日清戦争前夜の日本と朝鮮(10)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
 |
東京日々新聞号外、明治18年4月19日、日報社。
「此度の談判に清廷が諾したる條項は・・・暴動の際に日本人の蒙りたる損害を償ふ事(其額未詳)」とあるように、清国が損害賠償請求に応じたとの、いわゆる「飛ばし記事」を掲載して印刷。その後検閲を受けてその誤りを指摘され修正せんとしたが、すでに配達係が認可を得たものと誤解して配布し、東京府中に出回った。(「朝鮮事件新聞検閲一件」の「明治18年1月17日から明治18年7月1日」p42〜p44より) |
明治17年朝鮮事変について
甲申政変、甲申の変、金玉均の乱、とかいろいろに称されている明治17年朝鮮事変であるが、事実関係に於て分かりにくい事件である。
それを補おうとして色々な“通説(福沢諭吉黒幕説など)”も出回っているのであるが、根拠について首を傾げざるを得ないものばかりなので一々取り上げる気にもなれない。まして、史料の提示もない後世の伝記や解説本やそれの孫引きの文書など、小説としてなら面白いのだろうが、筆者にとっては単なる「与太話」にしか聞えない。
例えば、12月4日の郵政局開業の宴会で火事の後に閔泳翊を襲撃した犯人を、日本人壮士誰々と、名指しで記述しているWebなどがあるが、いったい何の史料に基づいて記述しているのだろうか。後に、国士と自称する者たちの法螺話でも採り上げたのだろうか。
それこそ井上馨が聞けば、「その証拠を示せ。直ぐに罰することである。証拠無くば疑惑を以って人を誣るものである。(趙秉鎬らが浅山顕蔵の疑惑を述べたことに対する弁)」と一喝するところであろう。
もっとも、公文書でも例えば「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」に収録されている「明治十七年朝鮮京城事変始末書」を読んでいてなんとなく不自然さを感じるのは恐らく筆者だけではなかろう。
詳細な始末書であるが、目撃した事実を普く記述したというよりも、何箇所かで視界には入っているが意識して見ないようにしている、というものが感じられる所がある。
それでいろいろと推測してみるが、如何せん推測は推測、想像は想像に過ぎないものである。
清と朝鮮の書簡や始末書に至っては論外であろう。
「庶民の風説に拠り認めた『事実』(趙秉鎬の言)」とは何だそりゃ、である。清軍提督が出した手紙の内容も時間が経つうちにどうして変化するのであろうか。改竄がひどすぎよう。
捏造・改竄・風説・想像。これが清韓両国の記録書の実態であるなら筆者をしてひどく落胆させるものである。
金玉均の著とされる「甲申日録」なる原本無しの資料があるが、これについてはWeb「“Femmes Fatales”─
世界史コンテンツ版『明成皇后』 #15 奈落の底にある歪曲」が考察しておられる通りであろう。つまり参考とはしがたいものであると。第一に金玉均はこの頃自己宣伝に努めて日本人の支持を常に獲得せざるを得ない立場にあった。
井上角五郎の自著に「漢城廼殘夢(明治二十四年十月出版)」なるものがある。事変については17頁以降に詳しい。事変の直接の目撃者の詳述として貴重であろう。ただし彼も言葉を選んで書いている事が窺われる。
ところで、井上角五郎が朴金ら乱党と組んでいたなどの通説もあるが、どうであろう。彼は井上外務卿に随行して来た1月7日に単身京城に入って金宏集・金允植らと対談をしている。乱党員の一部はすでに捕縛されているのであるから、その者の供述に彼の名が出る事も予想されるようなことなら、彼は朝鮮政府の者に再び会うことは無かっただろう。つまりは事変に直接関与していたとは考えにくいことになる。
もっとも事変後の11日に千歳丸で帰国する時に、船長に掛け合って朴金らを船に乗せ、長崎まで連れ帰ったのは自分であるとは言っているが。
磯林大尉の不在
