日清戦争前夜の日本と朝鮮(8)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

「首枷」 罪人の拘束具であるが、清国で使用している物と同じである。撮影年代不明

論争文の撤回

 明治18年(1885)1月9日午後1時、井上大使は議政府に至り、約書調印をして相互交換し、朝鮮政府からの日本への謝文を議定した。その後、竹添公使と朝鮮政府との間に往復した25通の論争の書簡の相互撤回返還を約した。
 竹添公使自身はその処置に不満だったかもしれない。「政府と政府の公文にあらず」と言われても彼の地位は弁理公使であったのだから。
 しかし、それ以外にこの事変問題の解決の道はない事も悟ったであろう。おそらくは井上馨に説得されて。

 この日、井上大使から国王及び大臣官吏達に進物が贈られた。
 蜜柑の外には茶や日本酒、ワイン、ベルモット、シャンパン、とほとんど飲み物ばかりなのが面白い。これは井上の嗜好であろうか。国王には「茶 五斤、蜜柑 十箱」が贈られている。いずれも朝鮮では貴重なものである。

 またこの日井上は米公使に向けて、事変時に日本人が庇護を受けた事を謝す文を送った。(後に米公使夫妻は天皇陛下に謁見、陛下自ら謝意を表せられ皇后陛下は記念品を下賜された。)

 夕、金宏集、趙秉鎬、モルレンドルフが井上の宿舎を訪問したので洋食を以って饗応する。

 10日、井上大使、竹添公使その他随員は再び国王に謁見した。井上は竹添の帰国を告げ、日本から連れて来ていた近藤真鋤大書記官が公使代理となることを述べた。
 この日井上はまた国王に乗馬1頭を進呈し、更にモルレンドルフにも贈った。
 なぜ大臣の中でモルレンドルフのみに馬を贈ったのであろうか。談判時に於て日朝両国に対してやはり公平な態度であることを覚えたからであろうか。それとも乗馬好きの西洋人が朝鮮の小馬に乗るのがしのびなかったからであろうか。

 11日、井上大使一行は京城を発した。護衛兵2大隊の内1大隊を京城駐屯とし、1大隊(熊本鎮台歩兵第十四聯隊第一大隊)は帰国させるために率いていく。


仁川で葬儀再び

 12日午前、事変での遭難者を祭った。
 明治15年の事変時に斃れた堀本中尉以下の者皆が眠る地所である。磯林大尉以下陸軍所属の者はここに葬り、その他の日本人商民たちはより居留地に近い場所に合葬する。遺骸の不明の者はまた墓標を建ててその魂を招く。
 この日竹添公使が祭主となって先ず磯林大尉達を祭る。次に人民の墓所に行ってこれを祭る。共に紅白を垂らして神籬(ひもろぎ)を設け酒肉魚菜を机に供え、祭主祭文を奏し終わって退れば井上大使以下文武官員並びに巡査海陸兵そして居留民に至るまで順次これを拝した。

 午後、井上大使一行は近江丸に乗り込み日本に向かった。英国総領事アストンも日本での病気療養のために同乗する。
 1大隊は相模丸に乗船した。

 14日下関着、19日横浜着、汽車で東京に入り皇居参内復命する。

 

大尉殺害犯の処刑
(「在朝鮮近藤臨時代理公使報告事変ノ際磯林陸軍大尉ヲ殺害セシ罪犯処刑済并乱党処分ノ件」より)
(以下、残酷な描写の部分が出てきますのでご注意ください。)

 約書第3款の陸軍大尉磯林真三殺害の件で加害者を捕縛し処分するについて、その期限が迫っているにもかかわらず朝鮮政府からは何等の通報もないので、近藤臨時代理公使は1月27日に金宏集督弁に注意を申し入れた。すると金からは来る29日に主犯格の金大與(太與とも)なる者を処刑すると言ってきた。それにより近藤は28日に金宏集に面会した。すると明日のはずが今日に処刑の予定であるという。近藤は「処刑指令の日が違っている。尚且つ処刑は条約によって日本人民に満足を与えるために行うものであり、十五年の時のように我が国の官員立会いの上でないなら正当の手続きを以って処刑したものとは認めがたい。」と弁じた。金はそれにより慌てて人を遣って処刑を見合わせるように伝えたが、すでに間に合わなかった。

