明治開化期の日本と朝鮮(25)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

仁川済物浦と月尾島 朝鮮の船・猛船が並び岸壁ぎりぎりまで藁屋が乱立する。沖を行くのは日本の貨物船であろうか。 「明治43年(1910)5月刊 東洋拓殖株式会社刊「事業概況」より。」
 明治15年7月24日、襲撃を逃れた花房公使一行は小船で月尾島に渡った。反乱兵が済物浦まで追撃して来たのはその3、40分後だったという。(2.朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報 2 〔明治〕15年8月16日から〔明治〕15年8月25日)

 

索 引

朝鮮事変について
林泰輔著「近世朝鮮史」によれば
王妃閔氏が語る壬午事変
閔氏政権の腐敗
高宗王妃の閔妃について
臣、皇帝に大院君の赦免を陳情
エピソード様々
仁川開港
高宗、日本陸軍演習見学を望む
京城近況
清の内政干渉著し
日本党、支那党、頑固党
事大の醜怪

 

朝鮮事変について

 明治15年7月23日に勃発した朝鮮の事変は、交際3百年来の日朝両国にとって前代未聞の大事件であったと言える。我が国の在外公館が襲撃されたということも前代未聞なら、朝鮮にとっても「実に古今未曾有の軍乱であり、王妃は身を隠し大臣達は害され、公使館を燹(戦火)し教師として招いた日本人まで惨酷に殺してしまった古今未だ無かった事件である」と朝鮮政府は日本政府に提出した謝罪文中に述べている。
 即ち「軍乱寔古今所未有之変也」「王妃潛御私次輔臣近臣同時被害至貴国使館被燹教師遭戕無辜非命並罹惨酷此古今所未有之禍乱也」(朝鮮使節ヨリ礼曹判書李会正ノ謝罪状ヲ呈ス)とある通りである。

 この前代未聞の大事件を惹き起こした誘因は複雑である。Web上でこのことを取り上げたものを見ると大体次のような事を原因としているが、遠からずといえども当たらず、とも思える。

・別技軍と旧軍との間には不当な待遇差別があったことから給与米をきっかけに反乱した。

 「旧軍」とか反語たる「新軍」というものではない。共に朝鮮正規軍である。朝鮮五営の志願兵の中から選抜した近衛兵であり、別けて洋式訓練を技した軍、すなわち「別技軍」である。待遇が違っていて当たり前であろう。またそれを差別だとして不満をもって反乱したとする当時の資料は見つからない。

 朝鮮政府が花房公使に提出した兇徒調書なるものがある。もちろんその真偽は不明である。大院君の名も出てこないしろものであり、適当に作って適当に犯人を用意して「調書」を取り刑人とした、といっても不思議でないのがこの国である。しかし資料は資料であるから、一応参考とせねばなるまい。
 それによれば反乱のきっかけとするものは以下の通りである。

 訓局騎隊の金長孫(63才)の供述、尋問1回、更に施威して厳重に問う。また牢刑して問う。老人であるが過酷な拷問がされたと思われる。その供述によれば、
 「金長孫の子である金春永が、給料支払の時に恵庁庫直を殴打して囚われた。訓局軍の柳卜萬も同罪で囚われた。それで柳卜萬の弟である柳春萬が来て言った。『支給された給料米は石が出たので不完のものである。全く冤罪である。』諸軍が一斉にざわめくことを惹き起こした。我が子と我が兄を助けんとして本局諸軍に告訴せんと欲した」云々とあるだけである。 (「2.朝鮮事変弁理始末/2 兇徒伏法」p25)(後に金長孫や柳卜萬など計8人の兵士が10月7日に凌遅刑に処せられ3日間曝されている。(第一号朝鮮国見聞諸況ノ件)

 実に要領を得ないざっとした調書であるが、これ以外に詳細な資料があるとするなら見てみたいものである。

 別技軍との待遇の違いに不満を持っていた、とかはこの調書には一切出てこないのである。

 

・「支給を担当した倉庫係が砂でごまかして、その差額を自分のものにしようとしたのです。兵士らはこれまでの不満が爆発して、その倉庫係を殴り、庁舎に閉じこめてしまいました。」(ユネスコ日韓交流事業 歴史認識の共有を目指す日韓青年交流 日韓交流の歴史 )より。

 有り得る話であるが、これも空想で書いてるのか?

・「壬午軍乱は閔氏政権が新式軍隊である別技軍を優待して旧式軍隊を差別待遇したことに対する不満から爆発した(1882年)。」(『世界の教科書シリーズ@ 新版韓国の歴史 − 国定韓国高等学校歴史教科書』 明石書店 2000年)

とあるが、その根拠はない。

・「多くの日本の商人が釜山・元山・仁川等に進出して活動していた。彼らは、金や米・大豆などを輸入していたが、それによって例えば米の価格は2〜3倍に跳ね上がり、朝鮮人民の生活は危機的な状況になっていた。(大量の米を輸出した為に朝鮮国内で米不足が発生したものである。ある記録によれば、かなり強引な手段で米を買い付けたり、ある金鉱山では採掘の権利を不法な手段で手にしていたようである。)しかも、前年に行われた軍制改革によって軍事教官(堀本礼造陸軍少尉)が招かれて特殊部隊の訓練がはじめられ、いままでの兵士達の多くに対し解雇や給料の引き下げを行なっており不満が渦巻いていた。」(某サイト)

 米価が高騰していたのは花房公使も憂慮していたことである。そのことも併せて税制の制定の為に談判の真っ最中に事変は起きたのである。値段を吊上げていたのは農民と朝鮮商人であろう。それとも貿易そのものが罪悪と言いたいのであろうか。「ある記録によれば」とあるがその記録とは?、採掘権?兵士の解雇や給料の引き下げの事実の資料の提示はないのか?近衛兵は特殊部隊なのか?仁川は開港していたのか?その他ツッコミどころ満載である。

