日清戦争前夜の日本と朝鮮(12)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

「京城府全景」 昭和5年3月20日、朝鮮総督府発行 「朝鮮博覧会記念写真帖」より。

 

 アフガニスタン国境をめぐる英露対立の端は1883年(明治16年)10月に始まり、1885年(明治18)になっても和解には至らなかった。
 明治18年6月、露国駐在特命全権公使花房義質の報告には「目下開戦の処なきが如しと雖も二国未だ兵備を弛めずして談判を重ぬるの時なれば変化未だ測られざるものあり。」とあった。(「亜冨汗論近況ノ件其二」p23)

 英露対立の緊張は、朝鮮が露国に擦り寄ったことから、英国の対抗策としての巨文島占拠を招き、露国もまた朝鮮の一部を占拠せんとの意向を示すなど、遂に東アジアの安定を壊しかねない事態となることを日清両国が憂慮していたことは、先の日本政府と李鴻章との交渉で明らかであろう。

 そういう状況の中で、今朝鮮から日清両国が兵を撤するということは、パークスが榎本公使を懸命に説得したように、却って露国の朝鮮進出を招きかねないことになるのであるが、17年朝鮮事変の日清両軍の争闘問題解決策として、それ以外に方法は無かったということである。


済物浦条約は依然として有効

 ところで、朝鮮国からの撤兵と変乱時の派兵方法を清国との間で結んだ「天津条約」は日清両国間の約束であって、朝鮮政府と結んだ条約ではないことを留意しておかねばならない。

 そもそも日本が護衛兵を朝鮮に置いたのは、明治15年朝鮮事変により日本公使館が朝鮮軍民の襲撃を受けて焼失したことにより、朝鮮政府には外国公館の護衛すら出来ないとの判断から、日朝間で締結した済物浦条約により日本自ら護衛の兵を置くことになったものである。したがって、今撤兵のことがあるとも、朝鮮との条約そのものが消滅したわけではなく、日本は護衛兵を置く自由の権があることは依然として変わらないのである。

 日本政府は天津条約締結により、井上大使が1大隊を残していった中から先ず1中隊を撤兵させたが、6月14日に朝鮮政府に対して、15年に締結の条款により置いている護衛兵が現在は多くいる必要はないとして減じる旨を伝えた時も、日清条約のことには殊更触れることは無かった。

 次いで7月18日には、全兵撤回のことを朝鮮政府に報じた。その時に高平小五郎代理公使(明治18年3月11日付で朝鮮国代理公使に(権少書記官高平小五郎書記官ニ任シ朝鮮国在勤被命ノ件))は、
「目下警備を要せずと認め暫く撤回を行う。将来如し事あるに遇うて再び護衛すべきに至りては、仍お当に時に随て兵を派して護衛すべし。此次警備を撤するに因りて誤りて前約を廃滅すと謂うを得ず。」
との明文を呈し、朝鮮政府もまたこれを承諾した。(「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」p35)(なお、この時の高平代理公使と朝鮮政府の確認と承諾の文章はdreamtale氏のエントリーで閲覧可能である)

 

日清両国、朝鮮から撤兵する

 明治18年(1885)7月20日、天津条約により日本公使館護衛の全兵は京城から撤し21日には仁川を発して帰国した。清兵営も事前に清国公使が日本政府に通知していた通り、同日にそれを撤して清国に帰還した。

 同月25日には朝鮮政府派遣の朝鮮兵10人が日本公使館の門守衛兵として着いた。有事の際にはそれに40人を加えるつもりであると言う。(「朝鮮国屯在兵撤回ニ付電報ノ件」、「朝鮮国駐防兵隊悉皆撤去ノ件」、「在韓我公館護衛ノ為メ朝鮮政府ヨリ看門兵派出ノ件」)

 なお、朝鮮各港の居留地の日本人保護のための軍艦駐留は従来どおりであった。(金剛艦ヲ保護艦トシテ朝鮮国ヘ遣シ清輝艦ヲ清国ヘ回航ノ件)
 また、緊迫する東アジア情勢を受けて、川村純義海軍卿は、
「今後東洋の情勢によって、清国、朝鮮、ロシアの海岸に絶えず軍艦を派遣せざるを得ない状況に至った時には、軍艦の交代や艦船の進退などを一々上申伺いしていては、その機を失うこともあるので、軍艦派遣の節は伺いを経ずに海軍省の判断で派遣したい。」と上申した。(7月9日伺い、17日裁可)(清国及魯領海岸ニ軍艦派遣自今経伺セサルノ件)


 これより先の6月には清国と仏国とのベトナムを巡る戦争は終結し両国間で講和条約がなった。その条約書が北京榎本公使から送付され日本政府で回覧したのは7月29日であった。(清法両国間ニ訂結セル新立条約書ノ件)
 李鴻章の手腕によって、清国から仏国へ賠償金を払わずに済んだとして評価もされているが、ベトナムに対する宗主権を放棄せざるを得なかった大国清の脆弱を露呈した戦争であると同時に、清国がもうひとつの属国である朝鮮の動向にいよいよ神経質にならざるを得ないことともなったであろう。

 それにしても、力なきアジアの小国は力ある西洋列強国の植民地にされていくことをまざまざと見せつけるものでもあった。

 

西洋諸国の常識と露国

 ちなみにこの頃の西洋人(英国人)の考え方と露国の戦略の一端を次の文章から窺うことが出来よう。
 明治18年7月、日本政府文書局は次の英国紙(H.C.ラウリンソン記者筆)の抄訳文を各大臣参議の閲覧に供した。

(「露国ノ中央亜細亜蚕食策ノ件」より抜粋。段落、()などは筆者。)

○ 露国の中央亜細亜蚕食策[四月刊行ナインチーンス センチュリー(Stanfords Geog. Estab. London)]

 凡そ開明国の、蛮民を制服するは天則の然らしむる所にして、文運の進歩上喜ぶべきものなきに非ず。
 故に露国が旆(はた)を東洋に翻えすや向う所敵なく、到る所に文明の清風を起して旧弊汚習を洗蕩し、タルコマン人(アフガンの一民族)の匪徒を懲し、キワ及びボクハラの奴隷売買を禁遏し、衰を振わし苦を救い乱を鎮むる等、人間社会に利益を与えたることの少々ならざるは、衆目十指の公認する所なり。
 将来の如何を論ぜず、只既往に就きて露国がコラスサン境土に沿うを能く平和主義の大勝を得たる事蹟を見れば、其の国光は能く天下万世に輝くべしと謂うも不可なかるべし。

 然れども、同国が千八百六十九年に裏海(カスピ海)を横ぎりて干戈を中央亜細亜に動かしたるを見て、是即前述の如き結果を得んがために計れる善良の目的に出でたる処置なりと為すは、同国の政策を誤るものなり。

