日清戦争前夜の日本と朝鮮(13)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

(朝鮮風俗)笞刑 WHIPPING PRISONER 1903年 朝鮮伝統の刑罰であり男女の区別なく行われた。

 笞刑は世界で広く見られた刑罰の一つであるが、日本では明治5年(1872)に笞と杖の身体刑は「懲役刑」に取って代わった。しかし朝鮮では五刑の一つとして永く用いられ、日本による併合時代に至っても対象を朝鮮人男子に限り年齢制限を設けて暫らく継続し、大正9年(1920)3月に廃止された。(朝鮮笞刑令中廃止制令案)

 以下はその廃止理由である。
『笞刑は、古来朝鮮に於て広く施用せられ民度に恰適する刑罰なるを以て、明治四十五年四月、内、鮮、外人に対する刑事法規を整理統一するに該り、暫く旧制を襲踏し軽微なる犯罪の制裁として之に存知したり。然れども、本刑の如く肉体に直接の苦痛を与うるものは、現代文明思想に基く刑罰の性質と背馳する点あるのみならず、近時朝鮮人は著しく向上自覚し、其の民度は復昔日の観にあらざるが故に、笞刑を廃止し基本刑たる懲役又は罰金等を以て之に蒞(のぞ)むも、刑政上毫も支障なしと認めたるに由る。』

 身体刑を併合後も継続したのは朝鮮伝統文化を尊重したと言うわけでもなかろうが、犯罪者に対する慣習としての朝鮮人の制裁感情を考慮したということもあろう。そもそも刑罰と云うものは、人々が犯罪に対する制裁とその抑止を求めたものであるが、つまりは人間社会共同体で守られるべき「掟」を担保するものであろう。よって改変するには人々の意識の変革が伴わねばならないはずである。日本による統治が始まって10年、啓蒙によって朝鮮人の民度は向上し、それに伴い廃止する時期が来たということであろう。
 無論、朝鮮人に対する不平等云々といった性質の問題ではない。

 

日本人取締規則の改正

 明治18年8月、かつて明治16年に布告した「清国及朝鮮国在留日本人取締規則」の内、第一条を以下のように改正することとなった。

(明治十六年第九号布告清国及朝鮮国在留日本人取締規則第一条改正ノ件)

 「第一条 清国及び朝鮮国駐箚の領事は、在留の日本人、該地方の安寧を妨害せんとする者又は其の行為に因り該地方の安寧を妨害するに至るべき者と認定する時は一年以上三年以下在留することを禁止するべし。但し其の情状に由りては其の期限相当の保証金を出さしめ在留することを得。」

 「第一条 清国及び朝鮮国駐箚の領事は、在留の日本人、該地方の安寧を妨害せんとし、若くは風俗を壊乱せんとする者又は其の行為に因り該地方の安寧を妨害し若くは風俗を壊乱するに至るべき者と認定する時は一年以上三年以下在留することを禁止するべし。但し其の情状に由りては其の期限相当の保証金を出さしめ在留することを得。」

 下線部分が追加されたものであるが、風俗壊乱とは、要するに売買春のことである。

 その上申理由は、
 「上申の旨趣は清国及朝鮮国在留人民、密売淫取締の儀、巡査寡少にして充分ならず。殊に清国各港は各国人雑居し、我警察権の行われざることあるが為めに、明治十六年第九号布告清国及朝鮮国在留日本人取締規則を以て密売淫を論ぜんと欲するに在り。右は不得已儀に付御採用相成可然と認む。」
であった。

 性を罪悪視するものと言えば、キリスト、イスラム、仏教、儒教による観念があろう。
 その点日本人は本来、性に関しては大らかなものであった。古事記の伊邪那岐・伊邪那美の国生み神話からしても、その性描写はリアルなものである。
 それは人間の営みの事実を素直に見詰めただけに過ぎないものであろうし、おそらくは人類文化初期からの宗教観念とも関連するものでもあろう。
 しかし西洋では、例えば売春婦は最も古い職業の一つであるとされたが、陰湿なイメージが伴うどこまでも日陰の存在でしかなかった。
 それに比して日本では、例えば大名から庶民までが通う遊郭の世界を作り出すなど、エンターテインメントとして、日本人の遊びの文化、美の文化の一つにまで昇華させた。

 しかしそういう文化は他国では受け入れられないものであったのだろう。

撮影年代不明。朝鮮の笞刑は、女にも容赦なく行われた。写真とは関係ないが、明治7年4月の森山理事官の記述には「殊に其の妻懐胎なりしに猶笞鞭を加えられ、肉破れ血迸るに至ると」とある。(「朝鮮始末(一)」p125)


 朝鮮では、朝鮮人が居留地の日本人と性的関係を持った場合は、笞刑どころか、斬首さらし首の刑であった。(「日朝の交際歴史の補填資料」の「康熙癸亥制札」。なお、いつ廃されたかは不明。)

 一方、日本の外国人居留地には遊郭が設けられ、外国人が自由に出入りしていた。(後の長崎事件は、清兵が遊郭で遊んだ時に起こしたトラブルが発端である。)
 あるいはまた、京城・仁川に居留する西洋人や清国人に雇われている日本人女性の内、ドイツ人と清国人の妾となった者もおり(京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出張/8 総人員調査簿 2)、中には母親も同居したりしている。

 見えてくるのは逞しく生活する日本人の姿である。

 

朝鮮政府、刺客池運永を派遣


 明治19年(1886)3月、兵庫県令から、「朝鮮人池運永なる者が神戸港に来着し、かつて朝鮮政府通商事務衙門主事として来日したこともあったが、今回は何の目的で来たのかを捜査中である。」と井上馨外務大臣宛に上申があった。
 その後、再び兵庫県令は地運永に関して、「同人は明治15年事変に乱を避けて神戸港に暫らく滞在し、また17年6月に朝鮮人金東境を伴って来て神戸港に於て写真の業を修め、18年4月に一旦帰国した者で、今回は写真器械購入の為に来たようで、金塊を200余円と両替した。今回は全くの私人として来日した。」と報告した。