・「やっと支払われた俸給米の中には、支給に当たった倉庫係が砂で水増しして、残りを着服しようとした為砂が入っていた。これに激怒した守旧派の兵士達は倉庫係を暴行した後、倉庫に監禁してしまう。とりあえずその場は治まったが、この暴行の中心人物が捕まり、死刑の判決を受けることになった。この判決を受け暴動を起こした兵士達を・・・」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』壬午事変)より。

 ウィキペディアですらこのありさまである。なお、米清の軍艦の牽制によって日本は島の割譲要求を諦めた、などとトンチンカンなことを言っているのもここである。


 筆者は事変当時の誰もが指摘している、すなわち「渠魁の大院君たるは、十目十指の視指する所に候(花房義質復命書中条約要説での言葉)」とあるように、大院君が軍乱を起こしたとの認識が正当なものであると思うものである。

 執権を追われて10年、再び実権を握らんとした大院君が何度も乱を企てては、事前に察知した高宗たちが防いでいたが、今度のは全く知られないままに兵士が大院君に助けを求めたことから、助けるのと引き換えに反乱するよう命令したという、尹雄烈や閔泳翊の腹心である朴永圭の証言が最も合理的なものであると思われるからである。
 しかしこの証言を資料付きで取り上げ記述したものを見たことはない。

 過去に囚われる歴史好きな諸君の目は節穴か。

 そして清の斡旋によって米朝通商条約を締結したことによって、大なる危機感を持った守旧激党が呼応して乱となったと。すなわち水野大尉にもたらされた情報である。
 その他、花房公使に宛てた次のような井上外務卿の文書がある。

(「朝鮮暴動事件/1 明治15年7月30日から明治15年8月20」p39、現代仮名に。)

大院君既に開国説を唱え、旧政府と同主義を操るとの旨を国王明言せばこの場合に於いては開談の始めに当たり、大院君かつて攘和の碑を八道に建設し又暴動前の檄文並びに兵士との密約書即ち金玉均、徐洪範、朴義之と内約せし所のものにして此等の文案を得るを必要とす云々の如きその証左を示して之を推問し、果たして旧説を一変せしに相違なきを明言せしむべし。

 もし朝鮮国王が、大院君は開国路線を踏襲すると明言したなら、このように証拠を見せてまず真意を質せ、という文章である。
 どうやら暴動前に大院君の檄文なるものが出回ったようである。
 この後に続く「兵士との密約書即ち金玉均、徐洪範、朴義之と内約せし所のものにして此等の文案を得るを必要とす云々」の文意は分からない。密約書なるものも関連公文書中に見つけることが出来なかった。おそらく表面に現れたもの以上に相当複雑な事情があったのかもしれない。

 いずれにしろ、井上馨外務卿はこの事件を「暴動に先だち大院君、回文を派したること暴挙の原因にして」と結論し、それらを在東京の各国公使に伝えている。(「朝鮮事変弁理始末/2 馬関開局」p31)


 次に日清朝の対応について、

・「日本は壬午軍乱を契機に朝鮮に軍隊を駐屯させることに成功し、侵略の足がかりとした。」

 このような視点で評価する諸君も多いようである。
 まず、訓条を読めと言いたい。日本政府は公使館には朝鮮軍の護衛を求めたのである。しかし朝鮮軍の状態からそれは不可能であり、それでかえって清軍による護衛となりかねないことからも、止むを得ずに日本軍を駐屯させることを条約化したのは花房義質である。では、花房は侵略者か。朝鮮侵略の意図を持つ者なるか。
 花房ほど日朝両国の融和に心を砕き、朝鮮人民の貧しさゆえの悲惨さに同情した者がおろうか。自分直属の部下を大勢殺されたのみならず更に無残な扱いを受けていた事を少しも談判取引材料とするわけでもなく、条約成って談判終了した最後に一言そのことを朝鮮大臣に漏らしただけの、この類まれなる紳士のどこが侵略者であろうか。

 左巻きの日本人、過去の歴史にこだわる在日の韓国人・朝鮮人の諸君。君達はもう歴史を語りたもうな。諸君は心の病気である。疑心暗鬼の牢穴の囚人である。

 

林泰輔著「近世朝鮮史」によれば

 明治年間に出版された朝鮮史に関する書籍に、林泰輔著「近世朝鮮史」がある。林泰輔(1854-1922)は岡崎久彦氏によれば「すでに明治二五年に朝鮮史五卷、三五年に朝鮮近世史三卷を著はせし朝鮮史の泰斗なり。」という。実際、膨大な史料に基づくだけでなく、極めて正確なものであるようだ。例えば「朝鮮の開国と混乱」でも少し触れたが、この叛乱を企てて大逆罪で処刑されたいきさつを次のように述べている。

・・・大院君は久しく閑地に居り、常に王及び王妃、閔泳翊等が開国を喜べるを見て憤懣を懐き、遂に庶子別軍■李戴先、承旨安驥永、蔡東述及び李鍾學、李鐘海等をして廃立を謀らしめしが、李豐永なるもの、変を議政府に告ぐ。因て事覚れ、李戴先、安驥永、蔡東述等皆殺されたり。(「『近世朝鮮史』 林泰輔著 早稲田大学出版部 明治年間出版(明治三十五年と思われる。)の三五八頁より。)

 これはアジ歴史料「昭義門外死尸暴肆ノ件外一件」「叛党処刑ノ件外二件」の内容と照合しても正確なものである。朝鮮側の史料によるものも窺われ、当時の日本の外交官が知り得なかったことについても詳しい。

