとの御電訓有之候。

 依って翌十五日小村局長の入京を待ち受け、直ちに面会して本件の顛末を陳述し、至急何分の指図有之度旨申出侯。
 然るに小村局長到着の節は、陸海軍参謀官、憲兵、巡査、安藤検事正等、之れに随行致し侯に付、一同奇異の念を起し侯え共、其後間も無く本件関係者は退韓と一決し、当館に於て岡本柳之助外二十余名に対し、在留禁止を申渡し侯に付、彼等は退韓処分のみにて可相済義と心得、梢安心の模様なりしが、此際安藤検事正は突然帰朝の途に就きたりしかば、再び疑怖の念を起し、退去を躊躇する者あるに至りしも、小村公使より柴四郎に申含め、可成一時に多数の退韓者を引纏め下仁せしむることに取計い候に付、彼等は案外容易に当地を退去致候。

 而して其後も尚本件関係者十余名に対し在留禁止を言渡し候処、此等も亦小官に於て或は説諭し或は強迫を加えたりしかば、別段の面倒を惹起すことなくして下仁致候。
 然るに本件に関係せし堀口領事官補、荻原警部、及び巡査六名は予てより帰朝の電命小村局長の許に到達せるを小官に於て聞及候へ共、同局長の取計により故らに之を当人等に通知せず、極めて秘密に致置き、事実の探偵方及居留民に対する退韓処分方に関して、小官に於て平素の如く彼等を使用致候処、他の関係者は皆之と事を共にしたるものなるが故に、却って好結果を奏し候。依って他の関係者の処分略相済み候時に至り、小村公使の差図により始めて之れに帰朝の命を相伝え、至急出発せしむることに取計候。

 茲に今回の事変に関係の嫌疑ある者、並に直接之と関係なきも、向来当地の安寧を妨害するに至るべきものと認めたる廉を以て、当館及仁川領事館に属托して退韓を命じたる者の原籍姓名を挙ぐれば、則はち別紙第二十二号の通りに御座候。

 以上開陳せるは、今回の事変に関し、小官が自ら見聞せし事項及職務上取扱いたる事項の顧末に御座候処、抑も今回の事変は実に意外中の意外なる出来事にして、壮士輩の取締方に付ては予て御訓令の次第も有之、充分厳密に其挙動を注意し、苟も疑うべきものある時は世間の論難批評は勿論、杉村其他の公使館員及星、岡本を始め、其他顧問官連中の請託をも顧みず、断然之れに向って相当の処分を加うる事に取計来候に付、近来は不穏の輩も追々減少し、其残留せる者も亦閉息して兇悪を逞うすること能わざる様相成居候処、今回は計らずも意外の辺に意外の事を企つる者有之。独り壮士輩のみならず数多の良民及び安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員及守備隊迄を煽動して、歴史上古今未曽有の兇悪を行うに至りたるは、我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座侯。

 別紙本件に関する証憑書類及電信往復[本省の分は除く]相添此段及具報侯、敬具。

                在京城一等頷事 内田定槌
  明治二十八年十一月五日
  外務大臣臨時代理
   文部大臣侯爵 西園寺公望殿

 

 

機密第三十六号添付書類   (貼紙)[内田より草野検事正へ送りし甲第一号]


 別紙第一号写

 過刻は御馳走に預り御懇待忝奉謝候。其砌申残し置候、堀口等の事は、晩景より他の用事にて遠方派遣し候間御含置被下度。委細は明朝御談可致と存候乍延引前件如此御座候。不備。
  七日夜      梧樓
 内田殿 貴下
奥様へ宜敷御礼相煩願候。


(欄外)別紙第二号写
    朝鮮国王より露国皇帝に送りたる国書原稿 其一

敬白朕之良兄弟
俄羅斯国
皇帝陛下交好有年報聘尚遅殊用勧悵現我国以政不得人受侮亦滋貴派来公使革貝才徳兼備多所咨訪実為両国之幸近聞有移駐清国之説此雖塗聞惟我地壌相接関係付与他等必使革貝久留我国俾有襄助益致両国之敦睦至以為盼使維
陛下宏猷隆盛化理清明更希深念大局無孤此言
 開国五百四年朕御極三十二年五月二十三日(日本歴7月15日)在漢陽宮中
             
 陛下良兄弟
   姓諱    御璽


(欄外)別紙第三号写
    同

親書業経脩送今聞
貴公使革貝移駐墨西哥全権撫念大局不勝虞憂朕咨詢日滋輔益既多須定物国全権仍久留昭
陛下相済之誼為希
 朕御極三十二年閏五月二十九日(日本歴7月21日)朝鮮漢陽
                  御衘
 俄国皇帝陛下


別紙第四号写

拝呈仕候、昨夜来失敬仕候、陳者今朝は粗暴之挙止実以慙愧之至に御坐候
        宮中口吟
 国家衰亡非無理 満朝真無一忠臣
 宮中暗澹雲深処 不斬讎敵斬義人
実に面目次第も無之、只今迄憂鬱罷在候処、今一友の話に依れば、或は王妃なりと。然共疑念に堪えず候故此儀真否御承知に御座候わば御一報被成下度奉万願候。
   十月八日   高橋源次
              再拝
 鈴木重元様    
         呈梧下


別紙第五号写

拝啓、先刻之御話に従い色々評議の末、別紙の人名は何時御召喚有之候共、差支無之候間左様御承知可被下候。尚願くは明日直ちに御開始有之候様希望仕候。先以書中草々如此御坐候。頓首
           十月十一日夜  国友重章

  杉村 濬殿
       [別紙]
(12名の名簿。省略)


別紙第六号写
(先の名簿に1名追加。省略)



別紙第七号写

一 私交上○○君の依頼を受けて随行入闕したる者なり。而して右は全く自己の意思に出でたり。
一 依頼の趣意は、単に随行と云うことなりのも、○○君の真意は蓋し途中安心の為め同行を求めしことならん。我々も亦之を黙諾して応ぜしことなり。
一 途中、宮門に至る迄は何事も無かりしが、光化門前に至りて朝鮮兵相互の小戦興れり。右小戦は、蓋し訓練隊が強て入闕せんとしたるを侍衛隊又は宮中巡査は中より之を拒み終に争戦に及びたることと思考せり。是時我々は唯○○君に危害の及ばざらんことにのみ注意せり。
一 ○○君入闕の趣意は、全く榜文と同様の事なりし。而して我々は之を黙諾して随行したるものなり。

一 ○○君同行の時、朝鮮人も多数随行し、其中日本服を着したる朝鮮人も大分見受けたり。

一 宮内に於て騒擾興り之が為めに三の死傷者あるを目撃したり。然れども右は全く韓服若くは和服の朝鮮人等之を為せしことにして、且つ現に朝鮮人の抜刀にして人を殺害するを見たるものあり。尤も未明及び困難の際なれば明白にに之を認むるを得ざりし。

一 我々の内にも自防及び大院君防衛の為め抜刀したるもの見受けたるも、其誰たるかを詳にせず。天明の後、見物の為めか多数の日本人及び洋人を身受けたり。但し其人名は詳ならず。

一 大院君無事入闕し且つ騒擾も鎮静に帰したるに付、同君に別れを告げて退闕せり。



    調 書

問 何時の住所氏名並に年齢職業は如何。

答 京城南大門通り会覧坊佐々正之方 片野猛雄 明治元年十一月生 無職

問 汝本籍地身分並に出生地は

答 熊本県託麻郡大江村大字大江四百二十四番地 士族 出生地は原籍に同じ

問 これまで処刑を受けしことありや。

答 ありません。

問 本月八日、大院君入闕に付、汝が随行したる始末を申立よ。

答 本月七日、国友重章は大院君より入闕するに付、途中護衛を依頼せられ、其節国友より通知を受け、又た私も大院君とは間接の交際もあれば、大院君の邸に至り随行したり。

問 入闕の途中何事もなかりしか。

答 途中は無事なりしも、宮城門前に至り大院君護衛の訓練隊と宮中の侍衛隊と争闘を始めたり。依て私は大院君の傍らを護衛をなし居る内、宮内に入りたれども騒擾止まず。朝鮮人等抜刀して争闘せし為、大院君の傍を離れず防衛せる内、終に鎮静し大院君は無事入闕せられたるに認めたれば、夫れより帰宿したり。

問 宮城内に於て死傷者は認めざりしか。

答 一二名の死傷者を認めたり。然れども未明なりし故詳細に分らざるなり。

問 日本人にして争闘せしものなきや。

答 争闘せしもの認ざりし。

問 他に申立これなきか。

答 ありません。

右は片野猛雄の陳述を録取し読聞せたるに、事実相違なきに依り、奉職と共に署名捺印せり。

 明治廿八年十月十二日  於日本領事館
       警部 荻原秀次郎
          片野徳雄

(以下各人ほぼ同様の内容につき略す)



 別紙二十号写
壮士処分之事に付、種々協議致させ候処何分六ヶ敷、強て決行為致候ては、反って激昂之余り官庁の名義に相関し、大不体裁を来すの虞不少。依って三十名以上に治安妨害を目途として至急退韓の処置に出で候事、良策と存候。尚御勘弁の上御考按致承知度、小村来着迄には是非共大体片付置度存候。右御含加此御坐候。不備。
   十三日      梧樓
 内田領事殿
    貴下



 別紙第二十一号写
今朝御談致置候通り、壮士輩之内情甚面倒にて、若し遷延しては反て大変の不面目を来すの虞有之候間、速に退韓之御処置に御一極可被下候。小村の来否に不関候。此大責任は拙者引受、御迷惑は不相煩候。後日政府より彼此面倒御身に及候時は公使の命令に応じ、如此に致候と一意に拙者に御譲被下不苦候為其至急早々。不備。
   十三日     梧樓
 内田殿



別紙第二十二号
退韓者姓名表(略)

 この後12日に、内田領事が広島地方裁判所検事正草野宜隆に提出したほぼ同文の「機密裁第二号(「B08090169600」p17)では、以下のように最後部分のみが「機密第三六号」と違った文章となって短くまとめられている。

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割3 B08090169600」p31〜より抜粋、()は筆者)

柴四郎の旅宿に会し、本件に関し通信の仕方を協議一定せり。(ここまで「機密第三十六号」と同文)
 然るに本件処分方は我外交上に重大の関係を有する義に有之候処、其関係者は前記の通り、独り壮士輩に止まらず、三浦公使始め杉村書記官、守備隊将校及び犯罪者の逮捕審問処罰方に関しては、本官の手足として使用すべき堀口領事官補、以下警部巡査に至る迄、之れに関係致居候に付、其処分方に付ては、頗る困難を相覚候え共、本件取調の為め小村政務局長渡来後、之れに関係したる我官吏は悉く其筋より召還せられ、居留人民中の関係者は、即ち別紙第五号記載の通り、当館に於て悉皆退韓を命ずる事に取計候。其内岡本柳之助、国友重章、佐々正之、月成光、藤勝顕の如きは、重なる関係者と認められ、又た右の外、熊本県人田中賢道も関係者中の重なるものなりしも、同人は事変の翌日直ちに当地を出発帰朝致候に付、当地に於て何事の処分を加うる暇無かりし次第に御座候。尚又隈部米吉及大崎正吉の両名は、客月十二日、当館に於て取調を相受け候節、自ら関係者なりと申立候に付、他の人々と同様退韓の処分を言渡し候得共、其後探聞する所によれば、同人等は本件関係者が大院君より貰い受けたる金子の分配に与からんが為め、故らに虚偽の申立を為し、関係者なりと名乗り出でたるものと認められ候。
 以上記載せる外、尚お本件に関し申進すべき事項数多有之候え共、余は後便を以て委細御通報可致候。敬具。
                             在京城一等領事内田定槌
   明治二十八年十一月十二日
 広島地方裁判所
    検事正草野宜隆殿

 で、どこが伝聞情報でどこが訊問調書に基づくところで、どこから新たな事実によって書き換えられるべき所なのか、など、疑問の湧くところでしょうが。
 まあ今のところ資料を通読するしかないとしか言えないわけで。

 

証人鄭秉夏訊問調書

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4 B08090169700」p56 証人鄭秉夏訊問調書、()は筆者)

   証人鄭秉夏訊問調書

 貴官の族籍姓名年齢職業は如何。

 京城水標橋居 鄭秉夏 朝鮮国署理農商工部大臣農商工部協弁

 (中略。被告人等と親類であるかなどの身元関係の質問などと証言の宣誓)