 更に4月、池運永は張殷奎と同伴して旅行視察に行き、大阪、奈良、大仏、春日神社と見物し、京都に来て張殷奎は神戸に帰り、池運永は東京に向かった。両名は大阪にあっては昼間に外出するを好まず、頗る人の目を憚るようで差し向かいで朝鮮語で会話し日本地図2、3帖も所持し、又日本地史略なども読み、またより詳細な地図を買い求めんとするようであった。目的はただ遊歴に来たということであったが、所持金等は十分な様子に見受けられ、或いは朝鮮政府から内密で日本事情視察のために渡航したのではないかとも思われた。
(以上「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/2 明治18年12月19日から明治19年9月18日」より)

 ところが5月になって朝鮮人地運永が、金玉均暗殺の目的で来日していることが発覚した。

(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p3より現代語に。)
警視庁からの報告別紙

 芝区南佐久間町参丁目参番地丸木駒方に止宿の朝鮮人地運永は、金玉均暗殺の目的で渡航したとの旨、朝鮮在留のある日本人[井上角五郎であろうと云う説あり]の談により、金玉均へ密報したということは過日に報告いたしましたが、右の地運永なる者は両三日前より、夜中金玉均の宿所近傍に来て付狙う様子で、金の従者、山田、中原等(いずれも朝鮮人の日本偽名)に於てこれを認めて一層注意していたところ、今朝もまた近傍を徘徊して挙動不審であることから、山田等はこれを取押えて其宿所[中原の止宿等を云う]へ連れ行き、所持品等を取り調べると短刀を懐中していたようで、山田等がこれを取り揚げて詰問すると、地運永は終にその事実を告げ、目下、神戸在留の張殷奎と謀って朝鮮政府の刺客となり、金玉均を暗殺するために渡来したとの意味の事を吐露したことを以て、中原等はこれを金玉均に通知した。しかし金に於てもその始末を公然日本政府に訴え出ることも致し難いとて、地運永を小林ヨシ方に留置き、其処分に当惑しているとのことを聞込いたしましたので、真偽はわかりませんが、取り敢えずこの事を報告いたします。
明治十九年五月二十九日夜

 6月1日になって金玉均は以下のように、井上馨外務大臣宛に書簡を送り、地運永が朝鮮政府の刺客であること、その委任状を所持していた事などを述べ、それら書類や刀剣等の証拠を以て日本政府に訴え出るべきかを問い、また日本政府の保護を願い出るに至った。

(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p6より抜粋して現代語に。)

(略)
 さて、拙者の一身上の事に付き、敢てここに賢慮煩いのことを奉ります。
 そのわけは、この頃から朝鮮政府より池運永なる者を以て当国に渡来させ、当時芝区元佐久間町旅店に客となっている同人の事に付ては、屡々怪しい挙動があるようで、拙者からも百事心を配って同志者をして悉く探偵を尽くさせましたところ、果して本国よりの命を奉じて刺客全権として来た者に相違なく、就ては、右刺殺の委任状その他剣類并に書類等十分の証拠を得、[証拠中に日本国に対し関係のこともあり。]その証拠類は総て皆ほとんど手許に来て正に所持致しています。
 このような状況であることを以て、近頃、拙者の一身の危いことは実に愁眉の急であって、薄氷を踏むに異ならないありさまです。就てはその証拠を以て日本政府へ訴えます方がよいか、もしその際に当って拙生の一身に対して、聊か日本政府から御保護くだされましょうか。
 又この起訴は却て不都合でしょうか。もし起訴も成り難く、又いささかの保護もくだされない以上は、実に拙者の一身生命に関する事なのでその他の方法に依て便を求めるより外なく、・・・。
(以下略)

 よって金玉均がこのことで井上外務大臣に内々でも直接面会して詳細を述べたいと要望した手紙であった。

 

朝鮮人と日本官憲

 後に入手した委任状とするものには、
「特に汝に命じて海を渡り賊を捕えしむ。臨時に計画するは一に其便宜に任す。国の事務を処するに至ても亦全権と為す。軽挙事を行う勿れ。御寶(国王印)」(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p31)
とあった。

 井上は先の警視庁からの報告もあり、直ちに京城高平公使に命じてその実否を朝鮮政府に糾させ、池運永召喚の事を議政府に依頼させた。
 朝鮮政府は委任状は贋物であると言い張ったが、勧告を受け容れて召喚の事を日本政府に依頼し、帰国命令書を託した。
 しかし池運永は帰国命令を受けて横浜港まで来たが出立しようとしない。よってその理由を問うと、旅費がないとのことであった。(おいおい)

 後に提出した本人の手記には、
「国に難事多く逆賊が未だ滅していないことを憂え、大いに憂国の心を募らせ、一刀を作らせて一人修練に励み、明治18年11月3日に閔丙奭の家を訪問してその志を打ち明けた。閔氏はこれに感じて政府に上申し、それより王宮に呼ばれて統理軍国事務衙門主事に任じられ、『斬賊大使』の全権を委任された。また国王自らその全権委任状に押印されて与えられ資金5万円を給された。その後、閔応植らの招きにより袁世凱にも面会し、袁世凱も大いに期待して即刻日本駐在清国公使にその旨を報せた。それより美濃丸に乗船して日本に向かい、長崎、神戸、奈良の大仏、京都滞在一週間、大津、伊勢と巡り、天照皇大神宮に参拝して神楽祈祷を頼み、上吉の神籤を得た。尾張、三河、遠江、駿河、相模を経て箱根の温泉に浴し、その後東京に到った。(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p34)
とある。また、東京では吉原に行き遊興に耽ったとのこと。(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p4)

 「全権の斬賊大使」という名称も笑うところか。また五万円はあまりにも高額過ぎる。五百円としても十分過ぎる額であるし、おそらくは法螺であろう。
 しかし、奈良の大仏、春日、京都見物、箱根温泉、東京吉原での遊びと、かなりの豪遊だったらしく、遂に旅費どころか宿屋の宿泊代も払えない状態となっていた。為に神奈川県がそれを立て替え、後に朝鮮政府に請求している。

 日本の美しさに魅せられ観光に耽った「全権の斬賊大使」と。刺客よりも写真師の要素が強かったのだろうか。天照皇大神宮に参拝して神楽祈祷を頼み、上吉の神籤を得た、と記すところが一段と微笑ましい。


 これに関連して、このような時に日本の官憲が、朝鮮人に対してどう接していたかを窺うことが出来る文章があるので掲載する。

(「韓人池運永関係ノ件/1 〔明治〕19年6月7日から明治19年7月16日」p14より抜粋して要約現代語に。)

