日清戦争前夜の日本と朝鮮(4)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

遠く王宮を護る日本兵。王宮内では朝鮮人同士の戦闘が。脇では国王達がそれを見ている。(『朝鮮変報』 橋本周延筆 明17年)

明治17年朝鮮事変

 当時の公文書には「朝鮮暴動事件」とあるが後に「明治17年朝鮮事変」として纏められているので(対韓政策関係雑纂/明治十七年朝鮮事変)その名称を使用したい。「干支」という60年周期の年記号を使って昔から「甲申政変」だの「甲申の変」だの称されているようであるが、今日の日本人なら「明治17年朝鮮事変」の方が分かりやすかろう(西暦のほうがもっと分かりやすいか?)。「壬午(「じんご」も漢字変換できないし)軍乱」なども明治15年朝鮮事変とする方がよほど分かりやすい。ちなみに「軍乱」ではなく「軍民の乱」なのは明らかである。筆者としては「大院君の乱」としたいところであるが。

 さてこの「明治17年朝鮮事変」も世間に於いては様々な解説があり、まさに諸説紛々たるものがある。しかし筆者としては史資料の提示もない解説には興味がないので、それらを参考とする気はない。(それにしても、どうして根拠とする資料も掲載しないで歴史を語る人が多いんでしょうかねえ。それも他人の解説を検証もせずに引用して)
 よって、ここではアジ歴収録の当時の公文書に沿って記述することにしたい。すなわち日本政府はこの事をどう記録(もちろん当時としては機密事項である)したか、ということになろう。

 かつて竹添進一郎公使は明治16年4月20日付の報告に於いて、
「近来、朝鮮政府内も自主の権を頗る立てている姿であり、馬建常はあっても無きが如く金玉均は得意の面持ちである。あまりはやりすぎはせぬかと懸念している。」(「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信第三十四号外ニ私報其二通」)と述べた。

 しかし後には朝鮮政府内で軋轢があったことが記録されている。すなわち、
「十七年五月、朝鮮郵政局を設立し洪英植を以って総弁と為し、沿海各港の郵信を管理せしむ。この時にあたって清官陳樹棠、益々朝鮮の内政に干渉し、閔台鎬、金炳始、趙寧夏を起こして督弁と為し、金允植、尹泰駿を協弁と為し、魚允中を参判と為し、閔泳穆、洪英植、李祖淵は皆外に出て、独り金宏集は協弁たる旧の如し。久しうして宏集、炳始に代わりて督弁と為れり。蓋し皆内閣の軋轢に因りてなり。」(「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」のp24)とあるとおりである。
 (「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」は当時の報告書などと見比べてもほとんど矛盾がなく正確な略史であると言えるものである。(日付の間違いなどはいくつかあるが。))

 このことをモルレンドルフは「清国から派遣された陳樹棠が干渉し、彼に阿諛迎合する者だけを取り立てたのであり、全く不都合千万のことである。朝鮮官吏は卑怯で臆病な者達ばかりなのでこのような変革をすることが出来たのである。(臨時代理公使島村久ヨリ朝鮮国統理衙門督弁其他更迭ノ近況報告)」と述べている。

 その後いよいよ事大党の勢力は増しついに独立党を追い落とさんとする勢いとなったようである。

「(支那党は)益々権力を得、遂に日本党の巨魁朴泳孝、金玉均を流刑に処せんとするの勢いあるに至れり。」(「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」のp25)

 「その後第二事大党員は益々権力を増長し朴氏等に罪名を付し流刑に処せんとする陰謀ありと独立党員の耳に洩らし来たれり。」(「日清交際史提要」の「第三冊 第十一編 至 十三編/4 第十三編 第三回朝鮮事件」のp3)

 朴金を流刑に処せんとする、について他に詳述した報告の類はアジ歴にはないようである。
 その後の竹添公使との絡みも「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」に続いて次のように記されているだけである。

「朴、金等禍機の迫るを察し、むしろ先んじて奸党を戮せんことを欲し、竊(ひそか)に我が公使に告ぐ。公使痛く其の軽挙を誡む。然れども其の意の既に決することを察し他日の処分を誤らんことを慮り、之れに対する政略甲乙二案を具し政府に稟請する所あり。甲案は、到底朝鮮に於て日清両立を保し難しとすれば、むしろ内乱に乗じ王の請いに由り之を援け、王に敵する清兵を撃退して以って彼の虚倣を抑ゆるに如かず。乙案は、専ら東洋の和局を保持するを主とするときは成るべく日本党の大禍を受けざる迄に保護を加うるを要とす、と云うにあり。我が政府は乙案を可とし十一月二十八日電信を以って回訓す。未だ達するに及ばずして乱なる。」
 (なお、この時の竹添の甲乙二案の文書なるものがWeb上でも出回っているが、略文且つ出典を明らかにせざるもの故これを参考とせず。もっとも内容は上記とほぼ変わらず。)

 この中の「我が政府は乙案を可とし十一月二十八日電信を以って回訓す。」のもう少し具体的な内容は、電信文そのものは見当たらないが、次の内容からある程度伺えるようだ。
 即ち、12月12日付けで竹添公使に報告を求めた電文案によれば、「去月二十八日付け拙者の電信を以って指令及びたる通り朝鮮に対する日本政府の政略は、平和と内地の政略及び政党に干与せざるにあり。然して兎に角日本兵と清兵間の行き違いは我が方に多分の面倒を生ずるに因り、之を避くる事を務む。此の目的を達する為めに日本兵は国王或いは政府より公然たる請求あるに当たってのみ国王警衛の事を承諾すべし。(「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」のp5)」とある。

