日清戦争前夜の日本と朝鮮(7)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
 |
東大門(興仁門)、京城で最も大きい道路「鐘路通り」に面する。撮影年代 明治21年(1888)〜明治24年(1891) 林武一撮影 |
井上馨外務卿の派遣
明治17年(1884)12月21日、この困難な問題解決の為に日本政府は、井上馨外務卿を特派全権大使として朝鮮に派遣することに決定した。井上の朝鮮行きは明治9年の江華島以来であるが、京城に行くのは初めてである。
彼への訓条は彼自らが立案し三條太政大臣に上申した。
(「特派全権大使井上馨携帯御国書并御委任状及内訓書案ノ件」より現代仮名遣いに。)
内訓案
特派全権大使参議兼外務卿伯爵井上馨
今般特派全権大使として朝鮮国に被差遣候に付いては左之権限を以って便宜談決すべし。
一 今回朝鮮国に於いて我使臣に暴行を加へ公使館及兵営を焼き我が兵民を殺戮したる事件に関し、朝鮮政府の全権大臣と談判し其責任の所帰を定め貴官が適当と思惟する所の処罰を実行せしめ及び賠償の恤金を求むる事。
但し其賠償の種類恤金の多寡は事情を酌量し便宜専決する事。
一 日清両国の兵勇争闘の事件は実際の事情を査明し、彼先ず事端を啓きし確証を得るときは勿論、清国の特派全権大臣と談判し其処分を求むべしと雖も若し其確証を得ざるに於ては提議するに及ばざるべき事。
一 将来日清両国の間、朝鮮に於て壊和の事端を生ずるを防止する為に必要とする弁法を設け、両国均しく駐朝の兵員を撤回するを約する事。
一 兵員撤回の事を同意せざるに於ては将来我に便利を占むるの地歩を便宜計画する事。
一 事変の際、朝鮮国王より我が公使へ護衛依頼の確証之れあるに於ては、尚此事を確実ならしめ中外の疑団を氷釈せしむる為め国王より我が皇帝陛下へ謝書を呈せしめ度事。
右条件奉
勅旨内訓に及び候事
明治十七年十二月廿一日
太政大臣公爵三條實美 官印
|
再び独立問題を問う
この頃、日本政府内では朝鮮国をどのような国として位置付けるかを巡ってしばしば議論があっていたようである。
それは、朝鮮国の自主独立を積極的に助けるのか、或いはまた清国との和局を保つ上においても積極策は取らないことにするのか、ということである。
彼は26日なっても、三條太政大臣、有栖川左大臣、伊藤参議外各参議にそのことの再確認の伺いを立てている。その書簡には彼の朝鮮に対する考え方も記されており、興味深いので一部抜粋して要旨を記述する。
(「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」のp4一部抜粋して要旨)
井上大使より太政大臣宛
明治十七年十二月二十六日
<我が対韓政策に関する件>
拙者が出立前に談義したように、明治十五年朝鮮事変について内閣で評議の際に、拙者の朝鮮に対する処分の意見は、なるだけ事を支那政府に議り以って日清の和局を保ちたいとしたが、衆議はこれに反してあくまでも朝鮮国の独立を助けて干渉する計画が議決された。
よって拙者は、我が国の政略は清国の意向と全く相反することになるので、早晩この事から日清間の葛藤を生じるであろうから、有事の日に臨み外交政略を担任する拙者が内顧の憂いが無いようにされたいとの論を開陳して、終にその結果は海陸軍の拡張及び共同運輸会社の設立等に及んだのである。
故に、朝鮮に於いて日清で今日のような事端が発生するのは当時の拙者の予言したところで、その基因は、朝鮮を独立させるか又は清国の付庸(従属国)とするかの一点による。
但し竹添公使の今度の挙動が拙かったとは思うがこれも結局は瑣末に属するものであり、その干渉に至った実質は即ち我が政府一定の政略から生じて来たものである。
もっとも今度拙者自らが彼の地に行ってこの事を処弁するのは、敢えて好んで意に適うことをするのではない。いかんせん、今日の朝鮮を支那政府の干渉の掌中に帰させるなら、朝鮮は終に独立の実を失い、拙者が従来から命を奉じて取り組んできたことを、竹添一人の拙作からその大体を損じ、公論においても正論あるを乏しくさせたことは遺憾の至りである。しかしやむを得ぬ事件ではあろう。
我が国の体面も損ぜず又従来の独立政略もこのまま残しながら、今度たとえ朝鮮に対して不充分な一時の和局を結ぶとも、それは姑息に出るものであって、他日再び朝鮮に於いて今日のような事変が再発するのは、拙者が先に予言したのと同様になると思う。
しかしながら、我が国の内政を充実させて国力が支那を制するに余りあるという日に至るようになるのはもとより容易の業ではない。
たとえ数年間でそれをなしえたと仮定しても、西洋各国は皆清国との貿易を安泰のものとする日に際するなら、我が国が充分の条理を占めて少しも世界に対して恥じない場合となっても、おそらくは西洋各国の為に我が肘を制され、その理非曲直も各国の仲裁に付する方法しかないことに帰し、不快の結果を見るに至り、結局は我が国内の人望に反して却って内憂を招くような事態ともなりかなねない。
(中略)
