日清戦争前夜の日本と朝鮮(6)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

王宮正門、光化門 年代不明

 

竹添公使への尋問

 さて、先の督弁趙秉鎬らの談判で竹添公使は、話を国王の要請による保護の行動であった事を証拠立てることに限定し、それ以外は「他事は機会を改めて談ずべし。」「別の論題に属するものである。」と言っているが、正直のところ彼はどこまで関与していたのだろう。

 12月13日に報告を受け取った日本政府も、竹添公使の報告では今ひとつ事変の内容が不明瞭であるところから、先に調査のための人間を派遣することにした。それにより明治15年の朝鮮事変時と同じく井上毅参事院議官を派遣することにした。井上外務卿の上申書によれば、「一刻の猶予もならないので16日の今日幸い汽船蓬莱丸が現地に向かうので取り敢えず先に乗り込ませた。通例の手続きではないがこのことを上申書に添えて内稟する」とあり、いかにも急いでいる様子が伝わる内容である。(外務卿内稟朝鮮事変実地視察ノ為メ参事院議官井上毅出発ノ件)

 しかし実はこの前の14日に井上は栗野慎一郎少書記官を先遣し17日にそのことを三條太政大臣に上申している。(少書記官栗野慎一郎神戸ヨリ朝鮮仁川港ヘ出張ノ件)
 そしてこの栗野書記官こそ、竹添公使や村上中隊長などを直に尋問するように命じられて派遣された人のようである。

 以下、栗野書記官の復命書から抜粋して記述する。

(「朝鮮事変/4〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」のp8より、問答以外は要約。現代語に、()は筆者。)

 12月14日午後5時に汽船相模丸で神戸発。19日午前10時仁川港に着く。
 日進艦、米国旗艦トリントン号、英国軍艦アルベトロース号(途中仁川沖で合し、海路不案内から相模丸に追随して到着する。)それぞれの士官が挨拶に来る。

 その後、仁川領事館に赴き竹添公使と面会する。その時の尋問応答は以下のようなものである。(は栗野書記官、は竹添公使である。)

第一問  「過般来書中に、朴泳孝、金玉均等が島村(島村久領事)に内話した、支那党を退け或いは暗殺するという策は、その後に暴徒(朴泳孝ら)に面会した時にその非挙たるを抑止するために十分に説諭したのか。」

    「十分に説諭した。」

第二問  「その後に何か事情を述べて助力を乞う内談があって、後に今般の暴挙に及んだのか。」

    「そのことは絶対にない。」

第三問  「この暴挙の前後に、国王から公使に直接または間接に何か依頼したようであるが、その依頼は王の書面なのか又は使をもってしたのか。依頼の証拠となるべき物はあるか。」

    「内官が国王の親書すなわち石筆をもって『日使来衛』と認めたものを携えて来て、入宮を督促した。よって兵を率いて王宮に到り護衛した。」

第四問  「内官が親書を携え来て、その後に国璽をツした白紙を領収されたのは誰からで何日のことなのか.」

    「翌五日の夕刻に王宮に於いて侍臣金玉均から領掌した。」

第五問  「最初日本兵が王宮に入り、朝鮮兵と共に国王を守護するに至ったのは、朝鮮兵の司令官または確たる者から打ち合わせがあっての事なのか。」

    「朝鮮兵においては一切関係はない。」

第六問  「支那兵の指令官から公使に送った書簡は何時に何処において何人から受け取ったのか。」

    「発砲の音を聞くや否や同時に島村から受け取った。」

第七問  「清兵が王宮に進入する時は発砲しながら入って来たのか。」

    「入り込んで充分に配置して不意に発砲を始めたのである。」

第八問  「清兵が日本兵より先に発砲した証はあるか。」

    「王宮の各門は日本兵には関係ないことが第一の証拠である。」

第九問  「日本兵はいかなる場合に於いて清兵に発砲を始めたのか。」

    「彼の銃弾が続々と来る時から余の命令により応銃した。」

第十問  「如何なる事情により朝鮮兵は清兵と連結して我が兵に投じられたのは、如何なる機会によるものなのか。」

    「朝鮮兵は常々清兵を恐れ、またその式を学んだ者は皆その命令に従うまでである。投じられたとは、朝鮮兵が陣に入れられたのを言うのである。電信文字の誤用である。」

第十一問 「暴徒が暗殺をし遂げた時に、朝鮮政府から新官吏を任命した通知があったか。また政府からこの挙の顛末について報告することがあったか。」

    「これはなかった。但し督弁金宏集から第一次の照会(質問状)があったのみである。」

第十二問 「参朝の留守中に朝鮮兵が支那兵と共に我が公使館に発砲したとの由、それは確かに我に対するものなのか、または偶々流れ弾などが波及したものなのか。砲弾などの痕跡などが残っているか。」

