日清戦争前夜の日本と朝鮮(2)
明治15年12月、デンマーク国大北部電信会社から長崎上海間と長崎ウラジオストック間の従来線に電線を増設すると共に朝鮮へも海底線を沈設したい旨の願いが日本政府に出された。そもそも日本での電信線の取り扱いはすでに明治3年8月にデンマーク国公使との間に取り決めが出来ていたようである。(朝鮮国ヘ海底電信線布設ニ付布達ノ件) 明治16年1月27日、趙寧夏、金宏集、洪英植の3名が日本公使館に来館して談判を開く。ところが朝鮮側は海底電信の何たるかを知らず、それで竹添はまるで小児を諭す如く一通り呑み込ませるのに時を費やした。 電線を釜山海湾で陸揚して居留地までの陸線並びに電信局設置にかかる経費は、朝鮮も官民共に電信を利用することになるのであるから本来ならば折半あるいは朝鮮政府が陸地部分を設置して経営するというのが本当であろう。しかしもちろん朝鮮にはそのような技術も知識もないから日本側が負担することにしたが、日本政府としては設置する電信局などは居留地外となるがその地租税などは永代免除としたい意向であった。(竹添公使への内訓が見つからないが彼の報告からそのことが窺われる。) 朝鮮政府は、居留地外に少しでも地租の永代免除の地所を他国に貸与することは、いくらか国権を毀損しいつか禍を醸すことにならないかと危惧し、必ず年限を定めなければ安心出来ない旨を竹添に伝えた。それで竹添は経費分を電信料によって取り戻すことが出来た後は地租税を朝鮮政府に納めることにし、それが出来る利益が生じるには30年はかかるとして朝鮮政府に伝えた。 2月4日になって朝鮮政府から地租税猶予期間を20年に縮めてほしいとの要望があり、さらに12日になって趙寧夏が起草した条約案では更に15年に縮めること、地租取立ての範囲を広げること、朝鮮政府が官報として送信する料金を民間の3割とすること、などを記載していた。これらは馬建常の助言によるものであった。 当初は海底電信が何なのかも知らず、モルレンドルフや馬建常に相談してやっと得心がいったようであるが、一度理解してそれが利益を生むことになると分かったら途端に法外な要求を突きつけてくる。それが朝鮮である。 これには竹添進一郎も少し頭に来たらしい。このままでは到底思い通りには談判が収まらないと思った竹添は、先日から公使館護衛の日本兵に対して誰かが矢を射込んだ事件での犯人検挙の件、また済物浦居留地の測量の検視官を朝鮮政府から派出する件、などの趙寧夏と期日を約束していたことが未だに放置されて守られていないことを公文として領議政に送ってその非を鳴らし、趙寧夏を現職から免じなければ条約が整うことは難しいだろうと判断した。おそらく竹添は趙寧夏が朝鮮事変のことで清国に出したひどい手紙の内容も知っており、狡猾な事大主義者であるとも思っていたろう。また朴泳孝が彼に話した「国王殿下もそれらを御承知で彼を免職する思し召しであるが趙は大王妃の甥に当たるので殿下も御心痛され、その上清国とのこともあるので今は御忍耐されている。」との言も影響していたかもしれない。(ただし朴泳孝の言が真実であるとの保証も無い。) 常に冷静であった花房と違い、竹添は努めて怒り顔を見せる外交官であった。それがどんなものだったかを彼は自分で詳しく報告している。 2月14日、先の電信線に関する趙寧夏の条約案について馬建常の邸宅で談判することになった竹添公使は、通訳や書記官また幾人かの兵士と共にそこに向かった。
なんと正直に竹添は自分の小芝居を報告しているものではあるが、ここに書いた人物像を要約すると、 談判の駆け引きとして威圧的には出たが少しく悔いている報告であろう。電信に関しては結局はいろいろと譲歩しているのはこれまでの日本の外交官と同じである。 しかし趙寧夏や金宏集は、かつてない日本外交官のタイプと映って面食らったのではなかろうか。 なお海底電信のことは3月3日にほぼ上記報告どおりに条約化されている(同国釜山港ヘ海底電信線架設ノ件)。また、調印に際して竹添の目論見どおり趙寧夏は督弁を辞任し、代わって閔泳穆が督弁交渉通商事務となった。