 金宏集は頗る狼狽して「立会いの事は条約にその文がなかったので気付かなかった。また貴殿の問い合わせに回答もせずに処刑した事は重ねて我らの過ちである。」と詫びた。且つ「磯林に関する罪人は当初から二名を捕らえている。供述も相似しているが金大與がやや重いところがあったのでその名を伝えた。今改めてもう一名の罪人を二十九日に死刑に処するので先の照会は取り消したい。」と述べた。

 これにより近藤臨時代理公使は、当日には村上中隊長を立会委員とし公館属員2名を付け、護衛兵1小隊と共に南大門外蔓川坪の刑場に派遣することにした。

 1月29日に執行されたその処刑の様子は先の15年の処刑執行とほとんど同じなのでここでは略す。違うのは、一種の鉄筒に火を点じて時々発砲音を加える処刑儀式となっていた事ぐらいである。
 なお、斬首の剣はやはり刃先が鈍くして切れにくくしてあり、この時には数えること何と63回もかかったと報告している。恐らく罪人に多大な苦痛を与えるためであろうと考えられる。何ともいやはやである。

 また、処刑された罪人の供述書は以下の通りである。

(「在朝鮮近藤臨時代理公使報告事変ノ際磯林陸軍大尉ヲ殺害セシ罪犯処刑済并乱党処分ノ件」p10より意訳要約。)

 金大與(28日に処刑)、二十二才、早く父母をなくし浮浪の身となり南大門外の店の住客となっていたが、乱党に与した日本兵が王宮に入り大臣達を殺したと聞いて憤慨し、二十日(日本歴12月7日)の朝飯時に乗馬で通りかかった日本人(磯林大尉)がいると聞いて駆けつけ、青坡葛五里の村で群集と共に取り囲んで襲撃し刺殺した。その後他所に行っていたが、十二月初六日(日本歴1月21日)に南大門外に戻って来たところを捕縛。義憤激しくして日本人殺害に及んだのであるが、死者は高官であり罪もない人であった。(金大與は)その身愚昧無識にしてこれを知らず、その首犯凶行であることは明らかである。

 元漢甲(29日に日本人立会いの上で処刑)、二十三歳、住所 果川、職業 柴売り、十八日(日本歴12月5日)に柴を荷駄して京城に向かったが途中で事変のことを聞き村に戻った。廃業数日を悶鬱し用事あって京城に入り、朝飯時に青坡葛五里の村で人が群集して日本人に投石をしているのを見、今度の変乱は日本人によるものと聞いてたのでこれに加わり、日本人が落馬したところを何人かが先の後に撃刺した。その後初三日(日本歴1月18日)に捕らえられた。その身は首犯下手人であることは明らかである。

 

朝鮮乱党処分
(「在朝鮮近藤臨時代理公使報告事変ノ際磯林陸軍大尉ヲ殺害セシ罪犯処刑済并乱党処分ノ件」より)
(以下、残酷な描写の部分が出てきますのでご注意ください。)

 この日29日、磯林大尉殺害犯の処刑以外にも、場所を変えて彰義門(北小門)内外に於て、金玉均、朴泳孝ら乱党の仲間と家人などが処刑されることとなった。

金奉均・・・朴泳孝の家僕。利祖淵、柳在賢を殺害。
李喜貞・・・当時に門を守っていた。
 など明らかに乱党に関与していた者合わせて4人。以上「謀反大逆不道」により凌遅処死刑、父母兄弟妻子は皆絞首死刑。

李■突・・・金玉均の家隷。郵便局近所を放火。
李允相・・・徐光範の僕人。朴泳孝が皇帝となることを欲し、金玉均、徐光範、洪英植ら三大臣が二十日後にその挙を起こす事に関与。
 以上「謀反不道」により斬刑。且つ属する者を奴婢とする。