 そもそも露国が英国に対し譎詐の術を施すに至りたるは哥カ米戦争(米墨戦争?)の時より始まれり。
 元来、英国の威は全世界に普ければ、露国が噬呑(呑噬)を逞うせんと欲するも動もすれば、其の衝に触れ、事を破るの恐あり。
 又戦端を開くに於てはジョージヤ海岸にバルチック海にアゾフ海に黒海に、到る所として敵を受けざるの地なかるべし。
 之を以て露国にして真に能く最強国と平等の地位に立たんと欲せば、先ず英国の弱所を発見せざる可らず。是即露国が中央亜細亜地方に自国の統御する一国を設けて印度の衝に当らしめ、以て英国の威を殺がんと欲する所以なり。

 露国が前述の目的を達する手段となす所は、漸次に土地を蚕食して遂に印度国境に接するにあり。
 此の故に同国は、毫も目前直接の利を得ざるにも関わらず、幾多の歳月と巨万の金額を費し、経済家等をして往々悚然たらしめしことあり。之を概算するに同国が過ぐる弐十五年間に中央亜細亜に費やしたる所は、少くも弐億五千万円に下らざるべし。

 此の間露国は各土民に横虐の処置を施し、其の外交官等も譎詐権謀只是事とし、非理法外の挙も頗る多かりしが、其労果して空しからず、遂に目下の切迫なる事情を惹き起すに至れり。
(以下略)

 以下、露国がいかにして中央アジアで領土拡大を進めているかを具体的に解説する文章が続く。

 露国が幾多の歳月と巨額を費やすのは、漸次に土地を蚕食して遂に英領印度国境に接するにあり、と。
 事実とするなら壮大な戦略というものであろう。

 「外交官等も譎詐権謀只是事とし、非理法外の挙も頗る多かりし」
 これも、先の朝鮮京城の露国書記官スペーヤの言動と一致するものである。

 しかしそれよりも冒頭の文章が興味深い。

 「凡そ開明国の蛮民を制服するは、天則の然らしむる所にして、文運の進歩上喜ぶべきものなきに非ず。」

 これが当時の西洋国の常識である。
 すなわち西洋文明国が非西洋文明国を征服するのは天則(多分にキリスト教的価値観による)であって、文明が進歩する上で喜ばしいことである、というのである。
 拒絶しても非力ならば征服されて植民地とされる以外はなかろう。日本がかつて攘夷叶わず欧米化を受け入れざるを得なかった所以である。

 もっとも、
「文明の清風を起して旧弊汚習を洗蕩し」「匪徒を懲し」「奴隷売買を禁遏し、衰を振わし苦を救い乱を鎮むる等、人間社会に利益を与えたることの少々ならざるは、衆目十指の公認する所なり。」
 と真にそうならば、
 「文運の進歩上喜ぶべきものなきに非ず。」ということも、またそれはそれで言えようか。


朝鮮の風聞と金玉均

 18年3月、朝鮮政府がモルレンドルフと徐相雨を謝罪使節として日本に派遣した時に、井上馨と金宏集の談判で既に拒否していたにも関わらず、再び金玉均等の捜索と引渡しを求めていた。
 日朝間に未だ犯罪人引渡し条約は結んでおらず、また万国公法に国事犯を引き渡す例もない事から日本政府はこれを再び拒否した。

 そもそも日朝相互の犯罪人交付のことは、去る明治13年11月に花房義質が弁理公使として仁川湾開港と在京公使館設置の交渉に京城に赴いたときに、事前の朝鮮政府の希望により併せてその条約を協議する予定であった。(同派遣ニ付訓条并発期談判大意及犯罪交付互約)
 しかし条約締結にまでは到らなかったようである。おそらく当時、花房が日本国皇帝の国書を提出したことで朝鮮政府内では受け取りをめぐって議論紛糾し、更に仁川開港の問題もあってそれどころではなかったのかもしれない。

 朝鮮事変後、朴金らの乱党の一部が日本に逃れてからは、朝鮮では彼らについての様々な風説が流れ始め、4月28日には、近藤真鋤臨時代理公使からは次のような報告がなされている。

(「京城訛傳/4 明治15年7月21日から明治19年1月25日」p8)

機密信第五拾三号
 当節府下に一種の風説有之。
 右は金玉均、日本に在りて撃剣家或は無頼の徒に交を結び、陰かに当国に差向け暗殺を行なわんとの企あり云々。
 既に先頃鐘閣に右の張紙有之候由[其写は未だ手に入り不申候得共、前文の■を書綴りたるものゝ由]。之が為に要路の大官は頗る危懼の心を抱き、国王も深く心配せられ、一時は日本政府に照会し金玉均の所業に注意あらんことを請う可し、との議も有之候処、督弁金允植は之を不可とし、事の虚実未だ判然ならざるに右等の照会をなすは、事件を誤るものなり、とて照会論は打止の趣なれども、民間の風説は未だ止まず、朝鮮人の内には下官へ予防の方法等尋来候者有之。

 金玉均等が日本人と結託して朝鮮に暗殺者を送り込んでくるという噂話である。
 確かに金玉均等に同情する日本人も少なくなかった。

 更には、次のようなより具体的な話も得ている。

(「同上」p9) 

 金玉均は、去月の青龍丸にて朝鮮商人の東京に滞在せる張磤(殷)奎なる者を密使として大院君の邸に到らせ[該商人は曽て大院君の愛顧を得たる者の由]、同君の夫人に謁し、朴永孝等去年の一挙は専ら朝鮮の独立を謀り、大院君を清国より迎還せんとの企に有之たる処、豈料らんや事中途にして敗れ、其志を得ざるも何とか工夫を凝らし、大院君還国の事を謀り、独立の基本を固め度所存なり云々、と申込により同夫人は大に喜び、大院君帰国出来候事なれば家財は吝むに足らず、幾千にても費用を出す可し。併し伝言のみにては信を置き難きに付、朴永孝の手書を得て来る可し。但し同人当座の費用として韓銭十貫文を贈るとて、右商人張磤(殷)奎に交付せられ候に付、同人は直ちに青龍丸の帰航便に搭じ再び東京に相■赴其外金朴両名より李載元魚允中へ密書を贈り、右両名よりの返書も持帰りたる由に御座候。
 李載元は素より愚蒙の人にて取るに足らず、魚允中は如何なる心中に有之、如何なる文通をなせしや何分相分り兼候得共、同人は尓来頗る嫌疑を避け我へは務めて近寄らず、以前とは違い下官に対しても甚冷淡なる有様に御座候。
 尤も朴金等、最初陰謀の節、魚允中へも同謀の義勧告致候処、同人は其事の成らざるを慮り、之を諷止致候事も有之由。事変の節は其前より避けて田舎に到り観望致居。金玉均等敗亡の事を聞き帰京、現に要路に在て、目下金宏集金允植と並て三傑の称を得る程に有之候得共、当初は何程か玉均等の謀議に与りたる事有之やに相聞え居候。

