日清戦争前夜の日本と朝鮮(25)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

絵 應需(安達)吟光 下手横好(印) 福田熊次郎発行  明治27年8月

其初 朝鮮発端

 金玉均氏は朝鮮の人なり。学に長じ書画を能くし英敏にして才名高しと雖ども、議論韓廷に容られず。依て朝鮮を亡命して日本に来り岩田周作と名称す。
 然るに明治廿七年三月、韓人洪鐘宇が金氏を謀りて上海へ行し日本ホテルに於て銃殺せられたり。
 氏は開化の志し深かりしが、今韓廷、我帝国の勧告を容れ、弊政改革せられ、氏存命なれば定めて採用あり、国の為大益と成べし。
 嗚呼、惜むべき人物之。嗚呼、おしむべし、おしむべし。

 亡き金玉均をさながら英霊の如く画き、その死を惜しむ文章から、当時日本人一般の朝鮮改革に対する思いの強さが窺われるものでもあろう。

 

大鳥公使の決心

 さて又々話が前後するが、7月9日に米国国務長官からも和平勧告があり、同日に日本政府はそれに対して露国に回答したと同内容で返答した。(「明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日」p5〜p6、p8〜p10)

 7月10日、京城の大鳥公使は、いよいよ朝鮮政府に対して内政改革の勧告を厳談するに当り、以下のような伺いを提出している。

(「明治27年7月5日から1894〔明治27〕年7月17日」p32)

機密第一二二号本七一
  朝鮮内政改革の勧告拒絶せられたる時、我が執るべき手段に付伺

 朝鮮政府に向て内政改革案提出の顛末は、既に機密第一二一号信に詳陳致候通りに有之候処、当政府の内情を探偵するに、国王には大分改革に傾意せらるゝと雖も、李鴻章の内意を受けたる電信、天津より続達し、袁世凱又之に付和して恐嚇し居るが為め、守旧即ち事大派の気焔を一層強めたれば、彼等は我に向て外面改革を口にするも其実行は到底見込無之、彼等の胸算は、一時我が鋭鋒を避け、我勧告に応ずるが如き顔色を装うて時日を送り、其間に李鴻章及各国公使に依頼して我駐在兵を撤退せしめんとの考案に有之候と被推察候。

 就ては我より尋常の手段にて之に当るときは、必然彼等の術中に陥り可申掛念有之候に付、此際断乎たる処置に出て後害を残さゞる様注意することは、頗る緊要の義と存候。就ては朝鮮政府に於て断然我勧告を拒絶するか、若くは遷延して可否の決答を為さゞるか、又は表面我勧告を容れて之を実行せざる場合に於ては、従て我勧告を拒絶したるものと見做し、本官は左記両案の内、必其一を執り、直接又は間接に改革の必行を促し候と存候。

(甲)朝鮮政府より陽に或は陰に拒絶を受けたるときは、我より、

「朝鮮政府は内政不整頓なるが為め屡々変乱を挑発し、或は外援を招くに到り、実に我国に向て危険を与えり。我国は政事及貿易上、朝鮮との関係甚だ深きが故、自衛の為め朝鮮内政改革を促し、変乱の根源を絶たざるべからず」

と云うことを辞柄と為し、兵威を以て之に迫り、其必行を促すべし。但し兵威を以て之に迫るの手段は我護衛兵を派して漢城の諸門を固め。且つ王宮の諸門を守り、彼等らが承服する迄手詰の談判に及ぶべし。

 

(乙)朝鮮政府若し陽に或は陰に我勧告を拒絶したるときは、我は先ず公文を以て、

「朝鮮政府の拒絶は全く東洋の大局を顧みず、我国と相提携して共に富強を図るに意なきを表示したるものなれば、我国は遺憾ながら本国の利益を保護する手段を執らざるべからず」

との決意を申送り之と同時に左の要求を為すべし。

一 日朝条約中「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権を保有す」の主義を推拡して従来清韓間に有せし宗属の関係を悉皆革除せしること。但し清韓間宗属の問題は我より提出すべからざる旨、兼て御電信にて承知致居候えども、朝鮮に向て之を提出するは強て差支有之間敷と存候。

二 最恵国条款に依りて支那政府及人民に許与したる権利特典[戦中朝鮮国内に於て朝鮮人民を裁判する権利并電線架設等]を我に要求すること。

 右二ヶ条の実行を保証する迄、我は兵を派して漢城并に王宮諸門を守るべし。
 但し、両国交渉事件の未決に属するものは通常談判として別に提出するを可とす。何となれば、此際提出するものは強迫の材料に供する迄なれば、若し朝鮮政府が顧て改革を妥行するときは、必ずしも提出に及ばざるものなればなり。

 

 已上、甲乙両案とも聊か例外に在りと雖も、此際斯る例外の処断に出でざるときは、好結果を収むべき見込無之候。尤も、其内甲案は改革の目的を貫徹するの方に取りては、都合善しと雖も余り例外に奔馳したりとの議責を免れざるべく、乙案は我に一層の口実ありと雖も、察するに改革の目的と相齟齬するを以て我挙動は始終相貫徹せざる嫌有之候。乍去是亦改革を力迫する一手段に過ぎざれば寧ろ議責の軽き乙案に従う方可然やとも考候。

 右は目前に差迫り候事件に付、本信後届候次第何分の御電訓有之候様致度、此段至急伺出候也。

 明治廿七年七月十日
   特命全権公使大鳥圭介
外務大臣陸奥宗光殿

 朝鮮政府が日本政府の勧告を受けて、唯々として内政改革に取り組むことは、まずありえないことであった。
 利権と地位にしがみつく大小臣達、清国の力を頼む勢力、一方、改革派の力は脆弱であって兎角に閔族を憚り、また袁世凱は大言を弄し、或いは李鴻章が、日本からの申し出は一切拒絶するようにと圧力をかけるなど、情況としては最悪であった。

 素より朝鮮の国体について、この時にあって尚も、
文物礼儀百般の事之れを中華に做(倣)い、三綱五倫人道の教之れを尭舜に法とる。去れば中国は我が恩国たり、主邦たり。焉(いずくん)ぞ崇尚せざらんや。唯だ今日の清人を信憑せずと云うに在るのみ。[魚允中の話](「明治27年7月5日から1894〔明治27〕年7月17日」p5)」と言うぐらいであるから、独立国として自主的に近代国家を目指すなどというものでは到底なかったと思われる。
 唯一それをなし得るものは日本の強大な圧力のみであったろう。

