日清戦争前夜の日本と朝鮮(18)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
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仁川港及韓人の家屋 Port of Chemulpo and Korean Houses. 仁川港日本居留地 Japanese
Settlement, Chemulpo. 「明治43年(1910)5月発行 東洋拓殖株式会社 事業概況」より。 |
在京城日本公使の病没
京城駐在の日本公使は近藤臨時代理公使から、後任として前サンフランシスコ日本国総領事であった陸軍歩兵少佐河北俊弼に替わり、明治24年(1891)2月9日に国王高宗に謁見して国書を奉呈した(朝鮮国駐箚弁理公使竹添進一郎解任ノ御国書同国大君主ヘ捧呈済ノ件)。おそらく朝鮮政府が米国人を政府顧問としたことから、それに相応する人事としたのであろう。
ところが河北俊弼は着任間もない3月に、現地に於て不幸にも病没した。
病名ははっきりしないが、亡骸は日本に帰国させることとなった。
帰国出棺の儀は本願寺僧侶を迎えて公使館にて行われ、国王からの特使内務協弁、また外務督弁、協弁など、各国からは公使、領事など、日本人居留民は総代が出席し、焼香の後、次いで、喪主林交際官試補、大石書記生、会送員、朝鮮国官員はじめ各国の官員、護送として井上海軍少佐はじめ士官、水兵、公館警部、巡査、などおよそ40名、清国巡査8名、朝鮮政府雇米国人陸軍教師率いる朝鮮兵300名など、総勢500余名の葬送列となり、朝鮮軍礼砲13発が鳴り響く中、仁川に向い、軍艦鳥海(二等砲艦、602t、全長47m、全幅8.2m、兵装8.2インチ砲
1門、4.7インチ砲 1門、乗員104人)にて日本に帰国した。(朝鮮国駐在弁理公使故河北俊弼柩護送ノ模様ニ関スル報告ノ件)
なお後任は、陸軍歩兵少佐勳四等梶山鼎介が弁理公使として赴任した。(朝鮮国駐箚弁理公使梶山鼎介御信任状案ノ件)
世子宮(純宗)王位代理の件
先の「この頃の朝清露関係」で記した、李鴻章が朝鮮王位を高宗から世子に譲らせようとした工作に関わる梶山公使からの報告である。
(「朝鮮国前兵使洪在義狼川県監ニ任セラレタル件并ニ国王殿下春川ノ行宮ニ移御ノ風説ニ関スル件」)
機密七号
前兵使洪在羲氏任狼川県監の件并国王殿下春川の行宮に移御の風説
親軍壮衛営正宮洪在羲氏は、去る壬午[明治十五年]の変乱に王妃を保護して難を忠清道忠州に避け、始終忠誠を以て国家に尽せりとは、閔氏一流の称美して止まざる所なりしが、尓後国王殿下及王妃の信任は日に重きを加え、別入侍[近侍]として、朝夕左右に奉侍するに至れり。故に、氏が這回の任官は定めて何等か意趣の存ずるなるべしとは、当国人の唱道する所たりしが、此頃探報者の報道に拠れば、
明年は国王殿下望五の齢[四十一歳]に達せられ在位又三十年を■せり。且つ李氏の治世五百年を過ぎて更に一歳を加うことなれば、是より李氏中興と称すべし。故に国王殿下は春川の行宮に移御せられ[狼川の隣邑]、世子宮をして王位を代理せしめ内外一般の官職を改むべしとの議ありて、其準備として先ず狼川県に新たに兵営を設けしめんとする者と知られたり。且つ此頃、春川、狼川の付近田園を購わるゝこと十万余金[王室に属す]。之れを以て他日移御の後、兵粮の資に充つると云えり。
然るに本件については、大院君は大に不満を抱き、去夜秘封書を国王に捧呈せりとの事あり。
又或る説に拠れば此頃其筋より閔泳翊氏の執事玄應澤[京城閔氏の留守宅に在るもの]を香港なる同氏の許に遣し、又卞元圭、李應俊の二氏を清国に派し、李中堂に就き共に熟議を遂げしめ、世子宮王位代理の件を成立しめんとの企てなる由。
因云う右は当国未来記に示す李氏朝鮮国運五百年云々の文字に拘泥したるものゝ如しと雖も、又た一方に於ては今王庶出の王子[趙氏出]茲歳十四歳に達し、頗る英敏にして世子宮に比すれば遥に優れりとは、一般の風聞なり。且つ大院君窃に重望を属するを以て、閔氏一族大に憂慮し、速に世子宮をして王位を代理せしめ、以て閔氏の威権を永久ならしめんとの希望に出たるものなる可しとは、一般の推測なり。
右及報告候也。
明治廿五年一月廿七日 在朝鮮弁理公使 梶山鼎介
外務大臣子爵榎本武揚殿
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高宗の嫡男である世子(李坧)は明治25年当時19歳(数え歳)。十分代理が勤まる年齢に達している。李鴻章は高宗の優柔さに見切りをつけて次の世代に期待し、閔一族も利害が合ったということだろう。
かつて井上馨は李鴻章への提案の中で(明治18年6月)、「拙者は前に朝鮮で国王と対面して親しくその風采を窺ったが、今年およそ三十四、五歳(当時数え年34才)と見える。この年齢で事を処するのにこのようであるなら、たとえ他から賢良なる人を送って諄々と説諭しても、善を進めて悪を去るということは出来ないことは知るべきである。」と高宗のことを辛辣且つ的確に評したが、李鴻章の思いも同じであったろう。
しかし、高宗の代理を純宗が勤めることはなかったようである。何より閔妃が承知すまい。
そもそも女にとって、子供よりも夫のほうが操縦しやすい場合がある(笑)。
朝鮮国内情困難の件
さて、明治25年(1892)に入っての朝鮮国内事情は、不穏なものとなりつつあった。外には、露骨な干渉を目論む清国、また急接近する露国、内には、いつ乱が起きてもおかしくない雰囲気となっていることなどを、朝鮮の勢道たる閔泳駿、後に李完用らも含む独立協会の議長となる人物、安駧(駉?)壽らは、在京城弁理公使梶山鼎介に次のように密談して語っている。
(「朝鮮国内情困難ノ趣閔泳駿並安#m44757#寿両氏密話ノ件」より現代語、会話文に。)
機密第三十一号
閔泳駿并安駧壽両氏の密話
内務督弁兼宜恵堂上閔泳駿は、当今の勢道として枢要の地位にあることは以前に御報告しましたが、同氏は前から拙官に面会したいとの思いを懐いているとのことで、本年旧正月後に、三回面会し、最後に彼から人を避けて密話し、大院君と金玉均のことに話が及びました。