 なるほど魚允中は慧眼の人物である。しかし誰でも少し考えれば無謀なクーデターであることは分りそうなものであるが。

 それよりも興味深いのは、金玉均が人をして大院君夫人に語った、
「朴永孝等去年の一挙は専ら朝鮮の独立を謀り、大院君を清国より迎還せんとの企に有之」
ということであろう。

 かつて15年事変時に、井上馨が大院君追及の証拠として花房義質に送った文書に、
「(大院君と)兵士との密約書即ち金玉均、徐洪範、朴義之と内約せし所のものにして此等の文案を得るを必要とす云々の如きその証左」(「朝鮮暴動事件/1 明治15年7月30日から明治15年8月20」p39)
とあることと併せて見ると、金玉均と大院君の関係が見えてくるような気がする。

 また、18年1月、近藤臨時代理公使は井上角五郎から次のような密報を受けている。

(「近藤代理公使報告京城事変後国情ノ件」)

一 過日井上角五郎の方へ無名書を差送る者あり。其文意は、
「日本政府は従来朝鮮を以て独立国と認められ、且今般井上大使の好意に依り益独立の基礎を固むるを得、感謝に絶えず。然るに清国は朝鮮を以て属国となし、現に大院君を囚て彼国に繋留せり。大院君は朝鮮に在て頗る人望あり。又有為の人なり。大院君にして国に帰らば独立の基礎を益固うし、国を大平に置くべきは疑なし。希くば日本政府一たび清国と掛合われ、日本国の取扱を以て大院君故国に帰るを得ば、永く日本の徳を忘れず」
との意味に有之たる趣。

 

東アジアの安定と障害

 当時日本政府が最も望んでいたものは東アジアの安定であろう。国民の方ではそんなことよりも征清だと言う者も少なくなかったろうが。しかし井上馨外務卿の政略を見る限りはそうである。為には朝鮮国が自主独立をし且つ中立の施政をとることは不可欠であったろう。しかし力無き者の独立宣言ほど空しいものはない。富国強兵こそは国家独立に必須のものであり、ましてこの時代においてをやである。
 為にこそ日本は朝鮮を先ず独立国と見做し開化を支援し独立の気概ある人物を応援してきたのである。

 しかし問題は朝鮮には何よりも「人」がいないことであった。
 確かに大院君は軍民共に人望あって即断の人であるが、どうにもこうにも開化を嫌うこと頑固甚だしく、この人が朝鮮に帰れば再び内乱の恐れがあった。

 金玉均もまた短慮にして無謀の乱を起こし、朝鮮政府を大いに撹乱し却って清国の干渉を招き、あげくに日本に逃亡して日本人の援助を頼まんとする人である。

 井上馨はじめ日本政府がこの人に落胆し冷たくなっていったのは無理からぬことであったろう。
 まして、この上日朝間に軋轢をもたらし、尚朝鮮国内に不穏の動きを呼ぶ要因となるなら、即ち東アジア安定の障害となる人物とまで見做さねばなるまい。

 だからこそ、李鴻章も金玉均等の取締りを繰り返し日本政府に懇請したのであり、日本政府もその要請はともかく、金玉均等の護衛を兼ねた監視を始めざるを得なかったのであろう。国内世論は金玉均を独立の志士、朝鮮維新の義士と見る者多く、政府の彼への冷遇を批判する声が少なからずであったが。

 日本政府にとって重要なことは、日本寄りであることよりも、先ずは強い朝鮮、確固たる朝鮮国ではなかったろうか。そのためには外交・内政・軍事・財政の確立が必須であるし、当時井上馨の眼鏡にかなったその為の人物は、金宏集、金允植、魚允中の3人であった。金宏集は外交を、金允植は内政と軍事を、魚允中は財政を、それぞれ担当させるなら何とか朝鮮国は安定すると見ていたようである。

 確かに金宏集などはこの頃、日清露どちらに付くというわけでもなく現実を見る開化の人であり、また外国との交渉に優れた朝鮮では稀有の人物である。この人の名が外交文書に出てくるのは明治13年の第2回修信使としてであるが、その後難しい交渉となると必ずと言っていいほど彼が担当している。論理的な議論が出来得る人であり、全権を持たせれば柔軟にして和議を心得、しかし強い愛国の心を持つ人である印象を受ける。

 

大院君の帰国

 大院君が清国に幽閉されてより2回ほど朝鮮国から釈放の要請があっていたが、清政府はこれを拒んでいた。
 しかし、明治18年に再び請求があり、遂に清政府は明治18年9月21日付の上諭によって「李昰應には恩を加えてその釈放を許すので、護送の者を付けて朝鮮に帰国させるように。」との命令を李鴻章に下した。(「明治十九年 別室在清国公使館雑報告 六/1 在清公使館雑報」p4)、それにより大院君は10月に袁世凱の護送によって帰国した。
 これに関する京城の高平公使からの報告は見つけられないが、林泰輔著「近世朝鮮史」によれば、『閔氏の一族は、又王妃と共に王を擁して露国の保護に頼らんとするの形跡あり。且つ閔氏の所為は往々清の意向に反することもなきに非ず。之に反して大院君は久しく清に拘留せられて、その厚遇に感じ、且つ外夷排斥はその最も喜ぶ所なれば、清は大院君を放還して閔氏を抑え、且つ露国を疎隔せしめんことを図れり。』とある。
 しかし大院君はその意向に添わんとしたが、朝鮮に帰ってきてからもほとんど幽閉された状態が続き、その力を発揮することは難しかったという。

 

錯綜する情報

 この頃から朝鮮に係る様々な情報は益々飛び交い、李鴻章までもそれに煩わされることとなる。
 明治18年12月、清国天津領事波多野承五郎の報告によれば、朝鮮で変乱があったとの報があり、電報局技術者と懇意な者からの情報であった。早速に李鴻章に面晤すると、李鴻章は直ぐに、日本から何か言って来ていないかと尋ねた。波多野は何もない、と答えると李鴻章は以下の話をした。(「京城訛傳/4 明治15年7月21日から明治19年1月25日」p11より抜粋要約。)

 「金玉均と日本自由党が結託し、自由党若干が武器弾薬を携えて仁川に上陸し京城に討ち入る目論見がある。徐承祖公使からの報せである。それで井上外務卿、伊藤参議、榎本公使に問い合わせた。外務卿には、もしそのような目論見があれば速やかに取り押さえる、とあって安心した。自由党とは何か。」

