日清戦争前夜の日本と朝鮮(2)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

日本朝鮮間初の海底電信線。「朝鮮国ヘ海底電信線布設ニ付布達ノ件」を参照。

日朝間に海底電信を通す件

 明治15年12月、デンマーク国大北部電信会社から長崎上海間と長崎ウラジオストック間の従来線に電線を増設すると共に朝鮮へも海底線を沈設したい旨の願いが日本政府に出された。そもそも日本での電信線の取り扱いはすでに明治3年8月にデンマーク国公使との間に取り決めが出来ていたようである。(朝鮮国ヘ海底電信線布設ニ付布達ノ件)
 日朝間初の電信は佐賀の松浦から壱岐の郷ノ浦、対馬の巌原を経由して朝鮮の釜山までつなぐものであった。日本政府はそのために朝鮮政府との協議を竹添弁理公使に委任した。

 明治16年1月27日、趙寧夏、金宏集、洪英植の3名が日本公使館に来館して談判を開く。ところが朝鮮側は海底電信の何たるかを知らず、それで竹添はまるで小児を諭す如く一通り呑み込ませるのに時を費やした。

 電線を釜山海湾で陸揚して居留地までの陸線並びに電信局設置にかかる経費は、朝鮮も官民共に電信を利用することになるのであるから本来ならば折半あるいは朝鮮政府が陸地部分を設置して経営するというのが本当であろう。しかしもちろん朝鮮にはそのような技術も知識もないから日本側が負担することにしたが、日本政府としては設置する電信局などは居留地外となるがその地租税などは永代免除としたい意向であった。(竹添公使への内訓が見つからないが彼の報告からそのことが窺われる。)

 朝鮮政府は、居留地外に少しでも地租の永代免除の地所を他国に貸与することは、いくらか国権を毀損しいつか禍を醸すことにならないかと危惧し、必ず年限を定めなければ安心出来ない旨を竹添に伝えた。それで竹添は経費分を電信料によって取り戻すことが出来た後は地租税を朝鮮政府に納めることにし、それが出来る利益が生じるには30年はかかるとして朝鮮政府に伝えた。

 2月4日になって朝鮮政府から地租税猶予期間を20年に縮めてほしいとの要望があり、さらに12日になって趙寧夏が起草した条約案では更に15年に縮めること、地租取立ての範囲を広げること、朝鮮政府が官報として送信する料金を民間の3割とすること、などを記載していた。これらは馬建常の助言によるものであった。

 当初は海底電信が何なのかも知らず、モルレンドルフや馬建常に相談してやっと得心がいったようであるが、一度理解してそれが利益を生むことになると分かったら途端に法外な要求を突きつけてくる。それが朝鮮である。

 これには竹添進一郎も少し頭に来たらしい。このままでは到底思い通りには談判が収まらないと思った竹添は、先日から公使館護衛の日本兵に対して誰かが矢を射込んだ事件での犯人検挙の件、また済物浦居留地の測量の検視官を朝鮮政府から派出する件、などの趙寧夏と期日を約束していたことが未だに放置されて守られていないことを公文として領議政に送ってその非を鳴らし、趙寧夏を現職から免じなければ条約が整うことは難しいだろうと判断した。おそらく竹添は趙寧夏が朝鮮事変のことで清国に出したひどい手紙の内容も知っており、狡猾な事大主義者であるとも思っていたろう。また朴泳孝が彼に話した「国王殿下もそれらを御承知で彼を免職する思し召しであるが趙は大王妃の甥に当たるので殿下も御心痛され、その上清国とのこともあるので今は御忍耐されている。」との言も影響していたかもしれない。(ただし朴泳孝の言が真実であるとの保証も無い。)


鬼面の竹添進一郎

 常に冷静であった花房と違い、竹添は努めて怒り顔を見せる外交官であった。それがどんなものだったかを彼は自分で詳しく報告している。

 2月14日、先の電信線に関する趙寧夏の条約案について馬建常の邸宅で談判することになった竹添公使は、通訳や書記官また幾人かの兵士と共にそこに向かった。
 以下その時の報告である。

以下、「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信一、二、九、十、三、四、五、六、七、八、九、十 、十一、十三、十四、外ニ私報其十七通」から抜粋して現代語に。候文の丁寧語は一部省いた。()は筆者。

 (略)本日午後二時からとの趙寧夏の話に従い、斉洞会館[斉洞会館は馬建常の寓居であることを帰る時に初めて知る。]に罷り越しましたところ、内門に入りかかった時に、馬建常護衛の清兵両名が門に立って前を行く(我が)兵隊を拒んだようなので、浅山顕蔵が進んで(間に)入りました。するとその清兵一名が手を以って支えたので、(浅山は)これを撞き退けて前堂に入りました。
 時に一時五十分で少し時間が早いことから待ち受けの都合が出来ていないようで、(暫く外で待った。)

 韓人が案内いたし後房に通りましたところ、趙寧夏、金宏集、馬建常、金允植の四名が縁先に出迎え、折りしも大雪で小官の洋服は雪を帯びていたのを、馬建常はニコニコと会釈して支那服の長い袖を以って衣上の雪を払い落としてくれました。
 しかし小官は苦々しい顔つきをして座に就くやいなや趙寧夏に向かい、「今、門内に於て我が前行を拒んだ者がある。これは貴官から申し付けられた門番であるか」と問い掛けましたところ、趙からは「別段申し付けたる事はこれ無き」と答えましたので、小官は「支那服を着けていた。馬大人の従者なのかもしれない。顔は見知っているので糺すべきである」と浅山に申し付けまして、その支那兵を室内に引きずり込んで馬建常に向かって、「御見知りの者であるか」と問い詰めましたところ自分の護衛兵なる旨答えましたので、それからは筆談をし、(馬が)「右は出迎えを致しおき候ところ言語不通のところから失礼いたした儀に付き勘弁いたしくれ候」様の謝辞を述べてなお「拙者は先日から貴館に伺った時も門兵は一時遮った。それと同様のことに付き立腹いたされるな」と言うのを聞いて小官は目を怒らせて、「貴官は一時遮ることと失礼を働く者とを同一に論じられ候や」と詰問しましたところ、馬は「否、決してそうではない。よって只今(その兵士を)営中に送還し相当の懲弁を申し付けるべし」と。

