日清戦争前夜の日本と朝鮮(14)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

明治21年(1888)7月「TOBAE(鳥羽絵)第34号」(「【 レファレンスコード 】 B03040634600」 p8より。アジ歴では表題が「TOBAE〔第94号〕」となっているが、実際は34号である)
日本艦隊
近頃日本も■国と何事か秘密に交際を結び初めし様子だが、愈々おッ始めそう
しかし、小魚[ゴマメ]の歯切り  恐るヽに足らむ
支那、朝鮮海に於ける日本の艦隊
 苦しい国家財政をやり繰りして海軍増強に努力する海洋国家日本の姿を、支那人と朝鮮人の姿を借りて揶揄するビゴーの風刺画である。
 フランス人の目から見ると、大国清に較べれば日本の軍備増強の姿など所詮ごまめの歯軋りにしか見えなかったのであろう。

 なお、ビゴーの風刺画の中でも有名な、「日本、ロシア、中国が朝鮮を釣ろうとしている絵」に関しては、その説明と共に「日清戦争前夜の日本と朝鮮(17)」に掲載している。

 

長崎事件

 台湾問題、琉球問題、明治17年朝鮮事変と、敵対関係に向う日清両国間において、日本人に清国は敵国であるとはっきりと認識させ、清国に対抗する軍備に駆り立てさせるきっかけとなったのがこの大事件である。この事件以降、日本世論は清国脅威論や対清国強硬論が盛んとなり、やがては日清戦争に結びついていく。

 日本における外国人居留地や外国船が寄港する港での外国人によるトラブルは、それまでもしばしば起きている。例えば、明治16年11月には、横浜港で露国軍艦スコベロフ号とナイズニヅリ号のロシア水兵数10名が税関で暴れ、取り締まりのために出動した日本人巡査と争闘になり、双方数名の負傷者を出すなどのこともあった。(神奈川県下横浜港ニ於テ露国軍艦乗組水兵暴行始末ノ件)
 長崎居留地においても明治16年10月に、アヘン吸引の支那人を原因として巡査と支那人との間で殺傷事件が起き、その処理をめぐって清国政府と条約上の国際問題にまでなっている。(長崎県阿片烟ニ原因シ巡査ト清国人トノ間ニ起ル殺傷事件書類進達ノ件)
 あるいはまた、古くは江戸時代天保年間(1830〜1844)の頃に、長崎で不逞清人が徒党を組んで犯罪を繰り返すという事態となり、ついに幕府が動いてこれら清人180人を捕縛し、75人を禁固刑に処し、後に本国に強制送還するという事件もあった。(明治26年4月刊「長崎小史」)
 外国人と直接接触する地域は、昔から何かと事件が絶えないものであった。

 しかし明治19年(1886)8月の清国水兵による長崎事件は、その規模において「宛も一小戦地なる」大事件であった(清国水兵暴行ノ際鎮撫ニ尽力セル者ヘ賞与ノ件)
 そしてやがてこの事件を機に日本では、清国に対抗し得る国権論が盛んになっていく。

 アジ歴には、長崎事件についての資料は、事件大要が書かれた簿冊「日清交際史提要」の「第五冊 第十七編 至 二十編/2 第十七編 長崎事件」があるだけで、事件当時の資料は、「清国水兵暴行ノ際鎮撫ニ尽力セル者ヘ賞与ノ件」以外に見出せないのは残念である。(その後、「外務省 外交史料館 日本外交文書デジタルアーカイブ」に「長崎ニ於テ清国水兵暴行一件」が掲載された)
 それでも、日清交際史提要の該資料はそれなりに詳しく記録されているので、事件の全体像をほぼ把握することができるものである。

 それによればこの事件は、そもそも清国が日本を威圧せんとする目論見が根底にあったことに端を発したとしている。

(「第五冊 第十七編 至 二十編/2 第十七編 長崎事件」より抜粋、一部省略、現代語に、()は筆者。)

 清国はアヘン戦争以来、失敗した困難な外交事務を立て直さんと工夫している時に、我が国から条約締結を申し込んだことにより、日本と連絡して外援となさんとの心算を立てたことは、明治三年九月九日付けを以て総署に宛てて天津の教案を論ずる書末に、「日本は蘇浙を距る僅か三日程なり。中華の文字に精通し、兵も亦強し。正さに連ねて外援となすべし。西洋人をして倚て外府と為さしむる勿れ。」と記載している通りである。

 しかし、以後の事情は大いに彼の心算に相違し、まず第一に、「(明治四年に)締結した修好条規及び通商商程は、言葉を卑しく並べ立てた欧米各国のものと違うものである」と李鴻章が自負したことに相違して、日本は翌五年に改正を申し込んだことから、李鴻章は、「今これを受ければその辱めを蒙り、自分は何の面目あって天下に対し何の言語を以て総署に開陳できようか。」と憤怒した。
 これが彼が日本に対して唱え出した不平の最初の第一声である。

 これに続いて、明治七年には台湾事件があり、八年には第一回朝鮮事件(雲揚号事件と日朝修好条規)あり、十一年には琉球事件、十五年には第二回朝鮮事件(大院君の乱)あり、十七年には第三回の朝鮮事件(朴金の乱)があった。
 いずれも李鴻章が日本に対して不平を抱く事件である。

 また、安南事件(ベトナム事件)に起因して戦争した仏国に対しては、一文の償金も支出しないで十八年中に平和条約を締結したことは、諸外国人も聊かこれを賞賛し、中には李鴻章に追従して、これを機会に海陸軍器の購入を勧告した外国人もあったろう。

 清国は財政困難であったが、財源を工夫して軍備に力を入れ、殊に海軍を増強し、明治十八年十月十三日には海軍衙門を新設し、北洋水師の一部を精錬して全国海軍の先導とした。

 かつて独逸に造らせた砲塔鋼鉄の「定遠」や「鎮遠」はいずれも七千四百三十トンの姉妹戦艦であり、それは世界最大級のものであり、「済遠」は二千三百五十五トンの巡洋鋼鉄戦艦であって東洋に於ては稀有のものである。

 再三不平のあまりに平生から日本を 「貧国なり」などと言っていた李鴻章は、想うに一入考えを巡らせたであろう。曰く、「我が中国の海軍は以て日本に観せて懾伏(おそれてひれふすこと)させるべきである」と。

 

