日清戦争前夜の日本と朝鮮(16)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)


1888(明治21年)3月15日号、ビゴーのトバエ(鳥羽絵)第27号より (「在横浜佛人経営狂画雑誌発行停止ノ件/3 TOBAE〔第27号〕」p4、p5を1画面に。)

 1888 欧州政治上の景勢

国力平均の権衝は、能く欧州大国の平和を保つ。

ふつ●●々々小言こごとが初まったから、今度こそ愈戦機のイタリヤ●●●●かと思えば、アレマン●●●●待てと、仲裁が飛出て、いつもながら泣き練入りの立消はしたわけかと、聞て見たら、夫は方、諸国みんなつかれた処を獅子の大口で、アングロ●●●●と喰われるのが恐ろしいからですと。
なんだべらぼうめ、つまらない地口で人をおどかしやあがる。いめえましい、チョン。

英「まだか、まだか」、伊、アルプス、仏、独、国疆、オーストロラングロア、露。

各自共営に生る図  誰が話し出すか知らん。


 アレマンは独、アングロは英をそれぞれ指す。「地口」とは要するに駄洒落のこと。勿論「チョン」は芝居の拍子木の音である。

 なお、ビゴーの風刺画の中でも有名な「日本、ロシア、中国が朝鮮を釣ろうとしている絵」に関しては、その説明と共に次ページに掲載している。

均衡の模索

 明治22年(1889)2月、日本政府は大日本帝国憲法を発布した。
 愈々近代国家として歩む体制を整えた日本は、この先どのような道を歩んでいけばよいのであろうか。まして東亜の各国を侵食する西洋列強国同士も又果てしなき抗争劇を展開し、将に弱肉強食の爪牙を隠そうともしなかったこの時代に、日本にはいったいどう生き残る道があったろうか。

 明治22年(1889)12月、第1次山縣内閣に於て、先の伊藤内閣の時に外務次官だった青木周藏は外務大臣に任命された。
 以下、翌年の5月に彼が提出した意見書である。長文であるが、実に興味深いものがあるので全文掲載する。なお微妙なニュアンスを含む文章なので敢えて現代語訳せず、原文のままとした。

(青木大臣意見「東亜細亜列国ノ権衡」より、原文中の「ヽ」ルビは下線とし、「〇」ルビは下線付きで太字とした。()は筆者。)  

東亜細亜列国ノ権衡

 茲に宇内の形勢を察し、日本、支那、及び朝鮮を、東亜の列国と称するも蓋し其当を失わざるべし。
 而して列国版図の面積を挙げれば、凡そ壱百六十五万方哩にして、其民口は殆ど四億壱千万に垂々(なんなん)とす。之を全欧州に比較すれば、面積九十一万方哩、人口八千万を超過するものなり。

 東亜列国の開化に冀図に休戚に及措置に就いて、之を徴するに其状情自ら西洋各国と異同あり。故に東亜列国が欧州各国の事務に干渉して、喙を容るゝの理あることを主張し難きは明瞭なるが如く、東亜の事務に就いて該列国は毅然自守して其主持する所を固執し、欧州各国をして敢て干渉を為さしめざることを主張するの権あるや、更に疑を容れざるなり。

 其疆土の巨大なると民庶の衆多なる点より、之を謂えば所謂中華は列国中の最も緊要なる領袖たり。
 然れども、其地勢に兵力に政治及び智識の発達に、若くは人民生活上万般の進捗に就いて、之を論ずれば、我日本国は東亜列国中に於て実に政治上の首班を占め、率先の地に位するものと云うべし。

 欧州の各強国が輓今に至り、孜々として兵力を拡張し、海外所属地を増加するを図り、之を以て自国の管轄に帰し、以て新貿易市場を拡張し、以て新物産穫収地を略有し、若くは過殖人民の移住地を求めて本国の連絡覇制の下に属せしめ、以て国民の移住を奨慫する等の希図は、実に宇内の形勢上、爾来容易ならざるの結果を現出せり。
 即ち各国が専意壱慮、殖民及び侵略の両策を執行するの本色を顕出せし事実は、東亜列国をして西洋の侵略政略に対し、其疆土を保護するに必要なる計画を講ずるの已むを得ざるに至らしめたり。
 而して、日本は、東洋列国に於て首班の位地を占むるを以て、他に率先して斯る計画を規定するは亦其天賦の責務なり。

 抑々我日本国は、愛国勇敢の人民を以て充塞し、之に加うるに異種人種の混合なく、兵員を募るに最も良好なる原素を有するを以て、其金甌無虧(欠)の境土を維持するに於て毫も沮畏する所なし。
 然れども、事を未発に綢繆するは経務の要にして、決して等閑に付すべからざるものあり。即ち、一旦欧州強国が東亜列国に対して其侵略の計を逞うせんと欲するあらば、列国は之に対し果して如何なる施設を為すべきや。若くは其既に侵略したる東亜領地に於て、某一国が著しく其兵勢を拡張するが如きあらば、此挙たる、日本国の平和治安に対し直接の威迫に非らざるを得んや。是、日本国が大に其防護線を拡張し、兵勢を増加せざるを得ざる所以なり。

