日清戦争前夜の日本と朝鮮(1)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

明治19年8月、長崎港に停泊する清国の巨大戦艦「定遠(甲鉄戦艦、7335t、全長91m、全幅19.5m、兵装30.5cm砲連装 2基4門、15.2cm砲2門、3.7cmガトリング機関砲8門、魚雷発射管3基、乗員329人)」。この時に清兵が日本人に乱暴狼藉の限りを尽くすいわゆる「長崎事件」が起こり、これを境に清国に対する日本人の感情が険悪になったと言うのだが・・・・。

 日朝修好条規の全条項がようやく実行成った明治16年1月を以って「明治開化期の日本と朝鮮」というタイトルを終わりたいと思う。次いで、「日清戦争前夜の日本と朝鮮」というタイトルで考察を続けていきたい。(予定)


竹添進一郎弁理公使、京城に

 明治16年(1883)1月7日、弁理公使竹添進一郎は京城公使館駐在として赴任した。10日には朝鮮国王に謁見してそのことを国書を以って告げ、また、天皇陛下からの進増品として「後膛槍425棹、弾薬5万発」を国王に進呈した。(弁理公使竹添進一郎朝鮮国王ヘ謁見御国書捧呈ノ件)

 竹添は着任早々の1月12日に、日本陸軍護衛兵2中隊駐屯を1中隊に減ずるよう次の理由を以って報告している。(「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信一、二、九、十、三、四、五、六、七、八、九、十 、十一、十三、十四、外ニ私報其十七通」p8)

・将校の号令行き届き、兵卒に至るまで1人も紀律を犯すことなく大いに韓国の信用を得ている今、さらに交際上に好影響を及ぼすと思う。(当時は「朝鮮」とも「韓国」とも呼称していたようである。)
・清兵も当初は我が兵を罵り笑うなどの姿もあったが、今は道で出会っても清兵の士官が兵卒に注意して避けさせ、問題を起こさないようにしており、呉長慶提督も公使館に時々往来して懇親を表している。この際、我が兵を減ずるはいくらか清国政府の猜疑を消すことにもなる。
・掌楽院に駐屯している兵士に病人が続出している。ひどい湿気のためと思われ夏になれば惨状ともなるかと思う。乾燥した土地を探したいが、至る所汚い藁屋があるばかりで兵隊を入れるほどの邸宅が無い。さりとて新たに兵舎の建築を朝鮮政府に要求するのも財政困難の時期によりそれも出来ず何分心痛に堪えないことである。それで掌楽院に駐屯する即ち1中隊を引き揚げさせたほうがよいと思う。

 これにより7月3日に井上外務卿からそのことが上申され、7月5日付けで1中隊に半減することが通達された。(外務省稟議朝鮮国公使館護兵中一中隊引揚方)

 

ようやく近代化への態勢が

 竹添弁理公使が日本に報告してきたものは、朝鮮政府内部の状況ならびに清国の朝鮮政策の動向、また条約に関わる税制についての問題や新たに開く貿易市場の検討や鉱山のこと、また電信施設あるいは朝鮮風俗などなども含めて様々である。

 朝鮮政府は、清国李鴻章の進めにより12月にドイツ人モルレンドルフ(Moellendorff Paul Georg von 朝鮮名 穆麟徳)を雇い入れた。外交と税関業務を補佐させるためである。彼はかつてドイツの在天津副領事であり竹添も面識ある者であったが、公使ホンブランドと意見が合わなかったらしく辞職していたという。
 朝鮮の官人である以上は相当の官位を受け、且つ服装も自国の服では衆人が怪しみ見て群集するので、王宮に出仕する時は朝鮮の衣冠を着用したという。

 朝鮮政府は12月に統理事務衙門を新設し、趙寧夏を弁理に金宏集を協理にモルレンドルフを参理に任じた。
 閔泳翊も日本から帰国後に協弁に任じられた。他には内務衙門を新設し近日中には外務衙門を設けるという(後に中止、外交は統理事務衙門で扱うことになる。)。

 これら各種衙門は、大院君が廃止した統理機務衙門も含めて、清国が西欧文化の摂取を進める「洋務運動」に基づいて設置したものをそのまま真似たものであるが、大院君が完全に取り除かれたことによって朝鮮政府はようやく近代化に取り組む体勢が整ってきたといえる。

