日清戦争前夜の日本と朝鮮(5)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
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京城、遠く王宮を望む。年代不明。当時日本公使館には旗竿を立てて国旗を掲げていたという。写真にあるものは日の丸のようにも見え単なるフィルムの傷のようにも見えるが、果たして公使館の国旗であろうか。 |
書簡問答
以下は事変後に竹添公使が、清軍提督と朝鮮政府から受け、それに回答した書簡資料である。
清軍提督の書簡は、まさに王宮で発砲を受けた頃に届いた。
(「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」より現代語に。括弧は筆者)
12月6日午後3時頃、王宮内に於いて。韓官某が持ち来る。清軍提督、袁世凱、呉兆有、張光前の連名による書簡。竹添公使宛て。
「我が軍と貴国軍がここに駐留するのは共に国王を保護することに係わることである。昨日に乱民内変があり朝鮮諸大臣八人を殺害し、王城の内外服さず、まさに貴兵を攻めんとするを現に聞く。自分達は国王の驚きあるを悲しみ、また貴兵が困難を受けるを恐れ、ただ兵隊を派して王宮に進める。一つは国王を保護するため、一つは貴兵を援護するためであり、別に他意は無い。安心するよう努めて望む。専らこれを布告する。」
袁世凱、呉兆有、張光前
12月7日午前8時頃、1朝鮮人が日本公使館門前に置く。金宏集からの書簡。竹添公使宛て。
「何故あって閔泳翊負傷の後左程の事変がないのに閣下は護衛兵を率いて王宮に進入せられたのか。すべての通行を止め再び国王を他に移し六大臣を殺害した理由を了解することは出来ない。上述の次第により愚民らは閣下に向かって悪意を行うに至ったので、故に貴国の兵隊に向かって暴挙をなすかも測り難いので、我々は支那兵に閣下を保護せん事を請求した。しかし貴国の兵隊は先ず発砲して抗意を示した。その時に双方に於ても死傷があった。貴方の過ちである。しかしながらその趣意は我々が訂盟各国と結約した保護の意に出るものである。故に本件に付いて各国公使の意見を求むる為、これを各公使に照会に及ぶ。」
12月7日、公使館に留まっていた朝鮮人を諭して使いとする。竹添公使から金宏集宛て。
「余が王宮に進入したのは王の請求により保護の為である。しかるに支那兵は砲撃を始めたので余儀なく我が護衛兵を引き揚げるに至った。我々は国王を保護するがためにつき従ったが、終に国王は死すとも王母と同じ所に在らんと決意を述べられた後に貴国兵隊の中に後門より進行されたのである。それゆえに余は国王に辞別し我が公使館に帰れり。もっとも余は王の望みに応じて付き従った外は宮内の事に干渉していない。余が六大臣を殺したとの貴言は実に驚き入ることである。余は瞬時間も王の側を離れる事がなかった。余は諸大臣が殺害されるを見たことはない。また我が護衛兵は王の在る場所のみを警護していた。景祐宮の諸門は二、三の兵士をして守らせ出入りを要する諸人の姓名を問い王に奏し、その許可を得た者は出入りを許した。余はその他に為した事はない。貴下は何の証拠あって貴書簡中に我が兵のその所作あったと述べられたのか承知したい。清兵の進入を抵抗したのは全く我々が殿下在る場所を警護するを以って明らかである。王宮門外の諸門は貴国兵士が守っていた所なのである。」
同時、上記金宏集宛ての書簡と共に先の清軍提督に転送を委託。竹添公使から清軍提督宛て。
「貴書簡は自分が我が兵と共に国王を保護するために王宮に至るの際に接収した。しかし開封の前に先立ち貴国兵は既に王宮に進入し発砲を始めた。拙者は或いは国王殿下の危険となることを顧慮して止むを得ずに小銃を応発して保護の宜を尽くした。来文に、両国が兵を駐留するのは同じく国王保護に係わると。そもそも我が兵が駐留するのは日韓条約の条款により公使館保護の為に置くものである。国王を保護するためのものではない。ゆえに国王保護の為に王宮に赴いたのは、王の請求によるものであり、自ら求めてしたものではない。また(貴官の)言によれば、王の驚かれるを悲しみ隊を派して宮に進むと。果たして大君主の又驚かれる悲しむなら何ゆえに不意に宮門に闖入し銃を発砲したのか。これすなわち最も王を驚かすことではないか。又言う。我々が困難を受けるを恐れて我々を援護するために兵隊を送ったと。もし果たしてこの好意があるなら何故に書を送り未だ封を開くに及んでいないのに銃を発して攻撃したのか。来文の言うところは全て了解できないことである。自分は公使の職にあれば戦をするはその任ではない。よって諸々を我が政府に報告して指令を待つのみ。」