 夫れ、欧州各国中最も鷙悍にして常に危険の根源たるものは即ち露国なり。而して東亜列国中最も羸弱にして、先ず其弊を蒙るものは朝鮮なり。

 彼の露国の政略たる、領地を増拡するに在るは固より言を竢たざる所にして、其政略の精神は海港を占有するに在り。而して其海港は冬季に至るも尚お氷閉せざる所を択むに在り。

 亜細亜の東端に於て、何事が最も能く露国の企図を全うせしむべきやを考うるに、朝鮮諸港口の占領に如くものなし。
 然るに朝鮮半島は、東亜列国の咽喉を扼するを以て、強悍露国の如きもの茲に占拠するときは、日清の海洋に雄視して覇権を攬握するは敢て難きに非ざるべし。

 故に朝鮮をして今日の如く疲羸萎靡藐乎として扞蔽なきの位置に立たしめ、露国をして漸次蚕食の計を肆にし、寸前尺得の意を逞うし、韓北黒龍地方に根拠し、以て事を朝鮮半島に挙ぐるの基礎を固からしむるが如きは、封豕長蛇の勢、終に制止すべからざるに至り、到底東亜の平安静寧は得て期すべからず。
 而して極東の均勢を穏順公平に処理することも亦、到底木に縁て魚を求むるの挙に属するなきを得んや。

 夫れ然り而して、露国が東亜列国を威迫するは、特り朝鮮の方面に拠りて之を逞うするに止まらざるなり。其日本海ヲコック(オホーツク)海、及太平洋に瀕するの地域は、日清両国に対して常に危難憂慮の淵源たるのみならず、露領サイベリヤ(シベリア)境界の清境と、犬牙相接するも亦中国をして常に抱憂せしむる処なり。

 而して此事実あるを以て従来世人は、露国を以て東亜問題に関し重要なる地位を占むるものと断定せしか、恰も此事実を証明に似て、露国は進でサイベリヤ鉄道架設の計画を決定せり聞くが如くんば、其線路は極端を浦塩港に達せしめ、沿道連綿として清の北境に併行すと。而して其敷設も議定断行を経て疑うべからざるの事実と為れり。

 果して然らば此鉄道を利用し、露国は一檄の下、毫末の妨碍なくして直に精鋭なる大兵を広邈無涯、毫も守備なき清境に、或は日本の眦近に発送するを得るに至るべし。故に日清両国は、此鉄路敷設の計画を以て、直ちに露国がサイベリヤ地方に強大なる兵力を実際に増加したるものと同一に看定せざるを得ず。

 是れ実に両国の安危休戚に係るを以て、両国も亦自衛の為め自国の兵力を拡張するか、若くは他の有効なる防禦良法を設け、以て彼の衝に当らざる可らざるの秋(とき)に至れり。

 而して露国がサイベリヤに拠り東亜問題に干渉する為め、日清両国に於て不慮の事変を顧慮し、充分なる兵力を拡備するは、実に苛重の負担たるを以て、両国は此際寧ろ奮て主客の勢を一変し、露人を東サイベリヤより駆逐するの方法を講究するも世議の決して非詆せざる所なるべし。

 夫れ、露国は素と欧州列邦の一なり。其習俗及政治の成跡に徴するも、豈に亜細亜と同感同情を有するものならんや。彼れ異類の人種たるにも拘らず、我亜細亜州の境土に占踞するは即ち東亜の侵犯者なり。露国をして依然今日の地歩をサイベリヤに保有せしむるときは、東亜列国に於いては、豈之を肘腋の深患と云わざる可けんや。

 今や露国をしてサイベリヤを去らしめんとの事は、実に絶大の事業と云うべし。然れども日清協和連合して茲に従事せば、其力能く此企業を成就せしむるに足るは敢えて疑を容れざるなり。要するに、好良の機会に投じ、外援を得て此険を冒すにあり。

 向きに仏独兵を交えたる日に当り、露国は其機に投じ、黒海条約を廃棄し、警敏能く其機を制したるものは、干戈を動かさずして勝ち取ることあるの道を天下に示したるものなり。而して今日欧州の形勢を観察するに、其情、陽には太平雍熙にして皥如歓虞たりと雖も、其実は黯淡盪揺の状態あるを以て、事変忽ち起るときは各国其均勢を失し、平和を支持すること能わず。且露国は此の欧州戦乱の衝に当り、英国若くは独国と鋒を争うの時あるべし。事一朝にして此に至れば、日清は宜しく兵力を以て露国に脅迫し、之をして東サイベリヤより退去せしむべし。苟も儼然たる兵威を示して此請求を為さんには、欧州の交戦問題に絶大なる影響を及ぼすや必せり。
 而して独国若くは英国は必らず此機を利し、喜んで日清と同盟し、所謂「味方条約」を締結すべし。

 然れども、露国をして其蹤を亜細亜州に絶たしむるの計画に関し、必須欠く可からざるの基礎的の一事あり。即ち利益相倚り唇歯互頼の義に基き、予め日清両国の間に完全なる永久の協意を招致すること、是れなり。