彼は、大院君の挙動に大変に恐懼を懐いている様子で言うのに、
閔 「近来、世上には、金玉均らが日本から壮士を引き連れて朝鮮に来る企てをしているとか、又、大院君は事を挙げんとしているとか、種々の説があるが、もとより信ずるには足らない。たとえ金玉均が渡韓したからとて大事を引き起こすには至らないだろう。ただ恐るべきは、当国の内乱に乗じて、外国すなわち露国或いは清国の干渉を受けることである。『もしひとたび何等の事変が起こるときは、我国から兵を出して保護するので、貴国は決して心配するに及ばない。』との言は、往々にして露国使節から聞くところなので、露国は機会を得てその言を実行するに相違ない。また、支那などはもとより機に乗じて出兵干渉を逞しくせんとする積りなので、これまた傍観できない。それでなくとも我が国は、自立が難しい貧弱さなのに、この上それらの大国が踏み込んだ時には、どうすることもできない事態に至るだろう。これは実に我が国の大患である。当国の形勢は目下ご覧の通りの状態で、このままでは済まない事は、拙者もよく承知しているのであるが、果たして如何なる針路を取り、如何なる方法を立てて、この大勢を挽回すべきかに至っては、拙者共には全くその目的は立たず、実に五里霧中に彷徨する有様である。」
云々とのことでありました。
また数日前に安駧壽氏が来館の時に言うのに、
安 「この頃、竹山から帰って京城の景況を見るに、益々非運に傾こうとしている事を悟った。近頃の人心は何となく騒がしく、人々は危惧を抱き、子供らに至るまで、何か事変あらんことを思うようになっている。閔泳駿氏などもこのような形勢を知らないのではない。また事変の起きた時は最後の時と覚悟しておりながら、どうにも手を下す術が無いことを困っている。実に我が国の形勢は、憂うべき極点に達している。」
と、慨歎しました。
これらは、目下当国の形勢について頗る的を得たものと考えられます。また、閔泳駿氏の談は或いは、こちらの心中を推しはかっての言のようにも見えましょうが、その談話の前後の続き、また同氏の様子や語気から見ても、全く同氏の真情から出たものと信じますので、ご参考までに報告します。なお、遠からず内に同氏が来訪するはずですので、その際に談話の次第は逐って明らかになることと思います。
明治二十五年三月三十一日
弁理公使 梶山鼎介
外務大臣子爵榎本武揚殿
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かつて花房義質は「勢道」について、「国王の信任を得、国家の事内外大小となく其の意を決すること多く、威権、宰相の上にあり。此れの如き人を勢道と言う。勢道とは朝鮮語にて、全権また当権の意なり。(花房弁理公使ヨリ閔永翊王命ヲ奉シ東行ノ旨報告)」と言っているのであるが、つまりは朝鮮国の実力者としてトップの人間ということであろう。そのような人が、内政外交ともに「もうどうしてよいか分らん」と嘆いているのである。しかし、することは山ほどあると思うが、それが分らないらしい。まあ、正直な分だけ、今日の韓国で北東アジアのバランサーとならんなどと、それこそ訳が分らないことを言う人よりはまだましか。
それでも、再び大院君をめぐっての乱を未然に防ぐためでもあろう。以下のように、残党狩りが行われている。
大院君の乱の残党処刑
明治25年5月、かつて明治15年朝鮮事変に於て反乱に加わった兵士の残党が朝鮮政府によって逮捕され、そのまま監獄に繋ぎとめられていたが、翌年2月になって斬刑に処せられている。
(「明治23年1月27日から明治28年5月23日」p39より、()は筆者。)
壬午変乱の残党殺戮せらる
壬午の残党[明治十五年の変乱]、京城を距る一里なる往十里に潜伏せるもの、客歳(明治25年)五月中、捕盗庁の手に捕獲せられたる事実は、其当時取り敢えず報道及置き候処[通常報告第廿一号廿五年五月廿三日付参観]其後、捕盗庁の獄舎に禁囚せられ、久しく音沙汰なかりしが、陰暦十二月廿三日[我二月八日]、国王殿下は於之、特に右議政鄭範朝氏を審問長と為し、義禁府に於て鞫訊廷を開き、審案の末、首謀者八名、并牽連者数名は、孰れも死刑を宣告せられ、即ち陰暦十二月廿五日、西小門外の路頭に於て各斬に処し、梟首にせられたり。右犯徒は変乱の当時、訓練院所属兵士に服役しながら、乱徒に和し、王宮内に闖入し中宮殿下(閔妃)に不敬を加えたるものなりと云う。其首謀者八名の姓名は如左。(以下略)
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また、おそらくはそのことと関連してであろう、以下のように大院君爆殺未遂事件なるものが起こっている。
大院君爆殺未遂事件
明治25年(1892)6月17日午前2時頃、大院君邸宅で床下に仕掛けられた爆弾が爆発するという事件があった。
以下、在京城弁理公使梶山鼎介による報告である。
(「明治23年1月27日から明治28年5月23日」p26より現代語に。()は筆者。)
在京城帝国公使機密報告第六号
大院君邸内に於て火薬爆発の件
大院君の邸宅の客間の床下に火薬が仕掛けられて爆発したということを知り、一昨日の二十一日に国分書記生を同邸宅に派遣して、見舞いと現状視察をさせましたことを報告します。
本月十七日午前二時過ぎ、同邸宅の客間床下の温突(オンドル)で轟音と共に震動があり、その時ちょうどそこにいた執事らは、この音に目を覚まして慌てて屋外に出たところ、この時硝煙が温突から噴出するのを見、それでよく調べると、客間とその寝台の床下二ヶ所の温突の火口に火薬の箱が仕掛けられていたことが分った。
その内の客間の分が爆発したが、火力は温突の火道から煙突口に抜けたために床下を破壊したに止まり、爆発力は床上の室内には及ばなかった。また、寝台[大院君が使用]の床下のものは、幸にも導火線の火が途中で消えたために、ついに爆発するまでには至らなかったことが明らかになった。
