日清戦争前夜の日本と朝鮮(15)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

(写真[1][2]は、説明文の順序に従い左右の配置を入れ換えた。)

「世界風俗写真帖 第1集」明治34年(1901)11月19日発行、坪井正五郎・沼田頼輔編、東京:東洋社。「第二十図」より。()は筆者。

世界風俗写真帖 第二十図
[二十]韓人の服装[甲]

図中の[1]は第二の王妃と称せらるゝ厳貴宮にして、今上(高宗)の寵妃なり。写真にては仮面にてもかぶれる様に思わるれ共、実際は粉装の甚だしきためなり。頭上の髪は、仮に宮中式とも云うべきか。一の付け髷も思われざれど、韓人の佳人と称するは、邦人の見る所と其の趣を異にし、目付鼻付の如何を問わずして専ら額の大なるを喜ぶ故に、男女共に額瀬の生えぎわを抜き広げる風あり。従って先天的の分界を知ること難けれども、斯る習慣は邦人の富士額を愛すると反対にて、韓人は此種の者を貧相と云いて常に忌み嫌い、其広く大なるを富貴の相として喜び好む。試みに見よ此の写真中の女子は何れの人物も額ぎをの相似たる風を示せることを。右は(これは)支那風の移れるならんかと思いしが、支那人は之と異り古来半月形の生えぎわを好み、今日にても当に斯く為すを見れば、全く特殊の旧慣なるべし。衣服の内、其上着の襟短きは、元来上衣の短少なるが為めにして、又日本の女子が着する折襟と云う類のものなし。下に着たるは即ち裳[チマ]と称する品にて、何人も用いるものなるが、斯る大なるは嘗てなし。惟うに上流社会の婦女子に限れる風ならん。猶此の裳の下には下袴あり。図に就て見るも、其の上絹の薄く透ける為め、足首を結束せる具合を認め得るならん。又右手に持ちたるは団扇にて、形状は我邦の水団扇に彷彿たり。

[2]は、宮中に奉仕する侍女の風にて、其頭上に戴けるは娘姿[ナグチャ]とて木製の品なるが、一見蟒[うわばみ]の如くにして最重きものなりと云う。而して横に挿したるは簪(かんざし)にて、普通一般に行わるゝ形状の品なり。右の簪は全く支那式なるが、多くは真鍮又は錫の類にて製し、儀式其の他盛装を為す場合は、銀製の品を用いる。図の如く長きは稀にして、大略五寸位に過ぎざるなり。扨て何故に斯る重きものを頭上に戴くやと云うに、これは平素其の躰度をおもおもしくなさしめんが為にて、他に例なき風と云うべし。勿論結婚の際は、類似の頭髪に結べること有れども、此の場合は所謂入れ毛に過ぎずして、木などを用いることなし。又衣服の如き、腹巻の如き、皆一般の風と異り。凡て支那の古式なれば、当時の有様は却って之を現時の韓国土俗中に認むるを得可し。

 

朝鮮国、欧米諸国へ使節派遣

 引き続き、「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」より。

(「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」p36より、現代語に。)

朝鮮国、欧米諸国へ使節派遣の事[明治二十年]

 明治二十年、朝鮮政府は条約締盟国に修信の意を表するために、欧米諸国に使節を派遣する議を決し、同年八月十九日に協弁内務府事朴定陽を米国駐箚全権大臣に任命した。

 これより先、袁世凱は、「朝鮮政府は財政困難の際にこの不急の挙を為すなら、更に一層の巨費を生ずるだけでなく、赴任国に於て費用が足りなくなった時は、却って他国の笑いを招くだろう」と詰問し、また「その事は清国政府の協賛を経るべきものである」と痛論して反省を促した。

 しかし国王は、「締盟国への遣使は清国に関係を及ぼさないものであるから特に協議する必要はない」と認めて九月二十四日に朴定陽に陛辞式を与え、当日夜に京城を出立させた。
 袁世凱はこれを聞いて大いに怒り、直ちに清への帰装を整えて強迫を以て己の意見を通そうと努め、また領事陳同書を朴定陽の宿に派遣して帰京を促させた。

 これにおいて使節派遣は俄かに清韓間交渉事件となり、在京各国公使もまた連合して(朝鮮政府の応援)運動を試みようとする状況にまでなった。
 よって我が国政府は、十一月十四日に近藤代理公使に、「清韓紛議に付いてはなるべく関係する事を避けるようにし、但し日韓条約上の権利貿易上我が国の商人らの既得の利益を害するものと認定する場合には、政府の指令を求めるべし」と訓令した。

 それより朝鮮政府は、この事で清国政府の歓心を失うことを恐れ、事情を具申して清国政府の裁可を得て、ここに漸く朴定陽を任国に向けて出発させることが出来た。清国政府がこれを裁可したのは、おそらく各国の抗議を憚っての結果であろう。

 かくて朴定陽は、「任地在留清国公使に対しては、公務上の文書は呈分[即ち、清国官吏の書簡形式の一つで、下司から上官に出す文体である。]を用い、清国公使は殊筆照会[即ち、平行文の一つで、通常は往来のない官署間で、偶々一事ある時に用いる文体である。]を用いられるべきである。」との清国政府の照会を持って明治二十一年一月九日、米国ワシントン府に安着した。同月十七日を以て大統領に国書奉呈の儀式を結了したが、ワシントン到着後に自ら清国公使館を訪問しなかった廉により、米国駐在清国公使との間に紛議を生じ、遂にその説明を清国公使から朝鮮政府に問うところとなった。