 露国の炎勢を抑制するの点より之を観るときは、日清両国は実に休戚の情を同うするものなり。
 然れども、露国の侵略に抗し、必需の防禦を為さんと欲せば、清国は之を日本に比し迥かに広大なる防禦線を張らざる可からず。何となれば、日本は東亜の沿海より露国を逡巡せしむるを以て其危難を免るゝことを得べしと雖も、清国をして同一に其危難を免れ、充分に自国の保護を得せしめんと欲せば、必ずやサイベリヤの全土を清帝の版図に帰して占領せしめざるべからず。
 且建国の位置に就て、戦略上の難易を論ずれば彼此亦た相等しからざるものあり。即ち、日本が海島たるの位地に在て此大事業に与みし、等分の運動を為さんには、之を清国に比し一層の困難を感ずるものなり。

 然れども、帝国日本は此の事業を興すに当り、其負担なり責任なり必ずや清国と等分の賦課を肯ぜずんばある可らず。而して日本が顕然不等且不便の位置に在りて等分の労に任する以上は、早晩成功の秋(とき)に方り、其過分なりし負担と責任に対し、亦過分なる報酬を要求するの権利を有するや復た疑うべきに非ず。
 但し其報酬たる他なし、日本が亜細亜の大陸に運動を試むるの基礎を創定するに在り。之を換言すれば、新に領略したる境土を比例的に分割し、以て其境界を正すにあり。

 此基礎を作るが為め、朝鮮を以て日本の版図に帰するは単に軍略上必要の理由あるのみならず、重要なる政治上の考案より之を洞観するときは、事必ず茲に出でざるべからず。今や日本にして朝鮮を占領するときは、能くサイベリヤに対して直接に抗衝するの便を得るのみならず、彼の方面に於ては、其力直ちに能く泰西の侵略計画を防圧するを得べきなり。

 而してサイベリヤをして露国の管轄より脱せしむるの計画に従事し、日本に於て等分の労働を取り、苛重の犠牲を供したる以上は、成功の日に方りて朝鮮を領し、之を日本の版図に帰するは稍々穏当なるも、敢て過分の報酬にあらざるや固より論なし。
 然るときは、本然たる日清両国の境界はグリーンウィチ以東百二十四度の緯(経)度を分割線として選定するは、啻に学理に徴して恰当なる区画たるのみならず、又是れ日本をして満足を得せしむるの分割方法と云うべきなり。即ち分割線の起点たる南は清韓両国接壌の地に始まり、北進して満州を径截し、レナ河の西岸に沿うて北氷洋に達して終るものとす。而して此緯(経)線以西に属する全サイベリヤの境土は、欧州露国の境を圧し挙て清国の有たるべく、其以東は満州及「カムシャツ(カムチャッカ)」等を合併し、総て日本帝国の属領たるべきなり。

 前段の計画たる、素として列国の権衝に関し略述したるものなり。然れども、今や此論旨を離れ、特に之を我将来の国家問題として討究するは、亦現政府の措く可らざる責任にして現存人民が其子孫に対する義務にあらずや。

 抑々我日本国たる、従来欧人は単に之を旧爾たる東洋の孤島となし、地図に於て其名と其位置を認知するに過ぎざりしなり。然るに輓今三十年来、特に大政維新の盛挙に由り皇民の自由及権利恢復せられし以来、人衆特に蕃殖し、其智能も亦著しく発達し、遂に秩序ある立憲政府の組織を成せり。而して該文化の進度たる、此国此民をして現時万国の共治する事務に関し、至当の位地を得さしむるの価値あり。故に今日に及では我帝国は、所謂世界の歴史に参与し、列国の間に立ち、其共治の事務に干渉し、威権ある運動を試むるの時期に際会したるものと云うべきなり。

 輓今交通の道大に進歩したるを以て、我日本は啻に有形の区域に於てのみならず、無形の区域に於ても亦西洋各国と相接近するに至れり。然れども其休戚の因る所は、東洋の本来有理及有権的に維持する冀図と常に相い併行し、又将来に於ても併行すべきなり。又政略上の関係を離れて之を考るも、日本人民は嚮に明治元年三月十四日、五条の御誓文を布示せられて以来、其遠籌宏大なる聖慮に拠り、倍々開明を致し、大に皇基を振起するを以て国是と定めたる以上は、東亜細亜に於て別に顕然たる義務天賦を負うものなり。

 而して此義務たるや他ならず日本は智識と実務との発達に起由する勢力に憑拠し、彼の利害の関係により、互いに団連する同種民族の発達進化を奨導保助するにあり。又其負担すべき天賦たるや他なし。
 日本は自国の発達と、其東亜列国に於て占有する位地とに照拠し、西洋と極東との間に起る一切の問題に関し、常に教導者若くは媒介者たらざる可らざること是なり。

 本論の旨趣を実行せんと欲せば、露国と衝突を来たすや必然免れざるの数なり。然れども、日本にして清国及独国若くは英国と同盟することを得るときは、敢て此衝突を避くるを須いざるなり。何となれば、凡そ外国交戦の事たる、未だ必ずしも邦国の危害に非ざるは、之を歴史に照らして明瞭なるのみならず、国土人民の進歩安寧を目的として他国と戦端を開くは、古来今往決して非挙となさゞることも亦明確なり。況や此類の戦争は日本帝国の位置を高め、欧州人をして我皇民を崇敬せしむるの結果を収むるに於ておや。