竹添公使一行が、まさに京城の公使館を出て仁川に難を避ける行動に出た12月7日のその日の朝、地方視察から単身で公使館に帰って来ていた磯林真三歩兵大尉が、群集に取り囲まれて殺害されたことは、殺害犯供述の資料からも明らかなことである。
磯林大尉は、明治15年10月に京城公使館駐在を命じられ(歩兵中尉磯林真三朝鮮国ヘ派遣ニ付告諭ノ件)、その立場はかつての明治15年朝鮮事件における水野大尉と同等である。
行動の指示一切を公使に仰ぎ、変があった時は真っ先に公使を警護し行動を共にする人である。
様々な著述やWebでの記述には、竹添公使と日本兵の行動が、あたかも朴金の乱に計画的に組したかのように書くものが多いが、歩兵大尉という、歩兵中隊長中村正績と同等の階級にある軍事上重要な人が、事変当時に不在のままであったことは一体どう説明するのだろうか。事変ありと分かっていて、のんびり単身で地方視察などするであろうか。
計画的であった、とすることへの大きな疑問である。
事変の責任所在
朝鮮政府の大臣たちは殺され、日清両兵に死傷者を出し、大勢の日本人民間人が殺害されて掠奪に遭うという、とんでもない大事件であるが、これはいったい朝鮮維新と呼べるものなのであろうか。少人数でテロを仕掛けて対立する政党員を何人か殺しただけの、ありがちな内部抗争に過ぎないのではなかろうか。
井上角五郎によれば、朴金ら乱党員は郵政局で閔泳翊を襲撃した後に王宮に行って国王に、「支那兵乱を起こし現に閔氏を殺せり」と奏上したと言う。それで驚いた王が寝殿を出ようとしたところ、今度は王宮の前門をダイナマイトで破壊し、ますます驚いた王は急ぎ日本公使館に保護依頼の使者を送ったと言う(同28頁)。
井上角五郎はその経緯をどのようにして知ったかは記述していないが、もしそれが事実なら、朴金らは内部抗争の為に国王を欺き更に日本公使らを巻き込んだということになる。
では朴金らは、その後に当然清兵営の提督たちがどう動き出し、またそれにどう対処するかまで想定していたろうか。まさか百人余りの日本兵をして千五百人の清兵を防がせるつもりであったろうか。徐載弼らは陸軍戸山学校で近代戦の何たるかを学んできたのではなかったか。作戦立案の段階で到底成功の見込みの無い無謀な軍事行動であることは自明の理ではなかったか。
後先のことは余り考えずに、「とにかく着手することが成功である」という短絡的なものではなかったか。
先に紹介した林泰輔の「近世朝鮮史」ではこの事変経緯について違った記述はないが、唯一、事変時の12月5日に王一行が李載元の邸に移った時に朴泳孝と金玉均の間で次のように意見が対立したことを述べている。
然れども新政府の基礎は未だ鞏固ならず。形勢甚だ不穏なりしかば、朴泳孝は王を擁して姑(しばら)く江華に退き援を日本に求めんとし、金玉均等は王の速に宮闕に還らんことを欲して議論一ならざりしが、王は終に還幸せり。(『近世朝鮮史』三六五頁、括弧は筆者) |
これが事実なら乱党内部では、乱後どのように政権を維持するかという最も重要なことさえ意見が一致しておらず、計画も準備もしていなかったことになろう。
朝鮮人の行動発想には、とかく短絡的、思い込み優先、というものが付いて回るような感じがする。
そのような者達に巻き込まれた日本人こそ迷惑極まりないことではなかったろうか。中でも死に追いやられた民間の者達への責任はどうするのか。
これは竹添公使もその責任の一端はあろう。清軍提督らに対する油断である。いや、中国人に対する考えの甘さと言ってもよかろうし、今日にも通じる親中派日本人の欠点ではなかろうか。(6月になって竹添進一郎は京城在勤を正式に免じられたが、月給は175円とある。これは近藤代理公使の350円の丁度半額であり、おそらく何らかの処分があったことが考えられる。(弁理公使竹添進一郎朝鮮国在勤被免ノ件))
また朝鮮支那党の者も王宮での日清の戦闘を画策した疑惑がある。袁世凱ら3提督連名の手紙、「一つは国王を保護するため、一つは貴兵を援護するためであり、別に他意は無い。」を竹添公使の手に渡すことをわざと遅らせた疑惑である。
