日清戦争前夜の日本と朝鮮(24)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

朝鮮改革談判図 橋本周延筆 明治27年

 

改革案を朝鮮政府に提言

 7月3日、大鳥公使は朝鮮政府に以下の「改革方案綱領五条」に趣意説明を添えて提出し、国王に転奏するように依頼した。

(「日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」p24)

 貴国内政改革の今日に必要なる所為、并我政府は、其位地及友誼上の関係より、之を貴政府に勧告せざる可からざる所以の理由は、先般本公使が、貴国大君主陛下に謁見したる際、具さに御前に陳奏したりと雖も、本日内政改革案を提出するに当りて、改めて貴政府に向い其理由を詳陳せざる可からず。

 抑も貴国は最近十余年の経験に於て兵変、乱民、屡興り、国内平穏ならず。其余響施て隣国に及び、或は竟に外国兵を招来するの不幸を見るは、貴我両国の共に憂うる所なり。

 必竟するに、貴国は其独立を維持する原素就中、国内の安寧を維持する兵備に欠乏せる所ありて其勢、此に至るものと判定せざるを得ず。我帝国は貴国と一葦帯水を隔てゝ相隣接し、随て政治及貿易上の関係浅からざれば、貴国に於ける変乱は、我帝国の利益に影響する実に鮮少ならず。左すれば我帝国は、今日貴国の困難なる状態を観ながら其侭に看過す可からざるは勿論の事なり。何となれば、則ち我帝国は此際貴国の困難を秦越視するは、啻に年来の友誼に背くのみならず、之が為め、我帝国の安寧を害し、利益を損ぜんことを恐るればなり。是を以て嚮に帝国政府は、東京に於て貴国前後の方案若干条を画策し、之を我国と略同様の位地に立てる清国欽差大臣に提議し、同政府の協同を相求めたりしに、同政府は敢て之に応ぜず、冷淡にも我協議を斥けたり。

 然りと雖も我政府は輙く当初の目的を変ずるものにあらず。飽迄其趣意を追い、貴国に勧めて独立国に適当なる政治を確立せしめんと欲す。依て茲に本公使に訓令して改革方案五条を提出せしむ。
 貴政府諸公広く宇内の形勢を観、国家百年の長計を慮り、以て我政府の好意を空しうする無からんこと、深く希望する所なり。

   内政改革方案綱領

一 中央政府の制度并に地方制度を改正し、并に人材を採用する事。

二 財政を整理し富源を開発する事。

三 法律を整頓し、裁判法を改正する事。

四 国内の民乱を鎮定し安寧を保持するに必要なる兵備を設くること。

五 教育の制度を確立する事。

 右は内政改革の大綱領なり。其細目に至りては、貴政府に於て委員任命の後、更に本使より提議する所あるべし。依て貴政府は第一着手として、大君主陛下の最も信用せらるゝ大臣数名を委員に任命せられんことを希望せり。

 またその改革案細目は以下のものである。

(「日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」p26)

○ 内政改革方案綱目

第一条  中央政府の制度及地方制度を改正し、并に人材を採用すること。
  一 官守の職守を明かにすること。
    内外庶政を総理する機務は挙げて之を議政府に復旧し、六曹判書をして、各々其分職を守らしめ、而して勢道執権の弊政を廃止すること。
    内外政務と宮中事務と判然区別を立て、宮中に奉仕する官吏をして、一切政務に干渉せしめざること。

  一 外国交渉の事宜を重んじ、国家に代り其責に任ずる大臣をして之を主宰せしむ可きこと。

  一 政事を施行するに必要なる官衙を存立し、其余は総て之を廃止し、又は甲官衙の事務を乙官衙に合併し、以て簡便に従うこと。

  一 現在の府郡県治は其数過多なれば、宜く酌量して之を廃合し、民治に妨げなき迄の少数に止むること。

  一 事務執行に必要なる官吏員を存し、其余の冗員は之を沙汰すること。

  一 従前の格式を打破して、広く人材を登用する門を開くこと。

  一 売官の悪弊を停廃すること。

  一 時勢を参酌して官吏の俸給を定め、生を資て廉を養うに差支なからしむること。

  一 官吏収賄索銭の悪習を厳禁すること。

  一 地方官吏の情弊を矯正すること。


第二条  財政を整理し、富源を開発すること。

  一 国家の収入及支出を調査し、其制定を立つること。

  一 会計出納を厳正にすること。

  一 貨幣制度を改定すること。

  一 各道の田畝を精査し、租税を改正すること。

  一 其他の諸税法を改正し、若くは新税を設くること。

  一 不必要の支出を減省し、并に収入増加の方法を講ずること。

  一 国道通衢を推広修平し、并に京城と要港との間鉄道を建築し、并に全国重要の城市に通ずる電信を架設し、以て通信往来の便を開くこと。

  一 各開港場にある税関は一に朝鮮政府自ら之を管理し、他国の干与を容れざること。


第三条  法律を整頓し、裁判法を改正すること。

  一 旧法中時宜に適せざるものは概ね之を廃革し、或は新法を制定すること。

  一 裁判法を改正して司法の公正を明らかにすること。


第四条  国内の民乱を鎮定し、安寧を保持するに必要なる兵備及警察を設くること。

  一 士官を養成すること。

  一 旧式水陸兵は一切之を廃し、更に財力の許す所を量り、新式兵を増置すること。

  一 京城及各城邑に厳正なる警察を設くること。


第五条  教育の制度を確定すること。

  一 時勢を斟酌して学制を制定し、各地方に小学校を設立し、子弟を教育すること。

  一 小学校の設立準備するを持て、漸次中学及大学を設立すること。

  一 学生中、俊秀なる者を撰抜して外国に留学せしむること。

 

右各事項の内、左の事項は十日内決行す可きものとす。

  一 内外庶政を総理する機務は挙げて之を議政府に復旧し、六曹判書をして、各々其分職を守らしめ、而して勢道執権の弊政を廃止すること。

  一 内外政務と宮中事務と判然区別を立て、宮中に奉仕する官吏をして、一切政務に干渉せしめざること。

  一 外国交渉の事宜を重んじ、国家に代り其責に任ずる大臣をして之を主宰せしむ可きこと。

  一 従前の格式を打破して、広く人材を登用する門を開くこと。

  一 売官の悪弊を停廃すること。

  一 官吏収賄索銭の悪習を厳禁すること。

  一 京城と要港との間に鉄道を建築し、并に全国重要の城市に通ずる堅牢なる電信を架設し、以て通信往来の便を開くこと。
  但し、末項鉄道電信の二工事は、十日内に起工の決議を為し、準備出来次第其工を起すものとす。


左の事項は六箇月内に決行す可きものとす。

  一 政事を施行するに必要なる官衙を存立し、其余は総て之を廃止し、又は甲官衙の事務を乙官衙に合併し、以て簡便に従うこと。

  一 現在の府郡県を廃合し、民治に妨げなき迄の少数に止むること。

  一 事務執行に必要なる官吏員を存し、其余の冗員は之を沙汰すること。

一 時宜を参酌して官吏の俸給を定め、生を資て廉を養うに差支なからしむること。

  一 地方官吏の情弊を矯正する法を設くること。

  一 国家の収入及支出を調査し、其制定を立つること。

  一 会計出納を厳正にすること。

  一 貨幣制度を改定すること。

  一 不必要の支出を減省し、并に収入増加の方法を講ずること。

  一 各開港場にある税関は一に朝鮮政府自ら之を管理し、他国の干与を容れざること。


左の事項は二箇年内に決行すべきものとす。

  一 各道の田畝を精査し、租税を改正すること。

  一 其他の諸税を改正し、若くは新税を設くること。

  一 官道通衢を須く修平推広すべきこと。

  一 旧法中時宜に適せざるものは概ね之を廃革し、或は時宜を参酌して新法を制定すること。

  一 裁判法を改正して司法の公正を明らかにすること。

  一 士官を養成すること。

  一 旧式水陸兵は一切之を廃し、更に財力の許す所を量り、新式兵を増置すること。

  一 京城及各城邑に厳正なる警察を設くること。

  一 時勢を斟酌して学制を制定し、各地方に小学校を設立し、子弟を教育すること。

  一 学生中、俊秀なる者を撰抜して外国に留学せしむること。

 なお、期日を設けたのは「遷延の策」を避けるためである。

「旧警吏 policemen of old.」(「日本之朝鮮」有楽社発行 明治四十四年一月 87頁)

 「一 京城及各城邑に厳正なる警察を設くること。」とあるが、警官の役目をする者がいなかったわけではない。
 「捕盗大将」なる官位があったようであるし、その配下の者も警吏としていた。しかし、政府役人でありながら金銭次第で私的にも利用されるものであったようである。

 朝鮮警吏については、実際に朝鮮京城に滞在して見聞した人の著述に以下のものがある。

(「朝鮮国京城奇談」 小尾直蔵編輯 東京報告堂 明治十八年二月 三十三頁)