号外
  朝鮮人池運永処分の義に付上申

(略)
 その後数日を経ても本人が出発した模様がなく、それで内密に取り調べましたところ、同人は朝鮮国人金玉均の従者である同国人鄭蘭教外二名から本人の旅館であるクラブホテルの一室に擁閉され、始終監視されていることを探知いたしました。それで本人は出立する意があっても出来ないようです。
 それで延引することになるかもしれないと考えまして、その辺を尋問のために本県官吏を同人の旅館へ派遣しましたところ、本人は前述のように一室に擁閉され、前記三名の者がその左右にあって、前もって金玉均から申し付けられているようで、我が官吏が同人へ面会するのを拒み、再三に渡って説諭を加えましても遂にそのことが叶いませんでした。

 よって本月十九日、更に同人を公然召喚する手続きを尽し、もし右の三名が抵抗する場合は、断然これを制止する積りで警察官を付けて官吏を同館へ差し向け、更に面会を求めましたところ、ここに至って鄭蘭教等に於ても別に拒むことなく面会が出来ましたので、更に(池運永に)当庁への出頭を命じ、小官が自ら本人の出発が遅れている理由を尋問しましたところ、別紙第一号の通り、旅費が欠乏して出発出来ないこと、並びに当面鄭蘭教等と一緒に居るのを厭い、故に他の宿に移りたいとの事で、もし鄭蘭教等が同居を求めるならば、我政府の保護を以てこれを差し止められたいと乞うので、よってその求めに応じて本人を当港の新柗樓なる旅亭に移して止宿せさました。

 然るに翌二十日、本人が小官宅に来て別紙第二号の通り申し出ました。(略)

(池運永はここで朝鮮政府から金玉均殺害を委任された事などを自供した。以って自首したと見なされている。)

 よって、右の第四号書面(自供書)中に記載あります通り、同人は朝鮮国王から逆賊金玉均輩を殺戮する委任状を受けて渡来したと明言致しました。

 それで熟考しましたのに、右金玉均等は目下現に本港二十番グランドホテルに止宿しており、右様の委任状を受けて渡来しました上は、何時同人に対して殺傷を試みるかも計り難く、その時は忽ち本港の平和安寧妨害となる容易ならないことと思量致しました。

 それでその翌二十一日、再び我が官吏を本人(池運永)の宿所へ派遣して以下のように申し述べさせました。

 去る十九日に同人を召喚するために本県の官吏に帯剣の警部を同行させたのは、本人を捕捉するためではなくて、朝鮮政府から速やかに帰国すべき電信を伝達してから数日を経過しても出発の報がないので、その尋問のために再三官吏を派遣して面晤を求めたが、鄭蘭教等が本人に面会するを拒み、よって往復すること数回に及んだが終に要領を得ないこととなった。つまるところ、これは全く鄭蘭教等が同人の自由を奪って妨害したことにより、これらの者を制止するために同行させたまでである。ついては、朝鮮政府から委任状を所持しているのを示されたいと。(この時、本人は委任状を示さなかった。後に入手。)

(略)
 よって本邦滞在の金玉均等に対して何時殺傷を行うかも計り難く、本港の治安を害することも少なくないので、命令状を発して我が警察官を以って外出を禁止し監視いたしております。 (略)

 明治十九年六月廿二日  神奈川県令 沖守固

 現代と同じである。
 いきなり連行することもせず、一旦引き揚げて手続きを踏んで令状を以て訪れ、然るべく処置をし、要望に応じて別の宿を斡旋し、また面会を拒むのを往復数回にわたって説得するなど、現場の巡査たちの苦労が感じられるほどである。
 ここには「差別」とか「横暴」とか微塵もないことが窺われる。

 さて、かくも手の掛かる無一文「大使」はその後6月22日に内務大臣山縣有朋から正式に送還命令が神奈川県令に伝えられ、それにより23日に出航の横浜丸で巡査数名が付いて朝鮮に護送された。
 井上外務大臣は京城の高平公使へ、朝鮮政府に池運永を引き渡す事についての訓令として次のように申し渡した。

(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p43より抜粋。)

(略)
一 朝鮮政府が果して今回のような事を池運永に訓令したことについて、池運永が必ず同政府の訓令書状等を所持しているはずであると、同人を詰問して委任状等を探求し、これを根拠として厳格に朝鮮政府に照会に及ぶことを当然とするも、この事をせずにただ地運永を送還するのみとする処分は実に寛大と云うべきである。

 まして池運永が陳述したことが果して事実ならば、朝鮮政府は万国公法に違反し、我国を蔑視していること甚だしいだけでなく、又大いに両国の友誼厚情に背反するところがあるについてはなお更の事である。

 然るに6月14日付貴官の電信中に、朝鮮国王は池運永へ委任状等を交付したことを承知しない旨記載があるによって、日本政府はこれに信を置いて問題を生じないように注意し、正当に池運永を詰問追及する手段にも出ないようにして朝鮮政府の責任を軽くするように勉めた。

 これは即ち寛大中の寛なるものであることは明らかである。故に貴官に於ては、右の趣意を重々朝鮮政府に説明あるべし。
(略)

 

金玉均に国外退去を命じる

 日本政府は、このようにして朝鮮政府に対しては「寛大中の寛」で処理し、日朝間に新たな問題が噴出する事を避けた。

 しかし問題は、金玉均が日本に滞在している限り、今後もこのような事件が繰り返されるだろうことであり、また日本人の中にも金玉均に同情し、あるいはそれに乗じて企てを計らんとする者もいることであった。
 まして、金玉均がこの事によって大人しく隠遁するでもなく、6月1日の書簡のように却って日本政府に公然訴え出る態度を示したことであった。

 井上馨はこれを以って金玉均に対して厳しく処する事を決心したようである。
 即ち金玉均が書簡を送った翌日の6月2日、在清国特命全権公使塩田三郎と京城の高平公使に対して、遂に金玉均を国外退去とすることに決定したことを通知し、また9日には内務大臣山縣有朋に、その旨警視総監を通して金玉均に申し渡した事を伝えている。

(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p20より現代語に。)