更には「日本兵は日本公使館に集まり大砲弾箱を運搬して往来が絶えず」、「京城全ての人が騒ぎ、国王の存亡を誰も知らぬこととなり」、「日本兵が立って門に近づく者を刀を揮って追い返した」、「日本兵は門を囲んで巡っていた。」などの風説・捏造の「事実」を清国の事変始末書に載せさせ、また袁世凱を賞賛する表文を清国に送ったために、清国政府は袁世凱を取り調べるどころか功労を賞さねばならなくなったと言っていい。
そしてそれが結果として日清両国の深刻な対立を招くことになる。
「日使来衛」の国王親書について
12月4日の夜に竹添公使の所に「日使来衛」と書いた親書が来たことは間違いないようである。またそれを王宮の内官が持って来たことも。
しかし如何にそうであっても、何故に、いと簡単に竹添公使は軍を率いて王宮に向かったのであろうか、それも石筆書きの文を根拠として。少し軽率過ぎるのではないのか、あるいはやはり示し合わせての行動ではなかったか、という疑問があろう。
筆者もやはりそういう思いがしていたが、明治15年朝鮮事変の「・ 国王、日本兵借用を申し込む」で記しているように、当時、国王高宗と日本政府の間には借兵についての取り決めが交わされていた可能性が極めて高いことを知り、当時の竹添の行動にもある程度の合理性があるという思いに至った。
つまりは朝鮮国王の要請があれば、朝鮮内政に関することまで含めて、日本兵を派遣し王の指示通りに用兵されるという取り決めの存在である。ただ、どの程度まで応じ又関わるのかまでは明瞭ではない。
村上大尉からの陸軍報告第一報が6日に記され、12日に暗号電文で発信されている。それは以下のものである。
「一昨四日、王宮も乱暴人忍び入り、国王殿下一時立退れ、我公使へ護衛御依頼に依り、公使と共に出張。此日王宮に帰らる。本日午後三時、支那兵俄に王宮に乱入。韓兵共に支那兵に与し砲撃す。我兵防戦暫時、国王王宮を潜出さる。最早護衛するに由なく公使の命に依り公使を護衛して帰る。士官負傷壱人・・・(以下略)」(「明治15年7月 朝鮮事件 密書編冊 明治7年12月 秘 卿官房」の「本文(1)」C06031039000
のp50より、()は筆者。なお電信原文はp32)
「王宮も乱暴人忍び入り」とは、先に郵政局開業の宴会でテロがあったことを受けてのことであろう。王宮内での日本兵は直接に国王を護衛する配置となっており、王宮そのものを守備する形ではない。
つまりはどこまでも国王護衛に限定されたものであることが推測される。
またすでに記したように、井上馨外務卿が、竹添公使に代わって駐在することになった臨時代理公使の近藤真鋤に内達した書簡でもそのことを伺うことができよう。すなわち、
駐在国の国王が自らその危急を述べて外国使臣の保護を懇請する場合においては、使臣たる者はこれを拒絶してその危急に陥るを座視するのはまったく友国の義ではないので、この場合においては我が公使は、宜しく次の三条により進退すべきである。
第一、国王の懇請があれば、国王自ら公使館に臨幸してその危急を避けさせること。
第二、国王から入宮の懇請があれば、先ず各国の公使に協議して共同一致してその危急を赴援すること。
第三、もし右の二案に依らずに国王の懇請に応じて入宮すれば、各公使領事が王宮を去ると同時に公使館に引き揚げること。
しかるに竹添公使の行為は、これに出ずに専ら国王を救うに急で徒にその請嘱に心ひかれ、保護の程度を超越するものがあったと言わざるを得ない。
|
おそらくは以上のものと大差ないのではなかったろうか。要するに国王保護に限定し、内政にまでは干渉せずと。
だからこそ、事変始末書に感じる不自然さは、つまりは朴金ら独立党による、例えば守旧党あるいは支那党への粛清の行為があったとしても、それは朝鮮の内政問題であり、国王護衛の任務以外に我関せずという視点で書かれたものだからではなかったろうか。