 地図を披て一瞥すれば、日本は東亜の海洋中に位し、孤島蔚欝恰も欧州の西岸に盤踞する英国と同地位を占むるものなり。而して両国の相似たる、啻に地理上の位地のみに止らず、更に一層須要なる事実に於ても亦然り。
 即ち日本の国たる其面積甚だ大ならず。其人民は能く生業に勉励し、治安に慣れ、思想倹素なる者にして、其九州、北海道の炭鉱は実に無尽の蔵宝にして誠に天与の富源なり。若し之を利用して工業を起こし、製造の業に従事するときは、将来に於て、彼の商工業を以て世界を壟断する英国と肩を並べて世界の市場に競争するも、亦期し難きに非らざるべし。

 今を距る一世紀半の既往に於て名士あり。一箇の主義を比喩して後世の認可を得たり。其言に曰く、
 開化の進路は西方に向うと。

 是れ今人も尚お口炙する所にして、之を開化進捗の実際に徴すれば、変換す可らざる自然の法則たるが如し。乃ち、人間開化の進路は東方に起こり、西方に進み、恰も太陽の影を遂うものなり。而して、開化果たして西に進むとせば、商工業も亦西方に向て進まらざんや。現に英国は、其有形及無形の区域に於て、蘊蓄し作為したる事物に対し、西隣即ち米国を以て其市場となせしに非ずや。

 然らば、即ち日本も亦此天則に従い、治轍に倣い、首として亜細亜大陸に着目せざる可らず。大陸、果たして我市場たらんには、先ず我が他国に卓越する開明の事物を此国に輸入し、尋いて、我需要の物品を此国より輸出し、終に我製造物品を此国に輸送することを得べし。

 嗚呼、日本の運命及び義務正しく此に在る哉。乃ち日本の進路は西方に披けて東方に塞がる。
 試みに眼を転じて東方に回顧すべし。独り太平洋に瀰満(漫)する狂涛積波のみ。我を東方の一大州と疎隔するに非ず。元来米州大陸の西岸たる、港口少なくして、甚だ交通に便ならず。換言すれば米州は天然の形勢は笑て欧州に対面し、黙して亜細亜に背向するものなり。西方に在りては則ち然らず。縋に一葦航之の憾あるも、亜細亜東岸の地形たる、港口夥多にして交通の便利甚だ善し。故に其様恰も該大陸は、欣然として我が訪問を待つに似たり。造化の妙趣以て見るべきなり。

 将又已に前述せるが如く、欧州諸国は各種の理由あって現に侵略殖民の政略を維持し、若くは実行するものなり。而して日本も亦此理由を按査し、将来に於て同一の政略を取らざるべからず。乃ち、従来日本人民の生活を支配したる所謂自然の法則なるものは、新に輸入せられたる西洋文化の為め、全く若くは大半変換せしにも係らず、日本人種の蕃植力は毫も減殺せざるのみならず、彼の種痘法其他泰西の医学衛生学は寧ろ之を培養せるが為め、今や死亡者の数を按じて之を往昔に比すれば、甚だ減少せり。故に其結果たる人口増加の率、頗る増進したり。
 現に日本は一平方哩毎に幾んど二百六十の人口あり。泰西諸国中、之より多率の人口を有するは、実に土耳義、英吉利、和蘭の三国あるのみなり。
 而して此三国は早く已に余剰の人民を移住せしむるの途を開設せるを以て、国内過殖の虞なしと雖も、日本に在ては則ち然らず。故に現政府は、此点に関しても亦決然他国の属地に倚頼するの念を断ち、不羈独立に予め一定の方策を治定せざる可らず。

 満州は一平方哩毎に人口三十三、朝鮮は一百の平均数を有するも、東緯(経)百二十四度以東に属するサイベリヤの地方は、同一の面積に於て平均一人の住民を有せず。
 今や稀薄なる人口及び接近なる地利の二点に就いて之を考うるも、該地方は日本の殖民策に対し必須の便益を備うるものと云うべし。

 此の如き重要なる理由あるの外、本案提議の境界線改画の挙は、能く東亜の列国に安寧の保証を与うるを以て、帝国内閣の遠籌明察なる本案を取採し、若くは取捨し、内外に対して一定の日本政略を決定せられんことを切望に堪えざるなり。

 清国との協議既に整うたる後に於て、独英両国の孰を撰定して談判を開く可きやの議題は機数を要する。此の談判を委託せられたる主任者の心算に任ずるを以て得策とす。

 独逸が外交政略の上に於て表示したる、巨大且剛毅なる勢力と、軍事上他国に超越したる実力とは、大に我同盟の利を証するものなり。
 然るに、英国が嚮に巨文島撤回の際、他国をして朝鮮の諸港口を占領せしめずとの保証を、清国より要取したるの事実、及其極東に於て重大なる利益を有し、且従来露国を嫌忌猜疑するの情実とを合せて之を観れば、英国の同盟も亦甚だ利なきに非ざるなり。