これにおいて、何者かが大院君を害そうとしてこの凶行に出たことが分った。
幸にも大院君の身上には何等の危難も及ばなかったことから、一同は先ずは安堵し、また凶行者の手がかりは今の所全くないとのことである。
火薬を装置した器物は、およそ一尺四方で深さ六寸ばかりの木製の箱であり、幾重にも紙張りをしており、その側面に導火口があって火縄が施してあり、内には朝鮮製の火薬をおよそ五六斤充填したものであったと言う。
大院君の話によれば、
「余が国事に関しなくなって殆ど十年になる。かつて民の怨みを買ったことはない。それなのにどうしたことか余に危害を加えんとする兇徒がいるとは実に世上の人心計り難いものがあると嘆息する外はない。また余はかつてあの族[閔氏を言うものか]を冷遇したことはない。昔、閔承鎬父子の焼死[閔王妃の叔父で、父子は一室で焼死した。]を以て暗に余を疑い、怨みを構えるものがあったということであるが、これは甚だ謂われのないことである。当時は余は京城にはおらず、旅行中であって全くそのような事はなかったのである。とかく余の存命は、ある派の忌み嫌うところなので、何時どのような変事があるかも計り難い。云々」
とのことで、何となくこの事変について閔氏を疑う語気があったように思われる。
また、この事変後は今日まで、左右捕盗庁が犯人を捕獲しようとする様子は無く、また国王並びに閔家から一名の見舞いの者が来る等のこともなく、全く冷淡なものでした。
右について当方から国分書記生をもって見舞いを申し入れさせましたが、同君は大いに喜悦され、名刺を贈って厚く謝意を表せられました。
右報告します。
明治二十五年六月二十三日
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報告を受けた日本政府は、国王の実父でもあることから、幸にして危害を免れられた事を賀する旨、日本政府の名義で梶山公使から大院君に言上させ、併せて朝鮮政府外務督弁までこれを申し入れるつもりであったが、梶山公使の続報によれば、朝鮮政府はこれを秘密にしたいらしく、犯人を捜査する様子もなく、また、他国の公使らも至って無関心に見え、書記生を袁世凱に遣って意見を聞いたが、袁世凱も事件の事は承知しているが、何分にも朝鮮政府が秘密にしている間は、自分から公然と見舞いには行き難いとのことであった。
また、梶山公使が在京城米国公使館を訪ねた時に、偶々話がこの事件のことに及ぶと、アルレン書記官は、朝鮮政府筋の者から、もしこのことが露呈して新聞紙上に掲載されることがあったら、事実無根であるとの訂正文を掲げてもらいたい旨、依頼があったと話した。
巷の風説としては、大院君の陰謀であって乱を作るための故意である、との話や、或いは閔氏が下手人なので、それを曖昧にする為に、大院君が仕組んだと吹聴するのである、とか、或いは、閔氏一派以外に、国王殿下の実父である大院君に誰がこのようなことをする野心を抱く者があろうか、などがあった。
官吏や貴族連中は、とにかくこの事件のことには触れたがらず、たまたま話が及んでも、鬼神の所為であろう、天災であろう、と言って話を曖昧にするばかりで、却って奇怪なことである、と梶山公使は報告している。
梶山公使は、国王実父を爆殺せんとした重大事件であるのに、人々の話題にもならず京城は平穏であり、犯人捜査も、国王からの見舞いも無いのは、政府内で秘密にしていて国王には奏聞していないからだろう、と報告している。
しかし、肝心の大院君の態度もまた次のように不思議なものであった。
「大院君の挙動に注目するに、君には平生の所業にも似合わせられず、自ら国王殿下に迫って犯罪を糾明せられんことを言上遊ばされたる事も無之、唯空しく涙を呑で慷慨せらるゝのみに有之。(「同上」p34)」
大院君が「唯空しく涙を呑で慷慨せらるゝのみ」とは、まずあり得ないことである。そんな性格の人ではないのだから。
また、元山の宮本領事代理も、当地の官吏でこれを知る者がなく、入港した露国汽船が運んできた新聞紙によって初めて納得するありさまであった、と報告している。
その後、7月15日になって在清国天津の領事館副領事荒川巳次から、次のような報告がもたらされた。
「・・・本月八日、当港駐在朝鮮事務理事官代理、邊錫運氏来館の節、過般京城大院君邸内に於て爆裂薬発見の事、且大院君は国王殿下の内意に反し、公然其隠謀者を追捕するに及ばざる旨申張られ候由なれば、朝鮮政府に於ても到底事を曖昧に付し去るならん云々聞及申候。(「同上」p38)」
大院君と閔一族との確執と抗争の詳細は杳として知れないものがある。結局真相は闇の中であったが、この時期、乱を生じさせることは、ただに政府内の権力争いに止まらず、清露両国の出兵につながることであるから、大院君も自制したのかもしれない。
しかし梶山鼎介公使の報告を通して読むと、彼は朝鮮人というものを余り知らないらしく、この「奇怪な事件」に振り回されている姿が見えるのみである。
防穀令賠償問題始末
朝鮮の農作物は農作技術も未熟であり、積極的に肥料を施すこともなかったことから、その産出は乏しく、為に飢饉は毎年の恒例であった。(道路に糞尿を撒くより下肥にすればよいのに、それをする朝鮮人はいなかったようである。)
もちろん豊凶は各地方でそれぞれ違ってはいたが、冬から春にかけて米を食べ尽くし、麦の収穫に至らずに飢饉となる年も少なくなかった。
米の貿易に関しては、凶作の年には禁輸することも出来、その際は事前に日朝両商民に知らせることとなっていた。すなわち、「朝鮮国ニ於テ日本人民貿易ノ規則」の第三十七款に、「若し朝鮮国水旱或は兵擾等の事故あり、境内欠食を致すを恐れ、朝鮮政府暫く米糧の輸出を禁ぜんと欲せば、須く其期に先たづ1ヶ月前に於て地方官より日本領事官に照知すべし。然るときは予め其期を在各港の日本商民に転示し、一体遵守せしむべし。・・・(「同国ニ於テ日本人民貿易規則並海関税目決定ノ件」p18)」にある通りである。
