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「朝鮮風俗絵葉書」より、「(朝鮮風俗)喧嘩 QUARREL OF COREAN」
もちろん撮影用の演技であろうが、大きな石塊を持っているところがなんともリアルではある。 |
東学党乱の起因
朝鮮東学党の乱に至った経緯は、「東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第三巻」の「朝鮮東学派ノ起因並二内乱ノ事」に次のように記されている。
(「朝鮮東学派ノ起因並二内乱ノ事」より現代語に。()は筆者。)
朝鮮東学派の起因ならびに内乱の事。
朝鮮開国四百六七十年(1851〜1861)の頃、忠清道に崔福述と言い崔濟愚とも言う者がいた。俗に神仙の術、また遁甲蔵身法(身を隠す妖術の一つ。手品でも使ったか。)と称し、東学派と称する宗派が起こり、民衆の帰依が日に盛んとなったが、朝鮮政府は、その説くところが、騙妖(騙って人心を惑わす)にして治安を妨害するものと認め、厳命を以てこれを禁止し、且つ教祖崔福述を捕らえて斬首の刑に処した(1864年頃)。一説には、崔福述を流刑にしたが、配所に赴く途中の船中で病没したとも言う。
しかし信徒は減るどころか、却って、慶尚、全羅、忠清の三道に充満し、全羅道などは官吏の中にもこれを信奉する者があるに至った。
近頃から朝鮮政府が耶蘇教(キリスト教)を解禁して外人の布教を許したが、唯一、東学派に対しては依然として解禁しないので、大いにその非を論じ、頻りに不平を鳴らし、明治二十六年の初めには忠清道監司に迫って、
「東学派の布教を公認すること、教祖の崔福述の祠を建てること、祀ることを許すことなどの数件を、中央政府に稟申して裁可を与えること、もし聴かないなら直接に京畿道(首都京城のある道)の監司に訴え出る」
と威嚇し、四方に檄を飛ばして民衆を集めるなどして不穏の挙動をあらわした。
よって政府は、左右捕盗庁に命じて首謀者十数名を捕らえさせた。
これによって信徒は韓廷の行為を憎み、大いに事を起こすことを欲し、ひそかにその時機の至るのを待った。
毎年三月二十五日の世子宮誕生日には、「慶科」と称する科挙を行うことをもって、八道の人士がこれに臨むために京城に集まることを例としていた。
東学派はこれを機会とせんと人々に混じって上京し、城郭の内外各所に散宿して連絡し合い、ついに信徒の多い全羅道の住民、朴外浩は明治二十六年三月二十七日、一片の建言書に「敬天正心保国安民」の字を大書し、仲間八十人を率いて王宮の門に進み、伏して上奏の取次ぎを促した。
建言書の大要は、
「教祖崔福述の善行を認め、その非命の死を弔い、祠を建て、祭りを存続させ、また東学派宗教の禁令を解いて布教を公許するべし。」
と言うものであった。
しかし国王殿下は、その要請を容れず、四月十四日には、左の勅諭を下し、上疏した朴外浩を拿捕すべき旨、法司ならびに各地方官に命じられた。
「・・・その論を見て驚き恨む。怪しく出鱈目であり、愚かに蠢動する民を激しく惑わせ、よって常人を感化させるけしからぬ法にして痛嘆に堪えぬものである。
先年から王法によって教祖を処刑したところである。それを尚も勝手に門番に向って叫ぶは憚らざるの極みである。云々(以下略)」
しかし、捕吏らは東学徒の威勢を恐れ、手を下せば災難となるのを恐懼し、逡巡して命に応じなかっので、彼らは何事もなく都門を出て帰途に就いた。
それより幾日も経たずに、信徒らが陸続として忠清道報恩村に集まり、砦を設けて「斥洋倭唱義」の五字を書いた大旗をはじめ、その他、尚功、清義、水義、義慶、などの大小の旗が翻り、大挙してまさに骨山血雨の惨劇を演ぜんとせんとの飛報があった。
しかし国王殿下は仁愛にして、多くは無知蒙昧の者が付和雷同しているに過ぎないことを憐れみ、懇諭して彼らを反省解散させることを欲し、容易に兵力を用いて鎮圧することを許されなかった。
それで参判魚允中を選んで、全羅、忠清、慶尚の三道の都御吏に任じ、それらの各地に於て一々聖意あるところを諭させ、穏やかに解散を命じて、やっと鎮定することが出来た。
その後明治二十七年五月下旬、東学党は再び、全羅道古阜、慶尚道金海府、忠清、平安諸道の不平集団と連絡して各所に蜂起し、頭に頭巾を被り、手に刀搶(槍)を携え、黄色旗を押し立て、
「重斂苛税暴虐至らざるなき貪官汚吏の圧制を掃清して、政弊を革新し、国基を固せん」
と先導して唱え、夜にまぎれて諸官庁を襲い、役人を殺し、倉庫を破壊して貢米を略奪し、官兵を撃破して地方兵も追い散らした。
その勢いはまた、前年の比ではなかった。
ために全政府内は震撼し、洪啓薫に招討使[先ず説諭し、説得に応じない場合は初めて征討する役]の職を授け、壮営の兵士八百人を率いさせ、変状を取り糺しに行かせた。
これにおいて、招討使は直に兵を水陸の二手に分け、水路から行くものは招討使自らこれを率いて仁川に下り、蒼竜、漢陽の二舩と清国軍艦威遠に搭乗して全羅道の西南岸群山港に向った。
招討使は群山島に上陸するや、綸旨を奉じて命令を書して暴徒に示した。曰く、
「全羅道の監司金文鉉を罷免して位を落とし、先の古阜郡趙秉甲も捕縛し、以って慰撫の意を示した。もしこれでなおも帰順しないなら、京(みやこ)の軍勢が大挙してまさに汝等を討伐する。云々」と。
しかし激昂する東学党の軍がどうしてこの諭旨を甘んじて聞こうか。益々その勢威を鮮明にして少しも鎮定する気配も見せないので、、招討使は遂に策を決して接戦せんとし更に興徳に向った。
この時より陸路で戦地に向っていた京の軍は、既に全羅道の境界に入り、各所を転戦したが、破ることが出来なかったので皆逃げ散り、六月一日には東学党の軍は既に南道の要地全州を襲い、奇計を設けて招討使の軍も陥れ、よって、招討使ら皆敗れて逃げた。
