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日 本 誉 談 判
大鳥公使韓地に向う
東学党の乱起りて韓廷之を定治するの力なく、時の総理庁大将閔泳駿は止むを得ず援いを袁世凱に申込み、袁は之を本国へ通ず。牙山に清兵の来るは此に胚胎す。
我政府この報に接するや直に公使大鳥圭介を召す。
当時圭介は帰朝して大磯に病を養う。則ち馳せて外務省に至り、密命を受けて翌六月五日出発す。発するに臨んで血痕班々たる腹帯を纏う。之実に圭介が維新の変、幕軍に将として官兵と闘い、東西に転戦して終に函館五稜郭に降を請う時まで、身を放さざりしもの。今や韓山の風雲急なるに際し、之を纏うて赴任するは心大に決するのところあればなり。
此任命を受けて愈々発するまで僅かに二日。迅雷耳掩うの暇なかりしと云う。当時、公使に従うもの外務省参事官本野一郎にして、之を護るもの、高崎警部外二十名の巡査なり。
甲午の歳仲秋 伊藤仁太郎 誌 応寿耕濤 書
明治廿七年十二月 日印刷 同月 日発行 日本橋 新井吉右衛門
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大鳥公使入京
9日午後3時、大鳥公使を乗せた軍艦八重山が仁川に入港した。その護衛艦松島(巡洋艦、4200tクラス、全長92m、全幅15.5m、兵装32cm砲
1門、12cm砲 12門、6ポンド速射砲 16門、1ポンド速射砲 6門、36cm魚雷発射管 4門、乗員360人)、千代田(巡洋艦、2400t、全長94m、全幅13m、12cm速射砲
10門、47mm速射砲 14門、ガトリング砲3基、36cm魚雷発射管 3門、乗員350人)は先に入港していた。松島は艦隊司令長官伊東祐亨中将が乗る旗艦である。公使護衛としては巡査20名、兵員は、八重山の海兵と各艦から兵を出して併せた銃隊300名と野戦砲4門の砲兵などで計420名となった。
以下、大鳥公使の報告より。
(「明治27年6月9日から〔明治27年6月21日〕」p47より、現代語に、()は筆者。)
本官、護衛兵を帯同して発仁入京の顛末
本官は、本月九日午後三時頃、八重山艦にて仁川港へ到着。
常備艦隊旗艦松島及び千代田の両号も、八重山に先立ち入港しておりましたので、艦隊司令長官伊東中将と協議の上で、公使館護衛のために各艦より砲隊<砲四門>、銃隊併せて四百二十名を上陸入京させることに決議し、夜に伝令して兵員を上陸させ、銃隊三百余名は、翌十日の午前四時陸路を先発させ、砲隊は水路を小蒸気船に乗り組んで漢江を遡り、龍山より上陸の積りで出発。
本官は本野参事官一同と同午前五時頃に陸路出発いたしましたところ、たまたま前夜来の大雨で、道路は泥濘を極め、特に平生遠足に慣れていない海軍兵なので、日没の南大門閉鎖前に入京が出来るだろうかと気遣しましたが、案外の好結果で、午後七時頃には一同が無事に入京いたしました。
尤も、水路を出発した砲隊は午前に既に入京<五時間前>致しましたので、御安心ください。
なお、朝鮮政府は本官の帯兵進京を聞いて大いに恐懼し、ひたすらこれを防止せんことに力を極め、京城に於いては杉村臨時代理公使に向って頻りに派兵進京を止めるように照会に及び、その外にも王命を帯びて本官へ面接の為めに、外務参議閔高鎬を仁川に下したが、本官はその時には既に出発した後であり、彼は仁川に着いても本官に面会を得ることが出来なかった。
尤も、朝鮮政府顧問李仙得(米国人リゼンドル)氏も、何か内命を貰って午前中に仁川に向ったようであるが、これまた面会ができませんでした。多分同氏は仁川に於ける我が兵入京の勢いを見て躊躇し、その間に本官はすでに出発したので、終に面会の機会を失ったものと推察します。
そういう中に、麻浦からおそよ二十町程の小部落の龍登浦に至った時に、外務協弁李容植氏が出迎え、本官を遮ぎって頻りに帯兵入京の不可を陳述し、これを中止させようと試みたので、本官には、一々これに反駁を加え、且つ、詳細に我が派兵進京の理由を示したところ、彼は終に説に服し、我が列の後に付いて共に京城に入りました。
右、本官入京の顛末の大略を上申します。
明治廿七年六月十一日
在京城
特命全権公使大鳥圭介
外務大臣陸奥宗光殿
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なお杉村の「在韓苦心録」には「閔高鎬」ではなく「李采淵」とある。
かつて明治17年朝鮮事変の時は、竹添公使率いる1個中隊中およそ銃隊は120人ほどであった。もちろん大砲はなかった。対する清兵は3営1500人で大砲を備え、また途中から朝鮮兵も清兵に荷担して日本側に銃弾砲弾を浴びせている。そういう中を王宮で闘い、更に仁川に撤退し、それで清国側よりも兵の戦死傷者ははるかに少なかったことからも、今回の大鳥公使の率いる砲兵・銃兵420人は、公使の護衛としてはまずまずの人数ではなかろうか。
尤も、万が一の事態になった時には、とても京城の公使館や日本人居留民全員の保護までは覚束なく、17年の公使館焼失・日本人虐殺の二の舞となることは目に見えている。
京城全体を容易に制圧し、また仁川から京城までの補給ルートを確保できる大部隊が必要であろう。そのための大島少将率いる混成旅団ということになる。
さて、清兵は1000人が8日に牙山に上陸し、9日には600人、10日には500人が到着したが、まだ上陸はしなかった。
朝鮮迎接官と清国領事がこれを迎えたが、朝鮮迎接官は、進軍することについては強く要請してこれを許さなかった。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録
松本記録」の「1 前編 1」p12)
全州城を取り戻したことにより、乱の鎮圧が可能であることに自信を得た朝鮮政府は、今更ながら清国に援兵を求めたことを後悔したという。
しかし物事には、勢いというものがある。「騎虎の勢」と言うそうであるが、日本側にはそういうものがあった。まして明治15年17年の時の、公使館は焼かれ日本人は虐殺され、公使は身一つで逃亡せねばならなかった、そのような惨めな事態には決して再び至らせないぞ、と。