日本政府は、釜山・元山津などの居留地に滞在する日本人の中には粗暴の振る舞いをし、あるいは脅迫して貿易を妨げる者などがおり、為に安寧を保ち居留民をして善良なる行為に導くために以下のように取り締まり規則を制定することにした。明治15年12月20日上申、翌16年2月28日認可、3月10日布告。
先の日朝修好条規の続約締結によって遊歩範囲が改まったが、かねてから日本人がこの規定外の地に出ても修好条規にも国内法にも何ら罰則が無いところから、これを制しても出て行く者があった。日本政府は安辺の事件の如きもその一端であるとして、日朝両民の親睦交際のためにも、真正なる貿易を増進するためにも、規定を犯した者を処分する罰則を設けることにした。
旧暦正月、朝鮮国王の名で朝鮮全八道に諭告が出された。(「竹添弁理公使報告朝鮮国近況・機密信第十八号」の「甲号 諭八道四都人民等處」) 「日本党もこれまでよりも勢いを得ているようで洪英植も協弁交渉通商事務[日本の外務大輔に相当]となって金宏集や馬建常と同列に、金玉均は参議交渉通商事務[日本の外務少輔に相当]となってモルレンドルフと同列になった。」 「閔泳翊はそれまで何となく疎遠の感じであったが、支那党の者達から勧められて清国見物をして帰国後は却って日本に気持ちが傾き、公使館を訪ねて頗る懇親を表した。先に金玉均が『閔参判も幸いに支那酒に酔わなかったのみならず、支那政治の不取締を目撃し、又モルレンドルフも同行したので見聞も多く初めて支那は頼むに足らないと知り、従って日本に倚頼するの心を固め、実にこの上ない幸いである。』と述べていたが果たしてその通りであった。」 「近来、朝鮮政府内も自主の権を頗る立てている姿であり、馬建常はあっても無きが如く金玉均は得意の面持ちである。あまりはやりすぎはせぬかと懸念している。」 「近来朝鮮政府内での自主党の勢力は増し、これは全く金玉均の尽力によるものである。閔泳翊が支那から帰国してからは金玉均を庇護するだけでなく同心協力し、金氏も大いに後ろ盾を得て、今日に至っては大概両氏の見込み通りに運んでいる」 「朴泳孝は領議政右議政から国王殿下に迫って一旦免職となったが、日ならずして広州留守官に任じられた。馬建常たちは勢力を失い終始押しのけられた状態となって統理衙門にも常には出頭しないようになった。」 「先日から統理衙門に招かれて行ったが、そこは閔泳翊の旧宅であった。庭には花木などもあった。統署の面々が小官を案内して庭中を遊歩したが馬建常は小官に付きまとって少し不平をつぶやくぐらいで彼には実に気の毒に思えた。金玉均は馬建常には遠からぬ内に帰国することになると言っている。しかし当人からは何も聞いていない。馬建常は邪魔になるほどの力もない。帰国させれば却って清国の猜疑を生じて迷惑なことが出来することも計り難い。」 4月15日、西大門(敦義門)内の火薬庫が爆発するという事故があった。
「モルレンドルフの尽力により朝鮮政府は清国招商局から20万両を借り入れた。利子は年8銖(8パーセント)12年返済。もっとも無抵当である。」(後の金玉均の話によれば海関の入用に充てるという。(井上外務卿朝鮮人金玉均ト談話筆記)) 「また、モルレンドルフは朝鮮の特産物を模索し、そのうち外国に輸出すべき品は絹糸であるべきと、清国から桑の苗を5千本程持ち帰った。」 「モルレンドルフは、李鴻章の恩義を受けて朝鮮に来たが、清国の利益を計るのではなく、ひたすら朝鮮政府のためのみを計る公平の人である。平常から朝鮮の官服を着けて全くの朝鮮官吏となり、朝鮮のためのみに働いて国王殿下初め政府一統から信用されるに至っている。」 (なお、「昨年支那より銀五十万両を借り入れたるとの噂は全く事実にては無之候。」ともあり。(竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信第三十四号外ニ私報其二通))
