日清戦争前夜の日本と朝鮮(3)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
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白衣の群集 西洋婦人の往来を見物する人々。撮影年代不明。
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元山、釜山の騒動
元山・・・明治16年2月頃、安辺地方の仏教寺である釋王寺の僧侶が徒党を組んで元山港の日本領事館を襲撃するという風聞が立ち騒然となった。すぐに領事副田節が徳源府使に問い合わせたところ、この頃から僧侶同士の争いがあり罪科を犯した片方が暗夜に逃亡しながら捜索の撹乱を謀ってそのような風聞を流したことが判明した(
朝鮮国安辺釈王寺ノ僧侶結党襲撃ノ風聞ハ誣言ニ出ル旨報告)。
(やれやれ人騒がせな坊主がいたものであるが、撹乱のネタに「日本領事館」を持ってくるところにこの国では仏教徒までが「侮日」なのかと思いたくなる。)
釜山・・・釜山出張中の海軍中尉西直資の報告によれば、明治16年6月14日に東莱府で暴動が起こり、東莱府庁を襲って物品を焼き捨てたり奪ったりする騒動となった。その間、府使始め官吏属員等は取り締まるどころか逃げ隠れ、騒動が静まってからは私室に篭って上からの処罰を待っているという。
暴動の発端は、数十年来府庫に堆積している戸籍帳の内で不要に属する分を漉き直したところ、府民がこれを聞いて不平を唱え、13日に士族20人余りが府庁に押しかけ、「戸籍帳を漉き潰しては府民の先祖の名簿を失う不安がある」と申し立てた。府使はその意見を入れて取り止めることにし、士族らもそのことを一般人民に説明するとの事で一旦その場は治まった。しかし人民らは士族の説明に耳を貸さずに翌日14日に府庁に乱入して先の暴挙となったという。
また一説には東莱府使が日本人に特に親しみ厚く交際するのを嫌っての暴発でもあるという(朝鮮釜山出張西中尉ヨリ報告ノ件)。
(どうも朝鮮人は単に乱を好み暴力を振るうのが好きなだけなのではなかろうか。集団になると容易に乱暴を働く性情があるように思える。)
公使館護衛兵の半減
前述したように年頭の竹添公使着任早々の提案を受けて、7月5日に公使館護衛の2中隊の内1中隊を引き揚げることが決定した。
(外務省稟議朝鮮国公使館護兵中一中隊引揚方)
貿易関税規則を制定
関税規則制定のことは、まさに明治15年7月に花房公使と朝鮮政府とで協議中に事変が勃発し、担当官の金輔鉉が死亡し双方の書類も散逸したことからその後中断していたが、ここに至って漸く協議を再開することになり、その協議を竹添公使に委任した。
この時期、米朝条約が批准されんとし、5月からは米国公使としてルシアス・フート(Lucius H. Foote)が京城に赴任していた。
日本政府は米国政府の対韓政策を調査し、米国は「朝鮮の独立を維持して東洋の平和を保ち、以って他国による併呑を予防するにあり、ために貧弱なる朝鮮国を啓蒙し、利益を与えるべきは与えて吝嗇に陥らせないようにするべきである」との意向であると見た。
日本政府もまさに同じ方針であることから、米国側と矛盾しない税制を立案し、在日本米国公使ビンハムまた駐京公使フートに示して異議のないことを確認し、更にモルレンドルフにも事前に内示した。モルレンドルフも異議あるどころか「先ず日朝でこのような税則を結べば各国もまた異議をいれないだろう」と認め、かえって積極的に朝鮮政府内に対して速やかに議定することを促した。
協議は全権を付与された督弁交渉通商事務閔泳穆との間で行われ、同時に「間行里程取極書」「犯罪の日本漁民取扱条規」の協議も併せて、7月18日に開始して25日には締結に至るという異例の速さで整った。なお布告は10月15日である。
(以上「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史」の「朝鮮國貿易規則、間行里程取極及犯罪ノ日本漁民取扱条規締結ノ事」より)
規則条文の日本語版と漢訳版は共に「同国ニ於テ日本人民貿易規則並海関税目決定ノ件」に収録されている。全42款の規則とあらゆる物品を記載して税率を定めた実に行き届いたものであり、且つ税率は以前の花房の案では5%〜10%であったが、今度は一部免税品を除き5%〜30%と大きく幅を持たせたもので、かなり日本側が譲歩したものとなった。これなら朝鮮側も異論はなかったはずである。
犯罪の漁民取扱規則
犯罪の日本国民漁民取扱規則は次のとおりである。
(「同国海岸ニ於テ犯罪ノ日本国漁民取扱規則同上(同国ニ於テ日本人民貿易規則並海関税目決定ノ件)」より抜粋、現代仮名に。)
約定したる朝鮮国海岸に於て犯罪の日本国漁民取扱規則
第一条
