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「朝鮮統理交渉通商事務衙門」1885年、日本の外務省に相当。明治9年の江華島会談では官吏たちは皆白衣であったが、この頃は色物の服が増えているようだ。 |
清政府、日本提案を拒絶
明治27年(1894)6月16日、東京では陸奥外務大臣が汪清国公使と会談して朝鮮改革についての合同委員会設置の提案を伝えた。
汪公使は、早速、李鴻章に電文で報告すると答えた。日本政府は、天津の荒川領事からも李鴻章に伝えるように指示した。
その返事如何によっては、日清開戦に至る道を選ぶことになる重大な岐路である。
6月21日、汪公使は陸奥に清国政府の回答を口頭で伝えたが、陸奥は公文を提出するように言い、よって22日、以下のように正式の回答書を提出した。
(「明治27年6月8日から明治27年6月24日」p27より抜粋、()は筆者。)
・・・貴国政府より御商議相成候朝鮮事変及善後の方法に付ては篤と考慮を加えたる上、左の通り及回答候。
一 朝鮮の変乱は已に鎮定したれば、最早清国兵の代て之を討伐するを煩わさず。就ては両国にて会同して鎮圧すべしとの説は之を議するの必要なかるべし。
一 善後の方法は其意美なりと雖ども、朝鮮自ら釐革(改革のこと)を行うべきこととす。清国尚お其内政に干預せず。日本は最初より朝鮮国の自主を認め居れば、尚更其内政に干預するの権なかるべし。
一 変乱平定後、兵を徹することは乙酉の年(明治18年)両国にて定めし条約に具在すれば、今茲に又議すべきことなかるべし。
以上は本使より已に御面話に及置候得共、尚為念以書簡申進候。敬具
光緒二十年五月十八日[我六月廿二日]
清国特命全権公使汪鳳藻
日本国外務大臣陸奥宗光閣下
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要するに日本政府の提案を次のように拒絶したのであった。
1. 乱は鎮定したので両国で鎮圧の協議をする必要はない。
2. 善後の方法は意見としては良いが、改革のことは朝鮮が自らすることであり、清国はその内政には干与しないし、まして日本は朝鮮を自主独立国と認めているなら尚更干与する権利はない。
3. 撤兵のことは天津条約で定めているので今別に協議すべきことはない。
中国は属国の内政外交には干与しないとは、明治8年に森有礼にも回答したように、中国の一応の方針ではあるが、これは全くの表向きの言葉であり、実際は干渉しまくっており、例えば袁世凱がそうであり、またそれ以前からも例えば明治15年に大院君を拉致した時も「朝鮮の内政に干渉するといえども友誼を以ってするのであって、属国としてするのではない」などと言って、どんな理由をつけてもする時はするのが清国なのである。
中国の外交は、とにかくしたたかであるとは良く聞く言葉であるが、それは要するに、表向きの言葉と実際の行動が違うということに過ぎないことであるように思う。
同日、陸奥は直ちに汪公使に以下の書簡を送って尚も撤兵しない理由を説明した。
(「日清韓交渉事件記事/二 清国関係ノ分」p10より抜粋。()は筆者)
○ 朝鮮国内政改良に関する我提議拒絶に付、在本邦清国公使へ照会
親展送第四二号
以書簡致啓上候陳者、閣下は帰国政府の訓令に従い、朝鮮国変乱鎮定並前後の弁法に関する帝国政府の提案を御拒絶相成候趣、貴暦光緒二十年五月十八日付の貴簡を以て後申越相成致閲悉候。
顧て朝鮮国刻下の情勢を察するに於て、貴政府と所見を同うする能わざるは帝国政府の遺憾とするところに有之候。
之を既往の事績に徴するに、朝鮮半島は朋党争闘内訌暴動の淵叢たるの惨状を呈し、而して斯く事変の屡々起る所以は、独立国の責守を全うするの要素を欠くに職由するものと確信するに足るべき義に有之候。
疆土接近と貿易の重要とを慮るに於ても、亦朝鮮国に対する帝国の利害は甚だ緊切重大なるを以て彼国内に於ける斯る惨情悲況を横視傍観するに堪えず候。
情勢此の如くなるに当り、帝国政府措て之を顧みざるは、啻に平素朝鮮に対し抱括する隣交の交情に戻(もと)るのみならず、我国自衛の道に背くの誚を免れず候。
帝国政府に於て、朝鮮の安寧静謐を求むる為めに種々の計画を施すの必要は、已に前述の理由なるを以て更に之を看過する能わず。今にして遅疑施す所なくして日を曠うせば、該国の変乱愈々長く滋蔓するに至るべく候。
是を以て帝国政府に於て其兵を撤去するには、必ず将来該国の安寧静謐を保持し政道を其≠得ることを保証するに足るの弁法を協定するに非ざれば、決行し難く候。且つ帝国政府が斯く撤兵を容易に行わざるは、啻に天津条約の精神に依遵するのみならず、復た善後の防範たるべくと存候。
本大臣が斯の如く胸襟を披き、誠衷を吐くに及び、仮令貴国政府の所見に違うことあるも、帝国政府は断じて現在朝鮮国に駐在する軍隊の撤去を命令すること能わず候。
此段御回答旁本大臣は茲に重ねて敬意を表し候。敬具。
明治廿七年六月廿二日 外務大臣陸奥宗光
大清特命全権公使汪鳳藻閣下
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次いで6月23日、外務大臣より下関に停泊する浪速艦に乗る加藤外務書記官に電信して、以下の暗号電文を大鳥公使に送り届けて直に返電させるよう指示。
(「2 日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」p13)
朝鮮の行政、司法、及財政の制度上、実際有効の改革改善を施し、以て将来再び失政なからんを保証すべきことを同政府に向い勧告振て以て厳談すべき旨、閣下に訓令す。
其際、閣下の論法を強むるには本大臣が清国公使へ与えたる回答中に述べたる理由を用うべし。
右、回答の写は、加藤より閣下に伝達すべし。而して閣下は適宜に右の理由を諸外国公使に開示し、以て日本政府の処置の至当なることを世上に表すべし。
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朝鮮政府に改革改善のことを厳しく談判せよと。
その案の具体的な綱目は28日に閣議決定し、29日に京城へ派遣の栗野政務局長に携帯させた。それは以下のものである。
(「明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日」p38)
明治廿七年六月廿七日起草 同年同月廿八日発遣
同廿九日、京城え派遣の栗野政務局長、之を携帯す。
在京城 大鳥公使 陸奥外務大臣
本大臣は茲に廟議決定の旨に遵い、左の訓令に及び候間、閣下には此際朝鮮政府に向て左記の通、提議相成、尚お同時に之を公文に認め、該政府に照会し、其公文の回答を取付被置候様可被成候。