 これまで竹添進一郎の言動を様々記述したように、彼は明らかに親中派とも言える人物である。朝鮮を属国として強烈に縛らんとする「中國朝鮮商民水陸貿易章程」に対してすらほとんど無問題としている。すなわち、
「およそこの章程は朝鮮国を清国管轄の下に置き、専ら清国の利を謀るものであるが、もともとは三百年来の一定した主属の名義に基づいて制定したものであり、俄かに独立国の例を以ってこれを律するべきではないようである。もし独立国の例を以ってこれを律すると欲するなら、その初めに立ち戻って清韓両国の関係を詳らかにして朝鮮国の分限を定めることが至当の順序であると思考する。」と。

 事変後の12月11日に在北京公使館で事変のことを清国政府の大臣達から初めて聞かされた特命全権公使榎本武揚はその会話の中で、日本側が先ず清兵に戦端を開いたらしい、との大臣の言に対して、「我が兵、貴国の兵と開仗せしは何故なるか知るに由なし。或いは我が国へは貴国の兵先ず我が兵に向かいて発砲開仗せしとの報あるも測る可らず。況や竹添公使は漢学者にて常に貴国の出張将校等とは意気相投じ甚だ睦まじく交際ありとは予が聞知する所なればなり。」と答えている。(「日清交際史提要」の「第三冊 第十一編 至 十三編/4 第十三編 第三回朝鮮事件」のp5)
 この時の清国大臣の意向は他国の干渉を排して日清2国間で平和裡に事を治めたいという趣旨のものであったが、榎本が言っているように竹添公使が清国と事を構えるような人物でないことは誰もが認めるものであったようである。

 従って朴金等から事を挙げることを告げられた竹添は、当然「痛く其の軽挙を誡」めたことは確かであろう。

 しかしその後いかに彼らの決心が固いことが分かったとて、何故甲乙2案をもって日本政府に問うたのか。
 それは日清両国の大戦を開きかねないことを問うも同然であると考えられなかったのか。むしろ傍観は出来なかったのか。鬼面を以って諌めねばならないのは日本党の連中に対してもそうではなかったか。当然支那党は清兵の応援を要請するはずであり、又いったん乱となれば朝鮮人は容易に日本人に対して乱暴を働くものであると考えられなかったのか。京城に居る民間日本人の身の安全は考えたのか等々、今となっては疑問の多い甲乙案の提出であるが、朝鮮国王と日本政府間では借兵に関する取り決めがあったことから止むを得ない処置だったのかもしれない。

竹添、済物浦から報告

 事変第1報は12月11日に、竹添公使よりも早く日本駐在清国公使から日本政府にもたらされた。しかし竹添からは何の連絡もない。ようやく13日になって長崎発電信として、
「本月四日、朝鮮国京城に於て変動起こり、閔泳翊等数名殺害に遭えり。我が公使は急劇の際、国王の請求に依り王宮に赴きたるに同地駐在の清国将官もまた兵を率い王宮に至り、我が兵との間に紛争を生じ終に彼より砲発に及び互いに死傷ありたり。日本公使館は兵燹(兵火のこと)に罹れり。公使は本月八日、一時済物浦に引き移り同所に於て朝鮮政府並びに清国官吏と談判中なり。(在漢陽公使館報告朝鮮京城変動我公使館兵燹ニ罹ルノ件)」との報せがあり、続いて竹添公使から詳細な電信があり次いで報告書が届き、更に詳細な事変始末書が提出された。その後竹添は井上外務卿が全権大臣として来韓するまで済物浦で業務を続けた。

朝鮮京城事変始末書から

 ここでは事変経緯を一番詳細に記述している「明治十七年朝鮮京城事変始末書」をそのまま記し、且つ、始末書には無いが竹添公使の電文や報告書には記述されている部分を[ ]内に記した。その内で書簡の内容については一部を除いて別掲する。また< >は原文中の括弧である。なお現代語に直し難解な語彙は意訳して記す。適当に「 」、句読点、段落を設け、( )には筆者注釈などを記す。

(「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」のp22)

明治十七年朝鮮京城事変始末書

 明治十七年十二月四日、朝鮮国京城に於て郵政局開業の宴会があった。該会の会主は郵政局の総弁洪英植であり、当日来会した賓客には、米公使フート、同書記官スカッダー、英総領事アストン、清国総弁陳樹棠、同帮弁譚賡堯、朝鮮の貴族紳士としては閔泳翊、金宏集、韓圭稷、李祖淵、朴泳孝、金玉均、徐光範、尹致昊等で朝鮮雇いの穆麟徳(モルレンドルフ)も加わっていた。招聘を受けて来会してない賓客は独逸国総領事ジャムブッシと我が弁理公使竹添進一郎とであったが、竹添公使は前日に米公使、独総領事、その他朝鮮の貴族紳士数名を訪問し、そのために寒気に中てられ牀(寝台)にあって加養していたので当日はその招宴に会せずに書記官島村久のみ赴いた。

 さて、郵政局では賓客は皆食堂に会して食卓に就いて開会の祝宴を催していたが、午後九時に晩食に移る時に至って、俄然物音騒がしく「火事だ」と叫ぶ声が聞こえたので座客は皆驚いて起ち、表裏の屋外に出た。島村書記官もこの時米公使フート、韓人洪英植の四、五名と共に建物後の縁側に出て見たのに、出火は局の後に当たる距離が甚だ近い家であったが、見る間に火勢は衰えて鎮火する様子であったので安堵して人々と共に屋内に入って座に復した。
 しかし島村は小用のために再び屋外に出て座に復しようと食堂に来ると、どうしたことか堂内の韓人で充満し上へ下へと混雑して足を入れる地もない。島村も最初は矢張り火事の騒ぎからであろうと思っていたが、あまりのことに怪しんで「何事か」と尋問すれば喧嘩雑踏の時に確とは知れないが誰かは分からない重創を負った者があるように聞いた。しかし混雑してなすべき方法もなく米公使を始め賓客も散乱して思い思いに避けて去る景況となった。今はいたしかたないことと郵政局を去り我が公使館に帰り公使にその景況を報せた。