 7月10日、11日と改革案詳細を朝鮮政府選定の3名に説明した大鳥公使は、13日の報告で以下のように述べている。

(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p38より抜粋、()は筆者。)

機密一二七号
内政改革協議の為め朝鮮政府より選定されたる三名の委員と会同の件

(略)
(p40) 右提案後、内部の形成を探察するに大略別紙丙号探情書の通りにて、国王には改革に鋭意せらるゝ傾あるも、諸大臣は兎角躊躇して王命を奉承せざるが如くに被推察候。右は申す迄もなく、彼等因遁姑息にして有為の気象に乏く、而して外は支那を恐れ、内は閔氏を憚る結果に外ならざる義と被考候。
(略)

丙号(p41)
 宮中秘密会は、昨日乾清宮に於て開かれたり。
 領議政沈舜澤、左議政趙秉世[右議政欠]、戸曹判書朴定陽、兵判閔泳奎、刑判閔泳煥、内務督弁閔泳韶、各営門大将[李、韓、閔泳駿]、改革委員申正熙、曹寅承、金宗漢等なり。

 諸大臣の意見は、日本公使の提出案は時節柄至極適当なりとせり。然れども如何せん、目下我政府の微力なる強て之れを決行するも成就すること能わざるべしとの議論多数なり。独り申正熙は奮然として諸氏を排撃して曰く、

「我国微弱なりと云うと雖ども、未だ是を行わざる前にあって安くんぞ其成否を知る得べけんや。今善を見て之を行わず、■■行い難しとしては非なり。先ず之れを行うて、若し能わざれば止も可なり。唯々徒に行い難しとして止をべけんや云々。」

 以上の会議は何等決定する所なくして止めたるが如し。

(略)

 派清使臣出発せんとす

 進賀兼謝恩使李承純、副使閔泳普A書状官李裕宰は、昨日王命あり。近日出発、陸路北京に赴くべし。是は西太后還暦の慶典を賀する為め、例使外、特に派遣するものにして、同一行が堪えて清帝に献上すべき物品は銀にして十万両なりと云う。

(以下略)

 朝鮮政府は14日には内政改革の庁として「校正庁」なるものを設置したが、政府の内部事情をよく知る日本公使館側としては、
王勅を下し校正庁を設くと雖ども、其実は只だ名目にして改革の意味を偽装し、巧弁虚飾を以て日本公使の手前を繕い、一時の窘迫を免がれんとの策に外ならず。是れ清国崇拝者等の会議の結果に出でたる権謀なり。(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p44)
であり、案の定、16日に校正庁で「議政府校正委員会議」が開かれたが、何の一事も議決することなく解散している(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p11)
 先の西太后還暦慶賀に、銀にして10万両もの大金相当の物品を朝貢するのみならず、
今般派遣清国使臣は陰に密書を附し、北京政府に対し、朝鮮は上国に対する典礼を変更せざるべき決心を示さんとす。(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p44)
という有様であったし、それどころか、
天津督理李冕相赴清に付、大に清国政府に談じ、援兵を請わんとす。而して清国力弱くして済を能わざるときは、又俄公使に請い、以て調剤鎮圧せんとす。故に一朝人心頻に変じ、日本を軽視し皆云う、日本畏るに足らずと。(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p12)」 と、清国が駄目なら露国があるさ、という何とも相変わらずの事大っぷりであった。

 15日には朝鮮委員から、16日には外務督弁から、「日本政府の勧告は感謝に堪えず」などと言いながら結局は事実上の拒否を通告してきたことに、大鳥公使は遂に強硬手段を執るの止むを得ずの決意に至った。

(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p3、()は筆者。)

 (18日発 19日電受第451号)電信訳文 廿七年七月十八日后一時廿五分発  十九日前三時十五分接

東京陸奥大臣    京城大鳥公使

 本使より提出したる改革案に関し、督弁交渉通商事務より公書を接受す。其大要左の如し。

  該案は朝鮮政府の意見に協えりと雖ども、外国の大兵駐屯する上は、治安を妨害するを以て、内政改革の事は、我兵撤回の後、朝鮮政府に於て之を行うべしと。

 又、三名の委員は最近の会議に於て口頭を以て提案を受納し居りながら、前文同様の公書を送り、且つ之に加えて曰く、

 若し朝鮮が提案を容るゝに於ては、他の国にも亦同様の請求を為すに至るべし。故に朝鮮政府は我兵并に我提案の撤回を請求す。而して右撤回の後は、朝鮮政府自ら改革事務を執行することを怠らざるべし。

 朝鮮政府は最早我勧告を採用するの望、断えたるを以て、本使は七月十日付機密第一二二号中に記し置きたる乙案を施行の手はずを為しつつあり。

 然れども王宮を囲襲することは貴大臣より此上の訓令ある迄は差押うべし。

 なお19日第九十号報告によれば、公使館では後に、10日11日の老人亭での改革委員3名と協議した時の、各大臣の一覧に供された朝鮮側の筆記録の写しを入手している。その内容は事実錯誤と改竄が目立つだけでなく日本を罵詈する文言もあって、およそ実際の会議内容とはかけ離れたものであったという(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p4)

 この国では議事録すら甚だしく改竄するらしい。

 

電信線、鉄道、新港の要求

 故障続きの京城釜山間の電信線の修復または新設のことは、その後6月22日に日本政府から大鳥への指示に「一 過日電訓せし如く、此際朝鮮政府に迫りて京城釜山間の電信線を修復せしむべきこと。尤も、同政府に於て其言を遷延、決せざる場合に於ては、一方には我陸軍軍隊に於て其工事を担当し、一方には其事を朝鮮政府に通報する事。(「明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日」p14)」とあって、そのことを朝鮮政府に交渉したが、その後7月10日の大鳥の報告に、
「京城釜山間の電信線を修繕し、又は新築することに関する我提議に対しては、督弁交渉通商事務は断然之を拒絶し、此等の工事一国の主権に属し、外国をして之を為さしむること能わずと主張せり。依て此上は本使に於ては六月二十一日付機密第二十五号貴大臣の訓令第三項(22日の指示)に依り之を処するの外致方なし。本使は好機を投じて之に着手すべし。(「明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日」p46)
としたが、その好機がないのか、迷っているのか、大鳥公使、なかなかGOサインを出さない。