 

近代化を阻む貧と風習
以下(竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信一、二、九、十、三、四、五、六、七、八、九、十 、十一、十三、十四、外ニ私報其十七通)より。

 しかし問題は朝鮮の国家財政であった。あまりの貧しさに蒸気機関の軍艦1隻を購入することすらままならないのである。早急に鉱山を開き田畑を開墾し貿易を盛んにして国家を富ますことをせねばならない。

 清国政府は招商局の唐景星を英国人に同行させて京畿道と江原道の鉱山を調査させるなどした。
 その調査報告書によれば金銀銅鉄鉛硫黄などが確認できた。とりわけ銅鉄などが豊富であったが、いかんせん朝鮮は平地少なくそれらは高山深山に位置し、実際に鉱物を灰吹法で精錬するのに木材無く又運搬も鉄道を施く他に道は無く、よってそれらを設備するには千数百万両という莫大な投資が必要であった。しかも採算が取れるかどうかも分からずという有様であった。
 前年に花房が金宏集や李裕元と談判をした際に「貴国は近年砂金を精製する器械を購入したのに未だにこれを用いずに空しく放置していると聞く。」「鉱山を開いて器械を使用し大いに資源の利益を開くことに力を入れれば・・・」と言ったことに対して李は「鉱山、器械のことは皆意が無いわけではないが、現今に挙行する方法なく・・」と答えているが、これら設備環境が整えられていないことから「挙行する方法なく」と言ったのであろう。

 竹添進一郎は、これら鉱山を開くには数千万両の投資が必要であり、支那が資金を注ぎ込んでそれに着手しても必ず途中で放棄するは必定であり、結局は朝鮮政府は支那は頼むに足りないと、開化の道を日本に頼らざるを得ないことになるであろうと報告している。

 また、貿易に関わって朝鮮人による外国製品の購買力について、「今のところ彼らが求めているのは洋布がほとんどであり、他に日本からは海気(染色した絹練糸で織った平絹)と銅であり雑貨は僅かである」「朝鮮の景況を観察すると、上下とも貧困にして且つ懶惰(なまけおこたること)であり、到底充分の開化に達することは出来ないだろう。したがって外国製品の需要も多分にはないだろう」「貴族及び大臣の邸宅を訪ねても実に矮陋を極めている。また居室の作りの都合から外国製品を用いるに適さず部屋を装飾する余地も無い」「領議政すなわち日本の太政大臣に当たる者でも、その月給は米・大豆・銅銭合わせて90円位しかなく、以下推して知るべし。客用の器具飲食品を見ても、その貧困を証するに足り、故に生計上からも外国品を購入する力は無い。」などと報告している。

 Webサイト「コインの散歩道/明治人の俸給」にある「明治8年4月に改訂された官制」の表によれば太政大臣は月給8百円という。また90円というのは、7等官クラス即ち陸海軍大尉の百円より少ないことになる。
 更に、明治15年10月に近藤真鋤書記官が朝鮮国在勤を命じられた際に「5等官相当年俸4千2百円(つまり月額350円)」とあり(領事近藤真鋤書記官兼領事ニ任シ朝鮮国在勤被命ノ件)、先の明治8年では5等官は月給200円だったのであるから、明治15年時点での90円とは、恐らく9等クラス、即ち陸海軍の少尉並ということになろうか。しかしこの国の力ある者達には風習として別収入がある。すなわち賄賂や公然たる搾取である。

朝鮮一高給取りの朝鮮人

 ところでこの頃(明治16年)に領議政より高給取りの朝鮮人がいた。それは朝鮮政府の者ではない。実は日本の東京外国語学校教員である。例えば李樹廷なる人物は月給百円で雇い入れられている(朝鮮国人孫鵬九觧雇并李樹廷雇入ノ件其二)。先の「コインの散歩道/明治人の俸給」では明治19年で小学校教員の初任給が8円であるから驚くべき高額である。もっともお雇外国人の平均額内ではあったが、おそらく朝鮮人の中では一番の高給取りであったろう。