しかし明治22年は全体的に稀に見る大豊作の年であったにも関わらず、咸鏡道監司が当道の不作を名目として防穀令を諸州に布き、それも1ヶ月前の事前通知の約束を守らずにいきなり禁輸したものだから、農民に前貸しや手付金を払っていた商民が莫大の損失を被ることとなった。
以下その事に関する事件経緯である。
(「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」p38)
元山防穀令の事[明治二十二年より同二十六年に至る]
明治廿二年は、朝鮮国三十年来稀有の豊年にして、当時農民等の歓喜せしことは普く人の知悉する所なるにも拘わらず、同年九月咸鏡道監司趙秉式は、該道の凶歉を名とし、諸州に防穀令を布きしは、条約に違背し制規を破毀したる行為たるを以て、近藤代理公使は朝鮮政府に向て詰難せしも言を曖昧模糊に付し、翌二十三年四月二十二日、漸く此不法の禁令を解くに至る。
此不法なる防穀令実行中、即ち明治二十二年九月より翌二十三年四月に至る殆ど八箇月の間に於て、元山在留の我商民は、直接間接に莫大の損失を被りしを以て状を具し、損害賠償要求の願書を二十三年十月十三日、在京城我公使館に提出せり。実に其金額は拾四万千六百弐拾六円九拾五銭七厘なり。
公使は直に之に意見を付して之を外務大臣に具申し、二十四年一月下旬、被害者も亦総代委員梶山、田中等を東上せしめ、外務省に就て請願する所あり。由て我政府は二月下旬、特に取調委員を元山に派遣し実際を審査せしめしに、其の結果として現出したる元金額は九万千七百八拾九円七拾四銭四厘にして、之に利子を付加したるものは相応の賠償額と是認せざるを得ず。
二十四年九月六日、帝国政府は朝鮮政府に対し、賠償要求談判の訓令を梶山弁理公使に与え、同公使は同年十二月初旬を以て之を開談せり。是を本件談判の開始とす。
而して当時京城に出張したる被害者総代委員は更に同年十一月[談判開始の前月]迄は、利子を加算せられんことを我公使に請求し、是に於て元利総計拾四万千四百四拾弐円弐拾四銭七厘と成る。是れ今回彼政府に要求する賠償金の総額なり。
然るに該政府は爾来種々の口実を設けて其責任を免れんことを謀り、或は事実精確を欠くを以て両国官吏の立会検査を要求すと云い、到底速決の望みなかりしも、右再審査の如きも其結果、或は己に利ならざるのみならず却て我政府の感情を害し、利害相償わざらんことを慮り、同年六月俄に此立会審査の企をも停止し、尚お数回の談判を重ねたる末同年八月十一日、閔督弁は国情の困弊を訴えて六万弐千四百円を以て、遂に此の事局を結ばんことを我公使に確答し来れり。
然るに損害は人民の損害にして、我政府の擅まゝに増減すべきものにあらざるを以て、先ず被害者の承諾を促がさゞるを得ざる等の事情ありて、其後、原通商局長を朝鮮に遣し、尚お梶山公使に参列して談判を重ねしも亦要領を得ず。次で梶山公使の帰朝、大石公使の新任を見るに至れり。
大石弁理公使は二十六年一月下旬、京城に赴任の後、数回強硬の談判を重ね、我政府も亦他に多少斡旋せし所あり。遂に同年五月十九日、黄海道防穀損害要償等数件を併せ、都合賠償金拾壱万円を以て事局を結ぶことを約諾し、是に至りて前後四年の懸案に係りし一大要償事件を無事に結了す。
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ところで、なぜに豊作の年に防穀令を発していたかであるが、後述する明治27年の6月の在京城領事内田定槌の「対韓政策に関し意見上申」により理解できた。つまり、地方官は防穀令を布き、相場が下落するのを待って多額の穀物を買占め、次に急に禁令を解いて価格が上がってから売るという操作をしていたのである。なるほど豊年であるからこそ防穀令を布いていたはずである。しかし、農家に前貸金や手付金を払っていた日本の商人はたまったものではない。ついに賠償問題にまでなったのであった。
また現代では、当時の日本が米穀を朝鮮から輸入していたことすら問題視して、日本のせいで当時の米価が高騰しただの、日本が「収奪」しただのもの申す人があるようであるが、当時朝鮮の作物の輸出で一番多いものは、ソラマメ(蚕豆・空豆)であった。また凶作の年には日本米を輸入している。
明治20年度の朝鮮からの輸出は、明23年7月出版の「内閣統計局 海外各国要覧」によれば、
ソラマメ・・・335,000ドル
牛皮・・・・・300,000ドル
米・・・・・・・・90,000ドル
海参(干しナマコ)10,000ドル
乾魚、塩魚・・・11,000ドル
その他・・・・・59,000ドル
貴金属・・・・1,388,000ドル
総計・・・・・2,193,000ドル
また輸入は、
綿布類・・・・1,884,000ドル
薬種、顔料・・・186,000ドル
絹・・・・・・・167,000ドル
金属、金属器、機械・・166,000ドル
毛布類・・・・47,000ドル
雑貨・・・・365,000ドル
総計・・・2,815,000ドル
とある。
(綿布類が何故にこれほど多額なのかと言えば、例の西洋高級木綿が人気だったからである。)
朝鮮の農作物生産能力は高くはない。その理由は、
「農業上、国中山岳多く、耕植に適すべき所少なし。沿海豊穣の地に産する物は米、黍、麻、煙草及び諸種の果実なりとす。(同上)」
とある。
また、上記農海産物輸出合計805,000ドルに対して、金などの貴金属類の輸出が1,388,000ドルであったということは、この頃の朝鮮の主要産物は貴金属ということになる。
朝鮮金鉱山の実態
朝鮮の貴金属坑山は、明治18年頃から日本人にもその実態が漸く明らかになりつつあった。金坑山では砂金などを産出していたが、目に見える金塊を手拾いするのみで、灰吹き法などで精錬する技術はなかった。
明治20年4月に、元山の副領事渡邉修が咸鏡道永興地方にある8ヶ所ほどの金坑山を調査しているが、そこでは、採掘に従事する坑夫への食料は、輸入した日本米があてられていた。
その理由は「炊くと量が増える」からであった(笑)。日本米としては頗る下等なもので、多くは古米であった。
ついでながら、以下にその時の報告を記す。
(「朝鮮坑山関係雑件 咸鏡道ノ部 1.永興附近金坑」p42より、抜粋して要旨を現代語に。)
