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朝鮮八道図 参考:明治27年10月7日発行、佐藤敬吉編 「支那朝鮮兵要地理案内」 |
東学党関連はその時系列の視点に於いて、日清戦争、西洋諸国の対応、朝鮮内政改革、或いはまた大院君の動向などと、様々な重要事件が絡み合い、個別の戦闘報告や電文なども含めて総合すると、アジ歴におけるそのファイル数は優に1万個を越えるようだ。
これはとても個人で扱える量ではなく到底筆者の手におえるものではない。
それで、ここではそれらの概要として記述された公文書資料いくつかをメインとして取り上げ、それを補う形で個別の報告なども記していきたい。
東学党巨魁全琫準との問答
東学党の乱を端として双方の派兵により緊張の高まった日清両国は、7月に豊島沖で両国の軍艦が戦闘行為に及んだことから開戦となり、翌年4月の講和条約によって終結したが、この間も乱は朝鮮各地で続いた。中には単なる賊であったり、また清国兵が混じっていたり、離合集散を繰り返しては諸所を襲い、時に日本軍にも攻撃を仕掛けた。日本軍は朝鮮軍と共に、或いは単独で掃討に当ったが、すぐに逃亡しては、また集まってくるという集団なだけに、勝敗が明確となる清国軍との戦闘よりも時に骨が折れるものだったかもしれない。
東学党と言っても真正の党員はそう多くなく、それら党員が指導者となって多くの不平の人々を糾合し扇動して乱に導いていた。東学党には教首の下に役職として、接主、接司、教長、教授、都執、執綱、大正、中正などと称するものがあり、乱を率いる者は大抵が接主であった。その1人に全琫準という者がある。
『時に泰仁県山外面東谷居生郷班に全琫準と云う者があった。字を明叔と称し、其躯幹矮小なるを以て、彔豆――「ちび」とか「豆」とか云う意味――と呼ばれた。当時彼の本名は殆ど用いられず、全明叔又は彔豆として知られて居る。父を全影赫と称し、父子と共に訓学を業とし、学識あるを以て郷党に重きをなして居た。(朝鮮総督府中枢院 昭和十五年三月三十一日発行 「近代日鮮関係の研究 下巻」)』
「全明叔」は「全明淑」とも書き、現在ではこちらの方がよく知られているようであるが、おそらく、後に捕らえられての供述書に「淑」の字を使用していたからであろう。尤も、東学党に関連して逮捕された李秉輝の始末書には「全鳳俊」とあったりする。また以下のように「金鳳均」とも言われていたようである。
その全琫準に、1人の日本陸軍歩兵少佐が9月10日頃に面談をしている。いわゆる東学党2次の乱の前である。
(「陸軍砲兵少佐 渡邊鉄太郎 東学党余聞 奉供御一覧 (従明治27年6月至明治27年10月 「秘密 日清朝事件 諸情報綴1」)」より、()は筆者。)
陸軍砲兵少佐 渡邉鐵太郎
明治27年9月23日
東学党余聞
本月二日竜山を発し、広州、利川、竹山、鎮川、清州等を経て九日全州に着し、東学党の首領を以て世に聞えたる、金鳳均を全羅監営に訪うて翌日晩、金の使人に導かれ、布政局の後房に於て面会し、三時間余の筆話をなす。
金鳳均、一名全明叔と云う。余、面会のときは金を称す。蓋し金は実姓にして、全は偽姓ならんか。
余は房に入り、筆を執り姓名を通し、或る友人より曾て其人物の抱負を聴き、渇仰の念を禁えず。今回京城より来り、訪いし旨を告げ、次で余の素志と東洋の現勢、朝鮮の実情、真正経済の主義を述べて、以て今日に処する方法手段を論じ、金の教示を乞う。
金も亦再三辞すれども、聴かず、乃ち余の渡韓以来感ずる所を挙げて之を語る。金の答うる所、大抵左の如し。
我等唯々閔家の一族が要路に在りて威権を弄し、私福を擅(ほしいまま)にするを見て慷慨に勝えず。年来同志を糾合して、之を斥けんと欲し、屡々政府に臻(いた)りて之を訴えしも一切採用せられず、是れ閔家内に在りて我等の訴願を枉塞し、殿下に達せしめざるものと思惟し、遂に君側の奸を除くの名義を以て兵を起こしたり。然るに我等の挙兵、量らずも其媒介をなして今日日清の兵争を朝鮮に見るに至りしは、我等が千秋の遺憾とする所なり。幸に日本、高義を以て屡々我政府に勧告し、終に其余力を挙げて我国の為に尽瘁せらるゝありて、既に閔家を擯け、大院君を起し、弊事を革めて政法を正さんとす。我等の素望多くは違ず。我等是に於て翻然図を改め常業に復すべきなり。然れども、日本の為す所、大院君の為す所、我等未だ其詳細を知りて心を安ずる能わざる者なしとせず。故に僕は務めて同志の勘起を制すると同時に、我政府の動止を知らんことを願うなり。曩日、公[余を指す]の知人数輩と相会して、縷々其教諭を蒙り、実に宿昔の迷夢を一散す。今日亦た、公の来訪を受け、大に僕の知見を増す。感激何止。
余、問うて曰く。
足下は忠義の士、其日本の為す所、大院君の為す所の詳細を知る能わざるが為めに、未だ心を安んずる能わずと云わるゝは、僕の実に感ずる所なり。唯だ、朝鮮の今日の衰弊を致すを以て、一に閔族の所為の如く云わるゝは、僕の解する能わざる所なり。蓋し国の亡ぶるは亡ぶるの日にあらず。其衰うるは衰うるの日にあらず。朝鮮の今日あるは、数百年来、政法の弊事頻りに起るも、之を革新する者なく、徒らに旧株を守りて世界の体勢を達観する能わず。因襲の久しき、遂に此の悲むべき境遇に沈みたるなり。閔族の所為、悪むべしと雖ども、是れ唯だ糞中の蛆のみ。公、糞を抒(のべ)て之を捨つるを思わず、徒に蛆を殺さんとす。僕、公の為に之を惜しむ。
金、答て曰く。
誠に貴諭の如し。糞を捨つるの策、僕の未だ議せざる所。是れを以て迂拙を笑わるゝとも、固より辞せざる也。願くば公の説を聞かん。
是に於て余は、更に縷々陳述する所あり。金、終始黙視[余の紙に書するを視るなり]し、余の陳べ終るを待ち、膝を進め、顔色を変じて曰く。
貴諭の如きは、臣子の口にすべき所にあらず。若し之を実行せば、大義を如何せん。名分を如何せん。
余は、尚お金の深意を詳にせざるを以て、李成珪(李成桂・朝鮮王朝太祖)の伝[余、渡航の際、諸書又は人の口碑に依りて編纂せしもの]一通を懐より出して之を示す。金、黙読、二三行にして忽ち余に返えして、口を噤し、坐を起たんとす。余、其袖を惹て之を止め、筆を揮て、
「聞足下常唱王道好読書経殷湯周武果為何事」と大書す。(殷湯とは殷王朝建国の祖とされる湯王のことと思われる。周武は周王朝の創始者たる武王のことと思われる。)
金、再び坐に就きて熟視する。少時、黙々又語らず。然れども、其眼光、自から常ならず。或は、余の面へ注ぎ、或は他を顧み、唇頭微動す。
是より話頭を転じ、余、全州覆陥の時の景況、又た近日噂さする東徒再起の真偽を問う。
金、曰く。
全州を遁るゝは、京軍に抗するに忍びざるものあるを以て也。東徒再起は偽也。彼の州県を横行する者は、我同志の名を盗む者にして、我等の関知する所にあらず。云々。
更に、西洋の事情を問答し、其饗する酒肉を喫し、別を告げて監営門外の旅舎に皈(かえ)る。
十一日昧爽(夜明けのこと)、金、余の宿に来り。余の面前に於て昨夜の筆談書を裂きて火中に投じ、韓銭十束許りを送る。余は辞して受けず。
午前十時、全州を発す。此朝亦た金と筆談す。事は日清戦争の理由と始末に属す。
全州より龍潭に赴く。金山商人に信書を託せし為なり。
更に全州に帰り、再び清州に出て帰京の途に就かんとせしも、故ありて路を転じ、報恩、化寧等を過ぎ、十五日、尚州綾厳里に崔時享(東学党2代目党首)を訪う。在らず。
金の紹介状と一簡を遺し、去る。