朝鮮国の約定海岸に於て日本国人朝鮮国の法禁を犯したるときは水陸共左の箇条に照らし取り扱うべし。
第二条
朝鮮国官吏は法禁を犯せる日本国人を取押えたるときは、其の罪証を具録し之を添えて其の日本人を最寄開場港の日本領事官へ引き渡し相当の処分を要求すべし。日本領事官は速やかに其の要求に応じ之を審査し照律処断すべし。但し朝鮮国官吏取押え又は護送の際、苛虐の取り扱いをなすこと無かるべし。
第三条
犯罪と認むべき日本人を海陸孰れよりも護送するも朝鮮官吏の勝手たるべし。但し成る丈速やかに護送し事故なくして徒に罪犯を其の地に淹留すべからず。
第四条
朝鮮国の約定海岸に於て罪を犯せしと認むる日本人を海路より護送するときは、朝鮮官吏日本人の船舶に乗り込み或いは別船に在りて之を引き来る倶に其の便宜に任す。如し陸路より護送するときは其の日本船は逐うて引き渡す迄の間は地方官にて之を監守し、毀失せしむること無かるへし。且つ其の船具漁具其の外運搬し難き物品は目録に作り罪犯に添えて之を送付すべし。
第五条
如し薪水食糧を得るが為め又は獲りたる所の魚類を売買する為め上陸し、陸上に於て其の犯罪同行中若干名のみに係わるときは其の若干名のみを此の手続きに依りて護送し其の他は之を拘引すること無かるべし。又海上なれば其の罪犯を除くの外、残員猶航海に堪えるときは朝鮮官吏は其の罪犯のみを護送し其の他は之を放還すべし。
第六条
此の規則は実行の上更に増損すべきもの有れば双方協議改正するを得べし。
右確実なるを証し両国の各委任大臣茲に記名調印するもの也。
大日本国明治十六年七月二十五日
大朝鮮国開国四百九十年六月二十二日
全権大臣弁理公使竹添進一郎 印
全権大臣督弁交渉通商事務閔泳穆 印
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鬱陵島から日本人を送還
明治16年9月、日本政府は蔚陵島(鬱陵島)に滞在している日本人全員を帰国させるために、内務省職員と20数名の巡査を同島に派遣した。
朝鮮政府から何度か日本人の木材伐採を止めさせるようにとの要請が出ていたことを受けてのことであった。
鬱陵島には山口県辺りから250人余りの日本人が渡航して数ヶ月滞在し、木材を伐採していたが、島民との関係は以外にも極めて良好であった。
(「朝鮮国蔚陵島出張檜垣内務少書記官復命ノ件」p5より抜粋、括弧内省略。)
・・・人民、政府の趣旨を奉承し、各帰装を整理して、挙げて此処に集合し、恰も本船の回航を待つ者に似たり。因て人員を取調るに、前日に上船せしめし者を合せ総計弐百五十五名なり。即ち数隻の艀を下して尽く本船に移載せしめ、同午後五時三十分、全く搭載し了れり。
此時、島長来会す。因て我国民の一人も嶋に残れる者なき旨の書面を出さしむ。而して我人民鳥海要造なる者、本年夏期在蔚陵島の際、朝鮮人民の難船を救援せしを以て、其恩を表するの報告を以てす。
抑も、朝鮮国人民の此島に在る者、嶋長を併せ、大凡六十余名、其状態を察するに、陰に御国人民の供給を仰ぎ、生計を営む者に似たり。故に今回御国人民の帰国を聴くや、愁容表に溢れ、哀情甚だ切に、殆ど兄弟親友に別かるが如く、或は行李を担い、或は荷物を負いて、海岸まで送り来たれり。御国人民も亦た別を惜み、且差向き、其困窮を憐察し、私に米若干を恵恤せしと云う。
其相親睦せる斯の如きを以て、島長の他は御国人民の伐木するを以て、敢て意に介せず。島長も亦之を盗伐視せずして、其既に伐木せし木材は、随意に本国に搭載し帰るを許可せり。以て彼我の間を推するに足れり。
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以下、その時の応接記録である。
十月七日蔚陵島着、幼学裴忠隠と応接筆記
(「同上」p9より抜粋して現代語に。)
書記官 「小官がこの度渡航して来たのは他の義に非ず、当島に在留する我が国の人民を残らず召連れ還るべき我政府の命令を奉じ、汽船に搭じて本日着いた。依って本船へ我が国人民を乗り込ませようと思う。了知されよ。」
幼学 「仰せのように貴国人民を総て帰国させるのは誠に賀すべきことであるが、交情において実に忍びないところがある。なぜならば、本島へ渡航している我が国人民は食に乏しく、時々貴国の人に恩恵を蒙っていることが広大である。この恩は忘るべからず。願わくば、伐採した木材は全て持ち帰られることを希望する。尤も、今から四十日間の猶予を貴国の人民に給わるなら、積船の渡来を待って都合よく帰国することが出来るので、貴官の仁恕を以て酌量あらんことを希望する。」
書記官 「既に伐採した木材を持ち帰らせるのは小官の権限ではない。小官はわが国の人民をまとめて帰国させるのに止まれば、帰朝の上でその厚意を我が政府に稟申するだろう。」