 巡査ありて市中を徘徊すと雖ども、多少の報酬を受て人の使用を達し、或は自己の用弁の為め多く奔走するものゝ如くして、人民の保護は不問に付したるの模様あり。
 故に偶々市中人民の争論するものあるも、侘立して之を見物するの巡査多し。是れ実に有名無実にして、動もすれば却て窃盗を働くものもある由。

 巡査の衣服は紺色のものを着し、帽子の形は人民と一様なれども、其上に赤き毛の麾幣(さいはい)の如きものを付着し居れば一目にして巡査たることを知る可し。

 朝鮮警吏は日本の巡査に相当する。写真のように弓矢まで装備する者もいれば、刀のみ或いは無刀の者もいた。刀は小ぶりの倭刀であり、柄を後ろの方に向けて腕の脇に提げる。
 日本武士の刀の差し方を見慣れた目には珍妙に映るものである。

 

朝鮮改革について

 さて、日清戦争と言えば、やれ朝鮮支配をめぐる日清の衝突だの、属邦か独立国かをめぐっての衝突だのという記述はよく見るのであるが、この朝鮮内政改革に関するものは殆ど見ることがない。

 日本政府が日清協同での改革委員設置を清国に提議したことも、清政府が受け入れるはずがなく開戦の口実としたに過ぎないと、陸奥の「蹇蹇録」に基くと思われる見方が殆どである。確かに陸奥は朝鮮改革に付いて次のように述べている。

(「蹇蹇録」「第五章 朝鮮ノ改革ト清韓宗属トノ問題ニ関スル概説」p3)

 余は固より朝鮮内政改革を以て政治的必要の外、何等の意味なきものとせり。亦毫も義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざりし。故に朝鮮内政改革なるものは、第一に我国の利益を主眼とするの程度に止め、之が為め敢て我利益を犠牲とするの必要なしとせり。且つ今回の事件として之を論ずれば、畢竟朝鮮内政の改革とは、素と日清両国の間に蟠結して解けざる難局を調停せんが為めに案出したる一箇の政策なりしを、事局一変して竟に我国の独力を以て之を担当せざるを得ざるに至りたるものなるが故に、余は初より朝鮮内政の改革其事に対して格別重きを措かず。又朝鮮の如き国柄が果して善く満足なる改革を為し遂ぐべきや否やを疑えり。然れども、朝鮮内政の改革は今や外交上一種の活問題となり、我政府は兎も角も、之が実行を試ざるを得ざることゝなりたれば、我国朝野の議論が如何なる事情源因に基きたるが如きは之を問うに及ばず、兎に角此一致協同を見たるの頗る内外に対して都合好きを認めたり。余は此好題目を仮、已に一回破裂したる日清両国の関係を再び調和し得べきか、若又終に之を調和する能わずとせば、寧ろ因て以て其破裂の機を促迫すべきか、兎も角も陰々たる曇天を一変して一大強雨を降らすか、一大快晴を得るかの風雨針として之を利用せんと欲したり。

 いかにも陸奥らしいクールさであるが、では日清協同の提案を出した伊藤博文も同様であったろうか。或いは又大鳥公使は。
 大鳥は朝鮮政府の人間と直接折衝する立場にあり、少なくとも当初は日清の衝突を避けるために随分と努力もし、また時に陸奥のやりすぎをたしなめてもいる。(後述)

 また、杉村濬は後には開戦も止むなしの意見となったが、朝鮮における日本の地位を清国と同等までに回復して、併せて朝鮮の内政を改革させることが望みだったと記している。

 或いは又、京城領事の内田定槌は、国家の富強は国政を改革して国民個々を富強とすることにありとし、現に大改革が出来たなら朝鮮は富強国となるだろうと朝鮮の将来に希望を寄せ、であるからこそ自ら改革することをしない朝鮮をそこに向わせるには、清兵を打破して清国は恃むに足りないものであること朝鮮人に知らしめねばならない、と述べている。

 一方、クール陸奥は例えば6月18日に大鳥公使に充てて次のような電文を発している。

 「此機会を利用して朝鮮政府に向い、京城釜山間の電(信)線の譲与、内地に於て日本人所属の商品に対する不法課税の廃止、防穀令の全廃を朝鮮政府へ要求すべし。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p24)
 と、どこまでも冷徹。
 この英文電報は「明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日」の画面2から1にあるが、和訳文はないようである。

 これにはさすがの大鳥も、
 「六月十八日の貴電に付熟思したるに、本使は同電にて御申越の手続を取ること能わず。何となれば本使は朝鮮政府に対し右等の要求を為す理由を有せず。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p25)」と返電し、後に陸奥宛の書簡でも次のように述べている。

 「・・・其御訓示相成たる京釜間電線の譲与、日本人に対する内地課税の廃止、及び防穀令全廃の事を、朝鮮政府に厳談する事は、此場合に於て時勢及徳義上、孰れの点より考案を下すも断じて得策と為すこと能わず。抑、今回我兵の派遣は、一は我公館と人民を保護し、他の一は朝鮮若し民乱を平定する能わざるときは、之を援助す可しと云う厚誼に外ならざるに、若し中途に於て俄然其目的を変じ、厚誼の為めに動きたる兵威を借りて、却って彼を強迫する小牙と為す時は、独り朝鮮政府の怨を買い、永く我信用を当国に得る能わざるのみならず、各国政府と雖も必ず我挙動を是視せざるべし、と被考候。(「明治27年7月5日から1894〔明治27〕年7月17日」p23)

 陸奥さん、道徳上でも間違ってますよ、と。

 また、杉村濬もこのことについて、
 「当時の情況は、朝鮮の変乱に乗じて自国の兵を出し、窃に為すことあらんとしたる清国こそ悪むべきものにして、朝鮮は寧ろ之を愍むべきも、毫も悪むべからざるものなれば、其国難に乗じて電線の譲与を要求するは、甚だ事理に適せざるのみならず、駐在官としては、実に為すに忍びざるものあり。殊に内地課税及防穀令の如きは現在行われ居らず、仮令行われ居るとしても、是は条約に違背するものなれば、必ずしも兵力を頼むに及ばず、平和手段にて之を廃除せしむるを得べし。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p24)
と述べている。

 陸奥のような冷厳冷徹さは外務大臣としてはこれ位で丁度良いのであろうが、誰も彼もが陸奥のような人物であったわけではない。むしろ日本政府全体の中では陸奥は異色の人であったろうし、一方、朝鮮の改革の事を真剣に考え、またそこに希望を見出そうとする人々もいたと言うことである。

 なお、朝鮮改革については、筆者なりにもっと突っ込んだ考察「朝鮮改革の意味」を記述した。

 よって、日本政府による朝鮮改革の提言は、もっと正当なる評価を受けて然るべきであろう。

 ところで電信線譲与のことであるが、朝鮮政府が設置した京城釜山間の電信線は度々故障し、1ヶ年のうち4分の1ぐらいは不通となるというとんでもない代物であった。それで朝鮮政府に修理を申し込んでもろくろく直そうとせず、日本側が所有して管理したくなるのも独り陸奥のみではなかったろう。

 先の大鳥の電信に対しても陸奥は21日に、
 「在天津領事と神尾隆安少佐の報告によれば、李鴻章は、乗船を始めた5,500人の兵士を6月22日から朝鮮に送るようである。それで、閣下はあらゆる不測の事態のために完全なる用意ができていなければならない。朝鮮政府に対して直に(京城と)釜山間の電信線を修理するように迫られたし。電信の遅れや、もし義州電信線が故意に断線されるなどの恐れがある場合は、閣下がその問題を引き受けて日本軍の技術者に修理させなければならない。(「明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日」p3)
と指示している。

 かかる切迫した状況下に於いて情報の遅れや欠落ほど恐ろしいものはない。陸奥にしてみれば是非なき要求ではあったろう。しかし結局は後に軍用電線を設置して対処している。それらについては、dreamtale氏の「電信守備兵」が詳しい。

 なお大鳥は先の陸奥宛の書簡の中で、防穀令について、
「彼等は元山防穀に因りて巨額の賠償金を払いたるに、懲りもせず毎年各地に大小の防穀あるは好事例にて、畢竟彼等は徳義心に欠け、自己の利益を図らんが為めには国家の利害を顧みざるに出ずる結果と被推察候。」
と述べている。

 地方官が防穀令を出す本当の理由は、内田定槌の国情報告で既に述べた通り。徳義心・・・そんなものはないっ。

 

朝鮮政府やる気なし

 しかし朝鮮政府内部には改革に反対する勢力が極めて強く、改革推進派は、これに抗することが出来ず、また去る明治17年の朝鮮事変における朴朴泳孝や金玉均の失敗を思い、進んで改革を唱える者もなく、やがては政府全員が改革反対の声を挙げるに至ったという。

 しかし、結局は日本政府の改革案を無下に拒絶する気力も無く、7日になって遂に大鳥の勧告に従って改革取調委員を選任した旨を外務督弁を以て大鳥公使に通知した。
 その委員は、内務督弁申正熙、同協弁金宗漢、曹寅承の3名であった。