 十月八日王城事変に際し、貴官は王宮内に居合せたる由なるが、当時貴官が目撃せし情況を申立られよ。

 自分は十月七日午前十時頃、三浦公使の招きに因り公使館に至りしに、公使曰。当地に居る我兵は皆後備兵なれば常備兵と交替せしむる筈なれども、未だ其決定なければ、今日参内して此事を大君主に奏上し呉れよとの事故、之を諾し帰らんとする時、軍部大臣安駉壽来りて寒暄を叙せし後、安曰く。兵丁が巡検を殺せし事に付、犯罪者を連日取調ぶれども、八百余名の兵丁中誰の所為やら取調方甚だ六敷処、至急取調差出せとの厳重なる仰せあり、誠に恐縮中なり。就ては貴国にて此様なる事件あらば如何取調をせらるゝや、と公使に尋ねしに、公使曰く。其取調方なれば一法あり。兵丁を悉く営内に入れ置き一人も外出を厳禁するときは、兵丁中自然苦情を生じ、犯者を指目すべく、亦我巡査をして営内を巡回周密せしめ、一面亦街をも巡回して脱営の兵丁を捉え営内に送るべしと。安軍部之を聞き、如何にも其通り行い見んと云いたり。
 此話を聞き直に去て農商工部に至り公務を視、正午十二時頃参内せしが、自然晩に入り、翌日午前二時前と覚しき頃、内官を以て大君主陛下に拝謁を請いしに直に御召しありし故、御前に出でしが此時大君主、王后、王太子の御三方御揃にて、長安堂の北椽に居られしが、階下には別検及武監等多数立居り。一面何事をか申上げ一面走り出でゝ探知する様子なりしが、陛下より、今頃兵丁并日本人等闕外を徘徊すとの説あり、何事なるぞと御下問ありし故、事の次第は存ぜざれども、本日日本公使館に至りしに、後備兵と常備兵と交替の話後、安軍部と三浦公使と過日巡検を殺害せし兵丁取調の事を相談致居りたる廉もあれば、多分兵丁の徘徊するは彼等訴事ありて安軍部の家に赴くものなるべく、日本人は之を取締らん為の彼等の後に随い徘徊するものなるべし、と答奏し退出せり。
 此時陛下は坤寧閤[王妃の常御殿]に入らせられしが、暫時にして又御召ありしを以て、其処に至りしに、今聞けば兵丁等墻壁を踰えて入来ると云。如何なる次第なるや、汝疾く行き見よ、との仰なりしかば、直に其処を出て西洋館の後なる小門を出て、啓武門に至り、外方を望見せしも、人影だになき故、其傍なる番兵に向い、此辺へ墻壁を踰え来りたるものなきや、と尋ねしに、なし、と答え、仍お夫れは神武門の辺なり、と云いしより立戻りて蓮池の前に来り神武門の方に向わんとせし際、忽ち乾清宮の方向に喧騒の声聞こえし故、直に走りて坤寧閤の前門に引還せしに、此時陛下并に東宮殿下は内官等を従え王后陛下は宮女に擁衛せられて同殿の中庭に立退かせられしを見上げたり。依て自分は直に陛下の御手を執り、斯かる処へ出御なりては却て御危険の旨を申上げ、急ぎて再び同殿に入りしが、同時に弾丸飛来り甚だ危険なるを以て陛下を護衛して室の一隅に屈服し居りしに、室外及同室の後方は頗る喧譟の様子なりし。暫くして東宮殿下窓外に避け来られし故、之を迎入せり。良々ありて李耕植も亦椽端に来りし処、何者とも知れず刀を以て之を打倒したり。既にして夜漸く明け、大院君入闕せられ、喧譟も寝みたるを以て更に長安堂に移御せられたり。

 此喧譟の際、王后陛下は如何せられしや。

 自分は前述の如く専ら陛下に侍せしを以て、之を知らず。

 王后陛下の御屍躰を目撃せしや。

 否。

 宮女中、二三名殺害せられしと云うが如何。

 之れなし。後にて宮女の数を調べしに、一も不足なかりしと云。

 兵丁の死せし者ありしや。

 坤寧閤の後庭にて二人の屍躰ありしを目撃せり。又、蓮池の端にも二人程倒れ居りたりと聞けり。

 其傷所は如何。

 熟視せしに非ず。一寸見たる迄なれば之を知らざれども、多分銃創ならん。

 暴徒の乱入せしとき日本人の其中に在りしを見しや。

 燭既に消えて暗きのみならず。弾丸を避けて屈服し居りしを以て之を知らず。

 然らば終始日本人を見ざりしや。

 大院君入闕せらるゝと同時に日本人の徘徊するを見たり。

 大院君は何時頃入闕せられしや。

 天明の後なり。

 大院君入闕の後、日本人等が宮闕内に於て殺傷其他乱暴の挙動ありしを認めざりしや。

 不認。

右、証人の供述を筆記し、之を読聞かせたるに相違なき旨申立つるにより茲に本官と共に記名捺印せしむ。

明治廿八年十二月十日午后後一時
朝鮮国京城日本領事館に於いて。
  一等領事 内田定槌 印
  領事館書記生 新庄順貞 印
  証人      鄭秉夏 印

 

証人玄興澤訊問調書

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4」p62、()は筆者)

   証人玄興澤訊問調書

 貴下の族籍姓名年齢職業は如何。

 京城典洞居 玄興澤 四十一歳休職副領

 (略。被告人等と親類であるかなどの身元関係の質問などと証言の宣誓)

 十月八日王城事変に際し、貴下は王宮内に居合せたる由なるが、当時貴下が目撃せし情況を申立てられよ。

 十月七日は当直の日なりしを以て大闕に居りしが、翌八日午前二時頃、闕外より別軍官来りて、只今日本兵百余名、三軍府に入りたりと云いしも、尋常の事と思い居り。又、何事もなかりし。既にして四時頃に至り、訓練隊の兵丁等悉く春生門に来れりとの報を得たり。少くして又秋成門へ日本兵来りとの報に接せり。依て人を派して之を見せしめしに、果して報知のとおりなりし。暫くする中、日本兵のみ秋成門の辺より墻壁を越えて後園に入れり。即ち神武門外なり。其中光化門外にも訓練隊の兵丁来れりと聞けり。依て自分等は闕内を守り居りしが、間もなく訓練隊の兵と日本兵と混じて光化門より入来りたり。此時自分は大闕の西方を守り、其他の者は東方を守り居りたり。此時何れにてか銃声の聞ゆると、間もなく自分の守り居りたる処へも攻掛け来りし故、之と抗戦し其時兵丁一名、自分の前に於て銃傷を受け死したり。然るに間もなく大君主より発砲を止めよとの命ありしが、之に従いたり。時に或は日本服を為したる日本人、刀を提げ来りて自分を執え縛して、王妃は何れに居るやと問詰たり。依て自分は此処にて抗戦し居りたれば、王妃の居ます所を知らず、と答えり。然るに尚お自分を引きて坤寧閤に至り、此処に居ます哉と云いし故、知らざる旨を答えたりしに、再び自分を引いて閣監庁の前に出て、頻りに擲着しながら尚お王妃の在場を捜索する模様なりしが、其中坤寧閤の方より其日本人を呼ぶ者ありしを以て、自分を措て其方に走り行きたり。是に於て自分は難を免がれしも、心中疑を抱き暫くせし後、坤寧閤に至り見しに、大君主は長安堂に移御せられたる後にて、或る下人の言に、王妃遭害の事を聞きしが、果して椽上に倒れ在ます御屍躰を見上げたり。既にして再び日本人の来るものありし故、身を避けて門外に出て居りし処、王妃の屍躰を焼火するとの事を聞きしが、果して鹿山に於て烟の上るを見、又衣服等の燃ゆるをも目撃したり。而して直に秋成門より出て帰宅せり。

 闕内の当直所とは何辺なるや。

 長安堂の裏手の方にあり。

 日本兵は秋成門辺より墻壁を踰えて後園に入りたりとは貴下が目撃せしことなるや、又伝聞せしことなるや。

 啓武門を開き、後園を望見せしに其入来るを見たり。

 其時貴下一人にみなりしや。他に共に之を見しものありしや。

 当直士官、其外之を見し者多し。

 其士官とは誰々なるや。

 李学均、李徳淳。

 日本兵、訓練隊の兵と混じて光化門より来りたりとは、之を目撃せしことなるや。

 否、他人より聞きたるなり。

 其時貴下は大闕の西方を守り居りたりと云う。西方とは何れの場所なるや。

 建善門内にありし。

 貴下の居る処へ攻来りたるは日本兵なりしか、訓練隊なりしか。

 前方より攻来るとの事を聞き、之を望見せしに、多数人の来るを見しも、日本兵は認めざりし。

 其時銃傷して倒れたる兵丁ありと云うが、其場所は何れなるや。

 長安堂の脇門なる弼成門外なり。

 大君主より発砲を止めよとの命令は、大君主より直接に令ぜられたるものなるや。

 其時自分は長安堂の墻外に在りしに、墻内の兵丁等衣を脱しつゝ、大君主より発砲停止の命令ありたりと称えたるなり。

 死傷せし兵丁の姓名は如何。

 之を問わざりし故知らず。

 其外に死せし兵丁なかりしや。

 自分の率いし部下は其外に死者なし。

 宮女中死者なかりしや。

 宮女の死せし者を認めず。又死せしことを聞かず。

 其時廊下に倒れありし屍躰が王妃なりしことは如何にして知りしや。

 其服装に因て之を知れり。

 然らば王妃の服装の特殊なるを知り居りしか。

 宮女等は尋常の紬を服すれども、王妃は清国産の絹織物を着用せらるゝなり。

 然らば屍躰の服装に因て其王妃なりしを認めたるものにて、其顔を見たるには非ざるか。

 御顔を拝せしには非ず。

 清国産絹織物を着用せしのみを以て王妃なりと断定するは確ならずと思う。如何。

 然れども、他人は着用せざる服装なれば、王妃と思うなり。

 其屍躰の場所は如何。

 之を知らず。又別に血痕を見ざりし。

 然らば之を熟視せしに非ざるか。

 然り。

 屍躰を見しは何時頃なりしか。

 天明後なり。

 宮内大臣李耕植も殺害せられたりと云う。貴下は之を知れりや。

 目撃せず。

 訓練連隊長洪啓薫も死せりと云。貴下其屍躰を見しや。

 之を聞きたる迄にて、屍躰を見しことなし。

 洪は何処にて死せしと聞きしや。

 光化門にて死したりと聞けり。

 誰が殺せしかを聞きしや。

 之を聞かず。

 貴下を抑えたる日本人の年齢容貌は如何なりしや。

 其時日本人一人に非ず。二十人許なりしを以て、一々其年齢合格及容貌を承知せず。

 貴下一人を捕うるに日本人二十人を要せざるに似たり。如何。

 自分のみ士官の服を脱し居らざりしを以て、多人数掛り来りたるならん。

 貴下を縛せし日本人は如何なる人なりしや。

 二人にて自分を縛したり。皆三十才位の人なりし。又、二人共顔長き方なりしが、一人は他の一人より身長稍低かりし。又二人共多少の髯ありし。

 王妃の所在を問いたる日本人は如何なる人なりしや。

 自分を縛せし人等なり。

 日本人が王妃の所在を尋ねたりと云う。其間に訓練隊の士官又は兵卒は来らざりしや。

 訓練隊の士官は見ざりしも、兵丁等の建善門外に来れるは見たり。

 王妃の屍躰を見しとき、訓練隊の士官又は兵丁若くは他の朝鮮人の乾清宮中に在るを見ざりしや。

 訓練隊の士官及兵丁は見ざりしも、他の下人等の徘徊するは之を見たり。

 李周會、鄭蘭教、柳赫魯等を見ざりしや。

 李周會の来りたる事丈けは聞きしも、此等の人を見しことなし。

 王妃の屍躰のありし場所を図を以て示されよ。

 諾。[此に於て図を認む。即ち別紙の如し]

右証人の供述を筆記し、之を読聞かせたるに相違の廉無之旨申立つるにより、本官と共に記名捺印せしむ。
 明治廿八年十二月十二日午後四時五十五分
  在京城一等領事内田定槌
  領事官書記生新荘順貞
    証人玄興澤

p71
(坤寧閤夾門側)
樓   王后 尸躰

(鹿山南端)
焼化処

 

証人ゼネラルダイ訊問調書  12月16日

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4」p73、()は筆者)

   証人ゼネラルダイ訊問調書

 貴下の族籍姓名年齢職業は如何。

 自分の姓名は、ウィリアム・マックイー・ダイ。六拾参歳、米国合衆国華盛頓コロンビア居住 合衆国陸軍中将 当時朝鮮政府雇陸軍教官顧問官 安洞住

 (略。被告人等と親類であるかなどの身元関係の質問などと証言の宣誓)

 貴下は何時頃より大闕に泊り居りしや。

 昨年九月八日又は十日以来と覚ゆ。尤も、其間時々更衣、又は休済の為め私寓に帰りたることもありたり。

 然らば去る十月八日の王宮に於て、事変の起りたるとき、貴下は王宮内に居合わしたるや。

 然り。

 然らば、去る十月七日の日に於て、大闕内に於て何か不穏の模様あるを気付かざりしや。

 同日午後三時半頃に気付きし。

 如何なる不穏の事を認めしや。

 同日午後三時半頃、大闕に行かんとして私寓を出て大闕門内に入りしに、闕内の役人等大に騒ぎ居りたり。其訳は大闕の東門外より東北にかけて、多数の兵丁等が闕内を窺う様子ありて何事か起るべき模様ありたればなり。