曩きに我帝国が貴国との旧交を尋き、隣好を修むるや深く東洋大局に顧念する所ありたるを以て、独り自ら率先して条約を訂結して平等の権利を確実ならしめ、章程を設立して通商の便益を皇張せしめ、因て以て貴国の一独立国たることを万国に彰表せり。
爾来、我政府が貴国に向て施為するところ一として貴国をして日々に隆盛を致して、以て愈々独立自主の実を挙げしめんと勉めたるに非ざるはなし。而して苟も貴国政府にして内に自ら追思回顧せられたらんには、必ず歴々として其事実を認識せられずんばあらず。 然るに貴国徒らに旧章を墨守し、宿弊未だ除かず。是を以て擾乱相続き、民心乖離し、国家の秩序を紊乱し、邦土の安寧を危殆ならしめ、屡々塁を隣邦に及ぼす。
若し今に方て之が救済の道を講じ、振作の計を為されずんば其極遂に収拾すべからざるの勢となり、独り自国独立の根基を寛鬆にするのみならず、延て大憂を東洋大局に及ぼすことあるに至るべし。是れ我国が隣邦の情誼に於て、又我帝国自衛の道を顧みるに於て、一日だも拱手傍観するに忍びざる所なり。故に我政府は此際貴国政府に向て独立自主の実を挙げ、王室の尊栄を永遠に維持する長計を求むるの外、更に左に列載するところの事項を勧告し、以て貴国内治の改良を促さんとす。
一 官司の職守を明かにし、地方官吏の情弊を矯正する事。
一 外国交渉の事宜を重んじ職守其人を択ぶ事。
一 裁判を公正にする事。
一 会計出納を厳正にする事。
一 兵制を改良し、及警察の制を設くる事。
一 幣制を改定する事。
一 交通の便を起す事。
以上列載の事項を閣下より勧告せらるゝ節には、各項に付左記の理由を臚陳して以て其改良の実に已むを得ざる所以、及其一日も忽かせにすべからざる所以を弁明せらるべし。即ち、
宮司の職守云々の項に付ては、
朝鮮国情弊の多き因循の久しき政令、横に出て官紀序を失い、衙署有司の設ありと雖も、徒らに其職に充て、其欠を補わしむるのみ此の如くにして、安ぞ能く吏治を整頓することを得んや。故に宜しく此時に当りて各其分掌の事務を明らかにし、以て其責守を曠からしめざることを期せざるべからず。
外国交渉の事宜云々の項に付ては、
之を従来の経験に徴するに、彼我交渉事件の起るに際し、権閥の横議は常に当局者の談を左右し、朝には之を是とするも夕には之を非とし、昨は之を諾するも今は之を肯ぜず、泛々茫々強いて其言質を捉えて之に迫ることあるときは、忽ち当局者の辞職転任となり、竟に外国使臣をして該国政府定見の在るところを知るに迷い、随て信を当局者の言語に措くこと能わざらしむるに至る。故に向後は宜く外務当局者の職守を重くし、其一言一語は、常に該国政府を代表するものたることを明確にせざるべからず。
裁判云々の項に付ては、
該国現在の裁判制度に依るときは、地方長官に於て訟件を受理し、其判決を以て終審となし、更に控訴上告の道なく、動もすれば理非曲直其処を失し、往々冤枉に屈し、更に補伸の道を得ざるより、延て外交上事端を滋すに至る。故に宜く訟廷を公開し、務めて審理の公平を期すべし。且つ成るべくは此際、裁判制度を設備し、裁判官を常置し、裁判所の階級を劃定し、以て控訴上告の道を開通するを可とす。
会計出納云々の一項に付ては、
貢租賦税の実額を調査し、国庫の歳出入を明かにし、貪官汚吏をして其侵蝕を恣にすることを得ざらしむるべし。
兵制警察云々の一項に付ては、
必要の兵備を設けて以て国安を保持するは、独立国当然の措置に属すれば、宜く精鋭を訓練して、以て護国の実を挙ぐべく、又常に国内の公安秩序を維持し、擾乱を未発に防がんとするには、宜く警察の制を設て、以て機を察し微を識ることを期すべし。
幣制云々の項に付ては、
目下該国の通貨は濫鋳粗造、国家の経済を紊り、貿易上の不便言うべからず。故に宜く新に一定の幣制を設け、通貨を鋳造し、益々貿易の便を謀るべし。
交通云々の項に付ては、
元山、仁川、釜山、其他要地への電信線を新造又は改造し、釜山、京城、其他の地に鉄道を布設し、又成るべくは郵政を全国に布き、其他往来交通の便を増すことを謀るべし。
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冒頭、明治初年からこの年までの日朝関係を、簡潔且つ的確な言葉で述べていると思う。旧交を温めて修好を結んで以来の日本の取り組みは、朝鮮をして隆盛ならしめ、独立国の実を挙げさせんと勉めて来たに他ならない、と。
筆者は幕末からここに至るまで、日朝関係を時の流れに沿って見てきた積りである。おかげで、事件ならその事件に至った原因は何なのか、直接のみならず、誘引、遠因となったものにも又触れることが出来たように思う。
日朝関係の結末としての併合への方向性も、初期の段階で朝鮮自らの体質として既にあったと思う。すなわち大国に事大し、その傘下に入らんと、依存というよりは他人を巧みに利用して自活を謀り自尊を保ち、為に百面相の如く豹変することも躊躇わないという国の体質。しかしそれは日本人をして、働くことを厭う、信頼するに足りない、最も油断のならない、東アジアの不安定要因そのものとして、認識せしめるものでもあったろう。
開国して貿易が盛んになるにつれ、国が富むかと思えば、専ら両班たちの欲望を膨らませ、成金と浪費家を増やしただけに過ぎず、為に人民の苦しみが増大しただけというお粗末さ。改革案の具体的な項目を見ると、朝鮮国が抱えている問題がよく分かる。しかし、この国に自浄能力はないし、したいとも思っていないだろうし、自ら改めるに怠慢であり、それを以て旧例を尊ぶ伝統文化の国と。
明治18年以降、積極的に関与することを中止していた日本は、この年から再び自ら血を流し汗を流して朝鮮の改革に取り組み始めるが、その日本に事大する日本派である安駉壽の次の言葉が、この国の人々の性情を端的に表していると思う。
「改革希望派の人には、三々五々相集りて相談を為せども、之を発する勇気の乏きと、之を引率する統領なきに苦めり」
「何卒此上は、外兵の余威を借りて内部の改革を行うより外に手段なきに付、貴国は今暫く其兵を駐留せしめられんこと内心希望せり」
開戦止む無し
さて、加藤外務書記官が具体的な改革案を携えて京城に到着する前に、大鳥公使は前もって内政改革申し込みの端緒を開かんと国王に謁見を申し込んだ。
謁見は26日に行われ、大鳥公使は高宗に対して朝鮮内政整理の必要を陳述し、委員を定めて日本側と協議するように言上し、また意見書を提出した。
高宗は一応日本政府の厚意を謝し、意見書は熟読する旨返答し、日本兵の入韓以来、民心は恟々として安からず、故に早く撤兵を希望する旨述べた。
意見書の内容は15日の朝鮮改革案の閣議に沿ったものであり、世界各国が教育に立法に財政に、また農商業に務めて自国の富強に取り組んでいる現在、朝鮮もまたよく目を開いてそれに倣うようにと進言したものである。(「2