 朝鮮政府はその答えに苦しみ、病気のために帰国した朴定陽を罷職の罪に処し、以て漸くこの局を終了した。

 清国政府の朝鮮への干渉政策は、朝鮮が属国であることを徹底させることであった。しかしそれが強圧になるほど朝鮮政府内では反発する者が増えていった。
 朴定陽は明治14年5月に「朝鮮紳士遊覧」の1人として来日しており、当時の近藤書記官の報告によれば、「早急な開化に逡巡する者」の1人であった。
 それが時移り米国に派遣されるまでになったのであるが、その清国公使を無視する態度から、当時穏健派の朝鮮人も清国政府の干渉に対して反感を募らせていたことが窺われる。

 

金玉均、北海道に

 明治21年4月、小笠原島に抑留されていた金玉均は、上京する小笠原島司に山縣有朋宛ての手紙を託した。
それは、病の上に疝癪に苦しんでいるので治療の為に内地に帰りたい、との哀願書であった。

 よって山縣内務大臣は、以下のように閣議に計ることにした。

(「在小笠原島朝鮮国人金玉均ヲ北海道ニ移寓セシムル件」から現代語に。括弧は筆者)

   朝鮮国人金玉均内地移寓の件

 小笠原島の朝鮮国人金玉均の内地移寓の件は既に昨年においても願い出、採用しなかったところ、今又この度別紙の通りに哀願書を差し出した。

 そもそも、同人を本邦に滞留させるのは、我が政府と友誼厚情の関係ある現朝鮮政府に不快の感覚を起こさせるだけでなく、一般外交上の平和を障碍し、又本邦の治安を妨害する虞ありと認めるべき理由があって我が帝国を立ち去るべき命令を発したのであるが、言を左右にしてこれに従わなかったことを以て遂に横浜共衆園に抑留の末に、明治十九年八月中に同島に護送させたものである。

 しかし同人は渡島後に瘴炎(熱病)に侵され持病頻りに起こり、最近はこれに重ねて疝癪(胸腹部のさしこみ)があって頗る困難を極めている。孤島ゆえに医薬乏しく遠く異域に来て、この艱苦を嘗めている。その情、憫諒すべきものである。

 当初、玉均を該島に抑留したのは、結局は我が国の無頼の徒が彼の救援に藉りて色々と扇動のあまり、遂に大阪の大獄を見るに至ったを以てであった。
 今や、その事情はやや以前と異なるとも又彼を内地に移寓する自由を得させるときは、外交政略上に問題を起こし、再び内治の静謐を害する事件を醸成するとも又測りがたい。これによっても玉均を抑留する地は、まさしく小笠原島を除いては北海道の一つがあるだけである。もし小笠原島の気候が彼に適してないとするなら、北海道は彼の生地である朝鮮国と殆ど寒冷気候を同じくし、健康上に於てもまた適当であろう。

 よって更に同人を北海道に移寓させ、別紙項目によって北海道庁に於て保監させようと思う。

 本件は、事が頗る外交政略に関係あることなので、外務大臣への協議の上、閣議を請う。

 明治廿一年五月四日
   内務大臣伯爵 山縣有朋


  取締項目

一 北海道庁札幌もしくはその近傍に於て、交通が頻繁でない地を選び、寄寓させること。

二 寄寓所には、取締として制服を着用しない巡査若干名を付け、朝鮮国人または内国人で治安を妨害するおそれありと認める者は通交を絶たせ、その他往復信書などに注意させること。

三 保健上必要の場合に限り外出を許し、巡査を尾行させること。

四 寄寓中は恤救規則により、その幾分かを取捨し、北海道庁において取り扱わせること。

 よって、金玉均は北海道に移されることが決定し、更に翌年の22年2月には、以下のように松方正義内務大臣から「朝鮮国人金玉均移寓之件」が提出された。

(「朝鮮国人金玉均取締ニ関スルノ件」より現代語に。)

  朝鮮国人金玉均移寓の件

 朝鮮国人金玉均内地移寓の件、昨廿一年五月閣議を経、北海道庁札幌へ移寓させて以来、かねて指示したところの条件を遵守し、且つひたすら病躯を保養し、その行為は内治及び外交上に関し、あえて問題を起こす虞もなく、以後は同庁管内に於ては何れの地に寄寓し又は旅行をさせるのも治安上の差し支えはないと認める。

 その取締りに於ても今日にあっては、以前の如く厳密であることを必要としないと思うので、同庁長官の適当な取締りに委任させようとするものである。
 よって、外務大臣協議の上、閣議を請う。

 明治廿二年二月廿五日
   内務大臣伯爵松方正義

 これにより3月6日に決議し、更にはまた明治23年11月には、内務大臣西郷従道から金玉均のほぼ完全自由の請議が以下のように提出されて決議されている。

(「朝鮮国人金玉均取扱ニ関スル件」より現代語に。)

朝鮮国人金玉均自由居住の件

 朝鮮国人金玉均を当初小笠原島に抑留し、次いで北海道に移寓させたのは、一は我が国の政党員等がこれを利用して内地の治安を妨害し、一は朝鮮政府が刺客を以てこれを傷害せんと計り、その為に内治及び外交上の問題を起こす虞があるによってではあったが、今日にあっては、もはや当初のような懸念もなく、内地に自由居住を許すも直接間接に視察を加えるなら取締り上に於て敢えて差し支えないと認める。