 その混雑のやり取り中、趙寧夏、金宏集らは顔色を失って立ちすくみ、その心配している様子は筆にも表し尽くせないものでありました。日ごろから趙寧夏などが鬼神の如く敬畏する馬建常を右の通りにいきなり苛めつけましたので、一座は粛然を極めました。

 小官は正面の椅子に就き、金宏集はその右に居り馬建常はその次に座り趙寧夏は左側の浅山の次席に居り、小官とは隔たっていましたので小官から「今日は趙大人に用談がある。近寄りたい」と言って小官の左席に就かせ、それより趙から啓文を取り出したので、(先の約束期限のことなどを)一々責めたてまして更に条約草案の不当を難詰し、偶々金宏集が傍らから喙(くちばし)を入れましたので小官は目を怒らせて「貴下と談ずることではない」と言って口を閉じさせ、十分に趙を詰責してその罪を謝させた上で更に全権の有無を問いただしました。
 すると趙は「督弁の職なので全権にあらずというわけではないが、しかしこれらのことは全て統理衙門諸員の評議に掛けたものである」と。それで小官は「それならば全権を有しないということか」と言いますと、趙は大いに困惑して言うのに「全権を有せずとも言い難い」小官は「それならそのことを(文書にして)書き付けられたい」と紙を差し出しました。
 それにより(趙は)一層困惑して朝鮮の実際をくどくどと弁じ平に断りを申した末、金宏集が傍らから「朝鮮は何にも不案内がちで、万般御教示を蒙らねば相分かり申さず事は浅山が熟知していることである。趙督弁の失策のことも直に御面責下されれば御親切の交際と思われるが、昨日の通りに表向きに公文を以って御責めになられれば督弁(趙寧夏のこと)の面目にも障って御尤ものこととは思われない」と。

 この時に小官は初めて金宏集の方に向かい「只今の御一言は聞き捨てならない。それは全く小官から貴国大臣に向かって失礼を加えたとの御主意に付き、職分上そのままには差し置き難い。只今の御口上を書かれたい」と紙を突きつけました。
 金宏集は大いに困惑して再三断ったのを押して促しましたところ「左様に強迫なられては実に困却する」と申し述べましたので、小官から又その強迫の二文字を咎めて「貴官から余を失礼と認め又強迫と申された儀は改めて公文を以って御掛合に及ぶべきことであると御心得ありたい」と申し且つ「諸君は両国の親睦を厚くし両国の便益を図るとの御主意には無いようである。何事に依らず我が国を疑い我が国を排斥するの御内情と察っするので談判も無用である」と言い放って席を立ちかけましたところ、趙金から頻りに断り「左様な意は毛頭無く、電信条約案も御意見を承ってから議定いたすべき積りなり」と申しましたので、よき塩梅であると考えてそれより談判に取り掛かりました。

 趙寧夏は真の貴族にて何にも分からないので金宏集が全て相手となりましたが、彼の条約案は馬建常の手になること故これも独断の返答は出来ずに、小官の言を一々筆談して馬に打ち合わせてから討議していました。

 前陳の通り最初に三人とも十分に肝を取り抜きましたので敢えて抵抗はいたしませんでしたが、馬建常は仏国の試験を経て仏学はかなり出来て各国電信局のことも一通り承知いたしておりますから、その論議する件々の全ては尤もに聞こえるものであります。それを威力に任せて無理無法に叩き付けてはモルレンドルフから「日本は未開の弱国に向かって兎角に圧制脅迫を用いる」との感触を起こすようなことがありましては今後の交際上に大いに不都合を生じることと存じます。
 それで御内訓の旨もあり期限を二十五年に縮め、朝鮮の官報は私信よりも先に送信し又釜山地方に新設する日本の陸電は電信料を半額に減ずべきを承諾いたしました。
 陸揚場の地税につきましては、彼らが言うには、日本政府と訂約するといってもその実はデンマーク会社の海底線であり(日朝)両政府の間なれば特別であるが、電信局などの陸揚場を永代無税にして居留地外に貸し与えることは実に困ることであるとのことでした。
 それならば二十五年間の免税を約定いたし、そして二十五年を経るの後に実際に利益が無い時は更に免税のことを商議すべき旨を書き加えましたら双方公平となると申しましたところ、(彼らは)その意に任せました。

 右にて大略議定した姿にはなりましたが威脅の末に僅かにここに立ち至りましたことゆえ未だ確定とは申し難いです。

 前陳の応接振りは僅かにその大略を摘んだまでのものでありまして、午後一時五十分頃より夜に入るまで時間を費やし、電線談判に至るまでの応接は只々彼らに困惑を与えるの主意にありました。それより彼の一言一句を小官からこれを鍵に引っ掛け幾度も彼にその謝罪をさせ、殊更に肘を張り目を怒らせて専ら威迫を以って圧し付けましたしだいです。
 実に不本意ではありましたが、到底、支那朝鮮人には一度強力を示して我を畏るるの念を抱かせておかないなら、狎れて我侭を働くの性質でありますので、止むを得ず右の通りに挙措いたしましたことをご斟酌賜りますよう。
 しかるに威力を示すことはしばしばすべきではないことは論を待たないことで、馬建常、モルレンドルフ、皆朝鮮外交官員になりましたことですから、この後にこちらから下手な事を持ち出しましては、馬建常は歯牙に掛けるに足らずといえども、モルレンドルフから冷笑される恐れがあり、又まさに米国条約批准が済みましたようなのでこれからは西洋人の往来もあるべきかと。
 ついては目前の小利にこだわるのを止め、「日本は実心で朝鮮に向かって親切の交際をなすものである、実心朝鮮の開化を誘進するに尽力するものである」との感触を西洋人に起こさせるように致したく、またその方が他日に我が政略上に於て都合よろしかるべきと存知まして、我が政府におきましても深くこの辺をご注意ありますよう懇願いたします。
右とりあえず内申いたしおきます。
           在朝鮮
明治十六年二月十四日  弁理公使竹添進一郎
  外務卿井上馨殿