陸奥だけでなく日本人なら誰もが当時思ったことであろう。
大軍の発動
9日午前1時、歩兵1大隊1000人(?)、工兵1小隊50人を載せた和歌浦丸が広島県宇品港を出発。
続いて、10日夜には越後丸が出航し、11日早朝から午前中にかけては、熊本丸、木津川丸、近江丸、筑後川丸などが同じく陸兵を載せて宇品を発した。なお旅団長大島義昌陸軍少将は近江丸に乗る。
更には住ノ江丸、山城丸、仙台丸と続いて発して仁川に向った。(「6月11日 在京城 特命全権公使 大島圭介から
陸軍中将 大島義昌宛」、「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p13)
11日、外務督弁趙秉稷が大鳥公使を訪問して、大鳥が兵を率いて京城に入ったことを非難し、速やかに撤兵することを促した。しかし大鳥はこれを拒否。
もちろん大鳥の拒否は無法なものではない。むしろ朝鮮政府の非難こそ条約に悖るものであり、日本の護衛兵を受け入れねばならないことは済物浦条約上の約束である。更には兵営の設備も朝鮮側が負担せねばならないことも。
その後、大鳥は袁世凱を訪ねて談話をし、両国とも穏便に事を処理して互に衝突することは避けるべきであることを確認。なお、袁世凱は、「清兵は牙山に上陸したが内地には進んでいない。また、乱民は10日、11日には全州で敗れて金堤に逃げた。」と述べた。(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p34)
大鳥は混成旅団のことは承知していた。しかしそれは東学党の乱が京城にまで及ぶ事態となることを想定した上での事である。しかし実際は乱は治まりつつあり、また京城も極めて平穏であった。このような状況下に公使護衛の日本兵だけでも朝鮮政府は恐れて撤兵を求めているのに、更にこの上大軍が日本から来ることには、さすがに大鳥も躊躇して陸奥外務大臣へ宛てて、
「大島少将の出発についての貴殿の電報を接受しましたが、現状況下では、あまりに多くの軍隊が入京する適当な理由がないことを危惧しております。関係所管から大島に電信させ、私の命令なしで軍を上陸させないように働きかけられたし。」
と打電。(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p32)
更に同日に、仁川到着予定の大島少将宛てに書簡を送付して、この上更に多数の兵を上陸させるのは外交上得策ではないと以下のように述べた。
・日本から兵を派遣するのは条約に基づいて公使館警備に充てるためであり、明治15年より護衛兵を置いたのは、初め歩兵1大隊であり、その後1中隊になった。今多くとも1大隊以上を置くことは、前例に照らしても不穏当なものであり、清韓両国をして我が国に野心あるかのような疑いを持たせることになる。また諸外国も妥当な処置とは見ないだろう。よって多数の兵の上陸は、外交上において損あって益ないことと考える。
・清国は牙山を撤兵するとの説がある。もし我が国が多数の兵を京城に入れるなら、清国もまた疑って必ず兵を京城に入れるだろう。その時には大事を引起すかもしれない。これは外交上実に危険なことと思う。
・よって、以上の理由により、和歌浦丸で先発の兵の半分を上陸入京させ、残りは上陸させずに後報を待つこと。
・後発の各隊も上陸させずに後報を待つこと。
・保養の為に銃器を携帯せずに時々上陸するのは差し支えない。
(以上「6月11日 在京城 特命全権公使 大島圭介から 陸軍中将 大島義昌宛」より抜粋要約。)
しかし、11日の外務大臣に宛てた電信に対する12日の陸奥の返事は、
「大島指揮下の軍の上陸を防ぐことは出来ない。しかし貴殿が京城入りを同意するまでは仁川で露営させることはできる。もしこのことに貴殿が賛同するなら、大島にそう言って協議するべきである。彼は、電報で参謀本部によって、仁川に残ることが公使の希望であると指示されるだろう。自分は、貴殿が一戸(陸軍少佐一戸兵衛)指揮下の兵が京城に入ることには異議がないと思っている。」
というものであった。 (「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p33)
一戸陸軍少佐の部隊とは、仁川に先着した和歌浦丸の歩兵1大隊、工兵1小隊のことである。
13日、大鳥は尚も大島宛の書簡と同様の内命を杉村濬に与えて、大島旅団長に直接会って伝えるように言い、仁川に向わせた。
しかし同日、公使護衛の海兵が一部を除いて仁川に戻って帰艦し、代わって一戸の大隊と小隊が京城に入った。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録
松本記録」の「1 前編 1」p15)
陸奥と大鳥の議論
尚も大鳥と陸奥との間で電信による議論が続いた。
12日京城発、13日東京着、大鳥から陸奥への電信。
「6月11日夕に電信したように、あまりに多くの兵の上陸は、外交上の紛議を引き起すかもしれない。自分が見て必要と認めた兵以外は、更なる指示を待たせる為に対馬に退却させることが望ましい。貴殿が陸軍大臣と協議して、同意見として大島に指示することを希望する」
(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p33)
再び大鳥から陸奥への電信。
13日発、同日着。公使館護衛の海兵と和歌浦丸の兵との交代について。そして、「多くの兵を上陸させないことが極めて重要であり、参謀本部と協議して兵の上陸はなるべく少なくし、仁川に止めておくように大島に指示されたい」と。
(「同上」p34)
同日、陸奥から大鳥へ電信発。