 尤も外務督弁は、改革案のことは公然と照会はせずに内密に取り計らいたいと申し出、どこまでも内々のものとして扱いたい意向であったが、大鳥はかまわず以下の照会文を提出して更に委員との会同を促した。
(以上「日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」p25)

(「日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」p26)

第七十号
 以書柬致啓上候陳者、我暦本年六月二十六日、本公使が貴国大君主陛下に進見したる際、貴国内政改革の今日に必要なる所為并に我政府は其位地及友誼上の関係より、之を貴政府に勧告せざる可からざる所以の理由を御前に陳奏し、尋て本月三日、貴督弁に御面会を遂げ、改革案一冊即ち別紙同文を提出して大君主陛下に御代奏相成候様御依頼致置候。然るに今日に至る迄既に五日を経たるも、貴政府には採否孰れに御決定相成り候哉。未だ何分の御回答に相接し不申候。抑も我政府は今般貴政府に向い、内政改革を御勧告及び候次第は、該案趣意書にも詳陳致置候通り、東洋の大局を保全せんと願う深慮より起見し、偏に貴政府の御採用あらんことを希望する儀なれば、唯一日も速に御回答相待居り候。依て前記提出案に対し、明日即ち我暦本月八日正午十二時までに何分の御確答相成候様致度、此談照会得貴意候。敬具

 明治二十七年七月七日    特命全権公使大鳥圭介

   督弁交渉通商事務趙秉稷 閣下

 すると8日夜、外務督弁は公使館に人を派し、
「公然と照会されては迷惑なので、なにとぞ撤回するように」と依頼した。しかし大鳥はこれを断然拒否した。

 その感触として、朝鮮政府が改革取調委員を選任したことも、改革に意があるように見せて時間稼ぎをし、その間に諸外国に依頼して日本軍を撤退させようとの策に出たものであり、朝鮮政府には改革に正面から取り組む気は全く無いようであった。

 尤も、まあ政府役人や地方官など両班たち支配層にとっては、いわゆる痛みを伴う改革である。この連中が反対するのも当然と言えば当然。東学党などの民衆は先の首領全琫準の言のように歓迎したのではあるが。

 

 

各国各様外交錯綜

 さて、時局の流れ重視の筆者としては、煩雑にはなろうが、ここでまたこの間の各国外交に関する記録を掲載せざるを得ず。

 6月30日、露国公使ヒトロヴォーは本国政府から命じられたとして、陸奥外務大臣に次の公文を送付した。

(「明治27年6月29日から明治27年7月2日」p4より抜粋して現代語に。)

 朝鮮政府は同国の内乱は鎮定したことを、同国駐箚の各国公使に公然と告げた。また、清国兵并に日本兵を撤回させることに付き、各国使臣等の援助を要請した。
 よって本官の君主である皇帝陛下の政府は本官に命じ、日本帝国政府に向って朝鮮の請求を容れられんことを勧告し、且つ、日本が清国政府と同時に在朝鮮の兵を撤回することに付き、異議あることを申し立てられるに於ては、重大なる責任が生じることを忠告するものである。

 これに対し陸奥は、伊藤総理と相談して露国の勧告には従わないことに決し、同日夜直ちに在露国の西公使に、このヒトロヴォーの公文を添えて次のように打電。

(「明治27年6月29日から明治27年7月2日」p6より抜粋して現代語に。)

 右に対する回答は、閣議決定勅裁を得たる上で送るべきであるが、その要点は概ね以下のようなものである。

  第一 韓国騒乱未だ全く鎮定ならず。

  第二 騒乱の起る原因はなお未だ鎮滅にいたらず。而してその証拠には、数日前にも現に騒乱再発した。ゆえに露国政府はこの点については誤解したものと言わざるを得ない。

  第三 朝鮮に於ける日本の目的は、親交平和の外に他意は非ず。

 伊藤伯と本大臣は同意見にして、すなわち日本は決して露国の指図には従わないこととする。

 露国へ対し確定の回答を電信するまでに、もし必要の場合もあるなら閣下は自己の説として以上のことを発言されてもよい。

 続いて7月1日在英国青木公使に同様露国公使の公文を添えて以下のように打電。

(「明治27年6月29日から明治27年7月2日」p13より抜粋して現代語に。)

 日本駐在の英国臨時代理公使は本大臣に面会して、在清国の英国公使からの話として、
「日本政府の提議が、朝鮮国独立と変乱予防のことに止まり、属邦問題に論が及ばないならば、清国政府はこれを受理する意がある。」
と述べた。
 本大臣はこれに答えて、
「お申し入れの次第はほとんど矛盾致している。意味が理解できない。しかしもしもそのことを明らかに説明されるならば、本大臣は欣然としてこれを受理するだろう」と。

 閣下は、内密に英国外務大臣へ以上のことを告げ、そして伊藤伯と本大臣は決して露国の指図には従わない決心であることを申し伝えられたい。

 「蹇蹇録」によれば、英国をして露国を牽制させる意図をもっての指示であったという。
 ところで、「日本からの提議が朝鮮変乱と独立問題に関してだけで、属邦問題にまで論が及ばないなら清国は受理する」とはその意味がよく分からないが、清国の言う朝鮮国独立とは即ちその内政に干渉しないことであって、属邦論とは別のことである、と言うことであろうか。
 しかし陸奥は、「ハ? 属邦の独立国って何よ。何わけわからんこと言ってるんだろ」という感じか。

  同日続いて大鳥公使に打電。同様露国公使の公文を添えて同様の言を伝え、更に以下のように通知。

(「明治27年6月29日から明治27年7月2日」p18より抜粋して現代語に。)

 在英国日本公使は、六月二十九日付で次のように本大臣に電報した。

 英国外務大臣は本使に告げて曰く、
  「在清英国公使の報告に依れば、朝鮮問題について日本を強制するの目的を以て、李鴻章から露国の斡旋を要請した。このような情況に至った上は、一大紛議を生ぜざるを保証できない。その場合には、英国でも手を拱いて傍観は出来ない」と。
 英国外務大臣は、帝国政府から清国及び朝鮮政府に向って提議した要求の件を閣下から通知されるようにと本使に請求した。その目的はおそらく提議を承諾させることに仲裁する積りらしい。

 在日本英国代理公使は、清駐在の英国公使からの申し入れにより、本大臣に告げて言った。、
「もし日本の提議が朝鮮独立と擾乱予防のことを基礎とし、属邦論には触れないならば、清国政府に於いてはこれを受理する意向であると言える。」と。

 そのような情況なので、本問題を掲げて直接に各国との間に容易ならない外交上の問題となることも計られない。そしてたとえ日本は敢えて争闘を避けるにあらずといえども、日本が自衛の為めに止むを得ずに受けて立つ位置にあるわけではないので、開戦はしないと、英国露国その他各国に明言した言質を維持するだけの位置に居ないわけにはいかないことである。

 故に目下は閣下に於ては、閣下の処置を厳重なる抗議と改革に関する提案を貫徹させることに限定しなければならない。そして我が方から進んで激烈なる処置を執ることは避けるべきである。
 栗野政務局長は本大臣の口頭訓令を携えて7月4日に京城に着くだろう。閣下はその訓令によって働かれるべきである。
 大島少将へは参謀本部から訓令を発し、あまり急激なる処置を執らないように伝えた。

 つまり、開戦口実を急ぐな、過激なことをするな、の指示。

 また同日、北京の小村にも英国青木に宛てた同文を打電し、且つ内密に清国駐在の英国公使に対して日本側の意向を伝えるように指示。(「同上」p23)

 北京の小村公使からは同日付けで、清国の軍事情報も含めての電信が来る。

(「明治27年6月29日から明治27年7月2日」p26より抜粋して現代語に。)

 在清国の仏国公使は天津から次のような報告を得た。

「凡そ15営即ち7500人の清兵は直に派遣されるだろう。そしてその清兵は平安道の平壌に上陸するだろう。」

 仏国公使は開戦を非としている。また言うことに、
「朝鮮における仏国の利害は、ただ宣教師を保護することだけである。」と。

 独善的且つ排他的教義を掲げる宗教ある所、必ず戦乱をもたらすは歴史の示すところ。この後キリスト教と朝鮮内騒乱との関係浅からず。

 さて、露国公使公文への回答に関する閣議決定のことであるが、7月1日に陸奥から臨時閣議に提出されて決定の上、翌日2日に上奏裁可を得た。直ちにその日の内に露国公使に送付。
 それは以下のものである。

(「明治27年6月29日から明治27年7月2日」p28より抜粋して現代語に。)