徐戴昌・・・徐載弼の弟。乱の謀を知っていて政府に告げなかった。
 その他計6人は「知情不告罪人」としていずれも斬刑。

 以上12人は禁衛の獄に移され、右議政金炳始が取り調べの委員を命じられ各衙門から参議主事を出して、27日28日に彼らを厳重に尋問し(内1人は死亡)、その上で供述を得て罪状を決定した。

 供述には竹添公使に関する事も少なくなかったと言う。また上記の徐光範の僕人である李允相が「朴泳孝が皇帝となることを欲し、金玉均、徐光範、洪英植ら三大臣が二十日後にその挙を起こす事」という供述も興味深いものがある。
 しかしそれらの真偽は分からない。なにしろ、相当厳しい拷問が課せられたようである。全員が「訊杖」という文字通り杖に訊ねるという拷問が1人に対して最高7回処されたとある。その内の呉昌模という人は訊杖4度にわたった(28日)とあるが、罪名(知情不告罪人)が告げられた段階(29日)ですでに物故者となっているので、拷問当日に死亡していることになる。(「訊杖」とはこれであろう。

 これら供述書は呉大澂にも送付された。先の4人の家族も死刑となる予定であったが、呉大澂がなるべく軽くするようにと指示し、それにより朝鮮政府は評議を開いて家族を刑する事は中止したと言う。
「右四名の重罪人は皆其家族をも刑に処せられるべくの処、呉大澂より、刑は成丈軽きに従うべき旨当政府へ忠告致候より、其筋に於て一日の評議を開き、終に家族を刑することを止めたる趣に候。(「同上」p18)

 もっとも、金玉均の妻子だけは死罪に処せられたとの話もあった。(同上)その後、殺害されたとも生きているとも噂されていたが、9年後の明治27年春、日本は探偵を送ってその捜索を始めた。同年12月、当時東学党の乱を鎮圧中の日本軍が忠清道沃川近傍で金玉均の妻と女子を偶然発見してただちに保護。その時の2人は実に憐れむべき姿だったという(奴婢にされていたのかもしれない)。後に京城に護送して朴泳孝、徐光範が預かることとなったが、妻子は金玉均が暗殺されていたことも知っていなかった。(「金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4 明治27年4月16日から明治27年12月21日」のp37)

 なお、福沢諭吉が時事新報社説でこの時に家族妻子まで処刑されたことを憤慨した文を載せたが、処刑されたと誤り伝えられたことによる福沢の誤解である。金玉均の妻子ですら生きていたのであるから、近藤臨時代理公使報告の通り4人の乱党員の家族の死刑は無かったと思われる。おそらく減刑の順序として「奴婢」とする身分刑であったろう。もっとも、考えようによっては死刑よりも過酷なものだったかもしれないが。(ところが、10年後の金玉均暗殺後の死後刑により、その時に三族を滅するとして、幾人かは刑死されることになる。例えば金玉均の実父はそれで絞殺刑となったのは確かである。)

 「謀反大逆不道」罪の4人は、凌遅処死の刑すなわち四肢を切断してその上で首を斬った(「四名ハ乃チ凌遅處死ノ刑ニテ四支(肢)ヲ断チ候上首ヲ斬リ捨テ」)。また、洪英植の死体も引きずり出されて手足首を切断された。
 残る7人は斬首刑に処せられた。

 生きたまま肉体に一定回数刃物を入れて各部位を損壊し、ついに両腕両脚を切断し、その後に首を斬り取るという「凌遅処死」は本来中国伝統の処刑方法である。清朝末期に西洋人が目撃して連続写真として記録したことはよく知られている。中華文明の丸ごとコピー国朝鮮は、処刑方法までもがそうだったようである。

 