日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」p21)
しかし、朝鮮政府に改革案を実行させるに当り、当然最大の障害となるのは閔一族を初め守旧の抵抗勢力である。これを挫くには彼らが頼みとしている清国と一戦を交えて打ち破るほかはない。
そこのところを杉村は次のように述べている。
(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p30)
韓廷一般の希望は只管無事平穏を願い、日夜日清両兵の撤回を僥倖し、初めは専ら袁世凱に依頼したるも速功なきに付、転じて各国公使に周旋を依頼し、或は電信にて李鴻章に依頼する等、可及丈の手段を尽くし、又袁世凱は頻に大言を放ち、或は偽造電信を示して韓廷君臣を恐嚇するが為め、左なぎだに我国を嫌悪して支那に依頼心深き韓廷の老人連は、徹頭徹尾支那には離るべからず、縦令日兵は一時多数なるも、最後の勝利者は必ず支那ならん、と確信して動かざる様子なれば、此際是非とも支那と一衝突を興し、之を打ち破りたる後にあらざる已上は、我提議は断じて行われざる形勢なりき。
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清国の拒絶がほぼ明らかになった21日、日本政府は山田外務属を派遣して大鳥公使に直接書翰を渡している。京城到着の日付は不明であるが、以下のようなものであった。
(「明治27年6月8日から明治27年6月24日」p4より抜粋、()は筆者。)
廟議は至急撤兵の談には到底同意せざる積に候。又荒川(天津領事)神尾(天津滞在の少佐)よりの電報に因りても最早清国政府の意の在るところを処するに余りあれば、今となりては到底両国の衝突は免れざる所なるべしと相信候に就、若し弥々衝突を生候場合には、已に電信にても十分に候通告如、朝鮮国王及同政府を、始終我味方に取置候事必要に候。之を成功するには或は甘言を以て之を利請し、或は厳談を以て之を威嚇する等総て閣下の胸算に任せ候。
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その後、いよいよ清国政府の正式の拒絶を受けて終に開戦止む無しの結論に到り、そのことを大鳥公使らに口頭で通達するためにも加藤書記官を派遣したのであった。
27日、加藤書記官は京城に到着した。
口頭で伝えられたその詳細は分からないが大要を杉村濬はこう述べている。
「二十七日、加藤書記官は外務大臣の内訓を帯びて到着せり。其大要は今日の形勢にては、行掛上、開戦は避くべからず、依て曲を我に負わざる限りは如何なる手段にても執り、開戦の口実を作るべし。尤も斯る事は訓令として書面に認め難ければ、特に加藤を派すとの事なりき。」(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録
松本記録」の「1 前編 1」p31)
つまり、もはや清国との開戦の端を開くべく、こちらに非を負わないような形でその口実を作れ、という指令である。
28日、大鳥公使は外務督弁趙秉稷に以下の書翰を送った。
(「4 明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p11より、括弧は筆者。)
第五十九号
以書柬致啓上候陳者、今般本国外務大臣の訓令を奉じたるに、我暦本年六月七日東京駐在清国欽差出使汪氏の照会に接到候処、其中旦「派兵援助乃我朝保護属邦旧例」等語有之。然るに我国政府は初めより朝鮮を認めて自主独立の邦国と為し、現に明治九年二月二十六日訂結両国修好条規第一款にも、「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有す」との文字明載有之候処、清国欽差の照会は全く之に反対し、実に意外の儀と存候。右は日朝両国の交際に対し、至大の関係を及す義に付、朝鮮政府に於ても自ら保護属邦の四字を相認め候儀に有之候哉。至急貴国政府に向て御意見を相慥め可申との儀に有之候。依て該清国欽差照会写相添、茲に及御照会候間、明日即我暦本月二十九日を限り、何分の御回答相成候様致度、此段及御照会候。敬具。
明治二十七年六月二十八日
特命全権公使大鳥圭介。
督弁交渉通商事務趙秉稷 閣下
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日清韓懸案の問題、属邦問題の難題を発して迫ろうというわけである。
明治9年締結の日朝修好条規第一款、すなわち、
「朝鮮國は自主の邦にして日本國と平等の權を保有せり。嗣後兩國和親の實を表せんと欲するには、彼此互に同等の禮義を以て相接待し、毫も侵越猜嫌する事あるへからす。先つ從前交情阻塞の患を為せし諸例規を悉く革除し、務めて寛裕弘通の法を開擴し、以て雙方とも安寧を永遠に期すへし。」とある。
しかしこの18年間というものは、この第一款こそ有名無実の空文であった。
自主、平等、和親、同等の礼義、寛裕弘通、安寧には程遠いものであった。通商に於ても朝鮮政府は清国にだけ特別の厚遇を以って朝中の条約を結んでいる。或いはまた不当な電信線問題などもある。
よって朝鮮を追求する件は多々あるのであるが、清国との明確な対立点は、まさに朝鮮の自主独立権を阻害する属邦問題であり、これを解決せずして朝鮮の内政改革はあり得なかった。
大鳥はこのことに関し、督弁からの返事がまだの29日、日本政府に以下のように電信を発し、その対応策を述べている。
(「明治27年6月13日から1894〔明治27〕年6月30日」p31)
電受三二七号 明治二十七年六月二十九日午後六時発 三十日午前九時三十分着
第一二号 京城 大鳥公使
東京 陸奥外務大臣
加藤外務書記官は六月廿八日朝、来着し、本使は貴大臣の訓令を委しく承りたり。
六月廿六日第十一号本使の電信に述べたる如く、支那を圧倒し朝鮮を我威力下に置くに非ざれば、到底有効の改革を遂ぐること能わざることを確信するが故、日本政府の目的を遂げんが為めに、六月廿八日、本使は朝鮮政府に公文を送り、之に係うるに在日本清国公使より貴大臣に宛たる書翰の写を以てして、朝鮮政府に向け、議政府は果して当清国公使の書翰に述べたる如く支那の属邦なることを認むるや否やに付、一日を致して弁明を与うべきを要求せり。
而して若し朝鮮政府が其属邦たることを認めずと返答せば、本使は一方に於ては袁世凱に向て、支那が属邦を保護するとの口実に依清兵を派遣し、現に朝鮮に駐在せしむることは、朝鮮の独立に害ありとの理由を以て直ちに清兵の撤回を求め、他の一方に於ては、朝鮮政府に向け、清兵を追出すことを求むべし。
而して万一朝鮮政府に於て自力を以て清兵を追出すこと能わざる場合には、我に於て自ら其事に任せざるを得ず。