六月三十日の来文に対する、露国公使え回答案

 去月三十日午後、露国特命全権公使閣下より下名に手交せられし公文は、頗る緊要に属するものなるを以て、帝国政府に於ては篤と熟閲を加えたり。

 右公文中に、朝鮮政府は同国内乱既に鎮定したる旨を、公然同国駐箚の各国使臣に通告したりと記載せられたるも、帝国政府が接受したる最近の報告の趣に拠れば、不幸にも朝鮮政府の該通告は大早計に出でたりと言わざるを得ず。然り而して右最近の報告にして帝国政府が確信するが如く事実なるに於ては、啻に事変を醸成するの原因未だ芟除せられざるのみならず、日本兵員を派遣するの已むを得ざるに至らしめたる変乱も猶お未だ全く其跡を絶つに至らずして、之が処分を要するものゝ如し。而して今若し該変乱の根源にして全然騒攘せられざるときは、将来又常に擾乱紛騒を引起すことを免れず。

 帝国政府の措置は、疆土侵略の意に出でたるものに非ずして、全く現在の形勢に対して已むを得ざるの必要に応ずるに外ならず。

 是故に帝国政府に於て朝鮮国内の形成全く平穏の域に復し、将来復た何等の虞なかるべしと認むるに於ては、目下朝鮮に在る所の日本兵員を撤回すべきことは、下名は之を露国特命全権公使閣下に明言するに躊躇せざるなり。

 帝国政府は露国皇帝陛下の政府が友厚なる勧告に対して謝意を表すると同時に、両国政府間に幸に現存する相互の信義と好誼とに因り、今下名がなせし明言は、露国政府に於て十分信を置かるべきことは、帝国政府の信じて疑わざる所なり。
前陳の事を露国特命全権公使閣下に回答するに当て、重ねて茲に敬意を表す。敬具。

 明治二十七年七月二日
       外務大臣陸奥宗光
  露国特命全権公使ミセル・ヒトロヴヲー閣下

 この閣議決定は、直ちに在露国の西公使にも伝えられ、また西から在英国公使館を除いた在欧米の各日本公使館にも通知された。

 在英国の青木公使には7月3日、陸奥は以下のように打電。

(「明治27年6月19日から明治27年7月3日」p15より抜粋して現代語に、()は筆者。)

 しばしば談話の末、在日本の英国臨時代理公使は、次のように在清国の英国公使に通知するはずである。

(日本政府の意向は次のものである。)

 もし清国が我が提案の第二項(乱民平定の上は、朝鮮国内政を改良せしむる為め、日清両国より常設委員若干名を朝鮮に置き、云々。)を以って我国に開談を申し入れるに於ては、日本政府は開談に異議なし。

 もし清国が朝鮮独立の問題を起さないなら、日本政府はこれを起さないだろう。撤兵の件は、談判開始の時にこれを取り極めるべきである。

 日本国は朝鮮に於いて凡て政治上及び通商上の事項に関し、清国と同様の権利特権を享有せざるべからず。

 本大臣は在日本英国臨時代理公使に向い、「独立の問題は、我国からこれを起したのではなく清国から起したのであるから、これに抗議するのも止むを得ないことに至ったのである」と述べ、特にその注意を促しておいた。

 

 次に、日本政府が入手解読した「英国外務大臣キムバーレー伯より在日本英国臨時代理公使パゼット氏への来電」の訳文。

(「明治27年6月19日から明治27年7月3日」p32より抜粋して現代語に、()は筆者。)

七月三日ロンドン発、五日東京着

 日清両国間は速やかに和親の談判を開始するものではないので、露国は欧州各国の連合仲裁を喚起しようとすることは疑いない。

 以下は内密である。

 清国は朝鮮におけるその地位及び主権、貢礼の事について最も恋々としている。貴下は日本政府へ、以下のことを内密に示すべし。即ち、

 清国はこれ等の点よりも、恐らくは寧ろ実際的に緊要の事項を容易に譲歩するだろう。故に女王陛下の政府(英国政府)は、日本が以上の数点を談判第一の条件としないことを望む。否、熱心に勧告するものである。
 そしてこれらの問題を双方が提起しないことを望む。

 朝鮮国が独立となるのは、外国干渉の機会をより以上多く加えることである。而して同国を監督保護する日清両国の権力はこれによって衰えるだろう。
 談判を速やかに開始することは最も緊急のことである。そして同時に又は次に兵員を撤回させることが最たる要点である。
 出来るだけの助力を、在北京■臨時代理公使に与えるように、在清英国公使シュンネル氏へ訓令を発すべし。

 英国の本音としては、日清だけが朝鮮に影響力を及ぼすのは困る、各国みんなで干渉すればよい、ということか。

 7月9日、露国の西公使から、公文回答に対する露国政府の表明を電信。

(「甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日」p30より抜粋して現代語に、()は筆者。)

 (露国)亜細亜局長は、本使に対して告げた。
「露国政府は、貴大臣の回答に満足し、かなり速やかに清国と平和の取り決めをあらんことを希望する。在日本露国公使及び在清露国公使にもその旨を訓令した。」
[本文は特に機密を要する。]

 つまり露国は、清国から縋られて一応型どおりに日本に対して勧告したに過ぎないことは明らか。
 亜細亜局長の弁によれば、当時露国外務大臣は重病であった(「同上」p23)が、そのことと露国政府のそもそもの思惑との関連はないだろう。

 

老人亭会議、仁川港中立問題

 さてさて、日本軍が駐留する朝鮮国仁川でも、駐在する各国使臣の思惑が錯綜し、やがて、仁川港を中立地とすべきであるとの声が挙がる。

 7月7日には、そのことについて朝鮮政府統理衙門に於いて各国使臣で会議が持たれた。

 ことの発端は、袁世凱が日清両兵の同時撤回を求めて協議を日本側に謀り、しかし日本からの異議があってこのことが立ち消えとなったことにより、各国使臣に助勢を求めたことによるものであった。

 露国代理公使ウェベルは北京に行って不在であったが、露国臨時代理公使が仏国理事官を伴って大鳥公使に向い、当初大鳥の撤兵約束を守るように切言し、その他種々の出来事についても常に日本とは反対の立場を取った。
 大鳥らは、その真意を探り且つ融和を謀らんと、露国仏国の両代理官を招いて饗応し、篤と懇談を重ねたが、両国使臣は日本に対して同情を表する傾向を見せなかった。

 次いで英国領事等の発議によって仁川港を中立地とすべきとの意見が興り、これを朝鮮駐在各国使臣会議に上げて日本側に迫らんとした。

 仁川港に上陸した日本兵は日本居留地の外に、各国居留地内の日本人居住家屋にも宿泊していたが、各国居留会の決議を以って、各国居留地内での宿泊を拒絶し、その上更に仁川港全体を中立地として日本兵の駐留を妨害せんとする画策であった。

 現地に於いて日本を困らせる策としては唯一のものと思われたが、7日には決議までは至らず、10日に第2回の会議を開くこととなり、日本公使への案内もあった。

 しかしそれが決まる前に、その日は朝鮮政府が改革取調委員との会同を約束していたので、大鳥公使は各国居留会の会議は欠席し、杉村濬書記官、国分書記生を伴って南山の麓にある老人亭なる所で改革取調委員との会議を持った。

 老人亭での会議は10日、11日の両日を以て改革案各条について詳細の説明をし、以後3日間の猶予を以て15日に再び会同して朝鮮政府の決心を聞く積りであった。

 13日、露国代理公使ウェベルは北京から戻り、翌日14日に日本公使館を訪れて大鳥と会談を持った。
 ウェベルは、駐清露国公使が不在中に本国政府の訓令によって6月3日に北京に赴いていたが、朝鮮の情勢が切迫したので本国政府から再び訓令で朝鮮に戻ったという。

 ウェベルは大鳥に日本政府の意向を尋ね、且つ言った。
「日清両国の間には何か誤解があるように思う。貴政府も平和を希望されるなら、北京駐在の小村公使に訓令して、天津で直接に李鴻章と会談させられるべきである。余は帰途に李氏を訪問し、その心中も察しているので必ず双方で満足のいく結果を見るだろう。」

 ウェベルは辞去する際に杉村濬に対して密かに告げた。
「清国は老国と雖もその兵は守るに強ければ、決して軽侮してはならない。貴国がもし清国と戦うことを望むなら、よろしく急ぐべきである。もし開戦に躊躇して遅れる時は、清国の軍備は益々整頓するだろう。目下、清国政府は外には平和を希望する装いをしているが、内には窃かに兵備に汲々としている。」


 15日、老人亭に於いての会同で、朝鮮委員は、「改革案の各条項は政府に於いても異議はないが、目下、日本の軍隊が駐屯しているため、民心は恟々として治まらないので実施し難い。」と述べるのみであった。

 16日、朝鮮外務督弁から公文を以って改革案に対する政府の決意を返答し、先の改革委員と同様、「日本兵がいるので人民は安堵しないので、これを実行することに苦しんでいる。よって先ず日本兵を撤回することを希望する。」というものであった。