今度の事件に付きいかなる場合にあっても単に平穏のみを主眼とするなら、その結局の策は朝鮮独立のことを(言うことを)我が国から止め、清国に対して属邦論を進めさせて朝鮮に対する損害賠償要求を清国に求める他に方法はないであろう。
(いずれにしろ)不充分な和局を結んでついに一時凌ぎのことになる憂いを残すことは、してはならないことである。
ついてはこの後に朝鮮に対する我が国の政略は、なお独立を補助するとの主義に基づいてその計画を施すべきか、又はこの主義を放棄してこの後に朝鮮国の独立如何に関与せずに支那政府のなさんとするところに一任すべきか。
このことは実に事変の原因なので、拙者は談判が落着した時に、将来にその政略の進退を定めるためにその方向を確定しておくべきは、実に重要必要のことであり・・・
|
なおここで井上馨が述べる朝鮮国への「政略」とは、彼自身が後に次のように言っている。
「・・・独立を養成させるべしとの政略が定められた。以来我が政府は外交の手段を以って欧米各国に派出する我が公使をして間接直接にそれぞれの国に説かせ、以って朝鮮国を扱うに独立国としてこれと条約させる事に努め、他の一方に於てはその国力を養成させるために兵器を贈与し兵式を教授させ、またその国から我が国に留学するところの生徒は特に官学校に入学するのを許し、漸次にその国内政治を改良させ・・・」(「朝鮮事変/5
〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」のp47」の「井上外務卿より近藤代理公使宛 明治十八年一月三十一日」より現代語に。)
井上馨の対朝鮮策と竹添進一郎のそれとは近かったようである。
井上の場合、朝鮮の実質的な独立に向けて積極的に関与するよりも、清国と協議しながら事を進めて朝鮮を開化に導くというのが持論であり、竹添の場合はもっと消極的で、しばらくは清国の干渉を静観してよしとするものであった。いずれも朝鮮の独立問題に積極的に関与しないという立場に於いて同じである。
これはかつて井上は金玉均との対談において「今急に支那の属国論を止めさせようとしても行えないことである。たとえ日本一国が独立を認めても支那に比べれば小国でもあり所詮その効はない。ゆえに米国を引き入れなお他のドイツ、英国などの国も引き入れて、つまりは支那自身から朝鮮を認めて独立国とせざるを得ない勢いに立ち至らせんとするものである」と述べていることと併せて考えねばならないだろう。朝鮮を独立に向かわせることについては同じであり、その方途に於いて政府決議とは違いがあったということであろう。
独立を認めざるを得ず
この井上の伺いに対して政府議決が伝えられたのは27日であった。
(「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」のp16)
太政大臣より井上大使宛
明治十七年十二月二十七日
<我は朝鮮の独立を認め日清双方撤兵の事を談ずべし。>
足下より伊藤への電信を接収し、朝鮮の独立不独立に付き内閣の会議を開き再廟の細議を尽くせり。
従来の関係に依り我に在っては独立を認めざるを得ず。
故に足下起程に際し付与したる調令(内訓)の意に基づき、支那使節との談判は善後の手段を尽くし双方兵を引き払う事を談じ、彼れ属国の理由を主張し之を肯ぜざるに於ては、我は其論旨を容れずして双方兵を駐むるの結局に至るの外なし。
此の他の問題に至っては予め測り知る可からざるの情あるを以って、実地に就き臨機の処分は之を足下に委任すべし。
|
朝鮮を独立に向かわせる積極策として、清兵を引き揚げさせるということがあったということである。
当時の朝鮮の現実を直視せずに「朝鮮は清国の属国ではなく一貫して独立していた」と言う論者はこの点についても歪んだ解釈をせざるを得ないのではないか。
急遽2大隊を派す
清国政府も北洋副大臣呉大澂を朝鮮に派遣することにした。天津の原領事からの書簡によれば、12月17日に李鴻章から招かれて呉大澂に面会したが、呉が言うのには「紛擾を避けるために一兵も連れずに単身で朝鮮に入る。三、四日中に出発する」とのことであった。
それにより日本政府も井上大使には護衛兵を付けないことに決し、井上始め随員として近藤大書記官、陸軍中将子爵高島鞆之助、海軍少将子爵樺山資紀(チェストー!)など一行およそ60名は22日に東京を発してついで共同運輸会社汽船薩摩丸に乗り込み、護衛艦として軍艦金剛、報知艦として軍艦春日が先発し共に下関に向かった。
ところが下関に到着すると、日本駐在清国公使から「清政府が井上大使と談判させるために呉大澂を朝鮮に派遣することに決した。ついては護衛兵4百を付けることになった」と日本政府に報せて来ていたことが分かった。更に呉大澂は談判に際して必須の全権を委任された者ではない事が判明。それにより井上は呉大澂とは談判をしないことを決した。
また、急遽政府と電信で協議し、26日2大隊を率いて朝鮮に向かうことに決定した。(相模丸、近江丸、熊本鎮台歩兵第十四聯隊第一大隊と小倉鎮台分営の歩兵一大隊)