 その他にも、京釜間鉄道開設のことや新港(木浦)開港要求のことも指示されていたが(「日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」p32の「別紙第二十号」)、大鳥公使は以下のようにその要求の仕方にかなり気を揉んでいる。

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p1)

廿七年七月廿六日接受
機密一三〇号

  鉄道、電線の建架及び新港開き方の要求困難の件

 貴電第三三号、第三四号、第三九号及第四七号等を以て今般朝鮮政府に向い、内政改革を勧告する間に我が実益たる可き、鉄道電線建架の権利を我に得、且つ木浦の開港を請求すべしとの御訓令有之、委細致拝悉候然処、今般我国より当国に派兵相成り候御趣意は其初め公使館及人民護衛を本旨とし、尋て内政改革を勧告して朝鮮政府に独立を維持する力を養わしめ、而して改革の基礎相立候迄は、我衛兵を駐屯せしむ可しとの事に有之候故、本官は始終其針路を追い、朝鮮政府及各国使臣に対しても専ら公平の言を以て之に当り、彼等が常に懐ける、我に野心ありとの疑団を氷解せしめんと尽力致し■共、■々有之候。依て是迄諸事公平所謂うる御為め托しの姿に相成り居候処、今日に至り俄に舜色を変じ要求が間敷件々を持出すことは事実困難なるのみならず、諸事談判に甚だ不得策と■存候。右は去月二十六日付機密第一〇七号信を以て大略申進候得共、猶お現今の実況■申進候。

 一 朝鮮政府は我挙動及び辞彙に注意し、且つ其注意は甚だ鋭敏なること。
 朝廷大小臣の概は常に我国は朝鮮の(に)対し野心を包籠すと疑うものなれば、今般大兵の入韓は尤も疑を属らるに相違なきは是迄呈送したる探情書に徴しても知るを得可く候。幸に今日に至る迄、表面彼等をして反対せしめざるものは、我申出は始終公平無私にして、孰れの方面より考察しても批評の下し方なきに因ることと被推察候。然るに今日聊かにても我方針を変じ、我兵威を徹して何等の権利を要求するときは、是れ恰も反対者が兼て待設けたる壷に投ずる者にて、彼等をして其声を大にし、手を揃えて我を攻撃するに至らしむるは必然と被考候。■■時は、我国は今日迄博得したる公平の名義は一朝水泡に相帰し候事と存候。

 二 朝鮮政府には参謀者多きこと。
 対日政策に付ては袁世凱は始終其顧問と為し居ることは蔽う可からざる事実なり。殊に此度の事件に付ては一通の公文を発するにも、必ず袁世凱の一閲を経、又事柄に因ては袁世凱の外、英米俄の使臣にも往々相談する様子にて、先般本官より提出したる内政改革案の如きは即■朝鮮政府より其写を各国使臣へ廻示したる趣致探聞候。
 右の次第なれば、近来我より朝鮮政府に対する談判は頗る困難にて、決して昔日の如くならず。我表面の対手こそ朝鮮官吏なれども其奥には種々の参謀者らは後盾とありて我計画を防碍らるもの不少事と被推測候。

 三 我大兵の駐在に拘わらず、近来益々彼の頑強心を堅めたること。
 近来朝鮮官民間に行わるゝ一説は日本兵多数来駐すと雖も李中堂の取計いにて各国使臣より牽制せられ、自由に運動を為すを得ず。故に朝鮮より釁端を開かざる以上は決して掛念に及ばず。日本より何等の要求ありても外面和好を装い、而して内実之に従わざる時は、日兵永屯に堪えずして自ら撤回す可し云々。

 当国の形勢は前陳の次第に有之候故、何等朝鮮政府の過失を求め、謝過の為め右等の権利を我に請求するの外は、今日辞を改めて御訓令の箇条提出候とも、彼政府をして之を聴従せしむる見込更に無し。且つ之を提出することは、甚だ不得策と被考候。尤も、鉄道電信の二事は、機密第二六号貴信にて御訓示候次第も有之候に付、我勧告の箇条として提出致置候。依て愚考するに、今後形勢一変の際にあらざれば御趣意を貫徹する機会有之間敷と被存候間、其提出方は暫時御猶予相成候様致度候。

 右及上申候也。

明治廿七年七月十八日 特命全権公使大鳥圭介
   外務大臣陸奥宗光殿

 これを大鳥の優柔不断と見るか、老臣の深慮自重と見るか。 しかしこの18日に、去る7月3日に公使館の意見上申のために東京に派出していた本野参事官が帰館しているから、おそらく上記の報告を出した後に、本野参事官を交えた会議によって遂に電信線のことは決したのだろう。この翌日19日から公信のみの軍用電線として架設に着手している。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p53、「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p32の第一項、「7月19日 京城 馬場少佐 川上中将宛 京釜間電線架設に着手」)

 

大宴会と兵力使用通告

 さて、陸奥外務大臣は上記18日の大鳥公使からの改革案拒絶の報(電受第451号)を19日午前3時過ぎに接受し、同6時には次のように指示した。

(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p7、傍線は削除された文、()は筆者。)

(第53号)電信訳文   廿七年七月十九日午前六時発
京城大鳥公使    東京陸奥大臣

  大鳥公使へ訓令の電信案  

 朝鮮政府は遂に我が改革案を拒絶したる件に関する貴電接受せり。

 此時に当り閣下は自ら正当と認むる手段を執らるべし。併し本大臣の五十一号電訓の通り、他外国と紛紜を生ぜざる様充分注意せらるべし。
 而して我兵を以て各城門王宮及漢城を固むるは得策に非ずと思わるれども早已にば、之を決行せざることを望む。し居らるゝに於ては毫も他外国人の出入を妨ぐる等の事なき様、充分に注意するは勿論、兼て彼等に対しては親切の待遇を与え、殊に此際に当ては他外国使臣とは一層深密なる友誼を以て交際することにせざることをに尽力せらるべし。

 在天津荒川領事より十八日発の電信に曰く。

 李鴻章は十七営(8500人)の清兵を朝鮮に派遣する事に決したるが如し。而して其中六営(3000人)は七月十九日或は二十日に大沽より発するならんと。

 右派兵の報、果して事実にして清兵、将に朝鮮国に入るに於ては該国は兵力を以て我が改革案に干渉するものとに向て敵対するものと認定するの外無之、随て我が之れに対する手段は我が兵勢を以て彼を域外に駆逐するのを執るの外なかるべし。