12月7日午後2時前
竹添公使から金宏集宛て。
「近頃貴国の乱民我が公使館に発砲し又は石を投げ甚だ危険の位置に至れり。然れども貴政府は右の如き乱暴を鎮定するの処置をなさず、右の事状に付き拙者は一時の目的を以って今日済物浦へ公使館を引移し我が政府へ報告すべし。仍って拙者の向後の挙動は我が政府の訓令に従うのみ而して拙者一時済物浦に在る間は公使館の保護を請求せざるを得ず。云々」
12月8日、済物浦領事館に金宏集からの書簡。竹添公使宛て。
「(貴下が)漢陽(京城、漢城と同じ)を去って済物浦に到った理由を了解することが出来ない。よって漢陽に還り右の件に付き弁解せんことを希望する。」
同日に回答、竹添公使から金宏集宛て。
「朝鮮政府が何故に暴徒が公使館を襲撃したのを制止することに着手せずに我が国の人を三十名以上の死に至らしめたのか。余が危険を避けて京城を去る際に城門を閉鎖しまた余が生命を絶とうとして大小砲を発砲した。それなのに貴官はこのような場合に於いて余が漢陽府に還るを希望されるのは余の了解出来ないところである。余は一時公使館を済物浦に移し我が政府に具申して訓令を受け且つ諸事満足を得るの後でないなら余は漢陽府に還ることは出来ない。」
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この後、竹添公使と朝鮮政府、清軍提督との間で激しい論争が繰り広げられることになる。
仁川居留地にて
12月8日済物浦仁川居留地に到着後、竹添公使は山上に歩哨兵を置いて襲撃に備え、負傷者の手当て、婦女子の慰撫、所属員の宿舎などを手配し、各国公使に通知して暫らくここに滞在することを伝えた。また汽船千歳丸を雇い入れて負傷者婦女子商民を乗り込ませ、報告公信類の作成出来るを待って出発する準備などをさせた。
書記官や属員等と皆で政府への報告書類を作成したが夜を徹しても未だ終わらなかった。
翌9日朝、英国領事スコットが来館し、米公使らの意を以って千歳丸の出発を猶予するよう要請した。
午後3時には、大官督弁交渉通商事務趙秉鎬、副官監理仁川港通商事務洪淳學の2人が勅使として来館した。
(以上、「同上」の「朝鮮京城事変始末書第二」より)
(「朝鮮事変/2 〔明治17年11月28日から明治18年1月〕」のp49より現代語に。括弧は筆者。)
小林領事(仁川領事)記、通弁浅山顕蔵
一礼終わって、
趙「今日は我が国王殿下の勅旨と政府の趣意を閣下に申し進めるために参館した。」
公使「遠路のところ御苦労を謝すところである。」
趙「今度の事件に貴公使には御退京後は御安全なるか。国王殿下は御憂慮されているのでここに御慰問に及んだ。」
公使「無事である。懇意奉敬謝する。」
趙「この度の騒擾事件については最早京城内は静穏となったので、御上京になられたいとの勅旨もあった。」
公使「勅語の趣旨は承った。しかし大君主には騒擾後の外の様子はご存知無いように思われるも無理はないと思う。今度の事変は支那兵と貴国近衛兵と合して国王殿下より保護の依頼があった我が兵隊を暴撃しただけでなく、市街各所で暴行し我が商民など数十人を殺害し、あまつさえ我が公使館に暴民が砲撃をし又瓦礫を投げた。その暴行は言いようもない。それなのに貴国政府から何等の保護も無く、自分や属官らの危険は計り難かったので終に退京した。これらは貴政府においてもよく知っているはずであるのに、もはや人心静穏に帰ったので上京されたいとは、あまりに本使を軽視されているように思うが。」
趙「一時人心の激動により暴挙に及んだが我が政府から厳命を発し、もはや静穏となった。」
公使「その静穏に至った順序を聞きたい。」
趙「拙者は昨日に本官を命じられて直に使臣の命があったので委細の事情は承知せず、ただ勅命を奉ずるまでである。」
公使「それは貴大臣の御言葉とも申されないことである。どのような事情かも弁じられずに、ただ厳命を発したから民心は静穏となった、というだけでは信用し難い。そもそも何の確証を以って静穏と言われるのか。そのへんを委細ご証明になられたい。元来、貴政府のことは前々から信用を置き難いことが多い。だからこのように申すのである。もしそれに対して証明を望まれるならば過去の事情について証明いたそう。」