機密  外務大臣より
在清特 命全権公使塩田三郎殿
在朝鮮 臨時代理公使高平小五郎殿  但し各通

 金玉均処分のことは先般来から計画したこともある。しかし先ず今日までは、そのままにしていたことは貴官も御承知の通りであるが、別紙で御承当のように、事情が切迫致している事に付いては、最早何分かの処置を決行しないわけにいかない時期となった。よって考えるのに、彼が我国に住居していては始終日清韓間の交誼を阻碍する素因となるだけでなく、この度のように本邦治安を妨害するような結果となるようなことにもなる。

 しかしながら、李鴻章並びにその外の請求のように、金玉均を捕縛して清政府又は朝鮮政府に引渡すが如きは元より行うべき筋ではなく、且つ彼を誘導して清国に渡航させるようなこともまた行えないことである。

 よってこの際、断然我が国境から退去することを申し渡すことに決定し、このことを清国公使へも篤と申し談じたところ、同公使に於てもよく我が論旨を了解して異論が無いので、本日、警視総監に於て金玉均を召喚して右の主意を申渡し、何れへ向けてなりとも日を期して我国境を退去するように申し渡した。尤も、右を本日申し渡した事に付いて、退去する方向等は未だ分らず、しかし兎に角遠からぬ内に我国を退去させるので、このことを御通知するものである。

明治十九年六月二日

 なお、ここでの金玉均への申し渡しは口頭で伝えたものである。
 その後井上は、9日には内務大臣山縣有朋に、池運永と金玉均の処分のことを併せて、その後入手した刺客の委任状なるものや金玉均の書簡などの資料を添えて通知し、2日の日に警視総監から金玉均に国外退去するように口頭で申し渡した事を伝え、正式に命令状を発するように依頼している。(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p11。)

 その事を受けて山縣有朋は11日に神奈川県令に対して金玉均に国外退去を正式に申し渡すように通達した。
 「命令書送達の翌日より起算して十五日以内に日本皇帝陛下の領地を去り、而して後、命令書の取り消しのあるまでは、再び我領地内に入らざる事」と命じ、同時に警視総監並びに各府知事県令に金玉均追放の事を通知した。
 なお、もし金玉均が去らない時には、抑留して速やかに必要なる処置をして追放するように言い渡し、またその際、次の執行者の心得なるものを訓令している。

(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p17より現代語に。)

 朝鮮国人金玉均退去のことで、別紙訓令に及ぶについては、精密に注意取締をし、処分上最も鄭重にすることを旨とすべし。よって心得の為に左にその取り扱い手続きを示す。

一 本命令書は、制服を着した警察官が金玉均の住所に臨み、その正本を示して謄本を渡し、その領収書を徴収するべし。
一 本命令の期限内に立ち去らないことを以って、これを抑留したときは、直ちに電信を以って外務大臣にその処分方を伺うべし。
一 抑留の性質は通常の犯罪人の拘留に異なり、相当の待遇をなすべし。
一 外国人が家宅に居るときには、府知事県令から本命令書を添え、その国の領事に照会し、領事から引渡しを受けた上で、第二項に従って処分すべきものとする。

 国内世論を考慮してでもあろうか、国事犯金玉均の扱いには結構気を使ったようである。

 かくて6月12日、正式に退去命令が伝えられたのであるが、金玉均は退去期限が迫っても一向に去る気配を見せなかった。

 

金玉均の不満

 金玉均は6月14日には自ら神奈川県庁に来て県令に面会を請い、県令と警部長との間で以下の問答をした。

 「前日に領した退去命令書について熟慮した事に、文中に『現朝鮮政府に不快の感覚を起さしむるのみならず、又我邦の治安を妨害し且つ外交上、平和を障碍するの虞あり』との字句があるが、自分が日本に居るために朝鮮政府の交誼を害して外交上の妨害となるだろうことは、自分も信じて疑わないことである。しかしその為に日本国内の治安を妨害する云々に至っては、決してそのような事の理がないのは最も明瞭であると信ずる。もしこの命令書を甘受するなら自分は他日欧米各国に赴く事があっても、自分が朝鮮の国事犯というだけでなく、併せて日本国の治安を妨害した者であるとの指斥されることになる。自分の面目に関すること大である。そして日本政府に於て自分が日本の内政に妨害を与えなかったことを知られれば、たとえこの治安妨害の一句を削られても、自分を国外に退去させることに何の妨げとなろうか。願わくばこの一句を削除ありたい。又、追放の二文字がある。頗る面目に関る文字である。これを少しく穏やかな文字に改正されたい。」

県令「そもそも治安を妨害する云々の字句は、同人の行為を指定した文意ではない。ただ治安妨害の虞ありと日本政府が信認したもので、言わば日本政府の意志を写し出したに過ぎないものであるので、同人の面目に関する憂いはないはずである。しかしこの命令書は、内務大臣の発せられたものなので、本官に於いてこれを説明すべきものではない。まして命令書の更改削除するなどのことは無論本官の権内のことではない。強いて請求があるなら一応本官から内務大臣に具申してもよいが、大臣に於てもこれを更改削除されることはないだろう。」

警部長「追放の二字は、もし貴下が命令書指定の期限内に立ち去らない時には公力によって追放の処分に及ばん事を予告したものであり、即ち次点の処分を示したものなので、貴下が期限を誤らないなら無論のこと追放の処分には及ばないことなので、いささかも差し支えはないはずである。」

 「追放の字についてはただ今の御弁解により了解した。ただ、日本の治安を妨害するとの点についてはどうにも甘受し難い。なにとぞ貴官から内務大臣に伝達されるよう御尽力あることを切望する。」

県令「承諾した。」

 それに対しての山縣内務大臣の回答は、
「金玉均が現に我が国の治安妨害の所為があると言うのではないが、そもそも本人が我が国に滞留するなら必ずその虞がないことを保証出来るものではない。現に大井憲太郎の事件などは、たとえ本人がその事情を知らないとしても、彼等は金玉均の名を借りて事を挙げんとした。これはつまりは金玉均が滞在するからである。よって単に滞留するときはその虞あり、という趣旨であって、その字句があっても金氏において顧慮するに足りないものである。」
であった。(以上「金玉均本邦退去ノ件/3 明治19年8月14日から明治20年7月30日」p3の「朝鮮人金玉均追放顛末書」より)

