日清戦争前夜の日本と朝鮮(9)
朝鮮事変の第一報は清国政府から日本に伝えられたわけであるが、経緯が明らかになるにつれ日本政府は北京や天津に駐在する公使領事を通してその都度清国政府に詳細を伝えてはいた。 しかし井上馨外務卿が朝鮮と談判して条約調印のことが済むと、北洋大臣李鴻章は在天津領事である原敬に対して「これで朝鮮事件は全く終わった。貴国と我が清国の間にはもとより何事もないはずである。真に同慶の至りである」と言った。(在天津原領事報告日韓清事情ニ関スルノ件) 清国政府からすれば、先に発砲した日本兵によって40数人の死傷兵(李鴻章の言によれば死者8名、負傷者30数名(同上))が出たとして日本政府に責任を問うてもよいところであろう。まさか現地武官の報告よりも日本人の言うことの方が一貫して合理性があると思ったわけでもなかろうが、先の原領事に対して李鴻章は、日清両兵の誤解から戦闘状態となった、と述べている。 以前より清国が西洋国から軍艦や兵器を購入するたびに西洋白人達が必ず風評として流すのが、「清国は日本と開戦の準備をしている」であった(録事第一号日清間交戦予備ノ件外一件、臨事第十九回日本ニ備フル為メ大砲軍器購買ノ件外一件)。 かつて竹添公使はこのような風評に対して事変前の明治16年7月に朝鮮駐在清軍提督呉長慶と対談した時に、「西洋諸国は日清両国の和交を好まず、覇権と貿易利権の専権を得んと日清の分断を画策し、日本にいる西洋人は清国のことを悪し様に日本政府に言い、清国にいる西洋人は日本のことを悪し様に清国政府に申し入れるなどしている」と述べ、更に清国がベトナムのことで事態が切迫していることについて、「東洋の状況を観察すると日清両国の間は平時から互いに好意を尽くさねばならない。まして他国との戦時においてはなおさらである。自分は我が政府に上申して朝鮮に駐留している日本兵を引き揚げるように言おう。そうすれば清国は後顧の憂いなくフランスとあたることが出来るだろう」と言った。呉慶長は満面に喜びを表して感謝したという。(在朝鮮国弁理公使竹添進一郎内申安南事件切迫ノトキハ我兵引揚ノコトヲ呉長慶ト談話ノ件) すでに公使館護衛兵は2中隊から1中隊に減じたばかりでその竹添の上申は叶わなかったが、日清両国が対立すれば漁夫の利を得るのは西洋国であるという認識は清国政府にもあったろうし、フランス政府が日本政府に「色気話」を持ち込んだことも恐らく把握していたはずである。 したがって世界の中心を自負する中華の盟主も、日本に対しては柔軟な対応をせざるを得なかったはずである。 ところで余談になるが、今日では、「竹添たちが、清国はベトナムのことで手一杯で朝鮮に兵の増援が出来ないだろうとみて独立党の反乱に加勢した」などとまことしやかに述べる者がいるが、その根拠は何であろうか。空想論ではなかろうか。上記竹添の親中ぶりとはあまりに違いすぎないか。
明治17年朝鮮事変の処理を巡っての日清談判については、ただ日清朝のみならず各国もその成り行きを見守っていた。 前述したように清国と戦争状態のフランスは日本に接近せんとしており、またこの頃アフガニスタン国境を巡って露国と対立している英国は露国が朝鮮に進出する事を最も危惧しており、伊藤が清国に向かっている3月に北京の英国特命全権公使ハーリー・パークスは榎本公使に会って次のような話をしている。(「第四冊 第十四編 至 十六編/2 第十四編 天津会議」p9) 「日本から清国の撤兵を請求してもし清国が承諾し、また日本も駐留兵を帰国させることになるなら、これは即ち露兵を越境させて朝鮮に入らせるのと異ならないことである。実に憂うべきこと甚だしいものであって、今度も在日本露国公使が自国の軍艦に書記官を乗せて朝鮮に派遣したことは最も注意を要するものである。日清両国の兵が朝鮮に駐留するのが紛争の種であると雖もなお露兵が朝鮮に入ることの禍根に比べれば全くましである。朝鮮人は今は到底自主独立の気風はないから、以って日本も実力でこれを保護さぜるべからず。