「貴下の要望により、参謀本部によって大島に仁川で軍を露営させるように指示が送られた。軍を京城に入れることについて貴下をして求めさせた理由は何であろうか。そもそも清韓で起りうる危険が完全に予想された当初からのことを思い出されたい。もし大島の軍が仁川にこのまま留まるなら京城に入る機会を失い、そして彼らが、ただどこかに行って何もせずに消耗して、最終的にはそこから帰って来た、ということになるならば、それは非常に不体裁且つ不得策なものとなるだろう。もし特に重大な異議がないなら、上記の兵を無要な遅滞なく京城に入らせるのがより良くはないだろうか。電報で理由と意見を報告するべし。」
(「同上」p35)
同日更に再び、陸奥から大鳥へ、
「仁川に少しの部隊を残す必要はあるだろうが、6月13日の朝に電報で述べたように、たとえ外交上に少しの問題を生じせしめても兵の主力を京城に入れることが得策である。もし清兵が牙山から遠くに進まないなら、なるべく速やかに平和に復することは極めて望ましいことなので、貴下は日本兵が賊徒を鎮圧すると(朝鮮政府に)申し入れてもよい。朝鮮に対する将来の政策に関しては、日本政府は同様に強硬手段をとるも止むを得ないことになるかもしれず、自分は伊藤伯と協議中である。」
と電信。(「同上」p36)
14日、それに対して大鳥は、
「全羅道では賊徒は敗北し、京城に清兵は送られないという情況下にあっては、公使館と人民の保護のために多数の兵士を派遣する必要がないだけでなく、また清国、露国とその他の列強国も日本の態度を疑って、自国の兵士を朝鮮国に派遣するかもしれない深刻且つ重大な虞がある。したがって、情況が変化して我々をより危険な立場に立たせることがない限り、京城に4000人の兵を入れる正当な理由を見出せない。日本政府のこのような行動は諸外国との関係に対して害を与えるものであると信じる。しかし、日本政府が出兵の主なる目的を達成する為に、あらゆる可能性に対処すると固く決心ある上は、以上(の意見)は全く論外である。」
と陸奥らの決意を確かめ、続けて、
「在北京臨時代理公使から、清国は2000人の兵を追加して朝鮮に送るだろうとの電報があった。この電報に関して袁世凱は、日本兵が仁川に上陸しないならそれは派遣されないだろう、と保証した。露国兵が朝鮮に派遣されるだろうとの噂が当地にある。それが真実かどうかを至急確かめられたい。」
(「同上」p37)と、さあこれをどうする、と言わんばかりの電文を送った。(日本兵4000人の数字は、この時仁川到着のものなのか、大鳥が知らされていた混成旅団の総数なのかは不明。)
この時大鳥は61才。かつて幕軍として戦い五稜郭まで行った経歴の人である。当然、並の気骨ではなかったろうし、特命全権公使としての権限を以って、当初は日清両兵の衝突を避けることに最も意を置いたようである。4日に彼に与えられた訓令の趣旨からすれば当然のことであった。
杉村は大鳥のことを、
「抑々大鳥公使の意は、初めより日清両兵の衝突を避け、穏に撤兵せんとするにあるや疑うべからず。[後に陸奥伯の蹇蹇録を読むに及んで、公使の意は、全く外務大臣内訓中『極めて已むを得ざるの場合に及ぶまでは平和の手段を以て時局を了結することを第一義とすべし』とあるに出でたるを知れり。](「1
前編 1」p19)」と言っている。
ところで『極めて已むを得ざるの場合に及ぶまでは平和の・・・』は確かに「蹇蹇録」には、要旨としてそう訓令したとあるのだが(「第三章
大島特命全権公使ノ帰任及其就任後ニ於ケル朝鮮ノ形勢」p2)、実際の大鳥への訓令と照らすと少しく微妙。
一方陸奥は13日の電報で、
「もし大島の軍が仁川にこのまま留まるなら京城に入る機会を失い、そして彼らが、ただどこかに行って何もせずに消耗して、最終的にはそこから帰って来た、ということになるならば、それは非常に不体裁且つ不得策なものとなるだろう。(英文和訳)」
と。
明治27年10月に、6月から8月の間の事件関連の外交文書類を活字にして添付し、事件経緯の概要を記した「日清韓交渉事件記事」という簿冊がある。その中の各国毎に分けた中の「2
日清韓交渉事件記事/一 朝鮮関係ノ分」は、その電文なども実際の英語電文と比較しても正確なものであり、事件経緯も電文資料などと矛盾しない内容であった。
それによれば、この混成旅団入京についてやはり次のように述べている。
「我兵既に出発の後なるを以て、之を召還することを得ず。且つ永く仁川等に駐在せしむるに於ては、遂に京城に入るの機会を失し、一事を為すなくして空しく派遣の大兵を帰国せしめざるを得ざるに至るも計られず、果して此の如き場合に至らば、政略上甚だ面白からざるを以て、多少外交上の紛議を来すことあるも、寧ろ此際、派遣軍を京城に入らしむるに若かずと決し」と。(同p3)
ここのところを陸奥は「蹇蹇録」では、
「翻て我国の内情を視れば、最早騎虎の勢既に成り、中途にして既定の兵数を変更する能わざる」と、ちょっとうまい表現に変えているw。(「第三章
大島特命全権公使ノ帰任及其就任後ニ於ケル朝鮮ノ形勢」p4」)
しかしつまりは、大軍を発しておきながら、何もしないまま空しく帰るわけには行かないだろうと。
まあ確かに、もしこのまま帰っていたとしたら、国民全ての怒りを買い、たとえ内閣総辞職となっても、それで済まなかったかもしれない。
もっとも、陸奥は続けて、
「・・・能わざるのみならず、従来清国政府の外交を察すれば、此間如何なる譎詐権変の計策を逞くし、最後に我を欺くやも知るべからず」 と言っているが、ここは全く同感ですな。当時もそして今も変わらぬものの一つでは、というかそれが中華の文化なのでは。
「混成第9旅団 第5師団 報告」に「6月12日仁川入港、海竜号船長村津国兵衛より聞書」という、海竜号なる船の日本人船長から聴取した記録がある。
それによれば、群山で朝鮮の貢米を積んで仁川に戻る準備をしていると、陸上から朝鮮官吏が公文を提示し、「支那兵6000人が忠清道に上陸するので、積載の米2000俵をオブン島に運搬するように」との命令書を示した、とある。
12日以前の話であるから、清兵は当初から6000人ほど上陸させる積りだったのかもしれない。もちろん袁世凱の言う清兵の数が信用できるはずもないわけで。
また、仁川に上陸した日本軍にも事情があった。