27日、仁川港の日進艦が視察のために南陽府に向かったところ、支那軍艦2隻が碇泊しており、日進を見て軍備を始めた。それにより日進艦は直ぐに回航して仁川に戻る。楊花鎮では支那兵が砲台を設けて警備していた。(在馬関松村海軍少将電報石田陸軍中尉千年丸ニテ仁川港ヨリ帰着伝聞ノ件)
28日、竹添公使は井上議官と随員数名、護衛兵1小隊を率いて、朝鮮政府と直接談判のために京城に向かった。また、城外で仮の公使館を定めた。
28日午後、井上大使一行は下関を発す。(高島陸軍中将護衛兵ヲ率イ馬関出港ノ件、全権大使井上馨帰朝復命ノ件)
12月30日、雪のちらつく仁川に到着。港には日進の外に軍艦比叡、そして英国、ロシア、ドイツの軍艦が碇泊していた。井上大使はただちに仁川領事館に入った。
大使は竹添公使と井上毅議官が京城にあることを知り直ちに使を派して井上議官を呼び戻す。
31日、井上議官が仁川に来て、竹添公使が趙秉鎬と談判をしたことを報告。
明治18年(1885)1月1日、大使は井上議官を京城に派し、竹添公使に直ちに談判停止を命令。また近藤書記官を派して井上議官と共に朝鮮政府に京畿監営を以って大使の宿舎とするよう請求させる。
1月2日午前、竹添公使は警部巡査各一名を焼失した旧公使館の状況検分のために派遣したが、城内に入らんと西大門(敦義門)に至ると清兵5、6名がそれを阻み更に15、6名となって銃口を向けて威嚇した。発砲1回、銃剣で突くこと数回。幸い体には当たらず、しかし門に入ることが出来ないので止むを得ずに公使館に戻った。(先述の新聞検閲の1件はこの事である。)
これを聞いた日本軍護衛兵はそれまで耐え忍んでいた感情が一気に爆発し、竹添公使に迫って直ちに西大門に行って清兵を撃つことの許しを請うて止まず、竹添公使と井上議官はこれを切に諭して、今は大使が仁川に来ているので進退の命令があるまで妄動してはならないと説得して抑えた。しかし護衛兵の憤激甚だしくまた一時も捨て置けない事件なので井上議官は仁川に向かい大使に報告した。
一方、近藤書記官も前日に京城に向かう途中の麻浦で朝鮮兵がこれを阻み、もし京城に入りたいなら報知して命令あるまで待つべし、と言ったが近藤書記官は説破して京城に入った。
それらのことを聞いた井上大使はすぐに書を発して竹添公使に伝え、私憤に乗じて妄動するなかれと、兵士を戒めさせ、また清兵の無礼を清官に伝えて厳しく責め、また麻浦の事を朝鮮政府に問責し「もし大使入京の途中或いは諸門に於てこれを阻むなどの失敬があるなら、大使はまさに臨機やむをえない処分に出るべし」と宣言した。
この夜、近藤書記官は宿舎があらかた整ったことを報せてきた。
3日午前9時、井上大使は護衛兵全隊を率いて仁川を発し、午後8時に京畿監営の宿舎に到着する。
4日午前、趙秉鎬が大使を訪問した。
井上馨の辣腕
(「朝鮮事変/5 〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」p1と「全権大使井上馨帰朝復命ノ件」から抜粋要旨。)
井上大使、督弁趙秉鎬との談話 明治十八年一月四日 浅山顕蔵通弁筆記
井上「本使が来たのは、今度の事は実に両国の交誼の存亡に関わる一大事であるから、我が皇帝陛下には御念慮あらせられて本使を派遣されたのである。余が職掌は繁劇なれば一日も猶予は無い。速やかに国王に謁見することを望む。」
趙「かねてから御威名は我が国までも轟いている。今度貴大使が来られたのは、我が政府のみならず一般も安堵の思いで、必ず公平なるご処置あることと喜びに堪えない。ところで、大使にはこれまで我が政府と貴公使の間に往復した公文は御覧になられたろうか。」
井上「もとより承知している。しかしその公文は余の談判の基礎とすべき性質のものにあらず。すべて貴政府の疑惑を以って勝手を申されたものであって、決して政府と政府で往復した公文ではない。もし貴政府がこの公文によって事を議されるとするなら、我が使事はこれで済んで他に言うことも無い。」
趙「いずれ追々と我が政府と御談判なられると思う。しかしながら今日では両国間に事あることはないと思う。」
井上「貴国になくても我が国がそれを認めないなら即ち両国にあることになる。ゆえに貴政府が我が国の請求に応じないなら、この後にどのような結果を見るも予想できないことであり、つまり和交の成否は貴国次第である。本使は和交を望む。」
趙「まことにそれは願うところである。」
井上「謁見のことは竹添公使から伝えたはずで、貴殿も速やかに謁見なるよう周旋されたい。」
趙「速やかに謁見なるよう奏上いたす。」
|
まさに井上馨の辣腕であった。井上は後の復命書では「説破せり」と言っている。
竹添公使と朝鮮政府の拗れに拗れた論争を、政府と政府で交わした公文ではない、と切って捨てたのである。これで竹添と趙の論争がまるで私闘であったかのようになってしまった。
井上はこの後の全権を委任された大臣、即ち金宏集の言も論破して黙らせてしまうことになる。
5日、督弁趙秉鎬と協弁モルレンドルフが竹添公使に、浅山顕蔵は事変の時に賊に通じていたので大使の国王謁見の時の通弁としないように求めた。竹添は、それは自分が決めることではない、と言って井上大使に報告した。井上は近藤書記官に命じて次のように趙たちに伝えさせた。