波多野「自由党はすでに解散している。旧自由党員の中には過激の者もあると聞く。」

 「金玉均が朝鮮に送った文書に『後藤相』とあり。如何なる人物か。」

波多野「後藤象二郎は維新の功臣の一人である。参議であったが辞職して商社を興した。政府と議論が合わず今は用いられていない。自由党が解散していない頃の名簿に同氏の名もあった。」

 「貴国相臣中にその後藤姓なく、伊藤相のことではないかと疑い一時は惑った。それで疑いが解けた。」

波多野「自分が本日聞いたのは、京城か仁川で戦闘があったと云うことである。そのような報はないか。」

 「昨夜京城からの電報に、日本軍艦水兵が仁川で開戦した、とあったが発信者無名であった。また、袁世凱からの電報に、日本金剛艦長井上良馨が水兵若干を率いて京城に入ったがその理由は分らない、とあった。井上良馨氏は些細な間違いで発砲するような人物ではあるまい。」

波多野「もとよりそうである。」

 翌々日に波多野領事は再び李を訪問した。

 「袁世凱から回報があったところである。京城は無事であり、日本水兵開戦の報は何人かが悪戯をして発したことが明白となった。真に喜ばしいことである。」

 この他、波多野領事は報告の中で、一時は居留地周囲にも日本兵開戦の風聞が広まり、為に英国領事ブレナン氏が来訪して問い合わせるほどであった、とある。

 日朝間では釜山までは電信線を敷いていたが、京城からの通信手段は船便に頼るしかなく、事変時のような緊急を要することが起きてもどうにもならない状態であった。清国の方はすでに通していたようであるが、日本もどうにかして京城と釜山間に電信を施設したいところであ.る。

 実はこの年1月に電信局長石井忠亮から佐々木孝行工部卿に「釜山仁川間海底線架設の義」の伺いがあり、工部卿も賛同して推薦文を添えた上でその裁可を仰いだのであるが、目下詮議に及び難いとのことで却下となった。(朝鮮国釜山仁川両港間電信線布設ノ件)

 理由は大蔵卿松方正義曰く、「釜山仁川両港間電信線敷設の儀は素より必要の事には可有之候得共如何せん十七年度歳入出の儀は既に巨多の不足を生じ又十八年度歳計の儀は一層困難の見込に付き」云々ということで、要するにお金がないのであった。orz

 そしてこのことは日清戦争時の軍用電信の架設まで待つ外なかったようである。(実は、明治19年に朝鮮政府が架設したりする。(後掲))

 

 その他、京城の公使領事等の報告から。(「京城訛傳/4 明治15年7月21日から明治19年1月25日」p16〜p47)

・ 閔應植が京城公使館に来ての話に、金玉均が日本政府に請願して軍隊を借り受け我が国に攻め入る計画があるらしい、と。

・ 井上角五郎が京城公使館に来ての話に、美濃丸で長崎出発の際に警官が来ての話によると金玉均と結託した日本人十二人が爆裂薬を携帯して朝鮮に渡航する疑いがあり、大阪府から追って来たと。(後に朝鮮政府内に伝わって騒動となる発端)

・ 仁川に日本から舩が来る度に警官を出して乗客を厳密に調べ、怪しい者は説諭して帰国させることにした。

・ 金玉均等が来襲するとの噂。大院君が已に帰国しているとの噂。京城英国総領事ベーバル、袁世凱、日本側の港湾警備状況を尋ねる。高平臨時代理公使は、万が一の場合は金剛艦から水兵を出して取り締まると。

・ 金剛艦長井上良馨大佐等四人が京城に来る。以前から士官達と京城旧王宮を遊覧したい旨届があっていた。士官等は帯剣していたので、金玉均等の来襲の噂が広まっていた中、その姿を見て人々が恐懼し、夜になって金允植督弁が来て人心不安を訴えた。(どうやら井上良馨は朝鮮から誤解される運命の人らしい。)

・ 後に京城内に政府から都下人民へ、浮言に動かされずに安心せよ、との掲示あり。

・ 艦長の内話に、下関で一、二名の者が警官に捕縛された由。どういう人物かは分らないが金玉均と組んで何か不良の企てがあったのが発覚したとの由。

・ また噂に、金玉均は入韓の途上、李鴻章が軍艦を派遣して海上で拿捕し天津に護送したので、いずれ朝鮮に返還されると。あるいはまた噂に、大院君が帰国した後に金玉均が来て改革を謀ると。

・ これらの風説は、貿易上にも多少の影響を与えている。

・ 朝鮮政府に、もし不法潜入の日本人を捕獲した場合は条約に基づき日本側に引き渡されたい、と通達。金允植督弁も承諾。

 

大阪事件

 上記のように京城を混乱させ日本兵開戦の噂とまでなった元は、日本の旧自由党員ら30数人の者の行動によるものであった。(大井憲太郎等関係ノ件)

 明治18年11月13日大阪府警は、大阪府知事から府内で朝鮮に事を企てんとする者がいるとの報を受けた。
 それによれば、旧自由党員が金玉均と謀り朝鮮政府を転覆して再び日清両政府の(対立)関係を生じさせ、その機に乗じて我政府の改革に着手させんとの風説があるとのことであった。一味は大井憲太郎始め30余人。刀剣、爆裂薬を携え、東京と大阪に潜伏し、やがて長崎から朝鮮に渡るとのこと。
 府警は直ちに長崎に警部を派出し、爆薬物などの証拠を確認した後に東京・大阪・長崎の一味全員を一度に捕縛せんと内偵を続けること凡そ1週間余り、横浜港英国人商人の店に鉱山開発のためと称して、政府の許可無くダイナマイトなどを購買せんことを打診する人物があるなどのことから、愈々事件性を確定し、23日になって長崎で16人、大阪府で10名を逮捕した(1人は無関係と分かって直ぐに釈放)。捜索の結果、塩酸カリ、硫黄、大量の亜鉛硝石、ブリキ缶多数などを押収。これにより爆発物取締罰則に拠って処分することとなった。

 取調べに拠れば、
「被告等を調ぶるに、朝鮮閔氏のロツケツ(原文のまま)を殺戮して独立の政府を組織し、再び日清の大葛藤を起し内国の志気を奮起せしめば、自ら内治 の改良を促し、続て義勇兵を挙げ路を朝鮮に借て支那の版図を略し、亜細亜全体の改革を目的となし、磯山、新井は爆発物と壮士を携え渡韓して直ちに殺戮に従事し、大井、小林、稲垣等は内地に在て後図をなすの計画なりし旨、重立者等は具状せり。」
であり、他に「日本義徒檄告す」との朝鮮人に向けての檄文もあり、自由大義を掲げて、朝鮮の革命を訴える内容であった。また金玉均との関係は、
「大井等は始め金玉均を同意せしめんと、小林、磯山にて二三度内談せしも、金氏は深く信用せざる模様あり、中頃除きたり。」
であった。