 同日、統理衙門に於いて、仁川港中立に関する第3回目の会議が開かれ、日本公使館からは、大鳥公使、松井交際官補、国分書記生が出席した。
 会議当初、英国領事は熱心に仁川中立を主張したが、露国公使がこれに強く反対し、終に協議は調わずして解散し、以後仁川中立問題は再び起ることは無かった。
(以上「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p40〜p50より)

 どうやら露国公使ウェベルは完全に日本側に回ったようであった。

 尤も、もし仁川港中立の宣言が成立していたとしても、国家間の約束事となるわけでもなく、仁川駐留の日本軍は宣言を無視し、居留会は要求書を送って抗議をするぐらいのことになっていたろう。
 かつて金玉均殺害犯の洪鐘宇を上海居留区に於て処罰することを各公使を経て清国総理衙門に要求することを議決したが、清国政府は無視した。それと同様、何ら宣言に拘束力が有るものでもなく単なる居留地の一つの声に過ぎなかったろう。
 無論、無視すれば各国に対して悪印象を与えるぐらいのことにはなろうが。

 

清国政府、主戦論に向う

 7月に入っての、在天津の荒川領事と在上海の大越領事が外務大臣に宛てた報告がある。それを読むと、この頃の清国政府の動向がある程度は把握できようか。

 7月2日付、天津一等領事荒川巳次の報告から。

(「明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日」p13〜p15より抜粋。)  

 李鴻章并に欧米人等の動静上注意致居候処、去月十九日以来、李伯は出師の準備相急ぎ候如く相見え、且つ内々探偵頼居候者共よりも、現状内報致し来候。

 然るに、去月廿五六日頃より模様忽ち一変し、準備済の軍隊も空しく命令を待つに止まり、出発の模様無之に付、精々探索を遂げ候処、李の主戦意見、北京政府の拒絶する所と相成り、暫時李は断然日本に敵対するの止を得ざる理由を貫徹せしむる方に尽力致居る旨、聞及候。

 其間露国公使伯爵カシニーは去月廿五日、急に当地出発を見合わせ候に付、同人の挙動に注目致居候処、当港税務司にして李鴻章の外政顧問と目せられ居るデトリング氏并に盛海関等と会合すること頻繁なりと伝聞し、又同公使は露国政府へ電報を発し、其返電次第出発すべしとの事実は、露国公使館付武官の口外するところなれば、益々不審に存居候処、内密に報ずるものありたり。云く。

 実際李鴻章の内定を受け、デトリングと内議の上、日清間の仲裁を取るの意を決したるを以て、本国政府へ請訓せり。愈々同政府に於て談■するに及ばゞ同公使は再び北京に渡り、ウェーバー代理公使は京城に復任すべし云々儀て、其真偽は知るに由なきも、事実上疑うべき点不■に付、不取敢別紙甲号の通り電報及置候。今日迄同公使は出発の模様相見え不申候。

 李鴻章の挙動は去月三十日より又一変し、軍備を急ぎ、大いに計画する所あるよし。元より同伯の軍備上に関する件には秘密を厳守せしめ候次第なれば、何人も実事を知るみもの少なし。

 ■日来、二三の外国人来て内報する処に依れば、清国政府も李の主戦意見に同意したる如くに相見申候。

 日本政府より提出せる三ヶ条の協議案は、幾百弗を投じて探索するも、更に知れざる由なり。僅に三ヶ条の要求ありと申し居るものあり。現に露国政府仏国武官等の如きは、金銭を投ずる莫大なるも、実際のヶ条は知らざるなれば、李鴻章も深く秘し居ること明なり。然れども、李が兵力を以て日本の行為に対し敵対する決心は充分に相顕われ候。

 目下、準備済にして出師命令を待ち居る兵は小站八営并に北塘弐営にして、其司令官は小站は衛汝貴、北塘は呉育仁と申すものなるよしなり。

 依て一営五百人とせば、十営にて五千人なれども、此後の模様に依れば幾分か増加するも知る可からず。本月一日以来の内報に依れば、李鴻章は大兵を海州に集むるの計画を為し居るとの事なり。并に以後朝鮮へ出兵するに於ては、大同江より上陸せしむべき筈の由、窃に探知せるを以て、本日其旨第一号の通り電報及置候。

 外国人等并に普通清国人等の伝うる所に依れば、日清間の事情大に切迫し来り、五六日間には開戦に及ぶべしと、何にとなく穏ならざる風聞に有之候。現に本日日本郵船会社代理店主フヰリッポー氏来館云く。

 或る清国官吏より窃に聞く所に依れば、事情旦夕に迫り居候に付、本月六日着津すべき玄海丸は、大沽砲台より発炮の恐れありと。果して右様の場合なれば同船着津前、相当の注意を与え度存候が如何に候哉と、同人より申出候儀にて、小官は右様危急の理由あるを知らず、日清間争闘の模様ある如きは毫も承知致さず候に付、何にも気遣うに及ばざるべしと■置候。

 「李鴻章は6月19日以来、出兵の準備を急いでいるように見える」とある。日本政府が協同委員設置と朝鮮改革の3提案を伝えたのが6月16日であるから、李鴻章は即座にそれを拒絶することにして直ちに開戦準備に入ったと思われる。
 しかし25、6日になって動きが止まり、北京政府が李鴻章の主戦意見を拒絶したとあるから、先述した「在清国公使館撤回始末書」にあるように、北京政府内で平和主義を唱える者が多くなり、李鴻章の行動を制限しようとする動きとなったと。しかしそれがまた6月30日になって「軍備を急ぎ大いに計画するところがある」ということになり、外国人の内報によれば、清国政府は遂に李鴻章の主戦論に同意したということらしい。7月1日の内報に依れば、大兵を現在の北朝鮮黄海南道の海州に集合させ、また以後出兵するに於ては大同江から上陸させるはずであると。

 次に7月6日付の在上海総領事大越成徳報告の「北清日報」の記事から、北京政府が主戦論に傾いた様子がある程度窺える。

(「明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日」p20〜p21から抜粋。)

  清国廟議全然我要求を拒絶するに一決せりとの風説

 今朝の北清日報は、北京通信者よりの電報として掲げて曰く。

 総理衙門諸大臣は、朝鮮事件に関し皇帝陛下の諮問に応ずる為め、本月二日会議を開けり。列席の王大臣は、慶郡王を始めとし、福錕、孫毓汶、徐用儀、廖壽恒、崇禮の五大臣にして、張蔭桓は大鳥公使と談判の為め朝鮮へ出張を命ぜられ、既に出発せし後なりしを以て列席せざりし。

 議場に於いては随分激論もありたる由なるが、徹頭徹尾平和を主張したるは慶郡王一人にして自余の諸大臣は、所謂日本政府の傲慢無礼を痛く攻撃し、若し日本にして斯く多数の兵士を送らず、且つ第一に清国と協議を遂げしには、互に事の齟齬を来すこともなく、清国に於ても大に日本の懇望を満足せしむることありたらんに、彼れの挙動は之に反し、我が中国を蔑如せるの甚だしきものなり。我はこの際、一歩も彼に抂ぐべからず。若し然らずんば、天下公家の嘲りを如何んとの主意にて、其より陛下へ奉答することに決したり。

 聞く所に依れば、福錕も亦窃に慶郡王に同意せしも、他の熱心なる主戦論者に反対するの勇気なく、遂に多数の意見に雷同せりとのことなり。右奏問の結果として、皇帝よりは張蔭桓を呼戻すべしとの勅命下り、即時に急飛脚を立てゝ張等の後を追わしめたり云々。

 右は或は事実とも被存候に付、既に北京公使館より探知の上、電報相置候承知申とも存候得共、■の為め別紙の通り今朝発電に及びたる次第に有之。尚其後当地へ■■の電報は、益々危機切迫の模様に相見え候。右及趣申候也。

 ま、要するに日本政府は傲慢無礼であると。そうだろうか。ここに到るまで結構正当な手続きを踏んでいるように見えるが。
廟議最後まで平和を主張したのは、乾隆帝の血筋を引く慶親王だけであったらしいが、この頃、既に英国公使の調停が始まっており、清国政府大臣等のその胸中を隠しての駆け引きがまた面白い。

 

英国の調停工作続く

 天津の李鴻章は露国に、北京総署の王大臣らは英国に、それぞれ仲裁を依頼していたが最後まで日清両国の衝突を回避させんと粘り強く調停を行ったのは英国政府であった。

 日本政府が、露国政府の勧告に対して公文回答した前日すなわち7月1日、在日英国代理公使は在北京英国公使からの伝言として、清国政府は、日本政府が清韓両国の宗属の関係に嘴を容れないなら日本の提議を拒まないとの意向がある旨伝えた。

 よって陸奥も、清国との開談を拒む積りはないと答え、英国代理公使と談論を重ねた末、日本政府としては、

・ 朝鮮内政改革の為めに協同委員任命を清国政府が承諾すること。
・ 日本政府から朝鮮独立の問題は発議しないので、清国政府もまたその宗属関係のことは発議しないこと。
・ 撤兵の事は開談初めに於て商議すること。
・ 日本は朝鮮に於ける政治上通商上とも清国と同等の地位に立つを要すること。
を要望とする旨、在北京英国公使に通知し、また北京の小村臨時代理公使にも同様を通知した。