間慶を経て馬嶺を超え、幽谷、延豊、忠州を過ぎ、昨二十日午后六時、京城に帰る。
此行、実は舎弟の消息を知らんが為めなりしも、途上にて弟の友人に逢うて心を安じたり。
金訪問の如きは、第二の目的なりしも、今日より之を思えば、全く金訪問のみの如き有様となれり。
金の風采、年齢四十許。面稍々方、疎髯長く垂れ、眼中一種の異采あり。書するときは、口中微伸を発し、細かに玩読して而して後、余に示す。
智見は広からざるも、韓人には珍しき博識者なり。是れ常に好んで外人に接して之を聴けるものならん。
頗る胆識あり。又事を苟もせざるの風あり。然れども普通韓人と同じく、猜忌の情に深し。唯々普通韓人の如く、之を言行に暴露せざるのみ。意を用いて其弱点を隠蔽し、決して之を人に示さず。
君子にあらず。英雄にあらず。抑も又々奸物にあらず。一個、外冷中熱の好男子。
右、記憶中より抜きて坐右に呈し候也。
九月廿一日 姓 名
二伸。途上、偽東徒の噂さは往々耳に入り候得共、実際目撃せしことは一回もなし。全羅監司の施政、其当を得ば、兵力を仮らずして消滅すべきこと、勿論也。
金の事は、今少し褒め度存候得共、先ず有の侭を申上候。
我政府の周旋に依りて之を登用せば、韓人の幸福なるべし。要するに韓人中には珍しき男に御坐候。
右奉供御一覧候也。
明治廿七年九月廿三日
陸軍砲兵少佐 渡邉鐵郎
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後の全琫準判決宣告書原本には、「農業平民」とある人である。しかし筆談も出来れば博識者でもあったから、やはり郷班つまりは地方両班だったのだろう。また東学党2代目党首の崔時享への紹介状を出すぐらいであるから、やはり首領格の人物だったと思われる。
全琫準は言う。
「我等はただただ、閔家一族が政府の重要職にあって、一族の利益のみに働くのを見て、義憤を抑えられないのである。何年も前から同志を募って力を合わせ、これを斥けようとして、時々に京城に至って訴えたが、一度も採用されない。これは閔一族が政府内で我等の訴えをもみ消しているので国王殿下に達しないのであると考え、遂に国王の側にいる奸臣を取り除くとの名義を以って兵を起こした。それなのに、我等の挙兵が図らずも媒介となって、今日の日清の戦闘を朝鮮に於いて見ることになったのは、我等がどこまでも遺憾とするところである。幸に、日本は高い道義を以ってしばしば我が政府に勧告し、ついには余力を挙げて我国の為に尽瘁され、すでに閔家を斥け、大院君を起こし、弊害ある内政を改革して政法を正さんとしている。我等の元々の願いも違いはしない。我等はここに於いて翻然として考えを改め、常の生業に戻るべきである。しかしながら、日本の為すことに、大院君の為すことに、我等には未だ詳細を知って安心できないものがないわけではない。ゆえに僕は、努めて同志が事を起こすのを制すると同時に、我が政府の動向を知ることを願うのである。先日、貴公の知人数人と会って、色々と教えを蒙り実に長年の迷夢が一散した。今日また貴公の来訪を受け、大いに僕の知見を増す。感激が止まない。」
要するに彼が言うには、東学党は、閔一族が政府を占めてやりたい放題であるから、それを取り除くのを名義として兵を起こした、ということらしい。
それに対して渡邉少佐が説いたことは、それは糞中の蛆を除くに過ぎず、それよりも国体の抜本的な改革が大切なのである、という意味のことを述べたようである。
しかしそれを聞いた金鳳均は顔色を変じて、「臣子の口にすべき所にあらず。若し之を実行せば、大義を如何せん。名分を如何せん。」と言ったことから、おそらく、閔族が王后一族であることなどから、国王の優柔不断さや、或いはその退位のことにまでも触れたろうか。
というのも、全琫準にとっては、君臣人倫の道こそ大切だったようだからである。
乱が猖獗を極めた5月に、全琫準が布告を発して全羅道に広く伝えられたという文がある。(近代日鮮関係の研究 下巻)
そこでは、「人之於世最貴者、以其人倫也、君臣父子、人倫之大者、君仁臣直、父慈子孝、然後乃威家国家」と、君子は仁にして臣下は忠直であり、父は子を慈しみ子は孝行し、それによって家も国も栄えるという人倫の道を説き、しかるに「内無輔国之才、外多虐之官、人民之心、日益渝変、入無楽生之業、出無保躯之策、虐政日肆、怨声相属、君臣之義、父子之倫、上下之分、随壊而無道矣」と、今では無能と虐政の官により民の心は離れ、生きるに楽しみ無く身を保つことも出来ず、虐政のままに怨嗟の声は増し、人倫の道は破壊されたと訴え、「万民塗炭、守宰之貪虐、良有以也、奈之民不窮且困也、民為国本、本削則国残、不念保国安民之方策」と、民は国の本であり、虐政を正して万民の苦しみを除かねば国は滅ぶと述べて保国安民の義を説いている。
不思議なことにそこには東学党のスローガンの一つのはずである「斥洋倭唱義」つまりは西洋・日本を斥ける義、というものはなく、また渡辺少佐との対談でも「幸に日本、高義を以て屡々我政府に勧告し、終に其余力を挙げて我国の為に尽瘁せらるゝありて、既に閔家を擯け、大院君を起し、弊事を革めて政法を正さんとす。我等の素望多くは違ず。」と日本の行動に賛同するかのような言葉を残している。
元は新興宗教集団から出発した東学党であるが、各道の不平集団も大勢いるところから、ただ貪官汚吏を一掃するという点で糾合している集団であり、全琫準もその指導者の一人であったと思われる。尤も、全琫準の逮捕後の供述も考慮すれば、彼なりに臣としての義を貫いた人間性が見えてくるのであるが。(後述)
清軍派遣の経緯
さて、東学等の乱から日清双方の派兵となるなど、重大事件が目白押しの明治27年5月、6月頃であるが、ここでは、京城公使館書記官であった杉村濬が後に記録書として著した「在韓苦心録」をメインとして取り上げたい。
杉村濬は、あの明治15年朝鮮事変に於いて、当時外務省御用係として済物浦の居留地予定地の測量に行っていて、直接に事変に遭遇してはいないが、仁川から済物浦に向う花房公使一行の急変を聞いて駆けつけた時の一人である。バンクーバー領事なども勉めたが彼の朝鮮での勤務は永く充分古株である。
(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」より現代語に、()は筆者。)
明治二十七、八年、在韓苦心緑 前編
第一 東学党鎮定の為、清国に援兵を乞う。大鳥公使の帰任。我が兵の派遣。
明治二十七年五月四日、大鳥公使は京城を発して帰朝の途に就く。余はその日より臨時代理公使として公使館事務を執ることとなった。
当時、全羅道の東学党の勢いは益々盛んであって、西南部一体に蔓延し、その地方の韓兵の力では鎮圧することが出来ず、急報頻繁なるにより、朝鮮政府は兵使洪啓薫<明治十五年の乱に王妃を助けて忠清道に避けことにより、両陛下の寵愛あり>を以って招討使となし、京城の兵八百を引率し、同月五日に於いて京城を出発せしめた。
これより先、勢道閔泳駿は東学党の蔓延の急報に接するや、直ちに京兵を発し、これを討伐せんと企てたが、諸大臣中に不同意の者多く、
「東学党は良民である。地方官の悪政に堪えられずに蜂起したもので、むしろこれを招撫すべきであって、討伐すべきではない」
と言って遂に出兵を拒んだことにより、閔泳駿も政府内では頼みがいもないと思ったのか、密かに清使袁世凱と謀るに至った。
