日清戦争前夜の日本と朝鮮(17)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

 

 

ビゴーの風刺画について(教材に使われる有名な「魚釣の会」の絵など)

 なにも学校などで習う歴史が本当に正しいとは限らないという、その典型がビゴーの風刺画である。
 ビゴーの絵は味がある。何よりデッサン力が優れている。しかし日本を風刺した画で今日でもよく知られているそれが、当時の世相をよく現し、また時の世論を代弁しているとも言えない、というのもまた事実である。
 たとえば、むしろ首を傾げたくなるような下のビゴーの絵一枚。

1888(明治21年)3月1日号、ビゴーのトバエ(鳥羽絵)第26号より(「在横浜佛人経営狂画雑誌発行停止ノ件/5 TOBAE〔第26号〕」p6)

英の叔父さん
「坊や、叔父ちゃんが抱っこするよ。面白いおもちゃを、たあんとあげるよ。
をや、坊ハ叔父ちゃんをもう忘れたねー。」

小児
「いやいや、いやいや、あかんべえー。」
小児の日本

独の老爺
「向うの叔父さんは、こわいから、行てはいけません。おもちゃがほしければ、此の爺がいくらでも買てあげます。」

最早、汝は私を忘れたか、坊ちゃん。私に抱かれなさい。    いやだいやだ。

 日本が欧州から近代文明を取り入れるのに、この頃では、軍事、法律、医学、建築などをドイツから導入するようになったのを皮肉った、ドイツ嫌いのフランス人らしい諷刺画であろう。日本は移り気で我侭な子供として描かれている。
 しかし当時の普通の日本人ならこの画を見て、その見当違いの表現に不快感を覚えこそすれ、頷く者は稀れであったろうと思う。明らかに西洋人から見た西洋人のための日本観である。しかしまあ、当時問題となって検閲の対象としているビゴーのトバエだけに、大隈は笑っていても山縣などは憮然としている表情が見えるようではあるが。

 諷刺画は現代の教科書でもよく採用され、とりわけ近代史の頁などには必ずと言っていいほど掲載されるのであるが、それが実際に的確なものなのかどうかの検討はされているのだろうか。いかにも世相をよく表したもののようで、実際は作者一個人の感想を描いたに過ぎず、時に一人よがりであることも少なくない。例えば、あまりにも有名なビゴーの下の絵。

(「Une partie de pêche.(釣り会)」Tôbaé トバエ(鳥羽絵)第1号 1887年(明治20年)2月15日刊 ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー)

 この、1887年(明治20年)2月15日に刊行された「トバエ」第1号に掲載された絵は「漁夫の利」などのタイトルでよく知られているが、実際にビゴーが書いたタイトルは「Une partie de pêche.」であり、英語に訳せば「A party of fishing」となるから単なる「魚釣の会」という意味である。その釣り会で、日本、ロシア、中国が、Corée、つまりは朝鮮という魚を釣ろうとしている絵、ということになる。

 ところが、日本の言論界では、福沢諭吉が明治18年3月の『時事新報』に於いて、支那・朝鮮を名指しして「亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と宣言し、また日本政府では明治18年8月頃に朝鮮に対する関与策を放棄しているのである。
 すなわち、「朝鮮に対する政略を一変して、これを放任して自然の成行を傍観するほか致し方なく(井上馨外務卿)」という政策に転換しているのである(「日清交際史提要」の「第四冊 第十四編 至 十六編/3 第一五編 善後商議」のp26)。そして、この方針は明治27年まで継続される。
 このことは、後の帝国議会衆議院第一回通常会議(明治23年12月2日開議)に於いて、井上角五郎議員の、「日本政府が執られて居る所の政策は如何であるかと云えば、初めは朝鮮を助けて以て之を独立せしめんとしたるが如く、局外中立たらしめんとしたるが如き形跡であったが、一たび明治十七年に金玉均の変あるに及んで、日本政府は翻って東洋の事、我与かり知らずと云うの風を為して居る」という発言からも明らかである(レファレンスコード「A07050000500」のp225))

 なぜに福沢が脱亜を説き、日本政府もまた朝鮮への関与策を抛棄したかと言えば、主に明治17年12月の朝鮮事変(甲申事変)にその理由がある。その詳細は当サイト「日清戦争前夜の日本と朝鮮(4)」〜「日清戦争前夜の日本と朝鮮(11)」までを資料と共に確認すれば理解されようが、簡単に言えば、事変における朝鮮国内の乱雑さ、また清国政府の対応のひどさに、当時の日本人は、政府は、呆れてしまったのである。
 それで、朝鮮に積極的に関わることを抛棄したというのが当時の日本であった。

 つまりは実際はビゴーのこの絵にあるような日本ではなく、釣竿を垂れることなく傍観者となっているのが本当の姿なのである。更に言えば、魚の尾をつかんだ中国人(袁世凱)がその口に大院君を咥えさせて小突き回し、「主人は俺だぞ。ロシアに釣られるな」と言い聞かせている姿がより正確ということになる。(笑)

 まあ、一西洋人が当時の日清韓露の情況をどれほど正確に把握していたかは大いに疑問であって、おそらく露韓密約問題で揉めていた2年ほど前の話題にでも基づいていたろうか。或いはまた、ビゴーは今日で言う「反日」的考えの持ち主であったかもしれない。実際、彼が描いた日本政府の政策に対する風刺は、根拠なき風説による誹謗中傷のものが多い。それで政府も一時は発禁処分にすることも考慮したが、結局は笑って済ませて放任している。
 それにしてもこの絵には朝鮮巨文島を勝手に占拠していた英国はなぜ登場しないのだろうか。或いはまた、ビゴーの母国の仏国が清国の飼っていたもう一匹の魚(ベトナム)を強奪していった事実はどうして描き添えなかったのであろうか。(笑) むしろこの絵から見えてくるのは、他国を争奪する競争を思い描くような発想が当時の西洋人の根底にはある、ということではなかったか。それに、朝鮮を釣るも何もそもそも朝鮮は清の属国であり、清がその宗属関係を強化する策を進めていたのがこの時期である。
 今日では時にこの絵は日清戦争と関係あるかのようにまで誤り伝えられて流布されている。ビゴーが描いたのは1887年(明治20年)であり、日清戦争は1894年(明治27年)であって、この絵とはその時期も、また意味する所も含めて何ら関連性のないものである。(日清戦争の原因や意味を理解していない解説が多過ぎ)

 風刺画というものが果してどれだけ正確に的を射ているのか。しかも公平な視点で描いていると言えるのか。1編の個人の感想文なら読み飛ばすかもしれないが、イメージという1枚の画によって見る者にインパクトを与えるだけに、印象操作にはもってこいの代物であり、それだけに教科書などに利用されるのは、よくよく考えねばならないものではなかろうか。

 面白いが、眉に唾をつけて見たいのが諷刺画である。

 余談: このビゴーの釣りの絵に関して少し調べてみると、多くの高校の「地理歴史」の授業で日清戦争関連資料として使われていることが分かった。教える側からすれば便利な教材なのかもしれないが、はっきり言って的外れの資料であり、間違いを教えていることになる。そもそも歴史という複雑きわまる事象を説明するのに一枚の絵に頼ること自体がどうかと思うが。もっとも、この絵が不適当なものであると知っていて利用している人もあるらしい。明らかに掲載すべき日本版サイトのページにも、なぜかこの絵は載せられていないからねえ。ビゴーの母国のには掲載されているのに(笑)。発行年月日でも知られると困るとか?(笑) まあ、とにかく、筆者が自分で日本近代外交に関する様々な資料を読んでいくうちに分かったことは、今日の学校教育で行われている近代史は、ずいぶん事実と違うものが教えられている感じですねえ。勘違いだったり調査不足だったりするのみならず、政治的思惑とか近隣諸国への配慮とか何とか?みたいな(笑) そんなことよりも、正直にありのままの事実を教えた方が良いのではと思うんですがねえ。
 

 

大津事件、駐露公使の報告

 明治24年(1891年)5月11日、来日の露国皇太子ニコライを、よりにもよって警備の1日本人巡査が襲撃するというとんでもない大事件である。
 その危機的状況に国内は騒然となったが、天皇陛下自ら西京されて見舞われたり、国挙げて非礼を謝罪し、皇太子の無事を祈るなど、誠意ある対応によって事が重大の時局にまで発展することは防がれた。

 露国内からの日本非難もあまり聞こえては来なかったが、これは駐露公使の働きによることも大きいと思われる。

 露国への事件第一報は、皇太子随行の者や露国駐日公使よりも早く、外務省から露国セイント・ペテルブルグに駐在していた特命全権公使西徳二郎に届いた。

(「大津事件○発信電報」p10より、括弧は筆者。)

西公使
本日、露国皇太子殿下、滋賀県大津に於て、狂人の暴行に遇い負傷ありたり。未だ詳報に接せざれども、疵所は可也重症なり。然し殿下の御精神は確かなり。ギアース閣下(ギルス露国外務大臣)に依り此卑しむべき暴行に関し、余輩の深重なる悲情を■当の方法により直に表明あらむことを希望す。殿下の看護に付、充分の注意を為すこと及暴行人を正当に処分することに付ては、最熱心に最も確実に該氏に証言相成たし。
詳報に接するに従い電信を発すべし。
余は直に大津に向い出発す。
五月十一日午時    外務大臣

 以下は、その時の様子を伝える西公使からの報告である。

(「大津事件○雑」p113より日記内会話部分は会話形式として表記しなおすなどして現代語訳。()は筆者。)

在露国帝国公使館機密報告第七号
  明治廿四年五月十五日発

  露国皇太子遭難の件

 本月十一日、当国皇太子が大津に於て狙撃の難に遭われました電報が達っして以来、今日まで、この地に於て拙官が当国外務大臣と応接したものの大略並びにこの事に関する当国人心の感覚の状態等は、追って電信を以て申し進めますが、なお以下に日記を以てその委細を述べます。

 十一日の晩、およそ十一時に閣下から発せられた第一の変報が届き、これは早く通知した方がよいと思い、直ぐに用意をして外務大臣ギルス氏方へ出掛けたのは、夜十二時過ぎであります。
  さて、同氏に向い、

西 「甚だ残念に存ずるが、思い掛けない事が到来した。」
と言って電文通りの趣を伝えましたところ、同氏は大いに驚いて、

ギルス「何を以て傷けたのか。生命には懸念はないのか。」
などの委細の問を続けましたので、

西 「ただこれだけの電文を得たままに御通知を急ぐことなので、遺憾ながら別に御答えも致し難い。」
と、電文の写を示しましたところ、同氏はこれを一読した後、手を以て額を押え、

ギルス「自分は全く雷に撃れたような心持ちで、何も言う事が出来ない。」

 しばらくして、

ギルス「この事は甚だ重大なので、皇帝に上奏した後でないと何とも御答えしようがない。もはや夜も深けたので、何れ明朝にガッチナへ出張して奏上する。ただ怪しむべきは、貴政府に於てファナチク(狂人fanatic)に対し、我が太子を保護される事が出来なかったことである。既に前に、このような連中が我が在東京公使館を乱暴した時に、皇帝にも皇太子が旅行することを懸念されたことがあり、念を推してセーウヰチ公使(露国駐日公使)に問わせたのに、『日本政府は、そのような懸念には及ばない、と言っているので、安全を保つことについては別に不安なこともないだろう』と答えたので御決定となったが、遂に事はここに至ったとは、実に遺憾千万である。これ以上悪い出来事が外にあろうか。」
などと申して、深く興奮の体に見えましたので、拙官から、

西 「それは明日の話としたい。ただ一言申しておきたいことがある。今になってこれを考えるなら、この電信は変事の報せが東京に達するやいなや直に電信を発したものに見えるので、或いは驚き急いだ余りに、よく傷を検査するのも待ち兼ねて、深手であると認めたものかもしれないので、後報を待たれるように希望したい。ここの事情も注意をされて御奏問されたい。」
と言って辞去したが、去るに及んで同氏から、この一件は事実が明白に分る迄は秘密にしてもらいたい、との依頼があった。この夜、以上の大略を電報した。

 十二日午後五時、ギルス氏を訪ねて皇帝に奏問の様子を尋ねましたところ、

ギルス「皇帝並びに皇后にも、初めは非常に驚きになったが、幸いにしてこの時に皇太子から直に皇帝に送られた電信が達し、これによれば傷も格別のことでなく、気分も随分好いとのことなので、たとえ父母の情を慰める為めに軽く言われたのであると見ても、自らそれほどの事を伝えられたことなので、先ずは生命には懸念もないだろうと少しく安心された。ただ奇異に思われるのは、セーウヰチ公使及びバリヤチンスキー(随行武官)より、未だ何の報せもない。今少し詳細の報を得て、また皇帝から御沙汰もあるだろうから、貴君方の続報はなにとぞ昼夜を問わずに報せてもらいたい。」
との依頼があったので、

西 「我が外務大臣もこの報を聞くやいなや直に出発したとあるので、今頃は現地に達していることと思うので、今夜中にはその後報も達するだろう。」
と申し置いて、拙官にもやや安心して帰りました。
 この夜、我が天皇陛下には西京へ御出発なられ、並びに皇太子の具合も宜しいように報せがあったので、何れも直に写してギルス氏へ送った。