でなければ寧ろ清国の実力をもってこれを保護せざるべからず。なぜならば実力の保護を離れれば直ちに内乱を惹起し、その結果は隣国(露国)から干渉するに至るは必然だからである。よって日清両国がその兵を退けるに於ては我が英国も一思案なくてはならないことである」 この時パークスは日清撤兵案のことを聞いて思案し、急ぎ厳寒北風の中を馬を駆って日本公使館を訪れ、並々ならぬ熱意でそのことを力説したという。(パークスはこの直後に高熱を発して3月22日に病死している。58歳であった。) 英国の「一思案」はこの後天津条約成って日清撤兵の事が決定的になった時に、即座に朝鮮の巨文島に水兵を上陸させて占拠し英国艦隊の拠点とせんとの行動となって現れている。 朝鮮は朝鮮で、日清両国の兵が駐留することになった場合の対立紛擾を恐れ、露国に保護を依頼するべしと評議して(近藤代理公使報告京城事変後国情ノ件)朝露秘密協定を結ばんとしたり、あるいは政府内部で日清両党の者が国王を掌中にせんとするを防ぐためにその保護の兵を英国に求めんとパークスに書簡を以って派兵を依頼したりした(在朝鮮近藤臨時代理公使報告朝鮮政府ニ於テ清国ヘ使節派遣等ノ件)。しかしパークスは無視したらしい。 かつて福沢諭吉は、 日清談判の中ではじめ清政府は日本政府の要求を悉く受け付けず、李鴻章は榎本公使との内談で、「我が国は戦争の用意に取り掛かる。我が国はフランスに向かってすら戦争を開いたではないか」と武力に言及して憚らなかった。しかし伊藤はついに清国から大幅な譲歩を引き出している。
伊藤大使、天津・北京に 清国派遣の者は伊藤と西郷の外に随員として井上毅参事院議官など12名、随行武官として野津・仁禮陸海両少将など10名、計24人の特派大使一行であった。 ところで、日本政府としては何故伊藤博文を選んで派遣したのであろうか。3月27日に清政府の王大臣と会談した時に伊藤自ら次のように言っている。 明治18年(1885)2月28日、薩摩丸・駿河丸に分乗して横浜港を出航、長崎、上海を経由して天津に向かう。 3月14日に天津に到着。北京駐在の榎本武揚公使らが迎える。 23日、榎本公使は伊藤大使が皇帝謁見を請う照会文すなわち、 王大臣は、皇帝は幼くして未だ親政ならざるをもって謁見のことを辞退した。榎本はそのことで争わず、その理由を書面に作り復答することを約束させた。 24日、榎本公使は再び王大臣の居る総署を訪れ、全権のことを記した照会書交換のことを伝えた。しかし、王大臣は昨日と打って変わってこれを拒み、談判の筆記を作ってこれを交換することを望んだ。 (つまりは清国政府としては李鴻章を取次人とし、事実上の全権は政府内としたかったのだろう。即ち明治9年の日朝修好条規付録締結の談判で朝鮮政府は講修官をもって宮本小一と対談させ、その対談内容を政府内で協議して回答したのと同一の方式である。しかしこれは日本側にとって、真意が伝わらぬ、時間もかかる、という最も忌むべきものであった。) 榎本はこれを断固として拒み遂に決せずに辞別して帰った。 25日、榎本公使は再び総署を訪れ、諸大臣に対して伊藤大使の意として次のように説いた。 「大使は本来は清帝陛下のもとで談判を開く権あり。しかし李鴻章大臣が命を受けて大使と同一の全権があるなら、その便宜を考慮し請求のままに天津に下向して李氏と談判をせんとするものである。これ結局は我が方の好意をもってその求めに応じることに他ならないことである。それなのに今は前言に反して全権の証明をも拒むということならば、大使自ら総署の王大臣に面晤しこの地に於て速やかに開談せんことを請求する。」 (これまた宮本や花房の時と同じパターンである。即ち直接廟堂に赴いて直談判すると言い出すことである。討論することが苦手な貴族官僚たちはこれを嫌がって大抵考えを変えるものである。) 何度か討議の後に、王大臣は遂に全権を証明する照会を承諾し、徐用儀大臣が筆を執り草案を作成して公使に示した。榎本はそれを携えて帰った。 26日、清政府から先の謁見辞退の理由を述べた書面が来る。