報第廿四号
朝鮮国咸鏡道永興地方金坑の実況
永興管下の各金坑の実況の視察のために、先ごろ同地方へ出張し、金坡院、老岩、廣城、根皮、
陵洞、石金山[松洞]、開松洞、寶幕の八ヶ所を巡覧した。
一昨年(明治18年)頃には、永興管下には全部で二十一ヶ所の金坑があったが、その後種々の興廃があって、現在採掘中のものは十六ヶ所であり、その状況も他とあまり異ならず、時間もないので、格別盛んでもない八ヶ所をのぞいた八ヶ所を実見した。
八ヶ所中で最も盛んで広いのは金坡院であり、陵洞、開松洞、寶幕等がこれに次ぐ。金坡院、陵洞の二ヶ所には、金坑収税事務所を設立して別将を置いている。
石金山以外は、山間の渓谷、田圃の中、道路にあり、金山とは言えない。朝鮮人は金を採掘する所を「金店」と呼ぶ。(中略)
○地質
地質については、今回は一人の鉱山学士を同行したので、元山から金坡院に至る間の地質、及び各金坑の地質鉱脈等に関し、同学士の説を以下に掲げる。
元山地方の地質は、板状花崗岩[長石、石英、雲母より成る]にて、甚だ雲母に富み、殆ど板状雲母岩と言って異ならない所が多い。
元山から永興に通ずるの道路により、東北に進むに随って、岩質はいよいよ雲母に富み、およそ三里に至って殆どその極点に達するもののようで、それからは漸次雲母量は減少して、元山からおよそ七里ばかりの泥峴の近傍になると辛うじて雲母が認められる程度となり、ついには黝色石灰岩に変じた。この石灰岩が道路に沿って露出すること凡そ十里である。(以下略) |
○採掘の方法
砂金採掘の方法の概況を述べれば、韓鋤その他の鉄具や笊を用いて、渓間に穴を穿ち、坑夫の経験によって、最も金分に富むと思う地層に至れば、その砂礫を堀り上げつつ、渓谷に沿って掘り進むのを常としている。
鉱穴の深さは、三尺(約90センチ)から十五尺(約4.5メートル)ばかりで、その巾は五尺(約1.5メートル)から二十尺(約6メートル)内外である。その形は方形もあれば円形もあり、楕円のものもあって様々である。(中略)それらが隣り合って並び、その周囲には砂礫が山形に堆積して凸凹甚だしく、ために歩くことが出来ないほどである。近傍には、深さ一尺ばかり、長さ三四尺の一水流を設け、金砂を洗う所としている。堀り上げた砂礫を水中に投じて撹拌し、大きな石は取り除き、砂礫中の軽い部分を下流に流し、金分を含む重い部分を沈殿させる。これを木製の盆を用いて選り分け砂金を得る。
金坡院に於て、一坑夫が土砂を洗うときに砂金とともに砂朱(硫化水銀)も得たが、これは土砂とともに放棄しているのを見た。それで、同所別将に、「常に砂朱は捨てるのか」と尋ねると、そうだと言う。それで、砂朱も価値あるものであることを話したことであった。
思うに、その他の所でも同様であろう。とにかく、金を採る方法が極めて粗略無造作であって、何故にこのような方法で砂金を採るのか、理解に苦しむ。
○借区及び税金
金坡院等に於て採金の地は官有地もあり民間地もある。現在の場所はそれが殆ど半々であると言う。それで官有地は借区税を要しないが、民有地はその地主に熟談して借地料を支払う。一定の基準はないが、例えばここに五千坪の地を借地料を以て一年間借るとして、その中の百坪または千坪の地を掘って、予算どおりの砂金の産出があれば、五千坪の借区料を支払うが、もし金を得ないときには、掘った所だけの借地料を払い、五千坪の契約は取り消す仕組みであるという。
また政府が取り立てる税は、営業税であり、坑夫の頭数に課するものである。故に、税額の多寡は、地の広さに関係なく、人の多少にある。
その収税の順序は、初め、採金をしようとする者は、坑夫を連れて収税事務所に行き、坑夫の数を届けて採金の許可を得る。事務所ではこれを簿冊に登録する。この坑夫を連れてくる者を徳太[坑夫の親方]と言う。
徳太から毎月登録人員に応じて税金を税監に納め、税監から都税監[税監長]に付し、都税監はこれを別将に渡し、別将はこれを纏めて都監官[今は永興府伯が兼務している]に納付し、都監官から政府に上納する方法である。
坑夫一人の税金は一ヶ月砂金九分であり、十五日毎に半額を徳太から納める。この九分の内から一分二厘を金坑に関わる諸役員の給料その他の雑費に充てる。残り七分八厘を政府に納めると言う。しかし税額は坑地によって違うとも言い、産金によって変わるとも言い、話が合わないので、どうも税額については信用できない話である。
要するに、坑夫の人数に応じた税なので、徳太はなるべく坑夫の人数を偽り、たとえば五十人の坑夫を四十五人あるいは四十人と届け出て、税金を逃れんとする弊があるとのことである。
また、開掘を始めたが砂金を得られずに、納税に差し支えるので、徳太は坑夫を置いて逃亡する者もあり、それで廃坑となるものも少なくなく、税金も思うようには集まらないという。
○石金山
陵洞の南の松洞と称する所があり、他の金坑に比べれば、はじめて金山と称してよいものがある。しかし、採掘法の粗略拙劣なのは他と同じで、坑道なども最も深くても百尋(150メートル)を出ない。新旧二十ほどの坑道があるが、現に採掘しているのは八坑であり、残りは廃坑である。(以下略)
○坑夫
近頃は金坑は全体として盛んではなく、鉱夫の数もはっきりしない。永興十六ヶ所で一万人位はあると言う者もあり、五六千人だろうと言う者もある。
金坡院別将の話によれば、同人の管轄は三ヶ所で、徳太は三十四五人、坑夫は三百四五十人、(中略)、総計すれば永興金坑十六ヶ所では四千人余りとなると思われる。
昨年の盛んなる時は数万人もあったとのことで、何故にこれほど減少したのかを理由を問うと、
「坑夫の集まるのは、晩春から初秋までであって、冬季は寒気のために採掘困難により減少し、昨年の夏は悪疫が流行したために坑夫は逃げ散り、悪疫の流行が止むと同時に冬季となって、今日の衰態となった。しかしこれから増加するだろう。しかし昨年のような盛んとはならないだろう。なぜなら昨年から平安道と江原道地方で新金坑の開掘を始めたので、永興よりも割合のよい稼ぎもあろうかと思うだろうからである。もともと坑夫は一つの専門職業のようなもので、新金坑や産出が多い金坑があると聞けば、飄々として去って、そこに赴くものであって、多くは家もなく、妻子もいない無頼の徒であり、国中の各金坑を徘徊するものなので、平安、江原の地方で永興ほどの稼ぎがないならまた永興に戻ってくるだろう。」