 十三日、(露国政府)官報を初めとして諸新聞紙に、「皇太子、大津に於て巡査に狙撃され、希臘(ギリシャ)王子の防禦によって難を免れられた」との趣旨の記事が見られ、一般大衆の驚きようは並々ならずに感情も甚だ悪く、よって、拙官にも甚だ残念と存じ、ギルス氏に面会して、

西 「拙者にはなおこの事を秘していたのに、本日すぐに『巡査云々』の文を添えて布告されたのは驚きの次第である。右の事実は拙者の方には未だ通知も無いのに、何によって出されたのか。」
と詰問しましたところ、

ギルス「右はセーウヰチ公使及バリヤチンスキーから申して来たことにより、事実と認めた。」
との答により、

西 「そのようなことなら余儀なき次第であるが、たとえそれが事実としても、本日の布告は我が国に対して無情甚しいものと存ずる。その訳は、拙者が第一に受けた公報に、『狙撃者はファナチク(fanatic)』とある以上は、たとえ巡査であるとしても発狂人であることに違いはないことと、そもそもこれは全く不意に起きた不幸の出来事であって、我が国が深くこの不幸を惜しみ、人心は上下を挙げて一同その感情を表するに切なるものがあることもまた事実である。それなのに今日の布告を放任するなら、保護すべき巡査が皇太子を狙撃し、そしてこれを救ったのは全くギリシャ親王一人であって、他の我が国の人は皆ただ傍観して救う気もなかったように思われるならば、事実は相違して甚だ遺憾である。よって、明日の官報と仏字新聞紙には拙者が提出する事実を掲載して、当国民の悪しき感情を和げるようしてもらいたい。」
と、このように請求しましたところ、

ギルス「既に第一報の事実は確かなので仕方がない。」
と申して初めは応ずる風でもなかったので、

西 「それなら明日は一般人の感情はなおも悪くなって人心激昂し、よって拙者には本職を尽すことも出来ない地位に陥ることになるので、自ずとこの地に滞留する事も叶わないこととなる」
とまで申し詰めたところ、漸くこれに応じて、

ギルス「それならば直ちに宮内大臣へ掛け合って、その筋に取り計ろう。」
との約束を得ましたが、なおも気にかかるので、出来るだけ知人の間にも、事件は発狂者一人の所業であって、我が国の官民一同は痛惜の念に堪えない状態であることを伝播しておきました。

 この日、我が天皇陛下には京都御着の件と、皇太子の容体は益々宜しい件の電報が達して、これをギルス氏に送り、また前文の大略と事情説明の必要があるとのことを日本に電報する。

 十四日、官報と仏字新聞紙に、昨日請求した布告が載り、他の新聞紙も大抵皆、我が国のために善い方に説いており、府下の人々の感じ方は変って、巡査の事は説かずに、この事は或は当国の虚無党の所業であろうとか、或は他の外国人が金銭を使って実行させたのだろうとか言い、様々な評判は皆我が国にその咎めを求めないもののようであった。

 この日、皇太子は包帯を代えられて熱も起こらず、我が国の新聞紙、並びに大衆一同が感情を表し、皇太子が軍艦に帰られて、それを我が皇帝陛下が神戸まで送られ、威仁親王を特派されるなどの電報が達したので、その写しを懐にしてギルス氏の所へ出掛けました。

 ギルス氏も本日は気色打ち解け、

ギルス「今日の新聞紙には御満足されたか。」
と問いつつ迎えましたので、厚意の忝きを謝し、諸通信を伝え、

西 「特派使節の一条は、書面を以て陳べるはずであるが、何分にも事情が差し急ぎ、書く暇がないので、この写しを以て公文と認められたい。」

ギルス「それは何れも直に皇帝陛下に送ろう。」
との答により、両陛下の様子を尋ねましたところ、

ギルス「貴国皇后より当国皇后へ、懇切なる電信を贈られ、皇后にも直ぐにこれに答えられて、甚だご満悦である。また皇帝にも御同様である。」

西 「この後皇太子の御旅行についての御意向はいかに。」

ギルス「この犯罪が或いは誰かの指図によるものとの疑いもあるので、その見極めが明らかになるまでは難しいことであろう。」

西 「発狂者一人のしたことであって、別に仲間はいないと信ずるので、今後のことは決して御心配に及ばないと思う。」

 以上のように申して、この夜、本文の大略と諸新聞紙の説を電報する。

 十五日、本日は電信も達せず、別にギルス氏と会う用もなく、初めてこの報告を草する暇を得ました。
 今回の事件は実に意外の事であって、当館員一同も大いに心配しましたが、幸いにして皇太子には傷も軽く身も安全との上は、我が国のために思い巡らすこともないとは思います。
 もっとも、拙官らはなおこの上、当国官員に対して我が国への従来からの好意を失う事のないように注意するべきは勿論でありますが、ただ遺憾に思いますことは、本邦からの最初の電文はやや重きに失し、中でも「生命には懸念なし」の一言がなかったことから、拙官らも大いに生命を危ぶみ、これによってギルス氏にも皇帝皇后にも非常に驚愕され、皇后には一時は気絶されたとの評判もあります。

 目下の問題は、この後皇太子がどうされるかということです。
 当国皇帝には、色々の意見を折衷して判断されるでしょうし、皇后に於ては、殊に二子のジョルジ親王にも病気中なので、驚愕の余りに頻りに心配され、皇太子に急いで日本から帰国するように切望されていますので、皇太子がなおも我が国内の旅行を続けられることを望まれ、また随員やセーウヰチ公使らが前途の安全を確言しないなら、直ぐに神戸から帰国されることに決せられるだろうことが案じられます。

  特命全権公使西徳二郎
外務大臣青木周蔵殿

 天皇皇后両陛下の心遣いもあり、また西公使の要請が通じたこともあって、ロシア側も比較的冷静な対応となったようである。
 第一報の電文に皇太子の生命に関する記述がなかったのは、ちょっとひどい。西曰く、「やや重きに失し」つまり、「軽率だぞ、本国外務省」ということであろう。ま、西公使も直ぐにギルスの所に持って行かずに本国に尋ね直したら良かったのだろうが。

 なお、ニコライ皇太子が露国皇后に送った電報は次のものである。

(「同上」p29)

京都 五月十一日 后一時

ガチナ皇后陛下

大津に赴けり。途上に不時の出来事あり。負傷軽し。バリヤチンスキー、委細父に電報す。気分快し。皆に宜しく。
                  ニッキー

 

津田巡査尋問調書

 皇太子に危害を加えた津田三蔵巡査に対する取調べは、当日の内に行われた。
 以下は5月11日午後9時付け(事件は当日午後1時半頃)で取り調べた滋賀県警察部警務課長が、滋賀県警部長宛てに提出した報告である。

(「同上」p40、()は筆者。)

皇太子殿下へ危害を加えたる要領を尋問したる処、左の如し。

 汝は何警察署詰の者なるや。

 守山警察署詰です。

 汝が本籍は何れなるや。

 三重県伊賀国阿拝郡上野町字徳居町であります。

 汝の身分は如何。

 士族。

 汝の年齢は如何。

 安政元年(1854)12月生まれ(満36才)であります。

 汝は旧何れの藩なるや。

 藤堂和泉守の家来であります。

 汝の家族は何人なるや。

 妻と小供両人であります。

 子供の年齢は如何。

 総領は六歳にして女、其次は男子にして三歳であります。

 汝の方に同居、若くは寄留し居る者、又は近頃他より来りたる者はなきや。

 更にありません。

 汝は一己にて皇太子殿下へ対し奉り、危害を加えたる歟(か)。

 全く私一人であります。

 汝は如何なる考えを以て危害を加えたるか。

 西村警部、誠に済まんことを致しました。実は御警衛に立ち居りて、俄かに逆上しましたゆえです。

 如何なる事を為したるか。

 如何なることを為したるか、一時眼が眩みまして覚えません。

 汝が首筋の傷は如何なしたるか。

 何にか私の後とより「ひゃー」としました切りで、一向覚えません。

 汝は斯る事を為すには、誰れかに相談したる者ある歟。

 更にありません。

 汝は斯ることを為す考えなれば、家に何にか書き置でもしてあるか。

 更らに書置きはありません。


 右問答は、予審判事及検事の来る迄に為したる所のものなり。
 而して稍々暫くするや、予審判事及検事等出張し来るに付、其後の事は之れに譲れり。

 その後、所持品、宿所である旅舎の捜索、来訪者の有無などを調べたが、事件に関係するものは見つからなかったと報告している。

 また、文中にある首の傷とは、襲撃を受けて逃げる皇太子を追って、なおも襲おうとする津田巡査を、皇太子を乗せていた人力車夫が追いすがって倒し、更にギリシャ親王の人力車夫が巡査の洋刀を奪って切りつけた時の傷である。外に背中にも1ヶ所刀傷があったが、いずれも命には別状ないものであった。

 

家族知人の事情聴取

 また当日の内に、自宅の捜索と津田三蔵の妻からの事情聴取も行われた。その時の、大津地方裁判所予審判事による参考人訊問での妻の答弁要領は次のようなものであった。

(「同上」p44)

 一、被告三蔵は今を去る八年前、三重県に於て巡査奉職中伊賀国上野にありしとき発狂せしことあり。

 一、発狂したるとき、最初一週間計は最も甚だしかりしも、後一ヶ月間程は、其気味ある位の事にて、漸次全快し、職務には別段差支なかりし。

 一、其の後も時として少し気味の悪き事ありしも、常に缺勤療養を加え居たるに依り、甚だしきに至らずして治せり。

 一、其発狂したるときは、只傍らに人のあるを嫌い、之を追遂し、或は何処かへ行くと頻りに云うあるも、別に他人に対し暴行を加うる等の事はなかりし。

 一、三蔵は、斯る人物故、同人の他出するときは妻キヲ及び家族に於て常に最も気遣に思えり。

 一、今度大津へ出張する前後の挙動に於ける、毫も平常に異なる事なく、只時間に後るゝとのみ云いおりしが、同人は元来物云わずの方なれば、出立の際にも公用本箱には鎖鑰を施し、其鍵は自分が携帯し、行くと告げたる外、其他何等申遺したる事なかりし。

 一、三蔵は常に人に接し言語を交ゆる事を嫌うの性質故、居村にありても、誰壱人として談話に来る者もなし。

 一、三蔵は常に心臓病を患えり。

 また13日には、地方検事による被告の知人への聴取があり、以下のような証言もあった。

(「大津事件○京都出張書記官取扱書類」p18より。会話部分に「」を補足。)

 町井義純第二回調書

 本月一日、津田三蔵が自分宅に来り種々なる談話中、三蔵は、「今度露国皇太子が来られるそーなが、夫れには西郷も共に帰る由。西郷が帰れば我々が貰うたる勲等も剥奪さるべし。困ったことだ。」と話したるに付、自分は、「滋賀県の駐在所には新聞誌はなきか。西郷云々の虚説たることは近頃の新聞には明瞭し居れり。」と申したる処、三蔵は、「駐在所には新聞は無いが、どーも実事ならんと思えり。なぜなれば、露国の皇太子が日本に御出るなら、先ず東京に御出になるべきに、鹿児島に一番に行かるゝは西郷あるが為めなるべし。一体、表門と裏門と取違えたる様の噺なり。」と申し、三蔵は、西郷帰国のことを信じ居る様に相見え、其噺は夫切りに相成たることに有之候。

 右読聞かせたる処、相違なき旨陳述するにより、記名押印せしむ。

    三重県巡査
      町井義純
明治二十四年五月十三日 安濃津地方裁判所上野支部に於て
  安濃津地方裁判所検事正 渡邊 融
  安濃津地方裁判所検事局書記 西村岩之進

 津田三蔵は、明治5年に陸軍東京鎮台に入り、兵卒から伍長、軍曹に進み、西南の役では勳七等を受け、明治13年満期除隊後に三重県警巡査となったが、発狂して18年8月にこれを辞し、加療治癒して同年12月に滋賀県警の巡査となった。沈着にして寡言であり、やや頑固であるが、同僚と議論したり抗弁した事も無く、勤務態度は常に勤励であって、2等俸給に進んだという。なお兄弟にも「発狂者」がいたことから、その精神疾患には遺伝的なものがあると見られたようである。(「大津事件○雑」p46、「大津事件○各庁通信」p23、「大津事件○発信電報」p18、p32)

 上記、知人による西郷と勲等云々の話であるが、西南戦争で没した西郷隆盛が尚も生きて露国に居り、露国皇太子と共に今度日本に帰国する、との噂話が当時あったようである。しかし、それが露国皇太子を襲撃することに繋がることは理解不能であり、やはり精神に異常を来たしていたという外はないだろう。

 

震撼の日本政府

 大津事件についてのアジ歴資料には、主に電報文のやり取りが多く収録されている。ここではそれらを抜き出して時系列で並べてみた。(なお、以下の電文は誰から誰へのものかの記述の仕方を統一した。また()は筆者。)