 報告を受けた井上外務卿は、今後朝鮮行きの船に対しては厳重な荷物検査をするよう地方に布達した。

 以下、警保局による顛末書からの抜粋である。

(「大井憲太郎等関係ノ件/1 明治18年8月19日から明治18年12月15日」p33より抜粋、現代語訳、段落、()は筆者。)

大井憲太郎以下被告事件顛末概要

起因

 被告人等の主だった者の多くは旧自由党員であり、今日では解散した政党である。その主義は他の改進党あるいは保守党と異なり、単に自国の改良のみを目的とするのではなく、広く社会の進歩を助け、世界人心の改良を企画する点に於ては、あたかも一種の宗教家を自任する者の如く、あの欧米の改革党がその主義を実行するにあたっては山河海洋を以て限界とせず、広く世界万国の同志と共同してこれと憂苦を共にし、近くは愛蘭(アイルランド)の借地党を助けた米国人があり、また遠くは米国の独立を助けた仏国人があったようなことは、被告等が最も羨望してやまないことである。

 小林等はかつて我国に東洋仏学協会なるものを興し、遂にはこれを万国交際会と称し、専ら東洋未開の人民の交流を一変させんと計画したことがある。

 朝鮮は東洋に於ける純然たる独立国であるにも拘わらず、従来、支那が干渉して左右する所となり、勢力最大の事大党は悉く支那政府に媚びへつらい、己れが威福をほしいままにし、ともすれば日韓の交誼を傷つけ、度々我が国民を陵辱するなどを見ては、朝鮮人民の頑愚で微弱なことを憐れむ情が日々積もると同時に、支那人を憎む念はいよいよ重なって遂に今日に至った。

 我が政府の朝鮮に対する処分に於いて、表には朝鮮の微弱なのを憐れむのを名とし、裏では支那政府の暴慢虚喝に畏縮して、断然として国是を決して談判を開くことをせず、僅かに姑息な条約を以って今度の対立を取り繕うが如きは、被告等が最も憤懣するところである。

 東洋政略の基礎を固めんと欲っするなら、先ずは日支両国の雌雄を決っしないわけにはいかないことは、被告等が以前から確信するところである。故に前に清国が安南(ベトナム)で事をなした頃には、大井、小林、磯山等はその機に乗じて二百人の壮士を募り、仏国兵を助けて共に清国を倒すことを窃かに計画したことがあったが、そのための船舶や壮士達の準備が整わない内に早くも清仏の和議が成るのに遇い、その目的を達するに至らずに沙汰止みとなった。

 かつて我が国に亡命した金玉均が窃かに本国での失地回復を謀るとの念慮があるのを知り、小林、磯山等は度々金氏に会って謀るところがあったが、金氏が猜疑心を抱いて深く信頼する意のないことを知り、遂に行動を共にはしなかった。

目的

 朝鮮国をして独立の国権を保たせ、朝鮮人民をして自主の民とならせることを欲っするならば、当然の事として事大党の政府を倒し、支那の絆を脱っするわけにいかないことである。。今もし日本の義党が率先して朝鮮革命の端緒を開くなら、欧米各国の革命党もまたこの義挙を賛助し、大勢を率いて後押しをすることは必定である。

 故に先ず数十の壮士を彼の地に派遣し、直ちに事大党の六蘖(王の取り巻き)を倒し、進んで独立党の政府を組織するなら、朝鮮をして東洋の「スイス」とならせることはまた難しいことではない。
 これが被告等第一の目的である。

 日本の義党が果して朝鮮に事を挙げれば、支那政府は忽ち我国を問責し、ここに再び日支間の一大対立を生じるなら、国内の士気はたちどころに奮起し、官民共に迷いを打ち破って振って外患に当るだろう。もしそうなるならば官民は一致し、国内事の改革は期せずして成ろう。
 これは被告等第二の目的である。

 日支両国間に早晩避けることのできない戦争を促し、果して戦端を開くに至るなら、道を朝鮮に借りて行々は支那の領土を略取し、到る所でその土地の豪族を使い、それぞれその要衝に当らせるなら、四百余州山河広しといっても、義旗の向う所たちどころに蹂躙し、遂には我が国をして東洋第一の覇国とならせるのも難しい事ではない。
 これは被告等が第三の目的とするところである。

 磯山、新井は二十人の壮士を率いて朝鮮に渡って実行の役となり、大井、小林、稲垣等は内地に止まって百般のために後々のはかりごとをしようとした。

 磯山等は、朝鮮に達っしたなら気に応じて京城に地雷火を設け、あるいは王城に闖入して直に閔氏の六蘖を戮殺し、好機に檄文を用いて、一には彼の独立党を喚起し、一には日本義党の義挙であることを世界に公示せんとするものである。

 日本の壮士は、あくまで勇敢であるとは言え、人数少なきにより勝算を期すために、爆発物の利用を借りてその成功を遂げようとした。

(以下略)

 この顛末書を書いた人自身が旧自由党員ではなかろうかと思えるような文章である。即ち、
 「我が政府の朝鮮に対する処分に於いて、表には朝鮮の微弱なのを憐れむのを名とし、裏では支那政府の暴慢虚喝に畏縮して、断然として国是を決して談判を開くことをせず、僅かに姑息な条約を以って今度の対立を取り繕うが如きは、被告等が最も憤懣するところである。」
と、被告等が政府をそのように評価しているというより、広く一般の認識としてそうであるかのような書き方となっている。実際、国内世論の大半はそのようなものであったのだろう。

 この顛末書以外に、自由党と金玉均の関係については次のような始末書がある。

(「大井憲太郎等関係ノ件/2 明治18年12月16日から明治19年7月21日」p7より、現代語訳、()は筆者。)

 かつて小林樟雄、大井憲太郎が大阪に来て滞在したのは、自党の勢いを振い起こすためではなく、朝鮮の先の執権金玉均等に関係があると云う。
 左にその始末を略述する。

 始め朝鮮に於いて日本党と支那党の紛争が起ると、たちまち日本党の領袖金玉均、劉岳樓(欄外に「柳赫魯の誤であろうか」とある。)等は我が国に脱出してきて、福沢(諭吉)後藤(象二郎)板垣(退助)等を頼った。
 [金劉両人が後藤やその他の人と縁故があるのは、朝鮮の前の乱の時即ち明治十五年頃に我が国民に対して暴行した際に当って、金氏は密かに後藤氏を頼って和解を乞うたが、後藤氏は、国王の委任状がなければこれを承知する事は出来ないとの事で、以って拒絶された。故に金氏等は一度帰国して王に委任状を求むる際に、重ねて二次の乱に及んだので、俄に国を脱して前の因縁により後藤氏等を頼ったものであると云う。]