若し又朝鮮政府に於て其属邦たることを認むると返答せば、我兵を以て直ちに王宮を囲み、江華島条約第一条を破りたるものとして、彼より釈明と謝辞を求むべし。
若し又朝鮮政府において曖昧の返答を為し、朝鮮は支那の属邦なりと称すると雖ども、内治外交に関しては朝鮮政府に於て自ら断行の権ありと云うときは、矢張り第一の場合に於けると同様の処置を執るべし。
何れの場合に於て其他の条約国をして当分自主の地位を守らしむる為め、日本政府の正当なる目的に関し、我より保証を与うること最も緊要なり。
而して此保証は貴大臣及び本使に於て飽迄之を与えんと欲す。
六月廿六日謁見の際、本使は当国行政改革の事を国王に奉呈せり。且つ本使は最近の謀を以て我が提議を公然朝鮮政府に提出すべき積りなり。
御電信の趣は、貴大臣に於て最も適切とせらるゝの方法を以て小村臨時代理公使へ御通知あり、尚お当案の御訓令を同代理公使へ付与せられたし。
此時に際し、我が海軍は如何なる処置に出つべきや。
金一万円直ちに御回付を乞う。
貴大臣の訓令は直ちに電報ありたし。
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29日、大鳥の照会に対する督弁の返事は無かった。よって30日、大鳥の命に依り杉村濬は統理衙門に至り、外務督弁に面会してこれを催促した。
暫くして趙督弁は次の趣旨の回答を与えた。
「朝鮮は初より自主の邦なり。清国、我を指して何と称するも是は清国の勝手に唱えしものにて、我が関係する所にあらず。清兵の我国内に駐屯するものは、初め我が依頼に因て来りしものなれば、之を逐還するを得ず云々。」
この回答は、法律顧問米国人グレートハウスと主事の兪吉濬が起案し、袁世凱の意見を聞いて出したものであると杉村は述べている。
これに対し日本側は、「清国が属邦と称して兵を送り、その兵は勝手に朝鮮人民らに命令を出している。これは清国の主権侵害であり、これを認めるなら実質的に朝鮮は属邦状態ではないか」との詰問を尚も発する積りであったが、この日に日本政府から以下の電文が届き、属邦問題は暫く置くこととなった。
「聶(清将)の布告に在る、属国二字を撤去せしめよ。乍去、在牙山の清兵を退却せしむることは現下の政略に背く。故に、朝鮮政府の聴従すると否とに関せず、加藤到着次第、内政改革問題を提議せよ。」
よって属邦問題は一旦置き、内政改革を朝鮮政府に迫って実行させるための具体案詳細を作成することとした。
(以上「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p36より)
再び朝鮮の国情報告
同月26日、在京城日本領事館の二等領事、内田定槌は「対韓政策に関し意見上申」として、陸奥外務大臣宛に提出している文章がある。かなりの長文であるが、朝鮮国の実情を語って改革の必要性を縷々述べたものである。
それからいくつかを抜粋して記していきたい。
(「明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日」p8〜p12から抜粋して要約、該当原文テキストはこちら。)
・ 当地に於ける清国駐在官は、当国政府の内治外交に干渉し、当国政府もまた謹んでその命令を聴き、敢てこれに逆うこともなく、あたかも属邦政府監督のために、本国政府から派遣されたかのような状態を呈している。
・ 当国税関官吏もまた清国政府が雇聘した外国人をこれに充てている。
・ 清国人と朝鮮人との間に起った訴訟事件は、朝鮮人が被告である場合も、清国法衙(裁判所)に於いて裁判を行っている。
・ 朝鮮国と清国との諸条約書中にも朝鮮は清国の属邦であるような文言を記載している。
・ 十分に当国内政の有り様を観察すると、中央政府を始めとし、百般の行政機関は実に腐敗の極点に達し、民力の困弊は実に名状すべからざる状態に陥っている。
・ 当国政治上の実権は常に国王または王妃の近親である二三の門族に帰することが例となり、各族は互に権力を競争し、その競争に当っては、各自家の利益を図ることに汲々としているのみで、国家の安危、王室の栄辱を眼中に置く者は無い。
・ また、同族中にあっても互いに権力を争う者がいる。その最も力を得て高い地位を占めた者は、実際にその地位に相当するだけの智識才能を有する人物ではなく、ただ最も奸佞にして、国王又は王妃に多額の財物を献上した者に過ぎない。
・ 献納しない者は有用の人物であっても、相当の官職を授けられることはない。それは閔族であってもそうである。
・ 閔族以外の者が政府役人になろうとするならば、国王や王妃のみならず閔族の有力者に対しても贈賄をしなければならない。
・ それらは中央政府の官吏登用の場合に於いてのみならず、各道の長官である観察使を始めとし、その他府県州郡等に於ける地方官を撰任する時もまた同様である。
・ 役人は皆その在職中、職権を濫用して貪欲に行動し、公然として賄賂を収めて私曲を行う。それに逆う者がある時は、残忍酷薄の処置をして毫も顧みることはない。
・ 例えば地方官として観察使の職を十万金を費やして得た者があるとすると、任地に到着してすることは、先ずその失費を取り戻し且つ自家の財布の中を充たすために、威福を張って捜索し、或いは部下の官吏に対して賄賂を要求し、或いは二三の商人に特典を付与して多額の金額を貪り、或いは種々の重税を賦課して細民を苦しめ、或いは口実を設けて富豪を捕えて牢獄に入れてその財産を掠奪し、或いは凶作と称えて防穀令を布き、その相場の下落するに乗じて多額の穀物を買占めたる後、急に禁令を解いて奇利を得る等、乱暴狼藉の限りを尽くすことは、当国の事情に少しでも通じる者なら誰でも熟知するところである。
・ 観察使を始め、その他の地方官は皆、人民の生殺与奪の権を有する。
・ 故にそこに属する人民は、たとえ多少の虐政に逢うことがあっても、多くはこれを忍耐して容易に抵抗する者はいない。
・しかし虐政の度合が益々加わり、地方人民が最早忍耐することが出来ない点に迄達する時は、即ち乱民となって騒擾を起し、直に地方官庁を襲撃して官吏を殺傷することが往々にしてある。
・ このような場合、地方官は自らこれを鎮圧する力がなく、だからと言って中央政府から一々兵隊を派遣して鎮定する暇もないので、地方官を更迭することで対処している。また、それで直に静謐に帰することが多い。
・ しかし近年は、この種の乱民蜂起の数も増加し、遂に今度の全羅・忠清の両道地方の大騒乱となり、中央政府といえども、これを鎮圧するのに苦しむ事態に至った。
・ 当国の人民一般の状態を見ると、政府積年の弊政により、職業を励んで家産を起し、これを蓄積しようとする企は全く消失した。
