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昭義門(京城西南の門) 撮影年代 明治21年(1888)〜明治24年(1891) 林武一撮影
門外は処刑場であった。通常、凌遅処死刑などはそこで執行され曝された。それについての記述には明治15年3月報告の「昭義門外死尸暴肆ノ件外一件」などがある。しかし、金玉均遺体が凌遅を執行されたのは楊花津に於てであった。 |
朴金暗殺同時テロ
一方、東京の朝鮮公使館から外務省に一通の書翰が届いたのは、金玉均暗殺の翌日の29日であった。その後、明治17年朝鮮事変のもう一人の首謀者朴泳孝もまた暗殺されんとしていたことが明らかになる。
朝鮮国臨時代理公使愈箕煥より、外務大臣陸奥宗光に書翰。
「聞くところによれば、本国人李逸植が、麹町区一番地二十九番地の親隣義塾生徒寄宿舎で捕縛されている。貴国巡査を派して内密調査してその様子を知られたい。そして警視庁によって義塾舎内から李逸植の身命の危機を救い、公使館まで護送されることを願う。」(「甲午〔明治27年〕2月23日から明治27年4月7日」p1より要旨。) |
親隣義塾とは、朴泳孝が朝鮮留学生の教育のために東京永田街に開いた私立学校である。その生徒寄宿舎は麹町にあった。
警察官が急行すると、朝鮮公使の書翰にある通り、李逸植なる朝鮮人が数人の朝鮮人留学生によって監禁されていた。
しかし取り調べてみると、李逸植は朴泳孝を暗殺しようとしたことが発覚して逆に留学生らによって捕えられていたことが判明した。
李逸植(偽名李世植)は、金玉均や朴泳孝ら逆賊を滅することを内命した朝鮮国王印のある委任状なるものを所持しており、洪鐘宇には金玉均暗殺の任を託し、自らは外に朝鮮人の権東寿、権在寿、金泰元、日本人川久保某と共謀して朴泳孝を暗殺せんとしたが、金泰元から計画が漏れて、李逸植は捕縛され、、権東寿、権在寿は朝鮮公使館に逃げ込んでいることが分かった。(「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」p41より。)
よって31日、陸奥外務大臣は朝鮮公使に、
「必要あって貴国人の李逸植を取り調べたが、権東寿、権在寿の両人にも尋問を要する。しかし両人は貴公使館内に居るので召還を要請する。これは万国公法の例によるものである。もし所見を異にして両国の交誼を損傷することになるのは、本大臣の最も遺憾とするところである。」(「甲午〔明治27年〕2月23日から明治27年4月7日」p8より要旨。) |
と返書。なおその、法的根拠となった万国公法については以下のように調査している。
(「明治27年4月9日から明治27年10月27日」p7、p8)
プラヂュー・フォデレー氏著、欧米国際公法第二巻第二編第一章第千四百十九項、第三百十二乃至十三[ページ]抜訳
第千四百十九項・・・
今日現存する所の免除制限に付き、ヘフテル氏は明瞭なる説明を与えたり。曰く、
如何なる理由ありと雖も、公使は其居館若くは馬車を利用し、重罪を犯したる者をして其国の司法処分を免れしめ、若しくは其逃亡を幇助するを得ざるものとす。公使及び其代表する所の君主に対し、初当の敬礼を行うべきに依り、如此場合に於ては公使に対し、成るべく礼を厚うし、只丁重に犯罪人の受渡しを為すべし。然しながら犯罪人が外交官の居館内に潜伏したることを確認したるときは、官庁に於ては其居館の外部に護衛を置きて、犯罪人の逃亡を予防する為めに、取締をなすを得るのみならず、尚お正当の手続きを経て、犯罪人の引渡しを請求するも、公使に於て之を拒みたるときは、公力を以て之を引致せしむるを得べし。
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その他、米、英、露、伊、などの著による国際公法書も確認しているが、上記と同じ内容となっている。
しかし、愈箕煥公使は同日、
「以前から李逸植、権東寿、権在寿には、本国にて取り調べるべく召喚の命令があっていた。しかし行方が分からなかったが、三月二十八日(日本暦)に権東寿、権在寿が公使館に来て訴えたことに、李逸植が朴泳孝が建てた親隣義塾生徒寄宿舎内に捕縛され殴打され身命にも関わるとのことで、それより拙者は警察官に通知して保護を求め、貴大臣にその護送を依頼した。権両人は本館にしばらく留めて本国の指揮を待つ。また、貴大臣の請求に応じるとして、権在寿だけは本館員ともに警察署に出頭して尋問を受け、その日の内に本館に還されるならよい。また権東寿は、本国陸軍省の官員なので本国政府の指揮を仰がねばならない。尤も、一刻も猶予がないとするなら、貴国警察署員が公使館に来て権両人に尋問されるのは苦しからず。また、李逸植を本館へ護送の依頼に対して返事を頂きたい。」(「甲午〔明治27年〕2月23日から明治27年4月7日」p15より要旨。) |
と、引渡しの拒否を通知し、なおも李逸植の返還を求めた。
それによって陸奥は同公使を外務省に呼んで談判したが、公使は躊躇逡巡してついに確答しなかった。
よって4月2日、陸奥外務大臣は、
そもそも権東寿、権在寿を尋問するのは、李逸植に関する裁判上の順序を履行するためである。朴泳孝、李逸植を調べたが、権東寿、権在寿は、李逸植と共謀の罪犯ありと警察が認定し、裁判所に求刑の運びとなった。よって権両人はもはや証人ではなく犯罪被告人となった。
また貴下の書翰で、公使館で尋問すればよいとのことであるが、万国公法の例によれば、各国駐在の外国大使もしくは公使のような外交官に対して、時としてその駐在国の警察官が公使館に赴いて尋問する例はある。しかし、今回のように貴国の刑事被告人に対し、我が警察員が貴国公使館に赴いて尋問するような例はない。
また日朝の条約を考えるに、朝鮮政府は日本国内に於て、その人民に対して裁判管轄の権利を有しない故に、たとえ貴国人にして貴国に於ける犯罪の疑いがある者だったとしても、これを貴公使館に護送または貴公使館で拘留されるような権利を有しないのである。故にどのように貴下の御請求があろうとも、本大臣は日朝条約以外に貴公使館の権利を拡張されるような御請求に対しては無論のこと同意できないだけでなく、貴下においても日朝の条約を御熟覧されれば、このような御請求は出来ないことは御承知されると思う。
要するに今回の如き請求は万国普通の慣例のことであるので、それを貴公使館に署員を派遣するなどして両国間の交誼を損傷することがあっては本大臣としても遺憾である。色々と注意を促したが、遂に今日ここに至っては、いよいよ明朝八時までに満足なる回答が無いなら、日朝両国の関係に頗る重大の事となることを更に注意する。
(「同上」p19〜p24より要旨。)
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と、最後通告の書翰を突きつけた。
