日清戦争前夜の日本と朝鮮(25)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
さて又々話が前後するが、7月9日に米国国務長官からも和平勧告があり、同日に日本政府はそれに対して露国に回答したと同内容で返答した。(「明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日」p5〜p6、p8〜p10) 7月10日、京城の大鳥公使は、いよいよ朝鮮政府に対して内政改革の勧告を厳談するに当り、以下のような伺いを提出している。
朝鮮政府が日本政府の勧告を受けて、唯々として内政改革に取り組むことは、まずありえないことであった。 素より朝鮮の国体について、この時にあって尚も、 7月10日、11日と改革案詳細を朝鮮政府選定の3名に説明した大鳥公使は、13日の報告で以下のように述べている。
朝鮮政府は14日には内政改革の庁として「校正庁」なるものを設置したが、政府の内部事情をよく知る日本公使館側としては、 15日には朝鮮委員から、16日には外務督弁から、「日本政府の勧告は感謝に堪えず」などと言いながら結局は事実上の拒否を通告してきたことに、大鳥公使は遂に強硬手段を執るの止むを得ずの決意に至った。
なお19日第九十号報告によれば、公使館では後に、10日11日の老人亭での改革委員3名と協議した時の、各大臣の一覧に供された朝鮮側の筆記録の写しを入手している。その内容は事実錯誤と改竄が目立つだけでなく日本を罵詈する文言もあって、およそ実際の会議内容とはかけ離れたものであったという(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p4)。 この国では議事録すら甚だしく改竄するらしい。
故障続きの京城釜山間の電信線の修復または新設のことは、その後6月22日に日本政府から大鳥への指示に「一 過日電訓せし如く、此際朝鮮政府に迫りて京城釜山間の電信線を修復せしむべきこと。尤も、同政府に於て其言を遷延、決せざる場合に於ては、一方には我陸軍軍隊に於て其工事を担当し、一方には其事を朝鮮政府に通報する事。(「明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日」p14)」とあって、そのことを朝鮮政府に交渉したが、その後7月10日の大鳥の報告に、 その他にも、京釜間鉄道開設のことや新港(木浦)開港要求のことも指示されていたが(「日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」p32の「別紙第二十号」)、大鳥公使は以下のようにその要求の仕方にかなり気を揉んでいる。
これを大鳥の優柔不断と見るか、老臣の深慮自重と見るか。 しかしこの18日に、去る7月3日に公使館の意見上申のために東京に派出していた本野参事官が帰館しているから、おそらく上記の報告を出した後に、本野参事官を交えた会議によって遂に電信線のことは決したのだろう。この翌日19日から公信のみの軍用電線として架設に着手している。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p53、「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p32の第一項、「7月19日 京城 馬場少佐 川上中将宛 京釜間電線架設に着手」)
さて、陸奥外務大臣は上記18日の大鳥公使からの改革案拒絶の報(電受第451号)を19日午前3時過ぎに接受し、同6時には次のように指示した。
「五十一号電訓」とは、英米両国が公館保護のために海兵隊を派遣したので友好的に接してトラブルを避けるように、という訓令である(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p1)。英国の場合、18日朝に海兵25名が入京している(7月18日 在京城 渡邊少佐 参謀総長宛 英海兵25名今朝入京す)。 18日、東京から戻った本野参事官らの話により、既に政府では日清開戦を決していることを確認したことから、公使館においては更に協議を重ね、次の難題2点を朝鮮政府に突きつけることを決議した。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p53) ・ 済物浦条約に基く日本軍兵営建設の要求。(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p43) ・ 再び、朝鮮国の自主独立を問う。 19日、袁世凱が突然清国に帰った。(「7月19日 在仁川 村木少佐 川上中将宛 袁世凱支那軍艦にて今出発帰国」) なぜにこんな人物が後に中華民国初代大総統になれたのか全く理解できない。ま、中華民国そのものがそんな国柄であったのだろう。 19日、決議に従って大鳥公使は朝鮮政府に日本軍兵営の設置を要求。更に20日には清国兵を国外に駆逐すべき旨請求し、その回答期限も22日とした。そして、満足の回答を得られない場合は大いに迫って朝鮮政府内の大改革を行わせる積りであると陸奥に報告した。