清国水兵騒乱の顛末

 明治19年8月、清国水師提督丁汝昌は旗艦定遠(甲鉄戦艦、7335t、全長91m、全幅19.5m、兵装30.5cm砲連装 2基4門、15.2cm砲2門、3.7cmガトリング機関砲8門、魚雷発射管3基、乗員329人)に乗り、海軍衙門雇いの水師副提督英国人ウィリアム・ラングと共に鎮遠(定遠と同型)済遠(甲鉄巡洋艦、2300t、全長72m、全幅10.5m、兵装21cm砲 2門、15cm砲1門、4インチ砲4門、魚雷発射管4基、乗員202人)、また北洋艦隊練習船威遠(練習砲艦、1270t、全長66m、全幅9.5m、兵装7インチ砲 1門、4.7インチ砲6門、乗員124人)と、4隻の軍艦が修復を名として長崎に入港した。
 定遠・鎮遠はドイツ製の甲鉄戦艦であり、30センチ砲4門を搭載するなど当時世界最大級を誇る巨大戦艦であった。初めて見るその威容に驚愕茫然たる日本人も少なくなかった。

 8月13日夜8時半頃、数名の清国水兵が、丸山遊郭の寄合町の貸座敷で家財を毀棄するなどの乱暴を働いた、との通報が家人から丸山町巡査派出所にあり、為に巡査2名が現場に出張した。(通常の巡査は帯剣をしておらず、警棒のみを所持している。)
 しかし水兵らは却って巡査に暴行を加え、2人を逮捕したが他は逃亡。

 しばらくして、10名〜15名ぐらいの清国水兵が派出所前に来て、中の一人の水兵が巡査を指差して何事か悪口のようなことを言っているのを見ると、先の巡査に暴行して逃亡した者の1人であった。
 よって取り押さえんと巡査が同人に迫ると、その暴行の水兵は日本刀を抜いて巡査の頭上に切りつけた。

 当時水兵は、非武装で外出するようにと丁汝昌提督から命令されていたが、水兵の中には町の道具屋で日本刀を購入していた者もいくらかいた。

 巡査はその刀を奪い取らんとして手と頭を負傷したが、応援の巡査と共に力を尽くして刀を取り上げ、押し倒してようやく取り押さえた。その際、水兵も頭部を負傷した。
 それより水兵を濱町警察署に送付し、後に清国領事館に引き渡した。

 これが後の大騒乱の発端であった。

 2日後の15日午後5時頃、凡そ300名の水兵が上陸し、不穏の挙動があるとのことで、常置の巡査1名の外に梅香崎警察署から2名の巡査が出張した。水兵らは酒店などの店類に入り、夜になっても船に帰らなかった。
(後に判明したが、水兵は刀を持ち棍棒を持つなどしていた。)

 その2名の巡査が談話をしていると、1人の水兵が来て、その間を割って通過した。暫くしてまた戻り、再びその間を通過せんとしたので、両巡査は互いに密接したので、水兵はその後ろを通過した。
 暫くして1名の巡査が巡邏のために歩行し始めると、又前の水兵が走って来て故意に巡査に衝突した。ために巡査の帽子が飛んだが巡査はそれを堪忍した。すると別の1名の清人が来て拳を握って巡査の口に押し当てるか或いは小刀を面部にかざすなどした。それでも巡査はあくまで忍耐してこれを諭さんとしたが、巡査の警棒を奪おうとしたのでこれを防いでいると、又1名の清人が後ろから来て揉み合いとなり、為に他の巡査2名が駆けつけると、清国水兵20数名が現れて乱闘となり後百人以上となって遂に巡査1名は殺害され、1名は重症を負って倒れた。

 もう1人の巡査は辛うじてその場を逃れて梅香崎警察署に急報して応援を求めた。
 しかし当日は、コレラ病予防の為に巡査が各地に出払っており、人員は甚だしく欠乏し、また巡査は通常は巡邏、立番と勤めて一箇所に集合するものではなく、為に人員を集めるのが困難であった。それでも長崎警察署から、帯剣の監督巡査1人と共に8、9名の警棒巡査を派出したが、再び現場に来ると将に200名程に膨れ上がった水兵が思切橋から廣馬場街、舟大工町の周辺で暴行の真っ最中であった。
 駆けつけた巡査らに対し水兵は刀と棒で襲撃し、帯剣巡査も剣を抜いて防戦したが、多勢に無勢で遂に重傷を受けて翌日に入院先で死亡。やがて追加の巡査が駆けつけて総勢30名程となったが、それでも人数として不利でほぼ全員が負傷しながらも水兵を捕らえ、或いは防御に努め、或いは逃げ惑う人民を助け、また清国商人を救護し、鎮圧に努めた。

 折りしもこの騒動を知った付近住民が公憤して、手に手に武器を持って多数で駆けつけ(清国側の言では千名あまり)、或いは投石し或いは水兵らに打ち掛って次々に殺傷した。中に士官も1人が即死し、負傷の支那水兵は15、6名に及んだ。(清国側の言では、死亡8名、負傷42名。)
 遂に水兵たちは清国領事館内に逃げ込んだ。
 翌日16日には武器を持った日本人民2千人が領事館を取り囲んだという。(清国側の言)

 日本側死傷者は巡査の場合、死亡2名、重軽傷26名であった。後に、警部、巡査ら32名が政府から賞与を受けている。(清国水兵暴行ノ際鎮撫ニ尽力セル者ヘ賞与ノ件)

 以上は、ほぼ日本側情報を総合しての顛末である。(当時の新聞記事も概ね同じである。)

 水兵を襲撃する住民がある一方、逃げ惑って混乱する一般人民もあった様子が次の文からうかがえる。
「長崎港に於て清国水兵の暴行たる数百群を成し、乱行暴挙至らざる所なく、住民之が為め驚愕或は家財を負て走り、或は老幼を扶け逃れ、人心兢々として其騒擾実に一と方ならざりし」 (「清国水兵暴行ノ際鎮撫ニ尽力セル者ヘ賞与ノ件」p1)
 おそらく水兵を襲撃したのは士族が中心であったろう。


脊髄反射の李鴻章

(「第五冊 第十七編 至 二十編/2 第十七編 長崎事件」p6より、現代語に、()は筆者。)

 天津にあって李鴻章は、長崎にいる丁汝昌提督らの電報を接受して、先に定遠や鎮遠のように東洋に稀有の戦艦を日本に観せて、これを懾伏させんとの一端としようと考えていた折に、今その水兵が日本の巡査らに殺傷されたと聞いて甚だ大いに憤怒し、八月二十日に天津領事波多野章五郎に尋問した。