11日午後1時50分
土方久元宮内大臣へ、大津 有栖川宮威仁親王より。
 只今露国皇太子殿下へ暗殺を企て、皇太子殿下頭部重傷を負われたり。橋本軍医直ぐ出張ありたし。
(「大津事件○各庁通信 p2)


11日 后1時(2時頃?発)
露国皇后陛下へ、露国皇太子より。
 ガチナ皇后陛下
 大津に赴けり。途上に不時の出来事あり。負傷軽し。バリヤチンスキー、委細父に電報す。気分快し。皆に宜しく。
      ニッキー
(「大津事件○雑」p29)


11日午後2時30分 大津発
土方宮内大臣へ、西郷内務大臣へ、滋賀県知事より。(各同文一通ずつ)
 露国皇太子殿下、只今当地御出立ちの途中、大津町に於て、路傍配置の巡査一名抜剣、皇太子殿下の御横額へ切付けたり。犯人は、其侭縛に就きたり。御傷は横三寸余、御精神は確かにて供奉員にて不取敢繃帯し、県庁へ御帰り在らせらる。目下御療治中。犯人の巡査は本県守山警察署詰、津田三蔵と云う、全く精神狂い此挙に及びたりと恐入居れり。御先導警部は該巡査を一刀切付け縛したり。何共恐入たる次第、不取敢上申す。
(「大津事件○各庁通信」p3)


11日午後3時40分 大津発
宮内大臣へ、斎藤式部官より。
 三時五十分の汽車にて皇太子一同京都へ帰り、同所にて医員を集め、夫より御療治に取掛る積り。外務大臣へも御通知ありたし。
(「大津事件○各庁通信」p7)


11日午後5時発
滋賀県知事へ、総理大臣より。
 電報落手、驚駭の外なし。取締を厳重にし共謀者なきや厳重に捜索せよ。
(「大津事件○発信電報」p3)


11日午後5時発
滋賀県知事へ、総理大臣より。
 陛下は明早朝御発輦。外務大臣及び内務大臣は今夕の汽車にて出発す。
(「大津事件○発信電報」p2)


11日午後5時発
小田原 伊藤伯へ、松方総理大臣より。
 露国皇太子殿下、本日午後、大津御出立の途中、路傍排置の巡査一名、白刃を以て殿下の横額に切付たり。犯人は其場に於て縛に就けり。傷は横三寸余、精神は確かにて、取敢えず県庁にて御療養中の報に接せり。右の警報に因り北白川営外務内務両大臣、四人の医師を随え、今夕京都へ向け出発の筈。陛下にも御見舞の為め明朝御出発の準備最中。不取敢為御報に及ぶ。
(「大津事件○発信電報」p4)


11日午後5時30分
宮内大臣へ、京都ホテルにて斎藤式部官より。
 皇太子一同、只今当ホテルへ御着相成りたり。
(「大津事件○各庁通信」p8)


11日午後5時35分発
宮内大臣へ、滋賀県知事より。
 露国皇太子殿下、県庁にて御手当の上、三時五十分の当地発汽車にて、西京へ御帰なりたり。停車場迄の御途中は人力車にて御徐行。御精神はたしかなり。御疵は浅し。
(「大津事件○各庁通信」p9)


11日午後8時
京都府知事へ、内閣書記官より。
 黒田、井上両伯より、露国皇太子殿下付け少将フリンス・バリヤチンスキー少将宛、英文電音各一通即刻伝達ありたし。
(「大津事件○発信電報」p5)


11日午後8時40分
宮内大臣へ、滋賀県知事より。
 兇行者津田三蔵を切付たるは、御先導警部なる旨電報致し置しが、右は警部に非ずして、露国皇太子殿下の人力車夫が兇行者を引倒したる際、取落せし刀にて、他の車夫が切付たるものに付、正誤す。
(「大津事件○各庁通信」p6)


11日午後9時
(5月11日官報号分 勅語)
 五月十一日午後九時、内閣総理大臣伯爵松方正義を御前に召させられ、左の通勅語あらせられたり。
「今次朕が敬愛する露国皇太子殿下来遊せらるゝに付、朕及朕が政府及臣民は、国賓の大礼を以て歓迎せんとするに際し、図らざりき途大津に於て難に遭わせらるゝの警報に接したるは、殊に朕が痛惜に勝へざる所なり。亟かに暴行者を処罰し、善隣の好誼を毀傷することなく、以て朕の意を休せしめよ。」
(「大津事件○雑」p6)


11日午後9時11分
アゼンス王へ、ジョージ(ギリシャ親王)より。
 大津に於て、巡査、剱を以てニッキーを撃ちたり。頭上に二傷。医師共曰く。危険ならずと。気分快し。
(「大津事件○雑」p28)


11日午後9時35分発
威仁親王殿下へ、松方総理大臣より。
 露国皇太子殿下、御帰京後の御容体伺奉り、併せて殿下の御心中恐察し奉る。
(「大津事件○発信電報」p6)


11日午後10時発
兵庫県知事へ、周布書記官長より。
 本日の露国皇太子御遭難に付ては貴官より某港碇泊露艦指揮官へ、知事としての挨拶ありたることゝ信ず。亦た、露国艦隊乗組水兵員の内には右事件に付、如何様なる感情を起こす難計故ね其辺へ充分御注意ありたし。且右事件後水兵模様御探索の上、御報知相成たし。
(「大津事件○発信電報」p8)


11日午後10時5分発
大阪控訴院検事長野村維章、大津地方裁判所検事正山本正巳へ、司法大臣より。
 魯国皇太子に不敬を加えたる、犯罪者連類急速捜査、厳重に処分すべし。
(「大津事件○発信電報」p8)


11日午後10時5分発
大津地方裁判所検事山下へ、司法大臣より。
 被告人は魯国虚無党に関係あるか否取調ぶべし。
(「大津事件○発信電報」p9)


11日午時発
在露国西公使へ、外務大臣より。
 本日、露国皇太子殿下、滋賀県大津に於て、狂人の暴行に遇い負傷ありたる。未だ詳報に接せざれども、疵所は可也重症なり。然し殿下の御精神は確かなり。ギアース閣下に依り此卑しむべき暴行に関し、余輩の深重なる悲情を■当の方法により直に表明あらむことを希望す。殿下の看護に付、充分の注意を為すこと及暴行人を正当に処分することに付ては、最熱心に最も確実に該氏に証言相成たし。
 詳報に接するに従い電信を発すべし。余は直に大津に向い出発す。
(「大津事件○発信電報」p10)


11日午後発
在露国西公使へ、青木外務大臣より。
 皇太子は前報に係らず御傷口微小にして、京都に御着御の際は御旅館迄の途中、侍従と御談話あらせられたり。此旨ギルス氏に報ぜよ。
 北白川親王は侍医を従え本日午後に、又外務大臣及内務大臣は今夕、孰れも皇太子御容体御慰問之為め、京都へ出発せられたり。我天皇陛下も亦同じく御見舞いの為め、明朝御発輦あらせらるべし。
 此凶変を聞き我国民は実に悲嘆に堪えざるなり。
 右陳の事実を欧米各国駐在の我国公使に報じ、特に英仏及独国駐在の我国公使公使を経て、御在留の我国親王に報道せよ。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p7)


11日午後発
在露国西公使へ、青木外務大臣より。
 露国皇太子御遭難の事実に就き、公私共に該件の真相を知悉する様充分尽力すべき旨、欧米各国の駐在我公使へ電報すべし。若し止むを得ずんば我が電報したる事実の概略を其他の新聞紙へ登載するを得。
 此場合に於ては暴行者の狂人にして御傷口は微小なる旨を特書すべし。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p7)


11日午後11時発
露国皇帝陛下へ、天皇陛下より。
 朕は陛下の親愛せらるゝ皇太子殿下へ見るの歓を希望に堪へずして、今将に此期近にあるに際し、陛下の親愛せらるゝ皇太子殿下の不慮且最も不幸なる遭難の報知を為さゞるを得ざるに至れり。殿下は今十一日大津[京都近傍]御遊覧の際、狂徒の襲撃を受け、頭部に軽傷を負はれたり。朕直ちに医官を遺し加療最も力めしめたり。朕亦直に京都に赴き殿下を慰問せんとす。朕此凶報に接し、実に痛歎に堪えざるなり。希くば陛下、朕の悲歎の情を諒せられんことを。
    御名
露国皇帝陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p2)


11日午後10時発
天皇陛下へ、京都 露国皇太子殿下より。
 余に到来したる不意の出来事に関し、陛下には叡慮を悩させ給う。此れ余が深く陛下に謝する所なり。余が斯く陛下の宸襟を煩わすは遺憾に堪えず。余は稍々快気を覚う。
  ニコラ
陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p29)


11日夜12時発
京都県知事へ、周布書記官長より。
 露国皇太子御容体如何、至急返電すべし。
(「大津事件○発信電報」p9)

 

 

皇室外交

 事件発生が1時半頃、その20分後に第一報が有栖川宮威仁親王から土方宮内大臣に報知されている。意外にも露国皇太子が本国へ打電したのも早い。
 一方、明治天皇陛下も京都に行幸して皇太子を見舞うことをその日の内に決定され、露国皇帝へも電報を送ってある。また、露国皇太子も天皇陛下に、ご心配を掛けて申し訳ないとの意味の電文を送っている。翌日には日本皇后陛下から露国皇后へ皇太子の容体を報せる電文が始まる。
 全電文を読めば理解できるが、これは誠意こもれる皇室外交によって事件が日露間の深刻な問題にまで発展する事が防がれた記録でもあると思う。

12日午前2時半発
京都 斎藤式部官へ、周布内閣書記官長より。
 露国皇太子御治療後の御容体は如何、折返し返電を待つ。
(「大津事件○発信電報」p12)


12日午前3時55分発
松方総理大臣へ、滋賀県知事より
 御負傷は頭蓋骨には達せざる由。傷一ヶ所は九サンチメートル、一ヶ所は七サンチメートル。蓋し一刀にて切りしならん。午後十時半、御療治済む。御気分確か、只今の御気分宜しき方なり。
(「大津事件○来信電報」p10)


12日12時15分発
皇后陛下へ、威仁親王殿下より。
 露国皇太子殿下へ只今御会申せし処、御発熱もし。御様子平生と異ならず。御痛みも無き由、申述べられたり。甚安心仕る。
(「大津事件○各庁通信」p20)


12日午後1時発
内閣総理大臣秘書官へ、京都 斎藤式部官
 滋賀県大津町に於て凶暴者、露国皇太子殿下に危害を加えたるに依り、京都にて御治療あらせらる。右に付、内閣大臣方よりも露公使宛電信ありたることと信ず。右に付ては行幸もあらせらること故、貴官より御発信の有無を御問合ありたし。
(「大津事件○来信電報」p13)


12日午後1時45分発
内閣松方総理大臣へ、、京都 西郷内務大臣
 只今十二時三十分着す。
(「大津事件○来信電報」p16)


12日午後2時40分発
松方内閣総理大臣へ、京都 西郷内務大臣より。
 露国軍艦は、士官数名作後五時過京都に、同く九時半士官三十名斗り、本日午前二時過に二十名斗り、京都より帰艦せしまでにて、目下実に異常なし。唯今兵庫県知事より電報ありたり。
(「大津事件○来信電報」p21)


12日午後3時6分
青木外務大臣へ、在露国西公使より。
 露国外務大臣曰く、
 落雷の為めに打たれたるが如き心地せり。本件は余り重大なるに依り皇帝陛下へ上奏を遂げざる前に如何とも返答に苦しむ。日本政府が皇太子に対する精神惑乱者の加害を防ぐ能わざりしは実に驚き入れり、と。
 同大臣は頗る激して本件の如き不幸なる事変は他になかるべしと云えり。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p16)


12日午後4時5分発
松方内閣総理大臣へ、京都 西郷内務大臣、青木外務大臣より。
 露国皇太子殿下は、医師の勧めに依り、今晩はテンアス(天皇)陛下と御会にならず、明朝十時過ぎ御会のつもり。
(「大津事件○来信電報」p29)


12日午後4時5分発
松方内閣総理大臣へ、京都 西郷内務大臣、青木外務大臣より。
唯今、露国公使面会談話せり。詳細は直ぐ後とより報告す。
(「大津事件○来信電報」p22)

松方総理大臣へ、青木外務大臣より

 西郷伯及拙者は到着後、早速露国公使を訪問し、天皇陛下及内閣一同の名を以て皇太子殿下の御遭難に付き、痛惜に勝えざる旨を陳述せり。

 而して拙者は露国公使に向て今般の御不幸は精神惑乱者の行為に出でたりと思慮せられんことを乞い、且つ此意味にて皇太子殿下并露国政府に具申あらんことを請求せり。

 露国公使の答に、日本の情形上不安心の虞ありと思考せしを以て皇太子殿下の御到着に先だち、予め、皇太子殿下は安全に国内を旅行せらるゝことを得るの保証を与えらるべきやを拙者に問いしに、拙者に於ては此保証を与えたりと。而して其後廿九日の事あるに逢い、其時も重ねて右の保証に関して要求を為したるに、再び其保証を与えられたるにも拘らず、今度の事件を生出せり。而して犯罪者は殿下の安全を保つべき職務を有する護衛の巡査なるが故に、露国公使は本事件を以て事体殊に重大なりと見做すと云えり。

