ここでの「朝鮮は清国の属国である。」という表記について 筆者が言う「属国」とは、ある国家が他の国家に対して、あたかも臣下の礼を以って従属するが如き態度をとるものを言う。その意味で、当時(1895年下関条約締結まで)の朝鮮はまさに清国の属国(vassal state)であった。 まず、歴史に関することを根拠となる資料も提示せずに語ったところで、ただの空想話と受け取られても仕方がない。しかし幸か不幸か、朝鮮の属国問題に関しては多くの資料が残っている。その中から何点かを採り上げて以下に記したい。 まず、清国は朝鮮国のことを次のように言っている。 明治9年1月29日付け、大日本国欽派駐北京全権大臣森有禮に対して清欽命總理各国事務 王大臣からの書簡にこうある。 (「明治9年2月10日から明治10年1月8日」のp3より抜粋。) 「朝鮮が中国の属国であることを知らない者はいない。属国には属国の分際があり、古今において朝鮮が属国であることを中国が任ずるのである。けっして空名ではない。」 あるいはまた、明治18年(1885)5月の日清両国による天津条約締結に向けての談判の中で、朝鮮の属国問題が話し合われた時に清国全権大臣李鴻章は日本全権大使伊藤博文に対して以下のように答えている。 「朝鮮に内乱の事あるに方(あたっ)ては、我国兵を派して国王を保護すべきは即ち我国の義務なり。朝鮮国王の其位に登るは我皇帝陛下の封する所に依るものなり」(「天津条約ノ締結」B06150031800のp196) さて、これが清国が持つ朝鮮に対する認識である。 では朝鮮国は清国に対してどのような態度で接していたのか。 明治15年朝鮮事変において、朝鮮国王高宗(李載晃)の実父であり、当時の執政者でもある大院君(李昰應)は、清国道台(監督長官)馬建忠などから拉致されて清国直隷省保定府に軟禁された。 (「2.朝鮮事変弁理始末/2 兇徒伏法」p40の「朝鮮国王李熙陳情表」より抜粋。なお、高宗実録にも同文が記録されている) 「臣たる私の心は震え、あたかも嬰児が親の懐や膝から引き離されて拠るべきところを無くして憧心から泣いているようなものであります」、「罪は皆臣たる私にあり、実父は毫も関係ありません」「天下に善政をされ聖極人倫なる皇帝陛下に伏して願います」、「臣の実父の帰国を許して下されれば、小国の父子君臣は感激して皇恩を永久無限に唱え、私が天に望む星を仰ぎ見る以上の、感泣の極み祝賀の至りであります」 まことに情感に訴えて切々たる陳条ではあるが、清国はこれを受け入れず、この後3年間幽閉した。 しかし、そもそも執政者であり国王の実父である人を他国に拉致されるという最高度の主権侵害をされて、その国の「皇帝」に対して自ら「臣」と称することなど「自主独立国」ならありえないことであろう。まして皇帝の許しを乞うことを陳情するなどというに至っては論外である。 これは明らかに当時の朝鮮国王並びに朝鮮政府は、清国皇帝に隷属する家臣であることを自認していたことに他ならない。 さらに明治15年9月調印の清国と朝鮮国間の条約である「中國朝鮮商民水陸貿易章程」(「中朝約章合編」p3)に至っては、その冒頭に於いて「朝鮮久列藩封」また「此次所訂水陸貿易章程係中國優待属邦之意」とあって、朝鮮が中国に従属する国であることを記し、 朝鮮政府はこのような条約に調印したことからも、朝鮮国王は北洋大臣と同地位であり、清国皇帝の家臣であり、国としての上下関係において、朝鮮国は清国のことを「天朝」又は「上国」と尊称しなければならず、つまりは清国に従属する下位の国であることを朝鮮自ら是認しているのである。(ちなみに、清兵のことは「天兵」と称している) 先の王大臣の書簡が明治9年1月であり、陳奏使派遣は明治15年9月頃であり「貿易章程」も同時期とタイムラグがあるが、この間に独立国だったものがいつの間にか清国の属国となったという事跡も無いので、この間の朝鮮国王並びに朝鮮政府の自覚は一貫したものであると考えられる。 すなわちここでの「朝鮮国は清国の属国である」と言う表記は筆者にとって極めて妥当なものであると言わざるを得ない。
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