袁世凱は最初から、韓兵の脆弱と出兵準備不足の為めに、その成功は覚束ないと悟り、一度官兵が敗れた後に乱徒が北上して京城に侵入する時には、必ず外国と面倒を引き起こしかねないと気遣い、よって韓廷を援助して早く鎮圧せねばならないと思い込んだ[このことは、余が直接に袁氏から聞いた]。且つこの機に乗じて一つの巧名を立てんことを期し、一時は自ら自国の巡査と商人を引率して出馬せんとまで申し出た程であった。
今や韓兵の出征に際して充分の助力を与え、兵を運ぶために軍艦を貸し、同九日午後、洪招討使と八百の韓兵は清国軍艦平遠号及び、朝鮮政府所有の汽船蒼龍号、漢陽号の二船に乗り込んで仁川を発し、全羅道群山浦に向った。
当時、清軍艦平遠号内に清兵若干が韓兵と混じって群山浦に行ったとの風説があったので、余は、天津条約が蹂躙されることを恐れ、深くこれに注意したが要領は得なかった。
しかしその後、東学党の勢力は増加し、平遠号は数日間仁川に戻らないので、事情偵察の為めに、仁川停泊の帝国軍艦大島号を該地に派遣せんことを外務大臣に電請し、同十六日にその許可を得たところ、たまたま平遠号は同日に帰り、なお再航の模様があった。
その後、大島艦は急に本邦に回航せねばならない都合が興ったことにより、余は、代艦派遣の儀を該港停泊の軍艦長の先任官に問い合わせ、やり取り数回にして同二十二日に至って漸く筑紫艦を使うことに決し、即日出航した。
この時、仁川停泊の帝国軍艦は、大和、筑紫、及び大島の三艦であった。
またこの時、東学党の勢力は益々増加し、討伐の京兵は一戦して敗れ、その半数は会戦前に逃亡したとの風説が伝わった。
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以上が、先の「東学党乱の起因」の後半部分のやや詳細となる。 (なお、より以上の詳細は、dreamtale氏のブログの「東学党の乱(一)〜」に詳しいので読んで見られたい。)
この後、杉村臨時代理公使が、東学党の再びの蜂起を電信で報告したのは5月9日である。(「朝鮮国全羅道忠清道ニ於テ東学党再ヒ蜂起ノ件」)
また、招討使洪啓薫の軍は野戦砲4門、弾薬140箱を所持していた。(「朝鮮国全羅道ニ於テ乱民蜂起ニ付親軍兵出発及伊国新内閣二大政綱ノ下院ニ於ケル成行ニ関スル件」p2)
う〜ん、数万の乱民に対して8百の兵と野戦砲4門その他の武装と。どうだろうか、戦いようによっては制圧も可能なのではなかろうか。
それがどうしてあっさりと敗れたのか。
そこのところを、 「東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第三巻」の「朝鮮政府援兵ヲ清国二乞フ事」では次のように記述されている。
(会話形式、現代語に、()は筆者。)
○朝鮮政府が援兵を清国に乞うこと。
初め、東学党徒らは、全羅道古阜で蜂起し、次いで慶尚道金海府に起こり、また忠清、平安の諸道にも蜂起した。その勢いは甚だ猖獗であるとの報せが京城に達するや、朝鮮駐在の清国欽差総弁袁世凱は、清国の勢力を朝鮮に伸ばすのはまさにこの時であるとし、韓廷の権臣閔氏一族を操縦して自国の兵力をもって鎮圧し益々恩威を張ることを企て、五月二十六、七日頃、閔恵堂(閔泳駿)を校洞の邸に訪ね、左右の人を斥けて言った。
袁 「南部の心配は深刻である。貴国のために誠に憂慮に堪えない。」
閔 「上国小国[清と朝鮮両国のこと]は痛痒一体の間柄である。危急の戦端であるが、全く袁大人の援助の好意を頼むしかない」
袁 「前に招討使を派遣されたので、やがて乱党を討ち平らげるだろうと思っていたが、乱徒は依然として好き放題に暴れていると聞く。貴朝廷には文部の臣中で討伐の将才がある者は、ただ洪啓薫がいるだけなのか」
閔 「その精鋭である者を選んだので、すぐに乱徒を討ち滅ぼさないことはないが、東学党徒は会戦するのを望んでいない。ゆえにこんな状態である。」
袁 「決死敵対する賊ですら討伐するに足る。それを、まして戦おうともしない者等ならいよいよ打ち滅ぼすのは簡単なことではないか。自分は、討伐の挙があると聞いて、それが京城を出発するという日に人を遣ってその動静を観察させた。しかし(朝鮮軍には)威令もなく兵に規律もない。その上陸の日[群山浦上陸の日をいう]に白衣[白衣は通常人が着る(昔は兵士も白衣であったが、この頃の朝鮮軍は青色の制服を纏っていた。)]も軍中に混じっていた。また兵士も気ままに座ったり寝そべったりしており、みだりに(隊列)を出入りしていた。将官たる者も終日相手の力を不安に思い、恐れて兵を進めない。ただそこに陣を留めるのみである。また朝から晩まで恐れていることは、一に、兵士が命令に従わないこと、二に、賊徒と相対することにある。そして道の先十里内に賊がいると聞くと、止まって行こうとしない。このようなものがどうして討伐であろうか。」
閔はうなだれて答えることが出来なかった。
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だめだこりぁ。
上記は5月26、7日頃の閔泳駿と袁世凱の内談なのであるが、その後、次のように政府内で葛藤が続いている。
(同上)
袁 「もし我が国の兵を用いれば、五日間で討ち平らげるだろう。」
これによって閔恵堂は、私的に袁世凱に清兵来援のことを約束した。
しかし、韓廷の諸大臣等はこれを知らない。
(その後、韓廷に於てある大臣が、)国王殿下に上奏して言った。
某 「東部の厳しい情況は漸く緩んだとはいえ、まだどうなるか分からない。まして三南道(忠清、慶尚、全羅)は国家の保証にも関わる所である。もし人心が扇動されれば、おのずと農産も失うだろう。これは危急の時である。討伐の兵は或いは東学党徒の幾千人かは滅ぼすだろう。しかし数万人の、死生を共にするのを誓った者らを、俄に屠ってしまうことは難しい。大局を見渡せば説諭を加えて帰順させる外はない。烏合の者たちではあるが、その衆は既に数万に及んでいる。その勢いを軽く見るべきではない。今や三南道緊要の地では農を失っている。これより宜しく一人の大臣を勅使と立てて、体察使の重任を授け、先斬後啓の権(処刑などの裁判権、執行権のことか)を与え、そして貪官猾吏を一度に処刑梟首して先ず弊政の大なる者を除き、それから説諭すれば、すなわち乱民は一朝にして退散するだけである。」と。
しかし閔泳駿は、国王がこれを勅許されれば、先に密かに袁世凱と約束したことに背くことになることを恐れ、切にそれを遮って言った。
閔 「貪官猾吏がどこにいるというのか。この頃は人の心は悪しく、訴えに負けた者は皆自ら称して冤罪と言う。どうして一村の内で訴えに勝った者だけがいようか。この輩はみだりに徒党を集めて来て宮廷で争う。もし意の如くならないなら官長を辱めようとする。そして甚だしき場合は地方官吏を駆逐してしまう[全羅道監司趙秉甲なる者は、同道古阜に在って重税を取り立てていたので、夜に東学徒に襲われ、その勢いに逃げ去って行方が知れない。閔泳駿の言はこのことを指す]。これがどうして社会一般の習俗であろうか。方今、東学徒と称する者は皆乱民で脱村者のみである。然るにこの輩を単に説諭するに止めて殺さないなら、これは悪を懲らすの道ではない。返って悪を養うものである。陛下がもし治安を図って綱紀を粛正しようと望むなら、速やかに外国の兵を借りてこれを滅ぼすべきである。」
国王「閔氏が言ういわゆる東学徒は、忠孝を本とすると聞く。どうしてこれを民でなく乱を学ぶ者であると言えようか。」