 露国公使は電信を以て本国政府の訓令を乞いたれども、未だ何等の回答に接せざるを以て、予め其如何を言い難しと。且つ云く。皇太子に於ては、当国人民の迎接待遇に対して満悦し居らるゝと雖も、公使の考にては、露国政府は何分か要求する所あらんと。而して当方より如何なる満足を与え得べきやは拙者は知悉せずと答え、且つ本事件の終局面は拙者の考に依れば、本事件は審理の結果を待て決すべきものならんと答置けり。

 依て拙者は更らに露公使より口頭又は書簡にて何分の義を申来るを待居れり。
(「大津事件○来信電報」p24)


12日午後7時15分発
露国皇后陛下へ、日本皇后陛下より。
 皇太子殿下は、御発熱もあらせられず、御痛みもなく御様子平生と異ならざる旨通知の電報を得たれば、爰に陛下へ報道するは余の幸福とする所なり。
  皇后宮御名
露国皇后陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p7)


12日午後8時10分ガチナ発
日本皇后陛下へ、露国皇后陛下より
 余等の親愛する太子の不慮の難に罹りたるは最も悲悸して措く能わず。然れども余等をして之を喪なわしめざるは全く天帝の加護にして感恩する所なり。両陛下の電報を以て訪問を辱うしたる芳意を敬謝す。
   マリー
日本皇后美子陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p19)


12日12時発
内閣総理大臣、内閣書記官長へ、京都御所、伊東枢密院書記官長
 (陛下は、午後)九時十分着。御停車場楼上にて、露国公使に拝謁仰付けられ、直様露国皇太子を御訪問の筈の処、医師の注意に依り、今晩は御見合せ、明朝御訪問の事に御決定なりたり。余は明日申上ぐ。
(「大津事件○来信電報」p39)

 

 先述の在露国西公使からの報告によれば、12日午後5時段階で、露国ギルス外務大臣は、駐日公使からも随行武官のバリヤチンスキーからも何の報告も来ていないと言っている。露国皇太子が日本を訪問しても安全であると、本国に報せていたのは駐日露国公使であるから、実は本国からまず責任を問われるのはこの人であろうし、最も苦慮していたのかもしれない。

 13日には、日本政府は司法省雇いのイタリア人法律顧問に津田三蔵の刑法上の処罰問題を問うている。

13日時刻不明
 (井上馨顧問官の命により、斎藤浩躬が司法省御雇伊国人「アレッサンドロ・パテルノストロ」に問う。現代語訳は筆者。)

 「露国皇太子殿下に対する犯罪者に対して、刑法第百十六条(「天皇、三后(太皇太后、皇太后、皇后)、皇太子ニ対シ危害ヲ加へ、又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)を適用することが出来るだろうか。」

 「それは了解出来ない説である。そもそも刑法は国内を前提として設けたものであって、その初めに国内君主に対する罪を置くのは各国で普通の例であるが、決して外国君主をも包含するものと解釈してはならない。伊国などは外国君主に対する特別の罪条があり、全くこの特別規定があるために普通の殺傷罪を適用しない。今回の事件に関する刑の適用に付いては、司法省に於て各高等官および御雇外国人の会議があって、自分は司法大臣の下問に対し『普通殺傷罪の未遂犯を適用すべし』と答えて満場一人の異論者もなかった。」

 「もし犯罪者であって両国の間に戦端を引き起こす目的をもって罪を犯したと自白した時は、刑法百三十三条を適用できようか。

 「刑法百三十三条は、戦端を開き、又は其の予備を為したる場合を規定している。今回の事件はこの事は無い。」

 「外国に於て今回の事件の参考となる実例があろうか。」

 「自分は左に一二の例を示そう。」

「1878年、伊国王ハンベールがナープルに行幸のとき、街の中で小刀を以て伊国王に切りかかった者がある。車に同乗していた宰相カイロリーはこれを防ごうとして負傷した。裁判官は国王に対する罪を適用して犯罪者を死刑としたが、国王の恩恵によって終身懲役に処した。」

「英国に於て、英国女王を害しようとした者があった。裁判所はこれを狂人と認め、病院に送った。」

「1819年3月23日、独国の一書生サンドという者が独国に於て露国の参事院議官コーツブエを殺害した。この犯罪者は独国の普通刑法によって死刑にされた。」

「伊国人カルジニーという者が巴里でナポレオン三世に向って爆弾を投げ、その従者数人を殺傷した。犯人とその共犯者は仏国の普通刑法によって処罰され、犯人は君主に対する罪で死刑に処せられた。」

「要するに、一個人又は住民の大部分が、外国君主又は王族に対して敵意を表した例は少なくない。たとえば仏国に於て波蘭国復権のため露帝に対し示威運動をしたように、又、先ごろの独国皇太后に対して同様の挙動があったように、又、伊国の一部で墺帝に対して都民が群集して瓦石をなげたようなことがこれである。」

「しかしこれらのことは一つも今回の事件と同じものはなく、先例としても色々と違うものなので、今回の事件の先例とはならない。またそれぞれが特別の歴史的な事情があり、一つの例を以て他の例を解釈する事は出来ない。」

 以上は、井上顧問官の命によってパテルノストロ氏と口頭で問答した要領である。
  、斎藤浩躬
(「大津事件○雑」p14)


13日午前1時30分発
内閣周布書記官長へ、書記官松浦良春より。
 重傷にはあらざれども、日本医は拒絶して診察を許るされず。依て御容体ほんとうに相分からず。
(「大津事件○来信電報」p42)


13日午前8時30分発
内閣周布書記官長へ、京都松浦書記官より。
 今朝宮内大臣より、御容体甚だ宜しき由、露国皇室は電報を発しより、今日繃帯巻換えの節、日本医は診察を許さるゝ由。皇室及人民に対し、御感情甚だ宜し。威仁親王殿下とは御交り甚だ御親密、毎日御対顔あり。一刻も早く出京なし皇室及政府へ謝したしと御話しある由。大慶の至り。
(「大津事件○来信電報」p44)


13日午前10時発
京都御所 徳大寺侍従長へ、内閣各大臣より。
 聖上、御機嫌克御着輦あらせられ、恐賀したてまつる。依て天機伺たてまつる。宜く御執奏を乞う。
(「大津事件○発信電報」p13)


13日午前10時5分発
花房宮内次官へ、京都御所 山崎書記官より。
 昨夜、停車場へ露国公使も殿下の御名代として奉迎拝謁を賜い。今十三日午前十時五十分御出門御訪問の筈。御容態宜しき様子なり。
(「大津事件○各庁通信」p28)


13日午前10時35分発
花房次官、香川皇后宮大夫へ、京都 池田侍医、橋本顧問、高木総監より。
 露国皇太子、昨夜御安眠、御気分宜しく、御食気進み、体温脈拍等、御平常の如くなり。
(「大津事件○各庁通信」p29)


13日正午12時5分発
松方総理大臣へ、西郷内務大臣、青木外務大臣より。
 天皇陛下は、先刻露国皇太子に御面会遊ばされ、種々御慰論且御熟話の末、只今還幸あらせられたり。
(「大津事件○来信電報」p47)


13日正午12時10分発
宮内次官へ、京都 尾越書記官より。
 今午前十時五十分御出門、露国皇太子殿下の御旅館まで行幸。殿下へ御対面、御容体、御尋遊され同十一時四十分、還幸あらせられたり。
(「大津事件○各庁通信」p32)


13日正午12時40分発
土方宮内大臣へ、松方総理大臣より。
 露国皇太子殿下御見舞いとして、至急皇后陛下行啓あらせられたる方然るべく右懇願す。速に御伺の上返報ありたし。
(「大津事件○発信電報」p14)


13日午後1時5分発
松方総理大臣、周布書記官長へ、黒田清隆、伊藤博文より。
 今朝着せり。直に(露国)公使にも面会す。皇太子の疵は次第に快方のよし。公使の云う所に依れば、長文の電報数通を本国に発したるとも未だ一編の返信なし。思うに、露都の人心必ず激昂し、政府も輙(たや)すく決断せられざる所ならん。我等の思考する所にては或は事重大に至らざることを必せず。傍らに聞く、今に無名の投書又は電信を以て露公使に暴慢なる言辞を送るもの絶えずと。警察の事(わざ)は独(ひとり)新聞演説に止らず、政府は断固として其周密を勉めざる可らず。内閣は勿論、山縣井上両伯とも協議を尽され万過誤なきを望む。
(「大津事件○来信電報」p49)


13日午後2時40分発
内閣松方総理大臣へ、京都御所黒田、伊藤より。
 (露国)本国政府より(露国)公使に電信来り。速に皇太子、安全なる軍艦に移せとの命令ありたるに付、今日午後四時の汽車にて我陛下にも神戸まで御同車の筈なり。
(「大津事件○来信電報」p54)


13日午後2時45分
露国皇后陛下へ、日本皇后陛下より。
 我皇帝陛下は今朝京都に於て、皇太子殿下を訪問せられし処、脈拍体温眠食共、平常に異なる無く、御容体至極宜敷由電報ありたり。
  皇后宮御名
露国皇后陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p9)


13日午後3時発
松方総理大臣へ、宮内大臣(土方久元)より。
 皇后陛下行啓の儀は、御沙汰有之まで御見合せ相成たし。
(「大津事件○来信電報」p57)


13日午後3時10分発
内閣松方総理大臣へ、京都御所西郷、青木より。
 親王御一名露国へ差遣わさるに付、榎本子爵随行仰付らるゝ思召に候間、明朝一番汽車にて同人を当地へ御遣わしあるべし。
(「大津事件○来信電報」p59)


13日午後3時25分発
花房次官、香川大夫へ、京都 川上中将、三宮外務課長より。
 露国皇太子殿下は御療治の為め、神戸港へ御帰り御乗艦相成為め、今午後四時三十分京都御発車。聖上にも神戸まで御同伴在らせらるゝ筈也。
(「大津事件○各庁通信」p34)


13日午後5時発
京都 黒田伯、伊藤伯へ、松方総理大臣より。
 露国皇太子は神戸碇泊の軍艦に移り、同所にて暫く御養生のことなるが、又我陛下は神戸へ御滞在なるか、又は神戸より東京へ還御のことなるか返事あれ。
(「大津事件○発信電報」p16)


13日午後7時35分発
花房次官へ、神戸 土方宮内大臣より。
 聖上、露国皇太子殿下は、御同車にて午後六時廿五分、神戸へ御着、直に御同車、御用邸へ赴かせられ御小憩の後、聖上には殿下を波止場まで送らせられたり。殿下御障もなく、御機嫌麗しく御帰航あらせられたり。右、両陛下、皇太子殿下へ言上、内閣総理大臣へも、通知ありたし。八時神戸発汽車にて還幸の筈。
(「大津事件○各庁通信」p37)


13日午後10時発
京都 西郷内務大臣、伊藤議長、黒田顧問官へ、松方総理大臣より。
 御地へ罷出たし。天皇陛下へ御伺の上折返し返事を乞う。
(「大津事件○発信電報」p17)


13日午後10時30分ガチナ発
小松宮親王殿下へ、露国皇帝陛下より。
 殿下の表せられたる懇篤の意を感謝し、且余が男の平穏なる容体の報道を与えられたることを深謝す。
  アレキサンドル
小松影仁親王殿下
(「大津事件○皇室御往復書信」p25)


13日午後10時35分ガチナ発
伏見宮親王殿下へ、露国皇帝陛下より。
 余の男が恐るべき災難に罹りたるに付、懇志を表せられ、且安心すべき報道を与えられたることを謝す。
  アレキサンドル
伏見宮貞愛親王
(「大津事件○皇室御往復書信」p27)


13日午後10時45分発
花房宮内次官へ、京都 土方宮内大臣より。
 (天皇陛下は)本日午後八時神戸御発車、同十時二十分御機嫌能京都へ還幸在らせられたり。
(「大津事件○各庁通信」p38)


13日午後11時半発
京都 伊藤伯、黒田伯へ、松方総理大臣より。
 尚お熟考するに皇后宮陛下并皇太子殿下御同道にて、露国皇太子殿下を軍艦に御見舞い相成る様致度し。就ては其地にて御上奏の上、天皇陛下より御沙汰相成る様御手続下されたし。皇后宮陛下は昨朝新橋より御帰りの後も御健全に付、汽車の御旅行は御障りあらせられ間敷と思考す。
(「大津事件○発信電報」p19)


13日時刻不明
青木外務大臣へ、在露国西公使より。
 露国の官報及び各新聞は、露国宮内大臣の名を以て発布せし左の公文を掲載したり。
「露国皇太子殿下は御旅行中、五月十一日、巡査の為めに剣にて其頭部に負傷遊ばされたり。此犯罪人は再び殿下に打ち掛からんとしたれども、希臘(ギリシャ)親王殿下は杖を以て之を撃倒し給えり。殿下の創傷の軽くして危険なき得たるは一に上帝の冥護にして感謝すべき所なり。殿下の親裁の電信は御健康の恙なきことを証せり。殿下には停滞の御思召なく御予定の路筋を変せられず、引続き御旅行なさるべき意向なり。」
 当地の感情は甚だ激せり。ギェールス(ギルス)氏は頻りに在日本公使并にバリアチンスキーの報告を固執したる末、漸くにして此事変の結果を穏和ならしむ可き状態を官報に公載することを承諾したりとは雖も、到底彼の謀殺未遂者たる巡査に関する充分なる弁明并に此事変の詳報は必要欠く可からざるものとせり。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p18)