    「清兵が少数にて公使館を襲撃した事一回。朝鮮兵の襲来するもの二回。」

第十三問 「清兵が公使館を攻撃したその証左はあるか。」

    「大庭四等属官が公使館の門を守衛した時に、清兵が十人足らずで発砲して来るのを見受けた。」

第十四問 「清兵の司令官に送った書簡に対し更に返書などが来ていないのか。」

    「返答はあった。機密信第六号付録丙号。(12日に接受した返書のこと。)」

第十五問 「この暴挙の後に於て、朝鮮政府に対し何事か照会したことはないのか。また政府から照会は来てないか。」

    「いずれもあった。機密第五号に明らかである。(12月7日午前8時頃の金宏集からの書簡、またそれに対する同日の竹添公使の書簡のことと思われる。)」

第十六問 「暴徒は如何なる処分となったか。処分後の官吏の任免はどうなったか。」

    「洪英植は殺害された。その他は脱走した。金宏集が大臣となり趙秉鎬が督弁となった。」

第十七問 「金玉均等の行方は分からないのか。また何処に逃走したとの評判はないのか。」

    「済物浦に逃げ来たとの風評はある。しかし余は全く知らない。」

第十八問 「清兵司令官は今なお王宮にあって内政を指揮しているのかいないのか。」

    「王宮にはいない。司令官三人のうち袁世凱なる者が総て内政を指揮し、金宏集やモルレンドルフなど皆それに顎で使われている。」

第十九問 「暴挙が起こった際に米公使英領事から何か通知などはなかったか。またその公使領事と朝鮮政府との間において何か通知などはなかったか。」

    「米英は我が兵二名ずつを借りた。国王から御依頼の末、頻りに中間にあって周旋した。米公使は実心から朝鮮の為に図るといえども、モルレンドルフに妨げられている様子であった。」

第二十問 「米公使英総領事は今般の暴挙を傍観して如何なる意見を持っているのか。」

    「只々無事を祈るのみ。」

第二十一問「暗殺にあった朝鮮人名及び日本兵の負傷人員を詳知したい。」

    「閔台鎬、閔泳翊<未だ死せず>、趙寧夏、閔泳穆、李祖淵、尹泰駿、韓圭稷である。戦闘中に我が曹長一名兵卒二名死に負傷者は七名あり。(磯林歩兵大尉は馬で地方を視察した後に帰ってきたところを群集に襲われて死亡。)」

第二十二問「京城に於いて平素のように我が公使館を保持することが出来るか。または危険の患いがあるか。」

    「すでに焼失した。」

第二十三問「公使館焼失の報告は誰からしたのか。また何等の証拠はあるか。」

    「京城から逃走してきた者たち並びに韓人の報せによれば出発の後に朝鮮人どもが同館に飛び入り物品を盗み出し火を放って焼き、煉瓦築造の西洋間は薪類を入れて焼いたと言う。」

第二十四問「清国から援兵を送るとの風説はあるか。」

    「ある。海陸から来ると。しかし全く無根の説と信じる。」

第二十五問「4日の夕に大臣などを暗殺したときは、ただちに日本兵で城門を警衛していたか。」

    「日本兵で警衛したのは同夜の十一時頃で、その前後にあった事ははっきりしない。」

第二十六問「同日夕に大臣などを王宮に招見した理由は何故か。」

    「朝鮮国では政事を評議し或いは重大事件のある時は、大臣を夜間に招見するをもって例とする。その夜の招見もまたこれに他ならないはずである。」

第二十七問「暗殺をした者は誰であるとの評判なのか。」

    「朝鮮政府では金、朴、洪、などを凶徒と言う。すなわち彼らの処置にでるものだろう。」

第二十八問「日本人が殺傷されたのは支那兵の手によるものとの証左はあるか。」

    「ある。写真師杉岡なる者などの言を聞くべし。」

第二十九問「朝鮮外務卿趙(秉鎬)氏の照会文中に朝鮮の婦女子三、四十名殺傷されたとある。何等の処置に出たのか。」

    「信ずるに足りない。しかし朝鮮人が日本人に殺傷されたのは察するに途中での防御の時のはずである。」

第三十問 「現今、甚だしく日本人を敵視するのは何に起因するのか。」

    「支那人の扇動に係わりがある。」

付言  五日頃、清兵司令官袁世凱が支那人に布告して言ったことに「日本人を虐殺すべし」と。仏国の宣教師がこの事を伝聞し「老弱婦女だけでも救助したい」と「アストン」氏に通知の書信を、竹添公使は一見されたる由。

 続いて同日19日午後、村上中隊長に尋問をした。
 それによれば、「当日の敵兵は凡そ1500人であり、対して我が兵はあまりに少数であったが、敵兵は(射撃が)未熟で弾丸の殆どが頭上を経過したことは真に幸いなことであった。」「弾丸2万発の内3分の2を消費した。」「王宮に向かった時に、兵士ではない6壮士に兵営を守衛させていたが、暴徒のために5名が殺害されていた。1人は不明である。」「兵営に残していた若干の軍器と糧食は悉く奪われていた。もしこの略奪がなかったら5、6ヶ月は維持できる糧食の準備があった。」と述べた。その他は「明治十七年朝鮮京城事変始末書」の内容とほぼ同じである。