日本政府の事変総括

 かくしてこの度の事変に関する処理は、清国との談判はまだであったが朝鮮との間では一応落着を見た。
 井上馨外務卿は1月31日に、事変についての総括とも言える内容の書簡を京城駐在の近藤臨時代理公使に送って公使弁理の心得を内達している。以下長文であるが、当時の日本政府はこの事変をどのように見たのかということが端的に理解できると思うので掲載する。


(「朝鮮事変/5 〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」のp47より現代語、意訳、()は筆者。)

井上外務卿より近藤代理公使宛    明治十八年一月三十一日
<事変の原因及び我が対韓策に関する件>

 今般朝鮮国京城に於いて、事変を生起した顛末及び弁理の始末は、本官自ら彼の地に臨み調査したところの別紙甲号事実の報告及び乙号復命書につきその大略を御了知されたい。よってここに事変の原因となるべき事情及び我が政府の朝鮮国に対する政略の存するところを開陳する。

 そもそも今回の事変の原因は、独立党、事大党との軋轢に胚胎するものである。
 独立党なるものは日本党とも言い、多分にその党中にある者はかつて我が国に来遊し、我が国の開化の進むを見て朝鮮国を我が国に見習って開化を企画し、清国政府の干渉を避け、その独立を保持せんとの主義を執るものである。
 事大党なる者は支那党と称し、多分にその党中にある者は概ね支那国を母とし事(つか)え、その政府の命令を遵法し、我が国に対しては小を以って大に事える主義を執り、現在各国と対等の条約を締結するにも拘わらず、ひそかに支那政府に従属してその職位を保有するものである。

 従来、この両党の間は確執して相容れない様相であったが、事大党は(政府内で)要所を占めるゆえに常に独立党を圧倒して死地に陥らせんとする企画があった。しかし昨年竹添公使が赴任するにあたり、去る十五年に花房公使が済物浦に於て締結した条約書に基づき、領収すべき補填金五十万円の内四十万円を返還すべき特旨を奉じてこれを国王に返還するにあたり、独立党の者はその景慕するところの日本政府がこのように好意を表するので、その党人などが暗に尽力したもののような感覚を朝鮮政府内に生じさせ、にわかに国王の信任を得て支那党と共に政府内で並立せんとするに至った。

 これをもって支那党人らは独立党を嫉み嫌うことが甚だしく、ひそかに支那の武官らと通じて彼らを駆除せんと謀った。しかしこの事を独立党は早くもすでに察し、むしろ座してその策中に陥り死地につくよりは過激な手段を以って反対党である支那党を駆除して政府の全権をその掌中に収めんと事を謀ったものであることは、事実として明瞭であるようである。

 政党が政権の与奪に関して平和の手段を以ってその中心を争うのは、全く最近各国において政治社会の常習であって決して怪しむものではない。しかるに今その独立党なるものは、この常習に反して平和の手段を用いずに過激粗暴の手段を用い、ついに兇党の名を負うに至ったのである。ゆえにその党の行為に関しては、もとより我が政府は味方しないだけでなく、我が公使に彼らを保護させるなどの訓令を付与しなかったのは至極当然の理である。
 しかるに今回の事変において彼の国の乱民などが我が方に暴虐を加え日清両兵の闘争を起こしたのは、専ら我が公使が彼の兇党に与し国王を擁して暴殺を行わせたとの疑惑によるものである。

 よって我が政府が特使を派遣して本件を弁理するにあたってその対処の準拠を持つとするなら、専ら竹添公使の行為如何によらないわけにはいかないことである。
 我が公使の行為進退が適度であったなら、我が方は真っ直ぐであり彼の政府が曲となる。(ゆえに)彼の政府に求めるのにどのような重責をもってするももとより当然である。
 しかしもしこれに反して我が公使の行為が適度でなかったなら我が方はまさにその責めを受けないわけにはいかない。

 実に我が公使の行為進退が適度であれば即ち「保護」となり、その度を超せば「干渉」となるような、そのような間一髪容れられないような機に際して会したのである。
 これを以って本官が彼の地に臨むや、その事績と事情について念入りに竹添公使の行為を調査すると、未だ全くその適度を得たと言えないものがある。