そして4月3日午前8時頃、陸奥は更なる照会書を送り、警察官が逮捕礼状を持って朝鮮公使館に赴き、愈箕煥臨時代理公使と何度かの話し合いの末、ついに公使は照会書の受け取りは辞退したが、同時に権両人を公使館門外に出して、警察官の逮捕するに任せた。(「同上」p25)
ところが翌日の4月5日、愈箕煥臨時代理公使は、次の一通の書を外務大臣に送り、
「斯る情形は殊に公使館を礼待するの常法に乖(そむ)き、平和なる交際の道を失うものと存候。依て拙者は自己の職守に辜(そむ)き候ものと思惟致候。就ては、今後何分貴大臣と両国交渉事務を措弁すること能わず。此上は只だ即日帰国致し、本国政府の措置に任かすより外無之候。尤、差向処弁すべき事件も有之候えど、総て漢城駐紮の貴国公使より直ちに本国政府と御協議相成候様致度、拙者には期を剋し速かに帰国致候」(「甲午〔明治27〕年4月4日から明治27年5月23日」p2より抜粋。) |
翌5日には、後の公使館事務取扱人も指定せずに東京を離れてさっさと帰国してしまった(「同上」p6)。よって同国公使館はその存在を放棄したも同然の姿となった。
つまり、今度のことは公使をもてなす礼にそむいている、というのである。
さて、上記4月2日の陸奥宗光の書簡中の日朝条約に関する記述は、ちょっと分かりにくい。筆者も勘違いしていたようで、修好条規に関しての「どこがどう不平等なのか」も若干修正した。
確かに日朝修好条規第十款は、日本人が罪科を犯し朝鮮人に交渉する事件は、日本国官憲の審断となり、朝鮮人が罪科を犯し日本人に交渉する事件は、朝鮮国官憲の審断となるという、双務協定なのであるが、これはどこまでも、「日本國人民、朝鮮國指定の各口に在留中」と、朝鮮国内に限定されるのである。したがって日本国内においては、陸奥宗光の言うように、「(原文)貴我の条約を案ずるに、朝鮮政府は日本国内に於て、其人民に対し、裁判管轄の権利を有せざるが故に、縦い貴国人にして貴国に於て犯罪の疑あるものたりとも、之を貴公使館に護送し、若くは貴公使館に拘留せらるゝ如き権利を有せられざる義に有之候」となる。
条規締結当時の朝鮮の実情からすれば、18年後のこの時点のように、日本に朝鮮公使が常駐し民間の朝鮮人が滞在するなど、当時としては想像もつかないことであった。もはや条約改正の必要性が生じてきていることは間違いない。しかし条約改正問題は、日本もまた欧米諸国間の条約について長年にわたり非常なる努力で取り組んでいる問題であり、この年の7月には日英通商航海条約が締結され、漸く領事裁判権問題のみが撤廃されることになるのである。
一方朝鮮国は、日朝修好条規の改正に何の取り組みもしていない。いやそれどころか、例えば十款に関わる治外法権のことについてすら理解していなかったようである。
陸奥外務大臣が愈箕煥公使に最後通告を出した4月2日、在京城の大鳥公使は、本国の命により、万国公法の例に基づき、権両人を交付するように朝鮮政府が訓令を出すことを要請する為に、朝鮮外務督弁趙秉稷に面会した時のことを、次のように報告している。
(「明治27年4月9日から明治27年10月27日」p24より抜粋。)
本官、外務督弁の私宅を訪い[督弁、久敷病気の為出勤せず]、御伝訓の趣相述候処、同督弁には、治外法権の例に暗く、在日本の韓人も在韓の日本人と同様に治外法権の特例に在るものゝ如く心得、本官の申出を了解せざるに付、本官重ねて万国通例と両国条約を援て、具に説明相与え候処、彼には漸く了解に及びたるも、他の諸大臣に向て説明の材料を得度旨、申出るに付、帰館の後、右種万国公法の内より其要条を摘載して即夕相送り置き候。
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外務督弁は日本で言えば外務大臣に相当する。そのような人間が、自国が結んだ外国との協定の内容も理解していなかったというのである。
また、4月5日に怒って公使館を放り出した愈箕煥公使は、帰国後に閔一族のドン、閔泳駿と次のような話をしていたと、後に大鳥公使が報告している。
(「甲午〔明治27〕年4月4日から明治27年5月23日」p21より)
(「機密報告第壱号」の「愈箕煥氏進退の事」より抜粋、会話形式に。)
愈箕煥帰来りて先ず恵堂[閔泳駿]を見て言て曰く。
愈 「方今、朝日両国の勢は並立す可からず。我国は既に内外の権理を失い、凌侮を日本に受けり。和約已来、泰西各国は然らずして、独り日本に至りては我を凌くこと太甚しく余地あらず。彼の我公使を待つことは我の彼公使を待つと同例にして異なることなかるべきに、我人の亡命したる者をば[金朴等を指すならん]■し護ること格別にして一室に同きが如く、而して李逸植、権東寿を捕縛せんとするときは、公使館へ居るさえ憚らず、豈相待相敬するの礼あらんや。是の如きは他国に出でゝ公使たるもの、豈朝廷を辱しむるにあらずや。此挙措を見ては、豈彼に暫留すべけんや。且つ李権両人は他国に囚わる。是等は国家の忠義の人と為す、豈■惜慨嘆せざる可けんや。別に計議を定め、火速に正に歸し、両人をして速に放還せしめ、而して泳孝をも星火請求提来し以て甲申の憤を雪がば国の万幸なり。」
恵堂答えて曰く。
恵堂「君の帰国は或は恠むこと無かるべし。然り而して最初盟約の時に共に内外の権理を失えり。憤りに勝えざること万々耳(のみ)。」
愈曰く。
愈 「火速に周旋して、我外権に任じ、然る後、領事を送り。之をして我国人を裁判せしむることとせば、国に於て益々万幸なり。」
恵堂曰く。
恵堂「此議猝(にわか)に挙議し難し。秘密に各国公使に往復し、袁世凱をして紹介せしむ可し、云々。」
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無礼な日本になど居たくない、というわけである。外交官が怒って帰国するのはこの国の伝統らしい。しかし、条約改正もまた人頼み。各国公使に依頼し、袁世凱に表立ってもらおうというのである。
なお、李逸植が所持していた国王委任状なるものについては、朝鮮外務督弁趙秉稷は、偽物であると回答した。外務省もまた、それまでの国王印と比較して全く異なる印であることを確認していた。(「明治27年4月9日から明治27年10月27日」p25、p30)
)
さて金玉均暗殺のこともあるし、これではまるで同時テロである。
警視庁が李逸植を取調べ、4月3日に朝鮮公使館を囲んで権兄弟を逮捕した頃、上海の金玉均の遺骸はすでに清国政府に引き渡されていた。
日本人激昂と政府方針
日本では金玉均暗殺のことが報じられるや日本人の感情は大いに激昂し、諸新聞紙上に追悼義捐金募集をし、上海に向う遺骸取引委員会を組織して派遣せんとするなど、騒然たる雰囲気となった。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/2