  「本国から何か通信を受け取りしか。」

波多野「何らの書信も受け取っていない。」

  「近頃、長崎の我国兵船帯兵官から、そこに於て我が国の水兵と貴国巡査との間に喧嘩があって、我が国の水兵の死傷少なからずとの電報が達した。これは容易ならないことである。」

波多野「それはいつ頃の事で何の原因でそのような喧嘩を引き起こしたのか。又死傷者は何人なのか。」

  「本月十六日[清歴]のことで、未だ詳しくはその原因を知ることはできないが、大抵は少数の水兵が上陸をして物を買い入浴等の末に起こったに違いない。この騒動で我が水兵の死者は五人、傷者四十一人、総計四十六人の死傷があった。さて貴国の巡査は乱暴至極傍若無人の挙動、実に憎むべきの至りである。巡査は長崎県の管轄なのか。」

波多野「然り。長崎県の管轄である。貴国の兵船は何艘なのか。」

  「鎮遠、定遠、威遠、済遠などの数艘である。巡査が長崎県の管轄であるなら長崎県は実に大事を等閑視する役所でないか。」

波多野「上陸した水兵は武器を携えたのか。又武器を携えていないとしても、水兵は普段身を離さず縄切り小刀を所持するものなので、この時も携帯したに違いない。」

  「電報によれば、上陸の時に帯兵営から命令を出して小刀をも携帯させていない。我が水兵も何か武器を持っていたなら、みすみす四十余人の死傷はなかっただろう。貴国の巡査が刀を用いて、武器を持たない我が水兵を殺傷したことで、憤怒の度を加えたと知るべきである。いったい貴国長崎の巡査は我が国の人を憎むものと見えて、三、四年前にも巡査が我が国人一名を殺した(明治16年10月のアヘン吸引に関する殺傷事件の事)。今又この事については帯兵営から電報を発して、開戦してもよいかどうかと問うて来たが、自分からはこれを差し止めた。しかし、今戦争を開かんとするのは難事ではない。貴国にある我が兵船は船体銃砲皆使用可能で、自由に開戦することができるからである。」

波多野「貴国の兵船は元山からウラジオストックを経て長崎に入ったのか。」

  「然り。前回に面晤の時に申したように、貴国に至って兵船を修繕せんとて参ったものである。この事が起こったときは一艘の修繕は既に成り、第二の兵船を修復中であった。今後は我が国の兵船は上海か香港に於て修復して、決して貴国には依頼しないであろう。」

波多野「その貴国兵船の司令官は丁汝昌氏で英国人ラングも乗り組んでいるのか。」

  「然り。丁もラングも乗っている。いったい兵船が港内に停泊して物を買うなどは当然のことであるのに、この度の事が起こったは貴国巡査は町を固めて我が水兵の行路を妨害したとは無礼にも程があることである。またこの天津にいる日本人を苦しめんと我が人民を扇動しようとするのは容易に出来ることである。現在、日清両国は最も和好を要する時節であるのに、このような意外の事が起こっては、それに関係する所は少なくない。確かに貴国の人民は実に和好であっても巡査に至っては憎むべきこと甚だしい。」

波多野「我が国の巡査は、大抵道理をわきまえているので無茶苦茶に人を傷つけるような挙動はしない。それに警察法を施行すること極めて厳にして、乱暴者を制するときには随分益に立つものとしている。」

  「もし我が国の水兵が貴国にあって乱暴するなら、県庁から我が帯兵営に掛合ったならば充分静謐となるべし。まさしく多人数の巡査が寄り合って我が水兵を苦しめるに及ばないだろう。全体、長崎県庁も我が国領事との間も関係はよい。これらの事は総て長崎巡査が我が国人を憎んだ事により起こった。」

波多野「我が国に於てはアメリカとは異なり、職業上日清両国の競争などはないので、我が国人民が少しも貴国人民を憎む理はない。」

  「アメリカとは何か。それは人民と人民とのことである。これは官兵と官兵との事である。その関係はアメリカに比べれば大である。」

波多野「官兵と言われるが、我が国の巡査は兵士と区別がある。すなわち戦争するのを兵と言い、地方を警察して乱暴者を取り押さえるのを巡査と言う。この区別を心得置かれたい。」

  「この事について貴国外務省は委員を派出し、本国公使からも参賛官を派遣した。しかし何分貴領事から本国に電信して万事然るべく弁理ありたい旨申し送りありたい。」

波多野「承諾する。我が国政府もこの事について満足な結果を貴国に与えると信じる。電信のこともあればこれで辞去する。」

 この清国老人、よく調べもしないで怒り過ぎである。まあ、かかる時には高圧的に出るのが中華の主というものなのだろう。

 ところがその2日後、李鴻章は態度を一変してこう言った。

(「同上」p9)

 長崎から電報を最初に受けた時は、拙者も一時は甚だ立腹した。醇親王(光緒帝の実父)も北京でこの事を聞いて必ず立腹したことであろう。しかし拙者等は国家の大事を任ずる者なれば、巡査と水兵の喧嘩は、これを処するのに、その任の者に任せればよいだけである。そしてその任に当たる者が公平でなく無私でないなら、初めて拙者等の手を労する時であるというべし。
 まさしく巡査と水兵の喧嘩は、小児の喧嘩である。この喧嘩は父母たる者がこれを公平に処すれば足るものである。このために父母の喧嘩を起こすまでもない。ゆえに今回の事も、貴政府がもしこれを処するのに公平無私ならば、我が政府に於ては少しも怨むところはないだろう。
 伊藤大臣、榎本大臣は、我が心服の友にしてその平和主義を執るのは素より知るところであり、また塩田大臣とも以前に話したことがあって互いに心を開いたことであり、貴政府の今回の事を処するに公平無私他意ないことは拙者が明知するところである。よって今回のことに関し、貴政府を疑う心はない。
 去る十五日の喧嘩の前に、巡査と水兵と喧嘩をなした由なれば、十五日は清艦に於て水兵の上陸を禁ずるべきに、そうならずに二隻のボートで水兵を上陸させたのは、こちらに於ても落ち度がないと言うことは出来ない。

 おそらく李鴻章はその後詳しい情報を得て事件全容を知ったのだろう。
 しかしトーンダウンはしたが、巡査の行為を犯罪事件取締りの行為とは見ずに、あくまで巡査と水兵の「喧嘩」として通そうとするのは同じである。
 「長崎から電報を最初に受けた時は、拙者も一時は甚だ立腹した。」 とあるが、腹立ち紛れに波多野領事に前記のような尋問をしたとしたら、この人は短気短慮の人でもあるということになる。「天津条約」や「井上提案の八か条」での榎本公使との対談に於ても、何となくそのことが窺われる個所があるので、おそらくそうだったろう。