 「五十一号電訓」とは、英米両国が公館保護のために海兵隊を派遣したので友好的に接してトラブルを避けるように、という訓令である(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p1)。英国の場合、18日朝に海兵25名が入京している(7月18日 在京城 渡邊少佐 参謀総長宛 英海兵25名今朝入京す)

 18日、東京から戻った本野参事官らの話により、既に政府では日清開戦を決していることを確認したことから、公使館においては更に協議を重ね、次の難題2点を朝鮮政府に突きつけることを決議した。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p53)

・ 済物浦条約に基く日本軍兵営建設の要求。(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p43)
 即ち条約第五款の「兵営の設置修繕は朝鮮政府の任であること」に基く。
 しかし収容人数が1千余名と半端ではない数であるから難題である。

・ 再び、朝鮮国の自主独立を問う。
 清国からの知照文に「我朝保護属邦旧例」とあり、また清将聶士成の軍門が「我中朝愛恤属国不忍坐視不救或保護藩属」という告示文を牙山から全州に至る各地に貼り付けていること。それを袁世凱に確めたら相違ないと言ったことなどから、朝鮮への主権侵害とみなし、清兵を速やかに国外追放するようにと要求。(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p44)
 これも極めて難題である。且つ22日までの回答期限付き。

 19日、袁世凱が突然清国に帰った。(「7月19日 在仁川 村木少佐 川上中将宛 袁世凱支那軍艦にて今出発帰国」)
  本国からの指令によるものだったらしいが、各国公使館等に通知することもなく、深夜の内に密かに京城を出て仁川に向い、軍艦で帰国したという。これによって朝鮮政府内の清国派は大いに動揺し、改革派にとっては有利な情況となった。
 この時点での帰国は、明らかに朝鮮政府に対する干渉と対日工作が行き詰まったことを示すものであるが、尚も出発の際に韓吏に向って「余は帰国の後、直に大軍を引て来るべし」と言ったという。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p53)
 最後まで大言は止められなかったらしい。

 なぜにこんな人物が後に中華民国初代大総統になれたのか全く理解できない。ま、中華民国そのものがそんな国柄であったのだろう。

 19日、決議に従って大鳥公使は朝鮮政府に日本軍兵営の設置を要求。更に20日には清国兵を国外に駆逐すべき旨請求し、その回答期限も22日とした。そして、満足の回答を得られない場合は大いに迫って朝鮮政府内の大改革を行わせる積りであると陸奥に報告した。

(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p20、傍線は削除された文、()は筆者。)

 (第34号)電信訳文 廿七年七月二十日午後十一時二十五分発  二十一日午後十一時四十五分接

東京 陸奥大臣     京城 大鳥公使

 本使は七月十九日、我兵の為めに営所を建設すべき旨朝鮮政府へ要求し、又属邦保護の宣言する所の口実を以て清国兵の永く朝鮮国内に駐屯せしむるするは朝鮮国の独立を侵害するものなれば、之を駆逐すべき旨、七月二十日同政府へ求せり。而して右に対する回答は七月二十二日を以て限りとせり。

 朝鮮政府に於て該日限迄に満足の回答を為し能わざるに於ては、本使は大に同政府に逼り、此の機に乗じて同政府内の大改革を行わしむる積りなり。

 袁世凱急遽に立去りし俄然帰国せし為め、朝鮮政府内清国派の勢衰えつゝあるが如し。

 その他にも、清国が朝鮮を完全に属国扱いしている中朝間の条約「中朝商民水陸貿易章程」「中江通商章程」及び「吉林通商章程」も主権侵害として廃棄すべき旨を20日に要求している。(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p32)

 

 7月21日、杉村濬の「在韓苦心録」によれば、日本公使館では、この夜軍楽隊を招いて、日本公使館前にある和将台と称する南山麓の3千坪ぐらいの高台で、大宴会を開いたとしている。日本文武各官、居留民代表、朝鮮各官、各国公使領事館員、朝鮮政府雇外国人、宣教師などを招待したと言う。

(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p58)

 扨、二十一日の夕景に及べば、我官民は勿論、韓客も多く轎を連ねて来会したるも、欧米人は朝鮮雇員及宣教師等来会したる外、公使領事館員は一人も来らず。清国館員も同様不来。
 日清両国の形勢は甚だ切迫し、今明日にも破裂せんとするに当り、韓客の頗る多かりしは、全く無感覚とも思われざれば、必ず日清勝敗の結果如何を気遣い、他日の利害を慮り、いやいやながらも務めて来りしものあらん。
 是夜立食の準備も充分に調い、洋々たる音楽は南山に響き渡りたるも、景況何となく凄愴にして、主客とも意気昇らず。

 金嘉鎮は余を誘うて人群を離れ、窃に余に向て、
「本夕の宴会には必ず深き意味あらんに、朝鮮人等愚にして能く之を悟るものなきが如し。近日事を発せらるべき御都合なるや、若し然らば自分丈承知したし」
と言いたるも、余は之に答えて、
「形勢は追々切迫したるも未だ御尋ねの如き場合に至らず」
と云えり。

 此三、四日までは所謂日本党と云う人々には、大抵打明けて咄したるも、愈々終局の手段を執ることに決したる後は、枢機に参ずるの人の外、何人にも之を洩さざりし。故に事件の興るまでは外間にては一人も之を知るものなかりき。
 宴会半頃、俄館通訳官カーパーク入来り、窃に余等に向て我意思を探れり。蓋し探偵の為、ウェバー公使の派する所なり。

 九時近き頃、一天俄に掻き曇り、驟雨来りたれば、衆賓先を争うて退散し、会場忽ちにして寂寥たり。

 是より翌二十二日夜半までは、朝鮮政府と我公使館の間には何等の交渉なかりき。

 開戦前夜に相応しい、何やら凄まじい雰囲気漂う大宴会だったらしい。

 

 さて、「在韓苦心録」の杉村濬の記述よれば、たとえ22日期限の返答があっても、日本側にとって満足出来るもののはずもなく、また未回答であっても、23日には威圧行動を行うことに決していたという。
 それによれば、計画は23日午前3時頃に城門が開くのを待って、混成旅団の内の1聯隊(千人ほどか)を西門(敦義門)より入城させ、行軍して王宮の前に至り、且つその一部を王宮背後に進ませ、以って我が威を示し、官内の動静を窺って大院君を擁して入闕し、以って朝鮮政府の変革を迫る、というものであったらしい。(「同上」p60)