 

独立党三要人(昭和7年1月1日発行 別乾坤附録 近代朝鮮人物画報)より

 

清政府の事変始末書

 朝鮮政府からの書簡や事変事実書、また清軍提督の書簡や上申書あるいはまた清国政府が日本に交付した事変始末書など、様々に事変に対する経緯を記述した手紙や書類が公文書として記録されている。
 しかし、それらには日本側の報告書や始末書と大きく違う点がある。それは事跡に対して同一の記述が殆どなく、てんでばらばらということである。

 清軍提督が竹添公使に出した書簡、また清政府への上申書、李鴻章北洋大臣の文書など、どれをとっても事変の経緯が詳細の部分でそれぞれ違っている。
 いったいこの国で現地の武官の報告は意味あるものなのだろうか。「適当に書いて送っておけ」で充分通用しそうである。どうせ適当に書き替えられるのだからと。
 朝鮮政府のものも同様である。金宏集、趙秉鎬など、両者の間で事変経緯の共有すらされていないようである。ちょっと確かめれば分かることを自分の思い込みを優先して決してそれをしない。

 竹添公使はそれらの一つ一つに対して反論を記述しているが、ここでは清国政府からの北京大使館の榎本武揚公使に対して交付された正式な「京城事変始末」とも言えるものを掲載する。なおそれを受けた取った竹添公使は細かに反論しているので、その文も挿入しながら共に記述する

(「朝鮮事変/4〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」のp47より意訳。竹添の反論はp49。抜粋して現代語に。()は筆者。また清政府始末書は青色文字で、竹添の反論は「」黒文字で記述した。 )

清国官吏の報告による京城事変始末書(竹添公使の記述によれば「朝鮮變亂事實書」が正式らしい。)
明治十七年十二月

<清国総理衙門から榎本公使に交付されたもの>

 総理衙門から榎本公使に送られた「朝鮮変乱事実書」に記録するところの多くは捏造している。その歴然たるの項を挙げて弁駁する。

 

 朝鮮の乱党、金玉均、朴泳孝、洪英植、朴泳教、徐光範、徐載弼など、皆日本に遊歴している。国王は外国の情勢に通じているところから郵政局等のことを委令した。そのことで閔泳翊と金玉均が言い争い極めて対立した。

 十月十七日(日本歴12月4日)午後、道を歩く人が見たことに、日本兵は日本公使館に集まり大砲弾箱を運搬して往来が絶えず、甚だ疑わしかったと。

 「我が国の兵制は、歩兵、砲兵、騎兵、工兵等、いろいろとある。京城駐留の護衛兵は即ち仙台鎮台歩兵第四聯隊第一大隊第一中隊である。歩兵中尉二人、歩兵少尉二人、各一小隊を率い歩兵大尉これを統べる。もちろん砲兵ではない。ましてどうして大砲があろうか。『大砲弾箱を運搬する』は捏造である。一中隊は百二十人(他に百五十人の記述もある。)に過ぎず、その弾薬運搬に往来が絶えなかったとはおかしい。護衛兵が公使館に来たのは郵政局の隣家で出火があったからである。以下詳しく『事変始末書』にある。」

 この日戌の刻(午後7時〜9時ごろ)に郵政局総弁洪英植は局にあって宴を開いて客をよんだ。ただし日本公使は来なかった。この時にしばらくして金玉均等はいつか外に出て行き、その行動は不可解だった。

 鐘が八つ鳴る時(午後8時)に外で火事起こったと聞き、閔泳翊は外に見に行き門を出た。すなわちこの時に賊に襲われて倒れた。座客は皆帰った。

 金玉均、朴泳孝、徐光範等はすぐに王宮に入り、兵変があったと声を上げ、(国王に)即刻移宮あってこれを避けることを請うた。且つ日本公使に入衛の御依頼ありたいと申し上げるに、国王は承諾しないので金玉均等は大声をあげて泣いて国王に迫り、ついに宮を移り眷属は付き従った。

 宮門に至った時に、すなわち砲声を聞いた。乱党は外兵が大いに攻め寄せたと喧伝した。その実砲声は乱闘が伏せ置いたものからであった。

 金玉均等は日本公使の入衛を召すようしばしば要請した。王は承諾しなかった。金玉均等はついに懐から紙を出して、鉛筆を用いて「日使来衛」の四字を書き、これを王諭と偽り伝え、日本公使館に送った。またしばしば人をやって催促した。