「使用する者は余が自ら選んで任せる。もとより他人の喙を容れるを用いず。もし浅山顕蔵が賊に通じていたならその証拠を示せ。直ぐに罰することである。証拠無くば疑惑を以って人を誣るものである。余が使用する通弁官を拒むならまた余が謁見をも拒むに至らん。それならば余は国王謁見を請わず。」
趙たちは抗弁出来ず唯々として去った。
6日、井上大使は竹添公使、陸海両将、随員と共に国王に謁見する。浅山顕蔵が通訳をする。
井上が国書を呈して謁見終わった後に、国王が人を排して特別談話を望むので、井上は竹添と陸海両将と浅山のみを留め、国王は侍臣たちを下がらせ、大臣のみを留めた。
井上は、国王自ら談判応答をされるか、または大臣に全権を与えて面前で会議するかの選択を求めた。国王は全権を大臣に委任して談判させると答えた。井上はまた、竹添公使との間で往復した公文に基づいてのことなら談判には応じられないと伝えた。国王は談判に及べば判然とする、と答えた。
全権金宏集との談判
7日午前、朝鮮政府は竹添公使を通じて、左議政金宏集を全権大臣と任じ議政府に於て午後1時より会議することを通知した。
(「朝鮮事変/5 〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」のp5より現代語また意訳要約、<>は原文中括弧、()は筆者。)
井上大使、金全権と談判記事
明治十八年一月七日午後一時、京城議政府に於ての談判大意。通弁武田御用係、筆記松延外務一等属。
陪席 |
井上参事院議官
斎藤外務書記官
統理衙門督弁趙秉鎬
統理衙門協弁モルレンドルフ |
挨拶終わり、
井上「委任状を見たい。」
金 「趙督弁から差し上げたのは御覧になったか。」
井上「まだ見ていない。公使に出されたか。」
金 「然り。」
井上「その他に写しがあるなら拝見したい。」
金 「御覧になられたと思い、ここには持参していない。公使館に取りに遣らせた。すぐに戻るだろうから御談判のことあっても妨げはない。」
井上「これらの事変を談判するには必ずその場でお互いに委任状を見た後に開談するを万国の常例とするのでそうしたい。」
金 「ごもっともである。拙者は先般も条約のことを取り扱ったがその時は互いに写しを見て捺印の日に本書を示した。今日もその積りで持参していない。直に御目に掛ける。」
井上「諾。」
金 「委任状は直ぐに御目に掛け申すが、拙者は大君主から全権の命を受けていることは相違ないのでお話があっても差し支えないであろう。」
井上「委任の権限あるかないかを確かめない内はお話はしない。」
金 「拙者から一言申したい。」
井上「この事件に付き貴下より開談せんと言われるのか。」
金 「然り。」
井上「それならば暫らく待たれたい。お互いに先ずなすべき定式があればその事を済まして後に御談判に及ぶべし。」
金 「それならその間は雑談をいたそう。」
井上「支那兵はどれほど居るのか。」
金 「城内には千四百人ほどなり。」
井上「城外には幾千人か。」
金 「従前はいなかったがこの頃に来た者が少々馬山浦に駐屯している。」
この時に委任状の写しが来る。
井上大使はこれを手に取って見ると文中に「京城不幸有逆党之乱、以致日本公使誤聴其謀、進退失拠、館焚民戕、事起倉猝均非逆料(京城に不幸にも逆党の乱があった。日本公使はその謀を誤って聞き、進退拠りどころを失い、公使館焼け民は殺された。予想もしない慌しい出来事であった。)との語があった。
井上「前日に趙督弁に話し又大君主にも申し上げた通り、互いに想像の説を逞しくすれば、事は進まない。この委任状の中のこれらの文字があっては是非そのことを論ぜざるべからず。その時は議論は紛糾して談判はまとまらない。故にこれらの文字は削除されたい。」
金 「この文字は、貴政府に対しては頗る心を用いたものである。なぜならこの『誤聴其謀』の四字は、竹添公使が逆党に誤られたりとの意<実はその謀を助けたとか何とか言うところであるが、日本政府に対してこのように回護したという意味のようである。>で、『進退失拠』とは公使が京城を去って仁川に行ったことを言うのである。公使のことは追々御談話の内に段々と分かるであろう。」
井上「誤聴云々の字を残すなら、その事実如何を取り調べなければならない。これはつまり貴政府の想像によるものであって、その想像説を以って主張されるなら、我が国もまた想像説を出すべし。このように互いに争論するなら事が治まることはなく、その極点は腕力に委ねるという一つの方法があるのみである。我が政府はこのような極点に至ることを望まないので拙者を派出されたのである。しかしお望みならば敢えて避けるにあらず。」
金 「まことに大使が全権で来られたのは貴皇帝が和交を主とされるによってなるべし。しかし、その顛末だけはお話せねば大使もご承知ないところがあろう。ゆえに御談判の前に先ずそのことをお話いたし、その後に真の御談判をするのも遅くはないと思う。但しこのことはこの場の話としてお聞きになっても苦しからず。」