 ちなみにこの頃の両替相場は、清国1両は韓銭7百文。メキシコ銀貨は5百文。日本1円は韓銭2百50文。洋銀1ドルは2円という。

 他には、「茶は葛根湯に類似するものを用いる。もとより茶樹はない。砂糖も無い。」
 ここら辺は明治9年の宮本小一達の「朝鮮風俗」での報告と同じである。

 「王宮にて用いる器具また骨董店に陳列する物、市場にある雑貨、一つも目に留まるに足るものが無い。」
 「人民一般の模様を観察するに藁屋の最も劣悪なるものに住み、大きい家が一つもない。」
 「人々は一般に懶惰を極めている。聞くところによれば、もし富裕に至る者があるときには、政府から出金を申し付けられ、ひどい場合は生命まで失う恐れがあるという。故に貧陋に堕して只一日のみ腹が充るだけの食を得るに安んじて、冨を欲するという思想が無い。」
 これは明治12年の「山ノ城祐長の建白」の方がより詳しい。実は蓄財は床下の土中などに隠匿して赤貧である姿を装うのである。
 「農事を改良せんとするも、産物を繁殖せんとするも、上下の悪習を一洗した後でなければ出来ないだろう。」「『腐敗』の二字を以って朝鮮国の定評とするのも大なる誤りではない。

 赴任以来1ヶ月余りの2月10日付けでの感想報告であるが、早くも朝鮮の実情に呆れて落胆している様子が見て取れる。

 また、「今日の得策は、こちらから干渉はせずに静かに前途の運ぶのを傍観するに如くなしと雖も、ここに思うことは、全体支那朝鮮の人は上下とも一般に小児と同様であり、強い態度で臨む時は畏んで命に従い、柔を以って接するときには狎れて我侭を働く風習がある。ついては、時にあってミミズの如く又時にあって虎の如く、寛猛をその時々に表すはほかはない。自分は専ら温和に交際を親密にする腹積もりであったが、これまで何度か韓官と談判をしてみて、初めて仏顔だけでは百時運ばないことに気付いたので、これからは鬼面を扮して応接することもしようと思う。」
などとも述べている。

 朝鮮に深く関わる外交官・軍人たちが必ず行き着く結論がここである。
 しかし後に竹添もまた地獄を見ることになるのであるが・・・。

 この頃、長年の「束縛」から解放された花房義質は熱海の温泉で休養をしている。・・・文字通り命の洗濯であったろう。(三等出仕花房義質帰京ノ件)

 

日本党の朴泳孝

 前年に修信使として朝鮮国王の国書を奉じ特命全権大臣として日本政府と交渉し、又その後3ヵ月間滞在して日本の文明開化をつぶさに見てきた朴泳孝は、帰国後に京城日本公使館に出入りして竹添とよく話をしていたようである。彼はこの時23歳(朝鮮人の年齢は数え年)であったが(竹添は41歳)、開化派日本党の要人でもあり国王の信任もよく得ている者であった。身分としては先王の娘婿であり、王女の婿たる人は権威過重となる恐れがあるので容易には職務につけない慣例があり、そのため表向きの政治に係わられないことを嘆いていたが、後に高宗の特旨を以って「漢城(京城)判尹」に任じられた。日本の東京府知事と警視総監とを併せたような役職であるという(当時)。朝鮮政府の役員は1、2ヶ月で役職を転じる者が少なくなく、朴泳孝もやがて内政に係わることにもなると思われた。
 この頃また、尹雄烈は元の南陽府使に再任された(1月か2月に日本から帰国)。兼任として別技軍百人の日本式調練を担当するという。

 以下、竹添公使による朴泳孝とその内談などについての報告である。なお修信使一行は明治15年12月28日に郵便船名古屋丸に便乗して帰国している。(朝鮮国使節朴泳孝副使金晩植及随員郵便船名古屋丸ニ塔シ発港)

以下、「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信一、二、九、十、三、四、五、六、七、八、九、十 、十一、十三、十四、外ニ私報其十七通」から抜粋してまとめた。()と文字強調は筆者。

 朴泳孝は日本から帰国後は切迫して自主論を主張している。為に一時は反対党から、日本に降って支那に謀反する者である、と讒言されたほどである。
 さすがは貴族なので日本が好きなようである。邸内に人力車を引き回し、また大八車で(路の)汚物を取り除くなどして全て日本風を写し表しては、とかく他から目立っている。