・ もし勤労に励んで多少の財産を貯える者があるときは、直に地方官の注目するところとなり、種々の口実によってこれを貪り取られ、その身体にまでどのような災が及ぶかも知れないことであって、人々は自然と惰弱の習慣を養成し、ただ僅かにその糊口をしのぎ、、雨露を凌ぐを以て足れりとする。その赤貧洗うが如き姿が最も安全策であると考え、偶々多少の財産を貯える者があっても、務めてこれを秘密にし、家屋衣服のようなものもなるべく質素にして、貧困を装うような有様である。
・ 百般の農工商業は全て萎靡してしまい、開発することはない。
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かつて明治12年1月、釜山居留区の管理官であった山ノ城祐長の建白に見る朝鮮国情と殆ど変わらない内容である。しかし、山ノ城管理官は、人民が惨憺たる苦しみの中にも「全くの無気力の民情であるから、官吏に駆使される姿はまるで犬の子のようである」と書いて、人民の無気力を嘆いたが、明治26年、27年と各地で乱が続出しているだけに、むしろ腐敗は深刻となっていたということであろう。また、「職業を励んで家産を起し、これを蓄積しようとする企は全く消失した」と言い切っているところに、この国が終に末期的情況に陥っていることを思わせるものである。
しかし、どうして豊作の年に防穀令を布くのか、その理由がやっと分かった次第。
もはや筆者にとって、朝鮮という国を例えるに奇妙にイメージが合致するものがある。
それは「やくざ」が支配する世界である。
しかし内田は、朝鮮の将来を見据えて次のように続けている。
(「同上」p12)
夫れ国家の貧富強弱は、国民個々の貧富強弱に基き、国民個々の貧富強弱は、一に国政の良否に基き、国政の良否は、一に行政機関の善悪、百官有志の賢不肖に存するものに御座候処、今や当国行政機関は如此腐敗し、其百官有志、如此暗愚残忍なる以上は、民力疲弊せざらんとするも得べからず、国力衰亡せざらんとするも得べからざる儀と存候。
然りと雖も、若し夫れ当国の諸制度に根本的の大改革を加え、歳入歳出の途を明にし、厳に官吏の私曲を制し、人民の権利義務を明確にして、其生命身体財産の安全を計り、盛んに文明的の教化を敷きて、専ら殖産興業の道を奨励したらんには、沃野の広き如此、鉱山の饒多なる如此、沿海漁猟の利を有する如此、而も人口壱千万に垂んとする此朝鮮国のことなれば、百般の殖産事業は続々として振興し、外国貿易も亦従て隆盛に赴き、其富強に至るべきは期して俟つべきことと存候。
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行政と人材の改革、国民の権利と義務、その生命身体財産の保護、文明教化、と実に当たり前の近代国家運営に関わる話なのであるが、あまりにも当時の実に日本人らしい、内田定槌のその意見に悲しさすら覚える。
「やくざ」を更正させようということも同然なのであるから・・・。
内田はその他、朝鮮改革の見通しに付いても以下のように述べている。
(抜粋要約)
・ 朝鮮政府が自ら大改革を行って目的を達することは甚だ覚束無いことである。
・ 大院君派の者もいるが、この大事業は5年、10年、或いは20年前後の長き日月を要するものであり、大院君が剛毅英邁の人であっても、70余才の高齢でこれを成し遂げることは出来ないだろう。
・ 従って日本政府が補佐してこの大改革を行わせ、朝鮮国をして厳然たる東洋の一独立国たる体面を保たせる以外に無い。
・ そのことが最も我国の名誉であり、安全なる策であり、勢力を朝鮮半島に拡張する好手段でもある。
・ しかし日本が朝鮮政府に干渉することは独立国の権利を侵害するおそれもあり、その不都合を避けるため、また諸外国の妨害を避けるため、朝鮮政府に申し入れて、懇々と利害あるところを説明し、将来、朝鮮に日本の保護を受けさせる条約を締結し、内政改革に関しても補助を受けさせる特約を設け、日本はその条約上の権利を以って、朝鮮の内治外交に干渉することが肝要である。
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なお、内田もやはり清国と開戦することは止むを得ないこととし、その理由を、明治17年の朝鮮事変に於いて、当時竹添公使率いる日本兵らの仁川への撤退を、朝鮮人は支那兵のために討ち退けられたように思っているとし、
「当国官民は、自然清国に結託すれば、日本は恐るゝに足らざるものと誤認致居候に付、若し今般、日清両国共に兵を当国に出したる後、一回も交戦することなくして互に兵を引揚ぐることにも相成候得ば、彼清国人は当国人に向い、例の大言を吐き、日本兵は中国兵の威を恐れて終に本国に帰れり、などと言触らすことなしとも計られず。果して然らば益々我国威を毀損する次第に付、此好機に臨み、痛く彼清兵を打破り、当国人をして親しく我帝国の威風を目撃せしめ、以て清国の将来恃むに足らざるを知らしむること目下の必要と存候。」
と述べている。
西洋各国の思惑
7月1日、大鳥公使は日本政府宛に以下の電文を発している。
(「明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日」p17、括弧は筆者。)
陸奥外務大臣 在京城大鳥公使 七月一日発 四日着、
内密の手段を以て聞得たる所に依れば、李鴻章は左の如き電報を朝鮮政府へ送れりと云う。
「諸外国は、今般朝鮮に於ける日本の行為を非難す。日本は進退谷(きわ)まれり。清国は日本をして其兵を撤回せしむべければ、朝鮮政府は大鳥より如何なる提議ありとも是に耳を傾くること勿れ」と。
右の電信は、全く朝鮮を欺かんが為めに流伝せられたるもの故、閣下は我兵を支那兵と同時に、朝鮮より撤回せられざらんことを望む。袁世凱は七月一日午前、公文を以て聶提督の宣言(属邦の文字)は実なりと答えたり。
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李鴻章の、「諸外国は今度の日本の行為を非難している」という朝鮮政府に向けての虚偽の電報のことはともかく、実際この頃の各国の思惑はどういうものであったろうか。
時間を遡ると、東学党関連の公文書中にあるものでは、6月10日の英国外務大臣と青木公使との談話が初出のようである。
以下各国の対応について、少しく詳しく取り上げたい。
(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p31より、現代語に、部分略。)
六月十日発 十二日接
東京陸奥大臣 倫敦 青木公使
朝鮮の変乱に関し、英国外務大臣は内密に本使に告げて言った。
「今のところ露国が一切の干渉をしないようなので、英国政府はまだ気にかけていない。」と。