 そして三氏も特に金氏等を助ける意があって、陰に厚くこれを待遇されたが、金氏等は速かに帰国して反対党を倒したいとの念慮が常に胸中にあって、後藤等の指示を待つことが出来なかったと云う。
 それなのに後藤氏等は金氏等に、先ず日本にあって学事に従うべきを勧め、且つ徐々に事を謀り、十万の資金を得たなら、兵を率いて金等を朝鮮に送るものである、との意見であったとのことである。

 そのようにして金氏等は旧自由党に救助され、処々に潜伏して日を送る中に、旧自由党の中の大和の稲辻某は千葉県に於いて違法を謀ったために連座して官庁に連行された。然るにこの稲辻(今度の事件で大阪で逮捕された者の中に「稲辻秀茂」の名がある。)は永く金氏等を匿っていたことがあって、金氏に対する自由党の意見を詳細に知る者なので、同氏が捕獲されると後藤氏等は金氏等を密かに援助していることが洩れることを特に苦慮された。
 加えるに、金氏等は後藤氏の指示を受入れずに頻りに粗暴の壮士らの力を頼んで帰国して反対党を斃すことを促すので、事の洩れることを恐れて後藤氏等は援助することを謝絶されたと云う。

 よって小林、大井等は金氏等が頼る所がないのを憐み、誓ってこれを朝鮮に護送せんと欲したが、東京に於いては既に自党の領袖輩から謝絶されたことを以って、事を謀るのは不便であることを思い、大阪に於いて同志を募り、資金を集めて金氏等の帰国を助ける算段により今回来阪した次第である。
 よって東京を発する際は、金氏等は今回は必ず帰国する旨を告げ、送別の為めに金一千円を募集したと云う。
[土倉の弟、上田の話説には、福沢氏は一千円を贈られ、後藤氏は三千円を贈られたと云う。]

 よって小林、大井は東京に於いて決死の壮士三十名を撰び、右の金を以ってその武器を求め、先ず大坂迄来てから同地に於いて周到に計画せんとし、小林、大井は海路より来て、金氏以下三十名の壮士は陸路から漸次来阪したと云う。金氏は来阪の徒中、尾張名古屋に於いても同地の志士から餞別五百円の金を得たと。

 このようにして小林、大井は先に来阪して専ら金策に奔走したが思うようにならず、よって高松の鈴木に余程強談して一千円を得て、専ら朝鮮行を計画中に磯山正兵衛[この磯山は小林が最も信任しており、今回の三十名の将師として朝鮮へ送る筈とのことであった。]のために資金を奪い去られたことにより、[この時小林等の手中のある金は全部で一千五百円程の所持であったと云う。]どうにも進退出来ないような事態に立ち至ったと云う。

 〇 これより前、小林は高知に赴いて金氏等を送ることで板垣氏に計ったが、板垣氏は金氏のその指示に従わないことを以って謝絶されたと云う。

 〇 故に金氏は一と先ず東京に帰り、重ねて計るところあるようで、二十日ほど前に東京に赴いた。
[これは去る十一日の説話である。]
 そうして小林は三十名の壮士となおも大阪に滞在して金策をしているとのことで、三十名の内十名は、大和地方に於いて豪家に強て金談をした。現に土倉にも短銃、刀剣などを用いて威迫して金談したとのことであるが、同氏は固く拒否して出金しなかったとのことである。又、他の六七名は五六日前に[これも十一日の話]、西に向って去ったと云う。
[ある人の想像するのに、西に向かって去った者は朝鮮に入って現今の執権で金氏の反対者である某を暗殺するためであろうかと云う。]

 〇 小林以下の者は大阪にいるが特に行方を秘し、日々宿所を転じて更に他人と面接しないとのことである。

 〇 三十名の壮士が全て大阪に着いたのは三十日程前のことで、磯山の逃亡もその頃であると云う。この三十名は着阪してからは八軒の旅亭に於いて会合したと。
 この壮士等の姓名はすべては聞知していないが、その首領は磯山正兵衛、斎藤壬生雄[鳥取県人]、山本某、氏家某等であると云う。氏家某という者は大井が特に信任しており、常に大井と共に居る者であると云う。

 〇 金玉均は岩田秋作、劉岳樓は山田惟一、張殷奎は田中虎造と称して、各々立派な戸籍を有するそうである。もっともその戸籍は長崎に於いて得たものであると云う。

 〇 金劉二氏は昨年中も三四ヶ月間、大和の土倉氏方に潜んでいたことがあると云う。二氏等は朝鮮にいる親族の三族を刑殺されたことを以って、日本人の力を借りてこの復讐を計る念慮が常に胸中に在るを以って、その計る所も、ともすれば粗暴に出るようであると云う。

 〇 小林等の金策は、ともすれば強盗に似た企図であることを以って、大阪の有志者は多くはこれと交際するのを避ける傾向があると云う。

 僅か30数人のテロリストが、自由大義を掲げて東洋三国に覇を唱えんとの志は勇ましいものであるが、やってることは強盗まがいであったり、一同の将師たる者が資金を着服して逃亡したり、というお粗末さ。
 いわゆる義士とか革命家とか云うのは、先ず金銭の問題が付き纏うものである。
 筆者としては思わず彼の国の「独立義士」を連想したが(笑)

 金玉均の偽名が「岩田秋作」であり、戸籍まで作ってあったとは驚きである。「周作」でもあるらしいが、国会図書館憲政資料室所蔵の資料にも「岩田秋作(金玉鈎)書翰、浅山顕蔵宛(漢文)」とあり、他の警視庁文書にも「秋作」とある(「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/1 明治19年1月7日から明治19年7月6日」p17)。

 なお、金玉均の妻子は刑殺されてはいない。後に日本軍に救出されることになる。減刑されていた事を知らなかった金玉均の誤解である。

 

仁川・京城の捜索

 なお、一味の中には逮捕を逃れて行方不明の者もあり、また李鴻章からは「日本兵が商人に扮装しているという電報が朝鮮から来ている」などの情報もあったことから、既に朝鮮に渡った者もいることが考えられ、日本政府は急遽、仁川、京城の日本人居留区を捜索する事にした。ついては、仁川碇泊の金剛艦の水兵を以てそれに当らせることも考えられたが、清国との天津条約の事もあって兵を動かすことは出来ないので、臨時に郵船会社の商船を雇って巡査20人警部数人を、外務省書記官栗野慎一郎と共に朝鮮に派遣して当らせることにした。(京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出発/1 明治18年12月15日から〔明治18年〕12月21日)