これにおいて東学党の兵威は倍増し、勢いは破竹のごとくして、なおも進んで忠清道公州石城を拠点とし、まさに大挙して京城に迫ろうとした。
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西(西洋文明、キリスト教など)に対峙する東という名称を冠した東学党とは、朝鮮民間の呪術に道教神仙思想や儒教仏教的要素を盛り込んだ新興宗教である。朝鮮政府から見れば妖術を売り物にしたカルト宗教といったところか。
この国は現代に至っても、世界の有名宗教の名を利用しながら粗雑且つ奇怪な宗教もどきを作ったものが現れては話題になることが少なくない。「嘘」「詐偽」を常とする民族性によるものであろうか。尤も、現代日本にもカルトは様々いる。伝統という美名に隠れた宗教の嘘も健在ではある。
東学党が明治26年に忠清道報恩村に集まって砦を設け、「斥洋倭唱義」と大書した旗を掲げたところに、西洋近代文明を嫌悪したかつての大院君ら守旧派と通じるものがあるように思われるが、この時はまだ国王派遣の政府要人による説得が通じており、解散の呼びかけに応じているところに、まだある程度は自制の効く集団のようにも見える。
しかし明治27年になって、全羅道古阜、慶尚道金海府、忠清、平安諸道の不平集団に呼びかけてそれと結託してからは、腐敗した官吏の重税収奪の横暴に対する革新を唱えるなど、反政府的性格を鮮明にしており、特に諸官庁を襲って役人を殺し貢米を略奪するなどの行為は東学党の宗教性からは外れて、明らかにその性格に変貌があったように思われる。つまり、乱を求める不平集団が主導権を握ったということなのかもしれない。
まあ、横暴且つ自侭で腐敗しきった朝鮮政府の政治や両班貴族、役人の行為に対して、これまで土民たちが怒りの反乱を起こさないことこそが不思議であったろう。尤も小規模の乱は以前から各地でよくあっていたらしいが。
したがって東学党の乱は宗教の乱ではなく、明らかに土民一揆であろう。
朝鮮乱民と清兵と日本人
ただこの国の民族性として常軌を逸した残酷性があることは、ここまで読了された人なら誰でもが認めることであろう。
無辜且つ素手の者に対する石打ち、無抵抗の者に対する集団での暴力と殺害。
明治12年の東莱府における非武装の日本水兵に対する暴力。明治15年の安辺地方での日本人僧侶らに対する集団強盗と殺人。また同年の大院君の乱たる朝鮮事変時における日本人殺害。それも麺売り業と酒売り業の者という庶民らが人間の頭蓋骨まで破壊するという残酷且つ執拗さ。
この国で乱が起きれば、日本人居留民に対してどういう暴力が振るわれるか。
また、強姦や略奪をほしいままにする清兵がどのように日本人商民たちを扱うか。
明治17年の朴金の乱時に、京城在住の40人近い日本人商民が婦女子ともどもどのような目に遇い、且つ清国政府はどのような態度をとったか。
そして、この頃の日本人が今日のように同胞に降りかかる火の粉を見て見ぬふりをするような性格であったか。
・ 第一に、日本人居留民の生命と財産を保護すること。乱民からのみでなく朝鮮兵や清兵からも護らねばならない。
・ 西洋列強国に侵食されながら、なおも中華自尊の殻に閉じこもって朝鮮の独立性を妨げる清国を力で殴って手を引かせること。
・ 頑迷腐敗の朝鮮の近代的改革を促し独立の精神を涵養させること。
・ 日本の朝鮮における、多数の人命と膨大なる経費を注いで築き上げた当然の権利と地位を保つこと。
そのような意味あいを持っていたのが日清戦争ではなかろうか。更にこれに、日本から上海に出かけた金玉均を閔氏一族が暗殺したことと、日本が遺体の返還を求めたのに対し清国政府はこれを無視して朝鮮政府に渡し、それによって死後刑として凌遅されてさらしものになるという事件が加わったことにより、金玉均を朝鮮改革の希望の星と見ていた日本人が激怒するということが加わってくる。
金玉均暗殺
朝鮮政府が日本に滞在している金玉均や朴泳孝を亡きものにしようという動きは、先の明治19年の「刺客池運永」に止まらず、明治20年にもあった(金玉均暗殺企謀者渡来風記並ニ金鶴羽ノ動静)。
しかし、それより数年経ても何事もなく、日本政府はもう心配はなかろうと、金玉均の内地での居住自由を許したのは明治23年11月であった。
よく朝鮮人の性質を評して、熱しやすく冷めやすい「鍋根性」と言うらしいが、同時に、一度「恨(はん)」を抱くと、いかに時を経ても決してそれを忘れようとはしない面もあるようだ。ようするにしつこいのである。
金玉均謀殺計画の情報が飛び込んできたのは、それより3年以上後の明治27年(1894)1月であった。それは、明治17年朝鮮事変で金等から殺されかけた閔泳翊から香港の日本領事館にもたらされた。
(「5.金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/1 明治27年1月31日から明治27年4月4日」p2より、()、段落は筆者。)
親展
本日午後六時前、当地に亡命せる朝鮮国王妃の姪、閔泳翊、本館に同国人にて金玉均その他を暴殺し、自分をも連鎖の罪に加えんと謀るもの有之、如何致し可然哉と申出て、且つ一片の開封翰を差出し、蹌皇(あわてふためくこと)為すことを知らざるが如き状あり候に付、翰中を展閲候処、別記の書類有之。
即ち目下大阪に滞在せる朝鮮人李世植なるもの、大三輪長兵衛、川久保常吉、及び過般西洋より帰国せし朝鮮人洪鐘宇と協議して、甲申の逆賊を没斬之事遂げたる上は漸の一字を閔に発電すべしとの次第に有之候。
査するに大三輪が左様の暴挙に加担すべき理由更に有之間敷、或は李は別に何か為めにするところありて、左様の通信を閔に発したるものにて、到底暴挙の実を見る事有之間敷と存候へ共[従来朝鮮人にして金朴を暗殺すると称して閔家に諂い、或は本邦へ遊覧する者ありし]、閔に於ては事自分に連る様相成候ては甚だ迷惑なりと、頗る心痛の様子を示し、実は本件電信を以って本邦へ申通し呉候様依頼致候え共、其必要無之と認め候に付、謝絶候。