追啓
 前陳の電信局地址免税の一条は、右はどうかして永代免除に致したいと思いましたが、彼は居留地外に聊かにても永代免租の地所を他国に貸与するに於ては、幾分か国権を毀損し且つ多年どのような禍を醸すかも計り難いと疑懼を抱き、是非年限を定めないなら安心いたさぬ模様につき、不充分とは存じながら二十五年を限り、そして二十五年の後に高利潤が無い時には更に免税のことに商議すべき旨増加いたしました。
 もし今日の談判通りに一決し果たして調印するに至りましたら朝鮮の官報に係わる分を半価にて取り扱うようにデンマーク会社にもその筋より談判されますよう切望いたします。
 釜山から日本に向かって朝鮮政府の官報と申すものが一月に何回あるべきか実に間遠いことと思われますので損益上に差し支えることはないと思います。
 以上のように日本から取り計られましたら朝鮮政府も我が電信架設の挙は実に朝鮮のためにも便益を計りくれたとの信用を置き、他日談判の事があるに当たり幾分か狐疑を減じることになると存じます。

 なんと正直に竹添は自分の小芝居を報告しているものではあるが、ここに書いた人物像を要約すると、
 趙寧夏はルーズで無能な貴族、金宏集にはまるで子供扱い。モルレンドルフは西洋文明の代表のように取り上げ、そして馬建常のことを一番丁寧に書いている。すなわち、「ニコニコと会釈して支那服の長い袖を以って衣上の雪を払い落としてくれ」た実は気のいい人物として、またフランス学にも詳しい教養ある人物であり各国の電信条約にも詳しく、彼の言っていることは正当である、と。しかし議論の相手ではないとも。

 談判の駆け引きとして威圧的には出たが少しく悔いている報告であろう。電信に関しては結局はいろいろと譲歩しているのはこれまでの日本の外交官と同じである。

 しかし趙寧夏や金宏集は、かつてない日本外交官のタイプと映って面食らったのではなかろうか。

 なお海底電信のことは3月3日にほぼ上記報告どおりに条約化されている(同国釜山港ヘ海底電信線架設ノ件)。また、調印に際して竹添の目論見どおり趙寧夏は督弁を辞任し、代わって閔泳穆が督弁交渉通商事務となった。

 

在留日本人取締規則を制定

 日本政府は、釜山・元山津などの居留地に滞在する日本人の中には粗暴の振る舞いをし、あるいは脅迫して貿易を妨げる者などがおり、為に安寧を保ち居留民をして善良なる行為に導くために以下のように取り締まり規則を制定することにした。明治15年12月20日上申、翌16年2月28日認可、3月10日布告
 なお、清国居留の日本人もまた取り締まり対象とした。

(「清韓両国在留ノ御国人取締規則制定ノ件・司法卿連署」より現代仮名使いに。)

清国及朝鮮国在留日本人取締規則左の通制定す。

第一条 清国及び朝鮮国駐箚の領事は、在留の日本人、該地方の安寧を妨害せんとする者又は其の行為に因り該地方の安寧を妨害するに至るべき者と認定する時は一年以上三年以下在留することを禁止するべし。但し其の情状に由りては其の期限相当の保証金を出さしめ在留することを得。

第二条 在留禁止せられたる者は十五日以内に退去すべし。若し期限内退去し難き正当の事由ありて其の旨を申し立てる時は、領事は相当の猶予期限を与うることを得。

第三条 保証金を出したる者再び第一条の挙動ありと認定する時は、領事は其の保証金を没収し仍お在留を禁止すべし。

第四条 退去期限若しくは猶予期限内に退去せざる者及び禁止期限を犯したる者は十一日以上一月以下の重禁固に処し、二円以上百円以下の罰金を付加す。

第五条 此の規則の処分に対しては上訴を許さず。

右奉勅旨布告候事
明治十六年三月十日
         太政大臣三條實美
         外務卿 井上 馨
         司法卿 大木喬任

 

行歩規程罰則を設ける

 先の日朝修好条規の続約締結によって遊歩範囲が改まったが、かねてから日本人がこの規定外の地に出ても修好条規にも国内法にも何ら罰則が無いところから、これを制しても出て行く者があった。日本政府は安辺の事件の如きもその一端であるとして、日朝両民の親睦交際のためにも、真正なる貿易を増進するためにも、規定を犯した者を処分する罰則を設けることにした。
 ついては日本と墺地利(オーストリア)の間で結んでいる条約などを参照して、違反者には2円以上百円以下の罰金を科すこととなった。
 井上馨外務卿の名で明治15年12月16日に上申、翌16年3月に認可、4月5日に布告された。
(朝鮮国行歩規程ヲ犯シタル我人民処分法ノ件)

 