 しかしその言葉がまだ終わらない内に英国総領事アストンが来たので島村が面会すると、郵政局で刺客のために重創を受けたのは閔泳翊であることを語り、且つ物情騒然としてなにしろ事変が起こるような形勢なので日本兵が護衛して自分を館に送ることを要請したので島村は諾して公使に稟じて我が兵二人に護衛させて英公使館まで無事に送り届けた。
 我が公使館で閔泳翊が刺殺に遭ったのを(実際は一命をとりとめている)確と知ったのはこの時が始めである。[ 後ろから切り懸けられ、頭部から首にかけて長さ一尺、深い所は二寸位の傷を受け ]

 島村はアストンを送って玄関に出たが早くもこの時に我が護衛兵は泥峴の兵営から駆けつけていた。島村は中隊長村上(陸軍歩兵大尉村上正績)に向かい「何故に来たのか」と問うと「公使館の近火と見えた故に例によって馳せつけた」と言った。
 よって島村は内に入ってこの由を公使に報じる時にそこに浅山顕蔵が入ってきて「ただ今朝鮮王宮から中使の邊燧という者が来ている」と告げたので、島村は何事なのかと応接所を出て邊燧に面会してその来意を問うと、邊燧はうろたえた面持ちで島村に向かい「物情が穏やかならず。国王も安泰ならないので公使に宮門に入って保護をいたしてくれ」と懇ろに救いを乞うた。

 よって島村は内に入り公使にそのことを報ずると、公使はそれを聞いて「さては王宮内にも何か異変が起こったと思われる。何事かを尋問すべし」と寝台から起きて衣服を整え応接所に至り邊燧にその事情を尋問されたが、(邊燧は)ただ速やかに入衛ありたし、と述べた。
 この時に又も内官柳在賢ほか一人の者が息を切って馳せ来た。国王から王宮護衛のことを委託されるところの親書をもたらして来て公使に付し[ 国王殿下の御直書にて「日使来衛」の四字を御認めになった ]、一刻も早く宮門内に入るべき由を催促したので、公使も今は片時も打ち捨てて置けないと、護衛兵を引率して歩みを早めて王宮に向かわれたのは午後の十時である。

 その途中でまたも一人の内官が馳せてきて「大王殿下は景祐宮に移座あらせられた。よって速やかにその宮を指して参られよ」と言う。それならばと、その内官に先導させて景祐宮に至った。
 この時は国王、王妃、世子宮、世子妃にはすでにこの宮に臨幸されていた。やがて大王妃[国王母公]も来られた。
 国王は竹添公使の来られたのを見て喜色満面でさも待ちこがれた面持ちにて殿外の庭に出られて公使を迎えてその手をとり、速やかに来て護衛についたことを懇ろに謝したまわれた。[ 「貴公使には夜を冒して速やかに来衛ある事実に満足である。この騒擾の場合なので万事に注意あって貴衛兵の守衛あることを深く希望する。また我が宿直の兵もあるのでそれらの士官と協議をして共に守衛することが最も得策と思う。」 ]

 この夜の宿直の大将は尹泰駿で、兵を率いてつき従った。その他縉紳(高官)、内官、雑役、女官等、混雑して殿の内外に殆ど立錐の余地も無く、竹添公使は島村書記官、浅山顕蔵を従えて殿の縁板の上に立った。京畿監司沈相薫等は庭に立って剣を揮って雑役賎人の殿内に闖入するのを制止していたが、一時殿内の燭が尽きて暗黒となったので気遣わしいこと言うまでもない。我が提灯を分けて内官に与えたが、僅かに一点の燭光が微かに輝き照らすだけであった。

 このような有様なので人々もうろたえる外なかったが、村上中隊長は早くも気付いて公使に向かい「このように混雑の有様では奸凶を発見して国王を安泰に護衛することはなかなか出来ないことである。且つこの宮は全部の区域が広大であって門と門も隔たり、また樹木が列をなして覆っている所がある。我らのこの小勢で全部を護ることは甚だ難しい。今は雑人の混雑を制して守備の規律を設けられるべきである。」と申せば、公使も、実にそうであると、国王にその旨を伝奏をした。

 よって命があって雑人を殿門外に出し、女官は殿の北隅にある小部屋に居らせ、韓兵は殿の東面を守り、我が兵は殿の北面を守ってその東北隅の小門を固める。南面は韓兵がこれを守り我が兵がその小門を看守し、西北隅の第二門は韓兵がこれを守り又その西を環衛し、西南隅の第二門は韓兵がこれを守り我が兵が二人が看守し、西南の外門と西南隅の外門及び東北隅の内外二門は我が兵がこれを守る等、一々部署を定め終わった。

 これに於いて外から来て宮に入ることを請う者があれば門兵がその姓名を問い一々これを伝奏して許可を経て通行を許し、内から出る者も王の左右から名刺を付与することとなったので、夜半を過ぎるこの時に至って喧騒は漸く治まった。

 国王は殿の西室に座し竹添公使を召して席を賜い安座を命じて懇ろに談話された。
 この夜一時過ぎに米公使、英公使、独総領事のもとにも国王の使いが参って宮門に入るようにと申し入れられた由であるが、深更に及んでいるので公使領事は参られず、ただ米国公使館付け同国海軍信号士官ベルナドンが通弁の尹致昊を伴って入内して国王の安危の慰問をした。

 又この夜三時頃、島村が殿外から入る時に内官柳在賢が誅殺されたのを見た。その故を問うと徐載弼が答えて言うのに「彼は硝薬を以って王宮を焼く事を企てたことが発覚して捕殺されたのである」と。