国王が積極的に朴金の計画に或いは行動に同意していたかどうかは分からない。また親書の4文字「日使来衛」を国王が自ら記したかどうかも定かではない。しかし竹添公使は日朝間の取り決めの範囲内に於いて、確かに王宮内官から国王保護の依頼を受け、「日使来衛」の親書あるを以て護衛兵派遣の要請に応じた。そして国王は王宮に来た竹添公使の手を取って懇ろに謝し、また玉璽をツして国王要請の証を与えたと。
だいたいそのようなものではなかったか、というのが筆者の感想である。
しかし、その後の国王の行動はどうであったか。清軍が王宮に進攻して戦闘となると、驚愕動転ひたすら保身を図り、さらには後の伊藤大使と李鴻章の天津会談で李が述べているように、事変調査の為めに派遣された呉大澂、續昌に対して呈出した公文で「朴金が勝手に親書を書き玉璽をツした。自分は最初から日本兵の撤退を望んだ」と述べるに至っている。
また清軍の王宮進攻は王妃の要請によるとの説も聞くが(ただし根拠資料を提示する人がいないのは遺憾である)、とにかくそれらに対する当時日本政府の感想は次のようなものであった。後に明治27年10月の対談時に井上馨が金宏集に述べた言の続きである。
「即ち十七年の事端は十五年貴国所望(借兵のこと)の原にして、即ち貴国の為め我公使は尽力する所ありたるも、貴国人の不徳義なる、陽に我に結び陰に清と謀り、終に日清両国兵の京城に干戈を交ゆるに至れり。当時我政府の感情は如何なりしか。実に貴国の陰険手段多きには、大不快を感ぜり。」「貴国人の不徳義なるには当時頗る大不快を覚えし」(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/10
第八号 〔総理大臣トノ対談〕」p5、p7)
おそらくは日本政府をして、朝鮮国への信用を完璧なまでに喪失せしめたのがこの事変であると言えよう。
大体に於いて朝鮮国王高宗は保身の人であり、常にダブルスタンダードの人である。明治27年日清戦争起るや、朝鮮国は日朝軍事同盟を締結した。しかしその一方で高宗は平壌に居座る清軍将兵に日本軍を掃討する依頼の親書も送っている。後にそれが日本側に発覚して、高宗は天皇陛下に謝罪したい旨を金宏集を以て井上馨に申し出ている。(朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/14
第拾壱号 〔清国ヘ親書送付ニ付総理外務両大臣トノ対談〕)
まあ小国の延命策なのであろうが、振り回される日清両国にとっては迷惑この上ない国であると言えよう。
天津談判と条約について
2月25日の井上外務卿の伊藤大使への調令、並びに4月12日の談判第5回目に伊藤が示した条約草案、また伊藤の談判での主張、等々からも明らかなように、日本政府は朝鮮国には両国が派兵しないことが「大局を破るの不幸に陥るを免れ」ることであるとの認識であった。
そのことをよく知る伊藤が談判に於いて派兵に飽くまでも反対する姿勢は、執拗と言ってもよいぐらいのものがある。しかしそれ以上に派兵の権利に固執したのが清国側であった。李鴻章はそもそも北京総署は撤兵にすら反対であったと言っている。それが駆け引きの言か否かは定かではないが、そこを非常の譲与をして一時撤兵だけは認めるというのが李の言い分である。
かつて明治15年の朝鮮事変の時に京城公使館には、警護としては兵士が陸軍歩兵大尉水野勝毅をはじめ海軍医と看病夫を含めて4人、外には警部・巡査7人がいただけであった。
それが公使館は襲撃を受けて破壊され、公使自らが逃亡せねばならない屈辱を受けると共に、死者14人負傷5人という犠牲を出すに至り、そして後の談判によって日本政府は朝鮮兵の公使館護衛を求めたが、朝鮮政府には兵の統率すら覚束ないことから止むを得ず日本兵が常駐するということになった。すなわち済物浦条約の第五条が成立する所以である。
当初陸軍歩兵1大隊を置いたが後に2中隊に減じ、さらに竹添公使の進言によって1中隊凡そ120名ほどにまで減じている。そういう中での今度の事変である。王宮で千名に余る清軍に攻撃され再び公使館からの退去止む無くに陥り、更に加えて大勢の居留民が殺害され掠奪されるなどの被害を被むるに至った。