 四更の時(午前2時前後)、国王は景祐宮に至り日本兵の布満せしを見る。これを守宮の人に問えば、日本兵はすでに二更の時(午後11時ごろ)に於て先ず到着したと。

 「午後八時からこの時までのことを事実と見做し、また国王が午前二時に景祐宮に至ったことを事実とするなら、国王は八時過ぎに宮門まで出かけ、それからおよそ六時間は宮門内に居られたことになる。この時の情勢に於いてそのようなことはあり得ないはずである。また、日本人は未だかつて景祐宮に行ったことはない。簡単にその宮殿の形勢を知ってすぐにこれに入るということがどうして出来ようか。また凶徒が先導したともし言うなら、この状況で彼らにその余裕はないだろう。まして宮の諸門は夜間は必ず厳重に閉じている。我が兵がそれを破って入ったとするなら、どうして門番はこれを問題とせず、また他の者に告げなかったのか。」

 ついに国王を一室に置く。日本で学習していた士官生徒等十三人が囲んで左右を擁した。日本兵は門を囲んで巡っていた。人の出入りを禁止し、十八日(日本歴五日)(午前)、李祖淵、韓圭稷、尹泰駿等が、中国軍営に救援を通知しようと欲したが、そのことが漏れて被害にあった。

(別文で反論「門を守っていたのは韓兵。出入り禁止ではなく、国王の裁可を得る許可制。」)

 金玉均等はまた国王の命令と偽って、閔泳穆、閔台鎬、趙寧夏、などを召し出して入宮させた。一度に殺害した。内官柳在賢は国王の面前で殺害された。

 この日午前十時ごろ、乱党は国王を擁して王宮の外に出て李載元の家に移った。百官軍民が随ったが一人も中には入れなかった。日本兵が立って門に近づく者を刀を揮って追い返した。

 「国王が李載元の邸に遷られ、韓兵は邸の外周を警衛し、我が兵は皆邸内にあった。どうして門外の者を追い返すことが出来るのか。且つ我が兵は士官の他に刀を携える者はいない。そして士官が門番をすることはないのである。」

 この日の午後に乱党は自ら除官をした。
洪英植は右議政に、金玉均は戸曹参判に、朴泳孝は兼帯前後営使に、徐光範は兼帯左右営使協弁交渉通商事務及び署督弁に、徐載弼は前営正領官となった。
兵も財もすべて乱党に帰した。

 「この日、李載元は左議政となり、金宏集は漢城判尹となり、尹雄烈は刑曹判書となり、申箕善は都承旨となるなど、その他に除官する者は少なくなかった。そして自ら官位についたものではなかった。されば李載元、金宏集、尹雄烈、申箕善などに限っては特に王命によるものであり洪英植、金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼、朴泳教は自ら官位に着いた者というのか。どうしてこのような理屈が成り立つだろうか。当時の政府発表にそのような区別はなかったことは公衆の知るところである。」

 また(国王)廃立の議があるに到った。

 「これは朝鮮国内部のことであるからもとより他国人があずかり知るところではない。しかしながら、いわゆる乱党なる者は専ら国王をたのんで事をなすもののようであった。はたして騒擾が治まっていない時に当たって廃立の議を起こすことは、自ら求めて滅びるようなものである。常軌を逸した者といえどもそれはしないところである。」

 午後六時ごろ、再び国王を擁して王宮に還った。日本人は乱党にくみし王宮内で守備を厳格にした。

 ここに至って京城全ての人が騒ぎ、国王の存亡を誰も知らぬこととなり、それで官民は談議して中国軍営に救いを求めた。政府の沈舜澤等がついに来て我が兵が入宮して保護することを請うた。

 「清提督から送ってきた信書には「内外署から来文があっての請求」と言い、この書では「沈舜澤が来て請う」とある。一つの事実に対して言っていることが符合しないのはどうしてか。」

 十九日(日本歴6日)の午前十時頃、提督呉兆有、袁世凱、張光前等、兵を率いて進んだ。門は閉じていて入ることが出来なかった。
 ついに書簡を日本公使に送った。「久しく(午後)三時に至っても撤兵しないわけを問う」と。回答はなかった。

 「清提督から余に送ったのは『乱民内変があり朝鮮諸大臣八人を殺害し、王城の内外服さず、まさに貴兵を攻めんとするを現に聞く。自分達は国王の驚きあるを悲しみ、また貴兵が困難を受けるを恐れ、ただ兵隊を派して王宮に進める。一つは国王を保護するため、一つは貴兵を援護するためであり、別に他意は無い。安心するよう努めて望む。』である。そこに『撤兵しないわけを問う』を意味する文はない。この明々白々の証拠があるので、このことから推量してもその他の(記述している)事実は皆信ずるに足りないと断定するに充分である。」

 この日の午後四時ごろ、袁世凱は三つに分かれ門を排して入る。朝鮮の清式練兵また随う。まさに門を通ったとき、朝鮮の乱兵が前にいて銃を撃ってきた。日本兵もまた門の楼上にいて門の隙間から銃撃してきた。(弾丸は)雨のように下った。銃撃に斃れた我が兵は五人、負傷した者は九人、朝鮮兵の死んだ者は八人だった。