(明治27年 「秘密 日清朝事件 第5師団混成旅団報告綴」のC06060160000の2pより。)
「六月十九日、終日烈風雨 (略)一 過日来、命じたる穿井何れも効能少きの報告を仁川より受け、此日又昨日の談判を続け、且つ後続兵の来■する為めに、一層陣営移転の急務を公使に協議す。公使動かず。」
つまり、仁川で井戸を掘っても水不足。困って部隊の移転を公使に申し込んだが、大鳥はうんと言わなかったと。19日の時点で大鳥はまだ頑張っていたようだ。
撤兵せずに改革を
一方、大鳥の内命を受けて大島少将との協議のために仁川に来ていた杉村濬は、一見平穏となっている現状に満足せず、この際一挙に朝鮮の内政改革まで行う望みを持ち、13日作成の外務大臣宛の意見を提出した。
(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p16)
一、我、今回の挙を以て清人が朝鮮に及ぼす虚喝を抑え、将来彼が朝鮮に及ぼさんとする勢威を減ぜしめ、我勢威を隠然増加を期すべし。
而して、其目的を達するには、我は持重して兵を引揚げず、彼をして先ず引揚げの議を出さしめ、且つ之を実行せしめなば足れりと思考す。
二、朝鮮内部に変革を起さしめ、閔党を斥け、之に反対する人々若(もしく)は中立の人々を政府に立たしむるを期すべし。数日已来閔駿(閔泳駿)の窮迫、大院君の入闕[一時の虚伝後たることは、後に判然せり]は、聊か其端緒を開きたれば、今一時持重して京城に駐兵せしむるときは、十中の八九迄は、其目的を達するを得べし。故に内部の変革終わらざる間は撤兵をせざるを要す。
閔党斥けられて反対党若は中立の人々政府に立つことは、将来朝鮮の利益にして随って我国の利益と信ぜり。
三、事落着の後に至らば、「朝鮮政府はその乱民を鎮定する能わず施て、隣国を騒したり」と云う口実を以て清国政府と協議を遂げ、内政改革を朝鮮政府へ勧告すべし。
天津条約にも日清両国が朝鮮政府に勧告し、外国教師を雇聘し兵隊を訓練せしむべしとあれば、其轍を追うて勧告の区域を拡むし。
明治二十七年六月十三日 仁川に於て記す。
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要するに、朝鮮への日清の影響力を同等にし、朝鮮内政から閔一族を排斥し、その反対勢力などを以って運営させるべきで、それまではいろんな口実を設けてでも兵を引揚げないこと、と。
これらは後に実現することになる。もっとも、杉村はこの意見を提出した時点に於ては、まだ日清開戦をして雌雄を決せんとする迄の考えはなく、当時としては、朝鮮における日本の地位を清国と同等までに回復して、併せて朝鮮の内政を改革させることが望みだったと記している。
15日、この後の方針として、先の杉村の意見が取り上げられたかどうかは不明だが、以下のように陸奥外務大臣の閣議案が提出され、同日可決された。日清韓の運命の岐路となった朝鮮改革案の決定である。
(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p38、()筆者。)
(欄外)廿七年六月十五日、外務大臣自ら之を閣議に提出せらる。閣議決定。
閣議案
今回の朝鮮事変は、如何なる結局に到るやは今遽(にわか)に断案を下し難しと雖ども、仮に無事平定の局を結びたりとするも、抑も朝鮮政府の現状より予測するときは、将来何等の事変より何事の顕象を生ずべきか、到底永く国家の秩序平和を維持し得べからざるは、殆ど疑を容れず、果して然るときは又復た今回の如く、清国に於て出兵すれば我国もまた之に応じて出兵し、以て均勢を保たざるを得ざるの場合を現出すべきは必至の数に係り、延びて竟(つい)に日清韓の葛藤を生じ、東洋大局の擾乱を引起すの虞なきを保せず。
今に当りて≠ュ日清韓の間に於て将来執るべき政策を籌画し、以て永く東洋大局の平和を維持するの道を講ずるは、実に急務中の急務と確信す。故に先ず廟議に於て左の二ヶ条を決定し置かんれんことを希望す。
第一 朝鮮事変に付ては速に其乱民を鎮圧すること。但我政府は成るべく清国政府と勠力して鎮圧に従事する事。
第二 乱民平定の上は、朝鮮国内政を改良せしむる為め、日清両国より常設委員若干名を朝鮮に置き、先ず大略左の事項を目的として其取調に従事せしむる事。
一 財政を調査すること。
一 中央政府及地方官吏を淘汰すること。
一 必要なる警備兵を設置せしめ、国内の安寧の保持せしむること。
一 歳入より歳出を省略せしめ剰余を以て利子と為し、出来得る丈、国債を募集せしめ、其金額を以て国益上の利便を与うるに足るものゝ為に、支用せしむること。
然るに此政策を実行するには、固より帝国政府と清国政府と協心同力の行動をなすを以て、最も平和にして且つ適当なる順序とす。而して幸い去十三日、伊藤総理大臣と清国公使汪鳳藻との面談の節に於て、既に日清両国相い提挈して以て朝鮮を保護すること必要なりとの点に関し、互に幾分かの意見を交換せしことなれば、此機会を失わず茲に本大臣は先ず汪公使に談判し、其政府の意嚮を聞かしめ、以て漸く商議の端緒を開くに至らんことを期す。
然り而して今若し廟議此政策を執行することに一決し、一たび清国政府に向て、発言せし上は、其商議の結果如何を問わず、左の二件を決行すること必要と信ずるを以て、是れ亦た予め廟議を決定して置かれんことを望む。
一 清国政府と商議を開きたる後は、其結局を見るまでは、目下韓地に派遣の兵を撤回せざる事。
一 若し清国政府に於て我意見に賛同せざるときは、帝国政府の独力を以て朝鮮政府をして前述の政治の改革を為さしむることを努むる事。
右、閣僚諸公の審議を請う。
明治二十七年六月十五日
外務大臣陸奥宗光
内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿
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つまり、内乱を引起すような朝鮮の政治体制が問題なのであって、これを解決しない以上日清韓の緊張も含めて、また同様の事態となるだろう。よって、日清合同で朝鮮の内政改革に取り組むべきである。そのことを清政府に提案し、その協議結果を見るまでは、当面兵は徹しない。また、もし清政府がそれに賛同しない時は、日本の独力で改革させる、と。
ついてはその改革案は、
一 財政を調査すること。
一 中央政府及び地方の官吏のうち、不要不適格の者を排除すること。
一 必要な警備兵を設置させて、国内の治安を保つこと。
一 出費を抑えて剰余を出し、それを利子として可能な限り国債を募集し、その金額で国益上の利便となるもののために使用すること。
と、実に妥当なものであろう。
かつて、明治18年に井上馨が朝鮮指導に関して李鴻章に8箇条の案を提案した時の顛末を思い出すのであるが、あの時も李鴻章は「真に快論なり」と賞賛し、その提案の政策に「大いに満足して大賛成である」と一旦は表明しておきながら、結局は宗主国の面子にこだわって断り、その見識の狭さと猜疑心に井上を嘆かせたのであるが、それによって日本は朝鮮に対して一定の距離を置いてむしろ清国の手に委ねるという政策を選ぶに至った。
しかし以来9年間というもの、清国は朝鮮が属邦であることを内外に強調し、朝鮮にその自覚を持たせることに意を置き、政府内に支那党の人間を増やすことばかりを画策し、朝鮮の国内問題に対して何等有効的な指導をすることもなく、ただ宗主国然と振る舞うのみで、だらだらと時間だけが過ぎただけであったというこのお粗末さ。
朝鮮は朝鮮で、明治9年日朝修好条規締結時に、かつて野村靖が「富国強兵の道は人民が繁栄してこそである」とアドバイスしたが、富国強兵どころか、かくも人民の不平不満は募り反乱に次ぐ反乱で、ついにはこのような大乱となった以上は、もはや朝鮮国には内治の能力は無いと見做されよう。
そもそも物事の破綻の原因は往々にして我が足元にある。それを他人のせいにしたがるのが人間でもあろうが、今日でも東学党の乱の原因を日本による米などの収奪によるもの、ために物価の高騰によるもの、とする人があるが、そもそも、米を売って絹を買い、食えなくなってから、「おまえが米を買うからだ、おまえが悪い」と言う者があるならば頭がおかしいという外は無い。
先の東学党首領の全琫準は、閔一族の暴政こそその因であると言い、地方官の苛斂誅求と共に、この国の支配階級の腐敗振りこそ最たる原因であり、その頂点に立つものこそ実は国王にあらずしてその妃、閔妃であった。この驚愕の浪費家にして自分と一族の保身の為めにはいかなる手段も辞さないこの人を、今に国母と称え、両班階級という、働かずにひたすら人民から搾り取ることばかりを考えていた連中を祖先に持つことを誇りとする(それも殆どが金で買った両班の身分)この国の人々の妄想詐偽に引っ掛かる日本人のなんと多いことであろうか。
朝鮮を独立国と認め、そう海外に紹介し、広く海外各国と交際させる先鞭をつけた日本は、条約締結以来、朝鮮に対して労苦を惜しまず文字通り血と汗をもって延々と支援し、提言し、警告してきた。ろくに資源も無い、「朝鮮は至って貧しい国で物産とても僅かに綿および牛皮などであり、処々に開港してもそれ程の益はないであろう。(申大臣の弁)」であった国に官民共に投資し、産業を興し、港を設けさせて貿易利益を富ませ、いくらかでも富国強兵に向わせんと、もちろん日本の国益に沿うものとして、取り組んできたこの18年間であった。
しかし事ここに至って、もはや朝鮮の自主改革は望むべくもなく、たとえ清国が協調しなくとも日本独力でも改革に向わせることに努めることとなった。
公使館内不一致
この閣議が決定した同日、朝鮮では、袁世凱が日本公使館を訪れて日清同時撤兵を提案し、大鳥も殆ど同意して公文を取り交わす段階にまで至っていた。
翌日16日、杉村濬が仁川から戻ると、松井交際官試補が言うのに、
「清使来て公使と交渉の結果、双方同時に撤兵せんとの協議が調い、昨日公文を取り交わさんとまでなったが、公使館職員はこれに対して議論あり、自分はこれは一大事と思い、大鳥公使に、杉村濬氏が帰るまでは御猶予されてはどうでしょうか、と申し出て、公文取り交わしだけは差し控えになった。この際公使を促して方針を定めないなら、後日に臍を噬む悔いともなりかねない。」と。
よって杉村は大鳥帰任に同行した本野参事官とも相談すると松井と同意見であった。それで両人で熟考の末、
「日清同時撤兵の協議を破り、この機に乗じてたとえ清国と戦端を開くことに至っても、朝鮮の独立問題を決定すべし。」
と密議を定め、17日、大鳥公使と面談した。
大鳥公使は、両国撤兵に関して政府に訓令を仰ぐばかりの段階とのことで、杉村は、同時撤兵案を斥けて、もし清国が聞かないなら、朝鮮の独立論を持ち出し、成否を兵力に訴えるべきである、と説いた。
大鳥公使は遂に、同時撤兵のことだけは袁世凱の申し出には同意しないことに決した。
よって杉村は外務大臣宛の電文を起草し、本野参事官も杉村との密議での方針を公使に勧め、遂に大鳥公使は次のような電信を発することとなった。
「京城着任後の事情を見れば、護衛兵を増加する必要を見ない。しかし15日に仁川に到着した3000の兵を無用に撤回させるのは不得策なので、有効な使用道を発見するべきである。袁世凱は両兵同時撤兵を申し出たが、本官は撤兵の権を有してないので本国政府の訓令を仰ぐと返答した。依ってこの機会に日本兵撤兵前に清兵が先に撤兵することを要求し、もし容れられなければ、清国は朝鮮の独立権を否認し、その所為は我国の利益を害するものであるとし、兵力を以って朝鮮国外に追い出すべし。もし、協議が調わない時には、本官は激烈なる手段をとっても差し支えないか、至急訓令を乞う。」と。(「明治27年6月8日から明治27年6月24日」p9〜p8)
しかし、電信が南北両線とも不通のため発信できず、翌18日になって北線が復活したので送信した。
(以上「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p18〜p22)