 また本人は、かつてリューマチと眼疾等の患いに罹り、北海道の気候に困難であるため、昨年9月中から屡々府下に転地療養を願い出ている。

 よって今の北海道庁の保管を解き、自由居住を許し、且つ従来の恤救規則によって支給していた金額は総て給与しないことに致したく、右は外交上にも関することなので、外務大臣に協議の上で閣議を請う。

 明治廿三年十一月五日
   内務大臣伯爵西郷従道
内閣総理大臣山縣有朋殿

 同月11日、金玉均は退去命令から4年にして晴れて内地自由居住を許された。しかし「朝鮮政府が刺客を以てこれを傷害せんと計」る虞もないだろうとの政府の判断は、彼の国の文化を今ひとつ理解出来ていないからでもあったろうか。

 また金玉均がリューマチを患っていたとは。なお原文では、「僂麻質私」とある。即ちリューマチスである。

 

朝鮮政府、伝染病侵入予防仮規則を定める

 明治20年7月、在朝鮮臨時代理公使高平小五郎は、朝鮮政府が制定した「伝染病侵入予防仮規則」を承認し、居留地住民に布達した。

「朝鮮政府ノ制定セル伝染病侵入予防仮規則ヲ我在留人民ニ施行ス」より括弧は筆者。)

 今般、朝鮮政府に於て、別紙伝染病侵入予防仮規則を制定し、本官承認候に付ては、該規則を犯す者は、刑法及明治十三年第三十四号布告に拠り処分すべし。

  但、各港に於て該規則施行及其停止の期日は其都度該港在留領事より告示すべし。

 右訓示を奉じ布達す。

 明治二十年七月八日  臨時代理公使高平小五郎


 朝鮮通商港に於て伝染病侵入予防仮規則

  第一条
 凡そ伝染病ある地方より来る所の船隻は、朝鮮船と外国船とを論ぜず、暫く港界外に投錨し、前檣(マスト)に黄旗を掲ぐべし。

  第二条
 該船は、税関検疫委員乗船するまでの間、陸上又は他船と往来交接すべからず。又、乗組員及び船客まを上陸せしむべからず。

  第三条
 若し検疫委員にて、船中伝染病者なく又航海の当初より着港迄の間、該病者なかりしことを査悉する時は、該委員は該船通常の碇泊場に進入し自由交接を行うを許すべし。

  第四条
 若し朝鮮通商港に至る航海の間、船中伝染病者時は該船は検疫委員の指示に従って陸上より安全の距離に投錨すべし。
 而して此規則を施行する税関官吏の許可を得るに非ざれば、陸上又は他船と往来交接するを許さず。

  第五条
 伝染病者は、陸上の避病院又はその他検疫委員の指示する適当の場所に送るべし。若し死者あれば、其屍体を埋葬する、時刻、場所、及其方法は検疫委員の指揮に従うべし。

  第六条
 以上所載の如く、伝染病者及其屍体を処分せる後、検疫委員は乗組員及び船客を消毒すべし。
 而して其後、乗組員及船客は該委員を経て上陸の免許証書を受け取るべし。但、該委員は、該船自由交接の許否如何を税関長に申告するものとす。

  第七条
 検疫の為め停留せられたる船の船長乗組員又は船客は、若し検疫委員の処置に服せずして、書面を以て其本国官吏に告訴せんとする時は、税関にて其為め百方順便の補助を与うべし。
 然ども、該官吏の査断を経ざる間は、此規則を遵守せざるべからず。

  第八条
 凡そ此規則を犯したる船及人は、税関長の請求に依り、其本国領事官にて処弁すべし。

  第九条
 凡そ船隻開来する所の港岸、該病に伝染するや否やを決定するには、監理官及税関長と条約国の領事と会議の上、多数の説に従うべし。但、何地方を問わず其国の政府にて伝染地と公認する時は、朝鮮各港の税関長も亦、同様公認して該地方より来る所の各船に対し、此規則を施行すべし。

  第十条
 伝染病の為めに病院を設立するの費用及其毎月の諸費は、朝鮮税関にて支弁すべし。
 然ども、病者の食物薬餌及看護に関する日費は、其関係の船隻より該国領事を経て取立べし。

  第十一条
 此規則は、試験の為めに施行するものにして、朝鮮政府は各国公使と協議の上、修正改補するを得べし。
 若し後来朝鮮政府にて此規則を廃止せんとすれば、其前此規則を認諾したる各国公使に二個月間の予報を為すべし。

  明治10年11月頃に京城でコレラが大流行した時に、朝鮮政府はこれも天命として放置し、なんら予防措置をしなかった時から10年、ようやく国家として当然するべきことに取り組むようになったということか。(「朝鮮国釜山港避病院建築費其他請求ノ件」p3)

 なお、該船隻は民間船に限られ、軍艦には適応されない。規則の趣意だけが軍艦艦長に伝えられた。

 

代理公使近藤真鋤の報告から

「明治二十二年 在清朝鮮公使館雑報 単/1)北京公使館ノ部/4 明治21年1月9日から明治22年12月9日」

(「同上」p4より)

発第八号

 客月廿四日(明治21年12月24日)夜、当国駐箚独乙(ドイツ)国総領事館、火炉烟突より失火。本館消防夫出張依頼越候処、先是当方にては既に該領事館失火と認め、我領事警部消防夫一隊引連致出張候後に付、猶林交際官試補、見舞の為め出張、消防方を輔助し、家屋は全焼に至候得共、器材書類等の大半は取出候趣に有之候。

 明治二十二年一月十日  代理公使近藤真鋤
外務大臣伯大隈重信殿

 クリスマスイブに火事とは、ついてないぞドイツ総領事館。

清国、国旗を定める

(「同上」p10)