幼学 「貴意は了解した。しかし、反復して言うのは恐縮の至りであるが、なお愚衷のあるところよく察せられたい。先に述べたように、貴国人民に数千本の木材を与えることを望むのは、他のことではない。我が国の者数百名は例年、氷解を待って本島に渡航し山海の業を営み、秋になって本国に廻航する習いで、その在島間に我愚民らは糧食を貴国人民の供給に仰ぎ、これに報いることがないのは、実に遺憾の至りに堪えない。願わくばまげて許容あらんことを。」
書記官 「貴君の厚情は深く了知する。しかし両国政府の命令ではないので、こちらから承諾することは出来ない。貴下がまたこれを許すべき理もないだろう。しかし、我が政府は更に命令を下してこのような違反者がないように注意する。」
話し終わって、幼学はなおも通訳官の浅山顕蔵に向って、「情状を斟酌あって人民の困窮を救助されたい」と懇々と陳述したが、それは出来ないことを答えさせた。
十月十四日、在留の日本人民を全て船に乗せた後に、病気をしていた島長全錫奎が出て来て応接した。(「同上」p14より抜粋して現代語に)
書記官 「・・・我が邦民の本島にいた者は、全て連れて帰ろうとしている。もはや遠隔の地に残っている者もいないだろうか。」
島長 「もはや残留する者はいない。実に貴国人民には容易ならない厚誼を忝うする。今度皆帰国されるのは情において深く忍びないことである。」
書記官 「我が邦人を全て帰国させるについては、もはや一人も残る者がないことは貴下の証言するところである。その書契を与えられることを要請する。」
島長 「謹承する。(書契を出す。なおまた一書を出して)我が国の者が、特別に貴国の人から助けられたことがある。別に書契を出す。足下よろしく処弁されることを望む。」
その書には、
「・・・今年夏初、本邦諸民三十余名、乗船入来也。風勢不利、波涛洶湧、船隻為風波所駆人命、幾至没死之危境、而幸頼貴国人民慣水者之冒死出救、本邦人民三十余名、尽得生活■、其恩恵山高海深・・・」
(今年の夏の初めに、本邦の者三十余人が船で島に入る時に、風の為に難船し、まさに水に没して死に至る危機の境に、幸い貴国人民の水に慣れた者が死を冒して救助に出た。それにより我が国の人民三十余名は全て命を得た。その恩恵は山のように高く海のように深い。)
とあった。
島長 「今度貴国人民が帰るなら、従来から貴国人民によって生計の恩恵を蒙っている者は飢渇を免れない。伏して願わくば、貴下には憐憫を垂れてもらいたい。」
書記官 「そのようなことなら捨て置くところではない。これは日韓両国の友誼である。もし我が国の帰航の為に飢餓となる場合に至るなら救助の請求に応じたい。」
島長 「救助するとの高諭に謝するところを知らず。願わくば、米二十五包(白米四斗二升)を救助されんことを。」
これにて米を恵恤し、別れを告げて去る。
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日朝両政府の思惑を超えて、現地においてはこのように素朴な交流もあったということであろう。
なお、島の地勢のことは次のように報告している。
「同島の地勢たる絶海の一孤島にして、周囲十四五里、峻嶺重畳、巉峰崛峙、自ら島勢を為せり。而して断岸絶壁、棲をとする能わざるを以て、御国人の渡島し居る者は、其渓澗底面の地に就て僅に柴荊を結び、十名或は廿名、各処に散在仮居せり。朝鮮人の島に在る者も亦然り[地図第四号にあり]。故に嶋の表面より裏面に至る直経僅に二三里に過ぎざるも、曲折羊腸荊榛を排し藤蔓に援らざれば、達する能わずる・・」(「同上」p4)
また、出稼ぎに来ていた日本人は次のように話した。
「本年陰暦二月、着島するや碇ヶ浦と唱うる地より尠し山辺に拠て仮小屋を営み居住す。此小屋は僅に雨露を凌ぐに足るのみ。」
「朝鮮人も亦我人民同様、仮小屋を営み住居す。只土牀を設けたる所、僅かに勝るに似たるのみ。」
「全島の周囲に出稼人住居せり。相互に往来するは単に島中を縦横する所の小径に依るを以て最も困難を極め、時としては数日夜を経て漸到達す。」
「山中は喬木蓊鬱たるを以て、其下蔭は堆葉深苔のみ。一の荊棘なし。故に甲地より乙地に往来するもの、日暮れば野宿露臥するを常とす。」
「木材は何所を伐採するとも概して之を言ば、其痕跡を露わさゞるに似り。故に即今迄伐採したること夥多なるにも拘らず、曾て此場所を伐採したりと認べき程のヶ所なし。唯僅かに木材を運搬したるの路あるのみ。以てその蓊鬱たるを知るべし。」
「伐採する所の木材は欅のみにして、他の樹木に着目するものなし。蕃茂する樹木は、欅、桑、桐を第一とす。白檀の如き断崖絶壁の間に生長するが故に容易に採り得べきものにあらず。」
「海産中、重なるものを蚫(あわび)とす。本年其季は採取に従事するものありたるも、即今は尽く帰国せり。」
(「在馬関内務少書記官檜垣直枝ヨリ朝鮮国欝陵島近況報告ノ件」)
地図第四号(「朝鮮国蔚陵島出張檜垣内務少書記官復命ノ件」p11、p12から作成。)