 其東門外に於ける不穏の模様は何日迄続きしや。

 弥々八日事変起る迄漸次甚しきを加え行きたり。

 如何して其事を知れりや。

 闕内の役人が見来りて話せし故之を知りたり。自分は目撃せしにあらず。

 其中に日本人は混じ居らざりしや。

 日本人の混じ居りたることは一向聞かざりし。

 七日の晩に日本人が王宮内にありしを見しや。

 七日の晩には一向見ざりし。

 八日の朝、事変中に日本人を見ざりしや。

 見掛けたり。

 夫れは兵丁なりしゃ。又否らざりしや。

 初めは兵隊を見たり。夫れは午前三時頃なりし。

 何処にて其日本兵を見しや。

 大闕の西北門外なりし。

 幾何幾許なりしや。

 三十乃至四十人許なりし。

 夫等の兵は朝鮮兵と混じ居りしにあらざりしや。

 混じ居りしにあらず。自分が門のすきまより見居りたり。

 其時は未だ天明前なりしに、如何して日本人なるを知りしや。

 併し該夜は能く晴れ居りしを以て星光にても識別し得らるゝ程なりし。

 而して其日本兵は如何せしや。

 如何せしか知らず。自分は其時直ちに其処を立去りて他の門の締りを見廻りに行きたり。

 兵にあらざる日本人を八日の朝事変中に見ざりしや。

 見掛けたり。自分は日本兵を三度見掛けたりしが、其三度目のとき、兵隊にあらざる日本人をも共に見受けたり。

 王宮内に於て最初日本兵を見たるは何時頃なりしや。

 何時頃か確と覚えざれども、天明後にして多分五時頃と思う。

 王宮内にて初めて見掛けたりと云う日本兵士は何処に居りしを見たるか。

 蓮池の西方の辺より大君主陛下の在ます乾清宮の方に向い来るを見掛けたり。

 其兵は何処へ入り行きしや。

 乾清宮の西南なる門より宮内に入り込みたり。

 其日本兵は宮内に入りて何をなせしや。

 乾清宮を占領し守護の朝鮮兵を退け、彼等自ら王宮を護衛し、門の入り口には五六の日本兵にて守り居たり。

 日本兵が乾清宮内に於て人を殺傷するを目撃せしや。

 見ず。

 二度目に入り来りたる日本兵を見しは何時頃なりしや。

 最初の日本兵の入り来り後凡そ二三分間後と覚ゆ。

 二度目に入り来りたる兵は何処に居るを見しや。

 蓮池の東辺に居るを見たり。

 其人数は幾何なりしや。

 最初に入り来りたる兵の倍位と思う。殆んど三十人余と思う。

 何処に行きて何をなせしや。

 彼等は皆乾清宮の正門より宮内に入り、同門を守りし朝鮮兵を追い、彼等の中の数名にて之を守りたり。又其他の者は宮内に入りしも、何名にて如何なることをなせしを知らず。

 兵にあらざる日本人は何時頃何処にて見しや。

 乾清宮の正門を入りし日本兵の来るや否や、兵に非ざる多数の日本人の来るを見たり。尤も、散々にて入り来りし故、人数及其何処より来りしを知る能わざりし。

 其等の兵士又は兵にあらざる日本人が乾清宮内に於て人を殺傷するを見たりしや。

 決して見ざりし。

 兵士又は兵士にあらざる日本人は武器を携え居りしや。

 兵士は勿論、其他の者も大概にて武器を携居たり。

 兵にあらざる日本人は、如何なる武器を携え居りしや。

 皆、刀を携え居りたり。其中或る一人は彼自身の丈と均しき位長き刀を携え居りたり。

 其中武器を携えざりし者も少しはありしや。

 三人丈は、「ピストル」を携え居りたるや否やは知らざれども、他の武器を携えざるを認めたり。夫れは自分に向て其時其処より他に立ち去れと云いたる人及其通弁をなせし人并に■■の御殿の廊下を徘徊し居りたる者となりし。

 貴下に向て其処より立去れと云いし日本人の容貌は如何なりしや。

 身長低め、秋色に適当なる色合の背広洋服を着用し居たり。

 其日本人は貴下と英語にて応対せしや。

 其人は英語を知らざるを以て自分に何か言いかけしも、自分は之を解する能わず。已むを得ず韓語にて話しかけしも、彼又此を解せざりし所、■其傍らに居合せたる日本人に対し英語を知や否を問いしに、之を解すると答えし故、通弁を頼みしに、彼人の言に自分に向て王宮を立去れと云うことなりし。

 又其話かけたる日本人の年頃は如何。

 能く分らざれども、二十七八より三十二三位かと思う。然れども、自分は日本人の年齢如何を知る能わざるなり。又通弁をなせし人は同人年少しく余計なるが如く、身長も高く、顔幅広かりし。

 通弁せし人は如何なる服色なりしや。

 能く覚えざれども、上衣、胴衣、袴とも各々異なるを着し居たりと思う。多分職人にはあらざるかと考えたり。

 貴下に話掛けし人及通弁人に髯はなかりしか。

 確と覚えず。

 貴下に話掛けし人は眼鏡をかけ居らざりしや。

 確と覚えざるも、多分掛け居らざりしと覚えたり。

 国王の居間の廊下を徘徊し居りし日本人の容貌は如何。

 最も大なる人にて灰色掛かりし水色の洋服にて上下胴とも一様のものなりし。

 其外に当時闕内に居りし日本人中にて容貌を能く覚え居る者はなきや。

 能く覚えたる者なし。尤も、其中には朝鮮政府の顧問官らしき人もありたるやと思え共、確と覚えず。

 当時闕内に於て朝鮮人の屍躰を見ざりしや。

 自分の立ち居りし前を二名の韓兵の死せるを見たり。其他三四名の負傷者ありたりと雖も、如何せしやを知らず。

 夫等の人は誰の為めに殺され又は負傷せしものなるや。

 韓兵同士打をなせしにより死者及び負傷者ありたるなり。

 如何にして同士打をなせしことを知れりや。

 最初諸門を守り居たる兵丁が、自分の立ち居る処をに集り来り、同時に国王の御側にありし兵丁も亦来りし故、自分は此等の兵に命令して填弾せしめしに、其中一兵丁誤て一発発砲せし者ありしと覚えしが、其時他の兵丁等は右の誤発を以て、相図の砲と誤想し、同時に発砲して逃散りたりしが、其時銃傷せしものと認む。故に同士打ちと云うなり。

 其同士打をなせし兵丁は、何如に集合し居りしものなりや。

 乾清宮の西側の壁外に於てありし。

 其兵丁屍躰は何如に残り居りしや。

 一は乾清宮の西南門外凡そ十五英尺の所に於て、又一は■■■■■く隔て■蓮池の間辺なりし。

 其時負傷せし者の中、乾清宮内に逃げ入りし者なきや。

 自分は之を見ざりしも、後にて宮内に入り見しに、西南門内に血痕あるを見たり。因て負傷者が、暫時其処に避け居りたるものならんと思う。

 其外屍躰を見ざりしや。

 一も之を見ず。

 其事変の朝、日本人と共に朝鮮人も乾清宮中に入り来らざりしや。

 日本人と共には来らざりしが、最初日本人が蓮池の東側より来りし間もなく、朝鮮人の入来るを見たり。

 其数は幾何なりしや。

 三四十人斗ありし。

 其朝鮮兵は乾清宮内へ入らざりしや。

 乾清宮に至り日本兵の守門兵と交代して門を守りたり。大■事変の起りしより二時間も立たざる間に、日本兵に代りて朝鮮兵が諸門の守衛に当りたり。

 其朝鮮兵は乾清宮内に毫も入らざりしや。

 守門せし兵の外は■同宮内に入りたるものと思う。

 乾清宮内に於て小銃の音を聞かざりしや。

 自分は乾清宮外に於て聞きしが、宮内にて二発の銃声の発せしを聞けり。其場所は国王の居間なりしか、王妃の居間なりしかは知らざれども、多分王妃の居間辺と思う。

 其二発の銃声は朝鮮兵の守門せし前なりしや、又は後なりしか。

 朝鮮兵の門を守りし前にして、自分の傍にありし韓兵が同士打をなせし直ぐ其後にして、其時は外方より誰か入来りしことを誰も気付かざるときなりし。

 其砲声は小銃なりしや、又は短銃なりしや

 ■能く覚えず、或は短銃なりしかの如く覚ゆ。

右証人の供述を筆記し之を読聞かせたるに、相違の廉無之旨申立つるに由り、本官と共に記名せしむ。
明治廿八年十二月十六日午后五時二十五分 朝鮮国京城安洞米人ウィリアム・マックイー・ダイ 私宅に於て
     一等領事 内田定槌
     領事官書記生 新荘順貞
     W.makey.Dye(William McEntyre Dye)
此調書は領事官外に於て作りたるものなれば、館印を捺すことを得ず。
 宣誓書写は省略

 なお上記「証人ゼネラルダイ訊問調書 12月16日」に先立ち、内田領事は以下のような同人からの聞取り要領を著している。法的形式としては不完全なものであることから、上記訊問調書を作成したと思われるが、参考までに添付する。

ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第1回 11月20日

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4」p91、()は筆者)

  明治廿八年十一月廿日、王宮内に於て米国人「ゼネラル・ダイ」より聞取の要領
「ゼネラル・ダイ」曰く。去る十月八日の事変に関して数多の浮言流説あれども、余は唯当時親しく目撃したることのみを話すべし。
 扨十月三四日以来、当地に於て何となく穏やかならざる模様ありたるにつき、何か事変の起るならんと予想し居りしが、同月七日午後三時半頃、王城の東壁外に添うて数十名の訓練兵等来往するを見たり。尤も其時渠等は武器を携えざりし。然るに翌八日午前三時半頃に至り、王城の東北門外に数多の韓兵群集せるを聞き、余は直ちに出て門外を伺うに、果して其言の如く数員分韓兵群集せるを見たる此時、彼等は皆武器を携え居れり。余は直ちに歩を転じ、西北門に至り其外を覗う。此処にも亦数十名の日本兵各武器を携え群集するを認めたり。余は馳せて司令部に至り、韓兵将校と計り、東北門外に集り居る韓兵等を解散せしめしとしたれども、今側には一名の士官だに居らざりし。余は夫より直ちに諸門を閉鎖せり。即ち門毎に二名乃至三名宛の番兵を付し、尚其外に毎門武監[国王陛下に近侍する護衛人なり]一二名先ず配置し、門外の動静を伺わしめたりしが、数多の兵士等城壁を越えて侵入せりと呼ぶ者あるや否や、諸の守兵は悉く守りを捨てゝ何こへか逃げ去れり。而して侍衛隊の士官中には弼成門より乾清宮へ逃げ込みたる向も少なからざりし。又之と同時に司令部より許多の衣類を弼成門内に持込みたる者あるを認めしが、彼等は乾清宮内に於て皆な其属服を脱し平服に始めたり。

 予(あらかじめ)、余は「サバチン」氏と共に弼成門前数歩の処に佇立し、閣監庁と乾清宮との間に於ける空地に於て侍衛隊の兵卒及武官等を集め、此を一列に整えしが、其時彼等は皆其携えたる銃に弾丸を込め居りたり。而るに右兵卒の内、誤って引金を放ち一発を放ちたる者あるや否や、他の兵卒は皆之を合図と思い、俄かに其銃を乱発し、隊位を乱し非常に狼狽して諸方へ逃散せり。
 余と「サバチン」氏の立ち居る処に弾丸の通過ぐる場処に当りしも、幸に何等の負傷なかりしが、同処に集り居りたる兵卒の内、二名は弾丸に中り即死し、其■尚お負傷して逃げ去りたる者数名ありたりと見え、其近辺には幾々に流血の血の痕を認めたり。

 「サバチン」氏は兵士等と共に、弼成門より一時乾清宮内に逃げ込みたり。而れども、自分は尚お同処に止り警戒せしが、凡そ五六分間も経たりと思う頃、一名の日本士官、十五六名の日本兵を率い乾清宮前に於ける蓮池の西岸に出現し、弼成門を占領し、乾清宮に入り、内数名、該門を守れり。而して其後間もなく一群の日本兵は兵服を着せざる数多の日本人と共に、麟遊門内に出現せしが、此等の人々は、皆正門より乾清宮に入り、内数名の兵卒は正門を守れり。
 尚お其後凡そ十五分乃至二十分を経たりと覚しき頃、大院君轎に乗じ、健善門より入来り、弼成門より乾清宮に進入せられたり。

 三浦公使は何時何れの処より入来りたるや審かならざれども、大院君入来後、暫時にして余が乾清宮内に入りたるときは、已に三浦公使の参内し居らるるを見たり。
 其後、間もなく米国公使館書記官「アレン」氏及露公使「ウエーバー」氏等参内せるを見たり。
 余が弼成門外に侘立せる間に、或る壱名の日本人[武器を携えざりし者]は、余に向かて話し掛けたるも、余は其語を解せざりし。併し其手様により余に同処を立去るべしと告げたるものと解せられたりしも、余は之を肯せざりしなり。其後他の一人の日本人[丈高き方にて洋服を着し強壮らしき者]にして稍々英語を解する者、前記の日本人と共に余を乾清宮内の一室に伴い行きたりしが、斯くて英語を解する日本人は今一人の日本人の通弁をなし、余に告たるに、余は速かに城外に立去るべしとのことなりしも、余は国王陛下の命によりて此処に在り。王命あるにあらざれば去る能わずと答え、之を拒絶せり。

 三浦公使王宮に入りたる後、間もなく乾清宮の諸門を守りたる日本兵を去り、韓兵を以て之を代えたり。同公使王宮を退出する時には、尚お二名の日本人を同宮正門の東側に於ける一室内に残し、又数十名の日本兵を麟遊門外の杉林中に残し置き、不慮に備えたり。
 「サバチン」氏は一旦乾清宮内に入りたる後、或る日本人に向て、自分は王城外に退出したき旨を告げたりしが、同氏は門より宮外に出づることを得、数名の日本兵之を護衛し光化門外に送り出したりと云う。

ちょっと経緯の組み立てが前後して分かりにくい文章。続いて、第2回。

ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第2回 11月22日

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4」p94、()は筆者)

  同月(11月)二十二日、再び王宮内に於て同人より聞取要領
 初め日本兵十五六名、蓮池の西岸に出現せし時刻は確かに覚えざれども、五時前後ならんか。而して其何れの門より入来りるやは判然せず。余が麟遊門内に於て一群の兵卒及壮士体の者を受見(見受)けたるは其後僅かに二三分間の如く覚ゆ。併し何れの門より入来せしやは余の知る処にあらざるも、多分麟遊門ならん。

 或欧字新聞は日本人が王宮内に於て宮女を殺害する有様をば彼事変のとき王宮に居合せたる或る西洋人が目撃したる由、記載せる趣なれども、余は之を目撃せず。当時王宮内に居合せたる西洋人は余、「サバチン」氏耳(のみ)なれば、若し西洋人中果して之を見たるものありとせば、「サバチン」氏なるべし。同氏は余と共に始め弼成門前に在りしも、韓兵等の発砲せし際、乾清宮内に逃げ込み、暫時の間、該宮内に止り居りし趣なれば、或は之を目撃せしならんか。去れども、余は其後一度も同氏へ面会せざる故、果して其然るや否を知らず。