猶お大阪府警部長へは念の為め、李世植の挙動を注目する様急信を発し置候。
前陳李世植なるものゝ人となりは、閔泳翊に於て詳に承知せず、但だ、三年程前、同人当地に来りて閔に面会せしことあるのみと申居候え共、或は閔と李との関係は更に親しきものに可有之候。
閔家元来十七年の金玉均、朴泳孝等の挙に対して非常に怒を抱き、閔泳翊の如きは今日に至りても金朴を目して自分の仇敵なりと公言するを憚らざる儀に付、想うに閔は最初李の目前にてその辺の意を吐露し、而して李は閔に諂うる積にて、前陳の書信を差越したるものか、而して閔も其放言の実挙せられんとすと聞き、俄に恐惶の念を発せしものかと存候。
過日来、閔と数回面晤せしが、閔は金朴両名の本邦に流寓する為め、一方には自家の将来に付掛念し、一方には本邦人[我が政府も猶お金朴等を保支せらるゝと信ぜるが如し。]の彼等を保持せるを以て甚だ不平なる様見受候。
勿論此辺の事は我が政府に於ても、疾く御承知の事と存じ、尚お拙者も其辺は閔等の誤解に出て居る旨、懇々説明候え共、尚お疑念相晴れざるやに見え候。尤も、右様の誤解も閔一人の邪推に止まる儀ならば、歯牙に掛くるに足らず候え共、想うに右は閔家一統の考えにて即ち王妃も其内にありとすれば、■いて彼我両国間の交情を害すること誠鮮ならざるべきかと存候。
然るに世間大局に着眼せず、但だ市井の任侠を以て得意とせる政治家のあるは困却の至に候。大抵金玉均の如きは勿論、朴泳孝の如きも復び本国に帰りて旗を挙ぐるの機会なかるべく、而して徒に市井の徒流の義侠の為め、閔家の信用を求めて損せんとするは尤も策の得たるものに有之間敷、或は又本邦人は閔家の多くを以て露国党となせども、是れ畢竟彼等は清国の挙行に不平あり[閔泳翊の如きは、今日尚お袁世凱と終生の仇なるが如し]。而して我れ(我が国)は金朴等に与力するものと信じ、因て露国に傾く様相成りたるものに可有之と存候。
右様の儀は拙者より申上候は、或は僭越の事と存候え共、本件御通報申上ぐるに付いては、過日来閔泳翊と面晤の節、聊か感得候次第に有之候に付申陳候。恐惶頓首。
明治二十七年一月三十一日 在香港領事中川恒次郎
陸奥外務大臣閣下
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「従来朝鮮人にして金朴を暗殺すると称して閔家に諂い、或は本邦へ遊覧する者ありし」とは全くその通りで、池運永などは日本に観光旅行に来たようなものだったのだが、有言不実行は朝鮮人の常とは、中川領事のみならず、この頃の日本人が抱いた朝鮮人観でもあったろうか。油断である。
神戸から上海へ
同年3月になって金玉均が神戸港から上海に向ったのを日本政府が知ったのは、どうやら出航した後であったらしい。
情報は大阪府警部長から入った。3月24日、陸奥宗光外務大臣は直ちに兵庫県知事に調査を命じた。
(「同上」p6)
明治廿七年三月廿四日
電信案
兵庫県知事宛 陸奥外務大臣
朝鮮人金玉均は昨廿三日、神戸出帆の西京丸にて上海へ赴きたる由、果して事実なれば如何なる目的にて行きしや、探索すべし。又、同行人は、北原新次、清国人呉静軒の二人なる由。右は如何なる人物にして金玉均との関係如何等、至急取調べ電報すべし。
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翌日返電。
(「同上」p8、()は筆者。)
電受第五六号 明治二十七年三月二十五日午後一〇時五〇分着 十二時接受
朝鮮人金玉均は本月廿三日、清国人呉静軒、朝鮮人「コウショウラウ(洪鐘宇)」、本邦人北原エン次と共に西京丸に乗込、上海へ向け出発せり。其用向は、先年大石公使、朝鮮国王に謁見の際、不敬の所為ありとて遠流せられたる玄映運が、今回赦免となり、帰京するに付、之をウモン(訪問)の為めなりと云う。又た呉静軒、「コウショウラウ」は、朴泳孝と親密の交際あるものなりと云う。北原は金玉均の随行員なり。委細は書面にて上申す。
周布兵庫県知事
陸奥外務大臣殿
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委細の書面は以下のものと思われる。
(「同上」p12)
廿七年三月廿八日接受
第八三
朝鮮人金玉均が上海へ向け渡航したる事実、并同行者たる本邦人北原延次、清国人呉静軒は如何なる人物にして、金玉均との関係如何等、取調方命に依り、直に内偵を遂げ、不取敢昨日電報を以て申報及置候通、金玉均は本月廿二日、清国人呉静軒、朝鮮人洪鐘宇、本邦人北原延次と同道、大坂より来り、神戸市栄町三丁目西村雅貫方旅人宿に投宿し、翌二十三日午前四時、当港出帆の西京丸に乗込、上海へ向け出発せり。
渡航の目的は先年大石公使が朝鮮国王に謁見の際、不敬の所為ありたりとて遠悪島へ流刑せられたる玄映運が今回赦免となり、京城に帰ることとなりたるを以て、同人を訪問せんが為めなりと云。
一 呉静軒、洪鐘宇の両人は金玉均が友人たる朴泳孝と親密の交際ある者なる由なれども、如何なる深き関係あるや詳悉する能わず。北原延次は金玉均の随行者なりと云。
一 神戸上海間往復切符、有効期限は九十日間なれども、間もなく日本に帰る口気ありたり。而して北原のみ中等、他は皆上等切符を買えり。
一 金玉均は是迄岩田周作と称え居りしに、今回は岩田三和と変名せしが、他の耳目を避けんが為めならん歟と被存候。
右及申報候也
明治二十七年三月廿六日
兵庫県知事周布公平
外務大臣陸奥宗光殿
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清国人呉静軒は、後に在日本清国公使館訳官、呉葆仁のことと判明する。また、金玉均の日本人偽名は「岩田秋作」ではなく「岩田周作」となっているが、国内自由居住を許された頃にでも改名したのかもしれない。なお北原延次は、本名は和田延次郎であるが、以下報告書どおりに「北原」のままを記述する。