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西洋館の日本公使館
この頃、京城での日本公使館は一時借用の形である上、土地も狭く建物も小さ過ぎることから新たに公使館建築の話が進められた。ついては、朴泳孝の邸宅を買い上げて改装する話がまとまった。中には西洋式の応接館の増築も決定。瓦一万枚使用、畳の間だけで計150畳という規模。国旗用の竿も建てられ日本国旗が掲げられた。費用は合計3万8千円余り(見積もり)であり、政府の建築許可が下りたのは16年の10月であった。(同国京城公使館家屋買入並附属建物新築費別途下付ノ件)
しかしこの公使館も建築成って間もなくの17年12月に、まさに朴泳孝らが起こした事変によって焼失することになる。
朝鮮人、陸軍戸山学校に入学
10月、朝鮮人徐載弼らが日本陸軍戸山学校に入学を許され、本人の希望により士官下士官学術など夫々に授業を受けることになった。一行は17才から25才までの14人で、翌年17年12月に金玉均、朴泳孝らがクーデターを起こしたときに行動を共にした者達である。
(朝鮮人徐載弼外十三名戸山学校ニテ学術授業ノ件)
朝鮮、郵便事務を設置
仁川開港に伴い明治16年12月16日に仁川日本居留区に郵便局が設置されたが、それに触発されてか朝鮮政府でも京城で郵便事務を行うことになった。朝鮮初の郵便事業である。ついては日本人の郵便業務に熟練の者を雇用したいとの依頼が竹添公使を通してあった。これにより日本政府は朝鮮をますます開化に導き交際上に於いても一層都合良いことなので、駅逓官を1人派遣することにした。明治17年8月2日認可。
五等駅逓官小尾輔明、3年任期、俸給月額銀貨130円。
(非職五等駅逓官小尾輔明朝鮮政府ノ傭聘ニ応シ渡航ノ件)
また、郵便切手もその印刷製造を日本政府に依頼した。その注文は以下のものであった。
五文切手
十文切手
二十五文切手
五十文切手
百文切手 |
5万枚
100万枚
50万枚
50万枚
30万枚 |
なお大蔵卿からの上申で、交際上の親睦の一端として各切手計2万枚だけは無償贈与とした。
(朝鮮国政府ヨリ依頼ノ郵便切手無代価贈付ノ件)
朝鮮政府内での軋轢
竹添弁理公使は貿易関税規則を始め間行里程、漁民取締り、仁川居留地借入約書調印などが整ったことから明治16年12月に帰国して復命し、当分日本滞在となった。それにより外務書記官島村久が臨時代理公使となった。
その島村から朝鮮政府内の変動が報告されたのは明治17年4月であった。
(「臨時代理公使島村久ヨリ朝鮮国統理衙門督弁其他更迭ノ近況報告」より要約。()は筆者。)
大院君が帰国し且つ支那の大使が兵を率いて来るとの風説が立ち、ために人心は頗る動揺している。政府の主だった者達は、支那を頼りにしていればどういうことがあろうとも心配はないとしているようである。
その者は、統理軍国衙門督弁諸司事務閔台鎬、同督弁利用軍国事務金炳始、同督弁農商事務趙寧夏、同協弁監工金允植、同協弁農商兼右営監督尹泰駿、戸曹参判魚允中等である。
彼らは、支那から監国大使が出張して政治を掌るに至るなら、実に大国に任せて安穏無事であるなどと思っているようである。
先に報告したように、統理衙門督弁閔泳穆は免職となって単なる海防事務となり、同協弁洪英植は北兵使へ就任の末、老親が病気なので側を離れ難きを以って辞任を願い出て遂に聞き届けられた。同協弁李祖淵がその代わりとなり、以上の閔泳穆等3名に代わって、金炳始が督弁に、金允植、尹泰駿の2名が協弁に任じられた。これは実に変事とも言うべき政府内の状態である。
以上のことはモルレンドルフに尋ねたところ、「清国から派遣された陳樹棠(清国総弁商務委員。実質上の朝鮮駐在清国領事)が干渉し、彼に阿諛迎合する者だけを取り立てたのであり、全く不都合千万のことである。朝鮮官吏は卑怯で臆病な者達ばかりなのでこのような変革をすることが出来たのである。しかし金宏集は依然として在職しているから、まず自分に対しては面倒は起きないと思うのでご安心されたい。」とのことであった。
この変革の発端は、閔台鎬、閔泳穆両人の対立から起きたとの説もあり、遂に閔泳穆が失敗したために閔台鎬の腹心である金炳始を督弁に入れ、金允植と尹泰駿は金炳始が引き入れたとの説もある。
李祖淵たちの話では、
「閔台鎬や金炳始等は常に自分達の外交の処置をかれこれ難論して面倒も少なくないので、それならば自分達は退くので君達が外交事務を担任し、その困難さを体験すればよかろうと彼等に申し入れたところが、遂にその議に一決して交代となった。しかし新任の3名は外交の何たるかも承知しない者ばかりで、おそらく1ヶ月も経てば彼等は自ら退職するだろう。その節は、我等はまた再任することになろう云々」ということであったという。(小学生のクラブか!)