 この頃朴泳孝の働きかけにより7人の日本人を朝鮮政府で雇い入れた。
牛場卓造、井上角五郎、高橋正信は、福沢諭吉の門下生で英学を教えるという。
真田謙蔵、三輪廣蔵は印刷技術を伝え、
本多清太郎は大工職工である。
 いずれも東京で前もって承知している者であるが、他には、
松尾三代太郎という元大尉という者があり、朴泳孝の工夫により朝鮮人に扮装させて密かに元山近傍に派遣し、新たに募集する兵に日本式調練をさせるとのことである。
昔から咸鏡道の兵は強勇の聞こえがあるという。

朴泳孝の話によれば、
 「政府内部は日本党と支那党に分裂していて政治上の話し合いも出来ないほどの状態となっている。」
 「モルレンドルフは我が政府から雇い入れた者であり、馬建常も我が政府が求めたことから李鴻章が朝鮮は交際上に未熟なので万事尽力するようにと申し付けて差し向けた者であって、その月給は我が政府が支給しており全く朝鮮が雇っている者である。馬建常もやはり朝鮮の自主の権を保護するとの主意である。」
 「支那政府では、朝鮮を内属すべしとの論が盛んであるが李鴻章は(朝鮮の)内政外交はその自主に任せると明言した上は内属にするはよくないと主張したらしい。しかし清政府内で内属の論があるので杞憂している。それなのに我が政府の大臣の中には、こうすれば自主の権が守られ、こうすればその権を失うなどのことを理解している者が一人もいない。ただ国王殿下のみ苦慮されているのである。
 「政府には数種の党派があるが権力ある者がいない。故に1事件起こるごとにガヤガヤと議論するばかりで何事もはかどらない。」
 「趙寧夏は実に不見識の人物にて憂国の念は露ほどもなく、只々支那に媚びるのみであり、同人が先般天津に行った際に、衣服の制度を支那同様に変えたい旨李鴻章に申し入れたら、李鴻章から『そのような馬鹿なことはするものではない』とはねつけられたぐらいである。馬建常を招聘してからは奴隷のように何事にも馬の指揮を伺っている。国王殿下もそれらを御承知で彼を免職する思し召しであるが趙は大王妃の甥に当たるので殿下も御心痛され、その上清国とのこともあるので今は御忍耐されている。」
とのことであった。

 また、国王から米朝通商条約批准催促の使節を米国に派遣すべきとの内議があったが、朴泳孝に問い合わせると、ついに取りやめになったとの返答があった。
 しかしその後に朴泳孝が公使館に来て二人きりになったときに、彼は懐中から1枚の書付を取り出して自分に見せた。そこには大意として、
閔泳翊、諭旨を奉じて全権公使となり、モルレンドルフ、李祖淵を同伴して米国に赴いて批准の事を弁理し、ついで欧州諸国にも立ち寄って条約を定立するはずである。もっとも、路は天津上海経由で遊覧するが、李鴻章とはその話はしない。貴国を経由して米国に行かないのは支那の疑いを免れるためである。このことは極めて秘密に関わるので前には否定したのである。諒解されたい。」とあった。
 朝鮮には以前から悪習があって、手紙の場合は使いの者が途中で開封して読み、また面談の時には従僕にいたるまで同室したり次の間で話を伺ったりして機密のこともとかく漏洩する憂いがある。それで朴泳孝は他に誰もいない時に書付を見せたのである。しかし朴泳孝は筆談がよく出来ないので詳細は分からなかった。
(西洋国と条約を結ぶことを最も嫌悪する頑固党に知られまいとしたのであろう。)

 後に朝鮮における最初の新聞「漢城旬報」の発行に貢献した井上角五郎たちの名が見える。当初は英学を教えるために雇用されたとは意外である。また、印刷技術を教えるために真田謙蔵、三輪廣蔵なる人物が来ていたことも初めて知った。(もっともその後、牛場、高橋、松尾などは朝鮮に見切りをつけて4月には帰国したと言う。(「漢城廼殘夢」井上角五郎著、明治二十四年十月出版 十頁)

 しかし朝鮮では手紙が勝手に開封されたり会談内容が簡単に漏れたりとは、なんといういい加減さであろうか。道理で国王からの大院君赦免の陳情書の写しなどが容易に入手できるはずである。

 米国で撮影したとされる批准催促朝鮮使節一行。朝鮮国が自主独立の国であるとしての批准を求めるものでもあったという。前列中央が閔泳翊とされる。右端には清国人。後列には日本人らしい人物の姿もある。