 その「近世朝鮮史」によれば事変発端とも言える経緯を次のように述べている。

 人皆閔氏の政を為すこと貪虐なるを悪み、復た大院君の政を渇望す。故に安蔡等の死せるを見て慷慨悲憤の情に勝えざるものあり。人心益(ますます)動揺して事変は方に旦夕に迫れるものの如し。
 この危機一髪の際に当りて、恰も一条の導火線となるものあり。兵曹判書閔謙鎬は陸軍の財政を掌りしが、貪冐にして官財を乾没し、兵卒に糧食を給せざること数月に及ぶ。その始めて給するに及びて属吏は又その米を扣除して升斗の不足を致す。是を以て兵卒は大に怒り・・・(同三五九頁)

 「開化派が語る事変の経緯」でも記したように、釜山で閔泳翊の腹心である朴永圭に梅津陸軍中尉が事情聴取して得た報告である「在朝鮮国領事副田節東莱府使公書ヲ奉シ来館ノ始末ヲ報ス」にある「兵卒はこれにより仲間を募って当初二百名を糾合し、まず下都監の閔謙鎬の家を襲った。」ことへの理由がこのように述べられているが、何故に軍のトップが襲われ、また兵卒への給与が遅れていたかもが判然とするものである。また、「一条の導火線となるものあり。」とは乱の発端を表す言葉として的確であろう。

 そしてこの事変を「大院君の乱」と称して次のように述べている。

 是を大院君の乱という。
 蓋しこの乱は、端を兵卒の暴動に開くと雖も、大院君が是に乗じて日本を排斥し閔氏を芟除して自己の勢力を回復せんと欲せしより、その勢い火の原を燎くが如く、益蔓延するに至りしなり。されば乱の初めに当りて大院君はその子載冕(第一子、高宗の兄)と共に宮中に入り、兵卒を指揮して参判閔昌植を殺し、また貪官汚吏の家を毀ち、王に請うて軍■大小の機務、悉く已に稟決せしめ、十余日の中にしてその憎む所のもの三百余人を殺し復た威櫂を壇にせし・・・(同三六〇頁)

 高宗の兄である李載冕のことについては事変後の天城艦長からの報告に、
「大院君の嫡子李載冕は国王の実兄にして当時同家の祀を継げり。大院君と同じく飽くまで頑固にして今日に至って尚其の邸に篭り絶えて他行せず、又大院君の股肱の兵二百あり、是れまた邸内に篭り居り。(「天城艦報告朝鮮国ノ近況」のp7)
という記述があるように、大院君と志を同じくする人であった。それが事変後に何ら処分を受けなかったのは、やはり高宗の兄ということからであったろうか。

 

王妃閔氏が語る壬午事変

 後の明治28年8月の、井上馨が国王王妃に内謁見した報告書がある。ここで閔妃は、この事変のことを振り返って次のように語っている。

(「韓国借款関係雑纂 第二巻 5.寄贈金ノ件」p4〜p6より抜粋、()、文字強調は筆者)

王妃) 「今より二十四五年年前、貴政府は森山茂氏を釜山港に派し、国書を当時の東莱府使鄭顕徳へ致し、転達を求めたるに付、同府使は之を京城に伝達したりしに、恰も大院君執政の時なれば、同君は専ら斥和説を主張し、文体例に背くと云うを辞柄とし、同府使をして其国書を返却せしめたり。東莱府使は其命を奉じたるも、之を達する能わず。国書をば自分の手許に預り、政府に向ては日本使節は国書の旧例に違うを詰責せられ、辞窮し国書を撤回して帰国したりと報告せしかば、大院君大に悦び甚だ得色ありし。然るに当時閔升鎬[閔致禄の養子にして王妃の義兄に当れり]は、若し国書を拒絶する時は必ず日本の怒を招き、後害を醸すのみならす、日朝は唇歯の国柄にして、相共に提携せざれば、将来開明に導く能わざることを察し、之を内奏し、大院君の兄李最應と謀り、窃に今の総理朴定陽を釜山に派し、其形勢を観察せしめたる処、大院君は之を探知し、売国の奴と称し、右両人を殺せり[閔は明治六年に、李は十五年に并殺る]。其後、閔奎鎬、世道(勢)と為り、閔升鎬の養子閔昌植、之を輔翼し、養父の遺志を継ぎ、明治九年中、日本と講和し、専ら開国説を執りし処、大院君窃に之を嫌悪し、壬午の年[即明治十五年]、兵隊を扇動して乱を興し、王宮を囲み、自身を廃せんと謀りし上、右の閔昌植、閔鎌鎬(閔謙鎬)其他数人を殺し、且日本公使を遂い、同館を焼払いたりし。当時自身は常人婦の服に変粧し、辛らくして乱を忠州に避けたりしが、大院君は、死去と声言し、国中に令し、喪を発せしめたり。当時閔泳翊等、国難を憂い、趙寧夏等と謀り、窃に在馬山浦なる清艦に赴き、馬建忠、丁汝昌等に密告し、大院君を制せんことを依頼したるに因り、同君は終に清国に拘留せらるゝ身となれり。是に於て自身は再び宮中に還るを得たり。(以下略)」

 この閔妃の語るところのものは、一連の史料との整合性もあって、極めて正当と評価されるべきものであると思う。趙寧夏が何しに馬山浦に行ったのかの理由も合点がいく。背景の複雑さも含めて。
 王家大院君と王妃閔族一派の権力闘争でもあり、攘夷派と開化派の確執でもあり、舅と嫁の争闘でもあったと。

 これらの史料から結論!
 明治15年朝鮮事変(壬午事変)は、大院君の乱と称するのが最も妥当であると思われる。


閔氏政権の腐敗

 閔氏政権の腐敗ぶりは、外交史料には直接の記述が少なくて分かりにくいのであるが、軍のトップが兵卒への給与を私有したり更に掠め取る汚吏がいたということである。前記した山ノ城管理官の建白にもあるように、国は腐敗し搾取と収奪は横行し人民は塗炭の苦しみにある朝鮮の国情とも言うべきその姿は想像を絶するひどさだったようだ。

