日露戦争前夜の日本と朝鮮(1)」補足資料

明29.9刊 民友社 今世人物評伝叢書 第1編 「山縣有朋」の「岡本柳之助」の項より、太字は原文の傍点部分。()は筆者)
                 百四十八(頁)
・・・・朴(泳孝)、漸く王妃に疎外せられ、即ち七月上旬には終に不軌罪(陰図不軌の嫌疑)の名を蒙りて逃亡するに至れり。

 是より先、廿七年七月の事変已来、諸閔皆な屏息すと雖ども、閔氏に非ずして閔の臭味を帯ぶる李允用、安駉壽の徒、及び英語派の諸人、依然政府に在り。彼等は皆開化党を称すと雖も、中心、窃に両端を持し、後、遂に我を離れて露米に傾き[所謂貞洞党是なり]、陰に閔妃を戴きて政府を傾けんとせり。是に於て閔妃の羽翼亦漸く成りたれば、朴去るの後、先ず宮内府の官吏を更迭せしめ、即ち宮内大臣李載冕、同協弁金宗漢を罷めて、李耕植、李範晋を以て之に代え、又曩に支那より帰国したる閔商鎬[王妃の親族にして寵用せられたる人]をば朴在任中、既に外事課長と為し、宮中と各国との交際を掌らしめ、并に、英語の御前通弁に充て、露公使の親友米人リゼンドルを入れて、宮内の顧問と為し、其他更迭する所多し。是より宮内府は絶然たる閔党、即ち露米党を以て団結し、其勢力殆ど政府を圧したり。是れ廿八年七月已降の形勢なりき。

 又、外国の関係如何を探求すれば、露公使は常に懐柔主義を執り、努めて親交を宮中に結びたること十年一日の如し。唯時勢の未だ到らざると、釁隙の乗ず可きなきを以て、耐忍今日に至れるのみ。又、米公使は常に「朝鮮若し外国より侵略せらるゝ掛念あらば、之を保護する方針を執れ」との本国政府の訓令ありと称し、露公使と連絡して時々我が行為を妨げんとしたるも、其実米使の意は、朝鮮政府に雇わるゝ同国人並に其商人を保護するに過ぎずして、却て他の利用する所となりたるが如し。而して宮中の我に対するに、事善悪となく、陰に之を両公使に相談して其勧告助言を仰ぐが故に、両公使は隠然我が反対の地位に立つに至れり。加うるに、内政改革を勧促する我が忠告は却て朝鮮人の厭嫌する所となり、朝鮮人等は益々我を離れて露米公使に依るの有様となり、彼等をして漸く機会に投ずるの緒に就かしめ、廿八年四月、遼東還付の報、達するに及んで、露人の勢力益々朝鮮に加り、平生露国に反対の意見を懐く人と雖も、中心稍々之に傾き、然らざるも露に反対するの言を吐かざるに至れり。是れ露米公使の為には機会愈々熟せるものと謂うべかりしなり。

 之を内にしては宮中の団結既に成りて、城壁已に築かれたり。之を外にしては露米公使の応援あり。宮中派の眼中に日本なきと既に久し。然るに七月中旬、遽然公使井上再渡の報[而かも三千の大兵と共に再渡するとの報]に接したるより、宮中にては再び危懼の心を生じ、頓に運動を中止して、只管同公使の来着を待ちたりしに、同公使の来るや、兵卒を引率せざるのみか、全く前日と面目を異にし、敢て改革の進行を強促せず、専ら親和説を取りて啓誘を務めたりしが為め、宮中にては表面には調子を合せて我に傾向の姿を装いたるも、閔妃の慧悍なる、豈真に我を信ぜんや。彼は日本人の己れを喜ばざるを知れり。又、閔氏と日本とは到底両立し難きものと信ぜり。随て日本公使の方針を一変せしは、露国を憚りて一時に権宜に出でたるものなるを察したり。是に於て日本を制して自家の勢力を保つ唯一政策は、露と親交を固くするに在りと覚悟したるが如し。
 故に閔妃は表面には日本と親交を装いながら、陰に宮中の勢力を鞏固にして、之を政府に推及せんことを務め、我忠告に応ぜずして閣臣を黜陟し、僅に金宏集を有名無実の総理に復したるも、魚允中を斥けて沈相薫を挙げ、金嘉鎮を罷めて李範晋を以て之に代え、李允用の督務使を復し、安駉壽を軍部大臣に任じ、洪啓薫を訓練隊長に任じたる等は、財、兵、警の三実権を、宮中派の手に収めんとしたる計画にして、漸く宮中の勢力を政府に及ぼし、政府をして孤弱無援、頤使自在の境遇に陥らしめたるものと謂うべし。
 又、不時に大赦を行いて、閔泳駿已下諸閔并閔派数十人の罪を赦し、且つ泳駿の帰国を促したるが如きは、専恣驕横、眼中日本なきの挙動にして、当時国王陛下には窃に近臣に向て、再び閔氏跋扈の世に戻るか、といいて嘆息したりと聞きぬ。