とにかくその3名は、外交を担当することによって世間の風潮などを体験するにはよかろうが、これが要するに清国の陳樹棠が全て指揮することになって今までとは全く変ってしまうなら、当方としても万事に注意して対応せばならないことである。以上報告する。
在朝鮮臨時代理公使
明治十七年四月十四日 外務書記官島村久
外務卿井上馨殿
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モルレンドルフもこの頃にはすでに朝鮮人という者の性情をよく理解していたようである。「卑怯且つ臆病」というのがドイツ人初の所見であり、何も日本人だけがそう思っていたわけではないことが分かる。
そもそもこの時の変革の発端は、閔台鎬、閔泳穆両人の対立から起きたとの説があるとのことであるが、後に編纂された「日清交際史提要」の「第三冊
第十一編 至 十三編/4 第十三編 第三回朝鮮事件」によれば、この当時清国に事大する者たちは次の2党に分かれていたという。
第一の事大党は、清国に従属していれば国家は大平であり、必ず日本は信じ難いと主張。その者は閔台鎬、趙寧夏、閔泳翊(一時は日本に接近する態度を見せて金玉均を喜ばせたが結局はここに収まったようである。)、金允植、尹泰駿である。
なお尹泰駿は、『陳樹棠が朝鮮官僚を殴る蹴るなどの暴力を振るっていたのに、それに対して政府が何も非難しないことに対する論駁の書を提出した者があったことに対して、「清廷に書駁する者は乱臣賊子だ」と非難したという(呉善花
文春新書「韓国併合への道」より要点抜粋。)』ぐらいの事大主義者だったらしい人物である。
第二の事大党は、清国に従属することは第一党と同様であるが、その上に自己の権力を得んがために国王を抱きこんで自分達に反対する独立党(いわゆる日本党)を撲滅せんことを目的とする。閔泳穆、韓圭稷、李祖淵、閔応植の四名。また閔泳翊はこれにも属していたという。
これら2つの事大党は、清国を頼るということにおいては同列であり、さらに国王に対しては閔妃を通して清国に頼るよう進言し、且つ日本に頼り清からの独立を目指す日本党の面々(朴泳孝、洪英植、金玉均、徐光範等)を排斥する勢いとなったという。
つまり陳樹棠の画策による支那党の日本党への巻き返しということになろうか。
ではそもそも清国の対日観とその戦略はどのようなものであったろうか。
清国の対日観と朝鮮への指導
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満州の豪族(清時代)。清人は元は満州族である。
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日朝修好条規締結以降の朝鮮に対して清国がどのように日本を見、また朝鮮に対して指導していたかは次の書簡でだいたい伺えようか。
明治12年(1879)に清国直隷総督・北洋大臣の李鴻章は、朝鮮の当時領議政の李裕元に次のような書簡を送っている。
(「日清交際史提要」の「第三冊 第十一編 至 十三編/3 第十二編 第二回朝鮮事件」より抜粋して現代語に。()は筆者。)
前略
日本はこの数年来、西洋式を採用して万事を営み自ずからすでに富強の術を得たという。しかしそれによって国庫は空となり国債は莫大となった。国外四方に事あって領土を拓くを願い、以って費やすところを償わざるを得ない。
その望んでいる地は北はすなわち貴国であり南はすなわち中国の台湾は最も意を置く所である。琉球は数百年来の■国にて日本に対して罪を犯したわけでもないのに今春たちまち兵艦を発して主権を発しその領土を呑んだ(琉球藩の廃止と沖縄県の設置)。
それは中国と貴国に於ける将来に隙を伺うもので、これでは安全を保ち難い。
中略
今、計をなすには宜しく毒を以って毒を攻め敵を以って敵を制するの策を用いるのがよい。すなわち機に乗じて次第に西洋各国と条約を結び、以って日本を牽制するのである。
あの日本はその詐力をたのみ鯨呑蚕食を以って計とする。琉球を廃滅した一事からそれが露になった。貴国はもとよりこれに備えがないではいけない。日本の畏服するところのものは西洋である。朝鮮の力を以って日本を制するのは難しい。西洋と通商して日本を制するなら万全である。
後略
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李鴻章の対日観がこの文面どおりのものであるとするなら、彼もピントとのずれた人物であったと言わざるを得ない。それとも朝鮮を開国に向かわせんとの深慮を以ってこのような提言でもしたのであろうか。