 それはまた次のように条約締結後の9月2日に朝鮮国王高宗が八道四都の人民へ諭告した書からも窺うことが出来る。
 高宗自ら、その不徳を謝罪し、また厳罰を以って国法を正さんとする文意であるが、ここでは「これ予の罪なり」の語を添えて繰り返し謝罪する部分を取り上げる。

(「国王ヨリ八道四都ノ人民ヘ諭告書ノ件」から抜粋。()は筆者。)

「粤自嗣服以来、大興土木、勒歛民財使貧富倶困、是予之罪也。屡改銭幣多殺無辜、是予之罪也。毀撤祠院忠賢不祀、是予之罪也。玩好是求賞賜無節、是予之罪也。過信祈禳之事虚糜帑蔵、是予之罪也。用人不廣宗戚是祟、是予之罪也。闈宮不粛、婦寺千澤、是予之罪也、賄賂公行、貪墨不懲、窮民愁苦之状、莫達干上、是予之罪也。儲胥久虚、軍吏失哺、貢價積久、市井廢業、是予之罪也。聯好各国、乃是時宜、施措乖方、徒滋民疑、是予之罪也。止竟神怒人怨、変故百出、下凄其上、燹及君親、上貽天子之憂、下擾万民之生、失信於隣國、取笑於天下、是又予之罪也。嗚呼、予罪至此。尚以何面目、復對一國臣民。」

(「闈宮」とは宮中、特に后妃のいどころ、のこと。「婦寺」とは宮中の女官や宦官のこと。いずれも「角川新字源」より。)

 「ここに予が王となって以来、土木事業を大いに行い、ために民財を思うままに求めて使い貧富の者を困らせた。これ予の罪である。しばしば貨幣を改めて価値を失わせた。これ予の罪である。寺院を壊し忠賢の人を祀らなくした。これ予の罪である。節度なく欲しいままに恩賞を与えた。これ予の罪である。祈祷のことを過信して金蔵を空にした。これ予の罪である。人を広く用いずに先祖も祟った。これ予の罪である。後宮のことを慎まずに大勢の女官や宦官を置いた。これ予の罪である。賄賂は横行し人が貪るも懲らしめずに窮民の苦しみはこの上ないことになった。これ予の罪である。貯えを虚しくして兵への補給も失い、清国への貢物も滞り、市井は廃業した。これ予の罪である。各国友好の時に政策を誤り、いたずらに人民の疑いを増大させた。これ予の罪である。神は怨み人は怒り、変事百出して、災いは君親に及び、上は天子に憂いを生じさせ、下は万民の生命を危うくした。隣国の信用を失い天下の笑いものとなった。これ予の罪である。ああ、予の罪はここに至る。国の臣民に対してどうして面目が立とうか。」

 延々と腐敗しきった朝鮮の実情を吐露しており、国王自ら朝鮮の実情を述べた史料として貴重であろう。

 以上のように朝鮮事変は、別技軍と「旧軍」の差別待遇とか、米価高騰とかが原因ではなく、更に軍兵卒への給与遅配と石交じりの給与米なども「導火線」のいわば薬剤であったに過ぎず、そもそも叛乱のチャンスを窺っていた大院君が爆ぜて起こしたものであり、その背景には閔氏政権の恐るべき腐敗があったと言うことである。

 

高宗王妃の閔妃について

 上記諭告書文中の、
「祈禳の事を過信し帑蔵(かねぐら)を虚糜(ただれてむなしくする)」「後宮を粛しまず婦寺(女官や宦官)千沢す」
即ち、
「祈祷のことを過信して金蔵を空にし」「後宮のことを慎まずに大勢の女官や宦官を置き」は、以下の文章にある(数字の正確さには大いに疑問であるが)、その言わんとするところの傍証とはなると思うものである。

韓国 堕落の2000年史 崔基鎬 詳伝社
・・・閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂ノリ」を毎日行なわせた。「巫堂ノリ」は巫女(シャーマン)たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。そのかたわら、金剛山の1万2000の峰ごとに、一峰あたり1000両(朝鮮の1両は銭10枚、日本では4000枚)の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。つまり、合計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施した。当時の国家の財政状態は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していたにすぎなかったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐えうるものでなかった。これは法外な浪費だった。宮廷の要路(重職)の顕官たちは、民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈り、王妃に媚びて「巫堂ノリ」に積極的に参加し、巫女たちとともに踊った。閔妃は、狂気の宮廷に君臨する女王だった。また、閔妃は音楽を好んだので、毎夜、俳優や歌手を宮中に招いて演奏させ、歌わせた。そして自分も歌った。俳優や歌手たちに惜しみなく金銭を撒いて、遊興した。
(中略)
日本のおろかな女性作家が、閔妃に同情的な本を書いたことがあるが、閔妃は義父に背恩したうえに、民衆を塗炭の苦しみにあわせ、国費を浪費して国を滅ぼしたおぞましい女である。このような韓国史に対する無知が、かえって日韓関係を歪めてきたことを知るべきである。

 なおこのことに触れる直接の資料は見出しえない。(今のところ。)

 その閔妃のことであるが、事変の時の様子が後に次のように報告されている。(「天城艦報告朝鮮国ノ近況」p6 p9)
「そもそもこの人(閔台鎬)は、国王世子の妃の父にして閔泳翊の実家の父である。先の変乱の際に王妃が王宮を逃れて閔台鎬を頼って難を免れんとしたが、これを庇うどころか大院君に密告しようとした。それで閔應植と閔肯植が匿ってついに危難を免れた。」
「その後、忠清道の将官である具定植が京城の変を聞いて王城を護衛せんがために兵を率いて駆けつけている所に(逃亡中の閔妃が)遭遇し、彼によって青洲に送られて保護された。具定植はその功により後に禁衛大将に任じられた。」