 

北京総署の照会

 その後9月28日になって、長崎の清国領事の報告に基づく北京総署の王大臣の申し立ては、また違っていた。まとめるとおよそ次のようなものであった。

(「同上」p10)

・13日に華兵(中国兵のこと)が車夫と値段の事で争い、そこに来た日本巡査は是非も聞かずに棍棒で撃った。華兵はそれに仕返しに撃って走り去った。
・その事を聞いた警察署は、巡査数名を派した。別の一兵が買い物をして車に乗るに遭い、捕らえて警察署に連れて行って吊るして殴った。
・15日に我が兵は休暇なので岸に上って物を買い、夕方には大半が船に帰った。残ったものは百人に満たない。それを日本巡査はあらかじめ伏せて待ち、意を蓄えて報復しようとし、街中でわざと華兵に突き当たって怒らせ、互いに打った。
・我が兵は武器もなく、各所に巡査が散在しているも知らなかったが、日本人は一度に打って出て各所で殴った。華兵は防ぐことも出来ず、また夜となったので笛を吹いて召集したが、無数の巡査は一斉に手を動かし、日本の小船を渡し舟として帰るを許さず、以て死者8名、負傷者42名となった。
・次の日、日本人2千余名が手に武器を持って租界を歩き回り、理事署(領事館)を囲んで口々に悪言を出した。
・もし理事官(領事)が布告を出して国法を守るように我が国の者に言わなかったら事変となっていたろう。
・刀剣は4本だけであった。日本巡査の刀を奪い取ったまでである。丁汝昌提督は一概に日本刀を買うのを許さない。
・負傷者の傷は皆背後にある。以て我が兵は争闘する気もないのを日本巡査が後ろから追って殺したに間違いない。
・華兵が手にするのは看板、柱、木柴の類であることは、衆目の見聞きすることである。
・日本巡査が号令を出して刀と棍棒を以て打った後に、他の日本人が石塊を投げ熱湯を掛けるなどして助殺した。
・巡査は他の日本人らを予め召集して時を約束し、示し合わせて華兵を殺した。
・以上のことは貴国の国家の意から出たとは思わないが、地方官が両国の大礼を省みずに、毒計を設けて行ったものである。
・中国の商民は憤怒しており厳重な調査を申し出ている。
・貴国はどのように弁理されるのか、その回答を早急に求める。

 

 よって清国駐在塩田公使は、長崎県からの報告により、冒頭の日本側の見方を示して次のように反論した。

(「同上」p13)

・日本巡査は争闘を弾圧することを以って職分とする。是非を問わずに棍棒で打って更に争闘を起こす理由があろうか。
・報復とは何ぞや。もし13日に巡査が傷を負ったことを言うなら、すでにその者は捕らえて貴国の領事館に送ったのである。誰を敵として報復しようか。
・刀剣を4本しか持っていなかったというが、日本刀や仕込杖を持つ者は一にして足りなかった。15日の争闘の日に取り上げた刀剣を以って証拠とする。
・丁汝昌氏はどのような意味を以って15日に上陸しても日本刀を買うを許さず、というのか。まして13日のことで懲りて15日のようなことが無いように戒めなかったのか。
・長崎人民は、巡査が水兵に惨殺されたと聞いて遂に公憤の念を起こし、各々武器を取って水兵と闘ったのである。それは情に於て止むを得ないことであった。艦に帰る小船を出すのを許さなかったのも人民の情に於て止むを得ないことであった。それらがどうして官命に依るものであったろうか。
・そもそも事件全体を見れば、13日に丸山街で暴行を逞しくして巡査を傷め、その暴行を悔いることもないだけでなく、謀を設けて15日に廣馬場街で巡査を殺傷し、続いて舟大工街で又巡査を殺傷し、該地方を騒擾して法規を紊乱した。その罪は決して免れるべからず。
・貴国理事官(領事)の報告は、本大臣の前に聞いた所と大いに齟齬するものである。

 なお、「清国水兵暴行ノ際鎮撫ニ尽力セル者ヘ賞与ノ件」に巡査等一人一人の行動と負傷状況などの概要が記されているが、それによるとほぼ全員が負傷し、その内、刀剣による者の明記は2名であり、他は打撲によるものである。
 また、井上外務大臣の8月18日付の文書によれば、死亡の巡査の1人は殴打によるものであり、もう1人の帯剣の監督巡査は、冒頭記述のように入院先の病院で翌日に死亡している。それが打撲によるものか刀剣によるものかは記されていない。

 丁汝昌提督は13日のことがあったのを聞いて、その後の水兵上陸を差し止めたのであるが、15日になって英国人ラングが、「陸地近くに停泊しながら、この炎熱の時に上陸を差し止めるのは健康のためによくない。充分な取締策を立てたなら上陸させても不都合はないだろう。」と申し出て、丁汝昌もそれを許したことからこの騒動となったのだという。

清国北洋水師水兵

 

日清両国の調査委員会の発足

 事件発生後、外務省からは取調局長が、清国公使館からは参賛官を長崎に派出したが、もとより一地方の出来事と見なして、その後は長崎県知事日下義男と水師副提督ウィリアム・ラングが会見して談判をして処理する予定であった。しかし8月25日なって清国政府は在上海英国法律家英人ドラモンドを派遣するとのことで、日本政府も司法省雇いの英人を派遣するつもりであったが事情により、外務省雇いの法律顧問米人デニソンを派遣した。

 よって、日本側からは知事、取調局長、米人法律顧問、清国側からは、領事、参賛官、英人法律家、が出席しての調査委員会が発足した。

 9月6日に第1回委員会を長崎県庁に於て開き、以来、双方は証人などを互いに調査したが談判は中々捗らず容易に決着しなかった。

 やがて徐承祖清国公使は井上外務大臣と面談した時に、
「英人法律家ドラモント氏は、日当として一日に清銀二百両を受領するので、一日でも委員会が長引くことを望んでいる」などとこぼした。

(清国人の発想には必ず猜疑心が付いて回るようである。)

 よって、本件の談判は東京に於て井上外務大臣と徐公使との間で行われることになったが、それでも決着が付かずに、12月になって遂に李鴻章が事件解決の命を奉じて談判することとなった。
 それにより、12月6日に長崎の調査委員会は井上と徐の訓令により解散となった。

 