と言う。
これは或いはそうかもしれない。しかし、昨年に盛んだったのは、凶年が続いた為に糊口に窮する者が多かったので、一時は坑夫となったものがあることもいくらか原因となったものと思われる。
坑夫の衣食その他の必要品は、引き受けた徳太から前貸しするもので、坑夫は採った金を以て月々勘定計算する方法をとっている。徳太が坑夫から受け取る砂金の値は、金坡院に於ては十匁につき、上等は十二貫文、下等は七八貫文ぐらいとのこと。目下、元山で一貫文は我が国の一円六十銭内外である。即ち砂金が十二貫文なら、我が国紙幣では九円二十銭となる。金純度が八十五パーセントとすれば、純金値段は百目につき二百二十五円八十銭に当たる。今の元山市場での相場は、純金百目につき三百十六七円内外なので、九十円余りの差額となる。
坑夫の食料は主に白米のみであって、中に資力の乏しい徳太では、大豆、小豆、粟、稗などの雑穀を食料に充てる場合もあるが稀である。
菜は漬物をも与えず、唯塩のみである。故に肉や野菜を欲する者は自弁となると言う。
また事務所からは坑中では飲酒を禁じているので、飲酒したいものは五日ごとに開く近傍の市場に行って飲酒するという。
○雑記
永興の金坑は、古から名のある金坑であるが、何百年前に誰が発見して開いたかを聞いたが、そのような記録も史冊もなく、知るに由なし。しかし昔は金坑を唐穴または唐窟と異称することがあり、伝えでは、昔、支那の唐代の世にあって唐人が朝鮮に来て穴を掘って金を得たのでこの名があるという。この他にその由来を詳らかにするものはないという。もとよりこれを深く信ずるに足りないものであるが、参考に供す。
地質で述べたように、元山から七里の所で石灰岩質に変じ、行くこと一キロ余りで石灰岩は道路に散乱する。試しにその石灰岩を携えてきた希塩酸を注ぐと忽ち沸騰泡を生じた。
石灰岩を焼いて石灰を製するなら、建築用に肥料用に使用できること大である。同行の工学士も何度もこのことを指摘していた。
しかし当国人は、牡蠣殻を焼いて灰を得ることは知っていても、石灰を製することを知らない。
農耕作の方法も最も粗略で、肥料を用いる方法を知らない有様なので、とてもそれが出来る段階ではない。まして建築用にすることなどがどうして出来ようか。(以下略)
○将来の見込み
今は金坑に関係する者、また採金する者で、鉱山学などはもとより夢にでも知る者はいないので、どのような地質が最も金を含むか又は鉱脈はどの方向に向いているか、など更に知る者はいない。ただ無学無識の人足頭のような者が、殆ど投機の心で、ここを掘れば金が出るだろう、あそこを開けば金が得られるだろう、ぐらいの考えで以て、妄りに採掘に着手し、そしてその方法も極めて粗略無造作なものなので、これを適当な方法で採掘し、選別法を改良すれば、その産出は頗る多いであろう。
或いは朝鮮人が金を選り分けた後に放棄する砂礫中にも尚幾分かの金を含んでいるようである。
同行の鉱山学士は次のように言う。
予がみる所では、永興地方の産金地は広大無辺なもので、日本に於ても見ないものである。しかしその採掘法また選別法の粗略無造作なのも、またかつて見ないものである。
韓人が価値ないものとして捨てている砂礫を再び選別すれば、日本古来の方法(灰吹法)でも相応の利益があるだろう。まして欧米諸国において行われる巧妙至便なる方法(青化法か)を適用して是を採収するならなお更である。また韓人が採掘する地層は深さが僅かなものであり、現在日本の炭坑で大いに行われているボーリング機械を用いるのがよいし、また石金山などでは火薬による採掘を用いても大いにその成果を一変するだろう。
要するに、やがてこの地に於いては、今日の土人が夢にも思わなかった所で大砂金地を生じ、或いはいくらかの新金山を見出す望みがある。 |
○永興金坑と元山港の輸入米との関係。
永興金坑の盛衰は、当港輸入米の販路に直接関係を有するもので、昨年は巨多の日本国米の輸入があったのは、凶作が続いたこともあるが、主に永興金坑が盛んであることと関係している。
昨年は、当地方ではかなりの作柄であったのと、坑夫の集まりが少ないので今は輸入は少なく、昨年冬から今年春にかけて、我が国商民の中には売れ残りの米を今年まで持ち越して貯蔵する者もある。しかしながら、咸鏡道は元来米穀が乏しい土地なので、永興各金坑で坑夫に供する朝鮮米は殆ど尽きたので、今月頃からは輸入米に頼らざるを得ないと言える。これは至る所で注意深く聞き質したが、どこでも同様の答えなので、やはり朝鮮米は尽きたのだろう。
今の少数の坑夫の時においてすらこのようならば、この後、坑夫が増加するに於ては米の商売も幾分か望みがあるだろう。
また、日本米の評判を聞くのに、品質は朝鮮米に劣るが、炊いた時に朝鮮米よりも量の増え方が多いので、坑夫の食料には適当であると言う。当港の輸入する日本米は頗る下等米のものであるが、昨年から売っているものの多くは古米なので、このような評判となっていると思われる。
右報告いたします。
明治二十年四月二十七日
在朝鮮元山副領事 渡邉修
外務次官青木周蔵殿
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上記の元山副領事と鉱山学士の報告によれば、どうやら朝鮮には灰吹き方など効率的な金の採集精錬方法がなかったようである。日本に天文年間からある金銀精錬の法としての灰吹方は、朝鮮から伝わったという説があるが、疑問である。
例え、朝鮮はすでにこの頃は禿山だらけで、木炭を作る材木がなかったとしても、オンドルに使う木材はあるのだから、貴金属を大量に生む灰吹方を利用しないほうが不思議である。もしそれを知っていたのなら。
或いはまたも劣化して忘却したか?