 閔台鎬にすれば閔妃は娘婿の母親である。それを助けるどころか殺されると分かって大院君に密告しようとする、真に異常な関係であり、それほど閔妃は疎まれた人間でもあったということであろうか。


 臣、皇帝に大院君の赦免を陳情する

 臣とは朝鮮国王高宗すなわち李熙であり、皇帝とは清の皇帝光緒帝であるが実質はもちろん西太后である。
 花房が入手して9月12日に井上外務卿に報告した「朝鮮国王李熙陳情表」は、趙寧夏と金宏集が陳奏使として清に行った時に携えていたものの写しである。(「2.朝鮮事変弁理始末/2 兇徒伏法」p40)

  その書において高宗は、清国皇帝に対して自らを臣と称し、「謹奏、為臣本生父航海入朝、臣席藁候罪」と、中国にいる実父の事で私は罪人として裁きを待ちますとの意を述べ、次のように父大院君の帰国の許しを乞うた。

(「2.朝鮮事変弁理始末/2 兇徒伏法」p40の「朝鮮国王李熙陳情表」より抜粋。)
 「臣之心焦震剥、何異於嬰児之離懐膝、童心飲泣、如窮無帰」「皆臣之罪、臣本生父並無縁毫干渉」「伏惟皇帝陛下、孝治天下、聖極人倫」「将臣本生父、即許帰国、俾小邦父子君臣、感誦皇恩、永々無極、臣不勝瞻天望星、痛泣祈祝之至」

 「臣たる私の心は震え、あたかも嬰児が親の懐や膝から引き離されて拠るべきところを無くして憧心から泣いているようなものであります」、「罪は皆臣たる私にあり、実父は毫も関係ありません」「天下に善政をされ聖極人倫なる皇帝陛下に伏して願います」、「臣の実父の帰国を許して下されれば、小国の父子君臣は感激して皇恩を永久無限に唱え、私が天に望む星を仰ぎ見る以上の、感泣の極み祝賀の至りであります」

 まことに情感に訴えての切々たる陳条ではある。文章は校理李建昌という人物の起草によると記されている。
 しかし朝鮮人の書く文章は情に訴えることが上手である。

 もっとも、属国の扱いになれている中国はそのような情に左右される国ではないらしい。
 日本側が入手したこの高宗の陳情に対する返事の文章によれば、大院君は直隷省保定府に軟禁し、皇帝から厳刑に処すところを高宗の実父たるを以ってその罪を問わないが、しかし永遠に帰国を許さず、とあった。
 それでも待遇は良くて茅宅と厚い俸給を賜り、西太后から侍女3人を付けられ、その上時々朝鮮朝廷から使いを派遣することも許されている。(「天城艦報告朝鮮国ノ近況」p8)

 今更ながらのことであるが、高宗の陳情書は朝鮮朝廷の属国根性満開の文章であり、その自主独立など全く画餅に過ぎない状態にあることを日本政府もまた痛感したはずであるが・・・・

とは書いたが、後に「国王、日本兵借用を申し込む」を知るに及んで、少々その考えを変更せねばならなくなった。
 すなわち朝鮮国王が日本政府に宛てた「朝鮮は自主独立の邦国に無相違、兎角清国の掣肘を受け、動もすれば独立の実を傷けんとす。左すれば其独立も有名無実に過ぎざれば、断然独立の実を明せんとせば兵力に頼らざるを得ず。然るに我兵力の用ゆるに足らざるは已に業に御承知の事なり。就ては貴国の力を借り、因て以て独立の名を全うしたしとの考より、此回使臣は大君主の親書を携え居るの儀なれば、可成我大君主の意趣を貫き其成効を見たし云々」という親書の存在である。

 清国に対しては忠実なる属国の態度を示し、日本に対しては朝鮮は自主独立の国に相違ないと述べて日本の兵力を借りようとする。これは明らかに清国への「面従腹背」であろう。もちろん風向き次第で日本に対しても同様の態度をとることは言うまでもなく、後に明治17年の朝鮮事変に於いて、日本政府は朝鮮国のその陰険さに大不快を覚えることになる。

 なお、この頃の清国への毎年の貢物として次のようなものが献上されていることを近藤代理公使が報告している。(「第二号同上(第一号朝鮮国見聞諸況ノ件)」p4)
 しかし、先の高宗の謝罪文の中に「貢價積んで久しく」とあるから貢献も滞っていたようである。

 大好紙 二千巻、小好紙 三千巻、水獺(いたち科の哺乳類「かわうそ」のこと)皮 四百張、鹿皮 百張、青黍皮 三百張、雑彩花席 二十張、白苧(アサ)布 二百疋、各色綿紬 三百匹、各色細木 三千八百匹、米 百包、糯米 十五包

 近藤代理公使による調査のものであるが、これで全てなのか例えば人間を貢物としたのかどうかまでは分からない。また清に降った当初はこれに黄金百両、白銀千両、水牛角弓二百その他が加わっていたという。

 

エピソード様々

 なお賠償金支払いは後に修信使との協議により、5年払いから10年払いに変更となった(同年10月27日)。
(朝鮮政府償還ノ填補金年賦約定並ニ到達金納付方)
 また、17年11月には残金40万円を寄贈という形で帳消しにしたことはすでに述べた通りである。