その他にも、清国が朝鮮を完全に属国扱いしている中朝間の条約「中朝商民水陸貿易章程」「中江通商章程」及び「吉林通商章程」も主権侵害として廃棄すべき旨を20日に要求している。(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p32)
7月21日、杉村濬の「在韓苦心録」によれば、日本公使館では、この夜軍楽隊を招いて、日本公使館前にある和将台と称する南山麓の3千坪ぐらいの高台で、大宴会を開いたとしている。日本文武各官、居留民代表、朝鮮各官、各国公使領事館員、朝鮮政府雇外国人、宣教師などを招待したと言う。
開戦前夜に相応しい、何やら凄まじい雰囲気漂う大宴会だったらしい。
さて、「在韓苦心録」の杉村濬の記述よれば、たとえ22日期限の返答があっても、日本側にとって満足出来るもののはずもなく、また未回答であっても、23日には威圧行動を行うことに決していたという。 事後の23日午前8時10分発の大鳥公使の報告には、「(朝鮮政府は)甚不満足なる回答を為せしを以て、不得已王宮を囲むの断然たる処置を執るに至り(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p35)」とあり、また25日報告には「大島旅団長とも協議の上、翌廿三日午前四時龍山より兵一聯隊並に砲工兵若干を入京せしめ、王城を囲繞せんが為め之を王宮の方に進めた(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p33)」とある。 尤も、在京城各国使臣に対しては、「日韓談判の成行に因り、龍山に在る我兵の一部を京城へ進入せしむること必要となり、而して龍山の兵は午前四時頃入京し、王宮の後に当る丘に駐陣する為め南門より王宮に沿いて進み」と告げ、「且つ日本政府に於ては決して侵略の意なき旨を保証せり」と告げたと述べている。(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p16) 7月22日、夕刻になっても朝鮮政府からの回答は無く、やっと深夜12時過ぎになって曖昧の回答を提出。兵営設置には無回答。自主問題には、内治外交が自主であることは中国も承知している、聶軍門の告示文のことは知らぬ存ぜぬ、袁世凱の言は、私論に過ぎず、清兵撤兵の事は、言っても聞かないのは日本兵も同じ、と。 公使館では断然兵力を以て迫ることに決し、以下のように朝鮮政府にそのことを通告した。
ふと思い出したのが、明治11年(1878)11月の「日本、朝鮮の条約違反に怒る」。 ところが、あろうことか王宮護衛の朝鮮兵がいきなり発砲。
そして「日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」にも、 またここで雲揚号のことを思い出す。武力威嚇だ挑発だ、と人は言うが、つまりは朝鮮の方こそ、怺え性が無いというか、前後見境無しというか、要するに適正な判断が出来ない性質なのではないかと。 なお、後に23日のことを詳しく報告した「混成旅団報告」によれば、日本兵戦死者2名は1名の誤りであり、また朝鮮兵の死傷者は5、6名あるとのことであった。また取り上げた朝鮮軍の武器は、大砲30門(クルップ山砲8門、器械砲8門、旧式山野砲10門ただし不具合のものが多い)、小銃、モーゼル、レミントン、マルチニー、など2千余挺、その他火縄銃無数。軍馬10余頭であった。
さて、またも大院君の出番である。この時もう75歳であり、儒学の政道しか興味の無いこの老人を、朝鮮改革の旗手とせねばならないのであるから、いやはや何とも。 ところがこの頑固老爺、人の意見など聞くような性質の人ではない。まして日本人の言うことなど。 以下、杉村濬の苦心談である。
ついに大院君入闕する そして大院君入闕に関する大鳥公使の報告は以下のものである。
大院君と国王、共に手を取り合って感泣し、そして大院君が怒声一喝、国王の失政を責め、国王はそれをひたすら詫びたという、まるで芝居の一場面でも見るような風景。
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