明治27年3月28日から明治27年4月17日」p45)
しかし日本政府としては、現今朝鮮政府とは同盟関係にあり、その朝鮮政府が逆賊としている人物に関する、それら日本人の行動を公然支援するわけにも行かなかった。
(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/1 明治27年1月31日から明治27年4月4日」p22)
明治廿七年四月三日起草
同廿七年四月四日発遣
機密 外務大臣陸奥宗光
在上海
総領事大越成徳殿
金玉均遺骸引取の件に関する内訓
日本人にて金玉均生前の友人中、同人の遺骸引取方の義に付、委員を設け、此度尾崎行雄の門下生齋藤新一郎なる者外一人、死骸受取委員として今便を以て貴地へ出張し、右遺骸引取の手続き可致之由、且つ是れが為め、大隈伯よりは在上海米国領事へ宛てたる添書を与えられたる哉に伝聞致候。
就ては右の者共、貴地へ到着の上は、或は貴官の協力を求め候哉も難計候得共、右に付ては既に去月三十一日付電信を以て及内訓置候次第も有之候通り、貴官に於ては職務上当然の行為の外は、深く御関係無之様致度、若し強て貴官の協力を致請求来候わば、金玉均は外国人たるが故に以て日本領事の関係する所にあらざる旨を以て、体よく御断り可有之、乍去彼等自身に於て遺骸引取の手続を済せる義に候えば、貴官に於て強て御故障にも不及候。
右予め及内訓置候也。
追て金玉均の友人たりし朝鮮人柳赫魯なる者も上海へ同行致候由に御坐候、此段為念申添候也
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洪鐘宇による金玉均暗殺事件は、加害者も被害者も外国人であり、しかも国外での出来事であり、日本は喙をはさめるような何ら法的根拠も持ち得ない。例え東和洋行という日本人経営旅館内での事件とはいえ、外国人居留区の米国租界内に建つ旅館であれば、日本の法権は及ばない。従って、この件には、深く関わらない、ということが政府の方針であった。
尤も、朝鮮政府に対しては、金玉均の遺骸や洪鐘宇の処遇について「勧告」という形で繰り返し申し込んではいるが。
この後4月10日になって、死骸受取委員会なるものの斎藤新一郎と岡本柳之助などが汽船神戸丸で上海に到着し、領事館を訪れて大越に面会した。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/3
明治27年4月6日から明治27年4月23日」p7)
斎藤は、大越の金玉均の件に関する一通りの前後の処理を尋ね、岡本は、
「自分は斎藤らが当地に来て不都合の挙動などがあってはよくない故、監督かたわら同行した。斎藤ももはや死体を引き取り難いことは本国にても承知していたが、ただこれを奇貨として政府改変の材料を求めるために渡来した。」
と述べた。
それに対して大越は、
「本件に関し、職権の及ぶ限り相当の処分をしたもので、何等非難を受けるべき理由はない。」
と答えた。
遺骸を引き取って日本で葬儀を挙行しようとする者の中には、大阪事件をひき起こしたあの大井憲太郎の名もあって、それら集団の大体の色合いが窺えよう。警視庁もその動きを警戒し、監視を怠らなかった。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/3
明治27年4月6日から明治27年4月23日」p17〜p19)
大越は、金玉均の遺骸を日本に引き取り、公然と葬儀を挙行することは好ましからざることと見ていた。
しかし洪鐘宇を警察署が清国政府に引き渡したことについては不当と見て、在上海各国領事会に持ちかけ、居留区引渡しの動議を提出した。これは採択されなかったが、なおも大越は激論の末ついに領事会一同に於ては、洪鐘宇を居留区に於て処罰することを、各公使を経て清国総理衙門に要求することを議決し、大越はこれを決行した。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/2
明治27年3月28日から明治27年4月17日」p34〜p46)
もちろん清国政府は無視したが、大越の言う通り、「職権の及ぶ限り相当の処分をした。何等非難を受けるべき理由はない。」との印象を受ける。当時西洋人が威勢を振るう上海居留区で、1日本人総領事代理の発言権などがどれほどのものであったろうか。それを各国領事に通させたのは大越成徳の健闘である。
清国軍艦で朝鮮へ
4月9日、在天津の朝鮮官吏が上海の日本領事館に出張して来て大越にもたらした通知によれば、金の遺体と洪鐘宇の身柄を受け取り、1時頃に清国軍艦威靖にて仁川に向けて出発したとのことであった。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/3
明治27年4月6日から明治27年4月23日」p2)
しかし実際は既に7日に出発しており、仁川には日本人居留民が多いことから不測の事態を避けようと、南陽湾で錨をおろしたのが9日であった。(「同上」p20)
朝鮮政府からは迎えとして、趙秉植、趙漢根なる者らが上海に派遣されていた。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/2 明治27年3月28日から明治27年4月17日」p27)
仁川領事の報告によれば、予想される朝鮮政府の処分としては、「金は勿論、滔天の逆賊なれば該遺骸は更に凌遅の刑に処し、京城の市に曝し、其首級を八道に伝うべし」とのことであり、洪は偉大の大功を賞して兵使の官を以ってすべし、であった。(「同上」p49)
よって陸奥外務大臣は、
「今の時に当り朝鮮政府に於て、果して金玉均の屍骸に向て残忍なる極刑を加うるの挙ありとせば、右は本邦人の感情を益々深く傷害するに至るべきに付き、何とかして之を為相止め候様取計度存候得共、如何せん、金玉均は朝鮮政府の眼中にては純然たる犯罪人にして、之を罰するは素より其国の主権に属し、外国より濫りに喙を容るべき筋に無之は勿論の義に有之候に付き、過日在京城大鳥公使に訓令し、該地駐箚外国公使の協力を求めしめ、若し協力整わざるときは、同公使一人のみにても、朝鮮政府に向い仁愛と外見上の為め、屍骸割断等残忍の事を為さゞる様忠告(「同上」p45)」
させた。
それにより大鳥圭介は、朝鮮外務督弁趙秉稷が病気にも関わらず自宅まで赴き、敢えて面会を求めて督弁が臥せっている病室で懇々と説得した。
しかし督弁は、