 「呉兆有らが送った書簡には『地雷大砲一時に並んで発し我が軍死傷四十余人』と言いきっている。陣長慶から加藤義三に送った信書には『数重の門を通るもついに貴所の一人を見なかった。各門の銃丸が穴窓から飛び出てまさに雨の下る如し。また我が軍数十人を傷つく。また天すでに暮れんとす。初めて貴兵数十人が高所から往来するを見る』とすでに詳しくその時の状況を述べて『日没まで我が兵を見ず、また数十人を傷つく。』と明言している。それを我が兵が『門の楼上にあって銃を放ち、死亡五人負傷九人』と言うのは全く作り話をしているのを証明しているに足る。まして王宮の各門は悉皆韓兵がこれを守り、我が兵は寝室を環衛するのみであり、何の暇があって楼門に登ろうか。」

 この日の午後六時ごろに日本兵と乱党は国王を擁して後苑に入った。日本兵は樹木の後に隠れて銃を撃ってきて我が兵は近づくことが出来なかった。

 「我が兵は寝室を環衛し、その前面は小谷中尉、右翼は安藤少尉と面高中尉、左翼は大西少尉で各々その部下を指揮した。この寝室の周囲には樹木はなかった。支那兵の襲撃に遭うや小谷は前面にあって防戦した。支那兵が左翼に突出すると大西少尉が防ぎ、撃って敵を退けた。清韓兵が右翼から大いに来て迫った時も、面高、安藤、これを防ぎ悉く撃って退けたのみであって、以前から守る戦線は一歩も退いていない。戦が止んだ後も守線に居た我が兵を収集するのに時刻を費やしたほどである。どうして分散して樹木を探し身を隠すことがあろうか。」

 後にまた国王を移して北墻門に至る。ついに衛士が門を開いて(国王を)保護して宮を出る。乱党はそれを阻み遮ることが出来なかった。(乱党は)日本兵が出て行くのに皆従った。ただ洪英植、朴泳教と学習士官七人は北闕に至った。

 「国王に随従するものは十余人の侍臣のみであって、別に衛士なる者はいなかった。国王が後門から出行の状況は『事変始末書』に詳しい。また我が兵が後門を出る頃は夜の暗黒で人の顔も判別出来なかったが、各自には序列があるので他人が混入することは出来ないことである。」

 午後十時ごろ、呉兆有等は兵を率いて北闕廟内の国王を迎えに訪ねた。洪英植、朴泳教はなおまた叱って阻んだが、国王はそれに従わなかった。呉兆有等は国王の乗る輿を護衛して共に清軍営に往った。人民は国王が清軍営に到ったのを知り喜びの声が雷動した。

 国王はなお乱党が宮中に伏せているので敢えて王宮に還らず、清軍営に3日居た。朝鮮の兵民の憤怒は極みに達し、洪英植、朴泳教、ならびに学習士官七人は廟内で登る時に切り殺された。

 二十日(日本歴7日)午後四時ごろ、日本人は書類を集めて石油を注いだ。この時刻頃に火が起き公使館は焼けた。

 (当初、趙秉鎬は「日本人が自分で公使館を焼いた」と言っていたが竹添から反論されて引っ込めた。しかし竹添はここでの記述にまだそれを感じたのであろうか、ここでも反論文を書いている。)
 「京城を退いた後に、韓人支那人が乱入して物を取り出してその後に火を放ち、洋館はなお焼けずに翌日になって韓人が薪を積んで燃やした。これは我が国の人で後日に逃げ帰った者が目撃したことである。どうして保護を朝鮮政府に頼んで却って自ら焼く理由があろうか。」

 日本公使は兵を率いて京城を出て仁川に逃げた。途中で人民が群れをなして攻撃をし、日本兵は発砲した。人民婦女子の死者が甚だしく多かった。国王は官員を派遣して騒動を禁じた。

 「我が一行が公使館を出るや沿道から矢を放ち石礫を投げ旧王宮の前では左営の兵が大砲小銃を以って攻撃し、これより追撃が絶えず、漢江を渡り終わって初めて止んだ。もし官員を派して騒動を禁止したというなら、どうして途中の攻撃追撃があったのか。」

 軍提督らは日本人が子女を道に遺棄しているのを知り、仁川に護送し、竹添公使が受け取った。

(竹添は「子女を道に遺棄」についても別文で反論している。すなわち「我が国の子女は米公使館に避難した者が三人、清軍営に虜にされていた者が三人、王宮での防戦中に(市内で)一人が清韓兵民に虐殺された。これは皆、京城を去らない時のことである。館内の婦女は全員仁川に連れてきている。何を指して遺棄と言うのか。」と)

 「これは実に米公使の厚意によるものである。米公使は朝鮮政府ならびに清提督に照会し、害を日本人に加えないことを言明させ、その後に清朝の兵を借りて館員海軍士官ベルナドン氏を派し、以って我が人民を護送して仁川に至る。今すなわちこの挙を清提督によるものと言うのは、これ鄭荘肩を射て左右に労するの故智に倣うものである。現に米公使の書簡にあり、明らかなことである。」