時刻不明
日本外務大臣へ、希臘外務大臣より。
 希臘政府は閣下の電報に依り、一個の精神惑乱者の為めに露国皇太子殿下の受けさせられたる痛嘆すべき兇変も、一時の事にて■■み同殿下は貴政府に於て取締を設けられたる為め安全に希臘親王殿下と共に引続き御旅行あらせらるべき旨を承知し深く満足せり。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p19)

 天皇陛下始め各大臣達が次々と京都に向うのに対し、東京に残らざるを得ない松方総理大臣の焦りが伝わってくるようである。
 また、どうして露国官報ではギリシャ親王が杖で打って津田を倒したとなったのだろう。露公使も随行武官も皇太子の方を注視していなかったということであろうか。

 

刑法116条を適用できず

 さて、皇太子を襲った津田三蔵の処罰に関して、井上馨顧問官の指示によって、司法省御雇伊国人パテルノストロに、刑法116条を適用できるかを問わせているが、その答は明快なものであった。

 つまり13日の時点で日本政府は、津田三蔵を死刑に処するのは法的には無理であることを知ったということになる。


14日午前1時55分発
内閣松方総理大臣へ、京都御所伊藤貴族院議長より。
 天皇陛下は暫く京都に御駐輦。将来の形勢を見定め御帰京の積り。(露国)皇太子は神戸の軍艦に移れとの(露国からの)訓令のみなり。一両日の内には大体分るべし。貴官此地に御越のことは、明朝評議の上、返事に及ぶべし。
(「大津事件○来信電報」p66)


14日午前3時40分ガチナ発
日本皇后陛下へ、露国皇后陛下より。
 陛下は余の親愛する太子の容体に付、好報を送られたるは余の幸福にして感謝す。又皇帝陛下は太子を兵庫迄御同行されたる御厚意の程は、余等の最も感銘に堪えざる事なり。
  マリー
日本皇后美子陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p21)


14日午前7時発
京都 西郷内務大臣、青木外務大臣へ、松方総理大臣より。
 榎本は六時の汽車にて発す。新橋にて別れたり。
(「大津事件○発信電報」p20)


14日午前8時25分発
京都 黒田顧問官、伊藤議長、西郷内務大臣へ、松方総理大臣より。
 井上伯、野村子、昨夜乗車、其地へ行く。
(「大津事件○発信電報」p21)


14日午前8時25分発
京都 伊藤議長へ、松方総理大臣より。
 返答請取る。今般の処分順序に付、至急御直談致し度。拙官其地へ参ること御許しを頼む。
(「大津事件○発信電報」p22)


14日12時発
西郷内務大臣へ、松方総理大臣より。
 沖滋賀県知事及斎藤警部長進退伺提出せるに付ては、速に免官の御取計相成然るべくと存候。御意見如何にや。
(「大津事件○発信電報」p23)


14日12時50分発
内閣松方総理大臣へ、京都御所西郷、其外より。
 貴官、此地御越の事は相談したる後、奏問せしに、万事掛引の為め其地に止まれとの御沙汰なり。
(「大津事件○来信電報」p69)


14日12時50分発
内閣松方総理大臣へ、京都御所黒田、伊藤より。
 皇后陛下、皇太子殿下御同道、露国皇太子殿下を軍艦に御訪問の義、上奏に及びたる処、既に昨日帰艦相成たる上は、更に其義に及ばずとの御沙汰ありたり。
(「大津事件○来信電報」p72)


14日午後1時30分発
西郷内務大臣、青木外務大臣へ、松方総理大臣より。
 平井賞勲局書記官、勲章を携帯し只今出発せり。露国皇太子随行員叙勲の義は、貴官より直に天皇陛下へ御上奏にて可然御取計あれ。
(「大津事件○発信電報」p24)


14日午後3時35分
内閣松方総理大臣へ、西郷内務大臣より。
 沖知事処分の義は、(露国)皇太子殿下より陛下へ御懇話の次第有之。伺中に付、追て御回答致すべし。
(「大津事件○来信電報」p76)


14日午後3時35分発
松方総理大臣へ、京都御所 青木外務大臣より。
 露国ニコラ皇太子及希臘ジョージ親王へ御進贈なるべき菊花大勲章も平井氏持参するや。然らざれば、今夕の便を以て御郵送ありたし。
(「大津事件○来信電報」p79)


14日午後5時30分発
宮内省花房次官、香川大夫へ、神戸 三宮式部次長より。
 露国皇太子殿下御容体は御乗艦後少しも御障なし。本日始めて繃帯を換させられたれども御痛もなく、御熱もなし。亦、威仁親王殿下并に接伴員を午餐に召され、御機嫌麗しく御話しあり。追々御平癒に趣かせらる。
(「大津事件○各庁通信」p40)


14日午後6時30分発
青木外務大臣へ、松方総理大臣より。
 平井書記官、菊花顕飾章一組、菊花大綬章二組持参せり。
(「大津事件○発信電報」p25)


14日午後6時40分発
内閣周布書記官長へ、京都多田書記官より。
 上奏物、今日の運びに至らず。明朝評決すと外務大臣の命あり。
(「大津事件○来信電報」p83)


14日午後7時半発
西郷内務大臣、伊藤顧問官、黒田顧問官、青木外務大臣へ、松方総理大臣より。
 くつしまちうけたる露帝陛下より我陛下へ本日の電信、誠によき望みある様思う。ついては御予定通、東京御出の運びを望む。
(「大津事件○発信電報」p26)


14日午後10時発
露国皇后陛下へ、日本皇后陛下より。
 皇太子殿下御容体は御乗艦後も御障りなく、追日御快方に赴かせられ、本日始めて包帯を換えさせられたるも御痛みなく御熱もなきよし、神戸より電信を領せしを御通知致すは最も悦しき事なり。
  皇后宮
露国皇后陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p11)


14日午後10時25分発
宮内省花房次官へ、京都 土方宮内大臣より。
 露国皇帝陛下より左の通電報ありたり(12日午後8時10分発か)。総理大臣へも通知あれ。

(天皇陛下へ、露国皇帝陛下より。)
「陛下、余が男に対し、特に懇情を表彰せられし候。余に於て深謝の至りに堪えず。朕は『グランシュックセザルウヒッケ』が大津に於ける痛憤すべき災難により自ら陛下を訪問する為め、予期したる総ての歓娯を失うことなきを余に於て希望する所なり。」
   アレキサンドル
日本国皇帝陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p18)


14日午後11時5分ガチナ宮発
天皇陛下へ、露国皇帝陛下より。
 朕が太子の報道を朕及皇后に送られたるの厚意を感佩し、且皇太子身辺に囲繞せる厚情と注意とに付ては、朕は鳴謝の至りに堪えず。
  アレキサンドル
睦仁皇帝陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p17)


14日午後11時5分発
松方総理大臣へ、西郷内務大臣より。
 大山、高島の両中将、至急当地へ罷越す様御命じ相成りたし。
(「大津事件○来信電報」p88)


14日発、16日着
青木外務大臣へ、在露国西公使より。
 露国政府の意向は、余程宜しき方に傾けり。ギエールス(ギルス)氏曰く、
「皇太子殿下の予定の路程を変更することなく進行せらるべきや否は、一に凶行者の性格及び兇行の原因等を吟味し、其結果如何に依りて決定すべきものとす」と。
 当地の或る役人社会及其他の部分に於ては、本件は外人の教唆に胚胎するなきや、殊に露人の教唆に係るやも知れず、と疑念を抱く者あり。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p22)


14日発
青木外務大臣へ、在露国西公使より。
 本日の露国官報に掲載せし事項の直訳は左の如し。
 「皇太子殿下は、二日間西京に御滞在後は最も健全にして御機嫌宜しく、殿下は本日帰艦あらせられたり。日本皇帝陛下は、西京に於て皇族及び顕官を率いて皇太子を御訪問あらせられ、且つ神戸波止場迄御同判遊されたり。日本の官府及人民は殿下の御遭難に付、痛悼慨歎に堪えざるの意を表せり。」
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p28)


15日12時30分発
西郷内務大臣へ、松方総理大臣より。
 大山、高島両中将は、今夕の汽車にて御地へ向け出発の筈なり。
(「大津事件○発信電報」p29)


15日12時30分発
西郷内務大臣、青木外務大臣へ、松方総理大臣より。
 天皇陛下は当分京都へ御滞在の御積りなるや。露国皇太子殿下は当分神戸港に御滞在なるや。又は近々東京へ御来遊の御模様なるや。
(「大津事件○発信電報」p30)


15日午後1時40分発
西郷内務大臣へ、松方総理大臣より。
 矢島海軍大尉より左の通、海軍大臣へ電報せり。
 「(露国)政府は非常に遺憾の様子なり。併し現今の模様は困難ならず。」
14日露京彼得堡(ペテルブルグ)発。
(「大津事件○発信電報」p31)


15日午後3時45分発
内閣周布書記官長へ、京都御所多田書記官より。
 只今枢密院へ御諮詢の御裁可、侍従長より電報ありたり。右勅令案御回しあるべし。
(「大津事件○来信電報」p90)


15日午後4時30分発
松方総理大臣へ、京都御所西郷内務大臣より。
 陛下還幸の御日限未だ定まらず、露国太子神戸去留の事も同様なり。
(「大津事件○来信電報」p97)


15日午後5時30分発
松方総理大臣へ、京都御所西郷内務大臣より。
 沖滋賀県知事及斎藤警部長進退伺届分の件に関し、小官の意見御問合に付熟考するに、右両人は単純なる免官にては処分軽きに過ぐるを以て、懲戒例に依り免官処分に及び然るべしと存ずれども、沖知事は就任以来、日浅きに付、寛容の取扱に相成様希望せらるゝ旨、露国皇太子殿下より天皇陛下に親しく申上られたる次第も有之。陛下も其御沙汰に相成度思召に付、沖知事だけ懲戒例に依り官職を免じ、位は其侭差置かれ、斎藤警部長は免官位記返上申付られる様、言上に及びたる処、其通御裁可相成たるに付、迅速前文の通御処分相成たし。
(「大津事件○来信電報」p102)


15日午後7時20分発
内閣書記官へ、西京御所多田書記官より。
 別紙電報、司法大臣へ訳の上、至急御伝えありたし。
 山田(司法)大臣へ、三好(検事総長)より。
 本日の御決議に依り、管轄違い訴を大津地方裁判所へ提起することゝなれり。依て急速指揮ありたし。
(「大津事件○来信電報」p94)


15日午後7時20分発
松方総理大臣へ、京都御所西郷内務大臣より。
 今日、青木、黒田、伊藤、井上、榎本、土方、三好、相会し、決議の上奏聞を経て被告人を、刑法第二編第一条適用の見込を以て、検事より管轄違いの訴えを、大津地方裁判所へ提出することを司法大臣より検事長に命ぜらるゝことに決定せり。司法大臣と御商議の上、陛下の思召を徹底せしめられよ。
(「大津事件○来信電報」p99)


15日午後7時55分発 16日午前6時5分着
松方総理大臣へ、京都にて野村より。
 津田を死刑に処することは、陛下より直ちに三好に御命令あり。依て大審院判事へも亦其思召を貫徹せしむ様御尽力ありたし。
(「大津事件○来信電報」p107)


15日11時25分発
花房次官へ、土方大臣より。
 威仁親王を露国へ差遣わさるゝにつき、枢密顧問官海軍中将榎本武揚へ特別随行を仰付られたり。又能久親王へ、露国皇太子殿下御相伴仰付られたり。右夫々言上通知あれ。
(「大津事件○各庁通信」p41)


15日発
青木外務大臣へ、在露国西公使より。
 露国外務大臣の機関新聞なる「ジュルナル・ド・サン・ヒートルスボル」は其記事中、特に左の一項を掲げたり。
 「皇太子殿下は、研究の為め、東洋諸国を漫遊し、到る所敬愛と懇切を以て待遇せられ、現今日本国に御滞在中なり。而して殿下には該帝国の或る都府に於て盛大熱心に歓待せられ、且つ不慮の兇変に遭遇せられたり。此兇行の原因は未だ判別せずとは雖も、狂者若くは精神惑乱せし者の所為と見做して可然と信ぜらる。」
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p24)