と閔泳駿の議を斥けて諸大臣の上奏を容れ、金鶴鎮を全羅道監司に任じ、鎮撫の諭旨を授けた。
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しかし、そのような懐柔策を受け入れる東学党ではない。
益々勢いを増して、ついに全羅道全州城が陥落するに至った。
(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p4より現代語に、()は筆者。)
しかし、同三十一日に全州城陥落の報に接するに及んで、朝廷内は大いに驚き、俄に清国に向って援兵を要請する議に決し、六月一日に領議政(総理大臣のようなもの)の名を以って清使袁世凱に対して援兵請求の公文を認めた[なおも異論があるため暫く発送は中止しているが、同三日の夜になってついに送ったと聞いた。その前には招討使洪啓薫からも、外兵の助けがなければ東学徒を滅ぼすことは出来難いと上疏したと云う。]。
余は(2日に)、鄭書記生を清国公使館に派遣し、援兵請求の有無を尋ねさせたところ、袁世凱は鄭に向い、
「公文は未だ手にしてないが、双方でその議は既に内定している。公文を受け取り次第、即出兵する準備をしている。」
との内話をした。
その翌日の三日早朝、余は袁氏を訪問し、談話およそ三時間の永きに及び、清韓両国間の援兵貸借の相談に至った顛末についての話を尽くした。
袁氏所説の大意は、
『目下、東洋の平和を維持せんと望むなら、朝鮮の内乱を未だ盛んでない内に鎮定することは極めて急務である。東学党の乱は、政府及び地方官の悪政が原因なれば、政府を懲戒する唯一の戒めではあるが、もしこれを傍観して自然の勢いに放任する時は、政府の力がこれを鎮定することが出来ずに却って乱徒のために転覆されることに至るだろう。その時には必ず外国の干渉を受け、朝鮮は遂に各国の争地となるだろう。故に拙者の意見は、朝鮮政府の施政如何に関わらず、とにかく乱民を鎮定して外国干渉の禍端を絶ちたいと欲する。』
というようなものであった。
しかしながら袁氏は、このような公平の論を言う裏で、一つの野心を抱き、近年朝鮮において日本が競って干渉しないことを見て密かにこれを侮り、この機に乗じて援兵を出し、以って清韓宗属の関係を明らかにし、自己の功名を立てようとするにあることは、外面から推測が得られた。
この時、余は聊か戯れた面持ちで、
『それは実に困った。貴国がいよいよ出兵されるなら、我が国もまた出兵しないわけに行かなくなる』
と申し述べたところ、袁氏は俄に顔色を変えて、
『何の為めに出兵されるのか』
と尋ねたので、余は、
『我が公使館と人民を保護するためである』
と答えた。
袁氏は重ねて、
『我が国から援兵を送って乱民を鎮定し、毫も外国人に危害を及ぼさせないので、貴国の出兵は御無用である。』
と申すので、余は、
『朝鮮政府は自らその乱民を鎮定することが出来ずに、援兵を外国に借りるほどの状態ならば、我が国は安心して保護を依頼することは出来ない。また朝鮮国内で貴国の保護を依頼すべき謂われもない』
と答えると、袁氏は、
『貴国がもし兵を招くなら、他の外国もまた兵を招くだろう。これは誠に禍乱の端である。これに加えて、外兵が京城に入ることは、国王に於いて甚だ好ませられない』
と大分真面目に話すので、余はこれを打ち消し、余の前言は一つの空想を描いたものに過ぎない、切に貴慮を労すなかれ、と言って、話題を変えた。
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袁世凱曰く、
『我が国から援兵を送って乱民を鎮定し、毫も外国人に危害を及ぼさせないので・・・・』と。
しかし明治17年朝鮮事変に於いて、官民問わず日本人を皆殺しにしてよいと、清兵に許可を出したのはこの男である。ために当時フランス人宣教師が英国総領事に日本人婦女子の救助を要請したことがあったが、杉村はそのことを知っているはずである。
そもそも袁世凱はそのことで本国政府から処罰されねばならない人であった。もしそれがなされていれば、日本人が清国を信頼する心もある程度は生じたろうが。
日本の世論
一方、日本の反応がどのようなものであったかは、陸奥の「蹇蹇録」によれば、
(「第一章 東学党ノ乱」p2)
東学党の勢、日に月に強大となり、朝鮮の官軍は至る所に敗走し、乱民終に全羅道の首府(全州)を陥れたりとの報、我国に達するや、本邦の新聞紙は争て之を紙上に伝え、物議為に騒然、或は朝鮮政府の力、到底之を鎮圧する能わざるべければ、我は隣邦の誼を以て兵を派し、之を平定すべしと論じ、或は東学党は韓廷暴政の下に苦む人民を塗炭の中より救出さんとする真実の改革党なれば、宜しく之を助けて弊政改革の目的を達せしむべしと云い、特に平素政府に反対せる政党者流は、此機に乗じて当局者を困蹙せしむるを以て、臨機の政略と考えたるにや、頻りに輿論を扇動して戦争的気勢を張らんことを勉めたるものゝ如し。
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とある。
要するに、朝鮮に兵を派してどうにかするべきであるとの世論が日本に満ちたということである。つい最近には金玉均暗殺と凌遅事件のこともあり、過剰な同情心や義心に溢れた当時の日本人としては已むべからざる声ではあったろう。
もっとも、事あれば政争政略の具とするは政界の常で、対外強硬派の自由党、対外穏健の立憲改進党などによる政府批判の材料でもあったろうか。なにしろ、金玉均の事についても「(死骸受取委員会の斎藤新一郎は)ただこれを奇貨として政府改変の材料を求めるために渡来した。」というぐらいであるから、これを機に政府を困らせ或いは「戦争的気勢を張らんことを」扇動する動きも強かったろうと思う。
更に日清両国の派兵となり緊張を増すに従い世論が一つとなったことを、以下のように述べている。
(「第五章 朝鮮ノ改革ト清韓宗属トノ問題ニ関スル概説」p2)
抑々、我国の独力を以て朝鮮内政の改革を担任すべし、との議の世間に表白せらるゝや、我国の朝野の議論、実に翕然一致し、其言う所を聴くに、概子(おおむね)朝鮮は我隣邦なり。我国は多少の艱難に際会するも、隣邦の友誼に対し、之を扶助するは義侠国たる帝国として、之を避くべからずと云わざるなく、其後両国已に交戦に及びし時に及んでは、我国は強を抑え弱を扶け仁義の師(軍)を起こすものなりと云い、殆ど成敗の数を度外視し、此一種の外交問題を以て、宛も政治的必要よりも、寧ろ道義的必要より出でたるものゝ如き見解を下したり。
尤も斯る議論を為す人々の中にも、其胸秘を推究すれば、陰に朝鮮の改革を名として漸く我が版図の拡張を企画し、然らざるも朝鮮を以て全く我保護国とし、常に我権力の下に屈服せしめんと企画したるものもあるべく、又、実に朝鮮をして適応の改革を行わしめ、褊小ながらも一個の独立国たるの体面を具えしめ、他日我国が清国、若は露国と事あるの時に際し、中間の保障たらしめんと思料したるものもあるべく、又或は大早計にも、此際直に我国より列国会議を招集し、朝鮮を以て欧州大陸の白耳義(ベルギー)、端西(スイス)に於けるが如き、列国保障の中立国となすべしと擬議したるものもありと聞けども、是れ孰れも大概個々人々の対話私語に止り、其公然世間に表白する所は、社会凡俗の輿論と称する、所謂、弱を扶け強を抑ゆるの義侠論に外ならざりき。