談話中、同外務大臣の語気から推察すると、英国政府は将来朝鮮国に関し、日清両国が英国に不利な取り決めをしないように希望すると同時に、実は、今回の日本の処置は露国の進出を直接または間接に防ぐために出られたものであるなら、却ってこれを可とするもののようである。尤も、本使が察するに、出来る限り東方両大国の開戦を避けることは、英国の希望するところである。
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(「明治27年6月9日から〔明治27年6月21日〕」p14より、現代語に、部分略。)
六月十四日発 十六日接
東京陸奥大臣 英国 青木公使
英外務大臣は本使を招き、在清国英公使より受け取った電信を示した。その大要は、
「朝鮮の乱民は既に敗散したので、清国はその兵を撤回せんとしている。よって日本も同じくその兵を撤回するよう、閣下[英外務大臣を指す]に於ては、御斡旋を願う。」
英外務大臣はその電信の意を受け、本使に告げて言った。
「英国政府は、日本の軍隊が永く朝鮮に滞在するなら、葛藤を醸成することとなることを恐れる。」と。
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それに対して陸奥は同日、
「必要が無くなれば駐兵を撤回するが、賊が退散したとの確報を得ていない。今なお乱が止まない模様である。日本政府は葛藤を避けるために注意する。また、たとえ乱が治まっても、将来においても朝鮮国の兵と秩序を保全させることが必要なので、そのことについて清国と協議をなさんとしている。」
と返電。また青木に、心得として日清合同での朝鮮改革委員案のことを報せた。
(「同上」p19)
だいたい英国の北東アジアにおけるスタンスは以前からはっきりしている。露国の南進を阻む、というこの一点である。為めには、時に日本を後押しもする、或いはまた清国を後押しもする。要は日清間の権衡が拮抗していることが望ましく、別に朝鮮の内政に関心は無く、ただ日清対峙の緊張から朝鮮が紛擾の地となることこそ恐れた。
次に17日、北京に駐在する小村寿太郎が各国公使の意向を報告。
(「同上」p23より、現代語に、部分略。)
十七日発 同日接
北京小村公使より東京陸奥へ
在清英国公使は日本兵の朝鮮派遣を不得策且つ不必要と考えている。
それは、露国の挙動を恐れて日清間に葛藤が生じるのを心配しているからである。英公使は李鴻章に対して、葛藤を避けるよう充分注意するようにと忠告した。
日本政府に対しても注意あることを希望した。
在清独公使は、英公使と同一意見である。
露国公使、仏公使は、日本の在韓の臣民及び商業保護のために必要である、と日本の行いに賛成している。
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また、在露国の西公使によれば、この頃より2、3ヵ月前に、露国政府は清国政府に対して、露国は朝鮮政府に干渉しないし独立も侵さないことを保証した、と聞いている。(「明治27年6月8日から明治27年6月24日」p38)
独国は英国と同一意見、仏国はベトナムのこともあって、反清国というところか。もっとも公使レベルでは本国政府の意向までは計りかねるところである。
24日、英国青木公使から。
(「明治27年6月8日から明治27年6月24日」p41より、現代語に、部分略。)
六月二十四日発 二十五日接
在英国青木公使より東京陸奥外務大臣へ
英国外務大臣は本日、本使を招いて、東京と北京からの電信三通を見せた。
電信中、袁世凱は六万の兵員を要求した、とあり、英国政府に、日清間に交戦が起るなら第三国の干渉を招くべきに付き、これを防ぐことを欲すること甚だ切であり、日本からの電信に関し、穏便の処置を日本に勧告ありたいと、本使に依頼した。
本使は自分の考えとして、清国の自侭の措置を弁駁して多少の説明をした。
英国大臣は、清国と何か適当に談合を付けることが望ましいが、それは互に撤兵してから談合を付けるならよい、と言った。
閣下が英国外務大臣の斡旋を望まれるなら常に本使に報告されておくことが必要である。本使は、今回の事件に付き、英国を日本側に引き入れんと尽力している。
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と青木周蔵はいつものように言わずもがなの人である。
袁世凱がこの時点で兵6万を本国に求めたことが本当とするなら、この人は軍事的には感覚の鋭い人だったかもしれない。
次に6月25日、陸奥外相と露国公使ヒトロヴオーとの対談。
(「明治二七年六月二十五日外務省二於テ外務大臣ト露国公使ヒトロヴォー氏ト対話概要」p12より、現代語に、部分略。)
明治二十七年六月二十五日、外務省に於て陸奥外務大臣と露国公使ヒトロヴォー氏と対話の概略
露公使
清国政府は露国の斡旋を要請しているので、露国政府からの訓令によってこのように面会を求めた。
そもそも日清両国の兵は目下朝鮮に於いて開戦の意向を持って相対峙している。露国政府はなるべく開戦に至らせない目的で日本政府に申し込むことを義務と感ずる。
もっとも、清国政府が露国政府に告げたところによれば、清国の出兵は全く朝鮮政府から暴動鎮定の依頼があったことによるものである。しかし日本もまた大兵を発し、今は暴動が既に平定したが、日本政府は朝鮮事件に関して3ヶ条の提案を出して兵は撤去しないとのことである。
そして清国政府は、日本提案の第1条すなわち日清両国が兵を合わせて東学党の暴動を鎮定すること云々については、東学党は既に平定したので、その条の目的はすでに遂げたと回答し、同時に清国政府は朝鮮政府の内政に干与することは到底出来ないと宣言したようである。
しかし日本政府は清国政府の意見を容れず、清国が撤兵する場合に於いても、日本は尚も撤兵はしないと宣言したようである。しかし陸奥氏は本件について詳細を示されないので、このままでは本使は政府に何等の報告も出来ない。我が政府は本件に関する清国政府の主旨を知るだけで、日本の本意を知ることが出来ないのは極めて遺憾とするところである。
陸奥
第一に日本政府が沈黙した理由を説明すると、本政府が最初から取っている主義は今日まで毫も変更していないので、別に閣下と協議はしていない。
当初に明らかにしたように、その主義は朝鮮独立の地位を維持させんと望むことに基くものである。そしてその目的を達するためには、朝鮮に於いて相当の勢力均衡を保ち、それにより清国が威力をほしいままにさせないようにすることが必要なのである。
帝国政府は常にこの主義を守って今日に至るまで敢えてこれを変更していない。
ただ今回の事件は一時特にこの主義を確実にする大必要を感じただけである。故に帝国政府はなるべく清国との衝突を避けることを希望し、この希望を遂げるに足る処置が、正当である以上は、その種を問わずに施さんと望むもので、日本の出兵のようなものは、清国の非挙を抑制して本件の平和の局を結ばんとするに他ならない。