「御忠告の趣は拙者には熟と相分り候えども、外務官と司法官とは自ら其職司を異にすることなれば、拙官より容喙する訳に至らず。殊に我国にては五百年来の旧法を遵用し居れば、今日俄に之を変更する訳に至らざるは勿論なり。然るを若し拙者より其処分方に付、強て云々申出るときは、我政府にては却て拙者を金玉均の党与と見做すは必然にて、如何なる詮議に及ばるゝやも難計。依て、乍遺憾、御忠告の通りには取計兼ぬる云々」と述べて、到底止めることは出来ないと言った。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/3
明治27年4月6日から明治27年4月23日」p20)
また、京城駐在の各国公使も本件に関しては至って冷淡であり、個別に好機に応じて勧告するのには異存がない、ぐらいの意見であった。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/2
明治27年3月28日から明治27年4月17日」p47)
死後凌遅の刑
(以下、残酷な描写の部分が出てきますのでご注意ください。)
(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/3 明治27年4月6日から明治27年4月23日」p20、p22〜p32、「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4
明治27年4月16日から明治27年12月21日」p1、p20、p21の、京城公使、京城領事、仁川領事の報告から抜粋して編集。原文内傍点個所は太字とした。)
清国軍艦威靖が上海を7日に出航し、9日に南陽湾に着いたとの報告があった。
またその頃、去る明治17年の変乱で横死した諸大臣の遺子らが、その屍骸に向って復讐の所作に及ばんとの目的で京城を出発した、などの風聞もあった。
威靖が到着したことを知って、朝鮮政府は仁川から朝鮮国利運社汽船蒼龍号を迎えにやったが、11日朝になっても音沙汰なく、それで朝鮮政府は頗る疑いを懐き、午前8時頃に、出迎えの官吏趙羲淵に兵士を率いさせて小蒸気船漢陽号を派した。しかしこれまた音沙汰なく、12日の正午になって威靖が仁川に入港してきた。
実は威靖は9日に南陽湾に入港したが、舵の故障により修理に時を費やしたという。
午後4時頃になって漢陽号が戻り、月尾島付近で威靖に接舷して金玉均の遺骸と洪鐘宇を移した。
別に歓迎式らしきものはなく、ただ威靖を離れる時に喇叭を吹き鼓を打ち奏楽すること2回であったという。
漢陽号は漢江を遡り楊花津で着岸した。
そこで陸揚げした遺骸は支那風の大棺に納められ、それを麻縄で幾重にも縛り、上面に「大逆不道玉均」と書いた板を打ち付け、同様の文字を書いた寒冷紗の布旗を立て、20名余りの兵士が護衛する中、人夫3、40人程でこれを運んで一旦民家に入れた。
接岸の時に出迎えの清国公使などが乗船した時に、続いて日本人数名が乗った艀船が近づいたところ、漢陽号の兵士は急に剣や銃を執って叱咤し、これを斥けて警戒心を露にした。
4、5名の朝鮮兵は常に抜剣したまま棺の周囲で警備に当った。
日本人居留民は、金玉均の屍骸は上海で清国官吏に盗み去られ、清国兵船にて護送して来る上は凌遅の刑に処せられるに違いないとの話を聞き込んで憤激の度を増し、また、本国各新聞にも種々の過激の事項を記載していることから、老成の者らは金玉均に同情し、若輩の者らは、上陸の際には多少の妨害を加えようとの計画をする者があるとの探聞を在仁川日本領事は得ていた。
故に仁川領事は数日前から居留民に注意を加え、また私服巡査数名を波止場に派出し、万一不穏の挙動をする日本人があれば直ちに逮捕するように命じていた。また、日本軍艦水兵らにも間違いがないように、艦長に依頼していた。
そのためか結局は何事も起こらずに済んだ。
棺を下ろした漢陽号は上流の龍山に回航し、そこで洪鐘宇と出迎えの官吏趙羲淵が上陸した。
当初、洪鐘宇が金玉均を殺害したことが報道されると、韓廷は沸くが如く喝采し、帰韓の日には百官が門を出てこれを迎えるだろうとのことであったが、実際はそれに相違して、数名の官員が龍山に迎えただけで、案外淋としたものであった。
また、洪を出迎える轎も用意しておらず、よって龍山にて洪自らがこれを雇おうとしたが、難を恐れて応ずる者がなく、趙羲淵の周旋によって漸く1つを得てこれに乗り、兵士4人の警備で入京し、洪が食客となっていた家主でもある趙羲淵の居宅に入った。
そこでは多数の官吏が集まり、洪を取り囲んで事件の顛末を問うた。そこには趙と懇意にして洪とも面識のある、日本人北川某という者が群集の中に潜んで、これを聞いていた。
趙が言うのに
趙 「金玉均を李経方の手を経て上海まで誘い出し、捕縛した上で本国へ回送する筈であったが、洪鐘宇が早まってこれを殺害したのである。故に罪に問われることがあっても責められることはないだろう。」
と。 (「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/3 明治27年4月6日から明治27年4月23日」p28、p29より。原文では「金参判」となっているが、後に「趙羲淵」の誤りと判明している。下の資料p20参照。)
洪はそれに対して、
洪 「上海に到着して翌日、ある筋から聞いたことに、この(外国人)居留地を一歩でも外に出たら、自分も金も共に捕縛されて本国へ送られるとあったので、共に捕縛されては後に一緒に処分される恐れがあったので、自ら手を下して速やかに殺害したのである。」
と申し立てた。 (「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4 明治27年4月16日から明治27年12月21日」p21)
さて、金玉均の遺骸処分については、城内で処分すべしとか、或いは罪人刑場の西小門外ですべしとか、或いは楊花津で処分するべしとの説があって、政府内で議論があっていたようだが、14日の夕刻になって、刑具や執行吏が出張したとの報せがあった。
よって遂に午後8時、9時頃に楊花津の刑場で処刑が行われた。
壮衛使、義禁府都事が立ち会う中、執行吏が屍体の首と手足とを切断し、両手両足はそれぞれ縄で縛り、3本の丸太を鼎足に立て、首と手足を吊り下げ、その傍に「謀反大逆不道罪人玉均当日楊花津頭不待時凌遅処斬」との処刑宣告を書いた木板が立ち、また「大逆不道玉均」と大書した旗も立てられた。
裸体の胴体は伏せたままで棄て置かれており、その背中には3ヶ所の大なる刀痕があった。また、吊り下げられた頭の面部には鉄砲痕が認められた。
横に棺があり、また大量の石灰があり、これは棺の中から取り出したもののようであった。
また、棺の側には血染めの日本風絹裏地の褞袍(どてら)があった。金玉均が死亡した際に着ていた物と思われる。
なお両3日間はこのままに置かれ、その後は他所で取り捨てられるはずであるという。
翌15日に朝報(官報)で楊花津で処刑済みの達示が次のようにあった。
「議政府草記。即見京畿監司状啓。則逆賊玉均屍身載来京江云。矣屍身検。事體即然。莫令京兆欣曹按■当日挙行使之報首。以為稟処之地如何。伝曰允。」