 事後の23日午前8時10分発の大鳥公使の報告には、「(朝鮮政府は)甚不満足なる回答を為せしを以て、不得已王宮を囲むの断然たる処置を執るに至り(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p35)」とあり、また25日報告には「大島旅団長とも協議の上、翌廿三日午前四時龍山より兵一聯隊並に砲工兵若干を入京せしめ、王城を囲繞せんが為め之を王宮の方に進めた(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p33)」とある。

 尤も、在京城各国使臣に対しては、「日韓談判の成行に因り、龍山に在る我兵の一部を京城へ進入せしむること必要となり、而して龍山の兵は午前四時頃入京し、王宮の後に当る丘に駐陣する為め南門より王宮に沿いて進み」と告げ、「且つ日本政府に於ては決して侵略の意なき旨を保証せり」と告げたと述べている。(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p16)

 7月22日、夕刻になっても朝鮮政府からの回答は無く、やっと深夜12時過ぎになって曖昧の回答を提出。兵営設置には無回答。自主問題には、内治外交が自主であることは中国も承知している、聶軍門の告示文のことは知らぬ存ぜぬ、袁世凱の言は、私論に過ぎず、清兵撤兵の事は、言っても聞かないのは日本兵も同じ、と。

 公使館では断然兵力を以て迫ることに決し、以下のように朝鮮政府にそのことを通告した。

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p48)
壬号
第八十五号

以書翰啓上候陳者貴暦本年六月二十日貴照会第十八号を以て云々御申越の趣致拝承候。

 査するに清国政府知照中我朝保護属邦例等語て掲げたる義に付ては先般本公使より公然及御照会候に付、貴政府に於ては既に御熟悉の義に有之候。
 聶軍門の告示に至ては牙山より全州に至る各地に貼付したる事なれば、是亦貴政府に於て素より御承知可相成筈と存候。然るに今貴督弁は徒らに与本国無渉、或は、未及聞知、等語を以てその責を免がれんとせらるゝは、是れ貴国自ら其自主独立の権利を墜損し、併て日朝条約朝鮮自主の邦有与日本国平等之権一節を無視するものにして本公使の断然同意し能わざる所に有之候。

依之此際貴政府をして条約明文を遵守せしむるが為め、満足なる回答を要求するは我政府が当然為す可きことゝ致確信候間、右に付至急御回答有之候様致度候。
 猶お貴政府より満足なる回答を与えられざるに於ては、時宜に依り我権利を保護するが為め兵力を用うることも可有之に付、右予め御承知相成度此段照会得貴意候。敬具。

  明治二十七年七月二十三日
           特命全権公使大鳥圭介
   督弁交渉通商事務趙秉稷閣下

 ふと思い出したのが、明治11年(1878)11月の「日本、朝鮮の条約違反に怒る」。
 あの時は軍艦比叡が実弾発砲演習を行い、海兵2小隊を上陸させて、税関のある豆毛鎮後ろの山野で散兵訓練をさせたのであるから、それに比べると今度のは随分おとなしい威嚇行動とも言える。尤もここは朝鮮国中枢の地であり、しかも王宮に対するものではあるが。

 ところが、あろうことか王宮護衛の朝鮮兵がいきなり発砲。

 

京城での小戦闘

(「7月23日 在京城 大島少将 参謀総長宛」C06060031900)

  七月廿三日午前八時発
  同  午後一時四十分着

 王城付近に居りし韓兵より挑まれたるを以て止むヲ得ず之れに応じ、今小戦中。
    在京城 大島少将
  参謀総長

  七月廿三日午前八時廿分発
  同  午後一時四十分着

 韓兵遁げた。鉄砲五十取りあげた。王城を守備す。
    在京城 大島少将
  参謀総長
       七月二十三日回覧済み

(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p35より、傍線は削除された文。)

電信訳文 廿七年七月廿三日午前八時十分発  同日午後三時七分着

東京陸奥大臣   京城大鳥公使

 朝鮮政府は本使の――電信に述べたる第二の要求[■■清国兵を国境外に駆逐するの件]に対し、甚不満足なる回答を為せしを以て、不得已王宮を囲むの断然たる処置を執るに至り、本使は七月廿三日早朝に此手段を施し、朝鮮兵は日本兵に向て発砲し、双方互に砲撃せり。

(「京城戦闘報告 大島少将」C06061829000)
  七月廿三日午後二時廿分発
  同 廿七日午後五時三十分着

 七時四十分戦闘全く止み、分捕の大砲十五門、小銃千挺以上なり。我兵死者二、傷者一ありる[本文不明]。一時頃大院君大闕に入る。
    在京城 大島少尉
  参謀総長

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p16より抜粋。)

 電信訳文  明治廿七年七月廿三日午後五時発 同同月廿七日 同十時廿分

東京陸奥外務大臣    京城大鳥公使

 発砲は凡そ十五分間も引続き、今は総て静謐に帰したり。督弁交渉通商事務は王命を奉じ来りて本使に参内せんことを請えり。本使王宮に至るや、大院君親ら本使を迎え、国王は国政及び改革の事を挙げて君に専任せられたる旨を述べ、総て本使と協議すべしと告げたり。(以下略)

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p32より抜粋)

機密第一三六号 本七九

 内政改革案拒絶に付、朝鮮政府へ掛合付大院君執政の件

(略)

廿三日午前四時龍山より兵一聯隊並に砲工兵若干を入京せしめ、王城を囲繞せんが為め之を王宮の方に進めたるに、彼より発砲したるに付、我兵之に応撃し遂に彼を逐い退け、城門を押開き闕内に進入し其四門を固めたり。(以下略)

 そして「日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」にも、
「廿三日早朝、我兵を以て王城を囲繞せんが為め之を王宮の方に進ましめたるに、僥倖にも彼より発砲したるにより我兵之に応砲し、遂に韓兵を逐い退けて闕内に進入せり。」(「日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」p4)
と。

 またここで雲揚号のことを思い出す。武力威嚇だ挑発だ、と人は言うが、つまりは朝鮮の方こそ、怺え性が無いというか、前後見境無しというか、要するに適正な判断が出来ない性質なのではないかと。

 なお、後に23日のことを詳しく報告した「混成旅団報告」によれば、日本兵戦死者2名は1名の誤りであり、また朝鮮兵の死傷者は5、6名あるとのことであった。また取り上げた朝鮮軍の武器は、大砲30門(クルップ山砲8門、器械砲8門、旧式山野砲10門ただし不具合のものが多い)、小銃、モーゼル、レミントン、マルチニー、など2千余挺、その他火縄銃無数。軍馬10余頭であった。