暗殺の第一報は、在上海総領事代理の大越成徳から28日か29日にあったようであるが、アジ歴の同件には最初の英文電報としては、
「(上海)市当局は今朝、殺人者を逮捕した。そしてミックスドコート(立会裁判所)で彼を起訴するだろう。」
というものが記録されている。日時は3月29日午前11時41分発とある(「同上」p13)。
金玉均渡来並に暗殺の件
その後、3月30日付発で詳細な報告書が同総領事代理から外務大臣陸奥宗光宛に提出された。金玉均の渡航目的は、先の兵庫県知事の報告とは全く違っていた。
(「同上」p24より、現代語に、一部要約省略。)
金玉均渡来並に暗殺の件
金玉均その他2名が西京丸で渡航するので、その挙動を探るよう、去る24日に、電報で御訓示の件承りました。
これより先の、3、4ヶ月前に、朝鮮人5、6名が当地へ渡来し、今に滞在しているようで、時々馬車等で道を往来しているのを見受けたことがあり、またその衣服も白衣ではなく、色変わりのものがあるので、何者なのかを怪しみ、折に触れては問合わせておりました時に、貴電信に接しましたので、或いは同人等も金氏と何等かの関係があるのではないかと思い、探偵を試みたが、未だその要領を得るに至らなかった。
しかし金氏はいよいよ去る27日午後5時、西京丸で到着した。一行のそれ以外の人名は、
清国公使館訳官 呉葆仁
朝鮮人 洪鐘宇
本邦人 北原延次(本名 和田延次郎)
で、その内の洪鐘宇はかつて本邦に来遊し、後に明治22年頃から仏国に赴いたが、昨秋に再び本邦へ帰来し、時々金氏とも往来した。又北原は小笠原島の生れで、去る明治19年以来金氏の従僕であるという。
右の一行は、上陸の後に、鉄馬路の日本旅館「東和洋行」へ投宿した。
かねてからの御訓示の趣旨に従って、深くその挙動に注意し、なお旅館主人吉島徳三にも内意を含めて伝え、探偵いたしておりましたが、来着の当日は何等記すべき程の出来事もなく、ただ金氏等が到着の後に尹致昊[尹雄烈の子息で多年当地に滞在している者]自らが来て旅館を訪れ、金氏と暫く談話の後に帰っただけで、他に人の出入りしたのを見ず、また書簡の往来もなかった。
翌28日午前、またも別に異常もなく、しかし午後3時頃に、旅館主の吉島が来て、金玉均が暗殺されたことを報じた。よって同人をして直に居留地警察に届けさせ、小官は先ず山座円次郎領事官補及び加藤書記生を本邦の医師田鍋安之助を伴い、東和洋行に行かせた。
しかし到着した時には金氏は既に絶命しており、そして下手人たる同行の洪鐘宇は既に何れかに逃走していた。
よって北原その他旅館の者に聞くと、金玉均はその時は少し気分が悪いとて寝台の上に横臥し、他には洪鐘宇1人が室内におり、呉葆仁はその前の1時頃から所用があるとのことで外出し、北原もまた金氏の用事によって2階を下りた。しかし間もなく爆竹のような音が3発聞こえ、続いて洪鐘宇が飛ぶように2階を下りて戸外に走り出た。
それで北原は何か珍事が起こったかと同じく外に出たが、別に変わった模様もなく、そのうち洪はどこに行ったか影も見失った。
同宿の旅客及び主人等も皆短銃の音とは思いもしないことで、全く爆竹の音と聞き誤った[爆竹の音と砲声とは似ている上、その日の午前にも旅館前面の河中に停泊しいてた船中で爆竹を行った者があったので、いよいよそう思い誤ったと思われる]。
漸くにして声が騒がしいことに気づき、惨劇が起きた事を知ったのは既に犯人は戸外に逃走した時であると云う。
金玉均の死体には3ヵ所の銃創があった。1つは左の頬骨下部を貫いて銃弾は脳に達し、1つは毛布及び着衣を貫いて腹部をこすり、1つは背面の左肩骨の下部を穿っていた。
銃弾は既に発射されたもの及び未発のもの各1個が廊下に落ちていた。これを見ると共に小指の先の大きさであった。
思うに洪は、先に洋服を脱いで朝鮮服に着替えたようで、その時から既に連発の短銃を袖裏に隠し、室内に人がいないことに乗じ、寝台の上なるその「ビクチム(victim のことか。)」に向って不意に凶行を加え、尚も逃げようとするところを背後から続いて第3発を放ったものであろう。
金はそれより5、6間離れた廊下に倒れていたようである。
既に警察署長(英国人と思われる。)も来て死体その他の取調べをした。この時、小官も出張してそこに赴いたところ、警察署長は小官に向かい、
「取調べが済んだ上は、死体は貴方に於いて受け取られようか。」
と申しましたので、小官は、
「もともと金玉均は朝鮮の亡命者で、我が国の帰化人ではないので、我が方が引き取って世話をするべき理由があるものではない。我が領事官員がここに来たのは、犯人が何人かが分からなかったことと、犯罪の場所が日本人の旅館であるからである。加害者も同じく朝鮮人である以上、本件は清国政府に於いて司法上相当の処理をするべきものと信ずる。貴署から立会裁判所[ミックスドコート]または県令等へ照会し、この上更に検死すべきかどうかを問い、もしその必要がないならば、死体は他の朝鮮人から引受人に交付するか、又は北京に引き渡すか[北原は自分への引渡しを請うた。]、その他どうとも処理されて然るべきかと。」
との意味を答え、貴館致しました。
この時、警察署においては既に八方へ手分けして犯人の行方を捜索中のところ、漸く夜になって呉淞近傍の1民家に潜伏しているのを発見し、当港へ連れて来た。
しかし署長から再び同人を当方へ引き渡さんと申し出ましたが、小官は、
「国籍に於て全く日本とは関係ない被告人の上に裁判権を有しない。洪鐘宇が朝鮮人である以上は、条約によって清国官吏に引き渡されるべきである。」
と答え、警察署長もその意を了解して、今夜会審衙門へ引き渡すと申しました。
しかし、会審衙門の権限は本邦の区■■処と同じで、重罪犯については予審をするに止まり、■■■と見るときには県令において刑名を案じ、更に道台を経て按察使へ上申するのを例とする。