 翌五日早天、国王は承旨院に旨を下して内閣を改革された。その改正内閣の職員は左のような由に聞き及んだ。<但し、この職員の改正を聞いたのは下文に記した米国公使等が同席の時である。>

右議政 李載元、前後両営監督件捕盗大将 朴泳孝、左右両営監督兼捕盗大将軍国事務衙門協弁 洪英植、戸曹参判兼恵商局堂上 金玉均、外衙門協弁署理督弁 徐光範、刑曹判書 尹雄烈、後営正領官 徐載弼、漢城判尹 金宏集、外衙門参議 尹致昊、外衙門参議 邊燧、承旨 朴泳教、承旨 金玉均、承旨 申箕善

 同日午前十時頃に至って米国公使フート、英国総領事アストンが入内して国王に謁見した。国王は両氏の入内を聞かれるや直に謁見を許され、満面喜悦の色を現して両氏の無事を祝された。この時竹添公使も同席して国王を始め同席の人ら皆座して懇ろに対話があった。

 国王の御意には「さて今回の変については日本公使には早速来衛した。実にこれらの場合に於いては同国人のような思いをし、日本公使と差し向かいで同居しておることさえ満足に思うほどなのに、今各使に面接することを得て益々四海一家の思いを増した。各氏の交誼は感激に堪えない。各氏らとゆっくり有益な談話も聞きたいと思っているところである。」と仰せられ、また仰せられるに「およそ国として旧来の陋習を破り開明の域に進まんとするに未だかつて多少の変乱を経ないことはないと聞く。すなわち現在ここに居られる日本公使は数度の変乱をも経たことがあるので、その辺の義はよく熟知される人である。米英等の諸国でもその例は少なくないはずである。」とあったのに米国公使は答えて「そうであります。国が開けんとする際にはこのような類例も少なくなく、弊邦に於てもしばしば経験したことであります。」と言われた。

 かくてしばらくして、国王から大王妃の防寒の用意が乏しいことにより、李載元の邸に行幸の命があった。米公使、英総領事にも同行ありたい、とのことで両氏も竹添公使と共に随行をした。
 李載元の邸は景祐宮と接し僅かに一門を隔てるのみであった。韓兵は邸の外周を環衛し、我が兵は韓兵と共に邸内を守衛した。

 同日二時過ぎに至って独逸国総領事セムブッシュ(原文のまま)氏が入内して謁見した。
 この時米国公使は英独両国総領事に向かって「今回の事変のような場合に際しては、外国の使臣たる我々はよく協議して安危を共にする処置を図るべきある」と申し出、独逸総領事は答えて「ただ今の景況ではこれというほどの事もないだろう。万一変乱が大きくなって免れ難いことに至れば、安危を一つにすることはもとより勿論のことである」といった。また各国使臣は互いに談話の間に、この度の事変はどういうことであろうか、との談に及んだ時に米国公使の答えには「これは改革の一挙である」と申した。

 かくて三時を過ぎるまで外国使臣は国王の許に詰めていたが、ついに皆伴って辞し去った。この時竹添公使もまた各国使臣に次いで辞し去らんことを金玉均に伝奏を請うたが、国王はなお暫く留衛ありたい、との懇命があったので辞することも出来ず、よって島村書記官にこの事変を報ずる電信草案を作らせ、島村に公館に持ち帰って本国に送る手続きをさせた。

 午後四時に至って国王は竹添公使を召して、[ 又々大王妃の御懇請により ]大王妃の寝食の不安のために王宮に還幸すべき旨を伝えられた。薄暮の還幸は不慮の恐れがありどうするべきかとの懸念があったが、国王の命は懇到であって辞するようではなかったので、止むを得ずに陪従をした。

 島村書記官は一度公館に回り再び李載元の邸に至ってみれは、最早国王も公使も居らず、僅かに留まっている韓人に聞いてその王宮に還幸あるを知り、追って中途で合し、公使と共に王宮に至った。

 かくて王宮に至った頃には日が没した。国王、王妃、世子宮、世子妃および大王妃は、皆大王妃の寝殿に御同居あって、我が兵はその周囲を護衛し、第一の諸門は韓兵の左右営兵がこれを守る。第二第三の諸門は韓兵の前後営兵がこれを守り、東西の門もまた韓兵が守り固めた。

 昨夜大臣数名が景祐宮の内外に於て刺殺されたことをこの夜に及んで確と知った。何故に昨夜我が公使は景祐宮にあつてこの事変を見聞しなかったかというと、前記のように我が公使は昨夜は国王のすぐ側にいて殿外に出なかったし、国王の左右はこの事を話す者もなく内外は隔絶して通ずることがなかったが、この日に至ってこの風説は隠されなくなり、夜になってからは衆人皆の言うところは符節を合わせたかのように同じであった。よってその事実を確かに知り得たのである。<初めて、閔台鎬、趙寧夏、韓圭稷、李祖淵、尹泰駿、閔泳穆、などが切害に逢ったのを承知した。>

 翌六日となって別に異常も無いので公使は再び護衛を辞して去ろうとその由を洪英植をもって稟請したが国王は甚だ頼りなく思われて、国王、王妃、世子宮等の各殿に御帰座あって無事平穏の御様子を見奉るまでは非常を警護されたい、と慇懃に頼まれたましたので、以って強いて辞しかねて午後に至るまで尚王宮に止まっていた。