 15年12月には日本人遺族や負傷者に対する救恤金5万円が夫々に支払われた(故堀本中尉遺族のみ1万円、他は1千5百円〜3千円、負傷者には百円〜4百円)が、1万2千円が残金として残った。それで井上外務卿は、政府所有の練習船「千代田形(砲艦 140t 長さ29.7m 幅 4.8m 兵装 15cm砲1門 小砲2門 乗員 35)」をその残金で修理して朝鮮政府に進贈し、更に残りで武器などを購入するか又は何かと独立の用に供すべきとの趣旨で朝鮮政府に贈る案を上申した(明治16年2月14日)。その政府認可が下りたのは3月6日だったが、7月になって再び井上から朝鮮国の状況を見るとまだその機とは言い難いので当分差し止めたいとの上申があり、8月に差し止めとなっている。(朝鮮政府ヨリ体恤金領収並ニ分配及ヒ残金処分方・五条)


 上記5万円の救恤金は12月に朝鮮政府(修信使一行)が横浜正金銀行から借用した紙幣17万円の中から支払われた。借用は井上馨外務卿の周旋によるものと思われるが、当初借用を申し込まれた横浜正金銀行も余剰資金に乏しくて困却し大蔵省に貸下金を願い出るに至った。大蔵省は大蔵省で何かと国費多端の折柄、貸下金は一切しないことを原則としていたが、日朝両国の交誼上また井上外務卿の口添えもあって、特例として貸下げることの許可を上申し、12月18日に政府承認を得た。(朝鮮政府ヨリ横浜正金銀行ヘ借用金依頼ニ付同行ヘ貸下金ノ件)


 朝鮮国旗(太極旗)については、修信使が日本に向かう明治丸上で急遽作成したという話を聞くが、ここではついにそれに触れた文書は見つからなかった。
 旗中央の図は明治9年に宮本小一が朝鮮国政府の徽章とも言うべきものとして「太極が剖判して両儀を生じた図という」と言っているのでそれを元にデザインしたことは間違いないだろう。後は八卦の半分だけを配置した記号(乾坤坎離・天地水火、西北・西南・北・南、健・順・陥・麗、父・母・中男・中女)が現在では使われているが、かつては8個の記号全てを使った旗もあったようであり、おなじみの「大清國属高麗國旗」も巴状の部分に目玉のようなものがある。今のものの方がなんだか中途半端のようでもあり、これは統一後は作り直したほうがいいのじゃなかろうか。(いらぬお世話か(笑))


 事変当時に花房一行が京城から仁川に向かう途中、韓銭の袋を背負わせていた人夫(おそらく輿を雇った時に雇ったのであろう)が袋を持って逃げてしまった。また当日朝に済物浦に行った者達が仮事務所を作らんとしたが満足の人家なく雨露をしのげる程度の破れ屋を借り受け、そこに袋に入れた多数の韓銭を貯蔵せんとしたが場所がなくて土間に積んでいたところ一袋が盗難にあっていた。
 また事変後に釜山港で大量に買い上げた韓銭を船に積んだり馬に背負わせたりしているうちに破損した貨幣が少なくなかった。韓銭は特別もろいのであろうか。
 以上合計約14貫160文(76円余り)であった。(韓銭欠銭毀損及被盗銭支払方ノ件)
 その他には、朝鮮政府が日本から購入した別技軍の武器などの装備品代およそ1千5百円が堀本中尉に支払われていたが、事変の渦中にそれも不明となった。(朝鮮政府ヘ送付兵器代払捨ノ件)
 清軍に処刑された反乱兵の内5人は事変当日に金銀を所持していたと調書にあるがそのこととの関係は分からない。


 陸海軍兵が1ヶ月以上花房公使と行動を共にしたが病気になる者も少なくなく、内18人が病死した。死因はコレラと脚気であった。緊急出動と気候の為に充分な食料を積載出来なかったことも一因であったという。(海軍省稟請朝鮮事変ニ際シ韓地ニ於テ死亡セシ一等兵曹横尾吉三外十七名ヘ祭粢料下賜・二条)
 軍医看病夫の懸命の治療看護を受けた上のことであったろうが、まだまだ医療技術は遅々として進まなかった時代でもありまことに不幸なことであった。


仁川開港

 仁川開港の件は、朝鮮側が仁川の代わりに南陽府の適当な場所を望んでいたこともあり、日本政府としても一応考慮して南陽府麻山浦なども測量をしたが、やはり港としての適地は仁川済物浦以外にはなく16年1月に開港することとなった。
(「同国南陽麻山浦実測ノ件」、「朝鮮国南陽麻山浦ハ開港場ニ不適当ニ付仁川港ニ定メ渡航通商等差許方ノ件」、「朝鮮国京畿道仁川開港」)
 日朝修好条規第5条によれば「明治9年2月から20ヶ月後までに開港する」との約束であり、それは明治10年10月となるが、それから5年以上の月日と手間と膨大な経費が費やされたことになる。その上多くの人命までが。

「いったい我が国の風儀は官民ともに埒の明かぬことが多いのは公使はじめ貴下もご承知のことなるべし。」とは、金宏集が近藤書記官に言った言葉であるが、それにしてもあんまりしたことではなかったろうか。

 

高宗、日本陸軍演習見学を望む

 明治15年11月、日本公使館護衛のために残っていた小倉鎮台の1中隊は、新たに派遣された広島鎮台山口分営からの2中隊と交代した。
 その際、朝鮮国王から謁見と共に王宮内練兵場で日本陸軍の陸戦演習を見学したいとの申し出があり、それにより近藤真鋤代理公使と陸軍少佐波多野毅は協議し、兵員3百人を以って1大隊を編成して敵味方に分かれて陸戦演習を実施することに決めた。