 すなわち駐在国の国王が自らその危急を述べて外国使臣の保護を懇請する場合においては、使臣たる者はこれを拒絶してその危急に陥るを座視するのはまったく友国の義ではないので、この場合においては我が公使は、宜しく次の三条により進退すべきである。
 第一、国王の懇請があれば、国王自ら公使館に臨幸してその危急を避けさせること。
 第二、国王から入宮の懇請があれば、先ず各国の公使に協議して共同一致してその危急を赴援すること。
 第三、もし右の二案に依らずに国王の懇請に応じて入宮すれば、各公使領事が王宮を去ると同時に公使館に引き揚げること。

 しかるに竹添公使の行為は、これに出ずに専ら国王を救うに急で徒にその請嘱に心ひかれ、保護の程度を超越するものがあったと言わざるを得ない。

 朝鮮兵民及び清国の武官が、竹添公使が兇党と進退を共にして謀議通じている、と疑惑するのを、これを弁明せんとすれば却ってその進退の適否の点を交渉議題とせずを得ない。その論点で交渉する時は、我が方は自らその弱点に触れないわけにはいかず、且つ両国の談判に臨んでその事実を厳に調査してその証跡を挙げようとすれば、却って我が公使の体面を損じて主客の地位を転じ、彼の政府に充分なる論拠を与えるに至ることも測られないことである。

 今もし我が公使の地位にわずかの瑕疵でもあるとするなら、単に今回の要求をすることが出来ないだけでなく、清国政府に向かって談判するにあたっても幾分かの薄弱を示すことになり、内外に対して我が行為の不是を表明するに等しく、国辱となることは実にこれより甚だしいことはないであろう。

 これは今回我が使臣が朝清両国に対してこの事を弁理するのに最も至難な部分である。

 また、今回の争乱は前述のように独立党の粗暴から出たものと雖も、また我が政府が去る明治十五年以来この国に向かって施用する政策に幾分か依るものであると認めざるを得ない。

 何故ならば、去る15年の京城に於いて変乱を生起し花房公使に命じて締約させた後に、我が政府の清韓に対する政略を議定されるにあたり、朝鮮国の独立を認めるや否やの議となり、ついにその独立を養成させるべしとの政略が定められた。以来我が政府は外交の手段を以って欧米各国に派出する我が公使をして間接直接にそれぞれの国に説かせ、以って朝鮮国を扱うに独立国としてこれと条約させる事に努め、他の一方に於てはその国力を養成させるために兵器を贈与し兵式を教授させ、またその国から我が国に留学するところの生徒は特に官学校に入学するのを許し、漸次にその国内政治を改良させ、そして遂に四十万円の償金を返還するの挙に至った。
 これは廟議の決定によって我が政略を実行するのに要用の順序を踏んだことに他ならない。

 もし(この後も)この政略を実行するなら、その度に必ず支那政府との確執を生じ、支那政府を遵奉する者と独立を喜ぶ者との間で多少の紛争が生ずるのは早晩免れられないこともしばしばであろう。

 このような紛争を全くなくさせるには宜しく我が政府は始めからその独立に干渉すべからず。
 このような理由から考えて見れば、京城の事変は兇党の所為に出るものと雖も、その遠因を論及すれば我が政府が幾分かの関係がないとは断言出来ないのである。

 (このように)事変に関して我が事跡と我が政略とから考察したときには、前述のように我が政府の位置は実に困難でありデリケートであり、弁理上においても色々の事情を酌量して朝鮮政府に対する要求をなるべく寛大に減らし、一つは以って我が政府の政策の事変以前に異ならないことを示し、一つは以って内外に対して我が公使の兇党に関係を有しない事実を表明するものである。