 山縣は、先の大阪事件についての警視庁の探偵によれば、当初は事件に関っていたではないか、とまでは言わなかったようである。


仏国公使、金玉均の引き取りを申し出る

 6月23日、金玉均は、「ヘンリー チャーレス リッチヒールト(Henry Charles Litchfield)」なる代人を使って横浜軽罪裁判所に池運永を正式に告訴した。(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p28)
 それに対して検事局は、地運永が既に朝鮮に送還されているので受理する必要も無かったが、提出書類のみは受け取った。

 また、退去期限の6月27日には、金は神奈川県令に、旅費が無く負債の返済も覚束ないと、7月中旬までの退去期限延長を願い出た。
 よって神奈川県令は7月13日の米国サンフランシスコ港行郵船が出帆する日までの延期を申し渡した。
 井上外務大臣はそれに対して7月13日を経過すればいよいよ抑留する旨通知するよう命じた。
 しかし13日までに更に退去の様子なく、ついに神奈川県令は抑留処置の手続きに入った。

 7月13日、県令は金玉均が宿泊する横浜グランドホテルがフランス人経営であるところから、在横浜仏国領事に面晤して抑留の事情を話したところ、領事は東京の仏国特命全権公使の意向として、金玉均を仏国郵船会社の郵船に搭乗させたいとのことであると話した。

 驚いた神奈川県令は、重大事であるから正式な書面で照会するように求めると、領事は、正式な書面を出せる性質のものではないと答え、この話はそれ以上進まなかった。

 その後、仏国公使からそのことについて書簡があった。

(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p36)

 外務大臣伯井上馨殿    仏国特命全権公使 シエン キエ ウヰツ
 仏人所属の旅館に止宿する朝鮮人金玉均抑留のことについて、神奈川県令から在横浜仏国領事に協力を請求したことは、同領事ルクーより本月13日付けで拙者に通知があった。また、右朝鮮人は横浜市街並びにその近傍を自在に散歩していることも申し添えていた。

 金玉均の日本管轄地退去の事は、とにかく貴国政府には御切望なられているが、その望みを実行する手段がないことは拙者も承知しているので、予め神奈川県令と協議をした上で、右朝鮮人を仏国郵船会社の郵船に乗せることを我が領事へ勧告して置いた。
 もっとも、もし金玉均が郵船に乗るのを拒むことがあるならば、拙者は他の手段に依頼するつもりである。
 しかしながら別紙書面によって御承知なられる通り、不幸にも沖氏(神奈川県令 沖守固)はその方略についてルクー氏と熟議するのを拒んだ。
 又、他方からこれを察するに、日本政府に於ては、金玉均を抑留されようとする気は更に無いように見える。
 右朝鮮人を仏国郵船に乗せることについて、閣下には御異論あろうか。前日の状況がこのようだったので、ただこの事に付いて閣下に御問合せして貴意を得たいと思う。
敬具
千八百八十六年七月十七日東京に於て

 よって外務省は神奈川県に問い合わせ、先の照会の事由を得て仏国公使に説明し、それにより公使は再び領事に命じて仏郵船搭乗の事を進めんと金玉均に面晤させた。
 しかし金玉均は領事のその話に、外国に行くとなれば諸準備の為になお1ヶ月は猶予が必要であると述べただけであった。
 その事を神奈川県令が領事から聞いたのは7月22日であった。

 

もはや抑留執行すべし

 またその前日21日には、内務大臣山縣有朋から井上外務大臣に宛てて次のような書簡が送られている。

(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p33より現代語に。)

二百十八号
 金玉均処分の事に付いては、かつて御協議の上で十五日以内に我が国を立ち去らせるべき旨を地方官に命令いたしたが、その期限に迫って止むを得ない事情によって暫らく猶予したいとの神奈川県令から具申があったので、なお又御協議の次第もあり、本月13日頃までは延期し置くとしたのであるが、その日を過ぎても処分の運びにならず、過日来数回秘書官を以って青木次官と協議したわけであるが、今もって断然処分することになっていない。
 しかるに先頃よりこの一件は内外の新聞に散見し、甚だしきは、自分から地方官に下付した命令書までも紙上に掲載して議論を試みるものまである。
 このまま日数を経過するなら、単に本官の命令の信用を失うかもしれないだけでなく、幾らかは政府の体面にも関係が及ぶことになると思われる。もとより等閑に付せられてはいないだろうが、尽力されて取り急ぎ処分の運びとなるようお取り計らいされたい。

明治十九年七月廿一日  内務大臣伯爵山縣有朋
外務大臣伯爵井上馨殿

 山縣の「俺が悪者にされとるっちゃ」とでも言ってるかのような不満顔が見えるようである。(笑)

 7月25日、もはや抑留執行すべしと外務省から神奈川県令に伝達。日曜日であったので翌26日に抑留処置を決行。仏領事共々横浜グランドホテルに向かい、領事自らホテル館主に令状を示し、神奈川県官吏は金玉均に命令状を交付した。
 金玉均を人力車に乗せて宮崎町の共衆園に送致。
 7月29日、神奈川県警部長、外務課長らは共衆園に赴き、金玉均の従者4人が共に宿泊していることに対し、従者が昼に会うは自由であるが宿泊は許さないことを伝え、更に、この後、金玉均が諸外国に去ることを望むなら我が政府はその意に任せ、又その為の旅費は支出する事を告げる
 それに対し金玉均は、
「自分は去る7月13日の期限に遅れ、結局は貴政府の処分に任せる他は無いと考えていたが、その事を聞いて更に熟考して計画の上、速やかに何らかの返答をしたい。」
と答えた。

 7月31日、神奈川県警部長は金玉均に、8月3日に米国行郵船が本港を出発する事を告げ、どうするかを問うた。
 金は、「資金を工面しているがとても3日までには成し得ない。13日までにはその事をして米国に向かいたい。また旅費は支弁するとのことであるが、日本を去る以上は旅館の宿料その他各商家の買掛金などを支払い終えないなら大いに面目に関る。また外国に到着してもその日から路頭に迷うようなことはしたくない。よって3日の郵船に乗る事は出来ない。」
と答えた。
 警部長は、つまりはそれは見通しが立たないので、結局は日本政府に処分を任せると言う意味か、と問うと、金は、その処分に任せる他は無いと述べた。