 

京城での清提督との関係

 竹添公使と京城駐在の清国提督呉長慶との関係は良好であったようである。折々の対談を次のように報告している。

(同 上)

清国提督呉長慶は学問も有り極めて忠諒真率なる人物である。自分とは格別懇意に往来をしている。

 呉長慶の談に、
「朝鮮の人心は一時不穏であったが乱民を重刑に処してからは漸く静まったようである。しかしなお乱を画策する勢いが無いともいえない状態なので、当分の間は兵を引き上げるに至らない。しかし、大兵を駐在させるのは費用が巨大なるを苦しむので、3月頃には兵の半分を引き上げて様子を見る積りである。

「(貴殿は)朝鮮政府の各長官に懇親をすれば下々の兵卒に至るまで日本を敵視する憂いがなくなるので、この上ながら屡々往来して懇親を表すべきである。」

「朝鮮は極めて貧困の国であるから、通商を開いても西洋人はあまり往来しないだろう。ただ警戒するべきはロシア国であり、朝鮮がロシアから略奪されないよう我が国と貴国とで共に保護をいたしたい。

「朝鮮国王は名君であるが、政府要人が皆門閥の者に限るから(能力主義と違って)何事も運ばない。鉱山を開拓すれば利益となるだろうが朝鮮政府に自弁の力は無い。さりとて我が国に依頼することもないだろうし貴国に依頼することもないだろう。実に山多く深き国であって致し方もない。」と。

 どうやら竹添は朝鮮の者と交際するよりも清国提督と交際する方が快かったようである。「呉長慶は学問も有り極めて忠諒真率なる人物である」とは朝鮮人に比しての率直な感想であろう。もっとも、呉から「(貴殿は)朝鮮政府の各長官に懇親をすれば下々の兵卒に至るまで日本を敵視する憂いがなくなるので、この上ながら屡々往来して懇親を表すべきである。」と逆にたしなめられたことを正直に報告しているが。

 竹添の多くの報告からも竹添進一郎という人は実に正直者である印象を筆者は受けた。ちょっと憚られるような例えや文章でもそのまま筆記して報告する人なのである。

 

竹添が考察する日清朝

 清国のことをよく理解し、今朝鮮の実情を理解しつつある竹添進一郎は、朝鮮を巡る日清の動きを次のように評価考察し、また朝鮮の属国論などを次のように率直に述べている。

(「同 上」A03023651600、p72)

 支那が朝鮮に干渉するのは、その意は専ら日本の干渉を防ぐにあるようである。
 日本から兵を派出したのを以って支那もまた兵を派出する。日本から鉱山のことを説いたので[花房の済物浦での談判の時]支那も鉱山に着手せんとす。日本から軍の教師を貸して兵を訓練するを以って支那も教練に従事せり。これらは皆日本を猜疑する点から出るもので、我が国の琉球置県の件を以って虚に乗じて朝鮮を呑み込まれんとせん事を恐れ、専らその防御に及んだもののようである。

 今日の状況は、甲乙の2人の男が一人の妓女を争うに例えれば、甲男は旧交の妓女を乙男に奪い去られんことを恐れ、乙男は新識の妓女を甲男に身請けされることを恐れ、互いに相競って心力を労し、以って妓女の心を取らんと欲する。しかるにこの妓女、実は惑溺すべきだけの容儀にあらず。したがって、今、乙男から意気地を去り、甲男のなすままに任せ、一切頓着しないようにすれば、甲男も張り合いの気が抜け、それにより心力を労する愚を悟り、したがって妓女を身請けするの妄念或いは消滅するのかもしれない。

「しかるにこの妓女、実は惑溺すべきだけの容儀にあらず」のところでコーヒー吹いた。甲男とは清国で乙男は日本であることは明らかであろう。

(続き)