政治的決着に

 その後清国側は在日独公使に日本の意向を打診させたり、或いは在清英国公使が塩田公使に提案を持ち掛けたりなどの紆余曲折を経、井上外務大臣も、巡査の行動に職権外の行き過ぎもあって水兵の死傷を多くした落ち度も無いとは言えないとし、また日清両国の交誼を傷めることも不本意であるところから、政治的決着を図る事にした。
 それにより在日独公使は、その井上大臣の意向を在北京独公使に通知し、同公使は北京総署の元英仏駐在公使であった曽紀澤という人物に話して政府大臣たちを説得させた。

 曽紀澤は、清露間の不本意な条約であるリバディア条約の改正を命じられて露国に使節として赴き、イリ条約の締結に成功し、またベトナム事件での清仏戦争終結に際し、清国から賠償金を払わずに講和に至らせたのも、実はこの人の功績によるという声もある人物であった。彼は欧州でよく知られた人でもあり、かつて独逸でプリンス・ビスマルクに会見し、その時にビスマルクより、
「清国の為に図るに、将来深く日本と結ぶに如かず」と説かれ、したがって、長崎事件に於てもその意のある人と思われた。

 彼は北京総署での反対論者を説得し、遂に日本に対して政治的決着を図ることを承知させた。

 それにより、英国公使が塩田公使に提案した案、即ち、賠償金ということではなく、両国がcharitable fund(慈善基金)とでも言うべき名称で救恤金を出し合い、互いの死傷者の為に配分する案を採用することになった。

 よって、明治20年(1887)2月8日、井上馨外務大臣、徐承祖欽差全権大臣の両名によって条約を締結した。

(「同上」p20)

明治十九年八月十三日及び十五日
光緒十三年七月十四日及び十六日
 長崎に於て、日本巡査と清国水兵との争闘事件は、原と言語通ぜず彼此誤解し、遂に互闘死傷を致せしを以て両国政府は応さに事実を査弁し、以て将来を戒むべき理なれども、本件は畢竟彼此長官の意料の外に出たるものに係り、殊に双方委員会同して取調べたるも、証拠人員衆多にして時日を遷延せり。両国政府は之が為めに両国の交誼に障礙を生ずることを欲せず。是を以て両国政府は倶に平和に議決せんことを望み、茲に両国大臣、左の如く議定したり。

 本件の応に審理し及び懲罰処分すべきや否は倶に両国の司法官庁に於て自国の法律に照らし各自に斟酌処弁し、相互に干予せざる可し。

 両国政府は倶に彼此必らず公平を秉持し処弁す可きことを深く信ず。

 嗣後両国政府は各該文武官吏に訓令するに、永く両国と交りを重するの意を体し、務めて謹慎に事を行い、以て永好を敦うすべしとの旨を以てすべし。

 此れが為め両国大臣共に画押し以て信守を昭らかにす。

 同日付で両全権より書簡を来復して救恤金を受け渡した。
 すなわち、清からは銀一万五千五百円、日本からは五万二千五百円であった。

 結局は、喧嘩両成敗の形で終結したが、清国の方が死傷者が多いので、日本から提供する金額の方が当然大きくなった。

条約も、実力の前には空しく

 そもそも、日本と清との間には、明治4年(1871)7月に調印した日清修好条規がある。
 それによれば、第十三条に、
「両国の人民、若し開港場に於て兇徒を語合い盗賊悪事をなし、或は内地に潜み入り、火を付け、人を殺し、劫奪を為す者有らば、各港にては地方官より厳く捕え直に其次第を理事官に知らすべし。若し兇器を用て手向いせば、何れに於ても格殺して論なかるべし」
とある。
 それを、外国兵が暴動を起こして長崎市街を破壊した行為を、しかもそれを取締った日本警察の行為を、「喧嘩」として処理し、双方の償却で済ましてしまったのはどうかと思うものである。
 どう見てもこの条約第十三条に照らして処分すべきものであったろう。

 しかし談判は日清双方とも外国人法律家を立ててのものであって、それでも決着は付かなかった。結局、日本政府は清の国力という実力の前に再び譲歩して妥協せざるを得ず、所詮、当時の国際法も条約も、かつて福沢諭吉が「通俗国権論(明治11年8月刊)」に於いて、
「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず。幾冊の和親條約は一筐の弾薬に若かず。大砲弾薬は以て有る道理を主張するの備に非ずして、無き道理を造るの器械なり」
 と述べたように、道理に合わない無理を言われても、その力の前に屈せざるを得ないのが国際間における実状であった。

 それにしても重ね重ねの恥辱と損害にも、当時の日本人は歯噛みをしながら耐えねばならかった。事件後に日本政府は、巡査ほぼ全員が負傷しながらも鎮圧に尽力したとしてこれを賞与したが、清政府に知られることを憚って、この事を新聞社などにも公表せずにひっそりと行った。(レファレンスコード A03023064500 「神社改正ノ件」p60)

 

今度こそは日本を一撃せん

 その後、李鴻章は、清国皇帝が皇太后と同道して山陵に行幸した時に、その先導の為に北京に至り、各国公使館を訪問したが、日本公使館に来た時に塩田公使が「長崎事件も了結して御同様に大慶なり」と挨拶した。しかし李鴻章は、ただフーンと鼻で返事をしただけで事件の事には触れようとしなかったという。

 李鴻章としては、相当面白くなかったらしい。

 日本に戦艦を観せて恐れさせんとした李鴻章の思いに反して、自国水兵が殺傷されたことによる李鴻章の憤怒は、長崎の委員会も捗らず、更に井上と徐の談判も思うようにならず、遂に彼自身が談判を担当せざるを得なくなった時、益々癇癪は募って、人に対して「今度こそは日本を一撃せん」と放言したことがあった。
 その放言を聞いた者の中に清国雇いドイツ人フォン・ハンネケンがいた。ハンネケンは休暇で天津から北京に来た時にドイツ公使フォン・ブラント等にそのことを話し、その他にも聞く者があり、為に人伝えに広まって、やがて遂に一般の評判となるに至った。(「第五冊 第十七編 至 二十編/2 第十七編 長崎事件」p17)

 かつて明治17年の朝鮮事変において、日本商民が清兵から殺害されたが、その3分の1は長崎県の人であった。今また長崎で清兵の暴挙を見、さらに李鴻章の放言を耳にする。

 日本人が清国との開戦に向けての臍を固めたのはこの頃からではなかったろうか。

 この事件を機に日本世論は、たとえば福沢諭吉は清国脅威論を述べ、政界財界軍部に影響力のある政治結社などは対清国強硬論に傾く。自由民権論盛んな声が、一気に国防国権論となっていくのである。やがて明治24年には再び清国艦隊が来航。横浜にて人々の目を驚かせ、国会議員らも軍備増強の必要を痛感することとなった。かくして日清戦争への道を確実に辿っていくことになる。