 余は二名の韓兵、弼成門外に殪れ居るを見たる外、乾清宮内に於ても亦何処に於ても韓人の屍体を見たることなし。又、右韓兵の屍体は何時何人が如何に処分せしやも知らず。王妃陛下及宮内大臣等遭難の件に付ては固より種々の風説を聞き込み居るも、余は之を信用せず。余は自ら目撃せしことにあらざる以上は之を知らずと云う外なし。尤も、十月八日午前七時頃、筵包を載せたる荷車を日本兵が其前後を守り光化門前より西大門の方へ向け挽き行き居るを、或は外国人は認めたる趣なるが、右は多分韓人の屍躰にてあらざりしかと云う者あり。去れども是れ固より信用すべきにあらず。

ダイ本人の署名もないことから調書とは言いがたく、まあそれで要領と。

 

訓練隊起閙、安軍務大臣報告

(「明治28年10月起 明治29年1月結了 朝鮮内乱事件 秘 陸軍省 本文(3)」p5)

   訓練隊起閙、安軍務大臣報告
 乙未八月十八日[日暦十月六日]午后八時、保護巡検田大奎来り告て曰く。今一二訓練隊の兵丁犁峴より来り黄土峴に抵り、警務庁を毀破すと。

 聞て甚だ驚駭し、一方には書を連隊長洪啓薫に送り、速に厳飭禁断せしめ、一方には書を入直の郎官に送り、其詳細を厳査せしめ、其二処の回報を待つ。

 時将に夜半に至らんとす。宮内府別撫安光禄出で来りて敕教を伝う。曰く。
 訓練隊の兵丁、巡検と相鬩ぎ、警務庁を毀たんと欲して数百の兵卒短刀を携え長棒を持し、現に警務庁前に在り。其闘閧の声、大内に聞え、中宮陛下因て警冲症を成(す)。軍務大臣即ち出でて、兵丁の騒動を禁ずべし。尚且つ鎮安せずんば、日本後備隊に赴き、日本士官をして之に暁諭するを乞え、と。

 即ち為に門を出で直に光化門外に抵り、詳に其動静を探る。
 月明に夜闌に四方静寂たるのみ。乃ち巡検を警務庁に派し之を探る。該庁諸警官云う。
 先刻、訓練隊兵丁百有余名、来りて警務庁前に集り、本庁を打破せんと欲すと聞く。諸警官巡検と一斉に会集商議して曰く。我等儼然此に在れば、彼兵丁必ずや突入、先ず庁舎を破り、次に我等を殺さん。如かず門を開いて出て彼と相戦い、一に勝負を決せんには、と。
 数百巡検皆曰く。諾と。門を開き即ち出て、剣を抜て追遂す。百余の兵丁東を望んで遁去し、互に相伝語して云う。銃を担うて来り。一に勝負を決せんと。巡検皈り報ず。

 予、直に前壮衛営日本後備隊に赴き、石森大尉に面し、前事を陳述し且つ曰く。足下既に其兵丁を教う。若し足下にして一往暁諭せば、兵丁以て安堵すべしと。
 大尉曰く。事の顛末既に是の如し。且宮内府敕教なりと云う。僕豈に一往を惜まん。然れども吾一人の言を以て暁諭安接の難きに似たりと。

 予、曰く。足下若し一往すれば以て安接せんと。

 大尉直に訓練隊に向う。予、即ち軍部に帰り、坐して大尉の皈来を竢つ。

 約一時間、大尉軍部に帰り来り、予に謂て曰く。訓練隊に至り、其動静を見るに、門鎖、燈滅、挙て皆穏眠、平常に異ならず。大隊長を起し之を問えば、曰く。今夕兵丁一個門を出づるなし。何ぞ起閙の端あらんや云々。詳に其動静を察するに、果して異議なし。故に即ち帰り来るを為すのみと。
 予も亦た訝惑に勝えず。乃ち警務庁に往き、諸警官を招集し、石森大尉の伝うる所を伝う。諸警官相顧み、其事由を弁明する能わず。予、警官に謂て曰く。今夕、兵丁の起閙、何の拠る所ある乎。警官曰く。別に明白の証拠なし。唯詰問する所ありと云うのみ。予、曰く。其詰問するところの端、昭詳記録、明早軍部に持ち来れと。乃ち家に帰る。

 十九日[七日]午前二時、宮内府より召命あり。即ち為めに内に詣り、中宮陛下に謁す。下教に曰く。
 俄に夜、兵丁と巡検との起閙、果て是れ意外の事変なり。目前、兵丁と巡検と端なく起閙。巡検一名を殺害し、各処交番所を打破す。兵丁の所為、誠に驕妄を極む。此の如き兵丁と隊官とは尋常に之を処す可からず。大隊長以下中隊長幾人、即ち免黜し、二訓練隊兵丁、持する所の鑓釼銃弾は、即ち速に奪回し、兵丁は姑く解散を為せ、との教あり。且つ曰く。汝直に日館に往き、公使と相議して後、即ち速に之を行う可きなり云々。

 予、乃ち退き来り、家に帰る。時に午前四時なり。

 九時、日館に赴き、一々去夜の事実に陳言す。
 日使曰く。先きに已に此事知悉す。是れ特に闘争を名とし、解隊の陰謀を遂ればなり。現に今、杉村と言此に及ぶ。果して然り。君の口舌を以て宮中の秘謀を漏洩せり。兵丁の散と不散と惟だ貴政府の処分と貴大臣の措処のみ。義として強ち其間に言うを得ず。只愍む、一国の君主として如是卑劣の所置を以て自ら臣下を相敵視せしむ。且つ此兵は日本士官が精励して訓練せし精鋭の士にして、巡検も亦た日本の誘導によりて教練せし者たり。之を是れ顧みず、今互に相敵視せしむ。此の如くんば、従来日本が貴国に対して尽せし厚誼は、空しく水泡に帰し去らん。されば貴国と日本との交誼は、今や当に破れんのみ。

 予、惨然として軍部に帰り、警官二人を招致し、兵丁、昨霄(宵)起閙の実証、即ち速に記録して以て来れ。今日、軍部軍法局理事二員、日本補佐官一員を派送し、厳に其事実を査せしむ。警官応諾して帰る。時、午后五時、尚回報なし。

 六時、警官、一冊子を持して来る。予、即ち考閲するに、章句模糊。以て訂拠し難し。予、警官に言て曰く。此文句以て証拠の端と云うべきか。警官曰く。此文句を以て果して準拠し難きか。予曰く。以て準信し難し。何を以て厳査すと謂わんや。又た拠る可きの端あらば更に持来を為せ。

 同日午後十一時に至り、宮内府侍衛隊聯隊長玄興澤より書あり。云う、訓練隊の軍器既に奪回せしや、速に回答せよと。予、則ち答書を送り、明日将に其首犯者を厳査し、罰を施さん。而して軍器は未だ姑く奪回せず、と。
 玄興澤又た書あり。直に奪回を行うの意、敕教ありと。予、又々明日之を行うを以て答え、遂に困眠を為す。既にして門外喧嘩の声あり。即ち起て之を視るに、訓練隊長洪啓薫来り言うて曰く。今、聯隊副官報告書内、一二訓練隊大隊長、兵丁を率い、各銃弾を持し、今来り光化門外に到ると云う。
 予、驚悚に勝えず。洪啓薫に向い、君、先ず即ち光化門外に往け。我も亦装束して速に追往せん、と。洪君諾して去る。
 五分時限を過ぎず、一訓練隊、一小隊兵丁を率い旋帰し、高声に言うて曰く。一小隊兵丁、建門外に在り。領卒して即ち来る、と。
 予、洪君と同じく隊卒を率い、即ち光化門外、東辺石欄干より数十歩の地に抵れば、即ち光化の東北門を始て開け、一轎子、先ず門に入り、後ち訓練兵丁欄入す。故に予、聯隊長洪君と高声に曰く。兵丁勿入ヽヽヽヽヽ隊卒兵丁、一斉高声す。大臣と聯隊長と此に在り。兵丁勿入ヽヽヽヽヽと。
 言未だ畢らざるに、西辺より砲声起り、飛丸来る。一隊後に在り。兵丁は尽く遁去を為す。洪啓薫丸に中り、地に仆る。光化門外の兵丁尽く門内に向うて入る。予、軍部に向うて去るのみ。

 

 

十月八日事変の犯罪人処分の件

(「韓国王妃殺害一件 第二巻 分割2 B08090168800」p1、()は筆者)

   十月八日事変の犯罪人処分の件
 十月八日事変の犯罪人李周會外二名の者、一昨廿八日高等裁判所に於て謀反罪を以て論ぜられ死刑の宣告を受けたる趣は、不取敢電報を以て機密申の報に及置候処、将又此に詳細申候。
抑々、犯人李周會の捕えられたるは、去月廿六日、即趙軍部、権警務の免官せられたる当夜にして先是当国政府は各国使臣攻撃の衝に当り政府自ら為すべき其当然の処置を為さゞる[事変の善後策]以上は、到底困難を取除く事能わずとの議論一決し、趙権二氏の免官の事に継き、犯罪人処分の事も亦た着手せらる其中、犯罪の最も著しきものは、李周會、、柳赫魯、鄭蘭教、禹範善、李斗璜の輩にして、此五名に対する逮捕の厳命は即、夜に発せられたり。而して禹範善、李斗璜の二人は事変の当夜、訓練隊長として兵を率いて王宮に入りたるもの。李周會、柳赫魯、鄭蘭教の三人は、壮士を指揮して孔徳里なる大院君の別荘に赴き、大院君を奉じて王宮に入り、凶暴の所為に及びたるものにして、而かも此三人は、国王に咫尺し各々姓名を奏上したる事有之趣にて、特に著しく国王の御記憶に存し居るを以て凶行犯罪者として指目せらるヽものに有之候。然るに以上五人の内、李周會は才(裁)判の結果、死刑に処せられたるも、他は皆遁亡して踪跡を失し、今尚お就縛の運に至り不申候。犯罪者の一人なる元訓練小隊長尹錫禹なる者は、王妃の死体を焼棄する現場に臨みたるのみならず、後亦之を他所に移し隠蔽せんと企てたるものに有之。又、下手者と認められたる朴銑は散髪して洋服を着け、予て日本人に雇われたる事ありとかにて、少しく日本語を解する者の由に有之候処、事変の当夜、軍隊に随い孔徳里に至り、大院君を奉じて参内するに当りては、日本壮士中に混入し、王妃の寝房を侵し遂に殺害を加えたりとの事、右の事実は如何して露顕に及びたるかと云うに、朴銑なる者、事変後王宮を出て、或知人に向て、王妃の下手者なりとて密に手柄話を為したる事あり。是れ其端緒と為り終に拘引せられ、審理の結果此回の死刑を宣告せらるゝに至れりとの事と及伝聞候。
 此段別紙宣告証文相添及申報候。敬具。
  明治廿八年十二月三十日
        在京城
       弁理公使小村寿太郎
 外務大臣臨時代理
  文部大臣侯爵西園寺公望殿
(以下略)

 

菊池謙譲の事変記述

(「菊池謙譲著『朝鮮王国』民友社 明治29年10月26日発行」p511〜より抜粋)

岡本柳之助は仁川より急帰して、龍山に有志の来会を待ちつゝあり。有志一行の会するもの五六、或七八、或十、或は、麻浦の丘徑より、或は社南の江路をたどり、或は萬里倉より来り已にして六十余を数う。会合の場は漢江の浜に在り。月色娑婆として照らし、漢江の蒼波、社南平郊淡霧に低迷たり。江上の舟客、蓬窓の下に在りて、太鼓を叩き漁歌を悲吟するあり、村老窃歩して来り、此の意味ある会合を窺うものあり、雁声江畔の平沙に落ち、柳影蒼茫々として人影を掩う。
階上には有志黙坐して密議するあり、階下には腕を撫し、短褐剣を帯び、酒を傾け、肉を割き眼光炯々、意気大に昂る六十余の壮漢、沈黙なれども、激昂の気殺伐たり、微笑して大息するものあり、横臥して明日の事を談ずるものあり、江畔の石垣に倚りて沈思するものあり、机上に横坐するものあり、大月を仰いで霜満軍営を吟詠するものあり、柳樹の下にビールを傾くるものあり。
暫らくにして伝令は移りぬ。勃然として起ち、丘陵をたどり、孔徳里に至りて大院君の邸下に謁せんとす。
(中略)
五六の行客あり。粛歩して前進し来る。前者之を誰何すれば、今しも孔徳里より来れるもの。大院君已に公等の芳志を待つこと久し。僕等をして迎えしめたるなり、と。共に拉して孔徳里に向う。
(中略)
暫らくして、躍りて行進すれば一邸屋あり。松丘東北に流れ杉樹西南に環立す。邸内闃として人声なし。大月西に斜にして、草上の露、征衣を洗う。
衆を分ちて邸の周囲に在らしむ。是れ邸裏十余の巡検ありて守衛せるを以て、其動静を待たしめたるなり。
黙然として門に立つあり、睨視して巡行するあり。声なきも声あるが如く形勢動くも動かざるが如く、若し詩趣あるものをしてあらしめば、虫声の聞るぞ憐なれ。
外門を守る十余の巡検は抗せずして沈黙を守りしを以て、異事なくして諸有志始めて邸内に入り、徒洗して邸上に至る。大院君欣然として迎え、家僕皆出で来る。
岡本柳之助等有志者の聊か邸下の志に添ゆるところありて来れるを告ぐ。大院君曰く、多謝多謝。而して悠然。大変革の迫れるを知らざるものゝ如し。
坐談百湧、滑稽出没、傍には檄を草し、立談、坐談、大笑、私語、乱雑の間に規律あり、百事自ら整う。
八日午前一時を過ぐ。人あり。大院君に薦む。門を出づる期至る。御用意如何。大院君、笑て小童をして冠を取らしめ、衣服を被さしむ。小童誤りて反対に被せんとす。大院君曰く。亦た天下の変を知るか。已に衣冠を用意し了るや、大院君、俄かに曰く。明日の事、陛下に参内して家国の大事を奏す、此の如き常衣を以て宮中に見ゆべけんやと。然れども礼服悉雲峴宮にあり。宮は孔徳里を距ること二里。今や如何ともなすべからす。暫らくして大院君曰く。宮中の礼は吾能く其の罪を謝せんのみ。而して吾寿ありて屡国変に遭う。明日の事覚悟なかるべからず。大笑して便通せり。某等来りて時已に二時を過ぐ。邸下急くに非ざれば千載の気を失わん、と。
是に於て日韓の有志、轎を擁して門を出づ。偶、愛孫李呵O出で来り、祖公をして独り行かしむ可らずと。大院君、満面を迸らして訓諭して曰く。汝暫ら止りて大勢を待て。あゝ老雄尚お愛孫を思うなり。