 

大院君への説得

 さて、またも大院君の出番である。この時もう75歳であり、儒学の政道しか興味の無いこの老人を、朝鮮改革の旗手とせねばならないのであるから、いやはや何とも。
 しかしまあ、この時尚徳望あって国王臣下人民を制し、嫁の政事への容喙を抑え、且つその閔一族を黙らせることが出来るのは、この舅御をおいて外にはいなかった。

 ところがこの頑固老爺、人の意見など聞くような性質の人ではない。まして日本人の言うことなど。

 以下、杉村濬の苦心談である。

(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 2」p1より現代語に、原文テキストはこちら、()は筆者補足。)

 大院君を誘い出すことについての役割としては、23日の午前2時頃から、岡本柳之助、穂積寅九郎、鈴木重元、及び通訳の鈴木順見を派遣して大院君邸に入らせて誘い出し、邸宅の外には荻原警部に巡査数名を率いて待たせて護衛に充て、なお入宮の際に護衛とするため、歩兵1個中隊をその外に待たせて不慮に対して警戒させた。

 この時、混成旅団長大島少将は既に大本営から牙山にいる清兵を討伐すべき旨訓令を受け、まさに日を期して兵を発っしようとする折しも、たまたま京城で事件あることが切迫していることに際し、1、2日間は牙山へ進軍する時期を緩めた。多分、清国政府が英船高陞号を借りて、援兵を牙山に送らんとしたことについて、大本営はこれを機会に戦端を開かんとの見込みであって、陸海両軍に訓令されたものと思われた。

 さて、又大院君の誘い出しは、積年の弊害ある閔族政府を打破し、内政改革を行う為には極めて必要と認めたのであるが、同君の同意を得難く、頗る困却した。

 そもそも大院君は、生まれながらの漢土(中国)崇拝者[朝鮮人は漢土を聖人の国であるとしてこれを崇拝するが、今の清朝については喜んでいない。]にして、且つ攘夷派なので日本を喜ばない人であるが、近年になって漸く世界の形勢を悟り、日清韓の3国で同盟して東洋の形勢を維持する必要を説き、日本人を優待する事とはなった。
 故に以前から我が公使館員とは皆が同君と交際がある。特に余は在勤が永いために、一層深い交際をしている。しかし、度々同邸に出入りすることは、閔妃と閔族の喜ばないことなので、館員は常に出入りに注意し、殊に我が兵の入韓の後は、特に嫌疑を避けてほとんど行くことが絶えた。

 このために同君と交渉する道がなく、ただ同邸の役員「某」が時々国分書記生のもとに来て、その密旨を伝えていたが、果して同君の意思であるかどうかも分からず、その要領を得るのも難しかったが、余は丁度思付いて、在韓中の岡本柳之助を同君に紹介し、同人を以て双方の意思が通ずるようにはしたのであった。

 岡本が始めて大院君を訪問したのは7月5日であるが、同日に長時間の議論を試みたが、院君は毅然として我が説に傾く様子はなく、その後2度訪問したが、終にその要領を得られなかった。

 ところが、岡本が同邸から帰宿するや、同邸の役員鄭益煥が来て、大院君の伝言と称し、
「今日は外聞を憚って意中を吐露しなかったが、御高見には尽く同意なので、そのように御承知下されたい」
と申し出、且つ度々その時機を早めることを促した。

 故にこちらとしては常に半信半疑が免れられない間に、時機は目前に迫り、今更、再考する暇もないので、岡本等を派して大院君を誘い出させようとした。

 しかし22日になって、同邸役員の鄭が来て国分書記生に告げて言った。
「国大公(大院君のこと)の内意を探ると、確定と認め難いところがある。万一事に臨んで躊躇されることがあっては、大事を誤ることになるのを恐れる。大公(大院君のこと)の信頼する人に鄭雲鵬という人がいる。その人の言うところを聞かないことがない。今は閔氏のために罪名を蒙り、某洞某氏の宅に囚禁されてから7、8年になる。故に夜にひそかに人を派して同人の囚禁を解き、彼に大公を説かせれば、事が成らないことはないだろう」と。

 これに於て国分書記生に巡査10名と兵卒10名を付け、23日午前1時頃を期して、同人を引出させようとした。

 右のように既に役割を定め、今や朝鮮政府の回答のみを待っていたが、22日の夕方になっても来ない。
 これまでの習慣では、およそ重要事件の回答の場合、朝鮮政府は常に躊躇して発っしないのを、こちらから再三催促を重ねてこれを領収したことが少なくなかった。故に韓廷はこちらの催促が来るのを予期したろうが、こちらからは1度の催促もしなかったが、夜半12時を過ぎて漸くその回答を領収した。

 その趣意は、
「我が国が自主の邦であることは朝日条約に載せた通りである。且つ我が国の内治外交が自主であることは清国ももとよりこれを知っている。清将の告示する条中に、「保護属邦」等の文字あるのは朝鮮政府の知らないことである。清軍は我が要請によって来援し、すでに度々その撤回を要請するも未だ退かないことは、なお貴兵が今も駐留すると同然である。更に清国政府に請うて速やかに退兵させるだろう」
とのことであるが、我が照会に対しては要領を得ず。よってこれを反駁する答書を整え、後段に、
「貴政府が我が権利ある要求を拒まれるに於ては、我は止むを得ず兵力に訴えて我が権利を保護せざるを得ないことがあるだろう」
と申し送った。

 この時既に午前2時になろうとしていた。余は、金嘉鎮、安駉壽の両氏とあらかじめ、事が起ったら我らがために周旋尽力すべき内約をしていたので、使丁[多年、公使館で雇っている朝鮮旗手である。各官衙、並に各国公使館は、皆旗手を以って使丁に充てるのが例である]に、前記の公文を送達させた後に金安両氏にその内通書を送らせた。

 午前2時を過ぎる頃、国分書記生は鄭雲鵬を禁室より引出して来た。同人は国分の突入に遇っても別に驚いた様子はなく、「拙者は鄭某ではない」と主張したようであるが、国分は種々に説き聞かせてこれを引き出したが、公使館に来た時もなお余に向って、
「拙者は国王の命によって囚禁されたものなので、みだりに外出するのは罪がある」
と言ってこちらの説得に従わなかった。

 よって暫くこれを官舎に移し、おもむろに食事等をさせ、国分と新庄の両書記生が繰り返し今の形勢を説き聴かせたところ、彼も初めて合点し、国家のために死しても尽力すべしと決心した。