 二十三日(日本歴10日)、人心ようやく治まり、提督は国王を王宮に送還した。
 袁世凱が兵を率いて王宮に駐屯して保護した。しばしば国王は相談にあずかっている。今はすでに袁世凱は軍営に戻っている。

 

捏造、風説、想像に基づく

 この清政府の事変始末書を見て、先の清提督の書簡(12月12日接受)と随分違うことに気付くであろう。
 まず、清軍提督が最初に送った書簡が、12日のものからも窺えるように明らかに「王を護衛し日本軍を援護するため」という内容であったものが、始末書では「久しく撤兵しないわけを問う」に変っている。
 これには経緯があり、19日付で袁世凱の幕賓(補佐する僚友のこと)陣長慶から送られた書簡には「我が国の兵を王宮に入れれば猜疑されることを恐れて先ず信書を貴公使に送ったが久しくしてまだ返事は返らなかった」とあり、信書の内容には触れていない。そしていつの間にか「久しく撤兵しないわけを問う」に変るのである。
(「朝鮮事変/3 〔明治17年12月19日から明治17年12月25日〕のp30」)

 また、
・「日本兵は日本公使館に集まり大砲弾箱を運搬して往来が絶えず」、
・「京城全ての人が騒ぎ、国王の存亡を誰も知らぬこととなり」
・「日本兵が立って門に近づく者を刀を揮って追い返した」
・「日本兵は門を囲んで巡っていた。」
なども「新たに判明した事跡」として加わっている。実はこれ、趙秉鎬が竹添公使に送った書簡(21日接受)に全部書かれていたものなのである。(「朝鮮事変/3 〔明治17年12月19日から明治17年12月25日〕」のp57)
 これらが加わったことで、竹添公使らが計画的且つ専横的に振る舞った印象となっている。

 趙秉鎬は先述した竹添と趙秉鎬との談判で、自ら言っているように「庶民の風説に拠り認めた事実で」と風説をそのまま事実と認める人物である。
「日本兵が6大臣を殺した」と最初に言ってきた人でもある。もちろん日本兵が殺したということは後の竹添の反論を受けてから引っ込めているが。

 捏造、風説、想像、に基づく。これが清と朝鮮の記録書のスタンダードということなのであろうか・・・。

 

竹添公使の覚悟

 竹添進一郎の怒りのボルテージは上がるばかりであった。
 怒りのあまりに竹添は日本政府に対してまで次のような電報を井上外務卿宛に送っている。

(「朝鮮暴動事件 一/2 〔明治17年12月20日から明治18年1月4日〕」のp20より要旨、現代語に、括弧は筆者。)
 明治十七年十二月二十五日竹添公使より外務卿宛電報

 朝鮮政府から拙者に送る書簡中には傲慢無礼の文字及び語気が多いので今は手紙の遣り取りよりも京城に行って直接談判をすることを決意した。充分の談判を行って拙者に送ってきた書簡を引き取らせ、以って朝鮮政府の過失を覚悟させた後でなければこの事件の解決の望みはないであろう。もし彼らから満足な返答がないなら拙者はまた仁川に戻って日本政府からの訓令を持つものである。
 これは(井上)閣下には、和平の精神に反するように見えようが、事の重大さを思い我が国の栄誉の保護を熱望するがゆえの止むを得ない手段である。しかしもし失敗すれば即ち拙者は現時点での和平の取り計らいを断念する時である。
 この場合に於いては、かなり速やかに軍隊を送って手詰めの掛け合いをし報復の処置をするべきである。
 もし閣下がなお和平の談判をなさんと欲っせられれば、速やかに一使節を送って拙者を相当に処分される外には他の手段はないであろう。

 電報であるから候文ではないので余計に竹添が断乎とした調子で井上に迫っている文章に見える。竹添はもはや武力による解決しかないと考えているようである。

 

再び開戦の危機

 実際、事変解決の方法が他に見出せない事態になりつつあった。

 北京の榎本公使の報告(12月19日発)によれば、駐清英国公使は「日本は京城の南岡に堡塞を建築し、日本の精鋭部隊を増強して駐屯させるべきである。また安全を得るために仁川沖の島を占領することを朝鮮に向かって要求するのは日本にとって当然且つ得策である。勿論これによって生じる費用は朝鮮政府において負担すべきものである。」と述べた。(「朝鮮事変/3 〔明治17年12月19日から明治17年12月25日〕」のp1)

 京城駐在米公使は12月23日「日本政府はその要求するところを何なりとも清韓両国に提出してその要求通りになすべし。(どのような要求をしようが)世界中の誰が日本に対して一言をする者があろうか。」と言い、またフランス政府もとんでもないことを打診してきた。

 