趙「前陳のようにその事情には通じていない。ただ静穏と考えるので貴大臣の進京を望むのである。」
公使「何度申し上げても御理解なされないか。」
この時に趙氏は黙り込んで言葉を発しなかった。公使は先の暴挙の顛末を詳しく説明し、ついで督弁金宏集と往復した書簡を示した。
趙「まだこれらの詳細の事実を知らないけれども、追々と彼これの是非も明白になるだろう。」
公使「貴国大君主の御命を以って来られた貴大臣をしてその事実を御承知無いとは御職掌とも思われないことである。また貴大臣にはこの度は交渉通商事務督弁に任じられたとのことであるが、御報知なくただ一片の名刺で初めて督弁であることを承知するぐらいであれば、貴下の重き御使命も合わせて信ずるべきでないように思われる。」
趙「拙者が督弁に任じられたことは既に我が政府から御報知に及んでいるはずであるのに、今にその手数を運んでいないとは実に不行き届きのことである。」
公使「それらの手続きさえ出来てないのなら貴政府の命令の行き届かないことの一つの証明である。ゆえに貴政府から厳に命令を下して人心は静穏に帰したとの申し出は本使において容易に信用出来難いものである。」
趙「どうしても御進京は出来難いなら拙者は使命を全うすることが出来ないが。」
公使「すでに申しているように貴政府に信用をおくべき御証明もないのでは、なにぶん進京致し難い。」
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趙秉鎬は明治14年10月の第3回修信使だった者である。関税規則を定めるのに全権委任状も持たず関税交渉にも応じず、何しに来たのかよく分からない人であったが、またここでも何しに来たのかよく分からない人物となっている。まあ、朝鮮政府が清軍提督が竹添公使に事情聴取したいらしいくらいのことは伺えるが。
各国公使の調停
10日に米海軍士官ベルナドウが日本人を護送して来た後に、夕方頃には米公使、英国総領事、独国総領事が京城から来館した。千歳丸出発の延期を要請したことと関わって国王の意向を日本政府に伝えるためである。竹添は、各国が朝鮮と結ぶ条約第一款に「中より調停する」とあるので、それに基づいてのことであろうと一応話を聞くことにした。
3人は朝鮮国王の諭旨を含めて次のように話した。
(「朝鮮事変/3 〔明治17年12月19日から明治17年12月25日〕」のp4より現代語に。括弧は筆者)
「国王殿下は去る八日に下都監の清営に我々を召され、『大儀ながら仁川に下り、我および我が政府は今般の事変について、日本に対して決して悪しき感触は無いとのことを、竹添公使に委細伝えてくれ』とのことで懇々と御依頼があった。更にまた国王殿下は清国文武官の面前に於て最も高い声で『日本に対し最も厚情を有する』と仰せられた。ついては、どこまでも日本からの申し向きの事は御承諾なられる御趣意と思う。自分達がここに来たのは平和の基礎を顕すためで、国王の御趣意を貴政府に御申し立て下されたく切望する。また、金(宏集)督弁から差し出している書簡には不都合の文言も少なくないので返却を請求することになるようである。」
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しかし翌11日に督弁趙秉鎬から来た書簡は、金宏集の書簡に更に輪をかけたような竹添公使を全面的に非難する内容であった。すなわち、国王を幽閉して臣を屠殺した非道の悪党に荷担して我が兵を攻撃し、公使館も日本側が自分で火をつけて焼いた、凶党の洪英植は我が兵民が誅殺した、なお金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼などが仁川に向かって逃亡した、かくまうつもりであろう云々、と。
竹添公使は、米英独公使領事に「各位から国王の御厚意を伝えられたが、朝鮮政府正面から自分に向けて送ってきた書簡は、国王の御意向とは少しく異なるようである。」と言って、その書簡を訳して伝えた。
すると各国公使総領事らは、その書簡の内容の半分も聞かないうちに椅子から立ち上がってヒソヒソと内話をし、ついに英国独国総領事は用事があると言ってそそくさと去って行った。米公使も夜になって去った。
米公使はその後国王に再び謁見して、竹添公使の意向を伝えたが、国王は、日本に使節を送りたいが米公使も同行したがよかろうか、と暗に依頼することを述べた。しかし米公使はその要請には応じるつもりはなかった。