(南北の電信線とは、京城義州経由が北線、京城釜山経由が南線である。どちらも朝鮮政府が敷いた京城から義州と釜山間の分は故障続きの線で、修理を求めてもほとんどほったらかしの状態だった。)
京城公使館に於いて、大鳥公使を除いた者達の逸る気持ちが伺える。それに対して大鳥は依然として積極的ではなく、自分が受けた訓令に忠実であろうとしているものが感じられる。なお、この時に大鳥公使は同時に書簡を以て「清兵を撤回せしむ可き最後の処置に付伺」を外務大臣宛に送付しているが、届いたのは25日以降であって既に情況が一変していることから意味のない伺いとなってしまっている。刻々と変化する切迫下にあって書簡による伺いなどは用をなさないものである。そして特命全権でありながら一々「廟議御決定」してもらいたいとか、御訓示してもらいたいとの伺いが多すぎるように感じられる。もちろん杉村濬などの当初から開戦を望む意見が強力であったからでもあろうし、大鳥が「平和主義者」伊藤博文総理の意向に従わんとしていたからでもあろう。しかし又、かつて賊軍の敗将であったことの遠慮でもあったろうか・・・。日清開戦となるやもしれぬ極めて重大かつ繊細の判断が求められる刻一刻ではあるが。
さて、杉村濬は、仁川で見た新たに上陸した日本軍の意気が甚だ盛んであることから、大鳥公使が望んでいる平和処分は到底達することは出来ないと察したという。軍は入京することのみでなく、戦闘意欲もまた盛んであったことは、次の一文で窺える。
「福島中佐、上原少佐の二官入京。大鳥公使へ面会したる処、同公使には平和主義を執り、両官の説を容れられざるが為め、幾んど失望の体なりしが、前記の電案(18日送付の電文案)を内示したるに及んで、躍然として大に喜び、局面稍々一変し、只管東京の回訓を竚望せり。」(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録
松本記録」の「1 前編 1」p22)
その日午後、電信が不通であったことで遅れていた上記閣議の朝鮮改革決定の報せと、その提案を清国に提議するので、談判継続の間はどのような口実を用いてもよいから兵を京城に留め置くこと、と電報が到着。
「・・・清国と合同で朝鮮政府の組織を改革し、その目的のために共同委員を任命することを清国政府に迫ることを決定した。6月16日に在日本清国公使に提案するつもりである。この問題は袁世凱のみならず全ての者に対して極めて秘密にしておかねばならない。清国とこの問題合意の交渉が継続する間は、どのような口実を用いても、我が兵が京城に居ることが最も必要であり、それは、李鴻章が我が兵を撤去させることに非常に苦心し、たとえ清兵を退去させてもそうさせようと見えるからである。撤兵の遅れの理由としては、公然且つ表向として、公使館員もしくは領事館員を(乱の)現状調査として派遣するものとし、そしてその調査は出来るだけ遅い方法を取り、その報告書は故意に、平和とは反対の状態であり好ましくない模様であると装うべきである。もし護衛が必要なら巡査を同行させてもよい。・・・」と。
(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p43より抜粋)
その後電文は続いて、露国出兵の噂のことについては、当分その虞はないことと、朝鮮政府の撤兵要求に対しては、情況を調査中であり、その報告を待っていると答えておくように、で終わる。
つまりは清国との交渉結果が出るまではゆるりと現地調査でもして適当に時間稼ぎをし、なお報告も、平穏な状態ではないことにしておくようにと。
さすがにこのような術策を記すのは憚られたのか、杉村濬の「在韓苦心録」には、「現状調査の上報告すべき旨」とだけしか書かれていない。「蹇蹇録」はもちろん触れてすらいない。
しかし、実際の英文電報のみならず和文も共に『「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p42〜p44』などに収録されているから、何と日本の公文書記録の律儀なこと。
ところでこの頃、仁川京城間の道程の所々に、既に日本兵が配置されていたようである。
そのことに対する17日の督弁趙秉稷の問い合わせに、大鳥公使が18日に回答しているのに、
「我公使館より最寄港口に達する通路を保護し、併せて其通信を保護することは、公使館警備の方法として必要不可欠義と思考し、此際兵員を要処に暫駐せしめ候次第にて、決して他意ある訳に無之、且又貴国人民に対して毫も妨害を与えざる義に有之候。」
とある。
朝鮮政府と大言壮語の袁世凱
さてこの頃の朝鮮政府内や京城内はどのような様子であったろうか。
大鳥公使の6月20日の報告に以下のものがある。
(「明治27年6月19日から明治27年7月3日」p9より現代語に、()は筆者。)
発第 八十二号
我兵入京に付韓廷并に京城内模様探報
六月十八日接 韓廷に於いて大臣会議の模様
○ 日本軍艦が十艘、各艦には五百名の兵を載せ、合計五千名ばかり、その他商船三十艘が渡来した。
これは或いは何らかの奸計がないとも計り難い。どうすればよかろうか。
城内の騒動は非常なもので、今日この頃は、避難の人民が多く東門から出て行った。また、日本人質店の主人が言っているのに、もし速やかに質受けをしないなら、皆なくしてしまう、と。
ゆえに一層恐懼の度を極め、一夜のうちに米と柴の価格が暴騰して、人民は困難を蒙り、内乱を生じる虞がある。
右に付いては国王も大いに叡慮を悩ませられた。
それなのに恵堂閔泳駿は国王に奏して言った。
「前日、袁世凱は日本公使館に往来して、その不都合を責めたので、必ず日ならずして退去するだろう。」
左議政趙秉世は密かに領議政に請うて言った。
「日本人の奸謀は計り難い。もし露国と結託して朝鮮と清国に何かを図ることがあるならどうしようか。」
領議政が言った。
「露国が清国を呑まんと望んでから久しい。日本もまた狡黠(ずるくわるがしこいこと)である。そのような謀がないとも言えない。」
勲洞大臣である金宏集が言った。