今回撤兵をしても何等かの理由により清国が再び兵を派するなら、日本としては今度は同等の勢力をもって護衛の兵を派せざるを得ない。しかしそうなれば即ち井上外務卿が調令で言う、
「若し此れに反して清国政府は遠大の良計を顧みずして我が提案を聴納する事を為さざれば、我が国も亦已むを得ずして国各々の自衛るの義に拠り韓地駐留の兵を以て充分に其の力を備えざる事を得ず。此の場合に於ては仮令一時目前の平和を保たんとするも歳月を出ずして漢城の変再三に発し、両国政府は其の預計する所の外に於て遂に看す看す大局を破るの不幸に陥るを免れざらんとす。而して事を滋し釁を啓くの責は即ち清国の自ら任ずる所とならんとす。」という事態となる。これは日清両国にとって余りに大きな転機ではなかったか。
つまりは日本は将来日清開戦となることも想定せざるを得ず、為めの準備を促したのが天津条約であると見做すことができるのではないか。
清国は敢えて派兵はせずと約すべきであった。朝鮮国が自護自治出来るように図るべきであった。
無論そもそも朝鮮国が他国に派兵を依頼することを止め、自ら内政を改革して富強国を目指すべきであるのは言を俟たないことである。
だが果たして朝鮮国は真摯にそのことに取り組んだか。
9年後の日清戦争を目前にして当時の外務大臣陸奥宗光は、朝鮮政府に内政改革案を示しながらも、後の著書「蹇蹇録」によれば、「余は初より朝鮮内政の改革其事に対して格別重きを措かず。又朝鮮の如き国柄が果して善く満足なる改革を為し遂ぐべきや否やを疑えり。(「蹇蹇録」「第五章
朝鮮ノ改革ト清韓宗属トノ問題ニ関スル概説」p3)」と非情にも述べた。
日本国内で金玉均ら開化党を支援する声が盛んに挙がる一方で、朝鮮の内情をよく知る立場にある日本人は、知れば知るほど朝鮮という国柄に失望していき、やがて陸奥のような結論に至らざるを得ないような、朝鮮政府の改革に対する不作為こそがあったからであると言う外はない。
謝罪しない中国への憎悪
天津条約は、当時のたいていの日本人にとっては憤懣やるかたないものであったろうと思われる。とても「征清の已むべからざるを説き、朝野騒然たり。」が治まったとは思えない。(なお、当時日清開戦を煽るような文章を新聞記事や雑誌に載せることは新聞条例で禁じられており、人々のその声はほとんど出版記事にはならなかったと思われる。)
日本公使を攻撃し、あまつさえ無辜の日本人を大勢殺害しながら、謝罪もしなければ償いもしない、清軍将兵への懲罰も清政府が調べた上でその事実があれば、という言わば口約束である。実際に日本人が大勢殺されているのは事実であり、更には清兵が日本人妊婦に残酷極まる事をしたという朝鮮人の目撃談までが新聞に掲載されている。(朝野新聞
明治18年1月8日付け「朝鮮事件」の記事『去る六日の夕刻、清兵西大門の傍らに於て日本婦人の懐胎を解剖するを見たり』(「朝鮮事件新聞検閲一件」の「明治17年12月20日から明治18年1月20日」p21))(後にそのことを再掲する記事も禁止となる。)
日本人の目には、まさに中国は極悪非道の国、憎んで余りある国と映ったのではなかろうか。
民間人死亡者36人の内で何人が実際に清兵民に殺害されたものかははっきりしていない。竹添公使は全てと言い、榎本公使は30人といい、或いは大勢とも言っている。もとより正確な人数の把握は不可能であろう。
榎本公使と李鴻章の会談にも出てくるように、日本政府は清人による日本人殺害の詳細な証言記録を作成していた事が分かる。会談の中で出てくる3件だけのことについても、李鴻章は「推測に過ぎない」と反論しているが、そこで出てくる名前は死亡者名簿と照合しても正確である。
12月6日に清軍営に出兵を求めたとする朝鮮官吏の名前ですらころころ変わる清国の報告書のようないい加減なものとは違うのである。