実質的に薩摩藩に服属していた琉球を明治政府が沖縄県としたことを、朝鮮問題と同列に語るのは粗雑な見識であろう。
また、朝鮮が西洋国と交際することを日本こそが早くから勧めていたのであるが、なにしろ西洋文明を邪教と言って忌み嫌うのだからどうしようもない。
明治9年(1876)の第1回修信使にイギリス・イタリア両公使を面会させたり、その時に米国領事の手紙を取り次いだり(修信使は受け取りを拒否)、西洋難破船の漂流民を保護するように求めたり、イギリスが助けた朝鮮漂流民を引き渡すことを仲介したり、宮本小一は繰り返し外国と交際することを勧め、花房義質はまた朝鮮政府大臣達の子弟を欧米諸国に留学させて学ばせることを提言したりもした。それらのことを清国は知っていたろうか。
さらにこの手紙の後のことではあるが、明治13年に米国政府が朝鮮政府に親睦の書を贈るのに、取り次いでくれるよう依頼した時も井上外務卿が懇ろな勧告書を添えて渡したり(礼曹判書は中も読まずに突き返した)したことも。
業を煮やした清が米朝通商条約を作成して強引にそれを朝鮮に押し付け、ために朝鮮事変の守旧派激党の乱の原因の一つともなったことを。
李鴻章は洋務運動を推進する第一人者であるが、その思想は中華思想・華夷秩序から一歩も抜け出ることはなかったと思われる。李鴻章の意による、中国朝鮮商民水陸貿易章程ではその第二十三条に、
「往来の文書は朝鮮よりは必ず須らく天朝と尊称し或いは上国の字様を称すべし」すなわち『來往文書應遵體例朝鮮必須尊稱天朝或稱上國字様(「中朝約章合編」のp16)』
とあるから、朝鮮を属国としておくことにこそ拘ったのであろう。
また日本を牽制するために結ばせんとした西洋諸国との条約も、その最初である米朝通商条約の冒頭に、李鴻章は朝鮮が中国の属邦であることを明記せんとしたが、天津に来た米国水師提督セエフヒルド等は、国と国の条約は対等公平であるべきなのに中国の属邦としては米国の体面にもかかわることであるとして掲載させなかったという。(もっとも、後の明治18年の伊藤博文と李鴻章との天津談判の時に、この米朝条約について李鴻章は、「条約文には載せなかったが、別文として照会文には朝鮮が中国の属国であることを明記している」と述べている。)
つまり李鴻章は米国を始め西洋各国に朝鮮は中国の属国と認めさせようとしたことこそがその真意であった。また、朝鮮と水陸貿易章程をも結んでその属国たることを強く朝鮮政府に自覚させ、且つ馬建常らを送って支那党を組織し、さらに独立党の台頭を危ぶんで陳樹棠を送り込んだ、ということになろう。
しかし世界の動向は華夷秩序などではなく、すでに西洋諸国の論理と万国公法が決めているのである。華夷秩序の中華思想など千年以上も前に放棄していた日本がそのことをいち早く察して国家の大変革を成し遂げつつあり、それを朝鮮国にも勧めんとしたのであり、「鯨呑蚕食を以って計と」しているのは西洋各国であり、すでに侵食されているのは当の清国自身であり、中華思想など意味のない古物である現実を見ようとしなかったのは李鴻章始め清国の者達であったということになろう。
明治12年の李鴻章のこのトンチンカンな対日観はいかにも中華の価値観意外には盲目であることを示すものではある。しかし実質上の清国の為政者であり世界でも指折りの政治家と言われた李鴻章をしてこの程度の人物であったことは筆者にとって一つの驚きである。
「朝鮮策略」について
ところで、明治13年(1880)頃に清国駐日公使館参賛官黄遵憲が著したとされる「朝鮮策略」であるが(第2回の金宏集の修信使日記にその記述がある)、それには露国が朝鮮の主敵であるとして、「朝鮮の今日の急務は、中国と親しみ日本と結び米国と連携し、以って自強を図るのみ」とある。
これを以ってただちに清国政府は日清朝の連合によってロシアに対抗せんとの方針に転換した、と考えるならちょっと早計であろう。当時は清国とロシアが西アジアのイリ地方の領土を巡って対立していた頃である。それを踏まえて、当時の清国の立場に立って対外政策を思考するなら次のようになろう。
・朝鮮は属邦であることを西洋国にも認知させる。→「米朝通商条約」
・朝鮮独立を目論む日本を牽制する策として、清の属邦として米国などと条約を結ばせる。→「米朝通商条約」
・領土的脅威である露国を牽制する策として、英米、更に日本も巻き込んでこれにあたらせる。