発第四六号

当国駐箚清国総理交渉通商事交宜袁世凱より、今般同国政府に於て、黄色正角長方形に龍を画くものを以て国旗と定め、来る廿五日より改掲候旨、本月廿四日を以て通知来候間、此段及御報告候也。

 明治二十二年二月廿六日
          代理公使近藤真鋤
外務大臣伯大隈重信殿

大清帝国国旗(イラスト)

 ん?清はまだ国旗を定めていなかったらしい。朝鮮より遅いではないか。

 

朝鮮国人火薬製造方等伝習方の件

 明治18年の日清天津条約以来、日本は朝鮮国への積極策を取りやめ、専ら清国が朝鮮に干渉するのも放置したが、それでも朝鮮国の方からは留学生を日本に派遣するなどして、新しい技術を取得しようとはしていたようである。

(火薬製造法伝習並該器械製造の件)

一第五〇五号 外務省

火薬製造法伝習並該器械製造の件
議按 明治二十二年四月一日
朝鮮国公使へ回答案

今般火薬製法習学の為め、当国政府より学生四名我邦に派遣並に製薬器械内、当国に於て製造整い難き分は、其製造方、我東京砲兵工廠へ依願の件に付、照会了承。右火薬製法伝習の義は別に我外務省を経て回答に及趣候通に有之。将又器械製造の義も支障無之、尤該器械製造依頼の節は、種類員数等を具し、更に照会有之度。敬復
陸軍省送達 第六五一号 四月一日

一第五〇五号 送第三六号

火薬製造方法を学習せしめんが為め、朝鮮政府より学生四名を派し貴省所轄火薬製造所へ入学致度義に付、本邦駐繋同国代理公使より別紙写の通、照会有之候。右は当省に於て格別御差支無之義に候■御詮議の上入学御差許相被致度と存候。此案及御照会候也。
明治二十二年三月廿八日
   外務大臣伯 大隈重信

 陸軍大臣伯 大山巌殿

 依頼は大朝鮮国欽差弁事大臣金嘉鎮、学生は金有植、安大亨、河正龍、金致ゥ。
 4人は、明治24年1月に、「生活等目下最良卒業致候(朝鮮国留学生退営の件)」と無事卒業して帰国した。

 

朝鮮国王、出迎の儀式を渋る

(「明治二十二年 在清朝鮮公使館雑報 単/1)北京公使館ノ部/4 明治21年1月9日から明治22年12月9日」p18、括弧は筆者。)

発第一六六号

 前年、当国より清国へ派遣相成候、進賀兼冬至使の一行は、本月(6月)九日を以て義州まで帰国。同帰便、清帝の詔書を奉帯致来候趣。
 就ては該使臣入京の節は、右詔書に対し前例に照らし、出迎の儀式可有之筈、去二十一日朝報に相見え候。
 尤も、過般来清国より勅使派来の風聞往々有之。然るに従来勅使着京の折には、当国王親(みず)から城外迄出迎候式例なれども、目下各国使臣も駐京の際、右式例通り施行の都合に相成候ては国体上非常の不体裁との懸念にて、其筋より右勅使派遣見合方、内々清政府へ及懇願候との次第も聞及居候処、遂に該冬至使帰国の便に詔書のみ持帰り候事と相成候義と被察候。
 就ては、出迎の義も国王親から城外へ被出迎候訳には無之、必らず大臣中へ代行被命候都合に可有之。又、詔書の旨意は如何なる事柄なるや、分明致兼候得共、多分今春、清帝親政及立后の頒詔に可有之と存じ候。
 右、御参考及具報候也。

 明治二十二年六月廿三日
           代理公使近藤真鋤
外務大臣伯大隈重信殿

 清国から詔書持参の勅使が来た場合、朝鮮国王は自ら迎恩門まで出迎えるのが恒例であったが、昨今、各国公使らも駐京しているので、その姿を見られたら非常に体裁が悪いから冬至使に詔書を持たせて欲しい、ということらしい。
 清国皇帝の臣らしくもない我侭であろう。(笑)

 そんな属国の自侭は許さんぞ、とばかりに、清国政府は以下のように大艦隊を派遣している。

 

清国北洋艦隊の示威行動
「同上」p19

 清国北洋艦隊が朝鮮に巡洋するとの噂があったが、明治22年6月29日、新任海軍大将丁汝昌、南洋艦隊副提督呉安康、北洋艦隊副提督ウイリアム・ラング(英国人)は、計8艘の軍艦を率いて仁川港に入港した。即ち、

 北洋艦隊5艘、旗艦定遠(甲鉄戦艦、7335t、全長91m、全幅19.5m、兵装30.5cm砲連装 2基4門、15.2cm砲2門、3.7cmガトリング機関砲8門、魚雷発射管3基、乗員329人)経遠(甲鉄巡洋艦、2900t、全長82.2m、全幅12m、兵装21cm砲 2門、15cm砲2門、4.7cm砲2門、3.7cm機関砲5門、魚雷発射管4基、乗員202人)来遠(経遠と同型)致遠(甲鉄巡洋艦、2300t、全長76.2m、全幅11.6m、兵装21cm砲 3門、、15cm砲2門、5.7cm砲8門、ガトリング機関砲6門、魚雷発射管4基、乗員202人)靖遠(致遠と同型)
 南洋艦隊3艘、旗艦寰泰(巡洋艦、2200t、全長80.9m、全幅11m、兵装15cm砲2門、12cm砲5門、魚雷発射管4基、乗員213人)開済(巡洋艦、2153t、全長80.9m、全幅11m、兵装21cm砲2門、12cm砲6門、魚雷発射管2基、乗員183人)鏡清(練習巡洋艦、2200t、全長80.9m、全幅11m、兵装7インチ砲2門、4.7インチ砲8門、乗員213人)