 斯くて公使井上は、九月十七日を以て帰朝の途に上り、同二十一日、仁川を出帆したり。同公使が仁川を発したる後、宮中と我が公使館の交際は次第に冷却し、一時屡々出入したる宮内官吏は一人とし我公使館の門を伺う者なきに至れり。而して之と同時に宮中より政府に向て漸く攻撃を始めたり。
 第一の攻撃は、財政に向て為したり。抑々、廿八年度の財政は、度支大臣魚が、顧問官仁尾の意見を聴き、辛うじて之を立てたるものなり。予算に於て歳入総計四百四十六万余円、歳出三百四十万余円、差引剰余金六十六万余円あるべき筈なるに、実際に於て歳入に七十万余円を減じ、歳出予算外に於て[多くは無益の旧兵を再置せし為め]、九十余万円を増加したるが為め、差引五十余万円の不足を生ずべき都合なればなり。故に之を整理せんが為め、更に改正予算を議定したるも、宮中の反対強く、竟に国王の裁可を得る能わず。加之、宮中よりは既に前年度に遡て三ヶ月分の経費を強求し、又、度支部の収入中、目覚しきものは一の相談もなく、之を王室財産に組入れ、所謂紅参(朝鮮人参)等より徴する諸税は挙て之を王室財産となし、尚お進んで造幣事業をも之を宮中に属せしんめんと計画したり。
 右等破壊的攻撃に対して政府は、毫も抵抗する能わず。拱手して破壊に任ずるの外なき有様に陥れり。
 第二の攻撃は、新制度に向て為したり。是より先、宮中にては既に官吏任免の実権を専握し、各部判任の小吏に至るまで、概ね指令に出でざるはなかりしと、其官制に拘らず、次を越えて進級せしめらるゝに付、内閣より屡々故障を申立つるも、更に聞届られず、又詔勅法令等の天降り多くなり、初の程は内閣に於て之を拒み、或は体裁を改めて副署したるも、宮中は之に満足せず、九月二十九日、遂に宮内大臣の副署を以て勅令第一号[内閣大臣の副署したる勅令は既に五十号なるに拘らず]を発布したり。
 第三の攻撃は、当路の大臣に向て為したり。今や宮中の勢力は殆ど政府を圧倒し、其手足を堅縛して全く動く能わざるの窮境に陥らしめたるに拘らず、尚お之を弱めんと欲し、十月に入りて、金嘉鎮を罷め、兪吉濬を遠けて義州観察使と為せり。兪は内閣の参謀として有力なれば、宮中より目指す所の焼点に立ちしなり。
 第四の攻撃は、日本将校の訓練したる軍隊に向て為したり。同軍隊は京城に二大隊[八百人]にして訓練隊と称し、朝鮮第一の強兵なり。宮中にては初めより之を嫌忌し、嘗て近衛兵に充てんとの奏請ありしも、国王峻拒、之を許さず、其後洪啓薫を以て連隊長に任じたるも、大隊長以下固より洪の下風に立つものに非ざれば、洪の任命は有名無実なりき。故に宮中に於て訓練隊解散の議起りしは勢の自然なり。