かつて李鴻章が朝鮮の対日戦略として、西洋国と交際することによって日本を牽制する策を示したが、各国使節からすれば、表向きは国王に呼ばれたとはいえ、つまりは清営に呼び出されて清提督の意向によって日本公使へのお使いにやられて、千歳丸が日本に向かうことを引き留めようという工作に自分達が利用されたに過ぎないことを知ったということであろう。
西洋人にとっては劣等のアジア人から愚弄されたと思ったかもしれない。まして公使総領事たちは事変当時の王宮に呼ばれて国王に謁見し、その時の状況がどのようなものであったかを知っていたのである。
11日の早朝、すでに千歳丸は日本に向かって出発していた。(金玉均らも同乗していたらしいが、竹添は何も知らないと言っている。)
清軍提督、朝鮮支那党の、各国使節を利用しての工作は失敗であった。
竹添公使、仁川に留まる
この12月11日早朝に長崎に向けて出航した千歳丸によって、朝鮮からの事変第一報は13日に長崎で発信されたのであるが、竹添公使たちは引き続き仁川に留まっている。
この時のことを「竹添公使一行は千歳丸で11日に日本に帰った。」と記述している著書やWebが多いことに驚く。何の資料に基づいてそう記述しているのであろうか。
まるで竹添公使たちが這々の体で逃げて行ったかのような印象を与えたいからであろうか。
仁川居留地は朝鮮政府との契約に基づく日本側の拠点であり治外法権区域である。そこには日本人巡査達も常駐している。商活動もあり食糧も備蓄されており、軍事的にも京城公使館の護衛兵が入っただけではなく、港には帝国海軍軍艦日進(1490t
全長61.8m 18cm前装砲1門,30ポンド砲6門 乗員160名)も停泊しており、難を避けるだけなら仁川におれば心配はなかった。
軍艦が常駐しているのは、先の明治15年の事変のこともあり新たに設けられた仁川居留地の邦人保護のためでもあった。
実は竹添は以前に(明治16年4月)、「軍艦の往来は有名無実でその運用法がよくない。報告を送るのに不便である。」と、長期間碇泊することの経費のことも含めて軍艦が居るよりも通信用の汽船があった方がよいと言わんばかりの報告を出していたことがあった。(竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信第三十四号外)
それが今、軍艦日進が仁川に碇泊しているのを見て彼はどれほど頼もしく思ったことだろうか。
11日の千歳丸によって送った報告の中にも、「日進艦は(このまま)滞在させ、今一艘の軍艦を派遣されたい。そうすれば何時でも通信の便を得られる。」とある。(「朝鮮暴動事件
一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」のp10)
明治16年当時の竹添は朝鮮政府との交際も良好であり清軍提督とも懇親の中であった。竹添は中国の文化にも造詣が深く漢詩を愛する親中派の人間とも言える人である。
しかしいかに中国の文化を愛し日中友好の精神に溢れ朝鮮の属国問題でも中国の肩を持つような立場をとっても、いざとなればそれが何の役にも立たないものであることを痛感したのではないだろうか。
今度の清兵の行動について竹添公使は、外務卿宛て電文(12月13日長崎発)で次のように述べている。
現今の難事は清兵より○○(原文のまま)発砲したるに原由す。漢陽府に在りし日本人は殆んど全く支那人の為に殺されたり。朝鮮人はもっぱら支那人の為に煽動せられたり。故に清兵提督を罰し清兵をしてすべて国に帰らしめ誤りを謝せしむるよう、清国政府に向かいて速やかに開談あらん事を乞う。然せざれば他に完結の途なからんと思惟す。朝鮮政府の望みは平和の外ならず。漢陽府人民は平穏の有様なりと言う。将来の方向に付き指令を乞う。(「朝鮮暴動事件
一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」のp11、括弧は筆者。)
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竹添が清兵提督に激怒している様子が伝わる電文である。
これは花房義質もそうであるが、外国に駐留する外交官は主に当該国政府や現地人との友好に意を置くことによって、結果として非常の時の判断を誤るところがあるように思われる。
花房は朝鮮政府が乱民を鎮圧してくれるだろうと信じ、竹添は清軍提督の常識的な対応を予想していた節がある。