 方今の事情を察するに、清国は其北堺に於て露国の挙動に因り、頗る困難を感ずるの際たるを以て、窃に同国政府に内議し、我が希望する所の同盟を促がすは、実に此秋(とき)を以て好機会と云わざる可らず。
 然れども、盟約の事たる、機会に投ずるに非ざれば之を実行せざるにあり。換言すれば、盟約実行の期は英若くは独国と露国との間に戦端を開くの日と約定し、予め下顕の条項を包括する秘密条約を締結するにあり。

 即ち、第一本案に提示せる基礎に拠りて境界の更正を為すこと。
 第二、東サイベリヤに於ては、日清連帯して等分の運動を為すこと。
 第三、開戦の目的を達するか若くは同盟の三国交々休戦に同意する迄は、東西の同盟国は一致戮力して抗争を継続し、各巳(己)各自に止戦せざることを保証すること、是なり。

 東サイベリヤに於ける露国の権力炎勢を撲滅するの計画に就き、必須欠くべからざるもの、即ち第一に清国との完全なる協議を遂げざる可らざることは既に前款に於て説示せり。
 而して茲に第二の要件を掲げんに、日本は此際朝鮮に対して其政略を釐革し、強硬手段を取り、干渉主義を施行し、其目的は朝鮮政府及人民をして益々日本に結託依頼するの利益あることを知らしめ、終に之をして日本の救援を乞うに至らしむること、是なり。

 清国に対する政略は、其性質重もに交際上の術数に起由するを以て、事故の発生するに会し、臨機応変之が手段を施す可しと雖も、朝鮮に対する政策手段は、予め之を規定せざる可らず。

 我希望する盟約の成否に至りては、或は逆視し難しと雖も、幸にして其成功を見るに至らば、結果の利益あるは実に泰山よりも重し。仮に成功せざるものとせんか、其損失寔に鴻毛よりも軽し。故に此企画たるや利益ありて損耗なしと云うも可なり。
 但し、此同盟を成就せんと欲し、仮令何等の結果を得るも、到底此方針を追随し、彼の園夫が果木を培養するの方法を学び、我利を朝鮮に植え、我恩を其人民に施し、時節到来せば平穏に之を我掌裏に収むるにあり。
 英国の埃及(エジプト)に於ける数十年来、巨万の利を「ナイル」河畔に培植し、今日に至ては実際全国を藩属せしめ、其名義を英の版図に帰せしむるの日も亦遠きに非らざりるに似たり。
 茲に百年の長計を画定するに方り、最後に他国の成績を挙て我模範とするも亦不可なきが如し。

  明治二十三年五月十五日

 文語体のこんな長文は読む気になれないという人のために、現代語訳はこちらです。

 

青木周蔵個人の意見ではあるが

 明治開化期からの日本の外交政策を、主にアジ歴資料に基づいて、朝鮮関係に限ってではあるが詳細に見て来て、日本の外交官達はじめ政府要人の苦労と、その寛容過ぎるほどの平和主義を知るにつれ、現代とあまり変らんなあ、という印象があったが、ここに来て漸く帝国日本の大いなる展望(野望)をはっきりと口にする人間の登場である。

 青木周藏は長州出身、独国留学を経て外務省入省、一等書記官、駐独、駐墺、駐蘭公使を経て第1次伊藤内閣の時に外務省次官。井上馨の辞任を受けて伊藤が外務大臣を兼務したが、実務は青木が行っていたようである。
 上記意見書は外務大臣着任半年後のものであるが、当然欧州列強国の内情を知悉していることは、その経歴からも伺えよう。

 日清朝3国を欧州列国に対する東アジア列国と位置付け、領土拡張と植民地政策を図る西洋列強国の進出に対し、とりわけ露国に対しての日清協同による東アジア防衛策に止まらず、同時に日本もまた大陸に進出して領土の拡大と殖民を図るという、国家「百年の長計を画定」した意見書である。

 分かりやすく言えば、「露国をシベリアから追い出し、満州も含めて日清で分け合い、その際、朝鮮は日本に帰属させる」、というものであろう。
 またその過程に於いては、「日本は此際朝鮮に対して其政略を釐革し、強硬手段を取り、干渉主義を施行し」とあって、これは天津条約締結頃の井上馨とは正反対の意見である。

 勿論、青木周蔵一個人の意見ではあるが、外務大臣としての意見書であるところに注目せざるを得ない。そして『青木大臣意見「東亜細亜列国ノ権衡」』という一冊の簿冊として、わざわざ収録されているのは、やはり重要なものだったからであろうか。色々と考えさせられる内容である。

 読んでいて先ず思い浮かんだのは、この14年後に勃発する日露戦争である。また、前記した「西洋諸国の常識と露国」での次の件り、「凡そ開明国の、蛮民を制服するは天則の然らしむる所にして、文運の進歩上喜ぶべきものなきに非ず。」という西洋人の常識である。
 上記意見書の中で、「彼の園夫が果木を培養するの方法を学び、我利を朝鮮に植え、我恩を其人民に施し、時節到来せば平穏に之を我掌裏に収むるにあり。」とあるが、これは多分に西洋人的発想であろう。尤も、この時代の覇気ある日本人らしい意見ともとれようが。

 おそらく青木周蔵は、アジア主義者というよりは、西洋人の世界観を肯う人であろうと思う。
 まあ、この時代の世界の趨勢を決しているのは、それであるし、現代21世紀の価値観でかれこれは言えまいとは思うが。