 8月1日、神奈川県知事は、井上外務大臣に稟議してその指揮を得て再び警部長をして金玉均に告げさせた。

警部長「もし来る8月3日の米国行き郵船に搭乗することが出来ないとするなら、我が政府は断然5日の日には小笠原島に送致するのでその旨了解するように。なお生活上の必需の費用に限り支給する。又、従者が従うも内地に居るも自由であるが、もし同行を願い出るならそれを許し同様支給する。

 「自分の信じる道理と日本政府の処置と反対であると思量する点があるが、一国政府の権力を以って処分されるものに対し、多言を以って論難するも無益である。謹んでその処分を受けよう。」

部長「4日までに資金を得て外国に行く確証を出すなら、13日の出航する日までは猶予するが。」

 「今、内外友人に百方金策を頼んでいるので、事成れば島流しの恥を免れるのであるが、期限が大いに短縮したので必至成り難いことである。」

警部長「金策を依頼した人名を知るなら、間接にその事を促して助ける手段もあるが。」

「御好意は感謝するが、依頼した友人は自分との交誼によって周旋しているので、それを他人に話しては却って交誼を損ずる。故に氏名は告げられない」
(以上「金玉均本邦退去ノ件/2 明治19年7月24日から明治19年8月10日」p23より抜粋)

 8月3日、山縣内務大臣は、小笠原島送致のために本日付で金玉均を東京府に引渡すように命じた。
 しかし神奈川県は、東京府知事から7日午後4時に横浜碇泊日本郵船会社の帆船秀郷丸に護送されたいとあり、また、金に4日中の金策期限を伝えてある事から、5日付けで命令書を発したい旨を内務大臣に稟議してその裁可を得、よって命令所の日付に3日とあるを5日と変更した。

 8月5日、神奈川県は警部長をして内務大臣命令書を伝達させた。
 警部長が命令書正本を示し、その謄本を交付すると、金玉均はそれを拒んで、

 「日本政府は先に自分を外国に追放する命令を発布されたのに、今更に小笠原島へ護送すべき旨の命令があるのは何事ぞや。必ずその理由があるはずである。その理由を命令書中に御明示ないならこれは受領し難い。まして小笠原島に護送されるような事は決して甘んじて承服し難い。」
と言った。

 よって警部長は一旦県庁に戻ってそのことを告げたので、県知事は外務、内務両次官の訓示を得て、翌6日午前に再び警部長に命じて金玉均に言わせた。

警部長「小笠原島に護送の事は先の命令書に記する処分を変更したものではない。即ち、命令書中の抑留処分の一部に外ならない。外国追放のことは追って執行されるも図り難い。」

 「そのことは了解した。しかし、そもそも島に配流されるようなことは、刑の最も重いものであるから、明らかにその罪名を示されないなら承服し難い。」

警部長「この処分は行政処分であり、刑法上のものではないので、罪名を記す筋のものではない。」

 金玉均はこれを承服せず、遂に命令書の受領を拒否した。
 警部長は、「命令書受否にかかわらず、明日7日午後4時を期して船に護送する」と伝えた。

 同6日午後、金玉均は人をして、「いよいよ資金が調達できる見込みなので、直ぐに米国行きの乗船切符を買い、これを証として出願するので、小笠原島行きのことは見合わせられ、次回の米国郵船で米国に渡る事を聞き届けられたい。」との願い出があった。

 神奈川県ではこれに対し、到底信じられるものではないとしたが、金策を周旋している日本人、朝吹英二なる者から、資金3千円を以って負債償却は勿論、必ず次回の米国行きの郵船で出発させる、との願い出もあるので、外務課長を東京に派遣して、外務、内務両次官の指揮を問うた。

 よって、外務次官からは、
「乗船切符だけではその証は薄い。別に若干の金銭と米国に必ず渡るとの証書を提出させ、出航の日まで知事の手許に預かり置くことが整うなら、そのことは聞き届ける。」
との指示があった。

 (またこの日、金玉均の従者の一人が東京に至り、米、露、英、仏、独、伊、清の7ヶ国の公使館を訪問して封書を一通ずつ差し出している。(「金玉均本邦退去ノ件/3 明治19年8月14日から明治20年7月30日」p2)

 7日朝、外務課長はその指示を得て帰庁。

 同日午前9時、警部長は共衆園に至り、金玉均に昨日の願い出に対する指示を伝え、午後1時までに答えるように伝えた。
 午後3時、警部長は返答を求めて再び共衆園に。

「次回の郵船で米国に渡航するとの証書と切符のことは何時でも差し支えなく、その保証も朝吹に依頼して承諾を得た。しかし同人が保証した上は、自分の抑留を解き、自由を許されるか。」

警部長「朝吹の保証はただ小笠原島護送を見合わせて、米国行きをする為である。日本政府は例えその保証があっても出立の日までは抑留を解くことは出来ない。」

 「抑留を解かない以上は、朝吹が保証してくれても自分をこれを依頼するを好まない。」

警部長「保証を依頼する、しない、は貴殿の都合であって日本政府は関係無いことである。もし保証を依頼しないのであれば、直ちに政府の命令を決行するのみ。それならば最早予定通りに船に護送する外はない。

 

公力行使す

 これに於いて神奈川県知事は、東京府に電報して速やかに受取り官の出張を促し、護送に着手するため、警部長、外務課長、以下警部巡査10余人を共衆園に派した。

 先ず警部長が出発の事などを告げ、従者が願い出るなら共に小笠原に行く事を許可すると述べ、金玉均に同行するかを問うた。

 しかし従者4名は、政府の命令書に罪名を掲げないのは不服である、との旨を口々に言い募るばかりであった。

 また、金玉均に出発を促しても悄然として動かず、唖然として一語も発せず、以って警部長は更に警部、巡査等を呼び寄せ、いよいよ自ら出発しないなら止むを得ずに公力を用いて執行する、その時は身体に警察官吏が手を掛けることになる、よって速やかに応じるべきである、と再三求めたが、何等の返答も無かった。

 よって警部に命じて引き立てに着手させたが従者が立ちふさがって妨害し、百方説諭したが止めないので巡査をしてこれを引き離させ、更に金玉均を引いて馬車に乗せ、弁天橋から小蒸気船を以って本船秀郷丸に護送した。
 やがて従者らも静まり、別れを告げたいと懇願したのでそれを許し、荷物などを片付けさせて共に再び小蒸気船を以って本船まで送った。