そのことが結果として被害を大きくする事態を招いた。
これは外交の基本を「信頼関係」の構築に置いているからではなかろうか。
竹添はこれまでの報告の中で、清国が抱く日本への猜疑の解消を図ることを繰り返し述べている。しかしそもそも中国人が猜疑心を捨てるなどということがあるのだろうか。
相手を常に猜疑し、そこで嘘とごまかしと駆け引きで交際することを基本としているのが中華文化圏の国ではなかろうか。
ところで、千歳丸には井上角五郎も同乗しており、彼も長崎に着いてから福沢諭吉に次のように電報を打っている。
「四日、閔泳翊暗殺せられ日本党政権を取る。支那党皆殺され、日本党四大闕を警衛す。六日支那兵、大闕を攻め、国王支那兵に取られ、公使公使館に帰る。都大乱、死人三十、七日公使仁川に帰る。公使館、博文局皆焼く。」(「朝鮮事変/2
〔明治17年11月28日から明治18年1月〕」のp23)
なお、博文局とは井上角五郎たちが発行に携わっていた新聞「漢城旬報」発行局のことである。なぜここまで焼討ちにあったのだろう。日本人が関与していたからであろうか。
さすが中華の本家
千歳丸が日本に向かった翌日の12月12日には、清軍提督から仁川の竹添公使に書簡が来た。事変当時の清軍提督の手紙(「王を護り日本側を援護する」など)に関わって7日に竹添が公使館から送った抗議の手紙への返事である。
(「朝鮮暴動事件 一/2 〔明治17年12月20日から明治18年1月4日〕」のp7より抜粋要約。適当に段落、()は筆者。)
丙号 袁世凱外二人より竹添公使宛て <十七年十二月十二日接>
朝鮮内外署より来文があり、それによれば「乱臣が君主を奪い大臣を殺戮したので居民が怒ってまさに仇怨を尋ねて王宮に進入し、君主を驚かすような事となるのを恐れる。軍営から軍を進めて入宮するを請う。」とあったので自分達は協議した。
我が軍がこの地に駐留して朝鮮を保護するのはすなわち国王の要請によるところである。もし座視して応じないならその咎めは誰が取るのか。且つ居民は結集して数万余りとなり石を運び刀を持って共に国難を助けんとした。(しかし)もし万一王宮に突入して国王を驚かすなら、我が軍の交誼を失うのみならず、貴軍にも波及して交際を損することとなるのを憂い、故に十九日(日本歴六日)辰の刻(およそ午前八時)に書簡を貴公使に投じて同じく保護をせんとした。
待って夕方に至るも未だ回答なく、居民は王宮を取り囲みその勢いは洶々として解散することがなかった。自分達は状況の急なるを見て隊伍を組んで前進し以って救命をしようとした。
はからずも初めて宮門に入れば、小銃が下るは雨のようで地雷や大砲を一斉に並び発して我が軍の死傷する者は四十余人だった。
自分らが思うことは、邪臣は乱をなして敢えて天兵を拒むと。故に小銃を発砲して自ずから防御を為す。
初めに先ず(日本側が)銃砲を発した者を貴公使は知らなかった。且つ(その後の書簡で)言うのに、送った書を未だ封を開くに及ばずに我が兵が闖入したと。それ兵家の事情は瞬息万変す。貴公使は朝に我が書を投じたのを夕まで見ずしてこれを以って論をなすとは自分の解さないことである。
伏して思うに我が国家は貴邦と友好を結んで二百余年となる。自分達は命を奉じて軍を駐留する。努めて大礼を全うする。故に貴公使が衆を率いて城(京城)を出る時に居民が追跡するのを努めて禁止した。貴国の子女商民が京城に居た者で出られなかった者は、多くの兵を遣わしてこれを送って仁川に至った。(このように)隣を睦むの道は終始欠けることがない。十九日の事にいたっては実に保護の為に件を起こしたことであれば、まさに我が北洋大臣に上申し、以って来命を待つ。
袁世凱
呉兆有
張光前
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しかしその後に袁世凱たちが清国政府に上申した内容を北京駐在の榎本公使が入手したが、それには、
・朝鮮の革命党は国王を奪い6人の大臣を殺した。それにより日本人は国王を取り返して王宮に護送した。
・朝鮮人は王宮に突入し日本兵若干を殺した。
・兵を率いて王宮に向かいたるや日本兵からこれに向かって発銃した。
などとあり、上記提督の公使への書簡とは食い違っていた。
竹添はそれらに対して、
・自分たちが革命党から国王を取り返したなどという事実はない。
・王宮を民衆が取り囲んでいたことはない。公館との連絡の行き来や弁当を持って来たりなど、外との往来は普通に出来た。