人材登用の門戸を開く

 旧暦正月、朝鮮国王の名で朝鮮全八道に諭告が出された。(「竹添弁理公使報告朝鮮国近況・機密信第十八号」の「甲号 諭八道四都人民等處」)
 冨庶農工商を問わず学校に学ぶことを許し出身の貴賎を問わないという、門閥の陋習を破り広く人材を求める門戸を開くものであった。
 竹添公使は、「呉長慶の話によれば李鴻章の忠告によるものであり、この諭告を虚文に帰さぬように人々が奮励実行すれば朝鮮国が一新するきっかけとなろう。」とエールを送っている。(竹添弁理公使報告朝鮮国近況・機密信第十八号)


日本党少しく勢いを得る

 「日本党もこれまでよりも勢いを得ているようで洪英植も協弁交渉通商事務[日本の外務大輔に相当]となって金宏集や馬建常と同列に、金玉均は参議交渉通商事務[日本の外務少輔に相当]となってモルレンドルフと同列になった。」
(竹添弁理公使報告朝鮮国近況・機密信第十八号)

 「閔泳翊はそれまで何となく疎遠の感じであったが、支那党の者達から勧められて清国見物をして帰国後は却って日本に気持ちが傾き、公使館を訪ねて頗る懇親を表した。先に金玉均が『閔参判も幸いに支那酒に酔わなかったのみならず、支那政治の不取締を目撃し、又モルレンドルフも同行したので見聞も多く初めて支那は頼むに足らないと知り、従って日本に倚頼するの心を固め、実にこの上ない幸いである。』と述べていたが果たしてその通りであった。」

 「近来、朝鮮政府内も自主の権を頗る立てている姿であり、馬建常はあっても無きが如く金玉均は得意の面持ちである。あまりはやりすぎはせぬかと懸念している。」
(以上「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信第三十四号外ニ私報其二通」より)

 「近来朝鮮政府内での自主党の勢力は増し、これは全く金玉均の尽力によるものである。閔泳翊が支那から帰国してからは金玉均を庇護するだけでなく同心協力し、金氏も大いに後ろ盾を得て、今日に至っては大概両氏の見込み通りに運んでいる」

 「朴泳孝は領議政右議政から国王殿下に迫って一旦免職となったが、日ならずして広州留守官に任じられた。馬建常たちは勢力を失い終始押しのけられた状態となって統理衙門にも常には出頭しないようになった。」

 「先日から統理衙門に招かれて行ったが、そこは閔泳翊の旧宅であった。庭には花木などもあった。統署の面々が小官を案内して庭中を遊歩したが馬建常は小官に付きまとって少し不平をつぶやくぐらいで彼には実に気の毒に思えた。金玉均は馬建常には遠からぬ内に帰国することになると言っている。しかし当人からは何も聞いていない。馬建常は邪魔になるほどの力もない。帰国させれば却って清国の猜疑を生じて迷惑なことが出来することも計り難い。」
(以上「同上(竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信第三十四号外ニ私報其二通)朝鮮政府ノ近況・機密信第五十四号」より)


西大門火薬庫の爆発

 4月15日、西大門(敦義門)内の火薬庫が爆発するという事故があった。
 異常に気付いた公使館では最初浅山顕蔵に馬で駆けつけさせ、多くの死傷者が転がる惨状を目撃してすぐに軍医を派遣し負傷者の治療に当たらせた。
 そのため負傷者や付き添いの朝鮮人たちから感謝の声があがり、群集の人民が話を伝え漢城内には到る所で日本人の親切を賞嘆する声が満ちたという。一方で支那人は側で見物するだけで救助に当たる者もなく、ために一層日本人の親切が伝えられたという。
 また国王は礼曹参判を勅旨として日本公使館に派遣し礼謝を表した。
(以上「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信第三十四号外ニ私報其二通」より)

 

公平の人モルレンドルフ

 「モルレンドルフの尽力により朝鮮政府は清国招商局から20万両を借り入れた。利子は年8銖(8パーセント)12年返済。もっとも無抵当である。」(後の金玉均の話によれば海関の入用に充てるという。(井上外務卿朝鮮人金玉均ト談話筆記)

 「また、モルレンドルフは朝鮮の特産物を模索し、そのうち外国に輸出すべき品は絹糸であるべきと、清国から桑の苗を5千本程持ち帰った。」
(以上「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信第三十四号外ニ私報其二通」より)

 「モルレンドルフは、李鴻章の恩義を受けて朝鮮に来たが、清国の利益を計るのではなく、ひたすら朝鮮政府のためのみを計る公平の人である。平常から朝鮮の官服を着けて全くの朝鮮官吏となり、朝鮮のためのみに働いて国王殿下初め政府一統から信用されるに至っている。」
(同上(竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信第三十四号外ニ私報其二通)朝鮮政府ノ近況・機密信第五十四号)

(なお、「昨年支那より銀五十万両を借り入れたるとの噂は全く事実にては無之候。」ともあり。(竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信第三十四号外ニ私報其二通))

 

井上馨と金玉均との談話

 明治16年7月2日に井上馨外務卿と金玉均とが会談したことが記録されている。金玉均がいつ来日したのかは不明であるが、日本で国債を募ることが目的であったらしい。また当然朝鮮政府内の情勢にも話題は及んだが、その際に金玉均は上記竹添公使のモルレンドルフへの評価とは異なる見方を述べた。以下その時の談話である。
金玉均1851〜94 (昭和7年1月1日発行 別乾坤附録 近代朝鮮人物画報)より  
(「井上外務卿朝鮮人金玉均ト談話筆記」より現代語に、丁寧語は省略。()は筆者。)

十六年七月二日、井上外務卿、金玉均と談話筆記摘要。

一応挨拶終わり、

「過般は御懇書を賜り拝閲した。竹添公使にも時々面会した。この頃は京城からは何か申して来てはいないだろうか。」

「別段異常なし。」

「小生、この度貴国に渡航することについては竹添公使から申し越されていようか。」

「貴下渡航のことは承っている。」

「米公使着京後は我が国の人も満足の様子で真に好都合である。」

「その節拙者から差し上げた手紙にも述べた如く、今度米国にて貴国を独立と認めるに至ったのは実に貴国の為に大慶すべきことである。この事については拙者も過日、朴泳孝氏と話したこともあって充分周旋尽力した。」