 日本の論者は或いは言う。もし朝鮮が清の内属に帰する時は、日本に接近する釜山などには清から砲台などを新築し、或いは軍艦を常置して直ぐに我が国に迫る憂いがあると。
 しかしこの論は過慮と言わざるを得ない。例えば清国直隷及び東三省の用地を除いて警備が整っている地があろうか。国内ですらこのようならまして国外を守る暇があろうか。例えあったとしても費用は莫大であり、永く堪えられることではない。まして清兵は鶏犬を掠め婦女を強姦するなどの悪習があり、果たして釜山に永く駐屯すれば、その地方の人民は怨怒を抱いて却って日本に傾向するであろう。
 我が国の為にいわゆる魚を駆るの獺に類するもの(カワウソが多く捕獲した魚を食べる前に並べておくと言われている事の例えか?)である。(略)

 今日、清国干渉の大なる件を挙げれば、
第一、清韓貿易商程を制定したこと。
第二、清兵駐在し、且つ韓兵を教練すること。
第三、馬建常・モルレンドルフの両名を選んだこと。
第四、鉱山着手を慫慂すること。

 清韓貿易商程に付いては機密第十一号に具陳したので略す。(後述する)
 第二について、清国士官の教練は先に堀本中尉を借り受けたのと同例である。
 第三について、馬建常が朝鮮官員に雇われたのは清国で西洋人を官員に雇用すると同様の体裁であり、朝鮮国をして自主の権を持たせた姿である。(馬建常は朝鮮式の服を着て出仕していると言う。)
 第四について、鉱山を開く件は、招商局の唐景星から2箇条の策を建議し、朝鮮政府の取捨を求めたもので、これまた自主の権を有する姿である。

 当時日本では清国の干渉はけしからん、との論大いに興り問題となっていることを考慮しての竹添なりの意見であるが、上記二〜四までのことについては、実は清国は朝鮮には自主の権を充分持たせていると言っている。

 では第一の清韓貿易章程(中国朝鮮商民水陸貿易章程)についてはどうであろうか。

 

清韓貿易章程について

「中國朝鮮商民水陸貿易章程」1882(明治15年)9月調印とされる。なお全文は「中朝約章合編(2 中朝約章合編)」で読むことが出来る。

(「同上」p58)

機密信第十一号
 去る1月10日付の機密第1号、すなわち2月10日に接収した「清韓商民貿易章程(中国朝鮮商民水陸貿易章程)」に付き、在清国榎本公使、品川総領事よりの機密信の写しを添えてのことについて、委細承知しました。

 一通り見ましたが、章程中に清国北洋大臣と朝鮮国王を同等に立て、明らかに主属の分を定めた事、裁判権に偏重ある事、兵船を駐泊させる事などについて、種々難詰があるようです。
 このような章程であるから将来我が通商上の利益に係わる件々では清国と同様に要求すべきは勿論であります。しかし清韓三百年来の関係を詳査されるなら、主属云々に付いては強いて不当(であるという議論)を起こすべきほどの事でもないように考えられます。よって各条に付き鄙見を開陳致します。


一、主属分限の事
 各国の通商章程は、甲国と乙国と各々その国の利害を詳査し、両国の協議をもって成り立つものですが、清韓章程の冒頭に言うのに、
「朝鮮久列藩邦(原文のまま。実際は「封」)」また「此次所訂水陸貿易章程係中國優待属邦之意」その終わりに又「應随時由北洋大臣与朝鮮國王咨商美、清旨定奪施行」とあり。

 この数個所の言によれば、この章程は清国政府から制定した姿であって、朝鮮国王に於ては全く協議の権を失い、主属の分は自ら明らかであると言うべきものである。しかるに朝鮮は清国より征服した国であり、清国に向かって臣と称し、世々その封冊を受け又毎年朝貢してその年号暦朝を奉じ、且つ外交の大事は常に清国に伺いを立て、清帝の即位崩御には頒詔使が朝鮮に下降する等の事は、両国属史及通文館誌諸書に載せて三百年来一定不変の例事である。そうであるとすると、今日の清国は朝鮮を指して「藩邦(原文のまま)属国」となし、朝鮮は清国を戴いて「上国天朝」と称するも決して怪しむに足りないものであって、今度新たに通商章程を議立するに、対等国の協約の例に従わずにその名分権利に清韓両国の軽重があるのは自然の情勢である。


二、裁判権限の事
 両民交渉案件では、朝鮮各地に於ては清人は清官が裁判し、韓人は清官立会いの上で本国(韓国)官員による裁判となるが、清国各地に於ては清人韓人共に清官が裁判をする。これは両国の権利に軽重あるといえども前条の事情により、これにことさら不審を懐くべきでもない。現在、主属の名分のない欧米諸国と東洋諸国との間に於いてすら彼らは治外法権を維持している。それをどうして清韓両国の間を問題にしようか。