朝鮮国の習慣はこのような大罪人の処分については、何人をも口を出すことが許されず、もし寛減すべしなどの議を唱えれば、たちまち同罪の刑に処せられる恐れがあった。
政府では評議決定の前に金宏集にも下問があり、その時金宏集は、
「既に死亡した後の遺骸なので、そのまま埋葬されて然るべきかと考えるが、これらの裁許は全て殿下の聖慮から出るべきものなので、ただ聖慮を仰ぐまでである」
と述べた。
よって、以上のように処刑が決定したという。
16日の夜、官吏が出張して来て現場を片付け、胴体は河中に投じ、首は京畿道竹山に移して曝し、片手及び片足は慶尚道に廻し、他の手足は咸鏡道に送り、各道各府各郡で曝す筈であるという。
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なおこの時、楊花津在留の日本人が刑場に行って密かに写真を撮り、また委棄されていた衣類と毛髪を拾った。それを東京の甲斐軍次宛てに送付するつもりである、との記述もある(その人物が和田延次郎、即ち北原延次かは不明。まず、違うと思うが)。また写真も入手している。外には、首級も送ったとかの虚実不明の話もあるが、まずこれは無理であろう。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4
明治27年4月16日から明治27年12月21日」p4、p14、p22)
また各府各郡に回送のことは、後に在釜山総領事室田義之からの報告として、金玉均の塩漬けにされた脚が慶尚道大邱に届き、同府衙門の門柱に曝されて衆人に示されたとあって、これは確かなことであった。(「明治23年1月27日から明治28年5月23日」p43)
何とも胸の悪くなるような記述が続くが、この上更に15日の朝報すなわち官報によれば、朝鮮政府は金玉均の凌遅刑と共に、更に例事として三族を滅する刑を加える、ともあった。
明治17年の朝鮮事変から今日まで生き延びている同人の妻を始めとして、事変に関係した者で処刑されていない者を悉く連れ出して刑死し、かつて斬殺後に凌遅された洪英植の墳墓も発き、その骸骨を取り出して処刑するらしい。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4
明治27年4月16日から明治27年12月21日」p20)
また、金玉均の養父は2、3年前に既に病死していたが、実父は忠清道天安郡に囚獄されたままであった。
韓暦4月16日、日本暦5月20日の朝報に、「禁府都事金興集は玉均の父を処絞するために天安郡に出張した」とあり、続いて韓暦同月20日、日本暦5月24日の朝報に、既に処絞した、との記載があったので、同人が絞殺刑に処されたのは間違いないことであった。(「同上」p34)
しかし、玉均の妻とその女子に関しては、朝報に何の記事もなかった。探偵によれば忠清道沃川にいるらしいことは分かったが、朝鮮人たちも詳しいことは分からず、或いは既に殺されているとか、或いは邑吏の妾婢となり娘は行方不明であるとか、取り留めのない噂があるだけであった。
よって杉村濬臨時代理公使は朝鮮外務督弁趙秉稷に面会して、その現状を尋ね、また忠告に及んだが、督弁は、金玉均の屍体加刑に付いて忠告した時と同じような論拠に加え、
督弁 「およそ人を刑するのに、その罪親族まで及ぶ、は現今開明諸国では行わないことであることは、本官もよく知っているところである。しかし我が国は五百年来、明律(中国明代の法律)を遵用して来ているので、大逆無道と名づけられた大罪人は、罪親族に及ぶことは法律上において動かすべからざるだけでなく、国民一般もこれを当然と信じ居ることである。故に法律に違えてこれを寛大に取り扱うことは到底なし得ないことである。」
と答えた。よって杉村は、
杉村 「拙者の御忠告は、貴国の法律を曲げてもこれを寛大に処分されたいと希望するものではない。拙者がかつて取り調べたところでは、明律の謀反大逆の条に、妻女まで絞殺すべしということは見当たらない。よって法律の範囲内で寛大に処分せられんことを希望する訳である。」
と、重ねて申し入れたところ、督弁は
督弁 「本官は司法当局者ではないので、これに喙を容れることは出来ないが、我が司法官は決して法に逆らって人を殺すことはないだろうと確信する。」
と述べた。
(以上「同上」p34、p35)
杉村公使のこの報告がなされた6月9日時点では、日本国内でも金玉均の妻女のことについては、すでに忘れられたかのように話題となることもなく、人々の注意は激烈となっていく民乱に向いていった。
しかし公使館ではその後も時々探偵を派して捜索することを続けた。
その後、12月になって日本軍によって発見されたことは既に述べたとおりである。
洪鐘宇処遇と大院君
一方、朝鮮政府が洪鐘宇を大功の者として官位を与えんとする動きに対しても、日本政府はその非を繰り返し勧告し、李逸植の委任状が偽造であると言いながら洪鐘宇を賞するなら、やはり本物であったと証明することになり、日朝両国に面倒を引き起こすことになろう、などと忠告した。
その効が奏してか、なかなか任官の事には及ばず、その間、香港在住の閔泳翊から朝鮮朝廷に「洪鐘宇の如き挺身君父の讐を雪ぎたる忠臣に対しては速やかに叙任賞勲の典を施ざるべからず」などと電報が来たり、国王と安駉壽に洪本人まで交えての問答があったりと、漸く任官せんとする動きがあったが、日本を憚ってか、全羅道の民乱のためにそれどころではないからか、6月に入っても実行されることはなかった。(後に任官された。)
この間の5月7日、臨時代理公使杉村濬は大分書記官をひそかに大院君の許に派遣して内談をさせている。
大院君の直話は次のようなものであった。
(「同上」p27より現代語に。)
大院君直話
洪鐘宇が上海で玉均を暗殺するを聞くや、閔族は異口同音に鐘宇を賞賛して止まず。その帰国するに当って閔族はこれを歓迎し、果ては彼を重く賞与し以って高官を授けんとした。
しかし我が国の慣例として、高位高官を授けんとするなら、必ず先ず科挙を経ざるを得ない。故に鐘宇も先ず科挙を経てその後に高官を授けることになる。
しかし、この頃この事について日本政府から故障を申し込んだとの事で、急に評議は変わって、仕方なく半分の中位を授けるべきであると言うことになった。
予はまだ日本政府がどのような故障を申し込んだか詳しくは知らないが、かの鐘宇が如きは、もとは玉均と親しみ深い者である。それが忽ち変じてこれを暗殺するに至ったのは義心からではない。ただ彼は世利の為めに動かされたもので、閔族が言うような真誠の忠臣というべきほどの者ではない。予は深く閔族の軽挙を嘆いた。
しかし今や日本政府の故障の申し出によって、幾分か閔氏の熱病を冷却したのは喜ぶべきことであって、そうあるべきである云々。