 7月4日、在北京英国公使の周旋するところがあったと見えて、同公使は小村に、清国政府は小村公使と談判の基礎について弁論を欲するところがあると伝えた。
(以上「日清韓交渉事件記事/概説」p2〜p3)

 しかし、7月2日になって北京政府は主戦論に傾いたことは既に記したとおり。それが「北清日報」の記事になるのは6日である。

 在北京英国公使の話を受けて、日本政府が小村に訓令して清国政府と対談させたのは7月7日であった。

(「明治27年7月28日から明治27年8月1日」p27より、現代語訳、()は筆者。)

七月七日午後三時
列席総署王大臣、慶親王、孫毓汶、徐用儀、崇禮、張蔭桓
臨時代理公使小村寿太郎、三等書記官鄭永昌訳述

小村 「過日、英国公使オコーノル氏が本官を訪問し、貴王大臣に於ては朝鮮事件に付いて談判の基礎となるべき弁法を案出され、本官と御商議なられたいとの旨を伝えられた。よって本日は貴王大臣の御提案を伺うために面晤を求めた。

孫毓汶「この事件について本大臣と商議すべき旨を貴政府から訓令はあったろうか。」

小村 「そうではない。本官は貴王大臣等と商議すべき旨の訓令には接していないが、英国公使から伝知されたこともあるので貴王大臣・・・(小村の話途中で次の慶親王の言があったと思われる。)」

慶親王「貴国政府からは、本王大臣の意見を電知すべき旨を貴署大臣(小村公使のこと)へ訓令があったろうか。」

小村 「本官は、公然この事件に関する貴政府の意見を、我が政府に電知すべき地位にある。」

徐用儀「この事件については、貴署大臣と商議出来るだろうと、英国公使から承ったが、貴署大臣の御話とは少しく齟齬いたした。多分、英国公使の誤解から出たと察せられる。」

小村 「それは英国公使の誤解ではない。貴政府の御考案の如何によっては、我が政府も特に委員を命じて貴王大臣等と会議の運びに至るやもしれない。殊に今回の事件は、なるべく貴我両国間に於て、速やかに協議の端緒を開かないなら他国の干渉を招いて、事は日一日と難しくなるので、その辺は最も注意すべきことと考える。」

孫毓汶「実はこの件について、貴政府から更に考案を提出されて、我が政府はその案に基いて貴署大臣と協議を遂げることを希望していた。」

小村 「我が政府は先に三ヶ条の提案を出したが、貴政府に於いては断然これを拒絶されたので、今回は貴政府から何らかの提案を出されることこそ当然の順序であろう。よって貴政府から速やかに提案を出されたならば直ちに我が政府に電知すべし。」

孫毓汶「なお一層の評議の上で、何分かの御回答に及ぶべし。」

小村 「それでは貴王大臣の御参考までに明言しておきたいことは、目下朝鮮に於ける両国兵員の撤回のことは、談判開始の第一番に議定すべき事項であって、即ちその撤回方法及び時期などに関しては、談判委員に於いて商議を遂げるを必要とする。」

孫毓汶「撤兵の事は英国公使にも申し述べた通り、開議の第一節にこれを商議する心得なれば、この点は本大臣等においても御同感である。」

慶親王「早くは明日、遅くとも明後日までには相違なく御回答いたすべし。」

小村 「然らば、この件は速急の処分を要することなので、遅くとも明後日までには必ず御回答あらんことを希望する。」

 なにやら清国大臣らと小村の間で議題について若干の齟齬があるように思われる対談内容である。
 在北京英国公使の周旋の言が、清国政府に対するものと小村に対するものとで少しく違っていたのだろうか。あるいは清国大臣達はこの時点で尚も日本政府の変化をこそ期待していたということか。それとも、既に開戦は決定しているので一応は英国公使の顔を立てる形で、出兵準備の時間稼ぎをしようということだったろうか。

 7月9日、小村は清政府からの通知を待たず、その返答を得るために自ら面談を求めた。

(「明治27年7月28日から明治27年8月1日」p30より、現代語訳。)

七月九日午後四時、朝鮮事件に関し総署王大臣と面談概略左の如し。
列席、総署王大臣、慶親王、孫毓汶、徐用儀、崇禮、張蔭桓
臨時代理公使小村寿太郎、三等書記官鄭永昌訳述

小村 「過日御面談のことについては、遅くとも今日中には御回答のはずなので御通知に先立って御面談を求めた次第である。」

孫毓汶「本衙門からも本日まさに御面談いたしたい旨の御通知をせんとせし際に、貴署大臣の御来翰に接したり。」

慶親王「日清両国は同文の隣邦にして友誼敦厚いまだ嘗て和を破ったことはなかったが、はからずも今回の事件を惹起したのは、本王大臣の等の最も遺憾とするところである。よってこの件に付いては、なるべく貴我両国間に於いて協議を開いて速やかに事の結局に至らんことを希望する。しかるに、目下のように両国から多数の兵員を派遣していては、第一には諸外国をして種々の疑惑を起さしめ、且つ他国からかれこれの干渉を免れ難い。第二には、両国兵隊の不慮の衝突に依り遂には両国の和親を破らんとする懸念に堪えないので、貴我両国間で談判を開く前に於て、互にその兵員を撤回するは目下の急務であると考える。」

孫毓汶「この頃朝鮮国は、賊乱も全く鎮定したとの報道に接したので、最早両国の兵員を駐在させる必要はない。就いては、談判を開く前に於いて、同時に両国の兵を撤回させ、しかる後に両国で善後の策を協議したい。まさしく両国の兵員撤回は天津条約の明文に照らして実行するものとする。」

小村 「本官は、貴王大臣の御考案を我政府に転知するまでに止まり、かれこれ貴王大臣と弁論を重ねる必要はないが、単に本官一個人の意見を申し上げたい。朝鮮国はすでに内乱は鎮定したとの御説明であるが、本官が得た報道に拠れば、同国の官軍は決して叛賊を鎮圧して平定に至ったとは明言し難い。あの叛賊は、両国の兵員が着韓したのを聞くや直ちに全羅道の南部に退却し、各処に潜伏しているとの由である。朝鮮官軍は賊兵など退去の後に該道全州に進み、良民を賊兵に見誤り、老若男女の差別無く多数の良民を傷害したのみで、なかなか数万の賊兵を鎮圧したものとは思われ難い。よって該国に駐箚する兵員は、内地の実際の情況を確かめた上でないなら容易に撤回はできないだろう。また、情況次第では談判開始の第一番に賊兵鎮圧及び人民保護のために、実際いくらかの兵員を駐留させる必要があるやも議定せざるを得ないだろうと察せられる。」

孫毓汶「このほど朝鮮内乱の実際情況については、在牙山の葉提督からの報道に接した。現在、全羅道は全く鎮定するに至り、その他に於いても賊の首魁数名を捕縛して直ちに重刑に処せられ、その他主だった匪賊の大半も降伏したと言う。最初数回の報道は大いに疑わしいことが少なくなく、本大臣等に於ても信を置かなかったが、今度の報道は葉提督部下の士官数名を派遣して朝鮮官軍と共に内地に入り、実際の景況を探偵したものにつき、事実の相違は無いと確信する。」

小村 「朝鮮国目下の状態は、今日は安寧でも明日は期し難い有様で、一旦両国の兵員を引上げたならば国乱は再び起るは必定である。よって我が政府は今回貴我両国に於て、充分に協議を遂げ、力を尽くして再発の根源を絶ち、再度の出兵をなからしめんことを切望するを以って、談判の初めに於て撤兵の一事を御商議いたしたいという訳である。」

徐用儀「在貴国の露国公使は、貴政府に対して日清露の三国会議を開かんことを申し入れたりと聞き及ぶ。貴政府はこれに対してどのように回答されたのか。」

小村 「そのことに付いては英国公使からも伝承している。しかし我が政府からは未だ何等の通知も無い。よってその真偽を知る由も無い。本官一個人の考えに拠れば、もし果してその事があるなら、我が政府は断然これを拒絶するだろうと思考する。もし露国が貴政府に申し入れるならばこれに対してどう回答されるか。」

孫毓汶「我が政府に於ても勿論これに応ずる理は無い。」

小村 「聞く所に拠れば、李中堂は露国へ仲裁を依頼されたる由。その真偽はいかに。」

徐用儀「それは全く偽説である。露国公使カシニー氏が貴国の途中、天津に於て今回の事件を聞知し、仲裁の義を直ちに本国に上申し、同氏からその事を李中堂に申し入れた由にて、李中堂から発言したことは断然無いことと確信する。」