 九月下旬より十月上旬に亘りて、宮中より政府に向いての攻撃は、前述の如く、実に猛烈を極め、恰も洪水の堤防を潰決して市邑田宅を押流さんとする勢あれば、日韓人共に非常の恐懼を懐き、其勢の到る処、如何と憂慮せり。宮中が斯く傍若無人の暴断に出でたるは、今日迄も一の疑問に属すと雖も、窃に探り得たる所によれば、廿八年七月上旬、朴泳孝を処罰せんとしたる際、既に宮中と露公使との間に内約出来たりと聞けり。
 右内約の起りは、閔妃が何卒して日本の干渉を絶ち、政権を宮中に収復し、諸閔を採用せんことを熱望し、其意を近臣に洩したるに、近臣等[李夏榮、李範晋、李允用等]之を露米両公使に謀りしに、露使よりリゼンドルを以て左の意見を内奏したるに在りという。

 一、閔妃と閔族とは一体なり。而して閔族と日本とは歴史上決して相容れざる事。
 二、日韓両国は隣国と称するも、其間に大海を隔てあれば、露韓両国の接壌相隣するに若かず。故に地形より上之を観るときは、日本より露国に親むべき事。
 三、露国は世界の最強国にして、日本の如き之と比較するに足らず。右は広く例証を挙ぐるまでもなく、本春遼東還付一条に就て、其事実を確むるを得べし。
 四、露国は決して朝鮮の独立を害せず、又内政に干渉するを好まず、故に露国に依頼して其保護を仰ぐときは、極めて安全にして、且つ君権は旧に依り充分に施行し得べし。

 右は一二朝鮮人の家報に属すと雖も、其後閔妃は常に人に向て「日本と閔氏とは両立すべきものに非ず。縦令土地の若干を他国に失うとも、日本の仇を復せざる可らず。露西亜は世界の強国にして日本の比に非ず。且つ君権を保護すとの約あれば之れに依頼すべし」と云いたる由、屡々漏れ聞えたる程なれば、該公使の案奏は、蓋し事実なりと信ぜらる。然るに公使井上の再渡の為め、其計画を中止したるに、今は公使既に帰国の途に上りたれば、前年来隠忍し足る宮中即王妃の鬱憤一時に迸発し、事機を失わずして、其目的を達せんとしたるものと推察せられたり。

 是より先、韓人の時世を慷慨し、国家の危亡を訴うる者漸く多し。皆曰く、宮中の意は先ず訓練隊を解散して政府の爪牙を奪い、金総理以下を殺害して、純然たる閔族の政府を再立せんとするにあり。又曰く、宮中は既に結託し、某国が朝鮮の君権を保護する代りに、咸鏡道の一港を某国に貸すの密約を為せりと。
 而して彼等の意、之を匡済す唯一手段として、大院君の入閣を望むに在り。其人々を概別すれば、現政府派、朴泳孝、その他宮中派外の人々にして、其中、李周会等熱心に之を主張し、大院君と気脈を通じ、密に運動したり。

 是に於て、杉村、岡本の二人は、大院君の軽挙禍に陥らんことを危み、九月三十日頃、窃に鈴木順見を孔徳里の別荘に派して之を探らしめたるに、同君は国家の危亡に瀕するを憤慨し、憤激自ら禁ずる能わざる様子に見受けたるも、敢て自ら起たんとする色なき旨帰報せり。後、数日を経て大院君より堀口九万一を経て、国家の危亡を述べ、是非共公使三浦に面会したき旨伝言せり。其言鑿々時弊に切当せりと云う。依て公使は大院君を援助して時弊を匡済して、朝鮮の宗社を扶護し、且つ日本の威信を維持する一義に付き、先ず杉村と謀議を定め、十月三日夜、岡本を招て共に謀り、陽に帰国の告別と称して、岡本を孔徳里に派し、先ず大院君の決心如何を確め、同君果して出力匡済せんと欲するの意堅くば、同君と一の約束を定めて、之を援助すべしとて、岡本は左の約案を懐にして孔徳里に赴きたり。其和訳は左の如し。