 この日、早天に大臣の除目があり、李載元は左議政に進み、洪英植は右議政に進み、徐光範は左右両営監督兼捕盗大将を兼任し軍国事務衙門及び恵商局を廃したと聞いた。

 午後三時頃に至って国王は大政一心の勅を国内に下さんとて左右議政を召して令を伝えられ給う時しも、たちまち爆然として地に轟く音があった。これ第一の銃声である。

 人々はこれはと驚く中にも、国王は最も驚き訝り、慌しく起って左右を顧み「これは何の音なのか、何の響きなのか」と何度も繰り返して問われた。

 この時韓官某は何者かから受け取ったのか、竹添公使に宛てた一封の書簡を島村書記官に交付して、島村から公使の手に渡したが、あたかもこの時また第二の銃声が轟き渡ったので国王は驚き恐れて寝室目指して逃げ入りたもうた。その間もなく第三の銃声轟いて弾丸は雨の如く注ぎ来たので、公使はその書簡を開いて読むまでもなくそのまま洋服の中に収められた。

 時に、村上中隊長が馳せ来て公使に向かい「見られるように清兵は第二の諸門内に乱入して発銃し守衛の韓兵はふがいなく逃げ去り、或いは清兵と合して発銃した。いかにいたすべきか」と申すに公使は答えて「最早こうなっては致し方ない。国王を保護するために来たのであるから国王を保護するだけの防御をするべし」と言われたので、村上は承知したと大喝一声「打てよ」の号令を発したが、清兵の闖入無礼を怒りに耐えかねて号令遅しと待ち受けている我が兵は、得たりと敵に打ち向かい激しく応銃を発すると、その勢い猛烈であって清韓兵はしばらくして撃退され逃げ去った。
 竹添公使は国王の安否はどうかと王の寝室目指して進み入らんとしたが、京畿監司沈相薫は室前にあってこれを止め「殿下は御安全にあられるので御配慮あるな」と申したので、公使は王妃及び大王妃の御座なのを無下に進み入るは心無いことであると思い返して敢えて進まずに、島村、浅山を率いて寝室の前面に立っていた。

 しかし銃弾の飛び来るのが雨のようであって既に寝室にまで及んでいるので、急いで王を安全の地に御供仕らねばと寝室に立ち入ると国王は何時の間にか逃れられていてその影すら見えないので、これはどうしたことかと驚いて寝殿の背後に回り手を分けて王の跡を捜索した。

 そもそも王宮内の形勢は第三門内の両側に一つの部屋があり、東に正殿があり、大王妃の寝室は部屋の後にあってやや東の方に寄った場所であるが、清兵は不意に来て第三門及びその両辺の家屋と土手を占めて韓兵と合して三面から激しく銃撃をしているが、小谷中尉はこれに当たって防戦をして遂にこれを撃退した。<朝鮮守兵はすべて支那兵に応じて我が兵に対して裏切りをした。>
 竹添公使は国王の跡を追って寝殿の背後に出たが清兵は早くも東方から突出して銃撃したが、大西少尉は馳せ向かい防ぎ戦って撃ち退けた。
 この時村上中隊長は公使に向かって策を進言することには「この大王妃の寝殿は地形的に有利であって守ることが出来る場所である。願わくば国王をここに戻して護衛の功を全うさせて頂きたい。我が兵はすでに整っており敵兵が千百来ることあっても恐れるに足りない」と申すので、公使は答えて「君の言うことは甚だよし。ゆえに余は国王を探すことに尽力する」と。
 よって共に後苑中の丘上に至って四方を探望すれども王の行方は更に知られないので、村上中隊長は再び公使に向かい「この地は王宮後苑中で最上であり、有利な形勢を占めて攻守共に兵を用いるのに適している。真にここは吾の死に場所である。この地を以って中堅とし戦線を四面に張り、寄せ来る敵兵を一撃の下に鏖殺せん」と勢い込んで言った。
 公使は甚だ善し、と言って村上中隊長の意のままに兵を指揮して備え守ろうとすると、たちまち遥か後ろのあたりに一人の侍臣が現れ出てこちらに向かって手招きをして大音声を上げ「殿下はこれに渡らせ給いてあります」と叫ぶに公使は聞くより早く、さては国王はあそこに潜まれているか、と覚えた。
 国王の所在が分かった上は片時も猶予ならずとその方に向かって馳せ行った。よって村上は急に伝令兵をして隊兵に命令して言った。「死んでも守線を去ることなかれ」と。

 遂に公使の後に従い共に侍臣の指す所に至り、見ると国王は後苑の中の小丘の間の凹い所に建てた小亭の中に潜んでおられた。公使は村上中隊長と半小隊の兵を率いてその護衛をした。

 この時清韓兵は右翼から大いに迫り来たが、面高中尉と安藤少尉はこれを防いで悉く撃って退けた。しかし王の在所は地勢甚だ悪く、敵から防戦するには頗る不利な場所なので、これを奉じてやや小高い丘に移し、樹下に毛氈を敷いて王を安座させ参らせた。

 この時に至って竹添公使にもやや休閑を得たので以前に領収していた書簡を取り出して開いて見ると、これこそは清国の武官等が送った信書であった。[ (別紙甲号の漢文。袁世凱、呉兆有、張光前の3名の連名による書簡であり、「乱民内変があり朝鮮諸大臣八人を殺害し、王城の内外服さず、まさに貴兵を攻めんとするを現に聞く。自分達は国王の驚きあるを悲しみ、また貴兵が困難を受けるを恐れ、ただ兵隊を派して王宮に進める。一つは国王を保護するため、一つは貴兵を援護するためであり、別に他意は無い。」などとあった。) ]