それで県令は犯行現場に来て死体を検し、洪鐘宇にもその場で一応の尋問をした。(後述)
取調べの際は、同行させた日本語も通じる領事館語学生が通弁を頼まれた。
(中略)
聞くところによれば、金玉均は、去る11日に呉葆仁と北原と共に、新橋から汽車に乗って大阪に至った。その後、大川町の磯部甚吉方に投宿した。
北新地3丁目131番地の純村トメ方逗留の朝鮮人、李世植[32、3歳](本名李逸植)としばしば往来した。李は昨年一度当港(上海)に来て、閔泳翊とは懇親の間柄であると言う。呉の言によれば、李は香港でマニラ票を買い、幸いにも当籤して10万ドルを得たので、その金を処々に預けて商業に従事し、堂島米相場などに手を出しているとのことである。李の所には権東寿兄弟も同宿し、そして洪鐘宇も当時その家に居たという。
李と金との間は親しかったとは思われない。
昨年一度李が上京して金玉均を訪れた外は、あまり往来もなかったようだが、今度大阪では金としばしば往来し、李は上海行きの旅費として600円を金等に与え、なお上海到着の上で受け取るべしとして、当地小東門外■■■天豊宝号(清国新聞「申報」3月30日付記事では「天豊錢荘」)宛ての両替手形5千円を与えた。
そして李は、なお受取でのあれこれの便宜の為に、洪をも伴うべきであると金に勧め、金も承諾したので同行することとなったようである。
その他、金が大阪滞在中、互いに往来したのは、当時滞在中の福岡県人の頭山満のみであると言う。
洪は東京で、4、5回金を訪ねたことがあるが、金からは洪を訪ねたことはない。親密の交際ではないようである。また洪が大阪から同行するとなったが、金は従僕の北原に向って、「洪は怪しい人物なので、注意すべし」と命じ、北原も常に金の身辺にあって不慮に備えたという。[なお、上海に着いて為替を受け取った上は、洪は直に同便で返り、金等は次便まで止まる考えであったとのことである]
しかし船中では別に怪しむべき挙動は見なかったとのことである。
当地到着の翌朝、洪は金の依頼によって5千円の為替を受け取りに行ったが、そこの主人が不在であったとして戻り、午後6時頃にもう一度行くと言った。
しかしその日の3時頃に凶行を遂げて逃走したのである。
その後、もしかしてその天豊宝号で為替金を受け取っていないかと思い、警察では探偵を派して同所に行かせたが、天豊宝号なるものは見当たらなかった。
また、金は在東京中、時々清国公使館に出入りし、また李鴻章、李経方などとも書面を往復していた。
当地着の後、尹致昊に向かい、いよいよこの地に来たのは李経方の招きを受けたので、当地で用事が済み次第、■海に至って李に面晤のつもりである云々と言ったとのことである。
金の死後、その書類を調べると、■■までの時間を記載したものなどがあった。
また、呉葆仁は40日の休暇を得、福州に帰省する積もりで同道したと自ら語ったが、金と同じく大阪に10日ばかり滞留しただけでなく、金らと同様、西京丸の切符を買い、当地に着いたが、支那人宿屋には行かずに金と同宿した。そして北原の言によれば、福州へ帰省云々のことは全く嘘であり、実は金らと全く同一の用事で来たものであるとのことであった。金と呉とはその間が親密であり、金も同人を少しも怪しまなかったようである。
右の事実は多くは北原の陳述に基づくものである。しかし、詳細なところは金の荷物を調べたが証拠とすべき書類などは見当たらなかった。また北原に問うも何故に金が当地に来たのかは分からないと答え、また金は手紙類なども全て一読の後は火中に投じていたと言う。
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なお李経方とは、李鴻章の娘婿にして養子となった者であり、後の日清講和条約締結に於いて李鴻章と共に清国全権大臣に任じられた人物である。(講和条約、別約、議定書、追加休戦定約、御批准書)
洪鐘宇への取調べ
洪鐘宇に対する取調べは清国上海県令によって行われたが、報告書の別紙として添付された、その時の主だった問答などは次のとおりである。
(「同上」p33より、抜粋して現代語に。)
県令「何故に金玉均を殺したのか」
洪 「この事は種々事情があることで、元来金玉均は朝鮮にある時、多くの罪なき者を殺し、且つ国王を矯り、大いに国を乱したために、国王を多年の苦しみに陥れ、この賊がいる故に本国及び日本と支那の三国即ちアジアの国際上非常に害を与えた。自分は友人ではない。また、人を殺せば自ら罪となることも承知しているが、ただ国の為めに止むを得ずに殺したのである。」
県令「汝は朝鮮で在官の者か。」
洪 「それは今は答える必要はない。ただの外国遊歴者である。しかし自分の身分などを知りたいなら、我が朝鮮政府に照合すれば分かるだろう。朝鮮政府はよく自分を知っている。」
県令「金玉均はすでに国王も知る大罪人なれば、汝が殺したのは国王の命令によるものか。」
洪 「そうである。大阪において国王の命を受けた。」
県令「命を受けたのは何か証拠があるか。」
洪 「大阪で命を受けた。その命令は大阪にいる一人の者が所持するので今は持っていない。」
県令「いかなる命令なのか。」
洪 「それは私の忠心を以って大逆不道を殺してしまい、そして国王の苦しみを安んずるという命令である。なお殺すべき者は4人いる。1人は日本に、1人は上海に、また2人は米国にいる。しかし米国にいる者は米国籍に入っているのでどうにもすることは出来ない。」
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その後、県令は大越領事代理に対して、
県令「彼は自ら国王の命を受けたと言った。朝鮮政府に照会し、また上司の裁定を経なければ、この罪人を処分できない」
県令はこれにおいて死体を検視し、また言って問うのに、