の堂々たる清国艦隊の一部である。

 そのまさに辺りを払うが如き威容は、宗主国の艦隊として面目躍如たるものであったろうし、大勢の朝鮮人たちが、さぞかし畏敬の眼差しで見詰めたであろうことは想像に難くない。

 一方、京城の日本公使館付武官井上良智海軍少佐は、丁汝昌の旗艦定遠の艦内一見を所望して近藤代理公使に依頼した。袁世凱主催の晩餐会に招待された近藤がそのことを話すと、丁らの快諾を受けて、定遠のみならず諸艦残らず見物を遂げることが出来た。

 7月6日に清国艦隊は仁川を出航し、釜山、元山を経てロシアのウラジオストック港などを巡回した。

 朝鮮の人々に宗主国の強大さを誇示して朝鮮の独立の意気を挫き、ロシアをもまた牽制せんとする行動であったことは間違いなかろう。

 しかし、わずか5年後の黄海その翌年の威海衛港に於て、この時の旗艦定遠、経遠、来遠、致遠、靖遠は海の藻屑と化し、丁汝昌は自ら命を絶つという、壮絶な運命が待っていることをこの時誰が思ったろうか。

 

鹿屯島関係

 「鹿屯島」とは、朝露国境である豆満江にあった中洲で、朝鮮の領地であったが洪水による河口の変化により対岸のロシア側につながってしまった所である。

 明治19年頃から、ここを清国が占有したとか、ロシアが占有したとか、又は朝鮮がロシアに譲渡した、などの風聞が流れ、英字新聞にも度々取り上げられるようになった。
(鹿屯島関係雑纂「1 明治19年11月15日から明治23年7月16日」)

 よって明治22年7月、近藤代理公使は袁世凱を訪問してそのことを尋ねた。
 袁世凱は、このことで清国と露国と朝鮮の間で、一つの紛議を生じる事も計り難く、もともとは、清国が豆満江地方を露国に譲与した際に結んだ条約で、豆満江を以てその境界とするとしたが、朝鮮に属する島の事については当時の清官が地理不案内により、このような不都合な約定を作って累を朝鮮に及ぼしたのである、と嘆息して答えた。

 また、袁世凱の属員から聞いた話によれば、今度の清国艦隊は巡洋中にそれら沿海を巡視したという。

 更に明治23年5月、日本政府は、近藤代理公使に内訓として、

 近頃から豆満江口にある「鹿屯島」を露国が占有したとの説を伝播する者があり、探求したところ、露国は清露増補条約第1条に拠り、数年来「鹿屯島」を占領していると、袁世凱から聞き及んだとのこと。
 しかし該条約なるものは見当たらず、ただ、1860年清露間北京条約の第1条に図們江(清名。豆満江は朝鮮名)以西は露国に属する等の文字があるだけである。増補条約なるものは、その国境画定の条約以外に締結したとあれば、それは何年ごろに結約し、鹿屯島のことがどのような文意を以て約定の義となったものなのかを、条約写しと関係書類を添えて詳細を報告するように。また露国が本当にそこを占有しているかを探訪の上回報ありたし、とのことであった。

 それを受けての近藤代理公使の報告は次のようなものであった。

 京城にては何の風説もなく、袁世凱にも問い合わせたところ、
 露国が既に占領してから数年になり、多分1970年頃から露人が若干移住しているようである。この地の事は1860年の「通商約章類纂第24巻第13葉、俄続約第1条」によるものである、と。

 しかしまた袁世凱の話によれば、
 先年朝鮮駐在の露国代理公使ウェベルは、朝鮮国王に謁見の際に、鹿屯島が果して朝鮮の所領ならば、露国から当国へ返還すべきことを周旋する旨を申し出た。しかし、当時の朝鮮政府の評議では、今更露国に該島の返還を望む時は、露国はまた如何なる報償を求めるかも計り難いとの議決に一変し、遂に何等の確答をもせずに、今だにそのままになっているようである、とのことであった。

 なお該条約である「俄続約第一条(「俄」とは露国のこと)」には、
「・・・至図們江口、其東皆属俄羅斯国、其西皆属中国、両国交界与図們江之会処、該江口、相距不過二十里、且遵天津和約第九条議定・・・」とある。(鹿屯島関係雑纂「2 明治22年7月9日から明治23年8月15日」p18)

 しかし、現地の様子は伝聞風説のみでは要領を得ないところから、明治23年6月に、対馬・釜山・元山・ウラジオストックと巡回する軍艦浪速艦(巡洋艦、3650t、全長91.4m、全幅14m、兵装26cm砲 2門、15cm砲 6門、6ポンド砲 2門、ノルデンフェルト多砲身砲 10基、ガトリング機関銃 4基、魚雷発射管 4基、乗員325人)に釜山領事館職員を乗り込ませて、現地視察をすることとなった。

 以下、その時の報告である。

(「同上」p42より抜粋、現代語に、()は筆者。)