 これを読んでいる傍らから村上中隊長は又も公使に向かって「このように殿下が騒々しく立ち騒がれては甚だ困却することで、このような場合に臨んでは詳しく銃声を聞いて敵の勢いを察して進退を致さねばならないことである。しばらく御静座あってしかるべし」と述べた。しかし銃声の激烈なのを怯えて国王は又も侍臣に背負われてそこを走り去り、後苑の最後の低地に建てた亭中に入って潜まれんとされたので、そこは地勢が悪くてかえって危険でありますのでと、ようやく説き諭して後門に接近した小丘の上に移させたが、[ 国王を背負い裏門の際まで逃げ出し ]後門の外には数十歩を隔てて韓兵が雲霞の如くたむろしている。[ 裏門外にたむろする朝鮮兵のこれまた支那兵と通じる者がすばやく大王妃を奪って激しく言い立てた。 ]
 大王妃はその背に当たる山の中腹におられると言うので国王は大王妃に随従することのみを絶え間なく仰せられるので、更に村上中隊長から、詳しく銃声を聞かねば進退が難しいことを懇ろに侍臣等に説き聞かせた。
 侍臣等から切に静まりたまわんことを言上すれば、その時国王は日本人を顧みて曰く「皆々母親に逢いたいと思わないのか。朕もまた母親に一刻も早く逢うことを望むのである」と両手で背負っている侍臣の肩を叩いて急ぎたて、なかなかに静まられない。侍臣は切にこれを諌めて止まないので再び曰く「それならば暫しの間は静まるので、なにとぞ早く母親に逢わせてくれよ」と仰せられた。

 この時までは三面の銃声が雷のように耳を貫いていたが、暫らくして轟然大砲の音が響いて樹木の間から黒煙が立ち上がり火光天を焦がした。それに従って銃声が始めて止んだ。

 さては清兵が大砲を放って宮殿を焼いて戦いを止めたと察知した。しかし大王妃のもとに行こうとすれば韓兵を打ち破って後でなければ達し難く、且つ後門外は韓兵にとって有利な高地なので(韓兵は)伏せながらこちらを射撃することが出来、我が兵は低地から仰いで向かわざるを得ないので小勢では容易に目的を達し難い。しかし国王の懇命を黙止し難いのでついに王を奉じて後門に出ようとした。[ 終に裏門を開いて国王を守護して出ようとしたが ]
 韓兵は早くもこれを見て「日本人が出るぞ、討ち取れ」と罵り叫んで発銃したので先に立った一人の侍臣が忽ち手を撃たれて鮮血が飛び散り国王の御衣服までかかる程となったので、これでは前途甚だ危ういと門内に戻り王を松樹の陰に伴い御座を設けた。
 すると国王は公使に向かい「朕はたとえ死すとも恨みはない。<国王は天性至孝の資であって平生から行き届かれているのは申すまでも無く、今回の事変に際しても傍らを離れずに起居を伺われておられた。>大王妃に侍することを懇望するものである。」と繰り返し仰せ出され、護衛を離れて一人でも馳せ行かれんとの御意なれば、竹添公使は、門外の地勢は敵を防ぐには不利であるのみならず、今我が兵を以って国王に陪従するときは却って国王の身に危険を招く恐れがある。今の所は清兵はすでに退いた。残るは韓兵のみであり、韓兵がいかに乱暴でも国王の体に危害を加えることはまさかあるまい、この上は国王を韓兵の護衛に任せることこそ安全の策であろう。(と決断した。)
 よってその旨を国王に申し上げると国王はこれを聞いて「善」と言われ、侍臣に背負われたまま後門の外に走り出られた。

 これに於いて我が公使が国王を護衛する任は全く終わったものというべきである。
 この時日は暮れてまた人の顔が判別出来なかった。村上中隊長は各所に配所した兵を招集して一々その名を呼びこれを点検して終わった後に、公使は村上中隊長に言った。「すでに国王に拝別した上は公使館に帰り諸員とその存亡を共にしないわけにいかない。」
 村上中隊長は言った。「清兵と快く一戦することを許されよ。」
 公使は言った。「使臣の職は戦の勝敗を競うにあらずして事の曲直を争うにあり。護衛の兵は攻撃を求める性質のものにあらず。まして今日の一戦をもって十に当たり、防戦三時間にてついに敵は退却する。どうして遺憾があろうか。ただ速やかに公使館に帰るべし。どの門から出るが良かろうか。」
 村上は言った。「どの門からでも敵兵が充満している。ただ命に従うべし。」とあれば、公使は「それなら公使館の消息を速やかに知ることが出来る方に向かおう」ということで、それから隊を前後に分けて公使を護衛して後門から出た。この時城中各所に火光が天を焦がしていた。

 ついに山の背に沿って翠雲亭の傍らに出れば火光の間にかすかに我が公使館の旗棹を見て初めて公館の尚存在することを知る。
 進行して市街に入ると十字街及び横斜の道路がある所に至る毎に薪を積んで火を焼き、我が兵が通り過ぎるのを待って路傍からまた屋内からしきりに銃を発し或いは瓦石を投げ、ために面高中尉が微傷した。
 公館近くに及んで敵兵が路にあって放銃したが我が兵はこれを撃って逃げ散らせつつ漸くにして公使館に帰ったのは午後の八時であった。

 公使が王宮に行かれた後の我が公使館では、属僚及び館員職工等並びに八名の門兵がおり合わせて百余人が留守をしていたが、王宮に銃声が起こったので清装の兵が一回来て襲撃したが、館内の留守の者は奮ってこれを防いだので敵は忽ち逃げ退いた。ほどなく韓兵が襲って来た事は二回に及び、石を投げ矢を飛ばして攻めてきたが、これも速やかに撃退した。この際に我が邦人に死傷もあり、また我が邦人の京城に滞在する商人等の中に無惨の死をとげた者が少なからず。これは文書最後に全て列記する。[ この日我が兵の内で死者は曹長一名一等卒二名負傷者士官一名兵卒六名、清兵の死者はおよそ三十人位と見受けたと申した。 ]