 この時岡本等4人は、すでにひそかに大院君邸に向った。3時を過ぎる頃には、荻原警部及び数名の巡査も皆同邸に向った。

 3時頃から余は公使館後の小丘に上り、城内の景況を窺い見たが寂として声もなし。4時に近づいてもなお同様であることに、余はひそかに疑った。
 韓廷は早くもこれに気付いて城門を閉ざして開かないのではなかろうかと。
 この日は陰暦の21日(6月)であるが天は曇って月は見えない。既に東天が漸く白み、鶏や犬の声が四方に聞えた。

 余は双眼鏡を手にし、丘上の旗竿の下に蹲踞し、今や今やと待っていたが、王宮の前面の方で遠く喧騒の声を聞いた。これは我が兵が無事に入城したものであろうと推測し、少し安心したところ、たちまち2、3発の銃声を聞いた。多分王宮の衛兵が我が兵の進入を見て発砲したのである。
 引続き銃声が再びあり、我が兵が喚声を挙げた。城内の人民はこの銃声と喚声に驚かされ、難を避けんとして右往左往に奔走し、鼎の沸くような姿を呈した。
 既に王宮の右側にも銃声があり、王宮後の牆壁を越えて逃げる男女が甚だ多いのを見て、あるいは国王と王妃も後門から難を避けられたのではなかろうかと、ひそかに杞憂を抱いた。

 天は全く明け、銃声は止んだが[銃声が初めにあってから全く止むまでは、僅か2、30分間である]、大院君の動静は更に分らない。余は気掛かりでならず、丘を下りて人々に尋ねたがこれを知る者がなかった。

 しばらくして1巡査が、荻原警部の命であるとして駆けて来た。
「大院君は強情でこちらの勧言に従わない。無理にでも同君を誘い出して入宮すべきか、その命を待つ」と申し出たので、余は大鳥公使の認可を得て「この際、大院君の入宮は急を要するので、少々無理をしてもよい。ただ早くその目的を達せよ」と命令したが、すぐに思った。万一大院君の感情を害し、到底我が言に従わないようなことがあっては実に大事である。余自らが行かないわけにはいくまいと。急いで国分書記生を呼んで、まさに公使館の中門を出ようとする時、福島中佐が楼上から余を呼止め、「単行は危険である。しばらく待て。護衛の兵を付ける」と言った。

 余は待つことおよそ20分。門を出て急いで行く。途中で鈴木重元が騎馬で駆けて来て、大院君誘出の困難の状を報じるのに遇う。余はこれに向かい、「余は今行かんとしている。そのことを早く院君と岡本等に報せよ」と言って戻らせた。

 そのうち同邸に至ると、邸内には我が国の壮士等多数も混入しており、やや混雑の状態である。院君の乗る轎も殿前に引き出されている。
 荻原警部が余に告げて言った。
「今朝の未明前から岡本等が中に入って大院君と応接しているが、今だに埒が明かない。故に拙官は強いて誘い出さんと乗轎まで用意させたが、岡本等が拒んで許さない」と。

 岡本もまた余に告げて言った。
「大院君の誘出については、拙者等四人がその委任を受け、力を極めてこれを説き、今やや同意の色を見せている。それなのに荻原等がよそから色々の議論を持ち出して余等の行為を妨げた。このようなことでは、拙者はその任を果すことができないので、これから退場する」と。

 余は先ず両氏をなだめて名刺を院君に通し、進んで客間に入れば、院君の嗣子の李載冕、長孫の李呵Oの2氏がいて余を迎えた。李載冕は少し狼狽しているように見えたが、李呵Oは非常に喜んで余の手を握った。
 なお進んで院君の室に入れば、院君は臥床に横たわり、鄭雲鵬は衣冠を着けて座にあって静かに同君の入宮を勧めていた。
 これより先、同人は公使館から轎に駕して前後を語学生に送られて来たのであった。

 余は初め一応の理由を並べて院君の王宮に入ることを勧めたが、聴き入れる様子がない。逆に余に王妃の安否を尋ねるので、余はそれに答えて、「宮内の男女は後牆を越えて逃れたものが甚だ多い。多分彼等に混じって春川に潜行されたのではなかろうか」と。

 院君にはやや喜色があった。そのうち岡本が入って来る。院君は指差して言った。
「彼は英豪の士である」と。
 おそらく岡本が、先に院君が立たないなら自分は切腹して公使館に謝罪しないわけにいかない、と迫ったことが、痛く同君の恐懼心を起こさせたようである。

 余は重ねて説いた。
「今朝の場合、多言を費すのを要しない。そもそも我が政府は、ひたすらに東洋の平和を維持することを思って貴国に内政改革を勧めたが、閔党政府ではとても改革を実行する見込みがないだけでなく、陰にこれを拒絶した結果、止むを得ず今日の事態に至った。そして今や内外の人望は一に貴下の一身に集まったので、我が国は貴下が進んでこの大任に当られることを希望する。この際貴下が出られるなら朝鮮の中興は望めるし、東洋の平和はまた維持するを得るだろう。そうでないなら貴国家の安危はどうともまた知られないだろう。故に貴下が我が勧告を拒まれる場合は、我が国は別の方法をとらざるを得ない。願わくば貴下には御熟考下されたい」

と申し述べた言葉に続けて、岡本、鄭雲鵬の両人共に、「今日は実に千載一遇なので、躊躇すべきではない」と勧めれば、大院君は態度を改めて言った。
「貴国のこの挙は果して義挙に出たのなら、足下は貴国皇帝陛下に代って、事が成った後に我が国の寸地も割かないということを約束できようか」と。

 余はこれに答えて言った。
「自分は一書記官の身分なので皇帝陛下に代って何等の約束をすることも出来ないが、自分は現に大鳥公使の使いとして来た。大鳥公使は御承知の通り日本政府の代表者なので、自分は同公使に代って出来得る限りの御約束をすることが出来る」と。

 大院君は、それならば大鳥公使に代って我が国の寸地も割かない約束をすることを望むとのことで、侍者に命じて紙と筆とを持って来させたので、余は筆をとって「日本政府之此挙実出於義挙、故事成之後断不割朝鮮国之寸地(日本政府のこの挙は実に義挙に於いて出る。故に事が成るの後、断じて朝鮮国の寸地を割かず)」と記し、末尾に余の官姓名を署してこれを差し出した。