よって国書奉呈のことはせず。 27日、伊藤大使は王大臣と会談。東洋の和局の維持を述べ、李鴻章全権のことを確認する。 28日、この日大使のもとに英国代理公使オコールが来て頻りに談判を北京で開かないことの不利を説き日清間を周旋せんことを告げる。伊藤はこれに応じず。 31日、北京を出発して天津に向かう。 会談に先立つ3月11日、李鴻章と呉大澂が談判者として任じられた時の上諭文に次のようなが言葉があった。 「この度の朝鮮乱党が事を挙げた時に、呉兆有等が述べたところに理に合わないものはない。日本に出使する徐承祖(日本駐在清国公使)の電信によれば、日本人は朝鮮駐留の我が武官を懲罰することを欲し由とのことであるが、断じて曲げてその要請に応じる事は出来ない」 また、3月16日の京報に掲載した上諭文では次のように述べた。 国内向けの報ではあるが、これが清政府の朝鮮事件総括ともいうべきものであろう。 4月2日、伊藤大使は榎本公使を同伴して天津の日本領事館に到着。榎本は李氏を訪問して明日の談判を約定す。
日清両巨頭の談判 談判は4月3日から15日までの、計6回に渉った。 次に伊藤大使は議題を2つに別け、第1に過去のこと、第2に将来のこととし、先に将来のことを決めたいとした。 次に過去のことであるが、伊藤大使としては、王宮での清兵による日本公使と兵への攻撃と日本人居留民殺害などについて、清将の処罰を求めると共に補償問題の協議も要求した。 以下談判記録からの抜粋である。
将来、日清両国が朝鮮国に出兵する時は互に通知するという「行文知照」のことは後日合議した。 さて次は最も困難な、過去のことについての談判である。
これにおいて当日の談判終わる。李鴻章は伊藤大使との食事を請い、伊藤は応じた。供膳は清国風であって殊に珍なるものであった。食事中重要な話はなかったが、李は大使に対して甚だ慇懃であった。 第2回会談は4月5日午後3時に在天津日本領事館に於いて開かれた。
いやもう突込みどころ満載。地雷の導火線に日本刀が結び付けてあったとの言には爆笑。何だそりゃである。呉大澂が横から論語なんぞを垂れる。おまえはすっこんでろっと言いたくなる場面。ほとんど伊藤1人で李鴻章のみならず4人ばかりの者を相手に説き伏せていく様は圧巻である。しかも李鴻章は提出の書類をちゃんと読んでいない。そして論に詰まると竹添の人柄に対する誹謗中傷を始める。よくあるパターンである。 一国の進歩に鮮血は必要でないと李鴻章が言う。伊藤も、もとよりそうであり平和の手段に拠らねばならないと答える。ふっと悲しくなった。事実はそうではない。日本がこの時代に進歩を遂げるのにどれほどの鮮血を注いできたかをここで一番知っている者は、まさに吉田松陰門下生にして奇兵隊隊員であった伊藤俊輔その人であったろう。血を流さずに平和の手段で一国の文明の開化と進歩ができるならと、そのことを一番望んだのはまたこの人ではなかったろうか。 なおも伊藤大使渾身の談判は続く。第3回は4月7日午後3時10分、天津水師営務処に於いてであった。 冒頭、李鴻章はすでに充分議論を尽くしたとして同意を求め、伊藤大使もまたそうであるとして、李の回答を求めた。 中国人は大の前の小は問題としないのが解決であると言い、日本人は互いに譲歩することが解決であると言う。そこに文化の違いがある。 やがて伊藤が問題点を箇条にして述べたところから再び議論となった。
この後、清兵による朝鮮居留日本人の被害に関して、すでに第2回会談で議論となった「呉・続両氏を朝鮮に派遣した時に日本側がそのことを話していたならその調査が現地で出来たのに、どうして井上も竹添もその事を話題にもしなかったのか」という李の問いと、伊藤が「呉氏が全権でなかったこと、もはや国家間の問題となっており、その権なき竹添が話すわけにもいかなかったこと」と答えるなどの問答がここでもまた繰り返された。 よってこれらの議論の記載は省略し、その後、李鴻章が「今まで全く聞いたことがなかった」との発言が問題となってくる部分から掲載する。