ま、朝鮮が距離的に近い国だからといって、何でもかでもそこから日本に伝わったと短絡思考するのは如何なものか。
朝鮮で金製品などが盛んであったとは聞かないので、恐らく産出した金は製品化せずにそのまま売買の対象としたのだろう。
また、鉄鉱山などに関しては詳細は不明であるが、鉄製品としての刀剣類などは日本から輸入していたようである。
(騎兵刀製作の件)
壱第一九七号
騎馬刀製作之件 朝鮮公使館 明治廿六年二月二日
御回答案
一 騎兵付属品共参百振製作之義に付、御照会之趣、了承右製作方在京砲兵工廠へ達置候条委細之義は同工廠へ直ちに御照会相成度、此段及御回答候也
送甲第二九八号
東京砲兵工廠へ御達案
一 騎馬刀付属品共 三〇〇振
右其工廠に於て製作之義、朝鮮国欽差大臣より依頼有之、承諾候条製作方取計うべし。
但詳細之義は同国公使館主任者へ打合すべし。
送乙第一三六号
図面及代価受領の件等は砲兵事務課長より。
工廠提理より詳細打合済之事。
(以下、在日本朝鮮公使館欽差大臣權在衡から大山巌陸軍大臣宛ての依頼書。略)
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淹滞する公務、累積する未決事案
ところで、上記の防穀令賠償問題に止まらず、この頃の日朝間には様々な未解決事案が処理も捗らずに累積している。その原因たるや、朝鮮官吏の公務に対する怠慢と、己が私腹を肥やすことに忙しいからであった。
以下、在釜山総領事室田義之の明治26年8月26日の報告である。
(「日韓両国人民交渉未決事件処分方朝鮮政府ヘ督促一件」より抜粋して現代語に、括弧は筆者。)
機密第三十一号
李鎬性氏が東莱府使兼釜山監理として当地へ着任したのは、去る明治二十四年八月中でありました。以来同氏は、人民を虐げ、その膏血を絞って自己の財布を充たすことを唯一の目的とし、公務などは常にいいかげんにして顧みないので、一方に於いては人民の憎しみを受け、一方に於いては公務の渋滞を来たし、日朝交渉の案件も落着に至ったのは極めて稀であって、現に一昨年の二十四年来、未決のものは左の通りでありました。
即ち、
二十四年分
三十九件 内、条約違犯二件、債案三十七件
二十五年分
四十二件 内、条約違犯九件、債案三十三件
二十六年分
四十四件 内、条約違犯その他刑事等十三件、債案三十一件
右の条約違犯と称するのは、防穀収税もしくは不法拘囚等であって、債案その他諸種の損害要債も合算すれば、その額は確実に四万円に達しました。
ついては小官も昨年着任の時は京城行きなど、あれこれ他の用務に多忙でありましたが、十月以来は専ら交渉案件の処理に力を尽くし、ある時は公文に、ある時は面談を以て、絶えず監理に掛け合い、厳重に督促に及びましたが、なおも未解決の分は前記のとおりです。
その不都合は勿論のこと、商民の迷惑も少なくないと思われます。
しかしこの頃、李氏は現職を罷められ、閔泳敦氏が代わって赴任しました。
閔氏は壮年とのことで、李氏よりは敏活の人物らしいのですが、この国の習慣として地方官の交代は、単にその役所から距離にして数里内のところで印綬を接受するに留まり、別に事務の引継ぎなどのことはありませんので、たとえ閔氏が来任しましても、新たに文書の取調べなど色々と多くの日時を要することになり、速やかに事務が運ぶことはないと思います。
(以下略)
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債案とは、「債案即ち朝鮮人被告の金銀貸借訟案(「同上」p23)」であり、条約違犯の防穀収税と不法拘囚等とは、主に日本人商民に対して「不法の徴税を為し、又は地方官に於て故なく我行商者を拘引或は獄舎に繋留したるは既に明白の事実なり。(「同上」p23)」などであった。
しかし、地方官吏の交代時に事務の引継ぎがないのがこの国の習慣とは、全く
。 。
/ / ポーン!
( Д )
である。
また、日本人が朝鮮の獄舎に入れられたとは聞いただけでゾッとする話ではあるが、この当時の朝鮮の獄舎というものがいかに劣悪なものであったかは、写真から窺えるだけではなく欧米人の証言にも残っている。
刑事問題のことも次のように日本人漁民殺害事件に関することが記録されている。
(「日韓両国人民交渉未決事件処分方朝鮮政府ヘ督促一件」p22)
明治廿七年四月二十日発信 在京城臨時代理公使杉村濬殿 外務大臣陸奥宗光
(中略)
一 全羅道殺人案の始末急施を要する件
一昨廿五年、全羅道に於て暴殺せられたる我猟民の件、其曲全く彼に在るや明白なり。然るに本案は年余の久しきを経るも猶未だ其加害者すら拿捕するに至らず。為めに被害者たる本邦人は空しく権利の枉屈を受け、徒に怨恨の熱情を抑え居るの状況なれば、速かに其加害者を逮捕処分すべきは勿論、我被害者をして充分の満足を得せしむるに至らざるまでも篤と朝鮮政府と協議の上、適当の処分を以て此案件を速かに結了せしめ候事。
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これが日朝漁民のトラブルによるものかどうかは詳細不明ではっきりしない。しかし、とにかく日本人漁民が殺害されており、これも解決出来ないままとなっていた。
これら未解決の事案は、釜山総領事の報告だけでも明治27年4月には163件の多さに至った。
まあしかし、公務はいいかげんにして私腹を肥やすことばかり考えているとは、実に朝鮮人官吏らしい姿ではあると言える。
他には、明治26年2月、平安道成川府では郡守が上京する際に民財を貪り、収賄を極め、為に村民らは憤って騒擾し、群集して官庁に迫り遂に属吏を殺傷した。郡守は命からがら郡境外に逃げ去ることがあった。(「明治23年1月27日から明治28年5月23日」p39)
また同じ頃、京畿道では令使が盗賊に与していることなどが分かった。(「同上」p40)
かつての山ノ城管理官の建白にもあるだけではなく、如何にこの国の公人が腐敗していたかは、もはや日本人にも広く知れ渡っていたと思われるが、後に東学党の乱に至る過程は、この腐敗した官吏たちの度重なる横暴に対する暴動が発端となっている。
自浄能力の無い国家、自ら改革の出来ない国家、国を愛し、国の将来を憂え、国の為に献身する人の殆どいない集団。
これが朝鮮という地域(国?)の真実の姿ではなかったろうか。
上記監理官兼任の件は、以前のように専任の監理官を再び釜山に置くことを、朝鮮政府に対して促すよう外務大臣から在京城臨時代理公使杉村濬に指示したが、
「其国官制にも関する儀と被存に付、強て要求する理にも難相成候得ども、若し速かに再置の運びに相成候わば甚だ好都合の事に付、是非相当の時機あらば開談相成度候。此段御訓令候也。」