井上「先ずよく場合を考えられよ。事変の経緯を貴官らの想像疑惑を以って話すとするなら、拙者にも疑惑の点が多数ある。しかし想像疑惑を以って談判をなさんとするなら、決して妥結に至る道はない。ついにこの禍は日韓両国に止まらず、清国まで及ぶだろう。ゆえに先ず大体の談判を終了して後にそれらの話をされんとするなら、私席に於て承るべし。強いてこのことを先に言われんとするなら拙者は必ずその纏まりがつかないことを保証する。なぜなら今も申す通り互いに想像説を以ってすれば徒に多事にわたって限りないことだからである。」
金 「ごもっとものことである。拙者も決して事を多くしたいのではない。ただ双方に疑いのある所を吐露し、渙然氷解した上で御談判すれば一層よいことと思うからである。」
井上「お好みならばお話いたしてもよい。しかしそういうことであるから、到底局を結ぶことは出来難いであろう。互いに想像説を以ってすれば際限はない。その時は貴国大君主にもここにお出でを願うことに至るであろう。そのようでは到底妥結の時はないであろう。」
金 「大使の公平の御論は篤と御承知している。しかし今も申すように、お互いの腹中にとけない事がある限りは、例えば腫れ物に膿があるようにその膿を出し尽くして後にお話を纏めるなら双方の情思爽快にして永く和交を保つ道となる。ゆえに拙者と大使との胸中を開いた後にする方が然るべきである。」
井上「度々申すも同じ事であるが、貴政府に疑いあるなら我が国にも疑いはある。これを互いに打ち出して纏まらぬようにすれば膿を出して腫れ物を癒すのでなく却って腫れ物を大きくする。疑惑と疑惑とを主張して事を纏め損じた例は各国にもいたって多い。それにも拘わらず破裂に至る事も考慮せずに強いて望まれるなら拙者もその積りで御談判するべし。」
金 「大使のその説はもとより分かっている。但し拙者が未だ理解できないのは腫れ物を治すのは名医の術に依らねばならない。拙者は互いの疑いを解かないなら談判は纏まらないと思考する。ゆえに互いに氷解を得た後に妥当な協議に入りたいと思う。我が国から貴国に大使を派そうとする時に貴大使が来られたので大いに喜悦した。大使がここに来られたら必ず処弁されることあるべし。そうすれば双方で談話を尽くした後に協議するほうが最もよくはないか。」
井上「拙者は反対である。先ず協議を結んだ後に、ただその場での話とするならよいが先に想像の話をするなら事は難しくなるだけである。すなわち貴政府から大使を我が国に派せられようとした事についても拙者は大いに疑惑する所がある。しかし言多岐にわたることなので言わない。このことさえ拙者は疑いある程なのでお互いの想像説を出さずに先ず妥結することを望むのである。妥結した後に何事なりと笑い話にされるなら少しも差し支えない。」
金 「拙者は事の始終のお話をして互いに心をさっぱりとして御談判に及びたいと思う。」
井上「拙者はそれに反対である。前に申したとおりである。」
金 「拙者は順序に従って御談判することを望む。始めを捨てて終わりのみを埋めんとするなら却って事を纏め難いことになる。願わくば順序を追いたい。」
井上「お望みとあればそのようにいたす。しかし纏まらないことは請合う。ただその積りならばその用意をして取り掛かろう。ゆえにこの談判はこれまでに止めて更に日を改めて開談するべし。」
金 「ただ拙者は順序を追う方がしかるべきと思っているだけである。」
井上「もはや多言するにも及ばない。強いてその説を主張して是非に順序を貴官の言われるとおりにせよというのか、またはそうでないのか、その決答を承るべし。」
金 「そのようにお話されることではない。とにかく今日は遅くもなったので尚御再考の上で明日か明後日に於て御都合次第に御来臨されたい。」
井上「拙者はそのような不決断の者ではない。別に再考するところはない。ただ貴官の御決答を承りたい。」
金 「拙者は大君主の命を受けているがそこまでには至らず。一応、大君主に申し上げた後に御談判いたしたい。」
井上「それなら何故に全権であると申されるのか。」
金 「ただ始めは異論あるとも終には妥結に帰させることを委任された。」
井上「このように自ら決することが出来ないなら何が全権であろう。拙者はただ談判を貴官の言われる通りにせねばならぬとかなるとか言う決答を承ればそれで足る。」
金 「拙者は全権の委任あれども未だそこまでは至らず。たとえ大君主がここにあっても一々親裁することは難しい。とにかく明後日までお待ち下されたい。」
井上「拙者はこのように空しく日を費やすことは出来ない。拙者は甚だ繁忙の身なれば今日その決答を承ることを望むのみ。」
金 「ご繁忙のことは昨日以来充分に承っているところなので強いては好まず。それなら明日にお出で願いたい。」
井上「明日の何時なのか。」
金 「毎日ご足労も恐縮なれど明日も同じ時刻に願いたい。」
井上「拙者は種々の用あって実に一刻も惜しい。それで明日朝九時までは待つ。その時にここに来るべし。」
金 「九時では甚だ困却する。なにとぞ十二時までに願いたい。」