また東学党の暴動は、最初数万の乱民が蜂起したとのことで官軍も屡々敗北し、終に朝鮮政府をして清国に援兵を求めさせるに至るまで危機の逼迫した事実があることを見れば、清国兵が未だ一弾も発しない内に、暴動は静まったというようなことは甚だ疑われることであるだけでなく、たとえ一時は鎮定したようでも、日清が撤兵後に再び蜂起する恐れがないとも言えない。
まるで日清両国が朝に撤兵して夕にまた出兵せねばならないような状態であることは、朝鮮の国情から疑いの余地は無い。
故に日本政府は朝鮮の将来の平和秩序について保証もなしに撤兵することは、朝鮮のためだげでなく、日本のためにも不得策であると思う。
したがって日本政府は清国政府に対して両国協同の委員を出して朝鮮の将来のために確実なる改革を施行するよう朝鮮政府に勧告することを提議した。もっともこの提議をすることで日本は朝鮮の内政に干与する意思はない。
露公使
その改革に関する両国委員設置の必要はあるのか。
陸奥
従来、日本政府から清国政府に向って、朝鮮国に関することの協同行動を謀ったが、清国政府は全く同意すると常に公言した。それにもかかわらずまだその公言を実行しないだけでなく、現にこれに反対の意思があるように察せられる。
よって両国間で確約できなくとも日本で朝鮮に対して改革の勧告をしつつある。しかし清国政府はこれに正反対の措置を勧告している感がある。
それで今回は双方一致して朝鮮の改革を謀ろうと決した。だが、清国政府は断然この提案を拒んだ。よって日本政府は止むを得ず、独力で改革を勧告しようとしている。もっとも、日本政府の意思は、徹頭徹尾、平和と友誼とをもって朝鮮国の改良を謀るものである。
露公使
もし清国が撤兵するときは、日本政府もまた撤兵することに同意あろうか。
陸奥
それは大体に於いては異議が無いだろう。しかし両国が対峙する場合、かれこれ猜疑を起し易く、また起った時はこれを解くことが難しいことは、日清両国の場合だけでなく、欧州列強国においてもまた往々にしてそうであると思う。
まして近来の歴史を見れば、このような猜疑は全く理由無いものではないことは明らかである。清国の行いは日本に猜疑を抱かせる事実が甚だ多い。
清国はかつて軍艦を朝鮮に派遣して、国王の父を捕らえて清国に送致した。また清国は朝鮮の内政に干与するために革命を謀らんとしたとの風聞がある。現に王妃の親戚である閔泳翊はその謀に与ったので、逃亡して香港にいるのも事実である。また明治十七年に清国は、日本兵が少数であるのに乗じて多数の兵で襲撃したのも事実である。そして今日に於いても清国政府は日本に撤兵を促しているのに、現に二千有余の兵を駐在させ、その上に李鴻章配下の兵五千五百人はすでに出兵の準備を整えて、昨今続々と派遣し、且つ丁汝昌は艦隊を率いて仁川に着いたことも事実である。
この事実を以ってしても清国は、日本が撤兵すれば直ちに再び兵を派出して朝鮮を隷属させる野心がないとは言えない。また、清国から出兵するには十三、四時間を要するが、日本から出兵するときは四十時間以上を費やす。
将来朝鮮の平和と秩序とを維持し、その独立国たる体面を全うさせるためには、清国が撤兵した上で左の条件があれば日本もまた撤兵するだろう。
一、 日清協同して朝鮮改革の完結を担当することに同意した場合。
二、 清国政府が日本との協同を拒むときは、日本が独力で改良させるので、それに清国政府が干渉しない保証を与えた場合。
露公使
露国もまた朝鮮の隣国なので、協議に与ってしかるべきと思うが。
陸奥
朝鮮の独立に関しては、清国を除く以外は別に異議ある国は無いと信じる。また露国政府も全く日本の意見に同感であることは閣下も前から述べていると記憶するので、協議の必要がないと思っている。
最後に陸奥は露国公使に次のことを確言した。
・ 日本政府は朝鮮に対し、条約にある同国の独立を維持し、且つ同国の平和安寧を確実ならしめんとの希望から出たもの以外に他の意向は無い。
・ 清国政府が何らかの挙動をしても、日本政府自ら交戦を挑むことはしない。もし不幸にして交戦に至ったら止むを得ずのものと知るべきである。
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陸奥の強気というよりは、露国が朝鮮に干渉せず独立も侵さないということを、最も対峙する国である清国に保証していたことからすれば、よく計算しての弁であると思う。陸奥は本音を語ってはいないが、これが外交というものであろう。
陸奥は、同日のうちに在露国西公使にこの会談概要を伝え、改革に関わる撤兵条件2件を露国政府に対して宣言するように指示し、また英国政府に対しても同様に宣言するように指示した。(「明治27年6月13日から1894〔明治27〕年6月30日」p4)
次に6月30日発、同日着、天津荒川領事からの電文。
(「明治27年6月13日から1894〔明治27〕年6月30日」p36より、現代語に、部分略。)
在清露国公使は天津に滞在している。汽船肥後丸で日本を経由して帰国する筈である。(露国公使は)6月25日以来、天津税務司と時々会合している。
聞くところによれば、同公使は李鴻章の依頼に応じて、露国政府が日清両国の間に立って仲を周旋することを建議し、そして同政府がそれを採用した場合は北京に出向く筈であると。
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最早容易ならない事態となったことに清国が漸く気付いて、露国に仲介を頼むことになったということである。
次に米国。米国にとっては対岸の火事も同然だが、どっこい駐米朝鮮公使は米国に調停を頼み込んでいた。
6月29日発、30日着、在米建野公使からの電文。
(「同上」p39より、現代語に、部分略。)
六月二十二日の貴電信を接収の後、本使は米国国務大臣に面会し、公然としてではなく、朝鮮に於ける事情を陳弁した。
本日に同大臣と面会の折、その談話の大要として、
「朝鮮公使から、清国はその兵を撤退することを望むと雖も、日本は朝鮮政府の更迭を要求して撤兵を拒絶せりとのことを述べて、米国の調停を要請した」と。
米国政府が朝鮮問題に付いて間に立つことはないだろうが、本使は今少し帝国政府の意向を詳しく承知したい。
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再び、ロンドン青木公使から。
6月29日発、30日着、電文。
(「同上」p41より、現代語に、部分略。)
英国外務大臣から本使を呼んで曰く、
「在清国英公使の報告によれば、朝鮮問題について日本政府を牽制する目的で、李鴻章から露国に斡旋を要請したと。このような事態に至った上は、一大紛議を生じるやも知れず。その場合、英国も手を拱いて傍観することは出来ない」と。