「閣下がこの事について尽力下されたことは他の者は知らず、朴氏と小生は充分に承知し深く感銘いたしている。」

「米公使着京後は御接待も充分行き届いている旨、随行の書記官から報せ来て満足に存じている。」

「一向に行き届き申さず慙愧の思いである。さて、朝鮮も今の場合にあっては独立国かまた属国か小生にも相分からぬほどの情勢であって閣下にはいかにお考えなられようか。」

「それは貴下自身の本国のことであるから却って貴下において御承知相成るはずである。」

「小生は自分の国のことではあるが、却って自ら暗きところあり。過日の貴紙にも万事を急激にしないように御指教あった。ついては、万事に御指導を受けたいと存じている。そしてまた小生も今度開拓使の職を授けられ、東南諸島の開拓に着手いたす考えで、なお種々御相談を承りたい。」

「今貴下が朝鮮は独立か属国か分からないと言われたのは何故か。まさに拙者にはひたすら合点がいかないことである。」

「貴米両国ではすでに対等の条約を結ばれたので独立の態であるが、支那からは兵を派遣し置き、属国属国と申しているから、あい分からずと申したまでである。

「拙者、局外から観るときはこれまで永年の間、貴国は支那に向かって殆ど属国のような風をとられたが、今から七年前の江華島(事件)の事があったのに際してやや独立の萌芽を発し、米国と(条約)締結するに至っては又一層独立の傾向がある。しかし(清国とは)もとより三百年来の関係もあることゆえ、今一旦断乎として純然たる独立の態をなさんと欲するときは、到底干戈を以って支那と打ち争うに立ち至るはきっと避けられないことである。ゆえに万事急激に走らず、徐々にこの傾向に連れて各国から追々独立の助けに与るに乗じて、その純粋無傷の独立をも謀るべきである。今日のところでは只今は独立の傾向があると言うことが出来よう。」

「急激では不可であることは小生のみならず我が政府の者がひとしく承知していることで、今すぐに支那の干渉を絶つことを得るべし、とは考えていない。たとえこれを望むとも行い難いことであるから急激には走られないことである。」

「独立の傾向があると申すことはお分かりになられたか。なるほど日米両国は独立と認めたが、支那は依然として旧見を改めていない。これは三百年来の関係もあればそれもそのはずのことと思う。」

「万事急激に走るべからず、とは御手書に拝閲した。決して貴慮を煩わさるることなかれ。外面から見るときは、或いは我が政府にて支那を除かんとする議論があるに似たところあるも知れないが、これには種々深い由縁があって一朝一夕の話では尽くし難い。」

「拙者は貴国に居ないので詳しい事は存じないが、しかし例えば朴泳孝氏なども幸いに顕位に立ち、良き地歩を占めながら民意に関係ないことをし、また尹雄烈氏は北部で練兵に従事せられると聞く。これらは何れも支那の感触を悪くし反対党がそれに乗ずるところとなるだろう。それというのも、貴国政府の人々が協議を成し遂げることをしない姿は、実に貴国政府ではしかと権力が定まるということがなく、泛然として一つの政府たるを認め難いものである。さてまた支那なども久しく外国人の圧制を受けていたが、決して納得して服従するものではない。しかし国の命脈は人心の一生とは異なり、ゆえに徐々にこの回復を図るのである。貴国とても支那と数百年の儀式上の往来があるので、矢張り徐々に純然たる独立の体を謀らないなら出来ないことである。且つまた我が国の交際は極めて微小にして恰も電線の如し。こちらから些少の差し違いがあるときには直ちに他の感触に関係を生ずるものである。」

「小生は急に支那の干渉を除くべしとは思っていない。或いは他人から竹添公使に向かって小生がその持論があると申す者があるかもしれないが、決して左様ではない。朝鮮においては只今の情勢では政府の大権は我が主上の掌握するところにして、主上も先ず支那の干渉を受けても忍んで為さんとの主義にあられるので、諸臣も皆これを遵奉いたしている。又朴氏にて過日路傍の小屋(藁屋の床店の類であろう。)を取り除くべしと命令を下したが、これは年々例あることであるが、反対党からこの事を名としてその権を封じその位を退かせんと図ったのである。小生も先般帰国したところ、日本党なるものがあって朴氏及び小生その外なお数名その内にあり、よって頗る奇怪なことと思い、支那党に入らんとしたが徒党中の人はこれを肯かずして、そして日本党は支那党を退けて独り日本に倚りかかって事を成さんとする者であると流言されて随分危難のこともあったが、主上は漸く独立を主張される思し召しでその辺のこともよく御分かりになられていて、ついに危難を免れることを得た。朴氏の辞職も主上は好まれないことであるが、もしこれを聞き届けないなら却って反対党の刺激を欠けるを以ってその意に従われたのである。」

「竹添その他の報告もあり、貴下が全く支那を除く持議あるとも聞かない。しかし朴氏にせよ、なお外に随分なすべきこともあろうに間接に支那をして感触を悪くさせて反対党に乗じられるようなことをするのは至極面白くないことである。また貴下はモルレンドルフ氏と合わないとのことであるが氏は貴下のことを賞賛している。また氏は目下万事日本に倣わないわけにいかないということも知っている。また支那を親分と立てて事をなせば随分と出来ないことがないということも申している。彼は公平の人と見受けた。そもそも政府内で議論が行われないことがあるのはどこも同じであって、丁度航海の船のようなもので順風なら進み逆風なら退かざるを得ないようなものである。これは人事が避けることの出来ないもので致し方ないことである。すなわち貴下が今度開拓使に任ぜられたことも拙者は決して賀することはできない。貴下は何故ゆえに中央政府に立って国事に尽力されないのか。議論が少し合わないとて不平を起こされるようでは何を以って困難なる朝鮮国を治めることが出来ようか。」