井上「この談判の結末によっては両国干戈に及ぶべきも測り難い程の事を弁ずるのに、これぐらい事は出来ぬことはなかろう。御承知はあるまいが我が国の人心は甚だ憤激しておるので、この場で一歩を誤れば直ちに決裂に至るべき勢いであるが、拙者はなにとぞ平和に致したいと望むゆえに談結を先にしてその他の御話は後にしたいと申しても、御決しなさらないならなさらないとしてお暇いたすべし。」
金 「両国の大事なので三時間ぐらいはどうともして明朝九時にお出でを願う。」
井上「しからば承知する。似せたもので人に及ぼすことは甚だ好まぬ。お互いに不愉快である。拙者は平和を望んでいるが、事によってはこの精神と反対に至るべし。先年の花房公使が談判した時は同じ(全権の)使臣であるが、拙者は外務卿なので後で万事に指令したので決裂せんとするも拙者なお綻びを縫う道もあったが、今般拙者はこの全権を委任されて来たのであるから、これで破裂すればもはやその道もない。ここの所をよくよく考えられよ。」
金 「和平の御精神は詳細に承知している。拙者もそれは御同様である。」
これにて談判一応終わり、なおいくつか話の間に、議政府大臣たちが委任状の文字を削除することで話し合っているので、大使は斎藤秘書官をもってモルレンドルフに言った。
「かれこれ共に想像の説をもって押し問答をするなら誰がこれを裁くのか。まず試しにお互いの立場を考えよ。自分は客であり、韓廷は主ではないか。自分がここに来て主に請うところがあらんとする。主は客の請求に付いて論駁するところがあるなら、よろしく論駁するべし。未だその本談判に至らないのに前の瑣末のことでこのように討論するのはまた愚かなことではないのか。」
金宏集はこれによって大いに大使の主意を了解し、不都合な文字は削除することに決し、今夜中に国王に奏上して改めると答えた。
これでこの日の談判は終わり、シャンパン杯を挙げる時に大使は金宏集に向かって、
井上「よく考えよ。今日この一事さえ論争すればこのように時間を費やす。まして前々の事から論じ起こして互いに想像疑惑をもって論駁しているならこの談判はいつ妥結に至ろうか。されば明日は全て小事の議論は打ち捨てて肝要の点を議し、速やかに結了し、そして異心を去って快く我から望んでこのシャンパンを飲まんことを希望する。」
金 「拙者もまた然り。ゆえにこの杯は明日の喜びの杯をあらかじめ祝してこれを飲むべきである。」
(王宮で井上馨大使一行を接待するについても朝鮮政府が用意した「茶菓」はシャンパンとビスケットであった。大院君が聞いたらさぞ怒ったであろう。)
|
以上のように、井上馨の論法を以って事変経緯の詳細は議題にしないこととなった。実際もし経緯の事に及べば議論は際限ない事になっていたろうし国王に尋問もしなければならなくなったろう。そうすれば一番困るのは国王のはずであった。だからこそ金宏集に「始めは異論あるとも終には妥結に帰させること」を委任したのであろう。
翌日の9日に井上大使は条約案を金宏集に呈示したが、それがどういう観点から書かれたものかの記述は見当たらない。
しかし、想像説を排し被害の事実のみについて取り上げるとして、談判要点は日本側としては次の2点となる。
1、日本人が殺害されていること。
2、公館が焼失していること。
1については、磯林大尉以外は清兵との戦闘並びに清兵清人による殺害もあったことは、竹添の「写真師杉岡なる者などの言を聞くべし。」や米国公使フートや英国総領事アストンなどの話から総合して出ている結論である。しかしそれは経緯の詳細に属する。ここでは詳細は省くのであるから、朝鮮国内で日本人が殺害されているという事実によって、遺族並びに負傷者や略奪などに対する恤給金は朝鮮政府が支払うことを求めることになる。また磯林大尉が朝鮮人群集から殺害されたことは朝鮮政府も認めていたので、その犯人の処分も朝鮮政府に求める事になる。
2については、朝鮮人による行為であるとして賠償金を請求する。
それに付随して護衛兵の施設も要求。
以上の点を考慮して案が作成されたと思われ、そして金宏集との2回目の談判で次のようにその内容は確定した。
締結の約書
(「日韓両国締結ノ約書告示ノ件」より現代仮名。括弧は筆者。)
条約書
明治十八年一月八日 議定
同 一月九日 調印
此次京城の変係わる所小に非ず。
大日本国
大皇帝深く
宸念を軫せられ(おおみこころをうれえられ)茲に特派全権大使伯爵井上馨を簡(えら)び、
大朝鮮国に至り便宜弁理せしめらる。
大朝鮮国
大君主
宸念を均しく敦好に切に乃ち金宏集に、
委ぬるに全権議処の任を以ってし
命ずるに懲前後(前の誤りを後の戒めとする)の意を以ってせらる。両国の大臣和衷商弁し左の約款を作り以って好誼の完全を昭かにし又以って将来の事端を防ぐ。茲に全権の文憑に拠り各々名を簽し印をツする左の如し。
約款
第一
朝鮮国、国書を修めて、日本国に致し謝意を表明すること。
第二
此次、日本国遭害人民の遺族並びに負傷者を恤給し、曁(およ)び商民の貨物を毀損掠奪せらるる者を填補して、朝鮮国より拾壱万円を撥支する事。
第三
磯林大尉を殺害したる兇徒は査問捕拿し重きに従って刑を正す事。
第四
日本公館は新基に移し建築するを要す。当に朝鮮国より地基房屋を交付し、公館曁び領事館を容るに足らしむべし。