英国外務大臣は帝国政府から清国と朝鮮に提議した要求の件を日本政府から英国政府に通知するように請求した。その目的はまさに提議を承諾させることに仲裁する積りであると思われる。
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以上により、朝鮮問題が表面化してからの6月30日までの西洋列強国の思惑をまとめると次のようになるだろう。
英国・・・露国の南下、すなわち朝鮮進出を懸念。ゆえに北東アジアの安定を望み、日本に撤兵を勧告。清国にも注意を促す。
独国・・・英国と同一意見。
仏国・・・居留民と商業保護の為のものとして日本の朝鮮駐兵に理解。
露国・・・朝鮮に干渉せず独立も侵さないことを清国に保証していた。当初、日本の行動に理解。後に清国から調停を依頼されるが、検討中。
米国・・・朝鮮公使から仲介を依頼されるが、受けることは無いだろう。
再び清国の不明
7月を目前にしたこの時点で、東学党の乱に端を発した朝鮮問題に於て、もはや清国は日本の出方を見誤っていたことは明らかであった。
対峙する露国にすら頼んでどうにかしようとしたがもう手遅れである。
6月30日、在北京の小村公使は次の電文を発したが、そこでの小村の英国公使に対する態度もそっけないものであった。
(「同上」p43より要旨。)
六月三十日午後九時発、同十一時五十五分接。
東京陸奥大臣 北京小村臨時代理公使
総理衙門王大臣は六月二十九日、英国公使を訪い、朝鮮事件に関し、深く言辞を慎み其の意見を陳述し、且つ両政府に於て談判に取り掛かる第一着手として、先ず日本をして朝鮮自主国論を唱うるを止めしめ、並に其の派遣兵を撤回せしむることを主張したり。
本官乃ち英公使に答えて曰く。
「撤兵の挙、必ずしも此後の談判に便宜を与えざるべく、又た朝鮮変乱再度の患を除く能わざるべし」と。
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さて、当の清国政府の、事変に関する対応の経緯はどのようなものであったろうか。
当時の清国政府の動向を纏めて記録したものに、当年9月に外務省が作成した「在清国公使館撤回始末書」がある。日清開戦となって北京公使館を撤回したことの始末書であるが、この間のことを以下のように述べている。
(「第八冊 明治二十六年 至 二十七年分/3 明治27年分」p46より、現代語に、()は筆者。)
在清国公使館撤回始末書
明治二十七年九月東京外務省に於て
(元在清公使館書記官)中島雄 稿
今度の朝鮮事件で清国北洋大臣李鴻章が出兵するの当初、この際に日本がよもや出兵しないだろうとの臆断に相違して、我国から大兵を派出すると伝聞し、李氏は大いに慌てふためき、どうかしてこれを阻止しようとした。
しかし思いのままにならないことに由り、止むを得ず総理各国事務衙門王大臣に申し立てて、清国からもまた日本と同数の兵を出させようとの決意をした頃、貴大臣(陸奥外務大臣のこと)から清国特命全権公使汪氏を経て、朝鮮に於ける我政府の意見三個条が提出された。
しかし、李氏は日清が戮力同心して東洋の大局を維持せんとするこの長計に同意しなかった。
早速に総理衙門に電報してこの提出を拒絶し、且つ日本兵撤回の義を、その時帰国の途中で天津に滞在中の露国特命全権公使カウントカシニー氏に謀った。
是より先、英国特命全権公使オコール氏は揚子江海岸、並びに南陽各処の開港場巡回の目的の途中で芝罘に滞在中、朝鮮事件から日清の国変にまで及んできたので北京に戻ったところ、李氏が露国公使に謀っていることがあると聞いた。
それで総理衙門に対して何らかの和平を取りまとめようと考え、先ず説いて曰く、
「果して李中堂の計画通りに貴国から大兵を派出されるなら、到底日本との衝突は免れないだろう」
と説得に苦心惨憺一方なかった。
当時総理衙門は、李氏が謀った露国公使の調停は必ず効があるだろうと依頼しつつあったので、英国公使の忠告にはそれほど耳を傾けなかったが、兎に角、大兵を派出することだけは李氏に電訓して見合させた。
李氏もまた露公使の調停は必ずその効があるだろうと依頼しつつあったので、総理衙門の電令通りに大兵派出は見合わせた。
しかし日本政府が露国政府の申し入れを容れなかったので、李氏は再度大兵派出の準備に取り掛かったが、丁度その頃に清国政府内では、平和主義を唱える者が多くなり、また是より先達て、北京政府に於いて李鴻章万端の措置を非難する者も甚だ少なくなく、ここに至って益々その声が大きくなった。
それに由り、清国皇帝は、戸部尚書翁同龢礼部尚書李鴻藻を主任として、軍機処王大臣並びに総理衙門王大臣を会同させて会議させた。
最初は単に今度の李氏の措置を詮議するに止まるはずであったが、議事の進行と情況が切迫するにつれて、その後更に進んで朝鮮事件を詮議するに至る中に、遂に李氏を非難する内容となった。それは次の三点である。
第一、 よく詮議もせずに日本からの提議を拒絶したこと。
第二、 旧交ある日本との関係事件を、みだりに露国公使に謀ったこと。
第三、 皇太后還暦祝賀の本年に於いて、このような事件を惹起させたこと。
右の次第に由り、李氏は兎角にその言行を制限されて、終に七月二十日まで、大兵を派出することが出来なかった。
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北京政府も熟議すれば、まともな表決に至るものである。しかしもう遅い。
筆者は、李鴻章という人物は短気短慮の人であると見ていたが、ここに至って益々その感を強くせざるを得ない。
そもそも、明治18年の外務大臣井上馨による朝鮮指導8案の提議を、李鴻章が拒絶した時点で、日清間がこのような事態に至る方向性は既に決定していたように思う。
勿論それ以前から、日本世論の清国憎しの声は、明治17年の朝鮮事変における、少数の日本軍に対していきなり支那兵が多数で襲撃した恨みに始まり、更に40人近い日本人民間人を虐殺して、そのことを認めもせず、謝罪もせず、賠償もせず、わずかに、朝鮮への派兵撤兵の天津条約を結んだだけということに端を発している。また更には明治19年に巨大軍艦を見せつけて支那兵が横暴を極めた長崎事件となるに至って、もはや日本人の大勢は清国討つべしで腹を固めていたであろう。
しかし尚もこの時点で、もし清国が朝鮮の独立を認め、その改革に日本と共同歩調を取っていたなら、この戦争だけは避けることが出来たであろう。少なくとも李鴻章を用いずに、北京政府だけで熟議していたなら、清国はもっとまともな外交が可能であったろうと思うものである。
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