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大院君は熟々閔一族を憎んでいるんだなあ、という印象を受ける一文。金玉均の死に対する言葉はなかったようである。
逮捕者処分
さて、謀殺未遂と謀殺教唆の嫌疑で逮捕された李逸植、権東寿、権在寿、金泰元らであるが、4月26日に東京地方裁判所予審判事は、権東寿、権在寿、金泰元に免訴放免の言い渡しをしている。また李逸植も免訴放免となった。いずれも、証拠不十分ということが理由であった。(「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」p41)
しかし主任検事はこれを不当として東京控訴院に抗告したが、日本政府は、彼らがなおも暗殺を諦めない言辞を続けていることから、朴泳孝つまり国事犯の保護と国家安寧上に於いて、これらを5月には国外追放処置とした。(李逸植は10月。)(「明治27年4月9日から明治27年10月27日」p36〜p38)
また李逸植の私擅監禁罪に問われた朴泳孝らも免訴放免となり、塾に戻った。
暗殺事件について
逮捕された李や権が免罪放免された後と思われるが、金玉均暗殺犯洪鐘宇が閔族のドン、閔泳駿と次のように密談したことを、京城日本公使館は機密報告として政府に送付している。
(「甲午〔明治27〕年4月4日から明治27年5月23日」p22〜p27より、会話形式、現代語に。)
洪鐘宇に関する風説
洪鐘宇の身分がどのようになるかは、未だ決定はしていないと言える。しかし後日には謁見を許され[今は不浄の身なので王宮に入ることが出来ないという]、土地を与えて任官するの沙汰があるとの説があるが、古来そのことの例は大戦功があるものに限るものなので、古例に違反するとの論を唱える者もあって、今はまだ決定していないとのことである。
但し、同人の実父は前日から禁府都事に任命され、そして同人はこれまでは趙義淵氏の居宅に同居していたが、この度は特に邸宅を賜わり[桂洞の元は清人王錫禺が居住していた所である]、銭五万両[およそ千五百円]を下賜され、且つ、去る明治十七年の変乱で殺された者の子孫は洪鐘宇を徳とし、方々から銭を送る者があると言う。
また、同人と閔泳駿との密談を探聞したことを以下に掲げる。
恵堂(閔泳駿)と洪鐘宇との密談
恵堂 |
君はどうやって国賊を諭して上海に連れて行ったのか。 |
洪 |
丁亥(明治20年、1887)年に、海を越えて日本に往き、金、朴、徐(光範)を訪見し、彼らに従って毎々に、これを誣て(欺いて)言った。
『自分は洪英植の同姓至親である[洪英植は金玉均と共に謀事を挙げて殺された者である]。自分は母の復讐を遂げることが出来ていない。恨を抱くことが甚だ多い。そのうち故なく高位の官吏から嫌疑を受け、法司が自分を指定して殺させようとした。故に三十六計逃げるを上策と逃亡した。亡命の日に老父を絶島に隠慝し、泣いて別れた時に言った。
「この身は一たび日本に往ったら四方を周游して、諸公と交わりを結び、幸いに日本軍艦を得て帰国したなら、朝鮮の弱いことは元よりであり、とても外国兵に刃向かうこともなく、且つ、内応の助けもあって、破竹の勢いのようになるだろう。そのときは第一に、長安に入る[長安は京城を指す]、第二、母の復讐をする、第三、権力をもつ高位の官吏を滅ぼす、第四、開化を促進する、第五、富貴健全を得る、第六、名を後世に伝える、第七、綱紀を立てる、第八、甲申(明治17年)の時の憤りを叶える、との目的を達するを得るだろう」と。
この八ヶ条は、大丈夫として畢世の快事である。日本に渡海した時心に銘じ、もし意が適わないなら寧ろ身をここに終るのみであり、永遠に帰国しない。』 |
との意を伝えて、逆徒の心を釣ってからすでに多年になる。
そのようなわけで、暗殺の手を下すことについてはなかなか機会を得難く、昼宵虞悶したが、昨秋以来漸く朝鮮忠義の人、李逸植を得て密計を凝した。そして逆賊謀殺を委任せる政府文書を偽造し、且つ、長崎に於いて密かに印刻師に国王印を偽造させ、その真偽の判別を難しくした。
また密かに大三輪(長兵衛)に交際し、秘かに委任状を示して、暗殺成功の後は倍にして報いると約束し、謀って五万元を得た[大三輪関係の話は、朝鮮人中にひそかにこれを唱えるものがあるが、行い難いことである。しかしここでは探聞のままにこれを記する]。以って用費とした。
また或いは一万元を李逸植から借り、先ず三千元を玉均に給与した。甘言美話を以って欺き、玉均に話を持ちかけた。
『我等が最近の日本の動静を見るに、人や物事に接っすると、外見には親しいが、内面で疎んじている。且つ、我暮を待つ気色であることを観て、またこの暗い情勢の中に、遠からず必ず我等を朝鮮に縛送し、以って日朝交隣の宜を完うせんとする模様がある。早く大事を図るべきである。』 |
玉均が言うのに、『謀の何か奇計はあるか』と。
自分は謹しんで答えた。
『一度上海に往き、交りを清人中の著名の者幾人かと結んで、日本人に疑いの心を動かさせ、然る後に、直に露国に向うのである。君の才能を以ってすれば、どうして前進の道がないだろうか。且つ、朝鮮人にはその中心を失った者、志を得なかった者、及び亡命した者が多くある。前進して為すべきの道理、この挙にあるなり。』と。 |
玉均は言った。『ものとして成らないことではないが、赤手なれば、何を以って身を抽き出さん。』と。
自分は答えて言った。
『三千元の為替銀票がここにある。何かに用いるべきものとして前から蔵していた。渡海の費用はすでにある。心配することなかれ。君はすなわち衣服を正せ。』と。 |
玉均の身はまさに困窮の際なので、これを聞いて大いに喜び、大いに楽しみ、却って玉均の意のままになることを恐れるぐらいであった。
上海で組んだ三千元の為替票紙はあらかじめ入れ替えておいて置き、玉均が見て疑わないように計った。 |
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洪氏はここで頭を低うして密かに言った。 |
洪 |
多くは李経方に前後の援助を蒙ったことが少なくない。その恩恵は、これを論ずれば皇恩に非ざるはなし。且つ、上海に在る時には朝鮮人趙浄根も多く財物を出して助力したことも少なくない。 |
恵堂 |
君は日本にいること多年である。その間、よく風俗及び政府の動静を知るか。 |
洪 |
日本人は悍姦権勢が極まっている。故に西洋人に対しては、極尊極崇であり、これを畏れること虎に遭う如しである。清国人に対しては、親近のようであっても外親内疎である。朝鮮人に対しては侮蔑甚しく、よって朝鮮人もまた日本人を疑って信用していない。だから、今は外見上寛大さを見せるのがよい。且つ、その人品を見ても別に倣うような者はいない。称して冨国と言うも、財の運用に窮していることは、我が国の貧よりもひどい。これを中国中原とどうして比べられようか。中原の人は大きくて厚い。事に臨んでこれを求めるなら、財物の多少を計らずに、全くその為めに事を成しとげる。これゆえに西洋人は敬服しているのである。 |