 このことにつき我が国の弁理の政策如何をご了解されるように、右心得を内達するものである。

 明治十八年一月三十一日  外務卿伯爵 井上馨

在朝鮮国 近藤臨時代理公使宛

 井上馨外務卿による極めて精妙な分析であると思う。

「四十万円を返還すべき特旨を奉じてこれを国王に返還するにあたり、独立党の者はその景慕するところの日本政府がこのように好意を表するので、その党人などが暗に尽力したもののような感覚を朝鮮政府内に生じさせ、にわかに国王の信任を得て支那党と共に政府内で並立せんとするに至った。」
というところは、独立党と言ってもやはりはあちらの人であるということか。

 また、事変経緯のみならず、国家外交における談判交渉上の機微を端的に述べたものでもあろう。そして竹添公使がとった行動の問題点、日本の対朝鮮政策上の問題点も明らかにしている。

 竹添公使の行為は「専ら国王を救うに急で徒にその請嘱に心ひかれ、保護の程度を超越するものがあったと言わざるを得ない。」と。
 今回の争乱は「また我が政府が去る明治十五年以来この国に向かって施用する(独立を養成させるべしとの)政策に幾分か依るものであると認めざるを得ない。」と。

 しかし如何にこちらにも落ち度があったとしても、人命と公使館の直接被害を被っている点においてその賠償を求めざるを得ず、またその実を交渉上において挙げねばならない戦術を計ることは当然であり、それが外交というものであろう。

 この後日本政府は朝鮮に対する積極策を止め、清国がいいように属国扱いしてもほとんど放任していく事になる。

 井上角五郎によれば、井上馨は事変前まで朝鮮がスイスのように永久の局外中立国となるように希望していたという。(「漢城廼殘夢」井上角五郎著、明治二十四年十月出版 二十三頁)
 しかし何と言う限りなく絶望に近い希望であったろうか。

 

約書告示と朝鮮使節来日

 さて、朝鮮政府の約書は19日に井上馨が復命した翌日には告示することに議定され、翌21日には日本国民に対して公表された(日韓両国締結ノ約書告示ノ件)。諸説紛々世論囂々たる国内不穏を静めるためにも早急にせねばならないことであった。
 また、2月10日には約条第一款の通り朝鮮政府から謝文を携えた言わば謝罪使節である国使徐相雨・モルレンドルフが随員6名を伴って下関に上陸した(朝鮮国使節徐相雨モルレンドルフ渡来ノ件)。上京して謁見し国書を奉じ謝罪の意を表したのは2月20日であった。

 しかし朝鮮の方はこれで済んだが、問題は清国との談判である。
 当初は井上馨が京城に於て清国派遣の欽差大臣呉大澂と交渉するはずであったが、呉が全権委任の者ではなかったことから談判が出来ないままとなっていた。しかし日本国内は、
京城の変ありし以来、国を挙げて清兵の亡状を憤り、征清の已むべからざるを説き、朝野騒然たり。(対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史)
という状態であり、日清両国の至重に属する事でもあり等閑に付すわけにいかない事である。


清国談判に伊藤博文

 よって2月24日、日本政府は特派全権大使として参議兼宮内卿伯爵伊藤博文を、協弁として参議伯爵西郷従道を、清国へ派遣することに決した。

 以下、井上外務卿が伊藤特派大使に交付した調令である。

(「朝鮮暴動事件 二/2 〔明治18年1月19日から明治18年5月21日〕」のp28)

伊藤特派大使に対する調令

 去年十二月六日、朝鮮国漢城の変に於ける日清交渉の件に付き、我が天皇陛下は特に貴官を選命し清国政府と平和を保全する為に此事を弁理し、及び前後の事宜を商議するの全権を以て之を委任せられたり。余は聖旨を奉じ更に左の調令を以て貴官に交付す。

 漢城の事変に於て我が公使は朝鮮国王の倚頼に由り友国の好誼を重んじ、入りて王の躬を護れり。孝信の璽書現に存して案にあり。而して公使は不意に外兵の侵す所となり不得已して防守の地に立つを致せり。此の事、実に平和の交際を犯すの所為とす。