 明治15年11月13日、近藤大使を始め大隊は行列して王宮に入る。帰国する天城艦長らと共に陸軍士官たちも国王に謁見、その長期滞在への慰労の言を受けた後に演習を実施。
 国王、国王世子、左議政はじめ諸大臣、長官、「令」「巡視」の旗を掲げる朝鮮兵、また清兵が垣根のように連なって見守る中、陸軍1小隊を練兵場東方に土嚢を築いて配置し、残りは南方に待機させ、索敵、通報、喇叭、東方から先に銃砲を発して攻撃、南方は1隊が撤兵して別隊が伏して進み、練兵場中央に進んだ頃に盛んに銃砲を撃ち合い(もちろん空砲であろう)最も激しく、やがて号令あって銃剣突撃、東方の兵は敗走する。その後負傷者を包帯して包帯所に送る様子を模擬し、半隊集合して銃槍訓練を演じ半隊は体操を演じる、その後集合して大隊となり演習を終わる。周囲は静まり返り一言も発する者なし。やがて国王が兵士に梨柿栗などの菓を贈る。世子が王の側を離れ手を挙げて礼をし、使いを遣って賞賛と慰労の言葉を伝える。

 世子は青と黄色の衣を着けて頭に凸型の冠を載せ顔には白粉を塗って、あたかも女の子のようであったという。(天城艦長滝野海軍中佐朝鮮国王へ謁見ノ概況報告)

京城近況

 日本公使館(旧禁衛大将宅)には近藤代理公使はじめ職員巡査、計17、8人が駐し、護衛兵半小隊が門内を警備して交番し、本隊は隣の旧掌楽院という所に駐屯した。規則厳しく散歩も許さず禁足とした。
 一方、清兵は市中を横行し、時に押し買いや強姦などを行い、任務で通行する日本兵に対して乱暴の言葉を投げたり横柄な態度で接するなどしていた。しかし日本兵はそれを取り合わない態度を取り、それまで日本人を避けていた朝鮮人がかえって日本兵の方を信頼する雰囲気が生じ、清軍提督呉長慶の厳命もあって清兵の方が日本兵を見ると先に避けるようになったという。(「天城艦報告朝鮮国ノ近況」p3、「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信一」A03023651600、p8)
 清軍は当初6営の兵(3千人)が駐屯していたが呉長慶が日本側に伝えたことによれば半分に減じたという。しかし陸軍士官の情報によれば実質5百人に過ぎず、また日本陸軍が朝鮮国王に演習を見せた前日に実は清軍も演習をしており、その時は2百人に過ぎず、数の少なさから「百を千と言い、千を万と言い、虚喝を以って外人に誇称する支那人の為さる所ならん」と天城艦長滝野海軍中佐は報告している。

清の内政干渉著し

 清政府の朝鮮への内政干渉は著しく、朝鮮国に対して以下のような矢継ぎ早の命令を発した。
・千人を厳選して清国に送って軍隊調練させよ。→それで朝鮮政府はとりあえず軍民の中から5百人を選んで清国に送った。また、調練後は清から大砲10門、スナイドル銃千挺を贈るという。
・兵士服装は帽子のみ今の朝鮮式で服は清と同じとせよ。
・鉱山を開け。技術者は清国政府から派遣する。
・外交顧問として馬建忠の弟である馬建常を派出する。馬建常はかつて在日本神戸領事を勤めた者である。
・国民一般の服も清国と同じにすること。→これは話し合い中であり、朝鮮政府は決答の延期を求めた。
 (天城艦報告朝鮮国ノ近況)

 後に清国が鉱山の調査員を派遣して調査したが、莫大な開発資金が必要であることが判明。(詳細後述)

日本党、支那党、頑固党

 いずれも天城艦長の報告による表現であり、日本政府がそう称していたかは分からないが、朝鮮政府内部関係者はおよそそのように勢力が分かれていたようである。

 日本党は朴泳孝、徐光範、洪英植、金玉均、閔泳翊、李戴元たちであり、内政には干渉しようとしない日本のアドバイスを受けて独力で開化せんとする者たちである。しかし勢力に於いて弱く、閔泳翊もまだ若年によりその力は支那党に抗するべくもなかった。また京城に出れば暗殺される恐れもあった。李戴元は王族であり大院君の兄弟の子であって日本に心酔する人物であったが、賢明さにおいて頼りあるものではなかった。


 支那党は露骨に内政干渉してくる清国に事大してその力によって開化せんとする者たちであり、金允植、趙寧夏、魚允中、金宏集を中心として政府内で大勢を占め最も盛んな勢いを見せていた。また当然日本人との交際を避ける傾向があった。


 頑固党とは大院君を擁する守旧派と言われる人々である。
 守旧派は必ずしも清国に事大するものではない。むしろ、明代滅んだ今は朝鮮こそが「唯独り聖教賢伝の宗匠」と自負し、清国を元は北方の蛮夷から出たものとして密かに見下していた。日本に対してはその交際は認めるが、邪教(西洋文明)に染まった儒教の礼律も弁えぬ愚かな弟ぐらいに思っていたようである。(今日の日本を、昔文化を教えてやった恩ある自分達を侵略という仇で返した愚かで生意気な国であると見下す今日の韓国の政府や言論界の態度がこれに酷似している。)

 その実力者の一人である閔台鎬は大院君と志を同じくする者であったが、先述したように閔妃を密告しようとしたために閔妃からひどく恨まれ、また事変後もなお頑固甚だしく日本人とも面接することなく、為に国王も大いにこれを排斥して王宮に参朝するを禁じた。それからは悔悟の情を見せて頻りと近藤代理公使の来会を請い、ついに近藤公使はその邸宅に赴いて面接したが、それを以って直ちに閔台鎬は陳謝の根拠とし国王に自省自責の証として上奏した。
 国王は閔台鎬の実力を十分承知しており、廟堂に立って勢道に当たる者は必ず外戚から出るは朝鮮の昔からの例則であり、閔台鎬またよく大権を握ればその勢威を争う者他に無く、この人をして日本党にあらしめば強勢の支那党との力の均衡を得るは自明の理であった。しかしその自省自責の念の真偽が不明であり、ために国王は密かに侍従を近藤公使の所に遣って公使の保証によって大いに用いることを決せんとした。
 しかし近藤は一度の面接でその真意や人物品評を軽々しくする訳にもいかず、また、支那党の中には清軍提督に投書して閔台鎬と大院君との関係を密告する者もあり、故に近藤も容易に保証を与えれば清国政府との間に何らかの問題が噴出することも考えられて、その為に留保していた。