「胡為ぞ如此大言を出すか(どうしてそのような出鱈目な大言を出すのか)。この言葉が一度他に伝わるなら、大いに大臣たる体面を損じるだろう。万国公法のある以上は、万一もそのような理はない。口を慎んで国王を煩わすなかれ。最も禁じ難いのは我国の人が日本公使館に往来して、我国の内情を洩らすことである。」
○ 昨夜深更、閔泳駿は一人で袁世凱を訪れ、その後直ちに参内して密奏するということがあったが、それが何かは漏れ聞かなかった。ただ、袁氏は日本公使館に来て詳細に協議している(人である)。
「袁氏でないなら如何にしてこのようなことを得ているだろうか、云々。」との言葉を聞き取った。
(具体的な内容不明)
○ また、閔泳駿は暗号電文を香港に在住している閔泳翊に送るべきであると奏して、早速に発すべし、と勅答があったと、云々。
六月十八日夜接 報告
○恵堂(閔泳駿)は奏して言った。
「袁氏は日本公使館に行き、『名義なく兵を他国の都城に入れるのは公法に載っていないことである。もし速やかに撤退しないなら、兵を以って相戦わん。しかし城内は武力を用いる地ではない。別の閑地を定めて、そこで勝負を決せん。』との談判をした。ただし、上海[天津のことであろうか]に電報してその回答を待って決行すべし、云々。」と。
○ 大院君は政事に携わらんと望んでいるが、恵堂はその事を知って、大院君に政事の協議をしないように中宮殿[王妃]に奏したと。ただしそれがどのような奏言であったかは分からない。
○ 恵堂は露国公使に依頼して、日本公使館の動静を探偵されていると云う。
○ 大臣は全て何もせずに傍観するだけである。
六月十九日午前接 恵堂と袁氏との問答
五月十四日[日本歴六月十七日]夜、恵堂は袁氏に請うて言った。
「東学党の乱の勢い激しくて全州は落城するに至り、地方兵はこれに敵わず、京城の軍が出張して日数多いのに、全く掃滅する道も無かったが、幸にして天兵(清皇帝の兵のこと)が来臨して威声先ず振るい、賊らをして風に聞いて肝をつぶして■させた。京軍は盛んであると雖も、狂った賊らは追い詰められてまた咬みつく毒となるかもしれない。そして今日、逃散したのは専ら天兵の来臨による。その皇恩の大なる皇恩の極みなる、またこれ大人の賜うところでないところはない。現に今、日本兵は故なく来て、欲しいままに都城に入る。欲しいままに朝鮮を侮凌し、以って人無きが如く振舞う。どうして交隣の誼と言おうか。大人には善く裁断されて一は以って朝鮮を安んじ、一は以って綱紀を立てられんことを、伏して希望する。」
袁氏は言った。
「乱徒が逃げ散ったのは貴国の洪福である。慶すべし。賀すべし。皇恩の外は自分には敢えて感謝を受けない。日本人がこれに乗じて兵を他国の京城(みやこ)に闖入させたのは驚かないわけではない。清兵が帰国したら日本もまた兵を退くだろうが、もしそうでないなら必ず各国の非難があるだろう。そして中国ももとよりまた問罪の兵を起こさないであろうか。自分は既に日本に向って談判したことである。この意を貴国君主に稟達されて叡慮を安んじられたい、云々。」
六月十九日午後接 報告
袁氏は恵堂に対して大言して言った。
日本は東方の一狭小国である。既に亜細亜の一部に在りながら、小を以って大に事(つか)えることを思っていない。それであるから中国から事毎に罪を問わんと欲して久しい。
余は、彼に向って言わんとす。
汝の恃むところは何の強ぞ。頼るところは何の力ぞ。汝、万兵をもって来て戦うなら、我は二万を以ってこれに敵する。汝、十万の兵を以って来て戦うなら、我は二十万を以ってこれに敵せんと。
今般のことを以ってこれを言えば、兵を都城に入れるは万国に例がない。そして彼が強毒を恃んで朝鮮を凌侮すること終わることがない。
中国は実に朝鮮のために痛憤する。且つ隣国の都城二十里内に於て賊変があるなら、条約締結の各国は兵を以て来て護るは、公法に載るところである。
そうして今、朝鮮の内乱はなお五百里外にあり、日本兵の来たのを名義なき妄動とした。まして他国の都城に入れるに於ておや。以って賠償金を要求するも可である。
この事は、余自らが担当して妥結させるだろう。故にもし日本公使に談判するところがあれば、毎回この意を以って攻撃すべし。中国の威を以って日本に示すは「草芥(ゴミくず)となるだけである」と。 |
恵堂はこの意を以って内奏し、これより毎事に全く袁氏の周旋を恃み、毎々大小の内務外交の事を協議した。故に有志の人は退いて口を閉ざしたが、内心大いに嘆いたと云う。
去る十八日、我居留民の報によれば、昨今は一般朝鮮人民の恐怖疑懼の念は弥々増加し、これに反して何らか社会の事あればと(変化を)望む連中は、何となく愉快気に見ている模様があるのは事実である。
右報告する。
明治廿七年六月二十日
在京城特命全権公使大鳥圭介
外務大臣陸奥宗光殿
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この報告は、まだ朝鮮改革案のことが伝わっていない時機のものである。
金宏集以外まともな発言をする人物がいないようである。ほとんど政府内は閔泳駿一人が牛耳っていたのだろう。しかしまあ見事な清国への事大振りであり、袁世凱に諂うその姿はどうであろう。袁世凱の大言壮語に対するに至っては、彼が阿諛の嘆声を吐くを見るような。
ところで、袁世凱は河南省出身。文字通り中国中原の人であり、典型的な中華の人であるようだ。後に新生中華民国の大総統となり、遂に皇帝になることまでを欲した人らしいが、この生粋の中国人の言には興味深いものがある。
「日本は東方の一狭小国である。既に亜細亜の一部に在りながら、小を以って大に事(つか)えることを思っていない。それであるから中国から事毎に罪を問わんと欲して久しい。」と。
つまり小国日本は中国に事大して当然なのだと。
今日でも、中国人が日本を卑しめて称するときには必ず「小日本」と言う。確かに日本の国土は中国に比して狭い。しかし排他的経済水域まで含めるとそうそう小さいものでも無い。まあ小さいと言われても事実であるから別に何とも思わないのであるが、逆に自分達が大国でありアジアの中心であることを言いたくてたまらないその必死さに苦笑するのみである。しかし同時に、従わせたいという魂胆が仄見えるのもまた否めない。