県令「清国の例では死体は必ず受取人がいる。この死体はどうなのか。」
金玉均の従者の北原延次は受取りを請うた。
県令「同人(北原延次)に渡すのは好い。しかし旅中の者なので、ここの店主[東和洋行]の吉島に渡し、同人から受け取ることにすればよいだろう。」
よって吉島に諾否を問う。吉島は承諾したので、県令従者に、吉島と北原は連名の上で受取領書を書いて差出し、死体を受け取ることとした。
しかして北原はこの死体と共に日本へ向けて明後日に出航の西京丸で帰国する予定とした。
しかし県令から帰国を1週間延期するよう申し述べ、北原が承知しなかったので、県令は、明日の午前10時頃までに道台に稟請を経て返答する旨を述べて帰った。
(以上「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/1 明治27年1月31日から明治27年4月4日」p35より。)
大越上海総領事代理の見方
報告の中で大越総領事代理は、自分の推測を試みると、として以下のように述べている。
・ 李経方の招きを受けて上海に来たのは事実であろう。
・ 次に、李世植なる者が旅費を与えて上海に出発させ、そして洪鐘宇に手を下させる場を与えたのであろう。
・ 金玉均は当地で5千円の為替を受け取って■■に赴き、およそ4日間内に用事を済ませて、次の西京丸に乗り込んで本邦へ帰る積りであったのであろう。
・ 5千円の為替なるものは、李世植が金玉均を引き出す手段であって、李経方と李世植とが互いに相談して事を遂げたかどうか、その関係は明らかではないが、清国が以前から蛇蠍のごとく見ていた金氏を招き、且つ呉葆仁を同行させたなどに付いて観察すれば、或いはこれは、同穴の狐なのかもしれない。
・ 洪鐘宇はある人に向かい、呉もまた最初から我が目的を承知している、と語ったようである。
・ その他、呉の言動に於ても怪しむべきものがないわけではない。
・ 例え呉がこの計画を知らなかったとしても、清国公使館が呉を同行させたのは、金が清国における安全を表面上は保証し、金をして渡航の念を断行させるに至ったのではないかと、実に疑わないことが出来ない。
・ また、洪鐘宇が凶手を下したのは、朝鮮国王の命を受けてのことであると言っても、これは容易に信を措くことができない。政治上の目的をもってしたか、或いは金を殺して国王の寵遇を得て立身を図ったのか、それはまだ確かに知るところではない。
・ 同人が手を下さずに今日まで待ったのは、もし我が国で暗殺を行えば、忽ち捕らえられて我が国法によって処分されるからであり、或いは朝鮮へ引き渡される懸念もあると思ったからであろう。
・ そして白昼にもかかわらず凶行を遂げたのは、為替券のことが嘘であると露見するのを恐れていたところに、丁度従僕が二階から下りたことを好機として手を下したのであろう。
つまり大越総領事代理は、李鴻章が一枚噛んでいるかもしれない、との見方を示した。
状況証拠のみによる推測ではあるが、可能性としてはなくはない。李鴻章も金玉均の存在を随分気にしていたのは、かつて榎本との天津会談に於いても明らかである。なお、4月6日の報告によれば、呉葆仁はその後4月3日に天津に向ったようで、大越は、李鴻章らに詳細を報告するためであろう、と述べている。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/2 明治27年3月28日から明治27年4月17日」p27)
金玉均が暗殺されたことは日本人のみでなく、西洋人にも相当の衝撃だったようである。ここ東和洋行の建つ地は上海における外国人居留地内である。大越総領事代理は、外国人が驚いている様子を次のように記して報告の結びとしている。
最初に小官が貴電に接したときに、金の行動の極めて危険であると思った。在留外人なども金の凶報に接して大いに驚き、中には死体を指して、果して金玉均であろうか、身替りではないのか、と問う者があったほどである。まさしく金が今日までの保護を受けていたと信ずるところの本邦を離れて当地に来たことは、外人の容易に予想できないところで、金もまたこの危険を冒したのは、自ら深く恃むところがあってのことであろう。しかし彼が同行者の一人から殺害されることに至ったのは、実に小官においても意外である。
洪は同県会審衙門に於て予審が開かれるはずであるが、県令は更にその筋からの命令を待つべしとの訓令を受けているようで延期となった。或いは清国では洪を朝鮮に送らんとする考えではないか、また今後とも十分に注意し、報告を怠らないようにしたいと思っております。
明治27年3月30日
在上海
総領事代理 大越成徳
外務大臣 陸奥宗光殿
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金玉均は上海に遊びに行った、などと記述する著書やWebがあるが、全くそのようなものではなかった。尤も、金玉均は東和洋行の主人吉島徳三にはそう言ったらしい。金玉均は自分が暗殺者に付狙われていることはよく自覚しており、結構用心深かったことが金玉均関連の資料から窺うことが出来る。もとより本当に上海に遊びに行くなどという余裕があろうはずもない。
しかし、ついに李経方の策略に嵌ったということであろうか。李世植が600円の旅費を出したところに、更なる5千円もの大金を供与するという口約束に釣られてしまったということであろうか。
安定した収入なく異国で逃避行を続ける者の弱点を見事に突いた計略ではあったろう。
李鴻章の得意
この後4月4日、天津領事荒川巳次が李鴻章と対談を持つ機会を得ているが、当然、金玉均暗殺のことが話題となった。
(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/3 明治27年4月6日から明治27年4月23日」p10より、現代語に。原文傍点のあるところは太字とした。)