 12月22日、栗野書記官は高平公使と共に朝鮮政府の金允植督弁などと面晤し、派遣捜索に付き日本政府の厚意を伝え朝鮮政府の補助を要請。金督弁は日本政府の厚意を謝し補助を約束した。続いて清官袁世凱に面晤。袁も親密の情を表し、朝鮮人が流言を信じやすい性質などを話し、また金玉均を交付することに付いて尋ねるところがあった。

 栗野書記官はそれに対して、日朝間に公布条約がない事と万国交際上の習慣として国事犯は交付しないことを話し、更に、もし日朝間でその習慣に背反して交付すれば、欧米各国がどのような難題を持ち出すかも測り難い旨を伝えた。袁世凱もその重要性を感じたようであった。

 これにより、朝鮮政府の協力を得て警部巡査らは京城・仁川居留区を捜索し、居留民、宿泊者一人一人を詳しく調査したが相当する人物の形跡は全く無かった。
 また「日本兵が商人に扮装している」との電報の出所も判明しなかったが、栗野慎一郎書記官は復命書で、
「日本兵小商に粉飾す等の訛伝を公にし清政府に電報したる者の誰なるや、秘密の探偵を試み候得共、之を審にする能わず。袁世凱にして如斯無根の浮説を信じ、清政府に電報する理由無之と存候。然れども同人は再び支那兵を京城に入れんことを希望して居る人なれば、総て機に乗じ無要を露わさんと欲するの政略に出つるも計り難し。若し然らば軽忽も尓甚しと云うべし。」
と袁世凱に対する厳しい見方をしている。もっとも、「在京城我公使館より要路に使用しある探偵者の報告に依れば、平安道の首府平壌電信局の委員徐以修なる清国人、妄に訛説を天津に伝えて此の騒擾を来たしたり、との理由を以て、袁世凱、徐の職を罷め許紹献を電局委員となしたりと云う。」とも書いているが。
(以上「京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出発/2 明治18年12月23日から明治19年1月4日」p16より)

 

居留区全滞在者の調査

 また、この時に京城・仁川居留区に滞在する日本人全員の調査一覧表を作成している。

 それによれば、日本公使館・領事館員や巡査・専属雇用者を除いての民間日本人数は、京城は、男87人、女7人、計94人、戸数20戸で、仁川は、男396人、女167人、計563人、戸数105戸であった。いずれも長崎県籍の者(ほぼ対馬と長崎で占める)が一番多い(およそ200人)。(「京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出張/4 〔寄留日本人戸口調査〕 1」、「京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出張/5 〔寄留日本人戸口調査〕 2」、「京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出張/7 総人員調査簿 1」)

 また表には、旅券有無、来韓目的、来韓年月日、入京年月日、財産有無、父母妻子有無、宗旨、前科有無、交際上の親疎及平素の品行、などを記入し、例えば、

  井上角五郎 二十五年二ヶ月(年令)
広島県備後国深津郡野上村・・・
朝鮮政府傭外衙門(外交部)吏員
旅券番号 明治十五年十二月十八日 番号一万八千六十八号
来韓目的 苧洞博文局漢城旬報発刊準備。
来韓年月日 明治十六年一月十三日初て来る。尓来再々渡韓、近くは当十八年十月二十五日。
入京年月日 明治十八年十月三十一日最近。
財産有無 なし
父母妻子有無 父なし母妻あり
宗旨 一向宗
前科有無 東京府下木挽町明治会堂に於て為したる演説により罰金五十円申付らる。
交際上の親疎及平素の品行 平素の交際は朝政々府の両班に往来する頗なり。日本人の交際疎なり。品行不良侘評を聞かず且政党にあらず。

というものであった。

 また、居留民全員の職種についてはアジ歴の該資料が汚れていて一部判然としないが、大体以下のようなものであった(「京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出張/4 〔寄留日本人戸口調査〕 1」、「京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出張/5 〔寄留日本人戸口調査〕 2」、「京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出張/6 明治18年12月27日から明治18年12月29日」p33)

 大工職、外国人雇、交易商、金巾商、船頭、菓子商・同職人、牛肉商、荒物商、豆腐商、酒商、雑品商、日雇、和食・洋食料理店、和洋料理人、材木商、米商、米仲買、小間物商、西洋洗濯商、廻送問屋、洋食店、和洋酒商、飲食店、洗濯職、ブリキ商、銀細工職、左官職、和・洋仕立職、金銀商、菓子製造職、牛皮商、小学校教員、朝鮮政府雇、公使館・領事館雇、石工職、染粉商、呉服商、表具師、パン製造職、銀行支店支配人・同雇、湯屋、瓦焼職、木挽職、樽職、薬種店、日本郵船会社支店長・同社員、煙草商、朝鮮語学、人力車挽、理髪職、木綿商、焼物陶器商、洋語通弁、朝鮮語学習生、唐物問屋商、酢製造、人夫・日雇、海軍語学生、漁業、宿屋、活版職、秘書、その他無職・妻子など。

 なお以下の人数は資料が一部読めなかったり京城と仁川で調査方法が違うので正確ではない。
 職種の中で一番多いのは大工職であり(47人)、これは京城の日本公使館建築と仁川居留地での家屋建築によるものである。
 次に外国人雇の者であり(33人)、英、独、米、仏、露、伊、清、韓に雇われている。この外国人雇の日本人には各々に身分票を交付して携帯させることとした。
 また、楊花鎮にマッチ工場があって日本人数人が職工として雇われている(「京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出発/2 明治18年12月23日から明治19年1月4日」p22)。おそらく、この頃から朝鮮内でマッチが製造され始めたのであろう。
 ついで米穀・大豆・金銀・朝鮮人参、牛皮骨などを扱う交易人(17人)であった。
 次に多いのは金巾商である。(12人)
 金巾(カナキン、西洋高級綿布)は朝鮮人が最も好んで購入する外国製品であった。

 また、朝鮮政府に対して器械代金請求のために来韓している者が1人、個人的に朝鮮人に対して金銭取引に来ている者が2人、また、かつて金玉均が東南諸島開拓使として日本に来た時に、鬱陵島開発の為に資金を融資し且つ雇われていた甲斐軍治なる者がその諸費用を朝鮮政府に請求のために来ていた。彼は、金玉均との関係から事情聴取を受けたが、全く開発事業諸経費に関する事でのみ来韓していることが分かった。これは後に日本政府が日朝間の未解決事案の一つとして請求することになる。

 

仁川、京城、釜山間に電信線

 明治18年(1885)12月21日、以下のように電信線設置の条約の続約が締結されている。

(「日韓海底電線設置条款続約改正案」p7より。by dreamtale氏)