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色々と思惑はあるが、世間に公然たる言葉として表れてくるのは義侠論であった、と。
一方、陸奥自身は、
「政治的必要の外、何等の意味なきものとせり。亦毫も義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざりし故に、朝鮮内政の改革なるものは、第一に我国の利益を主眼とするの程度に止め、之が為め、敢て我利益を犠牲とするの必要なしとせり。(「同上」p3)」
とどこまでもクール。尤も、他の閣僚の考えまではよく分からない。まして当の内閣総理大臣伊藤博文の思いはどうだったかと。彼が後の日韓合邦の反対論者であったのは有名であるから、義侠心などよりも国益を第一とするものではなかったろうか。
朝鮮における邦人の生命と財産の保護や貿易権利はそのまま国益に関わる重大事である。まして列強国は競ってアジアに侵食する時代であり、安全保障上の問題もある。どう考えても道は他にはなかったろう。
日本政府の反応
日本政府が東学党のことを把握したのは何年頃からかは分からない。
今回の乱以前のその挙動に関する「アジ歴」掲載の現地報告には、明治26年4月12日付の、当時在京城弁理公使大石正巳からの報告があり(朝鮮東学派ノ挙動ニ関シタル件)、
・東学党徒6万人が京城に向うらしい。
・孔子廟がある儒学校の石碑を東学派が壊した。
・京城近くの県監司も東学党員である。
・政府は不慮の変に備えて道を修繕している。
・各国公使館の警備を国王が命じた。
などが報告されている。
その後一旦は沈静したかに見えたが、翌年27年の5月9日発で、杉村臨時代理公使から、全羅道、忠清道で東学党が再び蜂起したので、乱が治まるまで大島艦(砲艦、630t、全長54m、全幅8m、兵装12cm速射砲
4門、4.7cm砲5門、乗員130人)を仁川に留めてほしい旨の電報が来ている(「朝鮮国全羅道忠清道ニ於テ東学党再ヒ蜂起ノ件」p2)。
その後、閔泳駿と袁世凱との援兵密約があり、鎮圧に向った朝鮮軍が敗れ、まさに清国の援兵を要請するほかないとの議論が朝鮮政府内で起こり、一旦は斥けられたが、全羅道の都である全州が陥落するに及んで再燃し、当初諸大臣は「もし清兵が来たら、日本兵もまた来るだろう。2国の兵が朝鮮に駐屯して、もし互いに衝突することがあるなら、被害を被るのは朝鮮である」として、口々に異議を唱えたが、内心では東学徒の暴威を恐怖し、自分たちの身の安全を求めることばかり考えているので強い反対論とはならず、遂に6月3日の夜に公然兵援を清国政府に要請した。(「東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件
第三巻」の「朝鮮政府援兵ヲ清国二乞フ事」p3)
それに対して日本政府では、乱の動向によっては公使館、領事館及び居留人民保護のために多少の軍隊を派遣する必要が生じるかもしれないと見て、杉村臨時代理公使に監視と報告を怠らないように指示している。
(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p7より現代語に、()は筆者。)
さて、帝国政府に対しては、余(杉村)は、五月二十二日付で東学党の事情を詳報し、末文に、今度の反乱は韓廷の力では鎮圧は覚束ないので、結局は清国の援兵を仰ぐことに至るだろう。よって我が政府に於いてもその積りで御計画されたい、と申し添えた。それで29日に陸奥外務大臣から「朝鮮政府から清国に向って援兵を請求したとの風説がある。事実を確かめて報告せよ」との電信があったので、即日、「閔泳駿は援兵を求めたが諸大臣中には不同意の者が多い為に未だ確定していないと」と返電した。
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杉村は次いで3日に袁世凱との談話の概要を電報した、と続けているが、その前に、朝鮮政府内で1日に公然援兵に決したことか、或いは2日に鄭書記官が内話を得たことかを電報していたと思われ、2日に日本政府では閣議を開いて、その対処を決している。
ところで、この頃日本公使館ではかなりの情報収集網を作っていたようで、朝鮮政府内の議事や密談までが日本側に筒抜けである。恐るべきその諜報力というか、はたまた恐るべき朝鮮の機密漏洩力というか(笑)
日本軍派兵を決定
内閣会議では以下のように、日本から兵若干を派遣することが決定し、清国が派兵すればそれと連合して、あるいは朝鮮政府の求めに応じて臨機応援防護する、とした。
さて、出兵の法的根拠であるが、それは明治15年に日朝間で締結されたいわゆる「済物浦条約第五款」である。
即ち「第五 日本公使館は兵員若干を警備に置くこと。兵営の設置修繕は朝鮮政府の任であること。もし朝鮮国兵民が法律を守らば一年の後に日本公使が警備不要と認めれば撤兵するも妨げず。(「花房公使入京参朝及復命手続並ニ復命書」より意訳)」である。
日清間による朝鮮からの撤兵と変事の派遣通知を約束した天津条約はあっても、日朝間の済物浦条約は依然として有効であった。
当時、花房義質公使が談判の上で作成したこの条款を、「この時から日本政府は朝鮮侵略の計画をしていた」などと未だ以って言う人があるが、そもそも花房に与えられた日本政府の訓条「第五 将来の保証として朝鮮政府は今より五年の間、我が京城駐在公使館を守衛する為に充分なる兵員を備うべし。(「弁理公使花房義質ニ訓条ヲ付与シ復朝鮮国ニ赴カシム」の「朝鮮政府に対する要求の件」)」も読んでいないようなので、妄想乙としか言いようがない。
明治27年に至って、当時の花房の意思を超えた展開となったが、歴史の新たな扉は「偶然」や「意外」の要素が少なくないものである。
まあ、それよりも軍の統制も出来なかった当時の朝鮮政府に総ての責任があるのだが。
閣議の結果、派遣に関する正式の方針は以下のものとなった。
(「朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針ノ件」、()は筆者。)
朝鮮国内乱に関し、兵員派遣に関する方針
右、御覧に供す。
明治二十七年六月六日
内閣総理大臣伯爵伊藤博文
明治二十七年六月二日
(伊藤総理以下各大臣花押)
朝鮮国乱民内に起り、京城駐在公使館よりの来電に拠るに、官兵頻に敗れ、乱民益々猖獗を窮むるの勢ありと云。将来乱民、京城又は其他の日本人居留地に侵入すること無きを保ち難く、従て公使館及国民を保護する為に兵員を派遣するの必要あり。
天津条約第三款に依るに、朝鮮国変乱又は重大の事件あるに当り、日支両国又は一国兵を派するときは行文知照すべし、明文あり。故に出兵に当り、将来或は清国と往復関係すべきの時機を生ずるも料るべからずと雖、今度の事は急速の事変に係り、我が兵を以て、我が国民を保護するを怠るべからざるが為に、清国と連合派兵するを待たず、条約の明文に従い行文知照し、直ちに出兵するを適当とす。
京城駐在公使館杉村書記官よりの来電に依れば、朝鮮政府は已に応援を清国に求めたりと云えり。清国のこれに応じたるや否やは未だ報知を得ずと雖、将来清国も其兵員を派遣し、両国軍隊或は連合の働を為し、或は朝鮮政府の要求に由り、臨機に応援防護するの必要生ずるも亦料るべからず。此れ亦、予め算画の中に置かざるべからず。