したがって朝鮮の対露国防衛策は、朝鮮が中日米と連携することである。→「朝鮮策略」
ここで最も大切な事は、朝鮮が属邦であることを揺るがせない事である。→「中国朝鮮商民水陸貿易章程」
以上のようになろうと思う。
現在では「朝鮮策略」を以って当時の日中友好の証などと言う中国人学者がいるようであるが、中国の外交政治はそんな単純なものではなかろう。無論、日本人への印象操作でそう言っていることは当の本人が一番承知しておろうが。
では、当の朝鮮政府はどう考えたろうか。
井上馨が金玉均との対談で「何を申してもつまりは今日のように貴政府の不協和の有様では所詮信を置き難い。」と言ったように、この国は上記した各派の果てしない権力争いで「朝変暮更で実に貴政府全権のあるところを知るに由なく(井上)」、全く国としての方向が定まらないのである。
修信使として金宏集が帰国して3ヶ月ほど後に仁川開港の事で花房公使と対談をした後に、両者は人を遠ざけて密談をしているが、その時も花房がロシアのことについても言及しても、金宏集は「朝鮮策略」そのものについては勿論そのことに関連するような話もしてはいない。事は日本にも関係することであるにも拘わらずである。その時に金宏集の意識には「朝鮮策略」は無かったと言う外はない。
「朝鮮策略」を以って朝鮮は米国と通商条約を結ぶことになったと言うのも無理があろう。清国の主導により強引に結ばれたものであることはすでに述べた。大院君派の反乱の遠因になったことも。
後の日本政府公式の日清外交略史とも言える「日清交際史提要」の「第三冊 第十一編 至 十三編/4 第十三編 第三回朝鮮事件」」にも「朝鮮策略」に関するものは無く、先の朝鮮領議政宛の李鴻章の策略を記述してあるだけである。対ロシア戦略としての「日清米朝」の連結という重要な政策案が清国政府から発せられ、なお且つ朝鮮政府がそれを取り上げていたとしたら間違いなく日清日韓の略史などにも記録されていただろう。
なお、明治17年の朝鮮事変後に京城駐在の近藤真鋤臨時代理公使から次のような報告がされている。 「朝鮮政府では『もし日清両国が兵を駐屯させることになった場合には何らかの事変が再発するかもしれない。その時は朝鮮政府はロシア国に保護を依頼するべし』との評議があった。(近藤代理公使報告京城事変後国情ノ件)」と。井上角五郎がそう統理衙門の金允植から聞いたと言う。
朝鮮には、ロシアは主敵であるという自覚すらなかったのではなかろうか。
朝鮮の外交政治はまことに鵺のように掴みどころが無いのであるが、そこで「朝鮮策略」が果たした役割とは実は限りなく小さいものではなかったろうか。
駐京清兵の半減
明治17年5月の臨時代理公使島村久の報告に依れば、駐京副営提督朱先民の話として、5月21日に提督呉長慶師帯の六営の部隊の内三営が朝鮮から撤兵し、呉長慶が居る奉天府の金州に帰駐したとのことであった。(呉長慶がいつ奉天に移ったかは分からない。(2月らしいが。))
(臨時代理公使島村久ヨリ朝鮮国京城駐留清国兵営六営ノ内三営撤却帰国ノ報告)
かつて呉長慶が竹添公使に「大兵を駐在させるのは費用が巨大なるを苦しむので、3月頃(明治16年の)には兵の半分を引き上げて様子を見る積りである。」と語っていたが、ここに至って漸くそのことを実行したことになる。
一営は500人であるから残留するのは1500人となる。一方公使館護衛の日本軍は1中隊であるからおよそ150人程と思われる。
なお日本の1中隊は10月14日付けで東京鎮台歩兵第1聯隊第1大隊の内1中隊から、仙台鎮台歩兵第4聯隊第1大隊の内1中隊に交代となった。(在朝鮮国日本公館警備兵交代ノ件)
脚気患者に小豆と麦の試験給与
資料の流れからは外れるが、明治17年9月、以下のように脚気患者に小豆と麦を試験的に給与したいという記録。
(脚気患者小豆食麦の為試験給与致度伺)
脚気患者ヘ小豆食麦ヲ為試験給与致度義ニ付伺
当台各隊之内逐々脚気症に罹る者有之候に付、為試験定則精米之内ヲ減じ、換ゆるに小豆、或は食麦混和炊爨給与致度旨申出候隊も有之候間、代用として小豆或は食麦給与致度。然る上は、経費決算に至て各隊食米を減じ、代用小豆或は食麦の名称を以、精米領り実費仕払勘定相立可然哉、至急何分の御指揮相成度、此段相伺候也。
明治十七年九月十三日
東京鎮台司令官三好重臣代理
東京鎮台参謀長乃木希典
陸軍卿西郷従道殿
伺之趣、本年送第四千〇十二号達候通、可相以為事