海底電線設置條約続約

今般朝鮮政府電線を架設し、仁川より漢城を歴て義州に至り海外電信を通連弁理するの事は、日本政府海底電線條約を妨碍する者と視為し、朝鮮政府も亦た遂に其れを以て理無しと為さず。
而して、両国政府均しく交誼の為めに起見し、日本は臨時代理公使高平小五郎を派し、朝鮮は督弁交渉通商事務金允植を派し、会議妥弁せしむ。
此れに因て下文の各條を議定す。

第一條
朝鮮政府は、仁川義州間の電線を以て、釜山口の日本電信局を通連すべし。
但し、朝鮮政府該局付近の地に於て、別に一局を設け該局を経由して海外電信を発収するも亦其便に任ず。

第二條
該電線通連の工事は、今より六箇月内に於て着手し、其後六箇月内に於て竣成すべし。

第三條
仁川釜山間の電線竣工の後、釜山線路を経由する海外電信の報費は、義州線路を経由する海外電信の報費に比準し価額を同一にすべし。
而して、其額外の費用を徴収す可らず。

第四條
釜山より九州西北岸までの海底線には、既に朝鮮政府の官報を満二十五年間半価と為すの約あり。
故に、仁川釜山間の電線竣工の後、此線を経過する日本政府の官報も亦満二十五年間半価と為すべし。

以上、各條の確実なるを証する為め、相互に記名調印する者也。

大日本明治十八年十二月二十一日
臨時代理公使 高平小五郎

大朝鮮乙酉十一月十六日
督弁交渉通商事務 金允植

 dreamtale氏の指摘のように締結に至る交渉経緯などは全く不明であり、締結前の15日付けの「朝鮮国義州電線当分傅送不取扱義ニ付上申」で、わずかに何やら揉めているらしいことが伺えるぐらいである。

 それによれば、佐々木高行工部卿から三條太政大臣への上申で、
「目下我が政府と朝鮮政府の間に於て電報通信の事に関して談判中であり、その結局に至るまでは朝鮮国義州線によって我が国に来る電報並びに我が国から同線で朝鮮に送る電報は、外国政府の官報の外は当分の間、一切伝送配達を取り扱わないので、義州線経由の官報は差し出さないようにしたい。」
というものであった。

 この頃の朝鮮と清国の間で締結した条約などを纏めた「中朝約章合編」に「義州電線合同」なるものが記載されているが、以下のものである。

(「中朝約章合編」p38)

義州電線合同

  第一条
中国督弁電報商局現奉
北洋大臣李中堂奏明以
朝鮮国王咨商自仁川港起由漢城至義州達於鳳凰城請設陸路電線一千三百里并請籌借経費ー速設置所有経費応由朝鮮限年帰款特此飭由華電局代籌借款派員弁理

  第二条
朝鮮創弁陸路電線係
朝鮮国王商請中国借款設造特由華電局代借公款閲平銀十万両五年之後由朝鮮政府分作二十年毎年帰還五千両不取利息并泒熟悉電線之薫事学生工匠人等妥為承弁以備緩急之需

  第三条
朝鮮政府因中国電局墊款創設電線有裨朝鮮政務不浅訂准水陸電線工竣後自通報之日起二十五年之内不准他国政府及各国公司地方海浜代設電線致侵本国之事権及損華電局之利益如朝鮮政府有欲廓充添設之処必須仍由華電局承弁以免紛歧

(以下略)

 また、韓国の「奎章閣韓國學研究院」の「電報章程」の「韓・C義州電線合同條約」に関する記述によれば、次のようにある。(機械翻訳)

「日本はもう 1883年 <韓・日海底電線敷設條約>を結んで 釜山-長崎 の間に 海底電線 設置及び韓国に 電信局の設置を企てたし、 清国は 1885年 7月 <韓・清義州電線合同條約>を締結して 清国電線総局が 韓国政府に工事費を貸与して 仁川-漢城-平壌-義州-鳳凰城を引き継ぐいわゆる 西路電線を完成してこれを管掌する 漢城電報総局(華電局)を置いた. また 清国は 1886年 3月 <韓・清 釜山電線條約>を通じて 南路電線を完成して 韓国の 電信網を自国主として構成して行った. 日本は 1885年 12月 <韓・日海底電線敷設條款続約>を強制で締結して 漢城-義州、漢城-釜山 両電線を彼らの 海底電線と連結した.」

 どうやらこの条約「義州電線合同」は明治18年の7月(陽暦)に締結したようである。
 つまり第二条にあるように、「仁川港−漢城−義州−鳳凰城(現在の中国遼寧省鳳城)」に電信線を設けて朝鮮清国間を連絡し、更に第三条にあるように、「水陸電線竣工後25年間は、朝鮮政府が外国政府などによる地方海浜へ電信線を設けて中国電信局の権利を侵害しないように」というものである。

 しかしこれは、先の明治15年3月3日に日本政府と議定した「釜山口設海底電線条款(朝鮮名)」の二条と三条に違反するものではなかろうか。即ち、

(「同国釜山港ヘ海底電信線架設ノ件」より抜粋。)

第二條
朝鮮政府は該海陸電線竣工後、通信の日より起算し満二十五年の間は、朝鮮政府にて該海陸線路と対抗して利を争うの電線を架設せず、並に他国政府及び会社に海底線布設を許さざるを約す。
其対抗利を争ふにあらざる処は、朝鮮政府便に随い線路を開くべし。

第三條
朝鮮郵程司官線を架設するの時、海外の電報は釜山の日本電信局と通聨して辨理すべし。
其の細節は、郵程司より其時に至り該電信局と議定すべし。


清国既成電線連絡略図(「清国福建省内架設ノ電線線路取調一件(清国内地電線路略図)」p20より部分)
 清国の電信線図より。明治24年5月に在北京公使大鳥圭介が送付したもの。

とある。当時日本と清国間の電信は長崎上海間が連絡していた。日朝間は長崎釜山間である。しかしこの義州線が設けられるなら日朝間は義州線経由でも連絡できることになる。ゆえに先の「佐々木高行工部卿から三條太政大臣への上申」にあるように、「朝鮮国義州線によって我が国に来る電報並びに我が国から同線で朝鮮に送る電報は、外国政府の官報の外は当分の間、一切伝送配達を取り扱わないので、義州線経由の官報は差し出さないようにしたい。」という言となったのだろう。

 まあ、約束破りはこの国の常であるから、珍しくも無いトラブルであるが、その後の談判によって上記の続約締結となったのであろう。
 とにかく、日本政府が望んでいた仁川、漢城、釜山間の電信連絡が可能になったのは間違いない。
 もっとも、出来上がったものは故障続きのとんでもない代物であったが。

 しかし、韓国の「奎章閣韓國學研究院」の文章「<韓・日海底電線敷設條款続約>を強制で締結して」とは、韓国教科書並みの歪んだ執筆ではある。

 

 

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