其修築増建の処に至っては、朝鮮国更に弐万円を撥交し以って工費に充つる事。
(当初は四万円であった。)
第五
日本護衛兵弁の営舎は交換の付地を以って択定し壬午続約(明治15年の「続約」)第五款を照し施行する事。
大日本国明治十八年一月九日
特派全権大使従三位勲一等伯爵 井上馨
大朝鮮国開国四百九十三年十一月二十四日
特派全権大臣左議政 金宏集
|
談判への闖入者
条約整うことになった2日目の談判は以下に抜粋しながら記す。なお全文はこちら。
8日午前9時、同じく議政府で開く。出席陪席者も同じである。
委任状の文字削除に関して要望どおりに削除されていたので、井上は条約書の案を呈示した。
金宏集たちが閲覧し、第二款の11万円についても問題なく了承した。続いて字句の訂正がいくらかあり、話は磯林大尉の事に及んだ。
金 「磯林のことについては我が国にて貴国に対しお気の毒なのは申すまでもなく、大君主初め我々に至るまで誠に遺憾の至りである。同氏は大君主にも大いに信用あった人である。事変の時はまだ無事で外出中であり、よって他の道にするように通知したが運命の拙きところか、南の道を通った故についに殺害せられたのである。」
井上「同人のことを大君主にもそれほどに思し召されるとのことは我が聖上にも申し上げる。彼は武官なれば自らその栄誉を保たん事のみ思っていたであろう。」
金 「磯林の事は貴国の憤りも我が国の憤りも同様なれば必ず相当のことをなす。」
金宏集はこの後別文で犯人の処分を20日以内に行うことを約した。
問題は公使館焼失のことであった。
井上「公使館の事は何れの国も同様にて、大いにその国の体面に関する事なのでこれは最も御承諾ありたい。」
金 「公館の事は少し御話がある。我が国の人民が焼いたという証跡があれば、我が国で償うのは元よりのことであるが、それが我が国の人が焼いたのではないという証拠があるので、なにぶんこの条款は御免じられたい。」
井上「その証拠と申すのは何なのか。拝聴いたしたい。」
金 「即ちこれである。」と一枚の書付を出した。
井上大使は手に取って読んだ。
日本公使館で使用していた朝鮮人宋尚吉の口述で、最初に、朴泳孝、金玉均などが服を変えて公使と共に仁川に行ったのを述べ、次に公使館の文書を石油をかけてこれを焼き、その火が公館に延焼したのだろうと言い、最後に朴金らが仁川から日本に行ったなどと、述べているものであった。 |
井上「これは小使いくらいの者が申すことであって拠るに足るものではない。この前後のこと<すなわち朴金等のこと>は当時の我が国の人を取り調べたが誰も知った者はいなかった。また書類を焼いたのはこの前日の事であり、公使以下の者が館を去ったのはその時刻からよほど隔たりがある。また後から聞けば館内に焚草を積んだとのこともあり、また公使以下が麻浦に至って黒煙が上がったのを顧みて公館の焼かれた事を察したなど、貴国人が焼いた事は相違ない事である。しかし互いに証拠立てして論ずる時は際限ないことになるので、最初から種々のことは取り除くと申したのはこれをいうのである。」
その時、突然モルレンドルフが告げるのに、「清国欽差大臣呉大澂が見えて大使と会うことを請うと言っている。」と告げた。
呉大澂は井上の返事も聞かずにさっさと談判の席に入ってきた。
井上はその突然なのを訝しく思いながらも立って握手を交わして言った。
井上「本日は朝鮮大臣と該件を議論する時なので会談は出来ない」
呉は、自分もこの談判に関係があると述べたが、井上大使は呉が全権を有していないことから、全権でない者と今は話すことが出来ないと拒み且つ朝鮮のことは韓官と清国のことは清官と弁ずるのみであると答えた。
呉は、両国紛議の時はこれを調停することがあるが、それも許されないなら仕方がない。ただ公平を望む、と言って去る時に一書をして金宏集に渡した。
井上は厳しく金宏集に問いただした。
井上「呉が来たわけは知らないが、その顔つきを見ると貴官に対して言いたいことがあるようであった。貴国は皆清国の指令を受けてその後に談判をされるのか。それなら両国の条約はおかしくはないか。」
金 「彼がこの事に関してなぜ来たのか、言うことはない。」
井上「呉が書いて貴官に差し出したものは貴官が受けておられる全権の上に命令するものがあるように思われるが、それならこうして談判していることもおかしなことである。」
金 「彼が何を思って言ったのかは知らない。この場で大使と談判中なのを知らずに全く私事で来たことを説明して帰った。」
井上「呉が書いて差し上げたものを見たい。」
金 「何も特別のことではない。」
井上「別に面倒を起こすわけではないので見せられよ。」
金は呉の書を出して見せた。
本大臣が乱党の事を査弁する為にここに来て数日、最も緊要に関わる事である。乱党のことを議題とせずに避けて井上大使といろいろ条約を立てるなら、ついには乱党の事は不問に終わる。但し本大臣は閣下を詰責するにあらず。朝鮮万民が憤懣不平するを恐れる。閣下この事を了解せねば大いに不利となるをまた恐れるのである。云々。 |