「モルレンドルフ氏のことは竹添公使よりも小生の方がよくその人となりを承知していることである。彼に欺かれないように竹添公使に注意した。彼は随分利才の人であるが小生は親しくすることが出来ないところがある。彼が朝鮮で高官になったのは全く支那のおかげであって小生のよく彼の心事を承知いたしている。彼は時々中傷するようなことを言うのである。」

「それは全く貴下の疑惑であろう。同氏はもとより李鴻章の紹介によって国王から招聘された人であるから拙者も最初は同氏も日韓のことよりもむしろ支那の利益を謀るのも敢えて怪しむに足りないことであると思考したが、しかしそれ以来同氏は公平の道を踏んでよく朝鮮の為に図っていることは見るに足るものがある。およそ人事は自分一人の思想を以って他人の思想を罪とするべきではないことである。貴下が今同氏を朝鮮のためには不利の人であるとされるのは何故なのか。恐らくは矢張り貴下一人の疑念から彼の思想を罪としているのであろう。」

「そのことは竹添公使からも尋ねを受けたのであるが、深い理由があってのことでお話することは出来ない。なお竹添公使に答えておいた。全体にモルレンドルフ氏は朝鮮人に対しては『将来独立を謀るには小さい日本にのみ頼っても仕方がない。いずれロシア、イギリス、ドイツ等のような国に頼らざるを得ない』と言い、またアストン(英国外交官)、フート(駐京米国公使)等すべての他国人に向かってはまた何かとよい話をし、反覆表裏の態がある。且つ同人の心底は一人で全国の権を握りたい積りである。」

「全権がなくては事を処することが出来ないのは勿論である。拙者も今日外務卿の職にあって皇帝陛下の命を奉じているので太政大臣がこれを否議しても遵奉しないこともあるぐらいである。およそ内外人に拘わらず、既にそのことを担任した上はそうでなくてはならぬ事である。しかしながら、もしモルレンドルフ氏が国王の権を奪うとのことであれば即ち謀反人と言わざるを得ない。」

「小生が彼のことを申すのも別段彼の権力を妬むのではない。しかし彼は自己の主意を立て通すことが出来ないので人を遠ざけようとするのは実に憎むべきことである。」

「拙者同氏に面晤したこともなく同氏を庇うのではないが、既往のことについて証すれば、馬建常でも出来ず他の人でも出来ないことをモルレンドルフ氏に話せば出来ることがある。これはいかなる訳か。」

「それは彼に権があるからである。他の権ある人でも必ずよく事を成し得るという理もあろう。」

「同氏は支那との貿易章程中に害あることもよく承知している。且つ同氏の話すことは、竹添に対しても李鴻章に対しても異なることがないことを知っている。よって竹添なども何事も始終同氏に依って相談すると聞く。他公使もまたそうであろう。元来貴国人は非常に疑惑多きゆえそれらの事に種々疑いを起こすのであろう。我が国なども昨年の事変前は貴国から百方疑いを受けた。」

「なるほど、疑いも幾分かあろうが同氏はよく事を成すこともあろうが、また同氏の為に害を受けることもあり。ゆえに彼に全権を任せることは出来難い。」

「人もし疑いを抱くときはどのような真実の人を見ても疑わざるを得なくなるものである。しかし先ず疑って後に信ずるということは真に宜しくないことである。貴下と朴氏は事理に明らかなる人にあらずや。そしてなおこの疑いを抱くときはその他を如何にせん。又例えモルレンドルフ氏が真に貴国の為に利がない者とするなら貴下またこれをどうするべきか。朴氏なども人の嫌を受けて中央政府を去り、貴下も西(東)南開拓使となって島の開拓に従事するなど何の大きな利益があろうか。そもそも昨年に朴閔両氏が(日本に)来られたが、閔氏は果断に乏しい人と見受けたので独立の精神を付けるために随分強く説いたが、今貴下は拙者のこの論を聞き、或いは井上は前日の議論と一変せしと思われるであろう。しかし独立独立と口頭では言い易いことであるが、その中には多少の方略を要することであるから今急に支那の属国論を止めさせようとしても行えないことである。たとえ日本一国が独立を認めても支那に比べれば小国でもあり所詮その効はない。ゆえに米国を引き入れなお他のドイツ、英国などの国も引き入れて、つまりは支那自身から朝鮮を認めて独立国とせざるを得ない勢いに立ち至らせんとするものである。しかし外国人と約を結ぶには貿易の利を以ってするより外に道はない。ゆえに過日アストン氏の渡韓の時も書を貴下等に送って、なるだけ税を安くするようにと勧告したのである。」

「閣下の前後の御話は悉く明瞭である。なるほどモルレンドルフ氏は才もあって我が国のために尽くしていることもあろうが、その多少の害心を抱くことも小生は承知いたしている。しかしこれを言うのは我が国の恥なので小生は言うのを欲しない。」

これより話題を改める。

「小生も開拓史の官職は奉ずるが中央政府にて統理衙門の列にも居り、財政の一部を担当しているが、何を申すも国幣欠乏につき外債を募ることに内議定まり貴国に渡航したのである。なお種々商議を乞いたい。」

「金は何の用なのか。」

「目下我が国で銀貨並びに常平通宝の一枚で五文に当たるものを鋳造しているが、これ位では何分用いる所に足りない。ゆえに外債を起こして兵備、鉱山等に従事いたしたい内命を奉じて来航した。」