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洪は更に言った。
李経方の援助のことは必ず日本人に知らせてはならない。李大人(李鴻章か)からも、もしこの事を漏すなら損あって益なし、と強く托された。 |
恵堂 |
君と我の両人相対しての言を誰か敢て日本人に伝えようか。且つ、また別に聴いている者もいなく幸いである。心配するな。
国賊はすでに殺された。(朴)泳孝はどうやって滅っしようか。 |
洪 |
今は、日本人が不当にも保護しており。急に行動には出難い。しかし李逸植や権両人を放免したのを見れば、これに次で動静を観るならどうして最良策がないであろうか。日本人のことであるから事毎にすることは姦邪が多い。こちらの外見の寛大さを見せる計らいによって、稍や両政府の交誼を厚くするなら、金公使(新公使金思轍)が東京に入る日には必ず放免するだろう。そうすればもう思い煩うこともない。 |
恵堂 |
然り。 |
以上の問答は、一つには洪鐘宇自身の功労を誇大に見せ、一つには閔泳駿氏の意に投合せんことを望み、事実を枉げて言辞を飾っていることは、推察されて読まれるようにされたい。
以上報告する。
明治二十七年五月五日。
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かつて朴泳孝がこの国の悪習として、「面談の時には、従僕にいたるまで同室したり次の間で話を伺ったりして、機密のこともとかく漏洩する憂いがある。」と言っていたが、まさに壁に耳ありである。
洪鐘宇が日本に来て金玉均と接触したのは前年の秋であり、「多年に云々」は明らかに嘘である。また、自分が全て計画して事を運んだように言っているが、金玉均に長年付き添った日本人和田延次郎の証言の方が正確であろう。
だいたいこの国の人の言うことは、どこまでが嘘か本当か分からないのであるが、まして自分の手柄話に於いてをやである。
それらを篩にかけてみると、李経方、李大人に関する言は彼の手柄とは関係なく、取り上げるべき証言であろう。
さて、こうして資料を見ていくと、金玉均暗殺は、やはり清朝合同の計画によるものであったように思える。
在上海総領事代理大越成徳の推理は鋭い。彼の調査報告も含めて取り上げると、
・ 金玉均は李経方、李鴻章と書面を往復していた。
・ 在日本清国公使館の者が通訳として同行していた。
・ 呉は休暇で福州に帰省すると言いながら、大阪に10日ほど金と共に滞在し、上海で金暗殺後、福州とは逆方向の李鴻章のいる天津に向っている。
・ 仁川領事の報告にある、趙羲淵と洪鐘宇との会話を立ち聞きした日本人の証言、すなわち、
趙 「金玉均を李経方の手を経て上海まで誘い出し、捕縛した上で本国へ回送する筈であったが、洪鐘宇が早まってこれを殺害したのである。」と。
・ 閔泳駿との密談で、
洪 「多くは李経方に前後の援助を蒙ったことが少なくない。その恩恵は、これを論ずれば皇恩に非ざるはなし。」「李経方の援助のことは必ず日本人に知らせてはならない。李大人からも、もしこの事を漏すなら損あって益なし、と強く托された。」と。
これだけ揃うとほぼ間違いないであろう。
しかし、この年1月の閔泳翊の行動は不思議である。李鴻章と朝鮮政府内との仲介役をした者が、いわゆるアリバイ作りのようなことをしたようにも見えるが、不明である。
だいたいこの国の人の言うことは、どこまでが・・・・である。
また、金玉均はなぜ李鴻章らとコンタクトをとったのであろうか。朝鮮独立のことについての議論でもする積りであったろうか。しかし、朝鮮を属国と扱う清国政府の中央は北京総署である。その華夷秩序の意識は揺るぎないものがある。例え李鴻章一人を説得したところでほとんど意味はなかったろう。
それとも、自分が帰国することを斡旋でもしてもらう積りであったろうか。小笠原島から付き添った和田延次郎の話によれば、金は手紙は読み終わるとその都度焼却していたという。具体的な手掛かりは何もない。ただ、大越総領事代理が遺品である手帳などから写し取ったものがあるが、ヒントとなるかどうか判然としない。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/1
明治27年1月31日から明治27年4月4日」p37〜p43))
尤も、上海の旅館東和洋行での偽名、「岩田三和」の名は、日清朝三国の和を意味する「三和」であると受け取れなくもない。(ちなみに、洪鐘宇は「竹田忠一」と名乗った。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/3
明治27年4月6日から明治27年4月23日」p37))
一方、米国に行っていた朴泳孝は日本に戻り、福沢諭吉ら少なからぬ日本の有力者の援助で、東京麹町に親隣義塾という私立学校を設け、朝鮮留学生の教育に力を注ぎ、朝鮮国の改革の基礎を作らんとしたようである。
金玉均を革命志向とするなら、朴泳孝は改革派か。革命は乱を招き、改革は治をもたらすとしても、この国はやがて行き詰まる清国の洋務運動をコピーしていたに過ぎないのであるが。
乱を招くと言えば、東学党の乱、またも大院君の関与が疑われるようである。
その他後談
・ 朴泳孝の帰国を促す
さて朴泳孝に関して、金玉均暗殺の報があって間もない4月1日に、閔泳駿の命により安駉寿が在京城公使館に来て、
「金玉均が今度いよいよ落命した上は、我が政府の敵も消滅した都合となり、朴泳孝に対しても最早何等の恨みとてないので、我が政府から貴政府に対し、朴氏を帰国させるよう願い出る時には、お受けくだされようか。これは閔泳駿ひとりの考えではなく、政府一般の希望なので、なにとぞ貴官からよろしく日本政府に取次がれたい」
と申し出た。
大鳥公使は、
「貴政府から、朴氏が帰韓しても刑しない保証を立てられるなら、或いは我が政府においても同意するかもしれないが、極めて確証のない以上はお申し出も無為に帰するだろう。また、朴氏とても容易に帰国されないと信ずる。」
と答えた。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/2 明治27年3月28日から明治27年4月17日」p24)
先の洪鐘宇との密談に於いての閔泳駿の言を考え合わせると、これを機に朴泳孝も帰国させて謀殺でもする積りであったろうか。
・ 朝鮮公使館問題