 大院君が清に連行されてからも依然として守旧派の力は根強く、大院君に忠誠を誓った兵士2百名が密かに暗躍し、得意の風聞風説を流して人民を煽り、再び日本公使館を襲うなどの流言をしては不安をかきたてんとしていた。日本と清国が力を合わせてこれら頑固党を鎮圧するよう請う者もあったほどである。(天城艦報告朝鮮国ノ近況

 しかし政府内部から守旧派を追い出す動きもあっていたようで、かつて大院君が礼曹判書に任命した同志の李會正がいくつかのささいな職務上のミスで弾劾され、11月6日頃についに島流しにあっている。(後の明治16年6月頃に大院君派7名と共に死刑に処された。他に3名が流罪。(朝鮮釜山出張西中尉ヨリ報告ノ件)
 また、殺害された前領議政李最應に代わって任命された(もちろん大院君によるものであろう)領議政の洪淳穆も、江原道の寺院本堂修復に関しての処理が無用の国財を費やすものとして糾弾され、それによって城外に出て罪の裁断を待っているという。その後のいきさつは不明である。(第二号同上(第一号朝鮮国見聞諸況ノ件))

 

事大の醜怪

 12月30日の近藤代理公使の報告によれば、以下のような趙寧夏から清政府へ出した機密書簡の写しと称するものを入手している。近藤の添書によれば「真偽は確と分かり難いが支那党の者はすべて同様な節を唱えていると聞くので、注意の一端としてそのまま報告する」というものであった。(「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信一、二、九、十、三、四、五、六、七、八、九、十 、十一、十三、十四、外ニ私報其十七通」p14)

(抜粋意訳、括弧も筆者)

時勢の論議を内密に上奏する。

清国と日本とに信を修し和を約しすでに多年に至る。
日人(日本人)は狡猾顕著に接することが多く、表面は親しくして内に疎んじている。
六月の変乱(日本歴7月の事変のこと)後、呉長慶大人と馬建忠大人が皇帝の命によって迅速に兵を進め、それにより日人の毒を塗った鉾先に乗るを防ぎ乱民を平定し、もしこの天の助けがなかったなら我が国は日本に滅ぼされるに至ったかもしれない。今、天兵(清兵)が撤して帰えるなら国勢も保ち難い。
皇帝陛下の命に曰く。朝鮮は六月の乱軍の後から国政が治まり難く、もしここで朝鮮を失うようなことが有ったらと、枕を高くして安心も出来ず、益々朝鮮国に戒厳を加えるしかない。よくよく間違いの無いように李(高宗)に教え伝えねば撤兵も出来ない、と。
まことに上国の信義は十分に感激する。
今、米国や英国など大小の諸国は皆富国強兵の国である。日人は開化以後はそれらの国を崇敬し大小の事務皆西洋のことを論じ、清人を嘲笑している。(以下略)
壬午十月十日   趙寧夏 密啓


 もしこれが本当にあの趙寧夏の言だとするとちょっとショックであるが、そういえば花房公使が護衛兵を率いて入京せんとする8月13日に、花房に対して、
「公使はもし入京されるなら少なくとも1大隊は率いられるべきである。兵が少ない時は却って侮りを生ぜん。今夜僕は京城に戻り国王に謁して密かに公使の入来と馬建忠の来たことを奏し、明後日に再びここに来るので、願わくばしばらくこの府に止まって再報を待たれたい。」
また16日には、
「大院君は公使が率いている兵が京城に入ることを喜ばないだろう。必ずこれを城外に置こうとするだろう。公使は断然入京あるべし。その公幹(朝鮮政府に対する要求書)などは願わくば僕が京城に帰った後から提出されたい。両3日内に帰って内から賛成すれば必ず好結果に至るだろう。願わくば僕を信じてこの言を採り上げられたまわんことを。」
と言っていたが、どうも花房を応援するような素振りで実は引きとめようとする、何か変なことを言うものだなあ、と感じさせるものがあったが、ようするに日本側を引き止めておいて清兵を先に入京させたかったのであろう。

 かつて明治8年に釜山草梁公館での交渉手詰まりの最中に、日本の開化を評価するかのような書面を森山茂理事官に贈り、森山も一点の光明を見出したような思いで返書をし、やがて黒田全権派遣時に呉慶錫に、「趙寧夏氏はつつがなきや。」と問わせた、当時左将軍であり明治7年の大院君追放の先頭に立った人物である。
 なるほど大院君派ではない、しかし支那党であり清国に事大する者である。もちろん自国が弱小国であることを自覚する者が大国を頼らんとすることは別に責められる筋合いのものではない。当時の朝鮮としては寄らば大樹の陰であろう。

 しかしながら、倚りかからんとする大国におもねるあまり、もう一方の国を殊更悪し様に言うことはいかがなものか。
 「日人の毒を塗った鉾先」とは何という物言いであろうか。2中隊で向かう花房に「少なくとも1大隊は率いられるべきである」また「公使は断然入京あるべし」と口先では言いながら「天の助け(清兵)がなかったなら我が国は日本に滅ぼされるに至ったかもしれない」とは、なんと「狡猾顕著に接」っしていたのはこの人自身ではなかろうか。

 これが事大の醜怪であろう。事大相手の機嫌を取るために殊更その他を卑しめんとする。

 ところで、日本党を称する開化派の面々も、日本に事大して清国や支那党のことを殊更悪し様に御注進していたことはないであろうか。

 

明治開化期の日本と朝鮮(24)      目 次       日清戦争前夜の日本と朝鮮(1)

 

 

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