事変時に清国軍が日本公使や日本軍を銃撃したことについての清側の論点に対する伊藤の論駁は明快である。清側は更なる反論を放棄してその後は日本居留民虐殺の事の否定に終始している。それも知らぬ存ぜぬ聞いた事のない話であると言って。対する伊藤の追及は止まず、その要求は実に清側を辟易とさせるに充分なまでの、もはや執拗と言っていいほどのものである。 この談判に於いて李鴻章は「本大臣は実に閣下が提供されるまでは、全く我が兵が貴国臣民に凶暴を行ったことを聞かなかった」などと言っているが、1月に在天津領事原敬と会った時に既にそのことに触れているのでそうではないだろう。(「在天津原領事報告日韓清事情ニ関スルノ件」p3) もっとも、伊藤としては清国側が談判の決着をどのように目論んでいるのか、その真意が量りかねるところでもある。よってそれを探らせんと翌日4月8日に榎本公使を総督衙門にいる李鴻章に会晤させた。
下記の「薬局店主殺害事件と井上角五郎」にもあるように、清兵の暴行などは清将や李鴻章などの認めるものではなかった。金で雇われた規律も守らぬ無頼の者の類が清兵の実体であったし、そのような者達の行為まで一々責任を負う気はなかったということであろう。 翌日4月9日、伊藤と榎本は井上外務卿に電信で報告した。伊藤は「将官処罰と我が人民への賠償の要求が拒絶されるなら使命全く無用につき速やかに当地を出発する」と(「天津条約ノ締結」B06150031800のp143)。榎本は「李氏に大使の使命が徒労となる時は両国間で非常なる関係を生じようと言うと、李氏はそれならば戦争の準備をする他はないと言った」と(「同上」p144)。 その夜に井上外務卿から返電。 長州藩時代から屡々行動を共にした「聞多」と「俊輔」である。伊藤の性格を井上はよく知っていたであろうし、だからこそ談判破裂を恐れて戒めずにはおれなかったのだろう。井上はまた、事変詳細に属することについては談判妥結は無理であると見て、それらに関することは要求として次点のものと見ていたようである。 しかし伊藤博文はそれで引っ込むような人物ではなかった。 第4回談判は4月10日午後3時、天津直隷総督衙門に於いて開かれた。 撤兵議題冒頭、李鴻章は前日に榎本に語ったのと同様に、「そもそも我が兵はもとより朝鮮を保護するために同地に駐在するものであって、我が国ではこれを徹することは出来ないので、このことに関しての協議は必要ないと遂に政府廟議の決した所を我が(在日本)公使に訓示した。しかし本大臣は、日本の全権大使は必ず撤兵の議題を提出するだろうから、大使とその事を議論せざるを得ないと述べ、総理衙門にそれを容れさせた。このようにして今回の協議が出来るようになったのである」と述べ、対する伊藤は「その事は井上外務卿からは何も聞いていない」と答えた。 つまりは、日本公使・兵を攻撃したことの非や日本居留民殺害などの事実は認めず、そもそも撤兵する気もなかったのを、撤兵には応じることにしたのだからそれでもう充分であろうというのである。
撤兵についての議論なのであるが、まあいろんな話が出てくるものである。 また、談判中伊藤博文の以下の言葉は興味あるものである。 後の韓国併合に伊藤は反対であったとの説があるが、この頃からすでにその理由を見ることが出来る。つまりはもし併合すれば、この貧弱の国の一切の面倒を見らねばならなくなり、それは日本を疲弊させるに充分な負担となると。 しかし談判は議題外に走りがちであり、後半には榎本が割り込んだことで余計議論が錯綜している。そういう中をこつこつと具体案を示して少しずつ纏めていっているのが伊藤大使なのであった。やれやれ。