 しかし「百年の長計」と称するのであるが、欧州で「英若くは独国と露国との間に戦端を開くの日と約定し」と、どこまでも他国のIFに頼っているところは、少しく笑いたくなる。また、「予め日清両国の間に完全なる永久の協意を招致すること」というところも、可能性としてもあり得ない話であろう。
 欧州の事情には詳しくとも、大中華の人々がどういう考えの持ち主であるかは、あまりご存知ではないようである。
 また、「開化の進路は西方に向う」という、法則か何か知らないが、それを以て説得するのもどうかと思うが。

 しかしながら、西洋列強国とりわけ露国の南進政策から、東アジア列国を守らんと、むしろこちらから撃って出て、断固として露国をシベリアから追い払わんという、実に積極的な防衛策ではあろう。それと同時に、倍増する人口問題に対処して、西洋国のように殖民政策を行うべきであるという、日本の将来を見据えての展望でもあろう。

 ただ、この意見が政府内部でどのような位置を占め、また実際に採り上げられたかは知らない。日清の完全なる連携というところで、既に破綻しているとは思うが。

 朝鮮は・・・・、青木の眼中にはそのような国は無いも同然のようである。

 まあ、考えてみれば、交際3百年の朝鮮に、日本の維新を告げ、やっと近代条約を締結して開化を決断させ、独立の気概を持たせ、あらゆる援助を惜しみなく与えて近代化に導き、蔑まされても馬鹿にされても石を投げられても殺されても、じっと我慢をしながら支援を続け、いつか自らの足で確固たる永世中立の独立国となるだろう、スイスのように、と夢見ながら、しかし、朴金の乱を以てむずかる子供のような朝鮮政府を一旦は放置してみたが、それにより成長するどころか、益々国家運営すらままならないような、貧困と腐敗と事大主義に、ついにその独立心の成長を諦めたということか。隣人ではあるが、このままではこの子は浮浪者、いや強盗露国を引き入れることもしかねないので、仕方が無いから家の子供にしてやろうと。ただし恩情を与えると同時に厳しく躾だけはするぞ、と。そのように考えたくなるのも無理はない面もあろう。

 かつて井上馨は駐日清国大使に、「朝鮮国王君臣の間、政治の体、其所為殆んど小児に類する者あり。従来貴我両国、彼に注ぐ所の精神に符せず、深く憂慮致居候(「日清交際史提要」の「第四冊 第十四編 至 十六編/3 第一五編 善後商議」のp1)」と言ったように、小児に国の運営は任せられない、という判断が当時の日本政府の中で固まりつつあったということか。

 或いはまた、明治9年、日朝修好条規調印済んだ後、宮本小一外務大丞、野村靖外務権大丞らは、朝鮮大臣たちと会談を持った時に、「元来両国の間、対等の権を相有しその盟を永遠に伝えんと欲せばすなわち互いに富国強兵をもって国本を固くせざるべからず。しかして富国強兵の道はその国の人民繁殖して有無相通ずるに在るべし。有無相通じて人民繁殖するにあらざれば以って富国強兵に由なし。富国強兵にあらざればすなわち永遠の親盟を期し難し。」と述べた。
 爾来10数年、朝鮮はもはや「親盟期し難し」の国であると見定めたということであろうか。

 相変わらず、腐敗汚吏は跋扈し、人民繁栄は覚束なく、政府内部では権力闘争に明け暮れ、場当たり的で無節操かつ稚拙の政治と。

 実際この数年後には、汚吏の過酷な収奪に怒った土民が暴動を起こし、しかも幻想に耽るカルト宗教に率いられて大乱となり、国王の鎮撫も効果なく、武力制圧も失敗し、つまりは自治もままならず、遂に外国に救援を求めるという事態になっていくのであるが・・・・。

 

神位と宮廷椿事

 明治23年1月25日、朝鮮朝廷では7代前の英宗大王などを追尊して諡号を改め、また大王大妃が83歳の高齢となったことなどからも、大王大妃や大王妃、国王、中宮(閔妃)などにも尊号を奉ることとした。(大王大妃は「熈祥」、大王妃は「粹顯」、国王は「堯峻舜徽禹謨湯敬」、閔妃は「正化」など)

 また、韓暦10月1日(日歴11月12日)は「朔祭」と称して、大王大妃の神位に対し、国王が百官を率いて祭儀を執行するのが通例であった。しかしこの年の当日は雨天だっただけでなく、前日に清国の使節を見送ったばかりで連日の疲労のためか、大臣以下480人の官員が参加せず、参加したのは僅かに6人だけという有様で、当然祭典を行うことなど出来なかった。

 よって国王の逆鱗甚だしく、不参加の者を王宮出入禁止とした。これにより、待罪3日間は朝鮮政府内は無人状態となった。
(「1 明治23年1月27日から明治28年5月23日」p1〜p4)

 だらけきった朝鮮政府と怒れる国王と。
 これを報告した近藤代理公使は、「実に非常の椿事に有之」としている。しかし、実に朝鮮人らしくて驚くことでもないのではなかろうか。

 

朝鮮に於ける鉱源探究

(朝鮮国鉱源探究ノ件并露国ポセット港ヲ外国貿易ノ為メ公開スルノ説ニ関スル件)