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玄米や麦や小豆などに含まれるビタミンB1の欠乏症である脚気は、白米を常食とする日本軍最大の敵であり、当時はまだ原因不明の病気であった。
海軍も麦に着眼していたが、陸軍もそのことに取り組んでいたという記録である。
ただ、残念ながら陸軍ではその成果が生かされることはなかったが・・・。 自らの思い込みに固執せず、事実に着目することこそが大切なのは、独り森鴎外のことのみにあらず、と。
国王に賠償金贈呈を告げる
さて関税規則が成って税金収入が増えたとはいえ、朝鮮政府の財政が困難な状態であることは相変わらずであった。賠償金残額40万円を贈呈ということで帳消しとしたことは既に述べたが、10月13日にそのことが井上外務卿から上申され、さらに明治16、17年と2ヶ年で収納した10万円は、大蔵省で6パーセント利付き金札引換公債証書に振り替えて貯蔵することになった。それは朴泳孝が修信使として来日したときに横浜正金銀行から17万円を借り入れた(エピソード様々)が、これすらも返却が困難かもしれず、為にいよいよ返済も出来難いことになった時には、この10万円に利子を添えて朝鮮に返却したいとの井上外務卿の上申があったからであった。(はあと)
(外務省稟告朝鮮政府ヨリ受入ルベキ填補金処分方)
11月2日、京城公使館に日本から戻った竹添弁理公使は朝鮮国王に謁見し40万円の件と村田銃贈呈のことを上奏した。
(「外務省稟告朝鮮国填補金返還処分」の「十一月二日當國王殿下ヘ謁見奏上筆記」より一部意訳、現代語に。)
国王「貴国皇帝陛下には御安寧にあらせられるか」
竹添「御安寧にあらせられます。外臣進一郎敬って申し上げます。我が大皇帝は、大君主には世界の大勢を御洞察あらせられ、制度を更草して改新の政を布き、開明の治を成すに政務御熱心に精励あらせられるのを御満足に思し召され、ついては補填金五十万円の内四十万円を朝鮮国開明の要具たる学術或いは工業或いは器械その他百般の事業を振興すべき資力の一端の裨補に転用せられんことを希望あらせられる旨を大君主に伝奏せよと進一郎が陛辞の際に口宣あそばそれました。」
国王「当時、補填金の儀に及んだのは即ち公法に拠って約定したところである。しかるを今、大皇帝陛下は我が国に向かいこのような厚誼を以って御懇篤な聖意に出られるのは、実に感銘の至り、謝するに辞なし。卿、宜しく余が感激に堪えない旨を大皇帝陛下に転奏すべし。また卿は、海陸とも無事に来たりしや。」
竹添「無事に渡海仕りました。進一郎は御地を離れて十ヶ月を経て今日うるわしき御尊顔を拝して、我が大日本国の大朝鮮国に向かって交誼の親密なるを表するに足る我が皇帝陛下の叡旨を伝奏するの栄を得たるは進一郎の大幸であります。また、我が外務卿伯爵井上馨は大君主及び世子宮に村田銃二挺ずつを弾薬を添えて謹んでこれを献じ、大君主の新政を仰賛するの衷情を表すを謹んで言上仕ります。」
国王「予て貴国の製造に係わる村田銃の名を聞き及んでいる。しかるに今、貴国外務卿の志によって親しくその精巧なるを見る。必ず以って重宝となすべし。」
竹添「本日は我が属官及び海陸士官等まで謁見を仰せ付けられ、誠に有り難き仕合せであります。」
国王「いずれも皆数千里の波涛を越えてこの地に来たことなればどうして親しく見てその無事を喜ばないでおられようか。」
以上で終わり、属官及び海陸士官等が各々に国王殿下の前に進んでその姓名を告げて拝礼をして退いた。
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この時に贈られた国産初の歩兵銃である村田銃は、すでに日本陸軍で正式に採用されていた十三年式であろうか。次の十八年式が既に出来上がっていたとは思われないが。
しかし朝鮮国王も村田銃のことを知っていたことは興味深い。
さて、先の明治15年5月29日に花房公使が朝鮮世子の冠婚の賀儀にあたり日本政府から小蒸気船と山砲が贈られた。そのおよそ2ヵ月後に朝鮮事変は勃発して日本公使館は焼かれ日本人が殺された。
今度は11月2日に日本政府から40万円と小銃を贈り、そのほぼ1ヶ月後に再び公使館は焼かれ大勢の日本人が殺されるという大事件が起きた。しかもこの時は殆どが民間人であり中には婦人もいた。
これではまるで何かの法則のような・・・。
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