 現代日本では殆ど知られていない長崎事件であるが、当時は近代史解説の書籍などには必ず掲載されて人々の記憶に永く止まった。

(長崎丸山ニテ支那水夫暴動ノ図「絵本近世太平記」明治21年6月24日出版 藤谷虎三著)

「清国の軍艦来りて我長崎に繋泊し、水兵等大に暴行を作し、因て我警官と闘う。世論一時囂々たり。清国政府、英人ドラモンドを雇いて委員と為し、以て事を我と議せしむるに数月を閲して尚其曲直を決すること能わず。当時天下の一大問題と為りし」

 その他、日清戦争までの9年間だけでも様々な書籍に記されているが、面白いところでは、英会話の独学本にまで会話例として長崎事件が採り上げられているのがある。

(「英和独習会話篇」芳川廷輔著書 明治20年7月出版)

Nagasaki affair. 長崎事件。
When is Nagasaki affair settled then? 何時長崎事件が落着しましたか。
No. イゝエまだです。
When do you think it will be settled? 何時きまると君は思いますか。
I think about two or three month. 二三ヶ月の内と私は思います。
What is it so long in being settled? なぜそんなに永くの間定まらないのか。
Because the Chinese are very cunning. なぜでも支那人がこすいからです。
What was the cause of the disterbance? 此争の原因は何ですか。
It is owing to the Chinese drinking too much sake. 其は支那人が余り沢山酒を飲んだせいです。
What the Chinese man doing at Nagasaki? 何を支那人は長崎でして居たか。
They were sailors belonging to the Chinese fleet which was then at Nagasaki. 彼(あの)人々は長崎に泊する支那艦の水夫で御ざりました。
Haw many the sailors come on shore? 幾人の水夫が上陸したと思いますか。
I think about fourhandred. 私は四百人許と思います。
How many police man were against Chinese? 幾人の巡査が此支那人に反しましたか。
I think about forty. 私は四十人程と思います。
What was the number of the dead and vounded on both sides? 死傷は両方併せて何の位ありましたか。
I think about one handred. 私は百人程と思います。
Out of these how many were Japan? 此の内で日本人は幾人程ですか。
I think about thirty. 私は三十人許と思います。
Which party do you think were in the wrong? どっちのくみを君は不正と思いますか。
The Chinese. 支那方です。
How many man-of-war-ship were there at that time in Nagasaki. 其時長崎には幾艘程の軍艦が有ましたか。
Fourth. 四艘でした。
What is the name of admiral? 指揮官の名は何と云いましたか。
Admiral Ten. 指揮官は丁氏です。
Where there any of officers with the men during the quarrel? 其争いの時に水夫と共に士官も居ましたのか。
Yes. はい居ました。
Why did they not keep the sailor in subjection? なぜ彼たちは水夫を従えてしまわないのですか。
Because they were of the same opinion as the man. なぜでも彼は水夫と同じ心ですからさ。
When did this happen? 何時此は起った事ですか。
In June. 六月です。
What are the causes of the affair that delay the settling of it? 何で其落着を付るにぐづぐづして居るのですか。
Because they have not yet found out who are in the wrong. なぜでもどちらが悪るいかまだよく分らないからです。
Are there any English man engaged in this affair by the Japan? 或る英国人が日本方の方にかゝって居りますか。
Yes. はい居ます。
Who? だれですか。
Mr.Denison. デニソン君です。
What is the name of English man engaged be the Chinese? 支那方の英国人の名は何と云いますか。
Mr.Dramond. ドラモンド氏です。

 明治20年7月出版のこの書では長崎事件は未解決として文例が書かれているが、実際は事件処理は同年2月に決着している。しかしそれにかまわず出版されたようである。

 

日本朝鮮両国通漁規則の交渉開始

 明治19年4月7日、外務大臣井上馨は、朝鮮国貿易規則の第41款に基づき、日本朝鮮両国通漁規則の案を上申した。(日本朝鮮両国通漁規則訂約ノ為メ高平代理公使ヘ訓令セシム)

 明治16年7月25日に締結した貿易規則第41款とは次のものである。

(「同国ニ於テ日本人民貿易規則並海関税目決定ノ件」p19)

 第四十一款
日本国漁船は朝鮮国全羅、慶尚、江原、咸鏡の四道、朝鮮国漁船は日本国肥前、筑前、長門[朝鮮海に面する所]、石見、出雲、対馬の海浜に往来捕魚するを聴(ゆる)すと雖も、私に貿易を以て貿易するを許さず。違う者は其品を没収すべし。但し其所獲の魚介を売買するは此例に非らず。其彼此応納の魚税及び其他の細目に至ては、遵行両年の後、其形況に随い更に協議酌定すべし。

 このことは明治18年11月に朝鮮政府が既に協議の期限に及ぶところから発議していたこともあり、よって日本政府は大蔵、内務、農商務の三省と協議の上、以下のように規則を立案し、高平代理公使に協議させる事とした。

(「日本朝鮮両国通漁規則訂約ノ為メ高平代理公使ヘ訓令セシム」p2)

両国政府は、日本明治十六年七月二十五日、朝鮮開国四百九十二年六月二十二日、両国の全権大臣協議決定せる朝鮮国貿易規則第四十一款に拠り両国海浜に往来捕魚する者の為め漁業税を定め、取締規則を立つること如左。

日本
朝鮮
両国通漁規則

 第一条
両国議定地方の海浜三里[日本国海里の算則に拠る已下之に準ず。]以内に於て漁業を営まんとする両国漁船は、其船の間数所有主の住所姓名及び乗組人員を詳記し、其船主若くは代理人より願書を認め、日本漁船は其領事官を経て開港場地方官庁へ、朝鮮漁船は議定地方の郡<区>役所に差出し、該船の検査を経て免許鑑札を受くべし。
  但免許鑑札は漁業の時、必ず携帯すべし。

 第二条
漁業規則の鑑札を受ける者は漁業税として左の割合に照し税金を納むべし。而して此鑑札は之を受けたる日より満一年間其効を有するものとす。
  乗組人  十名已上    日本銀貨五円
  同    五名已上九名已下   同壱円五拾銭
  同    四名已下         同壱円五拾銭