 さて、公使が公館に帰って後は厳重に守備を整え敵兵の来襲に備えていた。
 その夜二時過ぎに南山の我が督衛本営に火が起こったとみえて火煙が天に漲った。すなわち敵兵が我が食糧を掠め、且つこれを焼いたことを知った。公使一行は皆飯を喫し疲れを憩い、婦女は皆公使の寝室に集めてこれを安心させた。
 公使はこれに至って国王に奏し且つ清国官吏に談判するところあらんとするが、道が塞がって通じないので遺憾ながらこれを止め、よって本日の事情を我が政府に具申するために機密信を草し又電信文を草した。

 翌七日早朝から公館前後の門に向かって銃声が絶えず、又数十人の暴徒が群れをなして瓦石を投げて大門に攻め入らんとすること凡そ三回であったが、我が門兵はその度に発銃してこれを退けた。
 午前八時頃に一韓人が一封の信書を門外に置いて直ぐに逃げ去ったので門兵がこれをとって公使に呈した。
 開いてみるとその信書は金宏集が送った照会である。公使は直ぐにその返書を作りまた王宮内で受け取った清武官の来書に答えるの書をも封入して金宏集から清営に転送あるべきの嘱託をするの信書を作り、これを送らんとしたが使者にする者がいない。日本人を遣るには途中に暴徒の充満して忽ち打殺される恐れがある。多数の兵を遣るのは公館の守備に欠けるので、これを遣ることが出来ない。館内にかつて雇っていた韓人はこの事変が生じる前に多く逃れ去ってまた帰らない。僅かに三人が始終留まっている者があったが、これまた恐れて門外に出ることが出来ない。ゆえにその人を得るのに苦しんだが、強いてその三人のうちの一人を諭して使に充てその信書を送った。[ この日、護衛隊本営焼失の模様を観察の為に一人を差し立てたが途中で瓦石を乱投し、到底半小隊ぐらいの兵を以って発砲して追い払わないなら本営まで達することは出来ないとの旨を護衛隊から申し出たので、それでは市民を騒擾することになり、公使館守衛も手薄くなるのを以ってそのままにすることとした。 ]

 またこの日、公使は米公使英独総領事等に照会して共に図るところがあらんと欲せられたが、館外一面に暴徒が充満して火を放ち石を飛ばして何時大挙して押し寄せ来るかも知られず、その守備を疎かにすべからず且つ道路は塞がって通られないので遺憾ながらそのことに至らなかった。

 さて我が公使館の中の諸員男女僕婢を合わせて三十余人、木匠職工七十余人、兵員百四十人余人その他京城に寓在する我が人民が難を避けて来た者三十余人あって、一日の食米一石に上った。
 この日午後に至って公使は粥を啜りながら会計員に「糧米の蓄積はいかほどか」と問うたが、会計員が答えたことには、「すでに昨日から城内の市街は全て戸を鎖し、城外から米を持って来て市で販売する者は絶え、これを買い入れる道が無いことを以って糧食が甚だ乏しいので、今朝から文官婦女その他の人民は皆粥を啜り、兵士には粒食を供することにしたが最早現在の糧米では今日の晩食も覚束なくなった」と申した。
 公使はそれで思うのに、このまま敵の囲みの中にあって徒に餓死するは策のないこと甚だしいものである。ならば婦女を刺し殺して撃って出て快く戦死するか、しかしそれも使臣の職にあらず。しばらく仁川に退いて我が政府の指揮を待つには及ばないことであると、この時京城の各門は封鎖して専ら攻戦の備えをし、市街には瓦石を集めて薪木を積み、日の暮れるを待って我が公使館を襲撃し、もし囲みを突いて出るなら木を焚いて路を照らし瓦石を投げてこれを鏖殺せんと企てているとの秘密の注進に聞いたので、公使はいよいよ意を決して村上中隊長及び館員を集め糧食の尽きたことを告げ、且つ仁川に退くの意を伝えた。

 村上中隊長は公使に向かって言うのに「死は本より吾が職なれば何処ででも死すべし。その死に所に至ってはただ公使の命に従うのみ」と。館員は皆口を揃えて公使の意見にもとより異論なし。ただ南大門の守備が殊に厳しいと聞くので、これから出ることは容易でない。(明治15年の事変時の日本公使館は城外にあったが、この時の公使館は城内にあった。)西大門から突出すればなお一条の血路を開き十中の一は生きて仁川に達し我が政府に稟報することを得るだろう。もし今から二時間遅くなって夕暮れに至るなら敵の謀りごとはすでに整って万に一つも成ることがないであろう。速やかに決行あるべしと申し、これに於いて金宏集に書を送って公館の保護を依頼する。

 公使は館中に令を伝えて言った。「昨日清兵が宮門を犯して銃撃した。余は止むを得ずに応銃して以って国王を保護したが、今や韓兵は却って我に向かって攻撃し韓政府はこれの制止をせず、余が一行は仇敵の中にあると言うべし。使命ほとんど尽くすに道なし。よって仁川に退き、これを我が政府に稟報し以って進退を決すべし」と。

 すなわち機密書信類を焼き、皆単身軽装で公使館を出た。この時午後二時頃である。安藤少尉先鋒。大西少尉これに次ぐ。面高小谷二中尉は殿をし、村上中隊長は竹添公使を護して前後を指揮し、書記官及び属員皆刀を帯び銃を携えて従った。職工数十人は負傷者を担ぎ弾薬を運び或いは斧を携え、婦女童女の前後左右を護して大道を取り西門に向かって出発する。