15日発
青木外務大臣へ、在露国西公使より。
 ノヴォエ・ウレミヤ新聞に左の論説を掲げたり。
 「本件の要点は、今回の事変たる、異教徒信者或は狂者の所為なりや、将た其他の者の所為なりやの問題是れなり。此点に関しては目下吾人の判断に苦む所なり。又今回の事件を惹起するに至らしめたるは其罪何人に帰すべきや、是亦未だ確知するに由なし。吾人と親懇なる日本国が、我太子に危害を加えしことを防ぐ為めに充分なる取締りを為さゞりしは解すべからざる事なり。露国は日本政府が該犯罪に関し、周到厳密なる求刑処分を為し、且つ兇徒及其連累者を厳重に処罰せられんことを期望するの権利を有するものなり。」
 又或る一新聞は、今回の本件に就き沈黙を守りしが、今日に至って左の如く論ぜり。
 「即ち、日本は充分なる満足を与うるの義務あり。因て此義務を尽すに躊躇せざらんことを期望す。」と。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p37)


16日午前2時40分着
青木外務大臣へ、在墺(オーストリア)国維納(ウィーン渡邊公使より。
 今回の凶変は大いに驚駭を惹起したれども、左迄に情感を撹動せず。是れ幾分かは露国がユダヤ人を待遇する素振とバルカン半島に於ける謂わゆる露国密謀とに対して、目今世に存する感情に起因するものなりと思惟せらる。
 我国が大賓に対するの好意と待遇適当なりしことは全世界の公認する所にして、今般、一狂人[即ち鎖港主義の復活を計るが如き念慮なき者]の作為せし出来事に関して、殆んど其責任を負うに及ばざるものと見做さる可し。人民は一般に露国皇后へ皇太子并に希臘親王ジオルジに対して深く休情を表せり。且つ、同皇后は予て両殿下遠路の旅行を好ませられざりしに両殿下、今回の御遭難に付ては殊に宸襟を悩せらるゝとなり。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p23)


16日 勅命
明治二十四年五月十六日、内閣総理大臣、各省大臣へ。

「朕茲に緊急の必要ありと認め、枢密顧問官の諮詢を経て帝国憲法第八条に依り、新聞紙雑誌又は文書図書に関する件を裁可し、これを公布せしむ。
 御名 御璽」


16日午前6時20分発
内閣周布書記官長へ、西京、寺嵜より。
 御用書類持参、今日出発す。手紙のことは御取消しありたし。
(「大津事件○来信電報」p111)


16日午前8時55分発
内閣周布書記官長へ、京都多田書記官より。
 今朝汽車にて寺嵜にもたせ帰京を命ず。枢密院の議に付せられたる勅令議決の上、電報にて言上の手続書も入れ置く故、同院へ協議ありたし。
(「大津事件○来信電報」p109)


16日午前11時30分発
青木外務大臣へ、松方総理大臣より。
 皇太子御帰艦後、艦内景況、野本海軍大尉より聴取りの侭報告す。

 艦内乗員の人気は御帰艦後は平常に変ることなし。艦内警備は充分に兵器の用意整頓せり。
 昨日午前十時、御本艦に坊主呼寄、御祈祷あり。
 皇太子御進退に付、本国に御伺なりしに、皇后陛下より返信ありたれども天皇陛下(露国皇帝陛下)よりの御返信に依りて御進退を決する筈なり。
 来る十九日、浦潮斯徳へ向け直航の命令ありし由し。
 露国公使に無名の郵便数通到達せり。其意味は、東京地方に皇太子を暗殺せんとするものありと云えり。
 露国軍艦シウチ号、近日浦潮斯徳より来着の筈。出艦前日、皇太子を慰めの為め端舟競争の催しある由。
(「大津事件○発信電報」p36)


16日午後4時35分発
西郷内務大臣、青木外務大臣へ、松方総理大臣より。
 露国公使館へ投書せし者は、以前より売込に出入せしもの、近頃出入りを止められし怨ならんと。不審の者あり。五人を拘引したり。筆跡も似たるよし。
(「大津事件○発信電報」p40)


16日午後5時発
内閣周布書記官長へ、京都多田書記官より。
 津田三蔵、加納順一、二人の勲位剥奪并に島立正三郎位記返上は、唯今御裁可済たり。
(「大津事件○来信電報」p116)


16日午後5時30分着
青木外務大臣へ、在米国 建野公使より。
 当地に於ては日本の為め不利なる評論なし。諸新聞は詳細の報道を掲載せしことを切望するを以て、日本の為め利益となるべき事実、殊に兇徒の性格及兇行の原因等に関する事項は、之を掲載せしめて日本の利益を計ることを得べし。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p27)


16日午後6時着
青木外務大臣へ、在伊国臨時代理公使
 当国に於て悪感なく又誤認なきを報道するは欣喜する所なり。当国の新聞紙をして、訛聞を伝えざらしめん為め尽力中なり。在伊露国大使は、我天皇陛下及人民より満腔の哀情を表せられし為め、大いに満足せり。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p25)


16日午後6時着
青木外務大臣へ、在仏国臨時代理公使
 今般の犯罪は果して巡査の所為なるや、又真個の迷信的狂人[ファナチック]の所為なるや、或は露国虚無党の陰謀に関するや、当地にては未だ判然せざるを以て、今日迄は一般の感情、我々の為め左程悪しからず。乍去、皇太子に対し悲歎の情深し。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p26)


16日午後7時30分発
露国皇后陛下へ、日本皇后陛下より。
 露国皇太子殿下には御熱も在らせられず、且つ御疵処も御全癒の上、痕跡を留めざる様御付医の診断に付御安心を乞う。
   皇后宮陛下御名
露国皇后陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p14)


16日午後7時40分着
青木外務大臣へ、在独国西園寺公使より。
 独逸に於ては露国皇太子遭難の報に接し、更に激昂の模様なし、然れども皇太子及露帝に対し一般の痛惜の意を表せり。
 兇行の原因未だ判然せざるを以て、諸新聞は深く哀痛を吐露せず。数個の新聞紙は虚無党の所為なる旨を断言せり。独逸外務大臣は左程重大の事件に看做さゞるものゝ如し。兇行者は巡査なりとは果して事実なりや。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p34)


16日午後8時30分着
青木外務大臣へ、在露国西公使より。
 諸新聞の論説は、一般に甚だ穏当なり。
 甲の新聞は曰く。「此凶変は全く前知する能わざる一個の不幸事件に外ならずして、其地方の民情に関係せざること、恰も野獣の侵害又は狂人の暴行、之に関係せざるが如し。」と論ぜり。
 乙の新聞は曰く。「世人の最も友情歓待を予期する所の国に於て、皇太子の遭難ありしは驚歎すべき事なり。仮令左程甚しき兇暴残虐の罪業にても、其説明の理由を有するものなれども、此暴行は不法無道にして其原因及目的を断定するは人知の能く及ぶ所にあらず。而して此非挙の理由を説明する所の詳況を知悉せざる間は、其原因を以て発狂又は急変の瘋癲に帰するなるべし、云々。」
 丙の新聞は曰く。「此驚怖すべき報道の達するや、到処として恐痛と最深き厭悪を発せざるなし。最初の簡短なる電報のみにては此暴挙に関し確言する能わざれども、茲に明確なる一事は、日本人は善良にして露国に対し友情を表する人民なれば、其平生に反して此罪業あるべからざる筈なり。而して此罪業は狂人又は悪人の行為なること固より疑を容れず、云々。」
 丁の新聞は曰く。「暴行の詳況は未だ之を知るを得ざれども、其外観の如何に拘らず、従来日本の人民は露国に対し友情を表する者なれば、今般其国土を汚涜せる罪業に関係を有し得るものに非るは論を俟たず。惟うに、今回の事件は単一の出来事にして、日本人民は之が為めに憤激すること恰も露国人民と異ならざるべし、云々。」と。
 其他の新聞は概ね同一の言辞を以て同一の意趣を陳述す。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p35)


16日午後11時25分発
花房宮内次官へ、土方宮内大臣より。
 聖上[露国皇太子殿下より左の通り電報あり。夫々言上及び総理大臣へも御通知ありたし。]
「余が父たる皇帝は、余が西比利亜(シベリア)を経ての旅行をなすの前、浦潮斯徳(ウラジオストック)に於て暫時休養すること必要なりと判断し、日本を辞し去るの命令を余に与えたり。依て余は来る五月十九日、即ち火曜日、露国に向て直に出発することに決定せり。陛下に暇を乞の時に際し、当国に於て陛下及其臣民より受けたる懇篤なる待遇に就き、更に真実感謝の意思を述べざるべからず。余は陛下及皇后陛下が過日来表示せられたる厚情は決して忘却せざるべし。且つ余は自ら皇后陛下へ、尊重なる敬礼を呈する能わざることを深く遺憾とす。陛下よ、希くば余が日本より持ち帰る処の記念は、毫も隔意を交えず、唯日本の帝都に於て両陛下に拝顔する能わざりしを遺憾となすことを推察し賜わらんことを。」
(「大津事件○皇室御往復書信」p31)


17日午前5時発
青木外務大臣へ、松方総理大臣より。
 露国皇太子殿下の東京に着せらるゝの期、正に近きにあるを以て、内閣各員は親しく敬礼を表するの光栄を得んと希望せしに、殿下は俄然浦潮斯徳へ発艦せらるゝの報に接し、閣員等拝謁の光栄を失し、実に遺憾に堪えず。茲に謹で殿下の海路安全を祈る。右内閣各員に代り宜く御転奏を乞う。
(「大津事件○発信電報」p41)


17日午前5時発
青木外務大臣へ、松方総理大臣より。
 露国皇太子殿下の吉辰に際し、余は内閣各員に代り恭く祝賀の意を表し、併せて殿下の万福を希望す。右宜く殿下へ転奏を乞う。
(「大津事件○発信電報」p42)


17日午前11時5分発
松方総理大臣、山田司法大臣へ、京都西郷内務大臣より。
 三好検事長、昨夜出発、今日の五時には到着と存候に付、委細御聞取にて速に御取計いありたし。
(「大津事件○来信電報」p124)


17日午前11時25分発
松方総理大臣へ、京都御所 西郷内務大臣より。
 今日、大山中将は陸軍大将に任じ、又大臣大将にて枢密顧問官兼議定官に任ず。高島中将は陸軍大臣に任ず。此旨通知す。
(「大津事件○来信電報」p125)


17日午前11時30分発
西郷内務大臣、青木外務大臣へ、松方総理大臣へ。
 過日小官出張の儀、御許可を得ず。然るに露国皇太子は最早御上京ならず。就ては其前一応御伺方に出張致し度に付、尚お御評議被尽、御許可相成候様、至急折返し返信ありたし。
(「大津事件○発信電報」p43)


17日午後1時15分発
松方内閣総理大臣へ、京都 西郷内務大臣より。
 貴官出張の儀、伺候処、其儀に不及、三好、今日其地着に付、御聞取りの上、其事に充分力を御尽し相成る様に、との御沙汰あり。
(「大津事件○来信電報」p127)


17日午後12時50分発
京都御所 西郷内務大臣へ、総理大臣より。
 今朝の電報中の大臣大将とは、大臣待遇の誤りならずや。至急知らせ。
(「大津事件○発信電報」p44)


17日午後1時50分発
内閣松方総理大臣へ、京都 西郷内務大臣より。
 大臣大将はあやまりにあらず。陸軍大臣陸軍大将にて就任のことなり。
(「大津事件○来信電報」p129)


17日午後2時45分発
内閣書記官長へ、京都 多田書記官より。
 陸軍中将位勳爵名にて、陸軍大将に任ず。陸軍大臣兼議定官、陸軍大将位勳爵名にて枢密顧問官に任ず。兼議定官故の如し。右辞令二通なり。陸軍中将位勳爵名にて陸軍大臣に任ず。副署は皆内務大臣なり。
(「大津事件○来信電報」p131)


17日午後3時20分発
松方総理大臣、花房宮内次官、香川皇后宮大夫へ、土方宮内大臣より。
 皇后陛下御登京のこと伺いたるに、最早時日も無之に付、御上京に及ばせられずとの御沙汰ありたり。
(「大津事件○来信電報」p134)


17日午後4時25分発
内閣周布書記官長へ、京都 多田書記官、平井書記官より。
 内務大臣より総理大臣へ、左の通報告す。同件は賞勲局総裁へも通知ありたし。委細は郵便。
 露国皇太子殿下、大津御災難の節、行兇者を取押えたる人力車夫、京都府平民向畑治三郎、石川県平民北賀市一太郎の両人を特旨を以て勲八等に叙し、桐葉賞を授与し、各年金三十六円を賜りたり。右報知す。
(「大津事件○来信電報」p136)


17日午後10時30分着、16日午後3時30分発
青木外務大臣へ、在英国公使の電文、在露国西公使より。
 十二日付の貴電信に接し、島村を当府駐紮露国全権大使の許に遣し、惑乱者が皇太子に兇刀を加えたることを詳述せしめたるに、同大使は之を聴て驚愕したると同時に、憂愁の意を言表せり。
 島村は、昨日該大使に十三日付、貴電信の大要即ち陛下の御面晤、皇族及大臣訪問、人民の憂悶の深きこと等を開示したるに、大使は親切なる報告に謝し、且つ好通音に接したることを歓喜せり。
 本官は前記の談話を未だ何等の説も発表せざる所の各新聞紙に記載せしめたり。併、一般の感覚は、寧ろ日本政府が惑乱者の為めに、斯る位地に陥りたることを憐惜するが如し。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p39)