天津談判のことを日清両国が和好を念頭に置いて議論されたものであるという単純なる評価をする人があるが、そんなことは当たり前である。何時の時代にどこの国にことさら戦を好んで談判する国があろうや。まして日清両国は琉球や台湾の問題を抱えながらも双方の交際厚く官民共に良好な関係の頃である。明治17年12月の朝鮮王宮に於ける日本公使と日本軍に対する清将の不意討ちのような攻撃と居留民殺害に、忽ち日本国内から征清の声が轟々として挙がったのであるが、日本はただに大国清に戦勝するは覚束ないだけでなく、未だ宣戦布告するほどの理由がないということである。一方清国側にしてみても今ここで日本に戦勝しようなどという理由も必要もない。 談判5回目に至って漸く撤兵に関する条約案が提出されて、それを元に議論する運びとなるが、その中で日清双方の基本的な対立点が浮き彫りとなり、天津条約の持つ意味もここに際立って来る。 第5回談判は4月12日午後3時より、在天津日本領事館に於いて開かれた。
・ まず伊藤大使が提出した条約案を見ると、たとえ朝鮮国内に事があっても日清両国は委員を派すだけで、派兵はしないという点に特徴がある。 ・ 当初双方は、朝鮮の独立属国問題の議論は避けようとしたが、派兵を巡る議論の中についに正面から採り上げることに。 しかし次のやり取りは興味深い。 大使「以前に閣下は朝鮮国と合衆国との条約書の冒頭に、朝鮮は中国の属邦たり云々の文字を掲げようと謀った後に、遂に合衆国のためにその草案中のその字を削除されるに至った。閣下は何故その明文を削除することを承諾されたのか、敢えて問う」 李 「朝鮮は中国の属邦たりの数字はこれを条約書中に掲げずと雖も、当時米国公使と本大臣との間に互いに照会文を行い、以ってその事を書したり」 大使「その事を照会文に書して果たして何の効があるか。照会文は約束の効を有しない。まさに双方約束して後日に効果あるべきものは条約のみである」 李 「通常の照会文ではなく、まさに条約の一斑に属すべきものである」 大使「まことによい。苟も両国の間にこの類の条約を締約するにあたっては、各人民の上に効力を有させるために必ずこれをその国中に布告すべきものであることは、おそらく閣下が熟知されるところである。それなのに貴説の照会文は未だかつて朝鮮に於いて、或いは米国に於いて布告されたことを聞かない」 李 「請う。他事を談じるのを休め。談判の要件に移るべし。・・・・」 李鴻章怒ったか?w しかし伊藤のこの論法は、朝鮮が属国であったことをどうでも認めたくない現代の人も使えるかもw 伊藤は最後まで派兵を認めることの条文に頑なに反対したのだが・・・・。然して井上外務卿の伊藤特派大使に対する調令にあるように、もし派兵を認めるということになるなら、「仮令一時目前の平和を保たんとするも歳月を出ずして漢城の変再三に発し、両国政府は其の預計する所の外に於て遂に看す看す大局を破るの不幸に陥るを免れざらんとす。而して事を滋し釁を啓くの責は即ち清国の自ら任ずる所とならんとす」とある如く、後の日清戦争の端はこの時に既に開かれたり。 とにかく朝鮮を属国として当らねばならない清国と、独立国として自護自治するを望む日本の、動かし難い基本的な対立点がここにあった。 しかし議論の中で話が元寇高麗のことにまで及ぶとは。豊臣秀吉の朝鮮出兵のことを言いたかったらしい李鴻章が先に歴史問題を仕掛けたからであるが。属国問題では伊藤が神功皇后の三韓征伐まで持ち出したのには爆笑。史実はともかく百済新羅が倭に人質を差し出していたのは確かなのであるから、李鴻章の言説をとことん論駁して止まない伊藤の凄さでもあろう。しかし対馬の帰属問題まで出てくるとはねえ。
翌日13日、榎本武揚公使は井上外務卿宛てに以下のように打電。(「天津条約ノ締結」B06150031800のp200) 井上外務卿からの電訓は4月9日以来何とも言ってきていない。おそらく、伊藤に任せておこうという判断だったのだろう。後の榎本公使の報告によれば、次回談判前日の14日夜、伊藤は榎本に、撤兵の件に付いて明日も前回のようならば愈々談判決裂も辞さず、との決心を述べたという。(「天津条約ノ締結」B06150031800のp238) ようするに問題点は、撤兵の後にもし再び清国が朝鮮に派兵した場合に於いて、日本公館や日本人居留民が再度どのような不測の事態を被るか分からないことにある。 