袁世凱はそんな今日まで続く中華文化の一時代の代表者だったと。
さて、他に政府内の様子を伝えるものとしては、次の大鳥公使の報告による安駉壽の内話なるものがある。彼はいわゆる日本派の人物と目されているようだ。従って日本寄りの発言をするであろうし、事大の性根の分はある程度差し引いて聞くべきであろう。
(「同上」p21〜p23より抜粋)
発第八七号
安駉壽の内話
本月二十日、同氏来館。内話の要点を摘挙すれば、
日本兵入城已来、我政府の驚擾、実に甚敷、諸大臣拱手して策なく、独り閔泳駿は局面へ当りて心配すれども、是とても好案なければ、専ら袁世凱に依頼し、其説を聴て運動する迄なり。
又諸大臣は日本兵入城の罪を外務督弁の不行届きに帰するを以て、同督弁は病後に拘わらず、雨天を犯して奔走するは誠に気の毒の次第なり。
非職大臣中、金炳始、金宏集の二人は人物と称せらるゝも、矢張他の老大臣等と同様に更に口を開かず。
諸閔氏は本と泳駿と不中なれば、目下の周旋を傍観して敢て之を助けず。却て其失錯を喜ぶものゝ如し。
政府外の有志者は勿論、現職に在る官吏と雖も日本兵の大挙入韓は我国改革の時機を促せりと雀躍し、平生閔氏に結託の人と雖も、窃に保身の覚悟を為し、且つ内実皆閔氏に離心せり。又改革希望派の人には、三々五々相集りて相談を為せども、之を発する勇気の乏きと之を引率する統領なきに苦めり。
大院君は最も之を統率するに適当の人物なりと雖も、今日の場合はまだ閔氏を憚り、其門に出入して協議する者なきは勿論、同君も亦同志を引て事を謀る機会を得ざるなり。
大君主陛下には、時勢の不可を悟られざるにあらず。乍去、王妃殿下は、左右を離れられずして機密に参与せらるゝ故、到底御英断の御処分あること能わざる次第なり。要之挙朝策略もなく、考案もなく、一に袁世凱に依頼し、いざと云うときは難を避くるの支度を為すに過ぎざることなり。
今日我政府は、取捨去就に迷い居る要点は、
一は日本兵の本と清兵の来援ありしが為め興りしことなれば、清兵さえ引去るときは、日兵も直ちに引去るべし。故に清兵を撤回せしむるは急務なりと云うこと。
他の一は、日本兵の大挙して来るは、必ず他の異思あることなれば、若し清兵退去せば其機に乗じて発すべし、故に清兵を引て内を守るは急務なり、との二説相対峙して未だ決せざる姿なり。
第一説は外国事情に通ずる者、之を唱え、第二説は袁世凱の首唱に出て而して朝官の多数は第二説を是とするが如し。
抑々、近年我政府が執りたる対日本方略は、総て袁世凱の方寸中に出て、一事件の興る毎に同氏に総て相談を受けたりしが、袁氏の勧告は毎事其図に中らず、却て我国をして其弊を受けしめたり。袁氏は事の初めに於ては、我政府を教唆して日本の請求を抗拒せしめ、事の敗るゝに及んでは手を収めて知らぬ顔するは其常なり。斯く多年我政府は袁氏の為めに誤られたるにも懲戒せず。今日猶お毎事袁氏に依頼せんとする傾きあるが故に、過日余は、閔泳駿に向いて其不可を極諌したれども、毫も其耳に入らず、実に手の付け様なき情況なり。
何卒此上は、外兵の余威を借りて内部の改革を行うより外に手段なきに付、貴国は今暫く其兵を駐留せしめられんこと内心希望せり、云々。
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つまり、防穀令や電信線問題などの条約違反の事件類は、皆袁世凱が悪いというわけです。はい。
で、言っていることに矛盾があるけれども、まあ、とにかく改革希望派は勇気も無いしリーダーもいない、と。それでも日本が何とかしてくれるのが頼みだという、相変わらずのもの。
国王夫妻の関係
ただ興味深いのは、先の20日の報告とも併せて閔妃の様子が見えてくることである。
即ち、「大院君は政事に携わらんと望んでいるが、恵堂はその事を知って、大院君に政事の協議をしないように中宮殿[王妃]に奏した。」
それと、安の内話にある「大君主陛下には、時勢の不可を悟られざるにあらず。乍去(さりながら)、王妃殿下は、左右を離れられずして機密に参与せらるゝ故、到底御英断の御処分あること能わざる次第なり。要之挙朝策略もなく、考案もなく、一に袁世凱に依頼し、いざと云うときは難を避くるの支度を為すに過ぎざることなり。」
恵堂が、大院君が政治に口を出さないように閔妃に依頼する、ということは、閔妃から国王に告げることによって、国王が実父たる大院君にどうのこうの物申すということであろう。
つまり、閔妃が高宗の側を離れずに密かに政治に参与するので、高宗は自ら決断が出来ない、と。それでいて閔妃も誰も彼もが何の案も策もなく、袁世凱を頼るだけで、いざという時は荷物まとめて逃げる用意はしている、と。
このような国王夫妻の関係を公文書中に見るは、筆者知る限りこれが初出のもの。
明治15年朝鮮事変後の諭告文に「祈禳の事を過信し帑蔵(かねぐら)を虚糜(ただれてむなしくする)」とあって、閔妃が祈祷に凝って国庫を空にするほど散財していたことを窺わせるものと併せて見ると、まあ、お家の事情が見えてくるような。浪費家の嫁と言いなりの亭主と。それが一個人の家庭ならどうということはないのだろうが、一国の王家がこれでは何とも国民が哀れであろう。
かつて明治18年に井上馨は、有能な人材を用いようとしない高宗のことを、「拙者は前に朝鮮で国王と対面して親しくその風采を窺ったが、今年およそ三十四、五歳(当時数え年34才)と見える。この年齢で事を処するのにこのようであるなら、たとえ他から賢良なる人を送って諄々と説諭しても、善を進めて悪を去るということは出来ないことは知るべきである。」と評した。
もはや優柔不断で有名な高宗という人物は、この一つ年上の妃の意見にいつも従っていたと思われる。
尤も、随分昔からこの図式はあったようで、ために大院君の怨みは深く、かつて閔妃を殺めんとしたが未遂に終わっている。
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