 本船出航は10日までに延期されていたが、内務次官の訓令を以って東京府知事と協議し、直ちに抜錨することに決した。
 夜、東京府から出張の警部が受け取り、同行を願い出た一人の従者李允果なる者と共に金玉均を乗せた秀郷丸は、翌8日午前5時、横浜港を出航して品川沖に停泊。9日午前6時を以って小笠原島に向けて航行した。
(以上「金玉均本邦退去ノ件/3 明治19年8月14日から明治20年7月30日」p3の「朝鮮人金玉均追放顛末書」より)

 

 チャンスを繰り返し与えて延期に次ぐ延期、更に旅費も支給する、或いは小笠原島での生活費も支給する、従者にも支給すると。
 もしこれが、朝鮮と日本の立場が逆であったらどうしたろうか。おそらくは即座に本国に送還したか、「病死」とでもしたであろう。

 朝鮮人は人情に厚い、などと言う者があるが、日本人の方が遥かに情け深く仁義に厚いと思われる一件であったと筆者には思える。

 

国内事情と金玉均

 さて以上の、大阪事件、地運永事件、金玉均の国外退去と一連の流れで見ていくと、当初金玉均を支援していた旧自由党の日本人有力者は次々と彼から離れて行き、国外退去を口頭で告げられた6月2日には、すでに日本人援助者もほとんどおらず、金員も無く、商店には買掛金が溜まり、宿泊料支払いも出来ず、それでも横浜グランドホテルなる超高級ホテルに滞在し続けて人をして金策に走らせていたと。

 この後、ホテル代などを日本政府が払ったかどうかまでは分からない

  水溜内の暴風

  佐党[土佐]がふっとうして
  外にこぼれると
  いけないから
  皆様気を
  御つけなさいよ

   狂歌
  職人が佐党乃加減とりそこね、味わるくせし
  この自由糖
  喰べるわけもいかなければ
  仕方がないから
  南洋群嶋えでも押流し
  金玉糖[金玉均]乃仲間え入れてやろう

  土佐の国
  気を付けよ 監督しようよ

(「在横浜佛人経営狂画雑誌発行停止ノ件/4 TOBAE〔第24号〕」p6より。)
 上の絵は、仏人画家ビゴーの諷刺画であり、明治21年(1888)2月号「TOBAE(鳥羽絵)」に掲載されたもの。
 当時の自由民権運動などの昂りを、薩長政府に対する土佐勢力の沸騰として描いていて興味深い。伊藤、井上、山縣、森、などお馴染みの顔が並んでいる。

 アジ歴簿冊「新聞雑誌出版物等取締関係雑件 第一巻」には横浜の外国人居留区で定期刊行されていたビゴーの「狂画雑誌TOBAE」から抜粋されたいくつかの諷刺画が収録されている。
 内容はともかく、ビゴーの絵は味わいがあり絵画として面白い。
 散々なまでの日本政府政策批判と大臣達への中傷が満載されているが、日本文を添えることによって日本人の間にもよく売れたらしい。
 あまり過激なので神奈川県知事が1月に、「日本語の文章を入れて日本人に供するものとなっており、我が国の治安に関る虞あり」として取締を上申している。
 しかし、散々その諷刺の対象にされている伊藤博文、山縣有朋、大隈重信らは、外国雑誌を取り締まることも難しく、また治安を乱すまでに至っていないとして放置して差し支えないと、2月に神奈川県に通達。もっとも、今後の内容次第では取り締りとなるかもしれないとした。
 ところが山縣は、2月の伊藤への書簡では「中には幾分かの誹謗の意を写したような点もあるが、こと更に険悪の意を以って治安を妨害せんとする手段に出たものとも認め難い。要するに、異様奇譚の絵画を掲げて、購買者の歓笑を買わんとするに他ならないと思う。」と、余裕だったのが、7月になると「号を重ねるうちに度がひどくなり、掲載の文字も甚だしく誹謗と偽りのものであり、人心を激昂させるところもある。このまま継続するなら将来に治安妨害の虞がある。」と大隈に照会を出している。
 さて、山縣が「もう勘弁ならん!」と思ったのは、何号のどの絵であろうか。(笑)

 それでも、フランス公使と折衝した大隈重信は、「ビゴーは公使館にも全く近寄らず、住所も特定出来ず、且つ外国人のことであるからどうしようもない。雑誌は荒唐無稽のことを記して見る者の笑観に供するだけであって、施政上差し支えることもないだろう。」と山縣に返事して、結局のところそのまま放置となっている。
 これはビゴーが大隈のことは余り悪く描いてもいないようであるからだろうか。(笑)
(以上「在横浜佛人経営狂画雑誌発行停止ノ件/1 横浜於テ仏国人「ジエー、ビゴー」ノ刊行スル「トバエ」雑誌禁止ノ件 明治21年1月14日から〔明治21年7月14日〕」より。)

 本文の流れとはあまり関係ないが、たまたま金玉均の名が出てきたので・・・。


その他エピソード

 入国して来る朝鮮人には警視庁などが探偵を付け、その行動等を詳細に報告しており、朴泳孝や金玉均とその従者たちは勿論、地運永など彼等に接近する者など、或いはそれ意外の様々な朝鮮人も監視対象となっている。
 例えば、
・公使館設置に関して来日している者(李源兢)とその従者。
・鬱陵島で伐採して木材を米国人に売る者。
・朝鮮国王妃(側室)の弟と称し、日本語に堪能で洋服和服を着こなし、日本人博徒や不良の士族と交際し豪遊する者。
・神戸港で金銭尽きて困窮し食を人に求めんとするまでになっていたが、神戸の新聞社員に拾われて新聞職工として雇われ、日本人社員宅に同居を許された者。
・日本郵船会社の船を買い入れに来ている者。
などが報告されている。
(以上「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/1 明治19年1月7日から明治19年7月6日」、「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/2 明治18年12月19日から明治19年9月18日」より)

 中に金玉均の挙動監視報告の中でより詳細なものがある。

(「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/1 明治19年1月7日から明治19年7月6日」p26〜より抜粋、要旨)