かといって、永久に派兵を容認することはできないとは又言い難いものがある。これまでの中朝間の歴史上、朝鮮国王の要請によるなどの清兵派遣は無理からぬことでもあった。よって清国の派兵を容認するとして、それに対抗でき得る処置は日本もまた日本側保護の兵を派遣するということ以外にはないことになる。 伊藤は、日清両国均等の処置として、当然日本もまた朝鮮に派兵する権利があることを清国側に要求することとし、それを草案に織り込んだ。聊か井上外務卿の調令とは違う方向となるのだが止むを得ないことではあったろう。 ついに第6回目の談判は4月15日午後3時、天津水師営務処に於いて開かれた。
伊藤大使、要求を通す 翌日16日、伊藤は直ちに井上外務卿宛てに以下の電報を発した。(「天津条約ノ締結」B06150031800のp232より要約) 1、両国撤兵の事は承認。18日を以って調印。4ヶ月以内の施行。ただし非常時には兵を朝鮮に送る権を両国とも保持。出兵の際には前もってお互いに通告。
伊藤の議論に於ける応酬というものは殆ど隙のないものであったと思う。 清将責罰、居留民被害の件についてどこまでも一致せず、よって伊藤は他国による仲裁を提案して飽くまで追及の手を緩めず、終に李鴻章が折れる。すなわち事件に際して清将の不注意の行為を譴責することを約束、また清兵の居留民への暴行に関してはこれを調査して、有罪の事実があれば処罰すると。 例えば、明治17年陰暦1月2日(日本歴1月29日)、朝鮮で「薬局店主殺害事件」なるものがあったことを、井上角五郎が朝鮮初の新聞である「漢城旬報」に記事とした事により更に事件となったことがあった。
これが朝鮮に対する清兵の姿であり、また李鴻章の政治であった。 伊藤博文はこのような国柄の実力者を相手にして要求を通した。その卓越した外交能力と言いディベートの鋭さと言い真に後世の者の鑑としたいものである。
4月18日、日清両特派全権は互いに調印を交わした。条約書並びに調査し将兵責罰する保証である照会文は以下の通りである。
もちろん照会は照会に過ぎず何ら強制力のある約ではない。それでも国家間で交わした文書にわざわざ証言者の個人名を記載させたことは具体性を持たせたものとしても評価できよう。しかし属国問題で伊藤が言い放った「その事を照会文に書して果たして何の効があるか。照会文は約束の効を有しない。まさに双方約束して後日に効果あるべきものは条約のみである」の言葉がそのまま還って来る照会文で止まったことは、これはこれで致し方のないことであろうが、謝罪も無い、償いも無い、ただ調査するだけという言わば口約束のようなものであることに、国民世論としてはやはり憤懣やるかたないものであったろう。 なお、その後清政府が本当に将兵を罰したという話は聞かない。それどころか袁世凱はこの年の10月には朝鮮国駐在を命じられている。もっとも、袁世凱は談判前ではあるが、書簡を朝鮮国王に送り「自分は李鴻章と面会することになれば次第によっては辞職することになるかもしれないと考えるので、朝鮮国には帰らないだろう」と告げた。恐らく何らかの責任を問われる事を予想しての事と思われる。 するとなんと朝鮮政府は、袁世凱在韓中の所為を賞賛する論を記載した国王署名の文を編纂し、事変の報告とする文書を使節と共に清国に送ったのである。(在朝鮮近藤臨時代理公使報告朝鮮政府ニ於テ清国ヘ使節派遣等ノ件) それはちょうど、上記3月16日の清国京報に掲載した上諭文「朝鮮国王は使いを派遣して我が国の恩を謝する表文を奏した。云々」と時期的に一致するので、おそらくこの時の表文と思われる。 この後朝鮮国は袁世凱の強権的な干渉を受け続けることになるが、朝鮮の清国への媚諛もここまで来ると醜悪愚劣としか言いようが無い。まさに自業自得というものであろう。
28日、東京着ただちに参内復命。
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