機密第参号
李鴻章伯と談話の件報告
松方外交官補が北京赴任の途中で天津に来着に付き、紹介のため本月(4月)4日午後、李鴻章伯を訪問いたしました。その時に談話中に去月28日に上海で金玉均が銃殺された件に関する談話は御参考になると思いますので、左に御報告します。
特に李伯の、犯人に対する決意と朝鮮国王の今後の処分についての所信は最も御参考になると信じ、本月5日午前取り敢えず別紙の通り電報を以て申し送りました。
李伯並びに訳官として候補道羅豊禄氏及び自分たち2名が着席の上、お互いに寒暖の挨拶を終わり、李伯は松方外交官補と暫く談話したる後、左のように質問を始めました。
李 「松方外交官補はどの航路を経て天津に来られたか。」
松方「上海を経由して来た。」
李 「それならば金玉均に関する出来事はよくご承知であろう。」
松方「いや、上海を出発した後に伝え聞いた。」
荒川「3月29日発刊の上海「メルキュリー」(新聞?)の記事によって金玉均という朝鮮人が同国人の洪鐘宇なる者に殺されたのを知った。貴殿はさぞかし同地から詳報に接せられたであろうが、この後その犯人の洪鐘宇をどう処分されようか。」
李 「朝鮮国へ送還するはずである。」
荒川「朝鮮国へ送還された上は、洪鐘宇はどう処分されるのか、貴殿の考えはいかに。」
李 「金玉均は、御承知のように先年に国王を欺き、暴動を起こし、多数の人民を斬殺した極悪人なので、朝鮮国王は、極悪人を殺した者は重く賞するであろうと信ずる。金は日本に滞在して9年余りの永きにおよぶが、その間の衣食住とも賤しからず、また日本官民中、金玉均を憐れむ者多く、頗る厚遇を受けたようである。しかし金は、朝鮮国を脱出して以来、朝鮮政府はもちろん人民中に1人として金と通信する者さえいないのに、彼の衣食住に費やす莫大の金員は誰が供与したのか。実に怪しむべし。特に今回、金が上海に渡航の時に5千円の為替券を所持していたと聞く。このような大金を誰から与えられたのか。益々疑いを深くするに至った。通常の資産家ではとても供与し難い巨額ではないか。」
荒川「金玉均が日本滞在中に上等の衣食住をしていたことなどは、小官は全く知らないが、上海新聞の記事によれば、帝都たる東京にはいなくて北海道や小笠原島などへ漂流していたとのことなれば、官民が金を厚遇していたというのは信を措き難い。はたして貴殿の言うように厚遇を受けていたとすれば、百事不自由な北海道や小笠原島のような辺鄙の土地に住いする理由はない。金玉均が日本に居住中の費用の出所は、別に疑うほどの件ではないだろう。何人といえども、困難に陥った人が憐憫を請うなら、外国人といえども、情けを知る者は決して見捨てるものではない。これは人間の天性である。ただ小官はその5千ドルの出所について大いに疑念を抱いている。日本人の中でそのような大金を供与する者は決していないと信ずる。」
李 「洪鐘宇が金玉均を刺そうと試みたのは度々であったが、日本政府の保護が厚いので、その機会を得なかったという。金のような反逆人をも保護することがあるのか。」
荒川「日本政府において殊更に金玉均を保護したとは甚だ意を得ないことである。何人を問わず、国内に居住する者の安寧を保護するのは政府の当然の務めである。」
李 「これまで度々、金玉均を朝鮮国へ送還されたいと日本政府へ申し込んでも、その都度拒絶された。榎本公使へも同様申し込んでも拒絶された。その理由は判然としない。」
荒川「そのような成り行きであったとは初めて承知した。その拒絶の理由は小官の知るところではないが、およそ国際上のことは公法に関わるものである。よって、罪人引渡し条約も日韓の間に締結しておらず、また国事犯に関しては欧米各国特例があって、むしろ干渉しないのを主とするようである。思うにそれらの理由によってであろう。金玉均を朝鮮国へ送還することは、日本駐在朝鮮公使が専ら取り計らうべきことであろう。」
李 「金玉均は貴国官吏中に交際が広いために、朝鮮公使の力が及ばないと聞く。」
荒川「洪鐘宇の供述中に、朝鮮国王は『金玉均は国法を犯した悪徒であるので、何人なりとも殺戮してよし』と宣言したと述べたように見える。」
李 「そうであろう。国王は金玉均に欺かれ清国の保護を脱し独立を謀ることを試みたが、遂に大いにその非であるを悟ったことにより、以って金玉均を嫌悪することが甚だしい。」
荒川「・・・(答えず)」
李 「聞くところによれば、貴国人にして金玉均と交際をした人には、大いに洪鐘宇を憎み、金玉均のために復讐を謀るだろう、と。」
荒川「そのような心配は断然ないだろう。」
李は笑って、
「竹添氏はどうか。」
荒川「竹添は文学を楽しむ人である。御心配無用。」
以上の問答を以って金玉均に関する件を終わり、李伯は話題を転じて、両陛下銀婚式御挙行当日の模様などを松方外交官補に質問し、その他雑談一時間余りで別れました。
以上御参考までに御報告します。
明治27年4月6日
天津一等領事荒川巳次
外務大臣陸奥宗光殿
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李鴻章の言として「国王は金玉均に欺かれ清国の保護を脱し独立を謀ることを試みたが」とあるのは興味深い。
明治17年朝鮮事変を、国王自らが独立を謀ったと見ている点である。思わず漏らした事実とするなら、竹添提出の事変始末書にある通り、朴金の行動に国王も積極的に加わっていたことになろう。
報告にある李鴻章の言を、李経方の計略成功と知りながらのものと見るかどうか。ま、洪鐘宇の行動を正当化する言のみならず、「(日本政府は)金のような反逆人をも保護することがあるのか。」「金玉均を朝鮮国へ送還されたいと日本政府へ申し込んでも、その都度拒絶された。・・・その理由は判然としない。」と、日本側にこそ非があるのであると強調する当たり、老獪である。