井上「この書に付いて本使は種々の疑いが起こる。この文の雰囲気から見れば、直接には言ってないが朝鮮は支那の属国であるという意味を婉曲に示しているようである。果たして貴国が清国の属国ならば我が国は貴政府との談判は出来ない。もし貴官らが清官がなんと言おうともそれに構わずここに於て決すると言うなら談判すべきであるが、清官に相談した上でかれこれと説があるようなら談判はされない。」
金 「これは大使のお話とも存ぜず。大使は御承知ないのか。ここで決した事を誰が何と申すべきや。その証は前に何度か条約を結んでも清国から干渉したことはない。拙者が不都合にも相談したのならいざ知らず、拙者からまだ言ってもいないのに先ずその辺のお疑いがあるのは却ってどうかと思う。」
井上「現に今、命令する者があったのはどうか。両国弁論の席上に他人が入り込んで言葉を容れるは即ちその証ではないのか。よってこの疑いを生じるのもその理がないとは思えない。」
金 「それは決してそのような事ではない。拙者の思うところでは今日の談判は早くした方が双方のためである。」
井上「試しに立場を考えられよ。もし貴官が他人と公事を弁じているところに拙者が突然入ってきて干渉の言を容れるならどのように感じられるか。」
金 「まことに然り。しかれども今日彼がこの席に入って来たのは全く拙者と大使とで事件の御談判をしておることを知らずに、私語の席であると思って来たのである。」
井上「彼が全く知らずに私語のために来たのなら、お互いの談判に説を入れる事はないのではないか。」
金 「まことに然りである。拙者も彼が決してこの事に干渉するために来ることはない筈と思う。また拙者なり大使なりに談話することがあればそれはそれで決してこの事に口を容れる筈はない。」
井上「現に最初は、『(呉は)自分もこの事に関係ある者なのでここで議している事は公の事なら公と言ってもらいたい。これは拙者と貴官と両人の私事ではない。』と言い、後には権利上の事に至っては『自分は朝鮮国の事を査弁するためにこの地に派遣されたので大使には関係ないから』と言った。」
金 「なにとぞ大使には御承知なかったことと致したい。最初には何を申して来たのかは知らないが、後には大使には関せずと言ったので即ち大使には関係ないものと御覧下されたい。」
井上「何にせよ、困った問題が起きたものである。」
金はその後もくどくどと言い訳を続けたが、
井上「それならば清官に相談されるような事はないか。」
金 「もしこの事に関係を受ける処があるなら今日の談判は決さずに相談するだろうが、拙者は今日ここで決すると言っているのでその関係はない事を御承知ありたい。」
井上「今日談判が纏まらないなら又いかなる関係を生じるかも分からない。よって速やかに議決し今日この場で調印ある事を望む。」
金 「今日事を決して清書の上で明日に調印すべし。決して言を変えない。」
金宏集は、公使館の件も誰が焼いたという記述のみを削除することを望み、さっきとは変わって四万円は支払うと約束した。
そこで井上は、
井上「どこか高い場所でいくらか修繕を加えれば住めるだけの家屋を土地と共に交付あって、その上で修繕料として二万円をお渡しされてもよい。この二万円は一度はこちらにお渡しあるも矢張り貴国で使用してしまうので政府を出て人民に入るのみで貴国の外に出るものではない。」
金 「誠に公平の御説で感服の外はない。」
これにより井上の条約案通りにほぼ整い、翌日の9日に調印となった。
なお金宏集からは、乱党の者が日本に逃亡していると聞くので日本政府で捕獲して朝鮮に交付してほしい、との要望も出したが、井上は、
井上「これらの件は多く先例があることなので、モルレンドルフ氏にも相談ありたい。もっともこれは万国公法によって言えば頗る理解し難いものなので先ずモルレンドルフ氏と御熟談ありたい。」「公法に従ってその論を極めた上でなければ何とも処置し難い。」
と述べ、斎藤書記官を通してそのことをモルレンドルフにも伝え、彼からも金宏集に説明させた。
いわゆる「犯罪者引渡し協定」が両国間に結ばれていないのでどうしようもない、という意味である。
呉の誤算
それにしても清国欽差大臣呉大澂は何のために日朝談判の場に闖入したのだろう。彼の傍若無人の振る舞いは、却って金宏集の立場を不利にし井上の交渉を有利にさせただけであった。
呉が金に書した、乱党のことを不問にするなということも、これを問題にすれば必ず「その時は貴国大君主にもここにお出でを願うことに至るであろう。」との井上の言葉によって、それが出来ないことに金も気づいたはずである。すなわち国王が証言席どころか被告席に立たされることにもなりかねないと。
呉大澂は宗主国としての権威を見せたかったのかもしれない。しかしそれが何の意味があろう。
井上はこの時の事を後に、
「頗る我と朝鮮政府との議事に干預せん事を望めり。然らば則ち何ぞその来るの唐突なる、何ぞ相見の順序によらざる、外交の道を知らざるまた其の甚だし。臣実に憤懣に堪えざり(全権大使井上馨帰朝復命ノ件)
」
と書いている。
井上馨は気に染まぬことがあるとその場で一喝することがあり、それであだ名が「雷」だったそうである。しかしそれ以上にまことに戦上手の人でもあったようである。
|