・銃撃が始まったのは午後3時頃であり、夕方ではない。
・我が兵に地雷や大砲の装備はない。
・初めて宮門に入ると銃撃を受けたとあるが、王宮内の第一門〜第三門は皆朝鮮兵が守っていた。であるから銃撃を始めたのは支那兵か朝鮮兵である。
・日本人の子女や商民が仁川に送られた事は、支那兵営に虜にされていたのを米公使が掛け合って引き取り、他の日本人共々身の安全を保証させて且つ米士官を同行させてきたものである。
・支那兵と支那人は京城市内の寓所を襲って日本人を殺し、妻女を奪って支那営に置いていた。
・英国総領事アストンからの報せによれば、キリスト教徒のフランス人が「支那の袁世凱が日本人を皆殺しにしてよいとの許可を出しているので、日本の無辜の婦女子を救助されたい。」と私信を送ってきた、とあることからも支那人の我が人民に対する暴行の事実は明瞭である。(「朝鮮暴動事件
一/2 〔明治17年12月20日から明治18年1月4日〕のp4」)
(このことは後にフート米公使も述べており、また井上角五郎も金晩鐘から同様の私信を受けている。兵士民間を問わずに皆殺しにするのは、中国伝統の戦争の仕方である。)
などと報告書の中で支那側の数々の矛盾点や問題点を詳述し、また事変当時の王宮での日本兵や朝鮮兵の配置なども細かく検証しつつ、ついに「支那武官の最も悪(にく)むべき姦計」と断じるに至っている。
大砲も地雷も持たない日本兵の応射を「地雷や大砲を一斉に並び発して」とはいかにも白髪三千丈の表現をする中国人らしい記述であるが、竹添はこのように中国人から面と向かって大嘘とごまかしを吐きかけられたのは初めてだったのだろうか。
彼は、もはや清提督たちが日本兵を皆殺しにして罪を逃れることを前もって計画していたのであると確信せざるを得ないと報告している。まさに竹添の怒りは怒髪天をつかんばかりであった。
一方では援護だの隣睦だの美辞麗句を並べながら、キリスト教徒のフランス人の言うように一方では日本人の皆殺しを許可していたことが事実なら、さすがは中華文明の本家であると言う外はない。
各国公使総領事たちも調停とか出来るレベルの問題ではないと思ったのだろう。12月23日になって米公使フートは竹添公使と対談して次のように述べている。
日本政府はその要求するところを何なりとも清韓両国に提出してその要求通りになすべし。まして貴下が宮殿に在ったのは、国王の請求によって王体を保護するためであり、その事実は明々白々である。それであるから今度のことを世界に向かって弁明する必要も無い。まして日本政府は罰金を返して朝鮮に好意を表して、それが間もなく忽ち日本人を殺し小銃並びに大砲まで公使に発砲するような挙動を受けて日本が害される今日のような事態となって、世界中の誰が日本に対して一言をする者があろうか。(「朝鮮事変/4
〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」のp2) |
竹添、京城に戻って談判す
また竹添は朝鮮政府の金宏集や趙秉鎬とも手紙を以って何度も論戦を繰り返している。
7日の金宏集の最初の書簡にあるように、当初朝鮮政府は「公使が勝手に王宮に押しかけた。日本人が大臣を殺した。日本兵が支那兵を最初に撃った。」などと言い募っていたが、竹添との二十数回に及ぶ往復書簡で弁駁されて次第に竹添を追及するトーンは落ちていった。しかしなおも止まぬところからついに竹添は業を煮やして京城に戻り直接対話で論破することにした。以下はその時の談判である。
(「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」のp19より現代語に。括弧は筆者。)
明治十七年十二月二十九日、西門外美洞にある旧金輔國の邸宅に於いて、竹添公使、督弁趙秉鎬、協弁穆麟徳と、事変についての談判筆記
公使「貴督弁には、三百年来の交際もあることなれば、今度の事変に付き、平和の処分を希望する旨申されたと聞くが、この頃からの照会によればどうも平和の御趣意とは思われないことである。」
督弁「双方の和親は我が政府に於いても最も望むところである。しかし今度の事変については閣下が凶党の依頼を受けられたとの風説があるのでこの頃の照会文に云々と書いたのである。」
公使「それなら拙者も凶賊の一人と見なされたように思われるが、これは確実なる証拠があって云々されるか。」