日本側はこれまで、送還も清国への引渡しも法的に出来ないことは、何度も説明してきている。知ってて聞くなよ、という感じ。
終に「竹添氏はどうか。」と皮肉交じりに10年も前の人物を持ち出すところは、してやったり、という余裕からか。
荒川がむっとしているところが、目に浮かぶような。
しかし、李鴻章率いる北洋艦隊も含めて、日本が清国軍を叩きのめすのは、もう目前なのであるが。
朝鮮政府の反応
さて、少し時間を戻して、金玉均一行が上海に向ったことを知った日本政府は、在京城特命全権公使大鳥圭介をして朝鮮政府にも通知させたのは3月25日であった。翌日26日、閔泳駿は安駉壽を公使館に派して、通知を深謝して更に、
「本件については政府内は非常な動揺にて、あるいは上海から帰国することがないだろうかと杞憂を懐く者あって、その船舶が三港(釜山、元山、仁川)に来泊する時には、その上陸人員に注意し、万一にも金氏が渡韓することがないかどうかを取り調べるよう貴殿から三港の領事へ手紙を出してもらいたく、また何船で出航したのかを問い合わせるように依頼すべしとのことで来館した。」と申し出た。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/2
明治27年3月28日から明治27年4月17日」p4)
大鳥は、憂慮に及ばずと説き、船名だけは問い合わせることにした。また袁世凱も何も知らないようであった。
その大鳥のところにも29日に大越総領事や陸奥外務大臣から、金玉均暗殺の電信があった。
よって大鳥は朝鮮政府にそのことを知らせたが、30日午前、国王の使者として外務参議高永喜が公使館に来て通知を深謝する意を述べ、更に、
「金氏の死亡は、兼ねて日朝両国間に横たわる阻害を一度に除去した都合となり、両国の今後は愈々親密の交際に至るだろう」と述べた。
また午後には閔泳駿自らが来館し、満面喜悦して高と同様のことを述べ、且つ、
「洪某は殺人の罪を免れられないことであるが、これは通常の凶徒とは異なることなので、苛酷に処しないように上海の日本領事にも含みおかれることを希望する」と述べた。
また、袁世凱も「今後、日韓両国は益々親睦に至るだろう」と述べた。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/2
明治27年3月28日から明治27年4月17日」p8)
この国と親密になるだの親睦になるだの、もうどうでもいい感じなんだが。
清国政府に交付
一方、上海での北原延次は東和洋行の主人と連名で金玉均の遺体を引き取ったのであるが、県令が30日の午前10時頃までに返事するとの約束を待った。しかし30日のその時を過ぎても県令からは何の音沙汰もなかった。
それで北原は、遺体を棺に収め、税関の手続も済ませ、愈々西京丸で持ち帰る用意を整えたが、大越総領事代理は、朝鮮政府が逆賊としている金玉均の遺体を日本へ持ち帰って公然と葬儀を挙行し、且つ墓所を設けて永久のものとするのは、甚だ好ましからざると思い、持ち帰らないように北原に勧告した。しかし北原は、すでに県令から下付されたものなのでと、それを承知しなかった。
ところが30日の午後6時頃になって県令から大越総領事代理に対して、
「屍体を持ち去るのは同官からは承諾し難い。袁世凱から何かの回答があるまで留め置くようにと領事から北原に命令されたい。」
と言ってきた。
しかし大越は、
「すでに受け取って税関も通過した上は、持ち去るのは北原の自由である。それでも清国官吏が裁判取調べ上、当地に留め置く必要があるとの事ならば、職権を以って北原に命令するだろうが、袁世凱の回答とか、県令の職権云々などというものならば、ここに至って一個の物件たる死体を留め置く理由にもならない。」
と県令に対しては言ったが、一方で北原に対しては、死体を今暫く留め置くように諭し、郵船会社支配人及び西京丸事務長などにも説明した。
北原は夜の10時頃には死体を運んで桟橋まで持って行ったが、県令から伝令をもって直接に故障を申し立てた。それで直ぐには船に積み込まずにあれこれする内に、当地の警察署から巡査が出張して来て、金玉均の死体と手紙類2、3枚を共に押収して去った。
それにより北原は遂にひとり西京丸で帰国した。
(以上4月1日の報告、「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/2 明治27年3月28日から明治27年4月17日」p13〜p15より。)
その後、洪鐘宇の身柄と金玉均の遺体は警察署から清国官吏に渡された。
大越は、英字新聞が事件について色々と書き立てていたにも関わらず、このことだけは報道しなかったと述べ、裏で英国領事の働きかけがあったのだろう、と推測し、
「そもそも当港居留地の制度である市会員は居留外人一般より選挙されるべきものであるが、その実、多くは英国人によって組織し、その他、警察長官以下大概英国人なるを以って、殆ど居留地の政務は英国人が掌握するところにより、又、英国領事の勢力は頗る盛大にして、市会及び警察長官は全く彼に左右される内情にある。よって今度の事もまた英領事の勧告に基づくものではないか、との疑念を他領事中に生じていることと推察される。」
と述べている。 (以上4月6日の報告、「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/2 明治27年3月28日から明治27年4月17日」p32〜p33。)
英国は英国で、朝鮮半島の治安はロシアの干渉を招きかねない不安定要因と見ていたから、日本が朝鮮に干渉しない今は、これを清国に交付して清国から朝鮮政府に返還させ、清国の朝鮮での影響力を強化しようということでもあったろうか。
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