正確、綿密、几帳面、の日本人を甘く見たのだろうが、国力と中華の意識で日本を見下した対応をとった李鴻章はじめ中国政府のこの時の判断により、日本人を完全に敵に回したと言ってもよいだろう。更に後の長崎事件(明治19年)でそのことは決定的となる。
天津条約が締結される1ヶ月程前には時事新報社説(明治18年3月16日)で福沢諭吉が支那と朝鮮に強烈な絶縁状を突きつけ、後に「脱亜論」と称されるようになったが、庶民レベルで言えば支那人を「ちゃんちゃん」「豚尾(とんび・・・辮髪のことと思われる)」と蔑視した呼称で日本人が支那人を拒絶するようになったのはこの頃からと思われる。
新聞条例による検閲で、新聞雑誌などでこのような言葉を使うのは禁止されたが、後に日清戦争で日本が勝利するや、「ちゃんちゃん征伐当世流行節」「ちゃんちゃん征伐流行歌」「支那退治日本流行節」「帝国万歳旭影、ちゃんちゃん坊主末路の凩」「日清戦端壮士ぶし、一名チャンチャンたいじ」などの雑誌類が発行されて侮蔑言葉のオンパレードとなっている。
いつの時代も庶民の表現はストレートである。日本人をして中国への敵意と憎悪を抱かせたのは、まさにこの明治17年朝鮮事変における中国人の傲慢と対日政策の誤りに他ならない。もし中国が、日本人殺害に関するだけでも謝罪使節を派遣し袁世凱らを処罰しておれば日清の歴史は大きく変わっていたのではなかろうか。
再び靖国神社に合祀す
明治18年(1885)4月、陸軍卿伯爵大山巌は、この度の朝鮮事変で戦死した故磯林真三歩兵大尉他計6名の招魂の祭典を執り行い靖国神社に合祀することを5月5日の例大祭に挙行する旨上申し、ただちに認可された。(陸軍省稟告故磯林歩兵大尉外五名靖国神社ヘ合祀ノ件)
明治9年日朝修好条規締結より、最初に日本人が朝鮮人から殺害された(民間人としては僧侶殺害の方が最初。)明治15年事変時の朝鮮別技軍教官故堀本禮造中尉の死を朝鮮国王も「深く遺憾」とし、この度の故磯林大尉に対しても「誠に遺憾の至り」とした。また、日中最初の戦闘となったことを李鴻章は「(戦闘は)是全く両兵の誤解に出たものである」と述べ遺憾とした。
今日なお彼らを祀る東京九段の靖国神社に、往時を偲んで特定アジア三国(中国・韓国・北朝鮮)の代表の者が参拝して真摯に頭を垂れても、それを拒む日本人はいないだろう。
日本兵の軍法会議
天津条約が成り、日清双方が朝鮮から撤兵することが決定したが、撤兵未だ実行されていない4月に京城の日本護衛兵営で一つの事件が起こっている。
(「在朝鮮国兵営ニテ支那人死傷報告ノ件」より現代語に、括弧は筆者。)
陸軍卿 伯爵大山巌への熊本鎮台司令官国司少将の報告
去る(四月)十八日午前六時半、南山の下兵営の裏の哨舎内に支那人一人が潜んでいるに付き、歩哨兵が怪しい者と見て、立ち退けと手まねで示したが、更に応じず。歩哨兵はこれを引き出さんとしたが、彼は歩哨兵の頭髪を掴んで胸部を握り、歩哨兵は一人では支えがたいことを知り、隣の歩哨を呼び、共に塀の間から再三押し出さんとしたが、彼は益々怒気を顕し激しく抵抗するので、止むを得ずに剣(銃剣)を突き出すと、彼は身を翻すはずみに腰部を傷つけた。よって彼は逃げ去った。この始末を歩哨係に届け出たものである。同日に近藤公使が軍医に命じて往診させたこと三度にして死に至ったのは同日午後十時三十分であった。右、在朝鮮警備隊長から申し出たので、この旨報告する。
明治十八年四月三十日午後二時三十分着信
|
死亡したのは陳樹棠(清国総弁商務委員。実質上の朝鮮駐在清国領事)の家丁(下男)である孫田という者であった。
当然清政府はこれを問題としたが、日本政府も状況から見て事件性ありとして調査し、やがて6月になって銃剣で刺した日本陸軍兵(二等兵)を軍法会議で起訴した(朝鮮国京城於テ清国人孫田命按ニ関スル日本歩兵田川徳二郎被告事件軍法会議顛末ノ件)。
法廷には清政府の者も傍聴。日本側は尋問などの裁判審理も全て漢訳し、詳細な文書として清政府に提出。
被告弁護側は止むを得ない事由であることを主張。しかし、熊本鎮台歩兵少佐ら4人の裁判官による判決では次のような理由で有罪とした。