 川上書記生、浪速艦に乗組巡回中見聞報告

 今般、浪速艦に臨時乗り組を命じられ、朝鮮沿岸を経て、ロシア国ウラジオストック港まで巡回の際に、見聞した事柄を記述して御参考に供する。

 明治二十三年六月十四日、雨、午前十時乗艦、正午十二時出航のはずであったが、
濃霧のために翌十五日早朝抜錨する事となった。
 同十五日、晴、午前四時三十分、釜山港抜錨、同十時、対馬竹敷港に投錨する。港内には、八重山(巡洋艦、1580t、全長97m、全幅10.5m、兵装12cm砲 3門、4.7cm速射砲8門、魚雷発射管2基、乗員200人)、春日、日進の三艦が停泊していた。
 同午後六時三十分、同港を抜錨する。

 同十六日、晴、午前八時、巨文島に投錨する。角田艦長に従い上陸。巨文島鎮営に至る。令使不在に付き、吏房の呉京一に面会する。[当時令使は本島からおよそ我が国の十五里離れた、兼管するところの青山島に赴いて不在であった。]
 吏房から聞き得た要領は次のようなものであった。

 今年に至って外国軍艦の出入りするものは一隻もなく、本日から十余日前と思われる日に、日本汽船一隻が一晩寄泊した。尤も、去年は六月頃に清国水師提督丁汝昌が九隻の軍艦を率いて来泊し、また八月頃に同艦隊が再び奇泊した。また九月頃には英国艦三隻が奇泊した。
 本島は従来より全羅道興陽県に属し、別に官衙の設けもなかったが、丁亥三月[明治二十年春、英国艦が同島撤回後]政府は特に鎮営をこの島に措き、令使を駐在させるに至った。
 島内には五ヶ村あり、榴村・百戸、長村・百五十戸、徳村・百戸、竹村・百戸、邊村・十戸という。山上間に耕地を見る。島民は専ら漁業を以て生業を営むという。

 同午後一時三十分、巨文島を抜錨す。
 同十七日、雨、午前六時、長崎港に投錨す。
 同十八日、陰(曇)、滞在。
 同十九日、晴、午前六時、長崎港を抜錨す。

 同二十日、陰、午後六時に元山港に投錨す。艦長に従って上陸、領事館に至る。
 同二十一日、晴半ば雨、午前十時、副長瓜生少佐に従い、徳源府に赴き、監理金文濟を訪問する。午後四時、金監理は答礼として来艦する。よって、砲撃訓練を演じ、終わってから晩食を供す。
 同二十二日、陰、午前十時、元山港を抜錨して午後四時に新浦に投錨す。この地は北青の所轄で、およそ百四五十戸あり。多くは明太魚(スケトウダラ)を産出するという。港内は船舶繋泊するに良港である。
 同午後六時、新浦を抜錨す。

 同二十三日、陰、正午十二時、雄基浦に投錨する。この地は慶興府の所轄にして人家五六十戸。民は製塩を多く業とする。
 明日に慶興府に赴くに付き、村役人に人馬の雇い入れを依頼して帰艦する。

 同二十四日、陰と雨、午前四時、一行[瓜生少佐他八名]が上陸して村役人の家に到れば、昨日依頼した人馬は既に調い、一行の来るのを待っていた。村役人もまた我が一行に同行して周旋をなすを望んだ。よって同行することに決した。同六時に漸く同村を発して、午後三時に慶興府に到着する。

 雄基浦から慶興府に至る里程は、およそ我が国の七里余りであり、峰巒起伏し、その間原野広漠、牧草繁茂し、土人は多く牛馬を牧畜する。土地は石多く地味は痩せて水利乏しく、雄基浦より慶興府の間に四嶮あり。檜嶺、長毛路峴、下汝峴、撫夷嶺、という。
 檜嶺、撫夷嶺の二嶮は尤も峻嶮である。特に檜嶺は山容勇猛にして樹木繁茂し、時々虎豹の出没があると、現にこの日土民等は虎害を恐れて頻りに我等一行に向かって、発砲を催した。
 過ぎる所、一ヶ村落をなした場所がなく、唯一戸、又は二、三家が所々に点在するのみで、北部地方の土民の稀少であることを推知するべし。
 慶興府は西山を負い、東江に臨み、石壁を以て巡らせた城砦にして、周囲およそ我が国の七十余り。江を隔てて前面は原野広闊、遥かに清露の山脈を望み、遠景最も秀絶なり。府下戸数およそ二百戸、人口一千余ありという。

 監理金禹鉉は接待を甚だ尽くした。
 金監理との問答の要領を次に記す。

 豆満江口にある鹿屯島[周囲、朝鮮里で二里、人家五十戸、露兵九名屯在するという。果たして確実かは不詳であるが初めて聞くことなのでここに記す。]は、以前は河流が同島の東側に流れ、朝鮮所属の地であったが、数十年前[年月不詳]に流れが変って島の西方に流れるようになり、東側は殆ど水流がない形となって、何時となく自ずから露国領に属するようになった。しかしもとから我が国の属島であることは判然なるを以て我が政府より駐京露国公使に該島返還の談判をしたところ、露国公使から本国政府に稟報して返還の運びに取り計らう旨を答えられたようであるが、今日まで依然そのままになっている。しかし我が政府としてもそれほど重要の地でもないので、格別に催促もしていない。
 陸路貿易場を雄基浦に設けるとの風説が昨年来どことなくあったが、それは到底出来ないと思う。なぜなら雄基浦は国境から七里余りも内地に入り込んだ港湾なので、この地に貿易場を設けることはとりもなおさず開港場を開くと同じであり、露国が望むとも我が国は諾しないことは当然である。殊に貿易場区画のことについては、未だ露国から何の開談もない。
 まず余が考えるのに、是より河口に下って七里に、造山[人家五十戸]という地がある。この地は露国領と対岸の地なので、この地に決定すれば至極良いと思っている。