「外債はどの国で起こされるのか。」

「貴国で募りたい。ゆえに貴国に渡航した。」

「我が国人民で貸す者があれば拙者は異論はない。」

「拙者には別段懇意の人がないので所詮出来難い。何れ閣下の御尽力を願いたい。」

「いかほどなのか。」

「三百万円ぐらい募りたい。」

「この前にお借り入れなられた時も拙者は保証をしなかった。今回も貴国政府は大丈夫である事を保証して募集に応じさせることは出来難い。」

「前の十七万円の時に種々閣下の御斡旋によって整った。今日、我が国で最も大関係あるものは財政の一条でありこれを遂げないなら何事にも着手することが出来ない。ゆえに是非とも外債を募らざるを得ない時につき内命を奉じて渡航した。」

「拙者は外務卿の地位にあるのでその儀はお断り申したい。前の十七万円も何の用に立ったか分からない。練兵、開拓、開鉱等、なるほど要務ではあろうが貴下等は金を用いることのみ御承知で、その切を収める前途のことに至っては何にもお分かりない。」

「一言も無い。しかしその十七万円は五万円は救恤金に充て、その余で器械等も買い入れたが、元来少数のことゆえ格別の利益を収めることは出来難い。今度は外債を募り得たら開鉱等のことも外国人を招聘して実際に着手する積りである。」

「支那から借り入れられた金はどうなったのか。」

「支那からは閔氏が二十万両を借り受けた。これは海関の入用に充てるために貯めている。」

「前の十七万円の内、なお正金銀行に残りがあることも承知している。また人に詐り取られたことも承知している。随分貴下は不始末の人である。そして実際に朝鮮のために図ると思う人は狐疑を受け、また折角要職に地位を占めたかと思えば忽ちにしてその職を辞することとなり、朝変暮更で実に貴政府全権のあるところを知るに由なく、また信を置くにも由なし。ゆえにこの三百万円も拙者が証人となって募ることは出来難い。」

「十七万円の余りもなお二万円あって器械も買い生徒も派遣した。なるほど金の使用法に付いて外からは分かりかねられるところもあろうが、このたびの三百万円も、朝鮮のためを思い我が主上を御信用なられることであると思うので御尽力くだされたい。」

「貴国主上にはこれまで拝謁したこともなく、またもとより親近を忝くしたこともない。御信用の申し上げようもなく、これまでこの方から信用を置くと否とは貴政府の固否如何を見るより外にない。貴国では支那から借り入れる金は支那党のみこれを用いるということも承っている。そのような都合ではとても信用は置き難い。且つ貴下は経済の道を御承知ないであろうが、今日の三百万円の金は通常の利子を一割付けとして十年後に至れば倍数に上るものである。又たとえこの金で直ちに開拓開鉱に着手したとしても、今日開いて翌日から利益を収めるということはない。このような事情では、後日になって軍艦を以って貴国に向かい賠償を要求するような結果にならないとも言えない。ゆえに拙者に於いては保証し難い。」

「我が政府の堅牢でないので閣下は保証をしないとのことなら既に貴国では出来ないものなので、米英に図っても同じであろう。しかし金を借りるには抵当利子を要するのは普通の道理であって、もとよりその辺の見込みも立っているので閣下には我が国をお見捨てなく御親切にあらばなにとぞこの金を御募り下されたい。」

「金を貸さないと親切でないと言われるか。実にその意を解し難い。拙者は只々前途のことを思って申している。」

「急務ゆえお願い致したい。」

「先々の憂いはどうなされるか。開拓開鉱に着手して将来どれだけの利益を収めるという精細の計算は立てているのか。」

「それらはまだ計算が立っていない。しかし今その償還の道をお話する。」

「償却はどうなされるか。」

「いずれ抵当物件を立てる。」

「抵当は何なのか。」

「税関でも鉱山でも出資者の求めに応じる。」

「税関からはいくらの収入があるのか。」

「税関はまだ立ててないので計り難い。鉱山でもよい。」

「鉱山からはいくらの採れ高があるのか。」

「出資者から実地に検測するのがよいと思う。」

「これまで政府は鉱山からどれだけ宛採取したのか。」

「これまでまだ着手してないので年々の量は図り難いが、検測の上で見込みを立てて金を借り入れて着手いたす考えである。」

「何はともあれ、政府の協和を第一とする。即ち財政のことも一方からよくすれば一方から損する姿にて、所詮協和一局を遂げないなら、その礎を固くすることはできない。且つ外債を起こしても今日の予算は後日になって必ず誤算を生ずるもので、我が国に於てもその例がある。又その抵当には鉱山を以ってすると言われるが、その鉱山が果たして充分に採算の見込みがあるものなら、唐景星が一見して直ちに招商局の金をも出して着手するであろうに、そうでもないところを見るとそれほど利益を認められないのであろう。それなら我が出資者に調べさせても矢張り同じであろう。また税関とても役人の給金とその他の諸費を引けば大抵は出入の差はないだろう。ゆえにこれを抵当とするのも難しいことである。貴下はただ今の(資金の)困難だけを申されるが、拙者は後日に困難が起こることがあるのを恐れる。拙者としても外に随分体よく断る道もあるが、これまでの交際もあるのでこのように直言した。なお考えられるべきである。」

「帰国後に再考するべし。しかし他日に我が政府も完全なる場合に至れば別段国債を起こすにも及ばない。今日なればこそ御願い致したいので閣下にもなお御考え下されたい。」

「考えも致すべきであるが、とても三百万円の場合は出来難い。」

「只今のようにあちらこちらから十万二十万と借り入れては結局は抵当にも困ることなので今度御願いしたのであるが、お引き受け下されないなら朝鮮を御見捨てなされるという外思われない。」