と、強制するわけにもいかず、粘り強く説得するほかはないとの姿勢であった。
尤も、防穀令事件に対する民事賠償問題については、以下のように止むを得ずに強硬手段に訴えんとしたことを示唆する記録もある。
(「防穀令事件派艦ノ件ニ付清国駐在大鳥公使ヘ訓令案ノ件」より、括弧は筆者。)
防穀令事件派艦之件に付清国駐在大鳥公使への訓令案
右謹で奏す
明治二十六年五月十七日
内閣総理大臣伯爵伊藤博文
防穀令事件派艦の件に付清国駐在大鳥公使への訓令案
右供閣議但事重大なるに因り、上奏を経て決行す。
五月十八日裁可、同日内閣書記官長より外務大臣へ通知済。
防穀令一条に関し、我政府は朝鮮政府との好誼を重じ、百方力を尽し、妥協を得んことを務めたる末、去三日、大石公使に訓令し、二週間内に韓廷の決答を求むべき最後の照会を為さしめたるに、韓廷は竟に我最後の照会を藐視(軽視すること)したり。
是に於て我政府は止むを得ず、我商民の正当なる要償に対し、補伸の道を求むる為に兵艦に命じ、臨機適当の処置を為すべきに因り、我政府は此事に付、他の国との間に将来の疑問を避くる為に、予め我が執る所の決意を以て清廷に知照するの必要なるを信ず。仍て閣下は直に前文の次第を総理衙門に通知あれ。
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かつて明治11年秋に、まだ関税協定も結んでいないのに朝鮮側が勝手に関税を取り始めた事件があったが、その時日本政府は花房義質を軍艦比叡と共に派遣し、絶影島に標的を設けて実弾発砲演習を行うなどして断固たる態度を示した。その時のことを思い出させる記述である。
しかし大石弁理公使の談判によって局を結んだのは5月19日であったから、2日前の日付のこの訓令案は実行されなかったと思われる。
ルールに基づく条理が容易に通じない、また通そうともしないその頑なさは、外国との交際という点において、自ら外圧を招き寄せ、その地位を危うくさせる愚以外の何ものでもないのであるが、何か今日の北朝鮮と重なるものがあるように思われる。
朝鮮の貨幣鋳造事業
明治27年、大臣官房記録課長加藤増雄が記した日朝関係の略史とも言うべき「日韓交渉略史」より、朝鮮の貨幣鋳造事業に関する件。
かつて明治9年5月、明治最初の朝鮮使節である「修信使」が来日した時に、寺島宗則外務卿はわざわざ書面で修信使に対して、国家の独立と貨幣の品位は大いに関係すると、貨幣の信用性と貨幣経済の重要性を説いて大阪造幣寮の見学を勧めたが、当時物々交換が主流であった朝鮮国がそれを理解するはずもなかった。しかし明治19年頃から漸く朝鮮政府も貨幣鋳造事業に心を傾けるようになった。以下、そのことに関する顛末である。
(「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」p40より、段落は筆者。)
朝鮮政府貨幣鋳造事業に関する事[明治二十四年九月より同二十六年十月に至る。]
十九年以来、朝鮮政府は造幣事業に鋭意傾心せるも、能く其好果を修むるを得ず。金嘉鎮、安駧壽等之を患い、韓廷諸大臣の異議を顧みず国王殿下に建議し、其裁可を得て二十四年九月十九日、在本邦朝鮮代理公使金嘉鎮は、大阪府々会議長大三輪長兵衛を以て貨幣制度の改革并に新銭貨鋳造等の事業を委任せんことを欲し、榎本外務大臣の紹介に由り、同年九月二十九日委任条項の契約を結び、金公使は大三輪を同伴して帰国せり。
然るに韓廷諸大臣は素より同意の件にあらざるを以て、一旦同意を表したりし閔泳駿の如きも、陰かに当時の領議政を教唆して反対を試み、既に該事業も水泡に帰せんとするに至りしも、金嘉鎮は国王の内命を受け、非常の斡旋を以て各大臣を遊説し、漸く二十四年十二月六日、銀貨鋳造交換局の設立を見るに至れり。是に於て朝鮮政府は大三輪を交換署会弁に任じたり。是を帝国臣民、外国政府の官職を受くるの始とす。
是より先き、我政府は朝鮮政府の依頼に応じ、正金銀行に謀り、金拾七万円を該政府に貸すに当り、其利金中若干の歩割を積立てしめたりしが、現下剰す所弐万七百余円あるを以て之を彼政府に寄贈するに決し、二十五年四月、之を該政府に交付せり。蓋し該政府をして速かに従来の幣制を改め、因て以て財政を整理せんとするの事業を翼賛するの意に外ならざるなり。
仁川に於ける典圜局の新築成り、新貨鋳造高も亦頗る多額に登らんとするに際し、突然大三輪と地金輸出者増田信之との間に、典圜局地金及建物器械引渡方に関する軋轢を生じ、工業中止の不幸を見、韓官中、又之に乗じて私利を謀る等の内情より、大に事業を阻滞せしめ、加うるに清国政府よりは新貨幣面の用語中朝鮮の上に大字を冠し、開国五百一年と記して光緒の年号を加えざるは、均しく是れ属国既往の慣例に違犯せるの行為なる旨を痛責し、朝鮮政府之に抗弁して、大朝鮮開国年を記するの例は我より之を始めしにあらずして、即ち往歳英国と条約を締結するに当りて、斯く記すべしとの貴政府の勧告に基き、爾来其例に準依せり。今に至りて誥責せらるゝは其当を得ず、と云い、清国政府は之を反論して、夫れは単に外交上の場合を指示するものにて、内政に至りては未だ此の如き例を許せしことあらず、と主張し、紛議醸生の極遂に荏苒二歳を空過し、二十六年に至るも尚お内外一致調和を欠くを以て、同年十月大三輪長兵衛は遂に其職を辞し、造幣事業も同時に又全く停止せられたり。
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大三輪長兵衛は、福岡の筥崎宮の宮司の家に長男として生まれて経済人となった人物である。国立銀行創立や手形交換所開設、農務省設置などに貢献し、自費で私立大阪女学校を創立するなどをして、朝鮮に招聘された時は大阪府会議長であった。国王高宗の信任厚く、この後も朝鮮のために働くこと極めて大であった。
西洋人による、病院建設だの、電気会社だの、路面電車だの、人目を引く事業ばかりが今日の韓国では取り上げられる当時の朝鮮事情であるが、造幣事業という、きわめて重要な国家事業に日本が協力し、或いは貸し金の利子を寄贈して財政の建て直しに寄与するという、そういう目立たぬが貴重な貢献については、今日の南北朝鮮では誰も決して触れようとはしない。
しかしまあ、この国はどうしようもないものを感ずる。第一に国の位置が悪い、そして中が腐っている、おまけに運もない。
つまり、道教儒学的に言えば徳がないのであろう。
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