開化派と言われ、あるいは主和者とも言い、中でも日本党と称する人々は日本から随分援助も受け、とりわけ金玉均などは個人的に支援する人も多かったと聞く。しかし、前述した「重層の開化派」や「明治丸の金玉均」でも感じたことであるが、「日本と手を携えて共に開化の道をゆかん」というよりは、どうもただ日本の力を利用したいだけの、とりわけ金玉均などはこの井上外務卿との対談を読む限りにおいては、政府内で権力を取りたいのは実は金玉均本人ではなかろうかと思えてくる。 どうもこの国の人は日本人を落胆させて止まない性情のようである。ここでも前年12月に横浜正金銀行から17万円を借用した際に大蔵省まで巻き込んで尽力した井上をひどく落胆させた何かがあったことが窺われる。即ち「人に詐り取られたことも承知している。随分貴下は不始末の人である。」と。 井上の「万事急激に走るべからず」の助言に対しても、再三その積りであると言い「決して貴慮を煩わさるることなかれ」と言いながら、この後政府内で権力闘争に明け暮れ終には流刑に処されんとする勢いまでになったことから、一気に全権力を握らんと無謀極まるクーデターを起こして更に竹添公使らを謀って巻き込み、ために大勢の民間の日本人までが惨殺される事態になるという一大事を惹き起こした人物の1人である。 なぜに今でもこの人を持ち上げる人が多いのであろうか。後に暗殺される悲劇の人であるからだろうか。判官贔屓は日本人の常とは言え筆者はこの人を評価しない。実に日本にとって迷惑な人物であり、朝鮮にとっても功罪相半ばする人ではなかったろうか。 かつて黒田全権派遣時に野村靖外務権大丞は申大臣たちに富国強兵論を説き、人民が繁栄してこそ富国強兵に通ずる、との意味の事を述べたが、いったいこの国で誰が人民の繁栄をこそ思う者がいたろうか。莫大な負債を抱えて国家的危機をもたらしかねないことを金玉均たちは考えたろうか。また朴泳孝が日本を倣って大八車で汚物を取り除くまではよいが、路傍の小屋(藁屋の商店の類であろう。)を取り除くべしとの命令を下しても、そこで商業活動していた者たちの生活のことや及ぼす経済の影響を考慮したかどうか。 かつて朝鮮政府は朝鮮事変の賠償金は慶尚道の地税60万両(韓銭)を以ってこれに充てるとしたが、おそらく叛乱した守旧派激党が慶尚道江原の者達との理由からであろうが、重税となって負担を負わされたのは結局は何の関係もないそこの人民たちではなかったか。 また、自主独立に拘るからこそ、他国の人間であるモルレンドルフの貢献を評価できないのであるとするなら、今日の南北朝鮮が、日本が朝鮮を近代化に導いた事を決して認めないことと本質として同じである。 福沢諭吉は金玉均のことを「悪をにくむこと甚だしく、たとえば古史を読みても、邪曲の小人反覆常なきの条に至れば必ず憤怒して止まずというほどの性質なれば、今人に交るもまた斯くの如く、毫も人の不正をゆるさず」と評したらしいが、正義に厳しい者はとかく事に当たって悶着を惹き起こす傾向がある。つまりは狭量の人物であると言わざるを得ない。竹添進一郎などはそんなものよりは実質を取る現実主義者である。且つ清をよく理解する者である。彼は日本で清国の内政干渉を憤り清国脅威論を唱える者がある事を意識し、清は朝鮮を属国とはしているが内政干渉と見えるものもそうではなく、まずは清国のする事を静観しておくに限るとしばしば報告している。その彼が、日本党に引きずられて清兵と戦闘する破目になったとは真に皮肉としか言いようがない。 確かに清(李鴻章)もこの頃は朝鮮をよく開化に導いていたと言える。その日清がどうして争わなければならなかったのか。
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