18日午前11時5分着
青木外務大臣へ、在露国西公使より。
 皇太子御旅行御継続の義に付、ギィルス氏曰く。
「同氏は我人民の願望を皇帝陛下に奏聞すべしと雖も、同殿下の御身上の十分御安全なることは、予て日本政府にて明らかに保証せられ、且在日本露公使にも確認せしことなれども、之に拘わらず今般の兇変ありしを以て、右の願望は同氏にて強て言上する能わざるべし。而して右は一に皇帝と皇太子との御協議に一任すべきことなり。」と。
 最後の電信にて申し述べたる理由に依て、特使派遣を見合せられんことを勧告す。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p42)


18日午前11時55分発
松方総理大臣、山田司法大臣へ、京都御所 西郷内務大臣より。
 被告人津田三蔵、速に処分すべき旨御沙汰あり。至急御取計いあるべし。
(「大津事件○来信電報」p140)


17日午後8時50分発、18日午後1時着。
 青木外務大臣へ、在露国西公使より。
 唯今ギイルス氏来訪し、本宮の斡旋を謝し且曰く。
 「日本皇帝陛下にて政府及人民と共に、皇太子殿下の兇変に対し、真実なる病嘆と深切なる感情とを表せられたるを以て、皇帝及皇后両陛下は、充分に本件の成行に満足あらせられたり。且皇帝陛下には日本に於て百方可及的の事を尽したるを以て、本件に関し何等の補償を要求するは、朕の忍びざる所なりとの旨を述べられたり。又、皇帝は、威仁親王特派の事に付、御躊躇の御様子にて、此上尚お通悼の表訟を受るの必要ありや、との御訊問あらせられたるを以て、自分も亦た同一の旨意にて陛下に奉答せり。」
 右は公然の通告なり。次にギイルス氏は私の談話に移り、曰く。
 「皇帝陛下は実に特使を歓待せらるべし。然れども、陛下は誠実に陛下将に旅行の企画あらせらるゝが故に、若し特使の派遣せらるゝときは、無余議御在京あらせられざるを得ざる旨の御訊もありたり。且特使派遣の目的は日本政府の為めにも、又本件に関係ある我輩両人の為めにも協意の事にあらざるが如し。」と。
 是を以て本官は、露政府にては特使の来航を希望せざることゝ思考す。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p40)


18日午後10時発
青木外務大臣へ、在露国西公使より。
 露国皇太子が引続き日本国内御旅行の儀に付、露国皇帝陛下は、我政府の吐露せし衷情を十分に感佩し謝意を表せらるゝに拘わらず、右旅行を許容すること能わざるに至りたるは、深く遺憾と御思召さる。
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p45)


19日午前
露国皇后陛下へ、日本皇后陛下より。
 陛下の親愛せらるゝ太子の遂日御快方に赴かれ、不日東京に於て御面会の歓を得んことを切に希望せしに、今度皇帝陛下より示命に依り神戸より直ちに浦潮斯徳へ御回港可相成旨の通報に接し、此歓を得能わざるは実に遺憾に堪えず。此上は一日も速に御全快にて陛下の膝下に御安着相成、幸福多祥にして、且つ皇室の益繁栄ならんことを祈念するのみ。
  皇后陛下御名
露国皇后陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p15)


19日午前10時15分発
花房次官へ、京都宮内書記官
 天皇陛下、本日午前九時御出門、九時三十分特別仕立汽車にて神戸へ行幸。露国皇太子殿下より午餐の御招待を受けさせられ、零時三十分、同殿下の御乗艦に成せらる。
(「大津事件○各庁通信」p43)


19日午前10時20分発
黒田伯 伊藤伯   松方総理大臣
 榎本子へ御伝言並びに書面は正に落手承知せり。今暁の司法大臣の電報にて委細御承知相成たることと思考す。裁判官は今夕の汽車にて出発の筈に決定せり。尚お諸事御注意を乞う。
(「大津事件○発信電報」p52)


19日午後3時発
花房次官へ、神戸 土方宮内大臣より。
 聖上、十二時三十分露国皇太子殿下の御招艦に成らせられ、午後二時十五分、御滞りなく御用邸へ還御あらせられたり。夫々言上あれ。委細後とより。
(「大津事件○各庁通信」p45)


19日午後5時40分発
香川大夫へ、神戸山田書記官より。
 露国皇太子殿下御乗艦、四時四十分当港を抜錨す。右上申す。
(「大津事件○各庁通信」p46)


19日午後5時55分発
花房次官へ、京都 宮内大臣
 天皇陛下は本日露国皇太子殿下を午餐に御招請、神戸御用邸に於て御会合在らせらるべき筈の処、左御返電ありたり。

「医師の命に依り、不本意不得止明日、陛下の優渥なる招待に赴く事の光栄を失す。特に陛下に就き親しく別を告げずして日本を去ること遺憾に堪えず。因て当方軍艦内に於て、陛下随意の時間に全く懇親なる午餐を呈し度、陛下の厚情をして望外に深からしめ、佳良の一報を賜らば、余の感悦至大なるべし。ニコラス」

 依て、陛下には皇太子殿下の御招待を受けさせられ、本日午前九時御出門。同九時三十分、京都御発車、神戸御用邸より端船へ乗御。午十二時三十分、殿下御乗艦アゾー号に成らせられ、御会食あり。尋で御告別の上、午後二時、当艦を辞せられ、御用邸御休憩の後、同三時、神戸御発車五時十五分、御機嫌能く還幸あらせられたり。
(「大津事件○各庁通信」p47)


19日午後6時10分発
内閣松方総理大臣へ、京都 土方宮内大臣より。
 露国皇太子殿下へ菊花顕飾章御贈りの儀、相伺候処、其儀に及ばずとの御沙汰にて、御贈進あらせられず。
(「大津事件○来信電報」p142)


19日午後6時30分発
花房宮内次官へ、京都 土方宮内大臣より。
 威仁親王殿下并に榎本枢密顧問官、露国へ差遣わさるゝ義、免ぜらる旨御沙汰あらせらる旨、御沙汰あらせられたり。斎藤の随行も免じたり。委細は郵便。
(「大津事件○各庁通信」p48)


19日午後9時25分着
松方総理大臣へ、青木外務大臣より。
 左の電信を露国公使より受取りし。
 「威仁親王は拙者に、日本皇帝陛下は同親王を露国皇帝陛下の輦下に差遣さるべき旨命ぜられたりと、仰せられたり。此事柄は閣下[青木外務大臣]に於ても拙者へ確かめられたり。然るに拙者が今日ギェールスギ(ギルス外務大臣)より接受したる電報によれば、日本皇帝皇后両陛下の御親切に付ては、兼て露国皇帝皇后両陛下は至極御満足あらせられたり。就ては今般、有栖川親王殿下が露国へ派遣せらるゝ義は、御見合せさせられんことを懇望せらるゝ旨なり。」
 此電信及西公使より来りし右同様に重要なる報告により[其写は此電信と同じく岡部子より閣下に提出すべし。]皇帝陛下は威仁親王及榎本を露国へ派遣の義は御見合のことに御決定あらせられたり。
    青木
 岡部(岡部長職外務次官)
(「大津事件○外務省発受電報翻訳」p43)

19日 司法省告示第65号
 津田三蔵被告事件の審問裁判を為す為め、大審院は裁判所構成法第五十一条に依り、大津地方裁判所に於て法廷を開く。
司法大臣伯爵山田顕義
(「大津事件○雑」p102)


20日午後2時15分ガチナ宮発
日本皇后陛下へ、露国皇后陛下より。
 余等の親愛する太子の貴国に滞在せし間、陛下が余等に尽されたる御配慮及び御好意と、陛下の御懇信なる電報を深く謝し、同太子が陛下に咫尺し、自ら謝詞を述べ能わざりしは、余の最も遺憾とする所なり。爰に陛下の幸栄福祉を祈る。
  マリー
皇后美子陛下
(「大津事件○皇室御往復書信」p23)


20日午後6時25分発
松方内閣総理大臣へ、京都 西郷内務大臣より。
 大審院長児島、検事総長三好、以下八名(判事、検事など)、只今御前へ召され、厚き御沙汰あり。ソワヨソワ(意味不明。暗号電文内の更に暗号である可能性もある。)より、下官始め面会打合したり。此旨通告す。
(「大津事件○来信電報」p146)


20日午後8時15分発
内閣書記官へ、京都 多田内閣書記官より。
 左の電文、三好より山田司法大臣に直ぐに通知すべし。
 大審院長始め拝謁勅語を賜り、諸事都合宜しく済みたり。
(「大津事件○来信電報」p144)


20日午後11時45分発 馬関発
当番書記官へ、馬関 三宮外事課長より。
 今二十日、八重山、武蔵、高雄の三艦、馬関六連島に先着。露国皇太子殿下御召艦の至るを待ち、午後七時、御召艦の我が各艦の右舷を徐ろに過ぎらるゝに際し、三艦代る代る二十一発の礼砲を発行し、御召艦よりも是れに答砲あり。又、彼我の各艦登桁式を行い、八重山に於ては楽隊露歌及送別の樂を奏して進行を送り参らせ、御召艦よりは、我が国歌を奏して、音楽の中に滞りなく我が海岸を別離せられたり。
(「大津事件○各庁通信」p49)


21日午前6時10分発
警保局長へ、京都府警部長より。
 作午後八時頃、千葉県長狭郡加茂川町畠山文治郎姉ユウ子(勇子)なる者、当府庁門前に於て自殺せり。其趣意は露皇太子殿下が御遭難のため東京に御出でなきを愁い来京したるも、御発艦の後なるを以て死を決したるものゝ如く、数通の書置あり。委細郵便。
(「大津事件○各庁通信」p49)


21日午前6時30分発
宮内書記官へ、静岡行在所 供奉宮内書記官より。
 聖上、御機嫌能御予定の通、午後五時五十五分、当地御安著在らせられたり。
(「大津事件○各庁通信」p50)


21日
松方総理大臣へ、駐日露国公使より。
 拝呈、然■、在聖彼得堡(セイント・ペテルブルグ)日本公使閣下より、我至尊なる皇帝の外務大臣閣下へ、五月十一日大津の兇行に対する滋賀県人民の感情を陛下に陳述する所の電信を■致相成候処、皇帝陛下は甚だ其所為を感ぜられ、電信の発送者へ、陛下の謝辞相伝うべき旨、拙者へ勅命有之。依て右之■■■及■通■■条可然其筋へ呈達■■■■■。
   シエウイッチ
内閣総理大臣松方伯爵閣下
(「大津事件○雑」p104)


22日
露国公使へ書翰案
 拝啓陳は、五月廿一日付貴翰、正に受領致候。我大津人民より貴国皇帝陛下へ奉呈せし電報に対する陛下の優渥なる謝辞は、閣下御照会の通速に其筋へ達方取計置候。右御回答傍ら此段貴意を得候。
  総理大臣。
(「大津事件○雑」p103)


26日午後6時50分発
内務次官、警保局長へ、大津 大浦次長より。
 両大臣は正午より県庁にて、大審院、検事総長と内談あり。夫より判事の固めも稍見込立ちたる者と見え、明後二十八日、公判開廷のことに内決したり。内務大臣は、明日午後より京坂間巡回の為め、出張せらるの予定なり。尚委細は追々御報す。
(「大津事件○各庁通信」p52)


26日午後6時55分発
松方内閣総理大臣へ、大津市庁 西郷内務大臣、山田司法大臣より。
 児島、三好、に面会せしに、裁判官に直接面会は然るべからずとのことに付き、両人より充分意旨を通せしめたり。
(「大津事件○来信電報」p150)


26日午後10時発
警保局長へ、大津 大浦次長より。
 公判は更らに明日(27日)正午より開廷のことに決す。
(「大津事件○各庁通信」p53)


27日午前零時35分大津発
松方内閣総理大臣   西郷内務大臣、山田司法大臣
 明日(27日)午後公判を開くに決す。此上は裁判官の意思に任すより外なし。
(「大津事件○来信電報」p151)


27日午前8時発
大津 西郷内務大臣、山田司法大臣へ、松方総理大臣より。
 二つの電報請取る。御見込み通にて然可し。
(「大津事件○来信電報」p152)


27日午前9時15分発
小田原 伊藤伯、山縣大将      松方総理大臣
大津より両大臣の電報にて、裁判官の意思に任せる外なし。今日午後より公判を開くと。
(「大津事件○発信電報」p55)


27日午後1時10分発
内閣総理大臣へ、滋賀県知事より。
 本日津田三蔵公判開廷に付、傍聴人六七十人、裁判所に出掛けたるも、午前九時傍聴禁止の掲示あり。傍聴人構外へ退く。三蔵は午前十一時二十分監獄を出て、途中見物人群集したるも、十二時十五分裁判所へ無事着く。十二時三十分訊問あり。別に異状なし。
(「大津事件○来信電報」p153)


27日午後3時40分発
内閣総理大臣へ、滋賀県知事より。
 三時二十分、弁論終決す。
(「大津事件○来信電報」p156)