 明治十九年二月十日午前十時、巡査二人を金玉均の挙動視察のために熱海温泉旅館の小林屋に入浴させた。

 午後六時十五分、同家召使の者が表帳場で人に語るのを聞く。
「朝鮮人が泊まっているから忙しい。この朝鮮人は日本で言うと参議位の人で朝鮮では第一の人であり、至って立派な人で、そのコックでさえ余程立派な人です。今その人は一番室におります。黒田さんが前に天子様と何か争いをして終に気が合わないところから、日頃この熱海へ入浴にお出でで一昨日にその朝鮮人が連れと共に五人でここへ来たから、何か黒田さんと話でもすると思って東京から巡査が追跡して来たと知らせがあった。しかし外のことでもなく旦那衆と入浴に来ただけのことで、一緒に付いてきた碁打ちの先生は日本第一の人[土屋秀栄]で、昨夜も旦那や朝鮮人や碁打ち先生や平岡さん[陸軍大佐]などで午前二時まで打ち続いた。」と。

 金玉均は、本日午前十時三十分から翌朝八時までの間には更に入浴したのを見ず、且つ室内から出たのを見なかった。

 碁を共にする者たちが集まって会が開かれた。

 金玉均のコックの部屋を訪れて雑話する。今後の滞在を問うに二三週間の見込みという。
 金玉均は土屋と終日碁をしている。

 廊下を歩く金玉均の面体を確かめようと脇の便所に入ってそこから見た。身長は五尺五六寸(166センチ〜168センチ)、色白く、顔大きく少し長く平顔で、体形は肥えている方である。

 入浴中の土屋に、今日の勝敗は如何か、と問うと、相変わらず不首尾である、と答えた。

 華族中山信徴(元常陸松岡藩の初代藩主)も碁会に訪れていた。

 金玉均はその後、黒田清隆伯爵が泊まる相模屋を訪れ面会を求めたが、従者は断り名刺も黒田に届けず。
 次に、宮中顧問官の川村純義伯爵(元海軍卿)に面会を求めたが、同様断られた。

 名目として碁を共にする者の集まりであったが、金玉均はここではほとんど部屋を出ず、碁のことで会いたいと来る者にも風邪と称して断っている。行動を共にしたのは土屋と平岡ぐらいである。
 おそらく、黒田や川村など政府の人間に接近することが目的であったのだろう。

 しかし囲碁界でよく知られている、金玉均と本因坊土屋秀栄との交友についての記録でもある。

 

 明治18年2月「朝鮮政府ヨリ受入填補金中不通用ノ洋銀欠損払ノ件」

 明治15年の朝鮮事変での填補金として領収した10万円の内、洋銀による5万ドル(日本円換算5万円)の中に通用しない、俗に「音止まり」と称する欠陥貨幣が6百ドル(日本円換算6百円)あった。ために大蔵省はこれを鋳潰して銀地金として売却したが、592円81銭となり、差し引き7円19銭が不足となった。
 すでに確認して受け取っているので今更朝鮮政府に不足分を請求するわけにもいかず、外務省支出とするも、結局国庫の支出となることに変わりは無いところから、大蔵省で不足分を補うこととなった。

 「音止まり」がどのような状態の貨幣かは分からないが、銀地金になっているから偽造貨幣ではなかったようである。
 また、偽造貨幣と言えば、明治17年に次のように日本人が朝鮮国の貨幣を偽造した事件があったことを示唆する記録がある。

 明治17年7月「日本人朝鮮国通用貨幣を偽造する者処分方の件」

(「日本人朝鮮国通用貨幣ヲ偽造スル者処分方ノ件」より現代語に。)

 本邦人民、朝鮮国に於て彼国通用の貨幣を偽造する者処分の儀に付伺

 本邦人民が朝鮮国に於て朝鮮国で通用の貨幣を偽造した者の処分に付いて、朝鮮国駐在領事から伺い出る事件がありました。
 これは、(外国貨幣)偽造の廉は刑法中に条項無く、不問とするべきかとも考えましたが、日韓修好条規付録の第七款に、「両国人民、私に銭貨を鋳造する者あれば、各其国の法律に照して処断すべし。」との明文があり、その「私に銭貨を鋳造する」とは、我が人民が彼の国の銭貨を偽造し、彼の人民が我が国の銭貨を偽造するを指すものであって、又「各其国の法律に照」するとは、その本国の銭貨を鋳造することを罰する法律に照らす、との意味であるべきです。なぜならば、我が人民が我が国の貨幣を偽造する者は我が国の法律に照らして処断すべきは論を俟たないことで、修好条規中特に明言するを要しないからであります。よって本件偽造の罪は、右修好条規付録第七款に依り、刑法に照らし内国通用の貨幣偽造を以て処断してしかるべきと、考量します。しかし、外交上にも関しているので、一応伺うものであります。
 右は差し掛かった事件なので、至急何分かのご指令を仰ぎます。

 明治十七年七月三十日  司法卿 山田顕義

   太政大臣三条實美殿
伺の通
 明治十七年八月八日

 日本の場合、問題を起こすのは大抵民間人である。領事が困惑して司法省に処罰の法的根拠を求める様子が窺える。

 

 明治19年6月 「公使館修築費残額を恤給填補等に転用」

 明治17年朝鮮事変における死傷者の恤救と商民損害補填として、朝鮮政府から受領した恤給填補金の分配に際して調査の結果、11万円では足らず、なお5千円の不足が生じた。それで、公使館修築費用として受領した2万円の内、実際に要した費用との差額9千円が残っているので、これから不足額を補うこととした。
 また、当時の官員で薄給の者も困難な状態にあり、残額を以て相当の給費を計ることとした。
(朝鮮政府ヨリ受領セシ公使館修築費残額ヲ恤給填補等ニ移用スルヲ許ス)

 

 明治19年6月 「御国旗保管の儀に付照会」

 明治15年の朝鮮事変の時に、京城公使館に掲げていた日本国旗は、花房公使一行と共に日本に帰り、その後外務省で保管されていた。一行が公使館を決死の覚悟で突出した時に鈴木金太郎が掲げて走ったあの日の丸である。
 それを、明治19年6月に陸軍省所轄の九段遊就館内で保管できないだろうか、との相談が外務次官青木周蔵から陸軍省に照会があり、よって陸軍省はそれを受領した。

 当時は「御国旗」と「御」の字を冠して称していたようである。今は政府内でも「国旗」と呼び捨てであろう。
 九段遊就館に保管されている当時の「御国旗」を見てみたいものである。

明治15年 朝鮮暴動記 神山清七 豊原国周筆

 

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