 第三条
漁業免許の鑑札を受けたる此国漁船は、其捕獲したる魚介を彼国海浜の地方に於て販売することを得べしと雖も、彼国政府に於て、衛生上又は其他の事故に由り一般に販売を禁じたる魚介類は、之を販売することを許さず。

 第四条
両国漁船は、漁業免許の鑑札を受けたるものと雖も、特許を得るにあらざれば、両国海浜三里以内に於て鯨鯢(雄くじらと雌くじら)を捕獲することを許さず。

 第五条
此国の漁船、彼国海浜三里以内に於て地方の禁制に背き、魚介其他海産の蕃殖を害すべき方法を用ゆること勿る可く、又は各地方に於て魚介の種類を限り、其捕獲を禁制したる時期に方りては、彼此の漁民決して該魚介を捕獲すること勿る可し。

 第六条
両国地方官署の官吏は、此規則を執行する為め必要なりと認むるときは、該地方海浜三里以内に在る彼国漁船内を査検し、若くは之を押留することを得。但し朝鮮地方官にて日本船を押留したるときは、其趣最寄日本領事官に通知し、該規則に従て処分を求むべし。

 第七条
漁業免許の鑑札を受けずして、海浜三里以内に於て魚介を捕獲し、若くは捕獲せんとしたる漁船は、五円以上十五円以下を罰金に処し、其捕獲物を没収す。

 第八条
第一条免許鑑札を携帯せざるもの、第四条を犯すもの、及び第六条地方官吏の査検を拒むものは、壱円已上弐円已下の罰金に処す。但し、第四条を犯したる者は、別に其捕獲したる鯨鯢を没収す。
第一条乗組人員を偽り税金を不足納したる者は其不足高二倍の罰金に処す。
第三条禁制の魚介を販売し、及第五条魚介海産の蕃殖を害するの方法を用い、若くは禁制の魚介を捕獲したるものは、日本海浜に於ては地方規則に照らして処分し、朝鮮海浜に於ては壱円已上弐円已下の罰金に処し、其捕獲物を没収す。

 第九条
漁業鑑札を他人に貸付し、海浜三里以内に於て魚介を捕獲せしめたる者は、貸者借者共に該鑑札に相当する税額の二倍の罰金に処し、其捕獲物を没収す。

 第十条
両国義定地方にあらざる海浜三里以内に於て魚介を捕獲したる者は、漁船漁具及其捕獲物を没収す。

 第十一条
此規則に拠って処分すべき者は、日本国海浜に於ては日本地方裁判所の裁断に帰し、朝鮮国海浜に於ては其地方官より最寄日本領事官に告訴し、其裁断に帰すべし。

 第十二条
此規則実行の後、更に増減すべき事項出来するときは、双方協議改正するを得。


右確実なるを証し、両国各委任大臣茲に記名調印するもの也。

 日本政府は以上の案を、5月に裁可を得て高平公使に送って協議を命じ、また同時に済州島往漁解禁の事を確定すべき旨を訓令した。

 この頃の済州島周辺の漁業問題に関する資料はアジ歴にはほとんど見当たらないが(筆者が見つける事が出来ないだけかも。)、大臣官房記録課長加藤増雄による「日韓交渉略史」には、通漁規則の事と併せて次のように書いている。

(「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」p37より現代語に。)

日韓通漁規則訂約の事<明治十八年六月より同廿三年一月に至る>

(略)
 帝国臣民は日韓通商章程第四十一款により、済州島に往って漁をする権利があるが、済州島の風俗頑愚の土民は、外国人が来て漁をするのを好まないので、その情を察して我政府は好意を以て、去る十七年中、九州近海の漁民に諭し、暫く該島で漁をすることのないようにさせた。
 今や通漁規則協定の議起れば、前の漁業停止を解除させるのは固より当然のことなので、即ち今回の商議の際に併せてこれを確定させようとしたものである。
 それなのに朝鮮政府は漁業税額の原案<乗組人十名以上 日本銀貨五円、同五名以上九名以下 同壱円五拾銭、同四名以下 同壱円五拾銭>を三倍に増加するとの意見を固持し、これに加えて済州島の漁業解禁を望まないことを以て議合わず、月日はのびて遂に五年を経過した。
 その間、駐韓我公使もまた屡更迭し、漸く明治二十二年十一月に近藤代理公使の時に至って、税額は原案の二倍とし、済州島の漁業は二十四年五月迄は漁業の停止を承諾し、ここに議は漸く整い、同月十二日を以てこれに記名調印をした。即ち二十三年一月八日の勅令を以て公布された日本朝鮮両国通漁章程が是である。

 通漁規則は以下の部分が修正追加されて、明治22年11月12日調印、翌23年1月8日に公布、同月11日に実施された。(御署名原本・明治二十三年・条約一月八日・日本朝鮮両国通漁規則)

・第二条を修正。
 「乗組人  十名已上   日本銀貨拾円
  同    五名已上九名已下  同五円
  同    四名已下        同参円」

・第十二条に追加。
「此規則調印の日より二年間施工の後、魚利の有無を看て改正すべし。」

 また、その時の済州島漁業延期の上奏文は以下のものである。

(朝鮮国済州島ヘ日本漁船往漁ヲ延期ス)

 日韓条約に拠り、日本漁船は朝鮮国全羅、慶尚、江原、咸鏡四道之海浜に往来捕魚して差支無之筈に候得共、右之内済州嶋に限り、土民之苦情等不少、朝鮮政府より頻に内請之次第有之候末、好意上我漁民等に相諭し成丈け該島への往漁は差扣させ来候処、過般、両国通漁規則公布相成候。
 付ては該島への往漁、無論異議あるべき筈無之候得共、朝鮮政府に於ては猶頻に該島民之苦情を鳴し、該島之往漁は更に一年間之延期を得、其満期迄には必ず夫々飾諭の方を尽すべしとの申出に有之候に付、種種談判を尽させ候得共、実際無余儀事情も相見候間、此際限り右請求を承諾し、本年六月一日より起草し来る廿四年五月三十一日まで、日本漁船の該島に往漁するを差扣させ、右期限に達すれば断然往漁せしむることに致度、此段謹で上奏す。

 明治廿三年八月三十日 外務大臣子 青木周蔵 花押


朝鮮国済州島へ日本漁船往漁延期の件は上奏の通裁可せらる。
 明治廿三年九月一日
    内閣総理大臣伯爵 山縣有朋

 済州島は今日こそ「済州道」という一つの「道」に区分されているが、当時はそのような「道」は無く、全羅道の一つと見なされていたようである。(「明治二十二年 在清朝鮮公使館雑報 単/1)北京公使館ノ部/4 明治21年1月9日から明治22年12月9日」p32)