 朝鮮変乱の事実は載せて別冊漢城事変始末書及び査明事実書に在り。其の他一切の案件文書を以て之を貴官に付す。

 思うに前日兵隊不意の変は清国政府の予期する所に非ざりしなるべきも、清国派出の武弁は一時倉卒の事情に迫られ、此の意外の侵暴を為せしなるべし。而して清国政府は其の派する所の官弁の所為に対し其の責に任ぜざる事を得ざるは当然の通義なりとす。

 其の他我が商民の漢城に於て乱殺されたるは、其の中難を逃れて生還せし者の口供する所に拠るに、其の幾名は清国兵の為に殺されたり。又公使の王宮に在り清国兵の侵撃を被るの際に、我が公使館留守の僚員は清国兵の朝鮮乱民の中に混じ前来し、公使館の墻囲に向かい発槍するを目撃したり。

 此等意外の侵犯に向かいて、我が国の虧損を回復する為に充分なる要求をなすの権利ありとす。但し我が政府は両国の和交を重んじ、殊に此事変は彼国政府の造意に出るものに非ざる事を洞知するが故に、徒に議論を増長して以て事端を滋す事を好まず。寧ろ推譲の区域に於て満足を求むるに止め、及び将来の為に善後の事宜を商弁するの方向を取り、以て両国人民の為に平和の幸福を得せしめんとす。

 故に我が国の清国に向いて要求する所は左の二点に止むべし。

一 十二月六日の変に兵隊を指揮したる将官を責罰する事。
一 漢城駐在の兵を撤する事。

 第一項の理由は既に前文に備わる其の処分の軽重の如きは彼の国法に任せざることを得ずと雖も、少なくとも其の現職を罷免し及び其の処分をして照会文書の中に言明せしむるは我が要求に於て必要とする所なり。

 第二項は即ち専ら朝鮮に於ける両国交渉善後の事宜を図る者とす。蓋し両営相対す、勢伏火の如し。嗣後、両国政府は縦令何等の注意を取るも恐らくは其の無事を保つ事能わざるべし。国柄を握る者をして稍遠慮する所あらしめば、朝鮮善後の事宜に於て多言を竢たずして必已に黙会する所あらん。

 清国政府にして若し我が提出する所を聴納する事を吝まざるならば、我が政府は均しく好意を表する為に、清国が其の兵を撤すると同時に於て我が公館の護衛を併せて撤去する事を為し得べし。

 若し此れに反して清国政府は遠大の良計を顧みずして我が提案を聴納する事を為さざれば、我が国も亦已むを得ずして国各々の自衛るの義に拠り韓地駐留の兵を以て充分に其の力を備えざる事を得ず。

 此の場合に於ては仮令一時目前の平和を保たんとするも歳月を出ずして漢城の変再三に発し、両国政府は其の預計する所の外に於て遂に看す看す大局を破るの不幸に陥るを免れざらんとす。而して事を滋し釁を啓くの責は即ち清国の自ら任ずる所とならんとす。

 但し清国政府に於て縦令我が提案に同意したりとも、或いは迅速に撤回する事能わざる事情あるも知る可らず。又迂延して歳月の久しきに亘る事あるも計る可らず。
 此場合を避くる為に遅くとも成約の後三個月までに全部を撤回するを以て期と為さしむへし。

 前陳の弁法は、貴官が総理衙門の各大臣に向い反復商論し両項共に満足なる答復を得て妥結成約に至らん事、我が政府の信じて疑わざる所なり。

 明治十八年二月二十五日
             外務卿伯爵 井上馨

 以上のように、清に要求する事は次の2点である。
@、兵隊を指揮した清国将官を罰する事。
A、漢城駐在の兵を撤する事。

 日本政府が重きを置いたのはAの撤兵であった。それは以下の点に於てである。
・ 清兵が駐在するなら、当然日本人保護・公使館護衛のために日本も兵も置かざるを得ない。しかしそれでは一時の平和は保てても、いつか必ず事件が発生し日清両兵の戦闘となり、国家の大局を破る事態となること、つまりは国家間の戦争になることは免れられないことである。(日本兵の清兵に対する憎悪感情なども最悪の状態であった。)
・ 今日までの日朝関係に於て日本政府は「朝鮮は自主の国である」と認めている以上、その自主性に対する重大な干渉圧力となる清軍の駐在は看過出来ないことである。