孫毓汶「我が政府も露国に対してそれらの依頼をする必要はない。我々はなるべく他国の干渉を避け、速やかに貴我両国に於て妥協を遂げることを切望するに外ならない。殊に貴我両国は天津条約に基いて出兵せしゆえ、朝鮮国の内乱も鎮定し、国王から撤兵の請求をした以上は、貴我両国も天津条約の明文に照らし、日時を定めて一同撤兵するは至当の処置であると思考する。露国は求めてこの件に干渉したい意がある。もし露国が貴国の例に倣って、彼も共に事を計らんことを申し出た時は、彼も朝鮮国とは直接の関係を有するに付き、強いてこれを拒絶し難い懸念がある。(日清)両国の兵は天津条約に拠り撤兵する義なので、他国に対しても体裁宜しく且つ他国の干渉を招く虞も無い。」

小村 「我が政府に於ては、露国政府から撤兵を申し込んでも拒絶したぐらいであるから、我が国の兵員のことは、事が定まらない間は決して撤兵しないだろうし、また露国がもし三国協議を申し入れても我が政府は決してこれに同意を表することはないと確信する。彼は朝鮮に対して隣国の誼があるといっても、文字も異なり、聖人の教え(儒教)を奉じない国柄なので、朝鮮に対する日清両国の関係と同様の論とはならないだろう。」

孫毓汶「露国は聖人の教えを奉じてなくとも、隣国の実があるは如何に。今のように両国の兵を朝鮮に派遣し置いては、諸外国をして種々の想像を起させ、遂には欧州諸国までもこれに干渉するに至るだろう。よってこの患いを除くには、速やかに両国の兵を撤回するにあり。また貴国の兵を撤回せられても、この事件に関する談判を開かない所存にあらず。先ず撤兵を第一番に実行し、然る後に貴我両国に於いて朝鮮王に勧告し、内政を改良せしむるなどのことに付いて御協議いたすべし。」

小村 「我が政府に於ても是非撤兵を拒み、貴政府の請求に応じないというわけではない。しかしながら、撤兵した後は如何なる方法をもって彼の国の内政の改良を施し、また今後の国乱を予防するのか。一定の御考案を承知しない間は、決して撤兵のことを承諾しないだろうと確信する。それなのに貴政府に於いて強いて即時撤兵を主張される時は、英国公使の折角の尽力も無効に帰する次第にて、誠に遺憾に堪えない。」

徐用儀「元来この事件については、貴国から提案を出されたが、我が政府に於ては、なにぶん御同意を表し難いことを御回答したので、貴政府からは更に他の弁法を案出して御提出のことと存じ居たわけで、実は本大臣等に於ては、撤兵後に如何なる方法で彼の国の内政を改良すべきか、この席で簡単の言語を以って申し尽くすべき一定の考案は無し。先ず、撤兵を実行した上で改良等のことについて御協議いたしたき所存である。」

小村 「今回の事件に関し、貴政府に於いては一定の御考案を聞く事も出来難い上は、最早いたしかたないので、その趣旨を我が政府に伝達すべし。ついては、本日貴王大臣の明言されたる事は、即ち貴政府の御意見として我が政府に上申しても苦しからずや。」

孫毓汶「然り。本大臣等の陳述したことは全く我が政府の意見に相違無し。」

小村 「本日承った御意見は、一言半句も間違いなく我が政府に電報を以って上申する心得なので、貴王大臣の陳述された御意見の要旨を書面に御認めなられたい。」

孫毓汶「夕刻までに認めて御送付いたす。」

小村 「本官は帰館後直ちに発電の積りなので、今夕刻御送付では間に合わないので、在席の書記官にその認めを御下命されたい。然る後に本官はその文意を照らして発電いたすべし。」

徐用儀「本大臣等が陳述せしことは明瞭に御了解なので、別に書面に認める必要は無いと存ずる。殊にこのような事項は書面に認めた慣例は無いので御断りしたい。」

小村 「それならば、誤解無いように、本官に於いては了解した貴王大臣の御意見の要点を更に繰り返す。『現今、朝鮮国に於ける内乱は既に鎮定に至ったので、日清両国から派遣した兵員は天津条約の明文に基き、直ちに撤回するを要するのみならず、両国の兵員を駐在せしむるに於ては、他国からも出兵の虞あり。よって談判は撤兵の後に非ざれば開き難い。』と。」

徐用儀「その通りで相違なし。」

慶親王「本日陳述した我が政府の意見に対し、貴政府からの回電御接到の上は、速やかに御報道あらんことを希望する。」

小村 「委細承知した。」

    畢

 つまり、先ず両国の兵を撤回しないならば清国政府は何等の談判をも開始することは出来ない、が回答と。英国公使の面目丸つぶれの一幕。

 朝鮮政府や清国政府の人たちに共通しているものがある。それは、論理として日本側を納得させる議論が出来ないことである。つまり論理的な議論が出来ないのである。
 ここでも撤兵理由を諸外国の干渉と日清兵不慮の衝突の恐れにあるとし、天津条約に基いて日清同時に撤兵するべきであると王大臣達は説いているのであるが、そもそも日本が出兵したのは朝鮮と締結した済物浦条約に基いてのことであり、兵数も撤兵判断も日本政府の自由であって、清国政府はおろか朝鮮政府すら口出しできないものであることは条約上明らかである。
 まして、諸外国が日本同様に兵を出すなら云々というのは、まさに王大臣らは愚の骨頂。万国公法が何のためにあるやと。これでは、かつて金宏集が、馬鹿発言する朝鮮大臣達を「どうしてそのような出鱈目な大言を出すのか。この言葉が一度他に伝わるなら、大いに大臣たる体面を損じるだろう。万国公法のある以上は、万一もそのような理はない。口を慎んで国王を煩わすなかれ。」と叱責した言の方が遥かにまともなものであろう。
 まして、李鴻章が露国政府に調停を依頼したことは明白であり、それを虚言を以て弄せんとするばかりで、決して日本人を論理的に納得させるような、所謂論破できるような議論が出来ないということこそが、結局は日本政府をして否応無しの武力による解決に向わせているように思われるのであるが。

 英国公使も話が違うと清国政府に抗弁したが、頑として動かないので遂に英国公使はその周旋を中止するに至った。

 

事実上の最後通牒

 よって7月12日、日本政府は以下の照会文を閣議決定し、小村臨時代理公使をして清国政府に通知させた。(清国政府への通知は14日(「明治27年7月28日から明治27年8月1日」p42)。)
 陸奥は「蹇蹇録」に於いて、先の6月22日の清国政府の提議拒否に対する同日の汪公使へ宛てた書簡を以て、第一次絶交書と言い得るとし、又この照会文を以て「是れ清国政府に対する日本政府の第二次絶交書と謂うべし(「第七章 欧米各国ノ干渉」p9)」と述べているが、その後の日本政府の.動向を見れば、これを以て日本政府の事実上の「最後通牒」と言ってよいだろう。

(「明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日」p26〜p28より、太字は欄外の文、()は筆者。)

七月十二日閣議決定

  照会案

 朝鮮国に於ける内訌変乱の屡々起る所以は、其内政の治らざるに職由す。故に帝国政府は、該国政府をして其内政を改良せしめ、因て以て其変乱の根源を掃絶せしむるに如くはなしと信ず。
 而して之を実行せしむるには、該国と痛癢の関係を共にする貴我両国にて助力を与うるに如かずと思惟し、之を貴国政府に提議せしに詎(なん)ぞ料らん貴国政府は截然我提議を排斥せられ、而して只だ専ら我が撤兵を促されたり。

 頃ろ又、貴国駐箚英国公使が貴我両国に対する友情を重んじ好意を以て居仲周旋し、貴我の岐議を一に帰せしめんと務められし所ありたるも、貴国政府は依然として只だ我が撤兵のことのみを主張せられ、更に我意見を納れられんとするの色なし。

 是れ則ち貴国政府が事を好むものに非らずして何ぞや時局既に此に至る。将来因て以て生ずる所の事体は、帝国政府の責に任ずる所に非ざるなり。

 同時に陸奥は京城の大鳥公使に以下のように電訓。

(「明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日」p55)

 電送第三二八号
 北京における英国の調停が失敗した今、断固たる処置を施す必要がある。したがって閣下には、よく注意をして世界の注目が批判とならないような口実を選び、実際に運動を始めるべきである。

 ところで、日本政府が清国政府の要望を受け入れて、朝鮮の独立問題すなわち清国の属邦問題を棚上げにするという所まで一旦は譲歩したことは、意外と言えば意外。

 英国外務大臣が駐日英国公使宛ての7月3日電文の中で、「清国は朝鮮におけるその地位及び主権、貢礼の事について最も恋々としている。」と述べていたが、確かに清国にとって朝鮮が属邦であることはどうにも譲れないことであったと思われる。よって、このことを日本政府が触れないならば、宗主国としての体面を一応名目上は保てるはずである。だが結局は清国大臣等は開談そのものを拒否。しかも最初から話し合いをする気は無かったと言わんばかりの態度である。在北京英国公使も怒ったことであろう。