 韓の兵民或いは銃を放ち或いは矢を飛ばし或いは瓦石を投じて左右前後からしばしば迫り来たが我が兵は尽く撃ってこれを退ける。
 旧王宮門の前を過ぎるに当たって左営の韓兵およそ一中隊が営前に整列して大砲小銃を乱発して我が側面を撃つ。大小の弾丸が頭上十尺以上を飛行し或いは地を擦り、幸いにして三、四人の微傷者あるのみ。我が後の隊は大路に伏せ或いは小溝に潜み応戦最も努め、韓兵を営内に追い退けた。
 かくて進行して西門に至れば、門は鎖錠を厳にして守門の旗手は銃を手にし或いは刀をとって守っていた。我が戦隊は突撃してその旗手を逃げ散らせ、我が職工は斧を揮って鎖を切断し扉を開いて門外に出た。

 敵兵の追撃は絶えず迫り来たが我が後隊はその度に撃ってこれを退け、漸くして麻浦に至る。後を顧みれば京城の内に黒煙天を衝き、火光空を焦がす所があった。その方角から我が公使館の焼ける事を察知した。
 これに於いて船を求めて漢江を渡らんとした。我が後隊は要地を占守し前後の順序を正して公使を護り漢江を渡ったが、韓兵及び土民の銃を携えた者数十人が追撃して公使が渡るのを妨げんとしたが、我が兵は撃って数名を斃し忽ちこれを追い退けたり。船が中流に至る時に、江の下流に繋いでいる船中から小銃を発すること五、六発に及んだがまたこちらから撃って退けた。漢江を渡り終われば日は暮れていた。
 これより追撃の者もいないので厳戒を解いて徐々に進んだ。かくてこの夜は寒を忍んで雪を冒し終夜道を歩いて翌八日午前七時に済物浦に至り、我が領事館に到着した。

 同月十日になり日本人十六名が支那兵と朝鮮兵に護送されて済物浦に来た。これは米公使フートが変乱の際に米公使館に逃げ込んだ日本人と、米英の両公館に護衛に派遣した日本兵四名と、その他支那兵営に虜にされていた我が国の婦人等を掛け合って引き取り、手厚くこれを扶助して清韓の官吏に照会してこの十六名の日本人を害さないように証明させて、その後に海軍信号士官ベルナドンに清兵三十人と韓兵二十人とを率いてこれを護衛させ、この日に至って済物浦に送り来たのであった。右等の人々がその余命を得たのは、全く米公使の仁意によるものである。

 今回京城の変に遭って清韓両国の為に惨死せし者は左の通りである。

歩兵大尉 磯林 眞三
(他に、兵士3人、民間人など36人、その内婦人1人は夫と共に惨殺される。以下名簿の詳細は省略する。)

 国王は、内閣改革を発表し、また米英公使領事との談で、「国として旧来の陋習を破り開明の域に進まんとするに未だかつて多少の変乱を経ないことはないと聞く。云々」と言ったことからも、国王はこの変乱が維新であるとの認識があったことは確かであろう。

 独総領時が来て後に各国使臣が、この度の事変はどういうことであろうか、との談に及んだ時に、米国公使は「これは改革の一挙である」と答えたのは、前夜の1時過ぎに米国公使館付け同国海軍信号士官ベルナドンが通弁の尹致昊を伴って入内しており、その様子を聞いて出した結論ではなかろうか。

 竹添公使も何が起きていたかは当然知っていたろうが、もしここでの竹添公使の一連の行動が計画的なものであったなら、何故兵を率いて王宮に向かう時にその理由を清営の提督に一報しておかなかったのだろう。支那党が要請をしても袁世凱たちが進軍を躊躇するような工作は手紙一つで出来たはずである。

 国王が韓兵に合流して竹添たちが撤兵するずっと以前に清兵がすでに姿を消しているのはなぜであろうか。

 支那党が清軍に出兵を要請したとして、なぜ袁世凱たちは「日本兵を援護するために兵を出す」という書簡を竹添に送ったのだろうか。しかも届いた時にはすでに銃撃が始まっていた。最初から日本兵を攻撃する積りならそのような書簡を送っても意味無いことではなかったか。

 後に袁世凱は、この時の竹添公使宛ての書簡を、当日朝の8時頃に発したと言っている。しかしそれが竹添に届いたのは午後3時頃である。この間7時間もかかったのはなぜであろうか。

 もし支那党が、日本兵が国王を監禁したからと言って救いを求めていたなら袁世凱たちは問責の手紙を出していたのではないか。

 当然書簡の使い韓官某は支那党に属する者の配下であろう。また、使いは手紙などを勝手に開封して読むのがこの国の悪弊であると竹添がかつて言っていたので、この某も手紙の内容は知っていたろう。故意に届けるのを遅らせたということはないのか。或いは何らかの嘘の情報に清兵が振り回されたということはないのか。

等々と色々考えさせられる記述である。

 ところで外務省通訳官浅山顕蔵にとっては2度目の事変遭遇である。かつて花房公使達と夏雨の泥濘道を仁川に向かって終日歩き、今また雪道を夜を徹して済物浦に退く。再び兵火に焼かれる日本公使館を後にしながら彼は何を思ったであろうか。
 自ら果敢に戦った前回とは違い、陸軍兵の圧倒的火力に護られながらの撤退であるが、また違うのは大勢の日本人居留民の死傷者が出たことであろう。邦人保護は在外公館の責務である。そこに籍を置く彼の心情はおそらく鬱々として楽しまぬものであったろうと思う。
 12年後の閔妃殺害に関係して広島での裁判被告の中に彼の名がある(アジ歴資料)。「謀殺及び凶徒聚衆事件等」に関する予審で当時新聞記者となっていた彼はまた通訳として動いたに過ぎず当然不起訴となっている。
 彼もまた朝鮮の為に人生の大半を費やした人だったのであろうか。

日清戦争前夜の日本と朝鮮(3)      目 次       日清戦争前夜の日本と朝鮮(5)

 since 2004/12/20