 慶興府にて清国人二三十人、雄基浦で二人見受けた。多くは渾春地方の者で、常に往来貿易するという。
 従前は、清朝両国人は相互に豆満江を往来するのに証票を携帯する必要はなかったが、今年から国境を越えて往来する者には、双方でその国境界官から証票を発給し、もし証票を携帯しない者がある時は、これをその所属する国に送還する手続となった。豆満江を越える貨物に対しては両国共国境に於て課税をする法である。

 本府は河口から離れること十里の地で、前面の河流は毎年二面あり、春の消雪の時季及び夏の霖雨の頃でなければ河水量が多くないので、河口から大舩を通すことは出来ない。今の時点で何とか向こう岸に達することが出来る場所は所々にあると言える。

 同二十五日、晴、帰路前日と異なることはない。監理から答礼として属員を派して本艦に訪れさせる。
 同二十六日、雨、午前九時、雄基浦を抜錨して午後一時に露国領ポシェット湾に投錨する。山上陸軍兵営あり。兵士およそ千二三百人屯在するという。兵舎は粗造で見るべきものはない。
 同二十七日、雨、濃霧のために発艦することが出来ない。
 同二十八日、雨、午前九時にポシェット湾を抜錨して午後四時にウラジオストック港に投錨する。
 二橋貿易事務官が来艦する。角田艦長に従い貿易事務館に至る。
 同二十九日、陰、本港別に記すべきことなし。
 同三十日、陰、滞在。
 七月一日、陰、滞在。
 同二日、陰、午前十時、ウラジオストック港を抜錨する。
 同三日、晴、午後一時左舷に欝陵島を望む。
 同四日、陰、午前六時、釜山港に投錨す。

   書記生川上立一郎
領事立田革殿

 鹿屯島のことは実は今日に於ても領土問題として未解決であるらしい。韓国、北朝鮮とも、一度ロシアに折衝を試みたが何の成果もなかったと言う。

 今日の日本にとってはどうでもよい問題であるが、当時の日本政府が、袁世凱から説明を受けてもわざわざ調査官を派遣したところに、いかにロシア進出に神経質になっていたかが思われる。尤も、袁世凱を信用する者は政府内にはいなかったろうが。

 朝鮮に於て、山に樹木が繁茂し、山脈の遠景が秀絶であるという記述は、筆者の知る限りここが初めてである。人口が少ないことがその理由であろう。
 牧草が繁茂し、多く牛馬を牧畜すると。宮本小一も明治9年に京城に於て、「牛はよく育っている」と述べているが、朝鮮では牧畜が盛んであったと言えよう。
 しかし虎の出没する地でもあるから、その被害はどうであったろうか。

 

この頃の朝清露関係

 さて、朝鮮政府は明治15年(1882)に清国の斡旋(ほとんど強制)により米国と条約を締結し、続いて明治16年(1883)に英独と、明治17年(1884)に露伊と、明治19年(1886)には仏国とそれぞれ通商を結んだ。

 かつて日本政府が明治4年3月の内諭で、「方今の形勢、 一旦朝鮮之を拒むも、永く之を守る事能わず。必らずや開国せざるを得ず。宜しく今に処するに将来を熟慮し、敢て妨碍を遺す事勿れ」と述べたように、十数年を経て漸くそれが現実のものとなったのであるが、これら西洋諸国と結んだ条約の特徴は、条文の上では朝鮮国を対等の独立国と見なして締結していることであった。もとより西洋列国は他国の属藩の地位にあるものと条約を締結することはしない。そのような国はベトナムのように切り取って植民地とするだけである。

 朝鮮がそれを免れたのは、ひとえに日本政府が、朝鮮を独立自主の国として真っ先に近代条約を締結し、またあらゆる機会を通じて朝鮮の独立国たることを西洋各国に訴え続けたからに他ならない。

 しかし、清国が明治15年に定めた「中国朝鮮水陸貿易章程」は、先述したように、朝鮮を属邦として位置付けることを明文化した条約であった。
 日本は明治9年に「日朝修好条規」を締結して以来、朝鮮が独立国として、その実体が伴うよう全面的に支援し続けてきたのであるが、やがて清国との軋轢を生み、ついに明治17年の「朴金の乱」に於ては、日清両軍が衝突する事態ともなったことから、日清天津条約を機に、朝鮮を支援することを改め、清国の朝鮮への干渉に対してもほとんど放置する政策に転換した。

 また朝鮮政府内は、「朴金の乱」以後は清国への事大党一色となったが、未だ日清交渉が成らぬ頃、「別入侍」と称する、外国に遊学して海外の事情に通じた者が国王の側に侍り、「清は既に恃むに足らず、日本は怨を朝鮮に構え、且つ清国と是非を干戈に訴えんとしている今、ここに至っては、露国の保護を仰ぐほかなし」と進言した。
 よって別入侍の一人金繻ウが密使としてウラジオストックに行き、黒龍江(アムール川)総督コルフに面晤して、日清両国が朝鮮に於て事がある時には救援するよう要請した。
 露国はこれを承諾し、明治18年(1885)に駐日露国公使館書記官スピールを朝鮮に遣わせて、正式にその為の条約を結ぶことを迫った。しかし、もとより督弁金允植など政府外交部の者の与り知るところではなく、またその後日清の交渉も平和に局を結んだことにより、書記官スピールも強硬に談判をするわけにいかずに中止となり、その後に金繻ウは王命を偽ったとして流刑に処されて、韓露密約のことは終に消滅した。