「そのように思われるのであるから拙者においても致し方ない。何を申してもつまりは今日のように貴政府の不協和の有様では所詮信を置き難い。」

 右にて終わる。

開化派の金玉均について

 開化派と言われ、あるいは主和者とも言い、中でも日本党と称する人々は日本から随分援助も受け、とりわけ金玉均などは個人的に支援する人も多かったと聞く。しかし、前述した「重層の開化派」や「明治丸の金玉均」でも感じたことであるが、「日本と手を携えて共に開化の道をゆかん」というよりは、どうもただ日本の力を利用したいだけの、とりわけ金玉均などはこの井上外務卿との対談を読む限りにおいては、政府内で権力を取りたいのは実は金玉均本人ではなかろうかと思えてくる。
 ここでのモルレンドルフへの根拠なき誹謗も、馬建常たちの勢いは衰え支那党の力は後退し今は国王から大事を託されるまでになった金玉均が、今度は残るモルレンドルフを排さんと日本政府に印象操作を謀っている姿ではなかろうか。
 彼はかつて明治丸の中で仁禮海軍少将たちに、
「今朝鮮で多数を占める意見は、支那の兵力を藉りて内地の暴徒を鎮圧し、その力によって国政を改革するの論であるが、我等は決してそのようなことは願わず、他国の力を借らずして国政を一新することを切望する。死を決して王に面謁し一度このことを上奏せんと決意したが、これを止める者が多いゆえに思い止まった。」
とその自主独立の精神を勇ましく語った後に、明治丸を下船して暫くして朴泳孝ら4人を伴って戻り「京城あたりでは潜伏出来難いので逃れてきた」と言って避難救護を求めている。
 他人の力を借らずして自力で事を成したいのなら何故朝鮮に止まらず、すぐに日本の船を頼ろうとするのか。
 ここでの井上外務卿との対談に於いても、何故に彼の自主の精神は朝鮮国の独立のことではなく、モルレンドルフを排することだけに向けられているのか。他人の貢献は貢献として認め評価するということが何故出来ないのか。どうして悪口が先に来るのか。
 いやはや何ともよく分からない人物である。

 どうもこの国の人は日本人を落胆させて止まない性情のようである。ここでも前年12月に横浜正金銀行から17万円を借用した際に大蔵省まで巻き込んで尽力した井上をひどく落胆させた何かがあったことが窺われる。即ち「人に詐り取られたことも承知している。随分貴下は不始末の人である。」と。
 300万円もの巨額の国債のことも、その後の具体的な計画もないままいわば後先あまり考えずに申し込んでいるような様子が彼の話し振りから窺われる。

 井上の「万事急激に走るべからず」の助言に対しても、再三その積りであると言い「決して貴慮を煩わさるることなかれ」と言いながら、この後政府内で権力闘争に明け暮れ終には流刑に処されんとする勢いまでになったことから、一気に全権力を握らんと無謀極まるクーデターを起こして更に竹添公使らを謀って巻き込み、ために大勢の民間の日本人までが惨殺される事態になるという一大事を惹き起こした人物の1人である。

 なぜに今でもこの人を持ち上げる人が多いのであろうか。後に暗殺される悲劇の人であるからだろうか。判官贔屓は日本人の常とは言え筆者はこの人を評価しない。実に日本にとって迷惑な人物であり、朝鮮にとっても功罪相半ばする人ではなかったろうか。

 かつて黒田全権派遣時に野村靖外務権大丞は申大臣たちに富国強兵論を説き、人民が繁栄してこそ富国強兵に通ずる、との意味の事を述べたが、いったいこの国で誰が人民の繁栄をこそ思う者がいたろうか。莫大な負債を抱えて国家的危機をもたらしかねないことを金玉均たちは考えたろうか。また朴泳孝が日本を倣って大八車で汚物を取り除くまではよいが、路傍の小屋(藁屋の商店の類であろう。)を取り除くべしとの命令を下しても、そこで商業活動していた者たちの生活のことや及ぼす経済の影響を考慮したかどうか。

 かつて朝鮮政府は朝鮮事変の賠償金は慶尚道の地税60万両(韓銭)を以ってこれに充てるとしたが、おそらく叛乱した守旧派激党が慶尚道江原の者達との理由からであろうが、重税となって負担を負わされたのは結局は何の関係もないそこの人民たちではなかったか。
 飢饉の時に人民が飢えても気にしないのがこの国の支配層である。人民の繁栄を考える者などいるはずもない。(わずかに儒者の中にそのことに触れる上疏文を奏した者もいることはいたが。)

 また、自主独立に拘るからこそ、他国の人間であるモルレンドルフの貢献を評価できないのであるとするなら、今日の南北朝鮮が、日本が朝鮮を近代化に導いた事を決して認めないことと本質として同じである。

 福沢諭吉は金玉均のことを「悪をにくむこと甚だしく、たとえば古史を読みても、邪曲の小人反覆常なきの条に至れば必ず憤怒して止まずというほどの性質なれば、今人に交るもまた斯くの如く、毫も人の不正をゆるさず」と評したらしいが、正義に厳しい者はとかく事に当たって悶着を惹き起こす傾向がある。つまりは狭量の人物であると言わざるを得ない。竹添進一郎などはそんなものよりは実質を取る現実主義者である。且つ清をよく理解する者である。彼は日本で清国の内政干渉を憤り清国脅威論を唱える者がある事を意識し、清は朝鮮を属国とはしているが内政干渉と見えるものもそうではなく、まずは清国のする事を静観しておくに限るとしばしば報告している。その彼が、日本党に引きずられて清兵と戦闘する破目になったとは真に皮肉としか言いようがない。

 確かに清(李鴻章)もこの頃は朝鮮をよく開化に導いていたと言える。その日清がどうして争わなければならなかったのか。
 筆者の中では「日清戦争」の元々の原因は、朝鮮開化派日本党と支那党の言行ではなかったか、という疑いが頭をもたげ始めている。

 

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