督弁「弾薬を運搬し公使館に入れられたこと、また国王を景祐宮に移したことは、皆凶賊と謀を通じられていたと庶民は皆言っている。」
公使「その時の事実は即ちこの書中に記載ある通りで、一々確実である。閣下の事実書は一つも拠るべきものがないと認める。」
督弁「拙者は現場実見者の供述と庶民の風説に拠り認めた事実で、拙者は信ずるべきものと思考する。それなのに閣下の書面のみが信じられるもので、拙者のは捏造説と言われるか。」
公使「拙者は証を以って言うものである。閣下の事実書の中に『清官より書を日使(日本公使)に致して、その衛兵を撤しないことの理由を問う』とある。しかし清官から拙者に送ったのは即ちこの文面(清軍提督最初の書簡「一つは国王を保護するため、一つは貴兵を援護するためであり、別に他意は無い。安心するよう努めて望む。」)であって、『衛兵を撤しない理由を問う』の意味ではない。この事を以って貴下の言う事実書に載せたその他のことも大抵信じられないことの証に足る。」
督弁「拙者にも証がある。」
公使「それなら速やかに示されよ。」
督弁「閣下は何故凶党を船に乗せて日本国へ逃がしたのか。」
公使「それはさておき、拙者を凶党の一人と言われる証を示されよ。」
督弁「決して閣下は賊と共々に事をなされたことはないであろうが、賊の機密は飽くまで承知されていると信ずる。」
公使「拙者は大君主の御依頼を受けて大君主を保護したのみ。もとより誰が奸悪であるかは知らず。もっとも拙者は確かに拠るべき論旨あって直ぐにこれを奉じて一意保護したのみ。」
督弁「決して閣下は賊と与したと言うのではない。熟考せられよ。その夜は閣下は国王の命により入宮されたことならば、諸大臣を殺戮したことは必ず目撃されたはずである。どうしてその時に凶徒を捕らえ、その向きに交付下されなかったのか。もし閣下が直に押さえて下されていたら閣下は実に潔白なる護衛者と信ずる。」
公使「他に多々弁論を要しない(すでにこの事はそれまでの手紙の中で弁明済みである。すなわち竹添公使は、当時は王の側近くに居てそのことは知りえなかったと言っている)。大君主の命を受けたのは虚か実か。且つ又、凶賊を扶けたとの証の有無を明示せられよ。」
督弁「凶党取押えのことを閣下に依頼したが、閣下はすでに凶徒を日本国に逃がしたと思量する。これは国民一般の説であって国民も実に閣下は扶逆者の一人と信じている。」
公使「貴殿の答えは充分でない。拙者が求めるところは、国王の命を受けたのは真か、また賊の依頼を受けたとの証があるか、の二点を明白に区別して一言の貴殿の答えを要する。流言風説を以って重大の事件を断ずるべからず。ただ確証に拠るのみである。」
督弁「閣下の述べられる国王の命であるとて、証拠は凶賊の偽旨であって即ち閣下が凶賊に欺かれたものとしても、閣下が賊を逃がしたと庶民の流言から凶党の一人と信ずる。」
公使「拙者は確実なる諭旨を所持している。」
督弁「どんなものであっても信じられないものである。たとえ大君主の御印章があっても証としない。」
公使「奇怪なるお答えかな。大君主の御印章も証とするに足らず、且つ証としないとは、条約も信としないのか。今の御一言は確実なるお答えなのか。」
督弁「もっとも国璽は信ずる。」
公使「下官は大君主から『日使来衛』の教書を得て入宮したのである。これは確かな証拠となすべきである。御好みとあらば御目にかける。」
督弁「拝見いたしたい。」
公使は「日使来衛」の四字を示した。
督弁は一覧して、「これは鉛筆を以って書いたもので国王の親筆ではない。凶党の偽造したものである。」
公使はこれを懐に入れて印章の御親書を以ってこれを示し、「これでも確証でないのか。」
督弁は熟視して驚く表情を見せ、「この玉璽は国王の玉璽である。しかし凶党の脅迫に出てなったものである。」
公使「拙者は確実なる玉璽を信ずるのみ。他に言うことはない。」
督弁「曲直は人と談じでも分かるものではない。ただ閣下の胸に問い考えられたい。」
公使「この玉璽は確証されるか否か。」
督弁「大君主の玉璽は信認する。ただし脅迫に出てなったのである。」
公使「拙者が金大臣及び閣下同席で問答を請うたのは即ちこの事である。他事は機会を改めて談ずべし。」
督弁「閣下は逆賊共を逃がされたのはこれまた大君主の命なのか。」
公使「拙者は大君主を保護したのみ。凶賊のことに至っては別の論題に属するものである。」
督弁「何故逃がされたか承りたい。」