大院君の轎、孔徳里の門を出づ。有志数十名之に従う。孔徳里の柳楊交垂るの処に至り、岡本柳之助、衆を集め大院君に代りて曰く。邸下諸君の志を多謝す。然れども今日の事只だ護衛に在り。宮中に於て、暴挙する勿れと。衆喝采して朝鮮万歳と呼ぶ。麻浦街路より城外の一邑峴に至りて止りて訓練隊の来るを待つ。
(中略)
待つこと一時余にして一騎あり。疾駆して来り報じて曰く。訓練隊、道を誤って別路に出づ。邸下急走して西大門に来れと。大院君頗る憂色あり。

疾駆して西大門に至れば、白衣の隊一列、銃剣を立て整然として待つは訓練隊なり。大院君の至るを見て、兵士皆な礼す。日本兵士も亦誤りて別路に出で未だ来らず。時に天已に明けんとす。諸面の督促矢の如し。西門の市場に来れる市民は事の意外にして、兵気の尋常ならざるを見て大に訝るものあり。已に城門に提出したる国太公入城の文を読んで変事起らんとすと俄かに家に走りて狼狽するあり。大院君切りに時機の失するなきゃを問う。暫らくにして履響轟々迫りて西門に来る四百の日本兵士、一号令の下に整列す。

訓練隊の一部先ず進み、日本兵士亦た動き、大院君の駕亦た行き、有志者之に従い、訓練大隊、日本兵士大隊尾従し、総隊駆け足となり、西門より光化門に至る廿町の間、洪浪の捲き寄せたるが如くに疾駆し去る。

光化門に至りて天已に明け、異変あるを見て市民等沓至して見る。大院君の轎已に光化門を過ぎ去り、後隊未だ入ざるに、内部衙門と城塁の小路より、軍務大臣安駉壽、訓練隊連隊長洪啓薫、手兵四十余を率いて来りて横撃し、洪啓薫、疾走して大呼して曰く、「汝等入る勿れ」と。訓練隊驚散せんとして漸くに集りて城に入る。此の紛擾の間、洪啓薫亦た殺さる。
已に光化門を経過せる一部の兵と有志者とは、勤政殿、康寧殿を過ぐ一守兵の備番するものなし。大院君は暫らく勤政殿に在りて国王の允許を待つ。此の時、砲声光化門外に響き、又た東北に砲声聞ゆ。初め兵士の一部が泰光殿を経て、乾清宮に赴くの間に於て、セネラルダイは、守兵六十余名を指揮して我を砲声したるを以て、訓練隊と日本兵とは共力之に応じ、端なく一場の戦闘を開く。此の日固より、我に戦うの初志に非ざるも、彼已に守るの気なく、ダイ等二三の洋人等は倉皇色を失して逃げ去り、守兵服変じて悉く散逸す。
進んで雍和門より入る。殿宇多く破頽し、雑草萋々として生す。廷臣等宮中の観を脩めざること幾月、池畔に一兵卒の倒れたるあり、銃を枕にして死す。乾清宮の内已に静まり、五六の宮女は変を避けて別宮に環坐し、深く幽愁を帯びて在り。鬢髪乱れ、白粉落剥し、顔色憔悴たり。長夜の宴より起きて夢尚お覚めざるが如し。
国王陛下は泰然床上に龍在せしが、今朝来の事変を聞かせられて心を安らめ、王世子傍らに在りて喁然たり。半島の風雲を一起一伏幾多びか掌中に上らし、幾度びか悲劇を負い玉える閔妃殿下は何くに逃亡せられしか知らず。多年黙泣して恨を思う韓国の有志者は、宮より宮に捜索せしとぞ。後人曰く。此の朝、王妃殿下は床上より起きて変を聞き、蒼皇驚愕、出づるところを知らざりしが、憐むべきかな、紛擾の波渦中に投入せられ干戈の下に倒れ、血痕殿床に迸散し、一朝の間に王樹花落ち、北岳の松濤は或は悲しむが如く、或は喜ぶが如くに吹嘯せしとぞ。

 事変に参加した当時国民新聞の派遣員であった菊池謙譲による、事変後およそ1年の記述である。王宮に入ってからの描写はぼかしてあって、そこでの様子は曖昧であるが、孔徳里の大院君邸に結集する人々や大院君の様子がリアルである。また朝鮮訓練隊はもとより日本守備隊の係わりもくっきり。
 なお、「機密第三六号」によれば、大院君邸には塀を乗り越えて入り、その後警備の巡検らを脅して一室に閉じ込め、その朝鮮服を奪って同行巡査に着せた、とある。
 杉村濬書記官の計画に於ける、訓練隊と朝鮮壮士を主体としたいという意向はどれだけ守られたのだろうか。朝鮮人を直接描写しているところは、すなわち大院君邸出発の「是に於て日韓の有志、轎を擁して門を出づ」と、途中の「疾駆して西大門に至れば、白衣の隊一列、銃剣を立て整然として待つは訓練隊なり」、また、王宮に於ける「多年黙泣して恨を思う韓国の有志者は、宮より宮に捜索せしとぞ」である。
 しかし「衆喝采して朝鮮万歳と呼ぶ」とあるように、彼等にとっては「日韓の有志」による協同行動であった、ということなのであろう。
 なお、王妃殺害のことを、批判的にも否定的にも考えていないことが窺える文章でもある。

 

楠瀬中佐と大院君入闕始末

(「明治28年10月起 明治29年1月結了 朝鮮内乱事件 秘 陸軍省 本文(3)」p17)

   第六回報告

一 楠瀬、再三の訊問に対し供陳する処、唯当初差出したる手続書の主旨を詳細敦演するに過ぎず。其王宮内に於ける殺害の如きは、飽迄関知せざるものゝ如く、之に反問するの資料なきに苦む。馬屋原少佐以下の取調に着手せば、彼是供述の上に就て反問追訊の材料を多少得る処あらん歟と思料す。

一 今日迄取調の成行を約言すれば、楠瀬を初め三浦岡本抔の申立は左の如し。

一 韓国近時の形勢早晩一大事変の免るべからざるは予知しありと。
二 事変は何れより発するか測るべからざるも、事既に切迫せり。故に大院君の蹶起するは日本帝国の為め、彼れ被告等の窃に期待したるものとす。
三 大院君密勅を奉じ入闕するに決するや、日本人の事変当時王宮に入りたるは、即此護衛の付託を受け随従したるもののみなり。
四 守備隊は鎮撫の為めに出たるものにて、公使の命に依るものゝ如し。
五 守備隊は王宮に在る当時散乱せざる模様なりし故に、寝殿内等に闖入したるものは軍人にはなかるべしと。
六 守備隊は公使退宮の際、最早鎮定したるを以て引揚ぐべしとの命に依り引揚げたりと。
七 公使は此事変あるを知り、又日本人より大院君の依頼に応じ、護衛として付随するを察するも、之を制止せざるのみならず、寧ろ大院君の入闕を壮とし、窃に遂行せしめんことを欲したるものゝ如し。

右者各個随意陳述の要点にして、未だ反証を検挙し追訊するに至らず。其殺害事件の如きは毫も端緒を得ず。

一 別紙一括の書類は、楠瀬携帯の荷物中にありしを押収したるものなり。此書類に依之を見れば、今回の事変の顛末は此主意を以て終局せんとするの意図たる知るべし。

右報告候也
 明治廿八年十月廿九日午後二時
     於 広島
      憲兵司令官春田景義

児玉陸軍次官殿


(別紙)
  大院君入闕始末
 近日、宮中の事、謂うに忍びざるものあり。王后閔氏、親党を援引し、聡明を壅蔽し、弊竇百出、李氏五百年の宗社幾んど一朝にして廃頽せんとす。大君主陛下、国政の日に非なるを憂い、民心の日に乖くを慨き、茲に我十月七日午前八時、密旨を大院君に伝えて曰く。

 近日群小彙進、権を弄し、旨を矯め、将に国兵を解散し、重臣を殺害し、国家擾乱せんとす。此時に当り、我国太公に非ざれば、以て波瀾を挽回する能わず。其れ宜しく速を趁い入闕し、君側を掃除し、革新の鴻図を成就せよ、と。

 大院君たるもの、身、宗親の家に在り。焉んぞ得て眼前危機を座視するに忍びん。情既に此の如く、而して勢既に彼の如し。大院君、是に於てや起つ。嚮きに大院君の孔徳里に幽居するや、閔氏は尚其の冥々の勢力を畏れ、総巡々検をして之を厳監せしめ、一出一入亦た意の如き能わず。然れども、今や王命煥如として下れり。踟躊事を誤まるを容さず。乃ち使を馳せて家従に通し、更に平生知遇する所の日本人数十名に告ぐ。

 翌八日午前二時半、急を聞て来り会す。是に於て家人をして日人の服装を着けしめ、倶に参内の随伴を命ず。蓋し日人に擬するに非ざれば、兵士の軽侮抵抗するを以てなり。一面には此の如くにして行途を警戒し、而して一面には榜文を頒布し、遍く入闕の意を知悉せしむ。曰く。

 近日群小、壅塞聡明、斥賢、用奸、維新之大業、将中道、而廃、五百年之宗社、一旦而危、余生于宗親之家、情不忍座視、故今欲趨闕補翼大君主、遂斥群邪、成就維新之大業、扶持五百年之宗社、以安爾等百姓、爾等百姓、若兵弁有沮我行者、則必有大罪矣、爾等悔無及
 開国五百四年八月二十日[我十月八日]

 三時半、孔徳里を発し、四時半西大門外に抵る。途に一隊の将卒に逢う。蓋し訓練隊第二大隊の積憤を大院君に訴えんとするなり。
 大院君乃ち士官を召し、令して曰く、

 予、今王命を以て入闕す。若し沮挌するものあらば撃退して通過せよ、と。

 五時三十分、光化門に達す。隊兵門の右側に在り。大院君の轎輿に発砲す。大院君顧ずして進み、先ず外殿に入れり。而して従う所の将卒、之と応闘し、須臾にして隊兵は悉く逃竄せり。此騒擾の際、宮内大臣李耕植及び訓練隊長洪啓薫、命を砲煙中に殞すと云。

 時に六時十分、大君主陛下は内殿に在らせらる。大院君乃ち趨て謁見せられ、王命によりて参内す。這般の事如が処理せんかを奉問す。陛下曰く、
 請う、其れ宜に従い措画せよ、と。
 尋で勅あり。曰く、訓練隊を以て王城を守備せよ。曰く、趙義淵を以て警務使に任ぜよ。曰く、武芸別監は仮置せよ。曰く、速に内閣大臣を召せよ、と。
 既にして陛下は御座を隣殿に遷され、三浦公使を召すべきの命あり。

 七時、公使は参内し、大君主陛下及び世子宮殿下に謁見せらる。

 八時、内閣大臣金弘集、金允植、中枢院議長鄭範朝、参内。

 十時、勅あり。李載冕を宮内大臣に、金宗漢を同協弁に任ぜらる。
 而して軍部大臣安駉壽、学部大臣李完用、農商工部大臣李範晋、警務使李允用、各々本官を免ぜらる。
 時に各国公使の参内あり。陛下は大院君と席を同うし、謁見を允さる。

 露公使ウェバー氏曰く。
 是れ何等の変ぞや。此変あるを予知せば何が故に通牒なきや。通牒にしてあらば直に我兵を馳せて之を救わん。寧ろ等閑なる勿らんか。

 陛下、徐に曰く。騒擾に際し、三浦公使の参内を乞う。兵士亦た警備し来る。而して騒擾は既に鎮定せり。復た卿を煩すを要せずと。

 露公使更に大院君に詰る。

 大院君曰く。予は山荘に幽居し、此変あるを予知せず。昨王命によりて参内し、而して騒擾に際す。予乃ち之を鎮定せり。予や既に茲にあり。請う、配慮する勿れ。

 露公使曰く。危急相救うは隣邦の誼なり。故に我兵を入城せしめ、以て護衛せん。

 大院君曰く。若し個一時の小変、奚ぞ深く意となすに足らんや。且つ弊那微なりと雖ども、自家の乱、自家の力を以て鎮定するに足る。況んや妄りに他国の兵を入城せしめば、人心洶々却て騒擾を増すのみ。請う、断然謝絶せんと。

 露公使曰く。然らば則ち何が故に独り三浦公使に乞いしや。

 曰く。日本は最初より我国を保祐せられし関係あり。故に又た三浦公使を煩せしのみ。

 曰く。日本壮士の入り来りしは如何。

 曰く。是れ素より予が知己の輩。予の入闕に由り護衛の為めに随伴せしのみ。

 露公使、此に至り黙して言なし。


 十日、王嬪の罪を挙げ、廃して庶人と為し、賜うの詔勅ありたり。

   詔  勅
 朕、臨御以来、茲に三十二、治化普洽する能わず。就中、王后閔氏は其親党を援引して、朕の左右に布ゥし、朕の聡明を壅蔽して人民を剥割し、朕の政令を濁乱して官爵を鬻売し、貪虐、地方に及ぶ。以て盗賊四起し、宗社は岌々として危殆に瀕するに至す。朕、其極悪を知り、而して是を罰し得ざるは、朕の不明によると雖ども、亦其党与を顧忌するの故を以てなり。朕の之を圧抑せんが為め、昨年十二月、宗廟に誓告して曰く、后嬪宗戚は国政に干渉するを許さずと。以て閔氏の改悟を冀いしも、閔氏は旧悪を悛めず。其党与及群小輩を潜に相引進して、朕の動静を察し、国務大臣の引接を防遏し、又た朕の旨を矯め、朕の国兵を解散するとなして乱を激起せしむ。而して事変の出ずるや、朕を離れ、其身を避けて壬午の往事を踏襲し、訪求すれども出現せず。是れ王后の爵徳と称す可らざるのみならず、罪悪貫盁して先王の宗廟を承く可らず。故に朕は已むを得ず、朕が家の故事を謹倣し、王后閔氏を廃して庶人となす。