 一、太公は大君主を輔翼して、専ら宮中事務の整理に任じ、一切の政務には干与すべからざる事。
 誓告文の趣意を遵奉し、王室の事務と国政事務と判然区別を立つべし。宮内府の勢力を拡充して、国政事務を侵蝕するが如きは断じて為すべからず。随て太公は政府官員進退に容喙すべからざるは勿論、一切の政務に干与すべからざる事。
 二、金宏集、魚允中、金允植の三人を首とし、其他改革派の人々を挙て要路に立たしめ、専ら政務に任じ、顧問官の意見を聴き、大君主の裁可を経て、政事の改革を決行し、独立の基礎を鞏固にするを期すべき事。
 三、李載冕を宮内大臣に、金宗漢を同協弁に復し、宮内府の事務を担掌せしむべき事。
 四、李呵Oを三年間日本に留学せしめ、其材器を養成すべき事、但毎年夏期に帰省差支なし。
 [註]李呵Oは嚮に王后陛下に対する不軌罪を以て流刑に処せられたる人なれば、大院君の入闕は世人より王后陛下に不利ならんとの疑惑を招かんことを恐れ、特に之を遠けたるなり。

 同五日、岡本は大院君を訪い、夜に及んで帰れり。当時氏の語りし所に依れば、同君は子載冕、孫呵Oの二人と列座し、入闕の決心堅固、欣然約束に同意を表し、自ら筆を執て同意の旨記したりと云う。
 翌六日、岡本は帰国の途に就くと称して仁川に赴けり。
 時に形勢日に切迫したるに付き、其朝杉村は金総理を訪い、同七日朝、金総理、金外部の両大臣を訪い、其意見を叩きたるに、共に国家の危亡に瀕したるを慨嘆し、此際匡済の道は唯大院君を煩わすの一線ある旨を痛言せりと云う。尤も、当時金総理及金外部は既に辞職の決心を我が公使館に通じ来りたる由なりし。
 而して七日午前には宮中より軍部大臣安?壽を派し我が公使館に来りて、訓練隊と警察官との争闘[此争闘は二回にして、前後とも宮中より訓練隊解散の口実を作るため扇動したること事実なり]を口実として、同夜之を解散し并に閔泳駿を宮内府に再任せられたき旨を、公使三浦に伝えたり。安、未だ去らざるに、大訓練隊長禹範善、亦来館し、公使に面会して危急を訴え、且つ解散に先立ちて大院君を奉じて、事を挙げんとする意を示したるより、公使も禍機の切迫せるを察し、大院君の入闕は此時を失うべからずとなし、直に杉村と謀りて、同日午後其趣を在仁川の岡本に報じ、即刻引返して大院君に面会し同君をして入闕を決行せしむべき旨を通じて、其夜半、岡本は麻浦に帰来り、同地より孔徳里に赴き其意を同君に致したる処、同君は翌八日未明に入闕せんと決意し、遂に訓練隊に護衛せられて其目的を達したり。

 抑、露公使が痛く宮中と連結し、其後援を為せりと云うことにつきては、風説密報に依て大概を推測し得べし。確実証拠となすべき二三件を挙げん。

 一、朝鮮国王より露帝に向て両度公使ウェーバーの留任を希望したる親書を発したる事。
 ウェーバーは明治十八年頃より朝鮮に駐在し、宮中には極めて親密の交際あり。故に宮中官吏殊に閔派に知人多し。閔氏が久く袁世凱に抵抗して甚しき干渉を受けざりしも、畢竟ウェーバーの後援あるに依れり。国王が同人の留任を希望し、之を権全公使とせんと試みたるは、蓋し一は当人の希望に出で、己れ筆頭公使となりて外交の牛耳を執り、其朝鮮政略を行わんと欲したると、一は閔妃が同公使の力に依て排日の目的を達せんと希望したるに因るものと察せられたり。
 二、貸兵保護の事。
 十月八日即事変当日の朝、露公使参内、国王に向て、「兼て御依頼の約もあれば、此際本国へ申遣し、我兵を招て保護すべきや」と強請したる処、国王は大院君と共に之を断りたり。其後も露公使屡々出兵の事を申出でたりと聞く。
 三、十月八日変後、李範晋以下露党と称せられたる諸人は露公使館に潜匿し、且つウェーバーに依り「借兵の為め露帝に宛てたる親書を下付せられんこと」を密奏したる事。
 彼等が露館に在りながら、十一月廿八日の事変を企てたる事。
 四、ウェーバーは其親友リゼンドルを嘗て大院君に薦めたるも、聴かれず。朴泳孝逃亡の後、之を宮中に薦めて顧問官と為し、并に同居の露婦人を宮中に入仕せしめたる事。
 五、李夏榮の直話。
 同人は日英両国語に通じる廉を以て両陛下の寵遇を受け、屡々露米両館に密使を奉ぜし者なりしが、彼れ心に其非策を悟り、一日某外交官に其実情を漏らしたることあり。