三、兵船を駐在させる事
 この条も前項同様、清国から朝鮮の藩属と見做してこれを保護せんとする以上は、問題とするには足りないことである。


四、漢城開棧(京城城内への商人往来自由のことか)、内地採貨(国内産物購入の自由のことか)、土貨運載(産物運搬の自由のことか)の事
 この三項は我国の条約及び米英独三国の仮条約にも載せないところである。右は専ら通商利益を主として主属名分に関係ないものなので我国から同例に従って要求し得るし、またこれを要求しないわけにはいかない。しかしながら、この三項は多くは相互の約として出たものであり、朝鮮から相互の義を主張することになるは必然であろう。我が現行条約では、外国人に東京居留貿易を許し、我が産物を各港の間に運載出入りするのは許してないが、内地に入って産物を購入する自由は許可してないことである。よって考えるに漢城開桟一項は或いは実益があるといえども、内貨採弁は利益の見込みはない。土貨運載は元山釜山両港間の経験によってもこれまた格別の便利や利益があるとは思えないことである。もし相互の論を主張すれば、我が要求は漢城開桟と土貨運載の二項に止むべきであろうか。因みに章程の冒頭に「不在各与國一體均霑之例」の十一字を掲げて以って予防をしているが、これはただ清韓両国間の約条であって、もともと各国が承認したものではないので各国から均霑の約を執って要求するときには、朝鮮に於いてこれを拒む辞はないだろう。各国に向かって許さないなら清国に向かっても拒まざるを得ないことになる。この三條は必ず後日に一論題となるだろう。

五、漁船往来の事
 この条も清国の例に倣って要求すべきものである。但し釜山と対馬との間に相互の約をしてもまた妨げないだろう。なぜならばその実我が漁戸は常に釜山に至り、韓人は未だ嘗て対馬に至らないからである。

六、輸出入税の事
 章程第三款に「一切海関納税則例、悉照両国已定章程弁理」とあり、また第四款に「進出貨物応納貨税船鈔、悉照彼此海関通行章程完納」するとあるので、輸出入税は各国も同例に従うこととなろう。ただ陸路貿易に於て、紅参は十五、他貨は五、とあるは異例であるといえども、右は従来の税則を改正したものである。且つまた陸海自らその利害を異にするので、この一条は強いて論難に及ぶこともないだろう。


 およそこの章程は朝鮮国を清国管轄の下に置き、専ら清国の利を謀るものであるが、もともとは三百年来の一定した主属の名義に基づいて制定したものであり、俄かに独立国の例を以ってこれを律するべきではないようである。もし独立国の例を以ってこれを律すると欲するなら、その初めに立ち戻って清韓両国の関係を詳らかにして朝鮮国の分限を定めることが至当の順序であると思考する。このへん篤と議論を尽くされますよう強く望むものであります。もっとも下官は、別に意見もあれば、後日書付を以って具陳いたします。

 右御回答傍ら清韓貿易章程に対する鄙見概略・・・(略)

明治十六年二月十三日 在朝鮮 弁理公使竹添進一郎

      外務卿 井上馨殿

 以上が日本政府内でも問題視された「中国朝鮮商民水陸貿易章程」に対する竹添進一郎の意見である。
 竹添らしい実に率直な意見と言わざるを得ない。

 ようするに彼が言いたいのは、
「朝鮮が清国の属国であることは歴史的に見て間違いないことである、属国は属国であり今はこの清朝主属の分限を認めて我が国は現実的に対応するべきである」
ということになろうか。

 また、元天津領事らしいと言うか親中派と言うか、そう言ってもいいぐらいの、清国が朝鮮に対して条約で明確に宗主国の態度をとることを理解している意見ではある。これはこれで現実的な見方であろう。

 しかし翌年末の明治17年12月に、朝鮮駐在の清勢力から愕然たる仕打ちを彼は受けることになるのである。

 

 ところで彼は、「主属のことは清韓三百年来の関係を詳査されるなら云々」との意を繰り返し述べているが、ということは、清国と朝鮮の間の3百年間を詳細に調査せずに現在に至っている国がお隣にあるということか。ふむふむ。

 

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