機密信第一九号
   朝鮮に於ける鉱源探究の必要に付具申

 過般、米人リーゼンドル氏が朝鮮政府に雇わるゝや、氏は直ちに本邦(朝鮮)に海航し、又香港に赴きたり。其用向は重に募債にありしとの世評に有之。
 今回又横浜駐在の米総領事たりし、グレートハウス氏、朝鮮政府に雇われたり。而して氏が入りて朝鮮政府に雇われたるは重にリーゼンドル氏の周旋に出、且氏は該鉱山事業を受持筈なりとの世評に有之候。

 先にリーゼンドル氏の香港に赴きたるや、該地の或る銀行と何等かの相談を遂げたりとの風評も有之候え共、募債の成否は判然せず。
 今回又グレートハウス氏が入りてより、氏と共に朝鮮の内政改良に従事せんと欲するも、第一に要するものは、財力に可有之候えば、二氏は何とか工夫を運らすことと被存候。
 然るに何人と云い、目的なくして資財を貸すものは有之間敷候えば、募債の抵当は何なるべきやは必ず第一の問題なるべく、内政改良に従事するため、財力の工風は相遂げたるも、興富の道を講ぜざれば、改良の目的も達する能わざる次第なれば、所謂興富の道は何くにあるべきやは、続て起るべきの問題なり。

 朝鮮の金を産するは明白なる事実なれば、察するに抵当なり興富の道なり、共に鉱山にあるは殆ど無疑事に候。半されば二氏の相談に応じて資財を出すものも或は可有之。
 二氏にして財力を得ば、第一に興富の道を講じ、徐に内政改良に着手するの方針には無之哉と推察候。

 茲に又二氏に関し注意を要すべきは、魯公使、暗助の疑に有之候。グレートハウス氏が雇わるゝやリーゼンドル氏の周旋に成りたりとの世評に候え共、清政府は其海関員を派して朝鮮海関を総括せしむる茲に数年、即ち総税務司として京城に在留するものあり。清政府は之を以て朝鮮政府の顧問官を兼ねしめ、他に外国人を雇入るゝの必要なしとの意見を執り居るとの儀に相聞候に付、其意を受くる総税務司なり、袁世凱なり、清政府を暗助する英総領事なり、共に幾分かグレートハウス氏の雇入を妨害せんと試みたるべしと察せられ候に、意外にも容易に其事成りしは、リーゼンドル氏一己の周旋とは思われず。
 リーゼンドル氏が入韓の始めに於て魯公使館に寄居せし事跡等を参考するに、恐くは魯公使も亦リーゼンドル氏を助けて暗に裏に尽力せしには有之間敷哉。されば、二氏の事業に就ては魯公使の暗助あるべき事は宜しく注察すべきことと被存候。

 此に於てか鉱山を抵当として資財を借入るゝこと随て鉱山事業を興起することは其成否、今日に卜す可らざるも敢えて成らざるとも断言を下し難き次第に有之候。

 然れども、朝鮮全鉱の富源は未だ信拠すべき学士の鑑定を経たることなく、果して資金を抛ちて採掘の事業を興すに足るや否今日に於て其概況を実地研究し置くは、我商略上必要の儀と被存候。
 現に目前に利益ある事業の横わるも、手を空くして他人の営利に帰せしむるは、策の得たるものとは存ぜられず。さりとて確として信拠すべき富源の予算なきに於ては、意見を下すの標準無之候事故、今日に於て文部省、農商務省、帝国大学
等と御協議相成り、学識経験共に信ずべきの一学士を御派遣相成り、朝鮮に於ける鉱山富源御探求相成候様致度儀に有之候。
 さすれば将来、リーゼンドル、グレートハウス、二氏のみならず、其他何人と雖も朝鮮に於ける鉱山を目的として事業を企つるも、其成否を卜知し得べきのみならず、我商略上大に好都合なるべしと被存候。

 併し之を決行相成に就ては、数多の困難可有之。即ち学識経験両ながら富むの学士は朝野共に皆必要の地位を占め居候事故、御派出可相成学士の選定に困難なること、学士御派出に就ては数十円の費用を要すべく、右御支出に困難なること、朝鮮政府をして探求の便を我に与えしむるに困難なること等は可有之候得共、我商略上利害の関する所、決して尠少ならざる儀に有之候えば、前二者の困難は我政府の決行と負担を辞せざる御決心を要し、最後の困難は公使にして措弁便宜を得るの労を執らし可然儀と被存候。
右及具申候也。

 明治二十三年九月二十四日
    在仁川  領事林権助 印
 外務次官子岡部長職殿

 朝鮮の鉱山事業に関して米国人が雇われ、香港で資金集めをしている、との報告である。
 かつて明治16年に、清国政府が招商局の唐景星と共に英国人に京畿道と江原道の鉱山を調査させたと、竹添弁理公使が報告している。
 それによれば金銀銅鉄鉛硫黄などが確認でき、中でも銅鉄が豊富であるが、それらは高山深山に位置し、実際に鉱物を灰吹法で精錬するにも木材が無く、又鉄道を施く以外に運搬方法が無く、それらを設備するには数千万両という莫大な投資が必要であるだろうと言っていたが、恐らくその時の調査報告を当時の朝鮮政府は参考にしていたはずである。
 米国人を雇ったのは、政府顧問の米国人デンニーによるものだろうか。