フランス政府、援軍を申し込む


 (「朝鮮事変/3 〔明治17年12月19日から明治17年12月25日〕」のp2、「朝鮮暴動事件 一/2 〔明治17年12月20日から明治18年1月4日〕」のp24、より。)
 フランス政府は在日本仏公使に対して日本政府に援軍と同盟関係を申し込むことを問い合わせる動きを見せた。それは仏国政府から正式に出された発議であった
 ついては、4艘の甲鉄軍艦と1万6千人の兵士を派遣することに決したとの旨、駐清仏国公使が上海の安藤領事に伝えた。
 そのことを報告する安藤領事から井上外務卿宛ての電信(明治17年12月20日発)では、「いかなる種類の同盟を求めるのか判然としないが、仏国公使は国債の件にも話が及んだ。なお詳細は次の便で申し上げるが、極々機密扱いするように仏国公使は依頼した。」
とある。国債のことは、後にパリで戦時公債を募集するように勧告しているのであることが判明した。

 このころフランスはベトナム国を占領しており、宗主国の清とは事実上の戦争状態であり、和局はまだ結んでいなかった。
 今また日本と軍事同盟を結んで朝鮮問題に関わらんとするフランス国の魂胆は見え見えであったが(北京公使榎本武揚はこれをフランスの「色気話」と揶揄している)、この後に日本政府がまともに相手にした様子は無い。

 

清韓、態度を硬化

 朝鮮政府も円満解決よりも、礼曹参判徐相雨とモルレンドルフを日本に派遣して日本政府から竹添公使を追及させようとの動きに出た。(12月16日接受)

 また、12月31日に北京の榎本公使が発した報告によれば、このほど朝鮮国王の名で人民に布告が出されたことを清政府が伝えた。
 それによれば、

 竹添は今回の変動を幇助し国王に対して脅嚇を用いた。
 日本兵は国王の保護のために来た清兵に向かってまず発砲した。
 閔泳翊を暗殺した徐載昌は捕縛され罪を全て白状した。
 竹添は自ら不意に公使館を焼き払って逃げ去った。
 国王が思うのに、これらは万国公法に違反しているために条約締結各国公使に於て公平の論があるべきである云々。

(「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」のp35)

 と一歩も譲らない勢いである。(全くの同文ではないが「海門艦長児玉海軍中佐報告朝鮮政府ヨリ同国人民ヘ告諭書ノ件」に掲載されている。)

 かつて朝鮮政府が日本に対してこれほど強硬に出たことは無い。政府内部が支那党の一枚岩となったからか、あるいは清官の扇動によるものなのか、竹添は全く清官の悪意によるものとの見方を示している。
 かつて竹添が「学問も有り極めて忠諒真率なる人物」と評した提督呉長慶はここにはいない。しかしその部下であった袁世凱たち支那武官を信頼する心もあったはずである。それだけに余計に裏切られたという気持ちが大きかったのではなかろうか。

 清国北洋大臣李鴻章も清国政府に上記の「清政府の事変始末書」と同じような報告をしている。
 違うのは、
・ 当日に清軍営に保護を求めたのは「南廷哲」、
・ 銃撃交戦して日本兵が退走した、
・ 日本人自ら公使館を焼いた、
・ 公使館を出て仁川に向かう途中で日本兵が多く傷つけられた、
などいくつかあるが、これらにも竹添は一々反論している。
(「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」のp40)

 榎本武揚は竹添への手紙(12月19日書)で「天津李氏(李鴻章)は頗る貴兄を悪し様に申している。今度一度その鼻っ柱を取りひしいでくれようか、と思っている。」などと述べているが、もって李鴻章や清国政府の態度が伺われる。

 同じ手紙で、榎本公使は「僕の考えでは、事の次第によっては止むを得ずに清と開戦せざるを得ないことは勿論であるが、なるべくは邦人は全く清兵に殺害された確証があれば、謝罪、謝罪金の処置をし、朝鮮政府の改革を勧告し、そして前文の条款どおりにするのがしかるべきと今のところは思っている。」とも述べているが、以上の様々な情報によれば容易にそれが出来るとは思われない情勢になりつつあることを示していた。

 もはや日朝間に於ても日清間に於ても事件の詳細で議論噛合わずに深刻な対立となる可能性が大きく、国内世論の動向によってはついに開戦やむなしに至るかもしれない事態である。

 日本にとって歴然たる事実は、日本軍兵士が戦死していること、そしてなにより無辜の民である日本人民間人が大勢虐殺されていること、しかも婦人までが殺されたこと、日本公使館が襲撃されたこと、ということである。囂々たる世論の声は清国朝鮮国非難に向けられたのは勿論であるが、また竹添公使と金玉均らの当時の行動についても様々な憶測推測が飛び交い、大小の新聞は様々にそれを書きたてた。

 

国内世論と新聞記事
(以下、残酷な描写の部分が出てきますのでご注意ください。)

 この頃、日本政府が何とか世論の暴走を押さえようと躍起になっていたことが窺われる資料がある。「朝鮮事件新聞検閲一件」の簿冊である。

 朝鮮・清国と談判の真っ最中の明治17年12月から翌年3月4月ぐらいまでの期間、新聞条例に基づいて朝鮮事変に関する新聞や雑誌の記事などを検閲することについての様々な報告書・上申書類である。