・清国人孫田は当時なんら武器を持たず徒手空拳であった。
・被告は孫田を何度か外に押し出しており、武器を使うまでの事ではなかった。
・したがって止むを得ない正当防衛の行為とは言えない。
・但し、殺人案件には四種に分類される。一、謀殺、二、故意殺人、三、殴闘による致死、四、過失。この事案は傷は一箇所であるから殺人を目的とした故意とは認め難い。又過失であったとも認め難い。殴闘による致死と言える。
・よって刑法二百九十九条の「人を殴打創傷し因って死に致したる者は重懲役に処す」とあるに相当する。
・しかしそれに至った当時の状況に情状酌量すべきものがあるので、刑法八十九・九十条により減刑し、第六十七条に照らして軽懲役六年に処す。
以上の判決に対し、陳樹棠は「我が国では、人を殺せば命で償うと申すことあり。人を殺した者を懲役六年とは余りに軽すぎる。」と抗議した。
それに対して近藤代理公使は、条約に基づき国内法に照らして処罰したと答え、なおも陳樹棠が孫田の家族への救恤金支払いを求めたことに対して、近藤も政府に上申したが日本政府は無視した。
家丁にスパイまがいのことをさせていた陳樹棠こそそれをせねばならないことであったろう。
近藤代理公使は、死に至った孫田もまことに不幸であり、任務に忠実であったればこそこのような罰を受けるに至った被告もまた気の毒なことであると陳樹棠に述べた。
李鴻章も判決を見て小事として扱い、それ以上問題にはしなかった。
もって事変での日本人殺害の事と照らし合わせて、余りに対応が違う日清両国の姿を象徴する出来事であった。
混迷する朝鮮と三履六蘖
天津条約が締結される頃の朝鮮政府は、英国に派兵を頼んだり露国を頼ったり清国に媚びたり、と全く外交政策に一貫性がなく、西洋列強から何時つけ込まれてもおかしくないような混乱振りであった。(なお、露国を頼るように進言したのはモルレンドルフだと言われている。)
近藤代理公使は明治18年2月23日の機密第二十号通信で、近頃朝鮮政府内では人々の間の不平から出た言葉として「三履六蘖」ということが言われていると報告している(在朝鮮近藤臨時代理公使報告韓廷大臣等ニ関スル風説及同国王移宮并ニ呉大徴帰国ノ余聞ニ関スルノ件)。
「三履」とは金宏集、金允植、魚允中のことで、「履」とは朝鮮で雨天の日に泥道を歩く時にはく木製の履物のことである。雨天の時には必要のものであるが、晴天となって道が乾けば世人は必要としなくなり、その必要だった事は一切忘れて顧みなくなるものであるが、それを三人に例えて称するという。
すなわち三宰相はかつての明治15年事変の時にも力を尽くして働き、国家もこれを頼んで安泰を得たのであるが、いったん事が終わると朝廷は閔氏の奸族を信任し、三人の功臣は晴日の木履の如くうち棄てられてその言は決して用いられず、それがまた今度の事変で再びこの三人を用いて頼み、辛くも国家の無事を乗り切り、それにより益々重用されるかと思うと再び晴天の木履の如くなり、或いはその位を辞して去る者もあるという。(なおこの年5月に魚允中は官位を剥奪されて庶人となっている。)
「六蘖」とは六人の内官のことである。「蘖(ひこばえ)」とは、妾腹の子である庶子を意味し、正統の嫡子の登用でないにも拘わらず、国王に接近して用いられて寵愛を受け、勝手気ままに官爵などを売り、先の三宰相を嫌悪して排斥しようとする者達のことである。
近藤は報告の中で、「思考するに、国王はその性質は善良であるが優柔不断によりその寵臣の為に拘束されて臣下の党樹党害を正すことも出来ない姿であって、これでは朝鮮の内政は何時定まるとも知れないことである」と述べている。
前記した「閔氏政権の腐敗」と併せて見れば、国王は優柔不断、執政の閔妃一族は腐敗し、寵愛の内官は勝手をし、有能の人材は用いず、財政は破綻、外交は気まま、いやはやもしこれが江戸時代の一藩ならとっくに幕府から取り潰されていよう。
財政の困難と売官爵
明治18年2月、朝鮮国王は景福宮を修繕して移宮することにした。