 右五ヶ条を以て之を考うるときは、風説密報の果して事実なりしを推知し得べく、而して八日事変を激発せしめたる陰勢の如何に恐るべき関係ありしやを察知し得べし。

 従前、朝鮮に於て宮中政治と云えば、其主宰者は言わずとも王后閔氏たるを知るべし。又、閔氏政治と云えば王后の一族たる閔氏朝に立つものたること明なり。
 抑、閔族政府の弊害は何れに在るや、之を一昨年前の実跡に照らすに、当時執権者の眼中には閔氏ありて国家なし。其執る所の政略は閔氏を強大にして、永世政権を掌握せんとするに在り。故に他の氏族に対しては片時も其心を許さず。時々の大臣は唯名義のみにして、閔氏の頤使に従う者、之に任ずるを得るなり。此故に閔氏をして政権を執らしむるときは、到底公平の政治を行い国家の利益を増進する能わず。況や改革を実行して独立の基礎を鞏固にするをや。殊に閔氏は歴史上日本と相睦む能わざる事情あり。明治十五年の変後、閔氏は支那に依頼して大院君を排斥し、朴泳孝、金玉均の諸人は日本に依頼して勢力を得んと企図したるより、知らず識らずの間に日清両党を形作り、遂に相激して十七年十二月の変乱となれり。是れより日本党たる朴金等仆れ、支那党たる閔氏独り政権を擅にしたるに因り、爾来十年の間は日韓両国の交際甚だ難渋なりし。然るに朝鮮の国勢は永く閔氏の擅恣に任ずるを許さず、激して東学党の乱となり、転じて漢城の事変となりて閔氏の政府は一掃に帰したるも、彼等は決して之を気運の然らしむる所と思わず、専ら怨を我国に抱きたり。故に当時論者の説に従て閔族政府を立て之を助くるか、或は之を傍観せんか、彼等未だ勢力を得ざる間は、或は我国と親密を装うことあらんも、一旦其勢力鞏固なるに及ばゞ、直に両国の交情を隔離し、再び二十七年前の旧態に復するは、固より論を待たず。殊に閔妃は前にも述べたる通り、閔氏と日本とは到底両立し難しと言いたる程なれば、閔氏が政権を掌握するの日は、此言の実行せらるゝ日と覚悟せざるべからず。然るときは朝鮮の独立、帝国の面目、及利益、東洋の平和を、挙げて之を他人の蹂躙に帰せざるべからず。されば此危機一髪の時に際し、当局の外交官が其身を犠牲にして匡済手段を執るは、万不得已に出でたるものと信ずるなり。

 以上録する所、以て此事変の起原を詳にするに足れり。

(中略)

                 百六十六(頁)
 初め此事変の報到るや、岡本を知ると知らざるとを問わず、氏を首謀者と認め、氏と三浦を非難する者甚だ多く、一二の識者を除くの外は、氏等の所為を以て野蛮の所為とし、文明諸国に対して恥ずべきことなり、宜く之に処罰を加うべしと云えり。此論政府者に流に多く、民間人士亦之に唱和す。是れ皆な船中大学を講ずるの徒にして、共に対外の事を論ずるに足らざるものなり。

 氏は獄を出でしより後、東京の近郊に帰寓し、復た閑散無事の身となれり。人の其居を訪いて、朝鮮の事を尋ぬる者あるも、親知に非るよりは敢て之を語らず、蓋し之を語るときは、勢い当時の公使井上、当時の外相陸奥、及び政府の事情を説かざるを得ず。殊に井上の無定見不成功を訐きて言うに忍びざればなり。
 氏は朝鮮尚お救うべしとの持論にして、主観的に朝鮮の為に謀れり。其計画中成功したるものありと雖も、亦成功を見ずして止めるものあり。紙幣発行、銀行設立の案の如き是なり。明治九年に朝鮮策案を立てしより茲に二十年、今後尚お此国に於て為す所ありや否や、吾人の未だ知らざる所なり。

 

 名文である。王城事変に至る経緯をかくも整然且つ的確に語るのみならず、その文体はスマートであって、筆者知る限り他に見ない。

 

 

 

 

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