 で、日本政府としても、では将来何か事が生じても、話し合いに応じようとしなかった清国政府の責任ですよ、という局面に駒を一つ進めたと。

 しかし翌日7月13日になって、在英青木公使から以下の電信が来る。

(「明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日」p35)

明治27年7月12日発  13日接
東京 陸奥外務大臣    在英青木公使

 英国外務大臣は今なお我が国に対して友誼の情を懐いている。同大臣は内密に本使に告げて言った。

「去る土曜日[7月7日]、貴大臣の提議を受納するよう英国と共に清国を勧誘するように、露国、仏国、独国、米国の諸国へ申し込んだ。そして独国は直に同意したが、他の諸国はまだ分からない。」

 また外務大臣は、この処置は露国が単独で干渉することを避けるためである、とも述べた。

 英国は露国の動きこそ最も警戒し、仏独米をも巻き込んで清国政府に日本政府の提案を受け入れさせたい意向。
 英国も割としぶとい。その後、強力に周旋したのか、7月19日、在日本英国臨時代理公使は次のような覚書を日本政府に提出した。

(「明治27年7月2日から明治27年7月19日」p13)

   覚書 廿七年七月十九日 在日本英国臨時代理公使持参

在清国英国公使よりの電報によれば、清国政府は左の基礎に因り談判すべしと。

 一、変乱を鎮定すること。

 一、内政改革及兵制并財政革新を行う為めに協同委員を命じ、該委員は各其自国政府へ報告を為すこと、但し清国政府は朝鮮国王に向て改革を採用せられんことを勧告し得るのみにして、該国王をして強て之を採用せしむること能わざること。

 一、日清両国協同して朝鮮国王の安全を担保すること。

 一、日清両国は、朝鮮国に於て通商上同一の権利を有すること。但し「政事上」の文字は之を記入せざること。

 撤兵のことは談判の始めに於て之を極むること。属邦論は之を提出せざること。

 これに対し日本政府は同日のうちに、「清国の陰謀と引き延ばしは既に大いに危うい情況にならしめ、最早、事を平穏に治める望みも乏しいことなので清国の提議を拒むべきところであるが、日本政府は英国政府及び在清英国公使の好意に対し、その覚書を次のように修正して提出」した。(陸奥の在英青木公使宛ての電文での言。(「明治27年7月2日から明治27年7月19日」p19))

(「明治27年7月2日から明治27年7月19日」p16)

   覚書 廿七年七月十九日 在日本英国臨時代理公使へ交付

帝国政府は、左の修正を加へて清国の提議を容るべし。

 一、目下朝鮮に於ける事情は、最初日本より清国に向て提議するところありたる砌より大に変遷したるが故に、清国協同委員の為すべきことは将来のことに限りて、決して日本が既に単独にて着手したることに立入るべからざること。
 両国政府は百方力を尽し必ず朝鮮国王をして改革を採用せしむることを約すること。

 一、「政事上」の文字を記入し置くこと。

 清国の陰■(険)遅延手段の為め、朝鮮の形勢頗る切迫に至りたるが故に、清国政府が本日より五日間を期して其筋を経、提議を差出すに非らざれば、帝国政府は之を容れざるべし。且つ此際清国より増兵を派遣するに於ては、日本は之を以て威嚇の処置と見做すべし。

 一応英国の顔を立てて返事したが、読んでの通り清国政府が到底呑めない条件であり、もはや清国政府の遷延の策などに乗る気は無いと、突き放したのは明らか。

 しかし英国政府は、これでは当初の日本政府の提議とは違うではないかと、21日に抗議。

(「明治27年7月18日から明治27年7月27日」p9)

   覚書 廿七年七月廿一日 英国公使館より

英国外務大臣より電信の旨趣、左の如し。

 日本政府が今ま清国政府に向て要求する所のものは、日本政府に於て談判の基礎として採用し苦しからずと明言して既に清国政府に通知したる基礎に矛盾し、且つ遥かに其範囲外に出るものなり。
 今ま日本政府に於て既に単独に着手したる事柄に対し、清国政府の容喙協議を拒むことは実に天津条約の精神を度外視するものなり。
 依て若し日本政府に於て此政略を固執し、為めに開戦を惹起すに至らば、其結果に対し日本政府責に任ずるの外なし。

 で、陸奥は22日に次のように反論。

(「明治27年7月18日から明治27年7月27日」p12)

   覚書 廿七年七月廿二日 英国臨時代理公使へ交付

 日本政府が今ま清国政府に向て要求する所のものは、日本政府に於て談判の基礎として採用し苦しからずと明言して既に清国政府に通知したる基礎に矛盾せず。又遥かに其範囲外に出るものに非ず。
 何となれば、今回清国の提議は左の諸点に関しては前述の基礎とは決して同一の精神を有するものに非らざればなり。

 一、朝鮮国王に向て単に改革を勧告するは毫も益なし。何となれば、朝鮮国在権の党派は清国の勢力の為めに容易に動かざるゝものなるを以て、仮令清国は陽に日本と協同して改革の勧告を為すと雖ども、陰かに朝鮮国王をして該改革を排斥せしむることを得ればなり。

 一、清国使臣が朝鮮に於て殊例の特権を享有するが故に、其権利を濫用して日本国の利益に大害を醸すことを得。故に日本国使臣も亦韓廷に於て同様の待遇を受くること緊要なり。

 一、最初清国は日本と協同の処置を執ることを拒みたるよりして、日本政府をして不得止単独に朝鮮政府に向て提議を為さしむるに至りたるが故、苟くも清国政府に於て朝鮮政府が既に承服したる所の我が提議を認むるに非ずんば、日本政府は今となりて最初の地位に立帰ること能わず。

 天津条約は、単に兵員を朝鮮に派遣するの手続を規定するものにして、朝鮮事件に関し締盟両国互に商議するの約束あることなし。

 事情、斯くの如くなるが故に、若し英国政府に於て今回の葛藤より生ずる所の結果を以て、独り日本政府の責に任ぜしむるが如きことあるも、日本政府に於ては敢て之に当らざるものと信ず。
 蓋し最初に清国政府が日本の提議を容るゝか、又は在清英国公使の斡旋を以て、該政府へ差出したる提議を排斥せざりしなれば、事体斯の如く重大なるに至らざりしならん。

 陸奥、軽く英国外務大臣を論破するの図。同日、在英青木公使にも同文を電信。

 

英清、朝鮮分割占領を提案

 ところで、同日19日に在英国青木公使から、以下のような奇怪な電文が発送されている。日本政府が接受したのは21日である。(陸奥が目にしたのは22日らしい。)

(「明治27年7月18日から明治27年7月27日」p5より抜粋、()は筆者、電信英文はp3、p4。)

明治二十七年七月十九日発

東京陸奥外務大臣    在英青木公使

(略)

 英国外務大臣、内密に本使に告ぐる所に因れば、清国政府は同大臣の勧告に対し、朝鮮分割占領、即ち日本国は南部、清国は北部を占領し、京城は互に占領せず之を存じ置くの考案を容るゝの意あり。
 因て、此旨意を以て七月二十日までの内に、話し合を付くること緊要なり。然らざれば清国は、十二万の兵丁を仁川に簡派すべし。
 清国は、談判に至るまで日本国軍艦を決して其の港口に来らざらんことを望む。

 英国外務大臣の考にては、清国は去る二三日間に大に敵愾心を加えたりとのことにて、同大臣は、貴大臣に於て常に本使へ実況を報告せられ、以て同大臣が調停を与うることに便せられんことを切望せり。
 前記占領と改革の件とは、併せ行うことを得るなり。若し貴大臣に於て、交戦を避けんと望まれなば、直接に清国駐箚の英国公使と往復せざるを得ず。同公使はその旨訓令を受けたり。

 本使の意見にては、該占領は「エジプト」の如く、朝鮮国の肯諾を得、若は清国と条約を結び、以て之を為すべし。占領は双方分割の占領にして、明治十八年条約の規定を皇張したるものたるを要す。而して其の本文は之を漠然と認め、其の継続期限の如きは我が便宜に従い解釈を下し得る様ならざるべからず。

 英国外務大臣の内密の提案として、朝鮮の南部を日本が占領し、北部は清国が占領し、京城は占領せずにそのままにするというもの。清国政府も同意しているとのこと。
 頑なに撤兵を主張していたのが、一転して「日清両国で朝鮮分割占領」するという、とんでもない提案であるが、この頃の英国政府も清国政府も、朝鮮国の主権なんぞ端から認めていない本音が覗けた感じではある。

 英電文では、英国外務大臣の言として「occupation(占領)」とあるが、それはテンポラリーオキュペーション(temporary occupation)の意味であったろうか。

 後に陸奥も「蹇蹇録」で「此共同占領と云う英国の提案、余は今に至るまで其何の意味なるを解する能わ(「第七章 欧米各国ノ干渉」p13)」ずと言っている通り、何やらいかがわしい代物であったように思われる。日本政府は何等これに返事をしなかった。

 

 

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