今は更に詳報を得るを待たず、先ず第一に公使館及国民を保護するの必要を主とし、機先に後れざる為に、及ぶだけ速に出兵の準備を為すべし。
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6月6日は回覧の日付であり、2日が決定の日である。
「公使館及国民を保護する為に兵員を派遣するの必要」があり、また、「清国も其兵員を派遣し、両国軍隊或は連合の働を為し、或は朝鮮政府の要求に由り、臨機に応援防護するの必要」としたが、要するに、「先ず第一に公使館及国民を保護するの必要を主とし」て派遣するとなっている。
思えば、明治15年、17年といずれも事変によって日本公使館は焼失し、日本人は官民共に大勢殺害されるに至ったが、これは要するに日本政府の対朝鮮外交の失策に外ならない。つまりは自国の利益は自国で守る外はないという決意の不行届きから生じたものと言えよう。紳士花房義質は朝鮮政府が乱を鎮圧するだろうと信じ、親中の人竹添進一郎は清将兵との友好に重きを置いた。その結果は惨憺たるものであった。今度の東学党の乱に際し、2度あることは3度あるにしてはならないと、当時なら誰もが思うことである。
日本政府は取り敢えずの至急派兵として、帰国していた大鳥公使に次のように帰任を命じ、軍艦八重山に巡査と海兵を乗せて派遣することにし、4日、次のように訓令を与えた。
(「1 明治27年6月4日から明治27年6月6日」p1、()は筆者。)
(欄外)六月五日、此写を上奏し、且つ総理大臣、陸海軍大臣に送付せり。
明治廿七年六月三日起草、四日発遣
大鳥公使に交付す
朝鮮駐箚大鳥特命全権公使
陸奥外務大臣
今般閣下、朝鮮京城え御帰任相成候上は左記の件に御心得置御遵行相成度候
一 目下朝鮮国内に起り居るところの変乱にして、此上一層其区域を広め、帝国公使館領事館及居留帝国臣民に危険を及ぼすの虞ありと認めらるゝときは、其旨直ちに電報せらるべきこと。
一 変乱の情形如何に拘わらず、清国政府より兵員を朝鮮国に派遣すべき情形確なりと認めらるゝときは、其旨直ちに電報せらるべきこと。
前記二項の場合に於ては、帝国政府は直ちに兵員を派遣すべし。尤、日韓の関係は、明治十五年済物浦条約第五款及び明治十八年七月十八日高平臨時代理公使の知照に基因し、又日清関係は明治十八年天津条約第三款の手続きを経て出兵したるものと心得らるべきこと。
一 但し、閣下の着任前と雖ども、帝国政府は在京城杉村臨時代理公使の報告に依て、出兵することあるべし。
一 帝国政府出兵の目的は、帝国公使館領事館を護衛し、及居留帝国臣民を保護する為めなりと雖ども、若し朝鮮政府に於て変乱鎮定の為め、帝国兵力の援助を乞うときは、該地出張の帝国陸軍総指揮官と協議の上、朝鮮政府の請求に応ぜらるべきこと。
一 帝国兵員を容るべき営舎は済物浦条約第五款に依り、朝鮮政府をして之が設置修繕の責に任ぜしめらるべく、但し若し該政府に於て適当なる設備を為し能わざるときは、兵員駐屯に便宜なる場所なりとも貸与せしめらるべきこと。
一 帝国兵員にして若し清国兵員と同く一地に駐屯するか、若くは又均く朝鮮政府の請求に依り、戦地に出陣する場合あるときは、彼此衝突を引き起さゞる様十分意を用いらるべきこと。
一 若し清国官吏より我出兵の理由を問いたとるときは、天津条約第三款に照らし、朝鮮国内に変乱あり、帝国公使館領事館及居留帝国臣民の性命財産に危険を及ぼすの虞あるに因て出兵したるものにして、該条約に定むる所に遵い、業已(すで)に清国政府え行文知照せりと対(こた)えらるべし。而して若又尚其上に詳問せんとするが如きことあるに於ては、直ちに帝国政府に向て詳問せらるべしとの旨を対えらるべきこと。
一 若し又、京城駐在外国官吏より我出兵の理由を問うものあるときは、帝国政府は済物浦条約第五款及天津条約第三款に依りて出兵したるものにして、決して他意あることなき旨を保証せらるべきこと。
一 乱民、京城に闖入するに当りて、朝鮮政府にて該地に在る各外国公使館領事館及外国人民を保護する力なきに因り、各国使臣若くは領事より我が衛護を乞うときは、該地出張の陸軍総指揮官と協議して可及丈の衛護を与えらるべきこと。
一 右の外、茲に列記せざるの事項にして急速を要し、電訓を請わるゝ暇なきときは、閣下に於て臨機処分せらるべきこと。尤此場合には後にて電信又は書信にて速かに事状を具報せらるべきこと。
右及訓令候、敬具
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「清国政府より兵員を朝鮮国に派遣すべき情形確なりと認めらるゝときは」云々と、まだ清軍派兵の確認は出来ていないが、その4日、杉村濬から次の電報が来る。
(6月 4日 第1信 京城 杉村 東京 陸奥)
第一信
電信訳文 廿七年六月四日発
東京陸奥 京城杉村
袁世凱より書記官を以て本官に告けて曰く。
昨夜、朝鮮政府より援兵を乞う公文を送り来りたり、と。
本官は該書記官を経て袁世凱に答えて曰く。
清国政府に於ては宜しく天津条約に従て至当の処置を執られ然るべし、と。
昨日、袁の本官に告げたるところより想像すれば、支那兵員は一千五百人は直に威海衛を発すべきが如し。
何卒至急日本兵士を送られまじきや。
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つまり清国は派兵を決定したということであり、多分1500人ぐらいであろうと。それに対して杉村は、どうかして至急に日本兵士を送られないだろうか、と。
5日になって、在天津荒川領事から外務省へ、在北京公使館神尾武官から参謀本部へ、清国軍隊の出兵準備の動きなどを、在北京臨時代理公使小村寿太郎からは、清国政府が朝鮮国に出兵の決議をしたことが確実であると、それぞれの電報が届いた(「蹇蹇録」の「第二章
朝鮮ニ向テ日清両国軍隊ノ派遣」p1)。(電信発遣は4日。(「日清韓交渉事件記事/概説」p1))
よって、一刻も猶予なく大鳥公使を乗せた軍艦八重山を横須賀から出航させ、直接仁川に向わせた。
京城の杉村にただちにそのことを電信し、ついては大鳥公使は巡査20人、海兵300人を率いて京城に入る、と報せた。(「1 明治27年6月4日から明治27年6月6日」p10)
同日に、海軍大臣西郷従道は、釜山に行っている軍艦大島に仁川回航を命じ、仁川停泊の軍艦大和(海防艦、1476t、全長61m、全幅11m、兵装6.7インチ砲
2門、4.7インチ砲 5門、3インチ砲 1門、4連装機関砲 4門、魚雷発射管 2門、乗員230人)と、それぞれの艦長に、なるべく各艦より多くの陸戦隊を編成して出張の準備を整え、大鳥公使が仁川に到着次第協議して共に京城に出発するように指示した。(「同上」p11、p12)
更に同日、清国政府に対して日本軍出兵を告げる知照文を起草して閣議提出。
(「明治27年6月4日から明治27年6月6日」p7)
六月五日起草、同発遣
伊藤内閣総理大臣
陸奥外務大臣
今般、朝鮮国江兵員派遣に付ては、明治十八年締結の天津条約第三款に依り、先ず清国政府え行文知照致候事必要に付左記の通、在北京小村臨時代理公使をして申告総理衙門江照会せしめ候様致度候。其文左の如し。
明治十八年四月十八日、両国政府にて締結の約書に遵い、左のことを貴王大臣に知照すべき旨、唯今本国政府より訓令に接せり。
朝鮮国に於て変乱重大の事件有之。帝国兵員を同国え派遣するの必要有之候に付、帝国政府は帝国兵員を同国え派遣の筈に有之候。
右至急閣議に提出候也