  開国五百四年八月廿二日奉
 敕
           宮内府大臣  李載冕
          内閣総理大臣  金宏集
            外部大臣  金允植
            内部大臣  朴定陽
            度支大臣  沈相薫
            軍部大臣  趙義淵
            法部大臣  徐光範
        学部大臣臨時署理  徐光範
        農商工部大臣署理  鄭秉夏


   詔  敕
 朕、王太子の孝誠と情理とを顧念し、特に嬪号を廃し庶人閔氏に賜う。

  開国五百四年八月二十三日奉
 敕
           宮内府大臣  李載冕


昨日処分の事由、当に
太廟
太社
閟宮に告由するの節、即ち挙行を為すべし。

  開国五百四年八月二十二日奉
 勅
           宮内府大臣  李載冕

 

国王、世子、王妃の処遇について

(明29年10月2日発行 民友社 今世人物評伝叢書 第1編 「山縣有朋」の「岡本柳之助」の項より)

百四十

 朝鮮の政界は常に一轍出で、党同伐異是れ事とし、私朋互に排擠するを以て能事とす。而して其原動力は常に王妃[閔党]と大院君[李党]となり、一朝朴泳孝等を黜け、李呵O等を処罰し[幾ばくもなく特赦せられたれども]、閔泳駿等を召喚したるより、閔党大に勢力を増し、大小の政治皆な宮中に出で、茲に王妃の権、益々盛なり。夫れ物極れば変ず。大院君たるもの=殊に其愛孫の事に関して怨骨髄に徹せる=豈に報復の事なくして止むべけんや。
 果して変は俄然として起れり。明治廿八年十月八日暁、大院君、訓練隊を率いて宮中に突入し、直に国王に謁し、改革の令を下す。此時侍衛隊、防戦して死せし者数名。隊将一人之に死す。
 初め大院君の事を挙ぐるや、首謀の者に向い、国王及び世子の身上は十分に保護あるべし。但し王后に対しては宜く臨機の処分あるべし、と告げたり。

「初め大院君の事を挙ぐるや、首謀の者に向い、国王及び世子の身上は十分に保護あるべし。但し王后に対しては宜く臨機の処分あるべし、と告げたり」の部分は「機密第三六号」の該当部分「予て大院君より国王及世子丈けは必ず助命し呉るべしとの依頼ありたるとかにて」とほぼ整合性がとれていると言えるだろう。

 

大院君の謝礼金

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割3」p13 )

      十一月十一日午前九時五十分発電
今回の事変に付、被告人等は大院君より合計壱万九千円を受取り、其内三千円は事変後間もなく同君より岡本に渡し、其後更に三千円宛を岡本と鈴木順見に渡し、尚壱万円を三浦に渡したるやに聞及べり。
                        内田領事
 草野検事正

 なおこれらの金は壮士に分配されるということで、その話を聞いた者が配当にあずかろうとして、事変に参加していないにもかかわらず名乗り出たために、退韓処分を受けて拘留され、あげくに予審裁判被告の1人に名を連ねている。さてそれは誰でしょう(笑)

 

サバチンの証言

1895年11月12日の朝鮮法廷に提出されたロシア人「サバチン Seredin-Sabatin」の手記である。事変当時、王宮内に居た西洋人は米国人のゼネラル・ダイと彼だけであった。

>From the archives of the Foreign Ministry, Russian Federation,
<fond> Yaponskiy stol, <opis> 487, <delo> 6, <list> 73-75.
Translation from the Russian by Alexandre Mansourov, Center
for Korean Research.

Imperial Russian Legation, Seoul 1895, Telegram 211, Appendix
VI:

Testimony of the Russian citizen Seredin-Sabatin,
in the service of the Korean court,
who was on duty the night of September 26

During the night of September 24-25, 1895, at about midnight when I was accompanying the patrol around the inner palace buildings, I heard an unusual noise in back of me, near the southern gate, and noticed a large mob of newly recruited Korean soldiers that had gathered in front of the gate, with a detachment of Japanese soldiers some distance behind them. The Korean soldiers kept shouting and making noises in front of the gate until 2:00 a.m., and then gradually dispersed. The captain of the Palace Guard on duty, Chin, explained to me that the Korean soldiers, who had provoked a brawl with local police a few days before, were alarmed by the rumor that both of their regiments would be disbanded, and had gathered in front of the palace in order to seek pardon and to petition for some of their claims. Chin said that the demonstration had ended in nothing, thanks to the presence of the Japanese, who allegedly had persuaded the Korean soldiers to disperse.

After returning home, I learned that one of my Chinese acquaintances had come by to warn me about some trouble that was to take place in the palace the next night. But I paid no special attention to this warning, and left for the palace at 7:00 the next evening. Again I ran into the above-mentioned Chinese, who tried persistently to dissuade me from proceeding to the palace, and in particular advised me not to stay there overnight. However, the Chinese could not provide me any concrete explanation for his warning. All I could get from his rather incoherent and broken talk was that some kind of plot was being prepared, that this plot was to be implemented this very night, and that the Korean soldiers were the main culprits.

In the palace, there was not the slightest sign of trouble, or of any preparations for such. As night fell, only the guards remained to stand by the wall and on the paths. The only Europeans who stayed overnight in the palace were General Dye and myself. At four o'clock in the morning, the Colonel of the Palace Guard, Yi Hagyun, burst into our office and declared that the whole palace was surrounded by rebelling soldiers. I had been sleeping with most of my clothes on, so I quickly collected myself and went outside to see what was happening. However, I heard no noise anywhere, and everything appeared calm. But a little later, General Dye came out and asked me to accompany him to the nearest gates. We set out on the path along the wall to the northwestern gate. In the bright moonlight, we could clearly see through the wide cracks in the wall that there was a detachment of Japanese soldiers deployed several steps back on the other side of the wall; they were standing almost motionless, chatting among themselves in very low voices. But upon hearing our steps and voices and noticing us watching them, they split up and reformed on either side of the gate so that we could hardly see any of them. Realizing that we could not learn anything more here, we rushed to the opposite northeastern gate, where we saw gathered in front of the gate a mob of approximately three hundred Korean soldiers from among the troops being newly trained by the Japanese. Judging by their numbers, they must have constituted the major striking force of the Korean soldiers surrounding the palace. Having now confirmed that this was a matter of serious concern, we hurried back to the inner palace, where the alarm had already been sounded. General Dye immediately began to develop measures for the defense of the palace, but unfortunately none of them could be carried out. There was no one in the guard room, Captain Chin was absent, the rest of the officers and some of the guards had also gone off somewhere, and the guards that remained were uncooperative. It was a madhouse: no one paid the slightest attention to the orders of their superior.

Suddenly, at five o'clock in the morning, we heard gunshots in the western palace grounds. Several Korean soldiers had placed logs and ladders against the palace wall, climbed over it, then penetrated the inner palace wall. At the very first shots, the guard patrols all fled, and most of the other palace guards followed suit. As the soldiers crawled over the wall and unlocked the gates for their co-conspirators, General Dye, having assembled a few guards who had remained, managed with great difficulty to deploy them in defense of the palace. However, when the coup plotters who had broken in through the southern and northeastern gates fired repeated gunshots (they were aiming their guns into the air, evidently not wanting to kill but only to scare away), these palace guards scattered in all directions, drawing along everyone who happened to be in their way. Some ran to the gate where General Dye was standing, while another group rushed through the gate where I was standing, pushing me along with them in through the wall of the royal compound, and had almost turned the corner of the king's European-style house when they were met with gunfire. The whole crowd of them then rushed back and turned to the door connecting the king's and queen's private chambers, where I noticed at once several Japanese in peculiar gowns who were running back and forth as if they were looking for someone. In the middle of the inner courtyard, there was a detachment of 40 Korean soldiers headed by a Japanese officer. In addition, each of the two doors, one leading to the park and the other to the inner part of the palace, was guarded by two Japanese soldiers. Just at that moment, I was squeezed against a small wooden extension of the building, and I grabbed instinctively for boards to keep my balance. The mob then ran past me and disappeared into the park. I remained, the only outside witness of the drama which was taking place in the queen's chambers.

The courtyard where the queen's wing was located was filled with Japanese, perhaps as many as 20 or 25 men. They were dressed in peculiar gowns and were armed with sabres, some of which were openly visible. In command was some kind of Japanese with a long sword, apparently their chief. While some Japanese were rummaging around in every corner of the palace and in the various annexes, others burst into the queen's wing and threw themselves upon the women they found there. They pulled them out from inside their windows by the hair and dragged them across the mud, questioning them about something.

Fearful of a feint by the Japanese against myself as an eyewitness to their outrages, I went up to the Japanese officer standing nearby and asked, in English, for his protection. When the Japanese officer did not understand me or pretended not to understand me, I tried to explain myself in my broken Japanese. He turned away at once and left, seemingly letting me know that I would be there on my own. My attempt to address the Japanese guards also bore no fruit; they simply pretended not to notice or hear me. Then I resolved to address the Japanese chief. I explained to him the precariousness of my situation and asked him to provide someone who could help me get out of the palace. After hearing me out, the Japanese asked me, "What is your name?" I gave him my name. "What is your profession?" --"Architect." --"All right, we will not touch you." He called over two Korean soldiers, who were apparently also under his command, and ordered them to guard me. "Stand still on this spot and do not move," he added to me, and then left to give further orders to his men.

I stayed where I was, and continued to observe the Japanese turning things inside out in the queen's wing. Two Japanese grabbed one of the court ladies, pulled her out of the house, and ran down the stairs dragging her along behind them. They were running fast, and then took a few extra steps and came to a stop right in front of where I was standing, just thirty feet from the house. Only at that moment did they notice my presence, and immediately addressed a question to me. I responded that I could not understand Japanese and pointed to the two soldiers guarding me. After talking to them, the Japanese went away, leaving me unharmed. Just then a Korean acquaintance of mine, who served in the palace as a scribe or secretary, came into the courtyard. Seeing me in such unusual circumstances and at the very center of the trouble, he was positively overcome with shock and surprise. But he quickly composed himself and ran off to catch up with the two Japanese who had just left. He must have told them that, far from being an architect, I was employed at the palace, and therefore might well know its interiors and inhabitants. Both of the Japanese, and a new one who had just joined them, ran up to me again, grabbed me by my gown, and dragged me off to the queen's chambers, demanding that I show them where she was hiding. Moreover one of the Japanese repeatedly asked me in English, "Where is the queen? Point the queen out to us!" I tried to convince them to leave me alone because I did not know and could not know where the queen was. But they did not listen to me, and just kept repeating, "Where is the queen? Point the queen out to us!"

To my great luck, the Japanese chief showed up again close by. He noticed what was happening to me and at once approached us. The Japanese and the Korean who had dragged me in there began to tell him something in Japanese. He then turned to me and said harshly, "We cannot find the queen. You know where she is! Point out to us where she is hiding!" I asked him to hear me out, and explained that not only did I not know where the queen was, but because of the secluded life of Korean women of the upper classes, I had never actually seen her, and that this was the first time in my life that I had ever found myself in the queen's wing. The chief seemed to accept my arguments. I asked him to let me go. He agreed, and gave me two soldiers, who, in order to avoid new encounters with the Japanese soldiers deployed along the central path, got me out of the palace by secondary paths. While passing by the main Throne Hall, I noticed that it was surrounded shoulder to shoulder by a wall of Japanese soldiers and officers, and Korean mandarins, but what was happening there was unknown to me.