 

月尾島に石炭貯庫設置

 明治20年から日本政府は、仁川港方面の艦船用石炭貯蔵庫用敷地の借用を朝鮮政府に申し込んでいたが、談判捗らず、明治24年(1891)1月になってようやく結了した。
 貯蔵庫は済物浦沖月尾島に設けられることになり、その為の敷地は4900坪、借用料は年間80円であった(海軍省仁川港方面回航ノ艦船用石炭貯庫敷地トシテ朝鮮国月尾島内ノ地所借用ヲ稟定ス)
 明治10年に花房公使がやはり石炭貯蔵地のことで合意したが、後に釜山絶影島に設置している。この間元山津にも設けられているかどうか、該当資料を見つけることが出来ないので不明である。

 

仁川居留地の拡張

 明治16年1月に開港して以来、仁川の日本居留地は年々人家が増加し、この頃にはもはや寸借の敷地の余地もないほど充満し、止むを得ずに、牛皮、牛骨、大豆等の商品は、街中に積み上げる有様となっていた。また石油などの危険物を貯蔵すべき特別の倉庫の設置場所も無く、着荷の度に混雑を極めるようになった。

 居留地借入約書第一条には、「後来右居留地充塞するに至れば、朝鮮政府は更に居留地を拡開すべし。」とあって、居留地の前面海岸を拡大することを朝鮮政府に請求することが出来たが、朝鮮政府の財政困難は元よりのことであるから、居留地商民によって埋立工事料を支弁し、埋立地を区画して各区を競売する方法を定めることにし、明治22年に朝鮮政府にこれをはかった。
 しかし朝鮮政府は、何度かの協議の後に、条約の精神に基づき一切の埋立費用は朝鮮政府が負担するとし、その費用は日本の銀行より一時借り、埋立が竣工後に競売金を以って返済する計画を立てた。

 仁川には既に各国が居留地を設けていたが、埋立(幅50メートル、長さ250メートル)によって海岸部分までが日本居留地になることに異議を唱えるものもあった。また実際これによって、日本居留地の向こう側への往来が不自由となるのである。
 しかし、居留地借入約書第一条によって、日本商民の先着報酬として、日本に特別の便利を譲与することになっており、他国より日本が優先的な権利を持つものであった。
 しかし協議の結果、埋立後は海岸の1道路を各国人も往来自由として提供することにより、ようやく各国も承諾し、明治24年5月に埋立の件は落着した。(但し10年後に新たな問題が生じてまた紛糾することになる。資料by dreamtale氏
(仁川港我居留地海岸ノ前面埋立租界拡張ヲ終結ス)

 

空中飛行器械発明の件

 飛行機の発案発明は、国内では四国愛媛の二宮忠八がプロペラ式模型飛行機を作成し、明治24年4月29日に香川の丸亀練兵場に於て10メートルの飛行実験を成功させたことで有名である。

 この件はそのこととは関係ないと思われるのであるが、面白いことに、同日付で陸軍省壱大日記に次のような記述がある。

(明治24年4月 陸軍省壹大日記より「空中飛行器械発明の件」)

壱第八七号 空中飛行器械発明の件

■官より■山■■事へ通牒案
 兵甲第一号を以て、板田仁ィ空中飛行器機発明に付、請願書送達相成候処、図面尺度計算書無之、且其説明に於ても頗る簡略なるを以て、詳細の審査難遂候条書類及返却候也

陸軍省送達 送甲第九○一号 四月廿九日

 岡山県の分であり、それが飛行機なのか気球類なのかもここでは判然としないが、とにかく図面も計算書もなく説明も簡略なので、審査の仕様がないので書類は返却する、というものである。

 頭ごなしに、空を飛ぶはずも無い、という態度ではなく、相当の書類を調えれば審査するという姿勢がうかがえるものである。

 本文とは関係ないが、ちょっと興味を引いたので。

 

朝鮮国へ留学生を派出

(朝鮮国ヘ留学生ヲ派出ス)

 帝国と朝鮮国との交渉遂年繁劇に赴き、従て翻訳通弁の者の欠乏をも亦益々感ずるの時機に立至り候に付、去る明治十六年来、清国へ留学生派遣の例に依り、朝鮮国へも留学生派出致度候。尤も其費用は海外留学生費目内を以て支弁候に付、別に費用の増加を要せず候。右閣議に提出候也。

 明治二十四年四月廿三日
  外務大臣子青木周蔵

内閣総理大臣山縣有朋殿

 通訳を育てるための留学生派遣のようであるが、日本政府としては明治初期の釜山草梁公館時代から既に朝鮮語学生を公館で養成していた。京城に公使館が開設されると、ここでも語学生が滞在して朝鮮語の習得をしている。例えば明治15年の朝鮮事変で不幸にも殺害された語学生がそうである。

 しかし留学とあるから、朝鮮政府の方で何らかの施設が整って受け入れるような体制が出来たのであろうか。それとも今まで通りのものなのであろうか。よく分からない。

 

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