 一方、日清の条約なって両軍が朝鮮から引き上げることになったことから、露国の朝鮮進出を危惧した英国は艦隊を率いて突然朝鮮の巨文島を占拠、砲台を築くなどしたが、朝鮮政府はそれに対して英国の不法を各国に知らせることを書を以て送るなどの他に、何ら有効な手段がなく、ほとんど金允植なども茫然とするのみであった。

 しかし露国が清国に対して、英国の巨文島占拠を許すのか、と問うと、清国政府は水師提督丁汝昌に命じて軍艦3隻を派遣して実地を調査し、更に長崎に行かせて英国の艦隊司令長官に面会し、その不法を詰問した。
 これにより英国は、この地を撤退することを清国に約束し、清国はまた更に露国から他日に巨文島を占領しないとの誓約を取り、これを英国に示した。それにより明治20年(1887)に至って英国は終に巨文島の占領を止め、これを朝鮮に還している。

 露国は明治17年(1884)に朝鮮と通商条約を結んで以来、益々その勢力を伸張せんと欲し、追加条約草案を提出して特に露国人のみの為に、陸路貿易を開かんことを要求し、モルレンドルフはまた朝鮮政府内にあってその為に百方力を尽した。

 それに対して清国の李鴻章は、書を高宗に送って7条の問答を発し、その利害を論じて忠告を繰り返した。また、モルレンドルフをも清国に召還せんとすると、駐朝露国公使ウェベル(ウェーバー)は高宗に対して大いにその不可を論じた。これにより高宗は反ってウェベルとモルレンドルフとの関係を察し、いよいよ追加条約が危禍を包蔵することを悟り、その事は一事中止となった。

 よって清国はモルレンドルフを召還した後に、米国人デンニー(元上海アメリカ総領事)を高宗に勧めて政府顧問とさせるなどした。
 ところが、デンニーもまた後に「清韓論」を著して清国政府の干渉と袁世凱の行為を痛斥し、朝鮮は清の属国ではなく独立の実を表すべきことを切論した。しかし、その言は公平に見えて、実は露国に依頼して成し遂げんとするものであった。

 露国は、英国が巨文島を占領して朝鮮の人望を失っていることから、なお朝鮮の歓心を求めんとし、また閔氏の一族も王妃と共に王を擁して露国の保護に頼らんとする風潮が止むことはなかった。
 その上閔氏の行動は往々にして清の意向に反するので、清国はついに幽閉していた大院君を帰国させることによって、閔氏の抑えと露国の疎隔を図った。大院君はもとより外夷排斥を好む人である。
 また、巨文島占拠とスピール訪韓のこと等も詳細に報告することすら怠った、無能なる駐朝総弁商務陳樹棠を解任し、大院君を護送した袁世凱を以て駐朝交渉事宜に任じてそれに代らせた。

 更に明治20年、袁世凱は大院君と謀り、国王高宗を廃して王の兄李載冕の子を立てて世子とし、大院君をしてその摂政の地位に就かせんとした。しかし、閔泳翊は初めその謀に与って事情を知悉し、後ひそかにこれを高宗に告げたことによって陰謀はついに敗れた。

 露国公使ウェベルはこの機を逃さず、再び追加条約を朝鮮政府に提出し、朝鮮はこれを謝絶することが出来ずに明治21年(1888)、陸路通商条約9条を定め、翌年ついに咸鏡北道の慶興を開いた。
 しかし、初めの草案では豆満江岸百里の地を開くことなどを要求していたが、朝鮮政府は慶興のみに止めるなどした。これも清国の干渉が功を奏したものと思われた。

 その後、明治24年(1891)に至って、李鴻章は書を高宗に送り、位を世子に譲らしめんとした。
 その時高宗はこれを大臣に問い、領議政沈舜澤、左議政鄭範朝などは、清国の意に背くことを恐れて、国王と世子とが並ぶことを請い、禮判李裕翊は深くこれを非としたために、沈舜澤等は退出して門外でその罪を待った。
 しかし廷議は、世子の代理の前例がないわけではないことから、ついにその制度を定め、為に非を鳴らした李裕翊は却て追放された。
 またこれにより、閔應植、閔泳駿等は、再び露国に対して保護密約を求めたという。

 要するにこの頃の清露関係というものは、朝鮮半島をめぐって表面に出ないものも含めてまさに陰雲惨憺たる情勢であったということである。
(以上、アジ歴資料と林泰輔著『近世朝鮮史』から)

 

清国の不明

 そもそも朝鮮は、自主独立国として日本はもとより、西洋列国とも条約を締結したのであるが、清国の干渉の目的は、露国の朝鮮進出を防ぐための方策に止まらず、ようするに朝鮮をして宗主国への属藩たるを強化し、且つ西洋各国にもそれを認めさせることに他ならなかった。

 しかしベトナムの例を見るまでもなく、属国と認めさせたところで何の効能があるというのであろうか。それよりも朝鮮をして堂々たる独立国の旗幟を鮮明にさせてこそ、朝鮮が西洋諸国と対等の関係を持ち得る唯一の道なのであったが、中華帝国清国は相も変らず中華思想の観点から一歩も抜け出ることが出来なかったということであろう。

 陳樹棠を交代させ、モルレンドルフを召還して米国人を顧問に就かせるなど、明治18年6月に井上馨外務卿が提案した朝鮮政策に沿ったものであったが、日本と協議した上で事を進めることをしなかっただけに、その拙悪な施行は反って朝鮮を露国側に追いやり、その進出を招きかねない事態となりつつあった。

 

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