公使「何の証を以って逃がしたの扶けたのと述べられるのか。そもそも今度の事変は突然に放銃発砲投石の意外のことに出たことを以って、拙者は属員商民婦女を率いて九死に一生を得たのみ。それが何を余人が混雑到来したのを調査する暇があろうか。」
督弁「内外人が乗船の員数姓名を承知されるか。」
公使「拙者の職掌は乗船人を取り調べるものにあらず。そもそもこの質問は失当の言と思う。」
督弁「公使の船でも御承知ないか。」
公使「拙者の乗る船ではない。ただ避難民を乗せるために臨時に雇ったものである。」
督弁「閣下の雇われたる船ならば必ず乗船人の姓名を記したものがあるであろう。」
公使「その船の取り締まり係りの者に問い合わせれば分かるだろう。」
督弁「凶賊が乗っているかいないかは必ず知っておられると思う。」
公使「避難民を乗らせてその船の出航の期日を命令するのみ。」
督弁「拙者は貴国の船に乗ったことがある。また官船なれば乗客人名を届けた後でなければ出すことは出来ない。必ず知っておられるだろう。」
公使「乗船した者は必ず船長からその筋に届け出るものである。公使はそれらを取り調べる職分にはない。」
督弁「乗船人名を承知されなくともよいのか。」
公使「もとより公使の預かり知るところではない。そもそも公使の職掌は御承知ないのか。警察官と思われているように思考する。もっとも乗船の人名取調べは御依頼とあれば領事に言って取り寄せて御目にかけよう。」
督弁「ただ見た人の説により想像したのである。」
公使「想像説を以って公使を疑い又職分外のことを以って公使に質問されるのは奇怪である。」
督弁「知らないとは言われるが、必ず知っておられると信ずる。ただこの上は捕獲の上で送付ありたい。」
公使「もし御委託とあれば、はたして我が国に居るか居ないかをその向きに問い合わせするも苦しからず。風説流言を以って公使を責めるべきものではない。ただこの証あってそのことを我が政府に御質問あるは御勝手である。浮言を以って公使を責めるべきものでないのである。今日種々の質問があっても悉く無拠無証であり、拙者は必ずしも答えるを要しない。」
督弁「玉璽を再度見たい。」
公使は再び出して示す。
督弁「玉璽のことは真認するも、なお入宮して大君主に申し聞きの上で再答する。」
公使「再び熟視確認されて今又この言あるは奇怪である。」
督弁「重大なことなのでこれを謹むために入宮して上問するというのである。ともかく明日に再答する。」
公使「拙者は正に玉璽と認めているだけである。上問するのは関係ないことである。」
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証拠を示さずに空想で相手を断罪するのは知る人ぞ知る現在でもおなじみの風景である。また中華本家と小中華の違いが分かって興味深い。
この後竹添公使は談判を尽くすはずであったが、30日に仁川に着いた特派全権大使井上馨が議論を停止することを命じた。
千歳丸の出港について
ところで、11日の千歳丸の出航の際に、同乗していたと言われる金玉均らを巡ってのちょっとしたエピソードがあるようだが出所資料が見つからないのでなんとも言えない。
まず、仁川港での民間汽船の出港許可は朝鮮政府の海関長が出すものである。許可が出ないなら出港は出来ない。すなわち16年7月に締結した貿易関税規則の第二十六款〜第二十八款にあるとおりである。朝鮮政府は「密輸の疑いがある。」と言って積荷検査や持ち物検査も出来る。当然人物取調べも出来る。
しかし、この時の千歳丸は竹添公使が借り受けたものであった。その場合は日本政府の船ということになるのではなかろうか。政府の船に対しては第三十二款にあるように海関長の許可は必要ないことになる。
いずれにしても千歳丸の出航について朝鮮政府が出航を阻止することはとても出来なかったろう。港では軍艦日進が睨んでいる。公使館職員、領事館職員、巡査、そして1中隊の日本軍が後ろに控えている。朝鮮政府の者がどうこう言えるものではない。もちろん船長1人の力量で何か出来る性質のものでもない。
上記の談判でも分かるように、千歳丸出航の際にはそこに竹添公使もいなかったし督弁趙秉鎬もいなかったことが窺われる。
まして、婦女子や長崎の病院に送るべき負傷者が乗っている船に一刻の猶予があろうはずもない。
千歳丸が出港したのは11日の午前6時であった。朝起きが苦手な朝鮮官吏たちの中でそれを見送る者が果たしてあったろうか。
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