 大院君は一閲の後、「それならば即ち余は貴諭に応じて立つべし。ただ余は臣下の身分なので、王命なくして入宮できない。願くは勅使を発せられるよう取計われることを望む」と言われた。
 これに於いて急いで穂積を趙義淵の宅に派し、同氏をして宮中の都合を取り計らわせた。

 右のように大院君は既に一諾したが、なお容易に立つ模様がなく、侍者に命じて朝飯を用意させ、終って便所に行った。
 やがて戻って轎の用意を命じられた時、勅使参向の報らせがあった。院君は余等に目くばせして席を避けさせたので、一同は殿後の廊下に避けたが、なかなか勅使が来ない。時が既に9時半に及んだ頃、公使館から急使が来て余の帰館を促したので、余は後事を岡本、国分の両人に托して帰館した。

 余が未だ院君邸を去らない前に、武田聯隊長は国王及び王妃に謁見し、両陛下とも無事に御座あると知って大いに安心した。

 これより先に、国王には我が公使の参内を希望されているとの御沙汰があったようで、公使には言上方法などの相談のため、急に余の帰館を促されたものだったので、余は帰館するやすぐに公使の諮問に応じ、終って公使が出門されたのは10時過ぎで、同11時頃、公使は光化門より、大院君は正秋門より前後して入宮された。

 おそらく余が院君邸を去った後、程なくして内官が勅使として参向したので、院君の意は益々決し、我が巡査及び兵隊を護衛として参内されたのである。

 この参内に、同君は正秋門から数多の門を過ぎ、正殿まで進まれた時、国王には階を下りてこれを迎えられ、互いに手を取って泣き合い、院君は一言国王の失政を責め、国王はひたすらその失政を詫びられ、やがて親しく相愛する情は双方の面色に顕われ、共に手を携えて奥に入られたという。
 おそらくは多年の間、閔氏に妨げられて対面の機会も少く、讒言などもあって御親子の情は常に疎隔していたのも、1度の御対面で融然としてこれを氷解させたようである。

 この日、国王には御不例と称せられて公使を引見されず、大院君が代わって接見された。

 

ついに大院君入闕する

 そして大院君入闕に関する大鳥公使の報告は以下のものである。

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p34より抜粋、()は筆者。)

  内政改革案拒絶に付、朝鮮政府へ掛合付大院君執政の件

(略)
 ・・・種々探偵相用い候処、一般の人気は全く大院君に向い、同君も亦全く青雲の志なきにあらざる様子に付、兼て申進候通、金嘉鎮、安駉壽、岡本、小川等を利用し、先ず大院君を入閣せしむることに尽力致候え共、同君は今一歩の処に至り決し兼ぬる様子有之。

 誠に隔靴の感有之候間程々苦心致候処、同君の股肱にして大院君清国より帰韓以来、捕盗庁に幽囚され居る鄭雲鵬を獄より取出し、之を勧めて大院君を説かしむるに加(如)かずとの事に付、非常の手段とは存候得共、去る廿三日午前一時、国分書記生をして兵卒数名巡査数名を従え、右捕盗庁獄舎に赴かしめたるに、夜深の事とて一般に寂寥誰とて傍りに見るもの無之に付、始めの間は彼此鄭に於て故障云い立てたるも、遂に難なく之を引出し当館に連れ来りたる処、一時は稍々驚きたる様子にて、自分が今不図も大院君に見ゆるを得るは、実に歓喜に堪えざるも、自分は国王陛下の命により禁錮中の者故、日本人の手にて解放せらるゝは不本意なる旨相述べ候得共、追々利害を説きて大院君出でざれば国民を救うを得ざる旨説明致候処、彼も遂に之に服し候に付、国分書記生は此と同道直ちに同君邸に赴きたるに、大院君容易に蹶起すべき模様無之候得共、鄭雲鵬種々諫告する所ありたりし為め、大概は出仕に決心せり候。

 然此問題は、時刻相移り夜も明け来り候内、我兵と韓兵との間に発砲起り、遠くより望見するに、或は国王陛下闕後に落行かれたる事ある間敷やの疑慮有之候に付、本官も一方ならず心配し、遂に杉村書記官を大院君邸に遣し、速に出奔方相促し候処、同君の心中全く出世に意あるも、日本人に強いられ出でたりと云わば、当国人間の評言も有之候に付、態と我勧告に応ぜざる様子を偽装し、只管国王陛下より勅使の至ることを待ち居たり。

 此時安駉壽、愈(兪)吉濬等は、大闕と同君邸との間に奔走し、遂に勅使を差立つることに承りたるに付、大院君此に断然決意をなし、勅使の帰邸に引続き直ちに参内せられたり。

 是より先き、大闕内にては閔家の一族、我兵の侵入に驚き、追々諸門より逃走し、亜閔の輩も之に続き、闕内稍々騒擾を極めたるが為め、大君主陛下は特に外務督弁を当館に遣わし、速に本官に参内を致旨、王命有之候処、本官は直ちに入闕可致筈なりしも、日人韓人共に轎夫に不足相告げ、容易に纏まらざりしに付、遂に十一時頃、漸く出館参内致候処、此時大院君も亦参内相成、久々にて父子の対面満悦感泣の観あれば、大院君怒て国王の失政を責め、陛下は之を謝する実ある以て、一時は図らざる演劇を呈し候。

 其内大院君は正堂に出来り、本官に対し、大君主は本日貴公使を引見可致筈なりしも、同所の取込にて混雑に付、自分代て進謁を受くる旨を述べ、且つ自分は大君主の命により、自今政務を統轄すべきに付、当国内政改革の事は追て委しく貴公使に御協議可及云々述べられ候に付、本官は先ず大君主陛下の無恙なりしを祝し、次で大院君執政の賀辞を述べ、引取り申候。
 又各国使臣にも同廿三日午後三時進宮、同じく大院君に謁見致候。

右御報告に及候也
  明治廿七年七月廿五日
    特命全権公使大鳥圭介
外務大臣陸奥宗光殿

 大院君と国王、共に手を取り合って感泣し、そして大院君が怒声一喝、国王の失政を責め、国王はそれをひたすら詫びたという、まるで芝居の一場面でも見るような風景。
 なお後には、この時に王妃も大院君の膝にとりすがって泣いて詫びた、などという話も伝わっているが真偽は不明。

「朝鮮京城之小戦」 内務省検閲許可 明治廿七年八月 発行者 井上吉次郎 絵 小國政

 

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