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後の清国からの知照文に比べると、日本のは何ともそっけない簡単なものである。
一方、清国政府は朝鮮政府からの援兵の公文を得た4日、直ちに3営(1500人)の兵を山海関から乗船させて朝鮮に送った(「2
朝鮮政府援兵ヲ清国二乞フ事」p4)。
5日、袁世凱は京城駐在領事を公州へ、仁川駐在領事を牙山へ向けて派遣し、同時に京城の清国巡査及び銃を携帯している清国商人あわせて80名、馬百頭を両地に送った。援兵の到着を迎えるためであるらしかった。(「在韓苦心録」の「1
前編 1」p9)
同日、釜山領事から電信来る。
「信拠すべき風説に因れば、乱民は朝鮮政府の説諭に従わず、一の団体を為して忠清道より北へ向て進むと言う」と。(6月 5日 釜山
室田 東京 陸奥)
また同日、日本政府は充員令を広島第5師団に下して1隊の混成旅団編成を命じ、それを松山分営の第9旅団長大島少将に統率させることとした。(「5
帝国軍隊朝鮮ヘ上陸並ニ清韓ノ両政府ヨリ撤兵請求ノ事」)
この時の混成旅団がどの程度の人数であったかはよく分からない。文書によって7000人とも4000人ともあり、それぞれ異なる。
6日、日本政府は在北京臨時代理公使小村寿太郎に電訓し、直ちに日本の朝鮮派兵を清国政府に知照するよう命じた(「1
明治27年6月4日から明治27年6月6日」p20)。実際に清政府に通知されたのは翌日の7日と思われる。(「同上」p19)
また京城の杉村濬は朝鮮督弁と袁世凱に、大鳥公使が帰任することと、巡査20名を引率してくることを通知したが、海兵を率いてくることはまだ秘した。(「在韓苦心録」の「1
前編 1」p9)
属邦を保護するの旧例
7日、在東京清国特命全権公使汪鳳藻は清国政府より日本政府に、朝鮮へ援兵の行文知照ありと通知した。
(「1 明治27年6月4日から明治27年6月6日」p26より、漢文はp22にある。()は筆者。)
以書簡致啓上候陳者、今般北洋大臣李より本使へ左の通り電報有之候。
光緒十一年、清日両国にて議定せし条約中に、将来朝鮮にて若し変乱事件有之、清国にて派兵を要する場合有之候節は、応さに先ず行文知照すべく、事定まりたる上は、直ちに撤回して再び留防せずと有之。
本大臣、今朝鮮政府の来文に接候処、
全羅道所轄の人民は習俗凶悍に有之。東学教匪に糾合し、衆を聚めて県邑を攻陥し、又北のかた全州を竄陥致候に付、前きに已に練軍をして往て征討せしめ候得共、戦利あらず。
就ては、若し滋蔓(勢い盛んにはびこる)日久しきときは、憂を上国(清国のこと)に貽(のこ)すこと尤も多かるべし。
然るに、壬午、甲申、敝邦両度の内乱の節にも中朝の兵士に頼りて代て為めに之を戡定せし事有之。
因て其例に沿り、数隊の兵を酌遣せられ、速かに来て代て征討せられんことを懇請致し候。尤、悍匪の挫殄する上は直ちに其兵を撤回せられ候様致度、敢て更に之を留防せしむることを請うて、以て天兵の久く外に労せらるゝことを致さゞるべしとの趣に有之。
本大臣、之を覧るに其情詞迫切なるのみならず、兵を派して援助することは、我朝が属邦を保護するの旧例に有之候えば、是を以て奏聞の上、諭旨を奉じ、直隷提督葉をして勁旅(強い軍隊)を選帯し、馳せて朝鮮全羅忠清道一帯の地方に赴かしめ、時機を見計らい防堵攻討し、期を剋して之を撲滅せしめ、務めて属邦の境土をして又安ならしめ、各国人の朝鮮地方にて貿易を為す者をして、皆な各其生業を安ずることを得せしめ度。
尤も、平定次第直ちに右兵を引揚げ、更に留防せしめざる様致候。
右、至急条約に従い行文知照すべき筈に付、貴大臣へ電報致候間、早速日本外務省へ照会有之度候。
右の通申来候に付、本使は之を貴大臣へ及御照会候。敬具。
光緒二十年五月三日(我六月七日)
清国特命全権公使汪鳳藻
日本国外務大臣陸奥宗光閣下
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北洋大臣李鴻章が、朝鮮政府から来た公文に接したところ、「全羅道の人民は習俗として心悪しく猛々しく、東学党に糾合して地方を攻略し、ついに全州を陥れ、征討軍を派したが治まらず、それでこのままでは上国である清国にも迷惑をかけることになるので、壬午、甲申の変の時のように皇帝の兵を派して征討してほしいと。乱が治まったら直ちに撤兵されて、敢えてこの上の滞在を要請して国外の労をされることのないようにしたい」とあった。
それで、事情が切迫しているだけでなく、我が国が属国を保護するのは旧例であるので、兵を派して掃討して撲滅し、属邦を安堵させ、各国の貿易の者も安心させたい。平定したら直ちに兵を引き揚げる。
という意味のもの。
日本のそっけない簡単な文に比べて丁寧というか饒舌というか、「我朝が属邦を保護するの旧例」と、宗主国全開モードの文章である。
それでも天津条約に基づいたものではあるので日本政府はこれを受けたが、同日付で陸奥外務大臣は返書として「属邦を保護するという語があるが、帝国政府は未だかつて朝鮮国を貴国の属邦と認めたことはないので、このことを言明致し置く」と回答した。(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p1)
更に同日午後、在北京の小村寿太郎は北京総理衙門に対して日本軍の出兵を通知、在天津の荒川巳次領事も午後2時に李鴻章に通知した。(「同上」p7、p9)
その時に李鴻章は、まだ北京から報せは来ていないと言って、李が日本軍の出兵に懸念していることと希望することを次のように述べた。
・清兵は京城に出兵はしないので、日本兵は仁川から先に進まないこと。
・伊藤大臣と陸奥大臣には、自分の意向を誤解しないこと。
・清国は常に日本を敬重しているから、注意して両国の兵士の衝突をさけることが最も緊要である。
・朝鮮国王と人民が恐怖するので、日本の兵はなるだけ少数であること。
・清兵は朝鮮の開港には立ち寄らず、直接に全州に行く。
・変乱鎮定後は天津条約に従い、直ちに清兵を撤回するだろう。
帝国陸海軍への訓令
また同日、日本政府は陸海軍に朝鮮国派遣の訓令を与えた。
(「陸軍少将大島義昌朝鮮国派遣ニ付訓令ノ件」より抜粋、()は筆者。)
第九旅団長陸軍少将大嶋(島)義昌
今般、朝鮮国に於て乱民暴動、同政府の力、之を鎮圧する能わざる趣、確報あるに依り、彼国駐在の我公使館領事館及帝国臣民保護の目的を以て、其旅団を率い、同国へ派遣せしめらるゝに付、左の訓令を遵奉すべき事。
一 出兵の目的は、公使館、領事館、及帝国臣民を保護するに在ることに着眼すべし。
二 公使館、領事館、及帝国臣民保護の手続は、緊急の場合に於ける臨機処分の外、全権公使と協議すべし。若意見見合わざることあるも、兵機に係る場合の外、公使の議に従うべし。
三 京城の外各所の居留帝国臣民を保護するの必要ありて、一々公使と協議するを得ざる場合に於ては、該地駐在の帝国領事と協議すべし。但し若公使若くは領事と協議を経るの便宜なきときは、処分の後報告すべし。
四 公使館、領事館、及帝国臣民を保護する為め正当防衛を要する場合の外は、朝鮮国の内乱に干渉すべからざることに注意すべし。
五 帝国公使より要求あるときは、各国及朝鮮人民をも場合に依りて相当の保護を与うべし。
六 若朝鮮政府危急に至り、彼より我が公使を経て救援を求むることある場合に至らば、更に公使より政府の旨を伝うべきに依り、臨機鎮圧の処分に及ぶべし。