 朝鮮における清国兵民の横暴は目に余るものがあった。とりわけ清兵は軍律に厳しい提督などが清国に帰ったりして留守をすると、途端に箍が外れた行動を始め、買い物をしてもしばしば代価を払わずに略奪同然のことをしたり、婦女子と見ると暴行を働くことがあり、京城で商売を営む日朝良民にとっては実に怨みの多い者達であった。
 そのような清兵たちの規律あってなきが如きだらしなさは、日本公使や日本軍士官たちが繰り返し政府への報告書に書いている。朝鮮政府も内心では清兵の駐留を望んでいなかったはずである。

 一方、@の将官責罰のことは、いわば事変詳細に属する。12月6日に王宮に於て先に発砲したのが日本兵ではない事をたとえ清政府が認めたとしても、では門を守備していた独立党配下の朝鮮兵が先に発砲したのであろうとなるなら、その時は清兵はそれに応銃したに過ぎないということになる。また民間人が清兵に殺害されたことも、そういう事実があったと言う証言を清政府が認めるかどうかに掛かっていることである。なお賠償のことはすでに朝鮮政府が支払うことで解決済みであることも影響しよう。

 したがって、それらの事実関係の決着が困難である点からも、また、
「我が政府は両国の和交を重んじ、殊に此事変は彼国政府の造意に出るものに非ざる事を洞知するが故に、徒に議論を増長して以て事端を滋す事を好まず。寧ろ推譲の区域に於て満足を求むるに止め、及び将来の為に善後の事宜を商弁するの方向を取り、以て両国人民の為に平和の幸福を得せしめんとす。」
という日清関係の政策上の観点からも、@の方は次点の要求ということになろう。

 ところがである。日本人の国民感情としてはそうではないのである。
 支那人憎し、国辱許さず、金玉均らは維新の志士である、との好悪善悪の感情が征清国の世論とまでなり@の方こそ重要なこととして政府を突き上げるのである。井上角五郎などはその代表格であった。

 明治のこの時代に於て日本は民主政治を志向する国家であった事は言を俟たないことであろう。即ち
「一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」と。
 事変以来の囂々たる公論を無視して国益利害のことだけで政府が動けるものではない。国民の好悪善悪の感覚はその集合体たる国家の動向運営政策と大いに関係するものであろう。
 人は利益のみで動くものに非ず、である。
 だがしかしこれはかつての「征韓論」と同じように感情論と言えよう。この時点で依然として日本は、清と開戦も辞さずという交渉態度を取れる国力はないのである。(ちなみにこの頃既に清国はあの世界最大級戦艦定遠・鎮遠などを所有しており、海軍力だけでも到底日本がたちうち出来る相手ではなかった。(録事第三号同氏着任ノ件外一件、臨事第十九回日本ニ備フル為メ大砲軍器購買ノ件外一件、臨時第五十三回甲鉄艦二艘落成ノ件外一件、清国政府砲艦等製造ノ形状報告ノ件)

 それだけに己を知り相手を知り、また万国公法という、より高次の国際法に照らして一点の瑕疵なき近代国家たらんとする「理性」というものが日本政府の中枢を占めていたことを、井上馨に代表される当時の政府の言行に見ることが出来るのではなかろうか。

 無論、理性は正邪もまた選別する。無辜の婦人を殺めるなどの行為は好悪の感情の前に「邪」と判断するのが理性というものであろう。乱に乗じて兵が民財を掠め取ることが「邪」であると知るも理性からであろう。

 感情論ではなく、理性ある正否の判断に基づく清国への正当なる要求。
 同時にそれは、国内世論がいかに勇ましく征清論を唱えようとも、現実の国力を背景とした談判交渉ということになる。

 伊藤博文渾身の談判は計6回に及び13日間に渉った。

 

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