愈箕煥臨時代理公使が、公使館事務代理人も指定せずに、一篇の通告書を陸奥外務大臣に送っただけで4月5日に帰国したが、愈公使の通告書には、礼云々のことだけでなく、「平和なる交際の道を失うものと存」「今後何分貴大臣と両国交渉事務を措弁すること能わず」「差向処弁すべき事件も有之候えど、総て漢城駐紮の貴国公使より直ちに本国政府と御協議相成候様致度」とあるところから、これが朝鮮政府の意向であるとするなら、日本政府と在東京朝鮮公使館の関係は断絶したも同然となる。
よって陸奥外務大臣は同日に、京城の大鳥公使に電信を送り、「公使の帰国は朝鮮政府の命令によるものか、そうでないなら早く本任公使を送って、愈公使の失錯を正すように。なお、同人を再び日本に赴任させるのは帝国政府の望まないことである」と朝鮮政府に告げさせた。
それに対し朝鮮政府は、「公使の判断で帰ったものなので、取り敢えずは駐在の書記官を以って事務に当らせる。後ほど在任の公使を送る」と返事した。
しかし日本政府は、断絶した公使館との関係を再び開こうとするなら、これを謝罪するなり公使が外務大臣に送った書翰を撤回するなり、相当の処置をするよう要求した。
それにより、新たに赴任した弁理公使金思轍は、愈箕煥が免職となった旨告げた。
在京城公使館の機密報告によれば、「外務衙門から、愈は軽妄事を誤った、として上奏に及び、詮議の末、病気免職の扱いとなった。その進退については閔泳駿が強く保護したとの説がある」とあった。
(以上「甲午〔明治27〕年4月4日から明治27年5月23日」)
日本人その国民性
日本国内では、金玉均暗殺の事件は大きく報道され、新聞のみでなく暗殺事件詳細を伝えるものや詳伝、更には金玉均原案の小説までが、4月の内に出版されている。
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・ 「朝鮮国亡命人 金玉均氏暗殺の始末 」
高松丑蔵編、明治27年4月20日刊行
謀殺の諸説も紹介しており、分析に力を入れている。語り口は、冷静且つ客観的である。今日の週刊誌的な雰囲気もある。
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・ 「金玉均詳伝」
松本正純著 明治27年4月20日発行
冒頭、3月に衆議院議員になった大井憲太郎の揮毫が飾る。150頁ほどある詳細なものであるが、著者は金玉均の訃報を聞いて9日間で書き上げたという。当時の新聞がどう報じたか、なども記述されている。
例えば、自由新聞は、「韓客金玉均を哭す。上海の飛電は吾人に一種の悲痛を齎し来る。曰く、金玉均は上海の客舎刺客の手に斃ると。嗚呼果して真なる耶。吾人日本人士たる者は、斉しく一掬の血涙を惜まざる可し。(中略)彼れは多少の希望を帯て上海に航せし一事は、是れ我が忠愛義烈の日本人士が長く記憶す可き所に非ずや。」と煽情的な記述が続く。
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当時の日本人が如何に金玉均の死を衝撃的に感じていたかは、以下のように各新聞社が連合して「追悼義捐金」を募集したことからも窺えよう。
(松本正純著「金玉均詳伝」p11、p12)
金氏追悼義金と題し
韓客金玉均氏、夙に非常の器を抱て非常の時に立ち、縦横策成らず。遂われて他邦の孤客となり、流離困頓殆ど十年。或は南海の熱潮に灑ぎ、或は恨を北海の寒月に訴え、志業遂に成らずして空しく兇奴の毒手に斃るゝに至りては、男児の鉄腸をして九廻せしむるに余りあり。回顧すれば我同胞兄弟は、十年の久しき一日の如く、金玉均氏に向て幾多の好意を表せり。而して今や同胞諸君が、最後の好意を表して、義声を挙ぐべきの時到れるは、最も悲歎に堪えざる所なり。嗚呼、其親族故旧は、既に怨家の毒手に斃れ、天下の広きも我同胞諸君を除ては、復た一人の親交なきは、実に金玉均氏の現状なり。同胞諸君の義気に頼るにあらずんば、氏の霊は万里の異域に彷徨する永世不祀の鬼たるに至るべし。是れ豈に義気侠骨を以て宇内に鳴る、同胞諸君の忍ぶべき所ならんや。
今や、吾人同志茲に感あり。相謀りて同胞諸君の義金を集め、聊か金玉均に対する最後の好意を表せんとす。嗚呼、同胞諸君よ。漂零落魄志業成らずして、遂に毒手に斃るゝの悲意痛情を解するあらば、請う応分の義金を投じて、哀悼の情を奏し、氏をして百年不瞑の鬼たらしむる勿れ。義金の費途及び応募其他の手続は左の如し。
一 義捐金は左の費途に充つる事
金玉均氏の遺骸に処する処分の事。
記念碑を設立して追悼の意を表する事。
同志の朝鮮亡命客を補助する事。
一 義捐金は十銭以上に限る事。
一 義捐金の締切期限は四月三十日の事。
一 義捐金は適宜新聞社に宛て寄送する事。
一 義捐金を受取りたる社は、其新聞紙上に掲げて受領証に代う。
明治二十七年四月五日
時事新報社 自由新聞社 毎日新聞社 めざまし新聞社 郵便報知新聞社 新朝野新聞社 読売新聞社 中央新聞社 東京日々新聞社 やまと新聞社 国民新聞社 改進新聞社 万朝報社 都新聞社 中外商業新聞社
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外国人1人に対して、これほどの同情を寄せるということが他の国でかつてあったろうか。つまりは隣国の国情に対してこれほど関心を持ち、まるで我が事のように見るという人々が他国でも普通にあったろうか。
筆者としては、金玉均個人に対する評価というよりも、このような当時の日本人の国民性こそが実に不思議なものであると言わざるを得ない。
当時の日本人の、この過剰ともいえる同情心、義憤。つまりは義侠心というべきものの前には、元々国境もない、民族もない、一視同仁として接っせんとする。まあ外国人からすれば誤解の多いものであろうが。まして中華圏の人間からしてみれば。
かつて明治24年(1891)10月、岐阜県美濃地方にマグニチュード8.0という烈震が襲い、大震災となったことがあった。死者は7千人を越え、全壊、焼失家屋は14万戸以上を数えたという。この時各地の新聞社は競って震災情報を全国に発信し、ために国を挙げてその不幸を憐れみ、人的支援や金銭や物資を義捐する者数えを知らず、一時は日本の人心はこの一事に傾いたと思えるほどであったという。
それを見た金玉均は、
「日本人の(義捐の)騒ぎもなんと甚だしいものか。罪無く命を失い、ゆえなく財物をなくするのは、人間の不幸には違いないが、ただ一時の事である。我が朝鮮国民の如きは憐れむべし。年中この震災同様の不幸に遭いつつあるなり。ゆえに日本人の心を以って見るなら、常にこのような騒ぎをせねばならないだろう。」
と言って唖然としていたという。(松本正純著「金玉均詳伝」p138)
当時の朝鮮人には理解できないことであったらしい。
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