 しかし約束の満期24年になると朝鮮政府は、「済州島は全羅道に属するものではない」と、新たな漁業停止の口実を設けてきた。

 以下、「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」には通商章程改訂の議に関わって、その時の済州島漁業問題が次のように記されている。

(同上)

日韓通商章程并に通漁規則改訂の事<明治二十一年七月より同二十五年一月に至る>

 日韓通商章程第四十二款の規定に従い、明治二十一年七月二十一日、外務督弁趙秉式は近藤代理公使に対して、その改訂を要する旨を告知した。
 しかし我が政府はその章程規則中に改訂を必要とする条項を見出しえなかったが、改訂を要する条項があるなら、速やかに案を具えて朝鮮政府に提議させるべきを近藤代理公使に訓示した。
 しかし朝鮮政府は発議者であるにも拘わらず、(案を提出せずに)虚しく歳月を重ねるだけであった。

 明治二十四年、即ち済州島の漁業停止の満期の年になって朝鮮政府は、再度この停止を提起し、済州島は全羅道に属さないので日本国人民は漁業の権利がない、との新たな口実を設け、併せて通商章程を改正し其の条項を明晰にすることを求めた。
 要するに章程改訂の請求は、済州島の漁業を禁止するのが主であって、他はまるでその副目的であるかのようであった。
 梶山弁理公使は、該件に関しては協議の権利が無い旨を回答し、且つその提議の不当なるを通責した。しかしながら、朝鮮は国事多難にして財政困難の点は以前から我が政府の了知することを以て、数回の談判を経て、明治二十四年六月一日から同年の十一月まで更に六ヶ月の漁業停止継続の事を承認した。

 明治二十四年十月中、朝鮮政府は協弁内務府事李善得を弁務使に任じ、統理衙門主事李鉉相を副として来日し、改正談判を東京に開くことを請うた。
 然るに帝国政府は予ねて駐韓帝国公使に訓令を下し、京城に於て商議させる筈であったことを以てその請求を拒絶した。
 この際に、朝鮮代理公使もまた大いに請うところあるを以てその事情を了察し、栗野政務局長に命じて予備会議を開かせ、その言うところを聞けば、結局は済州島の漁業を禁じ、その報酬として大同江を開くということであった。
 我が政府が見れば、済州島漁業禁止の件は、朝鮮政府が久しく請求して止まないところであるので、その交誼を重んじ、或いはその要求に応じるも妨げはないのであるが、大同江の開港をその報酬に充てるは容易に約諾を与えるわけにもいかないものである。なぜなら漁業禁止の結果は、我が国の漁民にどれほどの損害を与えるも分からず、その報酬である大同江開港が彼等の利益になる事は全く無いからである。
 このようにして両国の見るところは同じではなく、且つ大同江の実際を観察させる必要を感じ、このため林交際官試補を同所に派遣した。程なく林試補は帰朝の途中に難船に遭って溺死し、朝鮮弁務使らは談判も捗らないまま徒に逗留して翌年帰国した。

 

不当なる十一条のはずだが

 さて、通漁規則の第十一条には、
「此規則に拠って処分すべき者は、日本国海浜に於ては日本地方裁判所の裁断に帰し、朝鮮国海浜に於ては其地方官より最寄日本領事官に告訴し、其裁断に帰すべし。」
とある。
 つまり、処分すべき規則違反者は、日本国海浜、朝鮮国海浜、共に日本によって裁断されることになっている。これは、充分不当なる箇条に見えるのだが。

 この条約に付いての談判記録はアジ歴で見出すことが出来ない。しかし明治9年の日朝修好条規締結以来、日朝間での様々な条約や取り決めの談判記録を読んで分かる事は、いかに当時の朝鮮が国力に於て日本に劣ってはいても、談判に於ける朝鮮人の交渉態度というものは、決して臆することなく、したたかで、頑固で、請求がましく、厚かましいほどの交渉をしていることである。
 なかなか「日帝」の圧力に容易に屈するような人々ではないということが、これまで数々の談判記録を読んできた筆者の印象である。

 考えられるのは、審査裁断にかかる経費や処罰などの問題に於て自国で負担し行使するよりは、それらを日本に頼った方がよい、ということもあったろうか。しかし、逆になぜこのような条款を朝鮮政府が受け入れたのか、ということを考えずにおれない。

 当時既に朝鮮政府は日本に公使を駐在させており、その公使館は東京府麹町にあった(朝鮮国公使館ヲ麹町区中六番町ニ移ス)。従って、日本国海浜に於て朝鮮人違反者があれば、館員を派して調査し、自らの手で裁断できたはずである。それを何らかの理由で放棄したと言うことであろうか。

 或いはまた思うことに、この国の支配層の特徴として、「飢饉の時に人民が飢えても気にしない」というものがある。従って、自国の漁師が外国の司直の手によって裁断されることになっても、気にはならなかったということではなかろうか。

 明治15年の朝鮮事変に於て、清兵が反乱の朝鮮軍民を多数捕らえて処断したが、それに対して干渉であると抗議するわけでもなく、反対にそれを依頼している節があり、そして花房公使に対しては、自分たちの手で処断したと嘘を言い、更に花房が、兇徒を20日以内に捕獲出来なかった場合は日本国が処弁する、と提案しても、期日のことを問題にするだけで、日本が自国の軍民を処分する事に異議は挟まなかった。

 おそらくここでも、第十一条には目もくれず、第二条の税金額のことのみが関心事ではなかったろうか。

 利に聡く、体面を装い、汚点は見て見ぬ振りをする。日本国海浜に於ける朝鮮人違反者の取り扱いなど煩わしいだけだったのかもしれない。
 今日、日本に於てこれだけ韓国人による犯罪が増加しているにも関わらず、決してそのことについて何らかのメッセージを発しない現韓国政権に通じるものがあるのではないか。

 人民が飢えようが、犯罪者が誰からどういう裁きを受けようが気にしない。気になるのは自分の体面であり、プライドはお気に入りの歴史と文化にだけ向けられ、まず当面の利益が大切であると。

 この十一条を含む通漁業規則に関する筆者の感想である。

 

日清戦争前夜の日本と朝鮮(13)      目 次       日清戦争前夜の日本と朝鮮(16)

 

 

  きままに歴史資料集 since 2004/12/20