日清戦争前夜の日本と朝鮮(6)
さて、先の督弁趙秉鎬らの談判で竹添公使は、話を国王の要請による保護の行動であった事を証拠立てることに限定し、それ以外は「他事は機会を改めて談ずべし。」「別の論題に属するものである。」と言っているが、正直のところ彼はどこまで関与していたのだろう。 12月13日に報告を受け取った日本政府も、竹添公使の報告では今ひとつ事変の内容が不明瞭であるところから、先に調査のための人間を派遣することにした。それにより明治15年の朝鮮事変時と同じく井上毅参事院議官を派遣することにした。井上外務卿の上申書によれば、「一刻の猶予もならないので16日の今日幸い汽船蓬莱丸が現地に向かうので取り敢えず先に乗り込ませた。通例の手続きではないがこのことを上申書に添えて内稟する」とあり、いかにも急いでいる様子が伝わる内容である。(外務卿内稟朝鮮事変実地視察ノ為メ参事院議官井上毅出発ノ件) しかし実はこの前の14日に井上は栗野慎一郎少書記官を先遣し17日にそのことを三條太政大臣に上申している。(少書記官栗野慎一郎神戸ヨリ朝鮮仁川港ヘ出張ノ件) 以下、栗野書記官の復命書から抜粋して記述する。
続いて同日19日午後、村上中隊長に尋問をした。
朝鮮政府からの書簡や事変事実書、また清軍提督の書簡や上申書あるいはまた清国政府が日本に交付した事変始末書など、様々に事変に対する経緯を記述した手紙や書類が公文書として記録されている。 清軍提督が竹添公使に出した書簡、また清政府への上申書、李鴻章北洋大臣の文書など、どれをとっても事変の経緯が詳細の部分でそれぞれ違っている。 竹添公使はそれらの一つ一つに対して反論を記述しているが、ここでは清国政府からの北京大使館の榎本武揚公使に対して交付された正式な「京城事変始末」とも言えるものを掲載する。なおそれを受けた取った竹添公使は細かに反論しているので、その文も挿入しながら共に記述する
この清政府の事変始末書を見て、先の清提督の書簡(12月12日接受)と随分違うことに気付くであろう。 また、 趙秉鎬は先述した竹添と趙秉鎬との談判で、自ら言っているように「庶民の風説に拠り認めた事実で」と風説をそのまま事実と認める人物である。 捏造、風説、想像、に基づく。これが清と朝鮮の記録書のスタンダードということなのであろうか・・・。
竹添進一郎の怒りのボルテージは上がるばかりであった。
電報であるから候文ではないので余計に竹添が断乎とした調子で井上に迫っている文章に見える。竹添はもはや武力による解決しかないと考えているようである。
実際、事変解決の方法が他に見出せない事態になりつつあった。 北京の榎本公使の報告(12月19日発)によれば、駐清英国公使は「日本は京城の南岡に堡塞を建築し、日本の精鋭部隊を増強して駐屯させるべきである。また安全を得るために仁川沖の島を占領することを朝鮮に向かって要求するのは日本にとって当然且つ得策である。勿論これによって生じる費用は朝鮮政府において負担すべきものである。」と述べた。(「朝鮮事変/3 〔明治17年12月19日から明治17年12月25日〕」のp1) 京城駐在米公使は12月23日に「日本政府はその要求するところを何なりとも清韓両国に提出してその要求通りになすべし。(どのような要求をしようが)世界中の誰が日本に対して一言をする者があろうか。」と言い、またフランス政府もとんでもないことを打診してきた。
このころフランスはベトナム国を占領しており、宗主国の清とは事実上の戦争状態であり、和局はまだ結んでいなかった。
朝鮮政府も円満解決よりも、礼曹参判徐相雨とモルレンドルフを日本に派遣して日本政府から竹添公使を追及させようとの動きに出た。(12月16日接受) また、12月31日に北京の榎本公使が発した報告によれば、このほど朝鮮国王の名で人民に布告が出されたことを清政府が伝えた。