七 若朝鮮国王又は其の貴顕又は各国駐在の官吏にして、目前に危急の場合に迫るを見受るときは、当然保護の処分を怠るべからず。
八 若清国より出兵の事あらば、互に軍隊の相当なる敬礼を守り衝突を避け、細故を以て隣誼を敗らざるに注意すべし。
明治二十七年六月七日
内閣総理大臣伯爵伊藤博文
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大島旅団長が率いるのは実際は混成旅団である。
次いで8日には海軍に対しても訓令が下がった。なお、陸軍と全く同文なので掲載は省略する。(常備艦隊司令長官海軍中将伊東祐亨朝鮮国ヘ派遣セシメラレタルニ付訓令ノ件)
一方、京城の杉村には7日に、日本から既に清国政府へ朝鮮派兵を通知したので、朝鮮政府にも済物浦条約により護衛兵を派遣する旨を通知するよう電信し、またその際、兵の人数については今はまだ隠しておくようにと指示した。
よって杉村は同日に統理衙門に行き外務督弁趙秉稷に面会を求めたが、不在であったので衙門主事に託して外務督弁に伝えるようにさせた。
この日、袁世凱からは、清兵の編成として、清将聶士成は兵500を率いて塘沽を発し、清将葉志迢は兵1100を引率して8日に山海関を発して朝鮮に向うだろう、との話を得た。
(以上「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p9、p10)
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7日の時点ですでに清兵は朝鮮に上陸していた、とする記述もある。即ち、
「清国政府は已に袁氏の電稟に接し、密かに出師の準備を整えたれば、朝鮮政府より公然の請求あるや、六月四日、直に三衛[一千五百人]の兵を山海関より乗船せしめて海路之を朝鮮に送り、六月七日、其朝鮮に上陸するに及で始めて天津条約第三項の規定に依り、行文を以て出兵を帝国政府に知照し来り。(「東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件
第三巻」の「2 朝鮮政府援兵ヲ清国二乞フ事」p4)」と。 |
招討使ら奮戦す
ところが、その後に外務督弁は杉村に、招討使洪からの電文の写しを送って賊徒が全州から追い払われたことを示し、日本が派兵決定をしたことを政府内では大いに驚き困惑し、また清国にも7日に清兵派遣の中止を打診する電報を発したことを伝えた。(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p10)
31日に東学党は全州を陥落させたが、それより北上が止まっている事から、朝鮮政府は鎮圧のチャンスと見て、新たに京城の兵1500、平壌の兵300を派して先の招討使の兵と合同で鎮圧に当らせたのである。(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p12、p13)
当時の招討使日記である「両湖招討謄録」の「光緒二十年五月初四日(日本歴明治27年6月7日)」の項には、
「今月三日(日本歴6月6日)、賊徒数千名が城門の北門を開いて飛び出してきた時に、先ず首領の金順明と李福用を捕らえて斬った。党徒五百余名を大砲で殺し五百余名を銃と剣で倒した。その他逃げ散る賊を各所の人民も招討使に随ってそれぞれ斬った。その後、城内の賊は弱気となり東門と北門から逃げることを望んでいるのを聞いた。それで一斉に命令して城壁を越えさせ南門を開かせ、部隊を率いて城中に突入して攻撃した。賊は頭を抱えて東門と北門から逃げ散ったが、皆負傷した者ばかりであった。」などとある。
袁世凱に散々馬鹿にされた洪啓薫率いる朝鮮軍であるが、ここに来て漸く全州城を取り戻し、鎮圧とまではいかないが、東学党徒が忠清道を経て京畿道に向う流れを食い止めたように見える。
なお賊徒から取り戻した武器類は、克虜伯砲(クルップ砲)1、回旋砲1、大砲23、弾薬、その他各村で奪ってきた軍器、銃、槍など1000、火薬1000余斤、弓矢、甲冑、刀、斧などであったとある。こうなると暴徒というより軍ですなこれは。もっとも重火器まで使いこなせたかどうかは分からないが。
8日早朝、外務督弁が衙門主事を日本公使館に遣って派兵の理由を質問してきたが、杉村は督弁への意思疎通を疑い、直接統理衙門に赴いて督弁に説明した。
理由としては、民乱のために公使館と居留民を保護するためであり、明治15年の済物浦条約により派兵の権利を持つことを説明。しかし督弁はそれが聞こえないかのように、
「今の情勢では兵力の保護を必要とするような切迫した状態になったとは思えない。日本政府がこのような処置をするなら、他国政府も同様にするだろう。また日本兵の上陸は朝鮮人中にも大いに激昂を惹起するだろう。ゆえに上陸を停止されるように日本政府に請求してほしい」と依頼したが、杉村は断った。しかし督弁は尚も派兵を中止させようと弁じ、為に議論は続いて大鳥公使が兵を率いて京城に入るまで何度も面談と公文を以って議論を繰り返したという。
後に杉村は、袁世凱が朝鮮政府に対して「日本兵が朝鮮に入ることを決して許してはならない。貴政府は全力を傾けてこれを拒むべきである」と勧告していたことを知ったという。
(以上「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p12、「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 1」p10、p11)
また、清国政府に対して派兵を通知した北京の小村臨時代理公使に対しての総理衙門の回答には、
「朝鮮の要請に応じて清国から派兵したのは属邦を保護する先例による。賊を誅戮するに止まり鎮定後は撤兵する。日本からの派兵目的は公使館、領事館、居留民保護に外ならないので、多数の兵は必要ではないのが道理である。また朝鮮からの要請なくして派遣したものであるから朝鮮内地に進入して人民の激昂を醸すことがないようにありたい。また特に清国兵員と会うことがあるなら、言語、軍律の違いから紛擾を招くおそれもある。」とあった。(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p16、p17)
よって日本政府は、抗議文として、
「日本政府は未だかつて朝鮮を清国の属邦と認めたことはない。日本の派兵は済物浦条約によるもので、その派遣に当っては天津条約の手続きを踏んだものである。兵員の多少に関しては、日本政府で自ら裁定するところによる。韓地における日本兵の行動には条約上の制限はない。必要と認められないところには派遣しない。日本兵は厳重なる訓令を奉じているが故に、清兵と衝突する恐れはないだろうと信用する。清国政府にも同様に(清兵に)注意を加えられるを希望する」との電信を総理衙門に提出した。(「明治27年6月7日から明治27年6月15日」p22)
それにしても、先の招討使日記には「光緒」という清国の年号を使っているが、政府内では清国年号、日本に対しては「干支」、西洋国には「開国」年号を使い分ける、これが当時の朝鮮国なり。つまり朝鮮は、トリプルスタンダード略してトリスタか。
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