(「在朝鮮近藤臨時代理公使報告韓廷大臣等ニ関スル風説及同国王移宮并ニ呉大徴帰国ノ余聞ニ関スルノ件」p8より)
朝鮮国王景福宮移御之事
本月十八日、当国政府の朝報一覧致候処、当国王殿下には、来る三月三日[旧正月十七日]景福宮[王居の名にて前年大院君執政の時炎焼し今の大闕に移られ、以来旧大闕と称せり]に移御せられ候趣書載有之候に付、其事実探知候処、現今の大闕は、明治十五年以来両度の変乱に遭遇し、汚穢を極めたりとの議に出たる由に有之候。且又、御移宮に付、其費用は凡四万円の予算額に候も其出途甚困難なるを以て、頻りに官爵を売り、資費用に充つる趣に候。又、現今大闕接迫の場所に有之候、清将呉兆有之営所も、移宮之後は是亦景福宮の東方に接迫せる南別営に引移り候筈にて、目下修繕に取掛居候。
如見聞之侭具申仕候也。
在漢城
明治十八年二月二十四日 臨時代理公使近藤真鋤
外務卿伯爵井上馨殿
|
4万円の資金が調達できずに、いわゆる売官売爵をするらしい。まるで日本の平安時代である。結局は土民の膏血を搾り取るだけの無能役人や、働かない両班貴族などを増やすだけなのだが、明治15年9月に「これ予の罪なり」と延々と反省を表明した諭告のことはもう忘れたのだろうか。(「・
閔氏政権の腐敗」の「国王ヨリ八道四都ノ人民ヘ諭告書ノ件」)
呉大澂の人材提案
引き続き近藤臨時代理公使からの報告である。
(「在朝鮮近藤臨時代理公使報告韓廷大臣等ニ関スル風説及同国王移宮并ニ呉大徴帰国ノ余聞ニ関スルノ件」p9)
機密報告第二号
呉大澂帰国後の余聞
呉大澂出立前、国王へ何か上奏致候趣に付、内々探偵致候処、右は唯告別の辞と銃法二冊を呈し、兵制の改革を勧告したる迄の由に有之候。
呉大澂出立前、一日朝鮮三大臣[領議政沈舜澤、左議政金宏集、右議政金炳始]及び金允植、魚允中の五名を招き饗応の末、左の談話をなしたる趣に候。
呉曰、「朝鮮の憂うる所は、土なきに非ず、又財なきに非ず、実に人なきなり。故に今日の要務は、養才にあり。故に余は以為らく、京城に一大学校を設け、各道より各三十人を生徒に選み、教師は支那の翰林学士を召し、専ら農業工業等の事務を教授せしむるを要とす。翰林学士は、余、当さに周旋して其人を選み之を送るべし。尤も決して内政に関渉せざる様になすべし。」
三大臣曰、「財物布かず故に学校を建つる能わず。蓋し事変以前より些少の学校を設くる目論見あれども多勢生徒を養うに由なし。翰林学士にては余り大層なり。願くば一人の秀才を得て教師となせば足れり。」
呉曰、「貴国五営は兵士二千五百人あり。其兵士、月給毎人、米十五斗銭九両と聞けり。果して然らば、今半営の士を養うの費用あれば、生徒二百五十人を養い得べし。兵士二百五十人を減じて其費を以て学校を開く何の不可か之有らじ。」
右談話の末種々の問答ありしが、遂に国王に奏して後、果して学校を開くと否とを決し確答をなすべしとて、其日は相応したりと雖も、呉大澂は頻りに学校設立の説を主張し、帰国の上は支那政府にて塾議をなし、仕誼に依れば直に教師を送るべしと云えりと云。
金允植は支那党中にて随一の人物なれども、目今、支那学者の開明の学問に乏しきは既に悟る所あり。且、翰林学士の身分にて朝鮮政府へ引受くるときは、其取扱方に当惑することありとて、頗る此事を頭痛に病居候えども、呉大澂の一言背くべからず。たとい翰林学士は之を辞するとも、一人の秀才は是非とも之を聘せざれば已むべからざる勢なりと、井上角五郎の来話。
明治十八年二月廿三日 於漢陽
臨時代理公使近藤真鋤
外務卿伯爵井上馨殿
|
呉大澂は北京総署が派遣したと思われるが、朝鮮に人材のない事を憂えて大学設置を提案したまではいいが、今更翰林学士なるものを連れて来ると言われても、朝鮮政府としては迷惑であったろう。
「金允植は支那党中にて随一の人物なれども、目今、支那学者の開明の学問に乏しきは既に悟る所あり。」とあるが、この頃の朝鮮は日本と接触している分、開化の必要性とその内容については、却って北京総署より朝鮮政府の方がよく承知していたのかもしれない。
|