と一歩も譲らない勢いである。(全くの同文ではないが「海門艦長児玉海軍中佐報告朝鮮政府ヨリ同国人民ヘ告諭書ノ件」に掲載されている。) かつて朝鮮政府が日本に対してこれほど強硬に出たことは無い。政府内部が支那党の一枚岩となったからか、あるいは清官の扇動によるものなのか、竹添は全く清官の悪意によるものとの見方を示している。 清国北洋大臣李鴻章も清国政府に上記の「清政府の事変始末書」と同じような報告をしている。 榎本武揚は竹添への手紙(12月19日書)で「天津李氏(李鴻章)は頗る貴兄を悪し様に申している。今度一度その鼻っ柱を取りひしいでくれようか、と思っている。」などと述べているが、もって李鴻章や清国政府の態度が伺われる。 同じ手紙で、榎本公使は「僕の考えでは、事の次第によっては止むを得ずに清と開戦せざるを得ないことは勿論であるが、なるべくは邦人は全く清兵に殺害された確証があれば、謝罪、謝罪金の処置をし、朝鮮政府の改革を勧告し、そして前文の条款どおりにするのがしかるべきと今のところは思っている。」とも述べているが、以上の様々な情報によれば容易にそれが出来るとは思われない情勢になりつつあることを示していた。 もはや日朝間に於ても日清間に於ても事件の詳細で議論噛合わずに深刻な対立となる可能性が大きく、国内世論の動向によってはついに開戦やむなしに至るかもしれない事態である。 日本にとって歴然たる事実は、日本軍兵士が戦死していること、そしてなにより無辜の民である日本人民間人が大勢虐殺されていること、しかも婦人までが殺されたこと、日本公使館が襲撃されたこと、ということである。囂々たる世論の声は清国朝鮮国非難に向けられたのは勿論であるが、また竹添公使と金玉均らの当時の行動についても様々な憶測推測が飛び交い、大小の新聞は様々にそれを書きたてた。
国内世論と新聞記事 この頃、日本政府が何とか世論の暴走を押さえようと躍起になっていたことが窺われる資料がある。「朝鮮事件新聞検閲一件」の簿冊である。 朝鮮・清国と談判の真っ最中の明治17年12月から翌年3月4月ぐらいまでの期間、新聞条例に基づいて朝鮮事変に関する新聞や雑誌の記事などを検閲することについての様々な報告書・上申書類である。 検閲対象は、外交機密に関すること、明らかなデマや風説、妄りに清韓両国を誹謗中傷する文字などを用いること、ただし批判はこの限りではない。政府方針に対する指弾、開戦を主張して人心を扇動するもの、陸海軍の動向に係わること等々であったが、その時期の政事課題の変化によって種々その許不可も変化したようである。 以下、検閲に関していくつか拾ってみた。 ・井上角五郎の直話をめぐってのトラブル。掲載不許可の部分のみが他紙で掲載されていた。 こうして幾つか拾ってみただけで、朝鮮事変解決に向けての日本政府の方針が見えてくる。 しかし拗れに拗れたこの問題をどのように処理するのであろうか。 なお気になる点がある。明治17年の朝鮮事変関連の公文書簿冊には、明治15年朝鮮事変と違って「検死報告」の類が一切無いことである。被害者中に婦人1人が夫と共に惨殺されているのは確かなのであるが、先の朝鮮人の証言は事実なのであろうか。まさか昭和12年7月の「通州事件」と同じような状態であったと言うことはないのであろうか。 「清韓事件に於ける国民の憾み長く之れを失うを得ざるもの是れなり。(中略)重ね重ねの朝鮮の変乱に、我れに受くる処の恥辱損分を思うて国内到る処紛議せざるは無く、中にもあせりにあせれる志士論客又は壮懐敵愾の気に富める軍人、社会等に在て、清韓の無礼、此くの如くに至る、我邦の威信斯くの如くに至る、速かに彼等を討尽征服するに有らずんば夫れ何を以てか酬わんや、とて已まざりしが、当時井上外務卿の如きは統計表を示し、日本未だ如此運送に適する汽船すら不足なり、厳然たる対戦には時機未だ早しとて之れを制し、遂に政府は平和的談判に結局する事を期し・・・」(「戦乱始末日清韓」二十五頁 宮崎辰之允著 明治27年8月29日発行)
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