27日午後5時発
松方総理大臣へ、大津支庁 西郷内務大臣、山田司法大臣より。
 只今、謀殺未遂罪として、無期徒刑の処断あり。
更に為すべきの道なし。
(「大津事件○来信電報」p158)


27日午後7時35分発
内閣総理大臣へ、滋賀県知事より。
 本日津田三蔵の公判は、十二時三十分開廷、傍聴禁ぜられ、午後三時二十分弁論終結、六時三十分通常謀殺未遂犯にて無期徒刑に処すべき旨宣告ありたり。別に異状なし。
(「大津事件○来信電報」p159)


28日午後2時55分発
内閣総理大臣へ、大津 西郷内務大臣より。
 今夜一時十五分発車、明午後五時半着京す。
(「大津事件○来信電報」p162)

 

 

津田三蔵処分

 津田三蔵への処分に関しては、電報文のやり取りだけでは詳細なことは見えないが、それでも以下のように抜書きすると、大体の流れが分る。


15日午後7時20分発
内閣書記官へ、西京御所多田書記官より。
 別紙電報、司法大臣へ訳の上、至急御伝えありたし。
 山田(司法)大臣へ、三好(検事総長)より。
 本日の御決議に依り、管轄違い訴を大津地方裁判所へ提起することゝなれり。依て急速指揮ありたし。

15日午後7時20分発
松方総理大臣へ、京都御所西郷内務大臣より。
 今日、青木、黒田、伊藤、井上、榎本、土方、三好、相会し、決議の上奏聞を経て被告人を、刑法第二編第一条適用の見込を以て、検事より管轄違いの訴えを、大津地方裁判所へ提出することを司法大臣より検事長に命ぜらるゝことに決定せり。司法大臣と御商議の上、陛下の思召を徹底せしめられよ。

15日午後7時55分発 16日午前6時5分着
松方総理大臣へ、京都にて野村より。
 津田を死刑に処することは、陛下より直ちに三好に御命令あり。依て大審院判事へも亦其思召を貫徹せしむ様御尽力ありたし。

17日午後1時15分発
松方内閣総理大臣へ、京都 西郷内務大臣より。
 貴官出張の儀、伺候処、其儀に不及、三好、今日其地着に付、御聞取りの上、其事に充分力を御尽し相成る様に、との御沙汰あり。

18日午前11時55分発
松方総理大臣、山田司法大臣へ、京都御所 西郷内務大臣より。
 被告人津田三蔵、速に処分すべき旨御沙汰あり。至急御取計いあるべし。

19日 司法省告示第65号
 津田三蔵被告事件の審問裁判を為す為め、大審院は裁判所構成法第五十一条に依り、大津地方裁判所に於て法廷を開く。
司法大臣伯爵山田顕義

20日午後6時25分発
松方内閣総理大臣へ、京都 西郷内務大臣より。
 大審院長児島、検事総長三好、以下八名(判事、検事など)、只今御前へ召され、厚き御沙汰あり。ソワヨソワ(意味不明。暗号電文内の更に暗号である可能性もある。)より、下官始め面会打合したり。此旨通告す。

20日午後8時15分発
内閣書記官へ、京都 多田内閣書記官より。
 左の電文、三好より山田司法大臣に直ぐに通知すべし。
 大審院長始め拝謁勅語を賜り、諸事都合宜しく済みたり。

26日午後6時50分発
内務次官、警保局長へ、大津 大浦次長より。
 両大臣は正午より県庁にて、大審院、検事総長と内談あり。夫より判事の固めも稍見込立ちたる者と見え、明後二十八日、公判開廷のことに内決したり。内務大臣は、明日午後より京坂間巡回の為め、出張せらるの予定なり。尚委細は追々御報す。

26日午後6時55分発
松方内閣総理大臣へ、大津市庁 西郷内務大臣、山田司法大臣より。
 児島、三好、に面会せしに、裁判官に直接面会は然るべからずとのことに付き、両人より充分意旨を通せしめたり。

26日午後10時発
警保局長へ、大津 大浦次長より。
 公判は更らに明日(27日)正午より開廷のことに決す。

27日午前零時35分大津発
松方内閣総理大臣   西郷内務大臣、山田司法大臣
 明日(27日)午後公判を開くに決す。此上は裁判官の意思に任すより外なし。

27日午前8時発
大津 西郷内務大臣、山田司法大臣へ、松方総理大臣より。
 二つの電報請取る。御見込み通にて然可し。

27日午前9時15分発
小田原 伊藤伯、山縣大将      松方総理大臣
大津より両大臣の電報にて、裁判官の意思に任せる外なし。今日午後より公判を開くと。

27日午後5時発
松方総理大臣へ、大津支庁 西郷内務大臣、山田司法大臣より。
 只今、謀殺未遂罪として、無期徒刑の処断あり。
更に為すべきの道なし。


 13日の時点で、津田を法律で死刑とする事は無理であることは、山田司法大臣達も分っていたはずである。しかし、

 「陛下の思召を徹底せしめられよ。」
 「津田を死刑に処することは、陛下より直ちに三好に御命令あり。依て大審院判事へも亦其思召を貫徹せしむ様御尽力ありたし。」
 「其事に充分力を御尽し相成る様に、との御沙汰あり。」 
 「被告人津田三蔵、速に処分すべき旨御沙汰あり。」

とあるように、津田三蔵を死刑に処する事を天皇陛下が強く望んでおられた事が窺われ、大臣達はそれを何とかして叶えんとしている様子が見えてくるのであるが。

 考えてみれば、露国皇太子を国賓として招待し、国民挙げて歓迎する中での日本旅行が成就するなら、日露両皇室の友好の絆は確固としたものとなり、そのことが日本の国益にもたらすものは計り知れないものがあったろう。しかし、1人の国民が、それもよりにもよって警備に当たる巡査が皇太子を襲撃すると言う、世界にも凡そ例を見ない前代未聞の醜態を晒すに至ったのである。明治天皇の震怒いかばかりであったろうかとは容易に想像できることである。

 しかし、その御意志が通ることなく津田三蔵は無期徒刑となった。「更に為すべきの道なし」であり、明治22年2月に発布された帝国憲法下にある当時の日本が、立憲君主制度の国であるということの証左でもあろう。

 5月29日に青木周蔵が、6月1日には西郷従道、山田顕義が、それぞれ辞表を松方正義総理大臣に提出した。(辞表 外務大臣 子爵青木周蔵、辞表 内務大臣 伯爵西郷従道、辞表 司法大臣 伯爵山田顕義)
 青木は「職務上恐縮の至り」、西郷は「恐懼措く能わず」、司法大臣である山田は「職務を尽すの足らざるに基き候義と恐懼罷在候」と辞表で述べている。

 

露国の反応

 以下は在露国西徳二郎公使からの報告。23日頃までの様子を伝えたものである。

 廿一日、当国の官報に太子の随員バリヤチンスキー氏より発したる左の電報を掲げ候。
 兵庫五月十九日、皇太子全快、本日午後、当地よりウラジウストークへ赴かる。日本皇帝陛下来て別を告げられ、バーミヤゾフ艦内に於て太子と共に午餐せられ、懇切の及難別ありし。此数日間、太子数総代を受けられ、且日本国中より多く名書及贈物等を請けられたり。
(「大津事件○雑」p133)

 当国政府に於ては、今回の事件に付、本邦前後の御処分を以て十分に満足せしは、拙者の証するを得る所にして、殊に我皇后陛下より、当国皇后への御注意最も著しき結果を呈したる次第は、当国皇后に於て伺候の人々へ、「日本皇后より毎日程が様々の電信を下され、誠に深切なり。此方よりも之に応じて互に相往復す」との御話屡々有之候由にて、我皇后の御名、当地の上等社会に著われ、「日本皇后には、子を案ずるの情、深き御方なり。両皇后之に由て御親みなされし」と転々相伝え、此間、其事客間の流行談と相成居候。
(「大津事件○雑」p131)

 また、無期徒刑の判決が下りた後の反応は以下のものであった。

(「大津事件○雑」p137より、会話部分は会話形式として表記しなおすなどして現代語訳。()は筆者。)

  在露帝国公使機密報告第九号
  明治二十四年六月三日発
   津田犯罪人処分の件
 五月三十日の電報にありました、津田犯罪処分に関しまして、そのことは翌三十一日に別紙写しの通りに、書面を以て外務大臣ギルス氏に通告し、一昨日六月一日に同氏の所に参り、我国の刑法第百十六条の訳文をも示し、我国の政府に於ては、この箇条の適用を請求したところ、その通りにすることはできないが、刑法の許す限り重罪に処したいと、述べましたところ、同氏の説には、

ギルス「それはセーウィッチ公使から委細を申してきた。貴政府に於てこれに処するのが難しいのは承知の事であるが、この判決によって甚だ不快の念が起こるわけは、日本の御招待に応じて貴地に遊歴中の当国太子に害を加えんとした者を、普通人に害を加えんとした者と同等の処分に帰させたことにある。だからといって、必ず死刑の処分があるべきであると望む意ではないが、もし一旦、死刑の判決となって我が方から赦免を要請するという都合となったら良い結末であったのに。」
との趣旨で、何度も遺憾の意を述べ、また、当地の新聞にもこの不快を広めるおそれもある、等の話もあり、それで拙官は、

西 「我国の政府においては、貴政府を満足させるため、前に述べたように出来るだけの術は皆既に尽したことなので、新聞などがよくこれを知り、また我が国の法律を理解すれば、それほど不快の念も述べないと思うが、貴君においては格別に我が政府がこれに処すべき方法があると思われようか、どうだろうか。」と尋ねましたところ、ギルス氏の答に、

ギルス「貴国の法律がこのようにある以上は他に致し方ないことは知っている。もとより人を殺してくれと言えることでもない。またその意は毛頭ないし、我国に於てはこれを以て満足する他はない。我が皇帝にも御同意なられると思うので、その意見を明日皇帝に奏し、返事は直ちにセーウィッチ公使に通告することとしよう」

とのことで、尤も言葉の中には、「貴国が俄かに欧州のスイス国となっても、それが実際に国のために利益となるだろうか。」などと、辛らつな語もありました。
 その後、拙官は話を変えて、

西 「何にしても幸いに皇太子も無事に御出発されて、我国に於ても不都合な出来事も、今は殆ど忘れる時期となり、この発狂者の処分の事で諸君の感情を悪くするのは甚だ遺憾なことであるが、我方では既にこれをどうすることも出来ないことは貴君にも御同意のことなので、今は少しく処分の結果についても貴慮を煩わしたが、だいたい非命の死を遂げた者は、その所業の善悪を問わずに、不思議にも愚民の中にはこれを豪傑視する風潮がある。そんな影響は望ましくないものである。この点から見れば、死刑よりは無期徒刑の方が却ってすぐれたものがある。」
と説くと、ギルス氏が言うのに、

ギルス「それは一理ある。セーウィッチ公使からも今度同様のことを言って来ている。」
と、立って長電文を取り出し、これを読み聞かせたその大略は、

 「大津に於て津田を裁判し、普通の謀殺未遂罪の刑法によって終身刑の申し渡しがあった。犯罪の動機はファナチック(精神異常)によるとのことで、誰かのそそのかしによるものでもなく、徒党を組んでのものでもなく、日本政府はこれを皇室に対する罪と見立てたが、それも虚勢のデモンストレーションに過ぎないもので、拙者は死刑にするべきと思うが、日本政府から書面を以てではないが、これ(無期徒役)で満足するか否かの問があった。それで、今はこれに対する貴命を待つ。確かにこの刑は交際上から言えば人民に、犯罪人は自己の主義主張の為めに命を棄てたのである、との反応を得させない利がある。青木大臣は職を辞した。内務、司法、両大臣もこれまた続くだろう云々。」

 それでギルス氏に返答を問うたところ、

ギルス「日本の答に皇帝も御承諾なされたので、我が政府に於ては、この処分で満足するので、そう承知されたい。」
とのことでしたので、よって拙官は、皇帝がこの事についてどう感じてあるかを尋ねましたところ、

ギルス氏「皇帝にも拙者同様に御感じであって、一旦死刑と決まれば、こちらから赦免を要請して終わりとするのが好都合であったが、これはその国の法律に基づく事ならば、それで満足する他はない。しかしこれでは日本の利益にもならないだろう、との仰せであった。」
という談でありました。

(以下略)

 その後西公使は、自分の感想として「拙官に於ても実は此判決を以て快とせざる議は、其本邦に於て当国の皇太子を待遇せらるゝの厚さと寒暖相合わざるは勿論、国に憲法あるとて新定の模作法に拠り、強情張りし処が、我国民自然の発達、他の憲法国の度に進まざる間は、一つの理屈たるに過ぎずして、実際他人の信服すべき筈もなく(「同上」p140)」などと述べている。

 しかし、かつて天津条約をめぐっての榎本武揚と李鴻章との内談において、榎本は、我国ではたとえ皇帝陛下といえども法を枉げて人を処断することはできない、という意味の事を述べたが、遵法は近代国家の基礎たるものであり、当時の日本は結局はここでもその道を間違わなかったということであろう。

 日朝間の問題とは直接関係のない事件なので、1頁内に収めたために長文となった。

 

 

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