 数年前、このロシア人証言が公開されるや、ずいぶんとセンセーショナルに取り上げられた記憶がある。しかしその後、火が消えたように話題にならなくなった。
 今回、全文を読んでその理由を理解した。サバチンは、この事変が朝鮮訓練隊によるクーデターであると(つまりは事実の一面を)証言しているのである。王妃を探す日本人のことはまるでつけたしのようですらある。しかも彼もその殺害を目撃していないのである。日本人が誰か一人でも殺害するところですら。
 日本人に全ての罪をなすりつけたい人々にとっては、これはずいぶんと都合の悪い証言ではないか(笑)
 ただ、ゼネラル・ダイが証言した、侍衛隊が同士打ちをしたなどという恥ずかしい事実には彼は気付いていないようである。もっとも、王宮を守る兵士が命令を守らずにすぐさま逃げ散る様子を述べ、まったくてんやわんやの大混乱であった(madhouse 気狂いの住みかの意とも)などと嘆いてはいるが。それと彼には侍衛隊と訓練隊の区別がついてなかったかもしれない(笑)

 

加害と被害など

 そのことに関する各資料から抜粋。、

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割5 B08090169800」p3)
写 諸第六七号
当国人、李周會、柳赫魯、鄭蘭教、及訓練隊長李斗璜、禹範善等は、本年十月八日、大院君を擁し岡本柳之助等と共に王城へ闖入せし重なる関係者と認められ候処、当国政府は之に対し如何なる処分を為したるやに付取調方、本月十三日電報を以て御嘱託の趣了承致候。付ては本官より当国政府の其筋へ問合候処、柳赫魯、鄭蘭教、及訓練隊長李斗璜、禹範善の四名は目下逃亡中にて、未だ之に対し何等の処分を行わず、李周會に対しては目下当国法部に於て取調中にて、未だ宣告を行わざる旨回答有之候。依って右往復書簡相添此段申進候。敬具。
  明治二十八年十二月二十四日
         在京城一等領事内田定槌
 広島地方裁判所
  予審判事吉岡美秀殿

 

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割5 B08090169800」p12、()は筆者)
   訳文
第十六号
   照覆
第八三号、貴照会を接准し貴暦本年十月八日事変の時、我国人の被害者氏名住所職業年齢を別紙に開録し、茲に仰佈候に付、御査照相成度候。
 開国五百四年十月二十七日(日本歴12月13日)
   漢城府観察使金経夏
大日本領事内田定槌閣下
[別紙]
李耕植
 住所漢城北部鎮長坊三清洞契
 官職宮内府大臣
 年四十五
洪啓薫
 住所漢城北部嘉会坊斎洞契
 官職軍部副領 連隊長
 年五十三

 

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割5 B08090169800」p13、()は筆者)
   訳文
第十八号
   照覆
第八五号、貴照会を接准候処、貴暦本年十月八日、王宮にて遭害せし宮女兵丁等の数を取調べ申進候様、御申越に付、詳細探問候処、宮女及兵丁の被害者、初より無之趣に付、茲に仰佈候間、御査照相成度候。
 開国五百四年十月二十八日(日本歴12月14日)
   漢城府観察使金経夏
大日本領事内田定槌閣下

 

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割5 B08090169800」p14、()は筆者)
   訳文
第二十六号
   照覆
第九五号、貴照会を接准し了承致候。貴暦本年十月八日事変は、事倉猝に出で何人の所為なるや探問の路無之、事実曖昧に有之。又、王后陛下の姓は閔氏にて聖寿四十五歳に有之。其外御回答申すべき辞無之候に付、左様御了承相成度候。
 開国五百四年十一月六日(日本歴12月21日)
   漢城府観察使金経夏
大日本領事内田定槌閣下

 

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割5 B08090169800」p15)
諸第六十九号
岡本柳之助外四十七名に対する謀殺及兇徒聚衆被告事件に付、本月二日、電報を以て証人取調方御嘱托相成候に付ては、当国農工商部協弁鄭秉夏、元侍衛隊副領玄興澤、及当国政府雇米国人「ウイリヤム・マックイー・ダイ」を証人として訊問の上、其調書は本月十八日付、諸第六三号を以て及送付置候処、尚当国宮内府吏員、宮女、並びに李家人中、十月八日王宮事変に関する事実を知る者あらば、之を取調ぶる為め其呼出方を当国政府の其筋へ照会致候。然るに何分倉皇の際なりし故、宮内府吏員及宮女と雖も明かに其事実を知り居る者無之、又た李の家人中にも彼の事変に関する事実を熟知せる者無之のみならず、事変後、皆遠隔せる郷里に向って立去り、目下在京中の者一名も無之、従って当館へ出頭すべき様取計兼候旨、回答有之候。其他露国人「サバチン」なる者は彼の事変の際、王宮内に居合せ、当時事実を知り居候哉に聞及候え共、同人も亦目下当地に在留せず。其行先不分明にて、取調べの途無之候。付ては本月二日の御嘱托に対しては、本官に於ては最早出来得べき丈の取調は先ず結了したるものと御承知相成度、此段申進候。敬具。
  明治二十八年十二月二十四日
          在京城一等領事内田定槌
  広島地方裁判所
   予審判事吉岡美秀殿

 

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割3 B08090169600」p9)
      十一月六日午前十一時四十五分発電
被告人中村楯雄、小田俊光は、王城事変の時、或婦人を捉え居りしに、他の日本人が刀を以て之を殺害するに当り、右の手に負傷せりとのことなり。
                 内田領事
広島地方裁判所
 草野検事正

      十一月六日午後二時着電
佐々の刀は城内より他者の刀剱と共に何人か送り出し、警察署か新聞社にあるならんと云う。此度の事件に就き証拠となるものあらば、何人の宅にても捜索し総を差押ありたし。
            広島吉岡予審判事
 内田領事

      十一月七日午前十一時二十分発電
本日、貴官宛て被告人三浦堀口荻原高橋及其他に関する犯罪証拠書類三通り送る。此書類により、高橋は王宮にて或る婦人を殺害したるものと認めらる。
                 内田領事
広島地方裁判所
 草野検事正

 

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割3 B08090169600」p11)
      十一月七日午後六時四十分発電
本日、漢城新報社を捜索して刀剱五本を押収し、尚佐々の薬店に於て刀剱三本を押収せり。
                 内田領事
 吉岡予審判事

      十一月八日午後八時発電
答 小田巡査が事変の当日、右手に負傷し居りたることは、小官自ら之を目撃せり。中村が負傷せしことは、之を治療せる当地の医師本邦人近藤賢吉なる者、之を承知せり。横尾が或婦人を殺害したることは、彼自ら其事実を小官に打明けたり。境が或朝鮮男子を殺害したることは小官の伝聞に過ぎざれども、尚取調上、追て御通報致すべし。荻原が王妃の死骸を焼きたることは、小官自ら之を当人より聞取りたり。田中が王妃を殺したりとは全く風説に過ぎず。高橋が或婦人を殺したることは確かなる証拠あり。既に郵便を以て之を送付せり。佐々が王妃の香袋を取り去りたることも伝聞につき、尚取調の上通報致すべし。其他委細の事情は書面を以て御通報致す筈なり。
                 内田領事
 草野検事正

 

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割3 B08090169600」p12)
      十一月九日午後六時十分発電
王妃は始め我陸軍士官の為めに斬られ、次に中村も手を下したりしが、其時中村は誤て該士官の刀の切先を触れ右手に負傷し、其れより凡そ一時間を経て佐々が王妃の腹帯及び香袋の中より何か取り去り居りしことは、成相巡査之を目撃せりとのことなり。小早川、中村、佐々の三名が、当地より退去の途中、五柳洞と称する処にて他人より托されたる数多の書類を焼き棄てたる事実は、同人等を護送せし西村巡査之を目撃せり。其他証拠品は退韓者当地出発前大概焼棄たりとのことなり。隈部は大崎と同一の事情により実際今回の事件には関係なきが如し。
                 内田領事
 草野検事正

 

 

宮女殺害の事実なし

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4 B08090169700」p56)
(証人鄭秉夏訊問調書より抜粋)

 宮女中、二三名殺害せられしと云うが如何。
 之れなし。後にて宮女の数を調べしに、一も不足なかりしと云。


(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4 B08090169700」p67)
(証人玄興澤訊問調書より抜粋)

 宮女中死者なかりしや。
 宮女の死せし者を認めず。又死せしことを聞かず。


(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割5 B08090169800」p12、()は筆者)
   訳文
第十六号
   照覆
第八三号、貴照会を接准し貴暦本年十月八日事変の時、我国人の被害者氏名住所職業年齢を別紙に開録し、茲に仰佈候に付、御査照相成度候。
 開国五百四年十月二十七日(日本歴12月13日)
   漢城府観察使金経夏
大日本領事内田定槌閣下
[別紙]
李耕植
 住所漢城北部鎮長坊三清洞契
 官職宮内府大臣
 年四十五
洪啓薫
 住所漢城北部嘉会坊斎洞契
 官職軍部副領 連隊長
 年五十三


(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割5 B08090169800」p13、()は筆者)
   訳文
第十八号
   照覆
第八五号、貴照会を接准候処、貴暦本年十月八日、王宮にて遭害せし宮女兵丁等の数を取調べ申進候様、御申越に付、詳細探問候処、宮女及兵丁の被害者、初より無之趣に付、茲に仰佈候間、御査照相成度候。
 開国五百四年十月二十八日(日本歴12月14日)
   漢城府観察使金経夏
大日本領事内田定槌閣下

 

「社説 王妃の死に関する再調査(「韓国王妃殺害一件 第二巻 分割3 B08090168900」p63〜)
 明治29年2月11日に国王が露国公使館に逃げ込み、かつての王妃派・露米派が政権を掌握した、いわゆる露館播遷の後に公報と称して出版された「社説 王妃の死に関する再調査」と称する長文である。ここでも宮女を引きずりまわしたなどの記述はあっても、宮女が殺害されたとは書かれていない。

 

公訴の困難さ、証人や証拠の不足


(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4 B08090169700」p2)
  写
岡本柳之助等謀殺及兇徒聚衆被告事件の予審追々進行し、既に殺害者の誰たることは稍明瞭致候に付、此上は本件被害者の人員及其住所氏名年齢等取調を必要とするの順序と相成候。就ては該事項に付、必ず予審判事より貴官へ取調方嘱託致候事に可相成と思料致候。然る処、該事項の取調は、被告人以外の人にして殺害の現場を目撃したる者、若しくは被害者の親族等の証言を要することなれば、其取調方甚だ困難なるべしと察せられ候。然るに該事項にして明白ならざるに於ては、犯罪の構成上、主要の条件を欠き、従て公訴の目的を貫徹する能わざるに立至るも難計、心配の至りに有之候条、其取調の方法順序等に関し、貴官の御見込予め致承知度、何分の御開示を煩度候。敬具。
 明治廿八年十一月二十日
  広島地方裁判所検事正 草野宜隆

 在朝鮮国京城日本領事館
  一等領事内田定槌殿

 

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4 B08090169700」p9)
写 機密裁第二号
岡本柳之助等謀殺及兇徒聚衆被告事件の予審追々進行し、已に殺害下手者の誰たることは、稍明瞭致候に付、此上被害者の人員及其住所氏名年齢等取調方に関し、本官の見込、予じめ御承知相成度旨、客月二十日付貴柬を以て御問合の趣、委細了承致候。過般、王城事変の際、被告人以外の者にして宮闕内に居合せたる者は、米国人「ゼネラルダイ」、露国人「サバチン」なる者にして、其他は皆当国人にて御座候処、「サバチン」は已に当地を立去り其所在判然せず。「ダイ」は今尚王宮内に宿直致居候得共、同人の言は、以て充分被告人等の犯罪を証明するに足らず[其詳細は追って通報致すべし]、の候に付、被害者の員数氏名等は当国人に就き取調ぶるより外に其途無之候。然るに当国政府に於ては、今回の事変を以て犯罪と見做さず。王后陛下遭難の事実は固く秘して之を発せず。人民も亦此事変に関し、其実況を口外するを忌むの有様なりしが故に、其取調方、頗る困難に御座候処、客月廿六日に至り、当国政府は弥々今回の事変に関する犯罪人を取調ぶべき旨を宣言し、尚昨一日に至り、王后陛下の喪を発表致候次第に付、今後は当国人よりも続々取調の材料を得ずるべき見込に御座候。而して其取調の方法は、本官より公文を以て当国政府の其筋に向い、被害者の員数氏名住所年齢等を問合せ、尚相当の手続により、被害者が本邦人に殺害されたる事実を知り居る当国人の証人として当館に呼出し、之を訊問致候わば、法律上有効なる証拠を挙げ得らるべき義と存候。
右、回答申進候。敬具。
  追て已に取調済と相成りたる被害者の氏名等は過日■報を以て及御通知置候得共、尚為念茲に之を記載すれば左の如し。

  朝鮮国王后陛下。姓は閔[名は無し]年四十五歳
  同 宮内大臣李耕植 京城安洞居住 年四十五歳
  同 訓練隊連隊長副領 洪啓薫 京城斎洞居住 年五十四歳

 明治二十八年十二月二日
    在京城一等領事 内田定槌
広島地方裁判所
検事正草野宜隆殿

 

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割4 B08090169700」p6)
   在京城内田領事へ電信嘱託案
岡本柳之助其外四拾七名謀殺兇徒聚衆事件に付、十月八日、本邦人多数兇器を携え、朝鮮国王城に闖入し、王妃閔氏、宮内大臣李耕植等を殺害したる事実あらば、其暴行の始末、被害の模様即ち殺されたる者の氏名・年齢・殺害の場所、創傷のヶ所、死体の取片付抔、同国宮内府吏員、宮女并李の家人、其他何人にても当時の事実を知る可しと思料せらるゝものを証人とし、詳細取調べありたし。且つ元農商工部協弁鄭秉夏は、当時宸殿に参候し居り、又元侍衛隊士官玄興澤は其日本邦人の為め捕えられたることある由なれば、其騒擾暴行の始末を知る者と認めらるゝに付、御取調べありたし。嘱託す。

 明治廿八年十二月二日
                 吉岡予審判事

 

(「韓国王妃殺害一件 第三巻 分割5 B08090169800」p15)
諸第六十九号
岡本柳之助外四十七名に対する謀殺及兇徒聚衆被告事件に付、本月二日、電報を以て証人取調方御嘱托相成候に付ては、当国農工商部協弁鄭秉夏、元侍衛隊副領玄興澤、及当国政府雇米国人「ウイリヤム・マックイー・ダイ」を証人として訊問の上、其調書は本月十八日付、諸第六三号を以て及送付置候処、尚当国宮内府吏員、宮女、並びに李家人中、十月八日王宮事変に関する事実を知る者あらば、之を取調ぶる為め其呼出方を当国政府の其筋へ照会致候。然るに何分倉皇の際なりし故、宮内府吏員及宮女と雖も明かに其事実を知り居る者無之、又た李の家人中にも彼の事変に関する事実を熟知せる者無之のみならず、事変後、皆遠隔せる郷里に向って立去り、目下在京中の者一名も無之、従って当館へ出頭すべき様取計兼候旨、回答有之候。其他露国人「サバチン」なる者は彼の事変の際、王宮内に居合せ、当時事実を知り居候哉に聞及候え共、同人も亦目下当地に在留せず。其行先不分明にて、取調べの途無之候。付ては本月二日の御嘱托に対しては、本官に於ては最早出来得べき丈の取調は先ず結了したるものと御承知相成度、此段申進候。敬具。
  明治二十八年十二月二十四日
          在京城一等領事内田定槌
  広島地方裁判所
   予審判事吉岡美秀殿