 検閲対象は、外交機密に関すること、明らかなデマや風説、妄りに清韓両国を誹謗中傷する文字などを用いること、ただし批判はこの限りではない。政府方針に対する指弾、開戦を主張して人心を扇動するもの、陸海軍の動向に係わること等々であったが、その時期の政事課題の変化によって種々その許不可も変化したようである。
 事変報道の当初は検閲も後手に回ったようで、記事になってから慌てて掲載不可を指定するといったことも多く、あらかじめ新聞や雑誌の発行人を呼んで検閲の趣旨を説き内規を伝えて違反のないように注意するのであるが、現場の編集人には伝わらずに違反記事が掲載されてしまい、新聞条例には当の現場の編集人を罰する規則はないのでどうしうようもないと担当部署が困惑することもあった。

 以下、検閲に関していくつか拾ってみた。

・井上角五郎の直話をめぐってのトラブル。掲載不許可の部分のみが他紙で掲載されていた。
・秘密に属する新聞検閲内規そのものを立憲政党新聞がうっかり掲載してしまった。
・新聞に、「京城から釜山草梁に逃げてきた朝鮮人李某の証言によれば『六日の夕に清兵が西大門のところで日本人の妊産婦の腹を切り裂いていたのを見た』」という記事が掲載され、後に検閲内規に「甚だしく人心を激動させるもの例えば清兵韓民が我が国の妊婦の腹を裂いたなどというものの掲載も不許」とした。
・新聞広告として、義勇兵の美挙があるからその出兵準備を周旋するとして種々の書籍を売らんとするもの。意義不明にして不穏を煽るものであると不許可とした。
・新聞に「竹添公使入京の際に支那兵が日本人巡査と警部を拒み終には発砲して警部の耳の近くをかすった」という記事が掲載されたが取り消すべきかどうか。(後に事実と判明。それで巡査も抜剣したところ支那兵は銃剣で突いたが巡査の衣服が破れたぐらいのことで後に無事に公使館に帰館した。)
・内規に、京城に於いての談判結果を攻撃することは勿論、不満を表明する記事を掲載不許可とすることを追加。但し記者個人の思想を語るのは自由。
・内規に、竹添公使が乱党に与していたと言い、日本が乱党を匿っていると言い、日本兵が先に清兵に発砲したという記事を書くことを不許可とするを追加。
・内規に「新聞の論説を検閲する主意は、外国と交渉する際に於て、全国の人心をなるべく一致の方向にさせ、支離することがないようにすることにある。」を追加。
・内規に、竹添公使を誹謗する文字を用いることを不許可とするを追加。
・内規に、日本兵が敗北したと捏造記事を書くのを不許可とするを追加。
・内規に、中国人のことを『チャンチャン、豚尾』、朝鮮人のことを『韓奴』という文字を用い、直接に条約同盟国を誹謗することを不許可とするを追加。

 こうして幾つか拾ってみただけで、朝鮮事変解決に向けての日本政府の方針が見えてくる。
 朝鮮・清との対立を避けて円満に処理するという方針である。まして開戦などもってのほかということ。
 これが明治17年朝鮮事変に対する日本政府の決意であった。

 しかし拗れに拗れたこの問題をどのように処理するのであろうか。

 なお気になる点がある。明治17年の朝鮮事変関連の公文書簿冊には、明治15年朝鮮事変と違って「検死報告」の類が一切無いことである。被害者中に婦人1人が夫と共に惨殺されているのは確かなのであるが、先の朝鮮人の証言は事実なのであろうか。まさか昭和12年7月の「通州事件」と同じような状態であったと言うことはないのであろうか。
京城での日本人死者の検死」で述べたように、朝鮮や中国の文化には日本人の想像を超えるものがあるのである。
 日本人が「支那人憎し」に傾いたのは、明治19年の「長崎事件」からではなく、実はこの明治17年の朝鮮事変からなのであろう。明治27年8月刊行の「戦乱始末日清韓」では当時のことを振り返って以下のように書いている。

 「清韓事件に於ける国民の憾み長く之れを失うを得ざるもの是れなり。(中略)重ね重ねの朝鮮の変乱に、我れに受くる処の恥辱損分を思うて国内到る処紛議せざるは無く、中にもあせりにあせれる志士論客又は壮懐敵愾の気に富める軍人、社会等に在て、清韓の無礼、此くの如くに至る、我邦の威信斯くの如くに至る、速かに彼等を討尽征服するに有らずんば夫れ何を以てか酬わんや、とて已まざりしが、当時井上外務卿の如きは統計表を示し、日本未だ如此運送に適する汽船すら不足なり、厳然たる対戦には時機未だ早しとて之れを制し、遂に政府は平和的談判に結局する事を期し・・・」(「戦乱始末日清韓」二十五頁 宮崎辰之允著 明治27年8月29日発行)

 

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