 

 

朝鮮政府による処理

(「韓国王妃殺害一件 第二巻 分割2 B08090168800」p1)

   十月八日事変の犯罪人処分の件
 十月八日事変の犯罪人李周會外二名の者、一昨廿八日高等裁判所に於て謀反罪を以て論ぜられ死刑の宣告を受けたる趣は、不取敢電報を以て機密申の報に及置候処、将又此に詳細申候。
抑々、犯人李周會の捕えられたるは、去月廿六日、即趙軍部、権警務の免官せられたる当夜にして先是当国政府は各国使臣攻撃の衝に当り政府自ら為すべき其当然の処置を為さゞる[事変の善後策]以上は、到底困難を取除く事能わずとの議論一決し、趙権二氏の免官の事に継き、犯罪人処分の事も亦た着手せらる其中、犯罪の最も著しきものは、李周會、、柳赫魯、鄭蘭教、禹範善、李斗璜の輩にして、此五名に対する逮捕の厳命は即、夜に発せられたり。而して禹範善、李斗璜の二人は事変の当夜、訓練隊長として兵を率いて王宮に入りたるもの。李周會、柳赫魯、鄭蘭教の三人は、壮士を指揮して孔徳里なる大院君の別荘に赴き、大院君を奉じて王宮に入り、凶暴の所為に及びたるものにして、而かも此三人は、国王に咫尺し各々姓名を奏上したる事有之趣にて、特に著しく国王の御記憶に存じ居るを以て凶行犯罪者として指目せらるヽものに有之候。然るに以上五人の内、李周會は裁判の結果、死刑に処せられたるも、他は皆遁亡して踪跡を失し、今尚お就縛の運に至り不申候。犯罪者の一人なる元訓練小隊長尹錫禹なる者は、王妃の死体を焼棄する現場に臨みたるのみならず、後亦之を他所に移し隠蔽せんと企てたるものに有之。又、下手者と認められたる朴銑は散髪して洋服を着け、予て日本人に雇われたる事ありとかにて、少しく日本語を解する者の由に有之候処、事変の当夜、軍隊に随い孔徳里に至り、大院君を奉じて参内するに当りては、日本壮士中に混入し、王妃の寝房を侵し遂に殺害を加えたりとの事、右の事実は如何して露顕に及びたるかと云うに、朴銑なる者、事変後王宮を出て、或知人に向て、王妃の下手者なりとて密に手柄話を為したる事あり。是れ其端緒と為り終に拘引せられ、審理の結果此回の死刑を宣告せらるゝに至れりとの事と及伝聞候。
 此段別紙宣告証文相添及申報候。敬具。
  明治廿八年十二月三十日
        在京城
       弁理公使小村寿太郎
 外務大臣臨時代理
  文部大臣侯爵西園寺公望殿

 追て本文三人の犯罪者に関する口供等は其筋に謄写方依頼致置候間回付次第追て差出すべく候段申添候也。

 

(「韓国王妃殺害一件 第二巻 分割2 B08090168800」p3、()は筆者)

      裁判宣告書(訳文)
       公州府永同郡 日本人雇
        被告  朴 銑
           二十六年(歳)
       漢城府北部壮洞 前軍部協弁
        被告  李周會
           五十三歳
       漢城府北部弼雲台 親衛隊副尉
        被告  尹錫禹
           四十歳

右被告なる朴銑、李周會、尹錫禹等に対する謀反事件検事の公訴に由り、審理する処、被告朴銑は本来雉(薙)髪して洋服を着け、日本人なり仮称し、行状怪しむべきものありしに、開国五百四年八月二十日暁頭事変の際、被告は日本人と共に乱徒中に混同し光化門に突入せし時、洪啓薫、入を拒み、逆賊なりと称したる故、剱を以て其臂を撃ち、殿閣房屋に直進し、坤殿の御所に突入し、手を以て髻を捽り、軒端に曳出し、剱を胸部に加えたる後、黒■(褖)衣に巻き、石油を灌ぎて焼火に至らしめたるものなり。其弑逆、当時の有様は手を以て形容するを見るに歴々たりと金召史の告発に由り、被告を拿訊せしに、被告は一向実を以て供せざるも[事を左右に寄せ、実を以て答えず]、数多の耳目を掩うに由なく、証拠人より確実の申告あり。

被告李周會は本年八月二十日暁頭の変に、迎秋門より入り直に長安堂に抵り、王太子王太子妃を保護して退出したりと云い、其第一次審問に於ける口供内、砲声闕内に起るを聞き、平服にて光化門に向いたるに、門は堅く閉ざる。転じて迎秋門に入るに、守門兵卒寂として声なし。許多の闔門も同様、是亦攔阻するも全くなかりしと云えり。然るに当時変乱の模様を探究するに、作閙輩[乱党]の事を行い謀を設く。豈此疎略なるべんけんや。供する所、稍理に近ならず。第二次審問に於ける口供に云う。闕内に闖入する際、辰居門に至りたるに、適々武監拾余名の乱兵等の逼逐する所と為り、発砲中に濱死せんとするを見たれば、高聲手を揮うるに、即ち彼輩は武監を釈して他処に散走せしめたりと云と雖ども、彼輩[乱徒を指す]猖獗を為す当時、被告が何等の術ありとするも、一揮手一号令の能く凶徒を禁遏せしむる事、如此容易ならんや。其原因を苟究すれば、凶徒と締結したる情跡を掩い難し。其第三次審問口供に、凶徒が被告の号令を甘受し解散したるは、事の偶然に出でたる出来事なるも、同謀者の形跡は難免とある以上は、此れ乃被告命数の卒わる秋なり、と自白せり。

被告尹錫禹は本年八月二十日上午四時に大隊長李斗璜并に中隊長李範来、南萬里、より夜演習の命令を承け、部下を率いて東別営を出て往て太和宮を守り、春生門を入り、康寧殿庭に到りて兵丁を各処に派送する際、光化門、建春門に行き、鹿山に至りたるに、一屍躰を焼くを見受け、下士卒李萬成に詳聞するに、内人[宮女]の屍体を焼火するものなりと云えり。其翌二十一日に宮中に説を伝うるものあり。当夜事変に坤聖陛下播遷の暇なく、又宮女中受害者無之との事を聞けり。去れば鹿山烟起るの処、竟に一疑問となれり。故に当夜大隊長禹範善并李斗璜に請い、焼余遺体の下半身を掇取し、五雲閣両峰下に潜埋せりと云う。被告は当夜兵を率いて闕に入りたるは将令を承くるに由ると雖ども、情形多く可疑ものあるのみならず、鹿山下の屍躰を被告に於て既に十分黙会し、至重尊厳の地を憚からず猥りに手を下し、擅に移動したるは大不敬の科を自ら犯したるものなり。

以上被告等所犯の事実は被告地震の陳述并に金召史の告発に於ける対質問口供と李甲淳、金明済、李敏宏の供辞を証し、的確無疑を以て此を謀反条に照し、被告朴銑、李周會、尹錫禹を並絞に処す。

開国五百四年十一月十三日(日本歴12月28日)高等裁判所法廷に於て高等裁判所検事臨時代理法部検事呉容黙立会宣告す。
         高等裁判所裁判長 張 博
         予備判事     鄭寅興
         判事       洪鍾檍
         書記       李徽善

 

以下dreamtale氏資料より。

往電第18号
1907年(明治40年)8月24日『往電第18号』より。
発信者長谷川好道統監代理(京城)、受信者伊藤博文統監(東京)。

今回帰韓したる、趙羲淵等八名の亡命者特赦の件、李総理大臣に協議したるに、右は他の亡命者と異なり、王妃事件に関係せる者にて、臣子の分として之を特赦の奏請を為すを憚かるのみならず、之が為、皇帝と内閣との間に疎隔を生ずるの虞あるに付、寧ロ日本側より直接陛下へ申入れられたき旨、懇望せり。
本官に於ても、事情尤なることと思慮し、更に内大臣を招きて、今日は既に、他の亡命者も悉く特赦の恩命を蒙りたること故、此の際、同人等も同様の殊恩に浴せしめられ度旨、懇々奏上せしめたるに、陛下は、李斗璜、李範来の両人を除き、他の六名は十分の証拠も無きこと故、本官の希望を容れ、内閣大臣に命じて、特赦の方法を講ぜしむべきも、前記両名は、現に証跡の顯然たるものあり。
断じて之を許容し難き旨、仰せられたる由なり。
就ては、右李斗李斗璜及李範来の両人は、此際再び日本に逃れしむるか、或は其筋へ自首して、相当の処分を受けしむるの外なかるべしと思考す。
右に関する御意見、至急御回示を請ふ。

 

来電第9号
1907年(明治40年)8月25日付『来電第9号』。
発信者伊藤博文統監(東京)、受信者長谷川好道統監代理(京城)。

貴電第18号に関し、李斗璜・李範来の両人は、王妃事件の際、軍部大臣の命に由り其の部下を率ひて宮中に入りしものにして、凶行下手者に非ず。
且つ、已に軍部大臣たりし趙羲淵にして特赦の典に浴するものなれば、彼等両人も亦、勿論特赦に与かるべきものと思考す。
乍去由来韓国の事、理窟計りにも参らず、若し事情の已を得ざるものありとせば、彼等両人を其の筋へ自白せしめて、罪を待たしめ、出来得べくんば近々即位式挙行の機会に、大赦の恩典に浴せしむるを良策と認む。

 

往電第31号(太字は筆者)
1907年(明治40年)8月31日『往電第31号』より。
発信者長谷川好道統監代理(京城)、受信者伊藤博文統監(東京)。

過日の御電訓に依り、李斗璜・李範來の特赦事件に関し、再応侍従院卿をして陛下に転奏せしめたるに、今夕同院卿旨を奉じ、来邸し、左の要求を為したり。

趙羲淵以下六名の特赦に関し、統監代理の懇切なる勧告に依り、特赦することに決定したるも、李斗璜・李範来をも特に其の罪を赦すに於ては、朕は国母の仇、何に依て報ずるを得ん。
乍去、統監代理に於て証拠を挙げ、無罪を主張するに拘はらず、疑問中の両人を強ひて罪に問ふは、公の許さざる所なれば、乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善一人に当時の罪を負はしむるときは、一切を解決するに至るべし。
然れども、禹範善既に高永根の為め殺害せられ、今更ら犯人を罪するを得ずと雖、朕に代り逆賊禹範善を殺し仇を報ひたる高永根は、朕が為めに忠臣なり。
此の忠臣、今日本に在り罪科服役中なりといえば、之に特赦を与へ其の罪を赦さるるに於ては賞罰明白となり、乙未事件の始末、茲に始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解し、益々厚誼親交の実を見るを得べし。
故に、特に高永根を許されなば、趙義淵等一切の形式上一応の審問を為し、必ず特赦すべしとの御沙汰なり。

陛下聖慮のある所、本官に於ては至極御尤の儀と思考す。
就ては、右に対する閣下の御高見、折返し御回示を請ふ。

 

来電第17号
1907年(明治40年)9月1日付『来電第17号』。
発信者伊藤博文統監(東京)、受信者長谷川好道統監代理(京城)。

貴電第31号に関し、本官が李斗璜・李範来を他の六名と共に特赦すべしと主張するは、彼等に命令を下したる時の軍部大臣、趙羲淵すら証拠不充分の廉を以て、特赦の恩典に浴するに拘はらず、彼等にして之に浴せざれば事理一貫せず、聖徳洽ねからざるを慮るに由る。
我が帝国の版図内に於て殺人罪を犯し、我が国法の下に処罰せられたる高永根を特赦するに至りては、必ず我が国法の定むる条件を具備せざるべからず。
決して茫漠たる復仇説・忠臣論を以て、交換的に特赦を為し得べきものにあらず。
何となれば、帝国官憲の高永根を処罰したるは、単に我が国法を犯したるに由るものにして、決して乙未事件を眼中に措きたるものに非ざればなり。
故に本官は、本件に関する陛下の御沙汰に、同意を表するを得ず。

 

往電第36号
1907年(明治40年)9月2日付『往電第36号』より。
発信者長谷川好道統監代理(京城)、受信者伊藤博文統監(東京)。

第17号に関する貴電の趣、委曲敬承。
然るに其の後、当時の事実を取調べたる処に依るに、李斗璜・李範来に命令を下したる時の軍部大臣は、安駉壽にして趙羲淵にあらず。
故に、趙羲淵の特赦を以て之に律すべからず。
併し高永根特赦に関する閣下の御意見は、内大臣を以て言上せしむべきも、若し尚ほ韓皇に於て同意せられざる場合には、李斗璜・李範来をして平理院に自首せしむるか、若くは閣下の御帰任を待ちて解決の事に致すべきか、重ねて御回示を請ふ。

 

往電第38号
1907年(明治40年)9月5日付『往電第38号』より。
発信者長谷川好道統監代理(京城)、受信者伊藤博文統監(東京)。

昨朝、内大臣を招き貴電第17号の旨を伝へ、此の上は直接陛下に言上する外無之に付き、明日を以て謁見を賜はる様、取計ひありたしと稍強硬に (現状維持に関係なし) 申入れたる処、本日午前兪吉濬以下8名は固より、其の当時の内閣員金宏集外数名も特赦の詔勅、内閣に下れり。

 

往電第48号
1907年(明治40年)9月6日付『往電第48号』より。
発信者長谷川好道統監代理(京城)、受信者伊藤博文統監(東京)。

本日左の詔勅案に対し、承認を与へたり。
詔に曰く、開国五百四年八月の事変は、朕に於て提言するに忍びざる所なり。
然れども実犯は曩に既に戮に就き、余外の諸人は実に犯す所無きを朕は確知せり。
而も尚暗昧の中に在り一、ニ勿問に任ずるに、趙羲淵、兪吉濬、張博、李斗璜、李範来、李軫鎬、趙羲聞、権東鎭等の罪名を、一体蕩滌せり。

 

 

 

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